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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。

相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

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対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
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・コミュニティ機能の充実
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これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) ポン抜き囲碁 「ポン抜き囲碁」(ポンぬきいご)とは、囲碁のルールを学ぶ過程で用いられることが多いミニゲームである。碁盤と呼ばれる盤上にそれぞれが一色を持って二色の碁石(石)を置いていき、自分の石をうまく利用して相手の石を奪取するのが目的のゲームである。 目次 [非表示] 1 存在意義 2 ルール 2.1 用いられる用具 2.2 着手・勝敗のルール 3 「ポン抜き囲碁」からの卒業 存在意義[編集] 囲碁は、ルールだけを見るとそれほど難しいものではない。しかし、実際に対局するとなると、そのルールを「どう運用して着手すれば良いのか」「勝敗はどのようにつければよいのか」など、難しい点も少なくない。そのため、囲碁教室では初心者に対して、ある程度の段階に分けて、囲碁の遊び方を教えている。「ポン抜き囲碁」も、その一環である。囲碁の根幹を成す「石の生き死に」のルールを勉強する段階で、用いられることが多い。 ルール[編集] ポン抜き囲碁は、囲碁本来の目的である「地の獲得」に関する部分はいったん無視して、「囲碁のルールにのっとり、相手の石をうまく取る」ことを勝利の条件とする。 用いられる用具[編集] 用いられる物は、通常の囲碁の対局で用いられるもの(囲碁#用具参照)と、大差はない。「碁盤」と「碁石」があれば十分である。ただ、碁盤と碁石は、特別に値段が高い物を用意する必要はない。「白紙の上に線をひいたものの上に、オセロのコマを置いていく」といった、手軽なもので代用することもできる。 着手・勝敗のルール[編集] 対局者が、交互に自分の石を盤上に打つ。 一度置かれた石を動かしてはならない。 自分の石で、相手の石を、「縦と横で隙間なく囲む」ことに成功すると、取り囲んだ相手の石を「自分の得点」として獲得することができる。 「何個の石を取れれば勝ちにするか」については対局者同士、あるいは囲碁教室の先生などが決める。 「ポン抜き囲碁」からの卒業[編集] ポン抜き囲碁は、あくまでも「囲碁のルールの一部」しか用いていないミニゲームである。そのため、飲み込みが早い方であれば、数時間で要領を把握することも可能である。このゲームを他人の力を借りずに開始・終了できるようになったら、その時点でポン抜き囲碁を卒業させ、「囲碁の本来の目的」を理解するための次の段階に進ませることが多い(各種囲碁教室ごとに対応は異なる)。なお、このゲームそのものの強さは、囲碁の本来の目的から言えば、あまり深く考える必要はない。ポン抜き囲碁の目的は、あくまで「石を取る方法」「取られない方法」の基礎を身につけることにあり、その勝敗にはあまり意味がないからである。 ---------------- 後円融天皇 後円融天皇 後円融院像(土佐光信筆、雲龍院蔵) 1492年、天皇の百年聖忌に際して描かれたもの。 北朝第5代天皇 在位期間 1371年4月9日 - 1382年5月24日 元号 応安 永和 康暦 永徳 先代 後光厳天皇 次代 後小松天皇 誕生 延文3年/正平13年/12月12日(1359年1月11日) 一条東洞院 崩御 明徳4年4月26日(1393年6月6日) 小川仙洞御所 陵所 深草北陵 別称 光浄(法名) 父親 後光厳天皇 母親 藤原仲子 子女 幹仁親王(後小松天皇) 珪子内親王 道朝親王 皇居 京都御所 テンプレートを表示 後円融天皇(ごえんゆうてんのう、延文3年12月12日(1359年1月11日) - 明徳4年4月26日(1393年6月6日))は、南北朝時代の北朝第5代天皇(在位:応安4年3月23日(1371年4月9日) - 永徳2年4月11日(1382年5月24日))。諱は緒仁(おひと)という。 目次 [非表示] 1 生涯 2 系譜 2.1 系図 3 在位中の元号 4 陵・霊廟 5 脚注 6 関連項目 生涯[編集] 応安4年(1371年)3月21日に親王宣下を受け立太子され、わずか2日後に後光厳天皇の譲位を受けて即位。これには後光厳天皇と崇光上皇の間に皇太子擁立の対立が有り、後光厳が幕府の管領である細川頼之の支持などを受け、後光厳天皇の皇子の緒仁親王が即位した。 貞治7年(1368年)に足利義満が将軍に就いたが、年若いために管領細川頼之が後見しており、応安7年(1374年)までは後光厳上皇による院政が行われていた。永和元年(1375年)には新後拾遺和歌集となる勅撰和歌集を義満の執奏により下命。南朝対策など政治は膠着状態であったが、春日神木の入洛など寺社勢力による強訴が相次ぎ朝廷儀式は衰退するなど、深刻な状況であった。康暦元年(1379年)閏4月に斯波義将などの動きで頼之が失脚すると義満の政治手腕が発揮され朝廷の再建に当たるとともに、徐々に朝廷の事務にも介入を始める。永徳2年(1382年)4月11日に息子の後小松天皇に譲位して、上皇として院政を敷くが、義満が院別当となった上、朝廷の事務に積極的に介入したため実権はなかった。 永徳3年(1383年)の元旦、仙洞御所を訪問した足利義満との面会を拒否した。以後、義満は仙洞に参内せず他の公卿も遠慮したため、仙洞の機能が停止することになる。2月1日には出産を終えて宮中へ戻った妃の厳子に対して義満との密通を疑ってこれを殴打、母親の広橋仲子の説得や義満による医師の派遣も効果がなく、11日には愛妾の按察局が義満との密通を疑われて出家させられた。困惑した義満は二条良基と協議して、15日に上皇の信頼が厚い裏松資康・広橋仲光を派遣して上皇の相談に当たらせようとしたが、これを聞いた上皇は義満が自分を配流しようとしていると思い込み、持仏堂に籠って切腹自殺を図るなどの騒動を起こしている[1]。18日に義満が院に出向いて宥めるとようやく上皇の心理は和らいだものの、治天の君の権威は失墜して再び蘇ることはなかった。一条経嗣は「聖運之至極」(皇室の命運が極まった)と書き記している[2]。明徳3年(1392年)閏10月に義満の斡旋によって南朝との和平が成立して南北朝時代が終結したが、明徳4年(1393年)4月26日に崩御。宝算36。崩御直前に落飾して法名を光浄と称した。 近年の説として、朝廷の再建を巡る方針などで足利義満と後円融天皇が対立した結果、義満は後円融天皇を退位させて治天の権限を剥奪した上で、自らが新帝・後小松天皇の後見(父代わり)になって朝廷再建を進める路線に至ったとして、従来"足利義満の皇位簒奪計画"の証拠とされてきた事項の多くは「足利義満と後円融天皇の対立」という個人的な対立を「幕府と朝廷の対立」に拡大解釈したものに過ぎないとする説がある[3]。 系譜[編集] 後光厳天皇の第二皇子。母は左大臣広橋兼綱の養女、崇賢門院・藤原仲子(実父は、岩清水八幡宮社務法印紀通清)。仲子の姉の紀良子を母としている足利義満とは従兄弟同士に当たり、また同い年である(新暦では1つ違いになる)。 宮人:藤原(三条)厳子(通陽門院)(1351-1406) - 三条公忠女 第一皇子:幹仁(もとひと)親王(後小松天皇)(1377-1433) 第一皇女:珪子内親王(1381-1399) 典侍:藤原(四条)今子(帥典侍・大典侍局) - 四条隆郷女 第二皇子:道朝法親王(1378-1446) - 上乗院 後宮:藤原氏 - 正親町三条実音女 後宮:橘氏(按察局) - 橘知繁女 生母不詳 皇女(?-1391) - 落飾 皇女 - 大聖寺門跡 皇子:強中□忍 - 臨川寺 系図[編集] 【持明院統】 〔北朝〕 【大覚寺統】 〔南朝〕 96 後醍醐天皇 光厳天皇 北1 光明天皇 北2 97 後村上天皇 崇光天皇 北3 後光厳天皇 北4 98 長慶天皇 99 後亀山天皇 惟成親王 〔護聖院宮家〕 栄仁親王 後円融天皇 北5 (不詳) 〔玉川宮家〕 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 貞成親王 (後崇光院) 100 後小松天皇 北6 102 後花園天皇 貞常親王 〔伏見宮家〕 101 称光天皇 在位中の元号[編集] 応安 (1368年3月23日) - 1375年2月27日 永和 1375年2月27日 - 1379年3月22日 康暦 1379年3月22日 - 1381年2月24日 永徳 1381年2月24日 - (1382年4月11日) 陵・霊廟[編集] 深草北陵 陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂。深草北陵には持明院統歴代が葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。 崩御の翌日に泉涌寺において火葬し、その遺骨を納めた深草法華堂が現陵にあたる。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 脚注[編集] ^ 『後愚昧記』・『荒暦』 ^ 『荒暦』永徳3年1月9日条 ^ 石原比位呂「足利義満の対朝廷政策」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、後円融天皇に関連するカテゴリがあります。 南北朝時代_(日本) [表示] 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 典拠管理 WorldCat VIAF: 100786527 NDL: 01171852 カテゴリ: 日本の天皇日本の幼帝南北朝時代の人物 (日本)1359年生1393年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 Deutsch English Español Français Bahasa Indonesia 한국어 Português Русский 中文 他 13 リンクを編集 最終更新 2017年5月4日 (木) 16:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki