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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
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ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 大竹英雄 大竹英雄 名誉碁聖 (九段) 名前 大竹英雄 生年月日 1942年5月12日(75歳) プロ入り年 1956年 出身地 福岡県北九州市 所属 日本棋院東京本院 師匠 木谷實 名誉称号 名誉碁聖 段位 名誉碁聖 (九段) 概要 タイトル獲得合計 48 七大タイトル 棋聖 挑戦者 (1981・90) 名人 4期 (1975-76・78-79) 本因坊 挑戦者 (1988) 王座 1期 (1975) 碁聖 7期 (1978・80-85) 十段 5期 (1969・80-81・93-94) この表について[表示] 大竹 英雄(おおたけ ひでお、1942年(昭和17年)5月12日 - )は、囲碁棋士。福岡県北九州市出身、日本棋院所属、木谷實九段門下、九段。名人位4期、世界囲碁選手権富士通杯優勝など。碁聖位連続6期で名誉碁聖を名乗る。厚く味のよい形を好む本格的な棋風で大器、大竹美学と呼ばれる。布石では小目を好む。またNHK杯優勝5回など早碁を得意とし「早碁の神様」、名人戦では挑戦手合通算12回出場などで「名人戦男」などのニックネームを持つ。同年同月生まれでライバルでもある林海峰と並んで"竹林"とも称される。 2008年12月9日-2012年6月26日は日本棋院理事長、2010年から全日本囲碁連合の会長も務める。日本棋院の新旧タイトル保持者で作る名棋会の会長でもある。 目次 [非表示] 1 経歴 2 履歴 3 タイトル歴 3.1 その他の棋歴 4 表彰 5 竹林杯 6 著作 7 その他 8 参考文献 9 脚注 10 外部リンク 経歴[編集] 1942年(昭和17年)5月12日福岡県八幡市(現在の北九州市八幡東区)に7人兄弟の4番目として生まれる。父は八幡製鉄所に努めていた。3歳の時に空襲に遭う。家が焼けてしまったので隣の戸畑に引っ越す。喧嘩ばかりしていた腕白坊主であだなが「豆雷電」だった。アマ三段の父親が製鉄所の囲碁クラブの幹事をしており、その縁で小学2年の時に八幡の碁会所に通いだす。負けると大泣きしていたが日々強くなり、10ヶ月ほどでアマ三、四段となる。この頃は碁会所の先生に手製の詰碁カードを作ってもらっていた。[1] 1951年12月6日、9歳のときに、福岡県柳川市で行われた呉清源と藤沢庫之助の対局の立ち会い人として来ていた木谷實と九子で試験碁を打つ。大敗したものの認められ、その月の17日に兄弟子の筒井勝美(現六段)とともに上京し木谷門下に入門。戸沢昭宣(現九段)に続く内弟子二号だった。翌年日本棋院院生となる。当時の院生師範は杉内雅男だった。1956年入段。同期に戸沢昭宣・木谷禮子・本田光子(現姓・楠)。初対局は姉弟子の本田幸子。デビューから5連敗するも徐々に成績を上げていく。[1] 1957年に早碁トーナメント戦で初優勝するなど、若手棋戦で活躍。1960年10月、『囲碁クラブ』の企画で内弟子指導碁シリーズと銘打ち、木谷實と対局する。1961年3月から4月にかけて林海峰との新鋭三番碁を打つ。これが宿命のライバルとなる林との初対局だった。[1]内弟子生活から独立する。1967年に日本棋院第一位決定戦で坂田栄男に挑戦し、2勝1敗で初タイトルを取る。2連覇後に、これが発展した全日本第一位決定戦では、終了までの5期全てでタイトル者となった。1970年九段。 1975年に木谷門の弟弟子であった石田芳夫に名人戦で挑戦し、4勝3敗で奪取する。翌年から朝日新聞主催となった名人戦での3期在位を含め、1980年に趙治勲に敗れるまで6年連続で七番勝負出場。1982〜84年には趙治勲に3年連続挑戦、1984年は3連勝後4連敗を喫する。新旧リーグ在籍24期のうち、12期挑戦者となった。 全日本第一位決定戦の後継棋戦である碁聖戦では、第1期(1976年)は加藤正夫の挑戦を受け敗れるが、1980年から5連覇して名誉碁聖の資格を得、連覇記録は1985年までの6連覇に伸ばした。 名人戦に比べて不思議に本因坊戦には縁が薄いと言われていたが、1988年に武宮正樹本因坊に挑戦、3-4で敗れる。棋聖戦にも2度挑戦したが、1981年は藤沢秀行に0-4、1990年には小林光一に1-4で敗れる。 1992年には富士通杯に優勝、1993年には応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦の決勝に進むが徐奉洙に2勝3敗で敗れ準優勝、1994年にはテレビ囲碁アジア選手権戦で優勝。日中スーパー囲碁では、第2、7、10、11回に日本の主将を務め、第10回には5人抜きした常昊を止めて自らも4人抜きを果たすが馬暁春に敗れ、第11回には常昊に敗れ6人抜きを許した。 通算タイトル獲得数は48。通算成績は1188勝732敗5ジゴ1無勝負(2010年4月時点)。門下に西村慶二八段。木谷門下の塾頭格として、後輩の指導などでも評価が高い。 2007年6月から日本棋院副理事長を務めたのち、2008年12月に棋士としては6人目となる理事長に就任した。2010年3月に全日本囲碁連合が設立されると会長となる。2010年アジア競技大会囲碁チームの監督も務めた。 履歴[編集] 1942年5月12日、福岡県八幡市に7人兄弟姉妹の次男に生まれる。 1950年(8歳) 八幡の碁会所に通い始める。 1951年(9歳) 12月、木谷實の試験後を受け、神奈川県平塚市の木谷道場に住み込み、内弟子生活を始める。 1956年(13歳) 3月、入段。 1957年(15歳) 二段。 1958年(16歳) 三段。第2期早碁トーナメント優勝。 1959年(17歳) 四段。 1961年(19歳) 五段。第1回青年選手権優勝。林海峰六段との三番碁で2勝1持碁。木谷道場から独立。 1962年(20歳) 新鋭選抜トーナメント優勝。呉清源との記念碁実施。 1963年(21歳) 六段。第1期プロ十傑戦ファン投票9位。 1965年(23歳) 七段。大手合第1部優勝。第9期首相杯争奪戦優勝。 1967年(25歳) 第6期日本棋院第一位戦タイトル奪取。 1968年(26歳) 第15回NHK杯トーナメント優勝。日本紀伊第一位戦防衛。名人戦リーグ入り。 1969年(27歳) 第8期十段位獲得。王座戦挑戦。棋道賞殊勲賞。 1970年 九段。第1期全日本第一位決定戦で防衛。棋道賞最優秀棋士賞受賞。 1971年 十段失冠。NHK杯トーナメント優勝。全日本第一位決定戦防衛。 1972年(30歳) NHK杯準優勝。 1973年 NHK杯優勝。全日本第一位決定戦防衛。 1974年 早碁選手権優勝。「早碁の神様」と呼ばれ始める。全日本第一位決定戦防衛。 1975年 NHK杯4度目の優勝。第14期名人位獲得。全日本第一位決定戦5連覇[2]。第23期王座位獲得。棋道賞最優秀棋士賞・秀哉賞受賞。 1976年 名人位防衛。碁聖戦挑戦。王座位失冠。 1977年(35歳) 早碁選手権優勝。名人位失冠。 1978年 名人戦復位。碁聖位獲得。棋聖戦九段の部優勝。棋道賞最多勝利賞(39勝16敗)・連勝賞(13連勝)受賞。 1979年 名人位防衛。碁聖位失冠。 1980年 名人位失冠。十段位獲得。碁聖位を獲得し三冠となる。 1981年 棋聖戦挑戦。十段位防衛。碁聖位防衛。鶴聖戦優勝。第3期アジア航空杯トーナメント優勝。 1982年(40歳) 名人位失冠。十段位失冠。碁聖位防衛。 1983年 鶴聖戦優勝。碁聖位防衛。名人位挑戦。 1984年 鶴聖戦優勝。碁聖戦5連覇を達成し「名誉碁聖」の称号を受ける。 1985年 十段戦挑戦。碁聖戦6連覇。 1986年 碁聖位失冠。 1987年(45歳) 鶴聖戦優勝。第6期NECカップ優勝。 1988年 本因坊戦挑戦。 1989年 棋聖戦挑戦。 1990年 名人戦挑戦。 1992年(50歳) 名人戦挑戦。 1993年 名人戦挑戦。十段位獲得。 1994年 NHK杯トーナメント5度目の優勝。十段位防衛。 1995年 十段位失冠。NECカップ優勝。 1998年 JT杯優勝。 1999年(56歳) 通算1000勝達成。 2003年 北九州市民文化賞受賞 2004年 紫綬褒章。 2012年 大倉喜七郎賞受賞。 タイトル歴[編集] 国際棋戦 世界囲碁選手権富士通杯 1992年 テレビ囲碁アジア選手権 1994年 国内棋戦 早碁トーナメント戦 1957年 青年選手権戦 1961年 新鋭選抜トーナメント戦 1962年 首相杯争奪戦 1965年 日本棋院第一位決定戦 1967-68年 NHK杯テレビ囲碁トーナメント 1968、71、73、75、94年 十段 1969、80-81、93-94年 全日本第一位決定戦 1970、71、73、74、75年 達人杯争奪戦 1970年 早碁選手権戦 1974、76年 名人(旧) 1975年、名人(現) 1976、78-79年 王座 1975年 碁聖 1978、80-85年 7期(歴代2位) 6連覇(歴代1位タイ) 名誉碁聖 鶴聖戦 1981、83、84、87、88年 日本アジア航空杯 1981年 NECカップ囲碁トーナメント戦 1987、89、96年 IBM早碁オープン戦 1989年 竜星戦 1991年 JT杯星座囲碁選手権戦 1999年 その他の棋歴[編集] 応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦 準優勝 1993年 囲碁選手権戦 高松宮賞 1964年 プロ十傑戦 3位 1965、70年 王座戦 挑戦者 1969、83年 棋聖戦 挑戦者 1981、90年、九段戦優勝 1978年 名人戦 挑戦者 1982-84、90、92-93年 十段戦 挑戦者 1985年 本因坊戦 挑戦者 1988年 大手合第一部優勝 1965年 日中スーパー囲碁 1986年 0-1(×聶衛平) 1993年 出番なし 1995-6年 4-1(○常昊、○兪斌、○劉小光、○曹大元、×馬暁春) 1996年 0-1(×常昊) CSK杯囲碁アジア対抗戦 2002年 0-2(×曺薫鉉、×常昊) 表彰[編集] 棋道賞最優秀棋士賞 1970、75年 秀哉賞 1975年 北九州市民文化賞 2003年 紫綬褒章 2004年 大倉喜七郎賞 2012年 2013年11月3日第72回西日本文化賞 旭日中綬章 2015年 竹林杯[編集] 「囲碁クラブ」及び「碁ワールド」誌上にて1999年から2001年まで、林海峰とともに竹林杯戦を企画、実施。主催は1999年は「囲碁クラブ」・「碁ワールド」誌、2000-01年は「碁ワールド」誌。 1999年、2000年は、精鋭八強戦として、若手選抜棋士8名によるトーナメント、2001年はチーム別・四世代対抗戦。この2001年第3回には大竹、林も選手として参加し、大竹は決勝で羽根直樹に敗れて準優勝となった。 囲碁七大タイトル獲得記録 順位 獲得回数 棋士名 1位 42期 趙治勲* 2位 35期 小林光一* 3位 34期 井山裕太* 4位 31期 加藤正夫 5位 23期 張栩* 6位タイ 21期 坂田栄男 | 林海峰* 8位 17期 大竹英雄* 9位タイ 14期 藤沢秀行 | 山下敬吾* 表示 *は現役棋士 2016年天元戦終了時点 著作[編集] 『現代花形棋士名局選〈3〉大竹英雄』日本棋院 1975年 『親仙徳・大仙知 (日本囲碁大系7)』 筑摩書房 1977年 『明解 大竹囲碁講座』(全5巻)日本棋院 1977年 『定石全科』(全6巻)平凡社 1979年 『大竹英雄(上)(下)』(現代囲碁大系35,36)講談社 1980年 『大竹英雄打碁選集 (全5巻)』朝日新聞社 1984年 『基本置碁事典 上・下』日本棋院 1986年 『大竹英雄 (現代囲碁名勝負シリーズ5巻)』講談社 1986年 『大竹囲碁直伝シリーズ』(全5巻)日本棋院 1988年 『大竹兵法の極意 (碁の心発見シリーズ) 』日本棋院 2001年 その他[編集] 川端康成の小説『名人』で本因坊秀哉と対戦する大竹七段とは木谷實のことある。木谷の弟子である大竹と同姓なのは偶然と思われる。トレヴェニアンの小説『シブミ』で主人公が師事した大竹七段は川端作品から取ったものと思われる。 原尞のハードボイルド小説に登場する私立探偵沢崎は大竹のファンであり、張り込み時などの時間潰し用に、常に大竹の棋書を持ち歩いている。これは原尞自身が大竹ファンであることによる。 参考文献[編集] 「特集 天才大竹英雄のすべて」(『囲碁クラブ』1979年1月号) 脚注[編集] ^ a b c 『石心 囲碁棋士・大竹英雄小伝』石風社 2013年 ^ 日本棋院第一位戦を含めれば7期連続 外部リンク[編集] 日本棋院の大竹英雄 紹介ページ 囲碁データベース [表示] 表 話 編 歴 名誉称号資格者 [表示] 表 話 編 歴 最優秀棋士賞 [表示] 表 話 編 歴 日本の現役囲碁棋士 [表示] 表 話 編 歴 日本棋院理事長 [表示] タイトル(4冠)17期 カテゴリ: 日本の囲碁棋士紫綬褒章受章者旭日中綬章受章者北九州市特命大使北九州市出身の人物1942年生存命人物 -------------------------- 親子茶屋 親子茶屋(おやこぢゃや)は上方落語の演目のひとつ。東京で演じられる夜桜(よざくら)もこの項目で説明する。 目次 [非表示] 1 概要 2 あらすじ 2.1 親子茶屋 2.2 夜桜 3 バリエーション 4 エピソード 5 脚注 6 参考文献 7 関連項目 概要[編集] 両演目は、古典落語の典型的キャラクターである「遊び好きの商家の若旦那」が登場する滑稽噺である。 『親子茶屋』は上方特有の「お茶屋」を舞台とするいわゆる「茶屋噺」のひとつ。原話は、1767年(明和4年)の笑話本『友達ばなし』中の一編「中の町(なかのちょう)」。主な演者に3代目笑福亭福松、2代目立花家花橘、4代目桂米團治、3代目桂米朝、3代目桂春團治らがいる。とりわけ3代目春團治の口演は「演劇的な立体感のある世界を想像させる[1]」と評された。さらに、歴代の桂米團治はこの噺を十八番ネタとしている。 『夜桜』は、『親子茶屋』の舞台を吉原遊廓に移した「廓噺」。現在の演じ手は少ない。8代目桂文治らの口演が知られる。 いずれの演目においても、演者は、登場人物が踊る様子を座ったまま表現するための技量と体力が求められる。 あらすじ[編集] 親子茶屋[編集] まず演者が、男特有の3つの欲望として、「呑む」=飲酒、「打つ」=博打、「買う」=女郎遊びの「三道楽煩悩(さんどらぼんのう)」を紹介する。 お茶屋で遊んだあげく朝に船場に帰り、昼まで寝ていた若旦那を、父親(親旦那)が「ひと言だけ聞きたい。お前には芸者たらいう女子(おなご)と、たったひとりの親とどっちが大事か?」と説教するが、息子は「女子やったら、わてが勘当ンなっても『若旦那、あて(=私)が養い通します。東京へ行て、一旗揚げまひょいな』ちゅうて人さんの軒下立って、歌で流して稼いで東京行く。『あての体、いっとき柳橋か芳町に沈めとくんなはれ。それを元手に、あんさん商売始めなはれ。2、3年もすれば商売に道がついてくる。あての年期も明ける。そうなれば、生涯仲よく暮らそやおまへんか』てなこと言うてくれはんねん。そこへきたらお父っつぁんはどないだ? 今こそ何不自由おまへんけどな、不時の災難ちゅうものはわかりまへんで。うちが火事になって全財産丸焼け。人さんの軒下で歌うにも、あんた三味線も弾けしまへん。あんた背たろうて人さんの軒下立って、『焼け出され者(もん)です。年寄り抱えて難渋しとります』ちゅうたら、行く先々からカネ貰(も)ろて。まあ東京行けるとしなはれ、『一時わしの体、柳橋か芳町に……』だれが買いますか? 芳町・柳橋はおろか、高津(こうづ)の黒焼屋(生薬を売る店)も断られるわ。そんな3文の値打もない老いぼれと、水も垂れるような芸者と、そんなもん、頭からハカリにも天秤にも……」と、冗談をまくし立ててまぜ返し、反省の様子がない。怒りが収まらない親旦那は、店の番頭に「気分直しに、島之内のお寺はんへお説教(=法話)を聞いておいでになりましたら?」と勧められ、「頼みにするは阿弥陀さまばかりじゃ」とつぶやきながら、数珠を懐に入れて表へ出る。 ところが親旦那は寺院へは向かわず、ミナミの花街へ一目散に向かった。「あるかないかわからん地獄極楽をあてにするより、これがこの世の何よりの極楽じゃ。せやけど、せがれ(=息子)が使う・わしが使う、ではうちの身代(=財産)もたまったもんやない。いっそあのドラ息子、先に死んでしまいやがったらええのに、風邪ひとつ引きくさらん」親旦那はなじみのお茶屋にあがり、二階座敷で芸者や幇間を揚げて宴会を始める。 親旦那は「いつもの『狐釣り(※お座敷遊びのひとつ。顔に扇子をくくり付け、目隠しをして行う鬼ごっこの一種。目隠しされた「狐」が、周囲の者の手を叩く音を手掛かりに捕まえる。狐に捕まった者は罰として酒を飲まされ、次の狐になる)』をやろう」と提案する。「ア、やっつく、やっつく、やっつくな」「釣ろよ、釣ろよ。信太(しのだ)の森の。狐どんを釣ろよ……」(下座から流れる河内民謡の『釣ろよ釣ろよ』に合わせて歌い動く) 一方、若旦那も、番頭をだまして店を抜け出し、花街へやって来る。「ここへ来たら、親の意見も何もかもすっ飛んでまうから、おもろいなあ……」なじみのお茶屋を通りかかると、「狐釣り」をやっている騒ぎ声が聞こえる。窓を見上げてみると、扇子で顔を隠した男が踊っているのが見える。「粋(すい)なもんやなあ。うちの親父に見習わせたいわ」感心した若旦那はお茶屋の女将に「半分だけ持たしてもらう(=料金を半分負担する)さかい、あの座敷で一座をさせてくれ(=一緒に遊ばせてくれ)」と頼む。女将は親旦那のいる座敷に話を通し、座が白けてしまわないよう、若旦那も扇子で目隠しさせて「狐釣り」の「狐(鬼ごっこで言う鬼)」に仕立て、親狐と子狐という趣向を考えた。 「旦那(だん)さん、二階に子狐あげまっせ。さ、ひい、ふの、みつゥ」「ア、やっつく、やっつく、やっつくな」「釣ろよ、釣ろよ。信太の森の。子狐どんを釣ろよ」「ア、やっつく、やっつく、やっつくな」「釣ろよ、釣ろよ。信太の森の。親狐を釣ろよ」扇子で顔を隠したふたりは、互いに何も知らないまま散々に遊び倒す。疲れ果てた親旦那は「どこのお方とは存じませんが、こんな年寄りの古臭い遊び気に入ってくだされて、一座してやろうとはありがたいことで。以後、これを御縁に、これからもひとつ……」と言いながら扇子を顔から外すと、目の前に息子がいるので驚く。こ、これ! せがれやないか!」「あっ! お父っつぁん」 「ううむ、これから必ず、博打はいかんぞ」(三道楽のうち「呑む」と「買う」を見られたため、説教の種として「打つ」が最後に残った)。 夜桜[編集] 春の頃。父親が吉原から三日ぶりに帰って来た息子をとがめると、息子は「夜桜を見に行っていた」とごまかす(桜並木の夜見物は、吉原名物であった)ので、父親は親孝行の大切さについて長い説教をする。 父親は無尽講仲間との酒宴が遅くなり、つい魔がさして吉原の妓楼に入ってしまう。折りしも息子も店を抜け出し、同じ妓楼にあがると、芸者や幇間はひとりの客にかかりきりだというので、息子は「その粋(いき)な隠居と一緒に遊びたい」と提案する。幇間が、隣の座敷を用意し、かっぽれ(ステテコ踊り)を踊っている最中にふすまを開いて対面させる、という趣向をスタンバイした。ふすまが開き、親子がお互いを認めて驚き狼狽する。父親が息子に向かって、 「せがれよ、飲み過ぎはならんぞ」 バリエーション[編集] 『親子茶屋』の舞台となる花街は、演者によって異なる。3代目福松、2代目花橘、3代目春團治らは難波新地、4代目米團治、3代目米朝らは宗右衛門町としている。米朝は「若旦那の馴染は北の新地なのだが、親旦那に叱られたため気分転換で南の難波(宗右衛門町)に来て親父に出会うという理屈である[要出典]」と説明している。 3代目春團治は米朝とくらべ、前半部の親旦那と息子との会話を短く刈り込んでおり、その分後半の茶屋遊びに力を入れている。 エピソード[編集] 「狐釣り」は「目ん無い千鳥」とも呼ばれ、落語の『百年目』『天神山』、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』のうち「七段目」にも登場する。『釣ろよ釣ろよ』は狂言の『釣針』、歌舞伎の『釣女』にも登場する。 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 豊田善敬編『桂春団治 はなしの世界』東方出版、1996年 参考文献[編集] 佐竹昭広・三田純一編『上方落語 下巻』 筑摩書房、1970年 関連項目[編集] 菊江の仏壇、七段目、干物箱 - 親旦那が道楽の過ぎる若旦那を説教し、若旦那が受け流す、というシーンで始まる落語。 カテゴリ: 落語の演目 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 言語 リンクを追加 最終更新 2015年11月14日 (土) 08:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki