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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 日曜囲碁対局 日曜囲碁対局(にちよう・いご・たいきょく)は1968年-2002年に、テレビ東京(1981年9月30日まで東京12チャンネル)などで放送された囲碁のテレビ棋戦番組である。 概要[編集] 1968年10月、民放初となるテレビ棋戦「早碁選手権戦」の第1回大会開催とともに開始されたもので、日本棋院・関西棋院所属の棋士による早差し囲碁の熱戦を展開した。翌1969年からは若手棋士による大会「新鋭トーナメント戦」も開催され、これを半年間交互に開催してきた。 2002年に日本航空協賛の鶴聖戦・女流鶴聖戦と大会を統合した際、「スーパー早碁」として発展解消された。テレビ東京の将棋棋戦「テレビ将棋対局・早指し将棋選手権」やNHK教育テレビジョンの「NHK杯テレビ囲碁トーナメント」・「NHK杯テレビ将棋トーナメント」と並ぶテレビ棋戦として視聴者に親しまれた。 解説・実況[編集] ◆ ◆ 囲碁 Go board part.jpg ゲームの詳細 囲碁のルール 囲碁のハンデキャップ (互先 - 定先 - 置き碁) 囲碁の格言 囲碁用語 歴史と文化 囲碁の歴史 碁盤 - 碁石 囲碁の記録一覧 囲碁のタイトル在位者一覧 棋道賞 組織と棋士 国際囲碁連盟 日本棋院 関西棋院 中国棋院 韓国棋院 台湾棋院 全日本学生囲碁連盟 棋戦 棋士 日本の囲碁棋士一覧 コンピュータ コンピュータ囲碁 幽玄の間 AlphaGo対李世乭 表 話 編 歴 囲碁(いご)とは、2人で行うボードゲームの一種。交互に盤上に石を置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを争う。単に碁(ご)とも呼ばれる。 目次 [非表示] 1 概要 2 歴史 3 用具・用具に関係する囲碁用語 4 ルール 4.1 着手に関するルール 4.2 置碁 4.3 死活に関するルール 4.4 勝敗に関するルール 5 対局の進行 5.1 序盤 5.2 中盤 5.3 終盤 6 基本戦略 6.1 布石 6.2 石の形 6.3 厚み 6.4 石の働き 7 競技としての囲碁 7.1 段級位制度 7.2 囲碁の大会 7.3 プロ組織 8 競技人口の概要 9 囲碁と数学 10 文化における囲碁 10.1 囲碁の別称とその意味 10.2 囲碁に由来する慣用表現 10.3 囲碁を扱った作品 10.3.1 文芸 10.3.2 映画 10.3.3 文楽・歌舞伎 10.3.4 漫画 10.3.5 落語 10.3.6 その他 11 参考文献 12 脚注 13 関連項目 14 外部リンク 14.1 囲碁入門 ウィキペディア改善のため、3つの質問にご回答ください。 Visit surveyNo thanks アンケートのデータは第三者によって取り扱われます。プライバシーについてはこちら。 概要[編集] 2人のプレイヤーが、碁石と呼ばれる白黒の石を、通常19×19の格子が描かれた碁盤と呼ばれる板へ交互に配置する。一度置かれた石は、相手の石に全周を取り囲まれない限り、取り除いたり移動することはできない。ゲームの目的は、自分の色の石によって盤面のより広い領域(地)を確保する(囲う)ことである。 アブストラクトゲーム、ボードゲームの一種で、ゲーム理論の言葉で言えば二人零和有限確定完全情報ゲームである[1]。勝敗は、より大きな地を確保することで決定される(#勝敗に関するルール)。ゲームの終了は、将棋やチェスと同じように、一方が負けを認めること(投了という)もしくは双方の「もう打つべきところがない」という合意によって行われる。他のボードゲームと比較した場合の特異な特徴は、ルール上の制約が極めて少ないこと、パスが認められていることが挙げられる。 発祥は中国と考えられ、少なくとも2000年以上前から東アジアを中心に親しまれてきた。そうした文化・歴史の中で爛柯(らんか)をはじめとしたさまざまな別称を持つ(#囲碁の別称とその意味)。日本でも平安時代から広く親しまれ、枕草子や源氏物語といった古典作品にも数多く登場する。戦国期には武将のたしなみでもあり、庶民にも広く普及した。江戸時代には家元四家を中心としたプロ組織もでき、興隆の時期を迎えた。明治以降も引き続き広く親しまれ、近年ではインターネットを経由して対戦するネット碁も盛んである。 西洋的な価値観からはチェスなどと同様マインドスポーツ(つまり競技)でもあり、国際囲碁連盟は国際オリンピック委員会が承認する国際スポーツ団体総連合に加盟し、五輪競技としての採用を目指している。中国・広州で開催される2010年アジア競技大会では競技種目として採用された。 日本では古くから親しまれ、駄目、布石、捨て石、定石など、数多くの囲碁用語は、そのまま日本語の慣用句としても定着している(#囲碁に由来する慣用表現)。 歴史[編集] 詳細は「囲碁の歴史」を参照 「碁」という字は本来は「棋・棊」の異体字で、意味も発音も同じだった。現在も中国では「围棋(圍棋)」と書く。日本漢字音での「ゴ」と「キ」の音の違いは呉音と漢音の違いに由来する。 囲碁の実際の起源ははっきりとはわかっていない。少なくとも春秋時代には成立していたようで、『論語』・『孟子』の中には碁の話題が出てくる。中国碁は前漢時代17路盤であったと考えられている。 伝統的な中国碁は、盤上に多くの石を載せたほうが勝ちというルールであった。 初期の碁石は、唐宋期のものが残っている。 その後5世紀には朝鮮へ、7世紀頃に日本に伝わったとされる。そのころから日本の貴族を中心に広く遊ばれ、正倉院には碁盤と碁石が収められている。清少納言や紫式部も碁をよく打ったとされ、枕草子や源氏物語中にも囲碁と思われるものが登場する。 室町時代末期からは碁打ちが公家や武将に招かれるなどの専業化も進むとともに、それまでの事前置石制から自由布石への移行も起こった。戦国時代には戦国武将たちに大いに好まれ、織田信長に日海(本因坊算砂)が名人の称号を許されたと言われる[2]。江戸時代には幕府から家禄を受ける家元制度が成立し、囲碁の技術が飛躍的に向上するとともに、将軍御目見えによる御城碁が行われたり、碁会所が生まれるなど庶民の娯楽としても定着した。 1999年ごろには漫画『ヒカルの碁』の影響で若年層にも囲碁ブームが生まれた。 囲碁は日本のみならず韓国、北朝鮮、中華人民共和国、台湾などでも盛んに行われ、その他にも北アメリカ・南アメリカ、ヨーロッパなどでも行われている。今日、囲碁は世界80ヶ国以上で打たれており、世界選手権も行われている。 レジャー白書によると、日本の囲碁人口は2015年で推計250万人である。2013年の年齢別構成は男+女合計で10歳代11.8%、60歳以上8.1%であった。 用具・用具に関係する囲碁用語[編集] 碁盤 碁石 碁盤 板の上に、直交する縦横それぞれ同じ本数の線分を引いたもの。碁石を置くのは縦線と横線の交点である。一般に、縦横19本ずつの19路盤が使われる。初心者向け、お好み対局向けに13路盤や9路盤、7路盤や6路盤もある。古来使用されたものには17路盤も存在した。 線は最も外側にあるものから順に第1線、第2線、第3線……のように呼ぶ。また第4線の交点や辺の中間、碁盤の中心にある黒点を星と呼び、19路盤の場合、9つある(右図参照)。碁盤の中央にある星を特に天元という。 碁盤の交点座標は、先手の黒から見て、横の座標を左から右に1~19の算用数字で、縦の座標を上から下に一~十九の漢数字で表すことが多く、これは数学の直交座標系における第四象限と考えるとわかりやすい。この場合、右上隅の星は「16の四」、天元は「10の十」と表現する。 座標については、上述の表記が最も伝統的なものであり新聞や雑誌でももっぱらこの表記法が用いられるが、海外の囲碁ファンの増加などもあり算用数字とアルファベットで座標を表現することもある。ただし、その表現方法は統一されていない。横の座標はアルファベット、縦の座標は算用数字を用いるが、「数字の1とアルファベットのIの混合を避けるために、Iを用いないかどうか」、「数字の0とアルファベットのOの混合も避けるために、Oも用いないかどうか」、「縦の座標を上から下にとる(直交座標系における第四象限)か、下から上にとるか(同じく第一象限)」は場合によってまちまちである。 碁石 単に石ともいう。黒・白の二色あり、合わせて碁盤を埋め尽くせる数(黒181、白180)だけ用意される(グリーン碁石と呼ばれる、濃い緑と薄い緑の二色のものもある)。碁石を入れる器を碁笥(ごけ)と言う。盤上の碁石を数える時の単位は「子(もく)」であり、一つを一子(いちもく)、二つを二子(にもく)などと表す[3]。しかしながら、囲碁特有の読み方であるため、「子」が「し」と読まれることもある。「子(もく)」ではなく「目(もく)」の字を当てることもある。 ルール[編集] 詳細は「囲碁のルール」を参照 囲碁のルールには、いわゆる日本ルールと中国ルール、中国ルールを元に台湾で考案された計点制ルールなどがある。いずれもゲームの進め方や勝敗の判定に大きな違いはないが、細かい違いはある。以下は日本ルール(日本棋院と関西棋院による日本囲碁規約)を元に説明する。 主なルールは5つ。 碁盤の線の交差部分に黒と白が交互に打つ。 地(自分の領域)の多いほうが勝利。 相手の石は上下左右を囲うと取れる。 着手禁止点(自殺手) コウ 着手に関するルール[編集] 黒、白の対局者が交互に自分の石を盤上の交互に着手する。着手した石は、取られない限りそこから動かしてはならない。 相手の石を縦横に隙間なく取り囲むと、ハマとして取ることができる。取ることができるようになった石は、着手の後に盤面から取り除かなければならない。下図の場合、黒がそれぞれ1と打った場合、△の白が取り上げられる。取られる1手前の状態を「アタリ」と言い、下図の白石はそれぞれアタリの状態である。 自殺手は禁止(自ら取り囲まれた状態にする手の禁止)。たとえば下図で白が左上aや右上bに打つのは反則となる(黒からは打ってよい)。ただし、その石を打った時点で相手の石を取ることができる場合は例外である。左下cや右下dに打てば▲の黒が取れるため、ここに白が打つのは反則にならない。 石を取るルールと自殺手の禁止のルールによって、囲碁では下図のような石の配置には決してなり得ない。 自分が打つことによって、相手が打った直前の局面に戻してはならない。下図の形で、黒がaに打てば△の白石を取り上げることができる。 しかしその直後、今度は下図のように黒1子がアタリとなっている。白がbに打って黒石を取り返すと、上図の形に戻ってしまう。この形をコウ(劫)と呼ぶ。 これを繰り返すと永遠に対局が終わらないため、同一局面の反復は禁止とされている[4]。つまり上図で黒がaと取った直後に、白がbと取り返すのは反則となる。詳しくはコウの項目を参照。 置碁[編集] 囲碁におけるハンディキャップ戦として置碁がある。これは実力が下位のものが黒を持ち、あらかじめ盤上に黒石を置いた状態でスタートするものである。あらかじめ置かれた石を「置石」という。実力差によって、置石は普通2子から9子の範囲で調節される。詳しくは置碁の項目を参照。 死活に関するルール[編集] 「死活」も参照 先に述べた着手禁止点のルールから、二ヶ所の離れた空間(眼と称する)を持った石は、決して取り上げることができないことになる。たとえば下図左上の黒は周辺をびっしりと白に囲まれているが、白からはaにもbにも打てないのでこの黒の一団を取り上げることができない。この場合、「黒は生きている」という言い方をする。すなわち、眼を2つ(二眼)作ることができればその石は生きになる。 なお、下図右下の黒は独立した2ヶ所の眼を持っているわけではないため、白からcとdに打って取ることができる。これは二眼ではなく、黒は「死に」ということになる。 自分がどう打っても相手が正しく対応すれば二眼を作ることができない石の一団は「死に」である。終局後に、死んでいる石はハマに加えられる。 特殊なケースとして、両方ともに二眼がないが、互いに手出しできない形がある。これは「セキ」と呼ばれ、双方とも生きとして扱われる。詳細はセキの項目を参照。 勝敗に関するルール[編集] 相手の石が中に入り込んで生きることのできない、自分の石の一団に囲まれた領域のことを地と呼ぶ。 地の面積とハマの数の和の大小によって勝敗を争う。形勢判断などでは、この和の数値のことを地というため、たとえば、黒地○○目、白地○○目などというときは、この和のことを言う。下図は9路盤での終局図の一例。▲の黒石は生きられないため、「ハマ」として取り上げられ、黒地に埋められる。左上から左下に広がった黒地はこれを埋めて29目、右上から右下を占拠した白地は23目で、この場合「黒の盤面6目勝ち」となる。 ただし囲碁では先番の黒が有利であり、その分のハンディとして「コミ」が設定されている。多くの場合コミは6目半とされており、この分を白地に足して計算する。つまり上図では白が29目半になるので、コミを入れて計算した場合「白の半目勝ち」ということになる。 以前のルールでは、これ以上は打っても得をする場所がないと双方が認めて合意すると「終局」となり、その後でダメ(打っても得をしない箇所)を埋めて互いの地を数えることとされていた。しかしトラブルがあったために2006年にルールが改変され、ダメしか残っていなくても、全てダメを埋めてからでないと終局することができないとされた(インターネット対局では、双方がパスをすることによって終局とするケースが多い)。 対局中に三コウ以上の多元コウ、長生、循環コウが発生し、双方譲らず同型反復となった場合、対局は無勝負扱いとなる。詳しくは「コウ」の項目を参照。 対局の進行[編集] 序盤[編集] 通常、対局が始まるとしばらくは布石が行われる。大体の場合は碁盤の四隅に打つことから始まる。なお、初手を四隅に打つ場合は、白番(上手)が右手で打ちやすい隅を残すため、慣例的に右上隅に打つ。 三々(さんさん) 碁盤の隅から3・3の位置のこと。地に対して最も堅い手であるが中央への働きが弱い。 小目(こもく) 碁盤の隅から3・4あるいは4・3の位置のこと。古来から布石の基本とされる。 星(ほし) 碁盤の隅から4・4の位置のこと。現在の布石の花形。また置碁ではこの位置に石を置いて打ち始める。 目外し(もくはずし) 碁盤の隅から3・5あるいは5・3の位置のこと。相手の作戦をくじくための物として打たれることが多い。 高目(たかもく) 碁盤の隅から4・5あるいは5・4の位置のこと。目外しと同じように使われるが、目外しより多少地に甘く(意識が低い)、中央重視の場合に打たれる。 五ノ五(ごのご) 碁盤の隅から5・5のこと。打たれる頻度はかなり低い。 大高目(おおたかもく) 碁盤の隅から4・6、あるいは6・4の位置のこと。 天元(てんげん) 碁盤の中心。中心に打つため四方全ての向きからのシチョウに有利とされるが、五の五・大高目とともに未だあまり研究がなされていない。五の五同様、打たれる頻度はかなり低い。 近年では隅の着点は小目と星が全体の8割以上を占め、高目や目外しなどの位の高い着点はやや特殊な打ち方とされる。これはその他の隅の占め方(打ち方)が、地に甘いとされているからであり、現代は実利が重視されているということを表しているともいえる。しかし、実利が重視されているといっても、最も地に辛い(重視する)三々は目外しよりも打たれる頻度は低い。これは碁が、単に地を奪い合えば良いというだけのゲームではないことの表れであろう。 以下は19路の布石の例である。 二連星(にれんせい) 隣接する二つの隅の星を占める布石のことを指す。黒白問わずよく打たれ、特に白番での使用例が増えている。 三連星(さんれんせい) 二連星の間の辺の星をさらに占めた布石。基本的に実利にとらわれず、中央を目指す碁になる。武宮正樹九段が愛用する布石。 中国流(ちゅうごくりゅう) 隅の星と内側向きの小目に、さらにその間にある星脇(右上を星、右下を小目とすると、辺の星の一つずつ右・下に位置するところ)(小目から見て五間ジマリ)に並べられた布石。打ち出したのは日本人だが、大会で中国の若手が一様に使用しこの名前がついた。お互いの応手により実利・厚みのどちらにも転換することが可能。ただし、戦いになると一本調子になるところがある。加藤正夫などが愛用した。 高中国流 話し言葉の上では「たかいちゅうごくりゅう」と呼ばれ、書き言葉では普通「高中国流」。中国流との違いは辺の石が第三線ではなく、第四線にあることである。そのため実利より戦いを求める布石になる。地に甘いため2000年以降は打たれることが少なくなっている。 ミニ中国流(みにちゅうごくりゅう) 原型は本因坊道策の時代から打たれている。自分の小目の先にある相手の隅の星に小ゲイマガカリして受けさせた後、星脇にヒラく。この星脇の石と小目の位置関係からこの名前が付いた。1990年代から日本・中国・韓国で主に研究され、流行している布石である。 中盤[編集] 中盤は死活の絡んだ戦いになる。互いに死活がはっきりしていない弱い石を意識しながら打ち進める。攻め、サバキ、シノギの技量が問われる。 中盤は、もっとも作戦が富んだところである。基本的な構想をいくつか挙げると、 自分の模様を広げる。模様に手を入れて地模様にする。 相手の模様を制限する(模様を「値切る」という)。 相手の模様に打ち込んで生きる。 自分の弱い石を守る。 相手の弱い石を攻撃することで利益を得る(相手の石を取る、相手の石をイジメながら別の石を取ったり、厚みを築いたり、確定地を作ったりする)。 自分の石を捨てて(相手に取らせて)別のところで利益を得る(捨て石あるいはフリカワリ)。 などがある。高等戦術の例として、自分の模様に隙を残しておいてあえて打ち込ませ、イジメながら各所で得を図ったり、序盤は地で先攻し(必然的に相手は厚みで対抗する)、相手の模様が完成する直前に打ち込みで荒らす手法などがある。 終盤[編集] ヨセは双方共に死活の心配がなくなり、互いの地の境界線を確定させる段階を指す。ただしヨセは必ずしも終盤に起こるものではなく、局面によっては序盤・中盤のように手数が少ない場合でも大ヨセが打たれることがある。互いの地に、およそ20目以下10目以上の差がつくヨセを大ヨセ、およそ10目以下を小ヨセと呼ぶ。 序盤・中盤・終盤には明確な区別はなく、ほとんど序盤のないまま戦いに突入したり、ヨセに入ってからの駆け引きで中盤に逆戻りすることもある。 基本戦略[編集] 大まかに囲っている地域(これを模様という)と最終的な地との間には大きな違いがあり、ゲームの進行と共に、景色が大きく入れ替わる。相手が囲おうとしているところに石を突入させて(打ち込み)生きてしまえば、そこは自分の地となる。相手が地だと思って囲っている壁の一部を、国境を侵害するように切り取ってしまえば、地はそれだけ減ってしまう。逆に、相手が生きると思っている石を殺してしまえば、そこは自分の地となる。戦いの中で相手の地や石と自分の地や石を奪い合う、フリカワリという戦略もある。最終的に相手の石が生きることができず、かつ境界が破られないような領域が地となる。つまるところ、囲碁は石の効率を競い合うゲームといえる。 一般に、両者が最善を尽くしている状況では、相手の石の生きにくさ(地になりやすさ)と模様の広さ(大きな地になる可能性の大きさ)との間にはトレードオフの関係がある。相手の生きがほぼ見込めない領域のことを確定地と呼び、これを優先する考え方を実利重視という。これに対して、将来の利得を重視する考え方が、厚みである。経営における短期と長期のバランスに似て、この実利と厚みの絶妙なバランスが囲碁の戦略できわめて困難なポイントである。とりわけ、厚みの形式的表現が極めて困難なことが、コンピュータ囲碁ソフトの最大の壁であるとも言われる。 布石[編集] 基本的に序盤は隅から打ち進めるのが効率がよいといわれる。これはある一定の地を得るために必要な石数が、中央より辺、辺より隅の方が少なくて済むためであり、その分効率がよいとされるためである。近年のプロの対局では、第一手のほぼ全てが隅から始まっている。第一手を中央に打った対局も存在するが、多くの場合趣向と評される。 石の形[編集] 囲碁のルールは非常に単純であるが、そこから派生する効率の良いほぼ必然的な着手の仕方、つまり石の形を理解することである程度の棋力を得ることができる。効率のよい形を「好形」、悪い形を「愚形」「凝り形」などと呼ぶ。「空き三角は愚形」「二目の頭見ずハネよ」など、格言になっている石の形は多く存在する。 厚み[編集] 碁を打つ上で重要な要素として厚みがある。言い換えれば勢力のようなものである。例として三間ヒラキの真ん中に打ち込もうとする場合、ただの三間ヒラキに打ち込むより、ヒラキを成す一方の石が2石の連続した形(中央方向に立っている)である場合のほうが、より打ち込みは無謀と感じるだろう。これは打ち込まれた石を勢力に追い詰めることで、取ることができないにしても相当いじめられることが予想されるからである。これ以外にも有効に石を連続させておくことで大模様を形成できたり、盤上で不意に発生したシチョウに対しシチョウあたりの効果を発揮するなど、あらゆる可能性をもっている。 石の働き[編集] 囲碁はお互いに着手する回数はほぼ同じなため、その中でいかに効率よく局面を進め、最終的により多くの地を獲得するかが重要になる。この石の効率のことを「石の働き」とも言い、効率が良い状態を「石の働きが良い」、効率が悪い状態を「石の働きが悪い」と言う。石の効率は石の形とも密接な関係にあり、愚形や凝り形と呼ばれる形は総じて石の働きが悪い形でもある。 また、石の働きの評価方法に「手割り計算」がある。局所において白黒双方の形が定まった時点で互いの働きのない石(不要な石)を除外していき、どちらの方が除外した数が多いか、または白黒同じ数だけ取り除き、その時に残った石の働きにより形勢を判断する方法である。手割り計算の概念を最初に編み出したのは本因坊道策とされており、これによって局所戦に終始する旧来の碁の時代が終わり、石の効率を追求するという近代碁の概念が確立された。 競技としての囲碁[編集] 段級位制度[編集] 詳細は「囲碁の段級位制」を参照 囲碁の力量を数値で表すための段級位制度が存在している。アマチュアとプロで認定の仕組みが異なっており、アマチュアでは日本棋院・関西棋院が認定をしている。 アマチュアは、初心者は30~50級から始まり、最高位は八段である.。段級位の認定を受ければ、免状を発行してもらうことができる。 プロは初段から始まり、最高位は九段である。プロ棋士同士の対局の成績によって昇段が行われる。 [icon] この節の加筆が望まれています。 囲碁の大会[編集] 詳細は「棋戦 (囲碁)」を参照 日本では室町時代末期から棋士による大会が行われていた。20世紀に入り日本棋院が設立されると、新聞社の協賛により多くの大会が開催されるようになった。また、戦後からは韓国・中国を中心として世界規模の大会も開催されるようになった。 プロ組織[編集] 「棋士 (囲碁)」および「日本棋院」も参照 室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れたが組織化までは至らなかった。江戸時代に家元が幕府より俸禄を受けるようになり公認の職業として職業棋士が成立し、家元を中心とする組織化が行われた。明治になると俸禄が停止され家元制度が弱体、愛好者や新聞社と契約を結ぶものも現れ、職業棋士組織も乱立したが、これらが連合し日本棋院が生まれた。 競技人口の概要[編集] 『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)によると、1年に1回以上囲碁の対局をおこなう、いわゆる「囲碁人口」は、1982年の1130万人から、2004年450万人、2006年360万人、2015年250万人と漸減傾向が続いている[5]。 囲碁と数学[編集] 「コンピュータ囲碁」も参照 囲碁は、そのルールの単純性と複雑なゲーム性から、コンピュータの研究者たちの格好の研究材料となってきた。 他のゲームと比較した囲碁の特徴としては、盤面が広く、また着手可能な手が非常に多いため、盤面状態の種類およびゲーム木がきわめて複雑になることが挙げられる。盤面状態の種類は、チェスで1050、シャンチー(象棋)で1048、将棋で1071と見積もられるのに対し、囲碁では10160と見積もられる[6]。また、ゲーム木の複雑性は、チェスで10123、シャンチーで10150、将棋で10226と見積もられるのに対し、囲碁では10400と見積もられており、チェス、シャンチー、将棋と比較して囲碁の方がゲームとして複雑であるとされてきた[6]。 チェスの世界では、1996年のガルリ・カスパロフとの対局で、初めて単一のゲームで世界チャンピオンにコンピュータが勝利した。また、1997年にはオセロの世界チャンピオンであった村上健がコンピュータとの6番勝負で6戦全敗し、2006年にはシャンチーのプログラムが大師との対局に勝利、2012年には将棋棋士(引退)の米長邦雄がコンピュータに敗れた。 その一方でコンピュータ囲碁の棋力は伸び悩み、2000年代初頭においてもアマチュアの有段者に及ばない程度の棋力であったが、2000年代後半に入るとモンテカルロ法を採用したコンピュータの登場により棋力が上昇し、2012年ごろにはアマ六・七段程度の棋力に達した。その後、2016年にディープラーニングの技術を用いたGoogle DeepMind社の開発したAlphaGoが、ヨーロッパのプロ棋士樊麾二段に2015年10月に勝利していたことが公表され、2016年3月に行われた韓国のトップ棋士である李世乭との5番勝負も4勝1敗で制した。Google DeepMind社の発表前は、他のコンピュータプログラムの棋力はまだアマ六・七段程度であり、トップ選手が公の舞台で敗れるかなり前からコンピュータの高い実力が広く知られていた他のゲームとは異なる展開を見せた。 文化における囲碁[編集] 囲碁の別称とその意味[編集] 囲碁にはさまざまな別称・雅称があるが、それらの中には中国の故事に由来するものも多い。 そのような故事由来の異称の代表である爛柯(らんか)は中国の神話・伝説を記した『述異記』の次のような話に由来する。晋の時代、木こりの王質が信安郡の石室山に入ったところ童子たちが碁を打っているのを見つけた。碁を眺めていた王質は童子からナツメをもらい、飢えを感じることはなかった。しばらくして童子から言われて斧を見ると、その柄(柯)が朽(爛)ちていることに気付いた。王質が山を下り村に帰ると知っている人は誰一人いなくなっていた。 この爛柯の故事は、囲碁に没入したときの時間感覚の喪失を、斧の柄が腐るという非日常な事象で象徴的に表している。また山中の童子などの神仙に通じる存在から、こうした時間を忘れての没入を神秘的なものとしてとらえていることもうかがえる。この例と同様に、碁を打つことを神秘的にとらえた異称として坐隠(ざいん)がある。これは碁にのめりこむさまを座る隠者に通じるとしたもので、手談(しゅだん)と同じく『世説新語』の「巧芸」に囲碁の別称として記されている。手談は字の通り、互いに碁を打つことを話をすることと結び付けたものである。 囲碁の用具に着目した異称として烏鷺(うろ)がある。碁石の黒白をカラス(烏)とサギ(鷺)にたとえている。方円(ほうえん)は碁石と碁盤の形からつけられたもので、本来は天円地方で古代中国の世界観を示していた。のちに円形の碁石と正方形の碁盤から囲碁の別称となった。「烏鷺の争い」とも言う。 『太平広記』巻四十「巴邛人」の話も別称の由来となっている。巴邛に住むある男が橘の庭園を持っていたが、あるとき霜がおりた後で橘の実を収穫した。しかし3、4斗も入りそうな甕のように大きな実が二つ残り、それらを摘んで割ってみると、中には老人が二人ずつ入っていた。この老人たちは橘の実の中で碁を打っていた。この話から囲碁は橘中の楽(きっちゅうのらく、―たのしみ)とも呼ばれる。ただし、原文では老人が遊んでいたのは碁ではなく「象戯」(シャンチー)である。 碁盤には、「天元→北極星」、「星→星」、「19路×19路=361 → 1年365日」、「四隅→春夏秋冬」など、自然界・宇宙を抽象的に意味づけているとの主張もあるが、361日と365日は10年で40日(一ヶ月以上)も差があり、こじつけという見方もある。 囲碁に由来する慣用表現[編集] 傍目八目・岡目八目(おかめ はちもく) そばで見ていると冷静だから対局者の見落としている手も見え、八目ぐらい強く見える[7]意から、当事者よりも第三者の方がかえって物事の真実や得失がよく分かる例え[8]。 一目置く(いちもく おく) 棋力に明らかに差のある者どうしが対局する場合、弱い方が先に石を置いてから始めることから、相手を自分より優れていると見なして敬意を表すること。その強調形の『一目も二目も置く』が使われることもある。 なお、ハンデ付で対局する「置き碁」については、2目以上を置く場合をそのように呼ぶことが多く、1目を置く(黒で先手し、コミを出さずに対局する)場合については、一般に「先(せん)」という呼び方が用いられる。 駄目(だめ) 自分の地にも相手の地にもならない目の意から、転じて、役に立たないこと、また、そのさま。 駄目押し(だめおし) 終局後、計算しやすいように駄目に石を置いてふさぐこと。転じて、念を入れて確かめること。また、既に勝利を得るだけの点を取っていながら、更に追加点を入れることにもいう。 八百長(やおちょう) 江戸時代末期、八百屋の長兵衛、通称八百長なる人物が、よく相撲の親方と碁を打ち、相手に勝てる腕前がありながら、常に一勝一敗になるように細工してご機嫌を取ったところから、相撲その他の競技において、あらかじめ対戦者と示し合わせておき、表面上真剣に勝負しているかのように見せかけることをいう。 布石(ふせき) 序盤、戦いが起こるまでの石の配置。転じて、将来のためにあらかじめ用意しておくこと。また、その用意。 定石(じょうせき) 布石の段階で双方が最善手を打つことでできる決まった石の配置。転じて、物事に対するお決まりのやり方。 捨て石、捨石(すていし) 対局の中で、不要になった石や助けることの難しい石をあえて相手に取らせること。転じて、一部分をあえて犠牲にすることで全体としての利益を得ること。 死活(しかつ)、死活問題(しかつもんだい) 石の生き死にのこと。また、それを詰碁の問題にしたもの。転じて、商売などで、生きるか死ぬかという問題ごとにも用いられる。 大局観(たいきょくかん) 的確な形勢判断を行う能力・感覚のこと。転じて、物事の全体像(俯瞰像)をつかむ能力のこと。 目算(もくさん) 自分と相手の地を数えて形勢判断すること。転じて、目論見や見込み、計画(を立てること)を指す。 囲碁を扱った作品[編集] 文芸[編集] 『源氏物語』「空蝉」「竹河」「手習」「宿木」 『枕草子』「心ゆかしきもの」「遊びわざは…」「碁をやむごとなき人の打つとて…」 川端康成『名人』 斎藤栄『黒水晶物語』『黒白の奇蹟』 竹本健治『囲碁殺人事件』他 内田康夫『本因坊殺人事件』 水原秀策『黒と白の殺意』 遠田潤子『月桃夜』 トレヴェニアン『シブミ』 シャン・サ『碁を打つ女』 ノ・スンイル『オールイン』 映画[編集] 『未完の対局』佐藤純彌監督(南里征典による同名ノベライゼーションもある) 『π』ダーレン・アロノフスキー監督 『ビューティフル・マインド』ロン・ハワード監督 『呉清源〜極みの棋譜〜』田壮壮監督 文楽・歌舞伎[編集] 祇園祭礼信仰記、金閣寺の段 - “国崩し”松永大膳と此下東吉との対局から碁笥を利用した決定的な場面につながる。この話は囲碁用語を解さないとストーリーが理解できない。 漫画[編集] 山松ゆうきち『天元坊』 島本和彦『逆襲棋士瞳』 倉多江美『お父さんは急がない』『続・お父さんは急がない』 ほったゆみ(原作)・小畑健(画)『ヒカルの碁』 岡野玲子『陰陽師』 諸星大二郎『碁娘伝』 川原泉『かぼちゃ計画』 竹本健治『入神』 赤塚不二夫『ニャロメのおかしなおかしな囲碁格言』 モリエサトシ『星空のカラス』 落語[編集] 笠碁 碁泥 その他[編集] アタリ - アメリカのゲーム会社。創業者のノーラン・ブッシュネルが囲碁好きで、囲碁用語から社名を取ったというエピソードは有名。詳細はアタリを参照。この後に子会社として「テンゲン」、ノーランが次に作った会社に「センテ」(ノーラン・ブッシュネル参照)があった。 1988年より、市名が囲碁を想起させる青森県黒石市(白石黒石囲碁交流を促進する会)と宮城県白石市(白石黒石囲碁親交会)との間で親善囲碁将棋交流大会が毎年開催されている。 1968年にイギリス・トランスアトランティック・レコードから発売されたジョン・レンボーンとバート・ヤンシュのLP『ジョン・アンド・バート』のカバーには、両人が囲碁にうち興じる写真が使われている。 参考文献[編集] 中山典之『囲碁の世界』岩波新書 1986年 『囲碁・将棋文化史展-その伝来から近代まで』国立国会図書館 1988年 『江戸時代の囲碁の本―文化遺産詳解』日本棋院 1996年 水口藤雄『囲碁の文化誌―起源伝説からヒカルの碁まで (碁スーパーブックス) 』日本棋院 2001年 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 日本の公式戦で使用される囲碁のルールである「日本囲碁規約」の規定上は対局者が合意しないと、無限に続く可能性もあるため、有限なゲームとは分類されないが、事実上有限なゲームで、広くプレイされているゲームであるため、適切な停止条件を考慮した上で、二人零和有限確定完全情報ゲームとして研究されている。 ^ 実際に「信長から名人の称号を受けた」かには異論もある。詳細は本因坊算砂を参照。 ^ ふりがな付きの使用例:日本棋院発行の月刊碁ワールド2012年10月号38ページ、週刊碁2012年11月19日号18面1段最終行。 ^ 「直前」のみならず、対局中のすべての同一局面の再現の禁止はスーパーコウルールと呼ばれる。日本ルールでは採用されていない。 ^ 「レジャー白書に見るわが国の余暇の現状」 ^ a b Yen, Chen, Yang, Hsu (2004) "Computer Chinese Chess" ^ 日本棋院「別冊囲碁クラブNo.37囲碁雑学ものしり百科304ページ「岡目」の項 昭和56年12月」 ^ “おかめはちもく”. yahoo辞書. 2012年1月14日閲覧。[リンク切れ] ただし「八目」が「八手先」を指すと解釈するのは無理がある。 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、囲碁に関連するメディアおよびカテゴリがあります。 ウィキブックスに囲碁関連の解説書・教科書があります。 ウィキニュースには囲碁に関連するニュースのカテゴリがあります。 ◆ 囲碁のルール 囲碁 Go board part.jpg ゲームの詳細 囲碁のルール 囲碁のハンデキャップ (互先 - 定先 - 置き碁) 囲碁の格言 囲碁用語 歴史と文化 囲碁の歴史 碁盤 - 碁石 囲碁の記録一覧 囲碁のタイトル在位者一覧 棋道賞 組織と棋士 国際囲碁連盟 日本棋院 関西棋院 中国棋院 韓国棋院 台湾棋院 全日本学生囲碁連盟 棋戦 棋士 日本の囲碁棋士一覧 コンピュータ コンピュータ囲碁 幽玄の間 AlphaGo対李世乭 表 話 編 歴 囲碁のルール(いごのルール)について、以下に記す。 目次 [非表示] 1 概要 2 基本ルール 3 対局者(プレーヤー) 4 盤上の石の状態 4.1 石の連続 4.2 取り 4.3 石の存在 5 着手 5.1 呼吸点 5.2 自殺の禁止 5.3 同型反復禁止(コウ) 6 終局 6.1 投了 6.2 連続パス(対局の停止) 6.3 死活判定 6.4 地 6.5 死石の処理 6.6 終局に関するトラブル 7 勝敗判定 8 ハンディキャップ 9 反則 10 出典 11 参考文献 12 外部リンク ウィキペディア改善のため、3つの質問にご回答ください。 Visit surveyNo thanks アンケートのデータは第三者によって取り扱われます。プライバシーについてはこちら。 概要[ソースを編集] 基本的なルールは長い歴史の中でも変わっていないが、トラブルが少なくなるように、またゲームとして楽しめるように細かな改良が続けられてきた。だが大部分はほぼ不変で、囲碁がボードゲームとして完成されていることを表している。現在では大きく分けて、中国ルールと日本ルールの2系統が主流であるが、どちらを用いてもほとんどの場合勝敗や戦略には変わりがない。 以下では日本ルールを説明する。個々の概念の詳細は、外部リンクを参照されたい。 まず、囲碁においては信義則が重要となる。日本囲碁規約にも「この規約は対局者の良識と相互信頼の精神に基づいて運用されなければならない。」とある。とりわけゲームの特性上、終局処理に両者の合意が数多く必要とされる囲碁においては円滑に対局を行う上で必要不可欠である。近年、ネット碁で対局者がお互い匿名である場合も多いが、そのような状況では信義則はより重要である。 基本ルール[ソースを編集] 碁盤の線の交差部分に黒と白が交互に打つ。 地(自分の領域)の多いほうが勝利。 相手の石は上下左右を囲うと取れる。 着手禁止点(自殺手) コウ 対局者(プレーヤー)[ソースを編集] 黒番と白番と呼ばれる2人のプレイヤーがそれぞれ、黒・白の石を使用する。黒番・白番を略して、それぞれ黒・白と呼ぶこともある。[1] 盤上の石の状態[ソースを編集] 以下の条件で盤上の交点上に石が存在し続ける。 石の連続[ソースを編集] 複数個の一つの色の石が縦横の碁盤の線に沿ってつながっているものは石の一団とよばれる。 縦横のつながりが重要で、斜めは関係ない。「つながっている」「囲まれる」などの言葉は、縦横に限った話である。 取り[ソースを編集] 石の一団は、その周囲の交点全てに相手の石を置かれると取られる。 石の一団は隣接点で呼吸をしている。隣接点が空点(石が存在しない交点、呼吸点)であれば、呼吸ができる。隣接点に相手の石があれば呼吸を邪魔される。上下左右四方向とも相手の石にふさがれると窒息してしまい取られてしまう。もし、隣接点に味方の石がある場合は、味方の石を通じて呼吸ができ、石の一団で一つでも呼吸のできる石があれば、その石の一団全体が呼吸できる。全ての石の縦横が塞がれ、呼吸のできる石が一つも無くなった場合は、その石の一団全体が窒息し取られてしまう。取った石はハマとよばれる。 石の存在[ソースを編集] 取られない石は、着手されてから終局まで盤上に存在し続ける。 着手[ソースを編集] 黒と白が、交互に一つずつ石を置いていく(打つ、着手する)。黒が先手で、白が後手となる。 以下に述べる着手禁止点を除く、盤上のすべての空いている交点に着手して良い。パスも可能。 呼吸点[ソースを編集] 盤上の交点に石を置いたとき上下左右に隣接した4つの交点が存在する。石はこの点を使って呼吸をしていると考えることができ、この点を呼吸点と呼ぶ。 呼吸点をすべて相手の石で囲まれると石は死にハマとなる。 自殺の禁止[ソースを編集] 自分の石を置くとその石が取られる状態になる点は着手禁止点となる。つまり自殺は禁止。ただし、自殺手によって、相手の石が取れる場合は、自殺手は許され、打ち込んだその石自体も取られない。 同型反復禁止(コウ)[ソースを編集] 同型反復禁止(コウ) 詳細は「コウ」を参照 対局者の一方が一つの石(以後一子と称す)を取った後、即座にもう一方の対局者が一子を取れる状態になる場合。この状態をコウと呼ぶ。一子の取り合いを続けていると永久に対局が終わらないことになるため、コウには特別ルールを設けている。一方の対局者がコウの一子を取った後、もう一方の対局者は別の場所に1手打たない限りはコウの一子を取り返すことが出来ないものとする。なお、この別の場所に打たれる一手のことを、コウ材またはコウダテと呼ぶ。コウがあまりに長くその局が長手数になると打つ石が碁笥の中に無くなってしまう場合があるが、その時は互いのアゲハマを同じ数交換し補充する。 終局[ソースを編集] 投了[ソースを編集] 一方のプレーヤーが投了を告げた場合はその時点で終局となり、もう片方のプレーヤーが勝ちになる(「中押し(ちゅうおし)勝ち」と表記される)。 連続パス(対局の停止)[ソースを編集] また、二人のプレーヤーが連続でパスをすると終局処理に入る。ネット碁でない通常の対局では、パスの代わりに、両対局者の合意によって終局状態に移行する。言葉で終局を確認したり、頷きあったりして確認することが多い。逆に、「両対局者の合意」などの終局状態への移行手続きを形式化した表現が連続パスであると考えて良い。 死活判定[ソースを編集] 「死活」も参照 Go regeln lebende gruppe.png 盤上にある石は活き、死にの二つの状態のどちらかになる。日本囲碁規約では以下の通り定められている。 活き:相手方の着手により取られない、又は取られても新たに相手方に取られない石を生じうること。 ここで「取られても新たに相手方に取られない石」とは例えば、ウッテガエシのような「一度取られてもその後取られない石」[2]や、相手がある石を取ろうとしたことが原因で自分が新たに置ける活き石[3]が該当する。 セキ:一方のみの活き石で囲んだ空点を目(め:地を数える単位も同じ漢字だが、読み方はもく)といい、目以外の空点を駄目(ダメ)という。活き石のうち、駄目を有する(隣接している)活き石をセキ石という。 死に:活きでないこと 死活判定は必ずしも簡単ではない。日本囲碁規約逐条解説では、死活例が多数示されているが、あくまでも基本パターンを示したに過ぎず、ここでも対局者両者の合意が前提となる。 地[ソースを編集] セキ石以外の活き石の目を地という。死石を除去すると、盤上には活きた白石と黒石のみが存在する。自分の石と碁盤の端で囲んだ領域を、自分の地と定義する。 死石の処理[ソースを編集] 相手の死んだ石は、盤上から取り除き、自分のハマに加える。ハマをもって相手方の地を埋める。 終局に関するトラブル[ソースを編集] とりわけ日本ルールでは終局に関するルールがやや煩雑である。そこで、例えば、お互いの合意が成立していないのに終局が成立していると勘違いし、駄目詰めに対して必要な着手(手入れという。)をせずに石をとられてしまい、終局していたかどうかで争いになってしまうといったトラブルが後を絶たない。こういったトラブルはアマチュアだけでなくプロでも起こり得る。 2002年王立誠二冠(棋聖・十段)に柳時熏七段が挑戦した第26期棋聖戦七番勝負第五局において、終局したと思っていた柳時熏は「駄目詰め」の作業に入っていたが、王立誠は終局とは思っておらず柳時熏の石六子を取ってしまった。終局していないのなら柳時熏は取られないように「手入れ」すべきで、終局しているなら順序関係なくお互いの地にならない駄目をつめるだけだったため柳時熏は手入れを怠った。これにより王立誠の逆転勝利となり、行為の正当性を巡り囲碁界に論争を巻き起こした。この騒動では、初めてビデオによる裁定が行われた。なお一部で誤解されているが、この事件によって日本囲碁規約が改訂されたということはなく、この事件の影響はプロの間で終局処理が実際に日本囲碁規約に沿った形で明確に行われるようになったということである。 勝敗判定[ソースを編集] 地の一点を「一目」という。地の面積は、交点の数で数え、単位は目(もく)である。双方の地の目数を比較して、その多い方を勝ちとする。同数の場合は引き分けとし、これを持碁という。中国ルールにおいては、地の目数と盤面で生きている石の数の合計の大小で勝敗を決する。このため、セキの場合などに勝敗が変わることがある。 麻雀などの他の点数を使うゲームと異なり、囲碁においては通常目数の差は重要ではない。そのため、複数回対局して優劣を競う大会などでは、目数差は累積せず、単に勝敗のみを記録して集計する。 ハンディキャップ[ソースを編集] 囲碁は先手有利のゲームなので、両者が同程度の有利さで対局する(互先)場合、コミと呼ばれるハンディキャップを先手の地の計算から引くことが一般的。実力差がある場合は、置き碁が行われることがある。 反則[ソースを編集] 囲碁において反則負けとなる行為には以下のようなものがある。 ハガシ 一度打った自分の手を打ち直すこと。 二度打ち 相手の手番を飛ばして二度続けて打ってしまうこと。 コウの取り番の間違い。 コウ材を打っていないのにコウをとってしまうこと。 着手禁止点 打った時点で相手に取られてしまうような着手は打ってはいけない。 出典[ソースを編集] ^ 『囲碁百科辞典』 ^ “Ⅱ日本囲碁規約(ルール)逐条解説”. 日本棋院. 2016年8月10日閲覧。 ^ “Ⅲ 死活確認例”. 日本棋院. 2016年8月10日閲覧。 参考文献[ソースを編集] 林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年。 関口晴利『囲碁ルールの研究』文芸社、2007年。 外部リンク[ソースを編集] 日本囲碁規約 囲碁ルール博物館 ◆ 原爆下の対局 原爆下の対局(げんばくかのたいきょく)は、1945年(昭和20年)8月6日に行われた囲碁の第3期本因坊戦第2局のこと。対局者は橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫七段(いずれも当時)。この対局は広島市郊外の佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区吉見園)において行われた。対局中にアメリカ軍の広島市への原子爆弾投下があり、対局者が被爆したことで知られる。原爆対局(げんばくたいきょく)、原爆の碁(げんばくのご)ともいう。 対局が行われていた五日市町吉見園は爆心地から5キロメートルほど離れていたものの、爆風により障子襖などが破壊され対局は一時中断された。混乱はあったが午前中に対局は再開され、原爆投下当日中に終局して白番の橋本本因坊の五目勝となった。 目次 [非表示] 1 経緯 1.1 背景 1.2 原爆投下 1.3 原爆対局の後 2 参考文献 3 関連項目 ウィキペディア改善のため、3つの質問にご回答ください。 Visit surveyNo thanks アンケートのデータは第三者によって取り扱われます。プライバシーについてはこちら。 経緯[編集] 被爆直前の広島市中島町の模型 - 東(右側)の元安川に架かる元安橋と西(左側)の本川に架かる本川橋の2橋を結ぶ中島本通の中ほどに見える、奥行きのある縦長の建物が藤井商事の社屋である。第一局はこの社屋に隣接する別邸で開催された。ここに見える建造物は爆心地(元安橋東詰よりやや北東方面)から至近距離にあり、すべて原爆により壊滅している。 背景[編集] 1939年(昭和14年)に世襲制が廃止され選手権制になった本因坊戦は、当時の日本の囲碁界の最も権威ある、唯一のタイトル戦であった。この頃は、本因坊戦挑戦手合は、2年に1度行われていた。 第3期本因坊戦は、1943年の第2期本因坊戦で、第1期本因坊であった関山利一(本因坊利仙)七段に勝ち、第2期本因坊の座についた橋本宇太郎七段(本因坊昭宇)に対し、岩本薫七段が挑戦する形で、1945年(昭和20年)、太平洋戦争末期の困難な社会情勢のなかで行われた。このとき日本棋院の東京本院は、1945年5月25日の東京大空襲により、既に焼失している。 地元広島に疎開していた橋本本因坊の師である瀬越憲作八段は、「本因坊の灯を消してはならない」と第3期本因坊戦を広島で開催することを考え、日本棋院の藤井順一広島支部長(貿易商藤井商事の社長)の協力を得て、本川に面した広島市内の藤井の別邸(中島本町/現平和公園内)で六番勝負全局の対局を行うことを決定し、橋本本因坊、岩本七段ともに了承した。 第一局は、7月23日、24日、25日の3日間で行われ、挑戦者岩本七段の白番5目勝ちであった。対局前日、広島市内での対局は危険であるとして、青木重臣中国地方総監府勅任参事官兼第一部長(前広島県警察部長。第一部長は内務省関係の担当。青木一男元大東亜大臣の弟)は、記録係を勤めた三輪芳郎五段(橋本本因坊の弟子)を呼び、「対局が行われる前に警察に電話せよ。職権で中止させる」旨命じられていた。これを聞いた立会人をつとめた瀬越八段は「電話をすれば、君は碁界を去らねばならない」と三輪五段に伝えたという。対局日には青木参事官が出張したという偶然もあり、対局中止という事態は避けられたが、対局中、グラマン戦闘機の機銃掃射が対局場の屋根に当たるなど、無事に行われるという状況ではなかった。 出張から戻った青木参事官は、第二局は市内での対局を避けて欲しいとして、中国石炭の津脇勘市社長に依頼して、広島市から10キロほど郊外の、佐伯郡五日市町吉見園(現広島市佐伯区吉見園)にある同社の寮を代替の対局場として提案した。 今度は瀬越八段も断りきれず、また、橋本本因坊も危険な場所での対局は嫌だといったことから、岩本七段が藤井支部長に対局場の変更を申し入れ、藤井支部長も渋々同意し、第二局は、中国石炭の寮で8月4日、5日、6日の3日間で行われることになった。なお、藤井支部長は対局用に疎開先から運んできた食料等を、全て新対局場に提供した。 原爆投下[編集] 対局3日目の8月6日、午前8時15分、局面は106手目頃であった。この日の対局が始められた直後に(前日までの手順を並べなおした直後という話もある)、アメリカ軍の爆撃機B-29、エノラ・ゲイが投下した原子爆弾が炸裂した。ピカッという光線と大音響がし、爆風で障子襖が倒れ、碁石は飛び、窓ガラスは粉々になったと言われる。橋本昭宇本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたという。岩本薫の回顧録によれば、 「いきなりピカッと光った。それから間もなくドカンと地を震わすような音がした。聞いたこともない凄みのある音だった。同時に爆風が来て、窓ガラスが粉々になった。(中略)ひどい爆風で私は碁盤の上にうつ伏してしまった(以下略)」 立会人・瀬越は驚くべきことに、端然と床の間を背に正座したままであったという(後に本人は、「腰が抜けて動けなかっただけだ」と語った)。 対局は一時中断されたが、部屋を清掃した後ほどなく再開された。両対局者に動揺はあったものの最後まで打ち切り、同日正午ごろに終局。白番の橋本本因坊の五目勝となった。 この原爆で、第一局を開催した広島支部の藤井支部長の家族や関係者は全員死亡し、瀬越憲作八段の三男と甥も亡くなった。なお青木参事官は奇跡的に助かり、後に民選初代の愛媛県知事に就いているが、この対局場の変更を当時の広島で行った良いことの二つのうちの一つに挙げている。 原爆対局の後[編集] 翌日から橋本本因坊、岩本七段ともに広島市に入り、関係者の消息を尋ねており、元々3日空けて第三局を打つ予定であったが、これ以上広島での対局が困難であること、瀬越八段の中学生の三男の死期が近かったことから、対局は中止とし、橋本本因坊と三輪五段は関西へ、岩本七段は郷里の島根へと帰った。東京の日本棋院では両対局者とも死亡したと思われていたが、2週間ほどして三輪五段が到着して経緯を報告した。 第三局は4ヶ月後の1945年11月11、12、13日に、第四局は11月15、16、17日に千葉県野田市で打たれ、1勝1敗であった。第五局は11月19、20、21日に、第六局は11月22、23、24日に東京の目黒で打たれた。二週間で三日制の碁を4局打つというのは、現代では考えられない強行日程である。まして当時は食糧事情も最悪の時期であった。結果は1勝1敗であった。本因坊の座は規定で日本棋院預りとなり、改めて翌年8月に高野山にて三番勝負が実施され、岩本薫七段が2連勝して第3期本因坊の座についた(高野山の決戦)。なお、被爆死した関係者の慰霊のため、決定三番勝負第一局の二手のみ7月26日に五日市町の西隣の廿日市町(現廿日市市)の蓮教寺で打たれている。 立会人瀬越は1972年に83歳で、橋本宇太郎は1994年に87歳で、岩本薫は1999年に97歳で、いずれも長寿を保って亡くなっている。 なお、岩本薫の基金で1995年に建てられたシアトルの日本棋院囲碁センターの壁には、原爆対局の棋譜がタイル張りで飾られている。 参考文献[編集] 瀬越憲作『囲碁一路』産業経済新聞社 1956年 岩本薫『囲碁を世界に(本因坊薫和回顧録)』講談社 1979年 橋本宇太郎『囲碁専業五十年』至誠堂 1972年 井口昭夫『本因坊名勝負物語』三一書房 1995年 中山典之『昭和囲碁風雲録』岩波書店 2003年 関連項目[編集] 本因坊 日本棋院 中島町 (広島市) 五日市町 (広島県) カテゴリ: 本因坊戦広島原爆 ◆ ◆ ◆ ◆ ------------ 明和 曖昧さ回避 この項目では、元号について説明しています。その他の用法については「明和 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年2月) 明和(めいわ)は、日本の元号の1つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。 目次 [非表示] 1 改元 2 出典 3 明和期におきた出来事 3.1 事件 3.2 死去 4 西暦との対照表 改元[編集] 宝暦14年6月2日(グレゴリオ暦1764年6月30日) 後桜町天皇即位のため改元 明和9年11月16日(グレゴリオ暦1772年12月10日) 安永に改元 当初1月28日改元の予定であったが、朝鮮通信使の来日中の改元は事務上の問題に加えて外聞の問題も生じるとして4ヶ月延期された。 出典[編集] 『尚書』の「九族既睦、平章百姓、百姓昭明、協和万邦」から。 出典の「九族既に睦(むつ)みて、百姓(ひゃくせい)を平章(辨章 べんしょう)し、百姓昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す」というこの言葉は、五帝の一人である堯を称えたもので、「人々が、それぞれ仲良くして、身分や立場に見合った振る舞いを行い、徳を明らかにすれば、世界の共存繁栄がはかられる」という意味である。 後の1926年にこれと同じ出典で、昭和の元号が制定された。 明和期におきた出来事[編集] 事件[編集] 明和元年12月、中山道沿いで伝馬騒動が勃発。 明和2年9月、五匁銀発行。 明和5年、五匁銀運用停止。 明和5年9月、新潟明和騒動。越後長岡藩の藩政に対する不満を爆発させた新潟町民が町役人を追放、約2カ月にわたり町人自治を行った。 明和8年3月10日、沖縄県石垣島を明和の大津波が襲う。 明和8年夏、山城国宇治を中心にお蔭参り大流行。 明和9年 2月、明和の大火(目黒行人坂の大火事)。江戸三大火の一つ。この年は災害が相次いで起こり、「明和九年は迷惑年」などと言われた。 9月、五匁銀の失敗を教訓に南鐐二朱銀を発行。これより「分」、「朱」を単位とする計数銀貨が秤量銀貨を凌駕する時代が始まる。 死去[編集] 元年 徳川宗春(享年69) 4年 竹内敬持(享年55)、山県大弐(享年42) 6年 青木昆陽 7年 鈴木春信 西暦との対照表[編集] ※は小の月を示す。 明和元年(甲申) 一月 二月※ 三月 四月 五月※ 六月 七月※ 八月 九月※ 十月※ 十一月 十二月※ 閏十二月 グレゴリオ暦 1764/2/2 3/3 4/1 5/1 5/31 6/29 7/29 8/27 9/26 10/25 11/23 12/23 1765/1/21 ユリウス暦 1764/1/22 2/21 3/21 4/20 5/20 6/18 7/18 8/16 9/15 10/14 11/12 12/12 1765/1/10 明和二年(乙酉) 一月※ 二月 三月 四月※ 五月 六月 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月※ 十二月※ グレゴリオ暦 1765/2/20 3/21 4/20 5/20 6/18 7/18 8/17 9/15 10/15 11/13 12/13 1766/1/11 ユリウス暦 1765/2/9 3/10 4/9 5/9 6/7 7/7 8/6 9/4 10/4 11/2 12/2 12/31 明和三年(丙戌) 一月 二月※ 三月 四月※ 五月 六月 七月※ 八月 九月 十月※ 十一月 十二月※ グレゴリオ暦 1766/2/9 3/11 4/9 5/9 6/7 7/7 8/6 9/4 10/4 11/3 12/2 1767/1/1 ユリウス暦 1766/1/29 2/28 3/29 4/28 5/27 6/26 7/26 8/24 9/23 10/23 11/21 12/21 明和四年(丁亥) 一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月 七月※ 八月 九月 閏九月※ 十月 十一月 十二月※ グレゴリオ暦 1767/1/30 2/28 3/30 4/28 5/28 6/26 7/26 8/24 9/23 10/23 11/21 12/21 1768/1/20 ユリウス暦 1767/1/19 2/17 3/19 4/17 5/17 6/15 7/15 8/13 9/12 10/12 11/10 12/10 1768/1/9 明和五年(戊子) 一月 二月※ 三月※ 四月 五月※ 六月※ 七月 八月 九月※ 十月 十一月 十二月 グレゴリオ暦 1768/2/18 3/19 4/17 5/16 6/15 7/14 8/12 9/11 10/11 11/9 12/9 1769/1/8 ユリウス暦 1768/2/7 3/8 4/6 5/5 6/4 7/3 8/1 8/31 9/30 10/29 11/28 12/28 明和六年(己丑) 一月※ 二月 三月※ 四月※ 五月 六月※ 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月 十二月 グレゴリオ暦 1769/2/7 3/8 4/7 5/6 6/4 7/4 8/2 8/31 9/30 10/29 11/28 12/28 ユリウス暦 1769/1/27 2/25 3/27 4/25 5/24 6/23 7/22 8/20 9/19 10/18 11/17 12/17 明和七年(庚寅) 一月 二月※ 三月 四月※ 五月※ 六月 閏六月※ 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月 十二月 グレゴリオ暦 1770/1/27 2/26 3/27 4/26 5/25 6/23 7/23 8/21 9/19 10/19 11/17 12/17 1771/1/16 ユリウス暦 1770/1/16 2/15 3/16 4/15 5/14 6/12 7/12 8/10 9/8 10/8 11/6 12/6 1771/1/5 明和八年(辛卯) 一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月 七月※ 八月※ 九月 十月※ 十一月 十二月 グレゴリオ暦 1771/2/15 3/16 4/15 5/14 6/13 7/12 8/11 9/9 10/8 11/7 12/6 1772/1/5 ユリウス暦 1771/2/4 3/5 4/4 5/3 6/2 7/1 7/31 8/29 9/27 10/27 11/25 12/25 明和九年(壬辰) 一月※ 二月 三月 四月※ 五月 六月※ 七月 八月※ 九月※ 十月 十一月※ 十二月 グレゴリオ暦 1772/2/4 3/4 4/3 5/3 6/1 7/1 7/30 8/29 9/27 10/26 11/25 12/24 ユリウス暦 1772/1/24 2/22 3/23 4/22 5/21 6/20 7/19 8/18 9/16 10/15 11/14 12/13 [隠す] 表 話 編 歴 日本の元号 飛鳥時代 大化645-650 白雉650-654 白鳳? 朱雀? 朱鳥686 大宝701-704 慶雲704-708 和銅708-715 奈良時代 霊亀715-717 養老717-724 神亀724-729 天平729-749 天平感宝749 天平勝宝749-757 天平宝字757-765 天平神護765-767 神護景雲767-770 宝亀770-781 天応781-782 延暦782-806 平安時代 大同806-810 弘仁810-824 天長824-834 承和834-848 嘉祥848-851 仁寿851-854 斉衡854-857 天安857-859 貞観859-877 元慶877-885 仁和885-889 寛平889-898 昌泰898-901 延喜901-923 延長923-931 承平931-938 天慶938-947 天暦947-957 天徳957-961 応和961-964 康保964-968 安和968-970 天禄970-974 天延974-976 貞元976-978 天元978-983 永観983-985 寛和985-987 永延987-989 永祚989-990 正暦990-995 長徳995-999 長保999-1004 寛弘1004-1013 長和1013-1017 寛仁1017-1021 治安1021-1024 万寿1024-1028 長元1028-1037 長暦1037-1040 長久1040-1044 寛徳1044-1046 永承1046-1053 天喜1053-1058 康平1058-1065 治暦1065-1069 延久1069-1074 承保1074-1077 承暦1077-1081 永保1081-1084 応徳1084-1087 寛治1087-1095 嘉保1095-1097 永長1097-1097 承徳1097-1099 康和1099-1104 長治1104-1106 嘉承1106-1108 天仁1108-1110 天永1110-1113 永久1113-1118 元永1118-1120 保安1120-1124 天治1124-1126 大治1126-1131 天承1131-1132 長承1132-1135 保延1135-1141 永治1141-1142 康治1142-1144 天養1144-1145 久安1145-1151 仁平1151-1154 久寿1154-1156 保元1156-1159 平治1159-1160 永暦1160-1161 応保1161-1163 長寛1163-1165 永万1165-1166 仁安1166-1169 嘉応1169-1171 承安1171-1175 安元1175-1177 治承1177-1181 養和1181-1182 寿永1182-1184 元暦1184-1185 鎌倉時代 文治1185-1190 建久1190-1199 正治1199-1201 建仁1201-1204 元久1204-1206 建永1206-1207 承元1207-1211 建暦1211-1214 建保1214-1219 承久1219-1222 貞応1222-1224 元仁1224-1225 嘉禄1225-1228 安貞1228-1229 寛喜1229-1232 貞永1232-1233 天福1233-1234 文暦1234-1235 嘉禎1235-1238 暦仁1238-1239 延応1239-1240 仁治1240-1243 寛元1243-1247 宝治1247-1249 建長1249-1256 康元1256-1257 正嘉1257-1259 正元1259-1260 文応1260-1261 弘長1261-1264 文永1264-1275 建治1275-1278 弘安1278-1288 正応1288-1293 永仁1293-1299 正安1299-1302 乾元1302-1303 嘉元1303-1307 徳治1307-1308 延慶1308-1311 応長1311-1312 正和1312-1317 文保1317-1319 元応1319-1321 元亨1321-1324 正中1324-1326 嘉暦1326-1329 元徳1329-1331(大覚寺統)、1329-1332(持明院統) 大覚寺統 元弘1331-1334 持明院統 正慶1332-1333 南北朝時代 室町時代 建武1334-1336(南朝)、1334-1338(北朝) 南朝 延元1336-1340 興国1340-1347 正平1347-1370 建徳1370-1372 文中1372-1375 天授1375-1381 弘和1381-1384 元中1384-1392 北朝 暦応1338-1342 康永1342-1345 貞和1345-1350 観応1350-1352 文和1352-1356 延文1356-1361 康安1361-1362 貞治1362-1368 応安1368-1375 永和1375-1379 康暦1379-1381 永徳1381-1384 至徳1384-1387 嘉慶1387-1389 康応1389-1390 明徳1390-1394 応永1394-1428 正長1428-1429 永享1429-1441 嘉吉1441-1444 文安1444-1449 宝徳1449-1452 享徳1452-1455 康正1455-1457 長禄1457-1461 寛正1461-1466 文正1466-1467 戦国時代 応仁1467-1469 文明1469-1487 長享1487-1489 延徳1489-1492 明応1492-1501 文亀1501-1504 永正1504-1521 大永1521-1528 享禄1528-1532 天文1532-1555 弘治1555-1558 永禄1558-1570 元亀1570-1573 安土桃山時代 天正1573-1593 文禄1593-1596 慶長1596-1615 江戸時代 元和1615-1624 寛永1624-1645 正保1645-1648 慶安1648-1652 承応1652-1655 明暦1655-1658 万治1658-1661 寛文1661-1673 延宝1673-1681 天和1681-1684 貞享1684-1688 元禄1688-1704 宝永1704-1711 正徳1711-1716 享保1716-1736 元文1736-1741 寛保1741-1744 延享1744-1748 寛延1748-1751 宝暦1751-1764 明和1764-1772 安永1772-1781 天明1781-1789 寛政1789-1801 享和1801-1804 文化1804-1818 文政1818-1831 天保1831-1845 弘化1845-1848 嘉永1848-1855 安政1855-1860 万延1860-1861 文久1861-1864 元治1864-1865 慶応1865-1868 明治時代以降 明治1868-1912 大正1912-1926 昭和1926-1989 平成1989-現在 ※注1:元号の後の年代は、元号の初年と終年に対応する西暦。「天正」の初年まではユリウス暦、同じく終年以後はグレゴリオ暦による。 ※注2:「白鳳」と「朱雀」は正史『日本書紀』には見えない私年号だが、地方の文献等に散見する。 カテゴリ: 日本の元号江戸時代 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク 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