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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --------- 封じ手 チェスにおける封じ手の例(1966年にコペンハーゲンで行われたゲラー対ラーセンの対局のもの) 封じ手(ふうじて)とは、主にボードゲームにおいて、対局の中断時に有利不利がでないよう、次の手をあらかじめ決めておく方法のことである。 目次 [非表示] 1 概要 2 封じ手の構成 2.1 封じ手用紙 2.2 封筒 3 封じ手の手順 4 封じ手の戦略 5 その他 6 脚注 7 関連項目 概要[編集] 持ち時間制の対局を途中で中断する場合に、手番のプレイヤーが中断中も次の手を考え続けられるのでは不当に有利になり、持ち時間制の興も削がれる。このような不公平をなくすために、封じ手が用いられる。 具体的には、中断の規定時刻が来ると手番のプレイヤーは次の一手を決め、相手のプレイヤーに知られないよう紙に記入し、封筒に入れて封をする。これを再開後に開き、記入しておいた手を指して続行する。この方式により、中断中は双方とも相手の次の手がわからない状態で局面を考えなくてはならない。 封じ手は規定の時刻前に行うこともできる(この場合、規定時刻まで持ち時間を消費したものとして扱う)。また、規定の時刻に達しても、ただちに封じる必要はなく、持ち時間のある限り次の手を考慮してよい。 この方式はチェスで始まったもので、19世紀には既に行なわれていた。将棋では1927年に報知新聞社の記者で当時東京将棋連盟の評議委員だった生駒粂蔵の発案により導入された。現在公式に用いられているのは将棋と囲碁だけであるが、手番と持ち時間が影響するようなゲーム(例えばカードゲームや、ウォーゲームなど)ならすべて利用できる。 封じ手は、観戦するアマチュアにクイズとして出され、懸賞の対象とされることも多い。 封じ手の構成[編集] 封じ手には専用の用紙と封筒を用いる。 封じ手用紙[編集] 将棋(日本将棋連盟の棋戦の場合) 用紙は横置きの縦書きで四ツ折になっている[1]。 右側 - 右端に「封じ手」の表題が印刷されており、その横に棋戦名を記入する欄(「第○○期○○戦第○局」)、先手の名前を記入する欄、後手の名前を記入する欄がある。 左側 - 盤面が印刷されており、その上部に「(封じ手局面○○○まで)」と注記する欄がある。 囲碁(日本棋院の棋戦の場合) 用紙は縦置きの縦書きで四ツ折になっている[2]。 上側 - 右端の枠外に棋戦名の欄があり、その横の枠内に対局者の欄や消費時間を記入する欄がある。 下側 - 盤面が印刷されており、その図の右端に対局日や対局者等の欄があり、また、最下段には「日本棋院」と印刷されている。 封筒[編集] 将棋(日本将棋連盟の棋戦の場合) 封じ手を入れる封筒は縦書きの構成で、次のような欄が設けられている[1]。 表面 中央 - 「封じ手」の表題が印刷されている。 左側 - 上側に棋戦名を記入する欄(「第○○期○○戦第○局」)があり、その下側に会場名を記入する欄(「於○○○○○」)がある。 右側 - 上側に対局者を記入する欄(タイトル保持者の称号・名前を記入する「保持者」の欄と挑戦者の段位・名前を記入する「挑戦者」の欄)がある。また、その下側には立会人が署名する「立会人」の欄があり、この欄には副立会人も連署する。 裏面 裏面中央には「日本将棋連盟」の文字が印刷されており、左上に封じ手をした日付を記入する欄がある。 囲碁(日本棋院の棋戦の場合) 封じ手を入れる封筒は横書きの構成で、次のような欄が設けられている[2]。 表面(上から) 最上段には「封じ手」の表題が印刷されている。 2段目には棋戦名を記入する欄(「第○○期○○戦」)がある。 3段目には局数を記入する欄(「第○局」)がある。 4段目には立会が署名する「立会」の欄がある。 5段目・6段目には記録者の名前を記入する「記録」の欄がある。 7段目には封じ手の手数を記入する「封じ手○○○手目」の欄がある。 8段目には封じ手をした日時を記入する欄がある。 9段目から11段目までは消費時間を記入する欄であり、9段目には「消費時間(持ち時間・各○時間)」と印刷されている。その下の10段目には黒番の対局者の氏名と消費時間、11段目には白番の対局者の氏名と消費時間を記入する欄がある。 12段目には「保管者署名」の欄がある。 最下段には「財団法人日本棋院」の文字が印刷されている。 封じ手の手順[編集] 将棋や囲碁の一部のタイトル戦では2日にわたって対局が行われ、中断、つまり指し掛け(将棋)・打ち掛け(囲碁)にはすべてに封じ手が用いられる。 例えば将棋の名人戦は、一日目の午後6時30分が規定時刻となる。規定時刻になった時点で立会人(囲碁の場合は立会)は、次の一手が封じ手となることを知らせるが、規定時刻を過ぎても指し手を考慮することは認められている(持ち時間が残されている限り、どれだけ過ぎていてもよい)。 封じ手は次のような流れで行われる。将棋と囲碁とでは若干記入内容などが異なるが、ほぼ同様の手順で行われる。 封じ手番の対局者は、立会人に対し次の手を封じる旨の意思表明をする。このとき、記録係はただちに時計を止める(持ち時間の消費はここでストップする)。 記録係が封じ手用紙に棋戦名、対局者名、現在の局面を封じ手用紙に記入する(囲碁の場合には黒番と白番をそれぞれ青と赤に色分けして手順に従って数字を記入する)。将棋の封じ手の場合には2枚、囲碁の封じ手の場合には1枚の封じ手用紙に記入する。 対局者は秘密裏に封じ手用紙に記入する(将棋の場合は封じ手を2通作成するので2枚ともに記入する)。将棋の封じ手の場合、赤のペンで動かす駒を丸で囲み、移動先まで矢印を引くことで示される。棋譜符号が併せて用いられることもあり、同じく赤ペンで記入する。なお、将棋で駒を成るか成らないかを表す必要がある場合には局面欄外に記す。囲碁の封じ手の場合、封じ手の局面の図で用いられている黒番(青)と白番(赤)との色分けに従って、青いペンまたは赤いペンで石を打つ位置に丸をする。 封じ手が記入された封じ手用紙は秘密裏に封入される。将棋の場合、確認のために両対局者は封筒裏側の上部と下部の閉じ口の部分に赤のペンで名前を自署する(封の部分に苗字を自署して丸で囲む)。タイトル保持者と挑戦者は封筒の上下2ヶ所の対角の位置にそれぞれ署名するので、署名は両対局者のものを合わせると計4ヶ所になされることになる。なお、封筒表側の棋戦名・会場名・対局者の欄については立会人が記入し、立会人欄に立会人が署名したのち副立会人が連署する形をとる。囲碁の場合には立会の者が封筒の上部の封の部分に署名する。 将棋の場合、2通のうちひとつは立会人、もうひとつは対局場の金庫などに保管する。囲碁の場合、封じ手は1通で通常は立会が保管する(特に保管者がいる場合には「保管者署名」の欄に署名する)。 翌日、対局者は記録係の読み上げに従って前日までの手順を並べ、封じ手直前の局面を再現する。 立会人は対局者の前で鋏により封筒を開封し、(将棋の場合には2通の両方が同一の内容であることを確認の上で)封じ手を読み上げる。 封じ手番の対局者は、封じ手を実際の局面に反映させ対局を再開する。この時点で時計も再開される。 2日にわたらない対局でも、封じ手が用いられることがある。将棋日本シリーズでは、解説者の任意のタイミングで封じ手となり、対局が中断されて両対局者は休憩に入る。テレビ東京で放送されていた早指し将棋選手権でも、先手が41手目を封じる封じ手制が用いられていた。 また、非公式戦の公開対局のファンサービスなどで、懸賞次の一手などで用いられる着手も封じ手と呼ばれるが、不公平さをなくすという意味は少なく、便宜上の呼び名にとどまる。 将棋の場合、現在の体制になった当初である第二次大戦直後は、封じ手は符号で記入することになっていた。また、指しかけの時刻になったところで振り駒を行い、どちらが封じ手を行うかを決定していた。現在は指しかけ時に手番を持つものが封じ手を行うように変更されている。 駒の移動を符号でなく、図上の矢印で示すことになった経緯は諸説ある。一般には誤記入を避けるためといわれているが、ほとんど非識字棋士であったとされる阪田三吉が棋戦に登場した際、阪田に恥をかかせるわけにはいかず、当時の観戦記者、菅谷北斗星が発案したという講談のような話も残っている。 昼・夕の休憩時の指し掛けや打ち掛けでは封じ手は行わない。これについては、休憩となると休憩終了直前まで対局者は盤面から離れなければならないものの、棋士の記憶慮力から休憩の時点で手番を持っているものが長時間考えられて有利となって公平さを欠くという主張もあるが、プロの対局者間ではあまり問題視されていない[3]。そもそも二日制の対局は囲碁・将棋ともに年間に数えるほどであるが、昼・夕休憩はほとんど全ての対局が該当し、これをすべて封じ手制にしていたらとてつもない労力が必要になる。 封じ手の戦略[編集] 一般的に、必然の一手を封じることは良くない。これは、非封じ手側がその必然の一手に対しての選択肢を深く考えることが出来てしまうからである。いくつか候補手が存在し、自分がどれを選んだか相手側にはわからないような局面で封じるのが望ましい。逆に、相手にそうさせないように持ち時間を調節するのもテクニックのひとつである。 とはいえあまりにも自分の選択肢の広い場面で封じ手をするのも良くない。自分が選んだ手が良いか悪いかを延々と考える羽目になるからである。 チェスでは、コンピュータ解析の発達と、持時間の短縮にともない、封じ手は1990年代後半にほぼ全廃された(ルール上は現存している)。 一方の囲碁や将棋においても、 一般のプレイヤーが封じ手を要求されることはない プロプレイヤーにおいても、2日制のタイトル戦に出場するのは一部のトッププロに限られる 1日目に形勢がはっきりするような局面にすることは味が悪いとし、好まれない。必然、封じ手が重要な意味をもつことも少ない などの理由で、封じ手の戦略について系統だった研究は発表されていない。主に、プレイヤーの好みや、その場の流れで選択することが多いようである。 『将棋世界』2008年2月号で、羽生善治・佐藤康光・森内俊之・谷川浩司・渡辺明・藤井猛の6人のプロ将棋棋士に封じ手の戦略や駆け引きについて質問している[4]。羽生・森内・谷川はそれほど気にしていないが、佐藤・渡辺・藤井は駆け引きがあると回答しており、特に渡辺と藤井は「封じる側が有利」としている。 囲碁においても、封じ手を嫌う棋士はいる。悪手を打ったのではないか、用紙に書き間違えていないかなどが気になり、眠れない棋士もいるという。1963年の第2期名人戦挑戦手合第6局では、挑戦者坂田栄男が封じ手の定刻間際に着手。自分に封じ手をさせようという坂田の作戦に怒った藤沢秀行名人がすかさず次の手を打つが、坂田も間髪入れずに着手、藤沢に封じ手を打たせた。この盤外戦に動揺した藤沢はこの封じ手で悪手を打ってしまい、この碁を落とした。次の第7局では、藤沢が定刻数秒前に打って坂田に封じ手をさせることに成功したが、結局この碁にも敗れ、名人を失う結果となった。「ヒカルの碁」でも、対局者同士の封じ手を巡る心理戦のやり取りが描かれている。 その他[編集] 2014年の将棋のタイトル戦では、第63期王将戦第1局~第7局、第72期名人戦第1局~第4局、第55期王位戦第1局~第4局(第3局は持将棋)と15局連続して封じた側が勝利できなかった(持将棋1局を挟んで封じた側の14連敗)。 テレビドラマ『古畑任三郎』第1シリーズ(『警部補古畑任三郎』)第5話「汚れた王将」(ゲスト:坂東八十助)では、ストーリー中に「封じ手」が登場、犯人の使用したトリックとして描かれている。しかし、実際に行われている封じ手のルールではこのトリックは不可能で、脚本の三谷幸喜も小説版のあとがきで、トリックが稚拙だったと認めている。 脚注[編集] ^ a b 日本将棋連盟「竜王戦中継plus」 (2010年10月27日). “封じ手用紙”. 日本将棋連盟. 2012年8月18日閲覧。 ^ a b 毎日新聞社Twitterアカウント「毎日が囲碁道場」 (2012年7月29日). “封じ手用紙と封筒。 用紙には封じ手を示す丸印が確認できる。”. 毎日新聞社. 2012年8月18日閲覧。 ^ たとえば、『将棋世界』2007年1月号185ページ「連盟の瀬川さん」に、不公平ではないかという読者からの質問と、そのように考えている棋士はいないと思われるとの瀬川晶司の回答が掲載されている。 ^ 『将棋世界』2008年2月号、108~109ページ、「イメージと読みの将棋観」。 関連項目[編集] 将棋 囲碁 --------- 布石 布石(ふせき)は囲碁序盤戦の打ち方。文字通り、お互いが盤上に石を布いてゆき、勢力圏を確保しようとする段階。これからどういう構想を持って打ち進めていくかを表すいわば土台作りの段階であり、盤上での双方のおおよその石の配置を定めていく。これが転じて布石という言葉は、将来のための準備を意味する一般用語として用いられるようになった。 一局のうちどこまでが布石かは対局ごとに異なり、明確な線が引けるわけではない。多くの場合、互いの石が接触して戦闘が始まるまでの段階を指す。明確な布石の段階を経ずに戦いに突入する場合もある。 目次 [非表示] 1 布石の基本 1.1 布石の例 2 布石の歴史 3 布石の型と流行 3.1 並行型とタスキ型 3.2 本法の布石 3.3 秀策流 3.4 新布石 3.5 現代の布石 4 主な布石の例 5 参考図書 6 関連項目 7 外部リンク 布石の基本[編集] 囲碁は地を取り合うゲームであり、最も地を確保しやすい場所は隅であることから、お互いに隅から打ち始めることが普通である。次にシマリを打って隅を確保するか、カカリを打ってシマリを妨害し、定石が打たれる。そして辺へのヒラキ、ツメによって勢力圏を拡大し合い、戦闘へ入っていくというのが一般的な流れである。これを指した囲碁格言に「一隅、二シマリ、三ヒラキ」というものがある(ヒラキとカカリは同価値。また「四ツメ、五トビ」と続くこともある)。大場と急場の見極めも重要である。 布石の例[編集] 右上、右下でシマリ、左上、左下で定石が打たれた後白14とヒラキ、白22あたりまでがこの碁の布石段階。黒23の打ち込みから両者の石が接触し、中盤戦が開始される。 布石の歴史[編集] 室町時代までは、盤上に隅の星の位置に白黒の石を2子ずつ置いてから対局を始める事前置石制(互先置石制)が主流であったため、現代風の布石の概念は無く、最初から戦いが始まるのが一般的だった。室町後期から盤上に何もない状態から対局が開始される自由布石が広まり、布石と呼ばれる段階が発生した。本因坊算砂などの時代にはこの対局方法が広まり、隅への着点も小目、高目、目外しなどが主流となる。江戸時代になると家元制の下で、「一に空き隅、二にシマリかカカリ、三に辺」の布石理論が固まっていった。またこの時代に、隅の定石が整備され、布石と一体となって発展していった。本因坊道策は全局的な視点と手割論による合理的な布石法を生み出し、その後の布石の進歩に大きく貢献した。江戸末期の本因坊秀和、本因坊秀策らの時代にこの布石法は頂点に達し、秀策流の名も残っている。 江戸中期の7世安井仙知の中央重視の布石や、明治期の本因坊秀栄のスピードを重視した星打ちなど、新しい考え方も少しずつ広がった。昭和初期には木谷実と呉清源らが新布石を発表し、まったく新しいスタイルとして大流行を起こした。新布石はそれまでの小目中心の布石から星、三々を中心にすえたスピード感あふれる布石であり、また旧来の考え方からは想像も出来ない初手天元や五の五などの大胆な発想で一世を風靡し、囲碁界のみならず一般社会も巻き込んで一大センセーションを巻き起こした。 その後、新布石はそれ以前の旧布石と融合し、現代の布石に至った。また現代においてはコミの導入の影響により、黒番ではより攻撃的な布石が目指されるように変わった。三連星や中国流などシステム化された布石も数多く生まれている。近年では、武宮正樹による中央重視の「宇宙流布石」が、世界の囲碁界にインパクトをもたらした。中国流の、隅のシマリより辺のヒラキを優先する発想もまた、その後の布石の進化に大きな影響を与えている。 中国では清代(明治期)に日本の自由布石が伝わり、事前置石制から移行した。韓国では巡将碁と呼ばれる事前に16子を置く事前置石制が主流だったが、戦後に日本で修行した趙南哲が自由布石法を広めた。両国とも1980年代には棋力のレベルも日本と肩を並べ、それぞれ独自の布石研究も進んだ。 布石の型と流行[編集] 布石にも時代により流行り廃りがある。研究が進んだことによって不利となり、省みられなくなる布石もあるが、時の第一人者の棋風に影響される面も大きい。 並行型とタスキ型[編集] 布石は、最初に隅に打たれる4手の配置により、大きく並行型とタスキ型に分類できる。 並行型 タスキ型  上図のように、黒石・白石が同じ辺を占める打ち方を「並行型」、対角線を占める打ち方を「タスキ型」と称する。並行型では対辺をお互いが勢力圏とするために模様の碁に、タスキ型では局面が細分化されて戦いの碁になりやすい傾向がある。 本法の布石[編集] 江戸期までの布石の型。小目中心の布石で、交互に空き隅の小目を占め、続いてそれぞれの小目のシマリを打つ型を言う。これを基本型として、シマリの代わりにカカリ、空き隅の代わりにカカリ、空き隅の占め方を小目の代わりに高目、目外しを選ぶといったバリエーションが生じる。そこから隅を中心とした戦いに移行していく。  本法の布石 秀策流[編集] 江戸末期に本因坊秀策が先番必勝の布石として愛用したことで知られる。先番(黒)が隅の小目を占め、後手(白)が空き隅の代わりに黒の小目へのケイマのカカリ(目外しの位置)に打った場合、黒は小目から黒7のコスミを打つ型を言う。このコスミを「秀策のコスミ」とも言い、隅を強い形にし、そこを基点にした辺への展開と白石への攻めの二通りの狙いを持つことが出来るのが特長で、明治以降にもこの考え方が多用された。ただしコミの導入された現代では、黒の布石としてはややぬるいという考え方が生まれ、黒番ではより攻撃的な手法が考案されるとともに、秀策のコスミ自体はむしろ白番の手法として見直されている。  秀策流(黒7が秀策のコスミ)  現代における白番のコスミ 新布石[編集] 中央への勢力と、隅は星、三々を占めることによるスピードを重視した布石(新布石の項参照)。昭和初期に勃興し、中央重視の流れから、さまざまなスタイルが試みられた。 木谷らはその後旧布石に戻ったが、呉や高川格など星打ちを中心にした布石を続けた者も多い。特に黒番での二連星と一間高ガカリの組み合わせは呉が十番碁などで用いて、他の棋士も多用したため、「秀策の一、三、五」になぞらえて「昭和の一、三、五」と呼ばれた。 小杉丁(黒)-呉清源(1933年)  昭和の一、三、五の布石 現代の布石[編集] 昭和になって坂田栄男や石田芳夫らによって三々打ちが流行したが、位の高い攻撃的な布石が人気を集めるにつれて三々は徐々に少なくなった。1970年代からは武宮正樹の中央志向の布石・宇宙流が人気を集め、二連星、三連星などの簡明な布石がプロアマ問わず流行した。同様に中国流、小林光一の多用した小林流などが登場し、現代でも多く打たれている。 90年代以降韓国囲碁界が隆盛を迎え、一つの布石を多数のプロが集中的に打って徹底的に研究し尽くすスタイルが出来上がった。この中でミニ中国流などが必勝布石として数多く打たれたが、近年では序盤から布石らしい布石のないまま乱戦が始まることが多くなっている。 現代では日中韓とも厚み、勢力よりも地に辛く打つスタイルが主流になりつつあるが、高尾紳路など厚み派に分類される棋士も活躍している。結局、布石は棋風や好みに合わせて選択されるもので、「これがベスト」といえるようなものはない。 主な布石の例[編集] 二連星 上の図のように、2隅を星で占める布石。辺への展開力、スピードに優れている。 黒番、白番問わずよく打たれる布石である。 なお、同じ星でも対角の2隅を占めるものはタスキ星と呼ばれる。 三連星 二連星からさらに辺の星を占める布石。新布石時代にも打たれていた布石で、地に甘いが中央志向が強く、大模様になりやすい布石である。 昭和末期~平成初期にかけて流行、特に武宮正樹はこの布石を愛用して大活躍を収めた。 最近では三連星対策の研究が進み、また地に甘い事を嫌ってか、プロの碁で打たれる事は少なくなっている。 中国流 上図のように、星・小目・辺の星の斜め下に構える布石。 三連星に似た構えだが、三連星に比べて地に辛く、場合によっては模様を捨てて実利に転換する事ができる和戦両様の布石である。 プロの碁では現在でもよく打たれる布石で、愛好者も多い。 辺の石をaの地点に構えるのもある(高中国流という)が、近年では地に甘いと見なされ、低い中国流に比べるとあまり打たれなくなっている。項目中国流も参照。 小林流 上図の黒の構えが小林流。小林光一が愛用した事からこの名前がついた。 韓国囲碁界で一時期大流行し、この後の打ち方について様々な研究が行われた。 現在でもよく打たれている。項目小林流も参照。 ミニ中国流 上図の下辺の黒の構えがミニ中国流である。 前述の通り、韓国で数多く打たれ、様々な研究が行われた。 参考図書[編集] 『新・早わかり布石小事典』日本棋院 『布石大事典』日本棋院 高川格『布石辞典 上・下』誠文堂新光社 林海峯『基本布石事典 上・下』日本棋院 依田紀基『新版 基本布石事典 上・下』日本棋院 関連項目[編集] 囲碁の歴史 定石 外部リンク[編集] 布石問題集 --------- 布石 布石(ふせき)は囲碁序盤戦の打ち方。文字通り、お互いが盤上に石を布いてゆき、勢力圏を確保しようとする段階。これからどういう構想を持って打ち進めていくかを表すいわば土台作りの段階であり、盤上での双方のおおよその石の配置を定めていく。これが転じて布石という言葉は、将来のための準備を意味する一般用語として用いられるようになった。 一局のうちどこまでが布石かは対局ごとに異なり、明確な線が引けるわけではない。多くの場合、互いの石が接触して戦闘が始まるまでの段階を指す。明確な布石の段階を経ずに戦いに突入する場合もある。 目次 [非表示] 1 布石の基本 1.1 布石の例 2 布石の歴史 3 布石の型と流行 3.1 並行型とタスキ型 3.2 本法の布石 3.3 秀策流 3.4 新布石 3.5 現代の布石 4 主な布石の例 5 参考図書 6 関連項目 7 外部リンク 布石の基本[編集] 囲碁は地を取り合うゲームであり、最も地を確保しやすい場所は隅であることから、お互いに隅から打ち始めることが普通である。次にシマリを打って隅を確保するか、カカリを打ってシマリを妨害し、定石が打たれる。そして辺へのヒラキ、ツメによって勢力圏を拡大し合い、戦闘へ入っていくというのが一般的な流れである。これを指した囲碁格言に「一隅、二シマリ、三ヒラキ」というものがある(ヒラキとカカリは同価値。また「四ツメ、五トビ」と続くこともある)。大場と急場の見極めも重要である。 布石の例[編集] 右上、右下でシマリ、左上、左下で定石が打たれた後白14とヒラキ、白22あたりまでがこの碁の布石段階。黒23の打ち込みから両者の石が接触し、中盤戦が開始される。 布石の歴史[編集] 室町時代までは、盤上に隅の星の位置に白黒の石を2子ずつ置いてから対局を始める事前置石制(互先置石制)が主流であったため、現代風の布石の概念は無く、最初から戦いが始まるのが一般的だった。室町後期から盤上に何もない状態から対局が開始される自由布石が広まり、布石と呼ばれる段階が発生した。本因坊算砂などの時代にはこの対局方法が広まり、隅への着点も小目、高目、目外しなどが主流となる。江戸時代になると家元制の下で、「一に空き隅、二にシマリかカカリ、三に辺」の布石理論が固まっていった。またこの時代に、隅の定石が整備され、布石と一体となって発展していった。本因坊道策は全局的な視点と手割論による合理的な布石法を生み出し、その後の布石の進歩に大きく貢献した。江戸末期の本因坊秀和、本因坊秀策らの時代にこの布石法は頂点に達し、秀策流の名も残っている。 江戸中期の7世安井仙知の中央重視の布石や、明治期の本因坊秀栄のスピードを重視した星打ちなど、新しい考え方も少しずつ広がった。昭和初期には木谷実と呉清源らが新布石を発表し、まったく新しいスタイルとして大流行を起こした。新布石はそれまでの小目中心の布石から星、三々を中心にすえたスピード感あふれる布石であり、また旧来の考え方からは想像も出来ない初手天元や五の五などの大胆な発想で一世を風靡し、囲碁界のみならず一般社会も巻き込んで一大センセーションを巻き起こした。 その後、新布石はそれ以前の旧布石と融合し、現代の布石に至った。また現代においてはコミの導入の影響により、黒番ではより攻撃的な布石が目指されるように変わった。三連星や中国流などシステム化された布石も数多く生まれている。近年では、武宮正樹による中央重視の「宇宙流布石」が、世界の囲碁界にインパクトをもたらした。中国流の、隅のシマリより辺のヒラキを優先する発想もまた、その後の布石の進化に大きな影響を与えている。 中国では清代(明治期)に日本の自由布石が伝わり、事前置石制から移行した。韓国では巡将碁と呼ばれる事前に16子を置く事前置石制が主流だったが、戦後に日本で修行した趙南哲が自由布石法を広めた。両国とも1980年代には棋力のレベルも日本と肩を並べ、それぞれ独自の布石研究も進んだ。 布石の型と流行[編集] 布石にも時代により流行り廃りがある。研究が進んだことによって不利となり、省みられなくなる布石もあるが、時の第一人者の棋風に影響される面も大きい。 並行型とタスキ型[編集] 布石は、最初に隅に打たれる4手の配置により、大きく並行型とタスキ型に分類できる。 並行型 タスキ型  上図のように、黒石・白石が同じ辺を占める打ち方を「並行型」、対角線を占める打ち方を「タスキ型」と称する。並行型では対辺をお互いが勢力圏とするために模様の碁に、タスキ型では局面が細分化されて戦いの碁になりやすい傾向がある。 本法の布石[編集] 江戸期までの布石の型。小目中心の布石で、交互に空き隅の小目を占め、続いてそれぞれの小目のシマリを打つ型を言う。これを基本型として、シマリの代わりにカカリ、空き隅の代わりにカカリ、空き隅の占め方を小目の代わりに高目、目外しを選ぶといったバリエーションが生じる。そこから隅を中心とした戦いに移行していく。  本法の布石 秀策流[編集] 江戸末期に本因坊秀策が先番必勝の布石として愛用したことで知られる。先番(黒)が隅の小目を占め、後手(白)が空き隅の代わりに黒の小目へのケイマのカカリ(目外しの位置)に打った場合、黒は小目から黒7のコスミを打つ型を言う。このコスミを「秀策のコスミ」とも言い、隅を強い形にし、そこを基点にした辺への展開と白石への攻めの二通りの狙いを持つことが出来るのが特長で、明治以降にもこの考え方が多用された。ただしコミの導入された現代では、黒の布石としてはややぬるいという考え方が生まれ、黒番ではより攻撃的な手法が考案されるとともに、秀策のコスミ自体はむしろ白番の手法として見直されている。  秀策流(黒7が秀策のコスミ)  現代における白番のコスミ 新布石[編集] 中央への勢力と、隅は星、三々を占めることによるスピードを重視した布石(新布石の項参照)。昭和初期に勃興し、中央重視の流れから、さまざまなスタイルが試みられた。 木谷らはその後旧布石に戻ったが、呉や高川格など星打ちを中心にした布石を続けた者も多い。特に黒番での二連星と一間高ガカリの組み合わせは呉が十番碁などで用いて、他の棋士も多用したため、「秀策の一、三、五」になぞらえて「昭和の一、三、五」と呼ばれた。 小杉丁(黒)-呉清源(1933年)  昭和の一、三、五の布石 現代の布石[編集] 昭和になって坂田栄男や石田芳夫らによって三々打ちが流行したが、位の高い攻撃的な布石が人気を集めるにつれて三々は徐々に少なくなった。1970年代からは武宮正樹の中央志向の布石・宇宙流が人気を集め、二連星、三連星などの簡明な布石がプロアマ問わず流行した。同様に中国流、小林光一の多用した小林流などが登場し、現代でも多く打たれている。 90年代以降韓国囲碁界が隆盛を迎え、一つの布石を多数のプロが集中的に打って徹底的に研究し尽くすスタイルが出来上がった。この中でミニ中国流などが必勝布石として数多く打たれたが、近年では序盤から布石らしい布石のないまま乱戦が始まることが多くなっている。 現代では日中韓とも厚み、勢力よりも地に辛く打つスタイルが主流になりつつあるが、高尾紳路など厚み派に分類される棋士も活躍している。結局、布石は棋風や好みに合わせて選択されるもので、「これがベスト」といえるようなものはない。 主な布石の例[編集] 二連星 上の図のように、2隅を星で占める布石。辺への展開力、スピードに優れている。 黒番、白番問わずよく打たれる布石である。 なお、同じ星でも対角の2隅を占めるものはタスキ星と呼ばれる。 三連星 二連星からさらに辺の星を占める布石。新布石時代にも打たれていた布石で、地に甘いが中央志向が強く、大模様になりやすい布石である。 昭和末期~平成初期にかけて流行、特に武宮正樹はこの布石を愛用して大活躍を収めた。 最近では三連星対策の研究が進み、また地に甘い事を嫌ってか、プロの碁で打たれる事は少なくなっている。 中国流 上図のように、星・小目・辺の星の斜め下に構える布石。 三連星に似た構えだが、三連星に比べて地に辛く、場合によっては模様を捨てて実利に転換する事ができる和戦両様の布石である。 プロの碁では現在でもよく打たれる布石で、愛好者も多い。 辺の石をaの地点に構えるのもある(高中国流という)が、近年では地に甘いと見なされ、低い中国流に比べるとあまり打たれなくなっている。項目中国流も参照。 小林流 上図の黒の構えが小林流。小林光一が愛用した事からこの名前がついた。 韓国囲碁界で一時期大流行し、この後の打ち方について様々な研究が行われた。 現在でもよく打たれている。項目小林流も参照。 ミニ中国流 上図の下辺の黒の構えがミニ中国流である。 前述の通り、韓国で数多く打たれ、様々な研究が行われた。 参考図書[編集] 『新・早わかり布石小事典』日本棋院 『布石大事典』日本棋院 高川格『布石辞典 上・下』誠文堂新光社 林海峯『基本布石事典 上・下』日本棋院 依田紀基『新版 基本布石事典 上・下』日本棋院 関連項目[編集] 囲碁の歴史 定石 外部リンク[編集] 布石問題集 --------- フリカワリ フリカワリは囲碁用語のひとつで、相手に利益を与える代わり、自分も別の場所で利益を取って変化することを指す。漢字では「振り替わり」と表記される。布石からヨセに至るまで、幅広く用いられる概念である。 フリカワリの実例[編集] フリカワリの行われる典型的な例は、コウが決着する時である。相手のコウダテに手を抜いてコウを解決し、相手がコウダテの部分を2連打することでフリカワリが成立する。 定石などでも、フリカワリを含むものは多い。例えば下図は「村正の妖刀」と呼ばれる定石の一変化。黒1とハザマに打ってきたら、白は2とコスんで出る。 以下、白は△に打った石を捨てて黒に外勢を与えつつ、自分は4から8と隅の地を確保する。 星にカカった石をハサまれた場合。白1と打つと、黒2と地を確保しつつ根拠を奪って攻められよくない。 そこで、白は1と三々に入り、白△の石を捨てて隅の地を奪い、フリカワる打ち方がある。 フリカワリの名手[編集] フリカワリは、どちらが得かを正確に判断しなければならず、高度な技術であるといえる。このため、フリカワリの名手といわれるのは、形勢判断の明るさと深い読みを兼ね備えた打ち手となる。江戸時代の打ち手では本因坊秀和、太田雄蔵が有名で、現代では依田紀基、井山裕太などが名手として知られる。 参考文献[編集] 「新・早わかり 用語小事典」 日本棋院 --------- フマキラー囲碁マスターズカップ フマキラー囲碁マスターズカップは、日本の囲碁棋戦である。50歳以上の現役七大タイトルホルダーおよび経験者を中心に争われる。2011年創設。優勝賞金額500万円、準優勝150万円。 目次 [非表示] 1 概要 2 ルール 3 歴代優勝者・準優勝者 4 外部リンク 概要[編集] 主催 日本棋院 協賛 フマキラー株式会社 参加資格 第1回は、50歳以上の現役七大タイトル保持者・経験者のみ。第二回より、七大タイトル経験者及び現役タイトル者が16人に満たない場合、50歳以上の現役賞金ランキング上位によって予選が行われる。第4回からは、前期優勝者及び準優勝者は七大タイトル保持・経験がなくとも本戦より出場となった。 第1回から第3回まで エステー株式会社も協賛しており、エステー&フマキラーを冠していた。 ルール[編集] ノックアウトトーナメント戦 コミ6目半 持ち時間は1人2時間。5分前から秒読み。 歴代優勝者・準優勝者[編集] (左が優勝者) 2011年 趙治勲 - 小林光一 2012年 王銘琬 - 趙治勲 2013年 小林覚 - 石井邦生 2014年 趙治勲 - 小林覚 2015年 趙治勲 - 武宮正樹 2016年 小林光一 - 淡路修三 外部リンク[編集] 日本棋院 囲碁マスターズカップ --------- プロ十傑戦 プロ十傑戦(ぷろじっけつせん)は、囲碁の棋戦で、日本棋院と関西棋院の棋士が参加した。1964年から1975年までの12期行われた。優勝者から第10位まで順位を付けることが特徴。アマ十傑戦との入賞同士によるアマ・プロ対抗戦を行い、人気を集めた。 主催 朝日新聞 目次 [非表示] 1 経緯 2 方式 3 歴代十傑 4 前身棋戦 5 話題 6 参考文献 7 関連項目 8 外部リンク 経緯[編集] 朝日新聞は読売新聞の名人戦創設により、大手合と最高位決定戦のスポンサーを下り、1961年からアマチュア棋戦として朝日アマ囲碁十傑戦、また三強リーグ戦を始めとして、各種選抜棋戦、プロ対アマの相談碁、アマ十傑戦成績優秀者を含めた日中交流戦など外国棋士との交流戦を実施した。1964年に再度プロ棋戦を開始することとなり、プロ十傑戦を創設した。1968年からはプロ十傑とアマ十傑の対抗戦を開始する。 1968年に三段で出場した武宮正樹は、強豪を押し退けて8位入賞、翌年も5位入賞し、「十傑戦ボーイ」と呼ばれた。1975年に趙治勲は18歳で優勝し、当時の棋戦優勝の最年少記録となる。1971年には女流の木谷禮子が入賞するなど、話題を提供した。 1976年から朝日新聞は、主催棋戦を名人戦に移行し、プロ十傑戦は終了する。アマプロ対抗戦は、1976年は名人及び名人戦リーグ9人の計10名がプロ側で出場、翌年からはプロ選抜棋士が出場し、1982年までで終了する。 方式[編集] 出場者は、アマ十傑戦出場者の人気投票による16位までの棋士と、4名の予選勝ち抜き者の、20名。投票4位までは3回戦にシードされる。 トーナメント方式で、決勝は1-6期は三番勝負、7期以降は五番勝負。3-10位までは順位決定戦を行なう。 歴代十傑[編集] 回次 年度 優勝 2位 3位 4位 5位 6位 7位 8位 9位 10位 1 1964 坂田栄男 高川秀格 藤沢朋斎 木谷実 藤沢秀行 佐藤直男 大竹英雄 島村俊宏 山部俊郎 前田陳爾 2 1965 藤沢秀行 高川秀格 大竹英雄 坂田栄男 半田道玄 3 1966 林海峰 高川秀格 半田道玄 4 1967 坂田栄男 高川秀格 5 1968 藤沢秀行 坂田栄男 山部俊郎 高川秀格 林海峰 呉清源 宮下秀洋 武宮正樹 橋本昌二 半田道玄 6 1969 坂田栄男 林海峰 高川秀格 藤沢秀行 武宮正樹 橋本昌二 大竹英雄 久井敬史 橋本宇太郎 本田邦久 7 1970 橋本宇太郎 加藤正夫 大竹英雄 石田芳夫 呉清源 梶原武雄 橋本昌二 茅野直彦 高川秀格 坂田栄男 8 1971 石田芳夫 梶原武雄 林海峰 大竹英雄 橋本昌二 半田道玄 坂田栄男 木谷礼子 藤沢秀行 高川秀格 9 1972 石田芳夫 岩田達明 坂田栄男 橋本宇太郎 島村俊宏 半田道玄 杉内雅男 藤沢秀行 武宮正樹 高川秀格 10 1973 林海峰 橋本宇太郎 高川秀格 藤沢朋斎 坂田栄男 杉内雅男 石田芳夫 趙治勲 大竹英雄 羽根泰正 11 1974 林海峰 武宮正樹 加藤正夫 石田芳夫 橋本宇太郎 羽根泰正 大竹英雄 坂田栄男 大平修三 趙治勲 12 1975 趙治勲 加藤正夫 林海峰 小林光一 藤沢秀行 梶原武雄 大竹英雄 橋本昌二 坂田栄男 大平修三 前身棋戦[編集] 三強リーグ戦(1961年)呉清源、橋本宇太郎、坂田栄男の3名によるコミなし2局総当たりのリーグ戦で、呉と坂田が3-1で同率1位となった。 林海峰・大竹英雄三番碁(1961年) 大竹定先2勝1ジゴ。 関西新鋭トーナメント 宮本直道、東野弘昭、小山靖男、関山利夫の4名で実施、東野が優勝。 藤沢秀行・橋本昌二三番碁(1962年) 藤沢2勝1敗 新鋭選抜トーナメント(1962年) 選抜棋士8名が出場、決勝で大竹英雄が林海峰を破り優勝。 話題[編集] アマ十傑戦の前夜祭でプロ十傑戦出場者の挨拶が行われていた。人気投票1位は例年坂田栄男であり「みなさんのおかげで、1位に選ばれました。今年も1位をめざしてがんばりたい」と述べたところ、人気2位の高川格は「みなさんのおかげで、2位に選ばれました。今年も2位をめざしてがんばりたい」と挨拶し、その年の成績は言葉通り坂田1位、高川2位となった。 参考文献[編集] 坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年 関連項目[編集] 朝日アマ囲碁十傑戦 外部リンク[編集] 囲碁データベース「プロ十傑戦」 --------- 後奈良天皇 後奈良天皇 後奈良天皇木像(浄福寺安置) 第105代天皇 在位期間 1526年6月9日-1557年9月27日 元号 大永 享禄 天文 弘治 先代 後柏原天皇 次代 正親町天皇 誕生 1497年1月26日 崩御 1557年9月27日 陵所 深草北陵 父親 後柏原天皇 母親 勧修寺藤子 女御 万里小路栄子 子女 方仁親王(正親町天皇) 永寿女王 普光女王 聖秀女王 覚恕 皇居 京都御所 テンプレートを表示 後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。諱は知仁(ともひと)。 目次 [非表示] 1 系譜 1.1 系図 2 略歴 3 在位中の元号 4 諡号・追号・異名 5 陵・霊廟 6 後世の評価 7 参考文献 8 出典 9 関連項目 系譜[編集] 後柏原天皇の第二皇子。母は、勧修寺教秀の娘、豊楽門院・勧修寺藤子。 女院:藤原(万里小路)栄子(吉徳門院)(1494-1522) - 万里小路賢房女 第一皇女(1514-1515) 第一皇子:方仁親王(正親町天皇)(1517-1593) 第二皇女:永寿女王(1519-1535) - 大聖寺門跡 第二皇子(1521-1530) 典侍:藤原(高倉)量子 - 橘以緒女、高倉永家養女 第五皇女:普光女王(?-1579) - 安禅寺 典侍:藤原(広橋)国子 - 広橋兼秀女 第七皇女:聖秀女王(1552-1623) - 曇華院 掌侍:藤原(日野)具子 - 水無瀬秀兼女、日野守光養女 宮人:小槻氏(伊予局) - 壬生雅久女(壬生晴富女、和気親就女とする説あり) 第三皇子:覚恕(1521-1574) - 曼殊院 宮人:藤原氏 - 持明院基春女 皇女2人(1520) - 双子。夭逝。 宮人:王氏 - 恒直親王女 系図[編集] 102 後花園天皇 103 後土御門天皇 104 後柏原天皇 105 後奈良天皇 106 正親町天皇 誠仁親王 (陽光院) 107 後陽成天皇 良恕法親王 〔八条宮(桂宮)〕 智仁親王 智忠親王 広幡忠幸 (広幡家始祖) 略歴[編集] 明応5年(1497年)1月26日、権中納言勧修寺政顕の屋敷で誕生。大永6年(1526年)4月29日、後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。寄付した戦国大名は後北条氏、大内氏、今川氏などである。 後奈良天皇は、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた[1]。だが、清廉な人柄であったらしく、天文4年(1535年)に一条房冬を左近衛大将に任命した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知って、献金を突き返した。さらに、同じ年に即位式の献金を行った大内義隆が大宰大弐への任官を申請したが、これを拒絶した。大内義隆の大宰大弐任命は、周囲の説得で翌年にようやく認めた。 慈悲深く、天文9年(1540年)6月、疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉」との悲痛な自省の言を添えている。また、天文14年(1545年)8月の伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願するなど、天皇としての責任感も強かった。 三条西実隆、吉田兼右らに古典を、清原宣賢から漢籍を学ぶなど学問の造詣も深かった。御製の和歌も多く、『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、日記『天聴集』を残している。さらに、なぞなぞ集『後奈良天皇御撰名曾』は、貴重な文学資料でもある。 在位中の元号[編集] 大永(1526年4月29日) - 1528年8月20日 享禄 1528年8月20日 - 1532年7月29日 天文 1532年7月29日 - 1555年10月23日 弘治 1555年10月23日 - (1557年9月27日) 諡号・追号・異名[編集] 「後奈良」は平城天皇の別称奈良帝にちなむ。父の後柏原天皇は桓武天皇の別称にちなんでおり、桓武 - 平城に対応した追号になっている。 陵・霊廟[編集] 深草北陵 陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 後世の評価[編集] 皇太子徳仁親王は平成29年(2017年)の誕生日前の記者会見で、上記の後奈良天皇による般若心経奥書を西尾市岩瀬文庫で見た思い出に言及。同様に疫病に苦しんだ民を思いやった嵯峨天皇以降の歴代とともに、国民に寄り添う模範として挙げた[2]。 参考文献[編集] ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎訳、講談社、2003年1月。ISBN 978-4062116756。 出典[編集] [ヘルプ] ^ 『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p137頁(第4章「非力で女性的な天皇像」、9「ソフトで柔弱な君主たち」)より。さらに本書は以下の2冊を出典としている。 1. 林陸朗監修『歴代天皇100話』立風書房、1988年、p240-243 2. 松浦玲『日本人にとって天皇とは何であったか』辺境社、1974年、p63-64。 ^ “皇太子殿下お誕生日に際し(平成29年)”. 宮内庁. (2017年2月21日) 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、後奈良天皇に関連するカテゴリがあります。 なぞなぞ 醉象 本禅寺 フランシスコ・ザビエル - キリスト教布教のため、来日したザビエルは京都で後奈良帝当時の御所の荒廃を嘆く文を遺している。 [表示] 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 典拠管理 WorldCat VIAF: 31834076 LCCN: nr00011212 NDL: 00269467 カテゴリ: 日本の天皇戦国時代の人物 (日本)1497年生1557年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 Deutsch English Español Français Bahasa Indonesia 한국어 Português Русский 中文 他 15 リンクを編集 最終更新 2017年2月27日 (月) 12:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki --------- --------- --------- ---------