TOP > 韓国の囲碁の棋戦
韓国の囲碁の棋戦

韓国の囲碁の棋戦

韓国の囲碁の棋戦について


ネット囲碁対局なら『みんなの碁』

ネット囲碁対局 入口 (ここをクリック)


ページ     補足                 
韓国の囲碁の棋戦

韓国の囲碁の棋戦 に関する検索

お問い合わせ
メールはこちらまで
minnanogo99@gmail.com
囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。

相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。

相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。

『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。

対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


ネット碁会所、囲碁対局
フリーソフト
関連語
碁序盤打ち方
ネット碁会所サイト
あれこれ
あれこれ2

韓国の囲碁の棋戦
▲TOPページ
当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質


・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
・コンテンツの充実

これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

囲碁

ゲーム




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) カテゴリ「韓国の囲碁の棋戦」にあるページ このカテゴリには 46 ページが含まれており、そのうち以下の 46 ページを表示しています。 B BCカード杯新人王戦 G GGオークション杯女流対シニア連勝対抗戦 GSカルテックス杯プロ棋戦 K KBS杯バドゥク王戦 KTF杯戦 KT杯マスターズプロ棋戦 L Let's Run PARK杯オープントーナメント M MBC杯国棋戦 韓国女子囲碁リーグ O OllehKT杯オープン選手権 S SBS杯連勝囲碁最強戦 SG杯ペア碁大会 SKガス杯新鋭プロ十傑戦 い 囲碁マスターズ え 圓益杯十段戦 お 王位戦 (韓国囲碁) 王座戦 (韓国) オスラムコリア杯新鋭連勝最強戦 か 韓国囲碁リーグ 韓国棋院選手権戦 き 棋王戦 (韓国) 韓国囲碁棋士ランキング 棋聖戦 (韓国) こ 国棋戦 国手戦 さ 最強者戦 最高位戦 (韓国) し ジャックフィールド杯プロシニア棋戦 女流棋聖戦 (韓国) 女流名人戦 (韓国) 新王戦 せ 全国棋士選手権戦 た 大王戦 大舟杯プロシニア最強者戦 て 帝王戦 電子ランド杯王中王戦 は 倍達王戦 覇王戦 バッカス杯天元戦 陜川郡招待河燦錫国手杯英才囲碁大会 ふ 物価情報杯プロ棋戦 プロ女流国手戦 ま マキシムコーヒー杯入神連勝最強戦 み 未来の星新鋭最強戦 め 名人戦 (韓国) メジオン杯オープン新人王戦 韓国の棋戦[編集] 韓国ではプロ棋戦は韓国棋院が中心となって実施される。 一般棋戦[編集] 棋戦名 主催・協賛・後援 創設年 国手戦 東亜日報 1956- 名人戦 韓国日報 1968-2003、2007- KBS杯バドゥク王戦 KBS 1980- バッカス杯天元戦 スポーツ朝鮮 1996- GSカルテックス杯プロ棋戦 毎日経済新聞、毎経TV主催 1996- マキシムコーヒー杯入神連勝最強戦 2000- 物価情報杯プロ棋戦 韓国棋院・囲碁TV主催 2005‐ 若手棋戦・シニア棋戦[編集] 大舟杯プロシニア最強者戦(国際新聞、囲碁TV主催)2010- メジオン杯オープン新人王戦(韓国棋院、囲碁TV主催)2013- 女流棋戦[編集] プロ女流国手戦(韓国経済新聞主催)1994- 女流名人戦(毎日新聞社 (韓国)主催)1999- 女流棋聖戦(扶安郡、韓国棋院主催)2006- GGオークション杯女流対シニア連勝対抗戦(韓国棋院主催)2007- 女流十段戦 2012- ペア碁棋戦[編集] SG杯ペア碁大会(囲碁TV主催)2011- 韓国囲碁リーグ[編集] 「韓国囲碁リーグ」も参照 2004年より開催。4人一組のチームで行われるリーグ戦。8チームがそれぞれ18試合を行い、リーグ終了後に3位と4位が戦い、勝者が2位と戦い、更にその勝者が1位と戦い優勝を決める。優勝チームは中国甲級リーグの勝者と対抗戦を行う。 終了棋戦[編集] 覇王戦(大韓毎日新聞社主催)1959-2003年 最高位戦(釜山日報主催)1959-99年 王位戦(中央日報主催)1966-2007年 韓国棋院選手権戦(慶南毎日新聞主催)1969、77-78年 最強者戦(国際新報主催)1973-79年 棋王戦(朝鮮日報主催)1974-95年 MBC杯国棋戦 1974-76年 国棋戦(京郷新聞主催)1975-1996年 帝王戦(MBC TV主催)1982-95年 バッカス杯戦(東亜製薬主催) 1983-94年 大王戦(大邸毎日新聞主催)1983-97年 棋聖戦(世界日報主催)1990-2008 SBS杯連勝囲碁最強戦(SBS主催)1992-97年 倍達王戦 (韓国PC通信主催)1992-2000年 KT杯マスターズプロ棋戦(韓国棋院、囲碁TV主催)2002-03年 囲碁マスターズ(韓国棋院主催)2005-2007年 圓益杯十段戦(韓国棋院)2006-13年 OllehKT杯オープン選手権(韓国棋院・囲碁TV主催)2010-2013 若手シニア終了棋戦 新王戦(スポーツソウル主催) 1985-89年 BCカード杯新人王戦(ソウル新聞主催) 1991-2008年 SKガス杯新鋭プロ十傑戦(京郷新聞主催) 1997-2008年 オスラムコリア杯新鋭連勝最強戦(囲碁TV主催) 2001-08年 ジャックフィールド杯プロシニア棋戦(囲碁TV主催)2000-05年 KC&A杯新人王戦 2011年 阪急今津線 今津線 武庫川を渡る今津線の3000系電車(宝塚 - 宝塚南口間) 武庫川を渡る今津線の3000系電車 (宝塚 - 宝塚南口間) 基本情報 国 日本の旗 日本 所在地 兵庫県の旗 兵庫県宝塚市、西宮市 起点 宝塚駅 終点 今津駅 駅数 10駅 路線記号 HK HK 開業 1921年9月2日 全通 1926年12月18日 南北系統分断 1984年3月25日 所有者 阪急電鉄 運営者 阪急電鉄 車両基地 西宮車庫 使用車両 使用車両の節を参照 路線諸元 路線距離 9.3 km 軌間 1,435 mm(標準軌) 線路数 複線 電化方式 直流1,500 V 架空電車線方式 閉塞方式 自動閉塞式 最高速度 80 km/h [折り畳む]路線図 Hankyu Corporation Linemap.svg テンプレートを表示 今津線(いまづせん)は、兵庫県宝塚市の宝塚駅から兵庫県西宮市の今津駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。 六甲山地東麓を通る路線で、沿線には住宅地が広がり、大阪・神戸方面などへの通勤・通学路線となっている。運転系統が分断されていることから、西宮北口駅を境に北側の宝塚駅 - 西宮北口駅間を今津(北)線(北線)、南側の西宮北口駅 - 今津駅間を今津(南)線(南線)と呼ぶことがある。正式な起点は宝塚駅だが、列車運行上は今津駅から宝塚駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。キロポストは宝塚駅からの距離の表示となっているが、下り線の進行方向左側に設置されている[1]。 目次 [非表示] 1 路線データ 2 沿線風景 3 運行形態 4 使用車両 4.1 現用車両 4.1.1 今津(北)線 4.1.2 今津(南)線 4.2 過去の車両 5 歴史 5.1 西宮北口駅における平面交差問題 5.2 宝塚駅付近高架化工事に伴う暫定単線運転 5.3 年表 6 駅一覧 6.1 今津(北)線 6.2 今津(南)線 7 当線を舞台とする作品 8 脚注および参考文献 9 関連項目 路線データ[ソースを編集] 路線距離(営業キロ):9.3km 軌間:1435mm 駅数:10駅(起終点駅含む) 複線区間:全線 電化区間:全線電化(直流1500V) 閉塞方式:自動閉塞式 最高速度:80km/h 車両基地:西宮車庫 沿線風景[ソースを編集] [隠す]停車場・施設・接続路線 凡例 STRrg STRq STRq Number prefix Hankyū Takarazuka line.png 宝塚本線 KRZo STRq STRq JR西:G 福知山線(JR宝塚線) ABZqr STRlg 0.0 HK-56 宝塚駅 WASSERq WASSERq WBRÜCKE WASSERq 武庫川 BHF 0.9 HK-28 宝塚南口駅 WBRÜCKE 逆瀬川 BHF 1.8 HK-27 逆瀬川駅 BHF 2.8 HK-26 小林駅 eBHF 鹿塩駅 -1945 PSLa BSr 仁川駅構内引上線・  臨時降車ホーム BHF 4.5 HK-25 仁川駅 WBRÜCKE 仁川 BHF 5.4 HK-24 甲東園駅 KRZu JR西:山陽新幹線 山陽新幹線 BHF 6.4 HK-23 門戸厄神駅 ABZlf STRlg STR STRrg KDSTr 西宮車庫 STRq ABZql ABZqr Number prefix Hankyu Kobe line.png 神戸本線 STR 7.7 HK-08 西宮北口駅 STRlf ABZlg KRZo JR西:東海道本線(A JR神戸線) HUB64 8.6 HK-22 阪神国道駅 emKRZo 北今津駅 阪神:国道線 STR 9.3 HK-21 今津駅 (2) 1993- exSTRlf exSTRlg 9.5 今津駅 (1) -1993 STRq eABZql 阪神:Number prefix Hanshin Railway.png 本線 宝塚駅を出た列車は、宝塚本線とすぐに別れ、眼下に宝塚歌劇団の本拠地である宝塚大劇場へ続く花のみちを見下ろしながら高架線を進む。宝塚ファミリーランドが営業していた頃には、車内から子供達で賑わう園内も眺めることもできた。やがて線路はカーブを描き、宝塚音楽学校と宝塚大劇場の間を掠め、武庫川を渡るとすぐ宝塚南口駅に到着する。行楽地の雰囲気はこの駅で終わり、宝塚南口駅を出て高架を下りると生活路線色が濃厚になる。 逆瀬川駅、小林駅と閑静な住宅地の中を進むと、仁川駅の手前で左手に阪神競馬場が現れる。競馬の開催日には駅は活況を呈し、レースの規模に応じて今津線列車が増発される。仁川を出ると旧型車を苦しめた下り坂を駆け下りて西宮市に入り、関西学院大学(西宮キャンパス)の最寄り駅である甲東園駅に至り、山陽新幹線をくぐりつつ平地の中を進むと厄よけの寺、門戸厄神の最寄りである門戸厄神駅に着く。次の駅が「北線」「南線」の分かれ目である西宮北口駅である。甲東園駅から西宮北口駅までは、カーブがない線形となっている。今津線は今でこそ、この駅で神戸本線に線路を分断されているが、1984年まで平面交差で神戸本線を横切っていた。なお、神戸線梅田方面へ向かう列車は連絡線に入るため、この駅は通過する。 分断されてから現在に至るまで「南線」の編成両数は「北線」の半分の3両であり、ワンマン運転が行われている。また、西宮北口駅の南線ホームが高架化されたため、終点の今津駅まで全区間が高架となった。列車はその高架化されたホームを出ると、阪急西宮ガーデンズを横目に見ながら南下していく。JR神戸線(東海道本線)を超えると阪神国道駅で、駅はその名の通り国道2号線に面している。その次が阪神本線との乗り換え駅である終点の今津駅だが、駅間距離は阪急電鉄では最も短い700 mしかなく、直線であるので互いの駅同士が肉眼でも見通せるほどである。阪急の今津駅は、高架化されるまでは阪神今津駅の北側に並んで設置されていたが、後に100 mほど北側に移動した際、阪神の駅とは直角状に設置するよう変更された。阪神の駅に比べて小規模である。 運行形態[ソースを編集] Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2008年11月) 1984年に西宮北口駅で線路が分断されたため、以降は宝塚駅 - 西宮北口駅間の今津(北)線(旧・西宝線)と、西宮北口駅 - 今津駅間の今津(南)線の各区間で普通列車の折り返し運転を行っている。 普通については、今津(北)線では、日中は10分間隔だが平日朝ラッシュ時は4 - 7分間隔・平日夕方から夜間は6 - 8分間隔、土・休日夜間は12分間隔で、今津(南)線では、日中は10分間隔だが平日朝ラッシュ時は6分間隔・平日夕方から夜間は7 - 8分間隔、土・休日夜間は12分間隔で運転されている。 今津(北)線に限り、土曜ダイヤと休日ダイヤを統合して土曜・休日ダイヤに一本化した後も土曜朝のみ普通を増発していたが、2006年10月28日のダイヤ改正で一時廃止された。しかし、現在は沿線の各学校の長期休暇時を除き土曜朝に普通の増発が復活している。 西宮北口駅構内には、神戸本線と今津(北)線を結ぶ連絡線(9号線)があり、これを使って平日朝ラッシュ時に宝塚発梅田行きの準急が運転されている。今津(北)線内は門戸厄神駅まで各駅に停車する。この列車の宝塚駅から梅田駅までの所要時間は約35分で、この列車の方が宝塚本線を経由するよりも6 - 10分程度短い。また昼間時を中心に宝塚本線の急行と神戸本線の特急が同時に梅田駅を発車しても、実際には神戸本線の特急で西宮北口駅まで行き、今津(北)線に乗り換えた方が宝塚本線の急行よりも宝塚駅に先着するという現象が起きている。さらに、距離も宝塚本線では24.5kmに対し、西宮北口経由だと23.3kmとなり宝塚本線より1.2kmも短い。両駅間の距離は異なっているが、運賃はともに280円である。 これに加えて1995年6月12日から2001年3月9日までは、平日夕方にも西宮北口駅の連絡線を経由する梅田発宝塚行き準急が運転されていた。ただ、今津(北)線の途中駅では仁川駅・宝塚南口駅を除いて下り線ホームの有効長が足りず、8両編成では対応できないため、同列車は6両編成で運転されていた[2](上り線ホームは全駅とも8両編成に対応している)。 阪神競馬場での競馬開催日に限り(場外発売日はのぞく)、今津(北)線では臨時ダイヤを設定して15時 - 17時台に普通の増発が行われるほか、仁川発梅田行きの直通臨時急行が運転され、仁川駅 - 梅田駅間を約20分で結んでいる。塚口駅と十三駅のみが停車駅として設定されており、今津(北)線内を走行する営業列車の中で唯一、線内の駅を通過する。かつては上下ともに臨時急行が運転されていたが、2006年10月28日のダイヤ改正以降は夕方に仁川発梅田行きのみの運転となっている[3]。 また、桜花賞・宝塚記念開催日など利用者が多い日に関しては午前中を中心に西宮北口駅 - 仁川駅間の普通列車が増発される。 2009年秋から、嵐山駅直通臨時列車が行楽期の特定の土曜・日曜・祝日に1日1往復の運転を開始した(種別は臨時)が、こちらは2010年春から新たに直通特急の種別が与えられ、直通対応編成には専用の種別幕が装備されている。今津線における特急の運転は、1968年に廃止された歌劇特急以来となる(詳細は「阪急京都本線」または「神京・京宝特急」の項目を参照)。線内の停車駅は、準急と同一である。 なお、西宮北口駅の連絡線(9号線)ではホーム位置の関係上、乗降の取り扱いは行われていない。神戸本線と直通する列車は同駅を通過扱いとしている(西宮北口を通過する列車は、この神戸本線 - 今津線を直通運転する準急・臨時急行・直通特急だけである)。 使用車両[ソースを編集] 今津(北)線 3000系 今津(北)線 3000系 方向板使用車 宝塚発 今津(北)線・神戸線直通梅田行き準急 梅田行臨時急行 今津(南)線 6000系 現用車両[ソースを編集] 今津(北)線[ソースを編集] 3000系:区間内完結列車(6両)のみに使用。 5000系:区間内完結列車(6両)、準急と臨時急行(8両)に使用する。かつてはすべて8両編成であったが、2016年に5010Fが中間車2両を抜いて6両編成になり、今津(北)線用になった。 5100系:3000系、3100系と同様に区間内完結列車(6両)のみに使用。3000系・3100系と6000系とは異なり、3両+3両ではなく、2両+4両であるため、4両に分割して、伊丹線の代走に使用する。ただし、1編成しかないため、伊丹線の代走の時は、後述の7000系を使用する。 6000系:区間内完結列車(6両)、準急と臨時急行(8両)に使用するが、6両編成のうち6026Fはワンマン運転の代走として使用する。ただし、6両編成・8両編成(先頭車のみが6000系で中間車が7000系の6050F)ともに1編成しかないため、後述の7000系なども使用する。かつては6両固定編成が存在し、頻繁に運用されていたが大半が8両化されて宝塚線に転属したため、現在は6025Fのみとなっている。 7000系:区間内完結列車(6両)、準急と臨時急行(8両)に使用する。区間内完結列車については、6両固定編成と、本線運行のうち8000系2両をはずして運行している編成が存在する。後者は代走や春秋の嵐山方面の直通特急に使用するのみであるが、1998年の山陽電鉄直通運転中止前は、頻繁に運用されていた。また、神戸線10両運転増発用に早期に落成した7032 - 7037Fが6両×2本に組み替えられ短期間運用されていたこともあった。また、現在宝塚線所属の7024F4両は8033F2両と連結し運用に入ったことがある(一度だけ8033Fでなく8032Fと連結した)。 8000系:準急と臨時急行(8両)のみに使用。かつては、区間内完結列車(6両)にも使用していたが、1998年の山陽直通運転中止時に6両編成が消滅したため使用されていない。8000系第2編成である8001Fは当初6連で落成しており、しばらく山陽直通には使用されず今津北線で運用されていた。 9000系:準急と臨時急行(8両)のみに使用。 1000系 (2代):準急と臨時急行(8両)のみに使用。 今津(南)線[ソースを編集] 6000系の3両編成のワンマン対応車を使用。 過去の車両[ソースを編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 大阪・神戸方面からの乗り入れを考慮して、神戸線と同じ規格で建設されていたことから、600形以降の大型車も戦前の早い時期から入線していた。また、神戸線との輸送量の格差を勘案して、40・90・96の各形式のように、同線での運用を念頭に入れて導入された形式もある。 戦後は、1952年以降宝塚線車両大型化の過程で捻出された小型車各形式[4]が入線し、1960年代前半には一大勢力を築いた。これらの小型車は1967年10月8日に実施された神戸線の架線電圧1500Vへの昇圧を機に一掃され、1960年代末から1970年代前半にかけては、600・610の両形式が主力として運用されていた。 1形 40形 51形 90形 96形 300形 320形 380形 500形 600形 610系 710系:京宝特急「歌劇号」で入線。 800系 810系 900形 920系 1000系(初代) 1010系 1100系 1200系 2000系 2300系:1969年 - 1971年の間、神戸線直通準急及び4両編成での線内運用に充当 2800系(付随車のみ) 5200系 3100系 歴史[ソースを編集] 暴走した阪急電車が今津駅を突破し阪神久寿川駅のホームに衝突(1949年12月13日) 宝塚ファミリーランド内を通過する今津線列車(2003年4月5日) 前身である阪神急行電鉄により、宝塚駅 - 西宮北口駅間が西宝線(さいほうせん)として開業。今津までの全通時に今津線に改称した。 阪神急行電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が路線敷設の特許を取得したときは、門戸厄神東光寺より西へ向かい、現在の阪神本線香櫨園駅辺りを終点とすることになっていたが、神戸線の敷設に絡んでまず計画が西宮北口駅を経て西宮市街までと変更され、さらに二度目の修正で阪神本線と共に今津駅を新設し、それと連絡を図る計画になった。なおこの際、神戸線との交点になる西宮北口駅には直角平面交差が生まれた。これについては後述する。 阪急総帥の小林一三の指導により、大正から昭和にかけ、甲東園や甲風園に代表されるように沿線の住宅開発を行い、さらには大阪・神戸方面へ向かうのとは逆方面の定期客需要を求めるべく、様々な学校誘致も行った。関西学院大学や神戸女学院大学が神戸市から西宮市の同線沿線に移転したのが典型的な事例で、戦前の段階で今津線は通学路線と化すことになった。 しかし、昭和中期までは宝塚線の池田 - 宝塚間とともに、特に宝塚側の各駅の乗客数は限られていた。逆瀬川駅や小林駅のプラットホームは戦前は1両(単行)分しかなく、2両編成の電車は通過していた。 戦中、沿線に軍需工場ができたこともあり、にわかに利用客数が増した。1943年12月15日から1945年9月21日までは、小林駅 - 仁川駅間にそれら工場への通勤客の至便をはかるため、鹿塩駅(かしおえき)が設けられたりもしている。また、今津駅では1928年から阪神本線とホームが隣り合うようになっていたが、軍の要請で丹波橋駅における奈良電気鉄道線(現在の近鉄京都線)と京阪本線の接続と同様、貨物輸送を考えて阪神本線との間で線路が一時的に接続されたことがあった。しかし、終戦後の1949年に今津線の電車が暴走して阪神本線に侵入、久寿川駅まで走行するという事故が発生したこともあり、再び分断された。 阪急今津線暴走事故を参照。なおこの事故は、新聞で「阪急電車が大暴れ」[5]「阪急、阪神に"殴り込み"」[6]と風刺されて報道されたこともあり、後には「殴り込み事件」と呼ばれるようになっている(参照)。 1995年1月17日の阪神・淡路大震災では甲東園駅南で交差する山陽新幹線の高架橋と、門戸厄神駅 - 西宮北口駅間の国道171号線の橋桁が線路上に落下。また宝塚南口駅北側では、西宮北口行き列車が脱線し、これら3件の被害で不通となったが、同年2月5日に全線復旧した。 2011年の球場前踏切 高架化が完了し、北側の西宮北口南踏切と同様、早朝・夜間の1日2回しか稼働しない。 2007年には、西宮北口駅周辺で行われていた西宮市の土地区画整理事業の一環として、阪急西宮スタジアム跡地の再開発事業(阪急西宮ガーデンズ建設工事)にあわせて、西宮北口 - 阪神国道間の高架化工事が開始され[7][8][9]、2010年に工事は完了。同年12月5日の西宮北口駅5号線高架ホーム供用開始により、今津(南)線は全線が高架化された[10]。また、同時に線路設備の規格向上により今津(南)線のダイヤ変更が行われ、西宮北口駅 - 阪神国道駅間の所要時間の短縮などが行われた(今津行きが20秒短縮、西宮北口行きが10秒短縮で、ともに所要時分3分20秒に)[11]。なお、高架化工事に当たっては、2009年1月17日より、西宮北口駅 - 阪神国道駅間のうち東海道本線(JR神戸線)との交差部分北側に片渡りポイントを設置して500mほどを単線化した。またこれに合わせて、西宮北口駅では5号線を閉鎖した上で回送線である8号線に仮設ホームを設置していた(ただし案内上は「5号線ホーム」のまま)。 西宮北口駅における平面交差問題[ソースを編集] 神戸本線と接続する西宮北口駅構内には、かつて同線と線路が十字形に交わる平面軌道交差(ダイヤモンドクロス)があった。今津まで延伸したのが1926年と古く、列車自体が短い編成であったことから運行上さほど支障はなく、このような形態をとった。 しかし、戦後の経済成長に伴う列車の増発・長編成化により、ダイヤモンドクロスの存在がダイヤ作成上で最大のネックとなるようになった。今津線のダイヤは神戸本線に合わせねばならず、ダイヤモンドクロスを横断する西宮北口駅 - 今津駅間は、平日日中は10分間隔であったが夕方ラッシュ時には12分間隔と、逆に夕方ラッシュ時に運転間隔が間延びするという状態が続いていた(宝塚駅 - 西宮北口駅間は神戸本線を横断しない形の区間運転があったため、このようなことはなかった)。 今津線には甲東園駅 - 仁川駅間に、阪急電鉄の路線の中では最もきつい部類に入る33.3‰の急勾配があり、現在ほどモーターの性能が良くなかった時代の車両にとってはこの勾配の存在が大きな負担となっていた。そこで、今津駅から西宮北口駅も含めて仁川駅まで連続立体交差化してこの急勾配を解消する計画が立てられたものの、後にモーターの性能が向上したことや、山陽新幹線の開通により甲東園駅付近が高々架となること、西宮北口駅周辺で宅地化が進んだため同駅周辺では高架化の際の仮線用地が確保できなくなったことから、神戸本線との立体交差化は困難となった。 加えて1980年代に入ると輸送力増強のため、宝塚本線・京都本線では既に実施されていた列車の10両編成化を神戸本線でも行うこととなったが、西宮北口駅のホーム延伸が限界にきていた(大阪方には西宮車庫、神戸方には踏切があった)ことや、ダイヤ上のネックを解消する目的もあり、同駅改良・橋上駅舎化工事に合わせて、高架化が不可能であった今津線を1984年にやむなく分断した。そして現在に至るまで南北の線路は分断されたままの状態が続いている。ただ、分断によって西宮北口駅 - 今津駅間では増発が可能になり、2001年3月のダイヤ改正後においては平日ラッシュ時には最短6分間隔で運転されるなど、利便性の向上というメリットも発生した。 なお、西宮北口駅2階コンコースには将来の路線高架化を見据えて確保されたスペースが、橋上駅舎化された当時から存在している。ただし、1995年に今津駅が高架駅となった際に同駅ホームの有効長が4両編成までとされたことや、西宮北口駅5号線ホームが高架化された際にもホームがコンコースと同一階(2階)に設けられたことから、宝塚駅 - 今津駅間の直通列車復活は非現実的となっている。 宝塚駅付近高架化工事に伴う暫定単線運転[ソースを編集] 宝塚駅の高架化工事の際に、工事中の仮線用地の確保が困難であったことから、1990年9月30日以降の宝塚駅 - 宝塚南口駅間において、やむなく単線運転が実施された。日中のように10分間隔ではダイヤ上は支障がないものの、本数の多いラッシュ時では運用に限界があったため、複線運転が再開されるまでの期間中は、通常の宝塚駅 - 西宮北口駅間の全線通し列車のほか、朝夕のラッシュ時に宝塚南口駅 - 西宮北口駅間の折り返し運転を行う列車が設定され、その数はダイヤの半数弱を占めた。また、同列車の運転により誤乗が増えたため、方向幕を装備する車両については、誤乗防止のために行き先方向幕を青地のものへと順次変更し対応がなされた[12]。工事完了後は同区間で折り返し列車は設定されず、各路線の列車においても特殊なカラーが施された行き先方向幕は用意されていない。 なお、1969年から1971年の宝塚南口駅の高架化に伴う単線運転実施のため、逆瀬川駅折り返し列車が運転されたこともあった。 また、阪神国道駅 - 今津駅間の高架化の際も、同様に単線運転が実施された[13]が、こちらは同区間が単線運転でもダイヤ上は支障がなかったため、特に目立った案内はなされていなかった。 こうした暫定単線運転の例は、近隣の路線では阪神西大阪線(現在の阪神なんば線)でも行われた。 年表[ソースを編集] 1921年(大正10年)9月2日:西宝線として宝塚駅 - 西宮北口駅間が単線で開業。 1922年(大正11年) 4月1日:全線複線化完成。 6月1日:甲東園駅開業。 1923年(大正12年)12月28日:仁川駅開業。 1926年(大正15年)12月18日:西宮北口駅 - 今津駅間が開業し全通。今津線に改称。 1927年(昭和2年)5月10日:阪神国道駅開業。 1949年(昭和24年)12月13日:阪神本線へ今津線の電車が侵入し、久寿川駅まで暴走する事故が起こる。 1967年(昭和42年)10月8日:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。 1978年(昭和53年)3月10日:全線を軌道法に基づく軌道から地方鉄道法に基づく鉄道に変更。 1984年(昭和59年)3月25日:西宮北口駅構内の平面軌道交差が廃止され南北の線路分断。 1990年(平成2年) 3月:「都市計画道路鳴尾御影東線立体事業」に基づき阪神国道駅 - 今津駅間と今津駅が高架化着工。 9月30日:宝塚駅高架化工事に伴い、宝塚駅 - 宝塚南口駅間の単線運転を開始。 1993年(平成5年) 5月23日:今津駅移転。0.2km短縮。 7月18日:宝塚駅 - 宝塚南口駅間の複線運転を再開。宝塚駅高架化。 1995年(平成7年) 1月17日:阪神・淡路大震災で全線不通に。 1月23日:門戸厄神駅 - 西宮北口駅間(単線運転)と西宮北口駅 - 今津駅間が復旧し運転を再開[14]。 1月30日:宝塚駅 - 仁川駅間が復旧し運転を再開[14]。 2月5日:仁川駅 - 門戸厄神間駅が復旧し、今津線全線で運転を再開[14]。 12月16日:阪神国道駅 - 今津駅間下り線と今津駅が高架化[14]。 1997年(平成9年)7月26日:阪神国道駅 - 今津駅間上り線高架化。 1998年(平成10年)10月1日:西宮北口駅 - 今津駅間がワンマン運転化。 2006年(平成18年)10月28日:下り梅田発仁川行き臨時急行の運行を中止。 2008年(平成20年)9月:「阪急今津線高架化事業(球場前線街路事業・西宮北口駅総合改善事業)」に伴い、西宮北口駅5号線ホーム横に隣接する球場前北小路踏切を廃止[15]。 2009年(平成21年)1月17日:「阪急今津線高架化事業(球場前線街路事業・西宮北口駅総合改善事業)」に伴い、西宮北口駅 - 阪神国道駅間の一部を単線化。西宮北口駅8号線に5号線仮設ホームを設置[16]。 2010年(平成22年)12月5日:西宮北口駅5号線ホーム高架化。西宮北口駅 - 今津駅が全線高架化。西宮北口駅 - 阪神国道駅間が速度向上(上り55km/h → 65km/h、下り50km/h → 55km/h)により所要時間短縮。 2013年(平成25年)12月21日:全駅に駅ナンバリング導入[17][18]。 駅一覧[ソースを編集] 全駅兵庫県に所在。駅番号は2013年12月21日より導入[17][18]。 今津(北)線[ソースを編集] 凡例 ●:停車、|:通過、|↓:通過、↓:片方向のみ運転 臨時急行:阪神競馬開催時に梅田行きのみ運転される場合あり。 準急:平日朝に梅田行きのみ運転。 普通:各駅に停車するため省略。 臨時急行・準急の西宮北口 - 梅田間の停車駅は「神戸本線」参照。 駅番号 駅名 駅間営業キロ 累計営業キロ 準急 臨時急行 接続路線 所在地 HK-56 宝塚駅 (宝塚大劇場前) - 0.0 ● 阪急電鉄:■ 宝塚本線 西日本旅客鉄道:G 福知山線(JR宝塚線) 宝塚市 HK-28 宝塚南口駅 (宝塚ホテル前) 0.9 0.9 ● HK-27 逆瀬川駅 0.9 1.8 ● HK-26 小林駅 1.0 2.8 ● HK-25 仁川駅 (阪神競馬場前) 1.7 4.5 ● ● HK-24 甲東園駅 0.9 5.4 ● | 西宮市 HK-23 門戸厄神駅 1.0 6.4 ● | HK-08 西宮北口駅 (阪急西宮ガーデンズ前) 1.3 7.7 ↓ | 阪急電鉄:■ 神戸本線(一部直通)・今津(南)線 直通運転区間 ○準急・臨時急行…神戸本線梅田駅まで 上記のほか、春・秋の行楽期には、宝塚駅発着で今津線・神戸本線・京都本線経由嵐山線嵐山駅までの直通特急が運転される。今津線・神戸本線内の停車駅は準急と同じだが、十三駅より京都本線に転線するため、梅田駅には乗り入れない。 戦時中は小林駅 - 仁川駅間に鹿塩駅が設置されていた。 今津(南)線[ソースを編集] 累計営業キロは今津(北)線から通算。全列車各駅に停車。 駅番号 駅名 駅間営業キロ 累計営業キロ 接続路線 所在地 HK-08 西宮北口駅 - 7.7 阪急電鉄:神戸本線・今津(北)線 西宮市 HK-22 阪神国道駅 0.9 8.6 HK-21 今津駅 0.7 9.3 阪神電気鉄道:■ 本線(HS16) 当線を舞台とする作品[ソースを編集] 映画の宣伝ヘッドマークが掲出された今津(北)線の車両 - 西宮北口駅 今津(北)線は、有川浩の小説『阪急電車』の舞台となった。また、2011年には『阪急電車 片道15分の奇跡』というタイトルで映画化され、沿線および各駅や当線を走行する車内などでロケーション撮影が行われた。 路線そのものが舞台になるわけではないが、かんべむさしの短編小説『決戦・日本シリーズ』ではプロ野球日本シリーズにおける(架空の)阪神対阪急戦を「今津線シリーズ」と呼び、作中でファンを過熱させている。 脚注および参考文献[ソースを編集] [ヘルプ] ^ 京都本線、千里線、嵐山線のキロポストは上り線の進行方向左側に設置されている。 ^ この6両編成の列車は西宮車庫を出庫後、送り込み列車として西宮北口発梅田行き急行として運用された後に、梅田発宝塚行き準急となっていた。 ^ 競馬開催日に阪神競馬場で配布されているJRAのレーシングプログラムによる ^ 550形は除く。 ^ 夕刊神戸昭和24年12月14日付 - 今津いまむかし物語2012/1/9阪急電車暴走事件(4) ^ 朝日新聞夕刊(1949年12月14日付) - 今津いまむかし物語2012/1/31阪急電車暴走事件(5)。記事には"阪急、阪神へ不意打乗入れ"とも書かれている。 ^ 今津線ダイヤ変更のお知らせ - 阪急公式サイト ^ 北口南まちづくりニュース vol.1 (PDF) - 西宮市 ^ 【兵庫】西宮市が阪急今津線単線高架化に着手 - 建通新聞 ^ 車両の入出庫に使用されている西宮北口駅8号線は高架化されておらず、球場前踏切はそのまま設置されている。また、2008年9月に廃止された球場前北小路踏切に代わり、西宮北口南踏切が新設されている。 ^ 阪急電鉄ニュースリリース (PDF) 2010年11月2日 ^ 当該方向幕の撮影映像 ^ 『鉄道ジャーナル』第30巻第4号、鉄道ジャーナル社、1996年4月、 99頁。 ^ a b c d 「阪神大震災から1年」、『鉄道ジャーナル』第30巻第4号、鉄道ジャーナル社、1996年4月、 86-88頁。 ^ 西宮北口駅8号線に5号線仮設ホームを設置するにあたり、8号線のカーブ部分にホームがかからないよう既設ホームよりも南側の位置に計画された事による。 ^ “阪急今津線仮ホームに切替!(平成21年1月17日)” (2009年4月13日). 2017年1月27日閲覧。 ^ a b 〜すべてのお客様に、よりわかりやすく〜「西山天王山」駅開業にあわせて、「三宮」「服部」「中山」「松尾」4駅の駅名を変更し、全駅で駅ナンバリングを導入します (PDF) - 阪急阪神ホールディングス、2013年4月30日 ^ a b 阪急京都線 大山崎駅〜長岡天神駅間で建設中の『西山天王山駅』を2013年12月21日に開業します! (PDF) - 阪急阪神ホールディングス、2013年6月5日。 今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』9 関西2、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790027-2。 関連項目[ソースを編集] 日本の鉄道路線一覧 阪神間モダニズム [表示] 表 話 編 歴 阪急電鉄の路線 カテゴリ: 近畿地方の鉄道路線阪急電鉄の鉄道路線兵庫県の交通 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧ソースを編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 English Esperanto Français Italiano 中文 リンクを編集 最終更新 2017年4月1日 (土) 17:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki --------------------------- 明治天皇 明治天皇 明治天皇 第122代天皇 在位期間 1867年1月30日 - 1912年7月30日 慶応2年12月25日 - 明治45年7月30日 即位礼 1868年10月12日(慶応4年8月27日)於京都御所 大嘗祭 1871年12月28日(明治4年11月17日) 元号 慶応 : 1867年 - 1868年 明治 : 1868年 - 1912年 追号 明治 摂政 二条斉敬 将軍 徳川慶喜 総裁 有栖川宮熾仁親王 輔相 岩倉具視・三条実美 左大臣 有栖川宮熾仁親王 右大臣 三条実美 太政大臣 三条実美 首相 一覧参照[表示] 先代 孝明天皇 次代 大正天皇 誕生 1852年11月3日(嘉永5年9月22日)13時頃 日本の旗 日本 山城国京都、中山忠能邸 崩御 1912年(明治45年)7月30日午前0時43分 日本の旗 日本 東京府東京市、明治宮殿 大喪儀 1912年(大正元年)9月13日 於帝国陸軍青山練兵場 陵所 伏見桃山陵 諱 睦仁 万延元年9月28日命名 別称 日本領台湾天皇(1895年 - 1912年) 称号 祐宮 印 永 元服 1868年2月8日(慶応4年1月15日) 父親 孝明天皇 母親 中山慶子 皇后 一条美子(いちじょう・はるこ)(昭憲皇太后) 1869年2月9日(明治元年12月28日)大婚 子女 一覧参照[表示] 皇居 京都御所 青山御所 東京城・皇城・宮城 栄典 大勲位 親署 明治天皇の親署 テンプレートを表示 明治元年(1868年)武州六郷船渡図月岡芳年画 束帯姿の明治天皇(明治5年(1872年)4月、内田九一撮影) 西洋式御服を着用した明治天皇(明治5年(1872年)) 1890年頃の明治天皇 明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝 (Meiji the Great) ・明治聖帝・睦仁大帝 (Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。 目次 [非表示] 1 略歴 1.1 生誕から即位まで 1.2 幕末の動乱 1.3 新時代・明治 1.4 征韓論を勅旨で収める 1.5 近代国家の確立 1.6 列強への道 1.7 崩御 1.7.1 世界における天皇崩御 2 人柄と影響 3 著名な御製 4 系譜 4.1 系図 4.2 皇子女 5 栄典 5.1 日本 5.2 外国 6 元号・追号 7 陵・霊廟 8 著書 9 明治天皇を主題とした作品 9.1 小説 9.2 映画 9.3 テレビドラマ 10 参考文献 11 脚注 11.1 注釈 11.2 出典 12 関連項目 13 外部リンク 略歴[編集] 生誕から即位まで[編集] 孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃に京都石薬師・中山邸にて出生。出生8日目(9月29日)に父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名。中山邸で暮らし安政3年(1856年9月29日)に宮中に転居。 予定より2年遅れて万延元年(1860年)閏3月16日に深曽木の儀を行う。7月10日、儲君と定められ、准后・九条夙子の実子とされる。9月28日、親王宣下を受け睦仁という諱名を賜る。 朝廷に嘆願書を提出するために元治元年(1864年)7月19日に発砲しつつ御所に近づいている長州藩兵を会津・桑名・薩摩連合軍が撃退(禁門の変)。その翌日の夜、宮中に不審者が三百人以上侵入するという騒ぎが起こり、パニックの中で睦仁親王が一時卒倒する。長州藩に内通したとの嫌疑で外祖父・中山忠能に蟄居処分が下る。 慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御。慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚の儀を行い皇位に即く。元服前の践祚であったので立太子礼を経ずに天皇になっている。父・孝明天皇と同じく中沼了三を信頼し初の侍講にする。 慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服。同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、京都御所にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣下する(詳細は明治天皇の即位の礼・大嘗祭を参照。大嘗祭は明治4年11月17日<1871年12月28日>に東京で挙行)。12月28日、一条美子を皇后に冊立する。 幕末の動乱[編集] 践祚から間もなくして、薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕論が形成され、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。薩長両藩に討幕の密勅が下されそうになっているのを察知した征夷大将軍・徳川慶喜が討幕の大義名分を消滅させるために慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を奏上し翌15日に明治天皇は奏上を勅許。大政奉還が成立して討幕の大義名分が消滅したので討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令を発し新政府樹立を宣言。12月11日に下坂した旧幕府勢力と慶応4年(1868年)正月に京都南郊で軍事衝突(鳥羽・伏見の戦い)。戦に勝利した新政府軍は徳川慶喜を「朝敵」とし、翌明治2年(1869年)にかけての内戦(戊辰戦争)において旧幕府勢力を鎮圧。 新時代・明治[編集] この間、慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用するとした)。 江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸を東京に、江戸城を東京城に改称(東京奠都)。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り崩御まで東京に居住。 明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。 他方、明治3年正月3日(1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布の詔)[1]を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の涵養に尽くした。 ※注:1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めた(明治5年太政官布告第337号)。 征韓論を勅旨で収める[編集] 明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨を出して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。 近代国家の確立[編集] 宇多天皇による寛平御遺誡以降、天皇が外国人に直に面会することはなかったが[注釈 1]、即位した後に明治天皇は外の要人に頻繁に会談している。まず明治2年(1869年)に英国女王ヴィクトリアの子・アルフレートが英国王族として初めて訪日し会談。明治12年(1879年)にユリシーズ・グラントがアメリカ大統領経験者として初めて訪日し会談。明治14年(1881年)にハワイ国王カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談する。 明治15年(1882年)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定する軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊を統率し軍備増強に努める。 明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、津々浦々に至る官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行った。 明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となった。翌明治23年(1890年)10月30日には教育ニ関スル勅語を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、天皇は宥和に努めた。共和演説事件では、文部大臣・尾崎行雄に辞表を提出させた。 列強への道[編集] 栃木県那須村演習統監時の写真(1909年〔明治42年〕11月、参謀本部陸地測量部写真班撮影) 日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用した。 明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。 崩御[編集] 明治天皇が崩御した公式の日時は、1912年(明治45年)7月30日午前0時43分であり。同月の30日に刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあり、『明治天皇記』でも、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。7月、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発し、宝算61歳(満59歳)で崩御。天皇は明治45年7月11日の東京大学卒業式に出席しているが、気分が悪かった。侍医では、対応できなくなって、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断した。28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まった。病や死などの「穢れ」を日常生活に持ち込まないという古い宮中の慣習により、また、天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典待)だけであり、仕事柄上、特別に侍医は入れるものの、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、天皇は自分の寝室である御内儀で休むことができなくなった。そして、明治天皇の居間であった常の御座所が臨時の病室となった[2]。看護婦も勲5等以上でなくてはいけないので、5位以上の女官が看護した[3]。宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と公表したが、当時宮内書記官であった栗原広太によると、実際の崩御日時は前日の7月29日22時43分である。これは登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないが、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせ、翌日午前0時43分と定めたという[4]。 天皇崩御に際してその側にいた皇族の梨本宮妃伊都子は、この間の様子を日記に克明に記している。伊都子の日記によれば、伊都子ら皇族は二十八日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機した。二十九日午後十時半頃、奥(後宮)より、「一同御そばに参れ」と召され伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていた。天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしたが、時計が10時半を打つ頃には、天皇の声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなった。2,3分すると、にわかに天皇が低い声で「オホンオホン」と呼び、皇后が「何にてあらせらるるやら。」と返事をしたが、そのまま音もなく眠るように亡くなった。この伊都子の記録からすると天皇の崩御時刻は10時半を数分過ぎた頃となる。そして、「表向き、十時四十三分の時、御危篤にあらせられるとの号外を出したり」という。実際の崩御時刻はこの危篤時刻より数分前と考えられる。これにより、二時間数分の差が生まれるのだが、その理由はいくつかあると考えられる。まず、万が一、天皇が蘇生した場合の用心のため、次に、皇太子践祚などの準備を整えて皇位継承に時間の空白を作らないため(天皇在位中に準備をするわけにはいかないため)、そして、一時間でも長く在位させることで天皇への敬意を表する、などが挙げられよう。明治天皇の場合は、二時間数分の差をつけることで、在位期間は一日増えたのだ。当然ながらも、寿命は一日長くなった[5]。同年(大正元年)9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われた。崩御からこの日までの約1ヶ月半もの間、宮中では様々な儀式が執り行われていた。澵大葬終了後、明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。なお、明治天皇大喪のためにしつらえた葬場殿の跡地には『聖徳記念絵画館』が建てられた。 世界における天皇崩御[編集] 明治天皇の崩御は世界各国で報道された。これは、維新によって世界に窓を開いた日本が、わずか四十五年の間に世界列強としての地位を確立し始めたことを意味する。天皇崩御の代表的論調は、望月小太郎が、明治天皇の一年祭に際して編纂刊行された『世界に於ける明治天皇』にまとめられた。各国別全二十八章二十余国からなり、そこには、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカはもとより、中国、インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国、在中国外国人の論調まで掲載されている。イギリスは「王朝の臣民として能く日本の君民関係は理解」、フランスは「血を以って革命を贖いたる国民なるを以って、神聖なる君主政体と立憲政体の一致とは不可能なる如し想像し、民主主義に重きを措くの先入観あり」、ドイツ、オーストリア、ハンガリーは「深奥なる哲理思想なる国民として多くは、大帝陛下の御治績を科学的分析的に研究」とした。ロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」、アメリカは「其建国の事情を異にし、自ら我が君臣の関係を知らず」さらに、フィリピンに対して、共和国でありながら明治天皇のために挽歌をつくり、「祖宗神霊の御加護を失ふ国民は滅亡すべしと謳える如きは最も味ふべき点」と述べ、また南米諸国も共和国であるが、「我が国体の崇高さ」や「先帝陛下の叡聖」などを「憧憬仰慕」として感心していると述べた。そして、トルコ、インド、ペルシャ、アフリカなどのいわゆる「有色人種」の間では、「明治大帝は亜細亜全州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛し、「侵略に対してきことして之を防遏」、「土民に事由制度を許した」と明治天皇を高く評価したことを特記した。日露戦争がその背景にはあったのだが、当時日本に併合されていた朝鮮などの論調は敢えて掲載されていない。またこれは、1926年(大正15年)12月の大正時代の終わりにあたっても再刊されており、明治という時代がいかに誇りであり、明治天皇の影響がいかに甚大であったかが分かる。 人柄と影響[編集] 最も有名な御真影。エドアルド・キヨッソーネによって描かれたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの(明治21年(1888年)1月) 明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、どんなに寒い日でも暖房は火鉢1つだけ、暑中も軍服(御服)を脱がずに執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。 赤坂の東宮御所(現在の迎賓館)の完成を報告しに来た片山東熊に「華美過ぎる」と言い、片山はそのショックで病気がちになったという。 皇女の東久邇聡子の証言では、「記憶力が抜群で、書類には必ず目を通したあと朱筆で疑問点を書きいれ、内容をすべて暗記して次の書類と違いがあると必ず注意し、よく前言との違いで叱責された伊藤博文はごまかしが効かないと困っていた」とある。 乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。 蹴鞠も好み、自身でも蹴鞠をし、教えもした。蹴鞠の作法を知る人が少なくなったのを憂い「蹴鞠を保存せよ」との勅命と下賜金でもって明治40年(1907年)5月7日に飛鳥井家の蹴鞠を伝える蹴球保存会を梅渓道善(うめたにみちとう)を初代会長に発足させた。 一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。 私生活では、日本酒を好み、夜は女官たちと楽しそうに宴会をすることが多かった。晩年は糖尿病を患い酒量は減退したが、健康のためにワインなどを飲んでいた。また当時の最新の技術であったレコードをよくかけ、唱歌や詩吟、琵琶歌などを好んでいた。機嫌のいい時は琵琶歌を歌っていたが、周囲の証言ではあまり上手ではなかったとある。 兵たちと苦楽を共にするという信念を持っていた。例えば日清戦争で広島大本営に移った際、暖炉も使わず殺風景な部屋で立って執務を続ける、といった具合であった。こうした態度は、晩年に自身の体調が悪化した後も崩れることがなかった。 若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。 元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。 教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。 こうした事態を憂慮した伊藤は、初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて、天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして、天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである[6]。 奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を自ら進んでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。 散髪脱刀令が出された後の明治6年(1873年)3月、明治天皇が西洋風に断髪したことで、国民も同様にする者が増えたという。 一方で和歌をよくし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示した。 無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14年(1881年)の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になる余り、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞である)。以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に携えていた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として、名刀の散逸が防がれることとなった反面、数多くの名刀を試し斬りにて損傷させている。 明治天皇が写真嫌いであったことは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネ(お雇い外国人の一人)による肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。しかしながら明治29年(1896年)に、当時の東京府南葛飾郡(現在の東京都墨田区)に存在した水戸徳川家の私邸を訪問した際に、邸内を散策する明治天皇が隠し撮りされた写真が平成29年(2017年)に発見された[7]。また最晩年の明治44年(1911年)、福岡県八女郡下広川村において陸軍軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、この写真が生前の明治天皇が最後に撮影された姿といわれている。 最晩年は体調も悪く歩行に困難をきたすようになった。天皇自身、身体の衰えに不安を持っていて、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いたり、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまい「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴るなど、これまでの壮健な天皇に見られなかったことが起こり、周囲を心配させた[8]。 大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻をはじめ、多くの人が殉死した。 貧困層に対する医療政策として明治44年(1911年)2月11日、『済生勅語』によって、皇室からの下付金150万円を済生会創設に下付された。 諸外国では切手や貨幣に国家元首の肖像が数多く用いられていることから、エドアルド・キヨッソーネが明治天皇の肖像図案を提案したが拒絶された。そのため明治天皇の肖像切手は一度も発行されていなかったが、セルビアで2007年に発行された「セルビア・日本相互関係125年」記念切手の図柄に、関係樹立当時のセルビア国王ミラン1世と、若き明治天皇の肖像が描かれている[9]。 著名な御製[編集] 明治天皇は和歌を好み、多くの御製(天皇の自作和歌)を遺している。その数は、 九万三千首余り[10] [11]といわれる。 よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける わが國は神のすゑなり神まつる昔の手ぶり忘るなよゆめ 目に見えぬ神にむかひてはぢざるは人の心のまことなりけり 系譜[編集] 父は孝明天皇、母は中山慶子。父・孝明天皇の女御・九条夙子(英照皇太后)を「実母」と公称した。その姪で、息子・大正天皇の后でもある九条節子(貞明皇后)は義理の従兄妹でもある。乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良くない」として1年余りで「木村らい」に変わり乳児期を過ごす。 [表示]明治天皇の系譜 系図[編集] 114 中御門天皇 閑院宮直仁親王 115 桜町天皇 典仁親王 (慶光天皇) 倫子女王 鷹司輔平 117 後桜町天皇 116 桃園天皇 美仁親王 119 光格天皇 118 後桃園天皇 120 仁孝天皇 桂宮淑子内親王 121 孝明天皇 和宮親子内親王 122 明治天皇 122 明治天皇 123 大正天皇 124 昭和天皇 秩父宮雍仁親王 高松宮宣仁親王 三笠宮崇仁親王 125 今上天皇 常陸宮正仁親王 寛仁親王 桂宮宜仁親王 高円宮憲仁親王 皇太子徳仁親王 秋篠宮文仁親王 悠仁親王 皇子女[編集] 男子5人、女子10人がいたが、成人した男子は大正天皇ただ一人である。また成人した皇子女も、房子内親王(北白川宮妃)と聡子内親王(東久邇妃)を除き、皆40~50代で亡くなっている。 皇后は一条美子(昭憲皇太后)だが、子女はいない。側室との間の子女は以下の通り。 権典侍:葉室光子(父:葉室長順) 第一皇子:稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこ、1873)死産 典侍:橋本夏子(父:橋本実麗、実父:東坊城夏長) 第一皇女:稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと、1873)死産 権典侍:柳原愛子(父:柳原光愛) 第二皇女:梅宮薫子内親王(うめのみや しげこ、1875-1876) 第二皇子:建宮敬仁親王(たけのみや ゆきひと、1877-1878) 第三皇子:明宮嘉仁親王(はるのみや よしひと、1879-1926)- 第123代・大正天皇 権典侍:千種任子(父:千種有任) 第三皇女:滋宮韶子内親王(しげのみや あきこ、1881-1883) 第四皇女:増宮章子内親王(ますのみや ふみこ、1883) 典侍:園祥子(父:園基祥) 第五皇女:久宮静子内親王(ひさのみや しずこ、1886-1887) 第四皇子:昭宮猷仁親王(あきのみや みちひと、1887-1888) 第六皇女:常宮昌子内親王(つねのみや まさこ、1888-1940)- 竹田宮恒久王妃 第七皇女:周宮房子内親王(かねのみや ふさこ、1890-1974)- 北白川宮成久王妃 第八皇女:富美宮允子内親王(ふみのみや のぶこ、1891-1933)- 朝香宮鳩彦王妃 第五皇子:満宮輝仁親王(みつのみや てるひと、1893-1894) 第九皇女:泰宮聡子内親王(やすのみや としこ、1896-1978) - 東久邇宮稔彦王妃 第十皇女:貞宮多喜子内親王(さだのみや たきこ、1897-1899) 葉室光子 (1853-1873) 稚瑞照彦尊(1873・長男・死産 ) 橋本夏子 (1856-1873) 稚高依姫尊:(1873・長女・死産 ) 柳原愛子 (1855-1943) 梅宮薫子内親王(1875-1876・次女・夭折 ) 建宮敬仁親王(1877-1878・次男・夭折 ) 明宮嘉仁親王 (1879-1926・三男・大正天皇) 明治天皇 滋宮韶子内親王(1881-1883・三女・夭折 ) 増宮章子内親王(1883・四女・夭折 ) 千種任子 久宮静子内親王(1886-1887・五女・夭折 ) 昭宮猷仁親王(1887-1888・四男・夭折 ) 常宮昌子内親王 (1888-1940・六女) 竹田宮恒久王[12] 周宮房子内親王 (1890-1974・七女) 北白川宮成久王[13] 富美宮允子内親王(1891-1933・八女) 朝香宮鳩彦王[14] 満宮輝仁親王(1893-1894・五男・夭折 ) 泰宮聡子内親王 (1896-1978・九女) 東久邇宮稔彦王[15] 貞宮多喜子内親王(1897-1899・十女・夭折) 園祥子 (1867-1947) 栄典[編集] 日本[編集] 大勲位菊花章頸飾及び大勲位菊花大綬章 勲一等旭日桐花大綬章 外国[編集] イギリスの旗 イギリス : ガーター騎士団員 スペインの旗 スペイン : 金羊毛騎士団員 スウェーデンの旗 スウェーデン : セラフィム勲章騎士 ギリシャ : 救い主勲章大十字章 イタリア王国の旗 イタリア王国 : 聖アヌンツィアータ騎士団員 ハワイ王国の旗 ハワイ王国 : カメハメハ勲章 プロイセンの旗 プロイセン : 黒鷲勲章 イタリア王国の旗 イタリア王国 : 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章大十字騎士章 イタリア王国の旗 イタリア王国 : イタリア王冠勲章大十字騎士章 タイ : 大チャクリー勲章 元号・追号[編集] 在位中の元号は、慶応と明治である。在位期間の元号から採って、明治天皇と追号された。明治天皇の代から、一人の天皇在位中に元号を変えず、またその元号を追号とする一世一元の制を採用したので、以後、諡(おくりな)を持つ天皇はいない(追号も諡号の一種とする説もあるが[要出典]、厳密には異なる)。 陵・霊廟[編集] 伏見桃山陵 陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区桃山町にある伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇である。 皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族と共にその御霊は祀られている。大正9年(1920年)に明治神宮に造営祀られた。その後、関東神宮(在関東州・廃社)、また朝鮮神宮(在ソウル・廃社)などの海外神社に多く祀られた。戦後、北海道神宮(在札幌)にも合祀された。 著書[編集] 「明治天皇・昭憲皇太后御全集」全157冊中110冊が明治天皇御製[10] 明治天皇を主題とした作品[編集] 小説[編集] 天皇の世紀(大佛次郎) 明治天皇(山岡荘八、講談社、のち同・山岡荘八歴史文庫 全6巻) 明治天皇(杉森久英、中央公論社、のち学陽書房人物文庫 全2巻) 映画[編集] 明治天皇と日露大戦争(新東宝、1957年、演:嵐寛寿郎) 天皇・皇后と日清戦争(新東宝、1958年、演:嵐寛寿郎) 明治大帝と乃木将軍(新東宝、1959年、演:嵐寛寿郎) 明治大帝御一代記(大蔵映画、1964年、演:嵐寛寿郎)、※上記の再編集版 二百三高地(東映、1980年、演:三船敏郎) 明治天皇宇宙の旅(神戸大学特殊撮影研究同好会、1988年) ラストサムライ(ワーナー・ブラザース、2003年、演:中村七之助) テレビドラマ[編集] 明治天皇 第一部(よみうりテレビ、1966年、演:市村羽左衛門) 明治天皇 第二部(よみうりテレビ、1967年、演:片岡仁左衛門) 二百三高地 愛は死にますか(TBS、1981年、演:松本幸四郎) 翔ぶが如く(NHK大河ドラマ、1990年、演:岡部浩之) 徳川慶喜(NHK大河ドラマ、1998年、演:安藤一平) 走向共和(CCTV(中国)、2003年、演:矢野浩二) 新選組!(NHK大河ドラマ、2004年、演:中川景四) 坂の上の雲(NHKスペシャル大河ドラマ、2009年、演:尾上菊之助) 参考文献[編集] 宮内省臨時帝室編修局 編修『明治天皇紀』(全13冊、吉川弘文館、1968年~1977年) 第1冊 嘉永5年から明治元年まで ISBN 4642035214 第2冊 明治2年から明治5年まで ISBN 4642035222 第3冊 明治6年から明治9年まで ISBN 4642035230 第4冊 明治10年から明治12年まで ISBN 4642035249 第5冊 明治13年から明治15年まで ISBN 4642035257 第6冊 明治16年から明治20年まで ISBN 4642035265 第7冊 明治21年から明治24年まで ISBN 4642035273 第8冊 明治25年から明治28年まで ISBN 4642035281 第9冊 明治29年から明治33年まで ISBN 464203529X 第10冊 明治34年から明治37年まで ISBN 4642035303 第11冊 明治38年から明治40年まで ISBN 4642035311 第12冊 明治41年から明治45年まで ISBN 464203532X 索引 ISBN 4642035338 『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』(全9冊組、ゆまに書房、2003年) ISBN 484330901X ドナルド・キーン『明治天皇』(角地幸男訳、新潮社 上下、2001年/新潮文庫 全4冊、2007年) 上. ISBN 4103317043、下. ISBN 4103317051 飛鳥井雅道『明治大帝』(講談社学術文庫、2002年) ISBN 4061595709 笠原英彦『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』(中公新書、2006年) ISBN 4121018494 伊藤之雄『明治天皇 むら雲を吹く秋風にはれそめて』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2006年) ISBN 4623047199 米窪明美[注釈 2]『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』(新潮新書、2006年) ISBN 410610170X 中山和芳 『ミカドの外交儀礼 明治天皇の時代』(朝日選書、2007年) ジョン・ブリーン 『儀礼と権力 天皇の明治維新』(平凡社選書、2011年) 松本健一 『明治天皇という人』(毎日新聞社、2010年)ISBN 4620322172 坂本一登 『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入』(吉川弘文館、1991年) ISBN 464203630X 『類纂新輯明治天皇御集』 明治神宮、1990年。 脚注[編集] 注釈[編集] [ヘルプ] ^ 宇多はかつて唐人に面会したことを悔いていて醍醐天皇に「外国人に『直(ぢき)に対(むか)ふべかあらざらくのみ』」(面会する場合は御簾ごしに会うべき)」と述べている。後白河法皇は譲位後に宋人に御簾無しで面会したが九条兼実は「天魔の所為」と述べている(高橋昌明「平清盛の対中国外交と大輪田泊」) ^ 著者は、『ドラマ 坂の上の雲』で宮中の時代考証を担当している。続編に『明治宮殿のさんざめき』(文藝春秋、2011年/文春文庫、2013年)がある。 出典[編集] [ヘルプ] ^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ ^ 米窪明美『明治宮殿のさんざめき』216項(文藝春秋、2011年) ^ 林栄子『近代医学の先駆者 三浦謹之助 明治天皇・大正天皇のお医者さん』166-176頁、(叢文社、2011年) ^ 栗原広太『人間明治天皇』1953年、p102-103。 ^ 小田部雄次 『天皇・皇室を知る辞典』183-184項(東京堂出版・2007年) ^ 坂本一登『伊藤博文と明治国家形成-「宮中」の制度化と立憲制の導入-』(吉川弘文館、1991年) ISBN 464203630X ^ “隠し撮り?44歳の明治天皇を撮影した貴重な一枚”. 産経ニュース. 産業経済新聞社. (2017年1月21日) 2017年1月21日閲覧。 ^ 保坂正康『崩御と即位』(新潮文庫、2011年) ^ 両者の肖像が描かれた記念切手 ^ a b 『類纂新輯明治天皇御集』 明治神宮、1990年。九万三千三十二首と記載している。うち八千九百三十六首謹撰. ^ 宮内庁、明治神宮とも九万三千首余りと記しているのは、異動があった際に記述を変更しないようにとの配慮か。 ^ 北白川宮能久親王の第1王子 ^ 北白川宮能久親王の第3王子 ^ 久邇宮朝彦親王の第8王子 ^ 久邇宮朝彦親王の第9王子 関連項目[編集] ウィキソースに明治天皇崩御の告示の原文があります。 ウィキクォートに明治天皇に関する引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、明治天皇に関連するメディアおよびカテゴリがあります。 明治神宮 - 教育ニ関スル勅語 文化の日 - 祝祭日、旧称は明治節 海の日 - 明治天皇ゆかりの祝祭日の一つ 天皇機関説 外部リンク[編集] 国柄探訪:変革の指導者・明治天皇 [表示] 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 典拠管理 WorldCat VIAF: 39644303 LCCN: n81096007 ISNI: 0000 0001 2129 1933 GND: 118996584 SUDOC: 080488250 BnF: cb148392651 (data) NLA: 47753408 NDL: 00043014 NKC: js20060714008 カテゴリ: 明治天皇日本の天皇日本の幼帝日本の作詞家幕末の人物明治時代明治時代の人物大勲位菊花章頸飾受章者大勲位菊花大綬章受章者勲一等旭日桐花大綬章受章者ガーター勲章聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者金羊毛騎士団員イタリア王冠勲章受章者大チャクリー勲章受章者山城国の人物1852年生1912年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ウィキクォート ウィキソース ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 العربية English Español हिन्दी Bahasa Indonesia 한국어 Русский اردو 中文 他 56 リンクを編集 最終更新 2017年6月22日 (木) 00:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki