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ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 山下敬吾 山下敬吾 九段 名前 山下敬吾 生年月日 1978年9月6日(38歳) プロ入り年 1993年 出身地 北海道旭川市 所属 日本棋院東京本院 師匠 菊池康郎 段位 九段 概要 タイトル獲得合計 23 七大タイトル 棋聖 5期 (2003・06-09) 名人 2期 (2011-12) 本因坊 2期 (2010-11) 王座 2期 (2006-07) 天元 2期 (2004・09) 碁聖 1期 (2000) 十段 挑戦者 (2006-07・10) この表について[表示] 山下 敬吾(やました けいご、1978年9月6日 - )は、日本棋院所属のプロ棋士。北海道旭川市出身。緑星囲碁学園出身。棋聖、名人、本因坊などのタイトルを獲得。雅号は「道吾(どうわ)」。 張栩、羽根直樹、高尾紳路らとともに「若手四天王」「平成四天王」と称される。 3大タイトル獲得数歴代6位タイ、棋聖位獲得数歴代4位。棋道賞最優秀棋士賞を2度・優秀棋士賞を6度受賞。 目次 [非表示] 1 略歴 2 棋風 3 獲得タイトル 3.1 他棋戦優勝記録 4 表彰 5 雅号 6 人物 7 著書 8 年表 9 脚注 10 外部リンク 略歴[編集] 高校の数学教師の囲碁愛好家の父より、兄(1988年に少年少女囲碁大会小学生の部で優勝を経験・元院生)と共に囲碁を習い、碁会所などで腕を磨く。1986年 旭川市立東栄小学校2年時に少年少女囲碁大会小学生の部で歴代最年少記録で優勝し、小学生名人となる。(このときの決勝の相手はのちにプロでタイトル争いをすることとなる高尾紳路)。1987年 旭川市立日章小学校3年で、連覇を掛け少年少女囲碁大会に出場するが、黒滝正憲に敗れ準優勝に終わる。その12月に母、兄とともに上京してアマチュア強豪菊池康郎の主宰する緑星囲碁学園に入園する。 1988年 板橋区立高島第四小学校4年時、東京都代表として少年少女囲碁大会に出場し、初の兄弟決勝戦となるが(2010年度までその後一度もない)、兄に敗れ準優勝に終わる。。1989年に日本棋院院生。1993年 4月に入段。1997年 「週刊碁」1000号記念企画「十代棋士チャンピオン戦」で優勝。 1998年 六段に昇段。新人王戦優勝。以後、同大会に4期連続優勝。 2000年 新鋭トーナメント戦優勝。七段昇段。小林光一を3-2で破り第25期碁聖獲得(初タイトル)21歳11ヶ月での碁聖位獲得は最年少記録[1]。 2002年 棋聖戦リーグ入りし、B組で優勝し挑戦者決定戦で勝利。名人リーグ、本因坊リーグ入り。2003年 王立誠を4-1で破って第27期棋聖獲得。新昇段制度により、棋聖在位による九段昇段。名人戦挑戦。2004年 羽根直樹に3-4で敗れ棋聖位失冠。羽根を3-0で降し、第30期天元獲得。 2005年 第53期王座戦挑戦者、中環杯準決勝戦進出。第31期天元戦で河野臨に2-3で敗れ、タイトルを失う。 2006年 羽根直樹を4-0で破り第30期棋聖に復位。張栩を3-1で破って第54期王座獲得。初の二冠王に。天元戦挑戦権を獲得、河野に挑むが1-3で敗退。 2007年 小林覚の挑戦を4-0で退け第31期棋聖を防衛。タイトル防衛は初。11月、今村俊也の挑戦を3-1で退け、第55期王座を防衛。天元戦挑戦権を獲得、河野に挑むが1-3で敗退。 2008年 趙治勲の挑戦を4-3で退け第32期棋聖を防衛。棋聖3連覇を達成。張栩に1-3で敗れ、王座を陥落。10月 第1回ワールドマインドスポーツゲームズ囲碁男子団体戦に依田紀基、羽根直樹、河野臨、高尾紳路と日本代表チームを組み出場、銅メダルを獲得。日本棋院 第1回ワールドマインドスポーツゲームズ(WMSG) 2009年 依田の挑戦を4-2で退け、第33期棋聖を防衛、4連覇達成。天元戦にて張を3-2で破り、4年ぶりに天元を奪還。 2010年 第34期棋聖戦にて張栩に1-4で敗れ棋聖位を失冠。5連覇による名誉棋聖獲得はならなかった。第65期本因坊戦において、羽根直樹を4-1で破り、自身初となる本因坊位を奪取。第19期竜星戦にて優勝。全棋士参加の早碁棋戦での初タイトルとなる。第17期 阿含桐山杯優勝。 2011年 第66期本因坊戦において羽根直樹の挑戦を4-3で退け、本因坊位を初防衛。自身8年ぶりの名人挑戦となった第36期名人戦では井山裕太を4-2で破り、初の名人位を獲得すると共に史上7人目の名人・本因坊となった。棋聖戦4連覇・本因坊襲位などが評価され、小林光一に続く囲碁界では2人目の北海道民栄誉賞受賞。 2012年 井山裕太の挑戦を受けた第67期本因坊戦は3-4で敗れ失冠。3連覇はならなかった。第37期名人戦は羽根直樹を4-3で退け、名人位を初防衛。 2013年 第22期竜星戦で河野臨を下し優勝。三コウ無勝負打ち直しの末の勝利であった。第38期名人戦で井山裕太棋聖に4-1で敗れ、無冠となる。第38期棋聖戦で井山裕太棋聖に挑戦が決定。 2014年3月13日、第38期棋聖戦で井山裕太に4-2で敗れ、タイトル奪取には至らず。11月13日、第39期棋聖戦挑戦者決定戦で村川大介七段に勝利し2期連続で棋聖戦挑戦権を得る。 2015年、第39期棋聖戦で3連敗の後3連勝するが敗退。11月9日、900勝達成プロ入りから22年7カ月、37歳2カ月での到達は高尾紳路を抜て最年少記録。[2] 棋風[編集] 深い読みに裏打ちされた好戦的なスタイル。接近戦を得意とし、序盤は位の高い碁を志向する。 かつては初手天元、5の五など意欲的な手を打つことも多く、特に2000年の碁聖戦では、挑戦者決定トーナメントから挑戦手合五番勝負まで5の五を多用して注目を集めた。しかし、その後はトーナメント上位での対局が増え、そのような大胆な布石はあまり見られなくなった。 近年では、よりオーソドックスな布石で地に辛くなりつつある。 獲得タイトル[編集] 色付きは現在在位。 他の棋士との比較は、囲碁のタイトル在位者一覧 を参照。 タイトル 番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 棋聖 七番勝負 1-3月 第27期、第30~33期 10期 5期 (歴代4位) 4 (歴代3位タイ) 名人 七番勝負 9-11月 第36~37期 4期 2期 2 本因坊 七番勝負 5-7月 第65~66期 3期 2期 2 王座 五番勝負 10-12月 第54期、第55期 5期 2期 2 天元 五番勝負 10-12月 第30期、第35期 7期 2期 碁聖 五番勝負 6-8月 第25期 3期 1期 十段 五番勝負 3-4月 3期 登場回数合計33回、獲得合計14期=歴代9位タイ、 3大タイトル獲得数合計9期=歴代6位タイ 天元戦トーナメントに強く、2002年(第29期)以降では22連勝を含む34勝3敗(勝率92%)、5度の挑戦権獲得(挑決敗退1回)という圧倒的な成績を残している。 囲碁七大タイトル獲得記録 順位 獲得回数 棋士名 1位 42期 趙治勲* 2位 35期 小林光一* 3位 34期 井山裕太* 4位 31期 加藤正夫 5位 23期 張栩* 6位タイ 21期 坂田栄男 | 林海峰* 8位 17期 大竹英雄* 9位タイ 14期 藤沢秀行 | 山下敬吾* 表示 *は現役棋士 2016年天元戦終了時点 他棋戦優勝記録[編集] 新人王戦4連覇 (1998年 - 2001年) NEC俊英囲碁トーナメント戦 (第14期) 新鋭トーナメント戦 (第30期) 竜星戦 (第19期、第22期) 阿含桐山杯 (第17期) 表彰[編集] 1986年8月7日 旭川市栄誉をたたえて[3] 1998年 第32回旭川市新人奨励賞[4] 2000年10月27日 北海道栄誉をたたえて[5] 2003年3月22日 旭川市民栄誉賞[6] 2011年2月8日 北海道栄誉賞[7] 雅号[編集] 2010年8月20日、本因坊位初獲得の就位式において、雅号を「道吾」とすることを発表した。雅号の由来は、歴代本因坊の1人本因坊道策と、自身の出身地である北海道から「道」を取り[8]、本名の敬吾から「吾」の1文字を取って合わせたものである。 人物[編集] かつては、対局の際には「朝ご飯をしっかり食べるので、昼は食べなくても差し支えない」として、基本的に昼食を食べない主義であった。本人曰く「食べると頭が働かなくなる」うえに「対局中は食べる気にもなりません」とのこと[9]。タイトル戦では昼食に当地の名物料理が用意されるのが常だが、それすらも注文しないのが恒例。そのため対局中に昼食を食べると、それだけで囲碁界では「大事件」として話題になるほどだった[10]。対局中のおやつも日によっては注文せず、飲み物のみで済ませている[11]。ただ2015年の本因坊戦では普通に昼食を注文しており[12][13]、方針に変化が生じている。 なお「棋士は体が資本」ということで、食べること自体は好き。酒も20代前半の頃はよく飲んでいたが、結婚してからは「対局にプラスにならない」として全く飲まなくなった[9]。 2日制の碁の封じ手で封じる時は、戦いに持っていくような手、守りの手では無く、効かしの手を打つことが多い。 第33期棋聖戦第3局、第38期名人戦第2局は広島県尾道市で行われた。この地は本因坊秀策の故郷であり、対局前日に挑戦者と共に秀策記念館を見学している。翌日の対局ではいずれも小目を3隅先占する秀策流を目指している。名人戦挑戦者だった井山は秀策流を回避する打ち方をした。これについて井山は「僕にはそんな勇気はない」と答えた。 第67期本因坊戦第一局、井山裕太天元(黒)対山下道吾本因坊(この頃は「道吾」の雅号を名乗っていた)の対局で、左辺で激しい戦いが起こり、ニコニコ生放送で解説をした三村智保は「いろいろな進行が考えられるが、白(山下)が優勢」と語っていた。ところが137手目、井山が左辺ツギを打った所で山下が即投了した。ニコニコ生放送のコメントでは驚きの声が多く出て、三村も「ええっ…こんな事があるんですか?」と驚きの声を上げた。 著書[編集] 山下流攻めの突破力(2004年2月、日本棋院) 山下敬吾の「実戦」初段の手筋(2005年6月、成美堂出版) 山下敬吾 戦いのベクトル(2005年9月、毎日コミュニケーションズ) 山下敬吾の初段の実戦詰碁(2006年2月、成美堂出版) 至高の決断 依田、山下、井山の頭脳(2007年3月、毎日コミュニケーションズ) 世界一わかりやすい打碁シリーズ 山下敬吾の碁(2011年4月、毎日コミュニケーションズ) 基本手筋事典(2011年6月、日本棋院) 年表[編集] タイトル戦の欄の氏名は対戦相手。うち、色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)。青色は挑戦者または失冠。黄色はリーグ入り。 棋道賞は、最 : 最優秀棋士賞、 優 : 優秀棋士賞、 特別 : 特別賞、 率 : 勝率一位賞、 勝 : 最多勝利賞、 対 : 最多対局賞、 連 : 連勝賞、 国際 : 国際賞、 新人 : 新人賞、 哉 : 秀哉賞 賞金&対局料は、年度区切りではなく1月 - 12月の集計。単位は万円。色付きの年は全棋士中1位。 棋聖 十段 本因坊 碁聖 名人 王座 天元 棋道賞 賞金対局料 備考 棋聖戦 1-3月 十段戦 3-4月 本因坊戦 5-7月 碁聖戦 6-8月 名人戦 9-11月 王座戦 10-12月 天元戦 10-12月 1997年 率 多 新人 1998年 勝 多 1999年 本戦決勝進出 率 2177 (10位) 2000年 本戦決勝進出 小林光一 ooxxo 優 勝 多 2178 (8位) 2001年 3位 小林光一 xoxox 1866 (12位) 2002年 2位 3位 本戦決勝進出 2549 (11位) 2003年 王立誠 ooxoo 本戦決勝進出 3位 依田紀基 xxoxx 羽根直樹 oxxox 優 7787 (2位) 2004年 羽根直樹 xxxooox 陥落 4位 張栩 xxox 羽根直樹 ooo 優 多 5710 (3位) 2005年 1位 プレーオフ 張栩 xxx 河野臨 oxxox 2824 (6位) 2006年 羽根直樹 oooo 趙治勲 xxox 本戦決勝進出 2位 張栩 xooo 河野臨 xoxx 最 多 8224 (2位) 2007年 小林覚 oooo 趙治勲 xxoox 陥落 今村俊也 oxoo 河野臨 oxxx 優 7832 (2位) 2008年 趙治勲 oxooxxo 3位 張栩 oxxx 張栩 xxox 6064 (2位) 2009年 依田紀基 ooxxoo 3位 張栩 oxoxo 7049 (3位) 2010年 張栩 xxxox 張栩 xxx 羽根直樹 xoooo 本戦決勝進出 結城聡 xxx 優 勝 連 多 8617 (2位) 2011年 1位 羽根直樹 oooxxxo 井山裕太 oxooxo 最 8970 (2位) 2012年 2位 井山裕太 xxooxox 本戦決勝進出 羽根直樹 oxxooxo 優 5799 (3位) 2013年 2位 2位 井山裕太 oxxxx 本戦決勝進出 3063 (4位) 2014年 井山裕太 xxxoox プレーオフ プレーオフ 3077 (4位) 2015年 井山裕太 xxxooox 井山裕太 xxxox 井山裕太 xoxx プレーオフ 多 2016年 井山裕太 xxxx 脚注[編集] ^ 21歳の山下、最年少の碁聖に 初の公式タイトル ^ 山下敬吾九段 最年少900勝 ^ 旭川市「栄誉をたたえて表彰者一覧」 ^ 旭川市「旭川市新人奨励賞受賞者一覧」 ^ 北海道「栄誉をたたえて受賞者」 ^ 旭川市「こうほう旭川市民」平成15年5月号 ^ 北海道「栄誉賞受賞者」 ^ “就位式で山下本因坊 「道吾」の号を披露”. asahi.com(朝日新聞社) (2010年8月26日). 2012年1月21日閲覧。 ^ a b 今週の本棚:好きなもの=山下敬吾 - 毎日jp・2012年4月8日 ^ 囲碁名人戦七番勝負 第5局1日目ダイジェスト - 朝日新聞デジタル・2013年10月16日 ^ 囲碁名人戦7番勝負 第1局2日目 - 朝日新聞デジタル・2011年9月2日 ^ 本因坊戦:先番・山下で第70期開幕 - 毎日jp・2015年5月13日 ^ https://twitter.com/migodojo/status/603026706551558144 外部リンク[編集] 日本棋院の山下敬吾紹介ページ [表示] 表 話 編 歴 最優秀棋士賞 [表示] 表 話 編 歴 日本の現役囲碁棋士 [表示] 表 話 編 歴 第72期本因坊戦挑戦者決定リーグ(2016年秋 - 17年春) (第71期本因坊:本因坊文裕) [表示] 表 話 編 歴 第41期棋聖戦挑戦者決定リーグ(2016年5月-11月) (第40期棋聖:井山裕太) [表示] 表 話 編 歴 第42期名人戦挑戦者決定リーグ(2016年冬 - 17年夏)(第41期名人:高尾紳路) [表示] タイトル(6冠)14期 カテゴリ: 日本の囲碁棋士北海道出身の人物1978年生存命人物 --------------------- 四谷怪談 東海道四谷怪談 「神谷伊右エ門 於岩のばうこん」(歌川国芳) 『四ツ谷怪談』(月岡芳年『新形三十六怪撰』) 四谷怪談(よつやかいだん)とは、元禄時代に起きたとされる事件を基に創作された日本の怪談。江戸の雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)が舞台となっている。基本的なストーリーは「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語が有名である。怪談の定番とされ、折に触れて舞台化・映画化されているため、さまざまなバリエーションが存在する。 目次 [非表示] 1 於岩稲荷由来書上 2 四谷雑談集 2.1 あらすじ 3 『東海道四谷怪談』 3.1 初演時の趣向 3.2 あらすじ(東海道四谷怪談) 4 お岩のモデル 5 お岩稲荷 6 参考・関連文献 7 四谷怪談を描いた作品 7.1 四谷怪談をモチーフとした作品 8 脚注 9 関連項目 10 外部リンク 於岩稲荷由来書上[編集] 町年寄の孫右衛門と茂八郎という人物が文政10年(1827年)に幕府に提出した調査報告書。各町に古来から伝わっている逸話や地誌について報告するために書かれたもので、「文政町方書上」という書の中の「四谷町方書上」編の付録という形をとっている。(以下書上) 内容は貞享年間(1684年〜1688年)、四谷左門町に田宮伊右衛門(31歳)と妻のお岩(21歳)が住んでいて、伊右衛門は婿養子の身でありながら、上役の娘と重婚して子を儲けてしまった。その事を知ったお岩は発狂した後に失踪。その後、お岩の祟りによって伊右衛門の関係者が次々と死んでいき、最終的には18人が非業の最期を遂げた。田宮家滅亡後、元禄年間に田宮家跡地に市川直右衛門という人物が越し、その後正徳5年(1715年)に山浦甚平なる人物が越してきたところ、奇怪な事件がおきたので自らの菩提寺である妙行寺に稲荷を勧進して追善仏事を行ったところ怪異がやんだというのが、大方のあらましである。 問題は、書かれたのが鶴屋南北の東海道四谷怪談が上演された2年後の文政10年であるということ。南北の四谷怪談を元に作られた可能性もあるので早稲田大学の名誉教授である郡司正勝は「南北が自作を宣伝するために、袖の下を使って書かせたのではないか」と推測している。が、仔細に見当すると「書上」の内容が全て作り話であるというのも難しい[1] 四谷雑談集[編集] 葛飾北斎画『近世怪談霜夜星』 『四谷雑談集』(享保12年(1727年)の奥付)に、元禄時代に起きた事件として記され、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の原典とされた話。 江戸時代初期に勧請された稲荷神社の由来とは年代があわず、また田宮家は現在まで続いており、田宮家に伝わる話としてはお岩は貞女で夫婦仲も睦まじかったとある。このことから、田宮家ゆかりの女性の失踪事件が、怪談として改変されたのではないかという考察がある[2]。 また、岡本綺堂は、お岩稲荷について、下町の町人の語るところは怪談であり、山の手の武家の語るところは美談と分かれているので、事件が武家に関わることゆえに、都合の良い美談を武家がこしらえたのではないか、という考察をしている[3]。 南北の『東海道四谷怪談』以前に、この話を下敷きにした作品としては、曲亭馬琴『勧善常世物語』(文化3年(1806年))や柳亭種彦『近世怪談霜夜星』(文化5年(1808年))がある。 あらすじ[編集] 四谷在住の御先手鉄砲組同心の田宮又左衛門のひとり娘である岩は、容姿性格共に難があり中々婿を得ることができなかった。浪人の伊右衛門は、仲介人に半ば騙された形で田宮家に婿養子として岩を妻にする。田宮家に入った伊右衛門は、上司である与力の伊東喜兵衛の妾に惹かれ、また喜兵衛は妊娠した妾を伊右衛門に押し付けたいと思い、望みの一致したふたりは結託して、岩を騙すと田宮家から追う。騙されたことを知った岩は狂乱して失踪する。岩の失踪後、田宮家には不幸が続き断絶。その跡地では怪異が発生したことから於岩稲荷がたてられた。 『東海道四谷怪談』[編集] 『東海道四谷怪談』(とうかいどう よつやかいだん)は、鶴屋南北作の歌舞伎狂言。全5幕。文政8年(1825年)、江戸中村座で初演された。 南北の代表的な生世話狂言であり、怪談狂言(夏狂言)。『仮名手本忠臣蔵』の世界を用いた外伝という体裁で書かれ、前述のお岩伝説に、不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられた。 岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死ぬところ(二幕目・伊右衛門内の場)、岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ(三幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ(大詰・蛇山庵室の場)などが有名な場面となっている。 初演時の趣向[編集] 中村座における初演時は、時代物の『仮名手本忠臣蔵』と合わせて2日にわたって上演された。 1日目:『忠臣蔵』の六段目(勘平の腹切)まで →『四谷怪談』の三幕目(隠亡堀の場)まで 2日目:『忠臣蔵』の七段目(祇園一力の場)以降 →『四谷怪談』の三幕以降 →『忠臣蔵』の討入り 『忠臣蔵』と続けて演じると、塩冶義士・佐藤与茂七が伊右衛門を討ったあとに吉良邸の討ち入りに参加することになる。 再演以降は『四谷怪談』の部分が単独で上演されている。その場合、与茂七らの登場シーンは省略されたり書替えられたりすることが多い。 配役は以下の通り。 尾上菊五郎 - 岩 市川團十郎 - 伊右衛門 松本幸四郎 - 直助 岩井粂三郎 - お袖 岩の役柄は菊五郎の外孫・尾上菊五郎の時代に集大成され、以後音羽屋のお家芸のひとつとなった。 あらすじ(東海道四谷怪談)[編集] 元塩冶藩士、四谷左門の娘・岩は夫である伊右衛門の不行状を理由に実家に連れ戻されていた。伊右衛門は左門に岩との復縁を迫るが、過去の悪事(公金横領)を指摘され、辻斬りの仕業に見せかけ左門を殺害。同じ場所で、岩の妹・袖に横恋慕していた薬売り・直助は、袖の夫・佐藤与茂七(実は入れ替った別人)を殺害していた。ちょうどそこへ岩と袖がやってきて、左門と与茂七の死体を見つける。嘆く2人に伊右衛門と直助は仇を討ってやると言いくるめる。そして、伊右衛門と岩は復縁し、直助と袖は同居することになる。 田宮家に戻った岩は産後の肥立ちが悪く、病がちになったため、伊右衛門は岩を厭うようになる。高師直の家臣伊藤喜兵衛の孫・梅は伊右衛門に恋をし、喜兵衛も伊右衛門を婿に望む。高家への仕官を条件に承諾した伊右衛門は、按摩の宅悦を脅して岩と不義密通をはたらかせ、それを口実に離縁しようと画策する。喜兵衛から贈られた薬のために容貌が崩れた岩を見て脅えた宅悦は伊右衛門の計画を暴露する。岩は悶え苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって死ぬ。伊右衛門は家宝の薬を盗んだとがで捕らえていた小仏小平を惨殺。伊右衛門の手下は岩と小平の死体を戸板にくくりつけ、川に流す。 伊右衛門は伊藤家の婿に入るが、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害、逃亡する。 袖は宅悦に姉の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許すが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってくる。結果として不貞を働いた袖はあえて与茂七、直助二人の手にかかり死ぬ。袖の最後の言葉から、直助は袖が実の妹だったことを知り、自害する。 蛇山の庵室で伊右衛門は岩の幽霊と鼠に苦しめられて狂乱する。そこへ真相を知った与茂七が来て、舅と義姉の敵である伊右衛門を討つ。 お岩のモデル[編集] この項目は『新・トンデモ超常現象56の真相』に基づきます。 四谷(東京都新宿区左門町)に実在する「お岩稲荷」(於岩稲荷田宮神社)は、もともとは田宮家の屋敷社で、岩という女性が江戸時代初期に稲荷神社を勧請したことが由来といわれる。 岩の父、田宮又左衛門は徳川家康の入府とともに駿府から江戸に来た御家人であった。岩と、婿養子となった伊右衛門は仲のよい夫婦で、収入の乏しい生活を岩が奉公に出て支えていたという。岩が田宮神社を勧請したのち生活が上向いたと言われており、土地の住民の信仰の対象となった。……というのがあらましであるが、逆に恐ろしい「四谷怪談」がどこから生まれてきたのかが問題になる。 田宮家の菩提寺である妙行寺には田宮家の過去帳が残されており、田宮家2代目伊右衛門の妻で寛永13年2月22日(1636年3月29日に死亡した『得証院妙念日正大姉』という法名を贈られた女性がお岩だとされている。この考えは古く、書上においても文政8年(1825年)山浦甚平の子孫がお岩失踪の150回忌に近いので法名を贈ろうと思い、過去帳を調べてみたら既に『得証院妙念日正大姉』の法名が贈られていたという記述がある。逆算すると延宝4年(1676年))頃に事件が起きたことになるが、『得証院妙念日正大姉』が死んでから40年後に失踪したことになるので計算が合わない。また、寛永13年に死亡したとなると貞亨年間(1684年~1688年)に、お岩と伊右衛門が所帯をもった後に別れたという記述と合わなくなる。 一方、田宮家の家系は『考証 江戸八百八町』という書に紹介され、寺の過去張には初代から5代までの名が載っている。田宮家の家系は現代でも続いているが、ホラー漫画家の永久保貴一が寛永年間に2代目がいて、350年間も続いている田宮家が現在(1994年時)10代目までしかいない事に疑義を唱えている。[4]更に永久保は寺の過去張が5代目で終わっていることから[5]、実は田宮家は5代目で断絶しているのではないかと考え、妙行寺の住職に問い合わせてみたところ「入り婿が後妻をもらったので血筋が途絶えているといえば、途絶えている。1度は没落したが、檀家としては続いている」という返事が返ってきたそうである。 つまり、実際の田宮家は5代目で1度、途絶えており、その5代目田宮伊右衛門の妻か娘が『四谷怪談』のお岩のモデルであったと推測される。その彼女の身に起きた事件が四谷怪談のネタと思われるが今となっては分からない。 お岩稲荷[編集] 現在、四谷左門町には於岩稲荷田宮神社と於岩稲荷陽運寺が、道を挟んで両側にある。また、中央区新川にも於岩稲荷田宮神社がある。 四谷の於岩稲荷田宮神社(田宮家跡地)は明治12年(1879年)の火災によって焼失して中央区新川に移った。新川の於岩稲荷田宮神社は戦災で焼失したが戦後再建され、また四谷の旧地にも再興された。また、陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院であるが、境内に「お岩さま縁の井戸」がある[6]。元々は於岩稲荷田宮神社が中央区新川に移転した際、地元の名物が無くなって困った地元の有志が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げ、この時、本部に祀ったお岩尊という小祠が大きくなったのが陽雲寺の成り立ちである。お岩稲荷が複数もできる要因としては単純に儲かるから。歌舞伎俳優は元より、お岩の浮気に対して見せた怨念から、男の浮気封じに効くとして花柳界からの信仰を集めたため、賽銭の他に土産物などで地元経済が潤ったからである。このため、東京日々新聞や東京曙新聞といった明治期の新聞には小川某なる人物が何度ももう一つのお岩稲荷を作ろうと画策したことが、記事として残されている。(新・トンデモ超常現象56の真相) なお、お岩の「お墓」が、巣鴨の妙行寺(明治時代に四谷から移転)にある。恐らくは2代目田宮伊右衛門の妻の墓だろうと推測される。[7] 於岩稲荷田宮神社1.jpg 於岩稲荷田宮神社2.jpg 於岩稲荷田宮神社3.jpg 於岩稲荷田宮神社4.jpg 参考・関連文献[編集] 河竹繁俊 編『近世実録全書 第4巻』早稲田大学出版部、昭和3年(1928年)。 高田衛 編『日本怪談集 江戸編』河出書房新社、平成11年(1992年)。ISBN 4309403425 『田宮神社由来記』於岩稲荷田宮神社。 皆神龍太郎・志水一夫・加門正一著『新・トンデモ超常現象56の真相』太田出版。 四谷怪談を描いた作品[編集] 葛飾北斎『百物語』提灯お化けのお岩さん 落語 三遊亭圓朝『四谷怪談』創作落語。 伊右衛門の見た幽霊は、アルコール依存症による幻覚であるという解釈が加わっている。 絵画 歌川豊国『東海道四谷怪談』国立劇場蔵。 歌川国貞『当三升四谷聞書』(まねてますよつやのききがき)、早稲田大学演劇博物館蔵。 葛飾北斎『近世怪談霜夜星』挿絵。 落合芳幾『東海道四谷怪談』神戸市立博物館蔵。 吉川観方『朝露、夕霧』福岡市美術館蔵。 歌川豊斎 『按摩宅悦 尾上松助』 小説 京極夏彦『嗤う伊右衛門』(1997年) 映画作品(戦後) 『新釈四谷怪談(前・後篇)』(昭和24年(1949年)松竹、監督:木下惠介、伊右衛門:上原謙、お岩:田中絹代) 『四谷怪談』(昭和31年(1956年)新東宝、監督:毛利正樹、伊右衛門:若山富三郎、お岩:相馬千恵子) 『四谷怪談』(昭和34年(1959年)大映、監督:三隅研次、伊右衛門:長谷川一夫、お岩:中田康子) 『東海道四谷怪談』(昭和34年(1959年)新東宝、監督:中川信夫、伊右衛門:天知茂、お岩:若杉嘉津子) 『怪談お岩の亡霊』(昭和36年(1961年)東映、監督:加藤泰、伊右衛門:若山富三郎、お岩:藤代佳子) 『四谷怪談』(昭和40年(1965年)東京映画、監督:豊田四郎、伊右衛門:仲代達矢、お岩:岡田茉莉子) 『四谷怪談 お岩の亡霊』(昭和44年(1969年)大映、監督:森一生、伊右衛門:佐藤慶、お岩:稲野和子) 『魔性の夏 四谷怪談より』(昭和56年(1981年)松竹、監督:蜷川幸雄、伊右衛門:萩原健一、お岩:関根恵子) 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(平成6年(1994年)松竹、監督:深作欣二、伊右衛門:佐藤浩市、お岩:高岡早紀) 『嗤う伊右衛門』(平成16年(2004年)東宝配給、原作:京極夏彦、監督:蜷川幸雄、伊右衛門:唐沢寿明、お岩:小雪) テレビドラマ作品 『怪奇ロマン劇場・四谷怪談前編 後編』(昭和44年(1969年)8月23日 - 30日、NET、田村高廣、長門裕之) 『日本怪談劇場 四谷怪談 稲妻の章・水草の章』(昭和45年(1970年)8月8日 - 8月15日、東京12チャンネル、田村高廣、嵯峨京子) 『妻そして女シリーズ・四谷怪談』(平成3年(1991年)7月29日 - 8月9日、毎日放送、磯部勉、吉沢京子) 『怪談百物語・四谷怪談』(平成14年(2002年)8月13日、フジテレビ、お岩:菅野美穂) 『日本史サスペンス劇場・四谷怪談の真実』(平成20年(2008年)4月16日、日本テレビ、伊右衛門:金子昇、お岩:須藤温子) 漫画作品 つのだじろう『恐怖新聞』(昭和48年(1973年) - 昭和51年(1976年) 週刊少年チャンピオン)「黒の頁 真説四谷怪談」 アニメ作品 アニメ版 東海道・四谷怪談(昭和56年(1981年)監督:澤田隆治、大塚康生、語り:一龍斎貞水) 日野日出志 東海道 四谷怪談(平成12年 2000年)監督:平野秀昭、絵:日野日出志、声:伊右衛門(京本政樹)、お岩(戸川京子) 怪 〜ayakashi〜「四谷怪談」(平成18年(2006年)監督:今沢哲男、声:伊右衛門(平田広明)、お岩(小山茉美) 音楽 『合唱のためのディスカバー・ニッポン<第一集>「東海道四谷怪談」』(平成23年(2011年)作曲:千原英喜) 四谷怪談をモチーフとした作品[編集] 映画作品 『新怪談色慾外道 お岩の怨霊四谷怪談』(昭和51年(1976年)大蔵映画、監督:小川卓寛、主演:南ゆき) 『喰女-クイメ-』(2014年)東映、監督:三池崇史、主演:市川海老蔵 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994年)松竹、監督:深作欣二、主演:佐藤浩市 舞台 岩波ホール演劇シリーズ『東海道四谷怪談』(昭和51年(1976年)岩波ホール) 四谷於岩稲荷田宮神社勧進奉納舞台『なぞらえ屋 〜奇巡四谷怪談〜』(平成21年(2009年)9月18日 - 20日、築地本願寺ブディストホールにて公演。La Moon主催、原作・脚本:有里紅良、演出:石山英憲(Theatre劇団子)トータルデザイナー:夢来鳥ねむ) 田宮神社の禰宜よりの依頼により勧進奉納舞台とする事を目的に製作された作品。四谷怪談の伝承が、そのまま現代人を縛る「轍(てつ。作内用語で人の行動に影響を与える思い込みや反射条件の事)という楔」となる可能性を示唆する内容となっている。 漫画作品 かわぐちかいじ 『アクター』(1984年 - 1988年。モーニング) 作中映画「四谷怪談 お梅の恋」の撮影が進む中で、「四谷怪談」に描かれた人間模様に、出演者たちやスタッフが影響を受けながらも、物語を侵食していく勢いの主要人物たちの俳優や映画人としての激しい生き様の描写が、後半部の大筋を成している。 落語 『足あがり』 上方落語。「蛇山庵室の場」がモチーフとなる芝居噺。 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 新・トンデモ超常現象56の真相/皆神龍太郎・志水一夫・加門正一/太田出版 ^ 小池壮彦「お岩」『幽霊の本』学研、平成11年(1999年)。 ^ 岡本綺堂 著、岸井良衞 編『江戸に就いての話(新装版)』青蛙房、平成22年(2010年)。 ^ 例を上げれば、寛永3年(1626年)創業の老舗藤村が16代目、元和元年創業(1615年)の柳屋が18代目、寛永年間創業の壺屋が17代目といった具合で、比較すると田宮家の10代というのは余りにも代数が少なすぎる。 ^ 別の系図では現代まで続く系図が形成されているが、6代目だけは「田宮氏」だけで名が伝わっていない。 ^ 陽運寺公式サイト[1] ^ 書上では発狂の後に失踪とあるので墓の建てようがなく、三田村鳶魚は「供養塔なら不審もないが、墓所なのだからお話にならぬ」と切って捨てている。また、妙行寺は赤坂・四谷と転々としており、お岩の墓も巣鴨から移ってきたが、墓の中には遺骨もなにも入ってなかったといわれている。(新・トンデモ超常現象56の真相) 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、四谷怪談に関連するカテゴリがあります。 提灯お岩 妙行寺 (豊島区)(お岩の墓がある) 外部リンク[編集] 田中貢太郎「南北の東海道四谷怪談」(青空文庫) 田中貢太郎「四谷怪談」(青空文庫) 東海道四谷怪談(歌舞伎 on the web) 歌舞伎・鶴屋南北(文化デジタルライブラリー) - 日本芸術文化振興会のページ 東海道四谷怪談に関するカテゴリ: 歌舞伎の演目 | 四谷怪談を題材とした作品 | 19世紀の戯曲 | 鶴屋南北 カテゴリ: 四谷怪談を題材とした作品怪談に関する文献落語の演目赤穂事件を題材にした歌舞伎と人形浄瑠璃江戸時代の文学作品江戸を舞台とした作品豊島区を舞台とした作品新宿区の歴史四谷四谷怪談を題材とした映画作品1956年の映画1959年の映画1965年の映画豊田四郎の監督映画1969年の映画森一生の監督映画 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 العربية English Español Français 한국어 Русский 中文 他 3 リンクを編集 最終更新 2017年5月9日 (火) 13:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki