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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --------- ペア碁 ペア碁(ペアご)は、二人が組を作って対戦する、囲碁の競技の一形式。現在では国内プロ棋戦も行われ、国際大会でも正式種目として採用されるなど、囲碁を楽しむ形式の一つとして市民権を得ている。 同性同士がペアを組んで戦うことももちろん可能だが、日本ペア碁協会のルールでは「男女がペアを組む」と規定されており、一般にも普及・交流の目的などから、男女ペアで行われることがほとんどである。 男女ペアで戦う形式は1990年代ごろから開始された。ペア碁に勝つためには、パートナーとの意思の疎通、お互いのミスをカバーし合う気遣いなども必要であり、通常の対局にはない独特の楽しみがある。 目次 [非表示] 1 ルール 2 類似の形式 3 関連項目 4 外部リンク ルール[編集] 「日本ペア碁協会」の定めるルールは以下の通り。 男女がペアを組み、同じチームの男女は碁盤の同じ側に並んで座る。 男女交互に着手する。最初の着手は黒番女性が行い、以下白番女性→黒番男性→白番男性→黒番女性→……の順に着手を行う。 ペア同士で、着手について相談・アドバイスを行ってはならない。投了・着手順番の確認のみ、会話が許される。 投了の意思確認は手番の対局者がパートナーに対して行い、パートナーは諾否のみを述べることができる。 着手順番を間違えた場合、直前の着手に対してのみ指摘ができる。順番ミスがあった場合、石を置き直すことはせず、間違えたチームに対して3目のペナルティが科される。 類似の形式[編集] 数人がチームを作って交代に打つ「連碁」という形式もあり、江戸時代から打たれている。多くは勝負碁ではなく、祝賀会の記念などとして座興で打たれるケースがほとんどである。また、ペア同士が相談しながら次の着手を決める「相談碁」というものもある。この場合相手に相談内容が聞こえないよう別室で打ち、連絡係が着手を伝えるような形式が採られる。 関連項目[編集] ペア碁選手権戦 外部リンク[編集] 日本ペア碁協会 --------- ペア碁選手権戦 ペア碁選手権戦(ペアいごせんしゅけんせん)は、囲碁の男女棋士ペアによる棋戦。男女のプロ棋士がペアとなり、交代に着手する(相談は不可)というペア碁の形式でトーナメントを戦い、優勝者を決める。2009年までは協賛のリコーを冠したリコー杯ペア碁選手権。 主催 日本ペア碁協会 特別協力 日本棋院 協力 関西棋院、週刊碁、The Daily Yomiuri 後援 読売新聞社 協賛 15回までリコー 16回以降 東京メトロ、JR貨物、パンダネット、メトロアドエージェンシー、JR東日本 17回以降 シャープ、山崎製パン 16回のみ アサヒビール、大塚製薬、オカムラ、KDDI、ANA、東京海上日動火災保険、野村證券、三菱地所 2010年優勝ペアは、ペア碁ワールドカップに出場。 2014年優勝ペアは、日中韓ペア碁名人選手権に出場。 方式[編集] 前期優勝ペアはシードされ、タイトル権者・ランキングから棋士は選出され、ペアはくじで決定される。 16組で5回戦のトーナメントを行い優勝ペアを決定する。2009年のみ、16組を2ブロックに分け、トーナメントにより優勝ペア2組を決定。 2011年は、アジア競技大会ペア碁代表の2組がシードされた。 歴代優勝ペアと決勝戦[編集] (左が優勝者) 1995年 小西和子・橋本昌二 - 中澤彩子・石田芳夫 1996年 小林泉美・小林光一 - 小西和子・橋本昌二 1997年 知念かおり・結城聡 - 佃亜紀子・大竹英雄 1998年 青木喜久代・本田邦久 - 矢代久美子・加藤正夫 1999年 青木喜久代・本田邦久 - 西田栄美・柳時熏 2000年 吉田美香・東野弘昭 - 穂坂繭・山田規三生 2001年 楠光子・依田紀基 - 大澤奈留美・林海峰 2002年 祷陽子・趙治勲 - 楠光子・依田紀基 2003年 祷陽子・趙治勲 - 吉田美香・小林光一 2004年 小林泉美・山下敬吾 - 祷陽子・趙治勲 2005年 青木喜久代・三村智保 - 加藤啓子・王立誠 2006年 鈴木歩・張栩 - 小林泉美・山下敬吾 2007年 山田規三生・岡田結美子 - 鈴木歩・張栩 2008年 大沢奈留美・趙治勲 - 謝依旻・河野臨 2009年 加藤啓子・羽根直樹 - 謝依旻・井山裕太 2010年 (Aブロック)石井茜・坂井秀至 - 吉田美香・黄翊祖、(Bブロック)梅沢由香里・高尾紳路 - 加藤啓子・羽根直樹 2011年 謝依旻・王銘琬 - 鈴木歩・結城聡 2012年 謝依旻・王銘琬 - 吉原由香里・結城聡 2013年 謝依旻・ 小林覚 - 大澤奈留美・溝上知親 2014年 矢代久美子・井山裕太 - 向井千瑛・結城聡 2015年 小山栄美・羽根直樹 - 鈴木歩・秋山次郎 2016年 王景怡・村川大介 - 奥田あや・高尾紳路 外部リンク[編集] プロ棋士ペア碁選手権 --------- 平成四天王 平成四天王 名前 平成四天王 出身地 台湾台北市・北海道旭川市・三重県志摩市・千葉県千葉市 所属 日本棋院東京本院・中部総本部 師匠 林海峰・菊池康郎・羽根泰正・藤沢秀行 概要 七大タイトル 棋聖 10期 (2003-12) 名人 7期 (2004-08・11-12・16) 本因坊 9期 (2003-11) 王座 9期 (2003-11) 天元 7期 (2001-04・08-09・14) 碁聖 6期 (2000・06-09・11) 十段 4期 (2008-10・14) この表について[表示] 平成四天王(へいせいしてんのう)は、平成期に活躍しているトップ囲碁棋士四名の総称。張栩、山下敬吾、羽根直樹、高尾紳路の四人を指す。 BYR color wheel.svg この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 目次 [非表示] 1 概要 2 若手時代 3 七大タイトル歴 4 棋道賞 5 その他のタイトル 6 国際棋戦での活躍 7 参考文献 8 外部リンク 概要[編集] 1970年代後半に小林光一、趙治勲らの世代が台頭して以降、依田紀基を除いてはこの世代の棋士達からタイトルを奪取できる棋士が長らく現れない時代が続いていた。 そのような時代において、1990年代後半から張、山下、羽根、高尾の四人が二十歳前後の若さで相次いで好成績をあげ始めたことから「若手四天王」と呼ばれ将来を嘱望されるようになった。実際に、2000年の山下の碁聖位獲得を皮切りに、2004年から2008年までは三大タイトルを独占、2008年には七大タイトルを独占、2006年から2010年までの全ての七大タイトルに登場するなど、その後の活躍も大きく、「平成四天王」と呼ばれるようになり平成囲碁界の中心的存在となった。 2010年以降は、次世代の筆頭格である井山裕太の台頭により、四天王の全員が井山からタイトルを奪取され第一人者としての地位を奪われているが、2016年には張がNHK杯戦で優勝、さらに高尾が当時七冠独占を果たしていた井山から名人位を奪い返しており、現在もなお奮闘している。 若手時代[編集] 1995 羽根:新鋭トーナメント戦優勝 1996 高尾: 新人王戦優勝 1998 山下: 新人王戦優勝(以後4連覇)高尾:新人王戦準優勝 1999 羽根: 王冠、新人王戦準優勝 2000 張栩: 棋聖・本因坊リーグ入り; 山下:碁聖; 高尾:竜星; 羽根:名人・本因坊リーグ入り、新人王戦準優勝 2001 張栩: 本因坊戦挑戦者; 羽根:天元、棋聖リーグ入り 2002 張栩: NHK杯、新人王戦優勝; 山下:棋聖・名人・本因坊リーグ入り; 羽根:天元 七大タイトル歴[編集] 色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)、色付きのマス目は四天王同士の対決(上段が勝者)。青色は挑戦者または失冠。他の棋士との比較は、囲碁のタイトル在位者一覧 、囲碁の記録一覧を参照。 棋聖 十段 本因坊 碁聖 名人 王座 天元 備 考 2000年 (平成12) 山下敬吾 山下新碁聖 2001年 (平成13) 張栩 山下敬吾 羽根直樹 羽根新天元 2002年 (平成14) 羽根直樹 2003年 (平成15) 山下敬吾 張栩 山下敬吾 張栩 羽根直樹 山下敬吾 山下新棋聖、張新本因坊、張新王座 2004年 (平成16) 羽根直樹 山下敬吾 張栩 張栩 張栩 張栩 山下敬吾 山下敬吾 羽根直樹 羽根新棋聖、張新名人、山下新天元 2005年 (平成17) 羽根直樹 高尾紳路 張栩 張栩 張栩 山下敬吾 山下敬吾 高尾新本因坊 2006年 (平成18) 山下敬吾 羽根直樹 山下敬吾 高尾紳路 張栩 高尾紳路 張栩 山下敬吾 張栩 山下敬吾 張新碁聖、高尾新名人、山下新王座 すべてのタイトル戦に四天王が出場。 2007年 (平成19) 山下敬吾 山下敬吾 高尾紳路 張栩 張栩 高尾紳路 山下敬吾 山下敬吾 2008年 (平成20) 山下敬吾 高尾紳路 羽根直樹 高尾紳路 張栩 山下敬吾 張栩 張栩 山下敬吾 張栩 高尾新十段、羽根新本因坊、張新天元 四天王がタイトル独占 2009年 (平成21) 山下敬吾 張栩 高尾紳路 羽根直樹 高尾紳路 張栩 張栩 張栩 山下敬吾 張栩 張新十段、張史上初の五冠、張碁聖4連覇、山下棋聖4連覇 2010年 (平成22) 張栩 山下敬吾 張栩 山下敬吾 山下敬吾 羽根直樹 張栩 高尾紳路 張栩 山下敬吾 張新棋聖、山下新本因坊、張史上二人目のグランドスラム 2011年 (平成23) 張栩 張栩 山下敬吾 羽根直樹 羽根直樹 山下敬吾 張栩 羽根直樹 羽根新碁聖、山下新名人、張王座4連覇 2012年 (平成24) 張栩 高尾紳路 張栩 山下敬吾 羽根直樹 山下敬吾 羽根直樹 張栩 2013年 (平成25) 張栩 高尾紳路 山下敬吾 張栩 2014年 (平成26) 山下敬吾 高尾紳路 高尾紳路 高尾新天元 2015年 (平成27) 山下敬吾 高尾紳路 山下敬吾 山下敬吾 高尾紳路 高尾紳路 2016年 (平成28) 山下敬吾 高尾紳路 高尾紳路 井山裕太がタイトル独占 棋聖 十段 本因坊 碁聖 名人 王座 天元 備 考 2014年9月現在52タイトル獲得。 囲碁七大タイトル獲得記録 順位 獲得回数 棋士名 1位 42期 趙治勲* 2位 35期 小林光一* 3位 33期 井山裕太* 4位 31期 加藤正夫 5位 23期 張栩* 6位タイ 21期 坂田栄男 | 林海峰* 8位 17期 大竹英雄* 9位タイ 14期 藤沢秀行 | 山下敬吾* 表示 *は現役棋士 2016年天元戦終了時点 棋道賞[編集] 最優秀棋士賞 9回(9年連続) 張栩:7回 / 山下敬吾:2回 優秀棋士賞 16回(7年連続) 張栩:3回 / 山下敬吾:6回 / 高尾紳路 : 2回 / 羽根直樹 : 5回 最多勝利賞 13回 (9年連続) 張栩:5回 / 山下敬吾:3回 / 高尾紳路 : 2回 / 羽根直樹 : 3回 その他のタイトル[編集] 2004 高尾紳路:竜星戦; 羽根直樹:阿含・桐山杯 2005 張栩:NECカップ、NHK杯 2006 張栩:阿含・桐山杯、竜星戦; 高尾紳路:大和証券杯; 羽根直樹:NHK杯 2007 張栩:NECカップ、阿含・桐山杯、竜星戦; 高尾紳路:大和証券杯 2008 張栩:阿含・桐山杯、NHK杯 2009 羽根直樹:NECカップ、阿含・桐山杯 2010 山下敬吾:阿含・桐山杯、竜星戦 2011 張栩:NECカップ 2012 張栩:阿含・桐山杯; 高尾紳路: NECカップ 2013 山下敬吾:竜星戦 2016 張栩:NHK杯 国際棋戦での活躍[編集] 2002 羽根直樹:日中天元戦優勝 2003 羽根直樹:第4期春蘭杯世界囲碁選手権戦準優勝 2005 張栩: 9回LG杯世界棋王戦優勝、17回テレビ囲碁アジア選手権戦優勝 2007 張栩:3回トヨタ&デンソー杯囲碁世界王座戦準優勝  参考文献[編集] 上村邦夫『新四天王(山下敬吾・張栩・羽根直樹・高尾紳路)のここが強い』誠文堂新光社 2006年 外部リンク[編集] 「若手四天王番碁に新風」 「平成四天王」 --------- 上手と下手 Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年6月) 上手と下手(かみてとしもて、うわてとしたて、じょうずとへた)とは、方向や技量の上下を表す用語。 目次 [非表示] 1 「かみて」と「しもて」 1.1 舞台 1.2 その他 2 「うわて」と「したて」 3 「じょうず」と「へた」 4 関連項目 「かみて」と「しもて」[編集] 舞台[編集] 能舞台。左右非対称で、下手には「橋掛」がある。 舞台の楽器配置の例。一般的なピアノの場合、大屋根(反響板)を客席に向かって開くと、奏者は下手側になる。 舞台用語で上手(かみて)と下手(しもて)は、舞台(ステージ)の左右を区別する言葉である。 上手は舞台の左側(客席から見て右側)、下手は舞台の右側(客席から見て左側)である。客席からでは左右が逆になるので、これらを右と左で区別することは非常に紛らわしいが、英語では舞台から見た左右で表し、上手は stage left、下手は stage right と呼ぶ。上手と下手どちらがどちらかを覚える語呂合わせに「ピアニッシモ」があり、舞台でピアノを弾く側が下手である。 その他[編集] 目上の人や自分にとって上位にあたる人が座る上座の方向を上手と表す。日本で用いられる場合、家の入口である玄関から遠く、床の間に最も近い席を指す場合が多い。主に、父親(家長)などが座るとされる。 川や河川の流れてくる方向(上流、川上)や風の吹いてくる方向(風上)を表すときにも用いられる。この用例では「上手(うわて)」とも。 このように「手」という言葉を用いる場合、「手」には「方向」を示すニュアンスがこめられる。また、「上」には「重要なもの」や「物事の流れてくる方向」(起点)の意味がある。 「うわて」と「したて」[編集] 上手(うわて)とは、ある物や人が、能力や思考の点で別の物や人よりも優れていること、あるいはある人よりも立場が上の場合のことを指す。「君は僕より一枚上手だ」など。対して、下手(したて)とは、へりくだって非好戦的な態度で接することを卑下することを指し、「下手に出る」という形で用いられる。 相撲で上手(うわて)とは、互いに同じ側の廻しを取り合った状態で、相手の腕の外側から相手の廻しを引いた状態のこと。また、その相手の廻しにやった手のことをいう。上手を取って投げるのを上手投げなどと言う風にも使われる。一般には利き手で上手を取った方が有利とされているので、これを嫌って「上手を切る」ことがある。対して、相手の腕の下でまわしをつかむこと。そのつかんだ手のことを下手(したて)という。 囲碁や将棋において上手(うわて)とは比較してより強い方、下手(したて)とは弱い方を指す。特にハンデキャップをつけた対局(将棋では駒落ち、囲碁では置き碁)において、駒を落としている側、または石を置かせている側の対局者を上手(うわて)、駒を落としていない側、または石を置いている側の対局者を下手(したて)という。 「じょうず」と「へた」[編集] 上手(じょうず)とは、技術や動作に優れていたり習熟していること、あるいはそのような人のことを表し、しばしば褒め言葉として用いられる。また、「人を喜ばせてうまく(都合のいいように)物事を運ぶ」ような意味あいから転じて、お世辞など口先だけのことばを言って相手を喜ばせることを「お上手」(おじょうず)と言うことが多い。ある分野において特に優れた名人でも失敗やつまずくことはあるという意味で、「上手の手から水が漏れる」という諺も存在する。対して、下手(へた)とは、あるものごとを人並みに達成できない様子で、道具などを操るときの不器用さを表現するときによく用いられる。 このように「手」という言葉を用いる場合、「手」には「技量」・「腕前」を示すニュアンスがこめられる。また、「上」には「(能力が)高い」「うまい」のような意味がある。 また上手は江戸時代の囲碁の段級位制において名人(九段)・準名人(八段)に続く地位(七段)である。 関連項目[編集] 上手 - 地名などについて 下手 - 地名などについて 上下 - 左右 (うわて) 上手投げ - 上手廻し 相撲用語一覧 --------- --------- 順徳天皇 順徳天皇 順徳天皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より) 第84代天皇 在位期間 1210年12月12日 - 1221年5月13日 承元4年11月25日 - 承久3年4月20日 即位礼 承元4年12月28日(1211年1月14日) 大嘗祭 建暦2年11月13日(1212年12月7日) 元号 承元 建暦 建保 承久 追号 順徳院 建長元年7月20日(1249年8月29日)追号勅定 関白 近衛家実 先代 土御門天皇 次代 仲恭天皇 誕生 建久8年9月10日(1197年10月22日) 卿二位邸か 崩御 仁治3年9月12日(1242年10月7日) 佐渡 大喪儀 寛元元年5月13日(1243年6月1日) 陵所 大原陵 真野御陵(火葬塚) 諱 守成 正治元年12月16日(1200年1月4日)命名 別称 佐渡院 元服 承元2年12月25日(1209年2月1日) 父親 後鳥羽天皇 母親 藤原重子(修明門院) 中宮 九条立子(東一条院) 子女 仲恭天皇ほか(后妃・皇子女節参照) 皇居 平安宮 三条坊門殿 大炊御門殿 三条烏丸殿 閑院 高陽院 テンプレートを表示 順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日))[1][2][3]。諱は守成(もりなり)[1][2][3]。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。 目次 [非表示] 1 略歴 2 系譜 2.1 系図 3 后妃・皇子女 4 在位中の元号 5 陵・霊廟 6 伝承 7 脚注 8 参考文献 9 関連項目 10 外部リンク 略歴[編集] 後鳥羽天皇と、寵妃藤原重子(修明門院)の皇子として生まれる[1][2][3]。正治元年(1199年)1月に親王宣下[2]。正治2年(1200年)4月に土御門天皇の皇太弟となる[2]。穏和な土御門天皇とは対照的に激しい気性の持ち主だと言われていて、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたためである。摂政である九条良経が自分の娘(立子)を土御門天皇に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそれを中止して東宮(順徳天皇)の妃にするように命じ(『愚管抄』巻6)、更に長年朝廷に大きな影響を与えてきた後白河法皇の皇女で歌人として名高かった式子内親王を東宮の准母にしようとして彼女の急死によって失敗に終わると、その代わりとして上皇自身の准母であった殷富門院(式子の姉)を准母として(『猪隈関白記』建仁元年12月18日条)、上皇の後継者としての地位強化が図られている[4]。さらに承元2年(1208年)8月、莫大な八条院領を相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とし、建暦元年(1211年)11月の昇子内親王の死後には八条院領を相続した。 承元4年(1210年)11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚し、14歳で即位する[1][2]。譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による院政が継続される。そのため、即位後の内裏は閑院であった[2]。天皇の治世に関して、『増鏡』は「この御世には、いと掲焉なる事おほく、所々の行幸しげく、好ましきさまなり」と評しているが、このように世人の注目を引く華々しい行動が多かったのは、鎌倉幕府に対する皇権の示威行為の一端と考えられ、おそらく父上皇の意図によるところが大きい。 直接政務に与らない天皇は、王朝時代の有職故実研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『禁秘抄』を著した[2][3]。これは天皇自身に関わる故実作法の希少な書物として、後世永く珍重された。また、父の影響で和歌や詩にも熱心で、藤原定家に師事して歌才を磨き、藤原俊成女や藤原為家とも親交があった。家集としては『順徳院御集』(紫禁和歌草)があり、歌論書には、当時の歌論を集大成した『八雲御抄』が知られる[2][3]。『続後撰集』以下の勅撰集には159首が入る。 父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた[2]。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった[3]。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった[2][3]。在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御した[2]。病気は重くなかったが、還京の望みがない以上の存命は無益として、断食を行った後、最期は自らの頭に焼石を乗せて亡くなったと伝えられる[要出典]。なお、在島中の詠歌として、貞永元年(1232年)の『順徳院御百首』が残されている[3]。配流後は佐渡院と称されていたが、建長元年(1249年)7月20日順徳院と諡された[2]。 藤原定家は幕府への配慮から、『新勅撰和歌集』に順徳天皇の御製を採らなかったが、『小倉百人一首』には以下の1首を採録した。 ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院) 角田文衞は、順徳天皇に反幕府の意識が強かったのは、平家の生き残りである祖母平教子の元で育ち、周囲には平家の関係者が多かったことに一因があるのではないかと見ている。 系譜[編集] [表示]順徳天皇の系譜 系図[編集] 77 後白河天皇 78 二条天皇 以仁王 80 高倉天皇 亮子内親王 (殷富門院) 式子内親王 覲子内親王 (宣陽門院) 79 六条天皇 某王 (北陸宮) 81 安徳天皇 守貞親王 (後高倉院) 82 後鳥羽天皇 86 後堀河天皇 83 土御門天皇 84 順徳天皇 87 四条天皇 88 後嵯峨天皇 85 仲恭天皇 忠成王 (岩倉宮) 后妃・皇子女[編集] 中宮:藤原(九条)立子(東一条院、1192-1247) - 九条良経女 皇女:諦子内親王(明義門院、1217-1243) 皇子:懐成親王(九条廃帝(仲恭天皇)、1218-1234) 典侍:藤原氏(督典侍) - 藤原範光女 皇子:彦成王(1219?-1286?) - 佐渡勝興寺を開基した善空房信念がこの彦成王にあたるという伝承がある 皇子:善統親王(四辻宮、1233-1317) 後宮:藤原位子(大納言局) - 坊門信清女 皇女:穠子内親王(永安門院、1216-1279) 後宮:藤原氏 - 藤原清季女 皇子:尊覚法親王(1215-1264) - 仁和寺、天台座主 皇子:覚恵法親王(1217-?) - 聖護院、園城寺長吏 皇子:忠成王(岩倉宮、1222-1279) 後宮:源氏(宰相局) - 法印公雅女 皇子:義尹(1217-1300) - 肥後大慈寺開山 生母不詳(配流先の佐渡で儲けたという皇子女) 皇女:慶子女王(1225?-1286?) 皇女:忠子女王(1232?-1249?) 皇子:某(千歳宮、1237?-1254?) 在位中の元号[編集] 承元 (1210年11月25日) - 1211年3月9日 建暦 1211年3月9日 - 1213年12月6日 建保 1213年12月6日 - 1219年4月12日 承久 1219年4月12日 - (1221年4月20日) 陵・霊廟[編集] 大原陵 陵(みささぎ)は、京都府京都市左京区大原勝林院町にある大原陵(おおはらのみささぎ)に治定されている[3]。公式形式は円丘。 崩御翌日に佐渡真野山にて火葬されたが、寛元元年(1243年)4月に遺骨は都に持ち帰られ、翌月に後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。堂は後に荒廃して所在も不明となったが、元禄探陵の際に当所が陵に擬定され、明治22年(1889年)正式に治定された。 なお、新潟県佐渡市真野にある真野御陵(まののみささぎ)は正式には火葬塚であるが、古来地元から御陵として崇敬されてきたもので、延宝7年(1679年)に佐渡奉行曽根吉正が修補を加え、明治7年(1874年)から政府の管理下にある。ちなみに、この陵は宝暦12年(1762年)に起こった佐渡沖地震の際、石垣が崩れる被害があったという[5]。 皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮では、祭神として祀られている。 伝承[編集] 佐渡に流された後、密かに脱出し出羽国酒田に上陸して最上川をさかのぼり、村山郡の御所山(現山形県尾花沢市)に隠棲したという[6]。乗馬中に落馬して死去し、随行した阿部時頼によって御所神社が創建された。 脚注[編集] ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - コトバンク ^ a b c d e f g h i j k l m 朝日日本歴史人物事典 - コトバンク 『秋山喜代子』 ^ a b c d e f g h i 日本大百科全書(ニッポニカ) - コトバンク 『山本博也』 ^ 栗山圭子「准母立后制にみる中世前期の王家」(初出:『日本史研究』465号(2001年)/所収:栗山『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年 ISBN 978-4-642-02910-0) ^ 都司嘉宣 佐渡沖地震(1762年) 島北端を襲った大津波 - 産経新聞 ^ 山形新聞社(2003,pp.27) 参考文献[編集] 芸林会・編『順徳天皇とその周辺』1992年 臨川書店 ISBN 4653025169 新関昭男・安彦好重 『やまがた 地名伝説 第1巻』 山形新聞社、2003年。 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、順徳天皇に関連するカテゴリがあります。 ポータル 文学 ポータル 文学 阿仏坊日得 外部リンク[編集] 新潟県観光協会 にいがた観光ナビ 「真野宮」 佐渡観光協会 さど観光ナビ 「真野宮」 [表示] 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 [表示] 表 話 編 歴 小倉百人一首 典拠管理 WorldCat VIAF: 11308064 LCCN: n85357407 SUDOC: 116369310 NDL: 00272749 順徳院に関するカテゴリ: 小倉百人一首の歌人 カテゴリ: 日本の天皇日本の幼帝鎌倉時代の人物鎌倉時代の歌人佐渡国の人物日本の神 (人物神 御霊信仰)1197年生1242年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ウィキクォート ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 Deutsch English Español Français Bahasa Indonesia 한국어 Português Русский 中文 他 14 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