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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。

相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。

相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。

『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。

対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質


・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
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これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 中川亀三郎 中川 亀三郎(なかがわ かめさぶろう、1837年(天保8年) - 1903年(明治36年)10月13日)は、囲碁の棋士。江戸(東京)生まれ、本因坊丈和の三男で、幼名は葛野長三郎、本因坊秀和門下。明治になって幕府による家元制が崩壊した後、村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)らと最初の囲碁結社である方円社を設立し、秀甫没後は2代目方円社社長となる。八段準名人。 2代目中川亀三郎(石井千治の項で記述)と区別して初代中川亀三郎とも言う。 経歴[編集] 武蔵国・江戸上野車坂下に生まれる。長兄は水谷順策(後の十二世井上節山因碩)、姉の花子は本因坊秀策妻となる。姓の中川は叔父の家を相続したもの。11歳で本因坊秀和に入門。16歳で初段。安政4年の本因坊秀策の因島帰郷に同道。26歳で五段、29歳で六段。維新後の明治2年(1969年)、本因坊跡目秀悦、林秀栄(後の本因坊秀栄)、安井算英、小林鉄次郎、吉田半十郎らを自宅に招いて例会(六人会)を始める。明治6年(1873年)、小林鉄次郎と十番碁。明治9年(1876年)、林秀栄と十番碁。明治11年(1878年)、郵便報知新聞に初めて囲碁の棋譜として中川-高橋杵三郎戦が掲載される。 明治12年(1979年)4月、 秀甫、小林鉄次郎、高橋周徳らと研究会方円社を作り、副社長となる。秀和の死後は黙許七段とされていたが、明治14年(1881年)に方円社として正式に、秀甫の八段昇段とともに七段昇段。しかしこの後の対局で、秀甫に敗れて先二に打込まれる。ただし秀甫は2子局は打たなかったという。この年から置かれた方円社の常置指南役の一人を務める。明治16年(1883年)に方円社が段位制から級位制に移行した際には、秀甫の2級に次ぐ3級とされる。 明治19年(1886年)に本因坊秀栄が本因坊を秀甫に譲るが、同年秀甫が没し、秀栄との間で本因坊継承のための争碁を申し込まれたが、これを辞して2代目方円社社長となる。この後は後進の指導に尽力した。明治22年(1889年)、今井金江茂と十番碁。明治32年(1899年)に社長を引退し、巌崎健造が3代目社長となる。同年八段準名人に推される。この後に打った田村保寿(後の本因坊秀哉)との碁が絶局となった(田村先番2目勝)。 明治36年(1903年)死去。門下に雁金準一。内弟子でもあった雁金を娘婿に迎える意志があったというが、成らなかった。遺言により石井千次を中川家後継ぎとした。棋風は、若い頃は非力であったが、25、6歳頃から手の付けられない腕力家になり、秀策が乗り移ったとも、父丈和に似てきたとも言われた。 著作[編集] 『囲碁大鑑 (上)(下)』日昌館 1893年(小林鉄次郎、 巌埼健造と共著) 『囲碁段級人名録 』方円社 1894年 参考文献[編集] 瀬越憲作『囲碁百年』平凡社 1968年 藤井正義『明治・大正名棋家集1 (現代囲碁大系第1巻)』講談社 1981年 カテゴリ: 日本の囲碁棋士武蔵国の人物東京都出身の人物1837年生1903年没 ------------------------------------------ 中沢家の人々 『中沢家の人々』(なかざわけのひとびと)とは3代目三遊亭圓歌作の新作落語。圓歌(本名:中沢信夫)が、自分の落語家になるまでの道のりと落語家になってからの生活を語る「自伝的落語」。近年、圓歌は高座でこの噺を演じることが多い。エピソードの集合であるため、寄席やテレビ・ラジオで演じる時には短く演じることができるが、完全版は一時間以上あり、2005年にその完全版がCDとして出される。それには65分26秒収録されている(高座の生録音なので前後の観客の拍手も含まれる。)。 噺に登場するエピソード[編集] 元々吃音者であり、岩倉高校卒業後、国鉄「新大久保駅」に配属になって接客をしている時に上手く話せない事をコンプレックスに感じ、落語界に進むきっかけとなった。また、吃音矯正のために入門した二代目三遊亭円歌も実は吃音者であった。先代円歌、当代円歌共に吃音者と言う事を自身は「落語界七不思議の一つ」と言っている。 NHK出身で、後にフジテレビのアナウンサーになる小川宏は幼馴染み、昔三軒先住んでいた事がある。彼も実は吃音者であった。円歌は小川の真似をしてる内に本物の吃音者になってしまったと言う。 両親は圓歌が落語家になると言った際、父には息子であることを否定され家を追い出された。、父は男だから仕方ないが、母はこんな時止めそうだが止める所か「おまえを産んだ覚えはない」とタバコを吸いながら言われた…更に「おまえが親類にいるとみっともない」と言う理由で戸籍からも抹消したにもかかわらず圓歌が家を新築するや否や「同居する」と言いだした…これについては、本人は上記のことがあったにもかかわらず「一緒に住む」と言いた出したことに疑問を抱いている。「親は嘘つきだな」と言っている。 そして東京都千代田区六番町の自宅(作家有島武郎の旧家)に圓歌の両親、亡妻の両親、後妻の両親と6人も「年寄りが佃煮にする」ほどいた、未だに家には便所が6つあるらしい。 その自宅では毎朝、近所からけたたましい声が聞こえていた時期がある。何を言っているのか耳をそばだてると「ズーム・イン!」(自宅の近所に当時日本テレビ放送網の本社屋(現・麹町分室)があった)。 ある日の朝、母親たちが散歩に行くと大きなトラックにひかれそうになった。トラックの運転手から「まごまごしてっとひき殺すぞ!」と言われたところ、負けじと母親は「車が人をひく?笑わせるんじゃねぇ。昔は人が車を引いてたぞ!」と言い返した。これが、圓歌が落語家を一時休業するきっかけとなった。 圓歌が得度して僧侶になるため、身延山へ修行に入った際、心筋梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれた。いろんな人がいるが、寺から病院へ行った奴は自分だけだ。 そして意識不明の最中、マスコミから問い合わせの電話が来て「師匠のご病気は?」との質問に弟子の一人(小円歌とも)が、「近親相姦です」と答えた。 意識が戻り目を開けると、前述の母親が涙ながらに「代われるものなら代わってやりたい」と言っていた。あとから聞くと「そんなこと言った覚えはないねえ。」 母は、「親孝行してもらったから子孝行して死んで行くよ」と言うも円歌は、嘘を言っていると信じなかった。ある日の朝、弟子が起こしに来た時、布団の中で息を引き取っていた。病院の世話も排泄の世話も一切させず母の言った通り子孝行して逝ったとの事である。 「学校で先生が吃りって言いやがった」と父親に言い付けたが、「しょうがねぇ、本物(ほんもん)だもん」と言われる。 新大久保駅に配属されていた頃、とある事が原因で先輩に引っぱたかれた事があってよほど引っぱたかれた事が憎かったらしく、引っぱたいた先輩の名前を未だに覚えている。その先輩の息子が奇しくも講談師の一龍齋貞鳳だった。 高座に上がると今でも「歌奴!」と呼ばれるのはいいが、「山の穴(=「授業中」)やれ!」と言われるのは心外だ。あんな大昔の落語などとうの昔に忘れた。 カテゴリ: 落語の演目 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 言語 リンクを追加 最終更新 2017年5月11日 (木) 05:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki ---------------- 桂吉朝 桂 吉朝かつら きっちょう 桂 吉朝 結三柏は、桂米朝一門の定紋である。 本名 上田 浩久 (うえだ ひろひさ) 生年月日 1954年11月18日 没年月日 2005年11月8日(満50歳没) 出生地 日本の旗 日本・大阪府堺市 師匠 3代目桂米朝 出囃子 外記猿 活動期間 1974年 - 2005年 活動内容 上方落語、舞台芝居 所属 米朝事務所 主な作品 「弱法師」<百年目> 備考 上方落語協会会員(1974年 - 2005年) 表示 桂 吉朝(かつら きっちょう、1954年11月18日 - 2005年11月8日)は、大阪府堺市出身の落語家。本名は上田 浩久(うえだ ひろひさ)。出囃子は、『外記猿』。 目次 [非表示] 1 来歴 2 その他 3 受賞歴 4 弟子 5 CD・DVD 5.1 CD 5.1.1 「おとしばなし 『吉朝庵』」 (全5集) 5.1.2 「吉朝庵 形見噺」 5.1.3 上田康介『吉朝庵: 桂吉朝夢ばなし』[単行本] 5.2 DVD 5.2.1 「特選 吉朝庵」(現在第2集まで発売) 5.2.2 「平成紅梅亭 特選落語会」 5.2.3 「落語研究会 桂吉朝 全集」 5.3 DVD化・待機リスト 6 関連書籍 7 脚注 8 参考文献 9 関連項目 来歴[編集] 学生時代から『素人名人会』に出演、このころから3代目桂米之助の元に稽古に通った。大阪府立今宮工業高等学校卒業後、1974年1月に3代目桂米朝に弟子入り。桂千朝とは入門時期が近く、やや遅れて入門した桂米八とともに米朝宅で3年間住み込みの弟子となり、4畳間の部屋で3人暮らしの生活を送ることとなった[1]。米朝曰く、一番きっちりしていたのが千朝で、毎度のように遅れて寝起きしては怒られていたのが米八、そして掃除が終わったあとに食卓にいつの間にか座っているのが吉朝であった[1]。高校在学中から落研や素人落語で活動しており、この頃に3代目桂米之助から「東の旅・発端」などのネタをつけてもらっていたことから、弟子入り当初から高度な落語センスを持ち合わせており注目されていた。入門の際に吉朝の「東の旅・発端」を聞いた米朝は「これはもう教えることはない」と言って[2]「商売根問」の稽古をつけ、これが初高座のネタとなった。後に米朝は自身の芸を「枝雀には50教え、吉朝には100教えた」とインタビューで答えている。 「七段目」「蛸芝居」「質屋芝居」などといった芝居噺を得意とし、「地獄八景亡者戯」以外にも「百年目」「愛宕山」「高津の冨」「千両蜜柑」などの師匠米朝ゆずりの大ネタに、現代のセンスに合った「くすぐり」を加え独自の世界を切り開き米團治系の後継者と言われていた。また「河豚鍋」「天災」「化け物使い」などの他の一門の持ちネタも自らの持ちネタとし、おもしろさだけでなく、こなせるネタの幅広さは当代一と噂されていた。 若い頃から千朝、桂雀松(現:3代目桂文之助)らや講談師の旭堂南左衛門と勉強会を開催した他、落語だけにとどまらず中島らも、松尾貴史らと共に劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」の役者としても活躍。また狂言師13世茂山千五郎らとともに、狂言と落語をミックスさせた「落言」の公演を行う一方、文楽の桐竹勘十郎、豊竹英大夫らとも親交が深く、文楽と落語をコラボレーションさせた会を開催するなど、他ジャンルの芸能との交流も深かった。また千朝ら一門の兄弟弟子と組んで中田ダイマル・ラケット、宮川左近ショー、漫画トリオの物まねもやっていた。弟弟子の桂米左とともに日本のアニメーションの元祖とも言われる「錦影絵」を演じるなど新しい試みにも意欲的にであった。 その才能と実力から上方落語界の次世代を担うホープ、また米朝の後継者として期待されていたが、1999年に胃癌を患い、手術を受け一度復帰したものの、2004年10月になって胃癌を再発。その後治療を続けながら高座を務めていたが既に末期癌であった。 2005年10月27日に国立文楽劇場で行われた「米朝・吉朝の会」にて、師匠の米朝は、吉朝たっての希望で、近年高座にかけることが少なくなっていた「狸の賽」を口演。吉朝は、当初「河豚鍋」と「弱法師」の2席を予定していたが、楽屋では医師付き添いのもと酸素を吸入しながら45分以上をかけて「弱法師」を演じるのが精一杯で「ふぐ鍋」を演じることは出来ず、「劇場の前を偶然通りかかった」という雀松が「替り目」を代演して穴を埋めた。終演後しばらくは観客からの拍手が鳴り止まなかった。そして吉朝にとってはそれが生涯最後の高座となった。 それからわずか12日後の2005年11月8日に、兵庫県尼崎市内の病院にて吉朝は心不全のために死去[3]。50歳没。 直前まで吉朝が「米團治」を、3代目桂小米朝が「米朝」を襲名する話が進められていたが吉朝の死去により実現しなかった。後に小米朝が「5代目桂米團治」を襲名する事になる。 長男の上田康介は1983年生まれ。2007年ころからカメラマンとして活動[4]。 その他[編集] 同期には明石家さんまや島田紳助、桂小枝、オール阪神・巨人、関根勤などがいる。 受賞歴[編集] 1988年 「NHK新人演芸コンクール」優秀賞 1989年 「第7回咲くやこの花賞」(後に直弟子の吉弥、吉坊、佐ん吉も受賞) 1992年 「大阪府民劇場奨励賞」 1993年 「第56回国立演芸場花形演芸会」金賞 1994年 「第14回国立演芸場花形演芸会」大賞(上方芸人初) 2001年 「第30回上方お笑い大賞」、「芸術選奨新人賞」 2002年 「平成14年度兵庫県芸術奨励賞」 2005年12月 「第34回上方お笑い大賞」特別功労賞 弟子[編集] 弟子は他の枝雀・ざこば一門と異なり大師匠米朝宅での住み込みでの内弟子修行するのが恒例。 直弟子 桂あさ吉 桂吉弥 桂よね吉 桂しん吉 桂吉坊 桂佐ん吉 桂吉の丞 孫弟子 桂弥太郎(吉弥の弟子、吉朝死後の入門) 桂弥っこ(吉弥の弟子、吉朝死後の入門) CD・DVD[編集] CD[編集] 「おとしばなし 『吉朝庵』」 (全5集)[編集] タイトル 演目 収録年月日 収録会場 発売年月日 発売元 おとしばなし「吉朝庵」 その1 地獄八景亡者戯 1997年1月27日 和歌山県民文化会館小ホール 1997年4月16日 東芝EMI おとしばなし「吉朝庵」 その2 たちきり 1998年1月16日 大阪リサイタルホール 1998年4月22日 つる 1998年1月16日 大阪リサイタルホール おとしばなし「吉朝庵」 その3 住吉駕籠 1998年1月16日 大阪リサイタルホール 1999年10月14日 かぜうどん 1998年1月23日 堺市民会館小ホール おとしばなし「吉朝庵」 その4 愛宕山 2000年5月20日 大阪サンケイホール 2001年8月8日 七段目 2000年1月26日 大阪リサイタルホール おとしばなし「吉朝庵」 その5 質屋蔵 2000年5月20日 大阪サンケイホール 2001年8月8日 子ほめ 2000年5月20日 大阪サンケイホール 「吉朝庵 形見噺」[編集] 2005年12月21日の「桂吉朝を送る会」にて満中陰志として参列者に配られたもので、のちに限定1,000枚で制作された。番号は命日を入れた「KICHO 1108」。収録されている「弱法師」は最後の高座。 タイトル 演目 収録年月日 収録会場 発売年月日 発売元 吉朝庵 形見噺 そってん芝居 2004年10月8日 国立文楽劇場 2006年8月8日 東芝EMI 弱法師 2005年10月27日 国立文楽劇場 上田康介『吉朝庵: 桂吉朝夢ばなし』[単行本][編集] 『くっしゃみ講釈』『深山隠れ』の特典CD付き DVD[編集] 「特選 吉朝庵」(現在第2集まで発売)[編集] タイトル 演目 放送年月日 番組名 発売年月日 発売元 特選・吉朝庵第一集 天災 1997年10月16日 NHKあの顔この顔上方落語 2006年11月8日 東芝EMI 蛸芝居 1997年3月15日 YTV平成紅梅亭 タイトル 演目 放送年月日 番組名 発売年月日 発売元 特選・吉朝庵第二集 狐芝居 1996年10月3日 YTV平成紅梅亭 2007年10月24日 東芝EMI 愛宕山 1996年9月21日 YTV平成紅梅亭 「平成紅梅亭 特選落語会」[編集] タイトル 演目 放送年月日 番組名 発売年月日 発売元 「特選!噺家の会」 子ほめ 2003年5月3日 大阪サンケイホール 2004年11月17日 PONY CANYON 「落語研究会 桂吉朝 全集」[編集] DISC1 蛸芝居(’00)、たちきり(’96) DISC2 仔猫(’95)、はてなの茶碗(’97) DISC3 ふぐ鍋(’01)、どうらんの幸助(’99) DISC4 米揚げ笊(’01)、住吉駕籠(’98) DISC5 崇徳院(’93)、猫忠(’94) DISC6 高津の富(’98)、狐芝居(’00) DISC7 不動坊(’03)、質屋蔵(’97) DVD化・待機リスト[編集] 平成紅梅亭・桂 吉朝アーカイブ よみうりテレビ(YTV)では、深夜に「平成紅梅亭」というハイビジョン収録の、落語中心の寄席番組を95年より10年以上に渡って放映している。 人間国宝・桂 米朝もむろん折々には出演してはいるが、その第1回から第10回まで、桂 吉朝は連続出演しており、上方の古典落語の、将来へむけてのアーカイブ化をも見越した企画であるとともに、米朝から受け継いだ上方落語を自家薬籠中のものとした吉朝を売り出す意図が明らかに感じられた番組のスタートであった。実際、放送開始時の95年には、YTV主催の「上方お笑い大賞」金賞を受賞している。 事実、この放送以降、「凄い落語家がいる」という評判が深夜族から広がっていき、ディープな落語ファン以外にも、関西では吉朝は知る人ぞ知る存在となっていく(のち2001年に「上方お笑い大賞」大賞を受賞)。 TBS「落語特選会」やNHK、BS-i「BS落語研究会」など、他局にも吉朝落語の映像は残っているが、演目の網羅性という意味では、最もまとまったライブラリーがYTVの、この「平成紅梅亭」のものであり、すでにDVDされたものもあるが(備考およびDVDリスト参照)、東芝EMIには、たとえ限定版のボックスセットでもかまわないので、さらなる『特選・吉朝庵』の発売を、また、YTVには、せめて再放送を定期的に、と期待するファンの声は多い。 回数 演目 備考 放送年月日 第1回 七段目 1995年9月16日 第2回 ふぐ鍋 →第64回(2006年3月22日)で再放送 1995年11月11日 第3回 くしゃみ講釈 1996年1月13日 第4回 住吉駕篭 1996年3月09日 第5回 鷺とり 1996年5月11日 第6回 崇徳院 1996年7月13日 第7回 愛宕山 DVD『特選・吉朝庵』第2集に収録 1996年9月21日 第8回 狐芝居 DVD『特選・吉朝庵』第2集に収録 1996年11月19日 第9回 宿屋仇 1997年1月11日 かぜうどん 第10回 高津の富 1997年3月15日 蛸芝居 DVD『特選・吉朝庵』第1集に収録 第15回 昆陽の御池 1998年1月17日 第18回 蛇含草 1998年7月11日 第25回 遊山船 1999年9月11日 第29回 猫の忠信 2000年5月6日 第37回 質屋蔵 2001年9月8日 第41回 化物つかい 2002年5月8日 第47回 子ほめ DVD『特選!噺家の会』に収録 2003年5月23日 関連書籍[編集] 中島らも 『寝ずの番』 (解説:桂吉朝、講談社、文庫、2001年10月、ISBN 4-06-273279-3) 八木忠栄 『落語はライブで聴こう』 (「桂吉朝を聴く―『風うどん』『住吉駕籠』『元犬』『宿屋仇』『首提灯』」、新書館、2005年9月10日、ISBN 4403210864) 上田康介『吉朝庵: 桂吉朝夢ばなし』 季刊「en-taxi」2006冬号(特集「追悼:桂吉朝・上方落語の星への祈り」、扶桑社、2005年12月27日、ISBN 4-594-60426-9) 桂吉弥「桂吉朝とわたし」・中野晴行「栴檀は二葉より芳し」・松本尚久「清浄なる高座」を収録。 笑芸人 『落語ファン倶楽部2』 (特集「追悼:桂吉朝」、白夜書房、2006年4月10日、ISBN 4-86191-137-0) 小佐田定雄「吉朝の遺したもの」、茂山千五郎・豊竹英太夫・わかぎゑふ・桂吉朝一門「ありがとう吉朝師匠」、桂小米朝「米朝一門の若旦那が語る吉朝」、桂米朝「愛弟子、吉朝へ…」 脚注[編集] ^ a b #米朝 (2007) p.180 ^ 米朝は入門したての弟子には必ず「東の旅・発端」を教えていたことで知られており、吉朝に対する初稽古は異例のものだった。 ^ “桂吉朝さん死去…50歳、上方落語界のホープ力尽く”. 夕刊フジ. (2005年11月9日) 2016年5月11日閲覧。 ^ 吉朝庵 桂吉朝夢ばなし、上田康介・小佐田定雄、淡交社、2011年、ISBN 978-4-473-03767-1。 参考文献[編集] 桂米朝 『米朝よもやま噺』 朝日新聞社、2007年。ISBN 978-4-02-250361-9。 関連項目[編集] 落語家一覧 米朝一門 執筆の途中です この項目は、落語家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:舞台芸術/PJ芸能人)。 カテゴリ: 落語家堺市出身の人物1954年生2005年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 言語 リンクを追加 最終更新 2017年5月15日 (月) 09:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki