TOP > は(囲碁)
は(囲碁)

は(囲碁)

は(囲碁)について


ネット囲碁対局なら『みんなの碁』

ネット囲碁対局 入口 (ここをクリック)


ページ     補足                 
は(囲碁)

は(囲碁) に関する検索

ハイ(囲碁)

ハイ(囲碁) に関する検索

バカ八(囲碁)

バカ八(囲碁) に関する検索

ハザマ(囲碁)

ハザマ(囲碁) に関する検索

ハサミ(囲碁)

ハサミ(囲碁) に関する検索

ハサミツケ(囲碁)

ハサミツケ(囲碁) に関する検索

ハナヅケ(囲碁)

ハナヅケ(囲碁) に関する検索

ハネ(囲碁)

ハネ(囲碁) に関する検索

ハマ(囲碁)

ハマ(囲碁) に関する検索

ハメ手(囲碁)

ハメ手(囲碁) に関する検索

早指し(囲碁)

早指し(囲碁) に関する検索

早碁選手権戦(囲碁)

早碁選手権戦(囲碁) に関する検索

早碁名人戦(囲碁)

早碁名人戦(囲碁) に関する検索

早指し将棋選手権(囲碁)

早指し将棋選手権(囲碁) に関する検索

早指し新鋭戦(囲碁)

早指し新鋭戦(囲碁) に関する検索

発陽論(囲碁)

発陽論(囲碁) に関する検索

ハマ(囲碁)

ハマ(囲碁) に関する検索

ハメ手(囲碁)

ハメ手(囲碁) に関する検索

場合の手(囲碁)

場合の手(囲碁) に関する検索

ハイコミ(囲碁)

ハイコミ(囲碁) に関する検索

配石(囲碁)

配石(囲碁) に関する検索

敗着(囲碁)

敗着(囲碁) に関する検索

馬鹿になる(囲碁)

馬鹿になる(囲碁) に関する検索

馬鹿四(囲碁)

馬鹿四(囲碁) に関する検索

ハカす(囲碁)

ハカす(囲碁) に関する検索

ハガシ(囲碁)

ハガシ(囲碁) に関する検索

はがす(囲碁)

はがす(囲碁) に関する検索

馬鹿八(囲碁)

馬鹿八(囲碁) に関する検索

馬鹿取り(囲碁)

馬鹿取り(囲碁) に関する検索

化ける(囲碁)

化ける(囲碁) に関する検索

箱(囲碁)

箱(囲碁) に関する検索

運び(囲碁)

運び(囲碁) に関する検索

ハサミ返し(囲碁)

ハサミ返し(囲碁) に関する検索

走る(囲碁)

走る(囲碁) に関する検索

ハズす(囲碁)

ハズす(囲碁) に関する検索

ハダシで入れぬ(囲碁)

ハダシで入れぬ(囲碁) に関する検索

バタバタ(囲碁)

バタバタ(囲碁) に関する検索

働き(囲碁)

働き(囲碁) に関する検索

旗を持つ(囲碁)

旗を持つ(囲碁) に関する検索

初手合(囲碁)

初手合(囲碁) に関する検索

初物喰い(囲碁)

初物喰い(囲碁) に関する検索

八方睨み(囲碁)

八方睨み(囲碁) に関する検索

八強争覇戦(囲碁)

八強争覇戦(囲碁) に関する検索

鼻ヅケ(囲碁)

鼻ヅケ(囲碁) に関する検索

花六(囲碁)

花六(囲碁) に関する検索

花形棋士(囲碁)

花形棋士(囲碁) に関する検索

幅(はば)(囲碁)

幅(はば)(囲碁) に関する検索

はぶく(囲碁)

はぶく(囲碁) に関する検索

ハマリ(囲碁)

ハマリ(囲碁) に関する検索

早活(はやいき)(囲碁)

早活(はやいき)(囲碁) に関する検索

早打ち(囲碁)

早打ち(囲碁) に関する検索

早仕舞い(囲碁)

早仕舞い(囲碁) に関する検索

腹ヅケ(囲碁)

腹ヅケ(囲碁) に関する検索

バラバラ(囲碁)

バラバラ(囲碁) に関する検索

林家(囲碁)

林家(囲碁) に関する検索

早碁(囲碁)

早碁(囲碁) に関する検索

早見え(囲碁)

早見え(囲碁) に関する検索

半活(はんいき)(囲碁)

半活(はんいき)(囲碁) に関する検索

盤外戦(囲碁)

盤外戦(囲碁) に関する検索

番数(ばんかず)(囲碁)

番数(ばんかず)(囲碁) に関する検索

半眼(はんがん)(囲碁)

半眼(はんがん)(囲碁) に関する検索

半眼(はんがん)(囲碁)

半眼(はんがん)(囲碁) に関する検索

半眼(はんがん)(囲碁)

半眼(はんがん)(囲碁) に関する検索

パンダネット(囲碁)

パンダネット(囲碁) に関する検索

盤端(ばんたん)(囲碁)

盤端(ばんたん)(囲碁) に関する検索

半手損(得)(囲碁)

半手損(得)(囲碁) に関する検索

盤面(囲碁)

盤面(囲碁) に関する検索

半目(囲碁)

半目(囲碁) に関する検索

番勝負(囲碁)

番勝負(囲碁) に関する検索

お問い合わせ
メールはこちらまで
minnanogo99@gmail.com
囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。

相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。

相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。

『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。

対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


ネット碁会所、囲碁対局
フリーソフト
関連語
碁序盤打ち方
ネット碁会所サイト
あれこれ
あれこれ2

は(囲碁)
▲TOPページ
当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質


・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
・コンテンツの充実

これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

囲碁

ゲーム




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --------- ハイ (囲碁) ハイは囲碁用語のひとつ。漢字では「這い」と表記し、動詞では「ハウ」となる。形としては「オシ」に似ているが、相手の石よりも低い位置で、辺に平行するように打つ手。下図の黒1,3がハイの一例である。 ハイの用法[編集] ハイを打つことで、自分の陣地を広げることができる。このため、相手に上から圧迫された時に、ハイを打って眼型や地を確保する目的で打たれることが多い。下図の黒1,5などがそれである。 ハイは自陣を広げるが、相手を一歩先にノビさせ、強化させてしまう意味もある。このため、どこまでもハウのは多くの場合得策ではない。一般的には、相手からオサエが利かなくなるまでハウのがよいとされる。たとえば下図1では、白1のオサエに対して黒2と受けないと隅が死んでしまう(白1が利き)。図2の黒1と一本ハッておけば、白からaのオサエが利かない(手抜きで隅の黒は生きている)ので、ここまで打っておくのがよい。序盤の段階で黒からaにハウのは、白bとノビられて損になる(ただしこれは序盤・中盤のことであり、ヨセに入ってからの二線ハイは極めて大きな手になる)。 図1 図2 ハイに関する格言[編集] 囲碁の格言で、「二線敗線、四線勝線」というのがある。図3のように二線をハウのは地が1目ずつしか増えないので不利であり、図4のように四線をハウのは地が3目ずつ増えるので効率的という意味。このため二線を必要以上にハウこと、四線を必要以上にハわせるのは不利である。 図3 図4 参考文献[編集] 早わかり用語小事典(日本棋院) --------- バカ八 バカ八(ばかはち)は、囲碁用語の一つで、8目の空点を囲んでいるが、ダメヅマリになると手入れが必要な形[1]。8目もの空点を囲んでいるのに、ダメヅマリになって手を抜くと相手から先手でセキにされて地がなくなることから付けられた蔑称で、正式には隅の八目または隅の板八というべき形[2]。 目次 [非表示] 1 概要 2 脚注 3 参考文献 4 関連項目 概要[編集] 第1図 第1図の黒がバカ八と呼ばれる形。黒がダメヅマリのため、黒はaかbに手を入れて7目の地とする。この手入れより他に大きい所があれば黒は手を抜くが、白から第2図の手段が生じて地がなくなる。 第2図 白1が筋で黒2以下黒6までの手順でセキになり(黒6でcに打てない)、黒地がなくなる。 黒2で5か6でもセキになる[3]。 脚注[編集] ^ 『囲碁百科辞典』117頁 ^ 『囲碁百科辞典』20頁、117頁 ^ 『読むだけで強くなる 詰碁の鉄人』268頁 参考文献[編集] 武宮正樹監修、塚本惠一著『読むだけで強くなる 詰碁の鉄人』株式会社毎日コミュニケーションズ、2007年 林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年 関連項目[編集] 囲碁 --------- ハザマ (囲碁) ハザマは囲碁において、すでにある石から横に二路、縦に二路離れた位置関係のことを指す。下図黒1と▲がハザマの位置関係である。黒1を「ハザマトビ」、白2のようにその間隙を衝く手を「ハザマを衝く」と表現する。ただしハザマトビとハザマをつく手を両方とも単に「ハザマ」と表記してあることも多い。 ハザマの活用[編集] ハザマトビはすぐにも連絡を絶たれる手が残る手法であり、ハザマを衝かれた時の対策がなければ使えない。いわば「誘いの隙」を見せて戦う高等戦術といえる。 例えば小目定石で、上図白1とハザマトビする手がある。もし黒が2とすぐにハザマを衝いてくれば、 白1から突き抜いて、強い厚みを得られる。隅はaなどの隙が残り、完全な黒地ではない --------- ハサミ (囲碁) ハサミは囲碁において、主に隅の石にカカってきた相手の石を、ヒラキを妨害するように挟撃する手を指す。多くの場合、挟む石も挟まれる石も3線か4線にある場合に使い、中央にある石を挟撃しても「ハサミ」とは呼ばない。下図黒1がハサミの例である。 Go l.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go l.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go l.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go l.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go l.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go l.svg Go board diagram image.svg Go b.svg Go -.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go b1.svg Go board diagram image.svg Go l.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go w.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go l.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go dl.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg ハサミは多くの場合相手に二間にヒラいて安定する隙を与えないため、相手の石から3路以上離れずに打つ。相手の石からの間隔が1路なら「一間バサミ」、2路なら「二間バサミ」、3路なら「三間バサミ」と呼ぶ。また4線に挟む場合、3線へのハサミと区別して「高バサミ」と称する。上図は「二間高バサミ」ということになる。相手に近いほど厳しいハサミ、遠いほどゆっくりしたハサミとされる。 目次 [非表示] 1 小目 1.1 小ゲイマガカリへのハサミ 1.2 一間高ガカリへのハサミ 1.3 大ゲイマガカリへのハサミ 1.4 二間高ガカリへのハサミ 2 星 2.1 小ゲイマガカリへのハサミ 2.2 一間高ガカリへのハサミ 3 目ハズシ 3.1 小目ガカリへのハサミ 3.2 高ガカリへのハサミ 小目[編集] 小ゲイマガカリへのハサミ[編集] aの「一間バサミ」、dの「二間高バサミ」、eの「三間バサミ」などが多く用いられる。挟まれた白は中央への進出を図るか、小目の石や挟んできた石に仕掛けてサバキを図ることとなる。ここから多くの定石が派生する。 一間高ガカリへのハサミ[編集] a, b, cの3種のハサミが主に用いられる。aはdにツケて渡る手をにらんだもので、このワタリをめぐっての攻防が焦点となる。bは比較的最近打ち出された厳しいハサミ。cは「村正の妖刀」と呼ばれ、難解な変化を生じやすい。 大ゲイマガカリへのハサミ[編集] 大ゲイマガカリはもともと小ゲイマや一間高ガカリでは挟まれて不利なときに、ハサミを避けるために打たれるカカリである。それでもなおハサミを打つ場合は、aの一間またはbの二間高バサミが多く打たれる。白はこれらのハサミに対し、cと三々にツケてサバキを図ることが多い。 二間高ガカリへのハサミ[編集] 二間高ガカリに対してはaのハサミが多い。 星[編集] 小ゲイマガカリへのハサミ[編集] a - fまでの6通りのハサミが考えられる。白はgなど中央への進出、hと三々に入る、iとツケてサバく、jなどへの両ガカリ、k方面からのハサミ返しといった対応が考えられる。 一間高ガカリへのハサミ[編集] 星に対する一間高ガカリに対しては多くの場合aと受けていて不満はない。下辺に模様を張りたいときなどに、bの一間高バサミが打たれることがある。 目ハズシ[編集] 小目ガカリへのハサミ[編集] 目ハズシへの小ゲイマガカリに対しては、黒a,b,cなどにハサんで打つことがある。fに打つ手は「大斜ガケ」と呼ばれ、大斜定石という難しい定石に進む。白はd,eなどに頭を出す打ち方が普通。 高ガカリへのハサミ[編集] 白の高ガカリに対しては、まれにaなどとハサんで打つことがある。 --------- ハネ (囲碁) ハネは囲碁用語の一つで、自分と相手の石が接触している状態から、相手の石の行く手を制限するように、自分の石から見て斜めの位置に打つ手を指す。図1の白△に打つ手が「ハネ」である。動詞では「ハネる」という言い方をし、漢字では「跳ね」と表記する。なお、図2のような場合は「マガリ」であり、ハネとは呼ばない。 図1 ハネ 図2 マガリ  目次 [非表示] 1 ハネの例 2 二段バネ 3 ハネツギ 4 ハネっ放し 5 ハネコミ 6 ハネダシ 7 参考図書 ハネの例[編集] Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go r.svg 相手が自分の石にツケで接触した場合、黒△のようにハネて対応することが多い(格言「ツケにはハネよ」)。 死活の問題でもハネは重要になる。白1のようにハネで相手の面積を狭め、眼を作るスペースを奪うことが多くの場合有力な手となる(格言「死はハネにあり」)。ハネによって相手の石を殺すことを「ハネ殺し」と表現する。 自分の2子と相手の2子が対峙した状態では、黒1と相手の頭を叩くようにハネる手が好点となる(格言:「二目の頭は見ずにハネよ」)。これによって白は発展性を制限され、ダメの詰まった窮屈な形になる。黒は一挙に右辺方面に模様が見込め、上辺を攻める手を見て楽しみな形になる。白番であれば、同じ点にノビておく手がほぼ絶対となる。なおこのようなハネを「タタキ」「頭を叩く」と表現することがある。 二段バネ[編集] 自分のハネに対して相手もハネで応じたとき、さらにもう一度ハネる黒1,3のような手を「二段バネ」と称する。二段バネは断点が二つできるため、切断に注意しなければならない。 また図のように、白2のハネに対して黒3とハネ返す手段も「二段バネ」と表現されることがある。また「ハネ返し」とも呼ぶ。サバキの手筋として頻出する。 ハネツギ[編集] 例1 例2 黒1にハネ、白2のオサエと換わって黒3にツギを打つ一連の手順を「ハネツギ」と称する。普通一線、二線の場合に用い、ヨセの手順として頻出する。 ハネっ放し[編集] 図のように、一本黒1とハネて、aの三々打ち込みを緩和して他に回るような場合もある。これを「ハネっ放し」と称する。 ハネコミ[編集] 上図左の黒1のようにハネとワリコミを兼ねたような手を「ハネコミ」と称する。以下、上図右の手順によりオイオトシで白の△2子が取れる(白aとしても黒b、白5の下、黒cで逃げられない)。 ハネダシ[編集] 図のように、黒1とハネてケイマの位置関係にある相手の石を分断しに行く手を「ハネダシ」と称する。「ハネ出し」とも表記する。 参考図書[編集] 淡路修三『ハネとオサエ (烏鷺うろブックス)』日本棋院 1989年 『二段バネの攻防 (二子アップ中級シリーズ)』誠文堂新光社 2003年 --------- ハマ 曖昧さ回避 この項目では、囲碁用語のハマについて説明しています。横浜については「横浜」を、シリアの都市については「ハマー (都市)」を、その他の"ハマ"については「浜」をご覧ください。 ハマ、アゲハマは、囲碁の用語のひとつ。囲碁では対戦中に盤上の相手の石の幾つかを取り上げることがあり、日本ルールに於いてはその取り上げた石をハマもしくはアゲハマと呼ぶ。後で数がわかるように手元に置いておかなければならず、通常碁笥の蓋を裏返して、ハマを乗せておく。 終局後、盤上の死んだ石もハマに加えられ、ハマと盤上の地の広さの合計が、白黒の対局者の総得点となる。整地では分かりやすいように、自分が取ったハマで相手の地を埋める(つまりハマが多いほど、相手の地が減る)。 このようにハマを取っておくのは、日本ルールの中に於いてのことである。中国ルールでは、取った石を、取った直後に相手の碁笥へ返却する。これは中国ルールでの計算の仕方が日本とは違い、領地内の空点のみを数えるのではなく、空点及び自分の石の数を数える為である。例えば200手で終局したとして、黒が10個の白石をアゲハマとして取った場合には、黒100個、白90個の石が盤上にあるはずである。この場合、ハマの10個を数えるのが日本流であり、盤上の90個を数えるのが中国流と言うことになる。 --------- ハメ手 Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年5月) ハメ手(ハメて)は、囲碁・将棋などのゲームにおいて用いられるトリック戦法のこと。一見スキのある手を打ち(指し)、相手がそれに引っかかって欲張った手で対応すると、大きな損害を与える「罠」のような手段である。 多くの場合は、相手に正しく対応されると、ハメ手を仕掛けた方が大損害を受けることになる。なお、正しく対応されても互角に近いワカレになる手も存在するが、これをハメ手と呼ぶかは見解が分かれる。正しく受けられれば損害を受けるハメ手をハメ手と知りつつ着手することは、勝負手などやむを得ないケースを除けば好ましいこととは評価されないことが通例である。 囲碁におけるハメ手[編集] 高目定石におけるハメ手の一例。黒1にカケ、白2とコスミ出した時には通常aなどにコスむのが定石だが、ここで3と引っかけるのがハメ手。 スキだらけなので白1,3と出て5と切ると、6に突っ込まれてツゲず、下の3子が切れて大損害を受けることになる。白5ではaの方に切るのが正しい対応で、黒がbにツイだらcにノビ切って黒1子を取り込むことができる。取り込んだ形は、断点が多く白有利とされる。 将棋におけるハメ手[編集] 奇襲戦法を参照。 --------- 早指し 早指し(はやざし)は将棋や囲碁などのボードゲームで、1手の時間が通常の対局よりも短く制限された対戦形式。 囲碁の場合は「早碁」(はやご)と呼び、「早指し」とは呼ばない(囲碁は「指す」ものではなく「打つ」ものであるため)。 目次 [非表示] 1 将棋 2 囲碁 3 チェス 4 関連項目 将棋[編集] 持ち時間(無し〜30分程度以内で棋戦による)を使い切った後、1手の制限時間が短くなる。将棋においては、制限時間が1手30秒程度未満とするルールのことを早指しと呼び、1分未満の場合は早指しと呼ばないのが通例である。 早指しのプロ公式棋戦には、下記のものがある。いずれも、テレビ放送・公開対局・リアルタイムのネット中継のいずれかが行われるものを対象としている(予選は該当しない場合あり)。 棋戦名 持ち時間※ 備考 棋士の公式戦 NHK杯テレビ将棋トーナメント 10分、切れたら1手30秒(1分単位で10回の考慮時間あり) NHK教育テレビで放送 JT将棋日本シリーズ 10分、切れたら1手30秒(1分単位で5回の考慮時間あり) 全国主要都市での公開対局 銀河戦 15分、切れたら1手30秒(1分単位で10回の考慮時間あり) 「囲碁・将棋チャンネル」で放送 大和証券杯ネット将棋・最強戦 30分、切れたら1手30秒 インターネットで対局状況をリアルタイム配信 棋士の非公式戦 富士通杯達人戦 (決勝のみ)15分、切れたら1手30秒(1分単位で10回の考慮時間あり) 決勝のみ早指し・公開対局 女流棋士の公式戦 女流王将戦 25分、切れたら1手40秒 2009年より。「囲碁・将棋チャンネル」で放送 大和証券杯ネット将棋・女流最強戦 30分、切れたら1手30秒 インターネットで対局状況をリアルタイム配信 終了した棋戦 早指し将棋選手権 早指し新鋭戦 1手20 - 30秒(1分単位で3回の考慮時間あり) ※41手目以降。詳細は当該記事参照 テレビ東京で放送 鹿島杯女流将棋トーナメント 10分、切れたら1手30秒 MXテレビで放送 ※特記ない限り本戦の持ち時間。予選は異なる場合がある。詳細は各記事を参照。 囲碁[編集] 囲碁における早碁の棋戦には、下記のものがある。 NHK杯テレビ囲碁トーナメント(NHK教育テレビ) スーパー早碁 - テレビ東京で放映されていた早打ち囲碁の番組。2005年で終了。 「JALスーパー早碁戦」 「JAL新鋭早碁戦」 「JAL女流早碁戦」 チェス[編集] 詳細は「早指しチェス」を参照 「持ち時間5分」や「持ち時間なし・1手10秒」などの方式がある。大きな大会の追加イベントとして実施される場合も多い。 関連項目[編集] 持ち時間 --------- 早碁選手権戦 早碁選手権戦(はやごせんしゅけんせん)は、囲碁の棋戦で、テレビ東京で「日曜囲碁対局」として放映された。日本棋院と関西棋院の棋士が参加する。1968年から開始され、2002年35期まで実施。2003年からは鶴聖戦と統合され、「スーパー早碁」と名称を変更。 主催 テレビ東京(旧東京12チャンネル) 目次 [非表示] 1 方式 2 歴代優勝者と決勝戦 3 記録 4 外部リンク 方式[編集] 出場棋士は、賞金ランキング上位棋士と、新鋭トーナメント戦優勝者の、16名。 トーナメント方式で争われ、12-18期の決勝戦は3番勝負、その他は1番勝負。 持時間 1-16期 一人10分、使い切ると1手30秒 17-33期 一人5分、使い切ると1手30秒、3分の考慮時間を2回 34-35期 持ち時間無し、1手10秒、1分の考慮時間を10回 歴代優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1969年 藤沢秀行 - 藤沢朋斎 1970年 橋本宇太郎 - 大平修三 1971年 宮下秀洋 - 藤沢朋斎 1972年 藤沢朋斎 - 橋本宇太郎 1973年 小林光一 - 藤沢朋斎 1974年 大竹英雄 - 橋本昌二 1975年 橋本昌二 - 大竹英雄 1976年 林海峰 - 坂田栄男 1977年 大平修三 - 山部俊郎 1978年 武宮正樹 - 藤沢秀行 1980年 石田芳夫 2-1 大竹英雄 1981年 坂田栄男 2-1 加藤正夫 1982年 小林光一 2-1 山部俊郎 1983年 石田芳夫 2-0 小林光一 1984年 石田芳夫 2-1 小林光一 1985年 林海峰 2-0 加藤正夫 1986年 趙治勲 2-1 小林光一 1987年 小林光一 - 趙治勲 1987年 林海峰 - 石田芳夫 1988年 加藤正夫 - 武宮正樹 1989年 武宮正樹 - 加藤正夫 1990年 趙治勲 - 林海峰 1991年 趙治勲 - 結城聡 1992年 趙治勲 - 王立誠 1993年 片岡聡 - 依田紀基 1994年 加藤正夫 - 山田規三生 1995年 結城聡 - 林海峰 1996年 趙治勲 - 依田紀基 1997年 小林光一 - 王立誠 1998年 片岡聡 - 加藤正夫 1999年 加藤正夫 - 小林覚 2000年 小林覚 - 小林光一 2001年 趙治勲 - 小林光一 2002年 趙治勲 - 石田芳夫 記録[編集] 最多優勝 7回 趙治勲 新鋭トーナメントから出場して優勝 小林光一(1973年) 外部リンク[編集] 囲碁データベース「早碁選手権戦」 --------- 早碁名人戦 早碁名人戦(はやごめいじんせん)は、日本の囲碁の棋戦。1954年(昭和29年)に開始された関西棋院早碁名人戦と、1956年(昭和31年)に開始された日本棋院早碁名人戦が行われた。それぞれ1961年まで、各8、6期で終了。後継棋戦はこの二つが統合された十段戦。多くの棋戦の持時間が10時間だった当時、持時間4時間、一日打切りの棋戦として実施された。 目次 [非表示] 1 関西棋院早碁名人戦 1.1 歴代優勝者と挑戦手合 2 日本棋院早碁名人戦 2.1 方式 2.2 歴代優勝者と挑戦手合 3 電報碁 4 参考文献 5 外部リンク 関西棋院早碁名人戦[編集] 大阪に本社のあった産経新聞では、1952年に日本経済新聞で王座戦が開始されたことに刺激を受け、1954年に関西棋院独自棋戦として早碁名人戦を創設した。 歴代優勝者と挑戦手合[編集] (左が優勝者) 1954年 窪内秀知 - 1955年 窪内秀知 - 1956年 半田道玄 2-1 窪内秀知 1957年 鯛中新 2-1 半田道玄 1958年 鯛中新 2-0 橋本宇太郎 1959年 東野弘昭 2-? 鯛中新 1960年 橋本宇太郎 2-0 東野弘昭 1961年 佐藤直男 2-0 橋本宇太郎 日本棋院早碁名人戦[編集] 主催 産経東京本社(産経時事掲載) 方式[編集] 出場者は日本棋院の棋士。 トーナメント戦で、第1期は決勝三番勝負、第2期以降は前年優勝者とトーナメント優勝者の挑戦手合三番勝負。 コミは4目半。 持時間は各4時間。 歴代優勝者と挑戦手合[編集] (左が優勝者) 1956年 坂田栄男 2-0 曲励起 1957年 宮下秀洋 2-1 坂田栄男 1958年 宮下秀洋 2-0 高川格 1959年 杉内雅男 2-1 宮下秀洋 1960年 藤沢朋斎 2-1 杉内雅男 1961年 藤沢朋斎 2-0 坂田栄男 電報碁[編集] 関西棋院早碁名人戦との優勝者同士による電報碁が1955年から60年まで行われた。第1-2回は東西選抜棋士により実施。対局者は東京と大阪の産経新聞本社にいて、電報で手順をやり取りした。持時間は各3時間、先番4目半コミ出し。 結果(左が勝者) 1955年 坂田栄男 - 橋本宇太郎 1956年 坂田栄男 - 橋本宇太郎 1957年 坂田栄男 - 窪内秀知 1958年 宮下秀洋 - 半田道玄 1959年 宮下秀洋 - 鯛中新 1960年 杉内雅男 - 鯛中新 1961年は、関西棋院の橋本宇太郎と、日本棋院の藤沢朋斎の特別三番碁が行われ、橋本 2-0 藤沢、となった。 参考文献[編集] 坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年 外部リンク[編集] 囲碁データベース「早碁名人戦」 --------- 早指し将棋選手権 早指し将棋選手権(はやざししょうぎせんしゅけん)は、かつてテレビ東京で放送されていた『テレビ将棋対局』を舞台に争われていた、テレビ東京主催の将棋の棋戦である。 本項では早指し新鋭戦(はやざししんえいせん)についても記す。 目次 [非表示] 1 歴史 2 しくみ(最終年度) 2.1 早指し新鋭戦 2.2 早指し将棋選手権 3 放送内容 4 記録 5 歴代決勝結果 6 脚注 7 外部リンク 歴史[編集] 東京12チャンネル(当時)で1968年に放送を開始した「早碁選手権戦」に続くような形で1972年8月に放送開始。以降、日曜の早朝番組として「早碁選手権戦」と共に長きに亘り放送され続けた。 原則として1手30秒未満(最終年度は1手20秒未満)の早指しという持ち時間ルールを採用。初期の頃は1年度2回開催であったが、1978年より年1回開催となった。1982年には新たに30歳以下の棋士などを対象とする早指し新鋭戦をスタートさせた。 2003年3月に棋戦及び放送を終了した。 しくみ(最終年度)[編集] 持ち時間は40手目までは各5分(対局時計使用)で、切れたら1手1分未満。先手が41手目を封じ手にする。再開後は1手20秒未満で指すが、1分単位で各3回の考慮時間を任意に使用できる。 2001年度までの持ち時間は、40手目まで各10分、41手目以降1手30秒未満だった。 早指し新鋭戦[編集] 成績優秀の棋士15名(30歳以下)と女流棋士1名が参加するトーナメントにより争われた。 早指し将棋選手権[編集] 最終年度(2002年度、第36回)は予選が行われず、以下の基準で選抜された36名によるトーナメントであった。 前回ベスト4 新鋭戦決勝進出者2名 タイトル保持者 過去10年の早指し選手権戦優勝者 過去1年のタイトル戦登場者および棋戦優勝者 竜王ランキング戦1組在籍者 順位戦上位者16名 永世称号呼称者 1年間の成績優秀者 放送内容[編集] 毎度、司会の島田良夫アナウンサー[1]の「テレビ将棋対局の時間でございます。朝のひと時を早指し将棋でお楽しみください。」という定番の台詞で番組が始まる。 週替わりで棋士が解説を、女流棋士が聞き手を務めた。また、盤側には棋譜読み上げと記録係がいて、ともに女流棋士が担当した。 放送時間が短いため、封じ手制を用いて時間を圧縮する。両対局者が40手目まで指した後、先手が41手目を封じる。ここまでは、放送されない。放送では、読み上げ係が40手目までの棋譜を読み、両対局者がそれにしたがって盤面に指し手を再現するところから始まる。そして、記録係が封じ手を明らかにして、対局再開となる。 放送時間の関係で、終盤の途中から終局近くまでの指し手は、読み上げと記録係が再現する盤面の映像に解説者と聞き手が音声をかぶせる編集で放送されることが多かった。 番組の最後に「今日の一手」というコーナーがあり、その日の対局の中から解説者が一手を選び、その手が指される1手前の局面を大盤に示して、次の一手が何であるかを出題した。ハガキを送って当選した視聴者への賞品は、棋士が揮毫した色紙や棋書、『将棋世界』誌、『将棋マガジン』誌などであった。 記録[編集] 早指し将棋選手権の最多優勝は大山康晴と米長邦雄の4回である。優勝3回で中原誠・加藤一二三・羽生善治、優勝2回で桐山清澄・有吉道夫・丸山忠久が続いていた。 早指し新鋭戦の最多優勝は深浦康市の4回である。優勝3回の者はおらず、脇謙二・塚田泰明・森内俊之・佐藤康光がそれぞれ2回優勝した。 1993年度、深浦康市が、早指し新鋭戦優勝により早指し将棋選手権への出場権を獲得。早指し将棋選手権でも優勝。同一年度に両棋戦を全勝で制覇したのは、深浦のみ。 3連覇は早指し新鋭戦での深浦のみ。 第32回(1998年度)早指し将棋選手権の決勝(土佐浩司 - 森内俊之)は持将棋指し直しとなり、指し直しの結果、土佐が勝利して優勝した[2]。これが土佐にとって今のところ唯一となる棋戦優勝である。 この棋戦は、谷川浩司にとって唯一、(タイトル戦も含み)優勝経験のない棋戦であった。谷川本人も、自身の対局で出演した際に、番組の冒頭で語ったことがある[3]。 早指し新鋭戦は第16回(1997年度)から1名の女流枠が設けられ、同年度、女流枠から出場した清水市代が1回戦で久保利明に勝って2回戦(ベスト8)に進出した。これはテレビ(早指し)対局の公式戦における女流棋士の対男性棋士初勝利である。なお、清水は翌年度も1回戦で中川大輔に勝ち、2年連続でベスト8入りした。 歴代決勝結果[編集] 称号・段位は対局当時のもの。かっこ内の数字は、その時点での通算優勝回数。 早指し将棋選手権の第11回までは年度2回開催。第15回から第19回までの決勝は三番勝負で、結果は全て2勝0敗であった。 早指し将棋選手権 早指し新鋭戦 備考 年度 回 優勝 準優勝 回 優勝 準優勝 1972後期 1 中原誠名人 大山康晴王将 1973前期 2 大山康晴九段 有吉道夫棋聖 1973後期 3 中原誠名人 (2) 大山康晴九段 1974前期 4 大山康晴十段 (2) 二上達也九段 1974後期 5 米長邦雄八段 高島弘光七段 1975前期 6 松田茂行八段 中原誠名人 1975後期 7 大山康晴棋聖 (3) 大内延介八段 1976前期 8 桐山清澄八段 関根茂八段 1976後期 9 大山康晴十五世名人 (4) 二上達也九段 大山、4回目の優勝(歴代1位タイ)。 1977前期 10 加藤一二三棋王 真部一男五段 1977後期 11 米長邦雄八段 (2) 森雞二八段 1978 12 有吉道夫八段 大山康晴十五世名人 1979 13 米長邦雄王位 (3) 森雞二八段 1980 14 米長邦雄棋王 (4) 加藤一二三十段 米長、4回目の優勝(歴代1位タイ)。 1981 15 加藤一二三十段 (2) 高島弘光七段 1982 16 真部一男七段 米長邦雄棋王 1 田中寅彦六段 小林健二六段 1983 17 桐山清澄八段 (2) 森安秀光八段 2 塚田泰明五段 高橋道雄五段 1984 18 森安秀光八段 高橋道雄六段 3 脇謙二五段 神谷広志五段 1985 19 中原誠名人 (3) 加藤一二三九段 4 脇謙二六段 (2) 島朗五段 1986 20 田中寅彦八段 中原誠名人 5 小野修一五段 森下卓四段 1987 21 有吉道夫九段 (2) 森下卓五段 6 塚田泰明七段 (2) 森下卓五段 1988 22 森雞二王位 南芳一王将 7 森内俊之四段 羽生善治五段 1989 23 南芳一棋王 中原誠棋聖 8 森内俊之四段 (2) 羽生善治五段 1990 24 加藤一二三九段 (3) 羽生善治前竜王 9 佐藤康光五段 森内俊之五段 1991 25 森内俊之五段 加藤一二三九段 10 佐藤康光五段 (2) 森下卓六段 1992 26 羽生善治竜王 脇謙二七段 11 小林宏五段 佐藤康光六段 1993 27 深浦康市四段 羽生善治棋聖 12 深浦康市四段 豊川孝弘四段 深浦、両棋戦で通し優勝。 1994 28 小林健二八段 谷川浩司王将 13 畠山成幸五段 丸山忠久五段 1995 29 羽生善治竜王・名人 (2) 南芳一九段 14 行方尚史五段 丸山忠久六段 (羽生、優勝の13日後に七冠達成。) 1996 30 村山聖八段 田村康介四段 15 鈴木大介四段 阿部隆六段 1997 31 郷田真隆六段 羽生善治四冠 16 藤井猛六段 鈴木大介五段 1998 32 土佐浩司七段 森内俊之八段 17 野月浩貴四段 久保利明六段 1999 33 藤井猛竜王 谷川浩司棋聖 18 深浦康市六段 (2) 北浜健介六段 2000 34 丸山忠久名人 羽生善治五冠 19 深浦康市六段 (3) 久保利明六段 2001 35 丸山忠久名人 (2) 屋敷伸之七段 20 深浦康市七段 (4) 行方尚史六段 深浦、早指し新鋭戦3連覇。 2002 36 羽生善治竜王 (3) 藤井猛九段 21 山崎隆之五段 北浜健介六段 脚注[編集] ^ 「早指し将棋妙手奇手・アナウンサー島田良夫氏」(NIKKEI NET 将棋王国) ^ この回では土佐の準決勝までの全ての対局が振り駒で土佐の先手となった。決勝では後手となったが、指し直し局の先手番で勝利した。 ^ ただし、その当時に存在した棋戦のうち、谷川に出場資格のあった棋戦の中でという意味である。 外部リンク[編集] 早指し将棋選手権戦・早指し新鋭戦:日本将棋連盟 [隠す] 表 話 編 歴 将棋の番組 レギュラー放送 情報番組 将棋フォーカス(「将棋講座」を含む、NHK Eテレ) 月刊!順位戦(月1回更新、囲碁・将棋チャンネル) 主催棋戦 銀河戦(囲碁・将棋チャンネル) NHK杯テレビ将棋トーナメント(NHK Eテレ) 女流王将戦(囲碁・将棋チャンネル) タイトル戦中継 将棋竜王戦(10-12月頃・生中継・NHK BSプレミアム) 将棋名人戦(4-6月頃・生中継・NHK BSプレミアム) 年1回放送 棋戦・特集 将棋界の一番長い日(3月・生中継・NHK BSプレミアム) NHK杯テレビ将棋トーナメント出場女流棋士決定戦(3月頃・NHK Eテレ) アマチュア 全日本アマチュア将棋名人戦(決勝、9月頃・NHK Eテレ) 決定!こども将棋名人(準決勝・決勝、5月頃・NHK Eテレ) バラエティ 新春お好み将棋対局(1月・NHK Eテレ) 終了した番組 情報番組 囲碁・将棋フォーカス(生放送・NHK Eテレ) 週刊!将棋ステーション(囲碁・将棋チャンネル) 囲碁・将棋ジャーナル、囲碁・将棋ウィークリー(生放送・NHK BS2) 主催棋戦 早指し将棋選手権、早指し新鋭戦(番組名「テレビ将棋対局」、テレビ東京) 鹿島杯女流将棋トーナメント(TOKYO MX) バラエティ 大逆転将棋(1月・NHK BS2) 名称廃止 将棋の時間(NHK教育) --------- 囲碁発陽論 『囲碁発陽論』(いごはつようろん)は、囲碁の手筋や詰碁を収めた棋書。作者は名人碁所であった4世井上因碩(道節)で、1713年(正徳3年)に完成した。難解なことで知られ、別名「不断桜」。「発陽論」とも記される。 目次 [非表示] 1 成り立ち 2 内容 3 出版物 4 外部リンク 成り立ち[編集] 井上因碩は本書完成後も、井上家門外不出の書とし、門下の者でも容易に見ることはできなかった。因碩死後もその内容は秘されていたが、井上家の火災にあって原本は焼失した。しかし本因坊烈元門下の伊藤子元が入手していたものが、人づてに伝わり、1906年に安藤如意が伊藤松和の門人からその存在を聞き、山崎外三郎の未亡人より筆写の許しを得た。これを入手した本因坊秀哉が、15世井上因碩所蔵のものと合わせ、時事新報に掲載し、1904年に秀哉、因碩による解説とともに『囲碁珍朧発陽論』として出版した。写本で現在まで古書として残っているものもある。 現在も解説本が出版されており、もっとも難解な詰碁集としてプロ棋士を目指す者にとってのバイブル的な存在となっている。 内容[編集] 死活の問題(詰碁)、攻め合いの問題、シチョウ問題、盤中詰碁などで構成され、原本では183題ともされるが、異本を含めると202題ともされる。多くの詰碁は隅や辺に限定された形であるのに対し、発陽論では中央の攻防が多く、石のない場所までどこまでも読み進めなければならない問題が多いことが特色とされる。 出版物[編集] 本因坊秀哉、十五世井上因碩編『囲碁珍瓏発陽論』大野万歳館 1904年 橋本昌二『名作詰碁辞典 玄玄碁経と発陽論』誠文堂新光社 1976年 橋本宇太郎編『発陽論—死活の秘伝』山海堂 1980年(改訂版 2004年) 「活之部」34題、及び「死之部」49題、「劫之部」61題の詰碁、「勝之部」47題の攻め合いの問題、「征之部」5題のシチョウ問題、「雑之部」6題の、合計202題を収めている。 藤沢秀行編『囲碁発陽論』平凡社(東洋文庫) 1982年 高木祥一編『囲碁発陽論』教育社 1990年 外部リンク[編集] 名人因碩・囲碁発陽論 --------- ハマ 曖昧さ回避 この項目では、囲碁用語のハマについて説明しています。横浜については「横浜」を、シリアの都市については「ハマー (都市)」を、その他の"ハマ"については「浜」をご覧ください。 ハマ、アゲハマは、囲碁の用語のひとつ。囲碁では対戦中に盤上の相手の石の幾つかを取り上げることがあり、日本ルールに於いてはその取り上げた石をハマもしくはアゲハマと呼ぶ。後で数がわかるように手元に置いておかなければならず、通常碁笥の蓋を裏返して、ハマを乗せておく。 終局後、盤上の死んだ石もハマに加えられ、ハマと盤上の地の広さの合計が、白黒の対局者の総得点となる。整地では分かりやすいように、自分が取ったハマで相手の地を埋める(つまりハマが多いほど、相手の地が減る)。 このようにハマを取っておくのは、日本ルールの中に於いてのことである。中国ルールでは、取った石を、取った直後に相手の碁笥へ返却する。これは中国ルールでの計算の仕方が日本とは違い、領地内の空点のみを数えるのではなく、空点及び自分の石の数を数える為である。例えば200手で終局したとして、黒が10個の白石をアゲハマとして取った場合には、黒100個、白90個の石が盤上にあるはずである。この場合、ハマの10個を数えるのが日本流であり、盤上の90個を数えるのが中国流と言うことになる。 --------- ハメ手 Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年5月) ハメ手(ハメて)は、囲碁・将棋などのゲームにおいて用いられるトリック戦法のこと。一見スキのある手を打ち(指し)、相手がそれに引っかかって欲張った手で対応すると、大きな損害を与える「罠」のような手段である。 多くの場合は、相手に正しく対応されると、ハメ手を仕掛けた方が大損害を受けることになる。なお、正しく対応されても互角に近いワカレになる手も存在するが、これをハメ手と呼ぶかは見解が分かれる。正しく受けられれば損害を受けるハメ手をハメ手と知りつつ着手することは、勝負手などやむを得ないケースを除けば好ましいこととは評価されないことが通例である。 囲碁におけるハメ手[編集] 高目定石におけるハメ手の一例。黒1にカケ、白2とコスミ出した時には通常aなどにコスむのが定石だが、ここで3と引っかけるのがハメ手。 スキだらけなので白1,3と出て5と切ると、6に突っ込まれてツゲず、下の3子が切れて大損害を受けることになる。白5ではaの方に切るのが正しい対応で、黒がbにツイだらcにノビ切って黒1子を取り込むことができる。取り込んだ形は、断点が多く白有利とされる。 将棋におけるハメ手[編集] 奇襲戦法を参照。 [icon] この節の加筆が望まれています。 関連項目[編集] 定石 --------- ハガシ ハガシ、剥がし アイドルの握手会などにおいて、制限時間を越えた客を対象から離すことを指す用語。 囲碁のルールの一つ。以下、本稿で記載する。 ハガシは囲碁のルールにおける反則の一つ。一旦「自分が打った手を取り消して別の場所に打ち直す」行為をさす。公式ルールでは反則負け。 概要[編集] 現在の「日本棋院囲碁規約」にはハガシおよび待ったに関する明確な取り決めはなされていないが、「日本棋院囲碁規約」「付属囲碁作法に関する特別規定」(1949年10月2日制定)の第四条第六項には 対局は、一旦着手した自己の石を、再び他の点へ置き換えること(俗に「待った」という)をしてはならない。 とある。この項では「待った」と「ハガシ」が同一視されているが、「待った」が「相手の着手と自分の着手のやり直し」であるのに対して「ハガシ」は「自分の着手のやり直し」として区別されている。 どこまでがセーフでどこからが「ハガシ」になるのかということについては、「石を碁盤に置いた後、指が石から離れていなければセーフ。離れた後ならば『ハガシ』」とされているが、反則ではないとしても重大なマナー違反であることは間違いない。 ヒカルの碁でもこの反則を犯し、その場で負けとなった対局がある。 --------- バカ八 バカ八(ばかはち)は、囲碁用語の一つで、8目の空点を囲んでいるが、ダメヅマリになると手入れが必要な形[1]。8目もの空点を囲んでいるのに、ダメヅマリになって手を抜くと相手から先手でセキにされて地がなくなることから付けられた蔑称で、正式には隅の八目または隅の板八というべき形[2]。 目次 [非表示] 1 概要 2 脚注 3 参考文献 4 関連項目 概要[編集] 第1図 第1図の黒がバカ八と呼ばれる形。黒がダメヅマリのため、黒はaかbに手を入れて7目の地とする。この手入れより他に大きい所があれば黒は手を抜くが、白から第2図の手段が生じて地がなくなる。 第2図 白1が筋で黒2以下黒6までの手順でセキになり(黒6でcに打てない)、黒地がなくなる。 黒2で5か6でもセキになる[3]。 脚注[編集] ^ 『囲碁百科辞典』117頁 ^ 『囲碁百科辞典』20頁、117頁 ^ 『読むだけで強くなる 詰碁の鉄人』268頁 参考文献[編集] 武宮正樹監修、塚本惠一著『読むだけで強くなる 詰碁の鉄人』株式会社毎日コミュニケーションズ、2007年 林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年 関連項目[編集] 囲碁 --------- バカ八 バカ八(ばかはち)は、囲碁用語の一つで、8目の空点を囲んでいるが、ダメヅマリになると手入れが必要な形[1]。8目もの空点を囲んでいるのに、ダメヅマリになって手を抜くと相手から先手でセキにされて地がなくなることから付けられた蔑称で、正式には隅の八目または隅の板八というべき形[2]。 目次 [非表示] 1 概要 2 脚注 3 参考文献 4 関連項目 概要[編集] 第1図 第1図の黒がバカ八と呼ばれる形。黒がダメヅマリのため、黒はaかbに手を入れて7目の地とする。この手入れより他に大きい所があれば黒は手を抜くが、白から第2図の手段が生じて地がなくなる。 第2図 白1が筋で黒2以下黒6までの手順でセキになり(黒6でcに打てない)、黒地がなくなる。 黒2で5か6でもセキになる[3]。 脚注[編集] ^ 『囲碁百科辞典』117頁 ^ 『囲碁百科辞典』20頁、117頁 ^ 『読むだけで強くなる 詰碁の鉄人』268頁 参考文献[編集] 武宮正樹監修、塚本惠一著『読むだけで強くなる 詰碁の鉄人』株式会社毎日コミュニケーションズ、2007年 林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年 関連項目[編集] 囲碁 --------- 林家 (囲碁) 林家 No image available.svg 家祖 林利玄 著名な人物 林門入斎 林文子(喜多文子) 支流、分家 林藤三郎家 凡例 / Category:日本の氏族 林家(はやしけ)は、本因坊家・安井家・井上家と並ぶ、江戸時代の囲碁の家元四家の一つである。林家は始祖とされる林利玄の弟子の林門入(門入齋)が興した家であるが、他家より立家が遅く、名人も出していない。適当な後継者がいなかったため本因坊家から跡目を迎えたケースも多く、江戸期を通じて弱小勢力であった。明治に入り、十三世の 秀榮が本因坊家に戻ってその名跡を継いだため林家は絶家となった。 林家は初代が門入齋で、二世以降は代々「門入」を名乗った(九世門悦、本因坊家から移った十一世元美、十三世秀栄を除く)。このため跡目時代の名乗りを用いて区別することが多い。 歴代当主[編集] 一世 林門入斎(1583-1667)準名人 二世 林門入(1640-1686)六段 三世 林玄悦門入(1675-1719)五段 四世 林朴入門入(1670-1740)七段 五世 林因長門入(1690-1745)八段準名人 六世 林門利門入(1707-1746)七段上手 七世 林転入門入(1730-1757)七段上手 八世 林祐元門入(1732-1798)七段上手 九世 林門悦(1756-1813)(林門悦門入)七段上手 十世 林鉄元門入(1785-1819)六段 十一世 林元美(1778-1861)八段準名人 十二世 林柏栄門入(1805-1864)七段 跡目 林有美(1831-1862)六段 十三世 林秀栄(1852-1907)十九世本因坊秀栄 九世名人 分家[編集] 林家の分家林藤三郎の養女林佐野、及びその養女林文子(喜多文子)は、明治時代の女傑として女流棋士の先駆け的活躍をし、同時に多くの女流棋士を育て、今日の興隆に繋がっている。 --------- 盤外戦 盤外戦(ばんがいせん)とは、ボードゲームにおいて、盤上の勝負とは別に、対局前や対局中に行われる心理戦のことを指す。 目次 [非表示] 1 概要 2 将棋 2.1 大山康晴 2.2 その他有名棋士たちの盤外戦術 2.3 盤外戦術をしない棋士達 3 囲碁 4 チェス 5 麻雀 6 脚注 7 関連項目 概要[ソースを編集] 主として、対局中の行動によって相手の集中力を妨げたり、心理的なプレッシャーを与えたり、対局の前に苦手意識や劣等感を植え付けたりして、勝負で優位に立つ手法がある。このような心理戦は、軍事や外交、ビジネスでの交渉でみられるものと類似している。 通常ボードゲームは頭脳スポーツであり、対局における技術・技能の優劣が勝負を大きく支配する。特に将棋や囲碁などの二人零和有限確定完全情報ゲームなどは運が関係しないため、純粋に頭脳の戦いとなるが、これとは別に相手の思考や判断を、妨害したり弱体化させることで、結果として自分が優位になるように図るのが盤外戦の基本である。 例としては冷暖房を極端にしたり、ささやき戦術や戦法予告をするなどがあげられる。将棋棋士七段で将棋ライターの河口俊彦は「こういう時はなんであれ自分の言い分を通した方が勝ち」と述べている。囲碁では藤沢秀行が晩年のインタビューで「あの頃(藤沢と坂田栄男がタイトル戦でしのぎを削っていた頃)は相手を怒らせるのも勝負の内だった」と語っており、棋力が拮抗した者同士での対局では、優位を得るための方法として重要視されている。 その一方で、盤外戦の応酬によって対局が妨害されるのを防止するため、相手の集中を削ぐ行為(対局中に呟く、扇子などを開閉する等)の禁止を明文化している団体(国際チェス連盟)もある。 もっとも、下記のとおり盤外戦は対局中だけのものではなく、長期間にわたって同じ相手と何度も対戦する頭脳競技の世界では対局場以外や私生活まで盤外戦の場となることがある。河口が著作で触れた例では、「金に困って対局料の前借りを申し込みその引け目から経理担当理事に勝てなくなった棋士が居た」という。 将棋[ソースを編集] 公式戦を管轄する日本将棋連盟には、盤外戦について明文化された罰則などはなく、使うか否かについては棋士の判断にゆだねられている。 第3期名人戦第1局、木村義雄と神田辰之助の一戦で、神田有利で迎えた終盤で神田の秒読みの時間が切れそうになった。当時はタイトル戦でもそう厳密ではなかったが、木村は12歳年長の神田に「君!時間だよ!」と一喝、とっさに指した手が大悪手で神田の逆転負けとなった。七番勝負は4-0で木村の勝ち。[1] 第7期名人戦挑戦者決定戦の「高野山の決戦」では、A級1位だった升田幸三が塚田正夫への挑戦者で当然だったが、名人戦を当時主催していた毎日新聞社は、自社の嘱託棋士であったB級1位の大山康晴を強引に参画させるため、突然A級上位3名とB級1位のプレーオフで名人戦挑戦者を決める変則を実施した。朝日新聞社の嘱託棋士であった升田には対局の日程も場所も事前に通知は無かった一方で、毎日新聞社は大山には高野山への豪勢な送迎をしていた。しかも、十二指腸の具合がよくなかった升田は温暖な場所での対局を依頼していたにもかかわらず、毎日新聞社は寒冷な高野山を選んだ[1]。 名人戦の主催社が朝日新聞社に移行して以降は、升田幸三が勝てば役員総出で大宴会になり、大山康晴が勝ったらそのまま全員帰ったとか、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も投了の瞬間を再現するようせまったとかの逸話が伝えられている。 大山康晴[ソースを編集] 第一人者となった後の大山康晴は、自身がトップに立ち続けるために、相手に屈辱感やコンプレックスを徹底的に植え付ける、非情なまでの勝負至上主義であった[1]。 盤上で勝勢になっても、一気に寄せずに長手数の対局で相手をいたぶり、じっくり時間をかけて心理的な屈辱と無力感を与えた[1]。たとえば、第19期名人戦では、挑戦者の加藤一二三は第1局で1勝した後の第2・3・4局で3連敗してカド番を迎えたが、第5局にて大山は千日手指し直しを含めて一気に勝ちを決めずになぶり殺すようにして、加藤の潜在意識に屈辱と無力感を徹底的に刷り込んだ。 中原誠に名人位を奪われても、「十五世名人」の称号ではなく「大山名人」と呼ぶように相手に強いた。 相手が長考に入ると、相手の視線を狙って脇に挟んだ扇子を回して集中力を妨げるなどのテクニックもあった[2]。 河口俊彦は「別冊NHK将棋講座 もう一度見たい!伝説の名勝負」に寄稿した中で、「大山は催眠術を使っている、という説があって、森や田中寅彦は本気で信じていたようだった。まさかと思ったが実際に対局してみると森や田中の気持ちがわかった」と書いている。ただし、河口は催眠術の正体について「今思い返すと、催眠術にかけられたわけではなく大山の威圧感に圧倒されたのである」といっている[3]。 二上達也は詰将棋作家でもあったが、対局中に記録係が詰将棋の本を手にしていると、大山は「詰将棋なんかは何の役にも立たないよ」と罵って、対局相手の二上の神経を逆撫でた[2] 。さらに、全盛期の大山に二上がタイトル挑戦してきたことで二上に目をつけて、日本将棋連盟会長であった大山は、徹底的にパワーハラスメントで当時理事を務めた二上をいたぶった[1]。なお、二上自身は盤外戦を全くやらなかったので、対比としても語られることが多いエピソードである。 米長邦雄対内藤國雄のタイトル戦を「あんなのは二軍戦だよ」と大山康晴は言い捨てたことを、大山没後の対談集で語っている[4]。 大山康晴は、花村元司を破った対局後に「花ちゃん、あんたは所詮素人だもんね」と、真剣師からプロ棋士に転向した花村に痛烈な言葉を浴びせた。 小学生名人戦で羽生善治が優勝したとき、谷川浩司が「このまま頑張れば、プロになるのも夢ではない」と羽生を讃えて励ましたのに対して、大山康晴は「数年後は谷川君を目標にタイトルを争っているでしょう」と言い放ち、谷川は恥辱を受けて顔が引きつるだけだった[5]。ただし、1988年度NHK杯で羽生は大山や谷川らを破って優勝しているので、予言としては大山の発言は当たっている。 羽生善治がまだ駆け出し(C1級で高校に通学中)の頃に、大山康晴との対戦(1988年5月王将戦二次予選)の前後に過密スケジュールを大山に組ませられ、しかも大山は途中で対局を一時中断すると羽生を青森県百石町まで連れ出し、そこで対局の再開を強いた上に後援会の宴席まで出席を強要した[6]。 大山康晴対羽生善治の対局で、大山が優勢な局面で羽生があっさり投了した。投了のタイミングの早さに対局解説の島朗も驚くほどだった。長手数でじっくりいたぶる盤外戦術をかわされたことで、大山は不機嫌になり米長邦雄が勧めても感想戦を行わなかった。 中原誠も大山の盤外戦術が通じなかった一人であった。河口俊彦は「大山と中原が棋界関係者とゴルフに行き、旅館に着いた時、『飯を食って麻雀をしよう』と大山が言い出した、大山の言うことなのでみんな嫌々飯の準備をしていると遅れて現れた中原が『なんで風呂に入らないんですか?そんな手はないですよ』と言い出し、やれうれしやと皆中原について風呂へ、大山は一人宴会場に取り残された」という逸話を紹介している[1]。 1991年、ガンが再発して手術する直前に指した順位戦の対有吉道夫戦では、弟子の有吉に対し対局前の雑談の際に「ガンが再発したので今度手術する」と告げた。もっとも、将棋自体は有吉が勝っているが、その後大山は、本来なら入院中で不戦敗になるはずの次の対局を「入院前に繰り上げて指したい」と将棋連盟に申し入れ、その繰り上げ対局はきっちり勝っている[1]。 その他有名棋士たちの盤外戦術[ソースを編集] 米長邦雄は、1990年(1989年度)の王将戦で挑戦者となったとき、「横歩も取れないような男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、横歩取り戦法をほとんど指さなかった南芳一王将(当時)を挑発した。すると、南は対局で横歩を取った。ちなみに、この七番勝負では2局が横歩取りとなり、1勝1敗であったが、七番勝負は米長が勝っている。ただし、米長は、後年「盤外戦術は不利な方がやると相場が決まっている。そんなものをしかけてしまっては、不利と焦りを認め、相手に自信を付けさせるだけでかえって損」と語っている[7]。 加藤一二三は、しきりと対局条件に注文をつけることで有名で、盤駒の交換申出から冷暖房の調子、果ては「(地方の旅館でのタイトル戦で)庭園の滝の音がうるさいから止めてほしい」と言ったことがある。また、対局中にも空咳、空打ち、相手の背後に回って相手の視点から局面を見る[8]、などの奇行が多い。これが意図的な盤外戦なのか単に神経質なだけなのかは不明だが、これらを気に病んだ棋士が日本将棋連盟の理事会で「加藤の奇行をやめさせろ」と提起したことがある。なお、加藤本人は、「ストーブにしろエアコンにしろ盤の位置にしろ、どっちでもいいじゃないかと思われるかもしれない。でも、勝負師としてそこで譲ってしまってはいけない。自分の主張を通そうとするのは『絶対に勝つんだ』という強い意識の表れで、引いてしまったら上下関係が決してしまう。勝負師たるもの、盤外戦ととられようと主張すべきところは絶対に主張すべき」と述べている[9]。 中原誠は、大山ほどは盤外戦は使わなかったが、終盤で勝ちを読み切るとトイレに立つという習慣があった。これには環境を変えて読み直しを行うことでポカを防ぐという意図があったが、この習慣が他の棋士に知れ渡るにつれて、中原が終盤でトイレに立つだけで戦意を半ば喪失する対戦相手も少なくなかった。また、米長邦雄との対局時、本来誰にも知られてはいけないはずの「封じ手」を行う際に、あろうことか対局相手である米長に対し、「△4六角を△3七角成とするにはどう書いたらいいか」と尋ねた[10]。 盤外戦術をしない棋士達[ソースを編集] ルールとして禁止されているわけではないが、二上達也のように盤上での勝負にこだわり、盤外戦を行わなかった棋士も存在する。また戦後生まれの棋士が増えるに従って、語りぐさになるような派手な盤外戦は見られなくなっている。 囲碁[ソースを編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 チェス[ソースを編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 国際チェス連盟が管轄する公式な大会では、中立的な立場のアービター[11]達が、対局中の盤外戦について監視を行っている。 かつては頻繁に引き分けの申請をすることで、相手の思考を妨害するなどのマナー違反が野放しであったため、現在では「どのような方法であっても、対局者を動揺させる行為は禁止」と規則に明文化されており、間違った指し手や時間切れの指摘、引き分けの申し出以外に相手に話しかけることも禁止している。引き分けの申し出についても、自分が不利な局面で何度も申し出るなど、アービターが妨害行為と判断すれば、反則負けとなる。 また2006年にはウラジーミル・クラムニクが対局中に頻繁にトイレに立つため、相手陣営から不正行為(ソフトによるカンニング)の疑いがあるとしてクレームを受けるなど、近年では対局中の挙動[12]や服装[13]についても厳しくなっている。 麻雀[ソースを編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 脚注[ソースを編集] [ヘルプ] ^ a b c d e f g 河口俊彦『大山康晴の晩節』(新潮文庫、ISBN 978-4101265131) ^ a b 『現代に生きる大山振り飛車』 藤井猛・鈴木宏彦、日本将棋連盟、2006年12月、ISBN 978-4-819-70232-4 ^ 「別冊NHK将棋講座 もう一度見たい!伝説の名勝負」P137~138、NHK出版 2011年2月 ^ 『勝負師』(朝日新聞社、ISBN 978-4022598578) ^ 1982年小学生名人解説会 ^ ただし、これに関しては、羽生を将来のタイトルホルダーと見込んだ大山が、地方対局の多いタイトル戦の雰囲気を羽生に体感させるために行ったとする見方もある。(椎名龍一『羽生善治 夢と、自信と。』)なお、日本将棋連盟発行の「大山康晴名局集」(P410~、2012年)に収録されているこの対局の自戦記では、大山は対局場の移動に触れていない。 ^ 原田泰夫 (監修)、荒木一郎 (プロデュース)、森内俊之ら(編)、2004、『日本将棋用語事典』、東京堂出版 ISBN 4-490-10660-2 ^ 石田和雄も同様の行為を頻りに行う傾向があった。 ^ 加藤一二三「将棋名人血風録」角川書店、2012年、P116 ^ 『日本将棋用語事典』p.124 斜体部はここからの引用。なお、日本将棋連盟 2004年『米長邦雄の本』でもこの逸話が紹介されているとのことである。 ^ 申し立ての仲裁などを行う資格を持った審判員。 ^ 自分の手番では、駒を移動するまで着席している必要があり、相手の手番でも席を外す際はアービターに許可を得る必要がある ^ European Chess Union introduces 'no cleavage' dress code 関連項目[ソースを編集] ボードゲーム 心理戦 トラッシュ・トーク アングル --------- 番勝負 番勝負(ばんしょうぶ)は、主として、囲碁や将棋の棋戦などにおいて、同じ2名の対局者が複数回の対局を行い、勝数が多い方を優勝者等とする仕組みを指す言葉である。「番」は対局の局数(回数)を意味する助数詞であり、本来は「七番勝負」のように漢数字を冠して表記するが、様々な番数の勝負の総称として「番勝負」と言う。囲碁では「番碁」(ばんご)という言葉を使うことも多い。 目次 [非表示] 1 形態 2 囲碁・将棋 2.1 現代の番勝負 2.1.1 囲碁の番勝負 2.1.2 将棋の番勝負 2.1.2.1 将棋の番勝負の例外 2.2 江戸 - 大正時代 3 チェス 4 スポーツ 5 脚注 形態[編集] 番勝負には、次のようにいくつかの形態がある。 1人と1人が複数回戦うもの(= 典型的な番勝負) 予選を勝ち抜いた挑戦者がタイトル保持者・前回優勝者に挑戦するとき(囲碁界では「挑戦手合い」と呼ぶ)のほか、一部のトーナメント戦の決勝戦、タイトル戦の予選の最後となる挑戦者決定戦等がこの形態に属する。 スポーツなどにおける、同一相手との複数回の対戦で勝敗を決める際の「○番勝負」の表現もこの形態に属する。 1人が1回ごとに相手を変えつつ複数人と戦うもの 後述の瀬川晶司のプロ編入試験やプロレスの場合はこの形態である。 他に有名なものとして、山口瞳の「血涙十番勝負」や映画の「新吾十番勝負」が挙げられる。 複数人同士が戦うもの 囲碁や将棋の月刊雑誌の企画としてよく行われるのがこの形態である。 複数人がチームを組んで戦う点は団体戦と同じだが、通常の団体戦と異なるのは、選手が一堂に会して一斉に対局を行うのではなく、1人ずつ順番に対局するという点である。 1人と1人が1回だけ戦うもの(一番勝負) 予選を勝ち抜いた挑戦者がタイトル保持者・前回優勝者と1回だけ対戦する形態であり、通常は番勝負の範疇には入らない。ただし、タイトルマッチであることをわかりやすく表現するため、「一番勝負」の表記が用いられることがある。 囲碁の王冠戦(後述)が、その例である。 囲碁・将棋[編集] 現代の番勝負[編集] 現在の番勝負では勝負をつける必要があるため、奇数番の勝負が普通である。 三番勝負であれば先に2勝した方が、五番勝負であれば先に3勝した方が、七番勝負であれば先に4勝した方が勝ちとなる。 現代では勝敗が決した段階で残りの対局はキャンセルされるのが一般的だが、過去には将棋の王将戦における「指し込み制」のように、必ず決まった対局数まで対局を行う例もあった。 囲碁の七大タイトル戦、将棋の全8タイトル戦は、すべて、タイトル保持者と挑戦者1名との番勝負で優勝者を決める。 囲碁の番勝負[編集] 七大タイトル戦 七番勝負:棋聖戦、名人戦、本因坊戦 五番勝負:王座戦、天元戦、碁聖戦、十段戦 女流の挑戦手合い 五番勝負:女流本因坊戦 三番勝負:女流名人戦、女流棋聖戦 地方のタイトル戦での挑戦手合い 一番勝負:王冠戦 三番勝負:関西棋院第一位決定戦 その他 三番勝負:新人王戦決勝 なお、黒番(先番)と白番の回数が不平等にならないように、第1局開始時にニギリで第1局の先後を決めた後は、1局ごとに先後を入れ替えて対局する。勝負が最終局までもつれ込んだ場合は、再度、ニギリが行われる。 また、昔の番勝負(囲碁の手合割を参照)とは異なり、現代の番勝負ではコミが採用されている[1]。 将棋の番勝負[編集] タイトル戦 七番勝負:竜王戦、名人戦、叡王戦(タイトル戦へ格上げ前は三番勝負)、王位戦、王将戦 五番勝負:王座戦(タイトル戦へ格上げ前は三番勝負)、棋王戦、棋聖戦 女流タイトル戦 五番勝負:マイナビ女子オープン、女流王座戦、女流名人戦(第7期までは三番勝負)、女流王位戦 三番勝負:女流王将戦(第17期~第30期は五番勝負)、大山名人杯倉敷藤花戦 その他公式戦 竜王戦挑戦者決定戦三番勝負 棋王戦挑戦者決定戦二番勝負(無敗で勝ち上がった者は1勝、敗者復活で勝ち上がった者は2連勝が必要)(第17期までは一番勝負) 新人王戦決勝三番勝負 加古川青流戦決勝三番勝負 終了棋戦 七番勝負:十段戦(竜王戦の前身のタイトル戦)、九段戦(十段戦の前身のタイトル戦)(第6期までは五番勝負) 五番勝負:朝日オープン将棋選手権(準タイトル戦)、全日本プロトーナメント決勝(第8回までは三番勝負) 三番勝負:早指し王位決定戦決勝、最強者決定戦決勝、名将戦決勝、鹿島杯女流将棋トーナメント決勝(第8回からは一番勝負) 将棋大会(アマチュア) 朝日アマ名人戦三番勝負(アマチュア主要個人戦6棋戦の中で唯一、前年度優勝者と挑戦者とのタイトルマッチが行われる。) なお、先手番と後手番の回数が不平等にならないように、第1局開始時に振り駒で第1局の先後を決めた後は、1局ごとに先後を入れ替えて対局する。勝負が最終局までもつれ込んだ場合は、再度、振り駒が行われる。 将棋の番勝負の例外[編集] プロ編入試験 瀬川晶司のプロ編入試験(六番勝負) - 制度化される前の特例によるプロ編入試験。瀬川がプロ棋士など6人と対局し、瀬川の3勝でプロ編入を認めるものとなった。毎局振り駒が行われた。 制度化以降のプロ編入試験(五番勝負) - プロ編入希望者がプロ棋士5人と対局する。第1局と最終局に振り駒が行われる。 電王戦 第1期以降、コンピュータ将棋ソフトとプロ棋士の二番勝負。 俗な用法 同じ対局者同士が同時期に複数の番勝負を戦う場合、俗に、すべての番勝負の数字を加えた数を用いて「○○番勝負」と表現することがある。たとえば2005年度の将棋のタイトル戦では、連続する3つのタイトル戦、棋聖戦五番勝負、王位戦七番勝負、王座戦五番勝負に羽生善治と佐藤康光が登場し、「十七番勝負」と呼ばれた。 江戸 - 大正時代[編集] 江戸時代から明治・大正にかけては棋士の数が少なく、そのため強さの序列をつけるのに同じ相手と何局も戦い、その結果によって決めていた。特に必要がある場合に期間を決めてまとめて打つこと、指すことがあった。 有名なものとして、次のようなものが挙げられる。 囲碁 本因坊道悦 - 安井算知 算知の碁所襲位に異を唱えたもの。道悦定先の手合割で60番の予定であったが、16番目終了時に道悦が6番勝ち越して手合割が先先先に直ったため20番で終了し、算知は碁所を引退。 井上道節因碩 - 本因坊道知 道知が独り立ちできるかの試験碁で、10番を2度打っている。[2]ただし、目的を達したのか2度目は7番で終了している[3]。 本因坊察元 - 井上春碩因碩 名人碁所決定戦。互先20番の予定だったが初番を持碁[4]のあと察元が5連勝して圧倒したためその後自然消滅。 本因坊秀策 - 太田雄蔵 手合割は互先、17番目で秀策が4番勝ち越しとなり雄蔵の先先先に直る。30番の予定であったが23番で終了。 呉清源の十番碁 相手を変えて何度も行われたため、第一の形態と第二の形態の混合になっているほか、ずばり第二の形態のものも行われている。 将棋 大橋宗銀-伊藤印達 まだ若い[5]跡目二人に対し、将来の名人将棋所を実力で決めさせようという意図があったという見方が有力だが、家元同士の代理戦争だったのではという俗説もある将棋界唯一の争い将棋。途中から4連勝手直りという条件が加わり、結果印達が宗銀を角落ちにまで指し込む。対局者双方が体を壊したため57番(56番とも言われる)で打ち切られ、その後対局者双方とも2年を経ずして亡くなるという壮絶な結末を迎えた。予定番数は不明だが一説には100番であったといわれている。 昔は上のように偶数番の番勝負が普通であった。というのも、二局一組の手合割[6]というのがあったため不公平のないように、また実力伯仲、あるいは実力差が手合割に見合うものならばあえて勝負をつける必要がないという考えがあったためである。 チェス[編集] チェスでも大きな大会の決勝などでは、同じ相手と複数回対局するシステムが取られ、best of # matches と呼ばれる。 囲碁や将棋とは違い、偶数回の対局となり、白と黒を同じ回数ずつ持つ。引き分けを0.5勝と数え、過半数の勝数をあげれば勝ちとなる。偶数回の対局としているのは、先後の回数による有利不利をなくすことと、引き分けが多いために囲碁・将棋のような番勝負の仕組みが成立しないことが理由である。 スポーツ[編集] その他、北米4大プロスポーツリーグのうちMLB(ワールドシリーズ)・NBA(NBAファイナル)・NHL(スタンレー・カップ)や、日本プロ野球(クライマックスシリーズ・日本シリーズ)・プロバスケットボール(JBLプレーオフ)など、各国のスポーツのポストシーズンではこの方式を採用しているものが多い(多くは5戦3勝制、あるいは7戦4勝制)。 プロレスでは、「未来のエースと目された若手レスラーの試練」などの理由で、「○○十番勝負」という企画が行われることがある。大物レスラー十人が対戦相手を務める。ジャンボ鶴田の「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」、藤波辰巳の「飛龍十番勝負」などが有名。七番勝負の場合もある。 脚注[編集] ^ ただし、コミのルールは、現代では番勝負に限ったことではない。 ^ 手合割は1度目は道知の定先。2度目は不明(おそらく道知の先先先) ^ 一度目はすべて棋譜が残っているのに、こちらの方はなぜか棋譜が一局も残っていない。 ^ 上記の道悦・算知が争碁を打つ前に御城碁で対戦することになり、申し合わせで持碁にしたことから、その故事に倣ったものらしい ^ 宗銀は16歳(年齢は数え年)、印達は12歳。 ^ 囲碁の互先は本来1局毎に互いに先手番と後手番を交換して打つという意味であり、将棋の平手も同様である。また囲碁では定先と二子の間に先二、将棋では平手と香落ちと間に平香交じり(半香ともいう)というのがある。 --------- 白河天皇 白河天皇 第72代天皇 在位期間 1073年1月18日 - 1087年1月3日 元号 延久 承保 承暦 永保 応徳 先代 後三条天皇 次代 堀河天皇 誕生 天喜元年6月19日(1053年7月7日) 崩御 大治4年7月7日(1129年7月24日) 陵所 成菩提院陵 諱 貞仁 別称 六条帝 父親 後三条天皇 母親 藤原茂子 中宮 藤原賢子 女御 藤原道子 子女 堀河天皇 覚行法親王 覚法法親王 媞子内親王(郁芳門院) 令子内親王 ほか(后妃・皇子女節参照) テンプレートを表示 白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。 目次 [非表示] 1 略歴 2 人物 2.1 女性関係 2.2 天下三不如意 3 系譜 3.1 系図 4 后妃・皇子女 5 諡号・追号・異名 6 在位中の元号 7 陵・霊廟 8 脚注 9 参考文献 10 関連項目 略歴[編集] 後冷泉天皇の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として生まれる。母茂子、外祖父の能信ともに幼少時に死別し、父尊仁親王は関白の藤原頼通に冷遇されていた。治暦元年(1065年)に13歳で元服。治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け、貞仁親王となる。翌延久元年(1069年)立太子。同3年(1071年)に関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。 延久4年(1072年)、後三条から譲位され、20歳で即位する。関白は置いたが、延久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ、永保元年(1081年)宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する等[1]、摂関家の権勢を弱めることに努める。また摂関家内部でも関白の地位をめぐる藤原教通・信長父子と師実の対立があった。 父・後三条上皇とその母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反摂関家の貴族の意志もあり(白河天皇は関白の養女・賢子を中宮としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。しかし応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去し、これにより応徳3年(1086年)11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。なお、堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した中宮・賢子は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。 ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、師実も争いを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。上記の通り早々に退位したのは実子・善仁親王への譲位が目的であり、善仁親王の母親は師実の養女・賢子であり、後三条天皇の在位期間を例外として、再び2代続けて藤原氏が天皇家の外戚となり、これは実際には摂関政治への回帰だったと言える。堀河天皇が成人すると、上皇の政治介入に反発する関白・藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや、後述のように出家したこともあって、白河法皇もこれを許容していた。 それが大きく転換したのは、師通の急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御、その皇子で白河法皇の孫である第74代鳥羽天皇の即位が契機であったと考えられている。摂関政治の機能停止に伴って、父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政(藤原忠実)の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。永久元年(1113年)に発生したとされる永久の変において、なお期待されていた輔仁親王を没落に追い込んだ。 政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。特に叙位・除目に大きく介入し、人事権を掌握する。鳥羽天皇践祚後最初の除目である嘉承3年正月の除目では、近習の多くを実入りの多い国の受領に任じた。藤原宗忠はその態度を「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」と評している[2]。この除目以降、院の人事介入は「任人折紙」(にんじんおりがみ)という非公式の文書を、天皇や摂政に渡すことで行われた[3]。武士は、院の警護役として創設した北面武士などにあてた。特に康和4年(1102年)と保安元年(1120年)の2度にわたって藤原忠実の職権を停止したことは、摂関の権威の低下を内外に見せることになった。更に実仁親王立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては、親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した(法親王制度の創設は彼らへの慰藉の側面もある。なお、崇徳の異母弟である近衛天皇の誕生は白河院の没後である)。また、賢子との間の第一皇女・媞子内親王に深い鍾愛を注ぎ、幼帝の立場を強化する意味合いもあって、媞子内親王を堀河天皇の准母とし中宮に立后させた。非配偶の后(尊称皇后)の始めである。 熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096年)には鍾愛する皇女・媞子内親王の病没を機に出家し、法名を融観として法皇となった。また、法勝寺などの多くの寺院や仏像をつくらせたが、その経済力は受領のものを活用し、成功がより一層横行するようになった。 堀河天皇崩御後は、自らの孫である第74代鳥羽天皇、更に曾孫の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、43年間にわたり院政を敷いた。天皇の王権を超越した政治権力を行使するこうした「天皇家の家督」のことを、後世「治天の君」と呼ぶようになる。 大治4年7月7日(1129年7月24日)、77歳で崩御した。 人物[編集] 女性関係[編集] 不遇な状況にある東宮の王子であったため、治暦元年(1065年)に13歳で元服したが、妃の参入はなかった。延久元年(1069年)に立太子した後、同年義理の従姉にあたる藤原道子が参入し、同3年(1071年)には関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。 中宮となった賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前で白河天皇と関係を持っていたと記録に残る女性は、女御となった道子の他は典侍・藤原経子程度であり、数は必ずしも多くない。賢子の死後は正式な后や女御を入れず、側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持った。晩年の寵妃となり権勢を持った祇園女御など、下級貴族の生まれでも公然と寵愛した。加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。 また奔放な女性関係と併せて男色も好む傾向があり、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重、平為俊はいずれも男色関係における愛人出身といわれる。 天下三不如意[編集] 『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話がある。 「賀茂河の水」とは、古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川がもたらす水害のこと。「双六の賽(さい)」とは、文字通り双六の二つのサイコロが出す「賽の目」のことである[4]。「山法師」とは、勝手な理由にかこつけては日吉山王社の神輿を担いで都に雪崩れ込み強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧衆(僧兵)のことである。 法皇がこの三つだけはどうしても思うようにならないと愚痴をこぼすぐらいだということで、やがてこれが「天下三不如意」として広く一般にも知られるようになった。今日ではこれを、白河法皇の権力はこの三つ以外のものであれば何でも思い通りになると豪語するほど絶大なものだった、という逆説的な意味に取ることが多い。しかし「賀茂河の水」は「天災」、「双六の賽」は「確率」であって、これらは誰が何をしようとしてみてもそもそも思い通りになるものではないのに対し、「山法師」は名目こそは「神意」であってもその実は「政治」に他ならなかった。既成の優遇措置を朝廷が他の寺社にも与えようとしたり、寄進された荘園を国司が横領しようとしたりするたびに、延暦寺は山王社の暴れ神輿を盾に、公卿百官を力で捻じ伏せていたのである。「天下三不如意」の真意は、この延暦寺に対して打つ手もなく苦悶する白河法皇の姿にある。 系譜[編集] [表示]白河天皇の系譜 系図[編集] (71)後三条天皇 (72)白河天皇 (73)堀河天皇 (74)鳥羽天皇 (75)崇徳天皇 重仁親王 覚行法親王 最雲法親王 (77)後白河天皇 実仁親王 覚法法親王 (76)近衛天皇 媞子内親王 (郁芳門院) 輔仁親王 (源)有仁 篤子内親王 后妃・皇子女[編集] 中宮:藤原賢子(1057年 - 1084年) - 源顕房女、藤原師実養女 第一皇子:敦文親王(1075年 - 1077年) 第一皇女:媞子内親王(郁芳門院)(1076年 - 1096年) - 伊勢斎宮 第三皇女:令子内親王(二条大宮)(1078年 - 1144年) - 賀茂斎院 第三皇子:善仁親王(堀河天皇)(1079年 - 1107年) 第四皇女:禛子内親王(土御門斎院)(1081年 - 1156年) 女御:藤原道子(1042年 - 1132年) - 藤原能長女 第二皇女:善子内親王(六角斎宮)(1076年 - 1131年) 典侍:藤原経子 - 藤原経平四女、後に藤原公定室 第二皇子:覚行法親王(1075年 - 1105年) - 仁和寺門跡 源師子(1070年 - 1148年) - 源顕房女、後に藤原忠実室 第四皇子:覚法法親王(1092年 - 1153年) - 仁和寺門跡 源頼子 - 源頼綱女 第五皇女:官子内親王[5](清和院斎院)(1090年 - ?) 藤原季実女 第六皇女:恂子内親王(樋口斎宮)(1093年 - 1132年) 春日殿 - 藤原師兼女、後に藤原宗通妻 第五皇子:聖恵法親王(1094年 - 1137年) 源政長女 行慶(1101年 - 1165年) - 大僧正 備前 - 源有宗女 円行(1128年? - 1143年) 源顕房女? 静証 祇園女御 - もと源惟清あるいは源仲宗妻? 祇園女御妹 - 後に平忠盛妻 平清盛(1118年 - 1181年) ※あくまで一説 廊御方 - 藤原通季女、後に藤原実能妻 宇礼志岐(賀茂女御)(1070年 - 1148年) - 賀茂重助女 伊波比乎(賀茂女御) - 賀茂重助女 諡号・追号・異名[編集] 洛東白河の地に「国王の氏寺」と称される壮麗な伽藍・法勝寺を建て、さらにその西側に白河北殿を造営し、院御所とした。崩御に際し、遺諡によって自ら白河院の追号を決めたという。また六条帝の異名もある。大正以後、院号は停廃され白河天皇とされる。 在位中の元号[編集] 延久 承保 承暦 永保 応徳 陵・霊廟[編集] 成菩提院陵 陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町にある成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)に治定されている。公式形式は方丘。 この陵の近所には、別に同陵の有力な比定候補地が存在し、ここは陵墓参考地として宮内庁の管轄地となっている。 また、白河法皇は当初、自身の死後は土葬されることを望み、たびたび周囲の者にその意向を伝えていたが、同様に土葬された藤原師通が、生前に彼と対立していた興福寺の僧兵が報復としてその墓を暴き、遺体を辱めんと計画していたことを知り、自身も後世に同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽火葬にするように命じたという。法皇の遺体を荼毘に付したとされる火葬塚は京都市北区の金閣小学校の近くに現存する。 そのほか皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 脚注[編集] ^ 豊田寛三・後藤宗俊・飯沼賢司・末廣利人 編集 『大分県の歴史』 山川出版社 2011年 ISBN 978-4-634-32441-1、69p ^ 『中右記』 天仁元年十月二十八日条 ^ 美川圭 『白河法皇 中世をひらいた帝王』 角川ソフィア文庫 ISBN 978-4044092047、88p ^ この「双六の賽」には近年になって新たな解釈がなされるようになった。「上達しない白河法皇自身の双六の腕前」、あるいは「取り締まりが捗らない双六賭博の流行」だとするものなどである。 ^ 『皇胤系図』による。『本朝皇胤紹運録』では「宮子」とする。 参考文献[編集] 美川圭 『白河法皇 中世をひらいた帝王』(日本放送出版協会、2003年 ISBN 4140019735、角川ソフィア文庫、2013年 ISBN 978-4044092047) 佐々木宗雄 『平安時代国制史研究』(校倉書房、2001年) ISBN 4751732005 河内祥輔「後三条・白河「院政」の一考察」(初出:石井進 編『都と鄙の中世史』(吉川弘文館、1992年) ISBN 464202641X 所収:『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 4642028633 角田文衛 『平安の春』(講談社学術文庫、1999年) ISBN 4061593609 土田直鎮 『日本の歴史〈5〉王朝の貴族』(中央公論新社、2004年)ISBN 4122044251 梅原猛 『京都発見〈9〉比叡山と本願寺』(新潮社、2007年) ISBN 4103030224 樋口健太郎 『中世摂関家の家と権力』(校倉書房、2011年) ISBN 4751742809 関連項目[編集] 万寿寺 - 六条御堂 新・平家物語(1972年・NHK大河ドラマ) - 演 : 滝沢修 平清盛(2012年・NHK大河ドラマ) - 演 : 伊東四朗 矢代寸神社 [表示] 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 典拠管理 WorldCat VIAF: 72945767 LCCN: n88141280 NDL: 00948734 カテゴリ: 日本の天皇平安時代の人物院政1053年生1129年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 Deutsch English Español Français Bahasa Indonesia 한국어 Português Русский 中文 他 14 リンクを編集 最終更新 2017年6月10日 (土) 15:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki --------- --------- --------- --------- --------- --------- --------- --------- --------- --------- ---------