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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --------- ボウシ ボウシは囲碁用語のひとつで、相手の石に上からかぶせるように打ち、進路を阻む手を指す。下図の黒1のような手が「ボウシ」である。文字通り相手の頭にかぶせるように打つため、「帽子」の連想で名付けられた。 下図のように、ボウシは相手の石の真上2路離して打つ手を指すことがほとんどである。 ボウシの活用[編集] ボウシが打たれるケースは、相手への攻撃の場合と、相手の模様を消す場合の2つに大きく分かれる。上図の黒1は、相手の弱い石の進路を阻んで攻撃する手として打たれた場合である。 模様の消し 白1がボウシによる黒模様の消し方の例。aの打ち込みやbの肩ツキより、こちらがこの局面では適切。 黒は2とケイマに受けるのが普通(格言「ボウシにケイマ」)。白は軽く3などと打って、黒模様の拡大を防いだ。 攻め 黒1がボウシ。白の進出路をふさいで攻める手。 参考図書[編集] 石田芳夫『ボウシの威力 (烏鷺うろブックス)』 日本棋院 『ボウシこの一手! (二子アップ中級シリーズ) 』誠文堂新光社 --------- 星 (囲碁) 星(ほし)は囲碁用語の一つ。 碁盤の左上隅から数えて(4, 4)、(4, 10)、(4, 16)、(10, 4)、(10, 10)、(10, 16)、(16, 4)、(16, 10)、(16, 16)に当たる9ヶ所の交点を指す言葉。 置き碁の際は置石をこの星に置いていく。これら9点には目印として碁盤上に大きな点が記されているため、「星」という名称がついた。 基本的には上記の9箇所を指すが、単に「星」といった場合は盤上の四隅、つまり(4, 4)、(4, 16)、(16, 4)、(16, 16)の4箇所を指すことが多い。(4, 10)、(10, 4)、(10, 16)、(16, 10)の4点を特に指す場合は「辺の星」という言い方をする。また碁盤の中心(10, 10)は特に天元と呼ぶ。また、辺の星の一路下(aなどの点)を「星下」、その一路横(bなどの点)を「星脇」と呼ぶことがある。 目次 [非表示] 1 布石における星 1.1 特徴 1.2 星からのシマリ 2 星へのカカリ 3 星を主体にした布石 4 星打ちの歴史 5 連珠における星 布石における星[編集] 特徴[編集] 布石において隅を占める着点として、小目と並んでよく打たれる。一手で隅を占めて辺へスピーディに展開できる点が長所であり、中央へ向けた発展性にも富む。その分隅の地には甘く、三々に侵入されると簡単に生きられる。逆に言えば、相手の侵入を誘って厚みを築き、中央で勝負するのが星打ちのスタイルのひとつでもある。 星からのシマリ[編集] 星からのシマリはaの小ゲイマジマリ、bの一間ジマリ、cの大ゲイマジマリがよく打たれ、状況によりdの二間、eの鉄柱、fのコスミなども打たれる。小ゲイマ・大ゲイマにシマっただけでは隅を完全に確保できたわけではなく、三々への侵入などの手段が残る。さらにfあたりに一手かけることで完全な地になる。 星へのカカリ[編集] 星へのカカリはaの小ゲイマガガリが最も普通で、bの一間ガカリはやや特殊な手法に属する。黒は右辺を重視するならcかdへの受け、攻撃を志向するならe方面へのハサミで打つなどの打ち方がある。またカカリとはいえないが、状況によってfの三々打ち込みや、gへのツケも有力となる。 星を主体にした布石[編集] 二連星・三連星 右辺の黒のように一辺の3つの星を占める布石。白のように両隅を占めた場合は「二連星」という。aなどと外側からカカってくればbなどにハサんで三々入りを促し、中央に雄大な模様を築く。cなどと内側に侵入してくれば重くして攻め立て、主導権を握る。武宮正樹が愛用して有名になった戦法。地に甘いため、現在では打たれることが少なくなってきている。 タスキ星 対角の星を占める布石。黒の配置がタスキ星。 中国流 星、小目、辺の星脇を組み合わせた布石。三連星に似た意図だがやや地に辛く、発展性にも優れる。1970年代から流行し、今でもよく打たれる。 高中国流 中国流のバリエーション。羽根泰正が得意とする。相手を戦いに誘う布石である。三連星と同じく地に甘いためこちらも打たれることが少なくなっている。 オールスター 黒の三連星に対して白も三連星で対抗してきたときに発生する形。「九連星」あるいは「オールスター」ともいう。1990年前後に流行したが、現在では黒有利と考えられており、プロの間では打たれなくなっている。 星打ちの歴史[編集] 星は置き碁で必ず出てくる着点でありながら、江戸時代には互先の碁で打たれる例はほとんどなかった。幕末期にようやく本因坊秀和や秀策が白番星打ちを試験的に打っている例が登場する。明治に入って本因坊秀栄が白での星打ちをかなり多用しており、タスキ星・二連星などの棋譜も残されている。 昭和に入り、呉清源・木谷實が打ち出した新布石において、星の価値は大いに見直されることとなった。一手で隅を占め、辺・中央への展開を重視するスタイルに星打ちは最適であり、一躍人気の着点となった。星を3連打する三連星布石もこの時期に登場している。 新布石ブームが去った後も、星は隅を占める着点として完全に定着した。武宮正樹による宇宙流布石、中国流や小林流など星を中心とした布石が次々と開発されている。また近年白番の布石では、スピード重視のため二連星が打たれることが最も多くなっている。 連珠における星[編集] 連珠盤(縦横15路)にも星は存在し、左上隅から数えて(4, 4)、(4, 12)、(8, 8)、(12, 4)、(12, 12)に当たる5ヶ所の交点を指す言葉。 このうち特に連珠盤の中心(8, 8)は碁盤と同様、天元と呼ぶ。 連珠では初手は(8, 8)に打たなければならない決まりがある。 --------- 本因坊 第一世本因坊算砂旧跡、京都市左京区仁王門通東大路西入南側寂光寺前 囲碁本因坊発祥の地、京都市中京区寺町通夷川上る東側 本因坊(ほんいんぼう) 江戸時代、安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つ(→下記項目「本因坊家」に詳述)。 昭和になって創設された、囲碁の棋戦の一つである本因坊戦に優勝した棋士に贈られるタイトル(→下記項目「本因坊戦」に詳述)。 目次 [非表示] 1 本因坊家 2 本因坊戦 2.1 創設 2.2 実施方式 3 歴史 3.1 創設 3.2 東西対決 3.3 高川9連覇 3.4 坂田時代 3.5 木谷門の時代 3.6 趙治勲10連覇 3.7 平成四天王の時代 3.8 井山裕太の時代 4 世襲本因坊 5 永世称号 6 歴代本因坊戦優勝者 7 本因坊リーグ戦 8 本因坊リーグ経験者 9 雅号 10 参考文献 11 脚注 12 関連項目 13 外部リンク 本因坊家[編集] 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた(とされる[1])日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来する。「本因坊」はもとは連声して「ほんにんぼう」と読んだが、囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになった。 以降5人の名人を含め多くの名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった。道策・丈和・秀和・秀策・秀栄などは、中でも高名である。明治以後にもその権威は受け継がれるが、昭和13年二十一世本因坊秀哉が引退した際、その名跡を日本棋院に譲渡し、家元制から実力制に移行することとなった。 昭和16年第一期本因坊戦が開催され現在まで続いている。 本因坊家の外家としては、水谷家(水谷琢元、水谷琢順、跡目琢廉、跡目順策、四谷)がある。 ※歴代の世襲制本因坊については、下記項目「歴代本因坊」の世襲本因坊に記載あり。 本因坊戦[編集] 創設[編集] 1939年(昭和14年)創設。毎日新聞社主催。最後の世襲本因坊二十一世本因坊秀哉名人は、本因坊の名は棋界随一の実力者が名乗るべきものであるという思いから、日本棋院に本因坊の名跡を譲り渡し、選手権制による本因坊戦「本因坊名跡争奪・全日本専門棋士選手権大手合」が行われることになった。囲碁におけるタイトル制度はこれが始まりであり、以後に始まる多くの棋戦のモデルとなった。 なお、女流戦にも女流本因坊戦がある。 実施方式[編集] 第1-5期までは、2年で1期の開催。第6期から1年1期となる。この変更が、本因坊就位直後の橋本宇太郎率いる関西棋院独立の一因にもなった。 現在では、前年度の本因坊七番勝負敗退者と前年度のリーグ戦二位から四位までの4人に加え、予選トーナメントによって4人を選出し、計8名によるリーグ戦を行って挑戦者を決定する。リーグ戦の五位以下は陥落となり、翌年度は再び予選トーナメントからの参加になる。このため、入りやすいが陥落もしやすいという特徴があり、勝ち越しながら陥落した例が、第64期(2008-2009年)までの間に16回ある[2]。本因坊リーグは棋聖・名人リーグとともに三大リーグと呼ばれ、ここに参加することが一流棋士の証とされる。 六段以下の棋士が本因坊リーグ入りを果たした場合、七段に昇段する。またリーグに優勝して挑戦権獲得が決まったら八段に、さらに本因坊位を奪取した場合九段へ昇段する。 リーグ戦の一位者はタイトル保持者と七番勝負を行い、優勝者を決める。七番勝負は全国の有名旅館・ホテルを舞台に、持ち時間各8時間、封じ手制による2日制で戦われる。 歴史[編集] 創設[編集] 1934年、21世本因坊秀哉は引退にあたり、その名跡を全棋士に開放して実力制本因坊戦を開始することを決意した。この背景には、秀哉が後継者として期待していた小岸壮二が夭折していたこと、将棋界で13世関根金次郎名人の引退と共に名人戦が始まっていたことがあるといわれる。なお本因坊戦の設営に当たったのは、当時毎日新聞学芸部副部長で、後に作家に転じた井上靖であった。 1939年、準備が完了して、本因坊戦が開始された(方式など、詳しくは第1期本因坊戦の項を参照)。当時の高段者が参加して4度のトーナメント戦が行われ、その合計ポイントの上位2名による決戦によって争われた。本命と見られていた呉清源は4度のトーナメントのうち2回優勝したが、規定によりポイント不足で涙を飲んでいる。1位となった関山利一と2位の加藤信の間で六番勝負が行われて3勝3敗となり、1941年7月、規定により予選1位の関山が初代実力制本因坊の座に就いた。 1943年の第2期には橋本宇太郎が挑戦者として登場したが、関山は神経性の胃痛と嘔吐に襲われ、第1局の途中で棄権。橋本が第2期本因坊となった(方式など、詳しくは第2期本因坊戦の項を参照)。倒れた関山に代わり、弟子の梶原武雄が打ち継ぐという話も出たが、これは当然実現しなかった。 またこの時には「挑戦者決定リーグの第2位の者が、6ヶ月以内に本因坊に挑戦できる」という規定があった。このルールにより木谷實が挑戦を行うと表明したが、橋本は対局料として3万円を要求し、これを木谷が工面できず挑戦を諦めるという場面もあった。 1945年第3期の本因坊戦には岩本薫が挑戦者に名乗りを挙げる。物資の不足する中で勝負は行われるが、広島市郊外で行われた第2局が原子爆弾の被害に見舞われる(原爆下の対局)。こうした中でも本因坊戦は打ち継がれ、3-3の五分になった後、1946年7月の高野山の決戦によって岩本が新本因坊に就いた。岩本は第4期にも木谷の挑戦を退け、防衛を果たす。 東西対決[編集] 1948年の第5期には関西在住の橋本宇太郎が挑戦者として登場し、4-0のストレートで本因坊を奪取する。しかしこの時期関西地区の棋士は関東への反発が高まっており、さらにこの年から「本因坊戦を一期一年とする」という発表がなされた。この発表は橋本の就位に合わせ、しかも橋本に何の断りもなくなされたことから、ついに関西棋士の反感が爆発した。この結果、1950年に橋本を総帥として関西棋院は独立を宣言することとなった。 橋本から本因坊を剥奪せよとの声もあった中、日本棋院は新鋭・坂田栄男を挑戦者として送り込んだ。満天下の注目の中、坂田は3-1と橋本を追い込むが「首を洗ってきました」と開き直った橋本は残りを3連勝し、逆転で防衛を果たした。このきっかけとなった第5局の対局が山梨県の昇仙峡でなされたことから「昇仙峡の逆転劇」と呼ばれる。この時橋本が敗れていれば、関西棋院は崩壊していたと見る者も多い。 高川9連覇[編集] 翌1952年には、高川格が挑戦権を獲得する。当時高川はまだ実績がなく、期待する者はほとんどなかったといわれる。第1局で高川は歴史的見損じを演じて日本棋院側を落胆させるが、本人はこれで冷静になり、第2局以降を4連勝して予想外の奪取劇を演じた。 平明な棋風だが非力と見られていた高川は、本因坊になってもその力は正しく評価されていなかった。しかし高川は木谷・杉内雅男・島村利博・藤沢朋斎といった実力者の挑戦を次々に退け、連覇を重ねた。特に木谷は毎年好成績を挙げ、計3度本因坊に挑戦しながら奪取は成らず、悲運の大棋士と呼ばれた。 1960年の第15期には藤沢秀行が挑戦。2-1とリードする。第4局も藤沢優勢であったが、ここで高川は無コウ(無効なコウダテ)を使い、藤沢がうっかりそれに受けてしまうというハプニングが起きた。藤沢はこれに気づいて精神的に動揺し、ミスを重ねて敗局。高川はその後も連勝で押し切り、9連覇を達成した。 この9連覇において、高川は奪取を果たした第7期は4-1、島村利博を挑戦者として迎えた第10期を4-0で勝った以外は、全て4-2で勝利を収めている。高川はいち早くコミ碁に対応し、七番勝負の闘い方を心得た新時代の勝負師と呼ばれた。 坂田時代[編集] 1961年、10年前に橋本に逆転負けを喫して以来挑戦権に縁のなかった坂田栄男がついに登場する。41歳の坂田は積年の鬱憤を晴らすように4-1で本因坊を奪取、ここに坂田時代が幕を開けた。1963年には名人も奪取、秀哉以来の「本因坊名人」が誕生した。この時期坂田は圧倒的強さを発揮し、高川の2度のリターンマッチも粉砕、山部俊郎・藤沢秀行もストレートで降している。1963年から67年にかけては挑戦手合17連勝という大記録を達成し、満天下にその実力を見せつけた。 7連覇を果たした坂田のタイトルを奪ったのは、新鋭林海峰だった。すでに坂田から名人位を奪っていた林は、2度目の挑戦となった1968年の第23期、フルセットの激闘の末坂田から本因坊を奪い取る。林はここに本因坊名人となり、覇者は交代した。 木谷門の時代[編集] 翌1969年には、予選を這い上がってリーグ入りを果たし優勝した22歳の加藤正夫五段が登場するが、林の壁に阻まれ4-2で敗退。しかし1971年には木谷門下第二の刺客・22歳の石田芳夫が挑戦権を獲得。石田は「林さんの、いったいどこが強いんですか」と公言した上で林を降し、木谷門下の時代の先鞭をつけた(ただし数年後、石田は「林さんはこれまで戦った中で最強の人だった」と評価を改めている)。石田は林の2度のリターンマッチも撃退。第30期には坂田栄男が登場し、石田を3-1でカド番に追いつめるも、第5局終盤の攻め合いでミスをし、以後連敗。石田は劇的な形で5連覇を果たし、名誉本因坊(24世本因坊)の資格を手にした。 石田が6連覇を狙った第31期には、やはり木谷門下の武宮正樹が登場。4-1で石田を降し、初の本因坊に輝いた。武宮の豪快な宇宙流布石はファンの人気を集め、アマチュアの間にも三連星がブームとなった。 しかし翌年、兄弟子の加藤正夫が挑戦者として登場。加藤は第1局で「殺し屋」の本領を発揮、武宮の大石を撲殺して先勝すると、その勢いのままに4-1で本因坊位を奪取した。加藤は3連覇を果たすが、第35期には武宮が本因坊を奪回、雪辱を果たした。 翌第36期には趙治勲が挑戦者となり、4-2で本因坊を奪取。史上4人目の「名人本因坊」となり、若き第一人者として君臨することとなった。翌年はライバル小林光一の挑戦を退ける。小林はこれを含め4度本因坊に挑んでいるが、全て趙の前に敗れ去っている。しかし第38期、林海峰が3連敗の後の4連勝という大逆転で13年ぶりの本因坊復位を果たした。林にとって3連敗4連勝は10年前に石田相手に果たして以来2度目であった。 1985年の第40期には武宮正樹が林を4-1で降した。3度の本因坊就位は史上唯一である。武宮は山城宏相手の挑戦手合で「上大ゲイマガカリ」の奇手を披露するなど、独創的なスタイルで4連覇を果たした。 趙治勲10連覇[編集] しかし第44期には武宮の天敵・趙治勲が登場し、4-0のストレートで本因坊を奪取した。翌年からは小林光一が3年連続で挑戦権を握るが、趙はそれぞれ1-3、0-2、0-3からの大逆転勝利で防衛を果たし、小林の大三冠達成を寸前で阻止した。この3年連続決戦は長く続いた両雄の角逐の頂点、さらには現代囲碁史のハイライトともいわれている。 趙はその後も山城宏、片岡聡、柳時熏、さらに加藤正夫の二度の挑戦を退け、連覇を重ねた。高川の記録を破る10期目には王立誠を挑戦者に迎えるが、趙は珍しく「絶対に今回は勝つ」と宣言した上で王を撃破、前人未踏の10連覇を達成した。これは囲碁のあらゆるタイトルの最長連覇記録として、今も破られていない。 平成四天王の時代[編集] 1999年の第54期、趙善津がタイトル初挑戦ながら4-2で本因坊を奪取。趙治勲の長期連覇時代は終わりを迎えた。さらに2000年の第55期には王銘エンが奪取する。2001年の第56期には「平成四天王」で初めて張栩が挑戦者となるが、フルセットの末、王が防衛を果たした。 その翌期の本因坊リーグは、若手4人、木谷門下4人の新旧対決の場となり、木谷門下の加藤正夫が挑戦権を得る。2002年の王との第57期七番勝負で、加藤は2連敗後の4連勝という劇的な逆転で、23年ぶり、史上最年長55歳3か月で本因坊に復位した。加藤以後、木谷門下からは本因坊位獲得者も挑戦者も出ていない。 2003年の第58期、張栩が再び挑戦者となり、4-2で本因坊を奪取。これ以後、平成四天王たちが本因坊位を奪取・連覇するようになる。張栩は翌2004年の第59期、依田紀基の挑戦を退け連覇。さらに同年、依田から名人位を奪取し、史上5人目にして最年少の名人本因坊となった。 2005年の第60期、四天王の中ではタイトル争いでやや遅れをとっていた高尾紳路が、リーグ初参加にして挑戦権を得る。七番勝負では張栩を4-1で下し、本因坊を奪取。以後、2006年の第61期で山田規三生、2007年の第62期で依田紀基の挑戦を退け、3連覇する。その間、2006年には張栩から名人位を奪取、史上6人目の名人本因坊となった。 3連覇を機に雅号「秀紳」を名乗った高尾に、2008年の第63期七番勝負で挑戦したのは、当時四天王の中で唯一無冠だった羽根直樹であった。羽根は本因坊戦史上3例目の3連敗4連勝の大逆転を果たし、本因坊を奪取。さらに翌2009年の第64期も、高尾のリターンマッチを制して連覇した。 2010年の第65期は、これまで本因坊位に縁のなかった山下敬吾が挑戦者として登場。4-1で山下が羽根を押しきり、初の本因坊奪取を果たした。これにより、平成四天王全員が本因坊に就位した。翌2011年の第66期も、山下は羽根のリターンマッチを土俵際で退け防衛。さらに同年、名人位を獲得し、史上7人目の名人本因坊となった。 井山裕太の時代[編集] 2012年の第67期には、挑戦者として天元・十段のタイトルを引っさげた井山裕太が初登場。フルセットの末に山下を降して3連覇を阻むと同時に、史上最年少の三冠王に輝いた(23歳1ヶ月)。2014年の第69期には、初のリーグ入りであった伊田篤史がリーグを6勝1敗で終え、プレーオフで山下敬吾を降して、本因坊戦史上最年少(20歳0ヶ月)での挑戦を決めた。初の年下の挑戦者を迎えて井山の戦いぶりが注目されたが、4-1で伊田を撃破、3連覇を達成した。2015年の第70期は、リーグ第三戦、全勝同士で迎えた山下を下した伊田が再び挑戦権を獲得するかと思われた。しかし伊田は5,6,7戦を立て続けに落とし、伊田以外に全勝した山下が挑戦権を得た。2012年~2015年の山下はリーグ戦勝率80%、この年1月の棋聖戦でも挑戦者として登場しており、最強の挑戦者として井山に挑んだ。しかし第一戦から第三戦を井山が中押しで制し、第四戦を山下が返したものの、第五戦を再び井山が制し、本因坊戦4連覇を達成、二十六世本因坊に王手をかけた。なお、この年、山下は棋聖戦(3-4)、本因坊戦(1-4)、碁聖戦(1-3)で井山に挑戦したが全て敗退した。また、井山は早碁を除く全棋戦で11月19日現在まで山下以外には無敗という記録を継続中である。 世襲本因坊[編集] 生年 一世 本因坊算砂 1559- 一世名人 二世 本因坊算悦 1611- 三世 本因坊道悦 1636- 準名人 四世 本因坊道策 1645- 四世名人 二代目碁所 五世 本因坊道知 1690- 六世名人 四代目碁所 六世 本因坊知伯 1710- 六段 七世 本因坊秀伯 1716- 六段 八世 本因坊伯元 1726- 六段 九世 本因坊察元 1733- 七世名人 五代目碁所 十世 本因坊烈元 1750- 準名人 八段 十一世 本因坊元丈 1775- 準名人 八段 十二世 本因坊丈和 1787- 八世名人 六代目碁所 十三世 本因坊丈策 1803- 七段 十四世 本因坊秀和 1820- 準名人 八段 十五世 本因坊秀悦 1850- 六段 十六世 本因坊秀元 1854- 六段 十七世 本因坊秀栄 1852- 九世名人 十八世 本因坊秀甫 1838- 準名人 八段 十九世 本因坊秀栄 再任 - - 二十世 本因坊秀元 再任 - - 二十一世 本因坊秀哉 1874- 十世名人 四世跡目 - 本因坊道的 七段上手 四世跡目 - 本因坊策元 上手 十一世跡目 - 本因坊知策 五段 十四世跡目 - 本因坊秀策 七段 永世称号[編集] 本因坊戦を5連覇以上、あるいは通算10期以上獲得した棋士は、引退後または現役で60歳に達した際[3]に、永世称号として○○世本因坊を名乗る権利を得る。もとは名誉本因坊と称し、他のタイトルの名誉称号はこれに倣ったものである。1998年「名誉本因坊有資格者永世称号」が制定され、現在の称号となった。有資格者は下記の5人で、家元制最後の21世本因坊秀哉の後に続き、それぞれ22世~26世を名乗る。 ただし趙治勲のみ10連覇の偉業を称え、60歳を待たずして「25世本因坊治勲」を名乗ることを許されている。また9連覇を達成した高川格は、日本棋院創立40周年を記念して、1964年から「名誉本因坊・高川秀格」を名乗ることを許された。 雅号 名 通算 連覇 年 1 二十二世本因坊秀格 高川格 9期 9連覇 1952年-1960年 2 二十三世本因坊栄寿 坂田栄男 7期 7連覇 1961年-1967年 3 二十四世本因坊秀芳 石田芳夫 5期 5連覇 1971年-1975年 4 二十五世本因坊治勲 趙治勲 12期 10連覇 1981年-1982年、1989年-1998年 5 二十六世本因坊文裕 井山裕太 6期 6連覇 2012年- 歴代本因坊戦優勝者[編集] ○●はそのシリーズの勝者から見た勝敗、網掛けは前のタイトル保持者。 期 開催年 予選一位 勝敗 予選二位 1 1941 関山利一 ○●○●○●[注 1] 加藤信 期 開催年 歴代本因坊 勝敗 対局者 2 1943 橋本宇太郎 ○[注 2] 関山利一 3 1945 岩本薫 ○●●○●○[注 3] (再決戦:○○) 橋本宇太郎 4 1947 岩本薫 ●○○●○ 木谷実 5 1949 橋本宇太郎 ○○○○ 岩本薫 6 1951 橋本宇太郎 ●○●●○○○ 坂田栄男 7 1952 高川格 ●○○○○ 橋本宇太郎 8 1953 高川格 ●○○○●○ 木谷実 9 1954 高川格 ○●○●○○ 杉内雅男 10 1955 高川格 ○○○○ 島村利博 11 1956 高川格 ○●●○○○ 島村利博 12 1957 高川格 ●○○○●○ 藤沢朋斎 13 1958 高川格 ○○●●○○ 杉内雅男 14 1959 高川格 ●○○●○○ 木谷実 15 1960 高川格 4-2 藤沢秀行 16 1961 坂田栄男 ○○○●○ 高川格 17 1962 坂田栄男 ○○●○○ 半田道玄 18 1963 坂田栄男 4-2 高川格 19 1964 坂田栄男 ○○○○ 高川格 20 1965 坂田栄男 ○○○○ 山部俊郎 21 1966 坂田栄男 ○○○○ 藤沢秀行 22 1967 坂田栄男 ○○○●○ 林海峰 23 1968 林海峰 4-3 坂田栄男 24 1969 林海峰 ○●○○●○ 加藤正夫 25 1970 林海峰 ○○○○ 坂田栄男 26 1971 石田芳夫 4-2 林海峰 27 1972 石田芳夫 4-3 林海峰 28 1973 石田芳夫 ○○○○ 林海峰 29 1974 石田芳夫 4-3 武宮正樹 30 1975 石田芳夫 4-3 坂田栄男 31 1976 武宮正樹 4-1 石田芳夫 32 1977 加藤正夫 4-1 武宮正樹 33 1978 加藤正夫 4-3 石田芳夫 34 1979 加藤正夫 4-1 林海峰 35 1980 武宮正樹 4-1 加藤正夫 36 1981 趙治勲 4-2 武宮正樹 37 1982 趙治勲 ●○●○○○ 小林光一 38 1983 林海峰 ●●●○○○○ 趙治勲 39 1984 林海峰 ○●○○○ 淡路修三 40 1985 武宮正樹 ○○●○○ 林海峰 ^ 規定により予選一位の関山が本因坊に ^ 関山病気棄権 ^ 第2局が原爆下の対局 期 開催年 本因坊 勝敗 対局者 41 1986 武宮正樹 ○●○○○ 山城宏 42 1987 武宮正樹 ○○○○ 山城宏 43 1988 武宮正樹 ●○○●○●○ 大竹英雄 44 1989 趙治勲 ○○○○ 武宮正樹 45 1990 趙治勲 ○●●●○○○ 小林光一 46 1991 趙治勲 ●●○○○○ 小林光一 47 1992 趙治勲 ●●●○○○○ 小林光一 48 1993 趙治勲 ○●○○○ 山城宏 49 1994 趙治勲 ●○○○●●○ 片岡聡 50 1995 趙治勲 ○●○○○ 加藤正夫 51 1996 趙治勲 ○○●○●○ 柳時熏 52 1997 趙治勲 ○○○○ 加藤正夫 53 1998 趙治勲 ○○●○●○ 王立誠 54 1999 趙善津 ●○●○○○ 趙治勲 55 2000 王銘琬 ●○○●○○ 趙善津 56 2001 王銘琬 ●○●○●○○ 張栩 57 2002 加藤正夫 ●●○○○○ 王銘琬 58 2003 張栩  ●○●○○○ 加藤正夫 59 2004 張栩 ○○●○●○ 依田紀基 60 2005 高尾紳路 ○○○●○ 張栩 61 2006 高尾紳路 ○●○○●○ 山田規三生 62 2007 高尾紳路 ○●○○○ 依田紀基 63 2008 羽根直樹 ●●●○○○○ 高尾紳路 64 2009 羽根直樹 ○●○○●○ 高尾紳路 65 2010 山下敬吾 ●○○○○ 羽根直樹 66 2011 山下敬吾 ○○○●●●○ 羽根直樹 67 2012 井山裕太 ○○●●○●○ 山下敬吾 68 2013 井山裕太 ○●●○○●○ 高尾紳路 69 2014 井山裕太 ○○○●○ 伊田篤史 70 2015 井山裕太 ○○○●○ 山下敬吾 71 2016 井山裕太 ●○○○○ 高尾紳路 72 2017 井山裕太 ○○○○ 本木克弥 本因坊リーグ戦[編集] ここ数年のリーグ戦。順位は前年リーグ成績が反映された序列(前回のタイトル保持者or挑戦者が1位)。4位までは前年のリーグ残留者。5位4人は予選トーナメントの勝者。本因坊は前年の獲得者。 ◎はタイトル挑戦権獲得者。▼はリーグ陥落。Pはプレーオフ。 本因坊リーグ - 本因坊 1位 2位 3位 4位 5位 52 趙治勲 柳時熏 加藤正夫 ◎ 楊嘉源 ▼ 片岡聡 ▼ 林海峰 ▼ 彦坂直人 小松英樹▼ 趙善津 53 趙治勲 加藤正夫 ▼ 柳時熏 ▼ 彦坂直人 趙善津 ▼ 小林覚 王立誠◎ 王銘琬 P 山田規三生 ▼ 54 趙治勲 王立誠 王銘琬 ▼ 彦坂直人 P 小林覚 ▼ 山田規三生 石田章 ▼ 趙善津 ◎ 柳時熏 ▼ 55 趙善津 趙治勲 彦坂直人 ▼ 王立誠 ▼ 山田規三生 林海峰 ▼ 大竹英雄 王銘琬 ◎ 柳時熏 ▼ 56 王銘琬 趙善津 趙治勲 山田規三生 ▼ 大竹英雄 ▼ 結城聡 ▼ 大矢浩一 ▼ 羽根直樹 張栩 ◎ 57 王銘琬 張栩 趙善津 趙治勲 羽根直樹 ▼ 加藤正夫 ◎ 大竹英雄 ▼ 宮沢吾朗 ▼ 山田規三生 ▼ 58 加藤正夫 王銘琬 P 張栩 ◎ 趙善津 ▼ 趙治勲 ▼ 小林光一 林海峰 ▼ 柳時熏 ▼ 山下敬吾 59 張栩  加藤正夫 ▼ 王銘琬 ▼ 山下敬吾 ▼ 小林光一 ▼ 依田紀基 ◎ 王立誠 趙善津 三村智保 P 60 張栩 依田紀基 三村智保 ▼ 王立誠 ▼ 趙善津 P 王銘琬 高尾紳路 ◎ 蘇耀国 ▼ 潘善琪 ▼ 61 高尾紳路 張栩 趙善津 ▼ 依田紀基 P 王銘琬 ▼ 羽根直樹 P 王立誠 ▼ 山田規三生 ◎ 蘇耀国 ▼ 62 高尾紳路 山田規三生 依田紀基 ◎ 羽根直樹 ▼ 張栩 小林覚 ▼ 王銘琬 ▼ 趙善津 ▼ 蘇耀国 P 63 高尾紳路 依田紀基 蘇耀国▼ 山田規三生 張栩 ▼ 山下敬吾 羽根直樹 ◎ 王銘琬 ▼ 溝上朝親 ▼ 64 羽根直樹 高尾紳路 ◎ 山田規三生 山下敬吾 依田紀基 ▼ 張栩 片岡聡 ▼ 中小野田智己 ▼ 蘇耀国 ▼ 65 羽根直樹 高尾紳路 山田規三生▼ 山下敬吾 ◎ 張栩  武宮正樹▼ 結城聡▼ 三村智保▼ 井山裕太 P 66 山下敬吾 羽根直樹 ◎ 井山裕太 高尾紳路▼ 張栩 王立誠▼ 小林覚▼ 趙善津▼ 瀬戸大樹 67 山下敬吾 羽根直樹▼ 井山裕太 ◎ 張栩 瀬戸大樹▼ 結城聡 高尾紳路 河野臨▼ 黄翊祖▼ 68 井山裕太 山下敬吾 結城聡 張栩 高尾紳路 ◎ 趙善津▼ 今村俊也▼ 黄翊祖▼ 瀬戸大樹▼ 69 井山裕太 高尾紳路▼ 山下敬吾 P 張栩 結城聡▼ 河野臨 坂井秀至▼ 伊田篤史 ◎ 余正麒▼ 70 井山裕太 伊田篤史 山下敬吾 ◎ 張栩 河野臨 高尾紳路▼ 三村智保▼ 柳時熏▼ 余正麒▼ 71 井山裕太 山下敬吾 伊田篤史▼ 張栩 河野臨▼ 高尾紳路 ◎ 余正麒▼ 一力遼▼ 本木克弥 72 井山裕太 高尾紳路 本木克弥 山下敬吾 張栩 羽根直樹 結城聡 黄翊祖 三谷哲也 本因坊リーグ経験者[編集] 趙治勲、柳時熏、加藤正夫、楊嘉源、片岡聡、林海峯、彦坂直人、小松英樹、趙善津、小林覚、王立誠、王銘エン、山田規三生、石田章、大竹英雄、結城聡、大矢浩一、羽根直樹、張栩、宮沢吾朗、小林光一、山下敬吾、依田紀基、三村智保、高尾紳路、蘇耀国、潘善琪、溝上知親、中小野田智己、武宮正樹、井山裕太、瀬戸大樹、河野臨、黄翊祖、今村俊也、伊田篤史、余正麒、一力遼、本木克弥、三谷哲也 ※52期以降 雅号[編集] 本因坊位獲得者は、本因坊名跡を継承する主旨で本因坊○○と名乗る慣例がある。当初は日本棋院から号を贈られていたが、本因坊薫和(岩本薫)以降、個人的に雅号を決める慣例ができた。雅号は多くの場合本名から一字を取り、もう一字と組み合わせる。もう一字としては、本因坊秀格(高川格)、本因坊秀芳(石田芳夫)のように本因坊家ゆかりの「秀」の字を用いるのが主流とされる。 ただ近年は号を名乗らない例が多くなっている。高尾紳路は当初、周囲から雅号を勧められても時期尚早として固辞しつづけ、3連覇を機にようやく「本因坊秀紳」を名乗った。また羽根直樹は本因坊奪取直後のテレビ出演で、実力や実績が伴っていないとして雅号を名乗らない考えを示している。外国出身の林海峰や趙治勲は、実名を号としている。 なお、武宮正樹は初めての本因坊就位の際には「本因坊秀樹(しゅうじゅ)」を名乗ったが、本名と勘違いされたことから、二度目以降は「本因坊正樹(せいじゅ)」と号を変更している。 号を名乗った棋士 号 読み 実名 号の由来 本因坊利仙 りせん 関山利一 日本棋院から号を贈られる。 本因坊昭宇 しょうう 橋本宇太郎 日本棋院から号を贈られる。 本因坊薫和 くんわ 岩本薫 本因坊秀格 しゅうかく 高川格 本因坊秀栄に因む。 本因坊栄寿 えいじゅ 坂田栄男 本因坊秀哉の本名の「田村保寿」と、当時の日本棋院総裁の津島寿一に因む[4]。 本因坊海峯 かいほう 林海峰 実名から。 本因坊秀芳 しゅうほう 石田芳夫 親交のあった書家・佐々木泰南(木谷道場の書の指導者、石田の結婚の媒酌人[5])の命名。 本因坊秀樹・正樹 しゅうじゅ・せいじゅ 武宮正樹 二期目以降は実名から。 本因坊劔正 けんせい 加藤正夫 同郷の有力後援者であった劔木亨弘の名から。 本因坊治勲 ちくん 趙治勲 実名から。 本因坊秀紳 しゅうしん 高尾紳路 師匠藤沢秀行の命名。 本因坊道吾 どうわ 山下敬吾 本因坊道策と出身地・北海道に因む。 本因坊文裕 もんゆう 井山裕太 文殊菩薩と実名から一字ずつ。本因坊算砂を輩出した寂光寺の大川定信住職の命名。 参考文献[編集] 根岸鎮衛 『耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。本因坊についての逸話を収録。 村松梢風『本因坊物語―近世名勝負物語』新潮社 1954年 『本因坊戦全集』(全7冊+別巻+呉清源特別棋戦2冊)毎日新聞社 1969-71年 井口昭夫『本因坊名勝負物語』三一書房 1995年 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 増川宏一『碁』(法政大学出版会)では「信長・秀吉に仕えたこと」は否定されている。 ^ 張栩、蘇耀国、本因坊リーグ勝ち越しでも・・・ ^ 主催紙の毎日新聞は9連覇も呼称の権利とする。井山、高尾降し5連覇 永世本因坊に、7冠堅持 毎日新聞2016年6月30日 2016年7月1日閲覧 ^ 坂田栄男『坂田一代』(日本棋院)P.184 ^ 江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P.228 関連項目[編集] 囲碁タイトルの在位者一覧 第1期本因坊戦 第2期本因坊戦 第3期本因坊戦 第4期本因坊戦 第5期本因坊戦 第6期本因坊戦 第7期本因坊戦 第8期本因坊戦 外部リンク[編集] 本因坊400年・手談見聞録(毎日新聞・金沢盛栄) 本因坊戦七番勝負(毎日新聞社) --------- 本手 本手(ほんて)とは囲碁用語の一つ。急所を突いた本筋の手で、一見足が遅いようであとあとまで一手の価値を失わない働きのある手のことである。「厚い手」と呼ばれるニュアンスに近い。 他方、急所を外れたその場の間に合わせの手をウソ手とも言う。こうした薄い手には後々まで禍根が残る。 じっくりした厚い本手を好む棋士は追い込み型で、本格派の棋士とも言われる。藤沢秀行、大竹英雄、高尾紳路らがその代表格である。ただし、厚がり過ぎて布石に遅れる場合もあり、それを避けて要点を足早に先取して逃げ切りをはかるタイプの棋士もいる。 本手の実例[編集] 星の定石の例。黒1と、後手でも一手入れておくのが本手。放置するとaのオサエコミ、bのトビなど白△を動き出す手が残る。 小目定石の一例。かつてはここで黒1とアテ、白2とツガせて先手を取っていた。しかしこの形はシチョウ関係次第でaのキリが残り、隅に対する味も消している。 そこで最近では、後手でも黒1とサガる手が打たれるようになった。この形では、aのキリはシチョウに関係なく取れる(ユルミシチョウの項目参照)。またbから左辺方面への白の進出を止めて封鎖する手や、cのツケから隅を大きくヨセる手などが残る。現在では、よほど他に急ぐ場所がない限り、黒1のサガリが本手と見なされている。 参考図書[編集] 大竹英雄『本手指南(囲碁最強塾)』河出書房新社 --------- 方円社 方円社(ほうえんしゃ、方圓社)は、明治、大正時代の日本の囲碁の組織。 1879年に村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)、中川亀三郎らにより設立され、1924年の碁界大合同による日本棋院設立まで続いた。明治後期の日本における最も繁栄した囲碁組織で、本因坊家などと対立しながらも、封建的な家元制度を脱却し、実力主義を導入、従来の段位制度に代わり、級位制を取り入れるなど、次々と新しい試みを打ち出し、囲碁の普及と近代化に大いに功績があった。 「方円」とは、四角の碁盤と丸い碁石を用いる囲碁の、古来からの別名である。機関誌「囲棋新報(囲碁新報)」は、世界初の囲碁雑誌であった。方円社を援助した財界人には、井上馨、後藤象二郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一らがいる。 目次 [非表示] 1 設立の背景 2 歴史 2.1 秀甫の時代 2.2 坊社対立と発展 2.3 碁界合同へ 3 囲碁普及の功績 3.1 出版活動 3.2 国際普及 4 人物 4.1 歴代社長 4.2 方円社の棋士 5 関連項目 6 参考文献 7 外部リンク 設立の背景[編集] 江戸時代に幕府から家禄を得ることで家元制度としての発展を遂げていた囲碁界は、明治維新により幕府の保護を失うという打撃を受けることになった。まず棋士達の研鑽の成果を発揮する場であった御城碁が幕末以後行われなくなってしまい、これを補うために本因坊秀和は「三の日会」と称して対局の場を設けたが、資金難により3、4年で中断した。1869年(明治2年)には秀和門下で本因坊丈和三男の中川亀三郎が、本因坊跡目秀悦、林秀栄(後の本因坊秀栄)、安井算英、小林鉄次郎、吉田半十郎らを自宅に招いて「六人会」という例会を1年ばかり続けるなどしていた。この資金は豪商の田口重次郎が賄い、後に海老沢健造、白石喜三郎なども参加した。 この1869年には、明治政府東京府庁から、屋敷の引き渡し、及び家禄の半減の措置が取られ、1871年(明治4年)には家禄奉還となり、各家元は公的な財政基盤を失った。このため碁界では棋士の研鑽と育成を継続するための方策と、そのための資金の支援者が必要となっていた。 歴史[編集] 秀甫の時代[編集] 設立 秀和門下で当時の棋界の第一人者だった村瀬秀甫七段と、中川亀三郎六段が中心となり、1879年(明治12年)4月に囲碁研究会として「方円社」発会、秀甫が社長となる。これを記念した方円社発会記念対局には、本因坊秀悦、林秀栄五段、安井算英五段などの家元四家の棋士も参加した。また毎月第3日曜に月例会を催し、秀甫の講評を付けて例会の棋譜を掲載する「囲棋新報」を月報として発刊を開始。しかし実力第一主義を謳い家元の権威を認めない方円社のやり方に、家元側の秀栄らが反発し、席次と入社時の条件不実行を理由に脱退して方円社は9月に分裂。秀栄は本因坊秀元、井上松本因碩らと図って、方円社の社員となっていた門下の段位を剥奪、方円社と秀甫に対抗するようになった。黒田俊節、梅生長江らは憤慨して家元に免状を返上。秀甫は方円社を再組織し、11月神田神保町で方円社を発会。1880年(明治13年)方円社独自の免状の発行を始める。社員の従来の段位を確認し、「囲棋新報」(第十集)の対局譜に段位を付して発表した。 1881年(明治14年)、秀甫が中川を先二に打ち込み、八段に推薦される。この年より、常置指南を置くことになり、村瀬秀甫、中川亀三郎、小林鉄次郎、水谷縫次、高橋周徳、高橋杵三郎、梅主長江、酒井安次郎、大沢銀次郎、林佐野、今井金江茂、関源吉らが交代でこの役割を担当した。1883年(明治16年)、従来の段位制を廃し、級位制を採用する。 坊社再分離 1884年(明治17年)17世本因坊となった秀栄は後藤象二郎に方円社との和解の仲裁を委ね、方円社手合に出席するようになり、12月21日には秀甫との十番碁(秀栄先)を開始する。1886年(明治19年)7月30日、秀栄は秀甫の八段を正式に認め、同時に本因坊を譲って土屋秀栄を名乗る。村瀬秀甫は18世本因坊となり、即日秀栄(五段)に七段を贈る。秀甫対秀栄の十番碁は5勝5敗の打ち分けとなるが、8月6日の最終局は秀甫の絶局となり、10月14日に秀甫没(享年49)。11月、中川亀三郎が2代目の方円社社長となる。秀栄は秀甫との、本因坊は方円社社長を兼ねるという合意に基づき中川との勝負碁を迫るが、中川は本因坊継承の意志が無いことを示して勝負を避け、これ以降再度本因坊家と方円社は分離した状態となる。 坊社対立と発展[編集] 方円社の勢力 方円社の所属棋士には、方円社四天王と称された小林鉄次郎、水谷縫次、酒井安次郎、高橋杵三郎らがいた。ことに水谷は1880年(明治13年)に秀甫の招きで上京して四段(6級)に認められた後、ただ一人秀甫に先相先の手合に進むが、1884年(明治17年)に夭逝する。方円社はまた塾生制度により年少棋士を育成し、後に石井千治(1883入塾、後の二代目中川亀三郎)、田村保寿(本因坊秀哉、1885)、林文子(喜多文子)、杉岡栄次郎、田村嘉平(1891)、広瀬平治郎(1891)、雁金準一(1891)、岩佐銈(1895)、高部道平(1899)などを輩出する。塾生時代の石井、田村、杉岡は方円社三小僧と呼ばれた。1889年(明治22年)には「青年研究会」を発会、「青年囲碁研究会新誌」も創刊される。1907年(明治40年)には鈴木為次郎が飛び付き三段、1909年(明治42年)には瀬越憲作が飛び付き三段で参加する。 また1893年には、級位制から元の段位制に復帰した。中川亀三郎は1899年に引退し、小林鉄次郎に代わって副社長となっていた元安井家門人の巌崎健造が3代目方円社社長、石井千治が副社長となる。 本因坊派の動き それに対し本因坊秀栄は、1892年(明治25年)「囲碁奨励会」、1895年(明治28年)「四象会」を発足するなど研鑽に励み、実力抜きん出るに至って1898年(明治31年)八段に進む。安井算英、隠居の本因坊秀元らに加え、方円社を退社した田村保寿が入門、また石井千治、広瀬平治郎らも参加、雁金準一も1905年(明治39年)に方円社を退社して門下となるなど方円社を凌ぐ勢いとなり、野沢竹朝などの有力な若手棋士も育ち、1906年(明治39年)に名人に進む。1895年(明治28年)、1896年には、石井と、田村保寿、秀栄の十番碁、1900年(明治33年)雁金と秀栄の十番碁も行われた。1907年に本因坊秀栄が死去すると、田村保寿と雁金準一の本因坊継承争いが起こり、田村が本因坊秀哉となり、雁金は後に方円社理事として復帰する。 碁界の趨勢 方円社でも、1900年(明治33年)頃には初段以上の名簿は全国で500人に達するなど、普及による興隆を果たした。1907年(明治40年)中川家を継いで中川千治となっていた石井千治が方円社を退社、1909年には七段昇段して2代目中川亀三郎を襲名、岩佐銈、野沢竹朝らとともに囲碁同志会を結成するという分裂もあったが、中川は1912年(大正元年)に復帰して、巌崎健造を継いで方円社4代目社長に就任、囲碁同志会は解散する。 1898年(明治31年)に神戸新聞で最初の新聞碁が開始。1899年(明治32年)には読売新聞がスポンサーとなり、初の囲碁電信手合が東京の巌埼健造と大阪の泉秀節により対局される。また時事新報は1901年(明治34年)に「囲碁新手合」を開始、続いて明治末までに朝日、毎日、読売新聞が囲碁の棋譜を掲載するようになる。萬朝報の黒岩涙香は新聞碁を通じて坊社を結びつけようと考え、1905年から「碁戦」という囲碁欄を設けて坊門と方円社の手合を交互に掲載、1910年からは坊門と方円社の対抗戦「連合選手戦」が開始される。1916年(大正5年)大阪朝日新聞にて坊社対抗戦(選手各8名、方円社の喜多文子は坊門側で出場)。1917年(大正6年)時事新報で坊社合同対局、広瀬平治郎と野沢竹朝の対局が行われる。 1912年に巌埼健造が引退し、2代目中川亀三郎が4代目方円社社長となる。 碁界合同へ[編集] 三派鼎立 1920年(大正9年)には中外商業新報(日本経済新聞の前身)で坊社両派の混合敗退戦を開始、第1局は方円社岩佐銈と坊門の井上孝平が対局した。また同年、小杉丁、向井一男らが中心となり、本因坊門と方円社の若手棋士6名による研究会「六華会」結成。瀬越憲作、鈴木為次郎、井上孝平らに講評を依頼、小岸壮二を会友に迎えるなどし、九州日報社の内田好之輔の運動で棋譜が地方新聞に掲載されるようになり、その後も岩本薫、橋本宇太郎、木谷實、前田陳爾ら多くの若手棋士が参加、日本棋院結成時までには会員20数名を数えるまでになった。1921年(大正10年)には中川亀三郎に八段を贈り、方円社顧問を委嘱。 第一次世界大戦後からの碁界合同の機運が高まった1922年(大正11年)、時事新報の矢野由次郎や代議士の大縄久雄発起で、秀哉以下の坊門、方円社、16世井上因碩を始めとする関西の棋士、稲垣日省など中京の棋士が署名した「日本囲碁協会」の趣意書が配付され、政財界からも多くの賛同を受けた。1920年に方円社長となった広瀬平治郎はこの機運に乗じて社屋の丸ビル移転を計画し、財界有志による寄付金を募集、移転披露囲碁大会を「日本橋倶楽部」で開催などするが、病に倒れ計画は頓挫する。同年12月に方円社理事の雁金準一、鈴木為次郎、瀬越憲作と高部道平の4名が独立して「裨聖会」を設立、総互先・コミ出し制、持ち時間制、成績の点数制などの近代的な手合制度を開始する。これに刺激を受けて、方円社の副社長格岩佐銈と広瀬門下の加藤信は、本因坊秀哉との間で坊社合同を合議し、広瀬の集めた資金により翌年1月に丸ビルに中央棋院を設立する。 しかしほどなく資金運用を巡って加藤と本因坊派が対立し、4月に社屋は方円社に復し、本因坊派は中央棋院として日本橋に移転した。ただしこの時に旧方円社の小野田千代太郎、喜多文子の2名が合同の意志を継続して中央棋院に残った。これにより、碁界は、中央棋院、方円社、裨聖会の三派鼎立時代と呼ばれるようになる。この年3月には本因坊算砂300年祭が行われ、関西の吉田操子や本因坊秀哉らの斡旋で、裨聖会を除く方円社や井上家などの棋士も勢ぞろいする盛況となり、合同への再度の動きの契機となった。また第一次大戦後の不況もあり、各派の経済事情も苦しくなってきたこともこれを促した。 大合同 1923年(大正12年)の関東大震災により各派は大きな打撃を受け、中央棋院と裨聖会は方円社に合同を申し入れ、これを拒否するならば方円社との新聞手合を拒絶すると迫った。雁金らを欠き、小野田の中央棋院行きなどもあって加藤信に続く棋士が岩本薫四段ぐらいとなっていた方円社はこれを受け入れた。また大倉財閥の大倉喜七郎の援助を受けるられることとなり、1924年(大正13年)4月に関西の棋士らも参加して棋界合同協議開催、5月に方円社解散、7月に碁界大合同による日本棋院設立、方円社所属棋士は日本棋院所属となった。 囲碁普及の功績[編集] 方円社が明治期における一般の囲碁愛好家向けに果たした功績は大きい。その一つには短期間ではあるが級位制の採用があり、これは従来の9段階の段位制を12段階に広げ、免状を受けられる人の範囲を広げるとともに、宣伝上の効果、免状発行による収入増の効果もあった。また雑誌「囲棋新報」等の発行により、棋譜の紹介を迅速にし、不特定多数への宣伝にもなった。 また1885年(明治18年)に横浜、1887年(明治20年)に泉秀節が大阪に方円分社を設立するなど、地方への普及にも力を入れた。中根鳳次郎が1992年(明治25年)に岡山、1993年(明治26年)に神戸に方円支社を設立。田村嘉平が1908年(明治41年)に京都分社長となる。 出版活動[編集] 1879年(明治12年)4月20日の例会開始とともに、方円社の定例手合の棋譜を評とともに掲載する「囲棋新報(圍棋新報)」を月報として発行開始した。1988年(明治21年)からはそれまで和紙木版だったのを洋紙活版とし。1924年(大正13年)4月520号まで発行される。 1900年(明治33年)には初段以下を対象とする「囲碁初学独修新報(圍碁初學獨習新報)」を姉妹雑誌として発刊(1908年に「囲棋初学新報(圍棋初學新報)」に改名)。1912年(大正元年)に2代目中川亀三郎が方円社社長就任した際、囲碁同志会の機関誌であった「囲棋世界」と合併、1913年に「棋道」として再発刊。1913年2月号までで終刊して「囲棋新報」に合併。 1907年(明治40年)には、機関誌というより趣味誌的性格として、講座や読み物も多くした「方円新報(方圓新報)」を発刊、村瀬秀甫著「方円新法」と同名のため、後に「碁界新報」に改名。 これらの他、明治末期から大正にかけて、各囲碁団体や出版社がそれぞれに囲碁雑誌を刊行した。 国際普及[編集] 工務局の鉄道関係技師として日本に招かれていたドイツ人オスカー・コルセルトが方円社を訪れ、碁の指南を望んだ折、村瀬秀甫は海外普及の好機至れりと喜んで、コルセルトを弟子とし、懇切に碁を指導した。帰国したコルセルトが、1882年に発表した碁を紹介する記事から、ヨーロッパへの囲碁の歴史が始まった。 人物[編集] 歴代社長[編集] 社長 任期 初代 村瀬秀甫(本因坊秀甫) 1879 - 1886 2 中川亀三郎 1886 - 1899 3 巌崎健造 1899 - 1912 4 二代目中川亀三郎 1912 - 1920 5 広瀬平治郎 1920 - 1924 6 岩佐銈 1924 方円社の棋士[編集] 梅主長江( -1886頃)安井家門下で、元の名は白石喜三郎。家元と方円社が不和になって免状剥奪となった際に、自ら五段を返上して方円社に入社した。 水谷四谷( -1887頃)水谷琢廉の子、五段。方円社設立に参加。 杉山千和(1821-1899)美濃国生まれ、旧姓山本、旧名千代三郎。伊藤松和に学び、本因坊秀和より五段、方円社より六段を受ける。 高橋周徳(1822-1886)旗本で元の名は鍋三郎、安井息軒から周徳の号を受ける。方円社設立に尽力した。五段。 今井金江茂(-1895)本因坊門下で旧名金蔵。方円社設立直後に入社、横浜在住し、五段まで進む。 林佐野(1825-1901) 林元美実子で林家の分家林藤三郎の養女となり、16歳で入段。方円社創設に協力、三段に進み、喜多文子らを育てた。 山崎外三郎(1829-1894)尾州徳川藩士で、加藤隆和門下で五段となる。上京して方円社員と多く対局を重ね、六段を追贈された。 梶川昇(1831-1890)伊勢国生まれ、元の名は守禮、旧姓橘。医者の家柄だが、本因坊秀和門下で学び五段となり、方円社設立に参加して東上。郷里で県会議員、徴兵参事官などを務めた。 吉田半十郎(1831-1897)本因坊秀悦らとの六人会を経て方円社設立を進めた。 高橋杵三郎(1836-1902)本因坊秀和門下で、方円社四天王の一人。水谷縫治と十番碁。 三好紀徳(1837-1885)佐賀藩の儒士。三段。「囲棋新報」で評論を執筆。 黒田俊節(1839-1884)服部正徹門下で、大阪に居し、初期の方円社棋士と交流した。 高崎泰策(1839-1907)関西、中京で大塚亀太郎、泉秀節らと囲碁普及に努めた。 泉秀節(1844-1904)中川順節門下で、大阪方円分社を設立。子の泉喜一郎が分社長を継いだ。 大沢銀二郎(1844-1906)安井算知門下、9歳の時に聾となる。28歳で四段。方円社設立時に入社し、方円社、安井家より五段。1901年に方円社勤続功労の褒状を贈られた。 水谷縫次(1846-1884)少年時代に秀策との対局で名が知られていたが、秀甫の招聘で1880年に愛媛から上京して方円社定式会に参加、四段(6級)を認定。その後秀甫にただ一人先相先の手合い進むが、38歳で夭逝。 内垣末吉(1847-1918)因幡国生れ。本因坊秀和門下で三段となり、明治になって官職に転じ、井上馨に従って1903年まで精勤。方円社設立に参加し、1912年六段に進む。没後方円社より追悼七段。 小林鉄次郎(1848-1893)井上門下だったが方円社設立時から参加。実務的手腕に優れ、幹事、副社長も務めるなど運営面で大きく貢献した。 酒井安次郎(1851-1883)江戸の生まれ、吉田半十郎門下で、雀小僧と呼ばれる。小林鉄次郎と信州遊歴の後、方円社設立に参加し、方円社四天王の一人となり、五段に昇る。 稲垣兼太郎(1854-1940)方円社設立とともに入社。中京碁界の組織化に尽力した。 中根鳳次郎(1855-1921)井上松本因碩門下から方円社に参加。岡山、神戸で方円社分社設立。 関源吉(1856-1925)本因坊秀和、秀甫に学び、石井千治と青年囲碁研究会を設立、本因坊秀栄らと碁界合同を探った。 石井千治(1869-1928)1983年に入塾、85年初段。中川亀三郎没後に養子となり、一時期方円社脱退し二代目中川亀三郎を襲名、その後4代目社長を務める。 長野敬次郎(1870-1921)鹿児島生まれ。長崎で重久元和に学び、1903年に東京に出て方円社に参加、1904年三段、1909年五段。その後は九州碁界発展に尽くした。 林徳蔵(1872-1931)1908年に本因坊門と方円社から二段を認められ、1919年四段、追贈五段。林有太郎の父。 都築米子(1872-1937)本因坊秀栄、梅主長江に教えを受け、方円社定式手合に参加、囲碁同志会にも参加した。追贈五段。 田村保寿(本因坊秀哉、1874-1940)1885年に方円社に入塾し、住み込みの塾生となる。石井千治、杉岡栄次郎とともに方円社の三小僧と呼ばれるが、1891年に除名。その後本因坊秀栄門下となり、秀栄死後に21世本因坊となる。 喜多文子(1875-1950)方円社で女流棋士のパイオニアとして活躍し、日本棋院設立時にの調整に奔走した。 小林鍵太郎(1875-1935)父は小林鉄次郎。18歳初段。父は棋士となることを禁じたが、父の死後に囲碁の道へ進む。五段。実子の小林誠一も棋士。 竹田逸子(1875-1935)以津子とも書いた。旧名高橋閑子。明治20年頃に方円社女子部に在籍したが、公式手合は打たず、指導に徹し、また薙刀など多芸の持ち主だった。四段。門下に竹中幸太郎、星野紀など。 井上孝平(1877-1941)巌崎健造に学び、本因坊秀栄、秀哉などとも繋がりを持ち、石井千治の囲碁同志会にも参加。 田村嘉平(1878-1937)方円社塾生の後、京都、大阪で活動、方円社京都分社長、日本棋院関西支部長を務める。 吉田操子(1881-1944)泉秀節、本因坊秀哉らに学んだ後、京都で囲碁界組織化。日本棋院設立では関西碁会をまとめた。 都谷森逸郎(1882-)青森県生まれ。広瀬平治郎門下で、1923年五段。関西で手合の他、著作を多く残した。 伊藤幸次郎(1883-1956)東京生まれ。1899年に巌崎建造に入門、入段の後に方円社塾生となり、日本棋院にも所属。六段。琵琶の名手としても知られた。 鈴木為次郎(1883-1960) 中学時代から方円社に通い、巌崎健造の弟子となって棋士となるが、脱退して裨聖会を設立。日本棋院時代にかけて一貫して本因坊秀哉打倒に執念を燃やした。 瀬越憲作(1889-1972)20歳で上京して入社、裨聖会に参加し三派鼎立の後、大倉喜七郎の後援を得て日本棋院設立を為した。 久保松勝喜代(1894-1941)泉秀節に学び、関西囲碁研究会などを組織。少年時代の橋本宇太郎、木谷實らの他、多くの関西棋士を育てた。 小野田千代太郎(1896-1944)方円社塾生から新進棋士として活躍。中央棋院で坊社合同に尽力した。 向井一男(1900-1969)愛媛県出身、田坂信太郎門下。1918年入段。本因坊門下と共同の若手棋士研究会六華会設立の中心となった。 岩本薫(1902-1999)1913年に広瀬平治郎に入門し、1917年入段。第3-4期本因坊。戦後の日本棋院復興、海外への囲碁普及に尽力した。 橋本宇太郎(1907-1994)久保松勝喜代門下を経て、1920年に瀬越憲作に入門、1922年入段。第2、5-6期本因坊。1950年に関西棋院設立。 関連項目[編集] 日本棋院 参考文献[編集] 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年 瀬越憲作『囲碁百年 1 先番必勝を求めて』平凡社 1968年 安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年 増川宏一『碁 ものと人間の文化史 59』法政大学出版局 1987年 小堀啓爾「江戸・明治著名棋士名鑑」「日本棋院物故棋士名鑑」(『1993年度版囲碁年鑑』日本棋院、1993年) 外部リンク[編集] 囲碁史年表1800年代 囲碁史年表1900年代 --------- 本因坊秀策囲碁まつり 本因坊秀策囲碁まつり(ほんいんぼうしゅうさくいごまつり)は、本因坊秀策を記念して、その生地であり広島県因島市(2005年まで)、尾道市で、年2回開催されるイベント。指導碁、尾道市市民囲碁大会(クラス別競技会)などが行われ、2002年からは、因島市が1997年に囲碁を市技として制定した5周年事業として、プロとアマチュアの棋士によるトーナメント戦本因坊秀策杯、2012年からは女流秀策杯のトーナメントが開始された。因島市・尾道市囲碁のまちづくり推進協議会開催。 目次 [非表示] 1 本因坊秀策杯 1.1 優勝者と決勝戦 2 女流秀策杯 2.1 優勝者と決勝戦 3 外部リンク 本因坊秀策杯[編集] 2002年第45回より開始。プロ棋士8名と予選を勝抜いたアマチュア8名によるトーナメント戦。公開対局で行われる。 優勝賞金 100万円と因島備南酒造の日本酒「本因坊秀策」1年分 優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 第1回 2002年(7月28日)山田規三生 - 清成哲也 第2回 2003年(1月26日)小西和子 - 芦田磯子 第3回 2003年(7月27日)大矢浩一 - 羽根直樹 第4回 2004年(1月25日)石田篤司 - 仲邑信也 第5回 2004年(7月25日)結城聡 - 青木紳一 第6回 2005年(1月23日)藤井秀哉 - 岩井竜一 第7回 2005年(7月31日)村川大介 - 石田篤司 第8回 2006年(1月29日)坂井秀至 - 松本武久 第9回 2006年(7月30日)蘇耀国 - 西村慶二 第10回 2007年(1月28日)林子淵 - 清成哲也 第11回 2007年(7月29日)中小野田智己 - 倉橋正行 第12回 2008年(7月20日)坂井秀至 - 田中伸拓 第13回 2009年(7月19日)秋山次郎 - 大矢浩一 第14回 2010年(7月25日)蘇耀国 - 工藤紀夫 第15回 2011年(7月10日)鶴山淳志 - 石田篤司 第16回 2012年(7月8日) 孫喆 - 下島陽平 第17回 2013年(7月14日) 許家元 - 中野寛也 第18回 2014年(7月13日) 結城聡 - 首藤瞬 第19回 2015年(7月12日) 蘇耀国 - 中野寛也 女流秀策杯[編集] 2012年第60回から開始。女流プロ棋士8名と予選を勝抜いた女流アマチュア8名によるトーナメント戦。公開対局で行われる。 優勝賞金 50万円 優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 第1回 2012年(1月29日)万波奈穂 - 矢代久美子 第2回 2013年(1月27日)万波奈穂 - 種村小百合 第3回 2014年(1月26日)藤沢里菜 - 小西和子 第4回 2015年(1月25日)藤沢里菜 - 星合志保 第5回 2016年(1月31日)加藤啓子 - 金子真季 外部リンク[編集] 尾道市囲碁のまちづくり推進協議会 せとうちタイムズ --------- 本因坊秀策囲碁記念館 Japanese Map symbol (Museum) w.svg 本因坊秀策囲碁記念館 Honinbo Shusaku Game of Go Memorial[1] 施設情報 専門分野 本因坊秀策を中心とした囲碁の資料 管理運営 尾道市 開館 2008年 所在地 〒722-2213 広島県尾道市因島外浦町121-1 位置 北緯34度19分41.4秒 東経133度11分1.0秒座標: 北緯34度19分41.4秒 東経133度11分1.0秒 公式サイト 本因坊秀策囲碁記念館 プロジェクト:GLAM 表示 本因坊秀策囲碁記念館(ほんいんぼうしゅうさくいごきねんかん)は、広島県尾道市の因島にある、本因坊秀策の資料を中心とした囲碁の資料館。 目次 [非表示] 1 概要 2 施設 3 利用情報 4 交通 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 概要[編集] 因島は「囲碁の島」としても知られる。1997年、因島市は棋聖本因坊秀策やアマ四強村上文祥がこの地で生まれたことから、町おこしの一環として囲碁を市技として制定した[2][3]。これに『ヒカルの碁』での囲碁プームと2004年秀策が囲碁殿堂に顕彰されたことを機に島には観光客が訪れ、さらに町を挙げて囲碁の文化普及を進めてきた[2]。2006年因島市は平成の市町村合併により尾道市と合併消滅するが、尾道市もこの普及を引き継ぎ囲碁を市技とした[2][4]。そして2007年合併記念事業として秀策の生家復元と資料展示が決まり、2008年に開館したのがこの記念館である[2]。 生家は棋戦会場としても用いられ、2016年には井山裕太本因坊初の防衛戦となった第71期本因坊戦が行われている[5]。事前予約すれば因島囲碁協会が派遣した「碁ランティア」と対戦することができる[6]。 記念館の隣が石切風切神社になる。そもそも生家があったところであり[7]、1926年その前に「本因坊秀策碑」が建立されたものの[2]、1972年老朽化に伴い生家は取り壊された[8]。そのため本因坊秀策碑は神社内にあり、記念館ができるまではここに秀策の資料を展示保管していた[7]。また記念館正面山手の地蔵院に秀策の墓がある[9]。 施設[編集] 囲碁記念館 鉄筋コンクリート造平屋建。主要フロアは、常設展示の「秀策展示室」と企画展示の「企画展示室」。 秀策展示室には秀策の資料を展示している。愛用の碁盤と碁石、食膳、16才時に書いた筆跡書幅、本因坊より囲碁免状四段、死亡通知書、天保14年版日本国中囲碁名鑑などが見どころ[10]。 企画展示室では囲碁に関するものを展示している[11]。 「研修室」は研修や囲碁対局に利用、「売店」もある。 (復元)生家 旧生家家相図を元に再現したもの。木造平屋建。畳敷4間、土間、台所などからなる。囲碁対局や茶室として利用できる[8]。 見どころは秀策が碁を始めるきっかけとなった押入れ。ある日いたずらをした罰として父に押入れに入れられると、薄暗い押し入れの中で碁石を見つけ夢中で並べていた。それを見た母が碁の手ほどきをするとめきめき上達したという[8]。 利用情報[編集] 開館 : 10:00 - 17:00 休日 : 火曜日(ただし祝日の場合は翌水曜日)、年末年始 料金 : 大人300円(団体割引あり)、中学生以下無料 無料駐車場10台分 交通[編集] 車 因島北ICから約5分 因島南ICから約10分 バス 土生港から島内バス大橋行き、「入川橋」バス停下車、徒歩約10分 脚注[編集] [ヘルプ] ^ “本因坊秀策囲碁記念館(文化施設等優待施設) (PDF)”. 公益財団法人ひろしま国際センター. 2017年1月16日閲覧。 ^ a b c d e “幕末の天才棋士・本因坊秀策顕彰の悲願「生家復元」着工 尾道市・因島合併記念事業「囲碁の館」建設”. せとうちタイムス. 2016年5月29日閲覧。 ^ “囲碁の島「因島」”. 本因坊秀策囲碁記念館. 2016年5月29日閲覧。 ^ “本因坊秀策囲碁記念館”. 尾道市. 2016年5月29日閲覧。 ^ “生誕の地で第71期本因坊戦始まる”. エフエムおのみち. 2016年5月29日閲覧。 ^ “出前対局交流「碁ランティア」のご紹介”. ホテルいんのしま. 2016年5月29日閲覧。 ^ a b “『ヒカルの碁』に登場!碁聖「本因坊秀策」生誕の地・因島”. マピオンニュース. 2016年5月29日閲覧。 ^ a b c “秀策生家”. 本因坊秀策囲碁記念館. 2016年5月29日閲覧。 ^ “墓碑と記念碑”. 本因坊秀策囲碁記念館. 2016年5月29日閲覧。 ^ “本因坊秀策囲碁記念館”. おのなび. 2016年5月29日閲覧。 ^ “企画展・常設展”. 本因坊秀策囲碁記念館. 2016年5月29日閲覧。 関連項目[編集] 本因坊秀策囲碁まつり 外部リンク[編集] 公式ウェブサイト 本因坊秀策囲碁記念館 (@igokinenkan) - Twitter --------- ポン抜き囲碁 「ポン抜き囲碁」(ポンぬきいご)とは、囲碁のルールを学ぶ過程で用いられることが多いミニゲームである。碁盤と呼ばれる盤上にそれぞれが一色を持って二色の碁石(石)を置いていき、自分の石をうまく利用して相手の石を奪取するのが目的のゲームである。 目次 [非表示] 1 存在意義 2 ルール 2.1 用いられる用具 2.2 着手・勝敗のルール 3 「ポン抜き囲碁」からの卒業 存在意義[編集] 囲碁は、ルールだけを見るとそれほど難しいものではない。しかし、実際に対局するとなると、そのルールを「どう運用して着手すれば良いのか」「勝敗はどのようにつければよいのか」など、難しい点も少なくない。そのため、囲碁教室では初心者に対して、ある程度の段階に分けて、囲碁の遊び方を教えている。「ポン抜き囲碁」も、その一環である。囲碁の根幹を成す「石の生き死に」のルールを勉強する段階で、用いられることが多い。 ルール[編集] ポン抜き囲碁は、囲碁本来の目的である「地の獲得」に関する部分はいったん無視して、「囲碁のルールにのっとり、相手の石をうまく取る」ことを勝利の条件とする。 用いられる用具[編集] 用いられる物は、通常の囲碁の対局で用いられるもの(囲碁#用具参照)と、大差はない。「碁盤」と「碁石」があれば十分である。ただ、碁盤と碁石は、特別に値段が高い物を用意する必要はない。「白紙の上に線をひいたものの上に、オセロのコマを置いていく」といった、手軽なもので代用することもできる。 着手・勝敗のルール[編集] 対局者が、交互に自分の石を盤上に打つ。 一度置かれた石を動かしてはならない。 自分の石で、相手の石を、「縦と横で隙間なく囲む」ことに成功すると、取り囲んだ相手の石を「自分の得点」として獲得することができる。 「何個の石を取れれば勝ちにするか」については対局者同士、あるいは囲碁教室の先生などが決める。 「ポン抜き囲碁」からの卒業[編集] ポン抜き囲碁は、あくまでも「囲碁のルールの一部」しか用いていないミニゲームである。そのため、飲み込みが早い方であれば、数時間で要領を把握することも可能である。このゲームを他人の力を借りずに開始・終了できるようになったら、その時点でポン抜き囲碁を卒業させ、「囲碁の本来の目的」を理解するための次の段階に進ませることが多い(各種囲碁教室ごとに対応は異なる)。なお、このゲームそのものの強さは、囲碁の本来の目的から言えば、あまり深く考える必要はない。ポン抜き囲碁の目的は、あくまで「石を取る方法」「取られない方法」の基礎を身につけることにあり、その勝敗にはあまり意味がないからである。 カテゴリ: 囲碁抽象戦略ゲーム --------- 本行寺 (金沢市) 本行寺(ほんぎょうじ)は、石川県金沢市本多町にある日蓮宗の寺院。本多安房守、横山山城守の庇護を受けた。小立野寺院群にあり金沢市の保存樹林に指定されている。山号は久遠山。旧本山は京都寂光寺、什師法縁。 歴史[編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 本行院日海 元和3年(1617年)、本行院日海(初代本因坊、京都寂光寺2世)が加賀藩主前田利常を指南し寺地を賜り創建。その後3度火災で焼失するも、明治36年(1903年)現在の伽藍が再建された。 参考資料[編集] 日蓮宗寺院大鑑編集委員会『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』大本山池上本門寺 (1981年) 関連項目[編集] 本因坊算砂 --------- 本妙寺 (豊島区) 本妙寺ほんみょうじ Honmyoji 20100214.jpg 本妙寺 本堂 所在地 東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号 位置 北緯35度44分22.773秒 東経139度44分6.387秒 山号 徳栄山 宗派 法華宗陣門流 寺格 東京別院 本尊 十界勧請曼荼羅 創建年 1572年(元亀2年) 開基 久世広宣・大久保忠俊・大久保忠勝・大久保康忠・阿部忠政 開山は智存院日慶 正式名 徳栄山 総持院 本妙寺 テンプレートを表示 本妙寺(ほんみょうじ)は、東京都豊島区巣鴨五丁目にある法華宗陣門流の東京別院。山号は徳栄山。院号は総持院。本尊は十界勧請曼荼羅。 目次 [非表示] 1 由緒 2 文化財 3 著名人墓所 4 所在地 5 寺院 5.1 総本山 5.2 当寺以外の別院 5.3 関東教区の寺院 6 関連項目 7 外部リンク 由緒[編集] 1572年(元亀2年)日慶が開山、徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在愛知県岡崎市)の檀家であった武将を開基として、遠江国曳馬(現在静岡県浜松市中区曳馬)に創建された寺である。1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移った。1603年(慶長8年)、江戸の家康に征夷大将軍宣下が有った。その後寺地を転々とし、1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移った。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷五丁目)へ移った。現在も本郷五丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている。本郷時代には塔頭7院を有した(円立院、立正院、妙雲院、本蔵院、本行院、東立院、本立院)。1657年(明暦3年)の大火(いわゆる明暦の大火)ではこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられる(異説有り)(そのため、現在の豊島区の境内の墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がある)。1667年(寛文年間)、幕府により、法華宗勝劣各派の触頭となる。1910年(明治43年)現在の豊島区巣鴨五丁目の地へ移転した。 文化財[編集] 東京都指定旧跡 遠山景元墓(江戸町奉行。TVドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデル) 著名人墓所[編集] 久世氏(老中などを務めた大名) 本因坊家(囲碁の家元当主・跡目) 天野宗歩之墓(将棋の名手) 千葉周作(剣の名人) 森山多吉郎(別名栄之助。幕末の英語通詞) 遠山景元 旗本大屋氏(大屋吉正の子孫。吉正の子日圓は本妙寺の住職。) 所在地[編集] 東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号 寺院[編集] 総本山[編集] 長久山本成寺(新潟県三条市)(元越後国) 当寺以外の別院[編集] 京別院 光了山本禅寺(京都府京都市)(元山城国)(洛中法華21ヶ寺) 東海別院 常霊山本興寺(静岡県湖西市)(元遠江国) 北陸別院 長松山本法寺(富山県富山市)(元越中国) 霊跡別院 俎岩山蓮着寺(静岡県伊東市)(元伊豆国) 関東教区の寺院[編集] 豊顕寺 立行寺 妙行寺 善心寺 関連項目[編集] 本妙寺 外部リンク[編集] 本妙寺公式サイト --------- --------- 長慶天皇 曖昧さ回避 「長慶院」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「長慶院 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 長慶天皇 第98代天皇 在位期間 1368年3月 - 1383年冬 正平23年3月 - 弘和3年冬 元号 正平 建徳 文中 天授 弘和 追号 長慶院 関白 二条教頼 先代 後村上天皇 次代 後亀山天皇 誕生 興国4年/康永2年(1343年) 吉野行宮 崩御 応永元年8月1日(1394年8月27日) 紀伊玉川里、和泉大雄寺など諸説あり 陵所 嵯峨東陵 諱 寛成 別称 慶寿院、玉川宮、崎山殿、陸奥親王 金剛理、覚理(法名) 父親 後村上天皇 母親 藤原氏(嘉喜門院) 中宮 藤原氏(西園寺公重の女) 女御 某氏教子 子女 世泰親王 海門承朝 行悟 皇子某(玉川宮) 皇居 住吉行宮 吉野行宮 天野行宮 栄山寺行宮 親署 長慶天皇の親署 テンプレートを表示 長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、南北朝時代の第98代天皇にして、南朝の第3代天皇(在位:正平23年/応安元年(1368年) 3月[注釈 1] - 弘和3年/永徳3年(1383年)冬)。諱は寛成(ゆたなり)。 南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、明治44年(1911年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままであったが、大正時代に入って、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価される。これを受けて宮内省の調査が行われ、大正15年(1926年)10月21日に皇統加列についての詔書発布があり、ここにようやく長慶天皇の在位の事実が公認されるに至った。 目次 [非表示] 1 生涯 2 在位・非在位をめぐる議論 3 系譜 3.1 系図 4 在位中の元号 5 陵・霊廟・遺物 6 脚注 6.1 注釈 6.2 出典 7 関連項目 生涯[編集] 金剛寺摩尼院(南朝行在所) 栄山寺行宮跡 生い立ちは不明な点が多く、親王宣下の後に陸奥太守に任じられたらしいが[注釈 2]、立太子に関しては確証を得ない[注釈 3]。 正平23年/応安元年(1368年)3月 、26歳にして摂津の住吉行宮(大阪市住吉区)で践祚し[注釈 4]、間もなく弟の熙成親王を東宮とした。 南朝は北畠親房らの重鎮を失って弱体化が著しく、天皇の事績に関しても明らかでないことが多い。また、天皇は北朝に対して強硬派の人物であったと考えられ、先代まで何度となく持ち上がった和睦交渉がこの代に入ってから全く途絶したことも、史料の少なさと無関係ではなかろう。 践祚後間もなく和平派の楠木正儀が北朝へ降ったため、同年(1368年)12月吉野(奈良県吉野町)に後退し、正平24年/応安2年(1369年)4月には河内天野の金剛寺(大阪府河内長野市)に移った。 しかし、文中2年/応安6年(1373年)8月に正儀らの先導で細川氏春・赤松光範の軍から総攻撃を受けて、四条隆俊ら70人余りが討ち取られたため、再び吉野へ還幸することとなった[注釈 5]。 文中3年/応安7年(1374年)冬、伯父の宗良親王が信濃から吉野入りし、以後は歌合が盛んに催されている。 天授5年/康暦元年(1379年)9月までには大和栄山寺(奈良県五條市)に移り、弘和元年/永徳元年(1381年)10月に宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集とした(『新葉和歌集』)。また同年、『源氏物語』の注釈書である『仙源抄』を著している。 譲位の時期は判然としないが、朝要分の免除に関して利生護国寺に下した弘和3年(1383年)10月27日付の綸旨が在位を確認できる最後の史料と目され[注釈 6]、この後程なく弟の東宮(後亀山天皇)に譲位したと考えられている。譲位に至った背景には、弘和2年/永徳2年(1382年)閏1月に正儀が南朝に帰参したことを受けて和平派が台頭し、その勢力によって穏健な後亀山を擁立する動きがあったとみられる。 譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めたが[注釈 7]、翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。その後は落飾して金剛理(覚理とも)と号し、禅宗に帰依した模様である。 元中9年/明徳3年(1392年)閏10月、南北朝合一が成った際にも後亀山天皇に同行して京都に入った形跡は見られない。『大乗院日記目録』によると、応永元年(1394年)8月1日に崩御。享年52。晩年の地については、吉野に留まったとする説の他、紀伊玉川里(和歌山県九度山町)とする説、和泉大雄寺塔頭の長慶院(大阪府高石市)とする説(後述)、あるいは京都に還幸したとみて、天竜寺塔頭の慶寿院(京都市右京区)とする説など諸説がある。 若年から和歌に優れ、天授元年(1375年)の『五百番歌合』、同2年(1376年)の『千首和歌』(322首が現存)がある他、『新葉和歌集』に「御製」として53首が入集している。その歌風は平明で、大覚寺統伝統の二条派に属する。著作には先述の『仙源抄』がある他、『孟子集註』・『雲州往来』・『台記』などの研究も行った。 なお、天皇は譲位後に南朝勢の協力を求めて、各地を潜幸したという伝説があり、全国に御陵伝説地が点在する。南部煎餅の祖とする伝承もある。 在位・非在位をめぐる議論[編集] 天皇の在位・非在位の議論は近世初期からあり、林春斎(『日本王代一覧』他)を始め[注釈 8]、榊原忠次(『新葉和歌集作者部類』)や徳川光圀(『大日本史』)は在位説を、新井白石(『読史余論』)や前田綱紀、塙保己一(『花咲松』)は非在位説を唱えた[注釈 9]。議論は明治に持ち越され、正統史学者はおよそ在位説であったが、黒川真頼や菅政友・谷森善臣らは非在位説を論じた。大正に入って、八代国治の発表した一連の研究が有力な在位論として評価され(後に『長慶天皇御即位の研究』として刊行)、また同時期に武田祐吉によって発見された『耕雲千首』古写本の奥書から「仙洞並当今」、すなわち上皇と天皇が元中6年(1389年)に並存していたことが明らかとなり、後村上天皇崩後のこの時期に仙洞の資格があるのは長慶上皇しか存在しないとして八代の見解を補強した。これら新出史料を駆使した研究成果は従来の在位説をより確定的なものとし、その後の宮内省による調査を経て、大正15年(1926年)10月21日皇統加列の詔書が発布され、長慶天皇は正式に第98代天皇として公認された。 長慶天皇登列の詔書 朕惟フニ、長慶天皇在位ノ事蹟ハ史乘ノ記述審ナラサルモノアリ、今ヤ在廷ノ臣僚ニ命シ、深究精覈セシメ、其ノ事蹟明瞭ナルニ至レリ、乃チ大統中同天皇ヲ後村上天皇ノ次ニ列ス、茲ニ之ヲ宣示ス、   御名 御璽     攝政名       大正十五年十月二十一日 宮内大臣 一木喜德郞 内閣總理大臣 若槻禮次郞 系譜[編集] 後村上天皇の第一皇子で、母は二条師基の猶子・嘉喜門院(三位局)である。 中宮:藤原氏 - 西園寺公重女 皇子:行悟(1377-1406) - 円満院門跡 女御:某氏教子 - 父不詳 皇子:世泰親王(?-?) - 南朝系図に後亀山天皇皇子とするのは誤り 生母不詳 皇子:海門承朝(憲明、1374頃-1443) - 南禅寺住持 皇子:尊聖(佐山宮、1376-1432) - 勧修寺長吏。猶子説あり[1] 皇子:某(玉川宮、?-?) - 玉川宮家 系図[編集] 【持明院統】 〔北朝〕 【大覚寺統】 〔南朝〕 96 後醍醐天皇 光厳天皇 北1 光明天皇 北2 97 後村上天皇 崇光天皇 北3 後光厳天皇 北4 98 長慶天皇 99 後亀山天皇 惟成親王 〔護聖院宮家〕 栄仁親王 後円融天皇 北5 (不詳) 〔玉川宮家〕 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 貞成親王 (後崇光院) 100 後小松天皇 北6 102 後花園天皇 貞常親王 〔伏見宮家〕 101 称光天皇 在位中の元号[編集] 正平 (1368年3月) - 1370年7月24日 建徳 1370年7月24日 - 1372年4月 文中 1372年4月 - 1375年5月27日 天授 1375年5月27日 - 1381年2月10日 弘和 1381年2月10日 - (1383年冬) 陵・霊廟・遺物[編集] 嵯峨東陵 陵(みささぎ)は、京都府京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町にある嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。 天皇の晩年の動向を伝える史料がないため、宮内省(当時)が近畿各地の寺社旧家や有力な伝説地などの調査を行ったが、陵墓関係の資料は発見に至らなかった。しかし、皇子などの近親者が晩年は地方を引き上げて入洛していることから、天皇も晩年は入洛したことが推定される。また、別称の慶寿院は皇子の海門承朝(相国寺30世)が止住した天竜寺の塔頭慶寿院に因むものであるから、天皇は晩年を当院で過ごし(当時天皇はその在所によって呼ばれた)、崩後はその供養所であったと思われる。したがって、慶寿院の跡地が天皇にとって最も由緒深い所と考えられた。臨時陵墓調査委員会(昭和10年 - 昭和19年、1935年 - 1944年)で審議の結果、桓武天皇や安徳天皇など埋葬地以外に陵が治定されている「擬陵」の前例を踏まえ、昭和16年(1941年)慶寿院跡を整備してひとまず陵墓参考地に指定したが、その後の調査でも葬地はなお判明せず、同19年(1944年)2月11日(旧紀元節)現陵号を定めて、同時に陵域内に海門承朝(承朝王)の墓も治定された。 一方、慶寿院は海門承朝が父天皇の崩後にその菩提を弔うために創建したもので、生前の居所ではないとする見解もある。例えば、村田正志は承朝が応永14年(1407年)に亡き父院を「長慶院」と称した書状が存在している事実を指摘して、慶寿院の創建を書状が作成された後の応永年間後期と推定し、また、天皇の晩年の在所は慶寿院ではなく、長慶院という名称の塔頭であったとして、これが追号「長慶院」の由来であると考えた。さらに、村田は仮説と前置きした上で、長慶院の所在を南朝庇護の禅寺である和泉大雄寺(「浜寺」の異名を持つ。中世末期に廃絶)に比定している[2]。その他、長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国各地に点在しており、青森県青森市・弘前市、岩手県二戸市、群馬県太田市、山梨県富士吉田市、富山県砺波市、富山県南砺市、奈良県川上村、和歌山県九度山町、鳥取県鳥取市、愛媛県東温市など、20箇所以上に及ぶとも言われている[3]。 「長慶天皇宸筆願文」(国宝「宝簡集」所収、金剛峯寺所蔵)は、元中2年(1385年)9月10日付で天皇自身が高野山丹生社に納めたもので、唯一現存する確実な天皇の自筆文書である[注釈 10]。また、国宝「赤糸威鎧 兜、大袖付」(八戸市櫛引八幡宮所蔵)は、長慶天皇御料と伝えられている。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 脚注[編集] 注釈[編集] [ヘルプ] ^ 鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。 ^ 伏見宮本・菊亭本『箏相承系図』や『正平二十年三百六十首』の朱注によれば、即位前の長慶天皇が「陸奥親王」と呼ばれていたらしいことが確認される。 ^ 『新葉和歌集』春上・37に、「福恩寺前関白内大臣」が寛成親王の立太子を願って詠んだ歌がある。なお、南朝系図は正平12年(1357年)に立太子とする。 ^ 鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。 ^ 『花営三代記』応安6年(1373年)8月2日条には、「南方」(長慶天皇)が「御舎弟宮」(熙成親王)に譲位して吉野に落ち延びたとの風聞を載せている。江戸時代に在位説を主張した諸家の間では、この記事を根拠として文中2年(1373年)譲位説を採用する者が多かったが、八代国治は実証的研究の立場から明確にこれを否定した。 ^ 同趣旨の文書が翌年(1384年)閏9月8日付で院宣として下されており、遅くともこれより前に譲位が行われたことは確実である。また、年次不詳3月14日付で河合寺に下した綸旨には「代始」の文言があり、これを同年のものと見ることが出来れば、さらに以前となる。以上2通は無年号文書であるが、この年には弘和から元中への改元があった。改元は譲位の翌年に実施するのが通例であるから、この場合は弘和3年(1383年)の冬(10月末から12月までの間)に譲位が行われたものと推測されている。 さらに、村田正志は独自の鑑識眼に基づき、『阿蘇文書』の弘和3年11月4日付綸旨を長慶のもの、『観心寺文書』の同年12月9日付綸旨を後亀山のものと判断した上で、譲位の時期がこの両日間に絞られると主張している(「南北朝と室町」 『村田正志著作集 第3巻 続々南北朝史論』 思文閣出版、1983年、ISBN 9784784203451。初出は1969年)。 ^ 願文中にある「今度雌雄」の解釈をめぐっては議論があり、弟・後亀山天皇との確執を示したものとも、北朝や室町幕府との対立を指したものとも言われている。 ^ 春斎より半世紀前、慶長7年(1602年)山中長俊の作と伝える『中古日本治乱記』において既に在位説が見えているものの、その内容からは偽書の疑いもある。 ^ 非在位説は『新葉集』の「御製」を全て後亀山天皇の作と誤認したことに基づくもので、その序に「三代の御門につかへ」とあるのをもって南朝を三代と推断した。 ^ 村田はこの他にも、薬仙寺(兵庫県神戸市)に伝存する『般若波羅蜜多理趣品』の一巻について、その筆跡や奥書の文辞から天皇宸筆であると考定している。 出典[編集] ^ 『勧修寺長吏次第』 ^ 村田 「長慶天皇と慶寿院」(『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』 思文閣出版、1983年、ISBN 9784784203437。初出は1940年) ^ 外池昇 「臨時陵墓調査委員会による長慶天皇陵の調査―設置から「伝説箇所」の審議まで―」(『日本常民文化紀要』第29輯 成城大学大学院文学研究科、2012年3月) 関連項目[編集] 建武の新政 両統迭立 大覚寺統 玉川宮 - 長慶天皇の後裔と考えられる宮家 北畠守親 紙漉沢 - 青森県弘前市。天皇の潜幸伝説が残り、現陵が治定されるまでは御陵墓参考地に指定されていた。 三浦芳聖(三浦天皇) - 南朝正統の皇胤を自称した人物。天皇が北朝打倒のため全国を行脚したと主張した。 [表示] 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 典拠管理 WorldCat VIAF: 72648213 LCCN: n78032925 NDL: 00272391 カテゴリ: 日本の天皇南北朝時代の人物 (日本)室町・安土桃山時代の歌人1343年生1394年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 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