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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --------- ニギリ ニギリは、囲碁用語の一つ。また、株取引における違法行為のひとつを指す隠語でもある。 概要[編集] 囲碁におけるニギリは、互先対局を行う場合に、先手と後手をランダムに決定するために行う行為。また、囲碁と同じ道具を使う連珠でも、仮先、仮後を決めるのに行うこともある。 まず対局者の一方(年長者が握るのが正式)が白石を数個握り、もう一方が黒石を1個(奇数の意)ないし2個(偶数の意)盤に置く。白石を開いて奇数か偶数かを調べ、当たった場合は黒石を置いた方すなわち当てた方がそのまま先手(黒番)となり、外れた場合は白黒を交換して後手(白番)になる。 株におけるニギリ[編集] 証券会社が大口顧客に対して年利益を保証する契約を結ぶ違法行為のこと。 関連項目[編集] 互先 振り駒(将棋の先後決定方法) --------- 日本棋院 囲碁 Go board part.jpg ゲームの詳細 囲碁のルール 囲碁のハンデキャップ (互先 - 定先 - 置き碁) 囲碁の格言 囲碁用語 歴史と文化 囲碁の歴史 碁盤 - 碁石 囲碁の記録一覧 囲碁のタイトル在位者一覧 棋道賞 組織と棋士 国際囲碁連盟 日本棋院 関西棋院 中国棋院 韓国棋院 台湾棋院 全日本学生囲碁連盟 棋戦 棋士 日本の囲碁棋士一覧 コンピュータ コンピュータ囲碁 幽玄の間 AlphaGo対李世乭 表 話 編 歴 日本棋院 The Nihon Ki-in 日本棋院会館 日本棋院会館 団体種類 公益財団法人 設立 1924年7月17日 所在地 東京都千代田区五番町7番地2 北緯35度41分25.68秒東経139度44分11.44秒座標: 北緯35度41分25.68秒 東経139度44分11.44秒 法人番号 9010005016726 主要人物 理事長 團 宏明 活動地域 日本の旗 日本 主眼 棋道の継承発展及び内外への普及振興を図るとともに、棋士の健全な育成を行い、囲碁を通して文化の向上に資すること 活動内容 国内海外への囲碁の普及および国際交流の推進 棋士の育成と棋道研鑽 他 ウェブサイト http://www.nihonkiin.or.jp/ テンプレートを表示 公益財団法人日本棋院(にほんきいん、英: The Nihon Ki-in)は、東京都千代田区五番町(市ヶ谷駅前)に本部をおく、囲碁の棋士を統括し、棋戦をおこなっていくための公益財団法人。 約300人の棋士が所属するほか、職員として事務員や棋院発行の出版物をまとめる記者などが所属している。 目次 [非表示] 1 歴史 2 発行誌 3 組織 3.1 東京本院 3.2 関西総本部 3.3 中部総本部 3.4 日本国外 4 役員 5 顕彰 6 関連項目 7 外部リンク 歴史[編集] 明治維新以降、幕府というパトロンを失った棋士たちは離合集散を繰り返し、囲碁界は混沌とした情勢であった。1872年(明治5年)に村瀬秀甫により設立された史上初の近代的なプロ棋士の団体である方円社と、封建的な風習を墨守する家元の本因坊家とが、対立、並存する時代が長年続いていた。1923年(大正12年)の大正関東地震(関東大震災)を機に棋士たちの大同団結の機運が高まり、翌1924年(大正13年)、大倉喜七郎を後援者として、本因坊秀哉以下の坊門の棋士や方円社などほとんどの棋士が集結し、日本棋院が設立された。 設立直後に棋正社の独立などもあり多少動揺した日本棋院であったが、その後新布石法の発表などで囲碁の人気も高まり、磐石の体制を築く。 第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)の東京大空襲で赤坂区(現港区)赤坂溜池にあった棋院本部が焼失するなど大きな被害を受けた。戦後すぐに瀬越憲作、岩本薫らが中心になって再建を目指し、大手合も料亭や後援者の邸宅などを借りて再開された。1948年(昭和23年)には港区高輪に新しい棋院会館が設立され、順調に日本棋院の再建は成されていった。 1947年(昭和22年)には坂田栄男、梶原武雄ら8棋士が「囲碁新社」を旗揚げするが、1949年(昭和24年)復帰する。 さらに1950年(昭和25年)、今度は当時本因坊の座にあった橋本宇太郎を旗頭に関西棋院が設立された。橋本は翌年の本因坊戦で坂田の挑戦を1-3からの大逆転で降してタイトルを防衛、関西棋院の独立を守った。その後いく度か再統合の話も出ているが、段位の調整や(主に日本棋院側の)財政問題などがネックとなり実現していない。この日本国内の棋院の分裂構造は日本将棋連盟が関東・関西・中部と一枚岩なのと比べきわめて対照的である。 1971年(昭和46年)には千代田区五番町の市ヶ谷駅前に現在も使用されている新会館が建設された。その後紆余曲折はあったものの、現在でも、世界囲碁界の中でも重要な地位を占める。ただし1990年代以降赤字財政が続いている他、囲碁人口の減少(2007年(平成19年)の囲碁愛好者は約240万人。『レジャー白書』による)、国際棋戦における日本棋士の不振など、問題山積が現状である。 2011年(平成23年)に公益財団法人へ移行した。 発行誌[編集] 機関誌として月刊「碁ワールド」、また年刊「囲碁年鑑」がある。入門者向け雑誌として「囲碁未来」、週刊誌として「週刊碁」がある。 棋道 日本棋院の創立とともに、日本棋院の機関誌として、1924年(大正13年)10月に創刊。棋戦などの手合の情報の掲載の他、独自の企画なども行い、情報誌としての機能に加え、メディアを通じての囲碁普及の役割も担った。1999年(平成11年)7月号で終刊し、「囲碁クラブ」と合併して「碁ワールド」となる。 詳細は「棋道」を参照 囲碁クラブ 「棋道」の姉妹誌として「爛柯」が1925年(大正14年)に創刊され、その後「囲碁クラブ」に改名。戦時中に休刊し、1954年(昭和29年)に復刊。「碁ワールド」発刊により終刊。 独自棋戦の主催も行い、1988年(昭和63年)から1996年(平成8年)までの、プロとアマチュア混合の地域対抗団体戦「キリン杯GO団体戦」などがある。 碁ワールド 「棋道」「囲碁クラブ」を引き継ぐ機関誌として、1999年(平成11年)8月から発刊。 囲碁未来 初級者向けの月刊誌。1962年(昭和37年)に「碁」として創刊。1967年(昭和42年)終刊、1973年(昭和48年)に復刊し、1980年(昭和55年)に「レッツ碁」に改名、1995年(平成7年)に「囲碁未来」に改名した。 週刊碁 週刊の情報新聞として、1977年(昭和52年)から発行。朝日新聞社が販売協力する。 組織[編集] 東京本院[編集] 発足当初は銀座に仮事務所を置き、1925年12月に永田町の溜池に会館を建設。1945年5月の空襲で溜池は消失し、終戦後は柿の木坂の岩本薫宅を仮事務所とし、1948年に高輪のビルを購入して会館とした。1954年に東京駅八重洲口の国際観光会館ビルに日本棋院中央会館を開館(1991年に八重洲囲碁センターに改称移転、2013年に有楽町に移転し有楽町囲碁センターとなっている)。1971年に千代田区の市ヶ谷駅前に本院を移転した。 関西総本部[編集] 大阪市にあり、近畿地区、広島、岡山両県を統轄する。1950年(昭和25年)に関西棋院が独立した際に、日本棋院残留派によって同年発足した。2008年(平成20年)2月現在、山田規三生・井山裕太など棋士39名が所属する。 中部総本部[編集] 名古屋市にあり、中部地区と三重県を統轄する。1940年(昭和15年)設立の日本棋院東海支部から、1948年(昭和23年)に日本棋院東海本部に昇格、1955年(昭和30年)に日本棋院中部総本部となる。2008年(平成20年)2月現在、羽根直樹・羽根泰正など棋士43名が所属する。独自のタイトル戦として王冠戦がある。 日本国外[編集] 日本棋院南米本部(Nihon KI-IN do Brasil) 日本棋院ヨーロッパ囲碁文化センター(Stichting The Nihon KI-IN European GO Cultural Centre) 日本棋院アメリカ西部囲碁センター(Nihon KI-IN GO Institute Of The West U.S.A) 日本棋院ニューヨーク碁センター(New York GO Center) 役員[編集] 役員 (2016年現在) 総裁:今井敬(経団連名誉会長) 顧問:大竹英雄(九段) 理事長:團宏明(公益財団法人通信文化協会理事長) 副理事長:山城宏(九段) 常務理事:大淵盛人(九段)、円田秀樹(九段)、小林千寿(五段)、宮川史彦(七段)、平野則一(五段)、原幸子(四段)、重野由紀(二段) 理事:阿久根操、岩崎和人、小川誠子(六段)、齋藤喜以子、角和夫、堀義人、松浦晃一郎 監事:久保秀夫(六段)、満田庸一(公認会計士) 歴代総裁 在職期間 氏名 1 1924 - 1946年 牧野伸顕(外務大臣、内大臣) 2 1955 - 1967年 津島寿一(大蔵大臣、防衛庁長官) 3 1967 - 1973年 足立正(王子製紙社長、ラジオ東京(現:TBS)社長  4 1973 - 1974年 佐藤喜一郎(三井銀行会長) 5 1974 - 1982年 田実渉(三菱銀行会長) 6 1982 - 1987年 稲山嘉寛(旧経団連会長、新日本製鐵社長) 7 1993 - 1996年11月 朝田静夫(元日本航空相談役) 8 2004年7月 - 現職 今井敬(旧経団連会長、新日本製鐵相談役名誉会長) 歴代理事長 在職期間 氏名 1 1946 - 1948年 瀬越憲作 2 1948 - 1949年 岩本薫 3 1949 - 1951年 津島寿一 4 1951 - 1955年 足立正 5 1955 - 1956年 三好英之(北海道開発庁長官) 6 1956 - 1975年 有光次郎(文部事務次官) 7 1975 - 1978年 長谷川章 8 1978 - 1986年 坂田栄男 9 1986 - 1987年 色部義明(協和銀行相談役) 10 1988 - 1993年 朝田静夫 11 1993 - 1998年 渡辺文夫(日本航空会長) 12 1999 - 2004年 利光松男(日本航空社長) 13 2004年 加藤正夫 14 2006 - 2008年 岡部弘(デンソー会長) 15 2008 - 2012年 大竹英雄 16 2012 - 2016年 和田紀夫(NTT相談役) 17 2016 - 現職 團宏明(公益財団法人通信文化協会理事長) 顕彰[編集] 秀哉賞 年間最優秀棋士に贈られる賞。本因坊秀哉の名を取って、1963年(昭和38年)に創設。識者と関係者による秀哉賞選考委員によって選考される。 大倉喜七郎賞 囲碁の普及、発展の功労者に贈られる賞。日本棋院創設に功績のあった大倉喜七郎の名を取って、1964年(昭和39年)に創設。当初の名称は大倉賞だったが、1989年(平成元年)に現在の名称に改称。 棋道賞 「棋道賞」も参照 年間で活躍した棋士に贈られる賞。1967年(昭和42年)に、日本棋院の機関誌「棋道」主催で、関係者と棋戦主催者の代表により誌上で選考する形で創設し、最優秀棋士賞、記録部門賞、その他の部門賞を選ぶ。1999年(平成11年)の第33回からは、「碁ワールド」誌主催となった。 部門賞は年によって変更されることがある。1988年(昭和63年)からは国際賞を設置。当初あった敢闘賞、技能賞、殊勲賞は、1990年(平成2年)以降は廃止されて優秀棋士賞が作られた。特別賞など、その年限りの賞を贈られることもある。記録部門賞も、当初は七段以上の棋士を対象にしていたが、棋戦の構成上その規定に合理性がないため1995年(平成7年)からは五段以上に改められた。 松原賞 関西総本部主催。 土川賞 中部総本部主催。 関連項目[編集] 全日本囲碁連合 関西棋院 国際囲碁連盟 中国棋院 韓国棋院 台湾棋院 方円社 精鋭リーグ戦 週刊碁 幽玄の間 外部リンク[編集] 公益財団法人 日本棋院 公式サイト 日本棋院関西総本部 日本棋院中部総本部 --------- 日本アジア航空杯争奪トーナメント 日本アジア航空杯争奪トーナメント(にほんアジアこうくうはいトーナメント)は、日本の囲碁の棋戦。1978年に開始、「全国縦断囲碁フェスティバル」と銘打って各地での公開対局で行われ、1981年3期まで行われた。対局の様子は各地のテレビ局で録画放送された。 開催地は、新潟、大分、札幌、長崎、福島、秋田、金沢、仙台、岡山、広島、京都、東京。 方式[編集] 出場棋士は、前年度の賞金獲得ランキングの上位13名。トーナメント戦で実施。 コミは5目半。 持時間は各10分、使い切ると30秒の秒読み。 歴代優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1979年 坂田栄男 - 藤沢秀行 1980年 坂田栄男 - 石田芳夫 1981年 大竹英雄 - 坂田栄男 参考文献[編集] 『棋道4月臨時増刊号 囲碁年鑑』日本棋院 --------- 日本アマ囲碁最強戦 Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年12月) 日本アマ囲碁最強戦(にほんあまいごさいきょうせん)は、の囲碁のアマチュア日本一を決める大会。1982年に報知杯関西最強戦として発足し、1989年に報知アマ囲碁最強戦に発展、1992年から報知新聞社創刊120周年を記念して日本アマ囲碁最強戦と改称。2003年まで開催されて休止。アマチュアの大会ながら賞金付きであることと、前年の優勝者への挑戦制であることが特長。 主催 報知新聞社 優勝賞金は100万円。 方式[編集] 出場者は、各地区または都道府県予選を勝抜いた代表選手と、前年ベスト16、過去のアマ棋戦の成績の点数化による招待選手、その他学生、女流などの推薦選手。 トーナメント戦の優勝者が、前年の最強位と挑戦手合三番勝負を行う。第1期はリーグ戦で最強位を決定。 コミは、自由設定選択制で、ニギリで当てた方がコミを設定し、それに基づきもう一方が先後の選択を行う。(コミ設定権は移譲出来る) 優勝者と挑戦手合[編集] 報知杯関西最強戦 1982年 金沢盛栄(リーグ戦13勝0敗で優勝) 1983年 金沢盛栄 2-1 島田義邦 1984年 金沢東栄 2-1 金沢盛栄 1985年 金沢東栄 2-0 松本渉 1986年 1987年 金沢盛栄 2-0 織田勉 1988年 金沢盛栄 2-1 田口哲郎 報知アマ囲碁最強戦 1989年 金沢盛栄 2-0 坂井秀至 1990年 金沢盛栄 2-1 菊池康郎 1991年 金沢盛栄 2-1 小森祥嗣 日本アマ囲碁最強戦 1992年 今村文明 2-0 金沢盛栄 1993年 今村文明 2-1 高野英樹 1994年 今村文明 2-0 平田博則 1995年 今村文明 2-0 坂井秀至 1996年 坂井秀至 2-0 今村文明 1997年 坂井秀至 2-0 金沢盛栄 1998年 坂井秀至 2-0 和田幸樹 1999年 坂井秀至 2-1 中園清三 2000年 坂井秀至 2-1 金沢東栄 2001年 坂井秀至 2-0 楊橋 2002年 久代俊明 - 浅井英樹(坂井プロ転向によるトーナメント決勝) 2003年 久代俊明 2-0 中園清三 カテゴリ: 日本の囲碁の棋戦報知新聞社 --------- 日本アマ囲碁最強戦 Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年12月) 日本アマ囲碁最強戦(にほんあまいごさいきょうせん)は、の囲碁のアマチュア日本一を決める大会。1982年に報知杯関西最強戦として発足し、1989年に報知アマ囲碁最強戦に発展、1992年から報知新聞社創刊120周年を記念して日本アマ囲碁最強戦と改称。2003年まで開催されて休止。アマチュアの大会ながら賞金付きであることと、前年の優勝者への挑戦制であることが特長。 主催 報知新聞社 優勝賞金は100万円。 方式[編集] 出場者は、各地区または都道府県予選を勝抜いた代表選手と、前年ベスト16、過去のアマ棋戦の成績の点数化による招待選手、その他学生、女流などの推薦選手。 トーナメント戦の優勝者が、前年の最強位と挑戦手合三番勝負を行う。第1期はリーグ戦で最強位を決定。 コミは、自由設定選択制で、ニギリで当てた方がコミを設定し、それに基づきもう一方が先後の選択を行う。(コミ設定権は移譲出来る) 優勝者と挑戦手合[編集] 報知杯関西最強戦 1982年 金沢盛栄(リーグ戦13勝0敗で優勝) 1983年 金沢盛栄 2-1 島田義邦 1984年 金沢東栄 2-1 金沢盛栄 1985年 金沢東栄 2-0 松本渉 1986年 1987年 金沢盛栄 2-0 織田勉 1988年 金沢盛栄 2-1 田口哲郎 報知アマ囲碁最強戦 1989年 金沢盛栄 2-0 坂井秀至 1990年 金沢盛栄 2-1 菊池康郎 1991年 金沢盛栄 2-1 小森祥嗣 日本アマ囲碁最強戦 1992年 今村文明 2-0 金沢盛栄 1993年 今村文明 2-1 高野英樹 1994年 今村文明 2-0 平田博則 1995年 今村文明 2-0 坂井秀至 1996年 坂井秀至 2-0 今村文明 1997年 坂井秀至 2-0 金沢盛栄 1998年 坂井秀至 2-0 和田幸樹 1999年 坂井秀至 2-1 中園清三 2000年 坂井秀至 2-1 金沢東栄 2001年 坂井秀至 2-0 楊橋 2002年 久代俊明 - 浅井英樹(坂井プロ転向によるトーナメント決勝) 2003年 久代俊明 2-0 中園清三 カテゴリ: 日本の囲碁の棋戦報知新聞社 --------- 日本棋院第一位決定戦 日本棋院第一位決定戦(にほんきいんだいいちいけっていせん)は、日本の囲碁の棋戦。前身の日本棋院最高段者トーナメント戦から発展解消して1959年に開始。1年半で1期、1968年まで7期行われ、全日本第一位決定戦に発展解消する(後に碁聖戦)。 主催 新聞囲碁連盟(北海時報、河北新聞、北陸新聞、富山新聞、京都新聞、中国新聞、高知新聞、新愛媛新聞、熊本日日新聞、南日本新聞) 最終第7期第一位の大竹英雄は、全日本第一位決定戦の第1期にトーナメント優勝者の挑戦を受けた。 目次 [非表示] 1 方式 2 歴代優勝者と決勝戦 3 記録 4 日本棋院最高段者トーナメント戦 4.1 歴代優勝者と決勝戦 5 外部リンク 方式[編集] 参加棋士は日本棋院所属の五段以上。 第1-2期はトーナメント方式で決勝三番勝負。 第3-7期は、前期優勝者がトーナメント優勝者と挑戦手合三番勝負を行う。 コミは4目半。持時間は5時間。 歴代優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1959年 藤沢秀行 2-0 宮下秀洋 1961年 坂田栄男 2-1 高川秀格 1963年 坂田栄男 2-0 高川秀格 1964年 坂田栄男 2-0 大平修三 1965年 坂田栄男 2-1 大平修三 1967年 大竹英雄 2-1 坂田栄男 1968年 大竹英雄 2-1 大平修三 記録[編集] 最多優勝 4期 坂田栄男 最多連覇 4期 坂田栄男 日本棋院最高段者トーナメント戦[編集] 1951年から58年まで4期行われた。 主催 新聞囲碁連盟 決勝は、第1期は三番勝負、第2期以降は一番勝負 コミは4目半 歴代優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1951年 坂田栄男 2-0 細川千仭 1952年 島村俊宏 - 村島誼紀 1955年 宮下秀洋 - 島村俊宏 1958年 島村俊宏 - 前田陳爾 外部リンク[編集] --------- 日本棋院選手権戦 日本棋院選手権戦(にほんきいんせんしゅけんせん)は、日本の囲碁の棋戦。1953年に開始、1975年まで22期行われ、天元戦に発展解消する。 中部日本新聞では、1949年から藤沢朋斎・木谷實・岩本薫の三者リーグ戦を実施、続いて高段者勝抜戦、坂田栄男らによる五番碁シリーズと中堅棋士選抜棋戦を実施。1953年から本棋戦を開始、その後北海道新聞、西日本新聞との三社共催となった。 主催 (1期) 中部日本新聞、(2期-)新聞三社連合 7連覇の記録を持つ坂田栄男が「名誉日本棋院選手権者」の称号を持つ。 目次 [非表示] 1 方式 2 名誉称号 3 歴代優勝者と決勝戦 4 記録 5 参考文献 6 外部リンク 方式[編集] 第1期はトーナメント方式で決勝一番勝負。第2-8期は挑戦手合三番勝負、9期以降は挑戦手合五番勝負。 コミは4目半。 名誉称号[編集] 棋士 期 連覇 年 坂田栄男 12期 7連覇 1955-61、64-65、73-75 歴代優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1954年 高川格 - 篠原正美 1955年 坂田栄男 2-0 高川格 1956年 坂田栄男 2-1 杉内雅男 1957年 坂田栄男 2-1 杉内雅男 1958年 坂田栄男 2-0 木谷實 1959年 坂田栄男 2-0 高川格 1960年 坂田栄男 2-0 高川格 1961年 坂田栄男 2-1 藤沢秀行 1962年 高川格 3-0 坂田栄男 1963年 高川格 3-1 山部俊郎 1964年 坂田栄男 3-0 高川格 1965年 坂田栄男 3-1 宮下秀洋 1966年 大平修三 3-1 坂田栄男 1967年 大平修三 3-2 林海峰 1968年 大平修三 3-1 山部俊郎 1969年 大平修三 3-0 宮下秀洋 1970年 石田芳夫 3-1 大平修三 1971年 石田芳夫 3-0 武宮正樹 1972年 大平修三 3-1 石田芳夫 1973年 坂田栄男 3-1 大平修三 1974年 坂田栄男 3-2 加藤正夫 1975年 坂田栄男 3-2 趙治勲 記録[編集] 最多優勝 12回 坂田栄男 最多連覇 7期 坂田栄男 参考文献[編集] 坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年 --------- 日本棋院第一位決定戦 日本棋院第一位決定戦(にほんきいんだいいちいけっていせん)は、日本の囲碁の棋戦。前身の日本棋院最高段者トーナメント戦から発展解消して1959年に開始。1年半で1期、1968年まで7期行われ、全日本第一位決定戦に発展解消する(後に碁聖戦)。 主催 新聞囲碁連盟(北海時報、河北新聞、北陸新聞、富山新聞、京都新聞、中国新聞、高知新聞、新愛媛新聞、熊本日日新聞、南日本新聞) 最終第7期第一位の大竹英雄は、全日本第一位決定戦の第1期にトーナメント優勝者の挑戦を受けた。 目次 [非表示] 1 方式 2 歴代優勝者と決勝戦 3 記録 4 日本棋院最高段者トーナメント戦 4.1 歴代優勝者と決勝戦 5 外部リンク 方式[編集] 参加棋士は日本棋院所属の五段以上。 第1-2期はトーナメント方式で決勝三番勝負。 第3-7期は、前期優勝者がトーナメント優勝者と挑戦手合三番勝負を行う。 コミは4目半。持時間は5時間。 歴代優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1959年 藤沢秀行 2-0 宮下秀洋 1961年 坂田栄男 2-1 高川秀格 1963年 坂田栄男 2-0 高川秀格 1964年 坂田栄男 2-0 大平修三 1965年 坂田栄男 2-1 大平修三 1967年 大竹英雄 2-1 坂田栄男 1968年 大竹英雄 2-1 大平修三 記録[編集] 最多優勝 4期 坂田栄男 最多連覇 4期 坂田栄男 日本棋院最高段者トーナメント戦[編集] 1951年から58年まで4期行われた。 主催 新聞囲碁連盟 決勝は、第1期は三番勝負、第2期以降は一番勝負 コミは4目半 歴代優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1951年 坂田栄男 2-0 細川千仭 1952年 島村俊宏 - 村島誼紀 1955年 宮下秀洋 - 島村俊宏 1958年 島村俊宏 - 前田陳爾 外部リンク[編集] 囲碁データベース「日本棋院第一位決定戦」 --------- 全日本第一位決定戦 全日本第一位決定戦(ぜんにほんだいいちいけっていせん)は、日本の囲碁の棋戦。前身の日本棋院第一位決定戦から発展して、出場者にそれまでの日本棋院棋士に関西棋院も加えて[1]、1970年に開始。1975年まで5期行われ、碁聖戦に発展解消する。 主催 新聞囲碁連盟 全5期にわたって大竹英雄がタイトルを保持した。第5期優勝者大竹英雄は、碁聖戦第1期で挑戦者と五番勝負。 方式[編集] 挑戦手合いは三番勝負。第1期は日本棋院第一位の大竹英雄に挑戦。 コミは4目半 歴代優勝者と挑戦手合[編集] (左が優勝者) 1970年 大竹英雄 2-1 藤沢秀行 1971年 大竹英雄 2-0 加藤正夫 1973年 大竹英雄 2-0 梶原武雄 1974年 大竹英雄 2-0 藤沢秀行 1975年 大竹英雄 2-1 工藤紀夫 脚注[編集] ^ ただし、関西棋院第一位決定戦は継続して開催された。 --------- 日本最強決定戦 日本最強決定戦(にほんさいきょうけっていせん)は、囲碁の棋戦で、1957年から1961年にかけて3期行われた。6人の棋士によるリーグ戦であり「六強戦」とも呼ばれた。後に「名人戦」に発展する。 主催 読売新聞 目次 [非表示] 1 発足の経緯 2 経過 3 名人戦へ移行 4 歴代優勝者 5 リーグ戦績 6 参考文献 発足の経緯[編集] 1952年に棋戦の主催に関して朝日、読売、毎日の新聞三社による協定が結ばれ、読売新聞は従来通り嘱託である呉清源による棋戦を主催するとともに、当時世間から期待のあった「名人戦」の呼称は各社とも使わないこととなっていた。しかし呉清源は十番碁において1956年までに坂田栄男、高川格らも打ち込んで、めぼしい次の相手に困る状態になってしまった。そこで、呉及び橋本宇太郎、藤沢朋斎、木谷實、坂田の全九段、本因坊位にある高川の6人による六強戦を企画する。これは毎日の本因坊戦、朝日の最高位戦と異なって呉清源が参加することにより事実上の名人戦とも見られ、 読売も新棋戦発足を伝える1956年12月の社告にて「実力名人を決める」との見出しを付けていた。 参加棋士は、リーグ6名のうち最下位の者が予選通過者と入れ替わることとし、予選には日本棋院、関西棋院、瓊韻社(渡邊昇吉八段のみ)が参加した。リーグ戦は、コミ無しで黒白2局ずつを打つ総当りリーグ戦で行われた。また呉はこの時まで既に、他の5人を先相先以下に打ち込んでいたが、本棋戦では再度互先で打つことになった。 経過[編集] 第1期リーグ戦では、健康を回復した木谷の、14年振りとなる呉との対決などもあって大いに人気を博した。呉はすべての相手黒番を全勝、白番を3勝2敗で優勝。橋本は呉を名人に推して、2期目以降は挑戦手合制にしてはどうかと提案したが、実現されなかった。2位は6勝3敗1ジゴの木谷、3位坂田、4位高川、5位橋本、6位藤沢が陥落となった。 第2期では坂田が8勝1敗1ジゴで優勝。坂田は呉に先番白番で2連勝し、とうとう呉に追いついたとも言われた。予選から勝ち上がった岩田正男(後に達明)六段は、4勝6敗で4位と健闘した。橋本と高川が3勝6敗1ジゴの同率最下位で、決定戦を行って高川が陥落。 第3期は呉と坂田が6勝3敗1ジゴの同率で、優勝決定戦が行われるはずだったが、第1期名人戦の日程が迫っていたために両者優勝となった。新参加の橋本昌二九段は3勝6敗1ジゴ。橋本宇太郎と木谷実の最終戦は木谷の健康上の都合で中止された。 名人戦へ移行[編集] 日本棋院ではこの当時財政が苦しくなっており、名人戦創設による契約料増額を望んでいた。この企画は最初朝日新聞に提案したが断られ、読売新聞と契約する。これにより日本最強決定戦は3期までで終了し、名人戦へ移行することとなった。最強戦の成績によっては呉を名人として、名人戦第1期優勝者を呉に挑戦させるという案もあったが、3期で呉と坂田が優勝を分け合い、通算でも呉が19-10-1,坂田が18-9-3と拮抗したため、この案は実行されなかった。 歴代優勝者[編集] 1958年 呉清源(8-2) 1959年 坂田栄男(8-1-1) 1961年 呉清源・坂田栄男(6-3-1で二者同率優勝) リーグ戦績[編集] 第1期(1957-58年) 出場者 / 相手 呉 木谷 坂田 橋本 高川 藤沢 勝-負-ジゴ 順位 呉清源 − 2-0 2-0 1-1 2-0 1-1 8-2 1 木谷實 0-2 − 1-0-1 2-0 2-0 1-1 6-3-1 2 坂田栄男 0-2 0-1-1 − 1-1 1-1 2-0 4-5-1 3 橋本宇太郎 1-1 0-2 1-1 − 1-1 1-1 4-6 4 高川格 0-2 0-2 1-1 1-1 - 2-0 4-6 5 藤沢朋斎 1-1 1-1 0-2 1−1 0-2 - 3-7 6 第2期(1958-59年) 出場者 / 相手 坂田 木谷 呉 岩田 橋本 高川 勝-負-ジゴ 順位 坂田栄男 - 1-0-1 2−0 2-0 2-0 1-1 8-1-1 1 木谷實 0-1-1 − 1-1 1-1 1-1 2-0 5-4-1 2 呉清源 0−2 1-1 - 2-0 1-1 1-1 5-5 3 岩田正男 0-2 1-1 0-2 − 2-0 1-1 4-6 4 橋本宇太郎 0-2 1-1 1-1 0−2 - 1-0-1 3-6-1 5 高川格 1-1 0-2 1-1 1-1 0-1-1 - 3-6-1 5 (橋本と高川が決定戦を行って、高川が陥落) 第3期(1959-60年) 出場者 / 相手 呉 坂田 岩田 橋本宇 橋本昌 木谷 勝-負-ジゴ 順位 呉清源 - 1-1 1−0-1 1-1 1-1 2-0 6-3-1 1 坂田栄男 1-1 − 2-0 0-2 1-0-1 2-0 6-3-1 1 岩田正男 0−1-1 0-2 - 1-1 2-0 1-0-1 5-5 3 橋本宇太郎 1-1 2-0 1-1 − 0-2 0-0-1 4-4-1 4 橋本昌二 1-1 0-1-1 0-2 2-0 - 0-2 3-6-1 - 木谷實 0-2 0-2 0-1-1 0-0-1 2-0 - 3-5-1 - (橋本宇太郎と木谷實は不戦) 参考文献[編集] 坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年 林裕『囲碁風雲録(下)』講談社 1984年 中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店 2003年 --------- 日本囲碁大系 『日本囲碁大系』(にほんいごたいけい)は、筑摩書房から1975年から1977年に刊行された、本因坊道策、本因坊秀策ら、囲碁の古典棋士たちの打碁全集。総編集は林裕。1992年に再刊されている。現代の棋士については現代囲碁大系が刊行されている。 内容[編集] 算砂・道碩(岩本薫、山本有光) 算悦・算知・道悦(趙治勲、秋本悦士) 道策(呉清源、三堀将) 道的・名人因碩(大平修三、広瀬保博) 道知(坂田栄男、藤三男) 察元・烈元・因淑 (加藤正夫、水口藤雄) 親仙徳・大仙知(大竹英雄、酒巻忠雄) 元丈(武宮正樹、竹田雅一) 知得(島村俊廣, 本田順英) 丈和(藤沢秀行, 相場一宏) 幻庵因碩(橋本宇太郎、志智嘉九郎) 元美・俊哲・仙得(梶原武雄、伊藤敬一) 松和・雄蔵(橋本昌二、橋本篤慶) 秀和(杉内雅男、小堀啓爾) 秀策(石田芳夫、田村孝雄) 秀甫(林海峰、井口昭夫) 秀栄(高川格、村上明) 秀哉(榊原章二、田中宏道)   ( )内は解説者、執筆者 --------- 日中竜星戦 日中竜星戦(にっちゅうりゅうせいせん)は、囲碁・将棋チャンネルが日中両国で開催している公式テレビ囲碁棋戦竜星戦、中国竜星戦の優勝者同士で行う、囲碁の国際公式棋戦である。2014年に創設された。日本と中国の持ち回りで開催する。 主催: 日本棋院、中国棋院 協賛: 囲碁・将棋チャンネル、スカパー! 賞金: 優勝300万円、準優勝80万円 大会は一般観覧者を招いてのイベント形式で行われ、プロ棋士による大盤解説会やエキシビションマッチなどの催しも用意されている。 大会の模様は囲碁・将棋チャンネル、及びスカパー!にて放送され、第1回大会では生中継が行われた。 目次 [非表示] 1 大会方式 2 過去の成績 3 過去の大会 3.1 第1回 大会 3.2 第2回 3.3 第3回 4 脚注 5 外部リンク 大会方式[編集] 一番勝負 コミは、日本開催時は先番6目半、中国開催時は7目半。 持ち時間なしの1手30秒未満着手。途中1分単位で合計10回(連続使用可)の考慮時間あり 終局後、開催国ルールでの整地を行い勝敗を確認 過去の成績[編集] (左が優勝者) 第1回 2014年 古力(中国) - 河野臨(日本) 第2回 2016年 柁嘉熹(中国) - 結城聡(日本) 第3回 2017年 芈昱廷(中国) - 一力遼(日本) 過去の大会[編集] 第1回 大会[編集] 対局者 日本代表:河野臨 第23期竜星 中国代表:古力 第5期中国竜星  【結果】黒番・古力中国竜星 中押勝ち 開催日程 2014年12月6日(土) 開催会場 シェラトン都ホテル東京 主催 公益財団法人日本棋院 中国棋院 協賛 囲碁・将棋チャンネル スカパー! 協力 一般財団法人関西棋院 公益財団法人日本ペア碁協会 エキシビションマッチ(日中混合ペア碁) 対局ペア1:於之瑩五段 & 余正麒七段 対局ペア2:藤沢里菜二段 & 李喆六段  【結果】黒番・藤沢&李ペア 中押勝ち 大盤解説会 解説者:小林覚九段 聞き手:吉原由香里六段 第2回[編集] 2016年3月16日に、中国で、日本竜星戦第24期優勝者結城聡と、中国竜星戦第6期優勝者柁嘉熹により行われ、柁嘉熹が黒番中押勝した。 第3回[編集] 2017年4月29日に、東京都「ベルサール飯田橋駅前」で、日本竜星戦第25期優勝者一力遼と、中国竜星戦第7期優勝者芈昱廷により行われ、芈昱廷が黒番中押し勝した。 エキシビションマッチとして、藤沢里菜女流本因坊と、コンピュータ対局ソフトDeepZenGoが対局し、DeepZenGoが黒番中押勝ちした。 脚注[編集] 外部リンク[編集] 中国竜星戦 | 番組紹介 | 囲碁 | 囲碁・将棋チャンネル - 囲碁・将棋チャンネル 中国囲棋協会 - 中国棋院 --------- 新垣 望(あらがき のぞみ、1985年 - )は、日本の囲碁インストラクターである。 日本棋院東京本院所属の新垣武九段の次女として1985年に東京に生まれ、5歳から囲碁を始めた[1]。また、藤村女子中学校・高等学校在学中には囲碁部に所属した[1]。 1999年、日本棋院院生となり、2003年に卒業した[2]。スカイパーフェクTV!・囲碁将棋チャンネルには2004年から記録係として出演、翌2005年からは聞き手として出演した[1]。 新垣の実姉である新垣未希も囲碁インストラクターであり、共同でブログ『未希&望の囲碁Blog』を公開していたこともあるほか、 スカパーHDの番組、『街角囲碁教室 -新垣姉妹と楽しく学ぼう』には姉妹で出演している。 --------- 新垣未希 あらがき みき 新垣 未希 生誕 1983年(33–34歳) 日本の旗 日本 東京都 出身校 早稲田大学 職業 囲碁インストラクター 新垣 未希(あらがき みき、1983年 - )は、日本の囲碁インストラクターである。 人物[編集] 日本棋院東京本院所属の新垣武九段の長女として1983年に東京都に生まれ、7歳から囲碁を始めた[1]。 藤村女子中学校・高等学校在学中には囲碁部に所属し、全国高校囲碁選手権大会の個人戦(女子の部)では1998年に行われた第22回大会で優勝、翌年の第23回大会では準優勝し、更に2000年の第24回大会では再び優勝した[1]。また、個人戦で準優勝であった1999年の第23回大会では、団体戦で優勝している[1]。 高校卒業後に進学した早稲田大学教育学部では社会学を専攻するとともに囲碁会に所属、第37回全日本女子学生囲碁選手権で優勝、さらに2002年(平成14年)の春季関東学生囲碁リーグ戦女子I部(団体戦)でも優勝している[2]。また、大学時代に始めたスカッシュは趣味となった[2]。 2001年からはスカイパーフェクTV!・囲碁・将棋チャンネルに聞き手として出演した[1]。また、2004年には第40回全日本女子学生囲碁選手権で優勝、同年に大学を卒業した[3]。 2011年からは、司会聞き手として溝上知親とともに囲碁の時間(NHK教育)にも出演している。 新垣の実妹である新垣望も囲碁インストラクターであり、共同でブログ 『未希&望の囲碁Blog』を公開していたこともあるほか、 スカパーHDの番組、『街角囲碁教室 -新垣姉妹と楽しく学ぼう』には姉妹で出演している。 脚注[編集] --------- 日曜囲碁対局 日曜囲碁対局(にちよう・いご・たいきょく)は1968年-2002年に、テレビ東京(1981年9月30日まで東京12チャンネル)などで放送された囲碁のテレビ棋戦番組である。 概要[編集] 1968年10月、民放初となるテレビ棋戦「早碁選手権戦」の第1回大会開催とともに開始されたもので、日本棋院・関西棋院所属の棋士による早差し囲碁の熱戦を展開した。翌1969年からは若手棋士による大会「新鋭トーナメント戦」も開催され、これを半年間交互に開催してきた。 2002年に日本航空協賛の鶴聖戦・女流鶴聖戦と大会を統合した際、「スーパー早碁」として発展解消された。テレビ東京の将棋棋戦「テレビ将棋対局・早指し将棋選手権」やNHK教育テレビジョンの「NHK杯テレビ囲碁トーナメント」・「NHK杯テレビ将棋トーナメント」と並ぶテレビ棋戦として視聴者に親しまれた。 --------- 日中囲碁交流 日中囲碁交流は、 日本と中国の間で、囲碁のプロ・アマチュアの棋士が相手国を訪問するなどして対局を行うこと。 1.のうち、特に1960年から1992年にかけて、読売新聞主催で、日本棋院、関西棋院、中国囲棋協会、及びアマチュアの棋士による代表団を交互に送って行われた交流手合。 個人の資格で行われた囲碁交流の中では、藤沢秀行名誉棋聖が若手棋士とともに訪中しての対局が有名。 目次 [非表示] 1 明治から昭和 1.1 交流初期 1.2 呉清源来日 1.3 昭和初期 2 読売新聞日中囲碁交流 2.1 開始の経緯 2.2 対局方法 2.3 概況 2.4 代表団と戦績 3 藤沢秀行訪中団 4 その他の棋戦・交流 5 注 6 参考文献 7 関連項目 明治から昭和[編集] 交流初期[編集] 明治になって家元制度崩壊後、方円社の活動などによって棋士の活動が安定すると、朝鮮、中国、台湾などとの交流も行われるようになった。中でも高部道平は、1909年に中国、1911年から1912年にかけて朝鮮、台湾を訪問するなどした。当時四段の高部は中国高手とされる張楽山、汪雲峰には向二子であった。また中国ではこの時までは、黒白2子ずつを盤上に置いてから対局開始する事前置石制であったのを、高部が初手から自由に着手する方法を伝えたと言われる。1918年には広瀬平治郎が、中華民国の国務院総理であった段祺瑞の招きで、弟子の岩本薫を伴い訪中。 1919年、瀬越憲作が満州、青島を歴訪、汪雲峰、伊耀卿、顧永如らと向2、3子であった。続いて同年、本因坊秀哉、広瀬、瀬越、高部らが訪中、秀哉は陶審安らに向4子で打った。中国での対局は中国ルールで行われることが通例であったが、この時秀哉は中国ルールでの対局を嫌ったと言われる。これらの対戦が、中国の棋士にとって大きな経験となる。 呉清源来日[編集] またこの頃、中国から日本に留学した際に囲碁を学ぶものも多く、呉清源の父呉毅も方円社に通うなどして初段に2子ぐらいの手合となり、帰国時には棋書を多く持ち帰った。また顧水如は日本に囲碁留学し、喜多文子とは2子の手合だった。呉清源は12歳の時に北京の囲碁クラブで日本人と対局して天才少年と話題になり、1926年に訪中した岩本薫に3子で勝ち、2子で負け、1927年訪中の井上孝平に2子で勝ち、先で1勝1敗。瀬越は1928年に弟子の橋本宇太郎を派遣し、呉は先番で勝つ。これにより呉は瀬越に招かれて来日、試験手合により日本棋院の三段に認められる。 昭和初期[編集] 日中間の紛争が始まって後、1934年に日満華囲碁親善使節団として、木谷実、呉清源、安永一、田岡敬一らが訪中、上海、無錫、北京、青島、天津などを回って中国棋士との交流を行い、満州では木谷と呉による溥儀の前での御前試合も行われた。また皇軍慰問団の一つとして日本棋院や日本将棋連盟の棋士による訪中が行われ、1938年の慰問団は、囲碁では安永一を団長とし、田岡敬一、梶為和、藤沢秀行らだった。満州には在留日本人向けの囲碁組織として、1941年に満州棋院(別称日本棋院満州別院)が設立された。1942年に大東亜大臣であり汪兆銘政権の顧問でもあった青木一男の招待で、瀬越、橋本、呉、井上一郎らが南京の中日文化協会や上海を訪問。この時日本棋院から、顧水如、劉棣懐ら6人に四段などの段位が贈られた。1943年には福田正義、藤沢秀行、榊原章二らが満州に1年間滞在し、政府や南満州鉄道職員、軍人らへの指導を行った。 読売新聞日中囲碁交流[編集] 開始の経緯[編集] 中華人民共和国成立後、中国から日中友好協会を通じて日本棋院へ訪中が依頼されたが、この時は「時期尚早」として見送る。1957年には団長瀬越憲作、宮下秀洋、長谷川章、村島誼紀の4棋士による訪台使節団を送る。1959年に自民党顧問の松村謙三の訪中において、周恩来、陳毅との会談で文化面での交流が合意される。これにより読売新聞社及び日中友好協会主催の定期的な囲碁交流が開始されることになり、1960年に瀬越憲作を団長とする第1回の日本代表団が訪中。以後、中国代表団による訪日と交互に行われるようになる。 対局方法[編集] ルールは、日本で対局する場合は日本ルール、中国で対局する場合は中国ルールで行われた。(ただし第1回訪中団では日本ルール) 手合割は、互先、及び定先、置碁などもある。 概況[編集] 第1回には全て中国側が先で打って2勝しか挙げられなかったが(王幼宸−瀬越憲作、劉棣懐−瀬川良雄)、その後徐々に実力差を詰め、1965年には陳祖徳が岩田達明九段に勝利し、初めて日本の九段に互先での勝利を挙げる。中国ではこの勝利を記念して、この時の布石を図案とした切手も発行された。1974年から出場した聶衛平は、1975年には高川格名誉本因坊に、1976年には藤沢秀行天元、石田芳夫本因坊に勝つなど好成績を収め、日中の実力接近をうかがわせた。 1963年には訪中した杉内雅男団長から、中国囲棋協会の陳毅名誉主席に、日本棋院と関西棋院による名誉七段が贈られた。 中国の文化大革命による1967年から72年までの中断を挟んで再開。その後中国の成績がよくなるにつれ日本側も一線棋士を揃えるべきとの声が高まり、特に読売新聞の主催する棋聖位の出場が望まれた。しかしこのための調整が始まった1983年に趙治勲が棋聖位に就き、韓国籍棋士と中国棋士の対戦は政治的課題となるが、その後中国の対韓国の姿勢が柔軟化し、また日本棋院でも三大タイトル保持者の対外対局を認めたために、1984年から個人間の三番勝負も組み入れられるようになり、名称も日中囲碁決戦となった。この初回には聶衛平は趙治勲棋聖、加藤正夫王座に連敗するが、馬暁春が橋本昌二九段に勝利する。また当時中国と国交の無かった韓国籍の趙治勲との聶衛平の対局は歴史的な対局でもあった。1989年からは若手主体の対抗戦となり、日本は25歳七段以下、中国は28歳以下の棋士から選手を選抜した。1992年の第20回で終了。 代表団と戦績[編集] (日本代表団は訪中、中国代表団は来日。戦績は代表団から見て「勝-負-ジゴ」、1984-88年は個人毎の三番勝負成績、その他は総成績) 1960年日本代表団:(団長)瀬越憲作名誉九段(3-1-1)、坂田栄男九段(6-0)、橋本宇太郎九段(6-0)、瀬川良雄七段(5-1)、鈴木五良七段(6-0)、総戦績32-2-1 1961年日本代表団:(団長)有光次郎、曲励起八段(8-0)、小山靖男七段(7-1)、伊藤友恵五段(8-0)、菊池康郎(7-1)、安藤英雄(4-3-1)、総戦績34-5-1 1962年中国代表団:(団長)李夢華、劉棣懐、孫平化、黄永吉(1-6)、過惕生(2-5)、陳祖徳(4-3)、張福田(3-4)、張錫明(2-5)、総戦績12-23 1963年日本代表団:(団長)杉内雅男九段(11-0)、宮本直殻八段(7-4)、桑原宗久七段(5-6)、田岡敬一(4-5)、村上文祥(6-4-1)、総戦績33-19-1 1964年中国代表団:(団長)寥井丹、陳祖徳(5-4)、呉淞笙(4-5)、沈果孫(3-4-2)、王汝南(4-5)、羅建文(3-6)、陳錫明(1-6-2)、総戦績20-30-4 1965年日本代表団:(団長)梶原武雄八段(6-2-1)、工藤紀夫六段(7-2)、安倍吉輝五段(6-2-1)、総戦績19-6-2 1965年日本代表団:(団長)伊藤友恵五段、アマチュア女流棋士12名、総戦績7-28-1 1965年中国代表団:(団長)姚耐、陳祖徳(2-5)、呉淞笙(4-3)、王汝南(4-2-1)、美国震(1-6)、黄進先(0-6-1)、戦績11-22-2 1965年日本代表団:(団長)岩田達明九段(9-1)、刈谷啓八段(7-3)、谷宮悌二五段(8-1-1)、木谷禮子四段(5-5)、原田実(5-5)、西村修(6-2-2)、総戦績40-17-3 1966年中国代表団:(団長)仰柱、呉淞笙(2-3)、王汝南(3-2)、黄良玉(1-4)、沈果蓀(0-5)、黄進先(0-5)、黄徳勲、総戦績6-19 1966年日本代表団:(団長)島村俊広九段(6-0)、宮本義久八段(1-4-1)、家田隆二五段(4-2)、石田芳夫四段(5-0-1)、加藤正夫四段(5-1)、武宮正樹二段(4-2)、総戦績24-9-3 1973年中国代表(陳祖徳)3-6 第1回 1973年日本代表団:(団長)有光次郎、坂田栄男十段(6-1)、本田邦久九段(6-1)、石井邦生八段(6-1)、加藤正夫七段(6-1)、太田耕造六段(5-2)、小川誠子二段(3-3-1)、菊池康郎(5-1-1)、西村修(3-4)、総戦績40-14-2 第2回 1974年中国代表団:(団長)陳淇、陳祖徳(2-5)、呉淞笙(6-1)、王汝南(3-4)、黄徳勲(2-5)、邱鑫(4-3)、華以剛(5-2)、孔祥明(2-3-2)、陳慧芳(1-6)、総戦績25-29-2 第3回 1975年日本代表団:(団長)高川格九段(4-1-2)、窪内秀知九段(5-2)、石榑郁郎八段(3-4)、戸沢昭宣七段(5-2)、白鳥澄子三段(3-4)、芦田磯子初段(3-4)、村岡利彦(2-4-1)、今村文明(5-2)、総戦績30-23-3 第4回 1976年中国代表団:(団長)高文治、陳祖徳(2-5)、聶衛平(6-1)、呉淞笙(2-3-2)、王汝南(2-4-1)、華以剛(0-5-2)、曹志林(4-3)、王群(4-3)、孔祥明(7-0)、総戦績27-24-5 第5回 1977年日本代表団:(団長)橋本宇太郎九段(4-2-1)、東野弘昭九段(5-1-1)、石田章七段(5-1-1)、家田隆二七段(3-4)、佐藤昌晴六段(5-2)、井上真知子初段、菊地康郎、三浦浩(3-4)、総戦績30-23-3 第6回 1978年中国代表団:(団長)孫楽宣、陳祖徳(3-4)、聶衛平(3-4)、呉淞笙(4-3)、華以剛(5-2)、陳志剛(1-6)、孔祥明(5-2)、楊以倫(4-3)、江鳴久(3-4)、総戦績28-28(三番勝負 2-6) 1978年日本代表団:(団長)杉内雅男九段(2-1-1)、淡路修三七段(2-1-1)、山城宏六段(1-2-1)、上村陽生六段(3-1)、石倉昇(3-1)、総戦績11-6-3 第7回 1979年日本代表団:(団長)大窪一玄九段(4-2)、白石裕九段(2-3-1)、羽根泰正八段(4-2)、中村秀仁七段(2-3-1)、時本壱六段(2-3-1)、星川信明六段、小林千寿五段、小林覚五段(3-3)、総戦績22-21-5 第8回 1980年中国代表団:(団長)胡昌栄、聶衛平(3-4)、呉淞笙(4-3)、華以剛(2-4)、黄徳勲(3-4)、曹大元(6-1)、江鋳久(6-1)、孔祥明(3-4)、楊暉(5-2)、総戦績32-14 第9回 1981年日本代表団:(団長)橋本昌二九段(7-0)、小島高穂九段(3-4)、福井正明七段(4-3)、宮沢吾朗七段(5-2)、片岡聡六段(5-2)、清成哲也六段(3-4)、小林健二四段(2-5)、新海洋子二段(1-6)、総戦績30-26 第10回 1982年中国代表団:(団長)胡昌栄、聶衛平(6-1)、馬暁春(4-3)、曹大元(5-2)、楊普華(3-4)、江鳴久(6-1)、江鋳久(7-0)、銭宇平(5-2)、芮廼偉(7-0)、総戦績43-13 第11回 1983年日本代表団:(団長)石田芳夫九段(4-3)、石井邦生九段(4-3)、小林光一九段(7-0)、苑田勇一九段(6-1)、佐藤昌晴八段(2-5)、中村秀仁八段(3-1)、山城宏八段、長谷川直八段(3-4)、総戦績31-25 第12回 1984年中国代表団:(団長)杜維忠、聶衛平(0-2 趙治勲、0-2 加藤正夫)、馬暁春(0-2 加藤正夫、2-0 橋本昌二)、曹大元(0-2 酒井猛、1-2 羽根泰正)、劉小光(2-0 大平修三、2-1 本田邦久)、孔祥明(0-2 小林覚、0-2 東野弘昭)、銭宇平(1-2-1 片岡聡、2-1 山城宏)、宋雪林(0-2 宮沢吾朗、1-2 石井邦生)、王元(1-2 上村邦夫、2-0 牛之浜撮雄)、総戦績22-33-1無勝負 第13回 1985年日本代表団:(団長)坂田栄男名誉本因坊、本田邦久九段(1-2 聶衛平)、牛之浜撮雄九段(1-2 曹大元)、酒井猛九段(2-0 江鋳久)、石田章九段(0-2 馬暁春)、淡路修三九段(1-1-1 劉小光)、桑田泰明八段(1-2 王群)、上村陽生八段(1-2 銭宇平)、総戦績26-26-1 第14回 1986年中国代表団:(団長)陳祖徳、聶衛平(1-2 加藤正夫、2-0 羽根泰正)、馬暁春(2-0 小林覚、1-2 苑田勇一)、曹大元(2-1 工藤紀夫、1-2 橋本昌二)、孔祥明(1-2 時本壱、1-2 坂口隆三)、銭宇平(1-2 宮沢吾朗、1-2 彦坂直人)、邵震中(0-2 酒井猛、2-0 白石裕)、王群(2-0 園田泰隆、2-1 郡寿男)、芮廼偉(2-1 菅野清規、2-0 久保勝昭)、総戦績31-25 第15回 1987年日本代表団:(団長)加藤正夫名人(0-2 聶衛平、1-2 馬暁春)、淡路修三九段(2-0 馬暁春、2-1 江鋳久)、苑田勇一九段(1-2 曹大元、2-1 劉小光)、上村陽生八段(2-1 王群、2-1 曹大元)、彦坂直人七段(1-2 銭宇平、2-0 邵震中)、今村俊也七段、依田紀基六段、大矢浩一六段(2-0 張文東、0-2 兪斌)、総戦績32-24 第16回 1988年中国代表団:(団長)聶衛平6-1(2-0 橋本宇太郎、2-0 淡路修三、○石井邦生、×坂田栄男、○小松英樹)、馬暁春4-3(2-1 山城宏、1-2 工藤紀夫、○梶原武雄)、曹大元5-3(2-0 石井邦生、2-1 小島高穂、○苑田勇一、×山部俊郎)、劉小光5-2(2-1 本田邦久、2-1 上村邦夫、×加納嘉徳)、芮廼偉5-2(1-2 長谷川直、2-0 新垣武、○大窪一玄、○淡路修三)、方天豊4-3(1-2 小県真樹、2-1 石倉昇、○大平修三)、梁偉棠4-3(2-0 後藤俊午、0-2 小松英樹、×結城聡、○梶和為、○楠光子)、張璇6-1(2-0 結城聡、2-0 楠光子、○後藤俊午、○影山利郎)、総戦績39-17 第17回 1989年日本代表団:(団長)後藤文生読売文化部長、小松英樹六段(4-3)、結城聡六段(3-4)、山田和貴雄五段(0-7)、篠田秀行四段(4-3)、森田道博四段(6-1)、三村智保四段(4-3)、青木喜久代二段(6-1)、宮崎志摩子二段(2-5)、総戦績29-27 第18回 1990年中国代表団:(団長)李春竜、廖桂永(2-0 大矢浩一)、王剣坤(2-1 恩田烈彦)、楊暉(2-0 青木紳一)、張璇(2-0 青木喜久代)、李星(0-2 趙善津)、方捷(2-1 泉谷英雄)、邵煒剛(2-1 酒井真樹)、劉菁(0-2 有村比呂司)、総成績38-18 第19回 1991年日本代表団:(団長)丸山元弘読売事業開発部次長、森山直棋七段(7-0)、中小野田智巳五段(4-3)、柳時熏四段(4-2-1)、楊四段(2-5)、榊原史子三段(0-7)、関山利道三段(2-5)、宮崎龍太郎三段(0-7)、中澤彩子初段(1-6)、総戦績20-35-1 第20回 1992年中国代表団:(団長)李桂明、馬石(0-2 森田道博)、方捷(1-2 三村智保)、邵煒剛(2-1 楊嘉源)、楊士海(0-2 大森泰志)、常昊(2-0 有村比呂司)、趙棟(2-1 加藤充志)、羅洗河(1-2 高尾紳路)、葉桂(2-0 青木喜久代)、総成績32-24 藤沢秀行訪中団[編集] 藤沢秀行が若手棋士を集めた研究会を1980年から始め(通称秀行軍団)、この勉強の意味も兼ねて、1981年から訪中しての交流手合を行うようになった。当初の日本側メンバーは安倍吉輝、入段したばかりの依田紀基、安田泰敏、院生の藤沢一就ら。中国側は聶衛平、馬暁春などが中心だった。中国棋士の熱心さを目の当たりに見た藤沢は、早くから「中国軍団の馬蹄の響きが聞こえる」と言って、中国棋士のレベル向上を予言していた。 その他の棋戦・交流[編集] 1985年には日中スーパー囲碁が開始。また同年には日中テレビ囲碁選手権戦も始まり、後にテレビ囲碁アジア選手権戦に発展する。1988年には日中名人戦、日中天元戦が開始されるなど、日中棋士の対局機会は増え、また世界選手権としても1979年に世界アマチュア囲碁選手権戦、1988年の世界囲碁選手権富士通杯が開始されるなど多数を数えるようになり、日中間に限らず、国を越えての囲碁交流は日常的なものとなった。1986年には中日友好囲棋会館が設立された。 愛知万博 2005年の愛知万博では、中国館の湖南省ウィークの催しとして、日中の好敵手を集めた中日囲碁対抗戦「五人対抗戦」「三人対抗戦」が行われた。[1] 「五人対抗戦」(5月30日) 林海峰○ - ×陳祖徳 小林光一○ - ×聶衛平 武宮正樹○ - ×馬暁春 羽根直樹× - ○常昊 山城宏○ - 羅洗河 「三人対抗戦」(6月1日) 大竹英雄○ - ×陳祖徳 羽根泰正× - ○聶衛平 結城聡○ - ×常昊 院生合宿 2010年に日本棋院の孔令文と中国棋院の協力により、中国棋院にて日本棋院院生10名と中国若手選手との対抗戦が行われた。結果は日本側の18勝48敗。その他に早碁や孔傑、王磊らトップ棋士も参加しての検討も行われた。[2] アマチュアの交流 1986年に日中アマ囲碁友好会(理事長菊池康郎)が設立されるなど、アマチュアによる囲碁交流も盛んとなっている。個人単位での観光旅行の中に、現地の囲碁組織の協力によって囲碁交流のイベントが組み込まれることも行われている。 注[編集] --------- 如仏の判決 疑問 このページのノートに、このページに関する疑問があります。 疑問の要約:場合によっては三コウ無勝負になるのでしょうか? 如仏の判決(にょぶつのはんけつ)は、囲碁のルールのうちの死活において「両劫に仮生一つ」を認めたという鎌倉時代の判例。日本棋院などの現代の囲碁ルールでは否定(死であると)されている。この生き形は「月光の活」の呼び名もある。 目次 [非表示] 1 問題事例 2 発端 3 家元会議 4 現代の判断 5 参考文献 問題事例[編集] 図における両コウゼキ(左上)があり、同じ盤面上に一眼とコウを持つ白石(右上)がある場合の、右上の白石の生死に関する問題。 部分死活論 - 右上隅の白石には二眼が無いため、左上隅の両コウは関係なく「死」 全局死活論 - 右上のコウを黒から取られても、両コウのところに無限のコウ材があり、白も常にコウを取り返せるので「生」 という考えの、どちらが正しいかが問題となる。 発端[編集] 『古今著聞集』に当時の出来事として、この問題の記述がある。1253年(建長5年)に法探坊と刑部坊という二人の僧の対局にこの形が現れ、法探坊は生と、刑部坊は死と主張して決着がつかず、当時の囲碁の上手と言われた備中法眼俊快に訪ねたところ「両劫にかせう一つとは是なり」(生)と言い、さらに如仏に尋ねると「目一つありと雖も、両劫のあらむには死石にあらず」(生)と述べられ、法探坊の勝ちと認められた。以後、これが「如仏の判決」として伝え残る。 家元会議[編集] 1821年(文政4年)に福山藩の儒学者太田八郎が、家元四家にこの問題について問い合わせた。本因坊元丈・安井知得仙知・井上因砂因碩・林元美・服部因淑が討議し、元丈から「如仏非に成りし」と回答。これによりルール解釈が覆ることとなった。 また俊快の述べた「かせう」の文字は「仮生」「可生」「加生」などとする説があった。 現代の判断[編集] 明治時代になると如仏の判決(全局死活論)を支持する棋士が多かったが、日本棋院が1949年に制定した囲碁規約では部分死活論が採用された。1989年の日本囲碁規約改訂では、対局の停止後での「死活確認の際における同一劫での取り返しは、行うことができない」という規定により、これが継承された。また中国ルール・台湾ルール(計点制ルール)では、コウに限らず一局中においてすべての同形反復が禁止されていることから死とされる。 1959年の呉清源 - 藤沢朋斎の三番勝負第2局において、呉が全局死活論での対局を申し入れた。呉が日本棋院所属棋士ではないために可能だった提案である。藤沢はこれを了承し、例外的なルールでの対局が行われた例となった。これは直前に行われた呉 - 高川格の本因坊三番碁の第2局で、終局時にコウの手入れを巡るルール解釈の問題が生じたことから、当時不合理な点の残る当時の囲碁規約見直しについての問題提起の一つであった、との見方もある。 参考文献[編集] 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』(新樹社、1955年) 増川宏一『碁』(法政大学出版局、1987年) 中山典之『完本 実録囲碁講談』(岩波書店、2003年) 『碁ワールド』2004年8月号特別付録「簡明日本囲碁規約」 --------- --------- --------- --------- 東向日駅 東向日駅 * 駅舎(西口) 駅舎(西口) ひがしむこう Higashi-muko ◄HK-78 西向日 (1.4km)(1.3km) 洛西口 HK-80► 所在地 京都府向日市寺戸町小佃5番地2[1] 北緯34度57分11.62秒 東経135度42分16.64秒 駅番号 ○HK-79 所属事業者 阪急電鉄 所属路線 ■京都本線 キロ程 35.0km(十三起点) 梅田から37.4km 駅構造 地上駅 ホーム 2面2線 乗降人員 -統計年度- 16,643人/日 -2015年- 開業年月日 1928年(昭和3年)11月1日 乗換 向日町駅(JR京都線)** 備考 * 1972年(昭和47年)に東向日町駅から改称 ** 公式な乗換駅ではない テンプレートを表示 東口 ホーム 京都向日町競輪場への無料バス オープンストリートマップのロゴ オープンストリートマップに東向日駅の地図があります。 東向日駅(ひがしむこうえき)は、京都府向日市寺戸町小佃にある、阪急電鉄京都本線の駅。駅番号はHK-79。 目次 [非表示] 1 歴史 2 駅構造 3 利用状況 4 駅周辺 4.1 バス路線 4.2 タクシー乗り場 5 隣の駅 6 脚注 7 関連項目 8 外部リンク 歴史[編集] 1928年(昭和3年)11月1日 - 新京阪鉄道の高槻町駅(現在の高槻市駅) - 京都西院駅(現在の西院駅)間延伸と同時に東向日町駅(ひがしむこうまちえき)として開業[2][3]。開業時は待避線が存在した。 1930年(昭和5年)9月15日 - 会社合併により京阪電気鉄道新京阪線の駅となる[2]。 1943年(昭和18年)10月1日 - 会社合併により京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の駅となる[2]。 1949年(昭和24年)12月1日 - 新京阪線が京都本線に改称され、当駅もその所属となる[2]。 1972年(昭和47年)10月1日 - 向日町の市制施行により、東向日駅に改称[2]。 2013年(平成25年)12月21日 - 駅番号導入[2]。 駅構造[編集] 相対式ホーム2面2線を有する地上駅。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。駅舎は両ホームの梅田寄りにあり、双方のホームは地下道で連絡している。梅田方面行ホーム側の改札口(東口)は無人(駅員無配置)であるが、自動券売機は設置されている。競輪開催時を見据えてか、ホーム幅員は広く自動改札機の台数が多い。 のりば (西側) ■京都本線(上り) 京都(河原町)・桂・嵐山方面 (東側) ■京都本線(下り) 大阪(梅田)・天下茶屋・北千里・神戸・宝塚方面 ※のりば番号は設定されていない。 向日町競輪場で競輪が開催される際は夕方の快速急行が臨時停車することがある。2001年(平成13年)3月24日のダイヤ改正以前は昼間・夕方の一部の急行が臨時停車していた。 洛西口駅開業前は桂車庫(桂駅)構内配線の関係上で当駅始発の列車が設定されていたが、洛西口駅開業後は洛西口駅始発とされた。 利用状況[編集] 「向日市統計書」によると、2015年(平成27年)度の1日平均乗降人員は16,643人である。 近年の1日平均乗降・乗車人員は下記の通り。 年度 1日平均 乗降人員 1日平均 乗車人員 1997年 24,480 12,178 1998年 22,648 11,424 1999年 22,254 11,220 2000年 22,980 11,559 2001年 22,407 10,901 2002年 20,584 10,213 2003年 20,417 10,129 2004年 19,974 9,909 2005年 18,851 9,444 2006年 18,415 9,252 2007年 18,036 8,873 2008年 20,074 10,050 2009年 18,152 9,057 2010年 17,151 8,542 2011年 15,536 7,726 2012年 15,947 7,980 2013年 16,310 8,212 2014年 17,412 8,666 2015年 16,643 8,339 駅周辺[編集] 西日本旅客鉄道(JR西日本)向日町駅 - 当駅からの距離は500メートルで、徒歩での連絡が可能[2]。 向日市役所 向日市立図書館 向日市文化資料館 向日市福祉会館 向日町駅前郵便局 向日町寺戸郵便局 善峯寺(しあわせ地蔵、西国三十三所二十番札所) - 当駅からバスまたはタクシー利用。 勝持寺(花の寺) 十輪寺 京都向日町競輪場 - 競輪開催日に限り競輪場行き無料送迎バスが運行される[2]。 バス路線[編集] 阪急東向日 当駅を経由するバスは一旦降車客扱い後、営業所内に入った上Uターンして乗車客扱いをする。 阪急バス(大山崎営業所・向日出張所担当、いずれも阪急田園バスに運行委託) 4系統:(洛西ニュータウン線 高田町、洛西口駅前、西竹の里経由)洛西バスターミナル行 24系統:(洛西ニュータウン線 車塚住宅、洛西口駅前経由)福西竹の里方面循環 63系統:(大原野線 東山→右京の里経由)洛西バスターミナル行/JR向日町行 64系統:(大原野線 東山→右京の里→勝山町経由)阪急東向日/JR向日町行循環 - 平日13時26分発、土・休日13時56分発まで 64系統:(大原野線 勝山町→右京の里→東山経由)阪急東向日/JR向日町行循環 - 平日13時55分発、土・休日14時25分発以降 65系統:(大原野線 東山→右京の里経由)南春日町行/JR向日町行 66系統:(大原野線 東山→右京の里・灰方経由)西国三十三霊場 第二十番札所 善峯寺(しあわせ地蔵)行き(冬期は小塩(十輪寺前)止まり)/JR向日町行 70系統:(長岡京線 滝ノ町→一文橋経由)JR長岡京行(滝ノ町回り) 71系統:(長岡京線 JR向日町→JR長岡京→友岡→久貝経由)JR長岡京東口行(中久世・下久世 回り) かつては京阪バスも乗り入れていた。 タクシー乗り場[編集] 阪急タクシー 京都営業所 隣の駅[編集] 阪急電鉄 ■京都本線 ■快速特急・■直通特急・■特急・■通勤特急・■快速急行・■快速 通過 ■準急・■普通 西向日駅 (HK-78) - 東向日駅 (HK-79) - 洛西口駅 (HK-80) 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 『阪急ステーション』 阪急電鉄株式会社コミュニケーション事業部〈阪急ワールド全集 4〉、2001年、106頁。ISBN 4-89485-051-6。 ^ a b c d e f g h 生田誠 『阪急京都線・千里線 街と駅の1世紀』 彩流社〈懐かしい沿線写真で訪ねる〉、2013年、4-6・34-35頁。ISBN 978-4-7791-1726-8。 ^ 今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳』9 関西2、新潮社、2009年、50頁。ISBN 978-4-10-790027-2。 関連項目[編集] 日本の鉄道駅一覧 図鑑 (アルバム) - ロックバンド・くるりのアルバム。7曲目の「チアノーゼ」の歌詞中に当駅が登場する。 外部リンク[編集] 東向日駅(阪急電鉄) [隠す] 表 話 編 歴 阪急電鉄 京都本線 (梅田 - )十三 - 南方 - 崇禅寺 - (天神橋筋六丁目・天下茶屋方面<<) 淡路 (>>北千里方面) - 上新庄 - 相川 - (東吹田信号所) - 正雀 - 摂津市 - 南茨木 - 茨木市 - 総持寺 - 富田 - 高槻市 - 上牧 - 水無瀬 - 大山崎 - 西山天王山 - 長岡天神 - 西向日 - 東向日 - 洛西口(物集女) - 桂 - 西京極 - 西院 - 大宮 - 烏丸 - 河原町 北野線(廃止、現・梅田乗り入れ線の一部):梅田 - 茶屋町 - 北野 カテゴリ: 京都府の鉄道駅日本の鉄道駅 ひ阪急電鉄の鉄道駅新京阪鉄道向日市1928年開業の鉄道駅 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 English Esperanto Italiano リンクを編集 最終更新 2017年4月12日 (水) 13:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki --------- 桂米紫 桂 米紫(かつら べいし)は上方落語の名跡。 目次 [非表示] 1 初代 2 2代目 3 3代目 4 4代目 5 註 6 出典 7 関連項目 初代[編集] 初代 桂米紫(1860年 - 1904年5月25日)は、後の2代目桂米喬。本名井上新二郎(辮次郎、辮二郎とも)。享年45。 詳細は「桂米喬 (2代目)」を参照 2代目[編集] 2代目 桂米紫(1877年 - 1943年3月15日)は、後の3代目桂塩鯛。本名は岡本蜜太郎。享年66。 詳細は「桂塩鯛」を参照 3代目[編集] 3代目 桂 米紫かつら べいし 本名 斎田 昭造 生年月日 1927年6月26日 没年月日 1995年6月15日(満67歳没) 出身地 日本の旗 日本・京都府 師匠 松鶴家団之助 3代目桂米朝 名跡 1. 藤野団楽(1947年 - 1953年) 2. 斎田憲志(1953年 - 1958年) 3. 桂けんじ(1958年 - 1959年) 4. 3代目桂米紫(1959年 - 1995年) 出囃子 勧進帳 活動期間 漫才師(1947年 - 1953年) 腹話術師(1953年 - 1958年) 落語家(1958年 - 1995年) 表示 3代目 桂米紫(1927年6月26日 - 1995年6月15日)は、3代目桂米朝の一番弟子。本名は斎田昭造。享年67。 出身は京都油小路五条。逓信講習所から3年間の陸軍衛生兵を経て、戦後1947年に漫才の松鶴家団之助(相方は千歳家歳男、団之助は団之助芸能社を立ち上げていた)に入門し、東文章と東文章・藤野団楽(漫才の台本には文章と段落が大事の洒落)[1]を名乗る。東文章が病弱でコンビ解消。1953年に腹話術に転進し、斎田憲志の名で活動。1958年、3代目桂米朝に入門し、桂けんじ。1959年に3代目米紫に改名し千日劇場で落語家として初舞台。晩年は上方落語協会の事務局担当専務理事長となり裏方に回った。大阪知事表彰受賞。よく「豆屋」などをやっていた。出囃子は『勧進帳』。 野太い独特の声が特徴、腹話術やっていた頃可愛い腹話術の人形にこの声でのギャップが特徴的だった。桂雀々は可愛いベイビーの替え歌で『可愛い米紫、ハイ!ハイ!』(ハイハイの部分は物まねが入る)と言ってネタにしていた。 4代目[編集] 桂都丸門下の桂都んぼが2010年8月に襲名。3代目米紫から見て大甥弟子にあたる(4代目米紫の大師匠は、3代目米紫の弟弟子2代目桂ざこば)。師匠都丸は2代目米紫の後名塩鯛を「4代目」として襲名。 詳細は「桂米紫 (4代目)」を参照 註[編集] [ヘルプ] ^ この頃都家文雄の元で修行し映画の内容にぼやく「ぼやき漫才」やった。 出典[編集] 『上方落語家名鑑』(やまだりよこ著、出版文化社、2006年) 『古今東西噺家紳士録』 関連項目[編集] 落語家一覧 上方噺家 米朝一門 カテゴリ: 落語の名跡落語家 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 言語 リンクを追加 最終更新 2016年10月6日 (木) 19:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki