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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
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実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
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これらを鑑みると、
3:幽玄の間
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だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --- 相掛かり 将棋 > 将棋の戦法一覧 > 相掛かり 相掛かり(あいがかり)は、将棋の戦法の一つ。江戸時代から存在する相居飛車の定跡である[1]。英語名称はDouble Wing Attack。 お互いに角道を開けないまま、飛車先の歩を伸ばしていき、まず先手が歩を交換する。その後▲2六飛と引いて後手の歩交換を阻むか、▲2八飛と深く引く。ここから飛車を左翼に展開するひねり飛車(▲2六飛型の場合)や、右銀を活用しての棒銀、もしくは腰掛け銀などのさまざまな変化があり、先手、後手ともに手が広く構想力が問われる。互いの持ち歩を生かした急戦から、囲い合う持久戦まで多様である。 目次 [非表示] 1 戦法の概要 1.1 ▲2六飛型(浮き飛車) 1.2 ▲2八飛型(引き飛車) 2 相掛かりの諸戦法 3 囲い 4 出典 戦法の概要[編集] まず▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩と飛車先の歩を伸ばしあい、▲7八金△3二金とお互いに角頭を守ってから(角頭を守らずに▲2四歩(△8六歩)と先攻すると不利を招く)、▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩の歩交換が一連の運びである。この後▲2六飛と浮き飛車に構えるか、▲2八飛ともとの位置に戻るかによって戦法は二分される[2]。 △後手 持ち駒 なし Shogi zhor 22.png 91 81 71 61 51 41 31 21 11 92 82 72 62 52 42 32 22 12 93 83 73 63 53 43 33 23 13 94 84 74 64 54 44 34 24 14 95 85 75 65 55 45 35 25 15 96 86 76 66 56 46 36 26 16 97 87 77 67 57 47 37 27 17 98 88 78 68 58 48 38 28 18 99 89 79 69 59 49 39 29 19 Shogi zver 22.png ▲先手 持ち駒 歩 10手目△2三歩まで 初手▲2六歩に対し△3四歩と突いた場合は、横歩取りや振り飛車などの将棋になり、相掛かりにはならない(ただし横歩取り模様から先手が横歩を取らずに飛車を引く変化はある)。先手が3手目で▲7六歩とした場合は、角換わりの手順に合流する。 棋士の公式戦では1985年度(昭和60年)▲2六飛型は340局指され、同年度の矢倉の290局と並び花形戦法であった。ただし、先手が167勝173敗、勝率49.1%と負け越している。平成10年代(1998年 -)には▲2六飛型は勝率が低いということで廃れてしまい、2009年度(平成21年)はわずか20局、それも先手の5勝15敗、勝率25.0%となってしまった[3]。 現在主流の▲2八飛型は同じく2009年度に97局指され、先手の55勝42敗、勝率56.7%となっている[3]。 かつて流行した▲2六飛型に対する2010年時点での棋士の見解は次のとおり[3]。 羽生善治 - どの変化を選ばれても後手から見て怖い気がしないが、これで先手が悪いはずはない。 佐藤康光 - 自身もあまり勝っていないが、それは指し方が悪いだけで、先手が主導権を握りやすい形であり神様同士で指せば先手が5割以上勝つ。 森内俊之 - 初形より不利になっているとは思えない。相掛かりで先手が激しく動く将棋が減ってきているので勝率が上がっていないが、いずれ見直される可能性がある。 谷川浩司 - 腰掛け銀は▲2六飛型がマイナスになる可能性があるが、中原流の早繰り銀はそれなりに有力。 渡辺明 - 後手の守備力が高いので主導権を握りにくい。腰掛け銀は受け身、ひねり飛車は玉形の差が大きいので勝率が悪い。 藤井猛 - 相振り飛車で似た局面があるが、4段目の飛車は当たりが強く意外に使いにくい。先手が初形のリードを失っている可能性もある。 ▲2六飛型(浮き飛車)[編集] 飛車の横利きによって後手の歩交換を阻む。以下▲3六歩 - ▲3七銀として右銀を繰り出す中原流相掛かり、▲3六歩 - ▲3七桂から速攻をかける▲3七桂戦法、△3四歩を突いたときに▲3六飛とまわり(△3四歩を突かなくてもまわる場合がある)、さらに左翼に飛車を転換し石田流本組から強襲する縦歩取り(ひねり飛車)、腰掛け銀(駅馬車定跡など)、2筋に再度歩を打ち付けて端攻めと△6四歩を狙う超急戦塚田スペシャルなどがある。いずれにしろ先手が角道を開けた際に後手には飛車先を交換する機会が与えられ、後手も飛車を△8四飛または△8二飛と引く選択肢があるが、多くの場合防御力を重視し△8二飛と引き飛車に構える。 ▲2八飛型(引き飛車)[編集] ▲2六飛に比べると飛車の安定性はあるものの、早い段階で後手に歩交換を与えてしまう。しかし飛車の安定性を生かした棒銀などの戦法があり、先手の勝率が高く、現在では▲2六飛型よりも主流となっている。▲3八銀 - ▲2七銀 - ▲3六銀 - ▲4五銀といった棒銀模様から後手の駒組を牽制し、腰掛け銀に戻すことが多い(下段飛車棒銀、UFO銀などとも言う)。対する後手は先手の棒銀からの速攻を飛車の横利きで受けるため、△8四飛と浮き飛車に構えることが多い。 相掛かりの諸戦法[編集] 塚田スペシャル 塚田泰明が考案した超急戦。塚田はこの戦法によって公式戦22連勝を遂げた。 ひねり飛車 相掛かりから飛車を左翼へ振る戦法。升田幸三らが定跡を整備した。 相掛かり腰掛け銀 相掛かりにおける腰掛け銀。 相掛かり棒銀 飛車先の歩を交換してから開始する棒銀。 鎖鎌銀 腰掛け銀模様から▲5六銀ではなく▲3六銀と出る。 中原飛車 中原囲いに組み、▲5六飛と中央に飛車を振る。 中原流相掛かり ▲3八銀型で▲3五歩と仕掛け、歩を突き捨ててから▲3七銀〜▲4六銀と進出する。 UFO銀 ▲2八飛型で▲2七銀〜▲3六銀と出る。 囲い[編集] 先手は中住まいが主流で、中原流相掛かりとの相性がよい。腰掛け銀には▲6八玉型(△4二玉型)も主流で、中原流相掛かりの後手もこの形が多い。機をみて▲6八玉(△4二玉)〜▲6六角(△4四角)〜▲7七玉(△3三玉)〜▲8八玉(△3三玉)と堅くする場合もある。腰掛け銀に5筋の歩を突いて対抗する場合は▲6九玉(△4一玉)が多いが、銀が壁になっているので、カニ囲いにするなどして解消し、矢倉に発展する場合もある。持久戦では後手は銀冠を用いることも多い。また中原囲いも古くからある。飛車先を交換しており、角がにらみあっているために、持久戦になることは少なく中住まい対△4二玉型のまま戦いになることが多い。 出典[編集] ^ 古くは大橋柳雪 (ca. 1800) の『平手相懸定跡奥義』に見られるように、序盤で飛車先の歩を伸ばしあう形を一般に「相懸り」と呼び、横歩取り、角換わりなどの定跡も相掛かりの一種に分類されていた。 ^ 昭和初期は▲2八飛型しかなかったが、その後▲2六飛型が爆発的に流行し、現在は棒銀により▲2八飛型が見直されている。かつては▲2八飛型が珍しかったため「▲2八飛車引き戦法」などと称することもあったが、今日ではあえてそのように呼ばれることは少ない。 ^ a b c 鈴木 宏彦、2010、『イメージと読みの将棋観』2、 日本将棋連盟 --- ハマ 曖昧さ回避 この項目では、囲碁用語のハマについて説明しています。横浜については「横浜」を、シリアの都市については「ハマー (都市)」を、その他の"ハマ"については「浜」をご覧ください。 ハマ、アゲハマは、囲碁の用語のひとつ。囲碁では対戦中に盤上の相手の石の幾つかを取り上げることがあり、日本ルールに於いてはその取り上げた石をハマもしくはアゲハマと呼ぶ。後で数がわかるように手元に置いておかなければならず、通常碁笥の蓋を裏返して、ハマを乗せておく。 終局後、盤上の死んだ石もハマに加えられ、ハマと盤上の地の広さの合計が、白黒の対局者の総得点となる。整地では分かりやすいように、自分が取ったハマで相手の地を埋める(つまりハマが多いほど、相手の地が減る)。 このようにハマを取っておくのは、日本ルールの中に於いてのことである。中国ルールでは、取った石を、取った直後に相手の碁笥へ返却する。これは中国ルールでの計算の仕方が日本とは違い、領地内の空点のみを数えるのではなく、空点及び自分の石の数を数える為である。例えば200手で終局したとして、黒が10個の白石をアゲハマとして取った場合には、黒100個、白90個の石が盤上にあるはずである。この場合、ハマの10個を数えるのが日本流であり、盤上の90個を数えるのが中国流と言うことになる。 --- アタリ (囲碁) アタリは、囲碁用語の一つ。相手の石を完全に囲んで取る一歩手前の状態のこと。次に相手が逃げ出さなければ石を取られることになる。アタリの状態にすることを「アタリをかける」「アテる」などといい、アタリをかける手のことをアテと呼ぶ。 目次 [非表示] 1 概要 2 様々なアタリ 3 両アタリ 4 格言 5 関連項目 概要[編集] この形から黒がaかbに打った場合、白が次に何もしなければ白石は取られてしまう。つまり黒がaかbに打てば「アタリ」の状態になる。 次に黒がaと打てば中央の白石を取れる。白は取られないためにはaの点に打って逃げる必要がある。 様々なアタリ[編集] 図の白石はいずれも次にaに打たれると取られるため、「アタリ」の形である。 両アタリ[編集] 2箇所が同時にアタリになる状態を両アタリ(りょうあたり)と呼ぶ。 上図において、白が1に打った事によって二つの黒石が同時にアタリになっている。 黒は両方同時には逃げることはできないので、少なくとも一方の石を諦めないといけない。 格言[編集] アタリアタリのヘボ碁かな……あまり安易にアタリを連打しても、相手を強化させるなどよい結果をもたらさないことも多い。アタリの権利は保留し、その利き筋を見ながら打ち進めるのが、多くの場合得策であるという意味。 関連項目[編集] シチョウ ゲタ コウ オイオトシ アタリ (企業) - 本用語から取った。 --- 厚み (囲碁) 囲碁における厚みとは盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である。「厚味」とも表記する。 「厚み」は「薄み」に対する対義語である。囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手に攻撃される可能性を持っている状態を指す。 これに対して強力な「厚み」は相手からの攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。 目次 [非表示] 1 概要 2 厚みを囲うな 3 関連・類似用語 4 参考図書 概要[編集] 「厚み」を誰もが納得する形で定義することは難しく、打ち手によって解釈は異なる。一つの定義として、横田茂昭は、厚みを「高さ」と「根拠」で計る考えを述べている[1]。ある程度「高さ」がある石は攻められにくく、相手の石を攻める際に武器として働く。また、眼型がはっきりある石は決して死なないので、周りにある相手の石の攻撃拠点となりうる。 これは黒の星に対して白が三々入りしたときの定石の一形である。このワカレ(進行)で白は隅に10目ほどの地を得、それと交換に黒は厚みを得た。この黒石は十分な「高さ」があり、白石がいくつか周辺に近づいてきてもある程度眼型を得やすく、攻められにくい。このため、相手に対する脅威となりうる強力な「厚み」といえる。 例えば白が厚みの近くに1などと打ってきたら、背後から黒2と迫り、以下白が実質のない手を打って中央に逃げる間に、黒は2,4,6などと打って左下の模様を拡大することができる。右下の厚みは強力であり、白石が周囲に増えても攻撃を受ける心配はない。これが厚みの効果である。 右上は小目定石の一つ。黒の一団は中央に向けた「高さ」はそれほどないが、眼型は完全であり、白にいくら周辺を包囲されても全く動揺しない極めて堅い石である。このため、周辺で戦いが起きた時には強力な援軍となる。例えば白1などと近づいてきたら黒2と打ち込み、強硬に戦うことができる。白3,5などと石が加わっても、右上一団には何の心配もないため黒4,6などと打って利得を得ることができる。 厚みを囲うな[編集] 囲碁の格言に「厚みに近寄るな」「厚みを囲うなかれ」があり、厚みの近くに打つことを戒めている。例えば上図の場合、黒1と厚みに近い側からツメるのはよくない。せっかくの強力な厚みの周囲に数目の地を作るだけであり、効果が薄い。白2とヒラかれ、安心されてしまう。 この場合黒1と左側からツメて、白2と窮屈なヒラキを強いて黒3,5などと攻めかかる方がよいとされる。白は右方の厚みのためなかなか安定できず、攻めている間に黒は左辺に大きな模様を築くことができる。 関連・類似用語[編集] 形容詞として「厚い」という言葉が使われる。上述のような、連絡がしっかりしていて眼型の心配がない強い石を「厚い石」と表現する。また、すぐに相手から厳しい手があるわけではないが、一手かけて完全に心配をなくしておくような手・本手を「厚い手」と表現することがある。また弱い石を作らず、確実に自分の石を固めて攻めを狙う棋風を「厚い碁」と呼ぶ。また形勢を表現する際にも使われることがある。黒がわずかに優勢である場合、「黒の厚い半目勝負」など。 厚みと似た概念に模様・勢力があるが、全く同じではない。 参考図書[編集] ^ NHK囲碁講座テキスト2009年10月号 『厚みの百科 よくわかる模様と勢力』日本棋院 『厚みの活用 これだけは (囲碁ブックス)』 誠文堂新光社 2009年 --- アタリ (囲碁) アタリは、囲碁用語の一つ。相手の石を完全に囲んで取る一歩手前の状態のこと。次に相手が逃げ出さなければ石を取られることになる。アタリの状態にすることを「アタリをかける」「アテる」などといい、アタリをかける手のことをアテと呼ぶ。 目次 [非表示] 1 概要 2 様々なアタリ 3 両アタリ 4 格言 5 関連項目 概要[編集] この形から黒がaかbに打った場合、白が次に何もしなければ白石は取られてしまう。つまり黒がaかbに打てば「アタリ」の状態になる。 次に黒がaと打てば中央の白石を取れる。白は取られないためにはaの点に打って逃げる必要がある。 様々なアタリ[編集] 図の白石はいずれも次にaに打たれると取られるため、「アタリ」の形である。 両アタリ[編集] 2箇所が同時にアタリになる状態を両アタリ(りょうあたり)と呼ぶ。 上図において、白が1に打った事によって二つの黒石が同時にアタリになっている。 黒は両方同時には逃げることはできないので、少なくとも一方の石を諦めないといけない。 格言[編集] アタリアタリのヘボ碁かな……あまり安易にアタリを連打しても、相手を強化させるなどよい結果をもたらさないことも多い。アタリの権利は保留し、その利き筋を見ながら打ち進めるのが、多くの場合得策であるという意味。 --- アテコミ アテコミは囲碁用語のひとつ。相手の石が斜めに並んでいる(コスんだ形)とき、その両方に接触させるように打って次の切断を狙う手のこと。動詞では「アテコむ」となる。「ガチャン」とも。下図黒1がアテコミの例で、次にaの点にキリを狙う。 目次 [非表示] 1 アテコミの例 2 関連用語 2.1 アテツケ 2.2 サシコミ アテコミの例[編集] 黒1のアテコミで左右が連絡する。白aなら黒bでワタリ、白bなら黒aでこの石を取れる。 関連用語[編集] アテコミに似た手段で、アテツケやサシコミがある。 アテツケ[編集] 黒1がアテツケ。アテコミと類似するが、自分の石から離れた場所に単独で打つニュアンスの言葉。これにより、種石である△白2子が落ちる。 黒1が最も得なヨセ方。AとBが見合いで、連絡している。 サシコミ[編集] 黒1のように、三方を相手の石が囲んでいるところに入っていく手を「サシコミ」と称する。--- --- 荒らし (囲碁) 荒らし(あらし)とは、囲碁の対局の中で、相手の地になりかかっている場所(模様)に侵入し、地になることを防ぐ手段のこと。多くの場合、深々と侵入して敵陣を蹂躙するイメージの手を指す。 荒らしの例[編集] 上図のように、黒陣に白1と打ち込み以下9までと運べば、黒模様であった場所が白地に変わってしまい、荒らし成功となる。 なお、相手が模様を張ってきた場合、「多少囲わせても最終的には勝てる」と判断するのであれば、模様の境界線付近に打って規模を削減するような打ち方もある。これは、「荒らし」ではなく消し(けし)と呼ばれる。 参考図書[編集] 石田芳夫『模様の荒らし方 集中講義 ~すぐに役立つ11の法則~』 (マイコミ囲碁ブックス)2007年--- --- 神武天皇 この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字が含まれています(詳細)。 神武天皇 月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。 明治時代初期の版画。 初代天皇 在位期間 神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日 次代 綏靖天皇 誕生 庚午年1月1日 崩御 神武天皇76年3月11日 127歳 陵所 畝傍山東北陵 諱 彦火火出見 別称 神日本磐余彦天皇(紀) 神倭伊波礼毘古命(記) 称号 狭野尊 父親 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊 母親 玉依姫命 皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(紀) 富登多多良伊須須岐比売命/比売多多良伊須気余理比売(記) 子女 手研耳命 岐須美美命 日子八井命 神八井耳命 神渟名川耳尊(綏靖天皇) 皇居 橿原宮 テンプレートを表示 神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日[1][2])は、日本の初代天皇とされる神話・伝説上の人物[3](在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日[1][2])。 和風諡号は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命」。また幼名は「狭野尊(さののみこと)」、諱は「彦火火出見(ひこほほでみ)」。 目次 1 名称 2 生涯 2.1 東征の開始 2.2 長髄彦との戦いと苦難 2.3 八咫烏の道案内と勝利 2.4 即位 3 系譜 3.1 系図 4 宮 5 陵・霊廟 6 在位年と西暦との対照 7 考証 7.1 歴史的位置づけについて 7.2 即位年月日について 8 脚注 9 参考文献 10 関連項目 11 外部リンク 名称[編集] 漢風諡号である「神武」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[4]。 和風諡号である「かんやまと-いわれひこ」のうち、「いわれ」は地名(現在の奈良県桜井市中部から橿原市東南部の一帯)[3]。 そのほかに史書では次の別名が記載される[3]。 狭野尊(さののみこと) - 『日本書紀』での幼名。 彦火火出見(ひこほほでみ) - 『日本書紀』での諱。 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』での美称。 若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』。 豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』。 磐余彦尊(いわれひこのみこと) - 『日本書紀』第二の一書。 神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといわれひこほほでみのみこと) - 『日本書紀』第三の一書。 磐余彦火火出見尊(いわれひこほほでみのみこと) - 『日本書紀』第四の一書。 磐余彦帝(いわれひこのみかど) 生涯[編集] 以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡であるが、その内容が神話的で、歴史学では、神武天皇の実在も含めて、筋書きそのままが事実であるかは不明である。『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。 東征の開始[編集] 神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。 『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。 長髄彦との戦いと苦難[編集] 太歳甲寅(日本書紀#太歳(大歳)記事参照)年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。 11月に筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。船団を出して速吸之門に来た時、国津神の珍彦(うづひこ)(宇豆毘古命)、後の椎根津彦(日本書紀。古事記では槁根津彦)を水先案内とした。 戊午年の2月、浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。 5月、磐余彦は船を出したが、五瀬命は山城水門で矢傷が重くなり、紀伊国竈山で死去した。 名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。 八咫烏の道案内と勝利[編集] 八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画) 東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。 8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。 9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祇を祀り、勝利を祈願した。 10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。 12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。 翌己未年2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この地を葛城と称した。これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。庚申年、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。 即位[編集] 辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。 神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。 神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。 神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。 神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。 神武天皇76年、127歳で崩御。 系譜[編集] 徳島県徳島市の眉山にある神武天皇像 (名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載) 父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。 『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では第四子とし、『日本書紀』第三の一書のみ第三男子とする。兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。 妻子は次の通り。 妃:吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売) - 阿多小椅君の妹。 手研耳命(たぎしみみのみこと) 岐須美美命(きすみみのみこと、紀なし) 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと、富登多多良伊須須岐比売命/比売多多良伊須気余理比売) - 大物主の娘、手研耳命の妻。 日子八井命(ひこやいのみこと、彦八井耳命、紀なし) 神八井耳命(かむやいみみのみこと) - 多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造等の祖。 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命) - 第2代綏靖天皇。 系図[編集] 天火明命 [尾張氏族] 火闌降命 天照大神 天忍穂耳尊 瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 盧茲草葺不合尊 天穂日命 [出雲氏族] 神八井耳命 [多氏族] 1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 天足彦国押人命 [和珥氏族] 大彦命 [阿倍氏族] 6 孝安天皇 7 孝霊天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 倭迹迹日百襲姫命 彦太忍信命 屋主忍男武 雄心命 武内宿禰 [葛城氏族] 吉備津彦命 稚武彦命 [吉備氏族] 宮[編集] 宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では「橿原宮(かしはらのみや)」、『古事記』では「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』では「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」[5]。伝承地は奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮。 「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。 明治44年(1911年)から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が大正6年(1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。 なお、昭和13年(1938年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から2600年前のものであり、その前後の誤差は±200年ということであった。このことから記紀の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある[6][7]。 またこの時期、第二次拡張事業(昭和13年~15年、1938年~1940年)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵)) なお、この事業は国費および紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。 陵・霊廟[編集] 神武天皇 畝傍山東北陵 (奈良県橿原市) 神武天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)に治定されている(位置)[8][9][10][11]。公式形式は円丘。考古学名・俗称は「ミサンザイ」。 『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したという記事がある。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。 『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。 江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。その後、文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決まり、幕府が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年、神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。 現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 在位年と西暦との対照[編集] 神武天皇の在位年について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。 考証[編集] 歴史的位置づけについて[編集] 神武天皇が即位したという辛酉の歳は、そのまま換算すると紀元前660年であり、同時に弥生時代早期にあたる。 明治時代に入り、近代歴史学が導入されると、「歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだ」という原則が広く承認されるようになった。こうした近代歴史学の原則を日本古代史に当てはめると、記紀の記述も、他の史料や考古学的知見などに照らして、客観的、批判的視点で厳密に検証される必要が生じる。その作業を経て尚残った記述のみが「史実」として認識されるのであるが、これにより、明治政府により広く国民に顕示されたところの「皇室の歴史」を疑う議論も生まれかねない。このため、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。 それでも早くから、初期の天皇が異常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者那珂通世は1897年、「上世年紀考」で『日本書紀』の記述を批判して、「記紀の紀年は、古代中国由来の、「辛酉」の年に天命が始まり、王朝が代わり、同時に正しい大改革も行われるとする「辛酉革命説」に基づく記紀編者の創作であろう」と論考した。その上で那珂は、「推古天皇治世の最も輝かしい事跡が601年の辛酉にあったことから、その前回の辛酉、つまり紀元601年からさらに1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう」と推測した。 大正期になると津田左右吉は記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」とした。このため津田は「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法違反で起訴され、有罪判決を受けた(津田事件)。 戦後になって不敬など皇室のタブーが解かれると、津田の学説はおむね妥当な推論であるとして支持されるようになり、以降、今日に至るまで、記紀の記述を多角的な観点から検証した様々な学術的推論が提起されるようになる[12]。 なお、津田左右吉は当時、神武天皇を認めつつも次の第二代目天皇の綏靖天皇から第十四代の仲哀天皇までの実在性に疑義をとなえていたが(欠史十三代)、戦後の歴史学の研究成果により、実在可能性に乏しいのは第九代の開化天皇までであり、第十代の崇神天皇からは実在の人物であるとする考え方(欠史八代)が、現代の歴史学会において主流となっている。 こうした経緯から、現代の歴史学界では神武天皇の存在は前提とされていない。そのため古代史研究者の間では、神武天皇の説話は、弥生時代末期から古墳時代にかけての種々の出来事をベースに、実在した複数の人物の功績や人物像を重ねあわせて記紀編纂時に創作されたものとする、「モデル論」が盛んである。神武天皇の「モデル」とされた人物としては、学術上、実在の可能性が認められる初めての天皇とされる崇神天皇を筆頭に、応神天皇、継体天皇、さらには記紀編纂時期の天皇である天武天皇などが指摘されている。 一方で、心理学者で古代史研究家の安本美典のように、神武天皇を実在とする論者もいる。神武東征物語は、邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)であるとする。また古田武彦も神武天皇の実在を主張するが、神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/九州王朝の分家だとしている。 なおギネスブックでは神武天皇の伝承を元に、日本の皇室を世界最古の王朝としているが、「現実的には4世紀」としている。 即位年月日について[編集] 神武天皇の即位年月日は、『日本書紀』の記述に基づいて、明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。 『日本書紀』においては、年月日は全て干支で記している。神武天皇の即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。 太陽暦(グレゴリオ暦)が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日である紀元節を太陽暦(グレゴリオ暦)特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。 神武天皇の即位年は、『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算[13]すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと、西暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月13日と同年4月12日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。また、この日を以って皇紀元年とする暦が主に明治・大正期から終戦まで用いられた。 なお、『日本書紀』は「庚辰」が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日[14]は天文上の朔に当たる。 脚注[編集] [ヘルプ] ^ a b 『歴代天皇・年号事典』 吉川弘文館、2003年、p. 356。 ^ a b 『皇室事典』 角川学芸出版、2009年、p. 629。 ^ a b c 神武天皇(古代氏族) 2010年. ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。 ^ 畝傍橿原宮(国史). ^ 「生命の教育」 平成8年5月号、季刊『生きる知恵』第9号「科学的根拠のある神武天皇伝説」東神会出版室 ^ 樋口清之「日本古典の信憑性-神武天皇紀と考古学」『現代神道研究集成9巻』 神社新報社 1998年 ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 400。 ^ 天皇陵(宮内庁)。 ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。 ^ 畝傍山東北陵(国史). ^ 例えば、三品彰英は神武東征説話の骨子と高句麗の開国説話が類似していると主張した ^ 干支年は、後漢の建武26年(50年)に三統暦の超辰法をやめ(元和2年に正式改暦)以降は60の周期で単純に繰り返している。 ^ 天文学上の記法では-659年2月18日、ユリウス通日は1480407となる。 参考文献[編集] 『国史大辞典』 吉川弘文館。 植村清二 「神武天皇」、中村一郎 「畝傍山東北陵」(神武天皇項目内)、岡田隆夫 「畝傍橿原宮」、上田正昭 「はつくにしらすすめらみこと」。 「神武天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588。 関連項目[編集] 建国記念の日 神武天皇即位紀元 神武天皇祭 橿原神宮 宮崎神宮 神武景気 外部リンク[編集] ウィキメディア・コモンズには、神武天皇に関連するカテゴリがあります。 畝傍山東北陵 - 宮内庁 橿原神宮 - 公式サイト 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 神話時代 初代 神武天皇 第2代 綏靖天皇 第3代 安寧天皇 第4代 懿徳天皇 第5代 孝昭天皇 第6代 孝安天皇 第7代 孝霊天皇 第8代 孝元天皇 第9代 開化天皇 第10代 崇神天皇 第11代 垂仁天皇 第12代 景行天皇 第13代 成務天皇 第14代 仲哀天皇 古墳時代 第15代 応神天皇 第16代 仁徳天皇 第17代 履中天皇 第18代 反正天皇 第19代 允恭天皇 第20代 安康天皇 第21代 雄略天皇 第22代 清寧天皇 第23代 顕宗天皇 第24代 仁賢天皇 第25代 武烈天皇 第26代 継体天皇(507? - 531?) 第27代 安閑天皇(531? - 535?) 第28代 宣化天皇(535? - 539?) 第29代 欽明天皇(539? - 571?) 第30代 敏達天皇(572? - 585?) 第31代 用明天皇(585? - 587?) 第32代 崇峻天皇(587? - 592?) 飛鳥時代 第33代 推古天皇(592 - 628) 第34代 舒明天皇(629 - 641) 第35代 皇極天皇(642 - 645△) 第36代 孝徳天皇(645 - 654) 第37代 斉明天皇(655 - 661) 第38代 天智天皇(661 - 671) 第39代 弘文天皇(671? - 672?) 第40代 天武天皇(673 - 686) 第41代 持統天皇(686 - 697△) 第42代 文武天皇(697 - 707) 奈良時代 第43代 元明天皇(707 - 715△) 第44代 元正天皇(715 - 724△) 第45代 聖武天皇(724 - 749△) 第46代 孝謙天皇(749 - 758△) 第47代 淳仁天皇(758 - 764▼) 第48代 称徳天皇(764 - 770) 第49代 光仁天皇(770 - 781△) 平安時代 第50代 桓武天皇(781 - 806) 第51代 平城天皇(806 - 809△) 第52代 嵯峨天皇(809 - 823△) 第53代 淳和天皇(823 - 833△) 第54代 仁明天皇(833 - 850△) 第55代 文徳天皇(850 - 858) 第56代 清和天皇(858 - 876△) 第57代 陽成天皇(876 - 884△) 第58代 光孝天皇(884 - 887) 第59代 宇多天皇(887 - 897△) 第60代 醍醐天皇(897 - 930△) 第61代 朱雀天皇(930 - 946△) 第62代 村上天皇(946 - 967△) 第63代 冷泉天皇(967 - 969△) 第64代 円融天皇(969 - 984△) 第65代 花山天皇(984 - 986△) 第66代 一条天皇(986 - 1011△) 第67代 三条天皇(1011 - 1016△) 第68代 後一条天皇(1016 - 1036) 第69代 後朱雀天皇(1036 - 1045△) 第70代 後冷泉天皇(1045 - 1068) 第71代 後三条天皇(1068 - 1072△) 第72代 白河天皇(1072 - 1086△) 第73代 堀河天皇(1086 - 1107) 第74代 鳥羽天皇(1107 - 1123△) 第75代 崇徳天皇(1123 - 1141△) 第76代 近衛天皇(1141 - 1155△) 第77代 後白河天皇(1155 - 1158△) 第78代 二条天皇(1158 - 1165△) 第79代 六条天皇(1165 - 1168△) 第80代 高倉天皇(1168 - 1180△) 第81代 安徳天皇(1180 - 1185) 鎌倉時代 第82代 後鳥羽天皇(1183 - 1198△) 第83代 土御門天皇(1198 - 1210△) 第84代 順徳天皇(1210 - 1221△) 第85代 仲恭天皇(1221▼) 第86代 後堀河天皇(1221 - 1232△) 第87代 四条天皇(1232 - 1242) 第88代 後嵯峨天皇(1242 - 1246△) 第89代 後深草天皇(1246 - 1259△) 第90代 亀山天皇(1259 - 1274△) 第91代 後宇多天皇(1274 - 1287△) 第92代 伏見天皇(1287 - 1298△) 第93代 後伏見天皇(1298 - 1301△) 第94代 後二条天皇(1301 - 1308) 第95代 花園天皇(1308 - 1318△) 南北朝時代 南朝 第96代 後醍醐天皇(1318 - 1339△) 第97代 後村上天皇(1339 - 1368) 第98代 長慶天皇(1368 - 1383△) 第99代 後亀山天皇(1383 - 1392△) 北朝 北朝 初代 光厳天皇(1331 - 1333▼) 北朝 第2代 光明天皇(1336 - 1348△) 北朝 第3代 崇光天皇(1348 - 1351▼) 北朝 第4代 後光厳天皇(1352 - 1371△) 北朝 第5代 後円融天皇(1371 - 1382△) 北朝 第6代→第100代 後小松天皇(1382 - 1412△) 室町時代 戦国時代 第101代 称光天皇(1412 - 1428) 第102代 後花園天皇(1428 - 1464△) 第103代 後土御門天皇(1464 - 1500) 第104代 後柏原天皇(1500 - 1526) 第105代 後奈良天皇(1526 - 1557) 第106代 正親町天皇(1557 - 1586△) 江戸時代 第107代 後陽成天皇(1586 - 1611△) 第108代 後水尾天皇(1611 - 1629△) 第109代 明正天皇(1629 - 1643△) 第110代 後光明天皇(1643 - 1654) 第111代 後西天皇(1655 - 1663△) 第112代 霊元天皇(1663 - 1687△) 第113代 東山天皇(1687 - 1709△) 第114代 中御門天皇(1709 - 1735△) 第115代 桜町天皇(1735 - 1747△) 第116代 桃園天皇(1747 - 1762) 第117代 後桜町天皇(1762 - 1770△) 第118代 後桃園天皇(1770 - 1779△) 第119代 光格天皇(1779 - 1817△) 第120代 仁孝天皇(1817 - 1846) 第121代 孝明天皇(1846 - 1866) 明治以降 第122代 明治天皇(1867 - 1912) 第123代 大正天皇(1912 - 1926) 第124代 昭和天皇(1926 - 1989) 第125代 今上天皇(1989 - 現在) 大正の初年までは神功皇后を在位した天皇に含めてこれを第15代としていた。 赤字は女帝。括弧内は在位年。「△」は譲位、「▼」は廃位、「?」は当該年に異説があることを示す。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の重祚。第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 第38代天智天皇の在位年は6年半に及んだ即位前の称制を含む。第41代持統天皇の在位年は3年半に及んだ即位前の称制を含む。 第57代陽成天皇の譲位は事実上の廃位。 第81代安徳天皇の在位の最後の2年間は、第82代後鳥羽天皇の在位の最初の2年間と重複する。 第96代後醍醐天皇の在位は、実際には2度の廃位と復辟をはさんだ1318 - 1331年(鎌倉時代)、1333 - 1335年(建武の新政期)、1335 - 1339年(吉野時代)の3期にまたがる。しかしそれぞれの廃位後に擁立された光厳天皇と光明天皇の即位を認めず、その間自身のみが一貫して天皇だったと主張した。 現行の天皇歴代は、南朝の天皇を正統とする観点から数えられている。北朝の天皇はこの天皇歴代には数えないものの、同時期に在位した正当な天皇として皇統譜に含まれている(参照)。後小松天皇の在位は、始めの10年間が北朝の第6代、後の20年間が天皇歴代の第100代となる(参照)。 典拠管理 WorldCat VIAF: 70244460 LCCN: n81023067 ISNI: 0000 0004 4887 8920 GND: 1018150390 NDL: 00624435 カテゴリ: 日本の天皇 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 検索表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 العربية English Español Bahasa Indonesia 한국어 Bahasa Melayu Polski Русский 中文 他 38 リンクを編集 最終更新 2017年6月30日 (金) 10:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki