TOP > 雁金準一
雁金準一

雁金準一 氏に関する検索

雁金準一氏に関する検索


ネット囲碁対局なら『みんなの碁』

ネット囲碁対局 入口 (ここをクリック)


ページ     補足                 
雁金準一

雁金準一 に関する検索

お問い合わせ
メールはこちらまで
minnanogo99@gmail.com
囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。

相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。

相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。

『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。

対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


ネット碁会所、囲碁対局
フリーソフト
関連語
碁序盤打ち方
ネット碁会所サイト
あれこれ
あれこれ2

雁金準一
▲TOPページ
当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質


・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
・コンテンツの充実

これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

囲碁

ゲーム




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 雁金準一 雁金 準一(かりがね じゅんいち、1879年(明治12年)7月30日 - 1959年(昭和34年)2月21日)は、明治から昭和にかけての棋士。元の姓は岩瀬。東京都出身、初代中川亀三郎門下、九段。方円社、本因坊秀栄門下、日本棋院を経て、棋正社の総帥としての日本棋院との院社対抗戦などで、本因坊秀哉とライバル関係にあった。後に瓊韻社を創設。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 生い立ち 1.2 本因坊継承争い 1.3 棋正社時代まで 1.4 瓊韻社以後 2 代表譜 3 著書 4 参考文献 経歴[編集] 生い立ち[編集] 東京都本郷森川町に、元は三河国豊橋藩の藩邸に仕える武家であった家に生まれる。4歳頃に碁好きの父より碁を学び、来客との対局などで大いに腕を上げ、学業のために父からは碁を禁じられるが秘かに「国技観光」などで研鑽して遂に父から許しを得、12、3歳頃には近隣では敵無しとなる。父の喘息のために困窮していたが、河北耕之助の知人の小野述信の援助を受け、箱根の旅館で湯治客の碁の相手をしていたところ伊藤博文の知遇を得るて書生となる。1893年(明治26年)から方円社に通い始めるようになり、翌年入段する。日清戦争に際しては伊藤により広島大本営、下関と随伴し、「碁打小僧」として知られるようになる。3年後、自ら生計を立てるべく本郷に稽古場を開く。1896年に伊藤家を辞して方円社に入塾、中川亀三郎退隠とともにその内弟子となり、各地遊歴にも随行する。 1898年(明治31年)二段。同年から19世本因坊秀栄の研究会「四象会」に、三段以上を参加資格とするところを特に認められて参加。1899年(明治32年)、日下義雄に従い1ヶ月渡韓。京城の高手で中枢員議官の白南奎という者と対戦、四子(朝鮮ルールの二子)にまで打ち込んで「神童来」と言われる。1900年には秀栄との十番碁を開始(二子)。時事新報の敗退五人抜戦で、1901、02年に2回4人抜きし、1904年に岩佐銈、伊藤小太郎、大沢銀次郎、中川千治、広瀬平治郎に勝って時事新報初の5人抜きを達成する。 1905年に方円社社長巌埼と広瀬、石井が対立したが、雁金が責任を取る形となって退社し、この年に秀栄の組織した「日本囲棋会」に入り、秀栄門下となるとともに五段に昇段。1907年(明治40年)1月六段。この披露会にて伊藤公より、 「東西分局勢 黒白闘雌雄 坐看輸贏迹 賢愚老此中」 の詩章を贈られた。 本因坊継承争い[編集] この頃、秀栄の後継候補は雁金と5歳年長の田村保寿で、実力は田村が上であったが、秀栄は田村の性格を嫌っており、跡目を決めることはなかった。また田村が七段昇段記念の碁(1905年)で、相手の雁金五段に持碁にするように申し入れた件を棋譜から見破られたことも、田村が信用を失う一因とされる。 1907年2月に秀栄が、雁金を本因坊にと遺言を残して没すると、本因坊の名跡を巡り六段雁金と七段田村をそれぞれ推す派が対立し、暫定で秀栄の弟で秀和の三男である秀元が20世本因坊となる。雁金は秀栄未亡人派による敲玉会の首班となる(会員に伊藤小太郎、関源吉、伊沢巌吉、都谷森逸郎、会友として内垣末吉、中根鳳次郎)が、翌年に秀元から田村に本因坊位が譲られ、田村は21世本因坊秀哉となり、敲玉会は雁金の脱退により解散する。この年に八段昇段もした秀哉の襲名披露会には雁金も出席し、広瀬平治郎五段との席上碁を務めるが、その後は対局から遠ざかり、アマチュア指導に専念した。 棋正社時代まで[編集] 1915年に、1907年に発足した関西囲碁研究会(関西囲棋会)会員になる。1917年には、雁金を井上家跡目とすることが一門で決議されるが、1920年に恵下田栄芳が正式に16世井上因碩を襲名する。 1919年に時事新報主催の林徳蔵三段戦を行い(先二、二子番、雁金中押勝)、13年振りの対局となる。また方円社に再入社し、小林健太郎と向二子で十番碁。同年、関源吉、吉沢道三、小林鍵太郎らと、大正囲棋会を設立。喜多文子と十番碁(向先-向先二)。その後政財界有力者の間で雁金に打たせようという相談がまとまり、1920年3月、細川護立の催しで、1914年に名人就位していた秀哉と対戦、13回打掛けで翌年1月30日終局、雁金(先)6目勝。同年4月にも久保松勝喜代五段昇段披露会席上で秀哉と対戦し、33手で打掛け。同年5月時事新報主催で秀哉戦、打掛け19回で12月28日終局、秀哉(白)中押勝。 方円社理事となるが1922年に脱退し、高部道平、鈴木為次郎、瀬越憲作の4棋士で裨聖会設立。裨聖会は、総互先コミ出し、持ち時間制などを初めて導入した。この中では雁金が8勝3敗1ジゴで最も成績優秀、次いで瀬越であった。 高部道平らの活動による1924年の碁界大合同で日本棋院に創立委員として参加するが、同年、雁金、鈴木為次郎、高部道平、加藤信、小野田千代太郎が、報知新聞と日本棋院規約に反して個人契約して除名。この5棋士にて棋正社を設立。翌年七段に昇段。鈴木、加藤は1926年に棋正社を離脱。 1926年に読売新聞を通じ、棋正社と日本棋院の間で院社対抗戦(正式名称は日本棋院対棋正社敗退手合)を開始、大正大争碁とも呼ばれる。初戦に秀哉ー雁金(先)戦が行われ、254手までで雁金の時間切れ負けとなる。以後の勝ち抜き戦で、棋正社は常勝将軍と呼ばれた野沢竹朝も加えるが、1929年終了時には棋正社の14勝26敗2持碁となった(雁金は4勝9敗)。この院社対抗戦を掲載した読売新聞は社を挙げて宣伝し、観戦記には村松梢風ら文士を配し、また秀哉ー雁金戦が序盤から大乱戦となったことも手伝い、発行部数を3倍に伸ばした。 瓊韻社以後[編集] 1933年、八段。 1941年、高部との対立により、一門を率いて棋正社を離脱して瓊韻社を設立。同年、62歳で、日本棋院の呉清源七段と打込み十番碁を開始。この時の手合割について、日本棋院では雁金の段位を認めるかが問題となったが、雁金の意向で互先となる。戦績は翌年第5局まで雁金の1勝4敗となり、打ち切りとなった。また、続いて瓊韻社の渡辺昇吉六段の藤沢庫之助六段との十番碁も行われるが、藤沢3連勝で打ち切りとなる。 その後、日本棋院棋士との交流手合もあり、また棋院への復帰運動もあったが、瓊韻社にとどまり続けた。1944年、準名人戦(読売新聞主催)に出場、呉清源に白番ジゴとする。1952年、全本因坊全八段戦に出場、橋本昭宇に白番半目負け。1953年、瀬越憲作、鈴木為次郎とによる三長老戦で3勝1敗で優勝。 1959年1月、九段に推挙。同年2月東京都板橋区の自宅で没。日本棋院より名誉九段を追贈される。墓所は顕本寺。秀栄は、手の見える碁と評していた。また性格温厚、人格高潔であったと世に言われている。 門下に、渡辺昇吉九段、富田忠夫八段ら。鄒海石、笠井浩二も少年時代に指導を受けた。富田門下には王銘琬九段、鄭銘瑝九段らがおり、王の本因坊位獲得により、孫弟子の代で本因坊位に就いたとも言える。 代表譜[編集] 本因坊秀哉-雁金準一(先番) 大正9年(1920年)に徳川慶久、頭山満、犬養毅、細川護立などが、雁金に打たせようと相談し、細川邸で秀哉戦を行うこととなった。雁金先番で3月12日に打ち始め、13回の打掛けを経て、翌年1月30日に終局となった。 Shusai-karigane-19200312-29-47.jpg 布石では白が働いたが、黒1(29手目)の打ち込みから5の打ち込み、続いて9の強手などから15までの実利を稼いだ。続いて微差ながらも白は中央を大きく囲い、下辺、左辺でコウ争いとなったが、左上隅で黒から絶妙のコウ立てがあり、黒6目勝に終わった。この碁は当時公開されず、これと同じ1920年に秀哉中押勝した碁の棋譜が時事新報に掲載された。後の坂田栄男評に「始めから終わりまで徹底的に戦い、いたる所で血の吹き出るような一局だった」「(われわれは)これほどまでに読み切っていない」とある。 著書[編集] 『実戦虎ノ巻 新式囲碁秘伝』囲碁秘伝発行所 1908年(矢野由次郎編) 『置碁秘伝 草薙之巻(全2巻)』大野万歳館 1911年 『布石攻合 置碁必勝法』斯文館 1916年 『置碁互先 手段之秘訣』囲碁雑誌社 1917年 『置碁必勝 布石要訣』1920年(関源吉と共著) 『方円新法 新註』1948年 『方外棋話』1952年(月刊『囲碁』) 参考文献[編集] 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年 『雁金準一名局集』瓊韻社 1968年 『現代囲碁大系2 明治・大正名棋家集2(雁金準一、高部道平、野沢竹朝、十五世井上因碩、十六世井上因碩、稲垣兼太郎、三宅一夫) 』講談社 1980年 中山典之『昭和囲碁風雲録<上>』岩波書店 2003年 ISBN 4000233807 団鬼六「落日の譜 雁金準一物語」筑摩書房(「ちくま」に連載、2001-2004、単行本2012) カテゴリ: 日本の囲碁棋士明治時代の人物大正時代の人物東京都出身の人物1879年生1959年没 --------------------------- 山号寺号 山号寺号(さんごうじごう)は、落語の演目の一つ。恵方詣り(えほうまいり)とも。 目次 [非表示] 1 概要 2 あらすじ 3 バリエーション 4 脚注 5 関連項目 概要[編集] 登場人物が言葉遊びを繰り広げる、非常に短い噺。この言葉遊びは、寄席の大喜利における古典的な出題としても知られる。 同様の言葉遊びは上方落語の初代露の五郎兵衛が1707年(宝永4年)に出版した笑話本『露休置土産』の「はやる物は山号寺号」や、『甲子夜話』にみられる。 あらすじ[編集] ある商家の若旦那が、なじみの幇間・一八と出会う。一八が「どこへ行くんですか」とたずねると、若旦那は「浅草の観音様だ」と答える。「ああ、金龍山浅草寺ですか」「俺が行くのは浅草だよ」「ですから、あそこは本当は金龍山浅草寺というんです。お寺には『なになに山なになに寺』という正しい呼び名があり、この山号と寺号を合わせた『山号寺号』というのが、どこにでもあります」 それを聞いた若旦那は「どんなところにも山号寺号があるんだな」と念を押して、「この場にもあるか。もしあったら金をたんとやる」と一八に迫る。 一八は頓智をきかせ、「あそこでおばさんが縁側を拭いてますね。『おかみさん拭きそうじ』」「乳母(おんば)さんが子供を抱いている。『乳母さん子を大事』」などと、次々に「山号寺号」を披露する(以下は一例。演者により異なる)。 看護婦さん赤十字 車屋さん広小路 自動車屋さんガレージ 時計屋さん今何時 肉屋さんソーセージ お医者さんイボ痔 清子さん水前寺 一八に所持金をほとんど巻き上げられてしまった若旦那は、「今度は私がやろう」と言うなり、金で満杯になった一八の財布を取り上げてふところに入れ、「一目散随徳寺(いちもくさん ずいとくじ)」と言って逃げる(「随徳寺」とは、「跡をずいとくらます」ことを意味する古い地口[1])。逃げられた一八は、 「南無三、し損じ」 バリエーション[編集] 若旦那が参拝する寺院を成田山新勝寺とする演じ方がある。 脚注[編集] ^ 『大辞林』第三版 関連項目[編集] 山号 寺号 ノックノック・ジョーク - 名前に対して名字を駄洒落で返す形式のジョークである。 カテゴリ: 落語の演目日本の言葉遊び山号 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 言語 リンクを追加 最終更新 2016年10月5日 (水) 23:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki