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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) Bonanza 曖昧さ回避 この項目では、将棋のフリーウェアについて説明しています。その他の用法については「ボナンザ」をご覧ください。 Bonanza 作者 保木邦仁 最新版 The Final / 2013年7月22日(3年前) プログラミング言語 C言語、Perl[1] 対応OS Windows 対応言語 英語 種別 コンピュータ将棋 公式サイト www.geocities.jp/bonanza_shogi/ テンプレートを表示 Bonanza(ボナンザ)は、コンピュータ将棋のプログラム。Windows用のフリーウェアとして公開されており、誰でも無償でダウンロードして利用できる。ソースコードも公開されている。 目次 [非表示] 1 概要 1.1 ソースコード公開後 2 プロ棋士との対局 2.1 渡辺明竜王との対局 2.2 清水市代女流王将との対局 3 思考ルーチン 3.1 数式 3.2 駒の価値 4 更新履歴 5 パッケージ製品 6 ソースコードのライセンス 7 ボナンザ囲い 8 競技会成績 9 フリーソフトのBonanzaをグレードアップするには 10 脚注・出典 11 参考文献 12 関連項目 13 外部リンク 概要[編集] 作者は公開当時カナダ在住だった日本人の化学者保木邦仁。作成当時は将棋についてはほとんど知らないことも話題となった[2]。後に発行した本では、自らの棋力を「11級」と評した[3]。 2005年6月にver.1.0が公開。その棋力の高さは公開直後から渡辺明が自身のブログで「プロが平手で餌食になった」「奨励会有段者クラスがコロコロ負けているらしい」とたびたび話題にし[4]、渡辺自身も「10秒将棋[5]だと10回に1、2回はやられる」と述べた[6]。また、コンピュータらしくない自然な手を指すとの評が確立した。棋力の指標となる将棋倶楽部24でのレイティングは2006年当時で2400以上(アマチュア五段相当=主要アマチュア棋戦の県代表争いレベル)に達した。 メジャーアップデートされたver.2.0は2006年5月に行われた第16回世界コンピュータ将棋選手権大会にBonanzaとして初出場し、歴戦の将棋ソフトが居並ぶ中で初優勝した[7][8][9]。高性能なワークステーションで参加する者も多い中、Bonanzaは一般向けのノートパソコン (VAIO SZ-90S)、筐体を冷却するのは小型USB扇風機と、低スペックの環境での優勝であった。この赤い扇風機は、後に市販された初回限定版に同梱されるなどBonanzaの象徴となり、後述する渡辺との対局でも、Bonanzaのシンボルマークとして筐体の上に設置された(風は送っていない)。既に草創期を脱し強豪ソフトが固定化されてきた中、初出場での優勝、ノートパソコンでの優勝、フリーウェアの優勝という三重の「初づくし」は、コンピュータ将棋界に巨大な衝撃を与えた。 ソースコード公開後[編集] 2006年11月11日の第11回 ゲーム・プログラミングワークショップ2006にて、アルゴリズムの詳細が発表された[10]。 2009年1月、保木はBonanza Version 4.0.3の思考ルーチンのソースプログラムを公開し、他の開発者の利用を認めた。これにより、Bonanzaの思考ルーチンの詳細が明らかになった。これを利用し、2009年5月の第19回世界コンピュータ将棋選手権には電気通信大学の開発チームが、乱数によって異なる思考を行う複数のBonanzaライブラリの合議制アルゴリズムによって指し手を決定する「文殊」を開発して初出場し、本家Bonanzaに直接対決では敗れたものの、総合成績ではBonanzaの5位を上回る3位となった。 2010年5月の第20回世界コンピュータ将棋選手権では、保木と文殊チームが連合し合議制アルゴリズムを採用した「Bonanza Feliz」(Ver.5.0に相当)を擁して出場し5位となったほか、3チームがBonanza4.0.3ライブラリ採用のソフトで出場し、「ボンクラーズ」が本家を上回る4位、芝浦工業大学の「芝浦将棋」が初出場ながら決勝に進出して7位となった。 2011年5月の第21回世界コンピュータ将棋選手権では、電気通信大学の特任助教に就任した保木が単独名義において、ver.6.0でエントリーし2位となる。この大会では、総計17台132コアのコンピュータによる並列処理を行い、うち1台はこれまで搭載していなかった長手数の詰将棋専用のルーチンを搭載して即詰みに対応した。また、保木以外に3チームがBonanzaライブラリ採用のソフトで参加した[11]。 2012年5月の第22回世界コンピュータ将棋選手権では、保木は前年を上回る総計26台288コアのコンピュータを用意し、前年から取り組んでいる「合議法、クラスター並列探索、詰将棋専用マシンによる疎結合並列化」を推し進めたが、二次予選で9位となり、Bonanzaは初めて大会の決勝に残ることができなかった。この大会では6チームがBonanza6.0のライブラリを採用し、ボンクラーズから名称を変更した「Puella α」が2位に入った。 2013年5月の第23回世界コンピュータ将棋選手権では、保木は31台388コアのクラスタ構成[12]で大会に臨み、前年は通過できなかった二次予選を4位で通過した。8チームの総当りで行われる決勝では6回戦を終えて4勝2敗となり、最終7回戦は5勝1敗の首位で前年の優勝チームであり、直前に行われた「電王戦」で三浦弘行八段を破ったGPS将棋との対局となった。対局は途中でBonanzaに即詰みが発生する必敗の局面となったが、25分の持ち時間を使い切ると即敗退となる制限時間のルールにより、GPS将棋が詰みを逃し持ち時間を使い切ったことでBonanzaが逆転で勝利。7回戦を終了して5勝2敗でBonanza、ponanza、GPS将棋の3チームが並んだが大会の順位決定規定によりBonanzaが2006年の初優勝以来7年ぶり2度目の優勝を果たした。この大会ではBonanza以外に9チームがBonanza6.0のライブラリを採用し、NineDayFeverが大会初出場ながら決勝に進出し、2位ponanzaと4位激指に勝つ健闘を見せて5位となった。 2014年5月の第24回コンピュータ将棋選手権では、保木は35台400コアのクラスタ構成で出場し、2次予選を6勝3敗の4位で通過し、決勝は3勝4敗の6位となった。この大会でもBonanza以外に9チームがBonanza6.0のライブラリを使用し、NineDayFeverが前年の自己順位と本年のBonanzaの順位を上回る4位となった。 2015年5月の第25回コンピュータ選手権にはBonanzaは出場せず、初出場からの連続出場が途切れた。Bonanza6.0のライブラリを使用して出場したチームは、一部のみの使用、実験で使用したものの本番では使用しなかったソフトも含めると10チームとなり、NineDayFeverが自己最高の成績となる2位となった。 プロ棋士との対局[編集] 渡辺明竜王との対局[編集] 2007年3月21日、大和証券杯ネット将棋・最強戦の創設を記念して、渡辺明竜王との平手一番特別対局が組まれた。結果は渡辺が勝利した。対局は品川プリンスホテルでの公開対局となりBonanzaの先手、持ち時間はそれぞれ2時間とされた。Bonanza側には、駒を動かすアシスタントとして当時奨励会三段の田中悠一がつき、保木は初手と終局以外は、Bonanzaの監視を行った。公の場で、コンピュータ将棋がタイトル保持者と平手で対局するのは初めてのことであったが、渡辺は「私は嫌でしたが、頼まれたので引き受けました、と公表すること」を条件として、これを引き受けた[13] この対局に用いられたBonanzaは、当時公開されていたver.2.1と比較しても、探索手数を大幅に増やし、戦法の選択を改善するなどチューニングをほどこしたものであった。またハードウェアもリアルコンピューティングの「RC Server Calm2000」(CPU:Intel Xeon X5355 2.66GHz×8cores、メモリ:8GB)と、市販のPCよりは高性能のものを使用した。これにより将棋倶楽部24でのレーティングは2800相当(アマチュア最強レベル)に達したという。 対局は中盤までBonanzaが優位に進め、対局を観戦していた棋士、アシスタントの田中も互角もしくはBonanza優勢との見解を示していた。対局した渡辺は89手目にBonanzaが▲2四歩と指した段階で自身の勝利を確信したが、この時Bonanzaが▲2四歩ではなく▲2七香と指していたら自身の敗北を予測していたという。Bonanzaの指した▲2四歩は渡辺の玉の囲いを一気に攻め込む積極的な手であり、一方▲2七香は飛車取りを防ぎつつ一旦受けに回る手だった。▲2七香を指されると数手先でBonanzaの玉に馬が張り付き、渡辺の攻めが続かず、負けに至ると読んだと渡辺本人が対局後に語っている[14]。開発者の保木はその時、席を外していたが廊下でBonanzaが▲2四歩と指したのを聞き「(Bonanzaが)そろそろ悪手を指している頃ではないか」と取材陣に語っていた。 結果は112手[15]で渡辺の勝ちとなったが、対局した渡辺が「奨励会初段~三段」[16]、勝又清和六段が「奨励会三段レベル」とBonanzaの実力を評価するなど、将棋ソフトの実力がプロに迫ってきていることを示す結果にもなった。渡辺はこの対局をブログで振り返り、「人間では発想できない良手を指した中盤での意外な強さ」と「コンピュータが絶対的な強さを持つと思われていた終盤での意外な見落とし」を指摘している。一方、開発者の保木は、「美しい棋譜を残すことができた」、すなわち第一人者相手に頓珍漢ではない自然な将棋を指せたことをもって評価とした。 この対局の模様は2007年4月21日にNHK衛星第2テレビで『運命の一手 渡辺竜王VS.人工知能・ボナンザ』というタイトルで90分間のドキュメントとして放送された。番組では、プロ棋士の村山慈明や当時奨励会三段だった戸辺誠らと共にボナンザ対策[17]を練る真剣な表情の渡辺や、対局中の「いやぁ、強すぎるなこりゃ、ほんとに」の嘆息を捉えている。 清水市代女流王将との対局[編集] 次にプロ棋士との公式対局が行われたのは3年後の2010年10月11日であり、激指、GPS将棋、Bonanza、YSSによる合議制で作られた「あから2010」が清水市代女流王将と対戦し、あから2010が勝利した[18]。 思考ルーチン[編集] Bonanzaの思考ルーチンは、以前のコンピュータ将棋ソフトでは採用されていなかった独自のアイデアが用いられている。 コンピュータチェスの思考を応用 保木は当初コンピュータ将棋ではなく、コンピュータチェスの論文をベースとして思考ルーチンの基本部分を作成した。ベースとなるデータは、インターネットなどで入手できた6万局[19]に及ぶ将棋の棋譜データを元にしている。 全幅探索 Bonanza登場以前のコンピュータ将棋では、その局面で可能なすべての指し手を評価する(全幅探索)のではなく、自然な指し手を重視して探索(選択探索)していた。全幅探索では全ての指し手を評価すると選択肢が膨大になり、現実的ではないと考えられていたからである。しかしBonanzaはその常識を覆し、全幅探索を採用することで、これまでの他のソフトが見落としていた(あるいは開発者が軽視していた)指し手に高い評価を与えることが可能となった。現在では後述のように全幅探索と選択探索のハイブリッドである。 開発当時の保木は将棋に対する造詣は深くなく、チェスと同じようなものであると考えていた。そのためコンピュータチェスで一般的な全幅探索を採用したが、保木によると「選択的探索は選択を行う処理が複雑になるため、全幅探索よりも負荷がかかる」としている[20]。 評価関数のパラメータの自動生成 これは保木の本業である化学反応の制御理論を応用したものである[21]。保木自身の棋力ではコンピュータを強くする設定を行うことができず、既存の機械学習で成果を上げたプログラムがなかったため、制御理論をもとに自作することにしたという。 ボナンザは元にした6万局の棋譜データから、評価関数のパラメータを自動生成している。他のソフトは開発者がパラメータを定めた評価関数を用いているため、開発者の固定観念や棋力の影響を受けることがあった。ただし、パラメータは自動生成だが、何を評価するかは保木自身が決めている。棋譜からパラメータを自動生成することで、開発者の主観を排除した評価関数は強みでもあるが、同時に弱みでもある。当初、Bonanzaは序盤で大駒を切る[22]ことが多かったが、これは大駒の点数が他のソフトに比べて低く設定されている[23]ためであり、人間の感覚に反するこの設定は、自動生成に由来するものであった。後述の渡辺との対局でも、この特性を利用した角銀交換を迫られたが、その時には既に極端な大駒切りに関しては対策されていたため、交換はしなかった。 詰将棋 チェスがベースであるため[24]、開発当初は終盤の詰将棋のルーチンが搭載されておらず、詰める状況でも相手の駒をとり続けていた。2007年の世界コンピュータ将棋選手権からは、3手詰めのルーチンが搭載された。他のソフトでは最初から詰将棋専用のルーチンを用意しており、後で組み込んだBonanzaが特殊である。これについて保木は、終盤において王手以外の指し手を考慮することは、力の向上につながるともしている[25]。もっとも、詰将棋非対応のため、詰将棋ルーチンを搭載したコンピュータソフトとの対局においては、長手数の即詰みを見落として頓死することがままあり、2011年の世界選手権では詰将棋専用マシンを一台用意して構成に加えた。また、ボナンザを利用した市販のソフトでは、詰め将棋ルーチンを別途搭載することで補っているものもある。 既存のソフトとは全く異なるアプローチをとったため、世界コンピュータ将棋選手権に初出場した際は、保木はBonanzaが極端に強いか、弱いかのどちらかだと考えており、結果として優勝こそしたものの既存の強豪ソフトとほぼ同じ棋力であったことに愕然としたと記している[26]。これらの特徴はコンピュータ将棋の過去の蓄積を知らなかったために実現したことであって、日本にいて情報が入ってくる環境であれば、個人が1年で完成させることは不可能であったと述べている[27]。 以上のように、既存の常識に反する要素が多かったが、保木の試みはコンピュータ将棋の一大革新として、他の開発者が一斉に追随することになった。特に「評価関数のパラメータの自動生成」に関しては、ソースコード公開後のコンピュータ将棋界で「ボナンザ・メソッド」と呼ばれ[28]、2010年には世界コンピュータ将棋選手権の上位ソフト全てがこの方法を導入するようになった。 数式[編集] 以下、第11回 ゲーム・プログラミングワークショップ 2006にて発表されたVer. 2時点でのアルゴリズムに基づく。 各盤面の判断となる評価関数が、強い棋士が実際に指した手と同じになるようなパラメータを探索する。以下の誤差関数Jを最小にするパラメータvを最適化問題として探す。 {\displaystyle J(P_{0},\ldots ,\mathbf {v} )=\sum _{i=0}^{N-1}\sum _{m=1}^{M}T[\zeta (p_{m},\mathbf {v} )-\zeta (p_{m=0},\mathbf {v} )]+\lambda M_{1}(\mathbf {v} )+\omega M_{2}(\mathbf {v} )} J(P_0, \ldots, \mathbf{v}) = \sum^{N-1}_{i = 0} \sum^{M}_{m=1}T[\zeta(p_m, \mathbf{v}) - \zeta(p_{m=0},\mathbf{v})] + \lambda M_1(\mathbf{v}) + \omega M_2(\mathbf{v}) 右辺2項は過学習を防ぐための正則化項。N は学習データの局面数(対局数×手数)、 {\displaystyle P_{i}} P_iは局面、M はその局面の合法手の数。T は T(0) 近辺で傾きが最大になる適当な関数(シグモイド関数など)。 {\displaystyle p_{m}} p_m は一手先の次の局面で、 {\displaystyle p_{m=0}} p_{m=0} は実際に強い棋士が指した手の局面。 {\displaystyle \zeta } \zeta は局面の評価関数。 {\displaystyle \lambda } \lambda , {\displaystyle \omega } \omega は過学習防止の定数値の正則化係数。 {\displaystyle M_{1}} M_1 は各駒の価値(駒割り)の総和(一次正則化)。 {\displaystyle M_{2}} M_2 は駒の位置関係に対するパラメータの2乗(二次正則化)に勾配ベクトルへの寄与度をかけた値の総和。vの各値は16ビット整数値に限定。 Jをvで偏微分をとり、勾配ベクトルに沿って確率的勾配降下法で下っていく。勾配ベクトルを求める際、 {\displaystyle \zeta (p_{m},\mathbf {v} )-\zeta (p_{m=0},\mathbf {v} )} \zeta(p_m, \mathbf{v}) - \zeta(p_{m=0},\mathbf{v}) の部分は、このまま使わずに、評価関数の考える最善手と強い棋士が実際に指した手が一致した場合は、食い違うところまで手をたどっていき、食い違ったところの評価関数の差を使う。勾配を下る学習率パラメータは学習が進むにつれ徐々に小さくしていく。この探索は1カ月以上計算させ続けている。 評価関数は、以下の項目の総和(線形モデル)。2つ目以降は、駒の位置関係に対するパラメータ。 各駒の価値(駒割り) 王、他の駒2つの位置 王、隣接した味方の駒、他の味方の駒3つの位置 隣接しあった駒2つの位置関係 竜馬飛角桂香の利き上にいる駒の種類 竜馬飛角香が動けるマスの数 ピンされている駒の種類、方向、王との距離 角と同じ色のマスにいる味方の歩の数 歩桂銀が前進できるか 竜飛香の前・後の歩 王の周囲25マスの利きの配置 ただし、これは、Ver. 4以降、Ver. 6現在は単純化しており、以下の3項目だけになっている。4つ以上の駒の関係も3つの駒の関係から近似的に合成できるとしている。この変更によりパラメータ数は大きく増え、パラメータを保存しているfv.binは177 MBになった。下記の駒の位置738通りにおいて、持ち駒も含まれるが、成金と金の区別はしない。 各駒の価値(駒割り) - 13通り 王1つ、他の駒2つの位置(自分と相手の駒の区別あり) - 81 * (1 〜 738 * 2 までの和) = 88,292,106通り 王2つ、他の駒1つの位置 - 81 * 81 * 738 = 4,842,018通り Ver. 6のfv.binにおいては、2八玉・4九金の状況において、3八銀 = 357、4八銀 = -852、5八銀 = 442 となっており、美濃囲いや銀美濃を正しく学習している。そして、4八銀という駒の利きの悪い配置を大駒を失う並の悪い配置と見なしている。同じ4九金・4八銀でも、壁囲いの3八玉 = 31 であり、まだましであると評価している。 T(x) の |x| が大きい手、つまり、最善手から大きく離れた手は、計算量を減らすため省略する。盤面の表現はビットボードを使い、高速化する。 将棋に関係ない部分の基本的なモデルは、機械学習の基本的なモデル[29]に基づいており、そこに独自の工夫を加えている。 駒の価値[編集] Ver. 6現在、src/client/param.hに駒割りの値[30]が記載されている。それ以外のパラメータは177 MBのwinbin/fv.binに保存されている。 駒の価値 駒 Ver. 2 Ver. 4.0.4 Feliz Ver. 6 歩 106 101 87 87 香車 272 254 235 232 桂馬 304 267 254 257 銀 428 385 371 369 と 279 424 530 534 成香 323 424 482 489 成桂 363 462 500 510 成銀 415 477 489 495 金 527 466 447 444 角 617 567 571 569 飛 700 661 647 642 馬 698 831 832 827 竜 854 1002 955 945 更新履歴[編集] 2005年6月2日 Ver.1.0公開 2005年7月21日 Ver.1.1公開 2005年8月23日 Ver.1.2公開 2006年5月19日 Ver.2.0公開(同日、不具合を修正したVer.2.1公開) 2008年10月12日 Ver.3.0公開 2009年2月2日 Ver.4.0.4公開 2010年1月25日 Ver.4.1.3公開 2010年5月11日 Bonanza Feliz公開 2011年5月9日 Ver.6.0公開 2015年9月10日 Bonanza 6.0 にあてるパッチ公開(1)内容:ソースコードのエラー修正。 2015年11月16日 Bonanza 6.0 にあてるパッチ公開(2)内容:最近の Floodgate への対応を追加。 パッケージ製品[編集] 作者の意向によりBonanzaは過去から現在までの全てのバージョンが無償で提供され続けている(Bonanza Version 4.0.3よりマルチコアCPUの並列処理に対応)。一方、Bonanzaのエンジンを搭載したコンピュータ将棋ソフトも市販されている。 2006年11月17日 「Bonanza 2.1 Commercial Edition」マグノリアから発売。 2007年6月15日 「Bonanza Classic」マグノリアから発売。2005年に発表された当時のBonanzaを搭載。 2008年3月14日 「Bonanza 3.0 Commercial Edition」マグノリアから発売。USB扇風機が付属。「4コアまで対応」と書かれているが、実際には8コアまで対応する。 2008年12月18日 「最強将棋 BONANZA」株式会社サクセスからPlayStation Portable版が発売。 2009年3月13日 「世界最強銀星将棋8」シルバースタージャパンから発売。 2011年4月29日 「Bonanza5.1 Commercial Edition」マグノリアから発売。2010年10月10日に行われた、あから2010対清水市代の対局に参加したバージョン。 2013年7月22日 「BONANZA THE FINAL 優勝記念版」マグノリアから発売。2013年の第23回世界コンピュータ将棋選手権で優勝した思考エンジンを搭載。ソフトの実力が上がりすぎたため市場が縮小した[31]ことを理由とし、これ以後マグノリアからBonanzaの製品版は発売されない。ただし、保木が無料で公開している思考エンジンをアップデートした場合、それを本ソフトで稼働することで継続的な利用が可能。 ソースコードのライセンス[編集] ソースコードは公開されている。営利目的での利用の禁止などの制限により、Open Source Initiativeによる「オープンソースの定義」には合致しない。 ボナンザ囲い[編集] BonanzaはVer.2当時、「ボナンザ囲い」と呼ばれる、他に例を見ない「片矢倉」の変形版を多用していた。これはボナンザの数式の結果として現れたものである。渡辺明によれば、一見すると素人臭い筋悪な形のようでいて、実際に攻略するとなると厄介であるという[32]。 競技会成績[編集] 大会/年 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 世界コンピュータ将棋選手権 1 4 3 5 5 2 9 1 6 将棋電王トーナメント F コンピュータオリンピアード 2 4 2 フリーソフトのBonanzaをグレードアップするには[編集] ダウンロードしたBonanzaは付属のGUI 「CSA将棋 for Windows」を用いて対局できるが、専用GUIの「マイボナ」を用いれば、市販ソフト顔負けの将棋ソフトに変身する。 欠点は「LibreOffice 5.0」を開いていると、Net Frame work を同時に扱うことになるためか、「マイボナ」をオープンできなくなってしまう。つまり、「マイボナ」 は 「LibreOffice 5.0」 と同時には使えない。 将棋ソフトのページ (マイボナをダウンロードできる) 脚注・出典[編集] [ヘルプ] ^ “第22回世界コンピュータ将棋選手権”. 2013年5月8日閲覧。 ^ コンピュータ将棋の開発者の中には、アマ強豪クラスも珍しくない。 ^ 将棋には11級という段級位の設定はなく、『ボナンザ VS 勝負脳』の53ページでは、渡辺明は保木の棋力を「アマ5級程度」と評する。これは初心者がどうにか形になり始めた程度の棋力である。 ^ 渡辺 明 (2005年10月3日). “ボナンザとか。”. 2013年5月8日閲覧。 ^ 持ち時間を1手10秒に制限する。渡辺によれば、10秒将棋では思考・読みを行う余裕が全くないため、人間であれば直感・第一感で指すしかなく、その時間でもそれなりに読めるコンピュータが圧倒的に有利な条件であるという。 ^ 「渡辺明竜王×保木邦仁(Bonanza開発者) 竜王vsボナンザ 歴史的一戦にのぞむ 」、『将棋世界』2007年4月。 ^ 広沢一郎 (2006年5月6日). “第16回世界コンピュータ将棋選手権 (2006年5月3日~5日開催)にて、Bonanzaが優勝”. マグノリア. 2013年5月8日閲覧。 ^ 佐藤 晃洋 (2006年5月8日). “【レポート】フリーソフト「Bonanza」が初出場で優勝 - 第16回コンピュータ将棋選手権”. マイコミジャーナル. 2013年5月8日閲覧。 ^ 石川 敬峰 (2006年5月17日). “【NEWS】世界コンピュータ将棋選手権で優勝したフリーの将棋ソフト「Bonanza」”. 窓の杜. 2013年5月8日閲覧。 ^ “第11回 ゲーム・プログラミングワークショップ 2006 プログラム”. 2013年5月8日閲覧。 ^ 前年度にBonanzaライブラリを採用した「ボンクラーズ」は独自のライブラリを開発して出場し、Bonanzaを抑えて優勝している。 ^ “ついに決勝最終戦”. コンピュータ将棋選手権ネット中継 (2013年5月5日). 2013年5月8日閲覧。 ^ 米長邦雄「名勝負今昔物語 - 人間 v.s コンピューター」週刊現代 2010年10月30日号 ^ NHK衛星第2テレビ 『運命の一手 渡辺竜王VS.人工知能・ボナンザ』 ^ 保木は渡辺の110手目終了後での投了を意図したが、投了の手続きを田中に確認している間にBonanzaが手を指し進めたため、なお2手進行ののち改めて投了した。 ^ 渡辺 明 (2010年9月15日). “コンピュータ戦迫る。”. 渡辺明ブログ. 2013年5月8日閲覧。 ^ 保木が対策をしていたため失敗はしたが、ボナンザの癖であった大駒と小駒の交換が偶然ではないことを確信しているなど、熟知している様子が見て取れる ^ “若き天才棋士が見せた"戦いの理想形"とコンピュータの悪手”. マイナビニュース (2013年3月27日). 2015年4月24日閲覧。 ^ 『ボナンザ VS 勝負脳』の27ページによる。CD-ROMで販売されているものも含め、プロの公式戦の対局3万局と将棋倶楽部24の3万局を利用している。玉が敵陣近くにあるときのデータを利用するため、後者は入玉の状態になったものを主に採用したという。 ^ 保木、渡辺 2007, p.33. ^ 保木、渡辺 2007, p.26. ^ 大駒と小駒と交換する ^ 『将棋世界』2007年7月号「特集 第17回世界コンピュータ将棋選手権」より。 ^ コンピュータチェスでは、駒数が少ない場合の解析結果が公開されており、そのファイルを利用するのが一般的である ^ 保木、渡辺 2007, p.130. ^ 保木、渡辺 2007, p.32. ^ 保木、渡辺 2007, p.29. ^ 第18回世界コンピュータ将棋選手権に参加した奈良将棋開発者のレポートによると保木が開発者向けの発表で使った表現だったが、現在では論文などにも使用されているなど、用語として定着しつつある。 ^ C.M.ビショップ 「第3章『線形回帰モデル』」『パターン認識と機械学習 上』 丸善出版、2012年。ISBN 978-4621061220。 ^ 保木邦仁によれば、2006年現在、「駒割り」または「交換値」が、この数値の名称であるようだ。 - 保木邦仁 『局面評価の学習を目指した探索結果の最適制御』、2006年、p.8。 ^ 長谷川 正太郎 (2013年7月22日). “マグノリア、強すぎる故に最後の製品となる将棋ソフト「BONANZA THE FINAL」”. 窓の杜. 2014年4月8日閲覧。 ^ 『ボナンザVS勝負脳』ISBN 978-4-04-710107-4 参考文献[編集] 保木邦仁・渡辺明共著 『ボナンザ VS 勝負脳――最強将棋ソフトは人間を超えるか』 角川書店、2007年。ISBN 978-4-04-710107-4。 関連項目[編集] コンピュータ将棋 ボナンザ・チルドレン 将棋棋士とコンピュータの対局一覧 銀星将棋 天下一将棋会 外部リンク[編集] Bonanza - The Computer Shogi Program Vector Kunihito Hoki - BonanzaのVer.1から4、Felizまでの歴代プログラムがすべて無料でダウンロードできる。 BONANZA THE FINAL 優勝記念版 (マグノリアの製品ページ) 第1ステージを終えて アマ高段者(Masato SHINODA氏)がBonanza3.0と対局した記録。 ---------------------------------------------------------------- 後醍醐天皇 後醍醐天皇 後醍醐天皇像(清浄光寺蔵) 第96代天皇 在位期間 1318年3月29日 - 1339年9月18日 文保2年2月26日 - 延元4年8月15日 即位礼 文保2年3月29日(1318年4月30日) 大嘗祭 文保2年11月22日(1318年12月15日) 元号 文保 元応 元亨 正中 嘉暦 元徳 元弘 建武 延元 追号 後醍醐院 延元4年9月8日(1339年10月11日)追号勅定 関白 二条道平→一条内経→九条房実 →鷹司冬平→二条道平→近衛経忠 →鷹司冬教→(廃止) 先代 花園天皇 次代 南朝:後村上天皇 北朝:光厳天皇、光明天皇 誕生 正応元年11月2日(1288年11月26日) 崩御 延元4年8月16日(1339年9月19日) 吉野行宮 陵所 塔尾陵 諱 尊治 別称 吉野院、元徳院、元応帝 元服 嘉元元年12月20日(1304年1月27日) 父親 後宇多天皇 母親 五辻忠子 中宮 西園寺禧子(後京極院) 珣子内親王(新室町院) 女御 二条栄子 子女 護良親王 尊良親王 宗良親王 恒良親王 成良親王 後村上天皇(義良親王) 懐良親王 満良親王 他多数 皇居 二条富小路内裏 吉野行宮 親署 後醍醐天皇の親署 テンプレートを表示 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に二度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。 目次 [非表示] 1 生涯 1.1 即位 1.2 倒幕 1.3 流罪、そして復帰 1.4 建武の新政 1.5 足利尊氏の離反 1.6 南北朝時代 2 論評 3 側近 4 諡号・追号・異名 5 系譜 5.1 系図 6 后妃・皇子女 6.1 皇子の名の読み 7 偏諱を与えた人物 8 在位中の元号 9 著作 10 陵・霊廟 11 登場作品 12 脚注 13 参考文献 14 関連項目 15 外部リンク 生涯[編集] 大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子。生母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。正応元年11月2日(1288年11月26日)に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下。嘉元元年(1303年)12月20日に三品に叙品。嘉元2年(1304年)3月7日に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、徳治2年(1307年)5月15日には、中務卿を兼任している。 即位[編集] 徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、後醍醐天皇が自己の子孫に皇位を継がせることは否定された。後醍醐天皇は不満を募らせ、後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時機が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の治天の君となったことは大きな謎とされる。 倒幕[編集] 『太平記絵巻』第2巻(山中をさまよう後醍醐天皇) 埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵 正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、退位の圧力はいっそう強まった。元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。 流罪、そして復帰[編集] 幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。 建武の新政[編集] 後醍醐天皇像 (三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より) 詳細は「建武の新政」を参照 帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位および在位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに幕府・摂関を廃していわゆる建武の新政を開始する。また、持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。 建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家たちの多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威をまったく失墜した。また、倒幕に功績のあった護良親王が征夷大将軍の地位を望んだために親王との確執が深まり、同じく天皇と対立していた尊氏の進言を受けて親王を鎌倉に配流している。 足利尊氏の離反[編集] 詳細は「延元の乱」を参照 建武2年(1335年)、中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。 南北朝時代[編集] 足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52(満50歳)。 摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営している。 論評[編集] 同時代では、早くも天皇側近の北畠親房が『神皇正統記』において保守的公家観から新政策への批判を加えている。 側近[編集] 近衛経忠 万里小路宣房 北畠親房 吉田定房 日野資朝 日野俊基 千種忠顕 坊門清忠 四条隆資 洞院実世 文観 円観 諡号・追号・異名[編集] 後醍醐天皇は、延喜・天暦の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇・村上天皇の治世を理想としていた。天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。また、醍醐天皇は宇多天皇の皇子であり、後醍醐天皇は自己を父・後宇多天皇の正統な後継者として位置づける意味で命名したとする説もある。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。 崩御後、北朝では崇徳院・安徳天皇・顕徳院・順徳院などのように徳の字を入れて院号を奉る案もあった。平安期に入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号を奉るのは、配流先などで崩御した天皇の鎮魂慰霊の場合に限られていたが、結局生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」とした。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。 系譜[編集] [表示]後醍醐天皇の系譜 系図[編集] 88 後嵯峨天皇 宗尊親王 (鎌倉将軍6) 【持明院統】 89 後深草天皇 【大覚寺統】 90 亀山天皇 惟康親王 (鎌倉将軍7) 92 伏見天皇 久明親王 (鎌倉将軍8) 91 後宇多天皇 93 後伏見天皇 95 花園天皇 守邦親王 (鎌倉将軍9) 94 後二条天皇 直仁親王 邦良親王 康仁親王 〔木寺宮家〕 【持明院統】 〔北朝〕 【大覚寺統】 〔南朝〕 96 後醍醐天皇 光厳天皇 北1 光明天皇 北2 97 後村上天皇 崇光天皇 北3 後光厳天皇 北4 98 長慶天皇 99 後亀山天皇 惟成親王 〔護聖院宮家〕 栄仁親王 後円融天皇 北5 (不詳) 〔玉川宮家〕 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 貞成親王 (後崇光院) 100 後小松天皇 北6 102 後花園天皇 貞常親王 〔伏見宮家〕 101 称光天皇 后妃・皇子女[編集] 皇后:藤原(西園寺)禧子(後京極院、1303-1333) - 西園寺実兼女 皇女(1314-?) 皇女:懽子内親王(宣政門院、1315-1362) - 光厳天皇後宮 皇后:珣子内親王(新室町院、1311-1337) - 後伏見天皇皇女 皇女(1335-?) - 南朝系図は幸子内親王とする 女御:藤原(二条)栄子(安福殿) - 二条道平女 典侍:藤原(五辻)親子(中納言典侍) - 五辻宗親女 皇子:満良親王(花園宮・常陸親王?) 典侍:源氏(大納言典侍) - 北畠師重女 典侍:藤原氏(新按察典侍) - 持明院保藤女 典侍:某氏(帥典侍讃岐) - 父不詳 掌侍:藤原氏(勾当内侍) - 世尊寺経尹女 皇女 掌侍:菅原氏(少将内侍) - 菅原在仲女 皇子:聖助法親王 - 聖護院 後宮:藤原(阿野)廉子(三位局、新待賢門院 1301-1359) - 阿野公廉女、洞院公賢養女 皇子:恒良親王(1325-1338) - 後醍醐天皇皇太子 皇子:成良親王(1326-1344) - 征夷大将軍、光明天皇皇太子 皇子:義良親王(後村上天皇、1328-1368) 皇女:祥子内親王 - 斎宮 皇女:惟子内親王 - 今林尼衆 皇女?:新宣陽門院 - 『大日本史』は後村上天皇皇女とする 後宮:源(北畠)親子(民部卿三位) - 北畠師親女、一説に日野経光女・経子 皇子:護良親王(尊雲法親王・大塔宮、1308-1335) - 梶井門跡、征夷大将軍 皇女:姚子内親王 - 今林尼衆 皇子 - 南朝系図は尊性法親王とする 皇女 - 近衛基嗣室 後宮:藤原(二条)為子(権大納言局) - 二条為世女 皇子:尊良親王(一宮、?-1337) 皇子:宗良親王(尊澄法親王、1311-1385?) - 天台座主、征夷大将軍 皇女:瓊子内親王(1316-1339) 皇女 後宮:藤原(洞院)実子 - 洞院実雄女 皇女 後宮:藤原(洞院)守子(1303-1357) - 洞院実泰女 皇子:玄円法親王(?-1348) - 一乗院 皇子?:最恵法親王 - 妙法院 後宮:憙子内親王?(昭慶門院、1270-1324) - 亀山天皇皇女 皇子:恒性(越中宮、1305-1333) - 大覚寺 皇子:無文元選(1323-1390) - 遠江方広寺開山 後宮:藤原氏(権大納言三位局・霊照院、?-1351) - 二条為道女 皇子:法仁法親王(躬良親王、1325-1352) - 大聖院 皇子:懐良親王(鎮西宮・筑紫宮、1329-1383) - 征西将軍 皇女 後宮:藤原氏(遊義門院一条局) - 橋本実俊女 皇子:世良親王(?-1330) 皇子:静尊法親王(恵尊法親王) - 聖護院 皇女:欣子内親王 - 准三后 後宮:藤原氏(少納言内侍) - 四条隆資女 皇子:尊真(醍醐宮) - 南朝系図は杲尊法親王と同一人とする 後宮:藤原氏(大納言局) - 洞院公敏女、一説に正親町実明女 皇女 - 南朝系図は瑜子内親王とする 後宮:藤原氏(左衛門督局) - 二条為忠女? 皇女 - 今林尼衆 後宮:藤原氏(権中納言局) - 洞院公泰女? 皇女 - 南朝系図は貞子内親王とする 後宮:藤原氏 - 吉田定房女 後宮:藤原氏?(坊門局) - 坊門清忠女? 皇女:(用堂?) 後宮:源氏 - 堀川基時女 皇女 後宮:源康子(飛鳥井局・延政門院播磨) - 源康持女 後宮:源氏(若水局) - 源康持女、康子妹 後宮:源氏 - 堀口貞義女? 皇女 - 吉水院宗信妻、尊寿丸母 後宮:某氏(昭訓門院近衛局) - 父不詳 皇子:知良王 - 『南朝紹運図』は守永親王と同一人とする 生母不詳 皇女:用堂(?-1396) - 東慶寺5世住持 皇女 - 六条有房室、上記何れの皇女か不明 皇子?:竜泉令淬(?-1366) - 万寿寺住持 皇子:賢光 光遍寺5代住職 皇子の名の読み[編集] 後醍醐天皇の皇子の名には、通字として「良」が用いられている。その読みは古くから「なが」「よし」の両様に読まれてきた。 江戸時代後期から第二次世界大戦までの時代には「なが」の読みが一般的であった。「なが」説の根拠は、一条兼良が著したと伝える『諱訓抄』の写本で「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられる。 明治維新後の南朝忠臣顕彰の風潮に乗って、南朝関係者を祭神とする神社(建武中興十五社)が次々と建立され、明治2年(1869年)には護良親王を祀る鎌倉宮、明治5年(1872年)に宗良親王を祀る井伊谷宮、明治17年(1884年)に懐良親王を祀る八代宮、明治23年(1890年)に尊良親王を祀る(明治25年(1892年)に恒良親王を合祀)金崎宮の4つの神社が創建されたが、これらの神社では、すべて祭神名を「なが」と読むことで統一している。また、大正4年(1915年)に宮内省書陵部が職員のための内部資料として編纂した『陵墓要覧』でも、たとえば「護良親王墓」に「もりながしんのうはか」との読み仮名を振っている。 一方、大正時代の頃(1920年代)から歴史学者らの研究で「良」を「よし」と読む説が発表されていた。大正9年(1920年)には八代国治、昭和14年(1939年)には、平田俊春が、史料的根拠を示して「よし」と読むべきことを指摘している。その後「よし」説の根拠として挙げられている史料には、八代と平田が指摘したものを含め、次のようなものがある[1][2]。 『諱訓抄』の写本は多く残されているが、「モリナカ」の読みを載せるものは天和元年(1681年)に写されたものが最古であり「モリナカ」の読み仮名が一条兼良の生きた室町時代まで遡れるものかどうか疑問が残る。 応安4年(1371年)に書写された「帝系図」(国立歴史民俗博物館所蔵)では「後村上院」の名を「義儀」と記してある。これは本来「儀義」であって「のりよし」と読んだものと推測される。 応永15年(1408年)に書写された「人王百代具名記」(茨城県那珂市の常福寺所蔵)では「後村上院」の名を「儀良」と記して「良」の字に「ヨシ」と振り仮名をしている。 後醍醐天皇と政権を争った光厳天皇の曾孫後崇光院自筆の『増鏡』の写本(尊経閣文庫所蔵)では「世良」に「ヨヨシ」「尊良」に「タカヨシ」と振り仮名をしている。 永正年間(1510年前後)に書写された『増鏡』の写本(学習院大学付属図書館所蔵)では「尊良」の名を平仮名で「たかよし」と書いている。 江戸時代初期に書写された『保暦間記』の一写本(内閣文庫所蔵)では「成良」の名を片仮名で「ナリヨシ」と書いている。 寛永初年(1625年前後)に書写された『神皇正統記』の写本(青蓮院本。天理図書館所蔵)では「護良」に「モリヨシ」と振り仮名をしている。 以上の論拠から、戦後の歴史学界においては、「よし」と読んでいたとの説が大勢となっている。各種書籍における記載もこれを反映したものが多い。 代表的な歴史百科事典である『国史大辞典』(吉川弘文館)において、たとえば護良親王の項目では、「もりよししんのう」で記事を立てて解説を記し、「もりながしんのう」の項には「⇒もりよししんのう」と記載している。 平成20年度(2008年度)現在、高等学校の日本史B(高校の日本史の授業には、近現代史のみを扱うAと、古代から現代までの通史を扱うBとがある)の教科書で、文部科学省の検定に合格しているものは11種ある。後醍醐天皇の皇子で、そのすべてに登場しているのは護良親王と懐良親王の2人であるが、11種とも「もりよし」「かねよし」の表記がなされている。そのうち、11種のうち6種は「もりなが」「かねなが」の読みも括弧書きなどにより併記されている。系図などに記されるほかの皇子たちの名の扱いも同様である。 偏諱を与えた人物[編集] ※後醍醐の諱(実名)、「尊治」のいずれかの字を与えられた人物。 皇子 尊良 親王 尊雲 法親王(のちの護良親王) 尊澄 法親王(のちの宗良親王) 静尊 法親王 尊真 武士 足利尊氏[3](※足利高氏より改名(読み変更なし)) 饗庭尊宣 - 別名、饗庭氏直。尊氏に近臣(寵童)として仕えて重用され、「尊」の字を賜う。 吉良尊義 - 初め義貴、のち尊氏から「尊」の字を賜う。 吉見尊頼(のち渋川義宗。中務大輔。南朝に属す。) 小田治久[4] (※小田高知より改名) 在位中の元号[編集] 文保 (1318年2月26日) - 1319年4月28日 元応 1319年4月28日 - 1321年2月23日 元亨 1321年2月23日 - 1324年12月9日 正中 1324年12月9日 - 1326年4月26日 嘉暦 1326年4月26日 - 1329年8月29日 元徳 1329年8月29日 - 1331年8月9日 元弘 1331年8月9日 - 1334年1月29日 建武 1334年1月29日 - 1336年2月29日 延元 1336年2月29日 - (1339年8月26日) 著作[編集] 『建武年中行事』 漢字仮名交じり文で記された有職故実書。後世、朝廷で盛んに利用された。不明な点が多い中世の朝廷儀礼について伝える史料の一つとしても著名。『群書類従』公事部に収録されている。講談社学術文庫にも所収。 陵・霊廟[編集] 後醍醐天皇塔尾陵 陵(みささぎ)は、奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。 通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。 皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また明治22年(1889年)に同町に建てられた吉野神宮に祀られている。 後醍醐天皇が紫衣を許して官寺とした總持寺(神奈川県横浜市鶴見区)には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。この御霊殿は、後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、昭和12年(1937年)に建立された。 足利尊氏は後醍醐の菩提を弔うために天龍寺を造営している。また足利義政は小槻雅久や吉田兼倶といった学者の意見に従い、東山山荘(現慈照寺)の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した[5]。 登場作品[編集] 小説 朝松健『邪曲回廊』-異形コレクション第33巻【オバケヤシキ】(光文社、2005年) 光厳天皇の杖が生み出した『世界』に出現。光厳天皇に対する恨みから活火山のように炎を撒き散らす生霊となり、光厳天皇の代役となった一休を追い回す。 漫画 沢田ひろふみ『山賊王』 - 南北朝時代を描いた歴史漫画。楠木正成も認める威厳ある天皇として描かれている。 TVドラマ 太平記(1991年、NHK大河ドラマ、演:片岡孝夫) 脚注[編集] ^ 森茂暁 『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』〈中公文庫、2007年〉 ISBN 978-4-12-204930-7 ^ 永積安明・上横手雅敬・桜井好朗 『太平記の世界 変革の時代を読む』(日本放送出版協会、1987年) ISBN 4-14-008561-4 上横手雅敬執筆部分 ^ 『太平記』巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」に「是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。」とある。但し、実際の改名時期については『公卿補任』(新訂増補国史大系本)や『足利家官位記』(『群書類従』第四輯所収)が示す元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日が正確とされる(後藤丹治・釜田喜三郎・岡見正雄校注 『太平記』、日本古典文学大系、岩波書店)。 ^ 『大日本史料』6-17 P.294(典拠は『常陸誌料』五 小田氏譜上)に「治久、初名高知、後醍醐天皇賜偏諱、因更治久、……(中略)……自延元元年至興國二年、……賜御諱…(以下略)」とある。 ^ 桜井英治 『室町人の精神 日本の歴史12』(講談社学術文庫)2009年(原著は2001年)ISBN 978-4062689120 、361p 参考文献[編集] 建武義会編 『後醍醐天皇奉賛論文集』(至文堂、1939年9月) 平泉澄 『建武中興の本義』(至文堂、1934年9月/新版日本学協会、1983年5月) 平泉澄 『明治の源流』(時事通信社、1970年6月) 村松剛 『帝王後醍醐 「中世」の光と影』(中公文庫、1981年) ISBN 412200828X 網野善彦 『異形の王権』(平凡社ライブラリー、1993年) ISBN 4582760104 森茂暁 『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』(中公新書、2000年) ISBN 4121015215 佐藤和彦・樋口州男編 『後醍醐天皇のすべて』(新人物往来社、2004年) ISBN 4404032129 河内祥輔 『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 978-4-642-02863-9 関連項目[編集] 南北朝時代 建武の新政 両統迭立 大覚寺統 北陸朝廷 後の三房 三木一草 ゴダイゴ - 後醍醐天皇をバンド名の由来の一つとしている 外部リンク[編集] ウィキメディア・コモンズには、後醍醐天皇に関連するカテゴリがあります。 後醍醐天皇について [表示] 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 典拠管理 WorldCat VIAF: 18517454 LCCN: n80040246 ISNI: 0000 0000 3051 5022 GND: 172707897 SUDOC: 126124426 NDL: 00269460 カテゴリ: 日本の天皇鎌倉時代の人物南北朝時代の人物 (日本)日本の神 (人物神 建武中興)日本の神 (人物神 御霊信仰)隠岐諸島の歴史吉野町の歴史1288年生1339年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 English Español Français Bahasa Indonesia 한국어 Bahasa Melayu Português Русский 中文 他 18 リンクを編集 最終更新 2017年6月20日 (火) 03:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 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