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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) オセロ (遊戯) オセロ (Othello) は、2人用のボードゲーム。交互に盤面へ石を打ち、相手の石を挟むと自分の石の色に変わり最終的に石の多い方が勝ち。単純なルールながらゲームとしての複雑さは人間がゲームの木の全展開を把握可能な程度を超えており、いまだにコンピュータによる全解析は達成されていない。“A minute to learn, a lifetime to master”(覚えるのに1分、極めるのは一生)がオセロのキャッチフレーズである[1]。 海外、特に英語圏ではリバーシ(Reversi)と言われ、Windows XPではゲームとしてインターネットリバーシが付属されていたが、Vista以降では付属されなくなった。 目次 [非表示] 1 遊び方 1.1 基本的なルール 1.2 白番・黒番の決定方法 1.3 ハンデのつけ方 2 オセロの歴史 3 競技人口 4 オセロの販売メーカー 5 類似のゲーム等 5.1 オセロを使った別のゲーム 等 6 コンピュータオセロ 7 世界大会等 7.1 世界オセロ選手権(World Othello Championship) 8 関連文献・資料 8.1 定石書・戦術書 8.2 歴史 8.3 派生ゲーム 8.4 プログラミングなどとの関係 8.5 学習用ソフトウェア 8.6 コンピュータゲーム移植作品 9 脚注 10 関連項目 11 外部リンク 遊び方[編集] オセロの初期配置。図示したように右下が白石になるよう置く。(White to Right) 基本的なルール[編集] 一言で言えば、プレイヤーは「石を黒白交互に挟むように打ってひっくり返し、最後に石が多い方が勝ち」となる。 具体的には次の通りゲームを進めていく。 8×8のマス目の緑色のオセロ盤に、図のように右上を黒として、石を黒白2個ずつ置き、ゲームを開始する。 プレイヤーは交互に黒石、白石を打つ。石は両面が白と黒になっており、石を打つとき、縦・横・斜め方向に相手色の石を自色で挟み、挟まれた石を自色に返す。相手の石を返すことができないマスに石を打つことはできない。 打てるマスが全くない場合はパスとなり、相手が続けて打つことになる。パスの回数に制限はないが、返せる相手の石が1つでもある場合、パスをすることは認められない。 最後まで打って、石が多い方が勝ちである。なお最後とは「マスが全て埋まった場合」、「両者とも打てるマスがなくなった場合」のいずれかである。 白番・黒番の決定方法[編集] オセロは先手が黒、後手が白である。 公式ルールにおける黒白の決定は「伏石」というコイントスに近い方式で行われる。 引き分けを認めない場合は、段級位が上の者が石を1個、相手に見えないように手で隠して盤の上に置き、上面の色を相手が当てる。的中であれば的中させた者が、不的中の場合は石を隠した者が「黒番・白番を選ぶ権利」、あるいは「石の数が同数で終局した場合に勝者となる権利」のどちらかを選択する。 引き分けを認める場合は、同様に段級位が上の者が石を隠し、相手が上面を選択してその面の色の手番を持つことになる。引き分けを認めるか否かは大会によって異なる。 オセロは黒白の有利不利はコンピュータでは解析されていない。 終局までパスがない場合、最後に打てるのは白なので白有利とする選手もいるが、黒番は定石を主導できることが多く、黒を得意とする選手もいる。 ハンデのつけ方[編集] ハンデをつける方法としては、対局前に隅に次の通り黒石を置く方法で行われる。ハンデ戦の場合は下手が黒を、上手が白を持つが、上手先手で対局を開始する。 1子局―左上の隅に黒石を置いて対局を開始する。 2子局―左上と右下の隅に黒石を置いて対局を開始する。 3子局―左上と右下、右上の隅に黒石を置いて対局を開始する。 4子局―4か所全ての隅に黒石を置いて対局を開始する。 オセロの歴史[編集] 1973年に茨城県水戸市の長谷川五郎がオセロを発表した。 オセロの名称の由来はシェイクスピアの戯曲「オセロ」で、「黒人の将軍・オセロと白人の妻・デスデモーナを中心に敵味方がめまぐるしく寝返るというストーリーに、黒白の石がひっくり返りながら形勢が次々変わっていくゲーム性をなぞらえた。緑の盤面は、戯曲オセロの戦いの舞台、イギリスの緑の平原をイメージして作った」と日本オセロ連盟のサイトにコメントが記載されている[2][1]。このネーミングは長谷川五郎の父親で、旧制水戸高等学校(水高)の英国文学教授であった長谷川四郎によるものである。 オセロの誕生に至る歴史は日本オセロ連盟のサイトにコメントが記載されている。『オセロは第二次世界大戦が終わって間もない頃、茨城県の水戸市で生まれたゲームで「黒板をおいた青空授業が9月から始まりました。オセロの原型はそういう環境の下に生まれました。』[3][1]。 長谷川は1960年代末から製薬会社の営業として仕事をしていたが、入院中の患者に時間潰しのゲームを要望された際、囲碁や将棋を教えたがなかなか患者たちは馴染まず、妻と家庭の牛乳瓶の紙蓋を集めて現在のオセロを自作、教えたのが今に至るオセロのきっかけである。 1963年頃には長谷川の自宅で数人の仲間とゲーム研究と実験が繰り返され、最初に8×9の盤で間接挟みでも石を返す複雑なルールのものができた。1970年10月頃、メルク社(西ドイツの製薬会社)からチェスセットが日本の薬品関係者に贈られると、長谷川は今まで実験中であったゲームを8×8のチェス盤を用い、このチェス盤にぴったり合う牛乳瓶の紙蓋を石に選び、複雑な間接挟みをやめて簡明な直接挟みのみのルールに整理し、「オセロ」と命名した[4]。 長谷川が担当していたある病院の医局長から「このゲームは社会復帰を目指す患者のリハビリに適し華がある」と太鼓判を押されたといわれるほど評判になり、初期の全日本オセロ選手権大会の実力者に病院関係者が多いこともそれを裏付けている[5][1][6]。発売前に開かれた「第1回選手権大会」に来た客にも、長谷川の縁でファンとなっていた病院関係者が多かったという[7]。 最初に製作されたオセロの石のサイズ(約35ミリメートル)は、当時の牛乳瓶の紙蓋とほぼ同じ大きさである。これは先に述べた通り、オセロの原型で用いられた石が牛乳瓶の紙蓋を用いて作られたものだったためである[1]。現在でもこの大きさが公式なオセロの石のサイズである。 販売元となるツクダに長谷川からオセロが持ち込まれたのは1972年だった[7][8]。商品企画部門の責任者だった和久井威によると、当時玩具に対してキャラクター以外のロイヤリティを払うという意識が業界にはほとんどなく、オセロにもパテントは付いていなかったが、ツクダのオーナーは「おもちゃはアイデアだから」と支払を認めたという[8]。また、玩具業界にはボードゲームは4人以上で遊べるべきという意識があったため、大人をターゲットとしてパッケージにタバコやライターを映している[7]。価格も2200円に設定された[8][9]。 オセロは1973年4月25日[10]に「オフィシャルオセロ」が発売された。その初期ロットは在庫を残さないよう3千個で、経費の都合でテレビ宣伝も打たなかったものの、百貨店の店頭などで実演販売をすると着実に売れていった[8][9]。これに自信を得た和久井はその年の年末商戦に向けてテレビCM(ドンキーカルテットのジャイアント吉田を起用)を製作し、オンエア後の10月からの3ヶ月間で38万個、1974年に120万個以上[11]、1975年に280万個が売れ、日経流通新聞(現・日経MJ)のヒット商品番付で2年連続で「大関」に選出された[8][9]。 1977年にアメリカ合衆国で発売され、その年に100万個が売れたという[9]。前記のキャッチフレーズは、このときにアメリカ側で考案されたものである[9]。 オセロ盤のバリエーションは販売開始以後、順次追加されている。和久井によると2007年時点でも年間40 - 50万個は売れているという[8]。 発売時期 主なオセロ盤名 特徴 1973年〜 オフィシャルオセロ オセロ公式大会使用盤。 1975年頃〜 マグネットオセロ 石がマグネット式で石ずれ防止になり、かつ盤が折り畳み可能。 1970年代後半〜 ベストオセロ、ナイスオセロ 盤に石ケースを内蔵。2000年代にもマイナーチェンジあり。 1980年代前半〜 ビクトリーオセロ マス目に立体ガイド付きで石がずれない入門用。 2000年代前半〜 大回転オセロ 盤に回転式の石を固定。発売当初は「オセロ極(きわめ)」と呼ばれていた。 競技人口[編集] オセロの競技人口は、 2001年に長谷川が著した文献『オセロの勝ち方』 によると約6000万人と書かれている。 ただしこの競技人口は、ルールを知っている人全てが含まれており、参考扱いでもある。 将棋(600万人:レジャー白書[12])や囲碁(220万人:レジャー白書[13])、チェス(レジャー白書では調査対象外。日本チェス協会のサイトで確認できる会員名簿では400人弱)などに比べると多いとしているが、定義を統一した調査を行われたわけではない。 現在はコンピュータゲームやスマホゲームが全盛の中、アナログゲーム同士を比べる意味は低くなっている。 なお、休み時間の遊戯用として小学校の教室内にアナログのボードゲームであるオセロ盤や将棋盤などが置いてあるケースがよく見られている。また、オセロ盤を設置する老人ホームやデイサービスセンターが増え、ゲームを楽しむ高齢者も多くいる[14]。元ツクダオリジナルの和久井威はオセロがロングセラーとなった要因に対象年齢が幅広いことを挙げ、「夫とオセロをして勝つと夫の機嫌が悪くなり、「待った」をされて結婚以来初めて口答えをした」という87歳の女性の投書が朝日新聞に載ったという話を紹介している[8]。 オセロの販売メーカー[編集] 以下のように、何度かの変遷をたどっている。 オセロの販売メーカーは、当初はツクダおよびその子会社のツクダオリジナル(1974年分社化)であった。 2002年、ツクダオリジナルがバンダイの子会社となる。 2003年3月、ツクダオリジナルと、元ツクダオリジナル企画部長でありオセロを長谷川と共に立ち上げた和久井威が経営するワクイコーポレーションが経営統合し、パルボックスとなった。 2005年、パルボックスはバンダイの子会社メガハウスに統合し現在に至っている。 アメリカではゲイブリル社が最初の販売元だった[9]。その後数社の変遷を経て、2007年時点では欧米の販売権はマテルが所有していた[9]。 類似のゲーム等[編集] 1973年のオセロ発売当初、オセロの商標だけでなくオセロの形式(8×8の緑盤、黒白のひっくり返す石等)は意匠権があった。ゆえに当時長谷川が商品化を持ち込み販売を応諾したツクダが商標権、意匠権に基づき独占販売を行ってきた。しかし意匠権の20年の期限が切れた現在、商標を除けば他メーカーでも同様のゲームを販売することは可能となっており、現在類似ゲームはネットを中心に数多く見られるようになっている(リバーシ、白黒ゲーム等)。 安価なポータブルゲームとして、コンビニなど小規模な店舗にて、リバーシ等の名称でオセロとほぼ同じゲームが販売されていることも最近は見かけられる(ただし石のサイズ等、オセロの公式規定とやや異なることもある)。 また長谷川は、オセロの盤面を8×8から10×10に拡大した「グランドオセロ」、そこから隅を切り落とし、八角形状にして8つの隅を持つ「エイトスターズオセロ(旧称『88オセロ〈エイティエイトオセロ〉』)」を考案して市場に送り出したが、これらはマイナーゲームの域を出ていない。 コンピュータゲームやスマホゲームが全盛の中、アナログのボードゲームの売上は減少しており、オセロもその例外ではない。 アナログのボードゲーム販売強化手法の一つとして、オセロと他の家庭用ボードゲームを一緒にして販売されるケースも多い。この場合、オセロ石を活用して様々なバリエーションの派生ゲームが追加されるケースもある。 オセロを使った別のゲーム 等[編集] オセロの石を使って、マス目の少ない囲碁、おはじき、積み木崩し、トランプのチップ等で遊ぶケースがあるが、日本オセロ連盟が公式にルールを定めたものはない。 コンピュータオセロ[編集] 詳細は「コンピュータオセロ」を参照 オセロにはルール上偶然の要素はない。ゲーム理論では、オセロは将棋やチェス、囲碁、囲連星などと同じく二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される。 オセロはルールが単純であるため、古くからプログラミングの教材として、あるいは実際の製品としてコンピュータ上で開発されてきた。1980年には、家庭用ゲーム機である Atari 2600用のオセロが発売されている。また、アスキーによりオセロプログラムを対局させる「マイクロオセロリーグ」が企画され、その模様は記事として掲載された。1986年には同社からオセロを題材とした思考ゲームのプログラミング解説書も出版された(森田ら(共著)『思考ゲームプログラミング』)。 当初はコンピュータの性能が低かったため人間は容易にコンピュータに勝つことができた。しかし徐々に、特に終盤でコンピュータに読み切られて圧倒されるようになった。1997年に当時のオセロ世界チャンピオン村上九段がコンピュータに6連敗したことが転換期となり、現在高性能のオセロプログラムには人間はまず勝つことができない。例えば無料オセロアプリケーションであるゼブラはパソコン及びスマホで利用できるが、極めて強く人間で勝てるのは世界チャンピオンクラス以外は存在しない。歴史順としては、探索空間の狭い順にチェッカー・オセロ・チェスにおいてコンピュータが人間のチャンピオンに勝利し、その後は将棋や囲碁が焦点になっていった。 チェッカーについては双方の最善手が解明されているが、オセロはまだ完全には計算されていないゲームのひとつである。オセロの盤をn×nに一般化した場合、ある与えられた盤の状態においてプレイヤーが必ず勝つことができるかを判定する問題はPSPACE完全であることが分かっている。盤の大きさが4×4あるいは6×6のケースは全て計算されており、例えば6×6のケースについて双方が最善の手順を取った場合、16対20で後手が必勝となることがその手順とともに解明されている[15]。しかし8×8の局面数に対しては、現時点では最善手順は発見されていない。 世界大会等[編集] 全日本オセロ選手権大会[16](1973年〜)や世界オセロ選手権大会(1977年〜)など、幅広く大会が行われている。なお第1回世界オセロ選手権大会は東京で行われているが、現在でも日本は世界最強国である。 2006年に行われた第30回世界オセロ選手権大会は、三十(みと)と、オセロの発祥地である茨城県の水戸市をかけて同市で行われた[17]。また水戸市では、2016年にも同市において2回目となる第40回世界オセロ選手権大会が行われた。 世界オセロ選手権(World Othello Championship)[編集] 開催年 開催地 世界チャンピオン 団体戦優勝国 第1回 1977年 日本の旗 東京 日本の旗 井上博 (未実施) 第2回 1978年 アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク 日本の旗 丸岡秀範 (未実施) 第3回 1979年 イタリアの旗 ローマ 日本の旗 井上博 (未実施) 第4回 1980年 イギリスの旗 ロンドン アメリカ合衆国の旗 ジョナサン・サーフ (未実施) 第5回 1981年 ベルギーの旗 ブリュッセル 日本の旗 丸岡秀範 (未実施) 第6回 1982年 スウェーデンの旗 ストックホルム 日本の旗 谷田邦彦 (未実施) 第7回 1983年 フランスの旗 パリ 日本の旗 石井健一 (未実施) 第8回 1984年 オーストラリアの旗 メルボルン フランスの旗 ポール・ラル (未実施) 第9回 1985年 ギリシャの旗 アテネ 日本の旗 滝沢雅樹 (未実施) 第10回 1986年 日本の旗 東京 日本の旗 為則英司 (未実施) 第11回 1987年 イタリアの旗 ミラノ 日本の旗 石井健一 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 第12回 1988年 フランスの旗 パリ 日本の旗 為則英司 イギリスの旗 イギリス 第13回 1989年 ポーランドの旗 ワルシャワ 日本の旗 為則英司 イギリスの旗 イギリス 第14回 1990年 スウェーデンの旗 ストックホルム 日本の旗 為則英司 フランスの旗 フランス 第15回 1991年 アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク 日本の旗 金田繁 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 第16回 1992年 スペインの旗 バルセロナ フランスの旗 マーク・タステ イギリスの旗 イギリス 第17回 1993年 イギリスの旗 ロンドン アメリカ合衆国の旗 デビッド・シェイマン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 第18回 1994年 フランスの旗 パリ 日本の旗 滝沢雅樹 フランスの旗 フランス 第19回 1995年 オーストラリアの旗 メルボルン 日本の旗 為則英司 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 第20回 1996年 日本の旗 東京 日本の旗 村上健 イギリスの旗 イギリス 第21回 1997年 ギリシャの旗 アテネ 日本の旗 末國誠 イギリスの旗 イギリス 第22回 1998年 スペインの旗 バルセロナ 日本の旗 村上健 フランスの旗 フランス 第23回 1999年 イタリアの旗 ミラノ オランダの旗 デビッド・シェイマン 日本の旗 日本 第24回 2000年 デンマークの旗 コペンハーゲン 日本の旗 村上健 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 第25回 2001年 アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク アメリカ合衆国の旗 ブライアン・ローズ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 第26回 2002年 オランダの旗 アムステルダム オランダの旗 デビッド・シェイマン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 第27回 2003年 スウェーデンの旗 ストックホルム アメリカ合衆国の旗 ベン・シーリー 日本の旗 日本 第28回 2004年 イギリスの旗 ロンドン アメリカ合衆国の旗 ベン・シーリー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 第29回 2005年 アイスランドの旗 レイキャビック 日本の旗 為則英司 日本の旗 日本 第30回 2006年 日本の旗 水戸 日本の旗 為則英司 日本の旗 日本 第31回 2007年 ギリシャの旗 アテネ 日本の旗 冨永健太 日本の旗 日本 第32回 2008年 ノルウェーの旗 オスロ イタリアの旗 ミケーレ・ボラッシ 日本の旗 日本 第33回 2009年 ベルギーの旗 ゲント 日本の旗 高梨悠介 日本の旗 日本 第34回 2010年 イタリアの旗 ローマ 日本の旗 高梨悠介 日本の旗 日本 第35回 2011年 アメリカ合衆国の旗 ニューアーク 日本の旗 信川紘輝 日本の旗 日本 第36回 2012年 オランダの旗 レーワールデン 日本の旗 高梨悠介 日本の旗 日本 第37回 2013年 スウェーデンの旗 ストックホルム 日本の旗 岡本一樹 日本の旗 日本 第38回 2014年 タイ王国の旗 バンコク 日本の旗 末國誠 日本の旗 日本 第39回 2015年 イギリスの旗 ケンブリッジ 日本の旗 高梨悠介 日本の旗 日本 第40回 2016年 日本の旗 水戸 タイ王国の旗 ピヤナット・アンチュリー 日本の旗 日本 関連文献・資料[編集] 定石書・戦術書[編集] 丸岡秀範 『ぼくたちオセロエイジ』 (C・D企画: 大和学芸図書、1979/03) 日本オセロ連盟(編纂) 『図解 オセロ入門』 (虹有社、1983/01) ISBN 4770900058 谷田邦彦 『図解 早わかりオセロ ― これが必勝のコツだ!!』 (日東書院本社、1986/12) ISBN 4528004933 谷田邦彦 『絵でわかるオセロ入門』 (日東書院本社、1988/05) ISBN 4528008440 井上博 『逆転の発見 ― オセロの定石と必勝戦術 (改訂新版)』 (ネコ・パブリッシング、1992/12) ISBN 4873660882 長谷川五郎 『オセロの打ち方 ― 勝つための基本戦術』(講談社、1981/12) ISBN 4061277596 長谷川五郎 『オセロ百戦百勝 ― 勝つための技術』(講談社、1990/07) ISBN 4062048434 長谷川五郎 『オセロ大観〈1〉』 (近代文藝社、1995/09) ISBN 477334718X 長谷川五郎 『オセロ大観〈2〉』 (近代文藝社、1995/09) ISBN 4773347198 長谷川五郎 『オセロの勝ち方 [改訂新版]』 (河出書房新社、2006/07) ISBN 4309269087 長谷川五郎 『オセロ教室』(近代文藝社、2008/8) ISBN 4773375825 中島哲也 『たのしく上達 図解オセロ ― 定石から必勝テクニックまでわかりやすく解説!』(成美堂出版、2009/05) ISBN 4415305490 村上健 『史上最強カラー図解 強くなるオセロ』(ナツメ社、2011/03) ISBN 4816350330 滝沢雅樹(監修) 『図解 オセロの基本―マンガで覚える』 (滋慶出版/土屋書店 、2011/11) ISBN 4806912344 松浦政泰『世界遊戯法大全』(1907年、博文館) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860315 (コマ番号111〜112)ASIN B008Y7Q9QU 歴史[編集] 長谷川五郎 『オセロの打ち方 ― 勝つための基本戦術』(講談社、1981/12) ISBN 4061277596 長谷川五郎 『オセロ百人物語 オセロ史を飾った名選手たち』 (河出書房新社、2005/12) ISBN 4309906559 長谷川五郎 『オセロゲームの歴史』 (河出書房新社、2011/07) ISBN 9784309909134 「和久井威氏ロングインタビュー 第2回」『月刊トイジャーナル』2007年6月号、東京玩具人形協同組合 派生ゲーム[編集] 長谷川五郎 『オセロの打ち方 ― 勝つための基本戦術』(講談社、1981/12) ISBN 4061277596 長谷川五郎 『ソクラテスの打ち方』(ソラリス、1994年) ISBN 4795203806 佐藤周二 『オセロ盤でもできる知的ゲーム 4・7』 (創栄出版、2006/08) ISBN 4434081616 プログラミングなどとの関係[編集] 森田和郎ら 『思考ゲームプログラミング ― オセロゲームのアルゴリズムと作成法』 (アスキー、1986/02) ISBN 4871481867 池原吉彦 『オセロで学ぶ BASIC 入門 ― 手作りプログラムで学ぶコンピュータ基礎講座』 (技術評論社、1990/07) ISBN 487408365X Seal Software 『リバーシのアルゴリズム C++ & Java 対応 ―「探索アルゴリズム」「評価関数」の設計と実装』 (工学社、2003/06) ISBN 4875934289 学習用ソフトウェア[編集] 『中島哲也のオセロセミナー』(サクセス、2002年)--- Xbox 対応 コンピュータゲーム移植作品[編集] 『オセロマルチビジョン』(FG-1000、ツクダオリジナル、1983) - 本体にゲームを内蔵。セガのSG-1000シリーズと互換性があった。 『オセロ』(SG-1000、セガ、1985) 『オセロ』(ファミリーコンピュータ、河田、1986/10/13) - 旧ツクダオリジナル(現メガハウス)から正式にライセンスを受けて作られている。 『オセロ』(ゲームボーイ、河田、1990/2/9) 『オセロワールド』(スーパーファミコン、ツクダオリジナル、1992/4/5) 『オセロワールド』(ゲームボーイ、ツクダオリジナル、1994/9/30) 『オセロワールドII 夢と未知への挑戦』(PlayStation、ツクダオリジナル、1995/12/8) 『オセロミレニアム』(ゲームボーイカラー、ツクダオリジナル、1999/10/8) 『SuperLite 2000シリーズ オセロ』(PlayStation 2、サクセス、2003/7/31) 『オセロ de オセロ DS』(ニンテンドーDS、メガハウス、2008/6/12)- タレントのオセロが登場する。 『オセロ』(ニンテンドーDSiウェア、アークシステムワークス、2009/7/29) 『オセロ』(Wiiウェア、アークシステムワークス、2009/12/22) 『オセロ』(PlayStation Portableオンライン配信、アークシステムワークス、2010/3/25) 『オセロ3D』(ニンテンドー3DSダウンロードソフト、アークシステムワークス、2011/6/7) 『オセロ』(Wii Uダウンロードソフト、アークシステムワークス、2013/4/17) 『オセロ』(PlayStation Vitaオンライン配信、アークシステムワークス、2014/8/7) 脚注[編集] [ヘルプ] ^ a b c d e 長谷川五郎 『オセロゲームの歴史』 (河出書房新社、2011/07) ISBN 9784309909134 ^ オセロ誕生秘話(3)〜オセロファンのエネルギーがオセロのビックバンを作った!!〜(日本オセロ連盟HP 長谷川五郎寄稿) ^ オセロ誕生秘話(1)生い立ち (日本オセロ連盟HP 長谷川五郎寄稿) ^ 井上博『逆転の発見 ― オセロの定石と必勝戦術』企画室ネコ、1977年10月10日、66頁。 ^ オセロ誕生秘話(2)〜オセロゲームの歴史はファンと共に歩むことによって作られて行った〜(日本オセロ連盟HP 長谷川五郎寄稿) ^ 長谷川五郎 『オセロ百人物語 オセロ史を飾った名選手たち』 (河出書房新社、2005/12) ISBN 4309906559 ^ a b c 野口智弘 (2007年2月20日). “あの素晴しいトイをもう一度 第7回 オセロ(1) - パッケージにタバコ? 大人向けだったオセロ”. マイナビニュース 20017-04-02閲覧。。ここでは和久井は「製品として発売するまでには1年近くかけてます」」と述べている。 ^ a b c d e f g 「特別企画 和久井威氏ロングインタビュー その2」『月刊トイジャーナル』2007年6月号、pp.72 - 74。このインタビューでは持ち込みは「(昭和)47年の年末」と述べている。 ^ a b c d e f g 野口智弘 (2007年2月28日). “あの素晴しいトイをもう一度 第8回 オセロ(2) - 最初はたった3000個、オイルショックを乗り越え世界へ”. マイナビニュース 20017-04-02閲覧。 ^ 『国産はじめて物語 Part2<1950〜70年代編> 戦後の日本を魅了したヒット商品の誕生秘話』ナナ・コーポレート・コミュニケーション、2004年7月7日、143頁。 ^ 和久井は2年目(1974年)の販売個数について、『トイジャーナル』では「160万個」、マイナビニュースでは「120万個」と述べている。 ^ レジャー白書では将棋愛好者は約600万人。 ^ レジャー白書では囲碁愛好者は約220万人である。 ^ 参考資料:2006年7月17日付フジサンケイ ビジネスアイ「“脳内革命”でオセロ人気 高齢者が熱視線、売れ行き好調」 ^ “Perfect play in 6x6 Othello from two alternative starting positions”. 2008年6月1日閲覧。 ^ 日本オセロ連盟HP 歴代世界チャンピオン一覧 ^ 2005年12月20日日本経済新聞朝刊44P記事(オセロ故郷・水戸へ帰る) 関連項目[編集] ツクダオリジナル パルボックス メガハウス オセロマルチビジョン パネルクイズ アタック25 -- 4色で行うオセロのようなボード形式に則るクイズ番組。 テンペスト (ゲーム) -- 4色版オセロ。『パネルクイズ アタック25』からクイズを省略した形で進める。 外部リンク[編集] ウィキメディア・コモンズには、オセロ (遊戯)に関連するカテゴリがあります。 ウィキブックスにオセロ関連の解説書・教科書があります。 一般社団法人日本オセロ連盟 Othello! JAPAN オセロの商品ラインナップ(株式会社メガハウス) オセロ総合サイト(アークシステムワークス) Worldwide Othello News カテゴリ: オセロ抽象戦略ゲーム登録商標 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ウィキブックス ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 العربية Deutsch English Español Français 한국어 Português Русский 中文 他 18 リンクを編集 最終更新 2017年5月29日 (月) 12:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 醍醐天皇 醍醐天皇 醍醐天皇像(醍醐寺三宝院蔵) 第60代天皇 在位期間 897年8月14日 - 930年10月16日 元号 寛平、昌泰、延喜、延長 先代 宇多天皇 次代 朱雀天皇 誕生 885年2月6日 崩御 930年10月23日 右近衛府 陵所 後山科陵 諱 維城、敦仁 別称 延喜帝 父親 宇多天皇 母親 藤原胤子 中宮 藤原穏子 女御 源和子 藤原和香子 更衣 源封子 藤原鮮子 源周子 他多数 子女 保明親王 朱雀天皇 村上天皇 源高明 ほか(后妃・皇子女節参照) 皇居 平安宮 テンプレートを表示 醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね[1])といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。 目次 [非表示] 1 来歴 1.1 在位中の重臣一覧 2 系譜 2.1 系図 3 后妃・皇子女 4 諡号・追号・異名 5 在位中の元号 6 陵・霊廟 7 エピソード 8 脚注 9 関連項目 来歴[編集] 元慶9年(885年)1月18日、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城として生まれる。仁和3年(887年)、父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列することになった。寛平元年12月28日(890年1月22日)親王宣下、同2年12月17日(891年1月30日)に敦仁に改名。同5年(893年)4月2日立太子。同9年(897年)7月3日に元服すると同日践祚、同月13日に即位。父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになった。 しかし昌泰4年(901年)、時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷し昌泰の変は、聖代の瑕と評されることになった。近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。時平は荘園整理令の施行に尽力したことをはじめ、国史『日本三代実録』の完成や、律令制の基本法である延喜格式の撰修にも着手しており、むしろ政治には真摯で制度改革には意欲的だったことが知られている。「延喜の治」は形こそは摂関を置かない親政でも、実際には天皇と時平の提携による政治主導に帰するところが大きかったのである。[要出典] 醍醐天皇宸筆 白居易詩巻(部分) 天皇はまた和歌の振興に力を入れ、延喜5年(905年)には『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じている。自身も和歌を良くし、勅撰集に都合43首が入っているほか、家集『延喜御集』も編んでいる。33年間にわたって記した宸記『延喜御記』全20巻は早くから散逸して現存しないが、諸書に引用された逸文を次の村上天皇のそれと併せた『延喜天暦御記抄』として伝わっている。 天皇ははじめ中宮藤原穏子との間に儲けた長子保明親王を東宮とし、その御息所に時平の娘・仁善子を入れていたが、延喜9年(909年)に時平が死に、2年後には親王も21歳で早世する。そのため仁善子の子慶頼王を皇太孫としたが、2年後やはり5歳で夭折した。一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、延喜23年(923年)になって天皇は道真を左遷した詔を覆し、道真右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めた。 しかし延長8年6月(930年7月)に清涼殿落雷事件が起きるとこれ以後体調を崩し、9月22日にはいよいよ病篤きによって皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位。その7日後の29日に出家すると同日崩御した。宝算46。翌月10日、山城国宇治郡山科陵(醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下)に土葬された。 在位中の重臣一覧[編集] 在位中の重臣一覧[表示] 系譜[編集] [表示]醍醐天皇の系譜 系図[編集] (54)仁明天皇 (55)文徳天皇 (56)清和天皇 (57)陽成天皇 (源)清蔭〔陽成源氏へ〕 惟喬親王 貞純親王 (源)経基〔清和源氏へ〕 (58)光孝天皇 (59)宇多天皇 (60)醍醐天皇 人康親王 藤原基経妻 真寂法親王 (斉世親王) 敦実親王 (源)雅信〔宇多源氏へ〕 (60)醍醐天皇 (61)朱雀天皇 広平親王 (62)村上天皇 (63)冷泉天皇 (65)花山天皇 兼明親王 致平親王 (67)三条天皇 敦明親王(小一条院) (源)高明 為平親王 禎子内親王 (後三条母、陽明門院) (64)円融天皇 (66)一条天皇 (68)後一条天皇 昭平親王 (69)後朱雀天皇 (70)後冷泉天皇 具平親王 (源)師房 〔村上源氏へ〕 (71)後三条天皇 后妃・皇子女[編集] 20人に近い女御・更衣をかかえ、保明親王(文献彦太子)・代明親王・重明親王(吏部王)・源高明(臣籍降下)・兼明親王(前中書王)・寛明親王(朱雀天皇)・成明親王(村上天皇)をはじめ、36人の子女をもうけた。 中宮:藤原穏子(885-954) - 関白藤原基経女 第二皇子:保明親王(文献彦太子)(903-923) - 醍醐天皇皇太子 第十四皇女:康子内親王(919-957) - 一品准三宮、右大臣藤原師輔室 第十四皇子:寛明親王(朱雀天皇)(923-952) 第十六皇子:成明親王(村上天皇)(926-967) 妃:為子内親王(?-899) - 光孝天皇皇女、宇多天皇同母妹 第一皇女:勧子内親王(899-?) - 四品 女御:源和子(?-947) - 光孝天皇皇女 第四皇女:慶子内親王(903-923)- 敦固親王室 第五皇子:常明親王(906-944) - 四品刑部卿 第六皇子:式明親王(907-966) - 三品中務卿 第七皇子:有明親王(910-961) - 三品兵部卿 第十三皇女:韶子内親王(918-980) - 賀茂斎院 第十七皇女:斉子内親王(921-936) - 伊勢斎宮 女御:藤原能子(?-964) - 右大臣藤原定方女 女御:藤原和香子(?-935) - 大納言藤原定国女 更衣:源封子 - 源旧鑑女 第二皇女:宣子内親王(902-920)- 賀茂斎院 第一皇子:克明親王(903-927) - 三品兵部卿 第十二皇女:靖子内親王(915-950) -大納言藤原師氏室 更衣:藤原鮮子(?-915) - 藤原連永女 第三皇女:恭子内親王(902-915) - 斎院 第三皇子:代明親王(904-937) - 三品中務卿 第六皇女:婉子内親王(904-969) - 斎院・三品 第九皇女:敏子内親王(906-?) - 無品、または母は源周子 更衣:源昇女 第四皇子:重明親王(906-954) - 三品式部卿 更衣:源周子(近江更衣)(?-935) - 源唱女 第五皇女:勤子内親王(904-938) - 四品、右大臣藤原師輔室 第七皇女:都子内親王(905-981) - 無品 第十皇女:雅子内親王(909-954) - 四品、伊勢斎宮、右大臣藤原師輔室 第十二皇子:源高明(914-982) 第十八皇子:盛明親王(928-986) - 四品 更衣:満子女王(?-920) - 相輔王女 第八皇女:修子内親王(?-933) - 元良親王室 第十一皇女:普子内親王(910-947) - 源清平室、後に藤原俊連室 更衣:藤原淑姫(?-948) - 参議藤原菅根女 第十一皇子:兼明親王(前中書王)(914-987) - 一品中務卿 第十六皇女:英子内親王 皇子:源自明(911-958) 更衣:藤原桑子(楓御息所) - 中納言藤原兼輔女 第十三皇子:章明親王(924-990) - 二品弾正尹 更衣:中将更衣 - 藤原伊衡女 皇子:源為明(?-961) 更衣:源敏相女 皇子:源允明(919-942) 更衣:源清子 更衣:藤原同子 更衣:源暖子 生母不明 皇女:源厳子 諡号・追号・異名[編集] 勅願寺醍醐寺の近くに御陵があることからその名に因んで「醍醐天皇」と追号。「醍醐院」とは言わなかったようである。また在位中の代表的な年号を取って「延喜帝」とも称された。 在位中の元号[編集] 寛平 昌泰 延喜 延長 陵・霊廟[編集] 陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区醍醐古道町にある後山科陵(のちのやましなのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。 長く醍醐寺の管理下にあったため、所在が確定できる数少ない平安時代の陵の1つである。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 エピソード[編集] 醍醐天皇の逸話として最も有名なのは大鏡にある「雪が降り積もって寒さが一段と厳しい夜に、諸国の民はいかに寒からんとて御衣を脱す」というものである。民の上を偲ばれた醍醐天皇は疾病や天候の不順な時には、大赦したり税を免じられたり、収穫のよくない年には民の負担を減らすために重陽の節(ちょうようのせち、9月9日)を何度も中止されたとある。また、旱魃の時 には、一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、さらに神泉院の水も汲ませ、ここの水もなくなったとある。鴨川の洪水などがあれば、水害を蒙った者に助けの手を差し出したり、その年貢や労役を免除されたとある。上記の天皇個人の逸話に加えて、前述の律令制の基本法である延喜格式、国史『日本三代実録』や『古今和歌集』の完成など、天皇自身がリーダーシップを取って政治・文化の振興に努めた醍醐天皇の治世は後世に理想の時代とされた。 一方で菅原道真追放については「聖代の瑕」とされ、天神信仰説話である『日蔵夢記』では死後、菅原道真を陥れた罪、父である宇多天皇に背いた罪などとして、地獄へ落とされ臣下共々罰をうけているとされる。 脚注[編集] ^ “醍醐天皇とは”. コトバンク. 朝日新聞社. 2012年10月10日閲覧。[出典無効] 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、醍醐天皇に関連するカテゴリがあります。 [表示] 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 典拠管理 WorldCat VIAF: 45688066 LCCN: n83224428 NDL: 00625184 カテゴリ: 日本の天皇日本の幼帝平安時代の人物885年生930年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 Deutsch English Español Français Bahasa Indonesia 한국어 Português Русский 中文 他 14 リンクを編集 最終更新 2017年4月3日 (月) 00:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki