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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
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ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質


・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
・コンテンツの充実

これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --------- 地 (囲碁) 囲碁において地(じ)とは、白黒双方の対局者が自分の生きた石だけで囲い込んだ空間のことを指す。囲碁は、地を大きく囲んだ方が勝ちとなるゲームなので、極めて重要な概念である。下図のような終局図では、aの点が「白地」、bの点が「黒地」となる。cはどちらの地でもない「ダメ」である。 地の中に相手の死んだ石がある場合、終局後に取り上げられて敵の地に埋められることになる。上の図では△の白石は生きられないため、終局を確認した後取り上げられ、白地に埋められる。これを勘定して、黒地は21目、白地は17目あるため、上図では黒の盤面4目勝ちとなる。 まわりを囲む石に欠陥があったり、中に侵入されて生きられるものは「地」ではない。極端な例を挙げれば、下図左上に黒が2手打ち、「この右下の空間は黒が囲んだから全て黒地だ」という主張は成立しない。白1などと打ち込まれて、楽に生きられるからである。逆に言えば、双方が相手の陣地を完全であると認め、打つところがないと認定した時に対局は終了することになる。 目次 [非表示] 1 地の確保 2 関連用語 2.1 確定地 2.2 地合い 2.3 地中に手あり 地の確保[編集] 同じ6目の地を囲む場合を考えると、下図のように隅では5手(左上)、辺では7手(右)、中央では10手を費やすことになる(左下)。すなわち隅は地を取るのに最も効率がよく、次いで辺、中央は最も効率が悪いということになる。 中央に囲んだ地を「中地」(なかじ)と呼ぶ。 上図では黒が中央に「中地」を取り、白は隅と辺を取っている。一見黒地が大きいように見えるが、実は数えると黒地は121目、白地は136目と白が15目も勝っている。このように、中地は見た目よりも存外小さいことがある(格言:中地を囲うな)。 このため囲碁の対局では、お互い隅付近から打ち始めるのが基本である。 関連用語[編集] 確定地[編集] 最もよく用いられる小目からの小ゲイマジマリでは、白に連打を許すなどの特殊事情でない限り、○のついた10目前後を2手でほぼ確実に確保できる。このように、まだ完全に囲い込んだわけではないが、ほぼ侵入が不可能なエリアを「確定地」ということがある。 地合い[編集] 白黒双方の地のバランスのこと。「地合いが足りない」「地合い勝負」などというように使う。 地中に手あり[編集] 一見完全な地に見えるが、相手から打たれると中で生きられたり、セキになったりなど、完全な地でない状態。また、そうした手を発見する問題を指す。 上図の黒は一見7目の地に見えるが、白から1にツケられると、5まで運んでセキにされ、黒地はゼロになってしまう。 --------- 死活 死活(しかつ)は、囲碁用語の一つ。囲碁において最も重要な概念といえる。 囲碁において、「相手に絶対に取られる事の無い石」と「取られても新しく取られない石を置ける石」を活きた石、それ以外の相手に取られる石を死んだ石と表現するため、これを合わせて死活と呼ぶ。 詰碁などの死活を扱った問題のことを死活問題(しかつもんだい)といい、現代日本語で「わが社にとっての死活問題」などと言うのは囲碁の死活問題に由来する。 目次 [非表示] 1 眼 2 欠け眼 3 ナカデ 4 死活の特別な形 5 参考図書 6 外部リンク 眼[編集] 死活の例 右の図の赤い四角の点のように石のかたまりによって囲まれているスペースのことをその石のかたまりの眼(め)と呼ぶ。この眼を二つ以上持つ石の一団は着手禁止点を少なくとも2箇所以上持つため、周囲の空点(ダメ、または駄目)の全てに敵石が置かれても(ダメを詰められても)取られることはない。このような“絶対に取られることのない石”のことを活きた石、活き石(いきいし)などと呼ぶ。 他方、眼を持たない、または一つしか持たない石の一団は駄目を詰められれば最終的には相手に取られることとなる。そのため、眼を二つ以上持つことができない石のことを死んだ石、または死に石などと呼ぶ。 ただし、眼が二つ以上なくとも自分の方から打った場合には相手に取られるが、相手から打たれればこちらが相手の石を取れるセキの場合には、自分が打たない限り相手に取られることがないので活きた石とみなされる。 眼はその広さに関係なく個数が重要となる概念であり、その個数を数えるときは一眼(いちがん)、二眼(にがん)と眼を「がん」と読む。 終局状態では、必ず死活の判定をしなければならないが、それは必ずしも簡単ではない。というのも、囲碁の場合、上述の例のように明らかに死活がわかるような形でない複雑な形の場合も、それ以上手を加えずに終局することがあるからである。しかし、ある程度以上の実力になると、生死の判定に関する意見はほとんどの場合一致する。 欠け眼[編集] 上図では、一見2つの眼を確保して生きているように見えるが、aの点の空間は将来bにダメが詰まるとアタリになってツガねばならず、眼にはなっていない。こうした眼を「欠け眼」と呼ぶ。白の一団は一眼しかなく、死となる。 上図では、黒が1の点に打つと、仮に白が黒1を取ってもこの部分が欠け眼になるので死にとなる(このような捨て石の手を「ウチカキ」と言う)。逆に白から先に1の点にツゲば、確実な二眼を確保して生きとなる。 ナカデ[編集] 上のような形の場合、真ん中の点(黒1)に打つと白は眼を一つしか作れなくなって死にとなる。逆に白からこの点に打てば仕切りを作って二つの眼を作り、生きることができるようになる。こうした手を「ナカデ(中手)」と呼ぶ。詳細は項目ナカデを参照。 死活の特別な形[編集] 上記のように二眼を確保すれば生きというのが基本だが、実際には様々なケースが存在する。詳しくは当該項目を参照。 コウ 三コウ 万年コウ セキ 隅のマガリ四目 長生 欠け眼生き aの点はいずれも欠け眼だが、白はぐるりと一周つながっているため黒から全体を取りに行く手がなく、白生きとなる。こうしたケースを欠け眼生きと呼ぶ。詳しくは欠け眼生きのページを参照。 参考図書[編集] 『新・早わかり死活小事典』日本棋院 『こだわり講座〈5〉基本死活 虎の巻 (囲碁文庫) 』日本棋院 加藤正夫『死活小辞典』誠文堂新光社 趙治勲『基本死活事典 上・下』日本棋院 張栩『基本死活事典』日本棋院 大平修三『現代囲碁文庫17 初段の心得 実戦死活の百科 』誠文堂新光社 『林海峯の死活に強くなる本』誠文堂新光社 石田芳夫『目で解く実戦詰碁』誠文堂新光社 林海峯『死活手筋集』全3巻 大泉書店 外部リンク[編集] 江場弘樹『基本死活辞典』 やさしい詰碁を解きましょう 詰碁問題集(峯松正樹) goproblems --------- 持碁 持碁(じご)は囲碁用語の一つ。囲碁の対局で互いの地が同じになり引き分けになる事。「ジゴ」とカタカナで表記されることが多い。 元々『玄玄碁経』の「囲碁三十二字釈義」では「持」とはセキのこととされ、ジゴには「芇(べん、くさかんむりに巾)」の字を当てており、『通玄集』にも「勝負なきを芇と云う」とあるが、歌合せにおける引き分けを「持」というのに倣って「持碁」の字を当てるようになった[1]。 かつてコミが導入された初期には5目コミ出し、ただし持碁の場合は白の勝ちとするルールも採用された。現在の互先対局のように、6目半や7目半といったコミを付ける場合には、持碁は有り得なくなる。置き碁や定先の対局でも、トーナメントなどの都合で勝敗をつけなければならない場合には、持碁は白勝ち、ないし黒勝ちといったルールを決めて行われる[2]。 なお、長生の出現などによる引き分けは「無勝負」と扱われ、「ジゴ」とは称されない。 注[編集] ^ 林元美『爛柯堂棋話』 ^ 例 : 第1期名人戦[1] 関連項目[編集] 持将棋 - 将棋における引き分けの一つ。入玉を参照。 --------- シチョウ シチョウ(四丁・征とも書く)とは、囲碁の基本的な手筋のひとつである。アタリの連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしまう状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。 シチョウによって石を取ることを「シチョウに取る」などと活用する。 目次 [非表示] 1 概要 2 シチョウアタリ 3 特殊なシチョウの例 4 珍瓏 5 参考文献 概要[編集] 左図の局面で△の白石を取るのに、右図の黒1に打つ手がシチョウの基本形。この手を「シチョウに抱える」という言い方もする。白2と逃げ出してきたら、黒3と行く手をふさぐようにアテるのが大事で、反対側からアテると逃げ出されてしまう。 以下白が逃げ出したとしても符号順に追いかけていけば盤端に行き当たり、逃げ場がなくなって白が取られることになる。 シチョウアタリ[編集] 上の図のように白の逃げる先の△などに石がある場合、これをシチョウアタリという。 図のように黒が追いかけていけば白はシチョウアタリの石に連絡してしまい、黒はこれ以上アタリをかけられなくなって脱出される。そうなると黒はaなどに両アタリの断点ばかりが残り、大いに形勢を損じる。この場合「黒はシチョウが悪い」「白がシチョウよし」という表現もされる。 従って追われる側も追う側も、シチョウが発生しそうな場合はシチョウアタリがどうなっているのかをしっかり見極める必要がある。シチョウアタリのようにシチョウを邪魔する石がなく、碁盤の端に追いつめられるだけなら追われる方の負けである。 このためシチョウアタリの有無は、定石選択にも大きな影響を与える。例えば小目一間高ガカリ定石の一形で、 右上隅に白石があってシチョウが白有利ならば、白1にマガる手が成立する。黒2とツイでも白3とハネ、黒4の抱えには逃げ出すことができる。従って黒は2でaにノビるなど、別の手段を講じなければならない。 もし白がシチョウ不利なら、白1と打って黒2と2子取りを許す他なく、上図に比べてやや不利な形に甘んじなければならない。 特殊なシチョウの例[編集] アタリの連続で石を取ることをシチョウと呼ぶので、必ずしも階段状になっていない場合がある[要出典]。下図aに黒が打つことによって白2子が取れる。   ※白6ツグ シボリやマクリを駆使して石を取ることは、グルグルマワシとも呼ぶ。 珍瓏[編集] 珍瓏(ちんろう)とは、指定された局面からシチョウの手筋を用いて指定された石を取る詰碁の問題である。「シチョウで追う」事以外に作成における制約がないため、初形や最終図で文字や形を描いた作品も発表されている。 棋士の中山典之六段が多くの問題を発表しており、特に最終形がハートの形になる問題がよく知られている。 参考文献[編集] 『シチョウの世界』(中山典之著・日本棋院) ISBN 4-8182-0434-X --------- シノギ シノギ(しのぎ)とは、 収入を得るための手段(経済活動)の一つ。 囲碁用語の一つ。 その他 経済活動としてのシノギ[編集] 主に暴力団関係の団体・人物が収入を得るために使う手段であり、港湾業務や興行の元締めといった合法手段もあったが、たいていの場合、用心棒、賭博、違法薬物密売、ノミ屋・ダフ屋、闇金融、詐欺集団の元締めなど、違法手段のものが多い。 囲碁のシノギ[編集] 相手の勢力が圧倒的に強い場所で、相手の攻めを巧みにいなして自分の石を生存に導くこと。 シノギの名手として、坂田栄男や趙治勲が有名である。 参考図書[編集] 趙治勲『シノギの真髄―石は死ぬものではないと、生きる術を徹底探求 (新・木谷道場入門) 』河出書房新社 1997年 『坂田の碁〈2〉石のシノギ方』 (MYCOM囲碁文庫スペシャル) 2004年 --------- シボリ (囲碁) シボリは、囲碁用語のひとつ。相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手をアタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合、相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。 シボリの実例[編集] 図1 図2: 小目定石に現れるシボリの一例。黒1とアタリにし、白2と2子を抜かせる。黒はさらに3とホウリコみ、白4と抜かせて黒5にアテる。黒は相手を団子石にし、自分は外回りに石が来る流れとなる(通常、黒3に対して白はaあたりにヒラき、部分的に一段落となる)。 黒は白△の2子をシチョウで取れないため、このままではバラバラに分断される。 そこで黒1,3とアテ、黒5とゲタの形にする。白6,8と取るしかないが、その間に外から黒7,9とアテて締めつけ、強力な外勢を得る。 石塔シボリ[編集] 図1: 図2: 大斜定石の変化として現れる形。図1、白△と切られると黒が収拾がつかないように見えるが、図2の黒1と2子にして捨てるのが好手。白2なら黒3とアテて取らせ、 図3: 図4: 図3の黒5と放り込む。白6なら黒7とアテてシボリ、以下符号順に黒の攻め合い勝ちとなる。このように、二線の石を2子にして取らせ、ダメを詰める手筋を「石塔シボリ」と呼ぶ。「石塔」の名は、出来上がりの形が石の塊から塔が伸びているように見えることから。実戦にもよくあらわれる手筋。 黒15(7)、白16取る(11) 石塔シボリの出現する定石の例。第68期本因坊戦第三局でこの形が出現した。 --------- シマリ シマリは囲碁用語のひとつで、隅にすでに打った石(小目・星・目ハズシ・高目など)の周辺に打ち、隅の地を確保する手をいう。動詞としては「シマる」という言い方をする。下図黒1がシマリの一例である。 隅を自陣として効率よく確保すると共に、周辺への展開、相手への攻撃の拠点ともなるので、その価値は極めて高い。このため序盤の非常に早い時期に打たれることが普通である。シマリを妨害する手は「カカリ」といい、当然シマリ同様の価値を持つ。どちらかといえばシマリは守備の手、カカリは接触戦に持ち込む攻撃の手と見ることができる。 目次 [非表示] 1 小目からのシマリ 2 星からのシマリ 3 目ハズシからのシマリ 4 高目からのシマリ 5 三々からのシマリ 6 シマリを省略する 7 参考図書 小目からのシマリ[編集] 「a」の小ゲイマジマリが最もよく打たれる。堅実に隅の地を10目程度確保し、ほとんど侵入のスキがない。「b」の一間ジマリは右辺に影響力が強いが、上辺に迫られると侵入の余地を残す。「c」の大ゲイマジマリは小ゲイマに比べて大きく地を確保できるが、やや侵入のスキがある。「d」の二間ジマリは中央を意識したシマリ方で、やや特殊な打ち方に属する。 星からのシマリ[編集] 星からシマる場合には「a」の大ゲイマ、「b」の小ゲイマがよく打たれる。また「c」「d」は中央を意識したシマリ方である。 小目と異なり、星からは「a」「b」などにシマっても「e」の三々、「f」のツケなどで隅の地を荒らされる余地が残る(その代わり黒は中央に強い勢力を築くことができるので、白の立場で侵入の時期は慎重に選ぶ必要がある)。隅の地を完全に確保するなら、「a」「b」からさらに「g」あたりに一手加える必要がある。また、下図黒1のように隅の地を確保する手も「シマリ」と表現されることがある。 目ハズシからのシマリ[編集] 目ハズシからは「a」にシマるのが最も普通で、小目からの小ゲイマジマリと同型になる。「b」「c」への高いシマリは中央に働かせるシマり方で、隅には侵入の余地が残る。「d」はやや特殊なシマリだが、「e」または「f」へさらに一手かければ大きく隅を確保できる。「d」から「e」に三手かけるシマり方を「トーチカ」と称する。 高目からのシマリ[編集] 三々からのシマリ[編集] 三々からは一手で隅を確保しているため、シマリは他の着点に比べてさほどに急がない。シマるなら「a」「b」「c」あたりに展開する。 シマリを省略する[編集] 江戸時代までは隅の着点は小目が中心であり、まずシマって隅を確保、その後で辺へ展開するという手順が正統とされていた。しかし昭和に入って呉清源・木谷實らにより、隅を星・三々などによって一手で済ませ、足早に辺を占拠するスタイルが案出された(新布石)。三連星などがこのスタイルの代表的な布石である。 小目からはシマリを打ってから辺へ展開するのが常識であったが、1970年代からは「中国流」布石が登場し、シマリを省いて辺へ回り、カカリを迎え撃って戦うという手法が編み出された。この影響からミニ中国流、小林流など、シマリを打たずに辺へ先着するスタイルが次々登場している。また近年では互いにシマリ合うよりも、カカリを優先して積極的に戦いに持ち込むケースが多くなっている。もちろん現在でもシマリの価値が高いことは変わりがないが、その優先順位については考え方が変化してきている。 参考図書[編集] 石田芳夫『シマリの技法―最強囲碁塾』河出書房新社 --------- 純碁 純碁(じゅんご)とは、囲碁の入門用として王銘エンが提唱した、囲碁のルールを母体としたゲームである。囲碁のゲーム性を保ったままルールを簡明化したものであり、これから囲碁を覚えようとする者にとって、より理解しやすいものとなっている。9路盤や、それより小さい碁盤を用いることが想定されているが、ルール自体は盤の大きさを制限するものではない。 現在の囲碁のルールの原型に近いものであるとされており、日本ルールよりも中国ルールのほうに近い。 目次 [非表示] 1 純碁のルール 2 特徴 2.1 長所 2.2 短所 3 合理性の側面 4 関連項目 5 外部リンク 純碁のルール[編集] 基本的なルールは通常の囲碁に準ずるが、次に挙げるような違いがある。 石の数を競う 通常の囲碁では、それぞれ地の大きさからアゲハマを引いた目数を比較して勝負を決するが、純碁では、最終的に盤上に置かれている石の数だけを比較する。盤上の石が置かれていない空所や、アゲハマの数は勝負の判定材料にならない。 地の概念がない 前項と関係するが、終局時における盤上の空所は勝負に直接関係しない。そのため、通常の囲碁とは異なり地をいくら囲っていてもそれだけでは点数にはならない。点数にするためには、(通常の囲碁で言う)自分の地を埋めていく作業が必要である。 死活の判定がない 死んでいる相手の石は、終局前に明示的に打ち上げる必要がある。終局時に盤上に残っている石は、どのような形であれ点数に数えられる。 両者連続パスで終局する 一方の対局者がパスをし、次いでもう一方もパスをすれば、それをもって終局とする。通常の囲碁と異なり、終局において何らかの合意が必要となることはなく、終局後の手入れなども発生しない。なお、パスは任意に何度でも行うことができる。 その他、同形反復の禁止、自殺手の禁止などは、通常の囲碁と同じである。 特徴[編集] 以下のような長所と短所がある。 長所[編集] ルールが明快である 初心者同士が通常の囲碁を打つ場合において、終局時にはしばしば問題が発生する。死活の判定を両対局者が正しく認識するというのは、初心者にとってはときに難題になるからである。第三者に判定を仰ぐことができればいいが、必ずしもそれが可能であるとも限らない。また、セキの概念を知らず、お互いに相手が先に共通のダメに打つことを期待して自陣を埋め続けるような事態も発生することがある。 純碁においては、このようなトラブルは発生しない。お互いがパスして終局となったら、あとは盤上にある石を単純に数え上げるだけである。ルール上、死活やセキの判定が存在しないため、それらの見解が分かれるといった問題は起こらない。 結果が通常の囲碁とほぼ一致する 純碁の勝負の結果は、大抵の場合、通常の囲碁に切り賃のルールをつけた場合の結果とほぼ一致する。このため、通常の囲碁と純碁とではその最終目的が異なっていても、ゲーム性が大きく変わるようなことがない。これは、純碁を覚えた者が通常の囲碁にスムーズに移行できることにつながる。純碁と同じく囲碁への導入を目的としたポン抜き囲碁は、囲碁とのゲーム性の差が大きい。 対局者が本来死んでいる石(取ることができた石)を活き石(取ることができない石)だと見なし、打ち上げずに終局した場合は、通常の囲碁の正しい結果とは大きな差が生まれる。しかし、純碁はそれを容認するルールであり、指導する立場にあるものは終局後に本当は取ることができたことを教えてあげればよい。 短所[編集] 終局前に自陣を埋める必要がある 純碁では、地もそのままではただの空所であり点数にならないため、終局前に、活きるために最低限必要な眼を残して自分の地を埋めていく作業が必要である。これはやらなくてもルール上は問題ないが損であり、純碁のコツをある程度理解した者にとっては退屈な作業である。また、7路盤や9路盤では手間はさほど多くないが、19路盤ともなると、地を埋め尽くす作業量が増え、その後で石を数えるのも大変である。したがって、純碁を覚えた者は、19路盤で打つようになる前にまず普通の囲碁のルールを理解し移行する必要がある。 通常の囲碁と結果が異なる場合がある 純碁と通常の囲碁とで、結果が大きく異なる場合がある。例えば、形の上では死んでいる石を、実際には取りに行けないような場合である。 合理性の側面[編集] 純碁は、囲碁のルールの本質のみを、そのままルール化したものだと捉えることができる。このため、ルールに例外が極めて少なく、実用性は別としても非常に合理的なものとなっている。このことは、入門者の理解を容易にする以外にも様々な利点があり、例えばゲーム一般のルールを分析するような研究における囲碁のモデルとして優れている。また、コンピュータに囲碁を打たせる研究においても、判定や処理の容易さや明確さなどの理由から、ルールとして純碁を採用することがある。 終局と計算を合理化した純碁に並んで、同形再現の処理を合理化した超コウというルールがある。通常の囲碁においては、盤面を直前の状態に戻す同形反復はコウの規定で禁止されているが、もっと前の状態に戻すことは禁止されていない。これに対し、超コウは一旦現れた全ての盤面の再現を禁ずるものである。これを採用すると、「合意の上無勝負」という規定を排除できるだけでなく、常に盤面が進行するため、いつか必ず終局することが理論的に保証される。この超コウを純碁と組み合わせると、一種の理想的なゲームルールとなり、例えば2路盤においてもゲームとして意味のある考察を行うことができるようになる。 関連項目[編集] 囲碁のルール 王銘エン 外部リンク[編集] 王銘エン九段著「純碁」 --------- 定先 定先(じょうせん)は囲碁の手合割の一つ。対局者の棋力にわずかに差がある場合用いられる方式で、置石が無し、コミなしで行われる対局。 下手が常に黒石(先手)を持ち、上手が常に白石(後手)を持つことでゲームの特質としての「先手の有利性」を下手のハンデとして対局が行なわれる。 ハンデの隙間を埋めるために逆コミが設けられることもある。その場合、逆に黒がもらえる逆コミ6目半までというのが普通である。 なお、「定先」という言い方は先二や先相先といった複数局を一組とするハンデに対し、「常に先番で対局している」ハンデであるということ強調するための呼び方であり、その意識がなければ単に先と呼ぶこともある。 --------- 定石 定石、定跡(じょうせき)とは、アブストラクトゲームにおける用語である。お互いが最善と考えられる手を行った場合の一連の手のこと。チェスでは、「オープニング」とも。石を用いる囲碁、オセロ、連珠などでは「定石」が、駒を用いる将棋、チェスなどでは「定跡」が用いられる。 目次 [非表示] 1 囲碁の定石 1.1 定石の例 1.2 参考図書 2 オセロの定石 3 連珠の定石 4 将棋・チェスの定跡 5 チェッカーの定跡 6 アプリケーションソフトウェア内の定跡 7 関連項目 8 外部リンク 囲碁の定石[編集] 囲碁における定石とは、碁盤の中の一部分(主に隅)における、部分的には互角になるワンセットの応酬のことを指す。あくまでも「部分的」に互角であり、他の部分の配石次第で定石どおりに打っても悪い結果になることがある。初中級者が定石の手順を丸暗記して悪い結果になることを「定石を覚えて二子弱くなり」などと揶揄される場合もある。しかし定石の一手一手はそれ自体が手筋の応酬であり、単なる丸暗記ではなくその一手一手の意味を考えながら定石を学ぶことは詰碁と並んで囲碁上達の基本とされている。 定石は不変の物ではなく、プロ・アマチュアの棋士達によって研究が続けられており、改変、創造、棄却が常に行われている。初級者でも使いこなせる簡明な定石も多いが、長手順で変化の多い難解な定石も存在する。前者としてはツケノビ定石・ツケヒキ定石など、後者としては、村正の妖刀・大斜定石・ナダレ定石などが有名である。 定石の例[編集] 星の代表的な定石の例。白1のカカリに対し黒2と小ゲイマに受け、白3のスベリ、黒4の三々受け、白5のヒラキまでが定石とされる。黒白双方ともひとまず安定で急な攻めを受けないため、ここまで一段落で他に向かうことになる。 ただし、前述のように周囲の状況が違えばこれが最善とは限らない。黒は下辺を重視したければ黒4の手でaへのハサミやbへのツケなどの手も考えられる。白もこれを嫌えば、白3で単に白5の位置へヒラく手などもある。このように、定石の選択は局面に応じて適切になされなければならない。 参考図書[編集] 『定石大事典 上・下 』日本棋院 鈴木為次郎『囲碁大辞典』(全6冊)誠文堂新光社 呉清源『現代定石活用辞典』(全三巻)誠文堂新光社 石田芳夫『基本定石事典 上・下』日本棋院 高尾紳路『新版 基本定石事典 上・下』日本棋院 山部俊郎監修『現代定石事典』平凡社 小林光一『囲碁定石事典―筋と形に強くなる』学習研究社 『新・早わかり互先定石小事典』『新・早わかり星定石小事典』日本棋院 大竹英雄『定石の選択―碁盤を大きく使う (有段者シリーズ) 』土屋書店 オセロの定石[編集] 対局において、互角となると考えられている打ち方の手順。動物の名前が付けられているものが多いが、動物以外の形に見立てて名前を付けられたもの、考案者・愛用者の名が冠されているものもある。互角でなくても、定石と呼ばれるものも多い。 連珠の定石[編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 将棋・チェスの定跡[編集] 一般的には序盤が定跡化されており、指し手の選択によって、先手有利、後手有利などの変化が生じる。戦法によっては、終盤まで定跡化されていることもある。これらは日々専門家の実戦によって変化している。 チェスの序盤における定跡は特にオープニングと呼ばれ、シシリアン・ディフェンスなど固有名の他、ECOと呼ばれる分類記号も使われる。将棋でも洗練され、多く用いられるようになると山田定跡などの名前が付けられる。 チェスの場合は駒が少なくなっていくため、終盤についても常形の局面が研究されており、これも定跡(エンドゲーム)ということができる。特に残り駒数が両キングを含めて6以下の局面については、コンピュータ解析によってすべて最善の手順が求められ、データベース化されている。 チェッカーの定跡[編集] チェッカーにおいては定跡から連なる組合せは全て調べ尽くされ、先後互いに最善手を指すと引き分けに終わるとの結論がでている。 アプリケーションソフトウェア内の定跡[編集] コンピュータチェスなどのアプリケーションソフトウェアは、定跡をデータベースとしてもっていて、序盤では定跡どおりに指していく。その目的は2つある。 序盤での消費時間を少なくする。 序盤でのミスを回避する。 データベースに記憶されている定跡には限りがある。中盤に入って定跡の末端まで到達してしまうと、それ以降はプログラムの計算による指し手になり、コンピュータのプログラム本来の強弱が発揮される。 上記の状況は、コンピュータ将棋、コンピュータ囲碁、コンピュータオセロなどでも同様である。ただし、コンピュータチェスでは、終盤でも終盤用の定跡データベースを使用する。 関連項目[編集] 升田幸三賞:将棋の新手、妙手の賞。 外部リンク[編集] BruGo.BE - 英語定石事典 オセロ定石の名前と由来 インターネット将棋定跡 --------- 女流棋士 (囲碁) 女流棋士(じょりゅうきし)とは女性のプロ棋士のこと。この項目では、囲碁の女流棋士について解説する。 女流棋士は男女混合の一般棋戦に参加すると同時に、女流しか参加できない女流棋戦に参加することができる。 目次 [非表示] 1 制度 2 歴史 3 女流の棋戦 3.1 現行国内棋戦 3.2 休廃止棋戦 3.3 国際棋戦 4 主な女流棋士 5 男女混合棋戦での実績 6 参考文献 制度[編集] 日本棋院の場合、入段時には年1名から2名の女流特別採用枠がある。関西棋院では、定員は示されていないものの、同様の制度及び研修棋士制度での優遇がある。一般採用枠で入段したのは、2015年現在宮崎志摩子・桑原陽子・加藤啓子・謝依旻の4名のみであり、大多数の女流棋士は特別枠での入段である。 もっとも、入段時の特別枠、および女流棋戦に参加できるという優遇はあるものの、それ以外の昇段規定などは男性棋士と同じである(女流棋戦の成績は昇段に関与しない)。そのため、段位が同じであれば男性棋士であっても女流棋士であっても同等の格と見なされる。将棋の場合、奨励会を経由してプロ棋士になった女性が史上一人も存在せず、女性専用の組織・段制度のもとで戦っており、大きく事情が異なる(将棋の女流棋士を参照。また、将棋にも男女混合棋戦は存在する)。 歴史[編集] 平安時代には囲碁は女性のたしなみとされており、枕草子など古典文学にも碁を打つ女性の姿が描写されている。しかし鎌倉期以降囲碁は男性の楽しむものという傾向が強くなる。江戸期には太夫などが嗜む程度であったが、家元制度の整備とともに18世紀後半に初段に進んだ横関伊保、安井知得仙知の娘で三段まで進んだ安井鉚などが現れる。幕末に著された『大日本囲碁姓名録』(弘化3年)には、二段野口松、豊田源(のち三段)など七名が記されている。林家分家の林佐野は16歳で入段、その後四段まで進み、明治碁界でも方円社設立に関わるなど活躍した。その養子である喜多文子は六段に進み(死後名誉八段を追贈)、日本棋院設立に大きな役割を果たした。喜多は杉内寿子、伊藤友恵など多くの弟子を育て、女流棋士の数も増加していった。 1952年、初の女流タイトル戦である女流選手権(後に女流本因坊戦へ発展解消)が設立される。ここでは杉内寿子、本田幸子、楠光子の本田三姉妹らが活躍した。1970年代からは小川誠子・小林千寿らが活躍し、女流棋戦の数も増加した。平成以降ではこれらのタイトルを青木喜久代・小林泉美・加藤啓子・梅沢由香里・謝依旻・万波佳奈・矢代久美子・鈴木歩ら多数の女性が争う戦国時代に入った。ただし2006年謝が女流最強戦を制し最年少女流棋戦優勝記録を更新すると、2008年には女流名人・女流本因坊・大和証券杯ネット囲碁レディースを制し、2010年には女流棋聖3連覇中の梅沢を下し、女流初の同時三冠を達成。これにより謝が頭一つ抜け出した状態になっている。 2014年、15歳9カ月の藤沢里菜が会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦を制し女流棋戦史上最年少で優勝を飾った。 女流の棋戦[編集] 現行国内棋戦[編集] 1982 - 現在 女流本因坊戦(共同通信社主催) 1989 - 現在 女流名人戦(産経新聞主催) 1998 - 現在 女流棋聖戦(NTTドコモ主催) 2015 - 現在 扇興杯女流最強戦(センコー主催) 2014 - 現在 女流立葵杯(日本棋院主催) 1995 - 現在 ペア碁選手権戦(日本ペア囲碁協会主催、非公式戦) 休廃止棋戦[編集] 1952 - 1981 女流選手権戦(東京タイムズ主催) 1979 - 2002 女流鶴聖戦(日本航空、東京海上火災主催) 1999 - 2008 女流最強戦(東京精密主催) 2002 - 2007 関西女流囲碁トーナメント(テレビ大阪主催) 2004 - 2005 JAL女流早碁戦(テレビ東京主催) 2007 - 2010 大和証券杯ネット囲碁レディース(大和証券主催) 国際棋戦[編集] 1993 翠宝杯世界女流囲碁選手権戦(中国囲棋協会主催) 1994 - 1998 宝海杯世界女子選手権戦(韓国経済新聞、韓国放送公社主催) 1997 - 2003 泰利特杯中韓女流囲碁対抗戦 2000 東方航空杯女子世界プロ囲碁戦(中国囲棋協会主催) 2000 - 2001 興倉杯世界女流囲碁選手権戦(韓国経済新聞、韓国放送公社主催) 2000 - 2001 泰利特杯中韓女流囲碁対抗戦 2002 豪爵杯世界女流囲碁選手権戦 2002 - 2011 正官庄杯世界女子囲碁最強戦(囲碁TV主催) 2007 大理旅行杯女子世界プロ囲碁戦(中国囲棋協会主催) 2007 遠洋地産杯世界女子オープン戦(中国囲棋協会主催) 2010 - 2011 穹窿山兵聖杯世界女子囲碁選手権 2011 - 現在 黄竜士双登杯世界女子囲碁団体選手権 2012 - 現在 華頂茶業杯世界女流団体選手権 主な女流棋士[編集] 喜多文子 吉田操子 増淵辰子 伊藤友恵 女流選手権7期(5連覇を含む) 女流鶴聖1期 杉内寿子 女流選手権4期 女流名人4期 女流鶴聖2期 本田幸子 女流選手権5期 女流本因坊2期 楠光子 女流本因坊5期 女流鶴聖2期 小林禮子 女流選手権6期 女流名人2期 女流鶴聖2期 小川誠子 女流選手権2期 女流本因坊1期 女流鶴聖1期 小林千寿 女流選手権 女流鶴聖 各3期 新海洋子 女流最強位2期 加藤朋子 女流本因坊 女流名人 女流鶴聖 女流最強位 各1期 青木喜久代 女流名人5期 女流棋聖1期 女流鶴聖4期 女流最強位1期 宮崎志摩子 女流鶴聖 女流名人 各1期 小山栄美 女流名人4期 吉田美香 女流本因坊4期 女流鶴聖1期 小西和子 榊原史子 女流鶴聖1期 中澤彩子 女流本因坊 女流鶴聖 各2期 岡田結美子 女流最強位1期 梅沢由香里 女流棋聖3期 知念かおり 女流本因坊4期 女流棋聖5期 矢代久美子 女流本因坊2期 大沢奈留美 女流鶴聖2期 JAL女流早碁位1期 小林泉美 女流本因坊3期 女流名人3期 女流棋聖3期 女流最強位1期 JAL女流早碁位1期 (☆女流史上初のグランドスラム達成) 桑原陽子 女流本因坊1期 加藤啓子 女流名人1期 女流最強位1期 万波佳奈 女流棋聖2期 鈴木歩 女流最強位2期 万波奈穂 謝依旻 女流本因坊7期(5連覇達成。名誉女流本因坊資格を得る) 女流名人9期(5連覇達成。名誉女流名人資格を得る) 女流棋聖7期(5連覇達成。名誉女流棋聖資格を得る) 女流最強位1期 会津中央病院杯1期((☆女流史上初の同時5冠達成、通算獲得タイトル数は女流棋士史上最多) 藤沢里菜 女流本因坊1期 会津中央病院杯1期 女流名人1期 向井千瑛 女流本因坊1期 王景怡 会津中央病院杯1期 石井茜 男女混合棋戦での実績[編集] 現在まで日本の女流棋士が七大タイトルの優勝はもちろん、挑戦権獲得や三大リーグ(棋聖・名人・本因坊の各リーグ戦)入りを果たしたことはない。 ただし2006年に創設された若鯉戦(30歳以下および五段以下の棋士を対象)では、並みいる男性棋士を破り、謝依旻がタイトルを獲得した。 他にも、青木喜久代は決勝戦こそ山田規三生に0勝2敗で敗れたものの、1997年第22期新人王戦準優勝の実績がある。 また、小山栄美は25歳以下の男女混合棋戦であったNEC俊英囲碁トーナメント戦準優勝の実績がある。 小林泉美もまた男性棋士に対して互角以上の戦績を残しており、2003年と2004年には七大タイトルの一つである十段戦の本戦に2年連続出場を果たし、リーグ入り間近に迫ったこともある。 2011年には、鈴木歩が棋聖戦リーグ入りにあと1勝と迫ったが、河野臨に阻まれた。 2016年、2015年賞金ランキングで鈴木歩が七段に昇段する。全六段の中で対象棋戦賞金額が最も高かったものが昇段するが、女流棋戦は対象棋戦ではないため、男女同条件での昇段となる。 海外では2000年、韓国棋院の中国女流棋士芮廼偉が、曺薫鉉(世界タイトル11回優勝)を破って韓国のタイトルの一つ国手を奪取しており、世界選手権戦でもベスト4にまで残った実績を持つ。 これらの実績から、囲碁の男女間の実力差は将棋と比べて小さいとする意見が一般的である。 参考文献[編集] 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年10月) 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年 福井正明、相場一宏『碁界黄金の十九世紀』日本棋院 2007年 --------- 準名人 準名人(じゅんめいじん)とは、第一人者である名人に次ぐ位の人。 目次 [非表示] 1 囲碁の準名人 2 脚注 3 参考文献 4 関連項目 囲碁の準名人[編集] 江戸時代に本因坊道策により段級位制が定められ、名人が九段、上手(御城碁の出場資格者)が七段とされ、名人上手間の手合いであった準名人は八段とされた。 囲碁の準名人の中には名人に劣らぬと評価された者が少なくない。本因坊元丈、安井知得仙知、井上幻庵因碩、本因坊秀和の4棋士は「囲碁四哲」とよばれた。嘉永の頃、安井算知(俊哲)の家に太田雄蔵、伊藤松和、阪口仙得などの棋士が集まり、囲碁四哲の芸の話になって本因坊秀和を筆頭とすることで意見が一致したと伝えられている[1]。 元丈と知得は互角に戦ったライバル同士で、名人は「斯道の最長者が其の威望と古今に絶したる神技を以てする」、すなわち、最強の棋聖の地位という信念から名人を望まなかったと伝えられる[2]。 幻庵因碩は本因坊丈和との名人碁所の地位獲得の争いに敗れ、名人になれなかった[3]。秀和は寺社奉行に碁所願いを出したが、井上家の反発があり、却下されてしまった。その後は幕末の混乱に巻き込まれ、名人碁所の許可を得る機会は失われてしまった[4]。 本因坊秀甫は1881年(明治14年)に準名人に昇り、1884年 - 1885年(明治17、18年ごろ)に名人に推されたが、きっぱり拒絶した[5]。 脚注[編集] 囲碁 段級位制 --------- 十段 (囲碁) 十段(じゅうだん)は、囲碁の棋戦の一つである十段戦で優勝した棋士に贈られるタイトル。日本棋院および関西棋院の昇段制度(初段~九段)とは別個に運営される、独立した称号である。 十段戦[編集] 1961年創設。前身は早碁名人戦。産経新聞社主催。2011年の第49期より森ビルが協賛し、森ビル杯十段戦となる。優勝賞金は1500万円であったが、この時より1200万円に改められ、それに伴いタイトルとしての序列は4位から6位に下がった。更に50期からは750万円に改められ、序列も7位に後退した。翌51期には700万となっている。挑戦手合であり、持ち時間は2002年まで5時間、2010年まで4時間、2011年より3時間。 第49期まで七大タイトル戦では唯一、敗者復活戦方式がとられた。16名からなるトーナメント戦で、一度敗退した者は敗者組トーナメントに回り、その優勝者と本戦トーナメント優勝者とで挑戦者決定戦をおこなった。挑戦者はタイトル保持者と五番勝負をおこない、優勝者を決めた。本戦トーナメントで2勝以上した8名は次期にシードされ、予選勝ち抜きの8名とともに挑戦者決定トーナメントを戦った。 第50期からは20人による単純トーナメント方式となっている。 十段を5連覇、または通算10期以上獲得した棋士は、引退後もしくは60歳以後に名誉十段を名乗る権利を得る。ただ現在のところ4連覇(加藤正夫・王立誠)、通算7期(加藤正夫)が最高で、名誉十段の資格保持者は出ていない(七大タイトルのうち、名誉称号保持者がいないのは十段戦のみである)。 しくみ(第49期まで) [編集] 予選A[編集] 東京予選  予選B・C勝ち上がり26名、シード棋士によるトーナメント。 関西・中部予選  予選B・C勝ち上がり10名、シード棋士によるトーナメント。 最終予選[編集] 東京と中部・関西の予選Aの勝ち上がり18名(東京13名、関西・中部5名)、シード棋士14名によるトーナメントによって本選出場者8名を決める。 本選トーナメント[編集] 最終予選勝ちあがり8名、前期ベスト4、敗者復活2回戦勝者4名の計16名による2敗失格制トーナメント。優勝者が十段位との5番勝負を行う。 歴代十段位と挑戦手合[編集] ◯●は勝者から見た勝敗、網掛けはタイトル保持者。第1期は決勝五番勝負。 期 開催年 優勝 勝敗 準優勝 1 1962 橋本宇太郎 3-1 半田道玄 2 1963 半田道玄 3-1 橋本宇太郎 3 1964 藤沢朋斎 3-2 半田道玄 4 1965 高川格 3-1 藤沢朋斎 5 1966 坂田栄男 3-1 高川格 6 1967 坂田栄男 3-2 藤沢朋斎 7 1968 坂田栄男 3-1 藤沢秀行 8 1969 大竹英雄 3-0 坂田栄男 9 1971 橋本宇太郎 3-2 大竹英雄 10 1972 坂田栄男 3-2 橋本宇太郎 11 1973 坂田栄男 3-0 高木祥一 12 1974 橋本昌二 3-1 坂田栄男 13 1975 林海峰 3-0 橋本昌二 14 1976 加藤正夫 3-2 林海峰 15 1977 加藤正夫 3-0 坂田栄男 16 1978 加藤正夫 3-1 林海峰 17 1979 加藤正夫 3-1 橋本昌二 18 1980 大竹英雄 3-0 加藤正夫 19 1981 大竹英雄 3-2 橋本昌二 20 1982 趙治勲 3-1 大竹英雄 21 1983 加藤正夫 3-2 趙治勲 22 1984 小林光一 3-2 加藤正夫 23 1985 小林光一 3-0 大竹英雄 24 1986 小林光一 3-0 武宮正樹 25 1987 加藤正夫 3-1 小林光一 26 1988 趙治勲 3-2 加藤正夫 27 1989 趙治勲 3-0 林海峰 28 1990 武宮正樹 3-2 趙治勲 29 1991 武宮正樹 3-2 趙治勲 30 1992 武宮正樹 3-1 小林光一 期 開催年 優勝 勝敗 準優勝 31 1993 大竹英雄 3-1 武宮正樹 32 1994 大竹英雄 3-2 小林光一 33 1995 依田紀基 3○○○0 大竹英雄 34 1996 依田紀基 3-1 王立誠 35 1997 加藤正夫 3○●●○○2 依田紀基 36 1998 彦坂直人 3●○○●○2 加藤正夫 37 1999 小林光一 3○○○0 彦坂直人 38 2000 小林光一 3○○○0 中野寛也 39 2001 王立誠 3●○●○○2 小林光一 40 2002 王立誠 3○●○●○2 武宮正樹 41 2003 王立誠 3○●○●○2 高尾紳路 42 2004 王立誠 3○●○○1 張栩 43 2005 趙治勲 3○●●○○2 王立誠 44 2006 趙治勲 3○○●○1 山下敬吾 45 2007 趙治勲 3○○●●○2 山下敬吾 46 2008 高尾紳路 3○○○0 趙治勲 47 2009 張栩 3●○○○1 高尾紳路 48 2010 張栩 3○○○0 山下敬吾 49 2011 井山裕太 3●○●○○2 張栩 50 2012 井山裕太 3○○●○1 張栩 51 2013 結城聡 3●○○●○2 井山裕太 52 2014 高尾紳路 3○●●○○2 結城聡 53 2015 伊田篤史 3●○○●○2 高尾紳路 54 2016 井山裕太 3○○●○1 伊田篤史 55 2017 井山裕太 3○○●○1 余正麒 関連項目[編集] 囲碁タイトルの在位者一覧 棋聖戦 (将棋) - 産経新聞社主催の将棋の棋戦。 十段戦 (将棋) - 同名の将棋の棋戦(終了)。現・竜王戦。 外部リンク[編集] 十段戦(日本棋院) ニュース - 囲碁(MSN産経ニュース) --------- 週刊碁 週刊碁 種類 週刊紙 サイズ タブロイド判 事業者 日本棋院 創刊 1977年 言語 日本語 価格 1部 280円 月極 13,900円/年 公益財団法人日本棋院 本社所在地 日本の旗 日本 〒102-0076 東京都千代田区五番町7-2 業種 情報・通信業 テンプレートを表示 週刊碁(しゅうかんご)は日本棋院が発行する、囲碁の新聞である。1977年発刊。毎週月曜日に発売。棋戦結果や、囲碁のイベント情報、プロ棋士のニュース、講座、記者のコラムなどを掲載したタブロイド紙で書店、駅売店、郵送による定期購読などで販売。 代表的な記事・企画[編集] 「新初段シリーズ」新入段者が一線棋士に胸を借りて対局する企画で、毎年の新入段者が出場する。 「すごもり君」藤井レオの連載4コマ漫画。 1997年に「プロアマ打ち込み真剣五番勝負」を開催。(加藤充志 3-2 坂井秀至、高尾紳路 4-1 平岡聡) 1997年に1000号記念企画として、16人によるトーナメント「十代棋士チャンピオン戦」(山下敬吾が優勝)、「プロプロ打ち込み真剣五番勝負」(秋山次郎 3-2 羽根直樹)を開催。 「サルスベリがとまらない」SF作家新井素子によるエッセイ。2006年10月から連載。 関連項目[編集] 日本棋院 外部リンク[編集] 週刊碁ブログ(「週刊碁」編集・整理班によるブログ) --------- ジュニア本因坊戦 ジュニア本因坊戦(-ほんいんぼうせん)は、アマチュア囲碁の大会である。小・中学生の囲碁日本一を決める全日本こども囲碁大会として、1998年より開始。2006年より毎日新聞社が主催に加わり、特別協賛のコニシのブランド名を冠したボンド杯ジュニア本因坊戦と名称が変わった。2010年からは、ゆうちょ銀行の特別協賛に変わり、ゆうちょ杯ジュニア本因坊戦と名称を変更している。 少年少女囲碁大会、こども棋聖戦と併せて、小中学生の3大全国大会と目される(ただし、こども棋聖戦は小学生のみ)。また優勝者には、全日本アマチュア本因坊戦への出場権が与えられる。 主催 毎日新聞社 共催 全国こども囲碁普及会 後援 日本棋院、関西棋院 特別協賛 ゆうちょ銀行 協力 郵便局株式会社 大会の模様は囲碁・将棋チャンネルの特別番組で放映される。 目次 [非表示] 1 方式 2 歴代優勝者及び良績者 3 関連項目 4 外部リンク 方式[編集] ブロック(2014年現在、北海道・東北・東日本・神奈川・静岡・中部・北陸・関西・中国・山陰・四国(四国・瀬戸内)・福岡・九州(大分・都城)・沖縄)による地区予選により代表が選出され、代表による全国大会が行われる。 スイス方式によるリーグ戦。得点の高い順に優勝・入賞者が決められる。 歴代優勝者及び良績者[編集] 回次 年度 出身・学年 1 1998 優勝:井山裕太(大阪・小3) 2 1999 優勝:黒沢範行(兵庫・小6)、準優勝:向井千瑛(東京・小6) 3 2000 優勝:田沢和也(北海道・中2)、準優勝:向井千瑛(東京・中1) 4 2001 優勝:三根康弘(福岡・中2) 5 2002 優勝:日野大地(大分・中1) 6 2003 優勝:玉井伸(東京・中1)、準優勝:日野大地(大分・中2) 7 2004 優勝:安達利昌(東京・中1)、準優勝:富士田明彦(北海道・小6) 8 2005 優勝:金沢真(神奈川・小6) 9 2006 優勝:山下寛(静岡・中3) 10 2007 優勝:癸生川聡(栃木・小6) 11 2008 優勝:玉井一輝(岐阜・中2) 12 2009 優勝:玉井一輝(岐阜・中3) 13 2010 優勝:石原康佑(神奈川・中3) 14 2011 中止(2011年東北地方太平洋沖地震の影響による) 15 2012 優勝:浜崎公輔(兵庫・中3) 16 2013 優勝:水精次元(兵庫・中2) 17 2014 優勝:金遼(静岡・中3) 関連項目[編集] 少年少女囲碁大会 こども棋聖戦 全国高校生囲碁チャンピオン大会 外部リンク[編集] ゆうちょ杯 ジュニア本因坊戦 --------- 首相杯争奪高段者トーナメント 首相杯争奪高段者トーナメント(しゅしょうはいそうだつこうだんしゃ-)または首相杯争奪戦(しゅしょうはいそうだつせん)は、日本の囲碁の棋戦。1957年(昭和32年)開始、1981年(昭和56年)25期までで終了。若手棋士の飛躍の場としての役割を果たした。 主催 共同通信 方式[編集] 出場者は、日本棋院東京本院五段から七段までの棋士。 トーナメント戦で、決勝は1-18期は一番勝負、19期より三番勝負。 コミは、1-18期は4目半、19期より5目半。 持時間は各4時間。 歴代優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1957年 藤沢秀行 - 大平修三 1958年 大窪一玄 - 梶原武雄 1959年 長谷川章 - 篠原正美 1960年 大平修三 - 鈴木五良 1961年 加納嘉徳 - 榊原章二 1962年 林有太郎 - 大窪一玄 1963年 榊原章二 - 篠原正美 1964年 三輪芳郎 - 榊原章二 1965年 大竹英雄 - 影山利郎 1966年 星野紀 - 影山利郎 1967年 鈴木五良 - 大枝雄介 1968年 石田芳夫 - 高木祥一 1969年 高木祥一 - 石榑郁郎 1970年 小島高穂 - 石榑郁郎 1971年 武宮正樹 - 黒沢忠尚 1972年 小林光一 - 趙治勲 1973年 武宮正樹 - 加藤正夫 1974年 小林光一 - 戸沢昭宣 1975年 高木祥一 2-1 小島高穂 1976年 小林光一 2-0 石田章 1977年 淡路修三 2-1 福井正明 1978年 中村秀仁 2-0 金島忠 1979年 春山勇 2-0 梅木英 1980年 福井正明 2-1 王立誠 1981年 淡路修三 2-0 片岡聡 参考文献[編集] 『囲碁年鑑』日本棋院 --------- 小・中学校囲碁団体戦 小・中学校囲碁団体戦(しょうちゅうがっこういごだんたいせん)は、2004年に創設された小学校、中学校の囲碁日本一を決める大会。小学校の部と中学校の部で、それぞれ都道府県予選を勝ち抜いた代表校による全国大会を行う。 主催 日本棋院、産経新聞 後援 NHK、文部科学省、文化庁(1回~7回) 特別協賛 日野自動車、ベネッセコーポレーション(2回) 協賛 ANA、東京コカ・コーラボトリング、囲碁・将棋チャンネル、ロッテ(7回~)、日能研(1回~7回)ライフスポーツ振興財団(2回)、桜ゴルフ(3回) 学校対抗となった2回以降の出場者でその後プロ棋士となった者は、2011年まで藤沢里菜、伊藤優詩らがいる。 方式[編集] 各校3名での出場。他校の生徒とは、基本的にチームを組めない。またメンバーの入れ替えも不可。段位の順に、主将・副将・三将としこの順も入れ替えることができない。第1回のみ小学生2名、中学生3名の計5名で構成された都道府県混成チームによる対抗戦であった。 各都道府県代表校による予選リーグを行い、リーグ1位が決勝トーナメントに進出する。 互先・先番6目半コミ出しとし、主将がニギって交互に白番黒番を入れ替える。 持時間は1人40分で秒読みはなし。切負あり。決勝戦のみ、持時間1人30分、一手10秒の秒読みとする。 優勝校チームには文部科学大臣杯が授与され、3位までカップと賞状、8位まで盾と賞状および各チーム個人に賞状が授与される。また、児童に対する普及に熱心であった加藤正夫の名を冠したフェアプレー賞が存在する。 歴代優勝校[編集] 学校対抗戦となった、第2回以降。第1回は、東京Dチームが優勝。 回次 年度 小学校名 中学校名 2 2005 中野区立東中野小学校(東京都) 岩見沢市立清園中学校(北海道) 3 2006 中野区立東中野小学校(東京都) 桐朋中学校(東京都) 4 2007 新宿区立市谷小学校(東京都) 浅野中学校(神奈川県) 5 2008 さいたま市立北浦和小学校(埼玉県) 栃木市立栃木南中学校(栃木県) 6 2009 千代田区立九段小学校(東京都) 洛南高等学校附属中学校(京都府) 7 2010 新潟市立新津第三小学校(新潟県) 栃木市立栃木南中学校(栃木県) 8 2011 川口市立飯塚小学校(埼玉県) 駒場東邦中学校(東京都) 9 2012 千代田区立九段小学校(東京都) 広島学院中学校(広島県) 10 2013 千代田区立九段小学校(東京都) 開成中学校(東京都) 11 2014 長久手市立西小学校(愛知県) 麻布中学校(東京都) 外部リンク[編集] 第11回小・中学校囲碁団体戦 --------- 小学生将棋名人戦 さなる杯小学生将棋名人戦( -はい しょうがくせいしょうぎめいじんせん)は、日本将棋連盟主催、NHK後援、さなる(第41回より[1])の協賛で行われている、小学生の将棋大会である。「小学生将棋名人戦」、「小学生名人戦」とも呼ばれる。 目次 [非表示] 1 概要 2 大会概要 3 歴代ベスト4 4 エピソード 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 概要[編集] 第23回から第32回までは公文教育研究会特別協賛であったため、「公文杯小学生将棋名人戦」という名称であった。第33回から小学館が協賛となり「小学館杯小学生将棋名人戦」という名称になり、第35回から第40回は集英社が協賛に加わったことで「小学館・集英社杯小学生将棋名人戦」となっていた。 準決勝以降の3局は、「決定! こども将棋名人」という番組名で、NHK教育テレビジョンで毎年4 - 5月頃にテレビ放送される(録画)。将棋のアマチュア大会で、NHKで毎年決まって放送されるのは、この大会と「全日本アマチュア将棋名人戦」(決勝のみ、録画)だけである。 この大会は、羽生善治、佐藤康光、森内俊之、屋敷伸之、渡辺明、久保利明といった、のちに何度もプロ将棋界でタイトルホルダーとなった者を輩出した。 大会概要[編集] 各都道府県予選大会(3月頃) … 各都道府県で代表1名(道府県各1名、東京区内1名、東京多摩地区1名の合計48人)を決める。 東日本大会・西日本大会(4月) … 東西それぞれで行われる。中部地方のうち福井県の代表だけは、西日本大会に出場する。まず、都道府県代表24名(加えて招待選手も若干名いる場合あり)が原則4名ずつに分かれてリーグ戦を行い、半数程度をリーグ通過者とする。そして、リーグ通過者(原則12名)が2つの山に分かれてトーナメント戦を行い、準決勝進出者2名(東西合わせて4名)を決める。 準決勝・決勝(4月下旬 - 5月上旬頃) … 東京・渋谷のNHK放送センターや将棋会館で行われる。その模様はNHKが収録し、後日、NHK教育テレビで放送される。 歴代ベスト4[編集] 氏名欄、備考欄の中の数字は、学年を表す(都道府県予選の時点での学年より1つ上の学年で表すのが慣例になっているので、それに従った)。 赤塗りは、後にプロの棋士または女流棋士になった者。 青塗りは、2度目のベスト4入り。 氏名の太字は女子。 回 年 優勝 準優勝 3位 3位 備考 1 1976 坂東明朗 大阪・天美南・6 日浦市郎 北海道・5 2 1977 達正光 大阪・呉服・6 庄司俊之 宮城・南光台・3 駒田常明 古口基 3 1978 吉田圭吾 千葉・稲丘・6 中山禎一 君島英史 伊藤直寛 4 1979 庄司俊之 宮城・南光台・5 木村哲典 鈴木修 中座真 北海道・4 5 1980 小寺淳人 千葉・高浜ニ・6 畠山成幸 神奈川・5 高田一正 杉本昌隆 愛知・6 6 1981 高谷新也 大阪・神津・6 中井広恵 北海道・6 佐藤康光 京都・八幡四・6 畠山成幸 神奈川・6 敗退: 羽生5,村山聖6,畠山鎮6,近藤4 7 1982 羽生善治 東京・元木・6 山下雄 北海道・幌西・6 斎田純一 神奈川・小糸・5 森内俊之 神奈川・みたけ台・6 8 1983 斎田純一 神奈川・小糸・6 山内得立 屋敷伸之 北海道・6 高橋一恵 9 1984 窪田義行 茨城・寺原・6 金沢孝史 北海道・5 松本秀介 池本秀史 10 1985 野月浩貴 北海道・光陽・6 上田純一 新潟・6 竹内俊弘 行方尚史 青森・6 11 1986 鈴木大介 東京・金井・6 三浦邦治 埼玉・河合・6 久保利明 兵庫・氷丘南・5 立石径 12 1987 田村康介 東京・大久保・6 北浜健介 神奈川・杉本・6 青木雄一郎 金内辰明 13 1988 松尾哲也 大阪・登美丘西・6 西尾明 神奈川・柏尾・3 林光 小堀晃広 神奈川・中津・4 14 1989 小堀晃弘 神奈川・中津・5 阪口悟 大阪・高陽・5 津山慎悟 西野嘉一 15 1990 中野智弘 神奈川・市場・6 徳竹元気 長野・二子・6 阪口悟 大阪・高陽・6 西尾明 神奈川・柏尾・5 敗退: 本田6 16 1991 清水上徹 北海道・栄南・6 飯島栄治 東京・平久・6 津山慎悟 村田智弘 兵庫・高砂・4 17 1992 島村健一 東京・戸塚三・6 佐藤恵介 宮城・金田・6 山崎隆之 広島・6 横山泰明 東京・6 18 1993 村田智弘 兵庫・高砂・6 斎藤貴臣 宮城・住吉台・6 片上大輔 広島・6 馬見塚明 敗退: 渡辺明3 19 1994 渡辺明 東京・宝木塚・4 長生治彦 大阪・津田・6 吉川隆弥 山崎健太 20 1995 村山慈明 東京・日野三・5 大下慧香 長野・徳間・6 和田真治 酒井真理 21 1996 中平寧 富山・長岡・5 天野貴元 東京・八王子四・5 福間貴斗 大阪 山本正樹 22 1997 和田澄人 兵庫・末広・5 山口大志 福岡・大利・6 石井直樹 田中明郎 23 1998 髙﨑一生 宮崎・大宮・6 船江恒平 兵庫・東神吉南・5 荒木宣貴 東京・豊玉・6 戸辺誠 茨城・勝倉・6 東敗退: 金井6,中村太4,広瀬6 西敗退: 糸谷4,佐藤天5,牧野4 24 1999 丹波健二 大阪・佃・6 伊藤大悟 静岡・6 吉田拓未 広島・西深津・4 西村尚通 青森・6 25 2000 都成竜馬 宮崎・江平・5 中村太地 東京・府中三・6 増本敬 長崎・6 伊藤康了 東京・6 西敗退: 稲葉6 26 2001 吉田拓未 広島・西深津・6 黒沢怜生 埼玉・熊谷東・4 澤田真吾 三重・玉垣・4 横田淳史 兵庫・上甲子園・5 西敗退: 大石6 27 2002 北山開生 大阪・太子橋・6 横田淳史 兵庫・上甲子園・6 黒沢怜生 埼玉・熊谷東・5 澤田真吾 三重・玉垣・5 28 2003 杉本和陽 東京・多摩川・6 工藤俊介 青森・長島・6 西田拓也 京都・東和・6 菅井竜也 岡山・御津・5 西敗退: 里見6 29 2004 佐々木勇気 埼玉・鷹野・4 菅井竜也 岡山・御津・6 伊藤沙恵 東京・武蔵野二・5 寺尾侑也 福井・日新・6 東敗退: 永瀬6 30 2005 入山稜平 愛知・東桜・6 青木翔 埼玉・妻沼南・6 児玉星湖 滋賀・京女大附・6 桝田悠介 兵庫・大野・6 東敗退: 高見6 31 2006 石川優太 三重・川越北・6 島田健太 広島・世羅中央・6 長谷部浩平 栃木・小山城東・6 千田翔太 大阪・箕面北・6 32 2007 佐伯駿介 新潟・女池・4 近藤誠也 千葉・勝田台・5 古森悠太 大阪・五百住・6 佐々木大地 長崎・鶏鳴・6 33 2008 山岸亮平 青森・小中野・5 黒田尭之 愛媛・味酒・6 下西哲伸 奈良・奈教大附・5 増田康宏 東京・武蔵野・5 34 2009 徳田拳士 山口・福川・6 山川泰熙 東京・松沢・5 川村悠人 神奈川・西梶ヶ谷・5 山口孝貴 宮崎・沖水・6 35 2010 山川泰熙 東京・松沢・6 本川卓佐 京都・北白川・6 中七海 兵庫・本山三・6 堀田久里生 大阪・豊島・5 36 2011 宮嶋健太 岐阜・本郷・6 岡部怜央 山形・朝暘六・6 上野絢矢 京都・長岡五・6 横山友紀 兵庫・平岡北・6 37 2012 森本才跳 兵庫・平木・5 森田富裕 千葉・稲毛・6 武沢涼介 北海道・砂川中央・6 新田霧斗 宮崎・住吉南・6 38 2013 大中智哉 山口・徳山・5 岡本詢也 兵庫・東神吉・5 松村幸輝 埼玉・明峰・6 伊藤裕紀 三重・三重西・6 39 2014 北村啓太郎 東京・毛利・5 髙田明浩 岐阜・陵南・6 村田楽 広島・湯田・6 岡本詢也 兵庫・東神吉・6 40 2015 岩松達哉 東京・東深沢[2]・6 正道直 茨城・白山西・5 片山史龍 東京・元加賀・5 上野裕寿 兵庫・野口南・6 41 2016 市岡真悟 大分・大分大附・4 正道直 茨城・取手西・6 菅野晴太 大阪・山之内・6 渋江朔矢 愛知・稲生・6 42 2017 圓谷晴揮 東京・小野学園・6 高坂直矢 千葉・松戸東部・4 岡崎忠伸 宮崎・宮崎・5 高橋健 滋賀・平野・6 エピソード[編集] 第25回(2000年)の準決勝・伊藤-中村戦で伊藤が四段目の角を成ってしまい、反則負けとなった。 第35回(2010年)の東日本大会では、招待選手2名が2名とも準決勝に進出し、予選を勝ち上がった各都道府県代表が全滅した。その2名とは、第7回小学館学年誌杯争奪全国小学生大会グランドチャンピオン戦(2009年12月)の優勝・準優勝者であるため、優勝の堀田久里生は大阪府在住でありながら東日本の代表となった。 第36回(2011年)は、東日本大震災の影響で日程が大幅に延期され、ベスト4以降の決勝大会は8月14日に行われた[3]。 第37回(2012年)の準決勝で、反則負けである「二歩」が出現(新田対森田の対局で、新田が「二歩」を指した)。 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 第41回さなる杯小学生将棋名人戦のお知らせ --小学生将棋名人戦、「株式会社さなる」が協賛に--日本将棋連盟、2015年10月1日 ^ 京都府予選に出場し西日本代表となったが、4月より東京に移住している。 ^ 第36回小学生将棋名人戦【決勝大会】 関連項目[編集] 将棋のアマチュア棋戦 小学館の学年別学習雑誌#小学館学年誌杯争奪全国小学生将棋大会 - 総合優勝決定トーナメント上位2名に対して、名人戦東日本大会の出場権が与えられた。また、小学生向けの将棋の対局を題材とした漫画の連載が2002年から2010年にかけて行われた。 外部リンク[編集] 日本将棋連盟(小学生将棋名人戦・小学館杯小学生名人戦) --------- 少年少女囲碁大会 Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年2月) 少年少女囲碁大会(しょうねんしょうじょいごたいかい)は、小学生、中学生の囲碁日本一を決める大会である。小学生の部と中学生の部で、それぞれ都道府県予選を勝ち抜いた代表選手による全国大会を行う。1980年から開催されており、優勝者を小学生名人、中学生名人と呼ぶこともある。第27回からの名称は文部科学大臣杯少年少女囲碁大会である。 目次 [非表示] 1 概要 2 方式 3 優勝者及び大会出身の棋士など 4 記録 5 主催者等 6 関連項目 7 外部リンク 概要[編集] 決勝戦は毎年NHKにてテレビ放送され、第14回からは日本棋院の特別対局室「幽玄の間」で行われる。 過去の優勝、入賞者には、その後プロ棋士となった者も多く、囲碁の普及のとともに、新しい才能の発掘にも大きな効果を挙げている。特に、初期の第1回、第2回の小学生の部では、ベスト8に入賞した者14名のうち、10名もがプロ棋士になっている。 また、小学生の部では、2年生の優勝が2回、女子の優勝が4回ある(2014年時点)。中でも第7回大会の小学生の部は、4年生の高尾紳路、2年生の山下敬吾の、後にトッププロとなる二人の決勝戦となり、後まで語り継がれる[誰に?]ようになった。2年生での優勝は山下と井山裕太の二人が記録した。坂井秀至は6年生で小学生の部優勝、続いて中学生の部3連覇の計4連覇を記録した。 方式[編集] 第1-25回は、各都道府県代表選手によるトーナメントである。26回からは、代表選手を16ブロックの予選リーグに分け、各1位の選手によるトーナメントである。ベスト8までが入賞者として表彰される。 優勝者及び大会出身の棋士など[編集] 回次 年度 小学生 中学生 1 1980 優勝:横田茂昭(岡山)、準優勝:斎藤正(大阪)、3位:山田和貴雄(大阪)、4位:青木喜久代、6位:原幸子(東京)、7位:三村智保(千葉) 優勝:青木紳一(神奈川) 2 1981 優勝:新垣朱武(大阪)、準優勝:横田茂昭、4位:森田道博(千葉)、5位:大垣雄作(東京)、6位:三村智保、7位:結城聡(兵庫) 優勝:村上弘文(福岡)、3位:水野弘美(富山) 3 1982 優勝:高野英樹(東京)、3位:結城聡、4位:松原大成(群馬)、8位:鶴丸敬一(神奈川) 優勝:三村智保 4 1983 優勝:宮崎龍太郎(埼玉)、準優勝:松原大成、5位:坂井秀至(兵庫)、6位:高橋秀夫(東京)、7位:祷陽子 (千葉) 優勝:高野英樹、4位:鶴丸敬一 5 1984 優勝:倉橋正行(大阪)、準優勝:坂井秀至、3位:矢田直己(和歌山) 優勝:平岡聡(滋賀) 6 1985 優勝:坂井秀至、4位:黒滝正憲(青森) 優勝:高野英樹、5位:松原大成、6位:古家正大(大阪) 7 1986 優勝:山下敬吾(北海道)、準優勝:高尾紳路(千葉)、5位:加藤充志(東京) 優勝:坂井秀至 8 1987 優勝:黒滝正憲、準優勝:山下敬吾、5位:黒滝正樹(青森)、8位:甲田明子(東京) 優勝:坂井秀至、3位:田原靖史(山口) 9 1988 優勝:山下直紀(東京)、準優勝:山下敬吾(東京)、3位:秋山次郎(東京)、4位:黒滝正樹、5位:荒木一成(奈良)、6位:大沢奈留美(埼玉) 優勝:坂井秀至、4位:鈴木嘉倫(愛知) 10 1989 優勝:溝上知親(長崎)、準優勝:佐々木毅(兵庫)、5位:中野泰宏(福岡)、6位:長谷川広(島根)、8位:藤井秀哉(京都) 優勝:黒滝正樹(青森)、準優勝:久保秀夫(熊本) 11 1990 優勝:長谷川広(島根)、準優勝:佐藤洋平(北海道)、5位:中島美絵子、6位:井澤秋乃(奈良) 優勝:大野鉄平(大阪) 12 1991 優勝:松本武久(香川)、3位:長谷川広、7位:竹清勇(神奈川) 優勝:豊田融(千葉) 13 1992 優勝:松本武久(香川)、3位:山森忠直(福井)、4位:星川愛生(香川) 優勝:新郷仁士(千葉) 14 1993 優勝:宮平博史(沖縄)、4位:石井茜(埼玉) 優勝:伊藤武男(奈良)、6位:山森忠直 15 1994 優勝:石井茜、準優勝:大橋拓文(東京)、7位:久保田大(兵庫)、8位:山田晋次(静岡) 優勝:佐藤夏樹(東京) 16 1995 優勝:万波佳奈(東京)、準優勝:白石勇一(神奈川)、6位:望月研一(神奈川) 優勝:森下裕介(京都)、3位:山森忠直、5位:石井茜 17 1996 優勝:村上深(長野)、準優勝:大橋拓文(東京)、3位:向井梢恵(東京) 優勝:森下裕介、6位:山田晋次(東京) 18 1997 優勝:井山裕太(大阪)、準優勝:万波奈穂(東京)、5位:向井千瑛(東京) 優勝:加藤祐輝(愛知)、5位:大場惇也(東京)、6位:村上晶英(千葉) 19 1998 優勝:井山裕太(大阪)、5位:下坂美織(北海道)、6位:向井千瑛 優勝:山本智裕(愛知) 20 1999 優勝:向井千瑛(東京)、2位: 周仲翔(鳥取) 優勝:田澤和也(北海道) 21 2000 優勝:日野大地(大分)、3位:志田達哉(福井)、5位:兆乾(兵庫) 優勝:周仲翔(鳥取)5位:向井千瑛 22 2001 優勝:内田修平(山梨)、準優勝:兆乾(兵庫) 優勝:山本拓徳(広島) 23 2002 優勝:闇雲翼(三重)、準優勝:玉井伸(沖縄)、4位:田尻悠人(石川) 優勝:糸山剛志(熊本)、準優勝:畠中星信(熊本) 24 2003 優勝:日野立誠(大分)、5位:安達利昌(東京)、8位:富士田明彦(北海道) 優勝:日野大地、3位:玉井伸(東京)、5位:田尻悠人(石川) 25 2004 優勝:金沢真(神奈川)、準優勝:竹内康祐( 宮崎 )、6位:伊田篤史(三重)、7位:藤村洋輔(北海道) 優勝:日野大地、準優勝:鈴木伸二(北海道)、3位:田中伸幸 (福岡 )、5位:風間隼( 宮城 ) 26 2005 優勝:夏冰(京都)、準優勝:大西研也(千葉)、4位:横塚力(東京) 優勝:山下寛(静岡)、5位:吉川一(広島)、7位:伊藤優詩(北海道) 27 2006 優勝:藤村洋輔(北海道)、8位:谷口徹(兵庫) 優勝:日野立誠 28 2007 優勝:谷口徹(兵庫)、3位:佐田篤史(岡山)、8位:渡辺貢規(兵庫) 優勝:夏冰、準優勝:大谷直輝(京都) 29 2008 優勝:平野翔大(東京)、4位:阿部良希(兵庫) 優勝:夏冰 30 2009 優勝:津田裕生(埼玉)、準優勝:六浦雄太( 愛知 )、7位:星合智保(東京) 優勝:癸生川聡(栃木)、5位:飯田純也( 広島 ) 31 2010 優勝:重田一就(神奈川)、2位:水精次元(兵庫)、3位:奈須春樹(宮崎)、7位:芝野虎丸( 神奈川 ) 優勝:大表拓都(富山)、2位:佐野飛鳥(神奈川)、3位:杉田俊太朗(愛知) 32 2011 優勝:大西竜平(東京)、2位:松浦直之(愛知)、3位:川口飛翔(埼玉) 優勝:坂倉健太(広島)、2位:杉田俊太朗(愛知)、3位:大表拓都(富山) 32 2012 優勝:林隆羽(埼玉)、2位:福島里優(東京)、3位:伊了 (東京) 優勝:中島光貴(埼玉)、2位:宮岸黎明(京都)、3位:谷麻衣子(神奈川) 33 2013 優勝:加藤千笑(岐阜)、2位:笠原悠暉(兵庫)、3位:五十嵐成也(新潟) 優勝:水精次元(兵庫)、2位:宮脇優太(大分)、3位:坂室智史(東京) 34 2014 優勝:北芝礼(愛知)、2位:王欣鴻(東京)、3位:李思雨(東京) 優勝:髙嶋渓吾(神奈川)、2位:牛栄子(東京)、3位:松本直太(長崎) 35 2015 優勝:池田陽輝(千葉)、2位:福岡航太朗(東京)、3位:王欣鴻(東京) 優勝:林朋哉(埼玉)、2位:林隆羽(埼玉)、3位:今分太郎(京都) 36 2016 優勝:三浦太郎(東京)、2位:徐文燕 (東京)、3位:末原蓮(東京) 優勝:森田拳(京都)、2位:王欣鴻(東京)、3位:渡辺竜規(兵庫) 記録[編集] 最年少学年(小学校) 2年生(山下敬吾・井山裕太) 連覇 小学 2連覇 松本武久(12~13回)、井山裕太(17~18回) 中学 3連覇 坂井秀至(7~9回) 2連覇 森下裕介(16~17回)、日野大地(24~25回)、夏冰(28~29回) 小中学優勝 高野英樹(小学校3回、中学校4回・6回)、坂井秀至(小学校6回、中学校7~9回)、日野大地(小学校21回、中学校24~25回)、日野立誠(小学校24回、中学校27回)、夏冰(小学校26回、中学校28~29回) 女子優勝者 石井茜(15回)、万波佳奈(16回)、向井千瑛(20回)、加藤千笑(33回) 兄弟姉妹優勝 山下直紀(小学校9回)、山下敬吾(小学校7回) 日野大地(小学校21回、中学校24~25回)、日野立誠(小学校24回、中学校27回) 主催者等[編集] 主催:日本棋院 後援:NHK、文部科学省(26回 - )、毎日新聞社(26回 - 31回)、文化庁(-31回) 特別協賛:大成建設(13回 - ) 協賛:ANA(26回 - )、ロッテ(31回 - )、日本標準(30回 - 32回)、日能研(27回 - 30回) 協力:伊藤園(27回 - ) 関連項目[編集] ジュニア本因坊戦 こども棋聖戦 外部リンク[編集] 日本棋院「第37回少年少女囲碁大会」 --------- 女流アマ囲碁都市対抗戦 女流アマ囲碁都市対抗戦(じょりゅうアマいごとしたいこうせん)は、日本の囲碁の女性アマチュア団体戦。各県・地方の代表チームが、1チーム5名で出場する。1963年(昭和38年)から開始し、毎年各地の囲碁団体が持ち回りで開催。有段者から級位者までが一堂に集って行われる。 第1回は、東京、大阪、京都、名古屋の4チームによって行われ、その後参加チームが増加。1979年からは棋力によるA、Bクラス別大会となり、以後クラス分けを増加し、1991年にはA~C各紅組白組の6クラス、1996年には7クラス、1997年は10クラス、2004年は11クラス、2005年からは9クラス、2009年は10クラスで行われた。 実施方法は、参加チームが増えてからは予選リーグ3試合と、上位4チームによるトーナメント戦。 成績[編集] 回次 年度 開催地 Aクラス優勝チーム(紅組) Bクラス優勝チーム(紅組) 1 1963 京都 2 1964 東京 3 1965 京都 4 1966 京都 5 1967 関東 6 1968 東京 7 1969 関東 8 1970 北海道 9 1971 九州 10 1972 名古屋 11 1973 九州 12 1974 九州 13 1975 京都 14 1976 九州 15 1977 京都 16 1978 白ゆり会(神奈川) 17 1979 福岡県 白ゆり会(神奈川) 名古屋B 18 1980 白ゆり会(神奈川) 19 1981 大阪 20 1982 紅梅会(九州) 21 1983 大阪市 紅梅会A1(九州) 芙蓉会B1(高知) 22 1984 紅友会(東京) 23 1985 熊本市 紅友会A1(東京) 杏花会(長野) 24 1986 長野県 大阪 25 1987 操友会(京都) 26 1988 熱海市 紅友会(東京) 掬月会(香川) 27 1989 名古屋市 紅梅会(九州) 青葉会(宮城県) 28 1990 青森市 紅友会A(東京) でいご会(沖縄) 29 1991 琴平町 紅梅会(九州) 掬月会A(香川) 30 1992 大阪市 なにわ会A(大阪) でいご会(沖縄) 31 1993 旭川市 白ゆり会(横浜市) 不来方会(岩手) 32 1994 沖縄 白ゆり会A(神奈川) 五月会A(富山) 33 1995 白ゆり会(神奈川) 34 1996 熊本市 熊悠会A(熊本) 浜遊会B 35 1997 広島 白ゆり会(神奈川) でいご会(沖縄) 36 1998 大町市 白ゆり会A(神奈川) 芙蓉会A 37 1999 高山市 白ゆり会A(神奈川) 白ゆり会B(神奈川) 38 2000 長崎市 熊悠会(熊本) 芝蘭会(愛媛) 39 2001 花巻市 白ゆり会A(神奈川) 熊悠会A(熊本) 40 2002 宮崎市 操友会A(京都) 緋松会 41 2003 旭川市 白ゆり会(横浜市) 掬月会(高松市) 42 2004 神戸市 操友会A(京都) 釆美会(奈良) 43 2005 出雲市 白ゆり会A(神奈川) 芙蓉会A(高知) 44 2006 別府市 白ゆり会A(神奈川) 北星会(北海道) 45 2007 岡山市 操友会A(京都) 北星会A(北海道) 46 2008 新潟市 操友会A(京都) 操友会B(京都) 47 2009 熊本市 白ゆり会A(神奈川) 紅葉会(広島) 48 2010 尾道市 白ゆり会A(神奈川) 如月会(北海道) 49 2011 那覇市 参考文献[編集] 『囲碁年鑑』日本棋院 1980-2011年 --------- 女流鶴聖戦 女流鶴聖戦(じょりゅうかくせいせん)は、囲碁の女流棋士による棋戦。鶴聖戦とともに1979年創設、2002年まで行われた。1985年まではTBSでテレビ放映された。2003年からに鶴聖戦とともにリニューアルされ、テレビ東京のスーパー早碁内で放映されるJAL女流早碁となった。 主催 日本航空、(16-23期)東京海上火災 対局規定[編集] 出場者は日本棋院と関西棋院の16名。 トーナメント戦で行う。第1期は決勝三番勝負、2期以降は一番勝負。 持時間は、2回戦までは各60分、準決勝からは各10分。秒読み30秒。 コミは5目半。 優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1979年 伊藤友恵 2-1 楠光子 1980年 鈴木津奈 - 杉内寿子 1981年 小林禮子 - 楠光子 1982年 小林禮子 - 楠光子 1983年 杉内寿子 - 本田幸子 1984年 楠光子 - 本田幸子 1985年 楠光子 - 芦田磯子 1986年 杉内寿子 - 小林禮子 1987年 小川誠子 - 杉内寿子 1988年 宮崎志摩子 - 小川誠子 1989年 小林千寿 - 小川誠子 1990年 榊原史子 - 杉内寿子 1991年 青木喜久代 - 宮崎志摩子 1992年 青木喜久代 - 吉田美香 1993年 小林千寿 - 吉田美香 1994年 青木喜久代 - 楠光子 1995年 中澤彩子 - 小林千寿 1996年 中澤彩子 - 小林泉美 1997年 小林千寿 - 小西和子 1998年 吉田美香 - 楠光子 1999年 大沢奈留美 - 小林泉美 2000年 青木喜久代 - 大沢奈留美 2001年 加藤朋子 - 小林泉美 2002年 大沢奈留美 - 梅沢由香里 カテゴリ: 日本の囲碁の棋戦日本航空 --------- 女流棋聖戦 曖昧さ回避 この項目では、日本の女流棋聖戦について説明しています。 韓国の女流棋聖戦については「女流棋聖戦 (韓国)」をご覧ください。 ドコモ杯女流棋聖戦(ドコモはい じょりゅうきせいせん)は、囲碁の女流棋士による棋戦。1997年に創設。囲碁・将棋チャンネル(パーフェクTVのちスカパー!プレミアムサービス)で放映される。 主催 日本棋院 協力 関西棋院 協賛 NTTドコモ 優勝賞金 500万円 方式[編集] 予選は自由参加。本戦は、前年挑戦手合敗者とタイトルホルダーのシードと、予選を勝抜き者の計16名によるトーナメント戦。第1期は決勝三番勝負、3期以降は前年優勝者とトーナメント優勝者による挑戦手合三番勝負。 コミは、1-6期は5目半、7期以降6目半。 持時間は1手30秒、1分単位で10分の考慮時間。 5連覇で名誉女流棋聖の資格を得る。 歴代優勝者と挑戦手合[編集] ○●は勝者から見た勝敗、網掛けがタイトル保持者。 回 開催年 決勝進出者 勝敗 決勝進出者 1 1998年 小林泉美 ○○ 小林千寿 期 開催年 女流棋聖 勝敗 挑戦者 2 1999年 小林泉美 ○●○ 杉内寿子 3 2000年 知念かおり ○○ 小林泉美 4 2001年 知念かおり ○●○ 加藤啓子 5 2002年 知念かおり ○●○ 小川誠子 6 2003年 知念かおり ●○○ 加藤啓子 7 2004年 万波佳奈 ○●○ 知念かおり 8 2005年 知念かおり ○○ 万波佳奈 9 2006年 万波佳奈 ○●○ 知念かおり 10 2007年 梅沢由香里 ○●○ 万波佳奈 11 2008年 梅沢由香里 ○○ 向井千瑛 12 2009年 梅沢由香里 ○●○ 加藤啓子 13 2010年 謝依旻 ○○ 梅沢由香里 14 2011年 謝依旻 ○○ 梅沢由香里 15 2012年 青木喜久代 ●○○ 謝依旻 16 2013年 謝依旻 ○○ 青木喜久代 17 2014年 謝依旻 ○○ 青木喜久代 18 2015年 謝依旻 ○○ 小西和子 19 2016年 謝依旻 ○○ 吉原由香里 20 2017年 謝依旻 ○●○ 牛栄子 記録[編集] 最多優勝 謝依旻 7回 最多連覇 謝依旻 5連覇 最年少優勝 謝依旻 20歳3ヶ月(第13期女流棋聖戦) 最年少挑戦 牛栄子 17歳6ヶ月(第20期女流棋聖戦) 最年少本戦入り 藤沢里菜 14歳11ヶ月(第17期女流棋聖戦) 外部リンク[編集] 女流棋聖戦 - NTTドコモ 女流棋聖戦 - 日本棋院 --------- 女流最強戦 曖昧さ回避 この項目では、囲碁の棋戦について説明しています。将棋の棋戦については「大和証券杯ネット将棋・女流最強戦」をご覧ください。 東京精密杯女流プロ最強戦(じょりゅうさいきょうせん)は、囲碁の女流棋士による棋戦。主催の東京精密が棋戦を行う余裕がなくなったことにより、2008年(第10期)を持って終了し、10期優勝者は、優勝決定から1年後の2009年8月25日まで女流最強位を名乗れた。 主催 東京精密、日本棋院 特別協賛 碁ワールド(日本棋院発行) 優勝賞金 450万円(2008年終了時) 目次 [非表示] 1 方式 2 歴代優勝者 3 記録 4 外部リンク 方式[編集] 第9期まで32名、第10期のみ16名のトーナメント方式で争われた。 コミは、第四期まで5目半、第五期以降は6目半。 第9期まで持時間は各30分、使い切ってから1分の秒読み式。第10期のみ各1時間、使い切ってからの1分の秒読み式。 決勝戦は第9期まで一番勝負、第10期のみ三番勝負。 歴代優勝者[編集] 左が優勝者 1999年 新海洋子 - 矢代久美子 2000年 加藤朋子 - 青木喜久代 2001年 青木喜久代 - 吉田美香 2002年 岡田結美子 - 梅沢由香里 2003年 鈴木歩 - 中澤彩子 2004年 新海洋子 - 岡田結美子 2005年 小林泉美 - 小西和子 2006年 謝依旻 - 小西和子 2007年 鈴木歩 - 青木喜久代 2008年 加藤啓子 2 - 0 謝依旻 記録[編集] 最多優勝 新海洋子・鈴木步 2回 最年少優勝 謝依旻 17歳1ヶ月(第8期女流最強戦)☆女流棋士史上最年少タイトル獲得記録(2014年、会津中央病院杯で藤沢里菜が更新) 外部リンク[編集] 東京精密杯女流プロ最強戦 --------- 女流立葵杯 女流立葵杯(じょりゅういごたちあおいはい)は、囲碁の女流棋士による棋戦。協賛の一般財団法人温知会の運営する会津中央病院を冠する、会津中央病院・女流立葵杯が正式名称となる。 第1回から第3回までは会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦であったが、第4回から女流立葵杯になった。女流棋戦では2番目の格式となる[1]。 目次 [非表示] 1 概要 1.1 女流立葵杯 1.2 女流囲碁トーナメント戦 2 歴代優勝者 3 記録 4 関連項目 5 脚注 6 外部リンク 概要[編集] 女流立葵杯[編集] 女流囲碁トーナメント戦から変更されたが、回数は引き継ぐ。棋戦名は、会津若松市の花から採られた。前身女流囲碁トーナメント戦は2日制の決勝一番勝負で行われていたが、女流立葵杯としては初回となる第4回は1日制の決勝三番勝負となり、第5回から挑戦手合三番勝負となる[2]。本戦は8名によるトーナメントで行われ、決勝以外は持ち時間各1時間、決勝は持ち時間各3時間。本戦残留・シード規定は女流タイトル者のみ[3]。 主催 日本棋院 協賛 一般財団法人温知会 協力 関西棋院、福島民報、日本棋院福島県支部連合会、囲碁・将棋チャンネル 優勝賞金 700万円 女流囲碁トーナメント戦[編集] 青葉かおりが創設するために、プロデューサーとして奔走した[4]。2014年に創設され、本戦は8名によるトーナメントで行われ、決勝以外は持ち時間各1時間、決勝は持ち時間各第2回までは5時間、第3回のみ6時間の二日制で行われた。女流棋戦としては賞金総額が最大であり[5]、封じ手のある二日制の棋戦もこれが唯一であった。 歴代優勝者[編集] 網掛けの対局者が勝者。 回 開催年 黒番 白番 1 2014年 奥田あや 藤沢里菜 2 2015年 謝依旻 王景怡 3 2016年 青木喜久代 謝依旻 記録[編集] 女流棋士史上最年少タイトル獲得記録 藤沢里菜(15歳9ヶ月) 関連項目[編集] 会津中央病院 脚注[編集] ^ 第4回会津中央病院・女流立葵杯 囲碁序列格上げ決勝3番勝負福島民報 2017年5月21日 ^ 第4回会津中央病院・女流立葵杯が開幕日本棋院 2017年1月16日 ^ 第4回 会津中央病院・女流立葵杯日本棋院 2017年5月29日閲覧 ^ 囲碁界のサラブレッド・藤沢里菜の優勝なるか ── 会津中央病院杯 ^ 優勝賞金額の最大は、2015年創設の扇興杯 外部リンク[編集] 女流立葵杯 - 日本棋院 --------- 女流本因坊戦 女流本因坊戦(じょりゅうほんいんぼうせん)は、囲碁の女流棋士による棋戦で、日本棋院と関西棋院の棋士が参加する。1981年創設。女流棋戦では最も格が高い。優勝者は女流本因坊の称号を得る。また5連覇により名誉女流本因坊の資格を得る。2014年まで、名誉女流本因坊の資格を持つのは謝依旻のみである。前身は1952年創設の女流選手権戦。 目次 [非表示] 1 概要 2 方式 3 歴代優勝者と挑戦手合 4 女流選手権戦 5 記録 6 外部リンク 概要[ソースを編集] 主催 共同通信社、日本棋院、関西棋院 協賛 パーク24(第30期) 掲載新聞 岩手日報、福島民友新聞、山梨日日新聞、北日本新聞、福井新聞、愛媛新聞、徳島新聞、佐賀新聞、長崎新聞、琉球新報 優勝賞金 (-3期)300万円、(4期-)360万円、(5期-)380万円、(7期-)420万円、(9期-)430万円、(13期-)460万円、(16期-)500万円、(28期-)580万円、(35期-)550万円 方式[ソースを編集] トーナメント戦を勝ち抜いた挑戦者が、前年の女流本因坊に挑戦する。挑戦手合は、第1-13期は三番勝負、1995年第14期以降は五番勝負。コミは5目半、第22期より6目半。持時間は各4時間。第1期は前年の女流選手権者への挑戦手合。 1997年から2000年の優勝者は、翌年の日中スーパー囲碁の女流戦に出場した。 歴代優勝者と挑戦手合[ソースを編集] (左が優勝者) 1982年 本田幸子 2-1 小林禮子 1983年 楠光子 2-1 本田幸子 1984年 本田幸子 2-0 楠光子 1985年 楠光子 2-1 本田幸子 1986年 小川誠子 2-0 楠光子 1987年 楠光子 2-1 小川誠子 1988年 楠光子 2-0 小川誠子 1989年 楠光子 2-0 小川誠子 1990年 中澤彩子 2-1 楠光子 1991年 中澤彩子 2-1 小林千寿 1992年 加藤朋子 2-0 中澤彩子 1993年 吉田美香 2-1 加藤朋子 1994年 吉田美香 2-0 佃亜紀子 1995年 吉田美香 3-1 知念かおり 1996年 吉田美香 3-0 中澤彩子 1997年 知念かおり 3-1 吉田美香 1998年 知念かおり 3-0 加藤朋子 1999年 知念かおり 3-1 小林泉美 2000年 祷陽子 3-2 知念かおり 2001年 小林泉美 3-1 祷陽子 2002年 小林泉美 3-2 知念かおり 2003年 小林泉美 3-1 矢代久美子 2004年 知念かおり 3-1 小林泉美 2005年 矢代久美子 3-0 知念かおり 2006年 矢代久美子 3-1 祷陽子 2007年 謝依旻 3-0 矢代久美子 2008年 謝依旻 3-1 鈴木歩 2009年 謝依旻 3-1 青木喜久代 2010年 謝依旻 3-0 向井千瑛 2011年 謝依旻 3-1 向井千瑛 2012年 謝依旻 3-0 奥田あや 2013年 向井千瑛 3-2 謝依旻 2014年 藤沢里菜 3-0 向井千瑛 2015年 謝依旻 3-2 藤沢里菜 2016年 藤沢里菜 3-1 謝依旻 女流選手権戦[ソースを編集] 1952年創設、1981年で終了し、女流本因坊戦に発展。東京タイムズ主催。第1期は決勝一番勝負、第2期以降は挑戦手合三番勝負。第6期から、前年度挑戦手合敗者と予選を勝ち上がった3名の計4名のリーグ戦で挑戦者を決定。コミは4目半、第21期より5目半。女流棋戦としては最も古い歴史を持つ。 歴代優勝者(左が優勝者) 1952年 伊東清子(友恵) - 武田みさを 1953年 本田寿子 2-0 伊藤友恵 1954年 杉内(本田)寿子 2-0 鈴木津奈 1955年 杉内寿子 2-1 伊藤友恵 1956年 杉内寿子 2-0 伊藤友恵 1957年 伊藤友恵(リーグ戦で優勝者を決定) 1958年 伊藤友恵 2-0 鈴木津奈 1960年 伊藤友恵 2-0 本田幸子 1961年 伊藤友恵 2-0 木谷禮子 1962年 伊藤友恵 2-0 武田みさを 1963年 木谷禮子 2-1 伊藤友恵 1965年 伊藤友恵 2-1 木谷禮子 1966年 木谷禮子 2-0 伊藤友恵 1967年 木谷禮子 2-1 伊藤友恵 1968年 木谷禮子 2-1 児玉幸子 1969年 本田幸子 2-1 木谷禮子 1971年 木谷禮子 2-0 本田幸子 1972年 木谷禮子 2-1 本田幸子 1973年 本田幸子 2-0 木谷禮子 1974年 本田幸子 2-0 伊藤友恵 1975年 本田幸子 2-1 小林千寿 1976年 小林千寿 2-0 本田幸子 1977年 小林千寿 2-1 本田幸子 1978年 小林千寿 2-1 小川誠子 1979年 小川誠子 2-0 小林千寿 1980年 小川誠子 2-1 小林千寿 1981年 本田幸子 2-1 小川誠子 記録[ソースを編集] 最多連続優勝 謝依旻 6回 最多優勝 伊藤友恵、本田幸子、謝依旻 7回 最多優勝(女流本因坊戦) 謝依旻 7回 最多優勝(女流選手権戦) 伊藤友恵 7回 最年少奪取 藤沢里菜 16歳1ヶ月(第33期女流本因坊戦) 最年少挑戦 藤沢里菜 16歳0ヶ月(第33期女流本因坊戦) 最年少本戦入り 藤沢里菜 13歲5ヶ月(第31期女流本因坊戦) 親子優勝 木谷禮子(女流選手権戦)・小林泉美(女流本因坊戦) 姉妹優勝 杉内寿子・本田幸子(女流選手権戦)・楠光子(女流本因坊戦) 外部リンク[ソースを編集] 日本棋院「女流本因坊戦」 --------- 女流名人戦 曖昧さ回避 この項目では、日本の囲碁の棋戦について説明しています。 韓国の囲碁の棋戦については「女流名人戦 (韓国)」をご覧ください。 将棋の棋戦については「女流名人戦 (将棋)」をご覧ください。 女流名人戦(じょりゅうめいじんせん)は、産経新聞が主催する囲碁の女流棋士による棋戦で、日本棋院と関西棋院の棋士が参加する。1988年創設。優勝者は女流名人の称号を得る。 目次 [非表示] 1 概要 2 実施方式 3 歴代優勝者と挑戦手合 4 記録 5 旧女流名人戦 6 脚注 7 外部リンク 概要[編集] 主催 (第1-20期)夕刊フジ、(21期-)産経新聞、日本棋院 協賛 (第1-2期)共立住販、(3-8期)大正海上火災保険・三井海上火災保険、(9-10期)NTT、(11期)NTTデータ、(13期-)日本生命 名称 (第1-6期)全日本女流囲碁名人戦、(7期-)女流名人戦 優勝賞金 500万円(2013年現在)2012年までは510万円 2008年の第21期より主催紙が夕刊フジから産経新聞へ変更された。[1] 本棋戦と別に、1973-75年に、日本テレビ主催の「女流名人戦」が行われていたことがある(後述)。また中国、韓国でも囲碁の「女流名人戦」がある。 また5連覇により名誉女流名人の資格を得る。謝依旻が、名誉女流名人の資格保持者。襲名は、現役引退後もしくは60歳を過ぎた後となる。 実施方式[編集] 第1-2期は、予選勝ち抜き者8名によるスイス式トーナメント方式4回戦で優勝者を決定。予選にアマチュアも参加した。 第3期より、16名による敗者復活方式によるトーナメント戦を勝ち抜いた挑戦者が、前年の女流名人に挑戦する。 第21期より主催紙が産経新聞へ変更されたのに合わせて、囲碁の女流棋戦としては初めてリーグ戦方式が採用された。 リーグの定員は7名。リーグの優勝者が挑戦手合に出場。残留は上位4名。 挑戦手合は三番勝負。 コミは第1-15期は5目半、16期より6目半。 持時間は、第1-15期は各5時間、16期から各4時間、19期から各3時間。 歴代優勝者と挑戦手合[編集] (左が優勝者) 1989年 宮崎志摩子 1990年 青木喜久代 1991年 杉内寿子 2-1 青木喜久代 1992年 杉内寿子 2-0 青木喜久代 1993年 杉内寿子 2-0 青木喜久代 1994年 杉内寿子 2-1 小川誠子 1995年 加藤朋子 2-0 杉内寿子 1996年 西田栄美 2-1 加藤朋子 1997年 西田栄美 2-0 小川誠子 1998年 西田栄美 2-0 小川誠子 1999年 青木喜久代 2-0 西田栄美 2000年 青木喜久代 2-0 小林泉美 2001年 小林泉美 2-0 青木喜久代 2002年 青木喜久代 2-0 小林泉美 2003年 小林泉美 2-0 青木喜久代 2004年 小林泉美 2-0 祷陽子 2005年 小山栄美 2-1 小林泉美 2006年 青木喜久代 2-0 小山栄美 2007年 加藤啓子 2-1 青木喜久代 2008年 謝依旻 2-0 加藤啓子 2009年 謝依旻 2-1 知念かおり 2010年 謝依旻 2-0 向井千瑛 2011年 謝依旻 2-1 向井千瑛 2012年 謝依旻 2-0 向井千瑛 2013年 謝依旻 2-0 奥田あや 2014年 謝依旻 2-1 加藤啓子 2015年 謝依旻 2-0 鈴木歩 2016年 謝依旻 2-1 青木喜久代 2017年 藤沢里菜 2-0 謝依旻 記録[編集] 最多優勝 謝依旻 9回 最多連覇 謝依旻 9連覇 最年少優勝 謝依旻 18歳3ヶ月(第20期女流名人戦) ◯●は女流名人から見た勝敗、網掛けの対局者が勝者。 旧女流名人戦[編集] NTV女流名人戦と呼ぶこともある。 主催 日本テレビ 優勝者と決勝戦(決勝1番勝負) 1973年 木谷禮子 - 小川誠子 1975年 木谷禮子 - 伊藤友恵 (第2期で終了) 脚注[編集] ^ 産経新聞 囲碁「女流名人戦」を主催(2008年3月26日) 外部リンク[編集] MSN産経ニュース 日本棋院「女流名人戦」女流名人戦 曖昧さ回避 この項目では、日本の囲碁の棋戦について説明しています。 韓国の囲碁の棋戦については「女流名人戦 (韓国)」をご覧ください。 将棋の棋戦については「女流名人戦 (将棋)」をご覧ください。 女流名人戦(じょりゅうめいじんせん)は、産経新聞が主催する囲碁の女流棋士による棋戦で、日本棋院と関西棋院の棋士が参加する。1988年創設。優勝者は女流名人の称号を得る。 目次 [非表示] 1 概要 2 実施方式 3 歴代優勝者と挑戦手合 4 記録 5 旧女流名人戦 6 脚注 7 外部リンク 概要[編集] 主催 (第1-20期)夕刊フジ、(21期-)産経新聞、日本棋院 協賛 (第1-2期)共立住販、(3-8期)大正海上火災保険・三井海上火災保険、(9-10期)NTT、(11期)NTTデータ、(13期-)日本生命 名称 (第1-6期)全日本女流囲碁名人戦、(7期-)女流名人戦 優勝賞金 500万円(2013年現在)2012年までは510万円 2008年の第21期より主催紙が夕刊フジから産経新聞へ変更された。[1] 本棋戦と別に、1973-75年に、日本テレビ主催の「女流名人戦」が行われていたことがある(後述)。また中国、韓国でも囲碁の「女流名人戦」がある。 また5連覇により名誉女流名人の資格を得る。謝依旻が、名誉女流名人の資格保持者。襲名は、現役引退後もしくは60歳を過ぎた後となる。 実施方式[編集] 第1-2期は、予選勝ち抜き者8名によるスイス式トーナメント方式4回戦で優勝者を決定。予選にアマチュアも参加した。 第3期より、16名による敗者復活方式によるトーナメント戦を勝ち抜いた挑戦者が、前年の女流名人に挑戦する。 第21期より主催紙が産経新聞へ変更されたのに合わせて、囲碁の女流棋戦としては初めてリーグ戦方式が採用された。 リーグの定員は7名。リーグの優勝者が挑戦手合に出場。残留は上位4名。 挑戦手合は三番勝負。 コミは第1-15期は5目半、16期より6目半。 持時間は、第1-15期は各5時間、16期から各4時間、19期から各3時間。 歴代優勝者と挑戦手合[編集] (左が優勝者) 1989年 宮崎志摩子 1990年 青木喜久代 1991年 杉内寿子 2-1 青木喜久代 1992年 杉内寿子 2-0 青木喜久代 1993年 杉内寿子 2-0 青木喜久代 1994年 杉内寿子 2-1 小川誠子 1995年 加藤朋子 2-0 杉内寿子 1996年 西田栄美 2-1 加藤朋子 1997年 西田栄美 2-0 小川誠子 1998年 西田栄美 2-0 小川誠子 1999年 青木喜久代 2-0 西田栄美 2000年 青木喜久代 2-0 小林泉美 2001年 小林泉美 2-0 青木喜久代 2002年 青木喜久代 2-0 小林泉美 2003年 小林泉美 2-0 青木喜久代 2004年 小林泉美 2-0 祷陽子 2005年 小山栄美 2-1 小林泉美 2006年 青木喜久代 2-0 小山栄美 2007年 加藤啓子 2-1 青木喜久代 2008年 謝依旻 2-0 加藤啓子 2009年 謝依旻 2-1 知念かおり 2010年 謝依旻 2-0 向井千瑛 2011年 謝依旻 2-1 向井千瑛 2012年 謝依旻 2-0 向井千瑛 2013年 謝依旻 2-0 奥田あや 2014年 謝依旻 2-1 加藤啓子 2015年 謝依旻 2-0 鈴木歩 2016年 謝依旻 2-1 青木喜久代 2017年 藤沢里菜 2-0 謝依旻 記録[編集] 最多優勝 謝依旻 9回 最多連覇 謝依旻 9連覇 最年少優勝 謝依旻 18歳3ヶ月(第20期女流名人戦) ◯●は女流名人から見た勝敗、網掛けの対局者が勝者。 旧女流名人戦[編集] NTV女流名人戦と呼ぶこともある。 主催 日本テレビ 優勝者と決勝戦(決勝1番勝負) 1973年 木谷禮子 - 小川誠子 1975年 木谷禮子 - 伊藤友恵 (第2期で終了) 脚注[編集] ^ 産経新聞 囲碁「女流名人戦」を主催(2008年3月26日) 外部リンク[編集] MSN産経ニュース 日本棋院「女流名人戦」 --------- 新鋭トーナメント戦 新鋭トーナメント戦(しんえいトーナメントせん)は、囲碁の棋戦で、テレビ東京で放映された。日本棋院と関西棋院の、七段・30歳未満で、年間対局料・賞金額上位の棋士が参加する。1969年から開始され、2003年33期まで実施。優勝者は翌年の早碁選手権戦へ出場資格を得る。2003年からはJAL新鋭早碁戦に発展。 主催 テレビ東京(旧東京12チャンネル) 目次 [非表示] 1 方式 2 歴代優勝者と決勝戦 3 記録 4 外部リンク 方式[編集] 出場棋士は、1年間の対局料・賞金ランキング上位棋士16名。(日本棋院13名、関西棋院3名) トーナメント方式で争われ、決勝戦は1番勝負。 持時間 1-14期 一人10分、使い切ると1手30秒 15-33期 一人5分、使い切ると1手30秒、3分の考慮時間を2回 歴代優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1969年 石田芳夫 - 石井邦生 1970年 高木祥一 - 工藤紀夫 1971年 小島高穂 - 曺薫鉉 1972年 小林光一 - 趙治勲 1973年 趙治勲 - 羽根泰正 1974年 趙治勲 - 小林光一 1975年 小林光一 - 加藤正夫 1977年 趙治勲 - 時本壱 1978年 淡路修三 - 酒井猛 1979年 上村陽生 - 小林光一 1980年 淡路修三 - 郡寿男 1981年 石田章 - 橋本雄二郎 1982年 小林覚 - 神田英 1983年 王立誠 - 小林覚 1984年 今村俊也 - 依田紀基 1985年 園田泰隆 - 小林健二 1986年 依田紀基 - 大矢浩一 1987年 依田紀基 - 彦坂直人 1988年 小松英樹 - 小県真樹 1989年 広江博之 - 依田紀基 1990年 小松英樹 - 鄭銘瑝 1991年 趙善津 - 大矢浩一 1992年 柳時熏 - 中澤彩子 1993年 山田規三生 - 中小野田智巳 1994年 円田秀樹 - 柳時熏 1995年 羽根直樹 - 三村智保 1996年 楊嘉源 - 黒瀧正憲 1998年 山田規三生 - 山田規喜 1999年 三村智保 - 石田篤司 2000年 山下敬吾 - 高尾紳路 2001年 高梨聖健 - 金秀俊 2002年 溝上知親 - 金秀俊 2003年 高尾紳路 - 金秀俊 記録[編集] 最多優勝 3回 趙治勲 男女混合棋戦初の女流棋士決勝進出 中澤彩子(1992年) 外部リンク[編集] 囲碁データベース「新鋭トーナメント戦」 --------- 新人王戦 (囲碁) 曖昧さ回避 この項目では、日本の棋戦について説明しています。 中国の棋戦については「新人王戦 (中国囲碁)」をご覧ください。 韓国の棋戦については「BCカード杯新人王戦」をご覧ください。 台湾の棋戦については「新人王戦 (台湾囲碁)」をご覧ください。 新人王戦 U-25(しんじんおうせん アンダー25)は、しんぶん赤旗・日本棋院・関西棋院が主催する日本の囲碁の棋戦で、日本棋院と関西棋院の25歳以下、六段以下の棋士が参加する。1976年創設。第30期までの名称は新人王戦。優勝賞金200万円。 目次 [非表示] 1 出場棋士 2 方式 3 歴代優勝者と決勝戦 4 外部リンク 出場棋士[編集] 第1-30期は、30歳以下の五段以上七段以下は全員、30歳以下の四段以下は前年ランキング上位 第31期から25歳、七段以下。第33期から25歳、六段以下。 本戦出場者は、日本棋院からシード17名、予選勝ち抜き者8名、関西棋院からシード4名、予選勝ち抜き者4名の計33名。また2008年より、新人王経験者は「卒業」となり、出場資格を失うよう規定が変更された。 方式[編集] トーナメント方式で争われ、決勝戦は3番勝負。 コミは第1-27期は5目半、28期より6目半。 持時間は、第1-28期は各5時間、29-30期は各4時間、31期から各3時間。 歴代優勝者と決勝戦[編集] (左が優勝者) 1976年 小林光一 2-0 中村秀仁 1977年 小林光一 2-0 趙治勲 1978年 石田章 2-1 倉橋正蔵 1979年 石田章 2-1 山城宏 1980年 宮沢吾朗 2-0 清成哲也 1981年 王立誠 2-0 長谷川直 1982年 片岡聡 2-0 依田紀基 1983年 依田紀基 2-0 宮沢吾朗 1984年 今村俊也 2-1 橋本雄二郎 1985年 宮沢吾朗 2-0 今村俊也 1986年 依田紀基 2-1 王立誠 1987年 依田紀基 2-1 王銘琬 1988年 小松英樹 2-0 鳴沢泰一 1989年 依田紀基 2-0 泉谷英雄 1990年 依田紀基 2-1 結城聡 1991年 趙善津 2-1 柳時熏 1992年 小松英樹 2-0 マイケル・レドモンド 1993年 結城聡 2-0 三村智保 1994年 三村智保 2-1 楊嘉源 1995年 三村智保 2-0 趙善津 1996年 高尾紳路 2-0 仲邑信也 1997年 山田規三生 2-0 青木喜久代 1998年 山下敬吾 2-1 高尾紳路 1999年 山下敬吾 2-0 羽根直樹 2000年 山下敬吾 2-0 羽根直樹 2001年 山下敬吾 2-0 久保秀夫 2002年 張栩 2-0 高尾紳路 2003年 蘇耀国 2-0 藤井秀哉 2004年 溝上知親 2-1 坂井秀至 2005年 金秀俊 2-0 井山裕太 2006年 松本武久 2-1 黄翊祖 2007年 井山裕太 2-0 望月研一 2008年 内田修平 2-0 河英一 2009年 李沂修 2-0 三谷哲也 2010年 白石勇一 2-1 三谷哲也 2011年 村川大介 2-0 安斎伸彰 2012年 金沢真 2-1 富士田明彦 2013年 富士田明彦 2-0 余正麒 2014年 一力遼 2-1 志田達哉 2015年 許家元 2-0 平田智也 2016年 大西竜平 2-0 谷口徹 外部リンク[編集] しんぶん赤旗「囲碁将棋・新人王戦」 日本棋院「新人王戦」 --------- 新布石 新布石(しんふせき)は、1933年(昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁の布石のスタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。 目次 [非表示] 1 経過 2 理論 2.1 隅の占拠 2.1.1 隅先占の理由 2.1.2 隅先占の方法 2.2 辺への発展 2.2.1 第三線の価値 2.2.2 第三線の不利 2.3 地域の可能性と固定性 2.3.1 偏りと融通性 2.3.2 新布石法成立の根本的理由 2.4 新布石法の基礎 2.4.1 新布石法の抽象論 2.4.2 平均の理論 2.4.3 隅の重要性 2.4.4 平均における星の優位 2.4.5 「五の五」の性質 2.4.6 辺における星の優位 2.4.7 天元の優位 2.4.8 二着の平均 2.4.9 三着の平均 2.5 釣合い論 2.6 三連星の理論 2.7 一・三・五・七の型 2.8 布石各論 3 新布石の例 3.1 呉清源 対 小杉丁 3.2 木谷実 対 呉清源 3.3 本因坊秀哉名人 対 呉清源 3.4 田中不二男 対 高川格 4 影響・評価 5 記念碑 6 脚注 経過[編集] 1931年(昭和6年)頃から白番での旧来の小目定石の辺への展開の遅さにもどかしさを感じていた呉清源は三三・星を試していた。昭和8年、木谷實との十番碁で呉は黒番で当時では珍しいタスキ星を打ち、木谷もはっきりと隅より中央の勢力を重視した打ち方をした。 1933年夏、十番碁第5局の途中に木谷が呉を避暑を兼ねて温泉に保養に行こうと誘い、2人で木谷夫人の実家のある長野県の地獄谷温泉にでかけた。2日目か3日目の朝、呉が木谷の部屋に行くと木谷が『布石と定石の統合』という本の口述執筆をライターにしていた。興味を覚えた呉は傍に座って講義をきいた。話の中身は中央を中心とした布石の考え方についてであり、初めは納得出来なかった呉だがしだいに理解していった。その後1周間の滞在で議論を重ね新布石の構想を練っていった。時に木谷24歳、呉19歳であった。[1] 本因坊秀哉名人(左)と呉清源五段(右)の対局。 同年秋の大手合において二人はこの斬新なスタイルを駆使し、呉が1等、木谷が2等という好成績を収めて話題を集めた。10月には呉が本因坊秀哉名人に対し三々・星・天元の大胆な布石で勝負を挑み、満天下の注目を集めた(秀哉白番2目勝)。 新布石が世間一般にも広がったのは安永が書いた『囲碁の革命 新布石法』が世に出てからである。 地獄谷へ行った年の大晦日、呉が西園寺先生のお宅からの帰りに木谷さんの家によると、日本棋院の編集長をしている安永が来ていた。安永は2人に新布石についてしきりに議論をもちかけた。呉と木谷がそれについて意見を述べ合い、果ては碁盤を囲み、石を並べ、議論はいつまでも果てることがなかった。夢中になって議論をしているうちに徹 夜になり、いつしか夜も白々と明けて正月の朝が来てしまった。木谷の新布石の考え方は一言では説明するのは難しいが隅の地よりも中央に向かう勢力を大切にするということで、三連星は新布石の代表的なものの一つである[1] 安永が書いた『囲碁の革命 新布石法』が出版されたのはそれからまもなくのことである。この本は木谷実、呉清源、安永一の三人の共著となっているが、木谷と呉の意見を安永がまとめ見事に理論づけしたもので安永は原稿の執筆から販売まで1カ月で仕上げたと言って自慢をしていた。 『新布石法』はアマチュアの間で大歓迎を受けた。1934年には発売当日本を買いに来た人の行列が発行者の平凡社の社屋を二重三重に取り巻いたという。当時で10万部売れたそうで、この時代に碁の方がこれだけ売れたのは超ベストセラーであった。とにかく新布石は大変な人気となり呉と木谷の対局で木谷の打った新布石が号外として街頭で配られたこともある。この時木谷は黒1と黒3を「5の五」に打った。この他、「4の六」は「大高目」とか「超高目」というふうに呼ばれた。 煩わしい定石に縛られなくとも良い新布石はアマチュアの間で歓迎された。ともかく新布石が打ち出されたことにより、旧来の小目定石に縛られていた布石が解放されて、布石に対する考え方が自由になり、盤上の世界が広がった。新布石はしばらくのあいだ木谷と呉が大いに打ち、勝率も良かったので大いに人気を煽った。そのため他の棋士も2人にならって宇宙流を打ち、盤上では華々しい空中戦が繰り広げられた。しかし新布石が旧来の布石より必ず優れているから勝つわけではない。要は打つ人の棋力に負うものであった。[1] この年の春期大手合では久保松勝喜代ら関西の棋士が一斉に第一着を天元に打つなど、専門棋士の間にも波及し始めた。これに対し権威者であった本因坊秀哉は否定的な見解を示し、一門の弟子たちは旧来の布石を守って新布石に戦いを挑んだ。 この後、田中不二男らが7の七、5の十の四連打といった「ウルトラ新布石」を試みるなど暴走とも言える展開を見せたが、1936年ころには木谷も地を重視するスタイルに変化し、ブームとしての新布石は終わりを告げた。 理論[編集] 隅の占拠[編集] 隅先占の理由[編集] 囲碁は終局において彼我の地域の代償を比較して勝敗を定めるものである関係上、第一に考えるねばならぬことは、いかにすれば最も有効に地域を占め得るかということでなければならない。有効ということは相手が一手ずつ打つのだから手数が最も少ないということに帰する。[1] 隅先占の方法[編集] 隅の先占が有利であるとするならば、いかなる方法で占めるか。この方法は現在までは周知のごとく「シマリ」の形式が取られている。 その他に、星、三々等を上げることができるがこれは比較的少ない。三々は隅を一手で打って、その一手により隅を最も確実に独占する着手でありながら、なぜ用いられなかったのか。 一体隅の先占と言うことには、単に隅を打つだけの意味ではなく、根底的に隅を囲むということが入っている。この見地から三々は隅を打って入るが、囲むべき隅を自ら消してる訳で、これが従来三々の選ばれなかった理由である。この理由から必然的に考えられることは、隅を一手で打ち切らずに、二手で打とうということである。 星も三々と同じく隅に対して偏ってなく一手で打ち切ってるため、隅を囲むことに主眼をおいていた時代には同様余り多く用いられなかった。 一手で打ち切るということは必然的に――隅のみに関して――後続手段の少ないことを意味する。と同時に星、三々の利益とする所は、他の小目、目外し等に比べて隅を余計に打っているだけに、他から働きかけてきた時に有利に応酬し得る。数字で例示してみると、隅を二手でシマることが「4」だけの価値と仮定すると、星や三々は一手で「2」だけ打っている。これに対しシマリの方は二手重なると「4」であるが、一手では「1」の価値しか持っていない理になる。その代わり星や三々は続いてもう一手打つと「4」でなく「3」に低減する恐れがある所に難点を持つ。 詰みの重要性を考慮に入れて、隅を囲むという見地から必然的に現れるのがシマリである。しかし、この考えに至る道程を仔細に考察すると、隅の地に対する考え方は正しいが全局的の連関に深い考慮が払われていない避難を免れない。すなわちシマリの考え方が余りにも部分的である点に満足できない。 これらは囲碁の根本命題であるすべての着手が最もよく釣り合いを保って連関しているべきであるということに反してくる。[1] シマリが一つの偏りであることは済の一間ジマリはこの場合aの三々一着だけで間に合いシマリの脆弱たることが暴露している。もちろんこの図においてシマリ以外の外側の石を打つ時に、このシマリの血管を考慮すればよいのだが、外側の石は隅より外部に対してより深い交渉を持つ場合が多いから、この制限――隅のシマリを有効ならしめる――に束縛されることはそれだけ着手の自由を妨げられることになる。 この考えからシマリが必ずしも絶対に優位になるとは信じられない場合が生じてくる。[1] 辺への発展[編集] 第三線の価値[編集] 隅の先占次いで考えられるのは辺への発展である。辺ではどの位置が良いか。aはもっとも堅固であるがいかにも狭く、地を形成しても非常に小さい。bは中庸を得ていて内側への敵の手段を牽制していると同時に外側への相当の発展力を持っている。cに至っては辺日を取る意味から遠ざかっているので従来はあまり喜ばれなかった。これらの結果から帰納して、辺における地域の目的をすればbすなわち第三線が選ばれるのは当然であった。[1] 第三線の不利[編集] しかし第三線にも不利を伴っており、図においてaとbを比較して見るにaは18目bは28目、しかも石数は等しいのである。ここには重大な意味が潜んでおりすなわち二手三手位の少ない手数でへんを手に有する場合には第三線の有利を認め得るが、石数を増やすと必ずしも第三線が有利ではないことが解かる。すなわち呉は現在の地より終局の地を重視する点から考えて第三線が必ずしも最適の先ではないことを知る。a、bの手数をそれぞれ半減したc,d両図についてもこの理は通じる。[1] 地域の可能性と固定性[編集] 偏りと融通性[編集] 以上で第三線有利の根本条件は石数の少ない、すなわちその部分で固定している地域を根底としていることが分明した。かりにこれを固定的地域と名付ける。すべて固定的のものには融通性がない。しかるに囲碁の根本命題が全局的相関にあるのでこの三線着手が囲碁の本義にもとる訳である。如上の理由から、四線または五線が辺の着手として選ばれると同時に新布石法においてはこの固定性が極度に排撃されるのである。現在は地ではないが後に至って地になる可能性のあるものを可能的地域と名付ける。 可能的地域は固定的地域に比し不安を持つ反面融通性を多分に持つ。少しく誇張して言えば、融通性は不安と不確かに正比例するという意義さえ無いではない。この融通性に富むことはすなわち偏りの少ないことである。[1] 新布石法成立の根本的理由[編集] この図においてaの地は黒約45目、bの地は黒約33目しかも石数はabとも同数である。始めaの隅の方の五目だけあったものと仮定する。次にもう五目並べるとしてその線に沿って下方に並べたbよりも、右方外側に置くaのほうが優ることが分かる。 要約すると固定的地域は発展性に乏しく、後続手段に対して有効に関連しにくいということである。囲碁において最も望ましいことは全ての着手が相関的に効果を持つことなので、これを囲碁の根本命題とする。固定的地域は部分的に固定している、すなわちその局部局部で完成しているわけだからそれからの発展性は少ないわけになる。すなわち囲碁が渾然たる融和を持つ一つの有機的統一体であることを妨げることになるから悪いのは当然である。[1] 新布石法の基礎[編集] 新布石法の抽象論[編集] 平均の理論[編集] 隅の重要性[編集] 平均における星の優位[編集] 星はそれ自身で隅を打ち切っていると同時に固定された地域としては隅を少しも打っていないことになる。すなわち敵の石が三々にくれば地でなくなるから星は隅を打ち、隅を打っていないとも言えるわけで、このことは隅に対して星が偏っていない証拠である。これは平均の理論から非常に重要な事であって実は星には平均の極地と言える。 「五の五」の性質[編集] 辺における星の優位[編集] 天元の優位[編集] 二着の平均[編集] 三着の平均[編集] 釣合い論[編集] 三連星の理論[編集] 一・三・五・七の型[編集] 布石各論[編集] 新布石の例[編集]  呉清源(先番) 対 木谷實 新布石誕生の一局と言われる。時事新聞社企画の十番碁第6局。黒は当時では珍しいタスキ星を打っている。木谷もはっきりと隅より中央の勢力を重視した打ち方に変わっている。図の局面までで打ち掛けになっていたところで木谷・呉の地獄谷での意見交換があり、再開後に呉は黒31へと模様を消した。地獄谷での新布石構想がなければ、31でなく「a」に打ち込むつもりであったという。黒31に対して白32に受けたところで、黒33と中央を意識した高いカカリを放った。この碁を境に新布石が具体化する。 呉清源 対 小杉丁[編集] 小杉丁(先番) 秋の大手合。古来からの盤面遊技に形が似ていたため、「十六むさしの一局」と呼ばれた。白の位の高い新布石に対抗して、黒の小杉四段は、意識的に位の低い布石を敷いている。黒は隅と辺で実利を稼ぎ、後は天元に打って城の中央の勢力をぼかしてしまう作戦である。[1]小杉はこの局について「奇をもって奇に当たったに過ぎません」と述べている。 木谷実 対 呉清源[編集] 木谷実(先番) 報知新聞社主催の手合で木谷は黒1と黒3を「5の五」に打った。これを報知新聞は「木谷5の五に打つ」と号外として街頭で配られた。 本因坊秀哉名人 対 呉清源[編集]  先番:呉清源 1933年(昭和8年)、新布石旋風が囲碁界を吹きまくる頃、読売新聞が日本囲碁選手権戦を企画した。優勝者は本因坊秀哉名人に先番で打ってもらえることだった。呉清源はトーナメントを勝ち上がり名人と対局することなった。この対局は「不敗の名人対鬼才呉清源の対決」という謳い文句で大いに宣伝され、前人気はたいへんなものとなった。呉は気が楽である一方、秀哉名人はを総帥とする本因坊一門にとっては負ければ本因坊家の権威にかかわるので、大変に不安多い重大な対局であったに違いない。[1] 21手目まで。黒の呉が三々・星・天元と新布石を連打した。白が二隅とも小目だから、黒としては地と勢力のバランスをとるために5手目に天元を打ったのであり、特に奇をてらったつもりはなかった。ところが、これが大変な反響を引き起こした。この三手が本因坊家の布石の教えに背くものであったからである。とくに三三は坊門の中では禁手であった。坊門の棋士たちの気に障っただけでなく、一般の囲碁ファンもびっくりしたらしい。呉はそれ以前にも打っていたのだがまだ『新布石法』が一出版される直前であり、まだ世間の目にはあまり触れていなかった。また五手目に天元を打ったのは呉自身も初だった。[1] とにかく三三の禁手を第一手目に打ったことは、世間の囲碁ファンの人気を煽ると同時に、名人に対する、いや日本の伝手王に対する挑戦である、けしからん!という調子の投書も随分と新聞社に舞い込んだそうである。[1] ちょうどその時期は日本が満州事変を起こし、日中の関係が険悪化の一途を辿っていた頃であった。新聞も二人の対決を大げさに書き立て、周囲の関心が強まるにつれて、次第に日中対抗のような雰囲気を帯びてきた。[1] 対局は名人の健康のこともあって毎週一回月曜日に打たれ、昭和八年10月16日に開始され、翌年の1月の29日までかかった。封じ手制はなく名人の都合でいつでも白番で打ち掛けにできた。第八日目などは名人は打ち、黒の呉が二分考えてすぐに応じると、名人は三時間半も考えたあげく、一手も打つこと無く打ち掛となってしまった。 碁の内容は接戦で中盤では若干黒が厚いという進行であったが、秀哉名人の160手目の妙手で5子を取り、逆転二目勝利で権威を死守した。 [2]。 田中不二男 対 高川格[編集] 高川格(先番) 田中不二男の「ウルトラ新布石」。呉に匹敵すると言われた才能の主だったが、25歳で夭折した。後に本因坊を連覇していた時代の高川は、「もし田中が生きていたら、僕なんかまだ頭を押さえられていますよ」と評している。 影響・評価[編集] 旧来の碁は隅から辺へ、辺から中央へという石運びの順が決められ、絶対普遍の真理だった。呉は物心ついたころから中国古典を叩きこまれた人であり、地獄谷にも「大学」と「中庸」を持参して読みふけっていた。新布石構想の屋台骨に「中庸」の考え方があり、中国で生まれ育った天才棋士には本因坊家がどうのといったしがらみもなかった。そこに自由奔放な碁を思考して木谷が加わった。当時は三々は「本因坊家の禁手」といわれ、序盤でそこに打つのはタブーとされており、またこのような形式は、他にも随所にちりばめられていた。木谷は三連星、呉は三々、星、天元を打ち、人気を二分する両棋士が打ち始めた新布石で囲碁界は騒然となった。 囲碁は地の広さを競うゲームであるため、少ない石数で地を囲うことが出来る隅から打ち始め次に辺へ、地を作りにくい中央は後回しにされていた。このような石運びは絶対の真理とされてきた。確かに地の作りやすさという点では隅・辺・中央の順である。しかし、碁全体が地を作るということに偏りすぎて、決まりきった型から抜け出せないのではないか。立ち止まって考えれば、最後に地が多ければいいのであって、最初から地を取る必要はない。石の働きには周りに対する力「勢力」があり、これを明確に意識しこれにそった打ち方があっていいはずである。地と勢力の中庸を行くべきであり、勢力によって相手の石を圧倒し、最終的に相手より多くの地を作ることを目的とした。 後から思えば当たり前のことだが、「常識』という硬い殻を打ち破るのは並大抵のことではなかった。昭和の囲碁界に新布石の嵐が吹き荒れ、基本理念〈棋理)が変わるとプロ棋士から碁会所の力自慢まで囲碁が大きく変わっていった。それまでの碁法のくびきを抜け出し、石運びのスピードアップ、戦術、展開の高速化が始まった。速度(=時間)という新たな軸が明確に意識されるようになった。平面的思考だった所に時間という新しい軸が加わり、囲碁が三次元的に展開されるようになった。その一例として四線の価値が見直されたことである。極端に言えば「いま、ここ」しか見なかった囲碁の思想を「将来、全体へ」と脱皮させたのが新布石だった。部分の理に止まっていた思考を飛躍させ、盤上の風景を変えたのだった。新布石はその後、幾多の批判、修正を経ながら、旧来の考え方も融合して、今日の近代布石として確立されていった。[3] 川端康成は『木谷実選集』(日本棋院刊)の月報に寄せた一文「新布石青春」の中で次のようなことを書いている。「木谷実、呉清源の新布石の時代は、ふたりの若い天才の青春時代であったにとどまらないで、実にまた現代の碁の青春時代であった。新布石は青春の創造と冒険との情熱を燃やし、棋界そのものを鮮麗絢爛な青春とするかの新風だった。木谷、呉の後にも勿論すぐれた後進は現れたけれども、新布石時代の木谷、呉ほど明らかに時代を盛り上げ、時代を新たに画した新人はまだ出ていないと思える。木谷、呉の新布石は今日の碁の開花の象徴であった。[4] 記念碑[編集] 2003年、新布石誕生70周年を祝して信州地獄谷に「新布石発祥之地」の石碑が建てられ、呉清源、大竹英雄(木谷の弟子)、木谷の遺児たちが参列して10月12日に除幕式が行われた。 脚注[編集] ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『新布石法』呉清源 木谷実 安永一 1997 白水社 ^ 呉清源 (2009年7月28日). “呉清源師の生涯一局(4)名人相手に「三々、星、天元」(寄稿連載)その二”. 読売新聞. 2014年12月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月21日閲覧。 ^ 『石心 囲碁棋士・大竹英雄小伝』 石風社 2013年 ^ 『呉清源回想録 以文会友』白水社 1997 --------- 永徳 曖昧さ回避 この項目では、日本の元号について説明しています。渤海の元号については「永徳 (渤海)」を、中国の県については「永徳県」を、日本の俳優については「永徳 (俳優)」をご覧ください。 永徳(えいとく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康暦の後、至徳の前。1381年から1383年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇、後小松天皇。南朝方が長慶天皇、後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 目次 [非表示] 1 改元 2 出典 3 永徳期におきた出来事 4 西暦との対照表 5 関連項目 改元[編集] 康暦3年2月24日(ユリウス暦1381年3月20日) 辛酉革命に当たるため改元 永徳4年2月27日(ユリウス暦1384年3月19日) 至徳に改元 出典[編集] 出典は不明だが、『群書治要』巻17に「帝永思至徳以承天心」とある。勘申者は権中納言・広橋仲光。 永徳期におきた出来事[編集] 西暦との対照表[編集] ※は小の月を示す。 永徳元年(辛酉) 一月 二月 三月※ 四月※ 五月 六月※ 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月 十二月※ 弘和元年 ユリウス暦 1381/1/26 2/25 3/27 4/25 5/24 6/23 7/22 8/20 9/19 10/18 11/17 12/17 永徳二年(壬戌) 一月 閏一月 二月※ 三月 四月※ 五月 六月※ 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月※ 十二月 弘和二年 ユリウス暦 1382/1/15 2/14 3/16 4/14 5/14 6/12 7/12 8/10 9/8 10/8 11/6 12/6 1383/1/4 永徳三年(癸亥) 一月 二月 三月※ 四月 五月※ 六月 七月※ 八月※ 九月 十月※ 十一月 十二月※ 弘和三年 ユリウス暦 1383/2/3 3/5 4/4 5/3 6/2 7/1 7/31 8/29 9/27 10/27 11/25 12/25 永徳四年(甲子) 一月 二月 三月※ 四月 五月 六月※ 七月 八月※ 九月 閏九月※ 十月※ 十一月 十二月※ 元中元年 ユリウス暦 1384/1/23 2/22 3/23 4/21 5/21 6/20 7/19 8/18 9/16 10/16 11/14 12/13 1385/1/12 関連項目[編集] [隠す] 表 話 編 歴 日本の元号 飛鳥時代 大化645-650 白雉650-654 白鳳? 朱雀? 朱鳥686 大宝701-704 慶雲704-708 和銅708-715 奈良時代 霊亀715-717 養老717-724 神亀724-729 天平729-749 天平感宝749 天平勝宝749-757 天平宝字757-765 天平神護765-767 神護景雲767-770 宝亀770-781 天応781-782 延暦782-806 平安時代 大同806-810 弘仁810-824 天長824-834 承和834-848 嘉祥848-851 仁寿851-854 斉衡854-857 天安857-859 貞観859-877 元慶877-885 仁和885-889 寛平889-898 昌泰898-901 延喜901-923 延長923-931 承平931-938 天慶938-947 天暦947-957 天徳957-961 応和961-964 康保964-968 安和968-970 天禄970-974 天延974-976 貞元976-978 天元978-983 永観983-985 寛和985-987 永延987-989 永祚989-990 正暦990-995 長徳995-999 長保999-1004 寛弘1004-1013 長和1013-1017 寛仁1017-1021 治安1021-1024 万寿1024-1028 長元1028-1037 長暦1037-1040 長久1040-1044 寛徳1044-1046 永承1046-1053 天喜1053-1058 康平1058-1065 治暦1065-1069 延久1069-1074 承保1074-1077 承暦1077-1081 永保1081-1084 応徳1084-1087 寛治1087-1095 嘉保1095-1097 永長1097-1097 承徳1097-1099 康和1099-1104 長治1104-1106 嘉承1106-1108 天仁1108-1110 天永1110-1113 永久1113-1118 元永1118-1120 保安1120-1124 天治1124-1126 大治1126-1131 天承1131-1132 長承1132-1135 保延1135-1141 永治1141-1142 康治1142-1144 天養1144-1145 久安1145-1151 仁平1151-1154 久寿1154-1156 保元1156-1159 平治1159-1160 永暦1160-1161 応保1161-1163 長寛1163-1165 永万1165-1166 仁安1166-1169 嘉応1169-1171 承安1171-1175 安元1175-1177 治承1177-1181 養和1181-1182 寿永1182-1184 元暦1184-1185 鎌倉時代 文治1185-1190 建久1190-1199 正治1199-1201 建仁1201-1204 元久1204-1206 建永1206-1207 承元1207-1211 建暦1211-1214 建保1214-1219 承久1219-1222 貞応1222-1224 元仁1224-1225 嘉禄1225-1228 安貞1228-1229 寛喜1229-1232 貞永1232-1233 天福1233-1234 文暦1234-1235 嘉禎1235-1238 暦仁1238-1239 延応1239-1240 仁治1240-1243 寛元1243-1247 宝治1247-1249 建長1249-1256 康元1256-1257 正嘉1257-1259 正元1259-1260 文応1260-1261 弘長1261-1264 文永1264-1275 建治1275-1278 弘安1278-1288 正応1288-1293 永仁1293-1299 正安1299-1302 乾元1302-1303 嘉元1303-1307 徳治1307-1308 延慶1308-1311 応長1311-1312 正和1312-1317 文保1317-1319 元応1319-1321 元亨1321-1324 正中1324-1326 嘉暦1326-1329 元徳1329-1331(大覚寺統)、1329-1332(持明院統) 大覚寺統 元弘1331-1334 持明院統 正慶1332-1333 南北朝時代 室町時代 建武1334-1336(南朝)、1334-1338(北朝) 南朝 延元1336-1340 興国1340-1347 正平1347-1370 建徳1370-1372 文中1372-1375 天授1375-1381 弘和1381-1384 元中1384-1392 北朝 暦応1338-1342 康永1342-1345 貞和1345-1350 観応1350-1352 文和1352-1356 延文1356-1361 康安1361-1362 貞治1362-1368 応安1368-1375 永和1375-1379 康暦1379-1381 永徳1381-1384 至徳1384-1387 嘉慶1387-1389 康応1389-1390 明徳1390-1394 応永1394-1428 正長1428-1429 永享1429-1441 嘉吉1441-1444 文安1444-1449 宝徳1449-1452 享徳1452-1455 康正1455-1457 長禄1457-1461 寛正1461-1466 文正1466-1467 戦国時代 応仁1467-1469 文明1469-1487 長享1487-1489 延徳1489-1492 明応1492-1501 文亀1501-1504 永正1504-1521 大永1521-1528 享禄1528-1532 天文1532-1555 弘治1555-1558 永禄1558-1570 元亀1570-1573 安土桃山時代 天正1573-1593 文禄1593-1596 慶長1596-1615 江戸時代 元和1615-1624 寛永1624-1645 正保1645-1648 慶安1648-1652 承応1652-1655 明暦1655-1658 万治1658-1661 寛文1661-1673 延宝1673-1681 天和1681-1684 貞享1684-1688 元禄1688-1704 宝永1704-1711 正徳1711-1716 享保1716-1736 元文1736-1741 寛保1741-1744 延享1744-1748 寛延1748-1751 宝暦1751-1764 明和1764-1772 安永1772-1781 天明1781-1789 寛政1789-1801 享和1801-1804 文化1804-1818 文政1818-1831 天保1831-1845 弘化1845-1848 嘉永1848-1855 安政1855-1860 万延1860-1861 文久1861-1864 元治1864-1865 慶応1865-1868 明治時代以降 明治1868-1912 大正1912-1926 昭和1926-1989 平成1989-現在 ※注1:元号の後の年代は、元号の初年と終年に対応する西暦。「天正」の初年まではユリウス暦、同じく終年以後はグレゴリオ暦による。 ※注2:「白鳳」と「朱雀」は正史『日本書紀』には見えない私年号だが、地方の文献等に散見する。 カテゴリ: 日本の元号南北朝時代 (日本) 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 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