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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

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一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
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だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --------- 櫓 曖昧さ回避 この項目では、城郭以外の建物または物の構造や技術、道具について説明しています。 城郭の櫓(下記、2・3)については「櫓 (城郭)」をご覧ください。 神奈川県を中心とした地域の横穴墳墓については「やぐら」をご覧ください。 船を漕ぐ道具「櫓(ろ)」については「艪」をご覧ください。 櫓(やぐら)とは日本の古代よりの構造物・建造物、または構造などの呼称。矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。 木材などを高く積み上げた仮設や常設の建築物や構造物。(見世物小屋や相撲、祭りの太鼓櫓・火の見櫓などの物見櫓等) 古代からある城等に建てられた矢を納めた倉庫兼発射台、防衛用の仮設の掘立建物。(物見櫓(井楼)など) 近世の城郭に建てられた矢や鉄砲を発射するための重層または単層の建造物。 構造部位の名称(船櫓・炬燵櫓など)・技の名称(相撲の技・将棋の陣たて) 目次 [非表示] 1 建物 2 建物以外 3 脚注 4 関連項目 建物[編集] 芝居櫓 歌舞伎座の櫓 通常は11月の顔見世大歌舞伎の際に、正面入口の破風の上に揚げられる。 両国回向院の太鼓櫓 芝居小屋の櫓は、人ひとりが乗れるほどの籠のような骨組みに、2本の梵天と5本の槍を組み合わせ、それを座の定紋を染め抜いた幕で囲った構築物で、これを木戸(入口)の上方に取り付け、かつてはそこで人寄せの太鼓を叩いた。この櫓をあげていることが官許の芝居小屋であることの証だった。明治以降も建築様式として引継がれ、歌舞伎を上演する常設の劇場ではその興行の際に櫓が上がった。 太鼓櫓 大相撲興行の際に、寄せ太鼓(当日の興行実施を知らせる)やはね太鼓(当日興行の終わりを知らせる)を打つための太鼓櫓をかつては必要に応じて構築していた。現在の両国国技館には安全上の観点から、エレベーターを備えた常設の太鼓櫓が備えられている。 祭り櫓 祭りや盆踊りなどの会場にするため、広場に塔状の構造物を仮設することがある。これも櫓と言う。櫓の上で音楽を演奏したり、櫓と繋いだ縄に飾りつけをして見栄えを整える。 火の見櫓 詳細は「火の見櫓」を参照 現在では、火災が発生したときに人が登って火事現場の位置を確認するとともに、上部に設置された半鐘をたたいて音で火事の発生を知らせるための建物として使われていたり、防災行政無線のスピーカーの設置塔となっていることも多い。半鐘櫓と呼ばれることもある。 建物以外[編集] やぐら棚 靖国神社奉納大相撲 櫓太鼓打分(2017年4月17日撮影) 大相撲の技 大相撲には櫓投げという技がある。かつては上手櫓と下手櫓で区別していたが、決まり手制定の際に統一された。 将棋の矢倉 将棋の囲いには矢倉囲いがある。居飛車戦法で用いられることが多い。 トーナメント表 トーナメント戦で組み合わせが塔状に伸びていくことから、トーナメント表のことを「やぐら」ともいう。 違い棚 書院造の違い棚の種類に「やぐら」がある。 炬燵 掘り炬燵や炬燵などの脚を含む布団をかけるための骨組みを「櫓・やぐら」という。 人間騎馬・人間塔 人を乗せる騎馬や組体操の組み手のことを「やぐら」ということがある。 船櫓 大型和船の上部構造。甲板。 攻城櫓 移動式の攻城用の櫓のこと。車輪が付けられており、移動しながら攻撃できる。同様のダシ矢倉(だしやぐら)は城の守備においても造られた。祇園祭(京都府京都市)などの祭典に用いられた「山車(だし)」はこれを利用したものであるという説がある[1]。 土木 杭打ち地業の際に杭を打つ装置として、丸太や鋼管などを組んで建てた仮設の構造物を「杭打ちやぐら」という。井戸を掘る際にもやぐらが建てられる。 油井 油田において原油の掘削に用いる構造物の一つ。 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 西ヶ谷恭弘編著『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版 2008年 関連項目[編集] 舞台 工学 土木 小屋 カテゴリ: 劇場建築史日本の文化構造物 --------- 安井家 安井家 No image available.svg 本姓 清和源氏(河内源氏・足利氏)畠山氏流 家祖 安井算哲 著名な人物 二世安井算知 七世安井仙知 八世安井知得 支流、分家 坂口家(外家、後に改易されて阪口家) 凡例 / Category:日本の氏族 安井家(やすいけ)は、江戸時代、本因坊家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家の一つであり、名人碁所として二世算知がいる。また江戸後期には「大天才」と評される七世仙知、囲碁四哲の一人八世知得、天保四傑の一人九世算知などの名棋士がこの家門から生まれている。十世算英は明治時代まで活躍した。 目次 [非表示] 1 家系 2 歴代当主 3 外家・門人 4 関連項目 5 参考文献 家系[編集] 安井家の祖は、清和源氏の流れの畠山氏の一族で、畠山満貞を祖とする安井氏になる。石山合戦にも出陣した安井定正の四男宗順の二男である六蔵が徳川家康に碁打ちとして取り立てられて家督を受け、碁門としての安井家一世算哲となった。 算哲の後は弟子の二世算知が継ぎ、一世算哲の長子二世算哲は後に天文方に転じて満貞の代の渋川姓を名乗った。碁家としての安井家は、算哲の三男の知哲が算知を継いで三世となった。また、算知の弟と言われる安井春知も御城碁に出仕している。本因坊家とは異なり僧籍ではないため、実子相続も少なくない。 明治に入り、十世算英の子昌三は家元を名乗るほどの碁ではなく、娘を有力棋士に娶せ後継者としようとしたが碁を知らない男と結婚し、後継を決められないまま算英は急死。家元としての安井家は途絶えた。昌三は1909年(明治42年)、浄心寺に「安井家歴代之墓」を建て、十一世安井昌三立石と刻した。 歴代当主[編集] 一世 安井算哲(1590-1652) 二世 安井算知(1617-1703)三世名人碁所 三世 安井知哲(1644-1700) 四世 安井仙角(1673-1737)八段 跡目 - 安井知仙(1682-1728)七段 五世 安井春哲仙角(1711-1789)八段準名人 六世 安井仙哲( -1780)七段上手 七世 安井仙角仙知(1764-1837)八段準名人 八世 安井知得仙知(1776-1838)八段準名人 九世 安井算知 (俊哲)(1810-1858)七段上手 十世 安井算英(1847-1903)七段 外家・門人[編集] 安井家の外家には、坂口家(後に改易されて阪口家)があり、七世仙知の父でもある祖の坂口仙徳、及び天保四傑の一人とされる阪口仙得の二人が御城碁出仕を果たしている。 七世仙知以後の時代には多くの門人を抱えて本因坊家に匹敵する興隆となり、天保四傑と呼ばれたうちにも阪口仙得、太田雄蔵、九世算知の3人を占めている。 九世算知門下では、塾頭鬼塚源治、中村正平、海老沢健造(巌崎健造)、奈良林倉吉が安井家四天王とされ、健造は明治になって方円社社長も務めた。 関連項目[編集] 渋川春海 渋川敬尹 安井氏 参考文献[編集] 梶原武雄、伊藤敬一、林裕『元美・俊哲・仙得 日本囲碁大系12』筑摩書房 1976年 --------- 安井算哲 曖昧さ回避 この項目では、囲碁家元安井家1世について説明しています。2世安井算哲については「渋川春海」をご覧ください。 安井 算哲(やすい さんてつ、天正18年(1590年) – 慶安5年1月9日(1652年2月18日))は、江戸時代の囲碁の棋士。元の名は六蔵。江戸幕府から俸禄を受けて家元安井家の始祖となる。実子の二世安井算哲(渋川春海)と区別して古算哲とも呼ばれる。 目次 [非表示] 1 生涯 2 発言 3 参考文献 4 外部リンク 生涯[編集] 天正18年(1590年)、安井忠右衛門宗順の第二子として生まれる。幼時より囲碁を学び、算砂の弟子とも伝えられる(『爛柯堂棋話』)。 慶長5年(1600年)11歳の時、榊原康政を介して徳川家康に伏見城で召し出され、30石12人扶持を与えられる。駿府にて碁の相手を務めたり、本因坊算砂、林利玄らとともに碁会などに招かれていたが、祇園社の被官とも(「舜旧記」)、久宝寺の者とも記される(「鹿苑日録」)のは大阪久宝寺(八尾市)の出であったため思われる。慶長13年(1608年)、剃髪して算哲と名乗る。 慶長17年(1612年)には、道碩50石に次ぐ30石の俸禄を受けた。大坂の陣では叔父の安井道頓が豊臣方にあったが、父・宗順や叔父・定吉を家康に引き会わせ、徳川方の案内者に推挙する。その後は京都に居を構え、毎年3月に算砂らとともに江戸に下った。寛永3年(1626年)の二条城徳川秀忠御前で中村道碩と対局、先番3目勝。それ以前にも御前対局は行われていたが、この碁が御城碁の始めといわれている。道碩が死去した後の正保元年(1644年)、本因坊算悦、井上因碩(玄覚)、算哲らに寺社奉行より道碩後継の碁打衆頭領の地位の詮議がなされ、算哲は自薦するも受け入れられず、算悦、因碩は辞退したため、空位のままとなった(碁所詮議、「伝信録」)。 実子が無かったため、または未だ幼少のためとして、門下の安井算知を養子として家督を譲った。ただし後に長子が二世算哲として安井家を継いだため、家系としての安井家と碁家としての安井家がこの時期並立していたとの見方もある。次男の勘左衛門は内藤家家臣となり、三男知哲は算知を継いで安井家三世となる。 慶安5年(1652年)、京都にて死去。法号は正哲院紹元。 発言[編集] 中村道碩と100数十局の対局があり、道碩40番勝ち越しと伝えられるが、その戦い振りは道碩をして「碁に勝っても命は取られる」と言わしめた。寛永3年の二条城での対局は算哲の傑作とされる。また二条城での対戦で、1手目を辺(右辺星下)に打った局も知られている。寛永5(1628年)、同6年(1629年)には江戸城で道碩と対戦し、算哲先で1勝1敗。棋力は名人、上手の間と言われた。 島原の乱の時に、当初江戸からは板倉重昌が向かわせられたが、その後に松平信綱らも送った。この時に算哲は、重昌が討ち死に致すべしと周囲に語り、その通りの報告が届いたために江戸では話題となった。 参考文献[編集] 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年12月) 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年 林元美著・林裕校注『爛柯堂棋話』平凡社 1978年 外部リンク[編集] 木石庵「安井算哲」 --------- 幽玄の間 幽玄の間(ゆうげんのま)は、日本棋院が運営するインターネット囲碁対局サービス。 概要[編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 幽玄の間では、アマチュア25級~8段が自由に対局をしている。 近い棋力の人と級・段位の向上を目指してポイント変動をかけ戦う“レーティング対局”と 練習対局及びペア碁や五目並べなどのお楽しみもできる“自由対局”の大きく2つに分かれる。 サービスの内容[編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 外部リンク[編集] 公式サイト 加筆訂正願います執筆の途中です この「幽玄の間」は、コンピュータゲームに関連の項目ですが、内容が不十分です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:コンピュータゲーム/PJコンピュータゲーム)。 内容が最低限充実しましたらこのテンプレートを{{Video-game-stub}}に貼り替えてください。 カテゴリ: オンラインゲーム作品コンピュータ囲碁 --------- 伯耆国 伯耆国 地図 令制国 伯耆国.svg ■-伯耆国 ■-山陰道 別称 伯州(はくしゅう) 所属 山陰道 相当領域 鳥取県中部・西部 諸元 国力 上国 距離 中国 郡・郷数 6郡48郷 国内主要施設 伯耆国府 鳥取県倉吉市(伯耆国庁跡) 伯耆国分寺 鳥取県倉吉市(伯耆国分寺跡) 伯耆国分尼寺 (推定)鳥取県倉吉市 一宮 倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町) テンプレートを表示 伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。 目次 [非表示] 1 概要 2 「伯耆」の名称と表記 3 領域 4 沿革 4.1 近世以降の沿革 5 国内の施設 5.1 国府 5.2 国分寺 5.3 神社 6 地域 6.1 郡 6.2 荘園 6.3 江戸時代の藩 7 人物 7.1 国司 7.1.1 伯耆守 7.2 守護 7.2.1 鎌倉幕府 7.2.2 室町幕府 7.3 国人 7.4 戦国大名 7.5 織豊大名 7.6 武家官位としての伯耆守 8 伯耆国の合戦 9 国おこし 10 脚注 11 参考文献 12 関連項目 13 外部リンク 概要[編集] 同じ鳥取県に含まれる因幡国よりも島根県に含まれる出雲国と、古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多いため、雲伯という地域区分がある。 また、中国地方最高峰の大山を境にして、東伯(県中部)と西伯(県西部)に分かれ、方言や文化などに違いが見られる。 「伯耆」の名称と表記[編集] 藤原宮跡から出土した戊戌年(文武天皇2年・698年)6月の年月が記された木簡に、「波伯吉国」とある。7世紀代の古い表記を多く残す『古事記』では、これと別の伯伎国という表記が見える。平安時代編纂だがやはり古い表記を残す『先代旧事本紀』には、波伯国造が見える[1]。 伯耆国風土記によると手摩乳、足摩乳の娘の稲田姫を八岐大蛇が喰らおうとしたため、山へ逃げ込んだ。その時母が遅れてきたので姫が「母来ませ母来ませ」言ったことから母来(ははき)の国と名付けられ、後に伯耆国となったという 領域[編集] 明治維新の直前の領域は現在の鳥取県米子市、倉吉市、境港市、東伯郡、西伯郡、日野郡にあたる。 沿革[編集] 古墳時代以前には古代出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓が築かれており、『出雲国風土記』にも当地に聳え立つ霊峰伯耆大山の逸話も出てくることから出雲の文化圏と考えられている。弥生時代より東部出雲と同様、鉄器の製造が盛んであり、これらの地方の鉄が大和政権の原動力になったとの見方がある。登場する最古の文献は、『古事記』であり伊邪那美神の埋葬地「出雲と伯耆の堺の比婆の山」であり、現在の島根県安来市と鳥取県米子市の県境近くに比定される。古墳時代以降、律令の世になると伯耆国造がいた領域に、7世紀に伯耆国を設置した。前述したとおり、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、日本最古の刀匠の一人大原安綱を輩出した。 近世以降の沿革[編集] 「旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点では国内の全域が因幡鳥取藩領であった(一部は大山寺領など寺社領)。 明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により鳥取県の管轄となる。 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により島根県の管轄となる。 明治14年(1881年)9月12日 - 鳥取県の管轄となる。 国内の施設[編集] 国府[編集] 国府は久米郡にあった。遺跡は現在の倉吉市国府(こう)で見つかっている。倉吉平野のほぼ中央で、標高40メートルほどの丘陵上に位置する。発掘調査は1973年(昭和48年)秋に国庁裏で柱穴が見つかったのが契機で、1978年(昭和53年)まで実施された。国衙跡は幅2メートル、深さ1メートルほどの溝によって東西273メートル、南北149メートルの長方形に区画され、その東辺に東西51メートル、南北149メートルの張り出し部が設定されていた。区画のほぼ中央部に儀礼を行う国衙政庁(国庁)が設けられ、周辺に曹司(そうし)建物郡が配置されていた。発掘された遺構は、掘立柱建物・礎石・門・塀・道路・築地条遺溝・溝・土壙など多数で、8世紀中頃から10世紀の間に四時期の変遷が確認されている。 一期は8世紀中頃から末期まで。東西84メートル、南北95メートルに掘立柱塀によって区画され、南門・前殿・正殿・後殿と並び、正殿の東西に細長い脇殿とその南側に楼閣風建物を配置している。建物は全て掘立柱建物で、正殿を中心にコの字形に配置している。 二期は9世紀初頭頃。南門・前殿・正殿・後殿を同じ位置で建て替え、東西両脇殿の北側に楼閣風総柱建物を新たに設けている。 三期は9世紀中頃。国庁の外周に幅2メートル、深さ1メートルほどの溝を掘り、内側に築地塀を巡らし、東西84メートル、南北108メートルに区画している。そして、南門以外の建物を礎石建物にかえ、前殿を取り払い、正殿までを石敷にし広くしている。[2]。 国分寺[編集] 伯耆国分寺跡 国衙跡の東へ約300メートルほど離れたところにあり、尼寺跡は、僧寺と尼寺[3]は離れて建立するように定められているが、北へ約50メートルと近接している。 神社[編集] 延喜式内社 『延喜式神名帳』には、以下に示す小社6座6社が記載されている。大社はない。 河村郡 倭文神社 (東伯郡湯梨浜町宮内) 河村郡 波波伎神社 (倉吉市福庭) 久米郡 倭文神社 (倉吉市志津) 久米郡 国坂神社 (東伯郡北栄町国坂) 会見郡 胸形神社 (米子市宗像) 会見郡 大神山神社 (米子市尾高) 総社・一宮以下 総社 国庁裏神社 - 倉吉市国府。 一宮 倭文神社 (河村郡) 二宮 大神山神社または波波伎神社 三宮 倭文神社 (久米郡) 地域[編集] 郡[編集] 河村郡:東伯東端に位置し、因幡・美作と境を接する。 久米郡:東伯中央部で伯耆国の国府・国分寺・国分尼寺がおかれていた。美作と境を接する。 八橋郡:東伯西端に位置。 汗入郡:西伯北東部。 会見郡:西伯北西部で、出雲と境を接する。 日野郡:西伯西南部で、備中・備後・美作と境を接する。 荘園[編集] 東郷荘 矢送荘 宇多河荘:汗入郡(現在の米子市淀江町東部)を中心とする。 中間荘:会見郡(現在の米子市東部) 蚊屋荘:会見郡(現在の米子市東部) 稲積荘 久永御厨 江戸時代の藩[編集] 鳥取藩:池田家(32万石→32.5万石) 米子藩:中村家(17.5万石)→加藤家(6万石)→伊予国大洲藩に転封・廃藩 倉吉藩:里見家(3万石)→廃藩 黒坂藩:関家(5万石)→廃藩 矢橋藩:市橋家(2.13万石)→越後国三条藩に転封・廃藩 人物[編集] 国司[編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 伯耆守[編集] 山上憶良 良岑秀崇:寛平8年(896年)任官 当麻有業:延喜22年(922年)任官 船実平:天暦元年(947年)任官 藤原公明:安和元年(968年)任官 源頼光: 藤原隆佐:寛仁元年(1017年)任官 藤原資頼:治安2年(1022年)任官 藤原範永:万寿2年(1025年)任官 平忠盛:1115年頃 平親範:久安4年(1148年)任官(~保元元年(1156年)) 平基親:平治元年(1159年)任官(~仁安元年(1166年)) 平時家:安元2年(1176年) 平親宗:仁安2年(1167年)任官 平忠度:治承3年(1179年)任官 源光長:寿永2年(1183年)任官 名和長年:元弘3年(1333年)任官 名和顕興:名和長年の孫 守護[編集] 鎌倉幕府[編集] 1205年~? - 金持広親 ?~1272年 - 北条時輔 1272年~1275年? - 蘆名経光 1275年頃~1285年 - 三浦頼連 ?~1333年 - 北条時益 室町幕府[編集] 1336年~1337年 - 石橋和義 1337年~1351年 - 山名時氏 1363年~1371年 - 山名時氏 1371年~1389年 - 山名時義 1389年~1390年 - 山名氏之 1390年~1391年 - 山名満幸 1392年~1424年 - 山名氏之 1427年~? - 山名教之 1453年?~1471年 - 山名豊之 1473年~1476年? - 山名之弘 1476年?~? - 山名元之 ?~1491年 - 山名政之 1494年~? - 山名尚之 1521年~1524年 - 山名澄之 1524年~? - 山名豊興 1552年~1561年 - 尼子晴久 国人[編集] [icon] この節の加筆が望まれています。 河村郡 南条氏 - 羽衣石城を本拠とする。 越振氏 - 本拠地は羽合田(現在の湯梨浜町羽合)付近か。 久米郡 小鴨氏 - 岩倉城を本拠とする。 山田氏 - 北條郷。堤城を本拠とする。 長氏 - 本拠地は矢送荘(現在の倉吉市)付近か。 八橋郡 野津氏 - 本拠地は現在の琴浦町箆津付近か。 汗入郡 福頼氏 - 本拠地は宇多河荘(現在の米子市淀江町福頼)付近か。 村上氏 淀江氏 会見郡 進氏 - 土着した中央官人紀氏の一族。 行松氏 - 尾高城を本拠とする。 日野郡 鉢塚氏 - 江尾城を本拠とする。 日野氏 戦国大名[編集] 尼子氏 毛利氏 織豊大名[編集] 南条元続 - 中国国分により八橋[要曖昧さ回避]を除く東三郡を領知。後、八橋も奪取。 毛利輝元 - 中国国分により西三郡と八橋を領知。吉川氏が管轄した。 武家官位としての伯耆守[編集] 江戸時代以前 秋山虎繁(秋山信友): 戦国時代の武将、武田二十四将の一人 石川数正: 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。徳川家康、豊臣秀吉に仕える 塩谷孝綱: 下野国塩谷郡の戦国武将 塩谷義孝: 孝綱の子 立花道雪: 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将 土岐頼貞: 鎌倉時代から南北朝時代の武将、守護大名(美濃守護) 南条貞宗: は南北朝時代の武将、伯耆国の国人・南条氏の始祖 南条元続: 安土桃山時代の伯耆国の武将 江戸時代青山家宗家 青山忠俊: 宗家2代。常陸江戸崎藩第2代藩主、武蔵岩槻藩藩主、上総大多喜藩主 青山忠朝: 宗家7代。丹波亀山藩第3代藩主、丹波篠山藩初代藩主 青山忠講: 宗家9代。篠山藩の第3代藩主 江戸時代正重系本多家 本多正永: 正重系本多家初代。下総舟戸藩、上野沼田藩初代藩主  本多正珍: 正重系本多家4代。駿河田中藩第2代藩主・老中 本多正温: 正重系本多家6代。田中藩第4代藩主 本多正訥: 正重系本多家9代。田中藩第7代藩主、安房長尾藩初代藩主。 江戸時代丹後宮津藩本庄松平家 松平資俊: 本庄松平家2代。常陸笠間藩第2代藩主、遠江浜松藩初代藩主  松平資承: 本庄松平家6代。丹後宮津藩第3代藩主 松平宗允: 本庄松平家7代。宮津藩第4代藩主 松平宗発: 本庄松平家8代。宮津藩第5代藩主 松平宗秀: 本庄松平家9代。宮津藩第6代藩主・老中 松平宗武: 本庄松平家10代。宮津藩第7代藩主 江戸時代その他 井伊直朝: 遠江掛川藩第3代藩主 池田綱清: 因幡鳥取藩第2代藩主 杉原長房: 但馬豊岡藩初代藩主 杉原重長: 豊岡藩第2代藩主 立花貞則: 筑後柳河藩第6代藩主 立花鑑寿: 柳河藩第8代藩主 中村一忠: 伯耆米子藩主 福島正之: 福島正則の養嗣子 米津政崇: 武蔵久喜藩第4代藩主 伯耆国の合戦[編集] 天慶10年(947年): 藤原是助の乱 治承3年(1179年): ツホカミ山の戦い、小鴨基保・野津蔵人仲吉 x 東郷家平 元弘3年=正慶2年(1333年): 船上山の戦い、後醍醐天皇方(名和長年) x 鎌倉幕府方(佐々木清高) 天文15年(1546年): 橋津川の戦い、武田国信・伯耆国人衆(7,000騎) x 尼子軍(尼子国久・尼子豊久等5,700騎) 天正13年(1585年): 河原山城の戦い、毛利方(末次元康・福頼元秀ら) x 南条方(行松氏) 国おこし[編集] 2012年3月より、地元NPO・行政が連携して「謎の伯耆。(謎のほうきサイト)」(伯耆の国ブランディングサイト)を開設し、再び伯耆の国として売り出して当該地域の認知を促進するキャンペーンを行っている。 脚注[編集] ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・22頁。 ^ 真田廣幸「律令制下の因幡・伯耆」(内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門『鳥取県の歴史』、山川出版社、2003年)50-55ページ。 ^ 法華寺畑遺跡は国庁跡の北東400メートルに位置する。1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年)にかけて発掘調査が行われた。区画の広さは約150メートル四方、四周は幅約1.5メートル・深さ約1メートルの溝で囲まれ、各辺の中央に張り出し、門を設けている。 参考文献[編集] 角川日本地名大辞典 31 鳥取県 旧高旧領取調帳データベース 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、伯耆国に関連するカテゴリがあります。 令制国一覧 雲伯 外部リンク[編集] 国立公文書館デジタルアーカイブ - 「天保国絵図 伯耆国」 鳥取県立図書館伯耆国絵図(明治3年、他に文政年間の伯耆国六郡の絵図もある) 謎の伯耆。(謎のほうきキャンペーンサイト)(伯耆の国の地元NPO・行政によるブランディングキャンペーンサイト) [表示] 表 話 編 歴 令制国の一覧 [表示] 表 話 編 歴 伯耆国の郡 執筆の途中です この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 カテゴリ: 日本の旧国名山陰道鳥取県の歴史伯耆国 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 Deutsch English Español Français Bahasa Indonesia 한국어 Português Русский 中文 他 10 リンクを編集 最終更新 2016年11月22日 (火) 23:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki --------- ---------