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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

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ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 本因坊元丈 本因坊 元丈(ほんいんぼう げんじょう、1775年〔安永4年〕 - 1832年11月20日〔天保3年10月28日〕)は、江戸時代の囲碁棋士で、家元本因坊家の十一世本因坊元丈、本因坊烈元門下、八段準名人。元の名は宮重楽山、法名は日真。安井知得仙知と拮抗した好敵手であり、ともに名人の技量ありと言われながら名人とならなかった。囲碁四哲と称される一人。攻めの強い棋風。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 如仏の判決 2 戦績 3 著作 4 関連項目 5 参考文献 6 外部リンク 経歴[編集] 清水徳川家物頭役宮重八郎左衛門の四男として江戸で生まれる。知得との初対局は、天明8年(1788年)で、この時楽山14歳、知得13歳で、知得先で楽山12目勝ちであった。寛政2年(1790年)に知得と十番碁を打ち、知得先相先で5勝4敗1ジゴ、寛政4年(1792年)以後はほぼ互先となる。寛政6年(1794年)には四段となり、この時の楽山と知得の棋譜を後の関山仙太夫は「両雄は珍物」と褒めた。 本因坊烈元は河野元虎を跡目候補に目していたが、寛政7年(1795年)に元虎は没し、寛政10年(1798年)五段で楽山が跡目となり、元丈と改名。この年の御城碁に初出仕し、七世安井仙知に先番5目勝ちを収める。寛政12年(1800年)六段。文化元年(1804年)七段上手。文化5年(1808年)に烈元病気のために隠居願いを出すが受けられず、12月に死去するが一門はこれを秘し、翌年に家督相続を許されて11世本因坊元丈となる。この後に烈元の死を公表した。文化11年(1814年)知得と同時に八段準名人に昇る。文政2年(1812年)の御城碁での、初出仕の井上安節(井上幻庵因碩)五段との二子局黒1目勝ちの碁は、元丈一生のできばえと呼ばれている。 知得との御城碁では、寛政12年(1800年)の知得初出仕から、文化12年(1815年)まで、2勝2敗1ジゴ。ジゴは元丈白番であった。知得との対戦総数は長らく七十七番と言われていたが、その後に発見された棋譜を加えて80数局と見られている。 元丈の跡目候補には奥貫智策が候補と考えられていたが、智策は文化9年(1812年)に27歳で夭逝したため、戸谷丈和(本因坊丈和)を候補と目すようになる。文政2年(1819年)に丈和を跡目とし、文政10年(1827年)に隠居して、丈和に家督を譲る。その後、丈和の名人就位運動にも特に関わらず、酒を楽しみに余生を送った。墓所は本妙寺で、現在は本因坊秀甫と同じ墓に葬られている。 実子に、丈和の跡を継いだ十三世本因坊丈策、宮重策全六段がいる。長兄作重郎は大御番小笠原近江守の組与力を勤めた。 如仏の判決[編集] 鎌倉時代において如仏の判決として知られる全局死活論について、文政4年(1821年)なって家元会議にて元丈がこれを否定し、これ以降は部分死活論が採用されるようになった。 戦績[編集] 御城碁 1798年(寛政10年) 先番5目勝 安井仙角仙知 1799年(寛政11年) 白番5目勝 井上春策 1800年(寛政12年) 白番9目負 安井知得 1801年(享和元年) 先番ジゴ 林門悦 1802年(享和2年) 先番7目勝 井上因達因碩 1803年(享和3年) 先番1目勝 安井仙角仙知 1804年(文化元年) 先番9目勝 安井知得 1805年(文化2年) 先番9目勝 安井知得 1804年(文化元年) 先番9目勝 安井知得 1805年(文化2年) 白番ジゴ 井上春策因碩 1806年(文化3年) 白番ジゴ 安井知得 1807年(文化4年) 向二子2目負 林鐵元門入 1809年(文化6年) 先番3目勝 安井知得 1810年(文化7年) 白番ジゴ 林門悦 1811年(文化8年) 白番2目負 井上因砂因碩 1812年(文化9年) 先番5目負 林門悦 1813年(文化10年) 向二子中押負 林鐵元門入 1814年(文化11年) 白番2目勝 井上因砂因碩 1815年(文化12年) 白番2目負 安井知得仙知 1816年(文化13年) 白番13目勝 林鐵元門入 1819年(文政2年) 向二子1目負 井上安節 1823年(文政6年) 白番3目勝 林元美 1824年(文政7年) 白番2目負 井上因砂因碩 その他、河野元虎には元丈先で6勝1敗1ジゴ、服部因淑に先相先で6勝5敗1打掛けなどがある。 代表局 御城碁(文化元年 11月17日)安井知得 - 本因坊元丈(先番) Chitoku-genjo-18041117-45-59.jpg 右辺黒1(45手目)、3が元丈の持ち味の出た手。中央を厚くしながら続く13、15が好手で、この後白が上辺を進出する間に下辺の白、続いて左辺の白を小さく生かし、中央を固めて黒が快勝した。231手完、黒9目勝。 著作[編集] 『古碁枢機』1821-22年 林利玄から本因坊道策までの棋譜50局をまとめた「乾」「坤」の巻、及び本因坊算砂・利玄から本因坊道知までの50局「艮」「巽」の巻からなる、四巻の打碁集 関連項目[編集] ウィキソースに囲碁の棋譜1815年11月17日 本因坊元丈-安井仙知(先番)の棋譜があります。 安井知得仙知 井上幻庵因碩 本因坊秀和 参考文献[編集] 武宮正樹『元丈 日本囲碁大系(10)』筑摩書房 1976年 矢田直己『秘譜発掘』誠文堂新光社 2004年(「元丈・知得八十四番碁研究」を収録) 囲碁データハウス『本因坊元丈』(PCソフト、元丈の全棋譜226局を収録) 外部リンク[編集] 木石庵「本因坊元丈」 [隠す] 表 話 編 歴 歴代本因坊 世襲本因坊 一世 本因坊算砂 / 二世 本因坊算悦 / 三世 本因坊道悦 / 四世 本因坊道策 跡目 本因坊道的 跡目 本因坊策元 / 五世 本因坊道知 / 六世 本因坊知伯 / 七世 本因坊秀伯 / 八世 本因坊伯元 / 九世 本因坊察元 / 十世 本因坊烈元 / 十一世 本因坊元丈 跡目 本因坊知策 / 十二世 本因坊丈和 / 十三世 本因坊丈策 / 十四世 本因坊秀和 跡目 本因坊秀策 / 十五世 本因坊秀悦 / 十六世 本因坊秀元 / 十七世 本因坊秀栄 / 十八世 本因坊秀甫 / 十九世 本因坊秀栄 / 二十世 本因坊秀元 / 二十一世 本因坊秀哉 タイトル五連覇による本因坊 二十二世 本因坊秀格 / 二十三世 本因坊栄寿 / 二十四世 本因坊秀芳 / 二十五世 本因坊治勲 / 二十六世 本因坊文裕 カテゴリ: 江戸時代の囲碁棋士武蔵国の人物1775年生1832年没 ---------------------------------------------- 蜘蛛駕籠 『住吉駕籠』(すみよしかご)または『蜘蛛駕籠』(くもかご)は古典落語の演目の一つ。原話は、享保12年に出版された笑話本・「軽口初賣買」の一遍である『乗手の頓作』[1]。 元々は上方落語の演目で、住吉大社が舞台である。明治時代に3代目柳家小さんが東京に持ち込んだ。主な演者として、東京では5代目柳家小さんや三遊亭小遊三、上方では6代目笑福亭松鶴や3代目桂米朝などが得意としている。 目次 [非表示] 1 あらすじ 1.1 導入部 1.2 その一 1.3 その二 1.4 その三 1.5 その四 2 演題の由来 3 「駕籠」・「駕籠屋」の出てくる落語 4 類話 「雀駕籠」 5 脚注 あらすじ[編集] かご屋を狂言回しとしたオムニバス形式となっており、江戸と上方では客の種類や行動が若干異なっている。今回は江戸落語での演出に準拠[2]。 導入部[編集] 夕暮れ時、鈴が森近くで客待ちしている雲助が二人。 稼ぎ時だというのに、なぜかこの籠だけなかなかなかなかお客が捕まらない。 と、いうのも、二人のうちの一人…この前入ったばかりの新米が、物凄い頓珍漢だったのだ。 ついさっきも、兄貴分が用を足しに行っている間にお客を捕まえ、籠に乗せたまではよかったのだが、この『客』というのがすぐ横にある茶店の主。 無理やり籠に押し込んで、「まごまごしてやがると、二度とここで商売させねえからそう思え」などと怒鳴られてしまった。 このことで兄貴分が説教しているうちに、周りの雲助はみんな客を捕まえていなくなってしまっていた…。 その一[編集] 最初にやってきたのは、身なりのしっかりしたお侍。 「お駕籠は二丁であるぞ」 「有難うございます!!」 前の駕籠がお姫さま、後ろの駕籠がお乳母様。…。 てっきり上客と思い、喜び勇んで仲間を呼びに行きかけたら 「そのような駕籠が通らなかったか」 その二[編集] 「高い山から 低い山見れば 高い山のほうが 如何したって高い♪」 次に来たのは酔っ払い。 ほうっておけという兄貴分の忠告を無視して、新米が声を掛けると早速絡まれてしまった。 「川崎の大師様におまいりに行って、帰りに船に乗ろうと六郷の渡しまで来ると、後ろから女の声で『あーら熊さん、あーら熊さん』って呼ぶじゃぁねえか。それが幼馴染の辰公んとこの女房で、彼女に誘われて幼馴染のところに遊びに行きご馳走になったんだ。で、帰りがけに船に乗ろうと六郷の渡しまで来ると、後ろから女の声で『あーら熊さん、あーら熊さん』って呼ぶじゃぁねえか。それが幼馴染の辰公んとこの女房で、彼女に誘われて幼馴染のところに遊びに行きご馳走になったんだ。で、帰りがけに…」 話が堂々巡りになってなかなか進まない。おまけに、何にも言っていないのに怒り出してしまい駕籠屋は閉口。 その三[編集] 次に来たのは威勢の良いあんちゃん。粋な姿で、踊りながらやってくる。 兄貴分が手本を見せてやるといい、お客のノリに合わせて「駕籠屋でござい!」 「駕籠屋 駕籠屋 お駕籠を持っといで♪」 しめたとばかりに運んでいくと 「駕籠屋 駕籠屋 乗ってやる代わりに駕籠屋も踊れ♪」 踊ればご祝儀がもらえると思い、お客の音頭にあわせて踊りだす。 しばらく踊っているうちに暗くなってきたので 「旦那 旦那 そろそろお駕籠に 乗ったらどうでしょ?」 「ウーン こりゃ 乗りたいけど 銭がない!!」 兄貴分怒って「張り倒せ! この野郎!!」 その四[編集] 『何でへんな客ばかりが来るんだよ』と文句を言っていると、置きっぱなしにしていた駕籠の中から声がする。 「品川までやってくれ」 一分のところを二分くれると言い、しかも天保銭一枚別にくれるという太っ腹な客に感動した駕籠屋。 早速駕籠を担ぐが…重い。持ち上がらない。それでも何とか担ぎ上げ、ヨロヨロと歩き出した。 実はこの駕籠、中に二人乗っていたのだ。 江戸に帰るのに話をしながら行きたいが、歩くのは面倒と、駕籠屋をペテンに掛けたというわけ。 最初は静かに乗っていたが、やがて興が乗って相撲の話になり、とうとうドタンバタンと取っ組み合いを始めたからたまらない。 たちまち底が抜け、駕籠がすっと軽くなった。 変だなと思い、簾をめくるとやっぱり二人。 下りてくれと文句を言うと、「江戸に着いたらなんとでもしてやるから。修繕代は出すからこのままやれ」。 担げませんというと「オレたちも中でかついで歩くから」。 こうして、世にも不思議な珍道中が出現した。 これを見ていた街道筋の子供が 「おとっつぁん、へんな駕籠が来たよ! 駕籠屋の足が四本、かごの中から足が四本。あの駕籠なに!?」 「うーん、あれが本当のクモ駕籠だ」 演題の由来[編集] 『クモ駕籠』とは本来、雲助の駕籠の意味で『雲駕籠』とも書いた。 そのいわれは、雲のように居所が定まらないからとも、蜘蛛のように網を張って客をつかまえるからとも言われている。 この「雲」と、虫の「蜘蛛」とを引っ掛けてタイトルがついたというわけ。 「駕籠」・「駕籠屋」の出てくる落語[編集] 「駕籠」が出てくる噺 珍しく往診を頼まれた藪医者が、汲み取り屋を駕籠かきに仕立てて往診する「ちしゃ医者」 「駕籠屋」が出てくる噺 尊皇攘夷だとか何とか大騒ぎしている幕末。吉原にどうしても行きたい男が、とんでもない格好で駕籠に乗る「蔵前駕籠」 「死ぬ」と予言されて大散財し、その予言が外れてひどい目にあう男が主人公の「ちきり伊勢屋」 駕籠屋に狐と勘違いされた侍が、そのままジョークで狐を演じる「紋三郎稲荷」 上方落語の「小倉船」では、海中の猩猩が駕籠屋となり、主人公に駕籠を勧めるが「酒手に高くつく」といって断られる。 類話 「雀駕籠」[編集] 「導入部」~「その三」までは一緒。 スピードがあまりに速いので、『宙を飛ぶようだから宙=チュンで雀駕籠』という駕籠屋の自慢を聞いた客が、無理やり駕籠屋にいろいろな鳥の鳴きまねをさせ、 「今度はウグイスでやってくれ」 「いえ、ウグイスはまだ籠(=駕籠)慣れしておりません」 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 実話だという説もあり、モデルとなったのは大坂・船場の豪商、河内屋太郎兵衛だといわれている。 ^ 上方では、舞台は住吉大社で、夫婦連れが駕籠屋をからかったり、酔っ払いがかごに酔って戻してしまうくだりなどがある。 カテゴリ: 落語の演目 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 言語 リンクを追加 最終更新 2012年8月24日 (金) 22:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki