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RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 後亀山天皇 後亀山天皇 後亀山天皇像(大覚寺蔵) 第99代天皇 在位期間 1383年冬 - 1392年11月19日 弘和3年冬 - 元中9年閏10月5日 元号 弘和 元中 追号 後亀山院 関白 二条冬実→近衛某 先代 長慶天皇 次代 後小松天皇 誕生 正平5年(1350年)[1]? 賀名生行宮か 崩御 応永31年4月12日(1424年5月10日) 大覚寺 陵所 嵯峨小倉陵 諱 熙成 別称 大覚寺殿、大覚寺法皇、小倉法皇 金剛心(法名) 父親 後村上天皇 母親 藤原氏 (阿野実為女? 嘉喜門院?) 中宮 不詳 子女 小倉宮恒敦 皇居 栄山寺行宮 吉野行宮 親署 後亀山天皇の親署 テンプレートを表示 後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日))。諱は熙成(ひろなり[2])。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。 目次 [非表示] 1 系譜 1.1 系図 2 略歴 3 在位中の元号 4 陵・霊廟・遺物 5 脚注 6 関連項目 系譜[編集] 後村上天皇の第二皇子。母については、阿野実為の女とする系図[3]があるが、これは世代的に整合せず、あるいは長慶天皇と同母で、二条師基の猶子・嘉喜門院かと思われるものの確証はない[4]。 后妃は一切不詳[5]。一次史料に確認できる皇子女は、次の1皇子のみである。 生母不詳 皇子:小倉宮恒敦(?-1422) - 親王宣下の有無は不詳 近世の南朝系図は以下の后妃・皇子女を挙げているが、長慶天皇との混同もあるため、そのままには信頼できない。 中宮:源(北畠)信子[6] - 北畠顕信女 第三皇子:良泰親王(小倉宮、1370-1443) 皇子:行悟法親王(1377-1406) - 実際は長慶天皇皇子 第一皇女:泰子内親王 - 二条冬実室 女御:藤原(二条)教子 - 二条教基女 第一皇子:世泰親王(1360-1377) - 実際は長慶天皇皇子 典侍:藤原(日野)邦子(権典侍局) - 日野邦光女 第二皇子:師泰親王(長徳寺宮、1362-1423) 皇子:真阿(1374-1440) - 十念寺開基 生母不詳 皇子:琮頊(?-1448) - 十念寺2世 系図[編集] 【持明院統】 〔北朝〕 【大覚寺統】 〔南朝〕 96 後醍醐天皇 光厳天皇 北1 光明天皇 北2 97 後村上天皇 崇光天皇 北3 後光厳天皇 北4 98 長慶天皇 99 後亀山天皇 惟成親王 〔護聖院宮家〕 栄仁親王 後円融天皇 北5 (不詳) 〔玉川宮家〕 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 貞成親王 (後崇光院) 100 後小松天皇 北6 102 後花園天皇 貞常親王 〔伏見宮家〕 101 称光天皇 略歴[編集] 栄山寺行宮跡 大覚寺正寝殿 出生・生い立ちは明らかでないが、兄・長慶天皇が践祚した正平23年/応安元年(1368年)3月から8月までの間に立太子され[4]、東宮(皇太弟)として既に天皇の政務を補佐していたようである。弘和3年/永徳3年(1383年)冬に長慶天皇の譲位を受けて践祚。当時の行宮は栄山寺(奈良県五條市)であったらしい。この皇位交替の背後には、室町幕府への姿勢をめぐって強硬派の長慶と和平派の後亀山との間で内部対立があり[7]、最終的に和平派の台頭が契機で後亀山の即位が実現したと考えられている。在位の9年間はちょうど南朝政権の衰退期に相当する。政令が及ぶ範囲は大和・河内・和泉・紀伊などの行宮を中心とした地方の他、九州の征西府や四国の河野氏の勢力域に限られ、将軍足利義満の下で隆盛を極める幕府との実力差は否定すべくもなかった。宗良親王や懐良親王が世を去り、威勢を失った南朝にとって、和平による合一は必至の情況となっていた。 元中9年/明徳3年(1392年)和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して下交渉を始める。10月には義満から吉田兼煕を通じて両朝講和のための条件提示がなされ、天皇はついにこれを受諾した(明徳の和約)。同月28日に南朝君臣は神器を奉じて吉野を出立し、閏10月2日に京都大覚寺に到着。同月5日に三種の神器のみが大覚寺から北朝・後小松天皇の土御門内裏に移された[8]。ここに南北朝時代は終わり、皇統は北朝の一統に帰することとなった。これに伴い、南朝元号である元中は廃絶し、天皇の弟で東宮位にあった護聖院宮(惟成親王か)は事実上廃太子された。後亀山は後年、両朝合一を決断した理由に関して、自らの運命をひとえに天道神慮に任せ、民間の憂いを除くためだったと述懐している[9]。合一後、大覚寺を仙洞とした後亀山は「大覚寺殿」と称されて、幕府の被扶養者としての待遇に甘んじなければならなかった。明徳5年(1394年)2月6日、天竜寺にて初めて義満と面会し、その結果、同月23日に「不登極帝(即位しなかった天皇)」として太上天皇(上皇(じょうこう))の尊号を贈られた。その詔書は、延元元年/建武3年(1336年)11月2日北朝・光明天皇が南朝・後醍醐天皇(後亀山の祖父)に対して太上天皇号を贈った例に準ずるものとされたが[10]、幕府が旧北朝と後亀山双方の体面を保つために採用した苦肉の策であった。 応永4年(1397年)11月27日に尊号および兵仗を辞退し、義満もこれを了承。その後は出家を遂げて金剛心と号し、ひたすら隠遁生活に入る。それでも、阿野実為・公為父子や六条時煕など、わずかな公家が側近として仕えており、吉田兼煕・兼敦父子が神道を進講することもあった。ところが、同17年(1410年)11月27日突如嵯峨を出奔して吉野に潜幸し、以来ここで6年を過ごしている。この事件に関して、『看聞日記』には生活上の困窮によるものとするが、当時の幕府が講和条件の一である両統迭立を破って、後小松天皇皇子の躬仁親王(後の称光天皇)の即位を目論んでいたことから、そのような動静に不満を抱く後亀山法皇の抗議行動であったとも考えられる。しかし、その甲斐もなく、同19年(1412年)称光天皇が践祚。 同22年(1415年)これに反発した伊勢国司北畠満雅が蜂起するも、説成親王(後亀山の弟か)の調停によって幕府との和睦が成立したため、翌23年(1416年)9月に広橋兼宣らの仲介で法皇は大覚寺に還御した。東国情勢などで不安要素を抱えていた幕府は、旧南帝を吉野の山中に放置しておくことの危険性を熟知していたので、所領回復を条件に後亀山の還御を再三要請したのである。同31年(1424年)4月12日、雷鳴のとどろく夜に大覚寺で崩御。宝算は75とも78ともいう[1]。後亀山が果たせなかった皇位回復の遺志は子孫の小倉宮に受け継がれ、やがて後南朝による幕府への抵抗運動を惹き起こした。 正平20年(1365年)の『内裏三百六十首歌』に「無品親王」として、天授元年(1375年)の『五百番歌合』に「源資氏」の隠名で詠進したのは、親王時代の後亀山院か。同2年(1376年)の『千首和歌』には「光長朝臣」の隠名で詠進したが、『新葉和歌集』には入らず、勅撰集は『新続古今和歌集』に3首のみが入集する。なお、『吉野拾遺』下には、幼時の「ひろなりの皇子」が侍臣の嘘を見抜いて才知を示すという逸話が見えている(ただし、この「ひろなり」は長慶天皇のことと解する説もある)。 在位中の元号[編集] 弘和 (1383年冬)- 1384年4月28日 元中 1384年4月28日 - (1392年閏10月5日) 陵・霊廟・遺物[編集] 陵(みささぎ)は、京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町にある嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ)に治定されている。公式形式は石造五輪塔。小倉山の東麓に所在する。 奉葬当時の史料はないが、『山城名勝志』『南朝紹運録』『拾遺都名所図会』『山陵志』『系図纂要』などの近世文献は当所を陵として挙げている。幕末修陵の際に正式にここを陵と定め、福田寺の後方に当たることから福田寺陵と称したが、明治12年(1879年)現陵号に改定。伝承によれば、福田寺は法皇の小倉殿を浄土宗寺院に改めたものという。中世以降荒廃したが、大聖寺(上京区)の尼宮により禅寺として再興、同寺末寺となり、明治15年(1882年)吸収されて廃寺に至った。なお、当陵の他、『歴朝要紀』『陵墓一隅抄』は百重原陵(大阪府交野市私市の獅子窟寺内)を南方陵として挙げているが、これは同所にある亀山天皇供養塔の訛伝であろう。 天皇宸筆としては、わずかに「観心寺縁起奥書」(重要文化財、観心寺蔵)と「宝篋印陀羅尼」(重要文化財、松尾寺蔵)の2点のみが知られている。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 脚注[編集] ^ a b 『醍醐地蔵院日記(観応二年日次記)』観応2年(1351年)4月3日条の「皇子御年二歳」、『園太暦』同3年(1352年)5月25日条の「三歳皇子」を後亀山天皇と見なす説に従えば、逆算して正平5年/観応元年(1350年)の誕生であり、享年75となる。一方、『南朝編年記略』は正平2年5月11日(1347年6月20日)誕生、享年78とする。 ^ 応永15年(1408年)書写の「人王百代具名記」(『常福寺文書』日本書紀私鈔)による。ただし、谷森善臣『帝皇略譜』(1851年)や飯田忠彦編『系図纂要』、高橋光正編『歴朝聖徳録』(同文館、1899年)が「のりなり」、比企修 『皇陵新志』(皇國青年教育協会、1943年)が「よしなり」とするように、独自の訓を付している文献も見られる。 ^ 宮内庁書陵部蔵の吹上本『帝王系図』の巻末付紙による。このことを最初に指摘した村田正志は、「或はさきの実為女が師基の猶子となられたものか。さすれば後亀山天皇の御母は嘉喜門院となるわけである」と憶測する(「後亀山天皇の御事蹟」 『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』思文閣出版、1983年。初出は1946年)。 ^ a b 『嘉喜門院集』に、正平23年8月のこととして同女院と春宮との贈答歌がある。なお、このことは天皇の母を嘉喜門院と推定する根拠にも挙げられている。 ^ 『大日本史』巻85(列伝12后妃)には、『嘉喜門院集』を根拠に阿佐殿(あさどの)と呼ばれる人物を後亀山天皇の中宮として挙げているが、その実は長慶天皇の中宮に関する伝記である。「阿佐殿」の呼称は、同集の詞書に見える「女御殿」の草体を「安佐殿」と誤認したことによるものらしい(谷森善臣 『嘉喜門院御歌巻証註』)。 ^ 『系図纂要 第1冊下』【復刻新装版】(名著出版、1996年、ISBN 4626015425)の「良泰親王」に「母中宮源信子 右大臣顕信公女」と記載されている。また、日置昌一『日本系譜綜覧』【復刻版】(講談社、1990年、ISBN 9784061583221)の「皇后中宮一覧」、後亀山天皇の欄にも「源信子(父未詳)」とある。 ^ 高野山丹生社に奉納された元中2年(1385年)9月10日付の「長慶天皇宸筆願文」中に見える「今度雌雄」の文言は、兄弟間の確執を示すとも言われている。 ^ 『足利治乱記』には、後亀山・後小松両天皇が会見して神器の引き渡しが行われたように記されているが、大正時代に三浦周行が『日本史の研究』の中で、『南山御出次第』『御神楽雑記』など、当時の次第を記した史料には神器還御の手続しか見えないことを指摘して、両天皇の会見を根拠のない俗説であると結論付けている。 ^ 『吉田家日次記』応永9年3月20日条。 ^ 『経嗣公記』明徳5年2月22日条。記主一条経嗣はこの尊号贈進について、「希代の珍事なり。後醍醐天皇の皇胤絶つべからざるか」(同月23日条)と評した。 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、後亀山天皇に関連するカテゴリがあります。 両統迭立 大覚寺統 後南朝 小倉宮聖承 熊沢寛道(熊沢天皇) - 戦後に自ら天皇の末裔と称して、正統な南朝天皇であると主張した。 [表示] 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 典拠管理 WorldCat VIAF: 100786003 LCCN: no2009145404 NDL: 01171990 カテゴリ: 日本の天皇南北朝時代の人物 (日本)室町時代の人物1350年生1424年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 Deutsch English Español Français Bahasa Indonesia 한국어 Português Русский 中文 他 13 リンクを編集 最終更新 2017年4月19日 (水) 12:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki