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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

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一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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3:幽玄の間
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だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 後小松天皇 後小松天皇 後小松天皇像(雲龍院蔵) 北朝第6代・第100代天皇 在位期間 北朝天皇 1382年5月24日-1392年11月19日  歴代天皇(合一後) 1392年11月19日-1412年10月5日 元号 永徳 至徳 嘉慶 康応 明徳 応永 先代 北朝:後円融天皇 南朝:後亀山天皇 次代 称光天皇 誕生 天授3年/永和3年6月27日(1377年8月1日) 崩御 1433年12月1日 東洞院仙洞御所 陵所 深草北陵 諱 幹仁 父親 後円融天皇 母親 藤原厳子 子女 称光天皇 小川宮 理永女王 一休宗純(一説による) 皇居 京都御所 テンプレートを表示 後小松天皇(ごこまつてんのう、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。諱は幹仁(もとひと)。 目次 [非表示] 1 生涯 2 追号 3 系譜 3.1 系図 4 在位中の元号 5 陵・霊廟 6 出典 7 注釈 8 関連項目 生涯[編集] 日野資教邸で養育される。弘和2年(1382年)12月28日、父の後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位、後円融上皇による院政が行われた。朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの公家を主従関係の下に置いた室町幕府3代将軍足利義満と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。 明徳4年(1393年)に後円融上皇が崩御すると、義満はさらに朝廷への影響を強め、事実上の上皇として、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るい、後小松はその下でまったくの傀儡に甘んじた。 応永19年(1412年)8月29日、後小松は皇子の実仁親王(称光天皇)に譲位し、院政を開始。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。 治天の君としての後小松の立場については様々な見方がある。例えば、応永27年(1420年)9月16日に以前女官との密通を理由に仙洞御所から追放された院侍が復帰を求めて仙洞御所に侵入して警固に当たっていた細川氏の兵に捕らえられ、翌日六条河原で斬首された事件が発生している(『康富記』・『看聞日記』)。この事件について、横井清は後小松を「いかなる暴力装置も駆使できなくなっていた」存在と解釈し[1]、一方で井原今朝男は逮捕の命令を発したのは後小松であること、将軍義持が院侍の助命を主張しても後小松だけは一貫して院侍の殺害を主張して遂には実現させたことを指摘して公家社会、特に御所内においては幕府権力を単なる暴力装置として駆使させることが出来る程の権力を依然として保持していたと解釈している[2]。 称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の第二皇子小川宮も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍足利義持と協議、後継者として崇光流の伏見宮貞成親王が有力視され、一時は後小松の猶子として親王宣下された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は出家して皇位継承を断念した。 正長元年(1428年)、称光が危篤となると、6代将軍足利義教の仲介もあって、その死後に貞成の子息彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させた[3]。 称光・後花園の2代にわたり院政を行い、この間永享3年(1431年)に出家している。ただし、後小松が永享元年(1429年)10月に出家の意思を固めていたものの、義教に事前の断りを入れなかったことから義教の反発で先送りされた経緯があり、この時の義教の後小松への反感が貞成親王との関係強化につながり、後に後小松の遺志に反する貞成への太上天皇称号贈与につながったとする見方もある[4]。 永享5年(1433年)10月20日に崩御。宝算57。 追号[編集] 追号は本人の遺詔により「後小松院」と贈られた。「小松帝」とは、兄の孫にあたる陽成天皇が廃位されたのち皇位につき、その子孫が長きにわたって皇統を保った第58代光孝天皇の異名である。南朝の皇統を断つかたちで天下唯一の天皇となったのもつかの間、自らの皇統はわずか2代にしてさらに別の系統に移ることが現実となったとき、彼はこの「後小松」を追号にすることによって自らの歴代天皇としての正統性を顕示しようとしたものと考えられている。また後小松は、称光天皇の容態が思わしくなかった1426年に『本朝皇胤紹運録』の編纂を命じて皇室の系図の整理を行わせているが、この行動も彼のそうした心境の反映だと考えられている。 系譜[編集] 後円融天皇の第1皇子。母は内大臣三条公忠の娘、通陽門院藤原厳子[注釈 1]。また、風狂の禅僧一休宗純は後小松の落胤とも伝えられている。 女院:藤原(日野西)資子(光範門院)(1384-1440) - 日野西資国女、資教養女 第1皇子:実仁親王(称光天皇) - (1401-1428) 第2皇子:某(小川宮)(1404-1425) 第1皇女:理永女王(1406-1447) - 大聖寺門跡 猶子:彦仁王(後花園天皇) - 崇光天皇曾孫、伏見宮貞成親王王子 典侍:藤原(甘露寺)経子(大納言典侍) - 甘露寺兼長女 宮人:藤原氏 - 日野西資国女 宮人:源氏(小兵衛局) - 土岐宮内少輔某女 皇女(1412-?) 宮人:源氏 - 白川資忠女 宮人:藤原氏(南朝遺臣の女で、花山院家出身と伝える) 皇子:一休宗純(1394-1481) - 大徳寺。落胤説があるが真相は不明。 系図[編集] 【持明院統】 〔北朝〕 【大覚寺統】 〔南朝〕 96 後醍醐天皇 光厳天皇 北1 光明天皇 北2 97 後村上天皇 崇光天皇 北3 後光厳天皇 北4 98 長慶天皇 99 後亀山天皇 惟成親王 〔護聖院宮家〕 栄仁親王 後円融天皇 北5 (不詳) 〔玉川宮家〕 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 貞成親王 (後崇光院) 100 後小松天皇 北6 102 後花園天皇 貞常親王 〔伏見宮家〕 101 称光天皇 在位中の元号[編集] 永徳(1382年4月11日)- 1384年2月27日 至徳 1384年2月27日 - 1387年8月23日 嘉慶 1387年8月23日 - 1389年2月9日 康応 1389年2月9日 - 1390年3月26日 明徳 1390年3月26日 - 1394年7月5日 応永 1394年7月5日 -(1421年12月19日) 陵・霊廟[編集] 深草北陵 陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂。深草北陵には持明院統歴代が葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 出典[編集] ^ 横井『看聞日記』そしえて、1973年、p69。 ^ 井原『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、p213-243。 ^ 「後花園天皇」『朝日日本歴史人物事典』 ^ 石原比位呂「足利義教と北朝天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6 注釈[編集] [ヘルプ] ^ なお、母・厳子が実家で出産後2ヶ月たっても御所に帰らず、後円融上皇から折檻を受けていること。またその後の足利義満の行動から、作家の海音寺潮五郎は「後小松天皇は義満の子ではないか」という説を唱えた。(海音寺著『悪人列伝』) 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、後小松天皇に関連するカテゴリがあります。 百王説 金戒光明寺 - 「浄土真宗最初門」の勅額を賜る [表示] 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 典拠管理 WorldCat VIAF: 26693300 LCCN: no99010887 NDL: 01182919 カテゴリ: 日本の天皇日本の幼帝南北朝時代の人物 (日本)室町時代の人物1377年生1433年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 Deutsch English Español Français Bahasa Indonesia 한국어 Português Русский 中文 他 16 リンクを編集 最終更新 2017年5月12日 (金) 11:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki