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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 藤沢秀行 藤沢秀行 名誉棋聖 (九段) 名前 藤沢秀行 生年月日 1925年6月14日 没年月日 2009年5月8日(満83歳没) プロ入り年 1940年 出身地 神奈川県横浜市 所属 日本棋院東京本院 師匠 福田正義 名誉称号 名誉棋聖 段位 名誉棋聖 (九段) 概要 タイトル獲得合計 23 通算成績 852勝649敗8持碁 七大タイトル 棋聖 6期 (1977-82) 名人 2期 (1962・70) 王座 5期 (19967-69・91-92) 天元 1期 (1975) この表について[表示] 藤沢 秀行(ふじさわ ひでゆき、ふじさわ しゅうこう、1925年6月14日 - 2009年5月8日)は、囲碁の棋士。1998年10月13日にプロ棋士を引退。本名は藤沢 保(たもつ)[1]。横浜市出身。福田正義門下。名誉棋聖。子にプロ棋士の藤沢一就、孫に女流棋士の藤沢里菜。 本来の名前の読みは「ひでゆき」だが、「しゅうこう」と呼ばれることが多く、「しゅうこう先生」の名で呼ばれていた。 目次 [非表示] 1 人物 1.1 棋風・人柄 1.2 若手育成 2 家族・親族 3 経歴 4 主な戦績 5 第1期名人位 6 エピソード 7 著書 8 参考文献 9 出典 10 外部リンク 人物[編集] 棋風・人柄[編集] 棋風は豪放磊落であり、厚みの働きを最もよく知ると言われた。ポカ(=うっかり)ミスで好局を落とすことも多かったが、「異常感覚」とも称される鋭い着想を見せ、「華麗・秀行」とも呼ばれた。「序盤50手までなら日本一」とされ、序盤中盤の局後検討で結論がでない場合は「秀行先生に聞こう」というのが、かつての日本棋院での決まり文句だった。 盤上での活躍の一方、盤外では酒、ギャンブル、借金、女性関係など破天荒な生活でも有名であった。癌の手術以前はアルコール依存症の禁断症状と戦いながらの対局を重ねていた。こうした「最後の無頼派」とでも称すべき藤沢の人柄を愛する者は多く、政財界に多くの支持者を抱えるほか、日中韓の若手棋士からも非常に尊敬されている。 高利貸しから億単位の借金がありその大半を好きな競輪につぎ込んだ。政財界に藤沢のファンがおり、そのうちの一人故稲葉修元法務大臣が「せめて借金先は銀行へ」と替えさせ借金の保証人になったという。棋聖戦(優勝賞金4500万円)を六連覇し借金を返済した[2]。 アルコール依存症であり七番勝負のときだけは禁断症状に苦しみながら酒を抜いた。平時から酒をよくたしなみ、午前中にウイスキーを一本あけ、酔うと卑猥な言葉を発し周囲を困らせ若手の一流棋士を捕まえては一局1000円で早碁を打った。泥酔状態でも並の棋士は歯が立たなかったという。 本妻のほかに4人の女性がおり、子供は本妻を含め3人ずつ計15人いた。正月になると4人の女性と子供たち全員が一斉に会し正月のあいさつを藤沢と本妻に対して行った。将棋の米長邦雄は「俺とえらい違いだ。恐れ入った」と頭を下げたという[3]。この勝負師を陰で支えた妻・モトは著書『勝負師の妻—囲碁棋士・藤沢秀行との五十年』で彼を襲った数々の難局について述べている。 書の大家でもあり安芸の宮島・厳島神社の鎮座1400年に際し「磊磊」の文字を奉納している[4]。各地で個展を開いたほか、1992年には大相撲の貴闘力の化粧まわしに「気」の文字を揮毫。さらに、2007年にはニコニコ動画のコンテンツ「ニコニコニュース」の題字を手掛けた。[1] 若手育成[編集] 門下に天野雅文・高尾紳路・森田道博・三村智保・倉橋正行・金沢真らがいるが、この他にも合宿などで依田紀基・結城聡・坂井秀至ら多数の若手棋士を育てており、中国・韓国棋士も含め藤沢を師と仰ぐ者は多い。来るものは誰でも拒まずに受け入れた研究会『秀行塾』は有名。 自分の門下生以外にも多くの若手棋士の育成に力を注いだ。昭和30年代には、阿佐ヶ谷の自宅で、茅野直彦、当時十代であった林海峰、大竹英雄、工藤紀夫、高木祥一、小島高穂ら十数人による月2回の研究会を行なっていた。これにはその後、さらに若い世代の安倍吉輝、福井正明、酒井猛、石田章、中村秀仁らが加わる。続いて1969年、不動産業のために代々木に事務所を開いたが、ここでも若手棋士が集まっての研究会が行われ、林海峰、曺薫鉉、四谷にあった木谷道場の石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹、趙治勲らが集まり、事務所を閉じる1978年まで続いた。 1980年からは、入段したばかりの依田紀基、安田泰敏、院生の藤沢一就、小松英樹らで第三次研究会を始め、場所もよみうりランドの自宅に移した。この研究会はその後も弟子の森田、三村、高尾の他にも人数が増え、1984年からは年に2回の合宿を行うようになる。このメンバーは秀行軍団などとも呼ばれる。 1981年からは研究会のメンバーとともに訪中し、中国の棋士との手合や指導を行うようになる。これには聶衛平、劉小光、江鋳久、曹大元、若手の馬暁春、張文東らが参加した。この毎年1987年までと、それ以後の断続的な訪中は、中国の実力レベル向上に大きく寄与したと言われている。 「命がけで得た技術をなぜ他国に教える必要があるのか」という声もあるなか、中韓両国の若手棋士に惜しげもなく技術を伝授した[5]。 1999年に行われた引退三番碁では、第1局(4月16日)で常昊、第2局(4月30日)で曺薫鉉、第3局(5月14日)で高尾紳路と、日中韓の棋士が対戦相手を務めた。引退碁が行われたのは本因坊秀哉以来。死後の2010年6月には北京市に「藤沢秀行記念室」が設立された[6]。 家族・親族[編集] 父の藤沢重五郎は相場師として名を挙げた人物で、賭博にも熱中したが囲碁でも三段の免状を持っていたとされる。田村保寿(のちの本因坊秀哉)と「鬼池田」と呼ばれた素人名人との対戦を企画した[7]。何人もの女性相手に、合計19人の子供をつくった。囲碁の他にも、剣道三段、将棋五段、柔道三段(起倒流柔術)。 甥に藤沢朋斎(姉の子にあたる。年長)、経済学者の松井彰彦がいる。 妻の藤沢モトには、藤沢と暮らした人生を描いた著書が『勝負師の妻―囲碁棋士・藤沢秀行との五十年 』『大丈夫、死ぬまで生きる 碁打ち 藤沢秀行‐‐無頼の最期』の二冊ある。 三男の藤沢嘉浩はアマチュア囲碁強豪。五男に藤沢一就八段。2010年4月に当時史上最年少11歳6ヶ月でプロとなった女流棋士藤沢里菜は一就の長女で秀行の孫にあたる。 経歴[編集] 1925年 横浜市で、69歳の父重五郎と23歳の母きぬ子との間に誕生する。 1934年 日本棋院の院生となり、福田正義五段に入門。 1940年 初段。 1943年 三段時に秀行に改名。若手時代は「丸太ん棒を振り回す」ような碁(安永一)と評された。 1948年 第1期青年選手権優勝。山部俊郎、梶原武雄とともに「戦後三羽烏」「アプレゲール三羽烏」と称され、また「異常感覚」との形容も付けられた。 1957年 第1期首相杯争奪戦優勝。 1959年 第1期日本棋院第一位決定戦優勝。 1960年 坂田栄男を破り、第5期最高位戦奪取。第15期本因坊戦で高川秀格本因坊に初挑戦。 1962年 13名から成る第1期旧名人戦リーグで、9勝3敗の成績で初代実力制名人の座を獲得する。 1965年 第2期プロ十傑戦優勝。 1966年 第10期囲碁選手権戦優勝。第21期本因坊戦で坂田栄寿本因坊に挑戦。 1967年 橋本昌二を破り第15期王座位獲得。 1968年 プロ十傑戦優勝 1968年 坂田栄男を退け王座防衛。 1969年 第16期NHK杯優勝。 1969年 第1期早碁選手権戦優勝 1969年 大竹英雄を退け王座位防衛 1970年 林海峰を破り、旧第九期名人位獲得。 1976年 大平修三を破り第一期天元位獲得。 1977年 第1期棋聖戦で橋本宇太郎を破り、初代棋聖位を獲得。以後6連覇(対加藤正夫、石田芳夫、林海峰、大竹英雄)により名誉棋聖の称号を得る。しかしこの間アルコール依存症が進行しており、七番勝負前になると必死の思いで断酒をし、禁断症状に苦しみながら防衛を果たすと、また酒漬けになるという日々が続いた。 1981年 第28期NHK杯優勝。 1983年 趙治勲に敗れ、棋聖の座を譲り渡す。この直後胃癌が発見され、切除手術を受けた。この後も悪性リンパ腫を放射線治療、前立腺癌を投薬治療し、三回の癌を克服している。 1987年4月27日、紫綬褒章受章 1989年 名人、本因坊両リーグ入り。 1991年 羽根泰正を3-1で降し、王座のタイトルを奪回。翌年には小林光一を相手に防衛を果たし、史上最高齢(67歳)でタイトル防衛記録を塗り替える。 1997年11月3日、勲三等旭日中綬章受章 1998年 老齢を理由に現役引退を発表。 1999年 日本棋院とは別の独自の段位免状を発行し、物議を醸す。日本棋院の免状が高すぎることに異議を唱えるための「たった一人の反乱」であったが、日本棋院から除名処分を受ける。2003年に独自の免状発行を行わないと確約の上で日本棋院に復帰。 2005年 NHKテレビで「にんげんドキュメント 無頼の遺言~棋士・藤沢秀行と妻モト」放映。 2009年5月8日、誤嚥性肺炎により死去。83歳没。遺骨は生前の言に従い、瀬戸内海の山口県周南市大津島沖で10月13日散骨された。12月13日、NHK教育テレビジョンETV特集で「迷走~碁打ち・藤沢秀行という生き方」放映。 2010年4月24日、北京に「藤沢秀行記念室」がオープン。8月28日 に東京都 台東区 の小野照崎神社 に絶筆の書「強烈な努力」が刻まれた記念碑が建てられた。10月17日、散骨をした山口県周南市大津島に「モニュメント磊磊~海への旅立ち」除幕式。これを記念し10月16日から10月24日まで周南市美術博物館で「藤沢秀行書展」開催。 主な戦績[編集] 棋聖 6期(歴代3位)6連覇(歴代2位)名誉棋聖 名人 2期  王座 5期(歴代4位)3連覇 天元 1期 囲碁七大タイトル獲得記録 順位 獲得回数 棋士名 1位 42期 趙治勲* 2位 35期 小林光一* 3位 34期 井山裕太* 4位 31期 加藤正夫 5位 23期 張栩* 6位タイ 21期 坂田栄男 | 林海峰* 8位 17期 大竹英雄* 9位タイ 14期 藤沢秀行 | 山下敬吾* 表示 *は現役棋士 2016年天元戦終了時点 第1期名人位[編集] 1952年頃より日本棋院理事を務め、1960年には渉外担当理事となる。日本棋院の財政基盤改善策として名人戦創設を図る。読売新聞との契約をまとめ、1961年から第1期名人戦が開始、最高位タイトルを持っていた秀行も13人のリーグ戦に参加する。翌年8月の最終局まで9勝2敗のトップを走っていたが、最終局で橋本昌二に敗れて9勝3敗となり、呉清源 - 坂田栄男戦の勝者とプレーオフとなると思われた。しかし呉-坂田戦は呉の白番ジゴ勝ち(コミ5目で)となり、当時の規定でジゴ勝ちは正規の勝ちより下位とされていたため、藤沢の第1期名人位が決まった。 エピソード[編集] 本拠地である阿佐ヶ谷を中心に中央線沿線に何軒かの碁会所を運営していた(門下生任せを含む)。 首相杯、日本棋院第一位決定戦、旧名人戦、早碁選手権、天元戦、さらに棋聖戦までも第1期の優勝を果たしており、「初物食いの秀行」といわれた。 多額の借金を抱えていた時期の第2期棋聖戦では加藤正夫に1勝3敗と追い込まれ、第5局開始前には「負けたときに首を吊るため」枝振りのよい木を探しながら対局場に向かったという。この碁で藤沢は一手に2時間57分という記録的な大長考を払った末、加藤の白石を全滅させ気迫の勝利を収めた。 将棋棋士の米長邦雄とは長い付き合いがあり、共著で出版もしている。 同じく将棋棋士の芹沢博文は「弟分」と呼ぶ仲で、飲み仲間でもあった。二人が酒の席で「囲碁・将棋の全てを100としたら、自分たちにはそのうちどのくらいをわかっているか」を紙に書いて見せ合ったことがある。藤沢は酔って気が大きくなってちょっと多めに「6」と書いた。芹沢は「4か5」と書いていた。藤沢は芹沢がわからないということがちゃんとわかっている男だと認め、デキるやつだったと回想している。[8]。 女性関係も派手で、愛人の家に入り浸って自宅に3年もの間帰らなかったこともあった。用事ができて帰らなければならなくなった際、自宅への行き方がわからず妻を電話で呼び出して案内させたという。 米長邦雄の妻が藤沢の妻を訪ね、米長の妻が「うちの主人は週に5日帰ってこないのですが」と藤沢の妻に相談したところ、藤沢の妻は「うちは3年、帰りませんでした」と答えた[9]。 本妻以外の女性との間にも子供がおり、認知もしている。 酒好きでほぼ毎日飲酒をしていた。しかし決して強いわけではなく、特に83年の胃癌の手術後は少量でも酔いが回るのが早くなったという。また、酔うと女性器の俗称を連呼する悪癖があった。鄧小平と面会した際、あろうことかベロンベロンに酔っぱらっており、「中国語ではおまんこのことを何というのだ」と執拗に絡み、面会は途中で中止となった。 また、開高健のエッセイ『開口閉口』に出てくる、「門口で『やい、クロ饅子、でてこい!』と叫ぶ『疾風怒濤のロマン派』」とは藤沢の事である。 ライバルであった坂田栄男とは個人的にもウマがあわなかったようで、1963年の第2期名人戦第6局での封じ手をめぐる応酬など、関係を物語るエピソードも多い。藤沢が日本棋院から除名処分を受けた際には、坂田は藤沢を激しく非難した。ただ藤沢の死去に際し、「対戦成績は私の方が良かったが、才能は私よりあったと思う」(毎日新聞)と語り、没後に催された「偲ぶ会」にも車椅子で出席した。また将棋棋士河口俊彦の著書には、あるとき日本棋院で藤沢に会った際、「今日は坂田に2万円借りた。坂田に金を借りるようじゃ俺もおしまいだな」と言ったというエピソードが書かれている。 碁を嗜む企業の役員や著名人からの人気も高く、藤沢が開催した書の展示会などにはたくさんの花や祝電が届き、直接会場に駆けつけ挨拶を交わす人も多かった。また、藤沢が贔屓にしていた碁の打てる銀座の会員制クラブ(2010年閉店)では、藤沢の私設後援会『藤沢会』の会員を対象に月に1回、藤沢とその弟子のプロ棋士が講習会を開いていた。 競輪が好きで、後楽園競輪で250万円を取り、それを花月園競輪で480万円にしたこともある。亡くなる前年には競輪場で転倒して骨折している。年2回の若手育成合宿は湯河原で行われるのが恒例だったが、その日程は小田原競輪の開催日程に合わせて組まれるのが常だったという[10]。 京王閣競輪場で250万円の車券を1点買いしたが惜しくも外れ、観戦していた決勝線付近の金網を強く握りすぎて菱形にひしゃげてしまい、「秀行引き寄せの金網」として京王閣競輪場の名所になった[9][11]。 棋聖戦6連覇の間に、借金のために自宅を競売にかけられたが、「最善手を求めて命を削っているから、借金も女も怖くない」と語った[9]。 戒名は自身が生前に決めていた「無明居士(むみょうこじ)」。 亡くなって3年以上たった、2012年の週刊碁11月5日号(10月29日発売)に「尊敬する棋士、好きな棋士ベスト10」・第2位を獲得した。[12] 2014年11月7日に孫の藤沢里菜16歳が、史上最年少の女流本因坊タイトルをとった。[13] 著書[編集] 『藤沢秀行囲碁学校』(全6冊)平凡社、1971年 『丈和』(日本囲碁大系10)筑摩書房、1976年 『芸の探求シリーズ1 華麗 藤沢秀行』日本棋院、1977年 『秀行創作詰碁傑作集』日本棋院、1980年 『藤沢秀行 上・下』(現代囲碁大系26.27)講談社、1980年 『藤沢秀行名誉棋聖への道 : 棋聖戦1-5期激闘譜 』読売新聞社、1981年 『秀行 飛天の譜 藤沢秀行タイトル戦全集 上下巻』日本棋院、1982年 『棋聖秀行の碁』全5巻、四星社、1982年 『わたしならこう打つ 秀行囲碁道場 上・下』日本棋院 1982年 『囲碁発陽論』(解説)平凡社(東洋文庫412)、1982年 『基本手筋事典 上・下』日本棋院、1982年 『藤沢秀行 (現代囲碁名勝負シリーズ) 』講談社、1987年 『秀行の世界』全6冊、誠文堂新光社、1992年 『藤沢秀行全集』(全12冊)日本棋院 1994年 『藤沢秀行の碁の急所この一手 (NHK囲碁シリーズ) 』1995年 『秀行百名局』誠文堂新光社、2009年 ほか、極めて多数の(100冊を軽く超える)棋書を書き下ろしている(その多くは棋士にして囲碁ライターである小西泰三の構成による)。 ほかに本人の壮絶な生きざまを記したエッセイとして 『八方破れ人生―天才勝負師の戦陣訓』 (1971年)サンケイドラマブックス 『芸の詩 棋聖秀行囲碁放談』日本棋院 1978年 『碁打秀行~私の履歴書』角川文庫 『碁打ち一代』 『勝負と芸~わが囲碁の道』岩波新書 1990年 『野垂れ死に』新潮新書 2005年 『人生の大局の読み方 (フロムフォーティズ) 』 『人生の大局をどう読むか』 三笠知的生きかた文庫 『人生、意気に感ず』 『耐えて勝つ!』 などがある。将棋の米長邦雄永世棋聖との対談集として 『勝負の極北~なぜ戦いつづけるのか』 『戦いはこれからだ~人間的魅力の研究』祥伝社ノン・ポシェット文庫 また 藤沢モト『勝負師の妻~囲碁棋士・藤沢秀行との五十年』角川oneテーマ21 は夫人(正妻)による著書。 (本人の碁でなく)本人と妻の生きざまに焦点を当てたNHKによるテレビ番組が、DVD化されている。 『無頼の遺言~棋士・藤沢秀行と妻モト』NHKエンタープライズ 棋士が技術伝授でないビデオに出演するのは極めて異例のことである。 参考文献[編集] 小西泰三「波瀾万丈 裸の秀行」(『棋道』1994年5-12月号) 出典[編集] ^ 「秀行」は少年時代から心酔していた本因坊秀甫に由来するという。『野垂れ死に』 (新潮新書)より ^ 2015年8月18日東京中日スポーツ「怪物伝説 藤沢秀行名誉棋聖」より ^ 2015年8月18日東京中日スポーツ「怪物伝説 藤沢秀行名誉棋聖」より ^ 2015年8月18日東京中日スポーツ「怪物伝説 藤沢秀行名誉棋聖」より ^ 2015年8月18日東京中日スポーツ「怪物伝説 藤沢秀行名誉棋聖」より ^ 『碁ワールド』2010年7月号 ^ 『本因坊自伝 Kindle版』本因坊秀哉著 ^ 『野垂れ死に』p86 - p87 ^ a b c 読売新聞2009年5月9日『編集手帳』 ^ 『競馬最強の法則』(KKベストセラーズ)2010年6月号・pp.134 - 135 ^ 芹沢博文著『人生、くそ度胸』には「京王閣・秀行ガマンの金網」との表記も ^ http://www.nihonkiin.or.jp/publishing/2012/10/1151029.html ^ http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014110701001675.html 外部リンク[編集] 日本棋院の藤沢 秀行 紹介ページ 藤沢秀行記念館 追悼 藤沢秀行名誉棋聖・この4局(読売新聞) [表示] 表 話 編 歴 名誉称号資格者 [表示] タイトル(4冠)14期 カテゴリ: 日本の囲碁棋士紫綬褒章受章者勲三等旭日中綬章受章者競輪に関連する人物横浜市出身の人物1925年生2009年没 ------------------------ 子ほめ 曖昧さ回避 この項目では、古典落語の演目について説明しています。関西テレビで桂ざこばが主演するテレビドラマについては「子ほめ (テレビドラマ)」をご覧ください。 子ほめ(こほめ)は古典落語の演目の一つ。別題は『赤子褒め』。 原話は寛永五年、安楽庵策伝著の『醒睡笑』・巻一中の『鈍副子第十一話』。元々は上方落語の演目で、3代目三遊亭圓馬によって東京落語に持ち込まれた。 いわゆる前座噺に数えられるが、上方では3代目桂春團治、東京では8代目春風亭柳枝の十八番としても知られる。 目次 [非表示] 1 あらすじ 1.1 江戸版 1.2 上方版 2 その他 3 参考文献 あらすじ[編集] 江戸版[編集] 隠居の所へやってきた八五郎。入ってくるなり、『只の酒飲ませろ!!』と言って隠居を仰天させた。実を言うと、これは『只(タダ)の酒』ではなく『灘の酒』の聞き間違いであったのだが、八五郎の態度に隠居は呆れ、『口が悪いと損をするぞ』と忠告した。 隠居は、『損をしたくなかったら言葉遣いを直せ』と八五郎にアドバイス。道で知人に出会ったら、相手に年齢を尋ねて相手が答えたらそれより若く見えるとおだてりすれば一杯ぐらいおごってもらえるんじゃないか。例えば、五十近くなら『如何見ても厄そこそこ』と言えば、男の厄年は四一~三なので都合十歳は若く見られたと相手は喜ぶと言うわけなのだ。 しかし、そう都合よく年配ばかりが通りかかるとも限らない。たまたま、仲間の竹に赤ん坊が生まれたので、祝いに行けば酒をおごってもらえると算段した八五郎は赤ん坊のほめ方はどうすればいいか質問をした。それに対し、隠居は『顔をよく見て人相を褒め、親を喜ばせばいいんだ』とアドバイス。 「例えば、これはあなた様のお子さまでございますか。あなたのおじいさまに似てご長命の相でいらっしゃる。栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳しく、蛇は寸にしてその気を表すと言います。私も早く、こんなお子さまにあやかりたい』とでも言えば良いんだ。」 これで完璧。喜んで町に出ると、顔見知りの伊勢屋の番頭に会ったから早速おごって貰おうと声をかけた。しかし、『町内の色男』と逆に褒められご馳走をさせられそうになってしまった。気を取り直して歳を訊くと、何と相手は四十歳。無理やり四十五歳だと言ってもらい、いくつに見えると質問されて『厄そこそこ』。 完璧に失敗し、逃げ出した八五郎は今度こそおごってもらおうと竹の所を訪れた。しかし、いざ褒める段になって台詞がまったくでてこない。 「おじいさまに長命丸飲ませましたな。洗濯は一晩では乾かず、ジャワスマトラは南方だ」 最後の手段で年を尋ねると、竹が『(数え年で)一つ』と言うので、『一つにしちゃあ大変お若い、どう見てもタダだ』。 上方版[編集] タダ酒が飲めるとの噂を聞きつけ、訪ねて来たアホの男。 真相は「タダの酒」ではなく「灘の酒」の聞き間違いであったが、人を褒めてタダ酒を飲む方法を教わる。 その方法とは、相手に年齢を尋ね、年配の者には若く見える、年若の者にはしっかりして見える、とおだてて酒や肴を奢ってもらい、赤ん坊の場合は、顔をよく見て人相を褒め、親を喜ばせてご馳走になるというもの。 それではと通りに飛び出すと、伊勢屋の番頭に遭遇する。 しかしいざ声をかけようとすると、「町内の色男」と逆に褒められ、ご馳走をさせられそうになる。 そこで、近所にある、子供ができたばかりの竹の家を訪ねる。 赤ん坊を褒める魂胆であるが、間違って奥の間で昼寝している爺さんを褒める。 改めて赤ん坊に臨むが、顔を見ては猿のようだと言い、無理やり挨拶を教えようとしたり、お腹を押してみたり。 そのうち、もみじのような手だと初めて褒めたものの、やはり(その手で)祝い金をよく取ったと言ってしまい、あきれられる。 仕方がないので、教えてもらったとおり人相について褒めようとするが、これもなかなかうまくいかない。 最後の手段で年を尋ねると、竹が「そんな赤ん坊に年を尋ねるもんがあるかい、今朝生まれたとこや」と言うので、 「今朝とはお若う見える、どうみてもあさってくらいや」 その他[編集] 噺の中に出てくる『長命丸』とは一種の強壮剤で、江戸版『バイアグラ』と言った代物。両国米沢町の「四ツ目屋」で売り出していた。 上方版は4代目桂米團治から3代目桂米朝に伝えられた形と、2代目立花家花橘から3代目桂春團治に伝えられた形との2系統が存在する(本記事の上方版のあらすじは米團治・米朝式に準拠。花橘・春團治式との主な違いは、伊勢屋の番頭にご馳走をさせられそうになる件りの有無)。サゲは一門や演者によって微妙に異なり、米朝一門では、数え年が一般的でなくなった現代に対応して、本記事に記述したサゲを用い、春團治は江戸版と同じサゲを用いる。 参考文献[編集] 『噺の肴―らくご副読本』小佐田定雄(弘文出版、1996年(平成8年)、ISBN 4-87520-201-6) 『極付十番 三代目桂春團治』(ワーナーホームビデオ、2007年(平成19年)、SD-F1945) [隠す] 表 話 編 歴 落語の演目 (場面別) 長屋噺 厩火事 - 小言幸兵衛 - 子ほめ - 三軒長屋 - 粗忽長屋 - 宿替え(粗忽の釘) - たらちね - 天災 - 貧乏花見(長屋の花見) - 花屋の仇討ち - 不動坊 - へっつい幽霊 - まんじゅうこわい - 薬缶 - 寄合酒 - らくだ 廓噺 明烏 - 居残り佐平次 - お直し - お見立て - 紺屋高尾 - 五人廻し - 三枚起請 - 品川心中 - 付き馬 - 文違い - みいら取り お店噺 御神酒徳利 - 笠碁 - 口入屋 - 松竹梅 - 崇徳院 - 千両蜜柑 - 高砂や - 寝床 - 百年目 - 味噌蔵 - 百川 旅噺 大山詣り - こんにゃく問答 - 三十石 - 三人旅 - 伊勢参宮神乃賑(東の旅) - 富士詣り - 二人旅 - 万金丹 - 宿屋の仇討ち - 宿屋の富 音曲・芝居噺 お血脈 - 掛取万歳 - 替わり目 - 七段目 - 四段目 - 中村仲蔵 - 淀五郎  Category:落語の演目 カテゴリ: 落語の演目 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 言語 リンクを追加 最終更新 2017年5月4日 (木) 23:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki