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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。

相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。

相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。

『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。

対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質


・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
・コンテンツの充実

これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 石田芳夫 石田芳夫 二十四世本因坊 (九段) 名前 石田芳夫 生年月日 1948年8月15日(68歳) 出身地 愛知県 師匠 木谷實 名誉称号 二十四世本因坊 段位 二十四世本因坊 (九段) 概要 タイトル獲得合計 24 七大タイトル 棋聖 挑戦者 (1979) 名人 1期(1974) 本因坊 5期(1971-75) 王座 2期(1974・78) 天元 1期(1984) この表について[表示] 二十四世本因坊秀芳 (にじゅうよんせいほんいんぼうしゅうほう)(石田芳夫 いしだ よしお、1948年8月15日 - )は、日本の囲碁棋士。愛知県西春日井郡新川町(現清須市)出身、木谷實九段門下、日本棋院所属、九段。正確な計算と形勢判断により「コンピュータ」のニックネームがある。タイトル獲得数は24。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 タイトル歴 1.2 他の棋歴 1.3 受賞等 2 棋風 3 逸話 4 その他人物像 5 著作 6 注 7 参考文献 8 外部リンク 経歴[編集] 碁好きが嵩じて碁会所を開いていた父から小学2年の時に囲碁を教えられる。翌年木谷實が名古屋に来た際に同行していた大竹英雄初段(当時)と六子で打って認められ、その1957年に木谷に入門する。1963年入段。初勝利は同年5月1日(大手合泉谷政憲二段に黒番中押し勝ち)。 若手時代は同じ木谷門の加藤正夫、武宮正樹とともに「黄金トリオ」「木谷三羽烏」と呼ばれた。1967年五段。1968年に首相杯争奪戦、69年に新鋭トーナメント戦優勝。1970年、六段で日本棋院選手権戦で大平修三を3-1で破り初タイトル獲得、同年七段。四段時1967年から71年にかけて大手合30連勝を記録。 1971年、初の本因坊リーグ入りで6勝1敗で挑戦者となり、林海峰本因坊を4-2で破って22歳10ヶ月で本因坊位獲得。これは本因坊獲得の最年少記録であるとともに、井山裕太が20歳4か月で名人位を獲得するまで、三大タイトル(棋聖・名人・本因坊)獲得の最年少記録ともなった。続いて2年連続で林のリターンマッチを受けたが防衛し、「林の天敵」とも言われた。本因坊は計5連覇。プロ十傑戦も1971、72年と2連覇。名人戦では、1973年に林海峰名人に挑戦するが、3連勝後の4連敗という七番勝負史上初のスコアで敗れる。翌74年に再度名人挑戦して林を破り、坂田栄男、林に次いで選手権制史上3人目の名人本因坊となる。これにより九段に推挙され、入段以来11年で九段到達の記録となった。同年王座も獲得し三冠。 1975年には第14期名人戦で大竹英雄に3-4、1976年には第31期本因坊戦で武宮正樹に1-4と、木谷門の兄弟弟子にタイトルを奪われる。1976年新名人戦第一期で大竹名人にリターンマッチを挑むが1-4で敗北。1978年には本因坊戦で加藤剱正本因坊への挑戦者となるが、最終局は必勝の碁をポカで落とし3-4で敗れる。1979年には挑戦者決定戦で坂田栄男を破り棋聖戦挑戦者となるが、藤沢秀行棋聖に1-4で敗れる。 その後も1984年の天元位獲得、1987年以後NHK杯優勝3回や、早碁選手権戦、NEC杯、IBM早碁オープン戦などの早碁棋戦優勝はあるが、過去の実績からすれば低迷と見られている[1]。 1990年代は竜星戦準優勝、世界囲碁選手権富士通杯に何度か出場。2000年から棋聖戦リーグに4期連続在籍し、2000年にはBリーグ4勝1敗で趙善津と同率1位になるが、順位差で挑戦者決定戦進出を逃した。2001年にはNHK杯テレビ囲碁トーナメントで11年ぶりの優勝を果たした。2011年、第1回エステー&フマキラー囲碁マスターズカップでは準決勝進出。 2014年8月31日、クラウドファンディング13路盤選抜プロトーナメント戦で高尾紳路十段を破り優勝。2016年7月23日、第1回13路盤プロアマトーナメント戦'で河野臨九段を下し優勝。 国際棋戦では、1987年に日中テレビ囲碁選手権戦で聶衛平を下した。富士通杯で1991、99年にベスト8進出、2010年には1回戦で睦鎮碩を破りベスト16に進むが2回戦で孔傑に敗れる。 2008年、60歳をもって規定により二十四世本因坊秀芳を名乗る。2016年紫綬褒章を受章。 2005年から2008年まで日本棋院棋士会(東京)会長。またテレビ等での囲碁解説者として、2006年度(前期)、08年度(後期)のNHK囲碁講座では講師を務める。1983年からは代々木上原に「二十四世本因坊秀芳囲碁さろん」を開いている。門下に高橋秀夫七段。 2010年5月20日、三王裕孝九段を破り、通算11人目の公式戦通算1000勝を達成。通算成績は1012勝612敗1無勝負(2011年3月)。 タイトル歴[編集] 首相杯争奪戦 1968年(対高木祥一) 新鋭トーナメント戦 1969年(対石井邦生) 日本棋院選手権戦 1970-71年(対大平修三、武宮正樹) 本因坊戦 1971-75年(対林海峰、林、林、武宮正樹、坂田栄男) プロ十傑戦1位 1971、1972年(対梶原武雄、岩田達明) 囲碁日本シリーズ 1973年 名人(旧) 1974年(対林海峰) 王座 1974、1978年(対林海峰、工藤紀夫) 早碁選手権戦 1980、83、84年(対大竹英雄、小林光一、小林) 天元戦 1984年(対片岡聡) NHK杯テレビ囲碁トーナメント 1987、90、2001年(対林海峰、大竹英雄、趙治勲) IBM早碁オープン戦 1988年(対武宮正樹) NECカップ囲碁トーナメント戦 1988年(対趙治勲) 他の棋歴[編集] 国際棋戦 世界囲碁選手権富士通杯 ベスト8 1991、99年、出場 1990、92-94、96、98、2005、10年 日中囲碁交流 1966年 5-0-1 1983年 訪中団代表、4-3(×聶衛平、○曹大元、○邵震中、×程暁流、○馬暁春、×聶衛平、○呉淞笙) 日中テレビ囲碁選手権戦  1987年 ○聶衛平 日中スーパー囲碁 1989年 0-1 (×兪斌) 真露杯SBS世界囲碁最強戦 1994年 0-1(×徐奉洙) 国内棋戦 大手合第一部優勝 1968、69年 NHK杯テレビ囲碁トーナメント 準優勝 1971、85年 名人戦 挑戦者 1973、76年 本因坊戦 挑戦者 1978年 棋聖戦 挑戦者 1979年 王座戦 挑戦者 1980年 日本アジア航空杯争奪トーナメント 準優勝 1980年 早碁選手権戦 準優勝 1987、2002年 NECカップ囲碁トーナメント戦 準優勝 1989年 IBM早碁オープン戦 準優勝 1989年 竜星戦 準優勝 1992年 JT杯星座囲碁選手権戦準優勝 1999年 クラウドファンディング13路盤選抜プロトーナメント戦 優勝 2014年 第1回13路盤プロアマトーナメント戦 優勝 2016年 リコー杯プロペア碁選手権戦 準優勝 1995年(中澤彩子とのペア) 27期十段戦(1989)挑戦者決定戦進出 16期碁聖戦(1991)挑戦者決定戦進出 名人戦リーグ9期 1971-73、1975-78、1987-88年(在位を除く) 本因坊戦リーグ6期 1971、1977-1980年(在位を除く) 棋聖戦リーグ4期 2000-2003年  受賞等[編集] 秀哉賞 1970、71、74年 棋道賞 1968年 敢闘賞(31勝7敗) 1969年 新人賞(35勝7敗) 1970年 最多勝利賞(35勝9敗)、勝率第一位賞(.795)、連勝賞(9) 1971年 最優秀棋士賞、最多勝利賞(36勝17敗) 1974年 最優秀棋士賞 テレビ囲碁番組制作者会賞 1985年 ジャーナリストクラブ賞 1994年 紫綬褒章 2016年 棋風[編集] 地に辛い棋風で、三々を多用し、両三々も得意戦法とした。ヨセが強いという評価に加えて、序盤構想も意欲的である。大斜定石の研究家としても知られ、中国流布石に対抗する白番の有力な手法としても活用した。 置碁の名手としても知られ、1972年から2年間『棋道』誌上でアマチュアとの2子から5子局の指導碁シリーズを打ち、23勝1敗という結果だった。1983年から『レッツ碁』誌上ではプロ対プロの置碁対局も行い、九子置かせて57目負けなどの記録が残っている。また、2013年3月21日の囲碁ソフト「crazy stone」との四子局に敗退し、「人間なら打ってくる場所に打たない冷静さと柔軟さを感じた。天才かも」と述べた。 逸話[編集] 1971年6月29日、第8期プロ十傑戦決勝5番勝負第3局で、2連勝の後梶原武雄九段との対局中、コウ立てせずに取り返し、反則負けを喫す。これは、タイトル戦初の反則負け。その後3勝2敗でタイトルを得ることには成功している。 2002年2月21日、第26期棋聖戦七番勝負第5局の立会人を務める。この碁は、挑戦者柳時熏が王立誠棋聖にリードしている状態でのダメ詰めで、あたりになっている6子を王が抜く意思を示したことから、物議を醸すこととなった。柳は終局の同意があったと主張し、王は聞こえず同意していないとして、立会人石田の判断を仰ぐこととなり、石田と主催誌読売新聞関係者は、録画や再検証により終局の同意が得られていないとし、そのまま対局は続行となった。王はこの勝利により3勝2敗となり、第6局も勝利し防衛に成功した[2] 2006年4月9日、NHK杯で中野泰宏九段との対局。石田が右辺で見損じ、形勢を損ねたが、終局直前に中野が5子のアタリに突っ込むというテレビ棋戦史上初の大ミスを犯した。石田はこの石を抜き、左辺の黒の大石を取り大逆転。中野は即時投了した。中野のこのポカは、同年に関西棋院から発売された囲碁かるたに詠まれているが、中野は石田に申し訳ないことをしたと述べている[3]。 その他人物像[編集] 本因坊挑戦時の「林さんのいったいどこが強いんですか」という発言や、「コンピューター石田」のニックネームなどと相まって、クールというイメージにより「新時代の勝負師」など現代的棋士像の代表のように言われ、本因坊を奪取した頃には趣味のギターの弾き語りをする姿が雑誌に掲載され、現代っ子の本因坊として話題を集めた。また本因坊獲得時はまだ木谷の内弟子として生活し、「部屋住みの本因坊」とも呼ばれたが、翌年防衛を果たして独立を許された。 あだ名「コンピューター」について石田は、地の計算に熱心な自分を揶揄する意味で、高川格が言い出したのではないかと語っている[4]。 「秀芳」という雅号は、石田ら木谷門下と交流のあった書家佐々木泰南の命名による。 1977年にコロムビアからレコード「忘れるぜ」「ひよわな花」を出し、歌手デビューした。このころから、1980年代前半ごろまで、口ひげを蓄えた時期があった。 IBM早碁オープン戦の初代優勝者となった時「早碁に強い者が本当に碁が強い」と発言し、論議を呼んだ。 小学校六年生の時にホームシックからか平塚の木谷道場から脱走したことがある(「週刊囲碁パラダイス」における本人談)。 著作[編集] 打碁集 『激闘の七番勝負 林・石田 第十二期名人戦』日本棋院、1974年 『現代花形棋士名局選 (1) 石田芳夫』日本棋院 1975年 『石田芳夫打碁集 (1)-(3)』大泉書店 1975年 『第1期囲碁名人戦全記録』朝日ソノラマ 1977年 『第33期本因坊戦全記録』毎日新聞社、1978年 『激闘譜第三期棋聖決定七番勝負―藤沢秀行vs石田芳夫』読売新聞社、1979年 『石田芳夫 (現代囲碁大系37,38)』講談社 1980年 『石田芳夫 (現代囲碁名勝負シリーズ6)』講談社 1987年 『石田芳夫のプロプロ置碁 (New別冊囲碁クラブ)』日本棋院 1987年 『打碁鑑賞シリーズ (6) 石田芳夫 (囲碁文庫)』日本棋院、2004年 教則本 『定石以前』日本棋院、1972年 『石田本因坊囲碁講座』全7巻、産報、1973年- 『木谷道場入門 1 布石のなかの定石』河出書房新社 1973年 『木谷道場入門 2 布石の理論と実戦』河出書房新社 1973年 『木谷道場入門 6 形勢判断とヨセ』河出書房新社 1973年 『逆転力 ぼくはこうして勝つ』 実業之日本社 1974年 『本因坊の星と三々』日本棋院、1974年 『石田の碁』(全3巻:新手と新定石;逆転の手筋;布石展開)1975年 池田書店 『遺恨試合―近世ー現代死闘の局精選』誠文堂新光社 1975年 『基本定石事典 (上)(下)』 日本棋院 1975年 『秀策 (日本囲碁大系15)』 筑摩書房 1976年 『コンピューター石田の形勢判断』毎日新聞社 1976年 『石田の次の一手何目? 』毎日新聞社 1976年 『碁を覚えよう 石田の囲碁1』日東書院 1976年 『碁に強くなろう 石田の囲碁2』日東書院 1976年 『布石と定石を打とう 石田の囲碁3』日東書院 1976年 『活きよう、攻めよう 石田の囲碁4』日東書院 1977年 『戦いに勝とう 石田の囲碁5』日東書院 1977年 『囲碁シリーズII 10級への近道 エースブックス 』主婦の友社 1977年 『コンピューター石田のこの局面この一手』毎日新聞社 1977年 『続 次の一手何目? 』毎日新聞社 1977年 『やさしい囲碁の攻め方―攻めの基本と実戦 (囲碁入門シリーズ 11)』永岡書店 1977年 『初段への手筋 木谷道場入門 中級3』河出書房新社 1977年 『初段への実戦 木谷道場入門 中級5』河出書房新社 1977年 『石田(九段)の手筋 実戦に強くなる 』高橋書店 1978年 『1級の定石』日本棋院 1978年 『5級の定石』日本棋院 1978年 『9級の定石』日本棋院 1978年 『有段者の問題集(囲碁有段シリーズ) 』有斐閣、1979年 『コンピューター石田の碁の計算学入門 』毎日新聞社 1978年 『コンピューター石田の実戦格言集』毎日新聞社 1979年 『囲碁再入門』鶴書房 1979年 『昭和の名局5 天翔ける群雄 』(監修)日本棋院 1980年 『別冊囲碁クラブ20 ヨセのテクニック終盤の切れ手 』日本棋院 1980年 『別冊囲碁クラブ30 形勢判断に強くなる 』日本近 1980年 『コンピューター石田の実戦教室』毎日新聞社 1981年 『筋と形の基礎 洗練された囲碁感覚の養成 』創元社 1981年 『大場より急場へ (新中級シリーズ)』日本棋院 1981年 『目で解く実戦詰碁』誠文堂新光社、1983年 『これが手筋だ』全3巻、大泉書店、1983年 『石田芳夫のコウに強くなる本―基礎知識と実戦対策』誠文堂新光社、1983年 『石田の初級囲碁入門(必勝囲碁シリーズ1) 』新星出版社 1983年 『辺の実戦詰碁』成美堂出版 1984年 『目で解くヨセのテクニック』誠文堂新光社、1985年 『差をつける手筋発見法 (日本棋院新書―昇段編)』 日本棋院 1985年 『よく分かる手筋と俗筋 (日本棋院新書―進級編)』 日本棋院 1986年 『基本詰め碁100題』日本文芸社、1986年 『目で解く上達囲碁格言 』誠文堂新光社、1986年 『厚みの百科 よくわかる模様と勢力(New別冊囲碁クラブ6)』日本棋院 1986年 『あなたの棋力をテストする 1 (囲碁入門シリーズ 2)』永岡書店 1986年 『強くなる必修手筋250 (日本棋院新書―入段編)』日本棋院 1987年 『道策・秀策・呉清源-道を拓いた三大巨星』誠文堂新光社 1987年 『棋譜にみる囲碁格言のウソ・ホント 』冬樹社 1987年 『ボウシの威力』日本棋院、1988年 『石田の形勢判断』毎日新聞社 1989年 『石田芳夫のハメ手に強くなる本』誠文堂新光社 1989年 『三段挑戦の詰碁100(有段者シリーズ)』土屋書店 1989年 『死活の急所に強くなる 五段突破の詰碁100 (有段者シリーズ)』土屋書店1989年 『目で解く大場と急場』誠文堂新光社、1989年 『囲碁次の一手』(共著)全9巻、角川文庫、1990年 『石田芳夫囲碁講座』全3巻(名局と戦略、必勝の置碁、中盤の秘策)、日本棋院、1991年 『囲碁 三段の壁を破る「この手、何目」―形勢判断』日本文芸社 1992年 『大斜大作戦-全局で圧倒する (有段者シリーズ8)』土屋書店 1993年 『基本手筋100―戦いに強くなる (有段者シリーズ) 』土屋書店 1993年 『強くなる手筋作戦 (日本棋院新書-入段編)』日本棋院 1994年 『差をつける手筋の魔力 (日本棋院新書-昇段編)』日本棋院 1994年 『明解初級囲碁読本』誠文堂新光社 1994年(小川誠子六段との共著) 『並べるだけで白が巧くなる本-二・三子局』誠文堂新光社 1994年 『並べるだけで白が巧くなる本 四・五子局 』誠文堂新光社 1996年 『布石のなかの定石-石の心と方向を説く (新・木谷道場入門1)』河出書房新社 1996年 『形勢判断とヨセ-どう判断しどう打つか (新・木谷道場入門10)』河出書房新社 1996年 『難解定石の活用法 二間高バサミ、ナダレ、大斜定石を自在にあやつる 上級を目指す』河出書房新社 1997年 『囲碁 級位者のための本筋の打ち方』誠文堂新光社 1998年(小川誠子六段との共著) 『布石の絶対感覚 上級を目指す』河出書房新社 1998年 『五段になれる人 なれない人 (日本棋道協会の有段者特訓塾) 』フローラル出版 1998年 『形勢判断の決め手 上級を目指す』河出書房新社 1999年 『定石はずれ粉砕法』棋苑図書、1999年 『石田芳夫の次の一手① 第12期(旧)名人戦第1局より(対林海峯)』『NHK囲碁講座』7月号別冊付録 1999年 『石田芳夫の次の一手② 第14期(旧)名人戦第7局より(対大竹英雄)』『NHK囲碁講座』8月号別冊付録 1999年 『石田芳夫の次の一手③ 棋聖戦挑戦者決定戦第2局より(対坂田栄男)』『NHK囲碁講座』9月号別冊付録 1999年 『囲碁 級位者のための勝率アップの決め手』誠文堂新光社 2000年(小川誠子六段との共著) 『攻防の絶対感覚-戦う呼吸を実感し、戦闘感覚を研ぎすます (上級を目指す)』河出書房新社 2000年 『小目の定石徹底探究-基本型から最新型まで、石田の頭脳が評価する (上級を目指す) 』河出書房新社 2001年 『定石がわかる本 (碁敵に勝つ秘訣) 』日本棋院 2001年 『シマリの技法 最強囲碁塾』河出書房新社 2002年 『囲碁 基本の詰碁 初段・1・2級 (ポケット版・囲碁シリーズ) 』成美堂出版、2002年 『これで万全 ハメ手対策』日本棋院、2002年 『囲碁・この手何目―形勢判断が簡単にできる 』日本文芸社 2003年 『布石の決め手 最強囲碁塾』河出書房新社 2004年 『碁の計算学入門 (MYCOM囲碁文庫シリーズ)』 毎日コミュニケーションズ 2006年 『次の一手何目 (棋苑囲碁ブックス)』 棋苑図書 2006年 『定石のビフォー・アフター (MYCOM囲碁ブックス)』毎日コミュニケーションズ、2006年 『囲碁の新常識 上級を目指す』 河出書房新社 2006年 『石田芳夫のやさしく考える布石 (NHK囲碁シリーズ) 』日本放送出版協会2007年 『模様の荒らし方 集中講義 ~すぐに役立つ11の法則~ (マイコミ囲碁ブックス) 』毎日コミュニケーションズ、2007年 『囲碁 いちばんわかりやすい実戦詰碁 初段・1級』成美堂出版、2007年 『プロの常識・アマの非常識 布石編 (マイコミ囲碁ブックス) 』毎日コミュニケーションズ、2008年 『プロの常識・アマの非常識 中盤編 (マイコミ囲碁ブックス) 』毎日コミュニケーションズ、2009年 『石田秀芳のやさしく考える定石』日本放送出版協会、2009年 『囲碁を始めたい人のために―入門から中級までの打ち方が1冊でわかる!』成美堂出版 2009年 『アマの知らない布石・絶対の急所(マイコミ囲碁ブックス) 』毎日コミュニケーションズ、2011年 『石田の基本詰碁160 (棋苑囲碁基本双書) 』棋苑図書、2011年 『手順つき実戦詰碁100』(監修)自由国民社、2011年 『定石の生かし方 (明解囲碁講座シリーズ1) 』自由国民社、2012年 『石田流お勧め布石(明解囲碁講座シリーズ2)』自由国民社、2012年 DVD 『石田芳夫の形勢判断のコツ』DVD2枚 パンダネット 2009年 注[編集] ^ 本人も「昭和60年(1985年)の天元戦を最後に挑戦手合に出ていないので、元気が良かったのは前半の半分だけだね」と語っている。(朝日新聞2006年8月12日付) ^ 読売新聞 棋聖戦 第26期第5局 ^ プロ棋士の気まぐれリレー日記 2007年3月9日 ^ 内藤由起子『囲碁の人ってどんなヒト』(毎日コミュニケーションズ、2005年)、101ページ。 参考文献[編集] 頼尊清隆『石田秀芳 本因坊への道』講談社 1976年 三好徹『五人の棋士』講談社 1975年 『石心之譜 囲碁に生きるわれら五人の棋士 』現代書林 1981年 外部リンク[編集] 日本棋院の石田芳夫紹介ページ 二十四世本因坊秀芳囲碁さろん /趙治勲二十五世本因坊が告発する、兄弟子・石田芳夫二十四世本因坊の“悪行”とは ------------------------------- 井戸の茶碗 井戸の茶碗(いどのちゃわん)は古典落語の演目。井戸茶碗とは当時珍重された高麗茶碗の一種[注釈 1]。講談「細川茶碗屋敷の由来」をもとにしたものといわれている。「人情噺」「武家噺」に分類される。 目次 [非表示] 1 概要 2 主な登場人物 3 あらすじ 4 名演 5 脚注 5.1 注釈 5.2 出典 6 参考文献 7 関連項目 概要[編集] 刊年不詳の栗原東随舎『思出草紙』に収載されている噺[1]。講談「細川茶碗屋敷の由来」では、千代田は広島藩浅野家の家来だったが同僚の讒言で浪人となるはめに陥ったが、茶碗の一件がきっかけで熊本藩主の細川家が仲介に乗り出し、その結果旧来通り仕官がかなうという筋書きになっている。また、細川候が手に入れた井戸の茶碗は将軍徳川綱吉に献上され、その礼に屋敷を賜ったため、その屋敷を誰言うとなく「茶碗屋敷」と呼ぶようになったという続きがある。 落語の『井戸の茶碗』は別名『茶碗屋敷』とも称し、講談のはなしを人情噺化したもので、天保から幕末期にかけて活躍した初代春風亭柳枝などによって伝えられた[1]。主な登場人物がすべて実直な善人という、明るい人情噺として客、演者の側から共に人気の高い古典落語の代表作の一つである。 主な登場人物[編集] 千代田卜斎(ちよだぼくさい) - 裏長屋に住む浪人。美しい娘がいる。 高木佐久左衛門(たかぎさくざえもん) - 細川家家臣で江戸勤番の若い武士。 くず屋の清兵衛(せいべい) - 江戸時代のリサイクル業者。「正直清兵衛」と呼ばれた正直者。 あらすじ[編集] 屑屋で正直者の清兵衛が、清正公様の脇を「屑ぃ、お払い」と流し歩いていると、なりは粗末なものの器量のよい上品な娘に声をかけられる。招かれて裏長屋へ行くと、その父親(千代田卜斎)から、屑の他に仏像を200文で引き取ってもらいたいと頼まれる。目利きに自信がないと清兵衛は断るが、「昼は素読の指南、夜は売卜をするも、長雨続きで商売ができず、加え病気の薬代として金がいるため、引き取ってもらいたい」と切願される。清兵衛は200文で引き取り、それ以上で売れた場合は、儲けの半分を持ってくると約束する。 仏像を籠に入れ、街を流し歩いていると、目黒白金の細川屋敷の長屋下を通りかかったところで、「おい屑屋」と若い勤番(高木佐久左衛門)に声をかけられる。「カラカラと音がするから、腹籠(ごも)りの仏像だ。縁起が良い」と言い、その仏像を300文で買い上げる。 高木が仏像を一生懸命磨いていると、台座の下の紙が破れ、中から50両もの小判が出てくる。中間は運がよいと喜ぶが、高木は「仏像は買ったが、中の50両まで買った覚えはない。仏像を売るくらいであるから暮らし向きも逼迫しておられよう。元の持ち主に返したい。」と言う。しかし元の持ち主が分からない。そのため、この仏像を売った屑屋を探すために、翌日から長屋下を通る屑屋に声をかけ、顔を改めていく。 屑屋達の間で、高木の顔改めが話題となる。「父親の敵捜し」とまで噂が飛び交う。そこへ清兵衛が現れて、仏像を売ったことを話す。すると、「仏像を磨いていたら首が折れてしまった。縁起でもない、これを身共に売った屑屋も同じ目に遭わせてやる。」と、おまえを捜して居るんじゃないかと脅されてしまう。 清兵衛は、細川屋敷の長屋下は静かに通ろうと気をつけるが、商売癖でつい「屑ぃ〜」と声を出して捕まってしまう。首を切られるかと怯えた清兵衛だったが、高木から事の真相を聞き、千代田の元へ50両を持っていく。 千代田は50両を前にして、「仏像を売ってしまったのだから、中から何が出てきても、私のものではない」と受け取らない。清兵衛は、「この50両があれば、お嬢様にもっとよい着物を着させることもできる」と言うが、刀に代えても受け取らないと突っ返されてしまう。 清兵衛は高木へ50両を持って帰るが、こちらでも受け取るわけにはいかないと突っ返され、困り果ててしまう。裏長屋の家主が仲介役に入り、「千代田様へ20両、高木様へ20両、苦労した清兵衛へ10両でどうだろう」と提案する。しかし、千代田はこれを断り受け取らない。「20両の形に何か高木様へ渡したらどうだろうか」という提案を受け、毎日使っていた汚い茶碗を形として、20両を受け取る。 この美談が細川家で話題になり、高木が細川様へ目通りを許され、茶碗も見てみたいと言われる。汚いままでは良くないと、茶碗を一生懸命磨き、細川様へ差し出した。すると、側に仕えていた目利き[注釈 2]が「青井戸の茶碗」という逸品だと鑑定する。細川様はその茶碗を300両で買い上げた。 高木は300両を前にして、もらうべき金ではないと困ってしまう。「このまま千代田様へ返しても絶対に受け取らないであろうから、半分の150両を届けて欲しい」と清兵衛に頼む。しかし清兵衛は「50両で斬られかかったのだから、150両も持っていったら大砲で撃たれてしまう」と断る。しかし高木に切願され、しぶしぶ千代田に150両を持っていく。千代田はまたも受け取るわけにはいかないと断るが、困り果てた清兵衛を見て、「今までのいきさつで高木様がどのような方かはよく分かっておる。...娘は貧しくとも女一通りの事は仕込んである。この娘を嫁にめとって下さるのであれば、支度金として受け取る」と言う。 清兵衛は高木の元へ帰り経緯を伝えると、千代田氏の娘であればまずまちがいはないだろうと、嫁にもらうことを決める。そこで清兵衛が、「今は裏長屋で粗末ななりをしているが、こちらへ連れてきて一生懸命磨けば、見違えるようにおなりですよ」 「いや、磨くのはよそう、また小判が出るといけない」 名演[編集] 5代目古今亭志ん生の『井戸の茶碗』が名演中の名演といわれている[1]。元来は講釈の演目であったが、志ん生は講釈師だったこともあり、講談の口調を取り込んで楽しい一席となっている[1]。志ん生から受け継いだ3代目古今亭志ん朝もまたテンポのよいリズムで知られる。江戸の武士の本分は武術でもなければ出世でもなく、清貧であったことを志ん朝は見事に演じている[2]。その志ん朝から教わったといわれるのが5代目春風亭柳朝である。柳朝は、この噺について「こういうはなしは、欲を出しちゃいけないんで、あっさり演(や)ることですね」という言葉をのこしている[1]。これまた、柳朝らしさを出しながらもテンポよく聴かせる名演である[1]。 なお、柳家喬太郎は歌入りでこの演目を演じたことがある。 脚注[編集] [ヘルプ] 注釈[編集] ^ どうして「井戸の茶碗」と呼んだのかについては、井戸若狭守が朝鮮から持ち帰ったからとするなど諸説がある。『CD付 落語入門』(2008)p.28 ^ 近年は中島誠之助をもじった名前の目利きを登場させて演じられることが多い。 出典[編集] ^ a b c d e f 『落語CD&DVD名盤案内』(2006)pp.40-41 ^ 『CD付 落語入門』(2008)pp.156-157 参考文献[編集] 矢野誠一・草柳俊一 『落語CD&DVD名盤案内』 大和書房〈だいわ文庫〉、2006年3月。ISBN 978-4-415-30493-9。 渡邉寧久監修 『CD付 落語入門』 成美堂出版、2008年11月。ISBN 978-4-415-30493-9。 関連項目[編集] 落語 古典落語 芝浜 [隠す] 表 話 編 歴 落語の演目 (主人公別) 与太郎噺 鮑のし - 芋俵 - 牛ほめ - 火焔太鼓 - かぼちゃ屋 - 孝行糖 - 大工調べ - 佃祭 - 道具屋 - 時そば - 錦の袈裟 - 平林 - ろくろ首 武家・大名噺 井戸の茶碗 - 紀州 - 首提灯 - 三方一両損 - 八五郎出世 - 目黒のさんま - 夢金 酒呑噺 居酒屋 - うどん屋 - 親子酒 - 蝦蟇の油 - 禁酒番屋 - 試し酒 - 二番煎じ - 猫の災難 居候・若旦那・幇間噺 酢豆腐 - 船徳 - 湯屋番 - 愛宕山 - 鰻の幇間 - たいこ腹 - 富久 粗忽・強情・悋嗇・泥棒噺 位牌屋 - お血脈 - 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