TOP > と(囲碁)
と(囲碁)

と(囲碁)

と(囲碁)について


ネット囲碁対局なら『みんなの碁』

ネット囲碁対局 入口 (ここをクリック)


ページ     補足                 
と(囲碁)

と(囲碁) に関する検索

トビ(囲碁)

トビ(囲碁) に関する検索

トビツケ(囲碁)

トビツケ(囲碁) に関する検索

取らず三目(囲碁)

取らず三目(囲碁) に関する検索

投了(囲碁)

投了(囲碁) に関する検索

トーチカ(囲碁)

トーチカ(囲碁) に関する検索

投了(囲碁)

投了(囲碁) に関する検索

戸島花(囲碁)

戸島花(囲碁) に関する検索

トビコシ(囲碁)

トビコシ(囲碁) に関する検索

トビ込み(囲碁)

トビ込み(囲碁) に関する検索

トビサガリ(囲碁)

トビサガリ(囲碁) に関する検索

トビ出し(囲碁)

トビ出し(囲碁) に関する検索

トビトビ(囲碁)

トビトビ(囲碁) に関する検索

トビマガリ(囲碁)

トビマガリ(囲碁) に関する検索

止める(囲碁)

止める(囲碁) に関する検索

取り返し(囲碁)

取り返し(囲碁) に関する検索

取り掛け(囲碁)

取り掛け(囲碁) に関する検索

取り切る(囲碁)

取り切る(囲碁) に関する検索

取り碁(囲碁)

取り碁(囲碁) に関する検索

取り込む(囲碁)

取り込む(囲碁) に関する検索

トンボ(囲碁)

トンボ(囲碁) に関する検索

唐人の泣き手(囲碁)

唐人の泣き手(囲碁) に関する検索

トン死(囲碁)

トン死(囲碁) に関する検索

お問い合わせ
メールはこちらまで
minnanogo99@gmail.com
囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。

相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。

相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。

『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。

対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


ネット碁会所、囲碁対局
フリーソフト
関連語
碁序盤打ち方
ネット碁会所サイト
あれこれ
あれこれ2

と(囲碁)
▲TOPページ
当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質


・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
・コンテンツの充実

これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

囲碁

ゲーム




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --------- トビ (囲碁) トビとは、囲碁用語で、自分の石から1路または2路離れた位置に打つ手のことをいう。あまり離れすぎているものは繋がりとしての意味がないため、3路以上の間があるものは普通はトビとは呼ばない。動詞形では「トブ」または「飛ぶ」という。また、根拠を確保する目的で三線や四線で辺に平行に打った場合はヒラキといい、トビとは区別する。 目次 [非表示] 1 概要 2 関連用語 2.1 トビツケ 2.2 トビコミ 2.3 トビサガリ 2.4 トビマガリ 3 トビの手筋 4 格言 概要[編集] 石と石との間の交点を数えるときは間(けん)という単位を用いるので、白1を一間トビ(いっけんとび)、白3を二間トビ(にけんとび)という。 英語ではそれぞれ、「one-point jump」「two-point jump」。このように、自分の石が攻められて中央に逃げる場合などに、トビは最も多く打たれる。 関連用語[編集] トビツケ[編集] 黒1のように、トビながら相手の石にツケる手を「トビツケ」と称する。 トビコミ[編集] 白1のように、相手の陣地内に侵入する低いトビのことを、特に「トビコミ」と称する。多くは第二線に打つ手のことを指す。ヨセの手段として頻出する。 トビサガリ[編集] 白1のように、盤端に向けてのトビを「トビサガリ」と呼ぶ。 トビマガリ[編集] 白1のようにL字型に曲がって飛ぶ手を「トビマガリ」と称する。 トビの手筋[編集] 黒1の第一線へのトビが手筋で、隅の石が連絡できる。白aなら黒b。黒1でbに飛ぶと、白cのハネ出しで切れてしまう。 格言[編集] 一間トビに悪手なし……中央に一間にトンでおく手は、手堅く自分の石を強化し、勢力を蓄えることになるので、まず悪手にはならないという意味。 追うはケイマ、逃げは一間……相手を攻める場合には、多少の隙があっても敵の石に厳しく迫るケイマがよい。逆に逃げる場合には、隙を残さない一間トビが有効。下図白1が逃げの一間トビ、黒2が攻めのケイマ。 参考図書:石倉昇『一間トビの効用 (烏鷺うろブックス) 』 --------- 取らず三目 取らず三目(とらずさんもく)は、囲碁用語で、下図のような形が代表的なもの。黒から打てば白地3目(場合によれば最大8目)になり、白から打てば白地2目(場合によれば1目)になるため、先に打ったほうが損をする。そのため、何目の地とするかがルール上の問題とされてきた。現行の日本ルール(1989年制定の日本囲碁規約)では白地2目となる(「歴史」節を参照)。 目次 [非表示] 1 詳細 2 歴史 3 脚注 4 出典 5 参考文献 6 外部リンク 7 関連項目 詳細[編集] 黒から打てば白地3目になる。 黒1で黒のアゲハマは1個になる。 白2で白のアゲハマは5個になる。黒5で黒のアゲハマは1個増えて2個になる。結果として白のアゲハマが3個多くなり、白地3目になる。 なお、白にコウ材が多ければ、白地は最大8目になる。 黒5:コウダテ 白4とコウにする手があり、白6で白のアゲハマは1個増えて6個になり、盤面に3目の白地が残る。このとき黒のアゲハマは1個なので、この隅の白地は8目になる。黒にはコウダテによる他の箇所での得がはかれる。 逆に白から打てば白地2目になる。 白1で白のアゲハマは4個になる。 黒4で黒のアゲハマは3個になる。 白7で白のアゲハマは1個増えて5個になる。結果として白のアゲハマが2個多くなり、白地2目になる。 なお、黒にコウ材が多ければ、黒6で7の左に打つ手があってさらに白地は1目減る。 歴史[編集] 嘉永年間に取らず三目の形が実戦にでき、本因坊秀和が裁決を依頼されて「取らず三目(打たず三目)がよかろう」と答えたと伝えられている [1]。 1949年の日本棋院囲碁規約の日本棋院判例で 取らず3目の形は、そのまま終局すれば白地を三目と計算する。 とされた。 1989年の日本囲碁規約では、死活確認例で 黒の四子、白の一子はともに「活き石」で、第八条により「セキ石」。[2] とされた[注 1]。すなわち、どちらも着手せずに終わればどちらの地にもならないため、実戦では白が着手して二目を得ることになる。 脚注[編集] ^ 日本囲碁規約では日本棋院囲碁規約とセキの定義が異なる。日本囲碁規約におけるセキの定義は囲碁のルール#死活判定も参照。 出典[編集] ^ 『囲碁百科辞典』403ページ ^ “Ⅲ 死活確認例”. 日本棋院. 2016年8月10日閲覧。 参考文献[編集] 林裕 『囲碁百科辞典』 金園社、1975年。 関口晴利 『囲碁ルールの研究』 文芸社、2007年。 外部リンク[編集] 囲碁ルール博物館 関連項目[編集] 囲碁 --------- とじま はな 戸島 花 プロフィール 愛称 はな、フラワー、ガォー 生年月日 1988年7月11日 現年齢 28歳 出身地 日本の旗 日本・埼玉県 血液型 B型 公称サイズ(2011年8月時点) 身長 / 体重 159 cm / ― kg スリーサイズ 85 - 61 - 89 cm 靴のサイズ 23.5 cm 単位系換算[表示] 活動 デビュー 2005年12月8日 ジャンル タレント 備考 元SDN48 メンバー (元AKB48 旧チームAメンバー) モデル: テンプレート - カテゴリ 戸島 花(とじま はな、1988年7月11日 - )は、日本の歌手、タレント。埼玉県出身。ドレスコード所属。吉祥女子中学校・高等学校、亜細亜大学卒業。女性アイドルグループAKB48、SDN48の元メンバーである。 目次 [非表示] 1 略歴 2 人物 2.1 趣味 3 SDN48・AKB48在籍時の参加曲 3.1 シングルCD曲 3.1.1 AKB48時代 3.2 シングルCD選抜曲 3.2.1 AKB48時代 3.2.2 SDN48時代 3.3 劇場公演ユニット曲 4 出演 4.1 映画 4.2 テレビ番組 4.3 ラジオ 4.4 CM 4.5 舞台 4.6 イベント 4.7 インターネットテレビ 5 脚注 6 外部リンク 略歴[編集] 2005年10月30日、『AKB48オープニングメンバーオーディション』に合格(応募総数7,924名、最終合格者24名)。 2005年12月8日、オープニングメンバー候補生のうち20名として、AKB48劇場グランドオープンの舞台に立った(旧チームAに所属)。 2008年10月11日、『AKB48 チームA 4th Stage「ただいま恋愛中」リバイバル公演』千秋楽がラストステージになった。 2008年11月23日、『AKB48 まさか、このコンサートの音源は流出しないよね?』をもって、AKB48を卒業。ドレスコードに移籍。 2010年、プラチカ退社。フリーランス(無所属)となる。 2011年5月27日、『「見逃した君たちへ」〜AKB48グループ全公演〜』・『SDN48 1st Stage「誘惑のガーター」』公演において、SDN48の3期生としてお披露目される[1][2]。フリーからAKS所属となる。 2012年3月31日、NHKホールで行われた『SDN48 コンサート「NEXT ENCORE」 in NHKホール』をもってSDN48を卒業。 2012年8月20日、ドレスコード所属となる。 人物[編集] チームKの大島優子をとくに自分の好きなメンバーとしている[3]。また、SKE48では松井玲奈推し。 野呂佳代の愛称である「ノンティー」の名付け親である[3]。 KAT-TUNの亀梨和也に似ていると言われている[3]。 女優の黒川智花、西田奈津美、西田を通じて知り合った松下唯[4](元SKE48)と仲がいい。 趣味は妄想[3]。 AKB48時代には、旧チームAの実質的リーダーであった折井あゆみが公演前の円陣の掛け声役をしていたが、折井の卒業で不在となったため、その役目を高橋みなみに勧めたとされている[5]。 AKB48卒業後、SDN48への加入を熱望していたことが秋元康のインタビューによって語られており[6]、2011年4月の3期生オーディションを経て加入することになった。 趣味[編集] 『ヒカルの碁』の影響で始めた囲碁を得意とし、2014年度から2016年度まで『囲碁フォーカス』の司会を務めた[7]。2014年12月に日本棋院の囲碁大使に任命される[8]。囲碁イベントなどに多数参加し、『碁ワールド』誌2015年9月号から「囲碁大使戸島花のドリーム囲碁サロン」を連載。2015年勝負美人杯に出場し、3〜5級戦で全勝賞[9]。2017年3月に『囲碁フォーカス』の歴代講師からの推薦で、初段の免状を取得する[10]。囲碁の棋風は自身で「超心配性でとことん守るタイプ。でもそれではだめだと、最近(2015年)は、攻めの碁を勉強中です」と分析している。小松英樹も、戸島の碁を「慎重派」と分析した[11]。 SDN48・AKB48在籍時の参加曲[編集] シングルCD曲[編集] AKB48時代[編集] 桜の花びらたち スカート、ひらり シングルCD選抜曲[編集] AKB48時代[編集] 会いたかった ロマンス、イラネ SDN48時代[編集] アバズレ - アンダーガールズB名義 やりたがり屋さん - アンダーガールズチームG名義 クリクリ - アンダーガールズA名義 劇場公演ユニット曲[編集] チームA 1st Stage「PARTYが始まるよ」公演 クラスメイト(1st UNIT) チームA 2nd Stage「会いたかった」公演 恋のPLAN チームA 3rd Stage「誰かのために」公演 ライダー チームA 4th Stage「ただいま恋愛中」公演 Faint ひまわり組 1st Stage「僕の太陽」公演 愛しさのdefense ひまわり組 2nd Stage「夢を死なせるわけにいかない」公演 Bye Bye Bye SDN48 1st Stage「誘惑のガーター」公演 誘惑のガーター 出演[編集] AKB48のコンサート、およびグループとしての出演(CM・イベント含む)については「AKB48の出演一覧」を、SDN48のコンサートについては「SDN48#コンサート」を、SDN48のグループとしての出演(CM・イベント含む)については「SDN48#出演」を参照 映画[編集] スリーデイボーイズ(2009年7月4日、FREAK ENTERTAINMENT) エクステ娘 劇場版(2014年2月15日) - 加藤玲子 役。 テレビ番組[編集] 48minutes(2007年2月22日 - 25日、MUSIC ON! TV) AKB1じ59ふん!(2008年1月24日 - 2月14日、日本テレビ) AKB0じ59ふん!(2008年6月2日 - 23日、日本テレビ) AKB48ネ申テレビ(2008年9月14日・21日、ファミリー劇場) 早碁!九路マッチ(2009年1月4日 - 3月、BS11) ボビー's スタジアム(2009年4月13日 - 2010年3月22日、テレビ埼玉) みんなで碁!GO HAPPY!!(2009年10月4日 - 2010年、囲碁・将棋チャンネル) 新春お好み囲碁対局「逆転必至のタッグマッチ! プロ・タレント夢の連碁戦」(2012年1月3日、NHK Eテレ) 新春お好み囲碁対局 プロ・タレント混合!ドキドキ連碁戦(NHK Eテレ、2014年1月3日) 囲碁フォーカス(2014年4月 - 2017年3月、NHK Eテレ) - 司会 ラジオ[編集] AKB48の全力で聴かなきゃダメじゃん!!(2007年10月3日 - 2008年11月19日、スターデジオ) AKB48 今夜は帰らない…(2008年4月5日 - 11月22日、CBCラジオ) まだまだゴチャ・まぜっ!〜集まれヤンヤン〜(2009年4月18日 - 2010年4月3日、MBSラジオ) CM[編集] ハナサク・プロジェクト AKB48篇(2008年、リクルート) 舞台[編集] MOZU啼く城(2009年6月24日 - 28日、六本木俳優座劇場) 降臨 Fight(2011年4月7日・9日・10日、吉祥寺シアター) - おりん 役(酒井瞳とのダブルキャスト) W・FOXXプロデュース「鬼切姫」〜第一章・志を継ぐもの〜(2012年6月6日 - 10日、渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホール) CABARET ON THE SEA(2012年8月8日 - 15日、シアターグリーン BIG TREE THEATER) - 主演[12] ACTOR'S TRASH ASSH 第十七回本公演「世界は僕のCUBEで造られる」(2012年11月20日 - 26日、吉祥寺シアター) 絶対彼氏。(2013年3月16日 - 20日、シアター1010) ASSH-DX Vol.3「危機之介御免」(2013年4月11日・17日・20日、シアターグリーン BIG TREE THEATER) 「振袖大火〜吉原木遣り唄〜」(2014年1月4日 - 13日、シアターグリーン BIG TREE THEATER) - 主演 タンバリンプロデューサーズ公演「恋する、プライオリティシート」(2014年4月16日 - 20日、吉祥寺シアター) - 主演 PIRATES OF THE DESERT 2 〜アカツキ国の牢獄〜(シアターグリーン、2014年10月1日 - 5日) ハーピーバースデー (アトリエファンファーレ高円寺、2016年11月9日 - 11日・13日・14日) - (ダブルキャスト) イベント[編集] どうも。初期メンの戸島花です。(2012年3月21日、AKB48 CAFE&SHOP AKIHABARA シアターエリア) インターネットテレビ[編集] MEN'S KNUCKLE カズアキの目指せ1000人斬り!(2010年6月20日 - 2011年11月、ニコニコ生放送) みんなでニコニコ囲碁サークル(2011年12月18日 - 、ニコニコ生放送) ヒカルの碁 鑑賞会(2015年12月16日 - 、ニコニコ生放送) - アニメの配信後、劇中の棋譜解説のMCを担当 チャンネルとじぱいふぃん(2016年9月28日 - 、ニコニコ生放送) 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 「2011/05/28」 - 本人公式ブログ(2011年5月28日) ^ 「2011/05/28」 - 本人公式ブログ(2011年5月28日) ^ a b c d スターデジオ『AKB48の全力で聴かなきゃダメじゃん!!』より本人談 ^ 西田と松下は幼馴染である。 ^ 「『見逃した君たちへ〜AKB48グループ全公演〜』公式パンフレット」による。ただし、「『高橋みなみ1stフォトブック『たかみな』」での高橋本人へのインタビューでは駒谷仁美が高橋に勧めたとされている。 ^ 『BUBKA』2010年9月号(コアマガジン)[要ページ番号] ^ 2017年度からダイアナ・ガーネットが引き継いだ。 ^ “【ニュースリリース】戸島花さん 囲碁大使に”. 公益財団法人日本棋院. (2014年12月19日) 2015年3月1日閲覧。 ^ 『碁ワールド』2015年11月号 ^ インスタグラム - tojima_hana(2017年3月19日) ^ “AKB48卒業生の囲碁アイドル石運びは超心配性で守るタイプ”. NEWSポストセブン (2015年8月19日). 2015年8月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月2日閲覧。 ^ 彩夢とのW主演。 外部リンク[編集] 戸島花 (@hana_tojima) - Twitter 戸島花オフィシャルブログ - Ameba(2011年2月25日 - ) ドレスコード公式プロフィール とじまはなぶろぐ - 個人ブログ(2010年9月9日 - 2010年12月9日) 戸島花ブログ - 公式ファンクラブ・ブログ(2009年4月16日 - 2010年4月5日) 戸島花ファンクラブ - 公式ファンクラブ 戸島花 - プロフィール - Yahoo!人物名鑑 - Yahoo! JAPANによるプロフィール --------- 投了 Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年1月) 投了(とうりょう、Resignation、Surrender、Concede)とは、ボードゲームなどのゲームにおいて、不利な方が負けを認め、本来の対戦終了となる条件が成立するよりも前にゲームを終えること。他の表現として「投げる」「ゲームを降りる」などとも言う。 目次 [非表示] 1 概説 2 オセロ 3 バックギャモン 4 囲碁 5 将棋 5.1 公式棋戦における逸話 6 連珠 7 チェス 8 TCG 9 カーリング 10 脚注 概説[編集] 投了が行われる時機としては、勝利の見込みがない、戦意を喪失してしまった、などがある。単なる時間や労力の無駄をなくすためだけでなく、勝負にならない対局を継続することは対局相手に失礼になるとする考えがある。 一般に、投了優先の原則があり、反則等があっても指摘せずに投了した場合は投了を優先する。 オセロ[編集] オセロでは石数によって勝敗を決定する場合が多く(先後二番打ち)、そうでない場合でも最終局面まで打って石差をはっきりさせるのが一般である。 バックギャモン[編集] バックギャモンは勝ち方、負け方で得点が異なるため、終了間際までプレイする。「これは何点の勝ちになるのが確実」と判断されたとき、双方の合意で終局となる。 囲碁[編集] 自分の手番で「ありません」「負けました」等と発して頭を下げることで、投了の意思表示をすることが一般的である。またアゲハマを盤上に置くことも投了の意思表示となる。 投了により勝敗の決着がついた場合、「中押し(ちゅうおし)勝ち」「中押し負け」と呼ばれる。日本囲碁規約では、第十一条において「対局の途中でも、自らの負けを申し出て対局を終えることができる。これを「投了」という。その相手方を「中押勝」という。」と定められている。[1] 将棋[編集] 将棋では、自分の手番で 「負けました」などと発声するか、 頭を下げて駒台に手を置くこと によって投了の意思を表示することができる。[2] 棋譜を汚さないように、上手い手を出現させた時点での投了、一手違いの形にしてからの投了などの美学が存在し、最後の詰みまで指すことはごくまれである。投げ場を求める、などと言われる。 将棋で投了となる局面は、大きく次の3通りに分けられる。 詰み - 自玉が即詰みとなることがわかったとき。前述のとおり、最後の詰みまで指すことはまれ。 必至(必死) - 自玉に必至がかかり、かつ相手玉が詰まないとき。 戦意喪失 - 駒損が著しい、有力な攻め(受け)が見込めないなどの理由で、勝ち目がないと判断したとき。 なお二歩などの反則や千日手が発生しても対局者が気付かずに指し継ぎ終局となった場合、反則や千日手如何にかかわらず投了による終局・勝敗が優先となる。 公式棋戦における逸話[編集] 2007年10月30日に行われた第66期順位戦C級2組6回戦・先手豊島将之四段-後手真部一男八段(段位は当時)の対局では、真部が直後に極めて有力な攻めの妙手を発見していたにもかかわらず、それを指さずに僅か33手で投了した。この時真部は癌を患っており、その妙手を指すと豊島が応手に困り長考に沈み、自らの身体が持たないであろうと判断して投了したという。 詳細は、真部一男#幻の妙手△4二角を参照。 連珠[編集] 連珠では、先に五連を作った者が勝ちとなり、黒が禁手を打った場合はその時点で白の勝ちとなる。しかし、相手が四三(白の場合は三三、四四も)を打ち、防ぐことが不可能な場合 は、五連を待たずに投了するのが一般的である。有段者の対局ではそれ以前に投了することも多いが、四追い勝ち(三や他の手を要さず、四の連続で勝つ)の途中で投了するのは美しくないとされている。 チェス[編集] チェスにおいては、「(I) resign」「負けました」などと発し、握手をすることでゲームが終了となる。自分のキングを倒すことでも投了の意思は発せられる。倒すふりや、掴むだけであることが多い。 相手の手番で投了してもルール違反ではないが、相手の考慮を無駄にさせるため、投了は自分の手番で行なうのがマナーとされる。 TCG[編集] トレーディングカードゲームでは投了などを認めているタイトルと禁じているタイトル双方が存在する。後者の理由として、ゲームを意図的に長引かせる戦術トランスや「一回の勝利で2ゲーム分の勝ち点を得るカード」が存在しているためなどがあげられる。 カーリング[編集] 運動スポーツでは珍しく投了に相当する「コンシード」というルールがある。第6エンド以降に行なえる。 脚注[編集] [ヘルプ] ^ http://www.nihonkiin.or.jp/joho/kiyaku/kiyaku11-12.htm ^ 日本将棋連盟|将棋の基礎知識|本将棋|4.王手と詰み --------- --------- 尾張国 曖昧さ回避 この項目では、尾張国について説明しています。瀬戸内市(旧邑久町)の大字については「邑久町尾張」を、日本各地の町名については「尾張町」をご覧ください。 尾張国 地図 令制国 尾張国.svg ■-尾張国 ■-東海道 別称 尾州(びしゅう) 所属 東海道 相当領域 愛知県西部 諸元 国力 上国 距離 近国 郡・郷数 8郡69郷 国内主要施設 尾張国府 愛知県稲沢市 尾張国分寺 愛知県稲沢市(尾張国分寺跡) 尾張国分尼寺 (推定)愛知県稲沢市 一宮 真清田神社(愛知県一宮市) テンプレートを表示 尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 目次 [非表示] 1 「尾張」の名称と由来 2 歴史 2.1 古代から平安時代まで 2.2 南北朝時代から室町時代まで 2.3 戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期まで 2.4 江戸時代 2.5 幕末から明治維新、現在まで 2.6 近世以降の沿革 3 国内の施設 3.1 国府 3.2 国分寺・国分尼寺 3.3 神社 3.4 守護所 4 地域 4.1 郡 4.2 江戸時代の藩 5 人物 5.1 国司 5.1.1 尾張守 5.2 守護 5.2.1 鎌倉幕府 5.2.2 室町幕府 5.3 戦国時代 5.4 武家官位としての尾張守 5.4.1 江戸時代以前 5.4.2 江戸時代 6 尾張国の合戦 7 現代の尾張地方 7.1 自治体 7.2 呼称 7.3 地形 7.4 交通 7.4.1 空港 7.4.2 鉄道 7.4.3 道路 7.4.4 港 7.4.5 市外局番 7.4.6 自動車ナンバープレート 8 参考 9 脚注 10 参考文献 11 関連項目 12 外部リンク 「尾張」の名称と由来[編集] 六十余州名所図会「津嶋天王祭り」 7世紀後半の木簡では尾張国と尾治国の二つの表記が見られる[1]。平安時代に作られた『先代旧事本紀』天孫本紀の尾張氏の系譜にも「尾治」とある。大宝4年(704年)に国印が鋳造されたときに尾張と定められたと推定される[2]。 『倭訓栞』には「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張出たるが如し、一説に小墾の義也」、 『古事記傳』には「尾張國、名義未思得ず」などと諸説があり、はっきりしない。 また「尾張」の発音が「終わり」と重なる点からもわかるように、ヤマト王権の勢力圏の「端・東端」と見なされていた。この「尾張」に類する地名には「熊野」があるが、こちらも発音が「隈の」(奥まった所)に通じている。 なお、古代の東海道は伊勢国から海路(伊勢湾)経由で三河国に伸びていたとする説もあり、初期の尾張国は東山道に属しており、後に交通の変化で東海道に属するようになったとする説もある[3]。 歴史[編集] 古代から平安時代まで[編集] 一宮市 稲沢市 3世紀前後邪馬台国と匹敵する一大勢力国であったとされる狗奴国のあった場所として、愛知県一宮市の萩原遺跡群をはじめとして伊勢湾岸一帯までを中心とした濃尾平野からS字甕が大量に発掘されていることからこの尾張地方が所在地として有力視されている。 7世紀に律令制が敷かれると尾張国造の領域が令制国の尾張国の範囲となり、防人の通行路にもなった。7世紀中葉には、国と評による地方行政区画が施行されていたが、本格的な地方行政制度は8世紀の初頭に地域を国・郡・里の3段階に区分し、『延喜式』民部式によると尾張は、海部・中嶋・葉栗・丹羽・春部(かすがべ)・山田・愛智・知多の八郡であった。 易林本の『節用集』によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた。 南北朝時代から室町時代まで[編集] 清須市 室町時代初期には美濃国の守護であった土岐氏などが守護を務めていたが、1400年頃,斯波義重(義教)が尾張守護に着任する。斯波義重の父斯波義将は越前(福井県)・越中(富山県)の守護であり、父から越前守護職を譲られる。その後、尾張(愛知県)、遠江(静岡県)の守護となる。越前時代からの被官である甲斐氏・織田氏・二宮氏らが尾張に送りこまれ,荘園・公領に給人として配置された。 以後戦国期に至る150年間,尾張は足利一門守護で三管領の斯波氏の領国となった。 なお、1391年には知多郡が、1395年には海東郡の分郡守護に一色氏が任じられているが、これは当時の守護であった土岐氏を牽制する措置であったとされている。だが、海東郡は1430年に一色義貫が足利義教と対立して没収され、知多郡も応仁の乱で一色義直が西軍に着いた際に幕府に没収されている[4]。 戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期まで[編集] 小牧市 犬山市 斯波氏の守護代織田氏が実力を持つも、応仁の乱の発生で織田家は二つに分裂。東軍についた「大和守家」と西軍についた「伊勢守家」が戦後の尾張支配を巡って抗争状態となる。斯波氏は両者を巧みに操縦していたがやがて実力を失う。また駿府の今川氏親が東尾張に侵攻した名残りで那古野城は今川家の保有となる。「大和守家」の家老一族が「弾正忠家」として枝分かれし織田信秀の代で躍進。信秀は那古野城を今川氏豊から奪い取るなど功績を挙げる。信秀の死後、家督相続を巡って大和守家から干渉があったものの、織田信長が家督を継ぐ。信長は斯波氏を後援し、大和守家と伊勢守家を排除。更に斯波氏が信長追放を企てると斯波氏も追放。伊勢長島を占拠していた一向宗を滅ぼして尾張統一を成し遂げた。また1560年(永禄3年)6月12日、信長討伐を目的として尾張に侵攻した今川義元を桶狭間の戦いにて破る。これ以後、尾張国はその全域を織田弾正忠家が二代に渡って支配する。 1582年(天正10年)、本能寺の変が発生し信長・信忠親子は揃って敗死。山崎の戦いで明智光秀を倒した羽柴秀吉と、織田家重臣の柴田勝家が世に言う清洲会議で対立。信長の後継者として信長の三男・神戸信孝を推す勝家と信忠の嫡子三法師を推す秀吉の対決は最終的に「織田家新当主に三法師、後見役に信孝」という形で落着した。しかし、まもなく清洲会議の決定を反故にした秀吉らは信長の次男北畠信雄を主君として擁立。これに異を唱えた信孝と柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒した。 ところが安土に入城して信長の実質的後継者を宣言しようとした信雄は秀吉に退去させられたことで関係が悪化。隣国、三河国の徳川家康と同盟を結び、1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いを引き起こす。権力掌握のため多方面に軍を展開する秀吉はこの戦いに苦戦。池田恒興、森長可が戦死する事態に陥るが様々な計略で信雄を追い詰め単独講和に成功、大義名分を喪った家康も撤兵する。 豊臣政権下の尾張国は当初、織田信雄に統治された。信雄は長島城を本拠としていたが1586年1月18日(天正13年)の天正地震により長島城が倒壊したことで清洲城を大規模改修して本拠とする。その後、信雄は後北条氏滅亡後の関東への転封を拒んだため、1590年(天正18年)秀吉の逆鱗に触れて改易された。信雄改易により、尾張国は福島正則(24万石)ら豊臣家の武将により分割支配された。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが発生。挙兵した石田三成の狙いは尾張・三河を電撃的に掌握し東海道の徳川軍を挟撃することにあったが失敗。一方、小山から転進した東軍は清洲城を集結地点として進軍。尾張・美濃の両国は東西両軍による前哨戦の舞台となる。戦後、福島正則は大きく加増され安芸広島に転封となる。そして、関ヶ原の戦功により徳川家康の四男松平忠吉が領主となり、尾張国全域と美濃の一部を領地とする清洲藩が成立した。しかし忠吉は1607年(慶長12年)に28歳の若さで逝去。無嗣断絶となる。家康の九男で忠吉の弟にあたる甲斐甲府藩主の徳川義直が転封して清洲藩を継承した。 1586年(天正14年)の木曽川の「天正の大洪水」により、美濃国との境に流れていた木曽川が葉栗郡内のほぼ中央を流れるようになった。この為、豊臣秀吉の命により、1589年(天正17年)に新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を羽栗郡に改称した。同時に中島郡・海西郡も2国にまたがる郡となったが、こちらは改称されていない。 尾張国は織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人を輩出。この他、尾張国出身の武将としては、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、池田輝政、山内一豊、加藤清正、福島正則、蜂須賀正勝、佐久間信盛、佐久間盛政、佐々成政、堀尾吉晴、浅野長政などが有名。 江戸時代[編集] 名古屋市緑区 瀬戸市 徳川義直の入府後、東海道筋の重要拠点として再整備が行われる。1609年、大御所家康の意向により廃城となっていた那古野城址に新城として名古屋城の築城が決定となる。これにあたって全国の諸侯が動員された。(天下普請)天守台石垣については加藤清正が普請助役となった。[5]築城にあたり清洲城下町がそっくり移転され、清洲城の資材は名古屋築城に再利用された(清洲越し)。こうして長らく尾張支配の象徴だった清洲城は破却となり、かわって名古屋城が中心となる。この決定については、清洲城址の発掘調査で1586年1月18日(天正13年)に発生した天正地震で深刻な液状化現象が発生し、当時の清洲城主・織田信雄が大規模な改修を行ったが根本的な解決に到らなかったためと考えられている。また名古屋移転に伴い、呼称も清洲藩から尾張藩と改められた。家格も徳川御三家の筆頭という格別な位置に置かれ、その城下町たる名古屋は日本で十指に入る一大都会となった。 尾張藩は陶磁器を独占産業として位置付けたため、その名残で、瀬戸は陶磁器の街になっている。 現在に到る文化もこの時代に形成された。義直は徳川家の総本拠たる岡崎から職人を招いて八丁味噌を作らせた。現代でも「名古屋と言えばミソ文化」とされ、味噌煮込みうどん、味噌カツ、味噌おでんといった他の地方にはない独特の食文化として認知されている。他に三河芋川が発祥とされる「いもかわうどん」が名古屋できしめんとして人々に愛され、現代に到っている。 尾張藩の表向きの禄高は約62万石(尾張国で47万石だが広範囲に飛び地があった)だが殖産奨励により実質的な禄高は100万石以上あったとされ、全国的にみても非常に裕福な藩である。このため四公六民という全国的にみても低い税率であった。ところが相次ぐ天災により赤字体質となっていく。 幕末から明治維新、現在まで[編集] 名古屋市港区 名古屋市中区 半田市 長久手市 10代藩主徳川斉朝から13代藩主徳川慶臧まで将軍家周辺からの養子が続いた。このため藩主が江戸藩邸暮らしで領国経営を顧みない風潮が続き、支藩からの養子が待望される。そうした中1849年(嘉永2年)、支藩・高須藩から14代藩主徳川慶恕(改名後、慶勝)が就任する。慶勝は初代藩主・義直の遺訓を守り、尊皇攘夷を主張し、質素倹約で藩政を改革する。しかし、水戸藩主・徳川斉昭らと共に独断で日米通商修好条約を締結した大老井伊直弼の専横に抗議したため、1858年(安政5年)の安政の大獄にて隠居謹慎を命じられ、実弟の徳川茂徳に藩主の座を譲る。井伊が桜田門外の変で横死すると慶勝は14代将軍・徳川家茂の補佐役に抜擢され、茂徳隠居に伴い慶勝の実子徳川義宜が16代藩主となる。こうして藩の実権を慶勝が握る形となる。公武合体派の重鎮となった慶勝は一橋家当主・徳川慶喜、前福井藩主・松平慶永(春嶽)、前土佐藩主・山内豊信(容堂)、前伊予宇和島藩主・伊達宗城、会津藩主・松平容保[6]、薩摩藩主・島津久光ら雄藩連合から成る参預会議の一員に選ばれるも辞退。第一次長州征伐では征討軍総督(大参謀に薩摩藩士・西郷吉之助)を命じられ、この戦いに快勝して京に凱旋。しかし、続く第二次長州征伐には反対の立場をとり、弟の茂徳にも総督就任を辞退させた。 1867年11月9日(慶応3年10月14日)、大政奉還が成ると慶勝は新政府議定に任命され、徳川15代将軍・徳川慶喜への辞官納地通告役を命じられる。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗戦後は新政府の一員として大阪城を受領。この後、藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの報告で藩に戻り、佐幕派を弾圧した。(青松葉事件)1871年(明治3年)、初代名古屋藩知事となるが翌年の廃藩置県で免職となる。1875年(明治8年)に義宜病死により尾張徳川家を慶勝が再継承し第17代当主となった。こうして御三家筆頭ながら最高権力者の徳川慶勝が初期から明治新政府に参加したことで尾張国は戊辰戦争の惨禍に遭うこともなかった。 明治維新で中央集権国家が形成されると、名古屋市は明治政府による地方支配の拠点都市となり、現在に至っている。 なお名古屋城は慶勝の提案で破却および金鯱の献上が申請された。しかし1879年(明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。1893年(明治26年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され名古屋離宮と称する。その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。その一方、城内に1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が置かれた。1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、太平洋戦争敗戦に到るまで主に兵器庫として活用された。このため米軍の名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受け焼失した。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなり、現在に至っている。 近世以降の沿革[編集] 「旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点では概ね全域が名古屋藩領であった。熱田神宮領、加藤図書助[7]知行なども存在した。 慶応4年1月24日(1868年2月17日) - 附家老成瀬氏領が犬山藩、同竹腰氏領が美濃今尾藩としてそれぞれ立藩。領地は各郡に散在したが、知多郡・海西郡には今尾藩領はなかった。 明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、名古屋県、犬山県、今尾県の管轄となる。 11月22日(1872年1月2日) - 第1次府県統合により、全域が名古屋県の管轄となる。 明治5年4月2日(1872年5月8日) - 愛知県の管轄となる。 国内の施設[編集] [表示]全ての座標を示した地図 - OSM 全ての座標を示した地図 - Google 国府[編集] 尾張国衙址碑(稲沢市松下) 尾張国衙推定地。 国府は中島郡に所在した。地名を手がかりに、次の2箇所が候補にあがっている。 稲沢市松下・国府宮 松下・国府宮とも「国衙」という小字があり(現在は松下n丁目、国府宮n丁目)、近辺に所在が推定されている。数度の発掘調査が行われているが、木簡や銅印などは出土しているものの遺構は発見されていない。推定国府域は三宅川の自然堤防の上に位置し、ほぼ真北の方位をとる。現在は松下公民館付近において「尾張国衙址」碑が建てられているほか(位置)、総社の尾張大国霊神社が所在する。 稲沢市下津町 「東国府」「西国府」の小字があり、近辺に所在が推定されている。発掘調査は行われていない。 現段階では、発掘調査が不十分であるため所在地は明らかでない[8]。考古学・古代史学的には松下説が有力視されるが、中世頃の洪水により松下から下津(室町期には守護所も所在)に移転したと推測する説もある[8]。 なお『節用集』易林本では海部郡に「府」と記載されている。 国分寺・国分尼寺[編集] 尾張国分寺跡(稲沢市矢合町) 尾張国分寺跡 (稲沢市矢合町椎ノ木、位置) 国の史跡。推定寺域は東西約200メートル・南北約300メートル以上で、金堂・講堂・塔の遺構が確認されている。『日本紀略』元慶8年(884年)条によると、尾張の本金光明寺に火災があったため、愛知郡定額寺の願興寺(現・名古屋市中区の尾張元興寺跡か)を国分寺としたとされる。この尾張元興寺は10世紀には衰退して廃寺に至ることから、その後に国分尼寺が僧寺に転用されたという説もある。 以後、中世期の変遷は不詳。現在は創建時の遺構北方において、明治に「円興寺」から改称した鈴置山国分寺(稲沢市矢合町、位置)が法燈を伝承する。 尾張国分尼寺跡 稲沢市法花寺町と推定されている。発掘調査は行われておらず不詳。同地の法華寺(位置)がその名残とする説がある(詳細は「尾張国分寺跡#尾張国分尼寺」参照)。 そのほかの尾張の古代寺院としては長福寺廃寺(一宮市千秋町)、尾張元興寺遺跡(名古屋市中区正木町)、東畑廃寺(稲沢市稲島町)が知られる。 神社[編集] 延喜式内社 『延喜式神名帳』には、大社8座8社・小社113座113社の計121座121社が記載されている(「尾張国の式内社一覧」参照)。大社8社は以下に示すもので、全て名神大社である。 中島郡 大神神社 比定社:大神神社 (一宮市花池、位置) 中島郡 太神社 比定社:大神社 (一宮市大和町於保、位置) 中島郡 真墨田神社 比定社:真清田神社 (一宮市真清田) 丹羽郡 大県神社 比定社:大県神社 (犬山市宮山) 愛智郡 熱田神社 比定社:熱田神宮 (名古屋市熱田区神宮) 愛智郡 日割御子神社 比定社:日割御子神社 (名古屋市熱田区神宮、位置) - 熱田神宮摂社。 愛智郡 孫若御子神社 比定社:孫若御子神社 (名古屋市熱田区神宮、位置) - 熱田神宮摂社。 愛智郡 高座結御子神社 比定社:高座結御子神社 (名古屋市熱田区高蔵町、位置) - 熱田神宮摂社。 総社・一宮以下 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[9]。 総社:尾張大国霊神社 (稲沢市国府宮、位置) 一宮:真清田神社 (一宮市真清田、位置) - 初見は1165年の史料。『十六夜日記』に「一宮といふやしろ」と記されている。 二宮:大県神社 (犬山市宮山、位置) - 初見は1143年の史料。一宮もこの頃定まったとされる。 三宮:熱田神宮 (名古屋市熱田区神宮、位置) - 古代からの大社であるが、一宮にはならなかったとされる。その理由には諸説がある[10]。 守護所[編集] 鎌倉時代の守護所の位置は不詳だが、将軍の宿泊地に必ず萱津が当てられ、守護はその接待をした事からその近辺だという説がある。 いつ頃からは定かでないが、室町時代には下津(稲沢市)にあった。 地域[編集] 鎌倉時代は、『海道記』によると「(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」とあり、この当時、弥富市や津島市は、尾張国と見なされておらず、あま市甚目寺(萱津)辺りから尾張国であったと考えられている。 北隣の美濃国とは現在の木曽川の一部と境川あたり、長良川の一部を国境とした。氾濫により川の流路がしばしば変わり、紛争が起きることもあった。鎌倉時代には六波羅探題の管轄下で西国の扱いを受けていた。室町時代におきた承久の乱によると尾張国の範囲は尾張九瀬で認識され、前渡、印食、墨俣などの渡しを境としていた。尾張国は愛知県よりは北と西に広かった。ただし、領国支配としては美濃国の土岐氏が管理していたことが多いために美濃国との記載が多い。戦国時代には多くが斉藤氏の支配下であったようだが、織田氏にとっては尾張川(現在の境川)と墨俣川(現在の長良川で羽島市小熊町より南)が尾張と認識されており天正14年までは尾張国として扱っている。 木曽川は、豊臣政権時代の天正14年(1586年)に氾濫してほぼ現在と同じ流路を流れるようになった。 「天正の大洪水」によって葉栗郡と中島郡、海西郡が新しい木曽川によって分断され、新流路西岸は美濃国に編入された。古事類苑によると豊臣秀吉の意向であったことが記載されている。そのため、愛知県側と岐阜県側に同じ地名が今もいくつか残る(例:愛知県一宮市東加賀野井と岐阜県羽島市下中町加賀野井。愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島町河田。字は異なるが、愛知県一宮市木曽川町三ツ法寺と岐阜県羽島市正木町光法寺。) 現在の愛知県西部にありながら上記の国境変更後の尾張国に属さなかった地区に、現在の稲沢市祖父江町の一部、一宮市東加賀野井、一宮市西中野などがある。これは令制国の廃止後に、市町村の境界変遷で所属する県が移ったものである。 江戸時代では尾張国と美濃国の多くの地域は、尾張藩が中心となり細かく分割されて管理された。 郡[編集] 知多郡…「ちたぐん」と読む。元は「智多郡」と書いた。 愛知郡…「あいちぐん」と読む。元は「愛智郡」と書いた。 春日井郡…「かすがいぐん」と読む。元は「春部郡(かすかべぐん)」と表記。現在の春日井市や西春日井郡など。 丹羽郡…「にわぐん」と読む。 葉栗郡…「はぐりぐん」と読む。現在の一宮市北部、江南市北部。 中島郡…「なかしまぐん」と読む。現在の一宮市南部、稲沢市。 海東郡…「かいとうぐん」と読む。もと海部郡(あまぐん)。大正期に海西郡と統合。 海西郡…「かいせいぐん」と読む。もと海部郡(あまぐん)。大正期に海東郡と統合。 山田郡…「やまだぐん」と読む。戦国期に春日井郡と愛知郡に分割編入され消滅。 『古事類苑』では、尾張国内には69郷が存在することが記されている。 中嶋郡…美和、神戸、拜師、小塞、三宅、茜部、石作、日野、川埼 葉栗郡…葉栗、河沼、大毛、村國、若栗 海部郡…新屋、中島、津積、志摩、伊福、島田、海部、日置、三刀、物忌、三宅、八田 丹羽郡…五鬘、稻木、上春、丹羽、穗積、大桑、下沼、上沼、前刀、小弓、小野、小口 愛智郡…中村、千竈、日部、太毛、物部、熱田、作良、成海、驛家、神戸 春部郡…池田、柏井、安食、山村、高苑、餘戸 知多郡…番賀、贄代、富具、但馬、英比 山田郡…船木、主惠、石作、志誤、山口、加世、兩村、餘戸、驛家、神戸 江戸時代の藩[編集] 尾張国の藩の一覧 藩名 居城 藩主 清洲藩 清洲城 松平忠吉(62万石、1600年 - 1607年) : 無嗣断絶 尾張藩 清洲城 1607年 - 1612年 名古屋城 1612年 - 1871年 尾張徳川家(47万2344石→56万3206石→61万9500石、1607年 - 1871年) 犬山藩 尾張藩附家老 犬山城 小笠原吉次(1600年 - 1607年) 平岩親吉(11万3000石、1607年 - 1611年) 成瀬家(3万石→3万5000石、1617年 - 1871年) 緒川藩 緒川城 水野分長(9820石、1601年 - 1606年) : 三河新城藩1万石に移封 人物[編集] 国司[編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 尾張守[編集] 藤原真川(従五位下):延暦25年(806年)任官 多入鹿(従五位下):大同2年(807年)任官 平群真常(従五位上):大同3年(808年)任官 秋篠安人(従四位上):大同5年(810年)任官 紀田上(従四位下):大同5年(810年)任官 安倍犬養(従五位下):弘仁元年(810年)任官 三原弟平(従五位上):弘仁4年(812年)任官 滋野家訳(従五位下):弘仁6年(814年)任官 伴氏上(従五位下):天長2年(825年)任官 路年継(従四位下):天長3年(826年)任官 藤原助(従四位下):承和4年(837年)任官 橘氏人(従四位上):承和8年(841年)任官 源弘(従四位下):承和12年(845年)任官 源定(従三位):承和15年(848年)任官 滋野貞主(従四位下):嘉祥2年(849年)任官 源定(従三位):嘉祥3年(850年)任官 南淵年名(従五位下):嘉祥3年(850年)任官 滋野貞主(従四位下):嘉祥3年(850年)任官 橘数岑(従五位下):嘉祥3年(850年)任官 源定(従三位):嘉祥4年(851年)任官 豊階安人(従五位上):仁寿4年(854年)任官(権守) 藤原宗善(従五位上):斉衡2年(855年)任官 飯高永雄(従五位下):天安2年(858年)任官 藤原常永(従五位上):天安2年(858年)任官(権守) 安倍房上(従五位下):貞観4年(862年)任官 吉備全継(従五位下):貞観9年(867年)任官 家原氏主(従五位上):貞観10年(868年)任官(権守) 南淵興世(従五位下):貞観13年(871年)任官 藤原村椙(従五位下):貞観16年(874年)任官 藤原高藤(従五位上):元慶3年(879年)任官(権守) 藤原高藤(従五位上):元慶5年(881年)任官 清原常岑(従五位下):元慶8年(884年)任官 源有(従四位下):仁和3年(887年)任官 藤原定方(従五位下):寛平8年(896年)任官(権守) 平伊望(従五位下):昌泰3年(900年)任官(権守) 橘秘樹:延長9年(931年)任官 藤原共理:天慶2年(939年)任官 源宗海:天慶2年(939年)任官 藤原興方(従五位下):天慶6年(942年)任官 藤原為輔(従五位下):天暦9年(955年)任官 藤原文正:天徳3年(959年)任官 藤原守平(従五位上):応和3年(963年)任官 橘桓平(従五位上):康保4年(967年)任官 源忠清(正四位上):天禄2年(971年)任官(権守) 藤原永頼:天延2年(975年)任官 菅原文時(正四位下):天元3年(980年)任官(権守) 菅原公任(従四位上):永観2年(984年)任官(権守) 藤原元命:寛和2年(986年)任官 藤原道綱(従三位):永延2年(988年)任官(権守) 藤原文信:永延3年(989年) 大江匡衡(従五位上):正暦3年(992年)任官(権守) 藤原里兼(正四位下):長徳2年(996年)任官 藤原知光:長徳3年(997年)任官 大江匡衡(従四位下):長保3年(1001年)任官 藤原正光(正四位下):長保5年(1003年)任官(権守) 藤原実成(従四位下):長保6年(1004年)任官(権守) 藤原中清:寛弘2年(1005年)任官 大江匡衡(従四位下):寛弘6年(1009年)任官 藤原知光:寛弘7年(1010年)任官 橘経国:長和4年(1015年)任官 藤原良経:寛仁2年(1018年)任官(権守) 藤原惟貞:寛仁3年(1019年)任官 源則理:治安3年(1023年)任官 平惟忠:長元2年(1029年)任官 源実基:長元8年(1035年)任官 藤原範永:長元10年(1037年)任官 橘俊綱:長久3年(1042年)任官 藤原公基(従五位上):寛徳2年(1045年)任官 藤原時房:康平3年(1060年)任官 平定家:治暦元年(1065年)任官 源李宗:治暦4年(1068年)任官(権守) 藤原憲房:治暦5年(1069年)任官 賀茂道平:延久2年(1070年)任官(権守) 藤原惟経:延久5年(1073年)任官 平忠盛(正四位下):天養元年(1144年)任官 平頼盛(従四位上):保元3年(1158年)任官 平重衡(従五位下):応保3年(1163年)任官 平保盛(従五位下):仁安元年(1166年)任官 坊門忠清(従五位下):正治元年(1199年)任官 名越時章:寛元3年(1245年)任官 足利家氏:文永2年(1265年)任官 名越高家 斯波高経:元弘3年(1333年)任官 守護[編集] 鎌倉幕府[編集] 1195年 - ? : 小野成綱 ? - 1221年 : 小野盛綱 1240年 - ? : 中条家平 1252年 - ? : 中条頼平 1290年 - ? : 中条景長 1314年 - ? : 北条氏一門(名越氏?) ? - 1333年 : 北条宗教 室町幕府[編集] 1336年 - 1338年 : 中条秀長 1339年 - 1340年 : 高師泰 1351年 - 1387年 : 土岐頼康 1388年 - 1391年 : 土岐満貞 1391年 - ? : 一色詮範 1392年 - ? : 畠山深秋 1393年 - 1398年 : 今川仲秋 1398年 : 今川氏兼 1398年 - ? : 畠山基国 1400年 - 1418年 : 斯波義重 1424年 - 1433年 : 斯波義淳 1433年 - 1436年 : 斯波義郷 1436年 - 1452年 : 斯波義健 1452年 - 1460年 : 斯波義敏 1460年 - 1461年 : 斯波義寛 1461年 - 1466年 : 斯波義廉 1466年 : 斯波義敏 1466年 - 1468年 : 斯波義廉 1468年 - 1499年 : 斯波義寛 1511年 - 1517年 : 斯波義達 1536年 - 1554年 : 斯波義統 1554年 - 1556年 : 斯波義銀 戦国時代[編集] 戦国大名 斯波氏(尾張守護) 織田氏(尾張守護代) 織田政権の大名 池田恒興(犬山城):1万貫。1570年 - 1580年(摂津に移封) 豊臣政権の大名 織田信雄(清洲城):尾張・伊勢・伊賀110万石、1582年 - 1590年(改易) 豊臣秀次(清洲城):尾張・伊勢100万石、1590年 - 1595年(切腹・改易) 福島正則(清洲城):尾張国内24万石、1595年 - 1600年(安芸広島藩49万8,200石に移封) 一柳直盛(黒田城):3万5千石、1595年 - 1600年(伊勢神戸藩5万石に移封) 石川貞清(犬山城):1万2千石、1595年 - 1600年(改易) 武家官位としての尾張守[編集] 江戸時代以前[編集] 斯波氏武衛家(尾張足利氏) 足利家氏(斯波家氏):斯波氏初代。鎌倉時代中期の武将 斯波宗家:2代当主。鎌倉時代中期の武将。 斯波宗氏:3代当主。鎌倉時代中期から後期にかけての武将 斯波高経:4代当主。室町幕府の越前・若狭・越中守護 斯波義淳:7代当主。室町幕府管領、越前・尾張・遠江守護 室町幕府守護畠山氏(尾州家) 畠山満家:本宗家10代当主。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護 畠山持富:本宗家11代・尾州家初代当主。室町幕府管領、紀伊・河内・越中守護 畠山政長:本宗家14代・尾州家3代当主。室町幕府管領管領、紀伊・河内・越中・山城守護 畠山尚順:本宗家16代・尾州家4代当主。紀伊・河内・越中守護 畠山稙長:本宗家17代・尾州家5代当主。紀伊・河内・越中守護 畠山政国:本宗家19代・尾州家7代当主。紀伊・河内守護。 畠山高政:本宗家21代・尾州家9代当主。紀伊・河内守護 周防国・長門国の守護・戦国大名大内氏譜代重臣陶氏 陶弘護:8代当主。室町時代の武将。周防・筑前守護代 陶興房:9代当主。戦国時代の武将。周防守護代 陶晴賢(陶隆房):10代当主。戦国時代の武将。周防守護代。主家を実質的に滅ぼす その他 高師泰:南北朝時代の武将。高師直の兄(または弟) 新発田長敦:戦国時代の武将。上杉謙信の七手組大将の一人 織田信長:美濃攻略後、尾張守を自称(それ以前は上総介) 松田憲秀:小田原北条氏家老。小田原征伐の際に、豊臣方に内応を試みた 江戸時代[編集] 江戸時代には尾張守を称した例は無い。理由としては、尾張守を称した陶晴賢(大内氏家臣)や松田憲秀(後北条氏家臣)が主家を滅ぼしたため忌避されたという説、御三家筆頭である尾張徳川家に遠慮をしたという説、読みが「終わり」と同じで縁起が悪いとの説、などがある。 尾張国の合戦[編集] 1181年:墨俣川の戦い、 平家軍(平重衡) × 源行家 1554年:村木砦の戦い、織田信長・水野信元 × 今川義元 1556年:稲生の戦い、織田信長 × 織田信行 1558年:石ヶ瀬川の戦い、松平元康 × 水野信元 1558年:浮野の戦い、織田信長 × 織田信賢 1560年:桶狭間の戦い、織田信長 × 今川義元 1584年:小牧・長久手の戦い、徳川家康・織田信雄 × 羽柴秀吉 1584年:岩崎城の戦い、丹羽氏重 × 池田恒興 現代の尾張地方[編集] 尾張地方のデータ 国 日本 地方 中部地方、東海地方 面積 1,686.53km2 推計人口 5,154,530人 (2017年5月1日) ※尾張国(愛知県西部)全域。 名古屋市(政令指定都市) 一宮市(特例市) 春日井市(特例市) 半田市(計量特定市) 自治体[編集] 政令指定都市 名古屋市 特例市 一宮市(木曽川東岸の一部除く) 春日井市 計量特定市 半田市 その他 瀬戸市、尾張旭市、日進市、豊明市、大府市、東海市、知多市、常滑市、小牧市、犬山市、江南市、岩倉市、稲沢市(加賀野井地区の一部を除く)、津島市、愛西市、弥富市(鍋田川流域の一部除く)、あま市、北名古屋市、清須市、長久手市、東郷町、東浦町、阿久比町、武豊町、美浜町、南知多町、大口町、扶桑町、豊山町、飛島村、大治町、蟹江町 呼称[編集] 現代でも、「尾張」を地域名として用いることがあり、その場合以下のような異なる範囲が参照される。 尾張国と同じ範囲とする場合。 尾張国の範囲から、名古屋市(県庁所在地)を除く場合。 数的規模などの面から、名古屋市を分けて記述したり、組織編成したりする場合に「名古屋・尾張(名古屋を除く)」などと区分する。 尾張国の範囲から、名古屋市と知多半島を除く場合。 地域性や文化などの面から、「名古屋・尾張・知多」と区分する。 この場合に置いて尾張国を細分化した場合、地域区分は必ずしも一定していないが、区分表記に当たっては、尾張の頭に方角を付けるほか、「尾東」「尾西」「尾北」という表記もある。また、知多半島を「南尾張」とする表記も見られるが、「尾南」という表記は見られない。 尾張国の範囲から、知多半島のみを除く場合。 気象注意報・警報の地域区分や知多地域の案内などに見られる。この場合、「尾張・知多(愛知県西部・知多)」と区分する。 地形[編集] 川:木曽川、長良川、揖斐川 半島:知多半島 平野:濃尾平野 湾:伊勢湾 交通[編集] 現在では、名古屋から東海地方、近畿地方(大阪市など)、関東地方(東京都など)や北陸地方(富山市など)への道路や鉄道の路線が分岐している。 空港[編集] 中部国際空港(セントレア) 名古屋飛行場(県営名古屋空港) 鉄道[編集] 東海道新幹線 東海道本線 関西本線 名鉄小牧線 名鉄瀬戸線 名鉄豊田線 中央本線 武豊線 近鉄名古屋線 名鉄広見線 名鉄津島線 名鉄尾西線 名鉄名古屋本線 名鉄犬山線 名鉄常滑線 名鉄河和線 名鉄知多新線 名鉄空港線 道路[編集] 有料道路 東名高速道路 名神高速道路 中央自動車道 名古屋高速道路 名古屋第二環状自動車道 東名阪自動車道 東海北陸自動車道 伊勢湾岸自動車道 知多半島道路 南知多道路 知多半島横断道路 名古屋瀬戸道路 国道 国道1号 国道19号 国道22号 国道23号 国道41号 国道153号 国道154号 国道155号 国道247号 国道248号 国道302号 国道363号 国道366号 港[編集] 名古屋港 市外局番[編集] 052(名古屋MA) 0561(瀬戸MA) 0562(尾張横須賀MA) 0567(津島MA) 0568(春日井MA) 0569(半田MA) 0586(一宮MA) 0587(一宮MA) 自動車ナンバープレート[編集] 名古屋ナンバー 尾張小牧ナンバー 一宮ナンバー(ご当地ナンバー:一宮市) 春日井ナンバー(ご当地ナンバー:春日井市) 参考[編集] 和文通話表で、「を」を送る際に「尾張のヲ」という。 脚注[編集] ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、19頁。 ^ 鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。 ^ 田中卓「尾張国はもと東山道か」『田中卓著作集6』(国書刊行会、1986年/原論文:1980年) ^ 河村昭一「一色氏の分国・分郡における守護・〈郡主〉在職期間」『南北朝・室町期一色氏の権力構造』戎光祥出版、2016年。 ^ これを記念して名古屋城前に加藤清正像が置かれている。一度も城主になったことのない人物が銅像として設置されている珍しい例。 ^ 茂徳と同様に慶勝の実弟。高須四兄弟の一人。 ^ 幼少時の徳川家康を預かった圧田の名家(東加藤家)。 ^ a b 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 113-114。 ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 102-113。 ^ 当初、伊勢国における伊勢神宮と同様に別格で一宮とされなかったが、一宮・二宮が定められた後に三宮として追加されたという説、単に国府から遠かったためとする説、真清田神社の積極的な運動によって一宮になったとする説、一宮制度導入時に国司と熱田神宮が対立していた説など。 参考文献[編集] 角川日本地名大辞典 23 愛知県 旧高旧領取調帳データベース 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、尾張国に関連するカテゴリがあります。 令制国一覧 濃尾平野 尾三 尾張神社 尾張 - 日本海軍が八八艦隊計画で計画した未成戦艦。 外部リンク[編集] 尾張国国郡図 [表示] 表 話 編 歴 令制国の一覧 カテゴリ: 日本の旧国名東海道愛知県の歴史名古屋市の歴史戦国時代 (日本)安土桃山時代尾張国 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 العربية English Español Français Bahasa Indonesia 한국어 Português Русский 中文 他 18 リンクを編集 最終更新 2017年7月1日 (土) 16:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki ---------