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19路、13路対局ができる、 ネット囲碁対局場です。
無料対局と有料サービスがあります。
不細工で不愛想なサイトですが、一度対局してみてください。

ネット囲碁対局は、場所、時間を選ばないので最適な環境です。ネット対局は適切な組み合わせが重要です。
当サイトは、適切な組み合わせをします。相手がいないときはロボットが相手します。 食わず嫌いになっている碁の普及の一助になればと思っています。
HTML5のみで動作するので、面倒な各種のプラグインやアプリのダウンロードは不要です。JAVAも使いません。
縁台囲碁が見れなくなって久しいです。碁会所は初心者が入りにくく、敬遠されがちです。 身近に、囲碁対局を見る機会が少なくなりました。なんとか復活して欲しいものです。 ここ10~20年で、ネット碁会所がぐっと身近になりました。 端末も飛躍的に進化し、高速になりました。専用のソフトを使わなくても、サクサクと快調に動作する良き時代になりました。
動画配信の進化の恩恵で通信回線が充分太くなりました。通信に要する時間が短くなりましたので、負担が軽くなりました。パケット課金の時代が嘘のようです。

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これに尽きるようです。
詳しく書かれたページの例です。
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ハネもフトコロのうち
ハネにはノビよ
ハネを忘るな三手ヌキ
走りたい方の反対を這え
斜いにノゾクは急所なり
ハスカイにノゾクは急所なり
早逃げは三文の得
広いほうから
ボウシにケイマ
星打ちは勢力重視戦法
星打ちは勢力重視戦法
ポンヌキ30目
封鎖許すべからず
勝ち碁を勝ちきるむずかしさ
カケツギにも向きがある
カケツギはノゾキ注意
亀の甲羅60目
亀の甲60目
亀の甲の尻尾抜け
かなめ石捨てるべからず
歓迎三三入り
カラミ攻めは凌ぎにくい
カラんで攻めよ
カス石逃げるべからず
カス石は捨てよ
ケイマにコスミ
ケイマのツケコシ
ケイマの急所
ケイマのツケコシ切るべからず
ケイマの突き出し
形勢不利なら勝負手探せ
消しは肩から
利かしと悪手は紙一重
利き筋は後まで残せ
利き筋は後まで残せ
切れるところを覗くな
キリチガイ一方をノビよ
キリ一本が勝負のカギ
切った方を取れ
兄弟喧嘩は身の破滅
五目中手は八手なり
呉清源名言集
後手の先手
碁に勝って勝負に負ける
碁の力は局面評価能力と読みの力
碁は封鎖にあり
碁は封鎖にあり
碁は攻めにあり
コスミに妙手あり
コウダテは小さいものから使え
攻撃は最大の防御なり
コウ付き攻め合いは最後にコウを取る
コウは最後に取れ
コウを征するものが勝負を征する
グズミの巧手
車の後押し
車の後押し悪手の見本
車の後押しヘボ碁の見本
クシ形は生き形
くし型はイキなり
惑わされるなハザマトビ
マグサバで力むな
まずコウダテを数えよ
まずコウを取れ
眼あり眼なしも時によりけり
眼あり眼なしは唐の攻めあい
名人の定石知らず
目作りより中央志向
味方の多いところでは妥協するな
耳赤の一手
もたれて攻めよ
模様の接点を探す
模様の削しはカタツキから
模様の接点を見つける
模様の接点逃がすべからず
六目形は生き
力自慢のデギリかな六つに割れたらひとつは死ぬ
中手の形は全部で6型
中手は内外の攻め合い
中手の九九
中地を囲うな
根もとをついで石の下
二段バネ覚えて初段間近なり
二間ビラキは一家をなす
二子にして捨てよ
二目の頭タタかすべからず
二目の頭は見ずハネよ
二線三線余計にはうな
二線ハウべからず
二線は敗線
二線をハウは敗線
二手ヨセはコウにあらず
2の一に手あり
逃げは一間
ノゾキにツガぬ馬鹿はなし
ノゾキにツグバカ、ツガぬバカ
ノゾキに悪手あり
ノゾキにツガぬバカはなし
ノゾキにツグバカ、ツガぬバカ
両バネ利いて一手ノビ
両バネ一手ノビ
両キリのまえにキカセ
両ノゾキはダメヅマリに注意
両先手、逃すべからず
両コウ三年の患い
両ケイ、逃すべからず
HH1
三間に打ち込みあり
三目の真ん中が急所
三目の真ん中は急所
三方カラミにシノギなし
三立四析ヒラキの原則
三手ヨセコウ、コウに非ず
サバキは軽く
サバキはツケ
サバキを許さぬブラサガリ
左右同型中央に手あり
せかして打つ
攻めながら地を取れ
攻めたい石にツケるな
攻めはボウシ_ケイマ
攻めは分断にあり
先手は媚薬
四線勝線
陣笠の悪形
陣笠作って馬脚を出す
地はヨセになってから考えろ
定石の手抜き、許すべからず
定石覚えて二目弱くなり
定石は手筋と形の宝庫
定石おぼえて弱くなる
定石を知って定石を忘れよ
定石は覚えて忘れろ
シチョウを知らずに碁を打つな
シマリの両翼理想なり
シマって打つ
死んだら動くな
シンを止める
死はハネにあり
死活はまず広さ次に急所
初コウにコウなし
損コウたてるべからず
外ダメから詰めよ
外から攻めるは死活の基本
隅の急所は二の一
スソアキ囲うべからず
裾空き囲うべからず
捨てると死ぬとは大違い
ダメ場を地にするな
ダメ場を見極める
ダメのつまりが身のつまり
断点ノゾクべからず
大石死なず
種石とカス石を見極めろ
たたみ込む
手かずをつめるホウリコミ
敵の急所は我が急所
手戻りは避けよ
着手順序決定基準は石の強弱と大きさ
中央の一目は隅の十目に値する
中央を地にするな
力自慢のデギリかな
どちらにもヒラけるワリウチの手段
同線ではツケるな、異線でツケよ
同形は先着に利あり
トックリ形はコリ形
トリ番に回れ
取ろう取ろうは取られの元
ツギは堅ツギが基本
ツケギリ一方をノビよ
ツケコシ切るべからず
ツケにはハネよ
ツケにはノビよ
ツケたらハネよ、ハネたらノビよ
ツキアタリは悪手
包むように攻める
強い方にツケよ
強い石、厚い石に近づくな
強く打つ 囲碁
分からない時は手を抜け
四本鼻叩かすとも三本鼻叩かすな
ヨセのサガリは使用注意
寄せは両先手、片先手、後手の順
四隅取られて碁を打つな
様子を聞くのは高級手段
弱石にツケるべからず
HH1
相手の石を自己の厚みに誘い込め
相手の急所は味方の急所
相手の進出ボウシで止めよ
アキ三角は愚形の見本
浅く消すには、カタツキ・ボウシ
アタリ、アタリのへぼ碁かな
アタリは最後まで打つな
厚いだけでは碁に勝てぬ
厚み囲うべからず
厚味から追うな、厚味へ追え
厚みに近づくな
厚みに追いやれ
厚み地にするべからず
一合マスわかれば五段格
1から始める梅沢由香里の碁
一間トビに悪手なし
1モク這えば10目の損
一にアキスミ二にシマリ
一方地に勝ちなし
一方碁は危険なり
一方地を囲うな
一方石に死になし
一路隣が筋違い
一石に負けなし
一線トンで綱渡り
HH1
一隅二シマリ三ヒラキ
一手ばったり 囲碁
生きている石から動くな
生きている石の近くは小さい
今もすたらぬ一、三、五
石の効率「手割り」で考えよ
石の余力を忘れるな
石取って碁に勝たず
岩見重太郎の牢破り
岩より硬い梅鉢型
大場より急場
追うはケイマ、逃げるは一間
うっかりするなシッポ抜け
梅鉢に負けなし
上手一間、下手コスミ
上手まっすぐ、下手コスム
馬場滋
梅主長江
河燦錫
半田道玄
羽根直樹
羽根泰正
原田実(棋士)
原幸子(棋士)
長谷川章
長谷川知仙
長谷川広
橋本昌二
橋本宇太郎
橋本誼
服部因淑
服部正徹
服部雄節
林朴入門入
林玄悦門入
林裕
林因長門入
林柏栄門入
林家(囲碁)
林門悦
林門入
林門入斎
林門利門入
林元美
林利玄
林佐野
林転入門入
林鐵元門入
林徳蔵
林有美
林祐元門入
林有太郎
ハンス・ピーチ
彦坂直人
平田博則
平田智也
広瀬平治郎
久井敬史
久島国夫
本田邦久
本多政武
本田幸子
本因坊知伯
本因坊道知
本因坊道悦
本因坊道策
本因坊道的
本因坊元丈
本因坊伯元
本因坊丈策
本因坊丈和
本因坊秀策
本因坊烈元
本因坊策元
本因坊算悦
本因坊算砂
本因坊察元
本因坊秀栄
本因坊秀悦
本因坊秀伯
本因坊秀甫
洪清泉
堀本満成
星合八碩
星野紀
細川千仭
堀田五番士
本因坊道策
本因坊秀和
本因坊秀哉
藤井秀哉
藤沢朋斎
藤沢一就
藤沢里菜
藤沢秀行
富士田明彦
藤田梧郎
富紅梅
福田正義
福井正明
藤井博司
梶川昇
梶原武雄
上村邦夫
金沢真
金沢真一
雁金準一
加納嘉徳
加田克司
片岡聡
片山知的
加藤啓子
加藤正夫
加藤充志
加藤信
加藤朋子
加藤祐輝
タラヌ・カタリン
菊池康郎
金秀俊
金寅
桐本和夫
岸本左一郎
喜多文子
北村文男
木谷實
清成真央
清成哲也
許家元
呉清源
後藤則敬
小林千寿
小林泉美
小林鍵太郎
小林光一
小林禮子
小林覚
小林鉄次郎
小岸壮二
小島高穂
小松秀樹
小松快禅
小西和子
古庄玄知
黄孟正
河野元虎
河野臨
黄翊祖
小山栄美
小山鎮男
窪内秀知
久保松勝喜代
工藤紀夫
熊谷本碩
熊本秀生
倉橋正行
倉島竹二郎
黒田俊節
黒田俊節
久下ハインツ倫生
楠光子
桑原陽子
前田陳爾
曲励起
巻幡多栄子
万波佳奈
万波奈穂
増淵辰子
増川宏一
真継伸彦
松本武久
三堀将
三村芳織
三村智保
三谷哲也
光原伊太郎
光永淳造
三宅一夫
宮本直毅
宮坂シン二
宮下秀洋
宮崎志摩子
宮沢吾朗
三好紀徳
溝上知親
水口藤雄
水野弘士
水谷縫次
水谷琢順
水谷琢元
水谷四谷
水谷縫治
森田道博
本木克弥
村松大樹
向井千瑛
向井一男
村上文祥
村川大介
村岡青葉
村瀬秀甫
村島誼紀
長野敬次郎
長坂猪之助
長島梢恵
内藤由起子
中川順節
中川亀三郎
中島美絵子
中村道碩
中村勇太郎
中根鳳次郎
中野寛也
中野孝次
中野泰宏
中小野田智己
中山典之
中川亀三郎
中澤彩子
野上彰
野沢竹朝
沼舘沙輝哉
マイケル・レドモンド
李沂修
林海峰
林漢傑
柳時熏
坂口仙徳
阪口仙得
坂井秀至
酒井猛
酒井通温
酒井安次郎
榊原史子
榊原章二
榊山潤
坂田栄男
桜井知達
佐藤真知子
佐藤昌晴
佐藤直男
瀬川良雄
瀬越憲作
関源吉
関達也
関山仙太夫
関山利一
関山利夫
瀬戸大樹
謝依旻
芝野虎丸
渋川春海
志田達哉
島村俊廣
島陽平
下坂美織
新海洋子
篠原正美
四宮米蔵
白江治彦
白石勇一
白石裕
白川正芳
染谷一雄
孫まこと
苑田勇一
宋光復
杉内雅男
杉内寿子
杉山千和
鈴木歩
鈴木越雄
鈴木伸二
鈴木為次郎
鈴木知清
田口達明
鯛中新
田中不二男
田尻悠人
高林譲司
高部道平
高川格
高川和也
高木祥一
高橋杵三郎
高橋周徳
高橋友碩
田中三七一
高梨聖健
高野英樹
高尾紳路
高崎泰策
高崎泰策
竹田逸子
武宮正樹
武宮陽光
滝沢千晴
玉井伸
田村保寿
田村嘉平
田村竜騎兵
田淵米蔵
谷口徹
谷岡一郎
田岡敬一
出口万里子
寺山怜
知念かおり
陳嘉鋭
茅野直彦
チョ薫鉉
張栩
趙治勲
兆乾
趙南哲
趙善津
伴雄堅魚
伴須賀雄
東野弘昭
外山算節
土田正光
鶴田和志
鶴山淳志
都谷森逸郎
都築米子
藁科満治
山部俊郎
山田規三生
山森忠直
山本源吉
山本賢太郎
山城宏
山下敬吾
山崎外三郎
矢代久美子
安井知哲
安井知得仙知
安井算知
安井算英
安井算哲
安井仙角
安井仙角仙知
安井仙哲
安井春知
安井算知(俊哲)
安井春哲仙角
安永一
依田紀基
楊嘉源
横田茂昭
余正麒
吉田半十郎
吉田美香
吉田操子
吉田操子
吉田美香
吉原由香里
吉和道玄
吉原由香里
湯川恵子
結城聡
結城聡
安倍吉輝
足立盛二郎
安達利昌
相場一宏
相原可碩
赤星因徹
秋山次郎
秋山賢司
秋山仙朴
天坂隆志
青葉かおり
青木喜久代
青木紳一
新井満涌
浅野弥衛
芦田磯子
淡路修三
恵下田栄芳
江崎誠致
一力遼
伊田篤史
井口昭夫
飯塚淳史
今井金江茂
今村俊也
稲葉かおり
稲葉禄子
稲垣兼太郎
井上道砂因碩
井上道節因碩
井上幻庵因碩
井上玄覚因碩
井上因砂因碩
井上因達因碩
井上孝平
井上松本因碩
井上策雲因碩
井上節山因碩
井上春碩因碩
井上春策因碩
井上春達因碩
井上孝平
石田芳夫
石榑郁郎
石井茜
石井千治
石井邦生
石倉昇
石田章
伊藤友恵
伊藤幸次郎
伊藤松和
伊藤子元
伊藤松和
岩本薫
岩佐銈
岩佐ケイ
巌崎健造
岩田達明
井山裕太
伊予本桃市
井澤秋乃
泉秀節
小県真樹
岡田結美子
小川誠子
奥田あや
奥貫智策
小野田千代太郎
大橋拓文
大平修三
王景怡
大窪一玄
王銘エン
大西竜平
王立誠
大澤奈留美
大澤健朗
大沢銀二郎
大竹英雄
大竹亮峯
太田雄蔵
大塚亀太郎
王唯任
大矢浩一
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碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。

相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。

相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。

『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。

対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

ネット碁会所、囲碁対局
フリーソフト
関連語
碁序盤打ち方
ネット碁会所サイト
あれこれ
あれこれ2

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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトも多々あります。










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【Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)】
■
■
GO-NET(ご ねっと)は、ネット碁のシステム。千葉県松戸市に本社をおく株式会社アイ・システムが運営する。
1989年にパソコン通信による日本で最初のネット碁としてサービス開始。専用パソコンソフト「碁熱闘」。その後、当時通信機能を持った唯一のゲーム機セガのメガドライブ(1988年発売開始)を利用した対局システムを提供した。NTTの公衆パケット網にメガモデム(DDX-TP、メガターミナル(INS-P)で接続した。インターネットの普及に伴いインターネット経由のパケットも受け入れるようになった。
日本棋院が推薦、技術協力。
サービス
一般対局、番付形式による年4回の本場所、リーグ戦による順位付け、段級位別の月例トーナメント戦、昇段戦、県対抗のチーム戦、初心者のためのわかばリーグなどの対局システムがある。対局者は実名で利用することが特徴。プロ棋士の井山裕太は入段前に、師の石井邦生との指導対局で利用していた。2006年には井山裕太と会員5人による打ち込み五番勝負を実施。
緑星囲碁学園通信部の制度があり、学園生同士の対局、学園出身プロ棋士による指導対局ができる。
2001-02年に20歳以下の若手プロ棋士によるトーナメント「GO-NET杯新星戦」を開催。優勝者は川田昇平初段(当時)。大会の模様は「碁ワールド」誌2002年1-7月号にも連載された。
他の活動
日本青少年囲碁協会の活動に協力し、アイ・システム社が事務局となっている。アイシステム社のある千葉県松戸市で碁会所「GO-NET囲碁サロン」も経営。
外部リンク
GO-NET
■
IGO AMIGOは、囲碁の若者への普及を目指して作られた、若手のプロ棋士とアマチュア有志による組織。梅沢由香里を中心に2005年に始められた「ゆかりとゆかいな仲間」を母体にして、2006年に発足。囲碁普及のイベントなどを開催。2008年からフリーマガジン『碁的』を発行。
2014年度まではプロ棋士1名と一般アマチュア有志2名が代表幹事を務めていた。プロ棋士の代表は初代が梅沢由香里、2009年から万波佳奈、2014年から王唯任である。
2015年度からはアマチュア有志の代表幹事は1名となっている。
目次 
1	ワークショップ
2	IGO FESTIVAL
3	碁的
4	その他
5	参考文献
6	関連項目
7	外部リンク
ワークショップ
囲碁のルールを知らない入門者から19路盤が打てる級位者まで対応した、コース別ワークショップを毎月1~2回開催している。
会場にはこれまで日本棋院や、比較的大型の碁会所などが用いられている。
IGO FESTIVAL
囲碁普及のイベントと2007年から開催。入門教室の他に様々なイベントが行われる。
第1回は池袋サンシャインシティで行い、約600名が参加。囲碁雑学クイズ、目隠し碁などの企画を実施。
2008年第2回は六本木ヒルズ森タワー東京シティビューで開催。女流九路盤棋戦「妙花」、女性限定入門講座「レディースAMIGO」などを実施。
2009年第3回は六本木ヒルズアリーナで開催。「妙花」、囲碁カフェ、囲碁ピクニック、女性棋士と男性棋士に別れた連碁などを実施。来場者は約3000人。
2010年第4回も六本木ヒルズアリーナで開催。13路盤による「妙花」、九路スタジアム、囲碁カフェ、などが開かれた。張栩による四路盤問題の出題・解説もされた。
2011年第5回は目白の街の8店舗にて開催。音楽、建築、スイーツなどさまざまな分野と囲碁の融合が企画された。同時に「IGO CAMP2011」をお台場東京カルチャーカルチャーで開催。
2012年第6回も目白の街で開催。新たな協力店を含めた9店舗と、椿ホールを会場として行われた。縁日、フレンチなど、昨年同様さまざまな分野と囲碁の融合が企画された。
妙花優勝者
2008年 加藤啓子
2009年 潘坤鈺
2010年 鈴木歩
碁的
2008年10月に創刊。年1号程度のペースで刊行。女性向けの記事が中心。連載コーナーに高梨聖健「恋のダメ詰まり」「愛のモタレ攻め」「恋のぐるぐるまわし」「愛のゆるみシチョウ」がある。第4号では「囲碁ガール」が特集されている。3号以降は女性プロ棋士が表紙を飾っており、3号では万波佳奈、4号では万波奈穂、5号では吉原由香里、6号では、下坂美織である。最新号の2015年の第7号では謝依旻が表紙を飾った。
その他
2009年からは西銀座通りで行われる「銀座柳祭り」の中で「銀座de AMIGO」を開催。
また、2014年からは増上寺を中心に行われる和のフェスティバル、「向源」に参加。
関連組織として、中部地方の「nagoya amigo」、ニューヨークの「NYAMIGO」、ロンドンの「LonAmigo」がある。
参考文献
『碁ワールド』2009年1、12月、2010年12月、2012年1月号
関連項目
堀内和一朗
外部リンク
IGO AMIGO
■
『NHK囲碁講座』(エヌエイチケイいごこうざ)は、NHK出版発行の月刊誌で、1986年から刊行(当初は日本放送出版協会発行)、NHK教育テレビで放送される『囲碁の時間』(2012年からは『囲碁フォーカス』)の囲碁講座、及びNHK杯テレビ囲碁トーナメントの内容、その他の囲碁情報を掲載する。
主な内容
カラーグラビア
テレビ囲碁講座テキスト 発行月の各週の講座のテキスト
NHK杯テレビ囲碁トーナメント 棋譜、解説、写真
少年少女囲碁大会、テレビ囲碁アジア選手権戦、その他プロ、アマチュアの囲碁棋戦の結果、棋譜等
囲碁フォーカス「シリーズ棋士に聞く 敗れざる棋士たち」
各種囲碁講座
段・級囲認定 次の一手
各種エッセイ(棋士、著名人など)
連載記事の単行本化
大島正雄、松田一輝『コミック奥義秘伝囲碁3000年』2000年(1992〜97年連載)
横田茂昭『横田茂昭のこの厚みは星なんぼ?』2010年(2009年連載)
先崎学『先ちゃんの囲碁放浪記 桂馬の両アタリ』2014年(2007年連載)
万波佳奈、万波奈穂『NHK囲碁シリーズ 万波姉妹の明日は勝てるマジカル手筋』2014年(2013年連載)
他多数
外部リンク
NHK出版「NHK囲碁講座」
■
NHK杯テレビ囲碁トーナメント(NHKはいテレビいごトーナメント)とは日本放送協会が主催する囲碁の棋戦である。トーナメント方式で、優勝者には「NHK杯選手権者」(略して「NHK杯」)の称号が贈られ、次期の優勝者にその称号が贈られるまで主にNHKの囲碁番組内などで呼称される。対局はNHKのテレビスタジオで行われ、その模様はNHK教育テレビで毎週1局ずつ放送される(当初はNHKラジオ第2放送)。年度始めの4月に本選の放送がスタートし、年度末の翌年3月に決勝戦が行われる。
優勝賞金は500万円。1988年度からの優勝者と準優勝者はテレビ囲碁アジア選手権戦への出場権を得る。棋譜はNHK出版のテキスト『NHK囲碁講座』に掲載される。
目次 
1	創設と歴史
2	対局ルール
3	名誉NHK杯
4	優勝記録
4.1	歴代優勝者
4.2	優勝回数
4.3	その他記録
5	テレビ放送
5.1	決勝戦
5.2	歴代の司会者
6	エピソード
7	備考
8	脚注
9	参考文献
10	関連項目
11	外部リンク
創設と歴史
1946年からラジオのNHK第2放送で日曜午後1時から、囲碁講座と、大手合の好局の解説を始め、やがて本因坊戦や十番碁も取り上げるようになり、囲碁が定期的に放送されることになった。特別番組として散発的にスタジオでの対局も行われていたが、1953年からトーナメント形式の「NHK杯争奪囲碁トーナメント」として開始。8人の出場者により、持時間50分、秒読み30秒で行い、毎週1時間ずつ、2週に分けて放送された。
第1回は島村利博が優勝、また第2回までで黒番が12勝2敗と優位であったため、第3回からはコミが4目半から5目半に改められた。1956年には放送時間が30分となり、持時間も25分に短縮された。
1961年4月に高川格とアマ本因坊村上文祥によるプロアマ本因坊の二子局が行われ、解説者と聞き手が大盤で解説を行う形で放送された。その後何回か試験的な放送がされ、1962年度第10回からトーナメントもテレビ放送に切り替えられた。1965年には初級者コーナーが作られ、出場者も16名となり、持時間も15分となった。
解説者は初期には長谷川章、棋譜読み上げは本田幸子が勤めた。
出場人数は下記:
第1 - 13回:8人
第14 - 24回:16人
第25 - 28回:26人
第29回 - :50人
対局ルール
互先で先番に6目半のコミが課される。持ち時間は無く、一手30秒の秒読み[1]。ただし途中1分単位で任意の10分間の考慮時間が設けられている。
名誉NHK杯
本棋戦を通算10回優勝すると、七大タイトル戦の名誉称号に相当するものとして、名誉NHK杯の称号が贈られる。2015年度終了時点で、名誉NHK杯の称号獲得者は坂田栄男(故人。優勝11回)のみである。
なお、坂田がNHK杯で打つ際は現在の選手権者同様、坂田名誉本因坊(二十三世本因坊)ではなく、坂田名誉NHK杯と呼ばれていた。
棋士	期	連覇	年
坂田栄男	11期	3連覇	1957-59、61-62、64-65、72、76-77、82
優勝記録
第63回(2015年度)までの最多優勝は坂田栄男の11回であり、次いで大竹英雄、依田紀基、結城聡が5回優勝している。
連覇したのは坂田栄男、依田紀基、結城聡の三人。またこの三人は三連覇も達成している。(坂田は第4~6回、依田は第45~47回、結城は第59~61回で三連覇を達成)。
最年長優勝は第29回(1981年度)の坂田栄男(当時62歳)、最年少優勝は第62回(2014年度)の伊田篤史(当時20歳)である。
歴代優勝者
回数	年度	優勝者	準優勝者
1	1953年	島村利博	高川格
2	1954年	岩本薫	藤沢朋斎
3	1955年	橋本宇太郎	坂田栄男
4	1956年	坂田栄男	藤沢朋斎
5	1957年	坂田栄男(2)	木谷実
6	1958年	坂田栄男(3)	高川格
7	1959年	木谷実	藤沢朋斎
8	1960年	坂田栄男(4)	木谷実
9	1961年	坂田栄男(5)	橋本宇太郎
10	1962年	橋本宇太郎(2)	藤沢秀行
11	1963年	坂田栄男(6)	藤沢秀行
12	1964年	坂田栄男(7)	宮下秀洋
13	1965年	高川秀格	藤沢秀行
14	1966年	橋本昌二	藤沢朋斎
15	1967年	大竹英雄	橋本昌二
16	1968年	藤沢秀行	藤沢朋斎
17	1969年	林海峰	坂田栄男
18	1970年	大竹英雄(2)	石田芳夫
19	1971年	坂田栄男(8)	大竹英雄
20	1972年	大竹英雄(3)	橋本昌二
21	1973年	林海峰(2)	加藤正夫
22	1974年	大竹英雄(4)	武宮正樹
23	1975年	坂田栄男(9)	呉清源
24	1976年	坂田栄男(10)	武宮正樹
25	1977年	林海峰(3)	大平修三
26	1978年	東野弘昭	高木祥一
27	1979年	橋本昌二(2)	趙治勲
28	1980年	藤沢秀行(2)	高木祥一
29	1981年	坂田栄男(11)	杉内雅男
30	1982年	趙治勲	大竹英雄
31	1983年	本田邦久	武宮正樹
32	1984年	橋本昌二(3)	石田芳夫
33	1985年	小林光一	武宮正樹
34	1986年	石田芳夫	林海峰
35	1987年	加藤正夫	王立誠
36	1988年	武宮正樹	小林覚
37	1989年	石田芳夫(2)	大竹英雄
38	1990年	依田紀基	王銘琬
39	1991年	趙治勲(2)	王立誠
40	1992年	依田紀基(2)	加藤正夫
41	1993年	大竹英雄(5)	加藤正夫
42	1994年	小林覚	清成哲也
43	1995年	趙治勲(3)	小林覚
44	1996年	王立誠	小林光一
45	1997年	依田紀基(3)	本田邦久
46	1998年	依田紀基(4)	東野弘昭
47	1999年	依田紀基(5)	今村俊也
48	2000年	石田芳夫(3)	趙治勲
49	2001年	張栩	羽根直樹
50	2002年	三村智保	王立誠
51	2003年	小林光一(2)	趙治勲
52	2004年	張栩(2)	依田紀基
53	2005年	羽根直樹	今村俊也
54	2006年	趙治勲(4)	結城聡
55	2007年	張栩(3)	趙治勲
56	2008年	結城聡	武宮正樹
57	2009年	結城聡(2)	井山裕太
58	2010年	山田規三生	依田紀基
59	2011年	結城聡(3)	羽根直樹
60	2012年	結城聡(4)	井山裕太
61	2013年	結城聡(5)	河野臨
62	2014年	伊田篤史	一力遼
63	2015年	張栩(4)	寺山怜
64	2016年	井山裕太	一力遼
優勝回数
順位	棋士	回数
1	坂田栄男	11回
2	大竹英雄	5回
依田紀基
結城聡
3	趙治勲	4回
張栩
その他記録
初出場優勝(第1回優勝者の島村俊廣を除く)
大竹英雄(第15回、当時25歳)
張栩(第49回、当時22歳)
伊田篤史(第62回、当時20歳)
最低段優勝
張栩(七段)
テレビ放送
手数が長くなった場合、考慮時間や秒読みの時間が大幅にカットされる。
第57回(2009年度)の途中からはオープニングでの司会者の挨拶が廃止され、オープニング映像が終わると即座に先手と後手を決めるニギリが行われて対局が開始されるようになった(カメラ位置の関係から、ニギリの結果によっては、先後が席を入れ替わることもある)。だが第59回(2011年度)からはオープニングでの司会者の挨拶が復活し、代わりにニギリの場面は省略されるようになった。第58回(2010年度)と59回では、両対局者の対局前のインタビューも放送された。
放送時間より早く対局が終わった場合は時間になるまで局後の検討を行うことが多い。時間の余りが多い場合には、過去の対局のVTRを解説付きで放映することがある。
かつては将棋のNHK杯同様畳敷きの和室のスタジオセットの上に座って対局が行なわれたが、第45回(1997年度)より世界戦に合わせ、椅子対局に変更された。なお、対局に使われるテーブルは、通常の六寸盤をはめ込むための穴が開けてある特殊な物である。
画面では黒番の対局者が左側、白番の対局者が右側に来る様になっている。
第61回(2013年度)から、「私の一手」というコーナーがある。対局の放送終了後、勝ったほうの対局者が解説用の碁盤に石を並べ、勝利につながった手や、自分がいい手だったと思った自分の手を紹介する。
決勝戦
決勝戦の放送では司会をNHKアナウンサーが務め、番組冒頭、トーナメント表で勝ち上がりの結果を大まかに伝える。その後、アナウンサーが解説者と聞き手の紹介を行う。アナウンサーが聞き手に番組の進行を引き渡した以降は決勝戦以外の対局と実質的には同じである。番組最後の部分では準優勝者に賞状、優勝者にNHK杯(優勝カップ)と賞状が贈呈される様子を放送し(「NHK杯選手権者」の称号を贈ることは賞状に記されている)、それぞれの対局者が感想を語る。最後に司会者が次期の放送予定を伝えて番組は終わる。
歴代の司会者
放送開始 - 1983年度:大橋俊雄
1984 - 1993年度:小川誠子(一時真門和子が担当)
1994 - 1995年度:原幸子
1996 - 1997年度:梅沢由香里
1998 - 1999年度:穂坂繭
2000 - 2001年度:稲葉禄子
2002 - 2003年度:万波佳奈
2004 - 2005年度:青葉かおり
2006 - 2008年度:中島美絵子
2009 - 2011年度:万波奈穂
2012 - 2014年度:下坂美織
2015年度 - :長島梢恵
エピソード
アタリに突っ込む
第54回(2006年度)の1回戦、中野泰宏九段と石田芳夫九段が対局。中盤、石田に見損じがあり、ヨセに入った段階では黒番の中野が優勢と目されていた[2]。ところが271手目、中野が自らの石のダメを詰め、5子を取られに行くという大失着を犯し(その結果、左辺の大石が全て取られる)、中野は投了した。その際解説の小林光一は「あれ…あっ、えっ!えええっ!…いやいやいやいやいや、いや~!」「いや~、いや凄い見損じだなこれは…」と驚きの声を上げた。
その後この事件は関西棋院発行の囲碁かるたにも「アタリに突っ込むプロもいる」として詠まれた。のちに中野は「目算に集中していて、正しい手を打ったつもりだったが間違えた」「石田先生には本当に申し訳ないことをした」と言っており、関西棋院による自身の棋士紹介ページにも「アタリ事件を忘れないでください」と書いていた時期があった。
名人が欠場
依田紀基は第50回(2002年度)、名人位にあったにも関わらず出場していない。これは、依田がよく対局日に寝坊をし、時間に遅れて来るためと説明されたが、後にこのことで依田とNHK側で主張の食い違いがありトラブルになった。しかしその後和解し、第52回(2004年度)には準優勝を果たしている。
石の下
第58回(2010年度)の2回戦、今村俊也九段対村川大介七段の対局。黒の今村が中盤まで有利に進め、黒優勢と目されていた。ヨセに入り、途中村川が時間つなぎと思われるキリを打った。そこから、今村が白4子を取った後に村川がキリを入れ、黒の4子がまた取り返されるという「石の下」が発生。石の下は典型的な手筋としてよくある形ではあるが、実戦で発生することは大変稀で、解説の横田は「実戦で見たのは初めてですね」と驚いた。ここから形勢が逆転し、白の3目半勝ちとなった。
喫煙
坂田栄男や藤沢秀行などは、対局中喫煙することがあった[3]。
47回(1999年度)には宮沢吾朗が喫煙し、その際「LARK」のパッケージが画面に映された。
備考
2004年10月24日放送予定分は新潟県中越地震に伴う安否確認放送の為、25日 3:00~5:00に放映され更に31日 1:25~3:25に改めて再放送を行った。
CSの囲碁将棋チャンネルでは『NHK杯テレビ囲碁トーナメント選』として1980年代のNHK杯テレビ囲碁トーナメントの対局を放送している(2012年10月現在、月曜日20:00~)。
脚注
^ かつては持ち時間5分の時代もあったが、現在はない。
^ 解説によると、盤面13目差で黒が優勢。
^ 坂田は第29回の杉内雅男戦、藤沢は第37回の加藤正夫戦等で喫煙が確認できる
参考文献
坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年
関連項目
NHK杯テレビ将棋トーナメント
外部リンク
NHK杯テレビ囲碁トーナメント大会
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Smart Game Format
Smart Game Format(SGF)はボードゲームの棋譜保存に使われるコンピュータファイルフォーマットである。
SGFは、Smart Go Board の作者としても知られる Anders Kierulf によって1987年に提案された[1]。その後改良が加えられ、現在一般的に使われているのは1990年代に作られた第4版(FF[4])である。
SGFフォーマットが最も一般に普及しているゲームは囲碁であるが、複数のボードゲームに対応している。SGFが対応している主要なボードゲームには以下のものがある。
囲碁
オセロ
チェス - Portable Game Notation形式が一般的。
連珠
将棋
Lines of Action
バックギャモン
Hex
The Game of the Amazons
Octi
Gess
SGFはゲーム情報の保存に木構造表現を使用するが、この木構造では単純な変化を追加することができる。なお、SGFでは可搬性の向上を理由に、バイナリデータの代わりにテキストベースのデータ形式を採用している。
関連項目
棋譜
脚注
^ David Ormerod (2011-05-01), An interview with Anders Kierulf of SmartGo, Go Game Guru
外部リンク
Arno Hollosi (2006-08-06), SGF File Format FF(4)
Smart Game Format, Sensei's Library
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形(かたち)は囲碁用語で、眼を作りやすい、相手の攻撃を受けにくい、相手を封鎖しやすいなど何らかのメリットがある、部分的に定まった打ち方のことを指す。「ここはこう打つのが形」「形を整えて反撃を狙う」といったように用いられる。
例えば下図の場合、黒1とサガると、白2スベリから4のツキアタリを利かされ、眼形を奪われる。
黒1とカケツイでおけば眼形に不安はなく、後を強く戦える。この場合「黒1のカケツギが形」などと表現される。
またこれと逆に、石の働きが重複して能率が悪い形などを「悪形」「愚形」などと表現する。「形」に従って打つことは絶対ではなく、愚形の妙手というものも存在するが、ある程度の形を身につけることは上達に重要である。
目次 
1	好形
2	愚形
2.1	空き三角
2.2	陣笠
2.3	凝り形
2.4	裂かれ形
3	参考図書
好形
石の働きが重複せず、打ちやすい姿であることを「好形」と表現する。眼が作りやすい、後に相手からの利かしや反撃の余地を与えないなどの状態を指す。
星に三々入りした場合の定石。aとbの2つの断点が生じているが、ここでは黒1とカケツぐのが好形。2つのキリを同時に防いでおり、万一包囲されても眼形が豊富なので心配が少ない。aやbに堅くツぐのは、眼形が少なく、働きに乏しい。
1やaの点に打ってもキリは防げるが、白2のハサミツケなどから下辺侵入の手がかりを与えてしまう。
愚形
好形と逆に、石の働きが重複している姿を「愚形」と呼ぶ。本来広く展開できる石が不必要に固まっている状態などを呼ぶ。
空き三角
 	
上左図が「空き三角」と呼ばれる典型的な愚形。aの点のダメが空いた三角形なのでこの名がある。本来2つ並んだ石からは、上右図の▲のようにトンでも決して切断されることはない。にも拘わらず左図のように隣接させて打っているのは、石の働きがだぶっていると考えられる。が、グズミのように、自らわざとアキ三角を作りに行き、狙いを作る手もある。なおaの点に白石がある場合には「空き三角」とは呼ばず、愚形でもない。
陣笠
白5までの姿は、その形から「陣笠」と呼ばれる。空き三角にさらに石がくっついた愚形。眼形も乏しく、黒に攻撃目標を与えるだけとなる。白5ではaとコウで戦うなどが普通。
凝り形
石が密集し、その効果が重複して効率の悪い形になっていることを「凝り形」と呼ぶ。
白1と二間にヒラくと、黒2とコスミツケられ、白3となる。この場合、白の2つ並んだ石からは本来aくらいまでヒラきたいところであるにも拘わらず(二立三析)、狭く開いてしまっていることになる。これは効率が悪く、「凝り形」ということになる。
裂かれ形
図の形から、例えば隅を守ることだけを考えて黒1・3とツケヒくのは、白4とツガれて黒▲との連絡を自ら断ち切ってしまう。▲は白の強い石に張り付いた形で、自軍の石を自ら弱体化させたことになる。このように、自ら分断されに行くような手を「裂かれ形」と称し、悪形の代表とされる。
参考図書
三村智保『石の形 集中講義―楽に身につくプロの感覚 (MYCOM囲碁ブックス)』2006年
■
アタリは、囲碁用語の一つ。相手の石を完全に囲んで取る一歩手前の状態のこと。次に相手が逃げ出さなければ石を取られることになる。アタリの状態にすることを「アタリをかける」「アテる」などといい、アタリをかける手のことをアテと呼ぶ。
目次 
1	概要
2	様々なアタリ
3	両アタリ
4	格言
5	関連項目
概要
この形から黒がaかbに打った場合、白が次に何もしなければ白石は取られてしまう。つまり黒がaかbに打てば「アタリ」の状態になる。
次に黒がaと打てば中央の白石を取れる。白は取られないためにはaの点に打って逃げる必要がある。
様々なアタリ
図の白石はいずれも次にaに打たれると取られるため、「アタリ」の形である。
両アタリ
2箇所が同時にアタリになる状態を両アタリ(りょうあたり)と呼ぶ。
上図において、白が1に打った事によって二つの黒石が同時にアタリになっている。 黒は両方同時には逃げることはできないので、少なくとも一方の石を諦めないといけない。
格言
アタリアタリのヘボ碁かな……あまり安易にアタリを連打しても、相手を強化させるなどよい結果をもたらさないことも多い。アタリの権利は保留し、その利き筋を見ながら打ち進めるのが、多くの場合得策であるという意味。
関連項目
シチョウ
ゲタ
コウ
オイオトシ
アタリ (企業) - 本用語から取った。
■
厚み (囲碁)
囲碁における厚みとは盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である。「厚味」とも表記する。
「厚み」は「薄み」に対する対義語である。囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手に攻撃される可能性を持っている状態を指す。
これに対して強力な「厚み」は相手からの攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。
目次 
1	概要
2	厚みを囲うな
3	関連・類似用語
4	参考図書
概要
「厚み」を誰もが納得する形で定義することは難しく、打ち手によって解釈は異なる。一つの定義として、横田茂昭は、厚みを「高さ」と「根拠」で計る考えを述べている[1]。ある程度「高さ」がある石は攻められにくく、相手の石を攻める際に武器として働く。また、眼型がはっきりある石は決して死なないので、周りにある相手の石の攻撃拠点となりうる。

これは黒の星に対して白が三々入りしたときの定石の一形である。このワカレ(進行)で白は隅に10目ほどの地を得、それと交換に黒は厚みを得た。この黒石は十分な「高さ」があり、白石がいくつか周辺に近づいてきてもある程度眼型を得やすく、攻められにくい。このため、相手に対する脅威となりうる強力な「厚み」といえる。

例えば白が厚みの近くに1などと打ってきたら、背後から黒2と迫り、以下白が実質のない手を打って中央に逃げる間に、黒は2,4,6などと打って左下の模様を拡大することができる。右下の厚みは強力であり、白石が周囲に増えても攻撃を受ける心配はない。これが厚みの効果である。

右上は小目定石の一つ。黒の一団は中央に向けた「高さ」はそれほどないが、眼型は完全であり、白にいくら周辺を包囲されても全く動揺しない極めて堅い石である。このため、周辺で戦いが起きた時には強力な援軍となる。例えば白1などと近づいてきたら黒2と打ち込み、強硬に戦うことができる。白3,5などと石が加わっても、右上一団には何の心配もないため黒4,6などと打って利得を得ることができる。
厚みを囲うな
囲碁の格言に「厚みに近寄るな」「厚みを囲うなかれ」があり、厚みの近くに打つことを戒めている。例えば上図の場合、黒1と厚みに近い側からツメるのはよくない。せっかくの強力な厚みの周囲に数目の地を作るだけであり、効果が薄い。白2とヒラかれ、安心されてしまう。
この場合黒1と左側からツメて、白2と窮屈なヒラキを強いて黒3,5などと攻めかかる方がよいとされる。白は右方の厚みのためなかなか安定できず、攻めている間に黒は左辺に大きな模様を築くことができる。
関連・類似用語
形容詞として「厚い」という言葉が使われる。上述のような、連絡がしっかりしていて眼型の心配がない強い石を「厚い石」と表現する。また、すぐに相手から厳しい手があるわけではないが、一手かけて完全に心配をなくしておくような手・本手を「厚い手」と表現することがある。また弱い石を作らず、確実に自分の石を固めて攻めを狙う棋風を「厚い碁」と呼ぶ。また形勢を表現する際にも使われることがある。黒がわずかに優勢である場合、「黒の厚い半目勝負」など。
厚みと似た概念に模様・勢力があるが、全く同じではない。
参考図書
^ NHK囲碁講座テキスト2009年10月号
『厚みの百科 よくわかる模様と勢力』日本棋院 『厚みの活用 これだけは (囲碁ブックス)』 誠文堂新光社 2009年
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アテコミは囲碁用語のひとつ。相手の石が斜めに並んでいる(コスんだ形)とき、その両方に接触させるように打って次の切断を狙う手のこと。動詞では「アテコむ」となる。「ガチャン」とも。下図黒1がアテコミの例で、次にaの点にキリを狙う。

目次 
1	アテコミの例
2	関連用語
2.1	アテツケ
2.2	サシコミ
アテコミの例
黒1のアテコミで左右が連絡する。白aなら黒bでワタリ、白bなら黒aでこの石を取れる。
関連用語
アテコミに似た手段で、アテツケやサシコミがある。
アテツケ
黒1がアテツケ。アテコミと類似するが、自分の石から離れた場所に単独で打つニュアンスの言葉。これにより、種石である△白2子が落ちる。
黒1が最も得なヨセ方。AとBが見合いで、連絡している。
サシコミ
黒1のように、三方を相手の石が囲んでいるところに入っていく手を「サシコミ」と称する。
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アマ四強(アマよんきょう)は、1950年代以降に台頭し、長らく活躍した囲碁のアマチュア強豪棋士4名、菊池康郎、平田博則、村上文祥、原田実をさす。
1950年代から1960年代にかけては、各アマチュア棋戦で4名で優勝をほぼ独占。1970年代以降も現在に至るまで、アマチュア棋戦で実績を重ねている。1976年、安永一とアマ四強には、「アマチュア初の七段位」が日本棋院から贈られた。
のちに西村修を含めてアマ五強、三浦浩を含めてアマ六強、中園清三を含めてアマ七強と呼ばれた。彼らはその実績から、アマチュア棋戦で地方予選を免除され「招待選手」として全国大会から出場した。
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荒らし(あらし)とは、囲碁の対局の中で、相手の地になりかかっている場所(模様)に侵入し、地になることを防ぐ手段のこと。多くの場合、深々と侵入して敵陣を蹂躙するイメージの手を指す。
荒らしの例
上図のように、黒陣に白1と打ち込み以下9までと運べば、黒模様であった場所が白地に変わってしまい、荒らし成功となる。
なお、相手が模様を張ってきた場合、「多少囲わせても最終的には勝てる」と判断するのであれば、模様の境界線付近に打って規模を削減するような打ち方もある。これは、「荒らし」ではなく消し(けし)と呼ばれる。
参考図書
石田芳夫『模様の荒らし方 集中講義 ~すぐに役立つ11の法則~』 (マイコミ囲碁ブックス)2007年
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AlphaGo
AlphaGo logo
AlphaGo ロゴ
AlphaGo(アルファ碁、アルファご)は、Google DeepMindによって開発されたコンピュータ囲碁プログラムである。2015年10月に、人間のプロ囲碁棋士を互先(ハンディキャップなし)で破った初のコンピュータ囲碁プログラムとなった[1][2]。
Google Cloud Platformのコンピュータ資源(CPU1202個、GPU176基)を使って学習させている。
2016年3月15日、韓国棋院は、李世乭との五番勝負で3勝(最終的に4勝1敗)を挙げたAlphaGoに名誉九段を授与した。アマチュアに対する名誉段位ではなく、プロとしての名誉段位である[3]。
目次 
1	概要
1.1	囲碁と人工知能
1.2	樊麾との対局
1.3	李世乭との対局
1.4	新バージョンMaster
2	開発チーム
3	アルゴリズム
4	ハードウェア
5	戦績
6	影響
7	脚注
8	関連項目
9	外部リンク
概要
囲碁と人工知能
詳細は「コンピュータ囲碁」、「人工知能」、および「人工知能の歴史」を参照
囲碁は創造的、戦略的思考を必要とする複雑なボードゲームであり[4]、長い間、囲碁は、チェスのようなその他のゲームと比較して人間に勝つのがコンピュータにとってはるかに困難であると考えられていた。これは、チェスなどよりも可能な局面の数がはるかに大きいため、力まかせ探索といった伝統的なAI手法にとって極めて困難なためであった[1]。
2015年より前は[5]、最良の囲碁プログラムはアマチュアの有段レベルに達するのがやっとであった[6]。小さな9路盤(9×9)ではコンピュータは健闘し、一部のプログラムはプロ棋士に対して9路盤で勝利できるが、標準的な19路盤ではプロ棋士に太刀打ちできていなかった[7]。IBMのコンピュータディープ・ブルーがチェス世界チャンピオンガルリ・カスパロフを1997年に破った後、囲碁が人間のアマチュアプレーヤーの強さに達するまでにほぼ20年を要した[8][2][1]。人工知能の分野における多くの人々も、囲碁はチェスよりも人間の思考を模倣するためにより多くの要素を必要とすると考えていた[9]。
AlphaGoはそれ以前のAIの取り組みとはニューラルネットワークを応用している点において最も大きく異なっている。ニューラルネットワークでは、評価経験則が人間によってハードコードされておらず、代わりにプログラム自身によって自分自身との対局を数千万回繰り返すことによってかなりの程度まで学ぶ。AlphaGoの開発チームでさえ、AlphaGoがどのように石の配置を評価し次の手を選択しているかを指摘することはできない。モンテカルロ木探索(英語版)もプログラムの推論効率を改善するための主要な方法として用いられている。
AlphaGoは、それ以前の囲碁プログラムから著しい発展を遂げた。その他の利用可能な囲碁プログラムと対局した500局で、AlphaGoは1局しか負けなかった[10]。
樊麾との対局

樊麾対AlphaGo – 第5局
AlphaGoは2015年10月に、ヨーロッパ王者でプロ二段の樊麾(英語版)を5-0で破った。AIが人間のプロ棋士をハンディキャップなしの19路盤で破ったのはこれが初めてであった[11][12]。一部の解説者は樊麾と李世乭(プロ九段)との間の実力の差を強調した[13]。コンピュータプログラムのZenとCrazy Stone(英語版)はこれ以前に九段のプロ棋士を4子のハンディキャップ付きで破っていた[14][15]。カナダのAI専門家ジョナサン・シェーファー(英語版)は、樊との対局後に論評し、AlphaGoを未熟な「神童」と比較して、「プログラム(AlphaGo)が真にトップの棋士と対局した時が本物の成果となるだろう」と考えた。シェーファーは、2016年3月の対局では李が勝利するだろうと考えた[12]。プロ棋士で国際囲碁連盟事務局長の李夏辰(英語版)は、AIが李に挑戦する見通しに「非常に興奮している」と意見を述べ、両者に等しく勝利する機会があると考えた[12]。
囲碁の専門家は樊に対するAlphaGoの打ち手、特に盤全体の意識の欠如に関連した点にミスを見出したが、李との第1局の前は、10月以降にどの程度プログラムが改善されたかは未知であった[16][17]。Google DeepMindのデイヴィッド・シルバーは、AlphaGoは李の以前の棋譜を使って特別に鍛えられてはいないと述べた[18]。
プログラムに用いられたアルゴリズム[2]について記述したNature誌に掲載される論文の発表と合わせるために、このニュースの発表は2016年1月27日まで遅れた[19]。
李世乭との対局
詳細は「AlphaGo対李世ドル」を参照
AlphaGoは、2016年3月に数多くの世界戦優勝経験のあるプロ棋士李世乭(九段)に挑戦した[20]。結果は、4勝1敗と勝ち越した[20]。
新バージョンMaster
2017年初頭、ネットの囲碁対戦サイトに「Master」を名乗る打ち手が出現、日中韓のトップ棋士を相手に60戦無敗という驚異的な戦績を挙げて話題を集めた。1月5日になり、開発者デミス・ハサビスはツイッターにて、MasterはAlphaGoの新バージョンであることを明かした[21]。これらの対戦は非公式なテストであり、2017年内に本格的な公式戦を行なう方針としている。
開発チーム
AlphaGoについて書かれた原著論文「Mastering the Game of Go with Deep Neural Networks and Tree Search」には以下の20名が著者として名を連ねている。コレスポンディング・オーサー(連絡著者)は筆頭著者のデイビッド・シルバーと最終著者のデミス・ハサビスであるが、論文冒頭に「本研究における各著者の貢献度は等価である」と記されている。Google本社に所属する2名を除く特記無き全員がGoogle Deepmind社の所属である[22]。
デイビッド・シルバー / David Silver 
黃士傑 / Aja Huang 
クリス・J・マディソン / Chris J. Maddison
アーサー・ゲズ / Arthur Guez
ローレン・シフレ / Laurent Sifre
ジョージ・ヴァン・デン・ドリエッシェ / George van den Driessche
ユリアン・シュリットヴィーザー / Julian Schrittwieser
イオア二ス・アントノグロウ / Ioannis Antonoglou
ヴェーダ・パンニールセルヴァム / Veda Panneershelvam
マルク・ランクトー / Marc Lanctot
サンデル・ディーレマン / Sander Dieleman
ドミニク・グレーヴェ / Dominik Grewe
ジョン・ニャム / John Nham (Google)
ナル・カルヒブレンナー / Nal Kalchbrenner
イリヤ・サツケヴァー / Ilya Sutskever (Google)
ティモシー・リリクラップ / Timothy Lillicrap
マデリーン・リーチ / Madeleine Leach
コーライ・カヴァキュオグル / Koray Kavukcuoglu
ソーレ・グリーペル / Thore Graepel
デミス・ハサビス / Demis Hassabis
アルゴリズム
AlphaGoは、ディープニューラルネットワークを用いて実装された「value network」と「policy network」によって動くモンテカルロ木探索(英語版)を用いる[1]。AlphaGoは当初、棋譜に記録された熟練した棋士の手と合致するよう試みることで人間のプレーヤーを模倣するように訓練され、次に、ある程度の能力に達すると、強化学習を用いて自分自身と多数の対戦を行うことでさらに訓練された[1]。
ハードウェア
設定と性能
配置	スレッド検索数	CPU数	GPU数	イロレーティング
単独	40	48	1	2,151
単独	40	48	2	2,738
単独	40	48	4	2,850
単独	40	48	8	2,890
分散処理	12	428	64	2,937
分散処理	24	764	112	3,079
分散処理	40	1,202	176	3,140
分散処理	64	1,920	280	3,168
戦績
vs樊麾 5勝0敗(非公開対局)
日付	結果	先番	相手
2016.3.9	中押し勝ち		李世乭
2016.3.10	中押し勝ち	△
2016.3.12	中押し勝ち	
2016.3.13	中押し負け	△
2016.3.15	中押し勝ち	
※AlphaGoから見た結果
影響
囲碁は以前は当時のテクノロジーでは力の及ばない機械学習における難問であると見なされていたため、AlphaGoは人工知能研究における画期的な進展として歓迎されている[23][24]。コンピュータ囲碁研究の結果は、認知科学、パターン認識、機械学習といったその他の同様の分野に応用されている[25]。
囲碁が盛んな韓国ではAlphaGoが人間を超え韓国・中国・日本のプロに60連勝するほどの強さになっていることから、囲碁人気が低下していると朝鮮日報に報じられた。「アルファ碁が(プロ棋士に)60連勝してからは、テレビで囲碁の対局は見なくなった」「好手、悪手についてのプロ棋士の解説は信じられない」「人間が何千年もかけて築いてきた囲碁の定石が崩壊した」といった反応があった[26]。
脚注
^ a b c d e “Research Blog: AlphaGo: Mastering the ancient game of Go with Machine Learning”. Google Research Blog (2016年1月27日). 2016年1月29日閲覧。
^ a b c “Google achieves AI 'breakthrough' by beating Go champion”. BBC News (2016年1月27日). 2016年1月29日閲覧。
^ “囲碁AIに「名誉九段」授与=韓国棋院=”. 朝鮮日報 (2016年3月15日). 2016年3月15日閲覧。
^ “[Breaking AlphaGo victorious once again”]. (2016年3月10日) 2016年3月11日閲覧。
^ Silver, David; Huang, Aja; Maddison, Chris; Guez, Arthur; Sifre, Laurent; van den Driessche, George; Schrittwieser, \tJulian; Antonoglou, Ioannis et al. (2016-01-28). “Mastering the game of Go with deep neural networks and tree search”. Nature.
^ Wedd, Nick. “Human-Computer Go Challenges”. computer-go.info. 2011年10月28日閲覧。
^ 日本棋院が協力する電聖戦では4子から3子のハンディキャップを付けていた
^ “Computer scores big win against humans in ancient game of Go”. CNN (2016年1月28日). 2016年1月28日閲覧。
^ Johnson, George (1997-07-29), “To Test a Powerful Computer, Play an Ancient Game”, The New York Times 2008年6月16日閲覧。
^ “Google AlphaGo AI clean sweeps European Go champion”. ZDNet (2016年1月28日). 2016年1月28日閲覧。
^ “Google achieves AI 'breakthrough' by beating Go champion - BBC News” (2016年1月27日). 2016年1月28日閲覧。
^ a b c Elizabeth Gibney (27 January 2016), “Go players react to computer defeat”, Nature, doi:10.1038/nature.2016.19255
^ “AlphaGo defeats Lee Sedol in first game of historic man vs machine match”. Go Game Guru (2016年3月9日). 2016年3月9日閲覧。
^ “Zen computer Go program beats Takemiya Masaki with just 4 stones!”. Go Game Guru. 2016年1月28日閲覧。
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^ Dana Mackenzie (9 March 2016). “Update: Why this week’s man-versus-machine Go match doesn't matter (and what does)”. Science. doi:10.1126/science.aaf4152.
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^ チョン・ヒョンソク (2017年3月12日). “原因は「アルファ碁」!?韓国で囲碁人気失速”. 朝鮮日報. 2017年3月14日閲覧。
関連項目
DQN (コンピュータ) - Google DeepMindが開発した人工知能
外部リンク
AlphaGo公式サイト
■
家プロジェクト

「はいしゃ」右側面より見る(大竹伸朗)
家プロジェクト(いえプロジェクト)は、香川県香川郡直島町・本村地区において古民家を改装し、現代の芸術家が家の空間そのものを作品化(インスタレーション)した7つの建築からなるプロジェクト。
目次 
1	概要
2	作品群
2.1	角屋 (直島町)
2.2	南寺
2.3	きんざ
2.4	護王神社
2.5	石橋
2.6	碁会所
2.7	はいしゃ
3	脚注
4	参考文献
5	関連項目
6	外部リンク
概要

角屋(山本忠司&宮島達男)1998年
1997年、直島でも古くから存在する集落のひとつである本村地区に現存していた古民家を改修・改造し、現代美術作品に変えてしまおうという試みで、ベネッセの福武總一郎の考案した直島プロジェクトの一環として企画、立案、実行された。本村地区にはおよそ300年ほど前から栄えていた古い町並みが残り、焼杉板張りの黒ずんだ古民家の立ち並ぶたたずまいが独自の風情をかもし出していた。そこに現代美術のネットワークを展開させたものである。プロジェクトには安藤忠雄をはじめ、宮島達男、内藤礼、杉本博司、ジェームズ・タレルなどが参加した。
1986年、福武書店社長であった父の急逝に遭遇した總一郎は、東京から岡山の本社へ戻ることになる。大都市から地方都市岡山へ戻った總一郎は、当初こそ、その環境の大きな落差に戸惑うが、数ヶ月もしないうちに東京にいないことの幸せを心底から感じるにいたる。總一郎の目には、歴史もなく自然も存在しない東京は「人間」の欠けた都市と映り始めた。岡山への帰郷は、その数年後に社名を「ベネッセ」(「よく生きる」の意味)に変更するほどに、總一郎に大きな影響をもたらせた。

南寺(安藤忠雄&ジェームズ・タレル)1999年
そうした中で總一郎が手がけたプロジェクトのひとつが、直島であった。先代が抱いていた夢のひとつに、瀬戸内海に浮かぶ小さな島「直島」に子供たちのためのキャンプ場を作りたい、という構想があった。遺志を引き継いだ總一郎は、建築家・安藤忠雄に出会う。東京の建築家には最初から依頼する意思はなかった。初対面の居酒屋で意気投合した二人は、1989年、直島国際キャンプ場をオープンさせる。第2期工事の開始のころには、總一郎の構想はまとまっていく。それが「現代美術と自然と歴史」の融合であった。1992年にはスィートルームを完備したホテルと美術館を融合させたベネッセハウスのミュージアムが完成する。これは世界でも例を見ない珍しい試みであったが、過疎の島に現代美術を置くのも世界初の出来事であった。
アートが主張するのではなく、あくまでも人間が主役であり、アートが自然や歴史の持っている良さを引き出すべきとの總一郎のテーゼは、やがて1997年のこの「家プロジェクト」に結実する。長い歴史があるにもかかわらず、歴史の痕跡の薄く、経済が目的化している日本の文明史観に挑戦したいとの總一郎の思いから始まった企画である。直接のきっかけは直島町役場からの一本の電話である。本島地区の民家の所有者が家屋を譲りたいが、どうかというものであったが、廃屋利用の可能性のひとつとして現代アートとの融合を考えた。
その後、2004年にはクロード・モネ、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレルの3名の作品を収めた地中美術館が建設されるにいたる。
作品群
家プロジェクトは、以下の7軒の建築およびそれを利用したインスタレーション作品群により構成される。

護王神社

石橋(千住博、秋元雄史)2006年、2009年

碁会所

はいしゃ 正面(大竹伸朗)2006年
角屋 (直島町)
家プロジェクトの第1弾。200年ほど経過した家屋を、焼板、漆喰、本瓦を使用し復元。山本忠司が建築を担当。屋内には宮島達男の3つの作品が置かれる。暗い内部に張られた浅い池の底からカウンターで発行するLEDのさまざまな色の朧な光が浮かび上がる作品、「シー・オブ・タイム」(「Sea of Time '98」)- この作品の制作には町の人々も参加している。土間の壁には液晶ガラスに透明な数字がランダムに変化していく「ナオシマ・カウンター・ウィンドウ」(「Naoshima's Counter Window」1998年)が、さらに蔵の奥には山水画の上に彩色を施した作品「チェンジ・ランドスケープ」(「Changing Landscape」1999年)がある[1]。
南寺
明治時代まで「南寺」という寺院が実在していた場所に安藤忠雄が設計を担当し、新たに建てられた建物。内部のジェームズ・タレルの作品のサイズにあわせ設計されている[2]。 展示作品:ジェームズ・タレル
「Backside of the Moon」1999年
きんざ
築百数10年の小さな家屋を屋根、柱などの構造体には手を加えずに、家屋それ自体、外壁も含め作品化したもの。内部には内藤礼の作品「このことを」がある。内覧は完全予約制で、1名ずつ内部に入り鑑賞する。開館日は金曜日、土曜日、日曜日、祝日のみである[3]。
護王神社
海を見下ろす高台にある江戸時代から祀られる神社。改築の際に、新たな社殿を杉本博司が設計。本殿および拝殿は、伊勢神宮などの神社建築の初期様式を参考にしているが、作家独自の美意識が反映されている。真っ白な敷石とガラスの階段が特徴的。本殿と石室とはガラスの階段で結ばれ、地下と地上とを一体化している[4]。
石橋
明治時代に製塩業で栄えた石橋家住宅。特に新しく装われることはなく、家そのものの再建に重点がおかれている[5]。
展示作品:千住博
「ザ・フォールズ」2006年
「空の庭」2009年
建築・空間設計:千住博、秋元雄史
碁会所
この名称は、昔、碁を打つ場所として島民が集まっていたことに由来する。須田悦弘により、建物全体を作品空間として制作・復元され、建物内部には速水御舟の「名樹散椿」からヒントを得て創作された作品「椿」が展示される。庭には実物の五色椿が植えられる。2006年の作品[6]。
はいしゃ
かつて実際に歯科医院兼住居であった建物を、大竹伸朗が作品化したもの。廃屋的な風情を強調した建物内部には、自由の女神のオマージュ作品などが置かれる。作品名「舌上夢 / ボッコン覗」(2006年)。修復監修は秋元雄史、本多忠勝[7]。
脚注
^ http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/kadoya.html
^ http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/minamidera.html
^ http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/kinza.html
^ http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/gooshrine.html
^ http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/ishibashi.html
^ http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/gokaisho.html
^ http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/haisha.html
参考文献
「直島 瀬戸内アートの楽園」(新潮社)
関連項目
瀬戸内国際芸術祭2010
地中美術館
ベネッセハウス
外部リンク
瀬戸内国際芸術祭
ベネッセアート
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囲碁(いご)とは、2人で行うボードゲームの一種。交互に盤上に石を置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを争う。単に碁(ご)とも呼ばれる。
目次 
1	概要
2	歴史
3	用具・用具に関係する囲碁用語
4	ルール
4.1	着手に関するルール
4.2	置碁
4.3	死活に関するルール
4.4	勝敗に関するルール
5	対局の進行
5.1	序盤
5.2	中盤
5.3	終盤
6	基本戦略
6.1	布石
6.2	石の形
6.3	厚み
6.4	石の働き
7	競技としての囲碁
7.1	段級位制度
7.2	囲碁の大会
7.3	プロ組織
8	競技人口の概要
9	囲碁と数学
10	文化における囲碁
10.1	囲碁の別称とその意味
10.2	囲碁に由来する慣用表現
10.3	囲碁を扱った作品
10.3.1	文芸
10.3.2	映画
10.3.3	文楽・歌舞伎
10.3.4	漫画
10.3.5	落語
10.3.6	その他
11	参考文献
12	脚注
13	関連項目
14	外部リンク
14.1	囲碁入門
概要
2人のプレイヤーが、碁石と呼ばれる白黒の石を、通常19×19の格子が描かれた碁盤と呼ばれる板へ交互に配置する。一度置かれた石は、相手の石に全周を取り囲まれない限り、取り除いたり移動することはできない。ゲームの目的は、自分の色の石によって盤面のより広い領域(地)を確保する(囲う)ことである。
アブストラクトゲーム、ボードゲームの一種で、ゲーム理論の言葉で言えば二人零和有限確定完全情報ゲームである[1]。勝敗は、より大きな地を確保することで決定される(#勝敗に関するルール)。ゲームの終了は、将棋やチェスと同じように、一方が負けを認めること(投了という)もしくは双方の「もう打つべきところがない」という合意によって行われる。他のボードゲームと比較した場合の特異な特徴は、ルール上の制約が極めて少ないこと、パスが認められていることが挙げられる。
発祥は中国と考えられ、少なくとも2000年以上前から東アジアを中心に親しまれてきた。そうした文化・歴史の中で爛柯(らんか)をはじめとしたさまざまな別称を持つ(#囲碁の別称とその意味)。日本でも平安時代から広く親しまれ、枕草子や源氏物語といった古典作品にも数多く登場する。戦国期には武将のたしなみでもあり、庶民にも広く普及した。江戸時代には家元四家を中心としたプロ組織もでき、興隆の時期を迎えた。明治以降も引き続き広く親しまれ、近年ではインターネットを経由して対戦するネット碁も盛んである。
西洋的な価値観からはチェスなどと同様マインドスポーツ(つまり競技)でもあり、国際囲碁連盟は国際オリンピック委員会が承認する国際スポーツ団体総連合に加盟し、五輪競技としての採用を目指している。中国・広州で開催される2010年アジア競技大会では競技種目として採用された。
日本では古くから親しまれ、駄目、布石、捨て石、定石など、数多くの囲碁用語は、そのまま日本語の慣用句としても定着している(#囲碁に由来する慣用表現)。
歴史
詳細は「囲碁の歴史」を参照
「碁」という字は本来は「棋・棊」の異体字で、意味も発音も同じだった。現在も中国では「围棋(圍棋)」と書く。日本漢字音での「ゴ」と「キ」の音の違いは呉音と漢音の違いに由来する。
囲碁の実際の起源ははっきりとはわかっていない。少なくとも春秋時代には成立していたようで、『論語』・『孟子』の中には碁の話題が出てくる。中国碁は前漢時代17路盤であったと考えられている。
伝統的な中国碁は、盤上に多くの石を載せたほうが勝ちというルールであった。
初期の碁石は、唐宋期のものが残っている。
その後5世紀には朝鮮へ、7世紀頃に日本に伝わったとされる。そのころから日本の貴族を中心に広く遊ばれ、正倉院には碁盤と碁石が収められている。清少納言や紫式部も碁をよく打ったとされ、枕草子や源氏物語中にも囲碁と思われるものが登場する。
室町時代末期からは碁打ちが公家や武将に招かれるなどの専業化も進むとともに、それまでの事前置石制から自由布石への移行も起こった。戦国時代には戦国武将たちに大いに好まれ、織田信長に日海(本因坊算砂)が名人の称号を許されたと言われる[2]。江戸時代には幕府から家禄を受ける家元制度が成立し、囲碁の技術が飛躍的に向上するとともに、将軍御目見えによる御城碁が行われたり、碁会所が生まれるなど庶民の娯楽としても定着した。
1999年ごろには漫画『ヒカルの碁』の影響で若年層にも囲碁ブームが生まれた。
囲碁は日本のみならず韓国、北朝鮮、中華人民共和国、台湾などでも盛んに行われ、その他にも北アメリカ・南アメリカ、ヨーロッパなどでも行われている。今日、囲碁は世界80ヶ国以上で打たれており、世界選手権も行われている。
レジャー白書によると、日本の囲碁人口は2013年で推計280万人である。2013年の年齢別構成は男+女合計で10歳代11.8%、60歳以上8.1%であった。
用具・用具に関係する囲碁用語

碁盤

碁石
碁盤
板の上に、直交する縦横それぞれ同じ本数の線分を引いたもの。碁石を置くのは縦線と横線の交点である。一般に、縦横19本ずつの19路盤が使われる。初心者向け、お好み対局向けに13路盤や9路盤、7路盤や6路盤もある。古来使用されたものには17路盤も存在した。
線は最も外側にあるものから順に第1線、第2線、第3線……のように呼ぶ。また第4線の交点や辺の中間、碁盤の中心にある黒点を星と呼び、19路盤の場合、9つある(右図参照)。碁盤の中央にある星を特に天元という。
碁盤の交点座標は、先手の黒から見て、横の座標を左から右に1~19の算用数字で、縦の座標を上から下に一~十九の漢数字で表すことが多く、これは数学の直交座標系における第四象限と考えるとわかりやすい。この場合、右上隅の星は「16の四」、天元は「10の十」と表現する。
座標については、上述の表記が最も伝統的なものであり新聞や雑誌でももっぱらこの表記法が用いられるが、海外の囲碁ファンの増加などもあり算用数字とアルファベットで座標を表現することもある。ただし、その表現方法は統一されていない。横の座標はアルファベット、縦の座標は算用数字を用いるが、「数字の1とアルファベットのIの混合を避けるために、Iを用いないかどうか」、「数字の0とアルファベットのOの混合も避けるために、Oも用いないかどうか」、「縦の座標を上から下にとる(直交座標系における第四象限)か、下から上にとるか(同じく第一象限)」は場合によってまちまちである。
碁石
単に石ともいう。黒・白の二色あり、合わせて碁盤を埋め尽くせる数(黒181、白180)だけ用意される(グリーン碁石と呼ばれる、濃い緑と薄い緑の二色のものもある)。碁石を入れる器を碁笥(ごけ)と言う。盤上の碁石を数える時の単位は「子(もく)」であり、一つを一子(いちもく)、二つを二子(にもく)などと表す[3]。しかしながら、囲碁特有の読み方であるため、「子」が「し」と読まれることもある。「子(もく)」ではなく「目(もく)」の字を当てることもある。
ルール
詳細は「囲碁のルール」を参照
囲碁のルールには、いわゆる日本ルールと中国ルール、中国ルールを元に台湾で考案された計点制ルールなどがある。いずれもゲームの進め方や勝敗の判定に大きな違いはないが、細かい違いはある。以下は日本ルール(日本棋院と関西棋院による日本囲碁規約)を元に説明する。
主なルールは5つ。
碁盤の線の交差部分に黒と白が交互に打つ。
地(自分の領域)の多いほうが勝利。
相手の石は上下左右を囲うと取れる。
着手禁止点(自殺手)
コウ
着手に関するルール
黒、白の対局者が交互に自分の石を盤上の交互に着手する。着手した石は、取られない限りそこから動かしてはならない。
相手の石を縦横に隙間なく取り囲むと、ハマとして取ることができる。取ることができるようになった石は、着手の後に盤面から取り除かなければならない。下図の場合、黒がそれぞれ1と打った場合、△の白が取り上げられる。取られる1手前の状態を「アタリ」と言い、下図の白石はそれぞれアタリの状態である。
自殺手は禁止(自ら取り囲まれた状態にする手の禁止)。たとえば下図で白が左上aや右上bに打つのは反則となる(黒からは打ってよい)。ただし、その石を打った時点で相手の石を取ることができる場合は例外である。左下cや右下dに打てば▲の黒が取れるため、ここに白が打つのは反則にならない。
石を取るルールと自殺手の禁止のルールによって、囲碁では下図のような石の配置には決してなり得ない。
自分が打つことによって、相手が打った直前の局面に戻してはならない。下図の形で、黒がaに打てば△の白石を取り上げることができる。
しかしその直後、今度は下図のように黒1子がアタリとなっている。白がbに打って黒石を取り返すと、上図の形に戻ってしまう。この形をコウ(劫)と呼ぶ。 これを繰り返すと永遠に対局が終わらないため、同一局面の反復は禁止とされている[4]。つまり上図で黒がaと取った直後に、白がbと取り返すのは反則となる。詳しくはコウの項目を参照。
置碁
囲碁におけるハンディキャップ戦として置碁がある。これは実力が下位のものが黒を持ち、あらかじめ盤上に黒石を置いた状態でスタートするものである。あらかじめ置かれた石を「置石」という。実力差によって、置石は普通2子から9子の範囲で調節される。詳しくは置碁の項目を参照。
死活に関するルール
「死活」も参照
先に述べた着手禁止点のルールから、二ヶ所の離れた空間(眼と称する)を持った石は、決して取り上げることができないことになる。たとえば下図左上の黒は周辺をびっしりと白に囲まれているが、白からはaにもbにも打てないのでこの黒の一団を取り上げることができない。この場合、「黒は生きている」という言い方をする。すなわち、眼を2つ(二眼)作ることができればその石は生きになる。
なお、下図右下の黒は独立した2ヶ所の眼を持っているわけではないため、白からcとdに打って取ることができる。これは二眼ではなく、黒は「死に」ということになる。
自分がどう打っても相手が正しく対応すれば二眼を作ることができない石の一団は「死に」である。終局後に、死んでいる石はハマに加えられる。
特殊なケースとして、両方ともに二眼がないが、互いに手出しできない形がある。これは「セキ」と呼ばれ、双方とも生きとして扱われる。詳細はセキの項目を参照。
勝敗に関するルール
相手の石が中に入り込んで生きることのできない、自分の石の一団に囲まれた領域のことを地と呼ぶ。
地の面積とハマの数の和の大小によって勝敗を争う。形勢判断などでは、この和の数値のことを地というため、たとえば、黒地○○目、白地○○目などというときは、この和のことを言う。下図は9路盤での終局図の一例。▲の黒石は生きられないため、「ハマ」として取り上げられ、黒地に埋められる。左上から左下に広がった黒地はこれを埋めて29目、右上から右下を占拠した白地は23目で、この場合「黒の盤面6目勝ち」となる。
ただし囲碁では先番の黒が有利であり、その分のハンディとして「コミ」が設定されている。多くの場合コミは6目半とされており、この分を白地に足して計算する。つまり上図では白が29目半になるので、コミを入れて計算した場合「白の半目勝ち」ということになる。
以前のルールでは、これ以上は打っても得をする場所がないと双方が認めて合意すると「終局」となり、その後でダメ(打っても得をしない箇所)を埋めて互いの地を数えることとされていた。しかしトラブルがあったために2006年にルールが改変され、ダメしか残っていなくても、全てダメを埋めてからでないと終局することができないとされた(インターネット対局では、双方がパスをすることによって終局とするケースが多い)。
対局中に三コウ以上の多元コウ、長生、循環コウが発生し、双方譲らず同型反復となった場合、対局は無勝負扱いとなる。詳しくは「コウ」の項目を参照。
対局の進行
序盤
通常、対局が始まるとしばらくは布石が行われる。大体の場合は碁盤の四隅に打つことから始まる。なお、初手を四隅に打つ場合は、白番(上手)が右手で打ちやすい隅を残すため、慣例的に右上隅に打つ。
三々(さんさん)
碁盤の隅から3・3の位置のこと。地に対して最も堅い手であるが中央への働きが弱い。
小目(こもく)
碁盤の隅から3・4あるいは4・3の位置のこと。古来から布石の基本とされる。
星(ほし)
碁盤の隅から4・4の位置のこと。現在の布石の花形。また置碁ではこの位置に石を置いて打ち始める。
目外し(もくはずし)
碁盤の隅から3・5あるいは5・3の位置のこと。相手の作戦をくじくための物として打たれることが多い。
高目(たかもく)
碁盤の隅から4・5あるいは5・4の位置のこと。目外しと同じように使われるが、目外しより多少地に甘く(意識が低い)、中央重視の場合に打たれる。
五ノ五(ごのご)
碁盤の隅から5・5のこと。打たれる頻度はかなり低い。
大高目(おおたかもく)
碁盤の隅から4・6、あるいは6・4の位置のこと。
天元(てんげん)
碁盤の中心。中心に打つため四方全ての向きからのシチョウに有利とされるが、五の五・大高目とともに未だあまり研究がなされていない。五の五同様、打たれる頻度はかなり低い。
近年では隅の着点は小目と星が全体の8割以上を占め、高目や目外しなどの位の高い着点はやや特殊な打ち方とされる。これはその他の隅の占め方(打ち方)が、地に甘いとされているからであり、現代は実利が重視されているということを表しているともいえる。しかし、実利が重視されているといっても、最も地に辛い(重視する)三々は目外しよりも打たれる頻度は低い。これは碁が、単に地を奪い合えば良いというだけのゲームではないことの表れであろう。
以下は19路の布石の例である。
二連星(にれんせい)
隣接する二つの隅の星を占める布石のことを指す。黒白問わずよく打たれ、特に白番での使用例が増えている。
三連星(さんれんせい)
二連星の間の辺の星をさらに占めた布石。基本的に実利にとらわれず、中央を目指す碁になる。武宮正樹九段が愛用する布石。
中国流(ちゅうごくりゅう)
隅の星と内側向きの小目に、さらにその間にある星脇(右上を星、右下を小目とすると、辺の星の一つずつ右・下に位置するところ)(小目から見て五間ジマリ)に並べられた布石。打ち出したのは日本人だが、大会で中国の若手が一様に使用しこの名前がついた。お互いの応手により実利・厚みのどちらにも転換することが可能。ただし、戦いになると一本調子になるところがある。加藤正夫などが愛用した。
高中国流
話し言葉の上では「たかいちゅうごくりゅう」と呼ばれ、書き言葉では普通「高中国流」。中国流との違いは辺の石が第三線ではなく、第四線にあることである。そのため実利より戦いを求める布石になる。地に甘いため2000年以降は打たれることが少なくなっている。
ミニ中国流(みにちゅうごくりゅう)
原型は本因坊道策の時代から打たれている。自分の小目の先にある相手の隅の星に小ゲイマガカリして受けさせた後、星脇にヒラく。この星脇の石と小目の位置関係からこの名前が付いた。1990年代から日本・中国・韓国で主に研究され、流行している布石である。
中盤
中盤は死活の絡んだ戦いになる。互いに死活がはっきりしていない弱い石を意識しながら打ち進める。攻め、サバキ、シノギの技量が問われる。
中盤は、もっとも作戦が富んだところである。基本的な構想をいくつか挙げると、
自分の模様を広げる。模様に手を入れて地模様にする。
相手の模様を制限する(模様を「値切る」という)。
相手の模様に打ち込んで生きる。
自分の弱い石を守る。
相手の弱い石を攻撃することで利益を得る(相手の石を取る、相手の石をイジメながら別の石を取ったり、厚みを築いたり、確定地を作ったりする)。
自分の石を捨てて(相手に取らせて)別のところで利益を得る(捨て石あるいはフリカワリ)。
などがある。高等戦術の例として、自分の模様に隙を残しておいてあえて打ち込ませ、イジメながら各所で得を図ったり、序盤は地で先攻し(必然的に相手は厚みで対抗する)、相手の模様が完成する直前に打ち込みで荒らす手法などがある。
終盤
ヨセは双方共に死活の心配がなくなり、互いの地の境界線を確定させる段階を指す。ただしヨセは必ずしも終盤に起こるものではなく、局面によっては序盤・中盤のように手数が少ない場合でも大ヨセが打たれることがある。互いの地に、およそ20目以下10目以上の差がつくヨセを大ヨセ、およそ10目以下を小ヨセと呼ぶ。
序盤・中盤・終盤には明確な区別はなく、ほとんど序盤のないまま戦いに突入したり、ヨセに入ってからの駆け引きで中盤に逆戻りすることもある。
基本戦略
大まかに囲っている地域(これを模様という)と最終的な地との間には大きな違いがあり、ゲームの進行と共に、景色が大きく入れ替わる。相手が囲おうとしているところに石を突入させて(打ち込み)生きてしまえば、そこは自分の地となる。相手が地だと思って囲っている壁の一部を、国境を侵害するように切り取ってしまえば、地はそれだけ減ってしまう。逆に、相手が生きると思っている石を殺してしまえば、そこは自分の地となる。戦いの中で相手の地や石と自分の地や石を奪い合う、フリカワリという戦略もある。最終的に相手の石が生きることができず、かつ境界が破られないような領域が地となる。つまるところ、囲碁は石の効率を競い合うゲームといえる。
一般に、両者が最善を尽くしている状況では、相手の石の生きにくさ(地になりやすさ)と模様の広さ(大きな地になる可能性の大きさ)との間にはトレードオフの関係がある。相手の生きがほぼ見込めない領域のことを確定地と呼び、これを優先する考え方を実利重視という。これに対して、将来の利得を重視する考え方が、厚みである。経営における短期と長期のバランスに似て、この実利と厚みの絶妙なバランスが囲碁の戦略できわめて困難なポイントである。とりわけ、厚みの形式的表現が極めて困難なことが、コンピュータ囲碁ソフトの最大の壁であるとも言われる。
布石
基本的に序盤は隅から打ち進めるのが効率がよいといわれる。これはある一定の地を得るために必要な石数が、中央より辺、辺より隅の方が少なくて済むためであり、その分効率がよいとされるためである。近年のプロの対局では、第一手のほぼ全てが隅から始まっている。第一手を中央に打った対局も存在するが、多くの場合趣向と評される。
石の形
囲碁のルールは非常に単純であるが、そこから派生する効率の良いほぼ必然的な着手の仕方、つまり石の形を理解することである程度の棋力を得ることができる。効率のよい形を「好形」、悪い形を「愚形」「凝り形」などと呼ぶ。「空き三角は愚形」「二目の頭見ずハネよ」など、格言になっている石の形は多く存在する。
厚み
碁を打つ上で重要な要素として厚みがある。言い換えれば勢力のようなものである。例として三間ヒラキの真ん中に打ち込もうとする場合、ただの三間ヒラキに打ち込むより、ヒラキを成す一方の石が2石の連続した形(中央方向に立っている)である場合のほうが、より打ち込みは無謀と感じるだろう。これは打ち込まれた石を勢力に追い詰めることで、取ることができないにしても相当いじめられることが予想されるからである。これ以外にも有効に石を連続させておくことで大模様を形成できたり、盤上で不意に発生したシチョウに対しシチョウあたりの効果を発揮するなど、あらゆる可能性をもっている。
石の働き
囲碁はお互いに着手する回数はほぼ同じなため、その中でいかに効率よく局面を進め、最終的により多くの地を獲得するかが重要になる。この石の効率のことを「石の働き」とも言い、効率が良い状態を「石の働きが良い」、効率が悪い状態を「石の働きが悪い」と言う。石の効率は石の形とも密接な関係にあり、愚形や凝り形と呼ばれる形は総じて石の働きが悪い形でもある。
また、石の働きの評価方法に「手割り計算」がある。局所において白黒双方の形が定まった時点で互いの働きのない石(不要な石)を除外していき、どちらの方が除外した数が多いか、または白黒同じ数だけ取り除き、その時に残った石の働きにより形勢を判断する方法である。手割り計算の概念を最初に編み出したのは本因坊道策とされており、これによって局所戦に終始する旧来の碁の時代が終わり、石の効率を追求するという近代碁の概念が確立された。
競技としての囲碁
段級位制度
詳細は「囲碁の段級位制」を参照
囲碁の力量を数値で表すための段級位制度が存在している。アマチュアとプロで認定の仕組みが異なっており、アマチュアでは日本棋院・関西棋院が認定をしている。
アマチュアは、初心者は30~50級から始まり、最高位は八段である.。段級位の認定を受ければ、免状を発行してもらうことができる。
プロは初段から始まり、最高位は九段である。プロ棋士同士の対局の成績によって昇段が行われる。
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囲碁の大会
詳細は「棋戦 (囲碁)」を参照
日本では室町時代末期から棋士による大会が行われていた。20世紀に入り日本棋院が設立されると、新聞社の協賛により多くの大会が開催されるようになった。また、戦後からは韓国・中国を中心として世界規模の大会も開催されるようになった。
プロ組織
「棋士 (囲碁)」および「日本棋院」も参照
室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れたが組織化までは至らなかった。江戸時代に家元が幕府より俸禄を受けるようになり公認の職業として職業棋士が成立し、家元を中心とする組織化が行われた。明治になると俸禄が停止され家元制度が弱体、愛好者や新聞社と契約を結ぶものも現れ、職業棋士組織も乱立したが、これらが連合し日本棋院が生まれた。
競技人口の概要
『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)によると、1年に1回以上囲碁の対局をおこなう、いわゆる「囲碁人口」は、1982年の1130万人から、2004年450万人、2006年360万人、2007年240万人と漸減傾向が続いている[5]。
囲碁と数学
「コンピュータ囲碁」も参照
囲碁は、そのルールの単純性と複雑なゲーム性から、コンピュータの研究者たちの格好の研究材料となってきた。
他のゲームと比較した囲碁の特徴としては、盤面が広く、また着手可能な手が非常に多いため、盤面状態の種類およびゲーム木がきわめて複雑になることが挙げられる。盤面状態の種類は、チェスで1050、シャンチー(象棋)で1048、将棋で1071と見積もられるのに対し、囲碁では10160と見積もられる[6]。また、ゲーム木の複雑性は、チェスで10123、シャンチーで10150、将棋で10226と見積もられるのに対し、囲碁では10400と見積もられており、チェス、シャンチー、将棋と比較して囲碁の方がゲームとして複雑であるとされてきた[6]。
チェスの世界では、1996年のガルリ・カスパロフとの対局で、初めて単一のゲームで世界チャンピオンにコンピュータが勝利した。また、1997年にはオセロの世界チャンピオンであった村上健がコンピュータとの6番勝負で6戦全敗し、2006年にはシャンチーのプログラムが大師との対局に勝利、2012年には将棋棋士(引退)の米長邦雄がコンピュータに敗れた。
その一方でコンピュータ囲碁の棋力は伸び悩み、2000年代初頭においてもアマチュアの有段者に及ばない程度の棋力であったが、2000年代後半に入るとモンテカルロ法を採用したコンピュータの登場により棋力が上昇し、2012年ごろにはアマ六・七段程度の棋力に達した。その後、2016年にディープラーニングの技術を用いたGoogle DeepMind社の開発したAlphaGoが、ヨーロッパのプロ棋士樊麾二段に2015年10月に勝利していたことが公表され、2016年3月に行われた韓国のトップ棋士である李世乭との5番勝負も4勝1敗で制した。Google DeepMind社の発表前は、他のコンピュータプログラムの棋力はまだアマ六・七段程度であり、トップ選手が公の舞台で敗れるかなり前からコンピュータの高い実力が広く知られていた他のゲームとは異なる展開を見せた。
文化における囲碁
囲碁の別称とその意味
囲碁にはさまざまな別称・雅称があるが、それらの中には中国の故事に由来するものも多い。
そのような故事由来の異称の代表である爛柯(らんか)は中国の神話・伝説を記した『述異記』の次のような話に由来する。晋の時代、木こりの王質が信安郡の石室山に入ったところ童子たちが碁を打っているのを見つけた。碁を眺めていた王質は童子からナツメをもらい、飢えを感じることはなかった。しばらくして童子から言われて斧を見ると、その柄(柯)が朽(爛)ちていることに気付いた。王質が山を下り村に帰ると知っている人は誰一人いなくなっていた。
この爛柯の故事は、囲碁に没入したときの時間感覚の喪失を、斧の柄が腐るという非日常な事象で象徴的に表している。また山中の童子などの神仙に通じる存在から、こうした時間を忘れての没入を神秘的なものとしてとらえていることもうかがえる。この例と同様に、碁を打つことを神秘的にとらえた異称として坐隠(ざいん)がある。これは碁にのめりこむさまを座る隠者に通じるとしたもので、手談(しゅだん)と同じく『世説新語』の「巧芸」に囲碁の別称として記されている。手談は字の通り、互いに碁を打つことを話をすることと結び付けたものである。
囲碁の用具に着目した異称として烏鷺(うろ)がある。碁石の黒白をカラス(烏)とサギ(鷺)にたとえている。方円(ほうえん)は碁石と碁盤の形からつけられたもので、本来は天円地方で古代中国の世界観を示していた。のちに円形の碁石と正方形の碁盤から囲碁の別称となった。「烏鷺の争い」とも言う。
『太平広記』巻四十「巴邛人」の話も別称の由来となっている。巴邛に住むある男が橘の庭園を持っていたが、あるとき霜がおりた後で橘の実を収穫した。しかし3、4斗も入りそうな甕のように大きな実が二つ残り、それらを摘んで割ってみると、中には老人が二人ずつ入っていた。この老人たちは橘の実の中で碁を打っていた。この話から囲碁は橘中の楽(きっちゅうのらく、―たのしみ)とも呼ばれる。ただし、原文では老人が遊んでいたのは碁ではなく「象戯」(シャンチー)である。
碁盤には、「天元→北極星」、「星→星」、「19路×19路=361 → 1年365日」、「四隅→春夏秋冬」など、自然界・宇宙を抽象的に意味づけているとの主張もあるが、361日と365日は10年で40日(一ヶ月以上)も差があり、こじつけという見方もある。
囲碁に由来する慣用表現
傍目八目・岡目八目(おかめ はちもく)
そばで見ていると冷静だから対局者の見落としている手も見え、八目ぐらい強く見える[7]意から、当事者よりも第三者の方がかえって物事の真実や得失がよく分かる例え[8]。
一目置く(いちもく おく)
棋力に明らかに差のある者どうしが対局する場合、弱い方が先に石を置いてから始めることから、相手を自分より優れていると見なして敬意を表すること。その強調形の『一目も二目も置く』が使われることもある。
なお、ハンデ付で対局する「置き碁」については、2目以上を置く場合をそのように呼ぶことが多く、1目を置く(黒で先手し、コミを出さずに対局する)場合については、一般に「先(せん)」という呼び方が用いられる。
駄目(だめ)
自分の地にも相手の地にもならない目の意から、転じて、役に立たないこと、また、そのさま。
駄目押し(だめおし)
終局後、計算しやすいように駄目に石を置いてふさぐこと。転じて、念を入れて確かめること。また、既に勝利を得るだけの点を取っていながら、更に追加点を入れることにもいう。
八百長(やおちょう)
江戸時代末期、八百屋の長兵衛、通称八百長なる人物が、よく相撲の親方と碁を打ち、相手に勝てる腕前がありながら、常に一勝一敗になるように細工してご機嫌を取ったところから、相撲その他の競技において、あらかじめ対戦者と示し合わせておき、表面上真剣に勝負しているかのように見せかけることをいう。
布石(ふせき)
序盤、戦いが起こるまでの石の配置。転じて、将来のためにあらかじめ用意しておくこと。また、その用意。
定石(じょうせき)
布石の段階で双方が最善手を打つことでできる決まった石の配置。転じて、物事に対するお決まりのやり方。
捨て石、捨石(すていし)
対局の中で、不要になった石や助けることの難しい石をあえて相手に取らせること。転じて、一部分をあえて犠牲にすることで全体としての利益を得ること。
死活(しかつ)、死活問題(しかつもんだい)
石の生き死にのこと。また、それを詰碁の問題にしたもの。転じて、商売などで、生きるか死ぬかという問題ごとにも用いられる。
大局観(たいきょくかん)
的確な形勢判断を行う能力・感覚のこと。転じて、物事の全体像(俯瞰像)をつかむ能力のこと。
目算(もくさん)
自分と相手の地を数えて形勢判断すること。転じて、目論見や見込み、計画(を立てること)を指す。
囲碁を扱った作品
文芸
『源氏物語』「空蝉」「竹河」「手習」「宿木」
『枕草子』「心ゆかしきもの」「遊びわざは…」「碁をやむごとなき人の打つとて…」
川端康成『名人』
斎藤栄『黒水晶物語』『黒白の奇蹟』
竹本健治『囲碁殺人事件』他
内田康夫『本因坊殺人事件』
水原秀策『黒と白の殺意』
遠田潤子『月桃夜』
トレヴェニアン『シブミ』
シャン・サ『碁を打つ女』
ノ・スンイル『オールイン』
映画
『未完の対局』佐藤純彌監督(南里征典による同名ノベライゼーションもある)
『π』ダーレン・アロノフスキー監督
『ビューティフル・マインド』ロン・ハワード監督
『呉清源〜極みの棋譜〜』田壮壮監督
文楽・歌舞伎
祇園祭礼信仰記、金閣寺の段 - “国崩し”松永大膳と此下東吉との対局から碁笥を利用した決定的な場面につながる。この話は囲碁用語を解さないとストーリーが理解できない。
漫画
山松ゆうきち『天元坊』
島本和彦『逆襲棋士瞳』
倉多江美『お父さんは急がない』『続・お父さんは急がない』
ほったゆみ(原作)・小畑健(画)『ヒカルの碁』
岡野玲子『陰陽師』
諸星大二郎『碁娘伝』
川原泉『かぼちゃ計画』
竹本健治『入神』
赤塚不二夫『ニャロメのおかしなおかしな囲碁格言』
モリエサトシ『星空のカラス』
落語
笠碁
碁泥
その他
アタリ - アメリカのゲーム会社。創業者が囲碁好きで、囲碁用語から社名を取ったというエピソードは有名。詳細はアタリを参照。この後に子会社として「テンゲン」、創業者が次に作った会社に「センテ」(ノーラン・ブッシュネル参照)があった。
1988年より、市名が囲碁を想起させる青森県黒石市(白石黒石囲碁交流を促進する会)と宮城県白石市(白石黒石囲碁親交会)との間で親善囲碁将棋交流大会が毎年開催されている。
1968年にイギリス・トランスアトランティック・レコードから発売されたジョン・レンボーンとバート・ヤンシュのLP『ジョン・アンド・バート』のカバーには、両人が囲碁にうち興じる写真が使われている。
参考文献
中山典之『囲碁の世界』岩波新書 1986年
『囲碁・将棋文化史展-その伝来から近代まで』国立国会図書館 1988年
『江戸時代の囲碁の本―文化遺産詳解』日本棋院 1996年
水口藤雄『囲碁の文化誌―起源伝説からヒカルの碁まで (碁スーパーブックス) 』日本棋院 2001年
脚注
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^ 日本の公式戦で使用される囲碁のルールである「日本囲碁規約」の規定上は対局者が合意しないと、無限に続く可能性もあるため、有限なゲームとは分類されないが、事実上有限なゲームで、広くプレイされているゲームであるため、適切な停止条件を考慮した上で、二人零和有限確定完全情報ゲームとして研究されている。
^ 実際に「信長から名人の称号を受けた」かには異論もある。詳細は本因坊算砂を参照。
^ ふりがな付きの使用例:日本棋院発行の月刊碁ワールド2012年10月号38ページ、週刊碁2012年11月19日号18面1段最終行。
^ 「直前」のみならず、対局中のすべての同一局面の再現の禁止はスーパーコウルールと呼ばれる。日本ルールでは採用されていない。
^ 「レジャー白書に見るわが国の余暇の現状」
^ a b Yen, Chen, Yang, Hsu (2004) "Computer Chinese Chess"
^ 日本棋院「別冊囲碁クラブNo.37囲碁雑学ものしり百科304ページ「岡目」の項 昭和56年12月」
^ “おかめはちもく”. yahoo辞書. 2012年1月14日閲覧。[リンク切れ] ただし「八目」が「八手先」を指すと解釈するのは無理がある。
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囲碁九品(いごくぼん)は、囲碁用語で、囲碁の九つの段位の各々に相応しい品格を示すもの。
目次 
1	解説
2	備考
3	脚注
4	参考文献
5	関連項目
解説
囲碁の九段~初段に対応する品格は以下の通り。
入神:(九段、名人)棋聖の域に達した者の品格。
坐照:(八段、準名人)坐ればたちまち盤を照らす実力者の品格。[1]
具体:(七段、上手)完全ではないが実戦では攻守ともに強い者の品格。
通幽:(六段)碁によく通じ、碁の妙を知り尽くした者の品格。
用智:(五段)もっぱら智に頼る者の品格。
小巧:(四段)布石、中盤、終盤、その他万事の巧者の品格。
闘力:(三段)力だけで相手を倒す者の品格。
若愚:(二段)力不足だが、弱そうで強い所のある者の品格。
守拙:(初段)力が弱いので定石を守り、戦いを退ける者の品格。
備考
出典は『玄玄碁経』の皇祐中学士張擬撰「碁経十三篇」の第一二篇。
初段を認められることを入品(にゅうぼん)という。
脚注
^ 最高段位ともされる。
参考文献
橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1976 p26
関連項目
囲碁
段級位
■
囲碁十訣(いごじっけつ、圍棋十訣、围棋十诀)は、囲碁の心構えを説いた、中国古より伝わる10の格言。唐代の名手王積薪の作と伝えられるが、北宋時代の作とする説もある。
宋代の詰碁集『玄玄碁経』の序の部に王積薪作として収められ、その後の多くの棋書にも収録された。南唐の高官から北宋の太祖に仕えて碁の相手を務めた、潘慎修が太祖に献上した書物『棋説』の中で、「十要」として記した碁の原理が囲碁十訣であるとも言われる。
「碁経十三篇」(囲碁九品を含む)や、「碁法四篇」などと並んで、古典的な囲碁論の代表的なものの一つとなっている。本因坊秀策は十訣の書を石谷広策に残し、これが後に打碁集『敲玉余韵』の冒頭に掲げられた。
十訣と大意
不得貪勝(貪って勝とうとしてはいけない)
入界宜緩(敵の勢力圏では緩やかにすべし)
攻彼顧我(攻める時には自分を顧みよ)
棄子争先(石を捨てて先手を取れ)
捨小就大(小を捨て大を取れ)
逢危須棄(危険になれば捨てるべし)
慎勿軽速(足早になりすぎるのは慎め)
動須相応(敵の動きに応じるべし)
彼強自保(敵が強ければ自らを安全にすべし)
勢弧取和(孤立している時には穏やかにすべし)
(注)一の「不得貪勝」を日本で「貪れば勝ちを得ず」と訳して、「貪不得勝」と誤記する場合がある。
また後世にはこれに倣って、新囲碁十訣なども種々考案されている。
参考文献
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
田振林、祝士維「中国囲碁外史 27」(『棋道』1988年11月号)
高木祥一解説『玄々碁経』教育社 1989年
平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社 2001年
■
『囲碁指南』はヘクトが発売した一連のシリーズで、シリーズ共通でファミリーコンピュータ用ソフト。
目次 
1	概要
2	囲碁指南
3	囲碁指南’91
4	囲碁指南’92
5	囲碁指南’93
6	囲碁指南’94
概要
今作は2つのモードがあり、1つは名局の観戦を自動、もう1つ手動で動かすことができる、2級までの初級、4級~2段まで中級と有段者用の上級で構成されている棋力の判定を行うことができる。棋譜の種類は各シリーズによって違う。
囲碁指南
1990年1月10日発売。
古典=21
現代=21
置碁=21
囲碁指南’91
1991年7月5日発売新たに近代を追加だが、判定の方は初級が消されている。
古典=30
近代=20
現代=40
置碁=20
囲碁指南’92
1992年3月10日発売。古典、近代を消して、新たに過去の棋士である道策、秀策、秀哉を追加。
道策=20
秀策=20
秀哉=20
現代=37
置碁=25
囲碁指南’93
1992年11月20日発売。前作の道策、秀策、秀哉、置碁が無くなり、新たに過去の棋士である丈和、秀和、秀甫、秀栄が追加された。
現代=36
丈和=24
秀和=23
秀甫=27
秀栄=25
囲碁指南’94
1993年12月17日発売で、囲碁指南最終作であり、ヘクト最後のファミコン用ソフトでもある。前作の丈和、秀和、秀甫、秀栄が無くなり、新たに過去の棋士である道知、道的、因碩、元丈が追加された。
現代=38
道知=28
道的=10
因碩=15
元丈=28
■
Category:囲碁の著述家
囲碁の著述に顕著な実績のある人物のカテゴリ。(ルール、研究書、観戦記を含む)
プロ棋士についてはCategory:囲碁棋士を参照。
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内田知見
え
江崎誠致
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倉島竹二郎
さ
榊山潤
し
白川正芳
た
田岡敬一
高林譲司
谷岡一郎
田村竜騎兵
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中野孝次
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ふ
藤井博司
ほ
堀田五番士
ま
増川宏一
真継伸彦
み
水口藤雄
三堀将
や
安永一
ゆ
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わ
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カテゴリ: 囲碁ボードゲーム関連の人物
■
囲碁の書物、書籍のカテゴリ。囲碁の棋書類、雑誌等、囲碁を題材にした小説・マンガ・エッセイ等、その他囲碁に関わる作品、文献。
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囲碁の精(いごのせい)は、江戸時代の古書などに記述のある囲碁の精霊。妖怪研究家・多田克己の著書においては付喪神の一種とされ[1]、妖怪研究家・村上健司の推測によれば、囲碁の好きな者のもとに現れるものとされる[2]。
『玉箒木』の囲碁の精

碁石の精が現れたといわれる円照寺(現・東京都新宿区)
江戸時代の怪談本『玉箒木』や、林元美『爛柯堂棋話』にある話。江戸の牛込に、囲碁の好きな清水昨庵という者がいた。
昨庵があるときに近くの柏木村円照寺(現・東京都新宿区)を散歩していると、色白と色黒の2人組が話しかけてきた。2人と馴染みとなった昨庵が名を尋ねると、色黒の者は山に住む「知玄(ちげん)」、色白の者は海辺に住む「知白(ちはく)」と名乗り、それきり姿を消してしまった。
昨庵はこの後囲碁の名人となり、江戸中に敵が無くなったとある[3]。昨庵の出会った2人は、実は碁石の精だったということである[4]。
『越佐の伝説』の囲碁の精
小川直嗣の著書『越佐の伝説』にある話。新潟の岩船郡関谷に住む庄屋が旅の途中、雪で足止めを食らい、とある町で宿をとることになった。
暇つぶしに好きな碁を楽しもうかと、同じ宿にいた老人と碁を打っていると、なぜか碁の腕前がめきめきと上達した。
この老人が碁老人という名の囲碁の精だったという[2]。
脚注
[ヘルプ]
^ 多田克己 『幻想世界の住人たち』IV、新紀元社〈Truth In Fantasy〉、1990年、303頁。ISBN 978-4-915146-44-2。
^ a b 村上健司編著 『妖怪事典』 毎日新聞社、2000年、32頁。ISBN 978-4-620-31428-0。
^ 林元美 『爛柯堂棋話 昔の碁打ちの物語』2、林裕校注、平凡社〈東洋文庫〉、1978年(原著1914年)、48-56頁。ISBN 978-4-582-80334-1。
^ 江馬務 『日本妖怪変化史』 中央公論新社〈中公文庫〉、2004年(原著1923年)、110頁。ISBN 978-4-12-204384-8。
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Category:囲碁のタイトル
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お
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き
棋聖 (囲碁)
こ
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し
十段 (囲碁)
て
天元戦
め
名人 (囲碁)
カテゴリ: 囲碁文化・芸能の称号競技のタイトル
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『囲碁発陽論』(いごはつようろん)は、囲碁の手筋や詰碁を収めた棋書。作者は名人碁所であった4世井上因碩(道節)で、1713年(正徳3年)に完成した。難解なことで知られ、別名「不断桜」。「発陽論」とも記される。
目次 
1	成り立ち
2	内容
3	出版物
4	外部リンク
成り立ち
井上因碩は本書完成後も、井上家門外不出の書とし、門下の者でも容易に見ることはできなかった。因碩死後もその内容は秘されていたが、井上家の火災にあって原本は焼失した。しかし本因坊烈元門下の伊藤子元が入手していたものが、人づてに伝わり、1906年に安藤如意が伊藤松和の門人からその存在を聞き、山崎外三郎の未亡人より筆写の許しを得た。これを入手した本因坊秀哉が、15世井上因碩所蔵のものと合わせ、時事新報に掲載し、1904年に秀哉、因碩による解説とともに『囲碁珍朧発陽論』として出版した。写本で現在まで古書として残っているものもある。
現在も解説本が出版されており、もっとも難解な詰碁集としてプロ棋士を目指す者にとってのバイブル的な存在となっている。
内容
死活の問題(詰碁)、攻め合いの問題、シチョウ問題、盤中詰碁などで構成され、原本では183題ともされるが、異本を含めると202題ともされる。多くの詰碁は隅や辺に限定された形であるのに対し、発陽論では中央の攻防が多く、石のない場所までどこまでも読み進めなければならない問題が多いことが特色とされる。
出版物
本因坊秀哉、十五世井上因碩編『囲碁珍瓏発陽論』大野万歳館 1904年
橋本昌二『名作詰碁辞典 玄玄碁経と発陽論』誠文堂新光社 1976年
橋本宇太郎編『発陽論—死活の秘伝』山海堂 1980年(改訂版 2004年)
「活之部」34題、及び「死之部」49題、「劫之部」61題の詰碁、「勝之部」47題の攻め合いの問題、「征之部」5題のシチョウ問題、「雑之部」6題の、合計202題を収めている。
藤沢秀行編『囲碁発陽論』平凡社(東洋文庫) 1982年
高木祥一編『囲碁発陽論』教育社 1990年
外部リンク
名人因碩・囲碁発陽論
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囲碁用語一覧(いごようごいちらん)は、囲碁に関する用語のうち既に記事のあるもの、及び記事の書かれる予定であるものの一覧である。なお囲碁用語は、「トビ」「ノゾキ」「ケイマ」などのように、カタカナで表記されることが一般的である[1]。
参考図書に『新・早わかり 用語小事典―読んで調べる囲碁知識 』(日本棋院)がある。
目次 
1	あ行
2	か行
3	さ行
4	た行
5	な行
6	は行
7	ま行
8	や行
9	ら行
10	わ行
11	関連項目
12	注
13	外部リンク
あ行
アキ隅:文字通り、まだどちらの石も着手されていない、空いている隅。
アゲハマ
味:今すぐに問題はなくとも、周囲に相手の石が来ると厳しい手段が発生するようなやや危険な形を「味が悪い」と表現する。またこうした危険を残さない確実な手を「味のよい手」などと呼ぶ。
アタリ
厚み
アテ
アテコミ
アテツケ
アマシ:先に地を稼ぎ、敵の攻撃をうまくかわして勝ちに持っていく打ち方。
荒らし
囲碁
囲碁の歴史
囲碁九品
囲碁殿堂
石の下
一合マス
一間トビ
薄い:相手の石が来ると、連絡が切れやすい・眼形に乏しい形。またこのような形を守る手を「(手)厚い手」と呼ぶ場合がある。
打ち込み
ウチカキ
ウッテガエシ
エグリ:急所に打ち込み、相手の根拠を奪うような手。
オイオトシ
王座
大ザル
大ゲイマ
大高目
大目ハズシ
オキ
置き碁
オサエ
オサマリ:「治まり」とも。完全ではないが、だいたい眼を持って急には攻められない形になること。
オシ
オシツブシ
重い:捨てにくく、負担になりそうな石の一団、あるいはそのような石を作るような打ち方。
か行
カカリ
確定地
カケ
欠け眼
欠け眼生き
カス石:取られても大勢に影響しない石のこと。
形
肩ツキ
カナメ石:相手を切断している石など、取られると不利をもたらす石のこと。
辛い:地をしっかり稼ぐ打ち方を表現した言葉。
カラミ
軽い:ある一団の石が捨てやすく、どうにでもサバけるような状態。また、そのような打ち方。
関西棋院
緩着:追及するチャンスを逃すような、相手にほとんど響かない手。「ぬるい手」とも表現される。
利かし
利き
棋士
棋聖
棋戦
棋譜
急場
キリ
キリチガイ
切り賃
棋力
愚形
グズミ
腐る:相手の強い石にくっつくなどして、石の働きを失うこと。
形勢判断
ケイマ
消し
ゲタ
碁石
コウ
小ザル
コスミ
コスミツケ
碁聖
後手
五ノ五
碁盤
細かい:形勢が終盤になっても接近していることを指す。
コミ
小目
根拠:封鎖されても、中だけで十分生きられるような状態を「根拠がある」と表現する。逆に、封鎖されると眼形に乏しい状態を「根拠がない」と表現する。
さ行
サガリ
サシコミ
サバキ
サルスベリ
三々
三連星
地
死活
持碁
シチョウ
シノギ
シボリ
シマリ
純碁
定先
定石
女流棋士
筋
捨て石
スベリ
隅:碁盤のカドに近い部分。
隅の板六
隅のマガリ四目
セキ
攻め
攻め合い
競り合い
先手
相場:着手や一段落した形が、ほぼ妥当と見なせること。
た行
対局時計
互先
高目
タケフ
タタキ
ダメ
ダメヅマリ
段級位制
着手
挑戦手合制
ツギ
ツキアタリ
作り碁
作る
ツケ
ツケコシ
ツケノビ
ツブレ:大石が死ぬなど、壊滅状態になること。
ツメ
詰碁
手筋
手抜き
天元
投了
トビ
トビツケ
取らず三目
な行
ナカデ
ナラビ
ニギリ
日本棋院
入神
入品
ネット碁
ヌキ
ノゾキ
ノビ
は行
ハイ
バカ八
ハザマ
ハサミ
ハサミツケ
ハナヅケ
ハネ
ハマ
ハメ手
ヒラキ
ヒラキヅメ
封じ手
布石
含み
フリカワリ
辺:碁盤の辺に近い場所。多くは四線より低い位置を指す。
ボウシ
ホウリコミ
ポカ:うっかりミスのこと。
星
本因坊
本手
ま行
マガリ
マガリ四目 ⇒隅のマガリ四目
マネ碁
見合い
見合い計算
眼
名人
目:「もく」と読む。地の数や、碁石の数を数える語。「3目勝つ」、「2目置く」など。ただし置石の場合、「子」と書いて「もく」と読ませることもある。
目算
目ハズシ
モタレ
持ち込み:相手の地中に打ち込んだ石がそっくり取られ、丸損となること。
模様
や行
ユルミシチョウ
ヨセ
ら行
連絡
六死八活
わ行
ワタリ
ワリウチ
ワリコミ
関連項目
囲碁の格言
将棋用語
注
^ 従来は漢字で表記されていたのを、1948年に創刊された囲碁新聞「囲碁之研究」紙で、藤沢秀行とともに発行者だった横井利彦の発案により「開」→「ヒラキ」、「征」→「シチョウ」といった仮名表記がなされ、これ以降他誌も追随するようになった。(秋山賢司「アマ碁狂列伝14 横井利彦氏の巻」(『棋道』1989年4月号))
外部リンク
用語集
囲碁用語集
囲碁用語辞典
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石の下(いしのした)は、囲碁用語の一つで、意図的に相手に石を取らせて空いた交点に着手する手筋のこと。
実戦に現れることは稀で、詰碁の死活の問題で現れることが多い。
目次 
1	集四型の石の下
2	稲妻型の石の下
3	アトギリで眼を奪う
4	大中手
5	類似の手筋
6	脚注
7	参考文献
8	関連項目
集四型の石の下
上図は黒番で生きる手段を問う問題。
黒1で白2子を取るが、この黒1は後で取らせる捨て石である。
白2が黒aなら白bで欠け眼にしようとする白の抵抗である。四角形の黒4子がアタリだが、
構わずに黒3と打つ。白4で黒4子が取られるが、
石を取らせてできた空いた交点に黒5のキリを打てば白2子が取れる。白2子を取ってできる一眼と隅の一眼で二眼の生きとなる。
以上の黒1、黒3、黒5の一連の手段を石の下の手筋と呼ぶ。特に黒5は「取られた跡のキリ」なのでアトギリ(跡切り)と呼ぶ。 取らせた四角形の黒4子の形を集四またはダンゴと呼ぶ。 [1]
稲妻型の石の下
上図は黒番で生きる手段を問う問題。
黒1から黒3で捨て石を4子に増やす。この4子の形を稲妻形と呼ぶ。白4から白8で稲妻形の4子を取られるが、
黒9のアトギリで白6子を取って生きる。 [2]
石の下が実戦に生じることは稀だが、その中では稲妻型の石の下が生じることが多い。
上図の左上は赤星因徹の『玄覧』に示された実戦形の黒番で得を図る問題。右下の黒1から黒9で稲妻形にして捨てる。[3]
アトギリで眼を奪う
石の下で生きるケースばかりではなく、眼を奪って殺す手段もある。
白の5子はウッテガエシで取られている形だが、白1とわざわざ6子にして取らせるのが好手。黒は▲の点に抜くしかないが、
白3に切るとこの部分には一眼もできず、黒死となる。
大中手
ナカデ(中手)には3子から6子を取らせるものがあるが、7子以上を取らせても抜き跡を囲んでいる石に欠陥があると石の下の手筋で殺せる場合がある。これを大中手と呼ぶ。
上図は赤星因徹の『玄覧』の「垂棘屈産失国之形」の部分図で、白番で殺す手段を問う問題[4]。
黒4:トリ
白1から黒4で白16子を取られるが、
白5のアトギリで黒に生きる手段がない。この後、黒aなら白b。
類似の手筋
ウッテガエシやナカデ、ホウリコミ(ウチカキ)なども「相手に石を取らせて空いた交点に着手する手筋」だが、実戦に多く現れる基本的なもので石の下とは呼ばない。
脚注
^ 『算月』29頁
^ 『算月』29頁
^ 『囲碁の研究』40頁
^ 『算月』32頁
参考文献
赤星因徹 『玄覧』 1846年。
木谷実、久保松勝喜代 『囲碁の研究』 東京博文館、1937年。
石倉昇監修、塚本惠一著 『算月』 亘香通商株式会社、1998年。
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一合マス(いちごうマス)は、囲碁用語で、隅の下図のような四角い黒の死活を指す言葉。文字通り、一合の量を量れる枡程度の大きさであることから名付けられた。

白から打ち、双方正しく打てばコウになる(格言:一合マスはコウと知れ)が、ハネがあったりダメが空いていたりすると事情が変わる。このため小さなスペースでありながらバリエーションが多く、実戦で出てくるとアマチュア高段者でも正しく対応するのは難しい。
目次 
1	一合マスの変化
2	関連用語
2.1	一斗マス
2.2	一石マス
3	外部リンク
4	関連項目
5	参考文献
一合マスの変化
白1へオイてくるのが基本だが、黒はこれに対して黒2にツケるのが正しい。白3のツキアタリが得な手段で、以下白9マガリとなり、 黒はaにホウリコミを打ち、白bで白の取り番のコウになる。 ただし外ダメが空いていたり、星の位置に石のない形、一線にハネやサガリがある場合などもあり、これらはそれぞれ異なる結果になる。

例えば星に石のない「カド欠け一合マス」では、白が1に置いた時、黒が同じように2にツケても白3にツキアタリ、以下符号順に打った時aとbが見合いで死にとなる。
このように一合マスは一見単純な形ながら変化は複雑で奥が深く、「一合マスがわかれば初段」という言葉さえあった(昔の初段は、現在ならアマ高段者に相当する)。実戦でも類似した形が出現することは多く、普段からトレーニングしておくことが実力向上につながる。
関連用語
一斗マス
図のように10の線に石を置き、隅に打ち込んで生きがあるかを競うもの。昭和30年代にプロが加わって集中研究された。初手は隅の急所である三々だが、図の黒2・4が最強の攻め。しかしこの後白が手段を尽くせば生きというのが結論である[1]。
一石マス
図のように一線に黒がびっしりと石を置いたところに白が打ち込み、生きがあるかどうかを競うもの。はっきりした結論は出ないが、実際には生きは非常に難しいとされる[2]。
外部リンク
基本死活事典
関連項目
囲碁
詰碁
参考文献
^ 「奇妙な死活」 日本棋院 p.12
^ 「奇妙な死活」 日本棋院 p.8
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死活(しかつ)は、囲碁用語の一つ。囲碁において最も重要な概念といえる。
囲碁において、「相手に絶対に取られる事の無い石」と「取られても新しく取られない石を置ける石」を活きた石、それ以外の相手に取られる石を死んだ石と表現するため、これを合わせて死活と呼ぶ。
詰碁などの死活を扱った問題のことを死活問題(しかつもんだい)といい、現代日本語で「わが社にとっての死活問題」などと言うのは囲碁の死活問題に由来する。
目次 
1	眼
2	欠け眼
3	ナカデ
4	死活の特別な形
5	参考図書
6	外部リンク
眼
死活の例
右の図の赤い四角の点のように石のかたまりによって囲まれているスペースのことをその石のかたまりの眼(め)と呼ぶ。この眼を二つ以上持つ石の一団は着手禁止点を少なくとも2箇所以上持つため、周囲の空点(ダメ、または駄目)の全てに敵石が置かれても(ダメを詰められても)取られることはない。このような“絶対に取られることのない石”のことを活きた石、活き石(いきいし)などと呼ぶ。
他方、眼を持たない、または一つしか持たない石の一団は駄目を詰められれば最終的には相手に取られることとなる。そのため、眼を二つ以上持つことができない石のことを死んだ石、または死に石などと呼ぶ。
ただし、眼が二つ以上なくとも自分の方から打った場合には相手に取られるが、相手から打たれればこちらが相手の石を取れるセキの場合には、自分が打たない限り相手に取られることがないので活きた石とみなされる。
眼はその広さに関係なく個数が重要となる概念であり、その個数を数えるときは一眼(いちがん)、二眼(にがん)と眼を「がん」と読む。
終局状態では、必ず死活の判定をしなければならないが、それは必ずしも簡単ではない。というのも、囲碁の場合、上述の例のように明らかに死活がわかるような形でない複雑な形の場合も、それ以上手を加えずに終局することがあるからである。しかし、ある程度以上の実力になると、生死の判定に関する意見はほとんどの場合一致する。
欠け眼
上図では、一見2つの眼を確保して生きているように見えるが、aの点の空間は将来bにダメが詰まるとアタリになってツガねばならず、眼にはなっていない。こうした眼を「欠け眼」と呼ぶ。白の一団は一眼しかなく、死となる。
上図では、黒が1の点に打つと、仮に白が黒1を取ってもこの部分が欠け眼になるので死にとなる(このような捨て石の手を「ウチカキ」と言う)。逆に白から先に1の点にツゲば、確実な二眼を確保して生きとなる。
ナカデ
上のような形の場合、真ん中の点(黒1)に打つと白は眼を一つしか作れなくなって死にとなる。逆に白からこの点に打てば仕切りを作って二つの眼を作り、生きることができるようになる。こうした手を「ナカデ(中手)」と呼ぶ。詳細は項目ナカデを参照。
死活の特別な形
上記のように二眼を確保すれば生きというのが基本だが、実際には様々なケースが存在する。詳しくは当該項目を参照。
コウ
三コウ
万年コウ
セキ
隅のマガリ四目
長生
欠け眼生き
aの点はいずれも欠け眼だが、白はぐるりと一周つながっているため黒から全体を取りに行く手がなく、白生きとなる。こうしたケースを欠け眼生きと呼ぶ。詳しくは欠け眼生きのページを参照。
参考図書
『新・早わかり死活小事典』日本棋院
『こだわり講座〈5〉基本死活 虎の巻 (囲碁文庫) 』日本棋院
加藤正夫『死活小辞典』誠文堂新光社
趙治勲『基本死活事典 上・下』日本棋院
張栩『基本死活事典』日本棋院
大平修三『現代囲碁文庫17 初段の心得 実戦死活の百科 』誠文堂新光社
『林海峯の死活に強くなる本』誠文堂新光社
石田芳夫『目で解く実戦詰碁』誠文堂新光社
林海峯『死活手筋集』全3巻 大泉書店
外部リンク
江場弘樹『基本死活辞典』
やさしい詰碁を解きましょう
詰碁問題集(峯松正樹)
goproblems
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本因坊秀策囲碁まつり
本因坊秀策囲碁まつり(ほんいんぼうしゅうさくいごまつり)は、本因坊秀策を記念して、その生地であり広島県因島市(2005年まで)、尾道市で、年2回開催されるイベント。指導碁、尾道市市民囲碁大会(クラス別競技会)などが行われ、2002年からは、因島市が1997年に囲碁を市技として制定した5周年事業として、プロとアマチュアの棋士によるトーナメント戦本因坊秀策杯、2012年からは女流秀策杯のトーナメントが開始された。因島市・尾道市囲碁のまちづくり推進協議会開催。
目次 
1	本因坊秀策杯
1.1	優勝者と決勝戦
2	女流秀策杯
2.1	優勝者と決勝戦
3	外部リンク
本因坊秀策杯
2002年第45回より開始。プロ棋士8名と予選を勝抜いたアマチュア8名によるトーナメント戦。公開対局で行われる。
優勝賞金 100万円と因島備南酒造の日本酒「本因坊秀策」1年分
優勝者と決勝戦
(左が優勝者)
第1回 2002年(7月28日)山田規三生 - 清成哲也
第2回 2003年(1月26日)小西和子 - 芦田磯子
第3回 2003年(7月27日)大矢浩一 - 羽根直樹
第4回 2004年(1月25日)石田篤司 - 仲邑信也
第5回 2004年(7月25日)結城聡 - 青木紳一
第6回 2005年(1月23日)藤井秀哉 - 岩井竜一
第7回 2005年(7月31日)村川大介 - 石田篤司
第8回 2006年(1月29日)坂井秀至 - 松本武久
第9回 2006年(7月30日)蘇耀国 - 西村慶二
第10回 2007年(1月28日)林子淵 - 清成哲也
第11回 2007年(7月29日)中小野田智己 - 倉橋正行
第12回 2008年(7月20日)坂井秀至 - 田中伸拓
第13回 2009年(7月19日)秋山次郎 - 大矢浩一
第14回 2010年(7月25日)蘇耀国 - 工藤紀夫
第15回 2011年(7月10日)鶴山淳志 - 石田篤司
第16回 2012年(7月8日) 孫喆 - 下島陽平
第17回 2013年(7月14日) 許家元 - 中野寛也
第18回 2014年(7月13日) 結城聡 - 首藤瞬
第19回 2015年(7月12日) 蘇耀国 - 中野寛也
女流秀策杯
2012年第60回から開始。女流プロ棋士8名と予選を勝抜いた女流アマチュア8名によるトーナメント戦。公開対局で行われる。
優勝賞金 50万円
優勝者と決勝戦
(左が優勝者)
第1回 2012年(1月29日)万波奈穂 - 矢代久美子
第2回 2013年(1月27日)万波奈穂 - 種村小百合
第3回 2014年(1月26日)藤沢里菜 - 小西和子
第4回 2015年(1月25日)藤沢里菜 - 星合志保
第5回 2016年(1月31日)加藤啓子 - 金子真季
外部リンク
尾道市囲碁のまちづくり推進協議会
せとうちタイムズ
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イロレーティング (Elo rating) とは、チェスなどの2人制ゲームにおける実力の測定値(レーティング)の算出法である。「イロ」とはこの算出法を考案した、ハンガリー生まれでアメリカの物理学者であるアルパド・イロ(英語版)に由来する。
チェスでは国際チェス連盟の公式レーティングに採用されるなど、強さを示す指標として用いられている。日本では、将棋倶楽部24などで、イロレーティングを簡素化した算出法を採用している。
目次 
1	算出方法
2	擬似的な算出方法
3	問題点
4	文献
5	関連項目
算出方法
イロレーティングでは、次の3点を基本とする。
ゲームの結果は一方の勝ち、一方の負けのみとし、引き分けは考慮しない(0.5勝0.5敗と扱うものとする)。
200点のレート差がある対局者間では、レートの高い側が約76パーセントの確率で勝利する。
平均的な対局者のレートを1500とする。
3人の対局者 {\displaystyle A,B,C} A,B,Cについて {\displaystyle A} Aが {\displaystyle B} Bに勝利する確率を {\displaystyle E_{AB}} {\displaystyle E_{AB}}、 {\displaystyle B} Bが {\displaystyle A} Aに勝利する確率を {\displaystyle E_{BA}} {\displaystyle E_{BA}}などと定める。対局者間の勝率について次のような仮定を置く。
{\displaystyle {\frac {E_{AC}}{E_{CA}}}={\frac {E_{AB}E_{BC}}{E_{BA}E_{CB}}}} {\displaystyle {\frac {E_{AC}}{E_{CA}}}={\frac {E_{AB}E_{BC}}{E_{BA}E_{CB}}}}
例えば {\displaystyle A} Aが {\displaystyle B} Bに平均3勝2敗、 {\displaystyle B} Bが {\displaystyle C} Cに平均5勝6敗の成績だとすれば、 {\displaystyle A} Aは {\displaystyle C} Cに平均15勝12敗(=5勝4敗)でなければならない。
2人の対局者 {\displaystyle A} A、 {\displaystyle B} Bの現在のレートを {\displaystyle R_{A}} {\displaystyle R_{A}}および {\displaystyle R_{B}} R_{B}としたとき、それぞれが勝利する確率 {\displaystyle E_{A}} {\displaystyle E_{A}}、 {\displaystyle E_{B}} E_{B}は以下の式で算出される。
{\displaystyle E_{A}={\frac {1}{1+10^{(R_{B}-R_{A})/400}}}} {\displaystyle E_{A}={\frac {1}{1+10^{(R_{B}-R_{A})/400}}}}
{\displaystyle E_{B}={\frac {1}{1+10^{(R_{A}-R_{B})/400}}}} {\displaystyle E_{B}={\frac {1}{1+10^{(R_{A}-R_{B})/400}}}}
実際に何局か対局した結果、 {\displaystyle A} Aの勝ち数が {\displaystyle S_{A}} {\displaystyle S_{A}}であった場合、 {\displaystyle A} Aのレートを以下のように補正し、新たなレート {\displaystyle R_{A}^{\prime }} {\displaystyle R_{A}^{\prime }}とする( {\displaystyle E_{A}} {\displaystyle E_{A}}は各対局の勝利する確率を足し合わせる)。
{\displaystyle R_{A}^{\prime }=R_{A}+K(S_{A}-E_{A})} {\displaystyle R_{A}^{\prime }=R_{A}+K(S_{A}-E_{A})}
ここで、 {\displaystyle K} Kは定数値であり、プロレベルでは16、通常は32をとることが多い。
例として、レーティング1613の対局者 {\displaystyle A} Aが5局戦い、レート1609の対局者に敗れ、1477の対局者と引き分け、1388の対局者に勝ち、1586の対局者に勝ち、1720の対局者に敗れたものとする。このときの {\displaystyle A} Aの勝ち数 {\displaystyle S_{A}} {\displaystyle S_{A}}は2.5(2勝2敗1引き分け)となる。上記の式より、 {\displaystyle E_{A}} {\displaystyle E_{A}}の合計は 0.506 + 0.686 + 0.785 + 0.539 + 0.351 = 2.867 と算出されるので、対戦後の新たなレートは 1613 + 32×(2.5 − 2.867) = 1601 となる。
擬似的な算出方法
日本での囲碁や将棋のオンライン対戦サイトでは、参加者の棋力を示すためにレーティングを用いているところもある。これらの多くはイロレーティングではなく、対戦後のレーティングを簡単に算出できる方法を用いている。
2人の対局者 {\displaystyle A} A、 {\displaystyle B} Bの現在のレートを {\displaystyle R_{A}} {\displaystyle R_{A}}および {\displaystyle R_{B}} R_{B}とし、 {\displaystyle A} Aが {\displaystyle B} Bに勝った場合、レーティングの変動値 {\displaystyle \Delta R} \Delta R( {\displaystyle R_{A}} {\displaystyle R_{A}}は {\displaystyle \Delta R} \Delta Rだけ増加し、 {\displaystyle R_{B}} R_{B}は {\displaystyle \Delta R} \Delta Rだけ減少する)は各サービスごとに以下のようになる。
将棋倶楽部24・近代将棋道場
{\displaystyle \Delta R=16+(R_{B}-R_{A})\times 0.04} {\displaystyle \Delta R=16+(R_{B}-R_{A})\times 0.04}
小数点以下は四捨五入。上記で算出した {\displaystyle \Delta R} \Delta Rが1未満のときは1に、31を超えるときは31になる。
ただし0未満ならびに32以上の場合は先手の権利が下手と確定している。 詳細については割愛する。
TAISENの囲碁対局
{\displaystyle \Delta R=12+\{R_{B}-(R_{A}\pm H)\}\times 0.03} {\displaystyle \Delta R=12+\{R_{B}-(R_{A}\pm H)\}\times 0.03}
※ {\displaystyle H} Hはハンデ(置き石やコミの調整による)ごとに定められた点数。
小数点以下は四捨五入。上記で算出した {\displaystyle \Delta R} \Delta Rが1未満のときは1になる。
ただし、極端にレートが離れたもの同士が対局する場合などには、特例が設けられている。
問題点
FIDEの公式レーティングは1985年ごろから年に数点ずつインフレを起こしており、これがグランドマスターをはじめタイトル保持者の増加につながっている。
インフレ問題を解決するため、標準偏差を考慮したグリコレーティングが考案され、一部の団体(オーストラリアチェス連盟(英語版)など)、インターネット上のチェスサイトで利用が始まっている。
チェスにおける棋力評価の算出についてはチェスのレーティング(英語版)を参照。
文献

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打ち込み(うちこみ)は囲碁用語で、以下の意味を表す。
相手の石に割り込むような着手。
手合割を可変とする対局において、相手に勝ち越して手合割が修正されること。
打ち込み(着手)
辺にヒラいている相手の石の間に割って入るように打つ手のこと。また星に対して三々に侵入するような手も「打ち込み」と称される。相手の模様に深く入り込むのではなく、浅く臨む手法は消しと呼んで区別される。相手の石を分断して攻める、相手の模様の荒らしなどの効果を狙って打つ手である。
ウチコミという言葉は、主に第三線か第四線(まれに第二線)に打つ手を指す。相手の模様に深く入り込む手であっても、中央に打つ手は「打ち込み」と呼ばないことが多い。
上辺黒1に打つ手が「打ち込み」の一例である。黒▲のツメは、この手を狙っているので価値が大きい。白が2とコスんで攻めてきたら、黒3から5と下がって、aとbのワタリを見合いにする要領である。
右下黒1は、隅の完成寸前の白地を荒らす打ち込み。白2,4のオサエなら黒5とワタり、大きく隅をえぐる。白は根拠も失い、攻めの対象にさえなりかねない状況となる。白8は反撃の打ち込み。
左下黒1は、星に対する三々への打ち込み。以下黒7までと、隅にできかけていた白地を荒らして黒地とすることができる。
打ち込み(手合割)
また、上記のような使い方とは全く別に、相手に勝ち越して手合いが直ることを「打ち込む」と表現する。かつて行われた十番碁などでは、4勝0敗、5勝1敗などといったように四つ勝ち越すと、実力差ありと認められて手合いが変更となった。例えば、互先で始めて対局者AがBに四番勝ち越した場合、次からは先相先で打つこととなる。こうした時、「AがBを先相先に打ち込んだ」と表現する。
ただし、こうした打ち込み制度は、現在のプロ公式戦では行われていない。また、将棋では同様のことを「指し込み」と称する。
参考図書
淡路修三『アマの知らない打ち込み対策事典 (マイコミ囲碁ブックス)』2007年
韓国棋院編『打ち込みと消しの基本 (棋苑囲碁ブックス) 』2006年
『早わかり模様小事典―打込みと消しのテクニック』日本棋院 1982年
『打ち込み読本―即効上達シリーズ〈5〉 (囲碁文庫)』日本棋院 2003年
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囲碁においてウッテガエシ(打手返し)とは、相手の石を取る基本的な手筋の一つ。アタリを回避するために相手の石を打ち抜いても再びアタリとなり、結局取られてしまう状態をいう。英語でsnap-back。古い本などには「ウッテガエ」と表記しているものもあるが、近年では用いられない。
基本形
下図がウッテガエシの基本形。
黒番でbにアタリを打ってもaにツガれて取れない。アタリを覚悟で、aにホウリコむのが好手。
その直後に白石がbに打つと、今aに打たれたばかりの黒石は取られるが(中図)、白3子がアタリになる。再び黒がaに打てば白3子を取ることができる(右図)。このような手筋をウッテガエシという。

上図で黒がaに打つのもまたウッテガエシである。
両ウッテガエシ
この図において黒番である時、白石を取るためには、aに打つ。その後、白b、黒cと続くと次のようになる。

白は、dに打って黒石1を取っても、eに打って黒石3を取っても、次に黒が取られた石と同じ所に再び石を置くと取られてしまう。このように2箇所同時にウッテガエシの状態に持ち込む手筋を両ウッテガエシという。
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オイオトシは囲碁用語の一つ。漢字表記では「追い落とし」となる。 ツグ手を打っても引き続きアタリになり、取られてしまう状態をいう。別名をトントン、ツギオトシ、バタバタとも。

黒1で3子はアタリになっているが、aにつないでもさらに全体がアタリであるためbで取られてしまう。

上図では白が先に1につないでも黒2にアテ、さらに白3とツゲば黒4で全体が落ちる。このようなケースもオイオトシと呼ぶ。
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大高目(おおたかもく)は囲碁用語の一つで、碁盤上の位置を指す言葉。高高目とも呼ぶ。碁盤の隅から数えて(4,6)または(6,4)の地点。布石の段階で隅の着点としてまれに打たれる。 白江治彦・王立誠・依田紀基が一時期愛用した。小目へのカカリを受けての大型で複雑な変化を含む。

隅の黒1またはaの地点を大高目と呼ぶ。
一つの隅に大高目に該当する位置は2箇所あるが、どちらに打つのも同じ意味である。ただし盤上の他の石の配置によって、戦略上異なる意味を持つ。
目次 
1	特徴
1.1	シマリ
1.2	カカリ
2	アポロ流
特徴
四線と六線の交点であり、隅に甘い分辺への発言力は大きい。また、隅への侵入を誘って勢力を築く意味がある。
シマリ
大高目からのシマリはaの小目が普通だが、周辺の状況に応じてbからdまでの変則的シマリも用いられる。
カカリ
白からのカカリもaの小目が最も一般的である。これに対し黒はbのツケ、cへの圧迫、手抜きなどの対応がある。
状況によりbと三々に入る手法や、dと一歩遠慮してカカる手段もある。eと星へカカるのはfと両ガカリされ、一般に不利とされる。
アポロ流
図の黒のような布石を一時期白江治彦が多用し、当時月着陸を果たしたアポロ11号にちなんで「アポロ流」と呼んでいた。
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大目ハズシ(おおもくはずし、または大目外し)は囲碁用語の一つで、碁盤上の位置を指す言葉。碁盤の隅から数えて(3,6)または(6,3)の地点。 布石のバランスを取るために稀に打たれるが、 空き隅へ単独で打たれることは滅多にない。

隅の黒1またはaの地点を大目ハズシと呼ぶ。
一つの隅に大目ハズシに該当する位置は2箇所あるが、どちらに打つのも同じ意味である。ただし盤上の他の石の配置によっては、戦略上異なる意味を持つ。
特徴
三線と六線の交点であり、 隅から離れて甘く、辺への発言力も低位のため大高目に及ばない。 単独で打たれることが少ない所以である。
シマリ
aへのシマリが最も一般的であり、小目からの大ゲイマジマリと同形になる。 勢力を志向する場合b、c、dなどのシマリも考えられる。eにシマれば星からの小ゲイマジマリと同型。
カカリ
白がカカるときはaの小目にカカるのが最も一般的である。 bの三々や、簡明を期したcのカカリも考えられる。dにカカれば、星に小ゲイマガカリされて手を抜いた状態と同型。
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大手合(おおてあい)は、囲碁の棋士の昇段を審査するために、日本棋院などの組織で行われた対局制度。1924年(大正13年)の日本棋院設立時、それまでの個人間の成績に基づいて決定されていた昇段を合理的なものに改めるものとして開始された。当初の名称は「定式手合」で、1927年(昭和2年)の東西制移行時から大手合となった。1950年に日本棋院から独立した関西棋院でも同制度が採用された。途中幾度かの改革を経て80年間続けられたが、日本棋院では2003年、関西棋院では2004年に廃止された。
棋士の成績を客観的に評価するために、段位差がある場合の手合割に基づく点数制を採用したこと、およびコミ無し碁であったところに特徴がある。その後、東西対抗形式や、最高位決定戦の実施なども行われた。開始当時は棋士にとってもっとも重要な公式対局であったが、本因坊戦創設以後は棋戦の数も増え、制度自体が時代の流れに合わなくなったことを受け、棋戦制度の改革とともに新たな昇段制度に移行した。
目次 
1	制度と経緯
1.1	創設時
1.2	東西対抗と甲乙組制
1.3	戦中戦後
1.4	最高位決定戦
1.5	制度の終焉
2	成績(日本棋院)
2.1	大手合
2.2	大手合優勝者決戦トーナメント優勝者
2.3	最高位決定戦優勝者と挑戦手合
3	脚注
4	関連項目
5	参考文献
制度と経緯
創設時
棋士の昇段は、江戸時代の段位制度導入から日本棋院設立前までは、個人間の成績と手合割に基づき、家元や師匠の判断によって認定されていたが、棋士の数が増えてくると対戦相手によって成績の片寄りがある場合の調整が難しくなって来ていたことを、点数制にして、互先から2子までの各手合割毎に勝敗に対する白番黒番毎の点数を定めて客観的な基準とした。また棋士の手合割は従来二段差1子とされていたのを、三段差1子と改めた。これは本因坊秀哉の懐刀と呼ばれた村島誼紀(当時村島義勝二段)の考案による。この方式による手合を毎月2局ずつ行うこととして、また所属棋士の義務とされ、1924年9月から開始された。
これにより、従来の打込み制による手合割は解消され[1]、段位より優位な手合割に進んでいた棋士は不満を抱くことになり、後の棋正社分離にも微妙な影響を与えた。
村島は1927年に、さらにこの方式の不合理部分を解決する四段差1子の手合割方式を提案し「棋道」誌2月号に発表したが、この方式は採用されなかった。
東西対抗と甲乙組制
1927年から朝日新聞が大手合のスポンサーとなって棋譜を新聞紙面に掲載するとともに、春秋二期制(前期・後期)とすること、五段以上と四段以下の成績優秀者による甲組と、四段以下の乙組に分けること、大相撲に倣った東西対抗形式として団体戦成績と個人成績による賞金を出す、という形となった。賞金金額は団体戦甲組優勝が500円、個人甲組1位が1000円で、東西の勝った方には優勝旗が渡され、個人優勝者は棋院内に優勝額が飾られた。この東西対抗戦は瀬越憲作、鈴木為次郎両七段を東西主将として、大いに人気を博し、「昭和の御城碁」とも称された。
ところが1928年秋の大手合の瀬越憲作・高橋重行戦で万年劫を巡る終局ルール問題が持ち上がり(万年劫事件)、東西対抗意識によって問題は拡大され、党派意識の弊害が指摘されて、1929年からは東西対抗制は廃止された。
また大手合の成績上位8名によるトーナメント、大手合優勝者決戦を開始。1939年秋期からは甲組・乙組を、五段以上と四段以下の手合も可能とした第一部・第二部とし、また五段以上の棋士は昇段に従来の70点でなく65点でよいという便法昇段制度を導入、これまで2週間で行っていたのを半年間とするなどの制度変更がなされた。
日本棋院関西支部(関西総本部の前身)や東海本部(中部総本部の前身)ではこれとは独立した大手合を行っていたが、主な棋士は東京の大手合にも上京して参加していた。また関西、東海においての昇段が東京本院では認められない場合があるなどでの不満が、後の関西棋院独立につながることになる。
戦中戦後
戦時中にも多くの棋士が召集された中で大手合は続けられたが、東京大空襲の際に溜池にあった日本棋院会館が焼失したことにより1945年は中止された。1946年には東京神田の料亭「御座敷本郷」を借りて春期から再開された。この時には40名を越える棋士達が、疎開先各地から上京して参加した。同年秋期は牛込の河田町会館。1947年春期は上野の「東華亭」で行われたが、この亭主との軋轢があり、途中から世田谷の安田邸で行われた。これが契機で日本棋院の新会館再建が急がれ、同年秋期は会館の資金調達活動のために中止となった。
1947年には津島寿一日本棋院総裁の提案により昇段制度を改め、それまでは各期毎に獲得した点数によって昇段可否が判定されていたが、期をまたいでの点数によっても昇段できるようになった。またこの年の春期手合中に、前田陳爾七段、坂田栄男ら8棋士が制度に不満を唱えて日本棋院を脱退し、「囲碁新社」を結成すると言う事件も起きた。囲碁新社は毎月1回の大手合を開催するなどの活動をしたが、1949年に全員が日本棋院に復帰した。
最高位決定戦
1949年6月に藤沢庫之助が大手合による初の九段昇段を果たし、唯一の九段位となった。本因坊秀哉死後名人位が空白となっていた日本棋院では、同年10月に名人規定にて、九段の者が大手合で所定の成績を収めるなどの条件を明文化し、従来は九段位は即名人位を意味していたのを、名人位を段位から分離した。翌1950年2月には、日本棋院の大手合には参加していなかったが十番碁などで抜群の成績を挙げていた呉清源を九段に推挙し、2人の九段が史上初めて存在する事態となった。
1950年には日本棋院と関西棋院の東西交流大手合を実施、4-6月まで10回戦が行われ、東軍30勝12敗2ジゴとなった。1950年後期より、九〜七段の第一部、六〜四段の第二部、三〜初段の第三部の三部制となる。東京、関西、中部間の対局では、上段者の所属地で対局することも不文律となった。1951年からは年1期制となる。
1952年にスポンサーである朝日新聞から、将棋の順位戦の仕組みを大手合に取り入れた名人戦制度が提案され、日本棋院の棋士による投票では1票差で賛成が上回ったものの、木谷実らの強固な反対があったことや、根回し不足による関西棋院の不参加表明などにより、この提案は撤回され、高川格ら賛成派であった理事が辞職することとなる。
この順位戦制の代わりとして1953年から最高位戦が開始される。これは大手合の上にAクラスリーグ(最高位リーグ)を置き、その優勝者を最高位とする棋戦制度。まず1953年に4名の八段による白黒2局ずつのリーグ戦と、七段による大手合により順位を決定。この11位までで1954年にリーグ戦を行いメンバーを入れ替え、1955年に9名による第1期最高位戦リーグが行われた。第1期は坂田栄男九段と杉内雅男八段が6勝2敗で同率となり、前年度順位で坂田が第1期最高位となった。第2期以降からはリーグ優勝者が前期最高位と五番勝負を行なった。ただこの棋戦には関西棋院は参加しておらず、最高位戦は日本棋院内のものだった。
この間、1954年度リーグで坂田栄男が、呉清源、藤沢庫之助、橋本宇太郎に次ぐ九段に昇段。木谷實は1954年から病気のため休場していたが1956年第2期から復帰し、九段昇段、続いて最高位挑戦者となり、坂田からタイトルを奪う。最高位戦は挑戦手合もコミ無しで行われたが、五番勝負最終局だけは先番コミ4目半で行われ、第3期の木谷-島村戦第5局が大手合初のコミ碁となった。1959年には日本棋院に復帰した藤沢庫之助(朋斎)が参加、またリーグ戦中に杉内雅男が九段昇段した。1960年には高川格、宮下秀洋、島村利博が九段昇段し、九段量産の時代となる。最高位決定戦は1961年第6期まで行われ、読売新聞で名人戦が創設されたことをきっかけに朝日新聞がスポンサーを下りて終了する。翌年からは大手合は昇段のためのみの制度に戻り、八〜五段までの第一部と、四〜初段までの第二部の構成となって、これ以上昇段のない九段は出場義務がなくなった。
制度の終焉
大手合制度は、九段の不参加や点数制度の弊害の結果、昇段がたやすくなり、段位のインフレ現象が顕著となった。結果として、九段の棋士が段位の中で最も人数が多くなり、棋士全体の2割を超えるという異常な状態をもたらした。また賞金が付かないため、若手棋士の中には賞金付き棋戦のみ出場して大手合には出ない者も現れるなど、時代に合わない点が現れるようになった。1990年代には酒井猛による順位戦導入の改革案なども出された。
2003年1月20日、日本棋院は大手合制度の廃止を発表。同年4月から
(1)タイトル獲得
(2)一般棋戦の勝ち星数
(3)賞金ランキング
を3本柱とする新昇段制度に移行した。この方式は元々、昇段制度が厳しかった日本将棋連盟が、囲碁界並に昇段機会を増やすために導入した制度を参考にしたものでもある。関西棋院も2004年10月をもって大手合を廃止、2005年1月には日本棋院とほぼ同様の新昇段制度に移行している。
その後、2006年に「新大手合」というべきランキング戦の案が発表された。
(A)プロ・アマで段位を統合し、八段と九段(=プロ)について1位から4位にランキングする
(B)段位は従来どおりながら、九段について1位から4位にランキングする
という二つの案だったが、その後さしたる動きには至っていない。
なお、韓国棋院では大手合に相当する昇段大会が行われていたが、2003年に廃止され、一般棋戦の成績に基づく昇段制度に変更された。
成績(日本棋院)
大手合
年次	甲組優勝	乙組優勝
1927年前期	前田陳爾三段	加藤三七一二段
1927年後期	瀬越憲作七段	川田清子初段
1928年前期	篠原正美四段	関山利一三段
1928年後期	林有太郎五段	関山利一三段
1929年前期	木谷實四段	小野寺新三段
1929年後期	橋本宇太郎四段	川田清子初段
1930年前期	井上一郎三段	苅部栄三郎初段
1930年後期	呉清源三段	伊藤清子二段
1931年前期	長谷川章四段	中川新三段
1931年後期	呉清源四段	田中不二男初段
1932年前期	呉清源四段	染谷一雄二段
1932年後期	高橋重行三段	田中不二男初段
1933年前期	前田陳爾五段	宮下秀洋二段
1933年後期	呉清源五段	藤沢庫之助初段
1934年前期	関山利一四段	田中不二男二段
1934年後期	関山利一五段	藤沢庫之助二段
1935年前期	呉清源六段	苅部栄三郎二段
1935年後期	岩本薫六段	小島春一四段
1936年前期	林有太郎六段	宮下秀洋四段
1936年後期	島村利博四段	坪内政寛初段
1937年前期	藤沢庫之助四段	鈴木五良初段
1937年後期	前田陳爾六段	坂田栄男三段
1938年前期	関山利一五段	坂田栄男三段
1938年後期	関山利一五段	杉内雅男初段
1939年前期	藤沢庫之助五段	高川格四段
1939年後期	橋本宇太郎六段	瀬尾寿初段
年次	第一部優勝	第二部優勝
1940年前期	高川格五段	宮下秀洋四段
1940年後期	藤沢庫之助五段	三輪芳郎二段
1941年前期	坂田栄男五段	伊予本桃市二段
1941年後期	長谷川章五段	藤沢保初段
1942年前期	呉清源七段	桑原宗久初段
1942年後期	小野田千代太郎七段	松本篤二初段
1943年前期	小野田千代太郎七段	伊予本桃一三段
1943年後期	関山利一七段	鈴木圭三二段
1944年前期	梶原武雄五段	本田寿子初段
1944年後期	(不明)
1945年前期	(中断)
1945年後期	(中断)
1946年前期	橋本宇太郎七段	中岡二郎初段
1946年後期	宮下秀洋五段	榊原章二二段
1947年前期	藤沢庫之助八段	杉内雅男四段
1947年後期	(会館建設のため中止)
1948年前期	梶原武雄五段	本田寿子二段
1948年後期	杉内雅男五段	大窪幸雄三段
1949年前期	藤沢庫之助九段	本田寿子三段
1949年後期	宮下秀洋六段	山部俊郎四段
1950年前期	木谷實八段	大窪幸雄五段
年次	第一部優勝	第二部優勝	第三部優勝
1950年後期	島村俊宏七段	篠原正美六段	星野紀二段
1951年	坂田栄男七段	山部俊郎六段	森川正男三段
1952年	宮下秀洋八段	加納嘉徳五段	横山孝一二三段
年次	八段戦優勝	七段戦優勝	第二部優勝	第三部優勝
1953年	坂田栄男八段	高川格七段	伊予本桃一五段	影山利郎四段
年次	七八段戦優勝	第二部優勝	第三部優勝
1954年	坂田栄男九段	梶原武雄七段	横山孝一三段
年次	最高位	第一部優勝	第二部優勝
1955年	坂田栄男九段	加納嘉徳六段	大枝雄介三段
1956年	木谷實九段	榊原章二五段	加藤弘博四段
1957年	木谷實九段	細川千仞七段	佐藤馨三段
1958年	坂田栄男九段	鈴木五良六段	谷宮悌二三段
1959年	藤沢秀行八段	中岡二郎五段	石毛嘉久夫五段
1960年	坂田栄男九段	高橋重行六段	北村洋司三段
年次	第一部優勝	第二部優勝
1961年	桑原宗久六段	佐藤馨四段
1962年	林海峰七段	土田正光二段
1963年	岩田達明八段	下平昭夫二段
1964年	加納嘉徳七段	羽根泰正四段
1965年	大竹英雄七段	福井正明四段
1966年	林海峰八段	松岡輝夫五段
1967年	早瀬弘五段	加藤正夫四段
1968年	石田芳夫五段	武宮正樹四段
1969年	石田芳夫六段	野口仁三段
1970年	加藤正夫六段	趙治勲四段
1971年	加藤正夫七段	趙治勲五段
1972年	石田章五段	川村匤迪五段
1973年	武宮正樹七段	岩田一三段
1974年	石榑郁郎八段	野口仁五段
1975年	淡路修三六段	関根直久五段
1976年	武宮正樹八段	園田泰隆二段
1977年	時本壱七段	橋本雄二郎五段
1978年	小林光一八段	小松藤夫二段
1979年	趙治勲八段	鳴沢泰彦三段
1980年	淡路修三八段	依田紀基二段
1981年	三輪芳郎七段	王銘琬五段
1982年	王立誠七段	小松藤夫五段
1983年	杉内寿子八段	小県真樹五段
1984年	桑田泰明八段	マイケル・レドモンド三段
1985年	後藤俊午六段	植木善大二段
1986年	小林覚八段	小長井克四段
1987年	石倉昇六段	趙善津四段
1988年	久島国夫八段	鄭銘琦四段
1989年	中野寛也五段	山田規三生初段
1990年	日高敏之六段	有村比呂司二段
1991年	小県真樹七段	杉本明初段
1992年	泉谷英雄五段	鈴木伊佐男四段
1993年	中野寛也七段
山田規三生六段	加藤朋子三段
1994年	今村善彰七段
森田道博七段	黒滝正樹三段
1995年	山田規三生七段	久保秀夫二段
1996年	山田規三生七段	矢中克典五段
1997年	羽根直樹八段	河野臨三段
1998年	溝上知親六段	下島陽平五四段
1999年	今村善彰八段	光永淳三二段
2000年	酒井真樹七段	張豊猷四段
2001年	遠藤悦史六段	高野英樹五段
2002年	高野英樹六段	望月研一三段
大手合優勝者決戦トーナメント優勝者
1931年 春期 呉清源 2-0 長谷川章
1931年 秋期 呉清源 1-0 加藤信
1932年 春期 呉清源 2-0 岩本薫
1932年 秋期 呉清源 3-0 (リーグ戦)
1933年 春期 ???
1933年 秋期 呉清源 1-0 木谷実
1934年 春期 呉清源 2-1 篠原正美
1934年 秋期 ???
1935年 春期 ???
1935年 秋期 ???
1936年 春期 橋本宇太郎
1936年 秋期 橋本宇太郎
1937年 春期 ???
1937年 秋期 ???
1938年 春期 ???
1938年 秋期 橋本宇太郎
最高位決定戦優勝者と挑戦手合
1953年リーグ戦順位
八段戦 1.坂田栄男 2.岩本薫 3.木谷實 4.宮下秀洋(途中八段昇段した島村利博が5位)
七段戦 6.高川格 7.前田陳爾 8.炭野恒広 9.藤沢秀行 10.長谷川章 11.杉内雅男(下位 篠原正男、光原伊太郎、林有太郎、細川千仭)
1954年Aクラスリーグ
1.坂田栄男八段 2.島村利博八段 3.杉内雅男八段 4.高川格七段 5.宮下秀洋八段 6.岩本薫 7.前田陳爾七段 8.長谷川章七段 9.炭野恒広七段 10.藤沢秀行七段(8位以下が陥落。梶原武雄、篠原正美が最高位リーグ入り)
第1期 1955年 坂田栄男 リーグ戦6-2 (×宮下、○篠原、○前田、○岩本、○高川、○島村、×杉内、○梶原)(同率2位 杉内雅男、3位 前田 4-3-1)
第2期 1957年 木谷実 3-1 坂田栄男
第2期 1958年 木谷実 3-2 島村利博
第4期 1959年 坂田栄男 3-2 木谷実
第5期 1960年 藤沢秀行 3-1 坂田栄男
第6期 1961年 坂田栄男 2-1-1ジゴ 藤沢秀行
脚注
^ 例えば瀬越憲作六段は本因坊秀哉(名人・九段)に先二を4連勝して先番としていたものが、段位差による先二先の手合とされた。
関連項目
囲碁の段級位制
参考文献
木谷実『囲碁百年 2 新布石興る』平凡社 1968年
坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年
安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年
中山典之『昭和囲碁風雲録上下』岩波書店 2003年
『囲碁年鑑 棋道臨時増刊号』日本棋院
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大場(おおば)とは広い場所のこと。
転じて、囲碁の用語の一つとして、一手(一着)で地を広く囲うことができる点という意味で用いられる。(下記に記載)
囲碁用語としての大場
布石段階で一手の価値が大きい場所で、第一がアキ隅とシマリ、第二が辺のヒラキ、ヒラキヅメである。
実戦的には、シマリの向き、三線と四線の関係、幅の大小、打ち切った場所であるか発展性のある場所であるか、などによって微妙に大場の価値が変わる。
「生きている石の近くは小さい」(苑田勇一)という格言がある。
また、時に急場が優先される。
参考図書
石田芳夫『目で解く大場と急場 』誠文堂新光社 1989年
依田紀基『依田ノート―すぐに役立つ上達理論』講談社 2003年
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オキ(おき、置き)は囲碁用語の一つで、相手の石にも自分の石にも触れないような位置に、文字通り「置く」ように打つ手のこと。動詞では「置く」となる。多くの場合一線や二線など辺の低い位置の、敵陣の急所に打つケースを指す。下図の黒1が「オキ」の一例である。

死活におけるオキ
詰碁などで、オキは眼を奪う重要な手段となることが多い。
図1:
 	図2:
図1の黒1が「三目の真ん中」と呼ばれる急所。図2の白2とツイできても、黒3のハイから黒5に切ればダメヅマリのため白はaに打てず、全滅となる。
黒は1の一線オキが好手で、白がaのツギなら黒bと引き出して黒が攻め合い勝ち。白はbと抜いてaと切らせるよりなく、△4子が落ちる。

黒1が「二の一の急所」と呼ばれる点。白aのサエギリならbにハネて攻め合い勝ち。白cに詰めてきたら、bにワタってよい。同じ「二の一」でも、黒1でdにオイてしまうと負けになる。
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置き碁、置碁(おきご)は、囲碁用語のひとつで、棋力の差がある二人が対局する場合、ハンデとしてあらかじめ碁盤に石を置いて対局する事をいう。将棋の「駒落ち戦」に相当する。
通常実力下位の者を下手(したて)、上位の者を上手(うわて)と呼び、下手は黒石、上手は白石を持つ。通常の対局では黒が先に着手して対局が開始されるが、置き碁の場合は黒があらかじめ盤上に石を置き(棋譜の記録上は着手とされない)、ここに白が先に着手して対局が開始される。
あらかじめ置く石を置き石と言い、通常その数は対局者の実力差に応じて2~9子の間で調整される。置き石の数によって9子局、8子局、…2子局のように呼ぶが、「1子局」というものはない。置き碁と互先の間に位置づけられるものに、定先といって下手が常に先手番を持ち、コミなしで打つ方法がある。
真剣勝負としての色合いは低く、純粋な楽しみか、下手への訓練として行われることが通例である。 現在、置碁は雑誌等に掲載されるプロアマの交流対局などで見られる程度であり、プロの公式戦においては見られない。ただし、大手合などでは棋力差に応じて置き碁も行われていた。
目次 
1	置き石の配置
2	置き石の効果
3	自由置き碁
4	事前置石制
5	参考図書
6	関連項目
置き石の配置
石の置き場所は下記のように定められており、2子から4子までは全て隅の星(2子の場合最も離れた隅の星に置く)、6子では4子に加えて対辺の二つの星、8子では隅と辺のすべての星、5子、7子、9子ではそれぞれ4子、6子、8子に加えて天元(すなわち、9子ではすべての星)となる。数字は、開始の際に石を置いていく順序を表す。
別名として9子局のことを「星目・井目(せいもく)」、4子局のことを「四本柱」と呼ぶこともある。
2子局
3子局

4子局

5子局

6子局

7子局

8子局

9子局
対戦者の実力が大きく離れている場合には、星目の配置にさらに三々や7の七の位置に石を加えることもある。前者を「星目風鈴(井目風鈴)」、後者を「中四目」と呼ぶ。一方が全くの初心者である場合などでは、星目風鈴と中四目を両方採用したり(星目風鈴中四目)、最大25子まで置き石を増やすケースもある。
星目風鈴

中四目

星目風鈴中四目

25子局
置き石の効果
通常置き石1つは、目数にして約10目のハンデといわれる。例えば互先で打って30目ほどの開きが出る実力差であれば、3子で打つのが適当ということになる。ただし置き石が増えるとその相互の関連によってさらに威力が増し、9子局のハンデは約130目に相当するといわれる。
自由置き碁
置き場所を下手の好きな場所に決めて良い、自由置き碁と呼ぶ方式もある。自分の得意なスタイルに合わせて自由に配置できる、星以外の定石も学べる、様々な配置を工夫できるなど、通常の置き碁にはない楽しみ方ができる。プロアマ本因坊対抗戦などで採用されている。
自由置き碁の配置の一例(6子)
事前置石制
当初、囲碁は互先であっても、下図のように白黒2子ずつを置き合った状態から対局を始めていた。これを事前置石制または「鎮子碁」と呼ぶ。日本では早くからこの制度が消え、第一着から自由に打つ方法が広まっていたが、中国などでは20世紀初頭まで事前置石制が行われていた。また、チベットの碁(密芒)では、17路の盤に白黒6子ずつを置いてスタートする。
参考図書
大竹英雄『基本置碁事典 上・下』日本棋院
『新・早わかり置碁小事典―九~三子局パターンの研究』日本棋院
関連項目

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オサエは囲碁用語の一つで、相手の石が進出してくるのを止めるように打つ手。形式としてはハネの形になるもの、マガリの形になるものなどが含まれ、きちんとした定義は難しい。あくまで進出を止めるニュアンスの手段の総称である。例えば、下の図1・2の黒1のように、相手の隅への侵入を防ぐ手はいずれも「オサエ」と表現される。
図1
 	図2
オサエのいろいろ
黒2,4,8,白5がいずれも「オサエ」である。
上図黒1のように、マガリの形で相手の進出を止め、厚く勢力圏を確保する手を「オサエコミ」と表現することがある。
参考図書:淡路修三『ハネとオサエ (烏鷺うろブックス)』1989年
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オシは囲碁用語のひとつ。「押し」とも表記し、動詞では「押す」となる。自分の石と相手の石が斜めの位置関係にあるとき、その両方に隣接させるように打ち、相手の石を押しつけるようにして自分の石の勢力範囲を伸ばす手である。下図の黒1,3がオシの一例である。
また、オシの現れる場所が盤端近くで、押す方向が盤中央である場合、「オシアゲ」、「ソイアゲ」という用語を使うこともある。下図左の黒1が「オシアゲ」、右が「ソイアゲ」の一例。
オシアゲ
 	ソイアゲ
「オシ」という術語は自分の石が中央方向へ向かう場合に用いる場合が多い。下図左・黒1のように相手の石の下の線に打つ場合には「ハイ」(這い)、右・白1のように盤端に向かう場合には「オサエ」あるいは「オサエコミ」という術語が用いられる。ただしこれらには明確な定義があるわけではなく、局面やニュアンスによって使い分けられる。
ハイ(這い)
 	オサエ
格言
車の後押し
上図のように相手の石をどこまでも押し上げて行くのは、相手を強化させて一歩先に勢力圏を拡大させてしまうことになり、多くの場合良くないとされる。こうした打ち方を、相手のお手伝いという意味を込めて「車の後押し」と呼ぶ。「車の後押し悪手の見本」とも言われる。
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オシツブシは囲碁用語の一つで、相手の二団以上の石を同時にアタリにし、二眼を確保する手段。文字通り相手を押しつぶすイメージであることからつけられた。着手禁止点を利用して生きる手筋である。
黒1が「オシツブシ」の手筋。白は自殺手禁止のルールによりaの点にツグことができず、いずれ黒がaに打って白2子を同時に抜き、二眼を確保して生きとなる。
図1:
 	図2:
図1で、白が生きるには図2の白1ホウリコミしかない(さもなくば五目ナカデで生きられない)。黒2と取ったら、白3とオシツブシて生きとなる。aのダメが詰まっていると、白3に打てずコウとなる。
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御城碁(おしろご)は、江戸時代に囲碁の家元四家の棋士により、徳川将軍の御前にて行われた対局。寛永3年(1626年)頃に始まり、毎年1回、御城将棋とともに2、3局が行われ、幕末の元治元年(1864年)に中止となるまでの230年余りに渡って続いた。御城碁に出仕することは、家元の代表としてであり、当時の棋士にとってもっとも真剣な勝負であった。また碁によって禄を受けている家元四家にとっては、碁の技量を将軍に披露する義務としての意味もあり、寺社奉行の呼び出しによるという形式で行われた。実際に将軍が観戦することは多くなかったが、代行として老中などが列席した。
全部で536局の対局が行われ、出仕した棋士は67名。代表的な成績としては、本因坊秀策の、嘉永2年(1849年)から文久元年(1861年)にかけての19連勝が有名。
目次 
1	実施方法
2	歴史
2.1	成立期
2.2	名人碁所を巡る争いの舞台
2.3	幕末期
3	参考文献
4	関連項目
実施方法
江戸城本丸御殿の黒書院にて行われるのが慣例であったが、白書院や帝鑑の間が使われることもあった。出席棋士には銀十枚と、時服、朝夕の食事と茶菓が支給された。
対局は段位に基づく手合割で行われる。碁所は家元四家をまとめる取仕切り役となり、お止め碁として対局は行わないという慣例も後にはできた。徳川吉宗の時代の享保元年(1716年)からは、大坂冬の陣の吉例にちなんで、11月17日に行われるように定められた。また対局が1日で終わらないことが多いため、事前に対局を行い、当日御前ではその棋譜を対局者が並べるのみとする下打ちという方式が、本因坊道策の時代の寛文9年(1669年)に始められた。「御好み」として当日将軍の御声掛かりでその場で行われる対局もあった。
出仕する対局者は本因坊家、井上家、安井家、林家の家元四家の当主、跡目、七段以上の棋士だが、その他に、外家と言われる他の家人で認められた者もあった。下打ちの行われる間はそれがたとえ数日におよんでも、対局者は外出を禁じられたことから、「碁打ちは親の死に目に会えない」という言葉が生まれた。この言葉は後には、道楽としての囲碁への過度な傾倒をたしなめる方便にも転用された。
歴史
成立期
徳川家康が碁を好み、文禄から慶長にかけて京中や周辺の碁打ち、将棋指しをしばしば招くようになり、また禁裏に昇ることもあった。慶長13年(1608年)には駿府の家康御前にて本因坊算砂と林利玄の対局が行われたという。その後、京都寂光寺にあった算砂は、毎年三月に他家の棋士を率いて江戸城に登城し、将軍に謁見して御前試合を行なうようになる。算砂を継いで名人となった中村道碩と安井算哲による御前対局も行われ、寛永3年(1626年)に二条城徳川秀忠御前で両者の対局(算哲先番3目勝)が行われたのを、一般には御城碁の始めとしている。
徳川家光の代になって寛永5、6年にも道碩と算哲の対局があり、寛永14年(1637年)頃に将棋の対局も行われるようになった。「徳川実紀」でも寛永8年(1631年)以降に「碁将棋御覧」の記載が多く現われ、正保元年(1644年)からはほぼ毎年の10~12月に記載されるようになる。家綱の時代、碁将棋衆が寺社奉行管轄下となった寛文2年(1662年)の後、寛文4年からは年中行事として毎年の記録が残されている。
名人碁所を巡る争いの舞台
道碩の死後、名人の地位を巡って本因坊算悦と安井算知の争碁六番碁が、正保2年(1645年)から承応2年(1653年)にかけて行われ、これが江戸城での御城碁の始まりとなった。争碁は3勝3敗で勝負がつかず、算悦の死後に算知が碁所に就くが、その許可が下りたのは寛文8年(1668年)の御城碁の二日前の日だった。この御城碁での算知の相手は算悦を継いだ本因坊道悦で手合割定先、この対局は持碁とするが、道悦は算知との争碁を願い出て、この対局を第1局として60番の争碁を打つことになった(実際は20番で終了)。これ以降の争碁では1局目だけが御城碁として打たれるのが慣習となる。
道悦の跡を継いだ本因坊道策は、その抜群の技量からさしたる反対もなく碁所に就き、御城碁は16戦して14勝2敗、その2敗も向2子の手合だった。その1局である天和3年(1683年)の安井春知戦の2子局1目負の碁を、道策は生涯の名局と述べている。また安井算哲(2世算哲、後の渋川春海)は、寛文10年(1670年)の道策との御城碁において、先番で1手目を天元に打つという秘策を用いたが9目負けとなった。
道策の跡目となった本因坊道知は、15歳の宝永2年(1705年)に御城碁で六段格の安井仙角と対戦することになったが、この時の手合割を道知の後見である井上道節因碩が互先を申し入れたため、反発した仙角は20番の争碁を願い出て、御城碁をその第1局として道知先相先で打たれた。道知は第1局で囲碁史上に残るヨセの妙手を放つなど3連勝、仙角は願い出を取り下げることとなった。
9世本因坊察元と6世井上春碩因碩は明和元年(1764年)に八段昇段し、名人を決める争碁20番碁が明和3年(1766年)に始まり、第1局は御城碁にて持碁としたが、その後に察元5連勝で名人となる。
幕末期
11世井上幻庵因碩は名人碁所を望んだが、本因坊秀和との争碁を申し込まれ、天保11年(1840年)第1局に敗れ、また局中下血し、名人願書を取り下げた。天保13年(1842年)にも御城碁で対局するが、再度先番秀和に敗れ、碁所を断念するに至った。
七段となって御城碁に出仕するにおいては剃髪することが定められていたが、天保四傑の一人とされる安井門下の太田雄蔵は美男子としても知られており、剃髪を嫌って七段昇段を断ったと言われている。その後嘉永元年(1848年)に昇段したが剃髪はせず、御城碁も打たなかった。
秀和の跡目秀策は、嘉永2年(1849年)より御城碁に出仕、文久元年(1861年)までの13年間に、御城碁で19戦して全勝とした。安政2年(1855年)、安政大地震により御城碁は中止。安政6年(1859年)に秀和は名人碁所を願い出たが、幕府多忙のためとの理由で却下される。文久2年(1862年)には、下打ちのみ行われ、江戸城火災を理由に御城碁は沙汰止み。元治元年(1864年)に御城碁は中止となり、その歴史を閉じた。
参考文献
瀬越憲作、八幡恭助、渡邊英夫編『御城碁譜 (全十巻)』御城碁整理配布委員会 1950-51年
瀬越憲作、八幡恭助、渡邊英夫編『御城碁譜 (全十巻)』 誠文堂新光社 1978年
水口藤雄、堀田トヨ「徳川将軍と御城碁および京都碁界に関する史料集」(『1995年度版囲碁年鑑』日本棋院 1995年)
水口藤雄「御城碁異聞帖」(「囲碁クラブ」1997年1-7月号)
増川宏一『碁打ち・将棋指しの江戸』平凡社 1998年
水口藤雄「徳川家康の囲碁物語(11)」(「碁ワールド」2004年11月号)
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オセロ (Othello) は、2人用のボードゲーム。交互に盤面へ石を打ち、相手の石を挟むと自分の石の色に変わり最終的に石の多い方が勝ち。単純なルールながらゲームとしての複雑さは人間がゲームの木の全展開を把握可能な程度を超えており、いまだにコンピュータによる全解析は達成されていない。“A minute to learn, a lifetime to master”(覚えるのに1分、極めるのは一生)がオセロのキャッチフレーズである[1]。
オセロは商標であることから、ほぼ同一ルールのゲームとして「リバーシ」「白黒ゲーム」「源平碁」の名称が使われることもある(リバーシ・源平碁・白黒ゲームの節も参照)。
Windows XPではゲームでインターネットリバーシが付属されていたが、Vista以降では付属されなくなった。
目次 
1	遊び方
1.1	基本的なルール
1.2	白番・黒番の決定方法
1.3	ハンデのつけ方
1.4	形勢判断
2	オセロの歴史
3	競技人口
4	オセロの販売メーカー
5	類似のゲーム等
5.1	オセロを使った別のゲーム 等
5.2	リバーシ・源平碁・白黒ゲーム
6	コンピュータオセロ
7	世界大会等
7.1	世界オセロ選手権(World Othello Championship)
8	関連文献・資料
8.1	定石書・戦術書
8.2	歴史
8.3	派生ゲーム
8.4	プログラミングなどとの関係
8.5	学習用ソフトウェア
8.6	コンピュータゲーム移植作品
9	脚注
10	関連項目
11	外部リンク
遊び方

オセロの初期配置。図示したように右上が黒石になるよう置く。
基本的なルール
一言で言えば、プレイヤーは「石を黒白交互に挟むように打ってひっくり返し、最後に石が多い方が勝ち」となる。
具体的には次の通りゲームを進めていく。
8×8のマス目の緑色のオセロ盤に、図のように右上を黒として、石を黒白2個ずつ置き、ゲームを開始する。
プレイヤーは交互に黒石、白石を打つ。石は両面が白と黒になっており、石を打つとき、縦・横・斜め方向に相手色の石を自色で挟み、挟まれた石を自色に返す。相手の石を返すことができないマスに石を打つことはできない。
打てるマスが全くない場合はパスとなり、相手が続けて打つことになる。パスの回数に制限はないが、返せる相手の石が1つでもある場合、パスをすることは認められない。
最後まで打って、石が多い方が勝ちである。なお最後とは「マスが全て埋まった場合」、「両者とも打てるマスがなくなった場合」のいずれかである。
白番・黒番の決定方法
オセロは先手が黒、後手が白である。
公式ルールにおける黒白の決定は「伏石」というコイントスに近い方式で行われる。 引き分けを認めない場合は、段級位が上の者が石を1個、相手に見えないように手で隠して盤の上に置き、上面の色を相手が当てる。的中であれば的中させた者が、不的中の場合は石を隠した者が「黒番・白番を選ぶ権利」、あるいは「石の数が同数で終局した場合に勝者となる権利」のどちらかを選択する。 引き分けを認める場合は、同様に段級位が上の者が石を隠し、相手が上面を選択してその面の色の手番を持つことになる。引き分けを認めるか否かは大会によって異なる。
オセロは黒白の有利不利はコンピュータでは解析されていない。 終局までパスがない場合、最後に打てるのは白なので白有利とする選手もいるが、黒番は定石を主導できることが多く、黒を得意とする選手もいる。
ハンデのつけ方
ハンデをつける方法としては、対局前に隅に次の通り黒石を置く方法で行われる。ハンデ戦の場合は下手が黒を、上手が白を持つが、上手先手で対局を開始する。
1子局―左上の隅に黒石を置いて対局を開始する。
2子局―左上と右下の隅に黒石を置いて対局を開始する。
3子局―左上と右下、右上の隅に黒石を置いて対局を開始する。
4子局―4か所全ての隅に黒石を置いて対局を開始する。
形勢判断
オセロの形勢を判断するとき、石の数の多寡で考えられることも多いが序盤・中盤では誤解であり、序盤・中盤の形勢判断は石の数ではなく打てるマスの多寡でなされるものである。
序盤は様々な定石が検討・確立されており、まず基本定石を覚えるのが強くなる第一歩である。
中盤戦術として、自分の打てるマスを極力減らさない「一石返し」、自分の打てるマスを増やす「中抜き」、自分のみが打てるマス(余裕手という)を作る「余裕手の確保」が基本技となる。
終盤戦術としては、固まった奇数の空マスは先に打ち、偶数の空きマスは先に打たせ、最後を自分が打って獲得石を多くする「偶数理論」がある。なお後手の白番を持つと終局までパスがない場合最後の手を打てることから、終盤の偶数理論で有利になるケースが多いが、余裕手の確保等手順次第では先手の黒番でも有利になるケースを展開できることもある。
オセロの歴史
1973年に日本の長谷川五郎がオセロを発表し、発売と共に玩具業界としては空前の大ヒット商品となり一家に一台あるといわれるほどスタンダードゲームとなった。以来、何十回もの全日本オセロ選手権大会や世界オセロ選手権大会(ともに後述)が毎年開催されている[1]。
オセロの名称の由来はシェイクスピアの戯曲「オセロ」で、「黒人の将軍・オセロと白人の妻・デスデモーナを中心に敵味方がめまぐるしく寝返るというストーリーに、黒白の石がひっくり返りながら形勢が次々変わっていくゲーム性をなぞらえた。緑の盤面は、戯曲オセロの戦いの舞台、イギリスの緑の平原をイメージして作った」と日本オセロ連盟のサイトに長谷川のコメントが記載されている[2][1]。このネーミングは長谷川五郎の父親で、旧制水戸高等学校(水高)の教授であった長谷川四郎によるものである。
なおオセロの大ヒットに伴い、シェイクスピア関係の様々な名称を商標登録する企業が当時続出したが、オセロ以外でヒット商品の名称になった事例はその後ほとんどない。
オセロの誕生に至る歴史は日本オセロ連盟のサイトに長谷川のコメントが記載されている。『オセロは第二次世界大戦が終わって間もない頃、茨城県の水戸市で生まれたゲームで「黒板をおいた青空授業が9月から始まりました。オセロの原型はそういう環境の下に生まれました。囲碁(相手の石を囲んだら取る)をよく知らない中1の生徒達のガヤガヤワイワイの中から、相手の石を挟んだら取るというルールが生まれました』[3][1]。
しかし、長谷川はその後積極的にこのゲームをすることはなかった。長谷川は1960年代末から製薬会社の営業として仕事をしていたが、入院中の患者に時間潰しのゲームを要望された際、囲碁や将棋を教えたがなかなか患者たちは馴染まず、妻と家庭の牛乳瓶の紙蓋を集めて現在のオセロを自作、教えたのが今に至るオセロのきっかけである。
1963年頃には長谷川の自宅で数人の仲間とゲーム研究と実験が繰り返され、最初に8×9の盤で間接挟みでも石を返す複雑なルールのものができた。1970年10月頃、メルク社(西ドイツの製薬会社)からチェスセットが日本の薬品関係者に贈られると、長谷川は今まで実験中であったゲームを8×8のチェス盤を用い、このチェス盤にぴったり合う牛乳瓶の紙蓋を石に選び、複雑な間接挟みをやめて簡明な直接挟みのみのルールに整理し、「オセロ」と命名した[4]。
長谷川が担当していたある病院の医局長から「このゲームは社会復帰を目指す患者のリハビリに適し華がある」と太鼓判を押されたといわれるほど評判になり、初期の全日本オセロ選手権大会の実力者に病院関係者が多いこともそれを裏付けている[5][1][6]。発売前に開かれた「第1回選手権大会」に来た客にも、長谷川の縁でファンとなっていた病院関係者が多かったという[7]。
最初に製作されたオセロの石のサイズ(34.5ミリメートル)は、当時の牛乳瓶の紙蓋とほぼ同じ大きさである。これは長谷川が商品化に向けてオセロを試作した際、牛乳瓶の紙蓋を用いて石を製作したためである。現在も公式試合ではこのサイズの石を用いている[1]。
販売元となるツクダに長谷川からオセロが持ち込まれたのは1972年だった[7][8]。商品企画部門の責任者だった和久井威によると、当時玩具に対してキャラクター以外のロイヤリティを払うという意識が業界にはほとんどなく、オセロにもパテントはついていなかったが、ツクダのオーナーは「おもちゃはアイデアだから」と支払を認めたという[8]。また、玩具業界にはボードゲームは4人以上で遊べるべきという意識があったため、大人をターゲットとしてパッケージにタバコやライターを映している[7]。価格も2200円に設定された[8][9]。
オセロは1973年4月25日[10]に「オフィシャルオセロ」が発売された。その初期ロットは在庫を残さないよう3千個で、経費の都合でテレビ宣伝も打たなかったものの、百貨店の店頭などで実演販売をすると着実に売れていった[8][9]。これに自信を得た和久井はその年の年末商戦に向けてテレビCM(ドンキーカルテットのジャイアント吉田を起用)を製作し、オンエア後の10月からの3ヶ月間で38万個、1974年に120万個以上[11]、1975年に280万個が売れ、日経流通新聞(現・日経MJ)のヒット商品番付で2年連続で「大関」に選出された[8][9]。
1977年にアメリカ合衆国で販売され、その年に100万個が売れたという[9]。前記のキャッチフレーズは、このときにアメリカ側で考案されたものである[9]。
オセロ盤のバリエーションは販売開始以後、順次追加されている。和久井によると2007年時点でも年間40 - 50万個は売れているという[8]。
発売時期	主なオセロ盤名	特徴
1973年〜	オフィシャルオセロ	オセロ公式大会使用盤。
1975年頃〜	マグネットオセロ	石がマグネット式で石ずれ防止になり、かつ盤が折り畳み可能。
1970年代後半〜	ベストオセロ、ナイスオセロ	盤に石ケースを内蔵。2000年代にもマイナーチェンジあり。
1980年代前半〜	ビクトリーオセロ	マス目に立体ガイド付で石がずれない入門用。
2000年代前半〜	大回転オセロ	盤に回転式の石を固定。発売当初は「オセロ極(きわめ)」と呼ばれていた。
競技人口
オセロの競技人口は、 2001年に長谷川が著した文献『オセロの勝ち方』 によると約6000万人と書かれている。 ただしこの競技人口は、ルールを知っている人全てが含まれており、参考扱いでもある。
将棋(600万人:レジャー白書[12])や囲碁(220万人:レジャー白書[13])、チェス(レジャー白書では調査対象外。日本チェス協会のサイトで確認できる会員名簿では400人弱)などに比べると多いとしているが、定義を統一した調査を行われたわけではない。 現在はコンピュータゲームやスマホゲームが全盛の中、アナログゲーム同士を比べる意味は低くなっている。
なお、休み時間の遊戯用として小学校の教室内にアナログのボードゲームであるオセロ盤や将棋盤などが置いてあるケースがよく見られている。また、オセロ盤を設置する老人ホームやデイサービスセンターが増え、ゲームを楽しむ高齢者も多くいる[14]。元ツクダオリジナルの和久井威はオセロがロングセラーとなった要因に対象年齢が幅広いことを挙げ、「夫とオセロをして勝つと夫の機嫌が悪くなり、「待った」をされて結婚以来初めて口答えをした」という87歳の女性の投書が朝日新聞に載ったという話を紹介している[8]。
オセロの販売メーカー
以下のように、何度かの変遷をたどっている。
オセロの販売メーカーは、当初はツクダおよびその子会社のツクダオリジナル(1974年分社化)であった。
2002年、ツクダオリジナルがバンダイの子会社となる。
2003年3月、ツクダオリジナルと、元ツクダオリジナル企画部長でありオセロを長谷川と共に立ち上げた和久井威が経営するワクイコーポレーションが経営統合し、パルボックスとなった。
2005年、パルボックスはバンダイの子会社メガハウスに統合し現在に至っている。
アメリカではゲイブリル社が最初の販売元だった[9]。その後数社の変遷を経て、2007年時点では欧米の販売権はマテルが所有していた[9]。
類似のゲーム等
1973年のオセロ発売当初、オセロの商標だけでなくオセロの形式(8×8の緑盤、黒白のひっくり返す石等)は意匠権があった。ゆえに当時長谷川が商品化を持ち込み販売を応諾したツクダが商標権、意匠権に基づき独占販売を行ってきた。しかし意匠権の20年の期限が切れた現在、商標を除けば他メーカーでも同様のゲームを販売することは可能となっており、現在類似ゲームはネットを中心に数多く見られるようになっている(リバーシ、白黒ゲーム等)。
安価なポータブルゲームとして、コンビニや駅前の店などに、リバーシ、白黒ゲーム等の名称でオセロとほぼ同じゲームが販売されていることも最近は見かけられる。
また長谷川は、オセロの盤面を8×8から10×10に拡大した「グランドオセロ」、そこから隅を切り落とし、八角形状にして8つの隅を持つ「エイトスターズオセロ(旧称『88オセロ〈エイティエイトオセロ〉』)」を考案して市場に送り出したが、これらはマイナーゲームの域を出ていない。
コンピュータゲームやスマホゲームが全盛の中、アナログのボードゲームの売上は減少しており、オセロもその例外ではない。
アナログのボードゲーム販売強化手法の一つとして、オセロと他の家庭用ボードゲームを一緒にして販売されるケースも多い。この場合、オセロ石を活用して様々なバリエーションの派生ゲームが追加されるケースもある。
オセロを使った別のゲーム 等
オセロの石を使って、マス目の少ない囲碁、おはじき、積み木崩し、トランプのチップ等で遊ぶケースがあるが、日本オセロ連盟が公式にルールを定めたものはない。
リバーシ・源平碁・白黒ゲーム
1973年にオセロがヒットする以前、オセロと似た白黒の駒を使うボードゲームとして「リバーシ (Reversi、レヴァルシー)」や「源平碁」があった。当時のこれらのゲームについては、1981年に長谷川が著した文献『オセロの打ち方』には「(オセロの)原型」として紹介されている。オセロと比べ「非常に似通っている」または「全く別のゲームに近い」等、様々な意見がある。後述の現物や文献を参照のこと。
「源平碁」は昔の現物の写真がインターネット上で確認できる[15]。また世界オセロ連盟のホームページに、オセロとリバーシを比較したコメントがある[16]。源平碁の説明書を読むと、パスのルールがはっきりしていないなど、ルールに曖昧な点がある。
「リバーシ」については、『世界遊戯法大全』(松浦政泰 編、1907年、博文館)においてはレヴァルシー(Reversi)という記述があるが、英語表記を見ればわかる通り「リバーシ」について記述されたものである。初期配置は図を見るとオセロと同様であり(色は異なる)、パスの場合は相手が打てること(パスが連続したら連続して打てること)、隅を取れば有利になるといったことも書かれている。
これらは別のゲームだが「オセロ」は商標であることと、現在のオセロのルールが世界標準であることから、オセロの販売メーカー以外の他社からオセロとほぼ同ルールのゲームが「リバーシ」や「白黒ゲーム」等の名称で販売されることがあり、この場合は盤や駒もオセロとほぼ同じタイプのものが使われている。このため、現行の「リバーシ」はオセロの別名のような扱いをされることが多い。
コンピュータオセロ
詳細は「コンピュータオセロ」を参照
オセロにはルール上偶然の要素はない。ゲーム理論では、オセロは将棋やチェス、囲碁、囲連星などと同じく二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される。
オセロはルールが単純であるため、古くからプログラミングの教材として、あるいは実際の製品としてコンピュータ上で開発されてきた。1980年には、家庭用ゲーム機である Atari 2600用のオセロが発売されている。また、アスキーによりオセロプログラムを対局させる「マイクロオセロリーグ」が企画され、その模様は記事として掲載された。1986年には同社からオセロを題材とした思考ゲームのプログラミング解説書も出版された(森田ら(共著)『思考ゲームプログラミング』)。
当初はコンピュータの性能が低かったため人間は容易にコンピュータに勝つことができた。しかし徐々に、特に終盤でコンピュータに読み切られて圧倒されるようになった。1997年に当時のオセロ世界チャンピオン村上九段がコンピュータに6連敗したことが転換期となり、現在高性能のオセロプログラムには人間はまず勝つことができない。例えば無料オセロアプリケーションであるゼブラはパソコン及びスマホで利用できるが、極めて強く人間で勝てるのは世界チャンピオンクラス以外は存在しない。歴史順としては、探索空間の狭い順にチェッカー・オセロ・チェスにおいてコンピュータが人間のチャンピオンに勝利し、その後は将棋や囲碁が焦点になっていった。
チェッカーについては双方の最善手が解明されているが、オセロはまだ完全には計算されていないゲームのひとつである。オセロの盤をn×nに一般化した場合、ある与えられた盤の状態においてプレイヤーが必ず勝つことができるかを判定する問題はPSPACE完全であることが分かっている。盤の大きさが4×4あるいは6×6のケースは全て計算されており、例えば6×6のケースについて双方が最善の手順を取った場合、16対20で後手が必勝となることがその手順とともに解明されている[17]。しかし8×8の局面数に対しては、現時点では最善手順は発見されていない。
世界大会等
全日本オセロ選手権大会[18](1973年〜)や世界オセロ選手権大会(1977年〜)など、幅広く大会が行われている。なお第1回世界オセロ選手権大会は東京で行われているが、現在でも日本は世界最強国である。
2006年に行われた第30回世界オセロ選手権大会は、三十(みと)と、オセロの発祥地である茨城県の水戸市をかけて同市で行われた[19]。また水戸市では、2016年にも同市において2回目となる第40回世界オセロ選手権大会が行われた。
世界オセロ選手権(World Othello Championship)
開催年	開催地	世界チャンピオン	団体戦優勝国
第1回	1977年	日本の旗 東京	日本の旗 井上博	(未実施)
第2回	1978年	アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク	日本の旗 丸岡秀範	(未実施)
第3回	1979年	イタリアの旗 ローマ	日本の旗 井上博	(未実施)
第4回	1980年	イギリスの旗 ロンドン	アメリカ合衆国の旗 ジョナサン・サーフ	(未実施)
第5回	1981年	ベルギーの旗 ブリュッセル	日本の旗 丸岡秀範	(未実施)
第6回	1982年	スウェーデンの旗 ストックホルム	日本の旗 谷田邦彦	(未実施)
第7回	1983年	フランスの旗 パリ	日本の旗 石井健一	(未実施)
第8回	1984年	オーストラリアの旗 メルボルン	フランスの旗 ポール・ラル	(未実施)
第9回	1985年	ギリシャの旗 アテネ	日本の旗 滝沢雅樹	(未実施)
第10回	1986年	日本の旗 東京	日本の旗 為則英司	(未実施)
第11回	1987年	イタリアの旗 ミラノ	日本の旗 石井健一	アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第12回	1988年	フランスの旗 パリ	日本の旗 為則英司	イギリスの旗 イギリス
第13回	1989年	ポーランドの旗 ワルシャワ	日本の旗 為則英司	イギリスの旗 イギリス
第14回	1990年	スウェーデンの旗 ストックホルム	日本の旗 為則英司	フランスの旗 フランス
第15回	1991年	アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク	日本の旗 金田繁	アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第16回	1992年	スペインの旗 バルセロナ	フランスの旗 マーク・タステ	イギリスの旗 イギリス
第17回	1993年	イギリスの旗 ロンドン	アメリカ合衆国の旗 デビッド・シェイマン	アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第18回	1994年	フランスの旗 パリ	日本の旗 滝沢雅樹	フランスの旗 フランス
第19回	1995年	オーストラリアの旗 メルボルン	日本の旗 為則英司	アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第20回	1996年	日本の旗 東京	日本の旗 村上健	イギリスの旗 イギリス
第21回	1997年	ギリシャの旗 アテネ	日本の旗 末國誠	イギリスの旗 イギリス
第22回	1998年	スペインの旗 バルセロナ	日本の旗 村上健	フランスの旗 フランス
第23回	1999年	イタリアの旗 ミラノ	オランダの旗 デビッド・シェイマン	日本の旗 日本
第24回	2000年	デンマークの旗 コペンハーゲン	日本の旗 村上健	アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第25回	2001年	アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク	アメリカ合衆国の旗 ブライアン・ローズ	アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第26回	2002年	オランダの旗 アムステルダム	オランダの旗 デビッド・シェイマン	アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第27回	2003年	スウェーデンの旗 ストックホルム	アメリカ合衆国の旗 ベン・シーリー	日本の旗 日本
第28回	2004年	イギリスの旗 ロンドン	アメリカ合衆国の旗 ベン・シーリー	アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第29回	2005年	アイスランドの旗 レイキャビック	日本の旗 為則英司	日本の旗 日本
第30回	2006年	日本の旗 水戸	日本の旗 為則英司	日本の旗 日本
第31回	2007年	ギリシャの旗 アテネ	日本の旗 冨永健太	日本の旗 日本
第32回	2008年	ノルウェーの旗 オスロ	イタリアの旗 ミケーレ・ボラッシ	日本の旗 日本
第33回	2009年	ベルギーの旗 ゲント	日本の旗 高梨悠介	日本の旗 日本
第34回	2010年	イタリアの旗 ローマ	日本の旗 高梨悠介	日本の旗 日本
第35回	2011年	アメリカ合衆国の旗 ニューアーク	日本の旗 信川紘輝	日本の旗 日本
第36回	2012年	オランダの旗 レーワールデン	日本の旗 高梨悠介	日本の旗 日本
第37回	2013年	スウェーデンの旗 ストックホルム	日本の旗 岡本一樹	日本の旗 日本
第38回	2014年	タイ王国の旗 バンコク	日本の旗 末國誠	日本の旗 日本
第39回	2015年	イギリスの旗 ケンブリッジ	日本の旗 高梨悠介	日本の旗 日本
第40回	2016年	日本の旗 水戸	タイ王国の旗 ピヤナット・アンチュリー	日本の旗 日本
関連文献・資料
定石書・戦術書
丸岡秀範 『ぼくたちオセロエイジ』 (C・D企画: 大和学芸図書、1979/03)
日本オセロ連盟(編纂) 『図解 オセロ入門』 (虹有社、1983/01) ISBN 4770900058
谷田邦彦 『図解 早わかりオセロ ― これが必勝のコツだ!!』 (日東書院本社、1986/12) ISBN 4528004933
谷田邦彦 『絵でわかるオセロ入門』 (日東書院本社、1988/05) ISBN 4528008440
井上博 『逆転の発見 ― オセロの定石と必勝戦術 (改訂新版)』 (ネコ・パブリッシング、1992/12) ISBN 4873660882
長谷川五郎 『オセロの打ち方 ― 勝つための基本戦術』(講談社、1981/12) ISBN 4061277596
長谷川五郎 『オセロ百戦百勝 ― 勝つための技術』(講談社、1990/07) ISBN 4062048434
長谷川五郎 『オセロ大観〈1〉』 (近代文藝社、1995/09) ISBN 477334718X
長谷川五郎 『オセロ大観〈2〉』 (近代文藝社、1995/09) ISBN 4773347198
長谷川五郎 『オセロの勝ち方 [改訂新版]』 (河出書房新社、2006/07) ISBN 4309269087
長谷川五郎 『オセロ教室』(近代文藝社、2008/8) ISBN 4773375825
中島哲也 『たのしく上達 図解オセロ ― 定石から必勝テクニックまでわかりやすく解説!』(成美堂出版、2009/05) ISBN 4415305490
村上健 『史上最強カラー図解 強くなるオセロ』(ナツメ社、2011/03) ISBN 4816350330
滝沢雅樹(監修) 『図解 オセロの基本―マンガで覚える』 (滋慶出版/土屋書店 、2011/11) ISBN 4806912344
松浦政泰『世界遊戯法大全』(1907年、博文館) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860315 (コマ番号111〜112)ASIN B008Y7Q9QU
歴史
長谷川五郎 『オセロの打ち方 ― 勝つための基本戦術』(講談社、1981/12) ISBN 4061277596
長谷川五郎 『オセロ百人物語 オセロ史を飾った名選手たち』 (河出書房新社、2005/12) ISBN 4309906559
長谷川五郎 『オセロゲームの歴史』 (河出書房新社、2011/07) ISBN 9784309909134
「和久井威氏ロングインタビュー 第2回」『月刊トイジャーナル』2007年6月号、東京玩具人形協同組合
派生ゲーム
長谷川五郎 『オセロの打ち方 ― 勝つための基本戦術』(講談社、1981/12) ISBN 4061277596
長谷川五郎 『ソクラテスの打ち方』(ソラリス、1994年) ISBN 4795203806
佐藤周二 『オセロ盤でもできる知的ゲーム 4・7』 (創栄出版、2006/08) ISBN 4434081616
プログラミングなどとの関係
森田和郎ら 『思考ゲームプログラミング ― オセロゲームのアルゴリズムと作成法』 (アスキー、1986/02) ISBN 4871481867
池原吉彦 『オセロで学ぶ BASIC 入門 ― 手作りプログラムで学ぶコンピュータ基礎講座』 (技術評論社、1990/07) ISBN 487408365X
Seal Software 『リバーシのアルゴリズム C++ & Java 対応 ―「探索アルゴリズム」「評価関数」の設計と実装』 (工学社、2003/06) ISBN 4875934289
学習用ソフトウェア
『中島哲也のオセロセミナー』(サクセス、2002年)--- Xbox 対応
コンピュータゲーム移植作品
『オセロマルチビジョン』(FG-1000、ツクダオリジナル、1983) - 本体にゲームを内蔵。セガのSG-1000シリーズと互換性があった。
『オセロ』(SG-1000、セガ、1985)
『オセロ』(ファミリーコンピュータ、河田、1986/10/13) - 旧ツクダオリジナル(現メガハウス)から正式にライセンスを受けて作られている。
『オセロ』(ゲームボーイ、河田、1990/2/9)
『オセロワールド』(スーパーファミコン、ツクダオリジナル、1992/4/5)
『オセロワールド』(ゲームボーイ、ツクダオリジナル、1994/9/30)
『オセロワールドII 夢と未知への挑戦』(PlayStation、ツクダオリジナル、1995/12/8)
『オセロミレニアム』(ゲームボーイカラー、ツクダオリジナル、1999/10/8)
『SuperLite 2000シリーズ オセロ』(PlayStation 2、サクセス、2003/7/31)
『オセロ de オセロ DS』(ニンテンドーDS、メガハウス、2008/6/12)- タレントのオセロが登場する。
『オセロ』(ニンテンドーDSiウェア、アークシステムワークス、2009/7/29)
『オセロ』(Wiiウェア、アークシステムワークス、2009/12/22)
『オセロ』(PlayStation Portableオンライン配信、アークシステムワークス、2010/3/25)
『オセロ3D』(ニンテンドー3DSダウンロードソフト、アークシステムワークス、2011/6/7)
『オセロ』(Wii Uダウンロードソフト、アークシステムワークス、2013/4/17)
『オセロ』(PlayStation Vitaオンライン配信、アークシステムワークス、2014/8/7)
脚注
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^ a b c d e f 長谷川五郎 『オセロゲームの歴史』 (河出書房新社、2011/07) ISBN 9784309909134
^ オセロ誕生秘話(3)〜オセロファンのエネルギーがオセロのビックバンを作った!!〜(日本オセロ連盟HP 長谷川五郎寄稿)
^ オセロ誕生秘話(1)生い立ち (日本オセロ連盟HP 長谷川五郎寄稿)
^ 井上博『逆転の発見 ― オセロの定石と必勝戦術』企画室ネコ、1977年10月10日、66頁。
^ オセロ誕生秘話(2)〜オセロゲームの歴史はファンと共に歩むことによって作られて行った〜(日本オセロ連盟HP 長谷川五郎寄稿)
^ 長谷川五郎 『オセロ百人物語 オセロ史を飾った名選手たち』 (河出書房新社、2005/12) ISBN 4309906559
^ a b c 野口智弘 (2007年2月20日). “あの素晴しいトイをもう一度 第7回 オセロ(1) - パッケージにタバコ? 大人向けだったオセロ”. マイナビニュース 20017-04-02閲覧。。ここでは和久井は「製品として発売するまでには1年近くかけてます」」と述べている。
^ a b c d e f g 「特別企画 和久井威氏ロングインタビュー その2」『月刊トイジャーナル』2007年6月号、pp.72 - 74。このインタビューでは持ち込みは「(昭和)47年の年末」と述べている。
^ a b c d e f g 野口智弘 (2007年2月28日). “あの素晴しいトイをもう一度 第8回 オセロ(2) - 最初はたった3000個、オイルショックを乗り越え世界へ”. マイナビニュース 20017-04-02閲覧。
^ 『国産はじめて物語 Part21950〜70年代編 戦後の日本を魅了したヒット商品の誕生秘話』ナナ・コーポレート・コミュニケーション、2004年7月7日、143頁。
^ 和久井は2年目(1974年)の販売個数について、『トイジャーナル』では「160万個」、マイナビニュースでは「120万個」と述べている。
^ レジャー白書では将棋愛好者は約600万人。
^ レジャー白書では囲碁愛好者は約220万人である。
^ 参考資料:2006年7月17日付フジサンケイ ビジネスアイ「“脳内革命”でオセロ人気 高齢者が熱視線、売れ行き好調」
^ 骨董市で見つけた源平碁の小箱 - 鰍工房 手作り小品工芸 工作日記
^ Worldohello.org(reversi vs othelo)
^ “Perfect play in 6x6 Othello from two alternative starting positions”. 2008年6月1日閲覧。
^ 日本オセロ連盟HP 歴代世界チャンピオン一覧
^ 2005年12月20日日本経済新聞朝刊44P記事(オセロ故郷・水戸へ帰る)
関連項目
ツクダオリジナル
パルボックス
メガハウス
オセロマルチビジョン
パネルクイズ アタック25 -- 4色で行うオセロのようなボード形式に則るクイズ番組。
テンペスト (ゲーム) -- 4色版オセロ。『パネルクイズ アタック25』からクイズを省略した形で進める。
外部リンク
	ウィキメディア・コモンズには、オセロ (遊戯)に関連するカテゴリがあります。
	ウィキブックスにオセロ関連の解説書・教科書があります。
一般社団法人日本オセロ連盟
Othello! JAPAN
オセロの商品ラインナップ(株式会社メガハウス)
オセロ総合サイト(アークシステムワークス)
Worldwide Othello News
■
カカリは囲碁において、相手の打った隅の石に対して接近して打ち、シマリを妨害して敵に確定地を作らせないように打つ着点のことである。カカリは囲碁における石の接触の第一段階であり、ほとんど全ての対局で打たれる。下図の△がカカリの一例である。

カカリは相手に接近しすぎると2対1の不利な兵力で密着戦を戦わねばならなくなり、よい結果をもたらさないことが多い。上図のようにケイマの位置あるいは一間・二間などにやや離して打つのがセオリーである。カカリは3線または4線に打たれることがほとんどで、4線へのカカリを「高ガカリ」と呼ぶことがある。
目次 
1	小目
2	星
2.1	一般的なカカリ
2.2	両ガカリ
2.3	スソガカリ
3	目ハズシ
4	高目
5	三々
小目
小目に対してはaの「小ゲイマガカリ」、bの「一間高ガカリ」が最もポピュラーなカカリ方であり、ここから数多くの定石形が発生する。これらのカカリ方ではハサまれて不利が予想されるときには、cの「大ゲイマガカリ」が用いられ、隅の地は譲るがゆっくりした展開に持ち込める。dの二間高ガカリは呉清源が推奨しているが、実戦例はさほど多くない。
またeなどに黒のヒラキがある中国流・ミニ中国流布石などで、f方面からの「裏ガカリ」が打たれるようになってきた。様々な手法が試され、発展中の分野である。
星
一般的なカカリ
星に対するカカリ方はaの小ゲイマガカリがほとんどである。勢力を重視するときなどbの一間高ガカリが打たれる。局面によりcの二間高ガカリもあるが、例は多くない。
両ガカリ
星へのカカリに対して黒が手を抜いたときには、aやbなどへの両ガカリが打たれる。一般にこれ以上手を抜くと封鎖されて不利と考えられる。また、b,cに両一間高ガカリを許すのも一般に不利とされる。
スソガカリ
黒が星からシマった場合、白から場合によりaやbなど2線から侵入する「スソガカリ」が打たれることがある。白は三々入りと辺への展開を見合いにする。
目ハズシ
目ハズシに対してはaの小目へのカカリが一般的。ただしこのカカリは相手に勢力を与える他、大斜定石など難解形に持ち込まれやすい。勢力を重視する際にはb、簡明に分かれたい場合はcやdなどが採用される。eは勢力重視の特殊なカカリ。目ハズシの項目も参照。
高目
高目に対してカカるときはaの小目にカカるのが最も一般的である。状況によりbと三々に入る手法や、cと一歩遠慮してカカる手段もある。高目の項目も参照。
三々
三々は一手で隅を打ち切っているため、他の着点に比べてカカリはさほど急がない。カカる時はa - dなど。カカリとはいえないが、eの肩ツキが三々に対するアプローチとしては最も一般的である。
■
囲碁の格言(いごのかくげん)は、囲碁においての戒めや教訓を短くまとめたものをいう。よく知られているものは古くから伝えられ、作者不明のものがほとんどであるが、現代の棋士によって新たに創作された格言もある(苑田勇一など[1])。囲碁の格言は上達のためのエッセンスを含んでいて有用であるが、戦法や考え方の進歩などで意味を失っているものもある。
目次 
1	あ行
2	か行
3	さ行
4	た行
5	な行
6	は行
7	ま行
8	や行
9	ら行
10	わ行
11	関連項目
12	出典
あ行
アタリアタリはヘボ碁の見本 
やたらに次々とアタリをかけるのは、味を消したり相手を強化させるだけで、得にはならない。
 	
上図左のように、白1から3などと次々にアタリをかけるのは黒の外勢を強化するお手伝いになってしまう。右のように単に白1とハネ、白3と進出する方が好形である。
厚みを地にするな 
一般に、中央方面に地を囲うのは、手数がかかって効率が悪い。このため、厚みは中央に地を作るのではなく、攻めに活用すべきである。「厚みを囲うな」とも。
一隅二シマリ三ヒラキ 
布石の基本的な順序を教えた格言。まず空き隅に打つのが大きく、次にシマリを打って隅の地を確保する(カカリはシマリと同格)。さらに辺へヒラいて模様を確保する。さらに「四ツメ五トビ」と続くこともある。ただし近年では、隅のシマリを省いて辺に展開する中国流などの布石も有力とされている。
一間トビに悪手なし 
中央に向けての一間トビは、確実に連絡しつつ自分の石を強化する手で、まず悪手にはならない。
一石に負けなし 
一方の打った石が全て連絡している状態(一石)になると、ほとんど負けない。石の連絡の重要さを教えた格言。
一方石に死になし 
弱い石がいくつかあって、カラミ攻めにされるとシノぐのは大変だが、弱石が一つだけならそう危険はない。
一方地に勝ちなし 
一ヶ所に固まった地は大きく見えるが、実際には何ヶ所か隅などをしっかり確保する方が大きく、勝ちやすい。
追うはケイマ、逃げは一間 
相手の石を追いかける時は、厳しく相手の石に迫るケイマが、攻められている時は、堅く連絡している一間トビを活用するのが有力。下図のような場合。
大場より急場 
序盤戦では一般に、広く展開して模様を拡大する手(大場)が大きいが、自分の石の根拠を固める手、双方の力関係に大きく影響する手(急場)が見た目より重要なことも多いという意味。
岡目八目(おかめはちもく) 
「傍目八目」とも。対局者でない第三者の方が冷静に盤面を見られるため、八目ほども先を読めるという意味。ただし、プロの場合では対局者が一番詳しく読んでいることがほとんどといわれる。
か行
切った方を取れ 
二線にキリが二つ入りうる形の場合、相手がキってきたらそれを素直に取っておくべき。下左図、黒1のキリに対しては白2 - 4と一目を取って不満はない。右のように白2とツイで頑張っても眼形がなく、よい結果にならない。
 	
キリチガイ一方をノビよ 
相手にキリチガイを打たれた場合、一方の石をノビて強化しておくのがよい。多くは弱い石を、味方に連絡させるようにノビるとよい。下図、白1のキリチガイには黒2とノビて対応する。
車の後押し悪手の見本 
相手の石を必要以上にオシていくのは、敵を一歩先に進出させ、強化させるのでよくないという教え。下図のような状態を指す。
ケイマにツケコシ 
ケイマの形の石に対しては、ツケコシに打つのが急所となる。下図黒1。
ケイマのツキダシ悪手の見本 
逆にケイマに対して出て行く手は、相手を連絡させて安心させてしまう悪手となりやすい。下図黒1のような手。
さ行
サバキはツケから 
敵の勢力圏内でサバくときには、相手の石にツケて調子を求めるとよい。下図では、白1のツケから3とハネてサバキを目指す。
サバキ許さぬブラサガリ 
自分の勢力圏内に敵が打ち込んできた場合、相手に付け入る隙を与えないブラサガリの形が有効である。下図黒1のような手。
左右対称中央に手あり 
左右対称の形では、中央に急所があることが多い。下図では、白1が唯一の脱出手段となる。aやbに出ても白5子は脱出できない。
(玄玄碁経「亀勢」)
三目の真ん中 
ダメが詰まった三子の石は、その真ん中から一路離れた位置が急所となる。下図黒1が「三目の真ん中」の急所にあたる。白から打つ場合も、同点に打って形を整える。
シチョウ知らずに碁を打つな 
シチョウは石を取る手段として重要だが、取れるかどうか正しく読み切るのはそう簡単ではない。しっかり練習しておくべきという意味。
死はハネにあり 
相手のフトコロを狭めるハネは、しばしば敵の死命を制する。下図では、黒1のハネで白はどう打っても死ぬ。
初コウにコウなし 
序盤戦で発生したコウには、多くの場合それに見合うコウダテがない。このため、取り番の方が有利になる。
スソアキ囲うべからず 
二線のトビコミなどで大きくヨセられる余地のある場所は、囲っても効率が悪い。
隅の急所は二の一 
絶隅(一の一)は、一手でアタリになる、二手で眼を作れるなど特殊な環境にある(隅の特殊性)。これを利用し、その隣である二の一の点が、死活や攻め合いの急所になる場合が多い。下図では、黒1と「二の一」の点に打つのが急所で、攻め合い勝ちとなる(ただし反対側のaに打ったのでは負け)。
攻めたい石にツケるな 
ツケは自分の石を強化すると同時に相手の石も強くしてしまうので、攻めたいと思っている石にツケていくのは得策ではない。
た行
大石は死せず 
大きな石は周辺に利き筋なども多く、無理に取りに行ってもそう取れない。
ダメの詰まりは身の詰まり 
ダメを無用に詰めると、自らの首を絞めることになるという戒め。ダメヅマリの項目参照。
ツケにはハネよ、ハネにはノビよ 
敵にツケられたらハネて受け、ハネられたらノビるという基本的な打ち方の教え。下図がその例。
強い方にツケよ 
星に両ガカリされた時、ハサミのない強い方の石にツケた方がよい。ただし近年は考え方が変わり、ハサミのある方にaとツケていくことが多くなっている。
黒1がハサミのない強い方の石へのツケ。近年はaにツケることが増えている。
敵の急所は我が急所 
相手にとっての急所は、自分にとっても重要な着点となることが多い。この格言は、『週刊碁』誌の「プロ棋士が選んだ囲碁格言ベスト10」で、1位に選ばれた[2]。
な行
二線敗線、四線勝線 
下左図の黒のように、二線を必要以上にハウのは、地が1目ずつしか増えないのに相手の厚みがそれ以上に増し、一般によくない。また下右図のように四線をノビていくのは、地が3目ずつ増えていくので効率がよい。ただしこれは布石段階での話であり、終盤に入ってからは二線のハイは極めて大きなヨセとなる。
 	
二目にして捨てよ 
自分の石をカカエられたら、一本サガッて捨て石を増やし、手数を延ばしておいて周辺から利かすのが有効な手段になる。下図の場合、黒1の石をそのまま捨てるのではなく、黒3と逃げておけば、黒5,7,9を利かして外勢を固めることができる。
二目の頭は見ずハネよ 
自分と相手の石が二子ずつ並んで対峙した状態の時、相手の頭をハネるのは多くの場合に急所となる。下図黒1のような手。
ノゾキにツガぬ馬鹿はなし 
相手にノゾキを打たれたら、素直にツイでおくべき(ただし上級者は利かされを嫌い、あえてツガずに反発する手を考えることも多い)。
は行
広い方からオサエよ 
星から両辺にヒラいている時に三々に入られたら、広くヒラいている方からオサエた方が大きな模様形成が期待できる。下図の場合、白1の三々入りに対しては黒2とオサエれば、下辺に大きな模様が見込める。
ポン抜き30目 
特に中央に近い場所でのポン抜きは四方に威力を発揮し、大きな戦力となる。「30目」は具体的な数字ではなく、大きい価値を持つというたとえ。二目抜いた形はさらに強力で、「亀の甲60目」ともいわれる。
ま行
まずコウを取れ 
コウが発生したら、とりあえずコウを取っておく。相手のコウダテをひとつ消費させることができる。
眼あり眼なしは唐(から)の攻め合い 
眼のある石とない石の攻め合いは、眼がある方が有利となる。下図では黒1のオキから攻め、3から5と眼を確保すれば黒の攻め合い勝ちとなる。眼あり眼なしを参照。
ただしダメの数が多ければ、眼のない方が勝つときもある(「眼あり眼なしも時によりけり」)。
や行
四隅取られて碁を打つな 
隅は地を取るのに最も効率のよい場所であるため、四つの隅とも敵に取られてしまってはまず勝てないという教え。ただし大模様作戦を得意とする武宮正樹などは、四隅を取らせて勝ってしまった碁も数多い。
ら行
両コウ三年のわずらい 
両コウで相手の石を取った形は、相手が無限のコウ材を持つことになり、後の戦いが不利になる。形勢に余裕があれば、一手かけて両コウを解消しておくのも一法である。
わ行
ワタリ8目 
自分の石を連絡させるワタリの手には、かなりの大きさがある。状況によって目数は変化するので、8目は絶対的な数字ではない。
関連項目
格言
囲碁用語一覧
囲碁十訣
将棋の格言
出典
レドモンドの基本は格言にあり(NHK囲碁シリーズ) マイケル・レドモンド著
^ 囲碁観が180°変わる苑田流格言―楽に身につくプロの常識(MYCOM囲碁ブックス)
^ 『週刊碁』2012年1月2日号
■
カケは囲碁用語の一つで、相手の石より高い位置からかぶせるように打って封鎖を図る、あるいは相手を低位に圧迫するような手のこと。動詞では「カケる」となる。下図黒1に打つ手が「カケ」の一例である。

カケの例
aにカケるのを「ケイマガケ」、bにカケるのを「大斜ガケ」と称する。
(白2,4は手抜き)
いわゆる三手抜き。黒5のカケを喫して封鎖されては、白が良くないとされる。黒3と両ガカリされた段階で、白は5の点にコスんで頭を出しておくのがよい。

黒1のカケで下辺の黒模様拡大を目指す。

図の黒1のような手は「ゲタにカケる」と表現する。
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欠け眼生き(かけめいき)は、囲碁用語の一つ。
目次 
1	例
2	参考文献
3	関連項目
4	外部リンク
例
囲碁はルール上、ダメを詰めていくといずれアタリになる眼を「欠け眼」と呼ぶ。囲碁の死活では、欠け眼ではない(ダメを詰めてもアタリにならない)眼が2つあれば生きとなる。

上の局面は、白の生きている石を黒が囲い、その周りをさらに白が囲んでいるという状態。黒が持っている2つの眼a、bはどちらも欠け眼に見えるが、黒の石はぐるりと一周しているため、白は黒石をアタリにすることはできない。このように、2つの眼が欠け眼でも、一周してつながっていることによって生きるのを欠け眼生きという。
参考文献
趙治勲『基本死活辞典』全2巻 日本棋院 1984-85年
関山利一、利夫『傑作詰碁辞典』誠文堂 新光社 1975年(改訂版 2010年)
関連項目
詰碁
隅のマガリ四目
セキ (囲碁)
長生
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肩ツキは囲碁用語の一つで、相手の石の斜め上に打つ手を指す。文字通り、相手の石の「肩」を上方から衝く手段で、「カタツキ」とカタカナで表記されることも多い。動詞では「肩をつく」と表現される。
下図黒1が肩ツキの一例である。
肩ツキという術語は、相手の石より上の位置に打つ場合を指す。下図のように低位に打つ場合は、「カド」という言葉が使われる。
(カドの例)
肩ツキの例
肩ツキは、相手の模様を消す手段としてよく用いられる。
図のような局面では、白aあたりに囲われると手のつけにくい大模様が完成する。その前に、黒1の肩ツキによる消しが絶好となる。
黒5までと軽く逃げ出して、この石はそう厳しい攻めを受けない。
■
高目(たかもく)は囲碁用語の一つで、アキスミへの着手を指す言葉のひとつ。碁盤の隅、第四線と第五線の交点に打つことをいう。下図黒1またはaの点が高目である。
一つの隅に高目に該当する位置は2箇所あるが、どちらに打つのも同じ意味である。ただし盤上の他の石の配置によっては、戦略上異なる意味を持つ。
目次 
1	特徴
2	高目の活用方法
2.1	シマリ
2.2	カカリ
3	代表的な高目定石
特徴
四線と五線の交点であり、通常打たれる隅の着点としては最も位が高い。このため実利には甘いが、隅への侵入を誘って勢力を築き、模様で打つスタイルに適していると言える。
高目の活用方法
高目からシマリの価値はもちろん大きいが、前述のようにあえて隅へのカカリを許して打つケースが多くなる。
シマリ
aへのシマリが最も一般的であり、小目からの一間ジマリと同形になる。勢力を志向する場合bなどの高いシマリも打たれるが、隅に打ち込みの隙が残るため、特殊な場合に打たれる着点である。
カカリ
白がカカるときは白1の小目にカカるのが最も一般的である。これに対し黒はa, bのツケ、c, dなど圧迫して勢力を築くなどの対応がある。
状況により白1でaと三々に入る手法や、bと一歩遠慮してカカる手段もある。
代表的な高目定石
小目へのカカリに内側からツケヒいて打つ定石。黒は2,4と相手を二線の低位にへこませ、5と辺に展開する(局面によって、aなど狭くヒラくこともある)。白も6の手では、局面によってbと控えたり、手を抜いて黒から6の点やcなどへのカケを許して打つ手もある。
小目へのカカリに対して黒は1とカケ、白は隅の実利を、黒は外勢を取るワカレとなる。
白2のツケに対しては、黒5から7とキリサガり、この2目を捨て石にして外勢を得る打ち方もある。
黒1,3のツケヒキに対しては、白4とハネ上げるのが普通。黒5とキリ、この石を犠牲に隅の実利を取る。
黒5では、上図のように内側に切る手もある。黒9までシチョウに抱えて一段落。黒はシチョウがよくなくてはこの定石を打てず、対隅にシチョウアタリを打たれたら一手かけてaに抜かねばならない。
■
互先(たがいせん)は、囲碁の手合割の一つ。
概要
ハンデキャップのない対局を指し、棋力が近い場合に採用される。
囲碁は単純に目数で勝敗を決するとすると先手が有利であるため、一局で勝敗を決する場合、コミを用いて先手(黒)と後手(白)の均衡を図る。日本では2000年代以降、後手に6目半のコミを与える(先手が7目以上リードしていないと勝ちとしない)のが一般的となっている。先手・後手はニギリによって決められる。
互先の用語はもともとコミの無い時代に、互いに先(交互に白黒)を持つところからきている。
棋力に差がある場合には定先や置き碁を採用する。
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太刀盛り(たちもり)または太刀目盛り(たちめもり)は、将棋盤や碁盤の目盛りを作る作業。
刃を丸めた日本刀の刃に温めた漆を付けて斬るようにして漆を盛りつけていく。将棋盤、碁盤を作る工程においてもっとも神経を使う作業で、当て木はせず鉛筆の下書きに沿って刃を落としてゆくことから高度な熟練した技術が必要とされる。
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ダメは、囲碁用語のひとつ。下記のように「打つ価値のない場所」という意味と、「石の呼吸点」という両方の意味で用いられる。日常語で「してはいけない」「価値がない」の意の「ダメ」は、囲碁用語から転じたものといわれる。漢字では「駄目」と書くが、多くの場合カタカナで表記する。
価値のない場所
囲碁の終局時に、どちらの陣地でもない領域のことをいう。終局前にここへ打ったとしても、1目の価値をも有していない点。
例えば下のような終局図があった場合、aの点が「ダメ」となる。終局の際、このダメを交互に埋めることとなる。かつて日本ルールでは、終局を確認した後に交互にダメを詰めてから整地していた。この作業を「駄目を押す」といい、とどめを刺す意味の駄目押しの語源となっている。
ダメヅメは記録に残されなかったが、近年、トラブルが多いためダメを詰めてから終局とし、その過程も棋譜に残すようルールが改正された。
また広い意味では、地になりそうにない実質のない着点を「ダメ」「ダメ場」と呼ぶことがある(「ダメをつながらされる」「白がダメ場を打っている間に~」などと用いる)。
石の呼吸点
ある石に隣接した空点のこと。この点(呼吸点)が全て埋まる、すなわちダメが全て詰まった石は相手に取られる(囲碁のルール参照)。例えば下図黒1の石は、周囲の4点を白に囲まれると打ち抜かれる。この場合「黒にはダメが4つ空いている」という言い方をする。
ダメが多く詰まると、様々な面で不利益を生じることがあるため、一般になるべく無駄なダメは詰めない方がよいとされる。この不利益を生じる状態を「ダメヅマリ」と称する。詳細は当該項目を参照。
■
ダメヅマリは囲碁用語のひとつで、ある石のダメが詰まることで、各種の不都合が生じる状態を指す。「ダメの詰まりは身の詰まり」という囲碁格言があるように、不必要にダメを詰めてしまうことは身の破滅につながり、碁において戒められる事柄のひとつである。
ダメヅマリの例
例1
 	
左図、aの場所にダメが空いている場合は、右のように黒1とオイてこられても、白4までと対応して生きられる。
 	
しかし▲にダメが詰まると、黒1から3の時に白はaに打てず、このまま死にとなる。
例2
 	
左図で一見白地は完全だが、外のダメが全て詰まると右図黒1からの手段が生じ、セキで白地がゼロになってしまう(ダメが一つでも空いていれば、黒9の後白aに詰めて取れる)。
例3
黒1にダメを詰められると、白はどう打っても上の4目の空間に眼が作れないため全滅となる。
■
駄目押し(だめおし)とは、もともとは囲碁用語の一つである。
囲碁の終局後に、どちらの陣地にもならない領域をダメと言い、念のため、ダメを埋めて地を分かりやすくするために石を置くことを駄目押しという。ここから派生して、既に勝負が決まっている時に、さらに勝負を確実にするために念を押すことを駄目押しというようになった。
野球やサッカーの試合では、勝敗の大勢が決した後にさらに追加点を加えた場合に使われ、駄目押しのホームランとか駄目押しのゴールなどと表現される。これは、さらに相手を突き放す展開へと導き、とどめをさすことになるので評価される。
一方、大相撲の取組では、相手が土俵を割ったり土俵上に手を付いたり等で、勝負が既に決まっているにも関わらず、さらに相手を押したり倒したりすることを駄目押しという。これは無駄な行為であるとともに相手に怪我を負わせることもあり、更には既に力を抜いている相手に駄目押しをすると普段以上に相手が吹き飛ぶ為、土俵下の客や審判も危険であるという事から大相撲では好ましくない行為とされ非難の対象となる。
特に、2008年(平成20年)5月場所・千秋楽の結びの一番においては、東横綱・朝青龍は西横綱・白鵬を引き落としで制した後、既に土俵上に倒れていた白鵬を両手で思わず強く突いてしまう。この駄目押しに白鵬が逆上し、立ち上がりながら右肩を朝青龍の体にぶつけて押し返したため、両者は土俵上で怒りの形相でにらみ合い、一触即発のムードとなった。
当初北の湖理事長は「朝青龍の突きは流れで有り、駄目押しでない。怒った白鵬が悪い」との理由で白鵬の師匠・宮城野親方のみに注意。しかし横綱審議委員会は「その直後に、横綱同士が土俵上で睨み合うのは喧嘩両成敗だ。白鵬だけが悪いとの考えはおかしい」と進言。後日日本相撲協会からはこの行為に対して、朝青龍と白鵬の横綱二人にそれぞれ厳重注意処分となった。
ただし、古代の相撲では駄目押しは好ましくない行為とはされなかった。日本書紀に残る、野見宿禰と当麻蹴速によって行われた試合の記録によれば、宿禰は倒れた蹴速に踏み付けの追撃を行い、蹴速の腰骨を踏み折って殺害している。この勝負の結果、宿禰は所領を得、垂仁天皇への仕官がかなったと記述されていることから、少なくとも日本書紀が書かれた時代には、駄目押しが非難の対象と考えられていなかったことが推察される。
■
囲碁の段級位制
囲碁の段級位制(いごのだんきゅういせい)は、囲碁の技量の度合いを表すための等級制度。級位は数字の多い方から少ない方へと昇っていき、段位になると数字の少ない方から多い方へと昇っていく。棋士を呼ぶ際は、「吉原由香里六段」「一力七段」のように、敬称に代えて氏名または名字の下に段位をつけて呼称することが通例である。英語では「初段=first degree black belt(黒帯1度)」のように意訳する場合と、「初段=shodan」とそのまま表記する場合がある。 通常、段位は漢数字で、級位はアラビア数字で表記する。ただしプロ棋士には級位は存在しない。
目次 
1	歴史
2	プロ
2.1	昇段規定
2.2	経緯
3	アマチュア
3.1	ネット碁における段級位
4	アマチュアとプロの比較
5	関連項目
6	脚注
7	参考文献
歴史
段級位制は、江戸時代の囲碁の大棋士・本因坊道策が始めたものである。それまでは互いの間の手合い割(ハンデキャップ)によって強さを表していたが、家元制度が確立して棋士が増えたこともあり、統一された基準が欲しいということになり、道策は名人(九段)・準名人もしくは名人上手間(八段)・上手(じょうず、七段)を制定し、後に初段から九段までの段位が定められた。
江戸時代は級位やアマチュア段位などは存在せず、専門棋士と素人の段位に区別は無かった。それだけに初段になるのも非常に厳しく、地方ならば初段・二段の免状があればそれを種に生活できたと言う。
明治に入り、村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)は「方円社」を設立し、囲碁人口の拡大を図るために新しく級位制を創設した。ただし、これは現在の段級位制度とは違ったものであり、後に従来の段位制に戻した。
プロ
昇段規定
2014年時点での日本の囲碁のプロ組織での昇段規定は以下である。いずれかを満たせば昇段できる。
昇段	条件
九段へ	対象棋戦200勝
七大タイトルの下位4タイトル2期獲得(天元、王座、碁聖、十段)
三大タイトル獲得(棋聖、名人、本因坊)
特定国際棋戦優勝(三星火災杯、LG杯、春蘭杯、応昌期杯)
八段へ	対象棋戦150勝
七大タイトルの下位四タイトル1期獲得(天元、王座、碁聖、十段)
三大タイトル挑戦(棋聖、名人、本因坊)
特定国際棋戦準優勝(三星火災杯、LG杯、春蘭杯、応昌期杯)
七段へ	対象棋戦120勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院のみ六段より1名)
特定タイトル戦の優勝(桐山杯、竜星。関西棋院は前述のとおり新人王戦、NHK杯、関西棋院第一位決定戦が加わる)
七大タイトルの下位四タイトル挑戦(天元、王座、碁聖、十段)
三大タイトルリーグ入り(棋聖・名人・本因坊、棋聖はSリーグのみ)
特定国際棋戦四強(関西棋院のみ三星火災杯、LG杯、春蘭杯、応昌期杯)
六段へ	対象棋戦90勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院のみ五段より2名)
五段へ	対象棋戦70勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院は四段より2名、関西棋院は初段~四段の中で1名)
四段へ	対象棋戦50勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院は三段より2名、関西棋院は初段~四段の中で1名)
三段へ	対象棋戦40勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院は二段より2名、関西棋院は初段~四段の中で1名)
二段へ	対象棋戦30勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院は初段より2名、関西棋院は初段~四段の中で1名)
対象棋戦=棋聖戦(対アマチュアも含む)・名人戦・本因坊戦・王座戦・天元戦・碁聖戦・十段戦・新人王戦・竜星戦(対アマチュアも含む)・桐山杯(対アマチュアも含む)・広島アルミ杯・マスターズカップ三星火災杯(本戦のみ)・LG杯(本戦のみ)・農心杯春蘭杯百霊杯(本戦のみ)・夢百合杯(本戦のみ)・グロービス杯
勝数で昇段した場合は賞金ランキング上位者の対象から除く
飛び段も可能。(例・三段の棋士がリーグ入りした場合一気に七段になる[1])
経緯
日本棋院創設以前の段位は、棋士間の手合割から二段差で置き石1子の基準で決定されていた。日本棋院設立後には三段差1子に改められた。
現在、プロ試験に合格した者は一律初段となる。これを「入段」と呼ぶ。
日本棋院の場合、プロ試験は予選を行って受験者を絞った後で、総当りリーグ戦を行う。東京本院では夏季に院生(棋院の中で修行するプロ志望者)から1人、冬季に上位2人及び関西総本部・中部総本部で1人または2人と、女流枠1人または2人がプロとなる。
関西棋院の場合、院生は10級から始まり(10級以外の場合もある)、昇級を重ねて初段格になったうえで12勝4敗の成績を上げれば合格となる。誰も12勝できない場合はそのまま持越しであったが、2011年より初段リーグに変更されその成績で入段が可能となった。その他に研修棋士制度も設けており、アマチュアで卓越した成績を収めたものが、四段以下の棋士と2局、九段と1局を打ち、その結果によっては入段することができる。
入段した棋士は、大手合と呼ばれる昇段のための対局で規定の点数を挙げることで昇段していた。しかし大手合制度には九段が参加せず、実力の基準が相対的でしかないという矛盾があり、九段の数が一番多くて初段の方が少ないという逆転現象を生み出した(2004年時点で、日本棋院・関西棋院合わせて九段が109人、初段が31人)。一部の棋士に至っては、昇段にうま味がなく手合自体の負担も大きいことから九段昇段以前から大手合に出場しないこともあった(その中には、柳時熏、山田規三生といった有力棋士も多い)。
そうしたこともあって、2003年、日本棋院は昇段制度を改定した。
それ以前の段位に関わらず、
三大タイトル(棋聖・名人・本因坊)・世界選手権のどれかを1回、あるいは碁聖・十段・王座・天元のどれかを2回以上優勝した場合は無条件に九段。
三大タイトル・世界選手権に準優勝、あるいはそれ以外の七大タイトルに優勝した場合は八段。
三大タイトルの挑戦者決定リーグに入るか、あるいは三大タイトル以外の七大タイトルの準優勝、あるいは阿含桐山杯・竜星戦に優勝した場合は七段。
ある一定以上の勝ち星で順次昇段。
(初段から六段までは)1または2で昇段しなかった各段の棋士の中で賞金ランキングが上位の者が順次昇段。
関西棋院も2005年、これとほぼ同様の新昇段制度(違いは関西棋院第一位優勝、NHK杯優勝、新人王戦優勝で七段昇段)に移行している。
日本棋院、関西棋院ともに、対象棋戦での勝敗による単年ごとの賞金ランキングの優秀者を一段昇段させる制度を導入している。両棋院の違いは、日本棋院が六段から1名、五段から初段まで各段2名の上位者が昇段するのに対し、関西棋院は初段~四段の中で最上位者1名のみ昇段することである。また両棋院独自戦の勝数やアマチュア参加が認められる棋戦の対アマ勝利が勝数規定に含まれるかの違いも存在する。一例として、日本棋院においては独自棋戦である若鯉戦、フマキラー囲碁マスターズカップも対象棋戦に含まれるなど。
日本棋院の昇段者は大手合廃止まで年平均40人を超えていたが、廃止後から2008年までを平均すると、廃止前の半数以下となっている。2008年は17人と、初めて20人を割り込んだ。一方、現役の九段は76人で、全棋士のうち23.6%と高率を占める現状に変わりはないが(制度廃止直前は73人で22.7%)、概して増加は抑制傾向にある[2]。2010年には、日本棋院・関西棋院ともに九段昇段者が出なかった。特に関西棋院においては、移行した2005年以降九段昇段者が2014年現在まで出ていない。
降段制度がないため、高齢の棋士が高段となる傾向が強く、プロ囲碁界では段位が正確に棋力を反映しているとは言えない。90年代に急激なレベルの向上を経た韓国ではこれが顕著で、一部の第一線級を除けば90年代以前に活躍したベテランの九段棋士はほとんど活躍できず、初段や二段程度の棋士が彼らを差し置いて国際戦で代表となることが多い。
なお、タイトルの十段の保持者は○○十段と呼ばれることになるが、十段は「名人」や「棋聖」などと同様の「タイトル名」なので段位そのものとは関係がない。
アマチュア
現在日本ではプロの段位とは別にアマチュアの段級位があり、日本棋院・関西棋院が発行している。2015年現在、日本棋院が認定している最高の段位は八段で、段級位を認定されるためには
日本棋院の認定問題で指定の成績を収める。
日本棋院が関連する大会にてある程度の成績を収める。
プロ棋士・日本棋院支部長の推薦を受ける。
などの方法がある。このうち1.は常に、2.は成績にも応じて一定の金額(初段で3万円程度、8段は100万円など)を支払う必要がある。日本棋院のWebサイトからも応募できる。この方式に対しては段級位を金で売っているかのようであるとの批判もあり、藤沢秀行は独自の低廉な段位免状を発行したことで一時期日本棋院から脱退したことがある(後に独自の免状を発行しないと約束の上で復帰している)。
しかしながら、下記のような事情があり、アマチュアにおいても認定された段級位が必ずしも正確に実力を反映しているわけではない。
日本棋院の認定問題は新聞や雑誌等に掲載されて出されるため、実戦と異なり碁盤に並べて時間をかけて検討することも可能であるし、カンニング等についても実質的に解答者の良識に任されている。
布石など明確な解答の出ないジャンルは特に高段者向けの問題には適さないケースが多い。
段級位認定大会では、目標とする段級位を参加者が自己申告するため相対的な評価にならざるを得ない。
アマチュアでは位が1下がるごとに、置き石が1子増えるのが目安となっている。
碁会所などではハンデの目安などのため、「何段格」などと段級位を設定する場合が多い。しかし、これも碁会所内での固定された対局者内での相対評価とならざるを得ないため、格差が発生することは避けがたい。ある碁会所で初段格で打っていたのに、別の碁会所でその通り初段と名乗った所相手を圧倒してしまうというような例もある。
他に囲碁普及の功労者などに、日本棋院・関西棋院から名誉段位を贈る場合がある。著名な例では、福田赳夫総理大臣に名誉八段、スペースシャトルで初の宇宙囲碁対局を行った若田光一に名誉初段(同ダニエル・T・バリーに二段)などがある。
ネット碁における段級位
ネット碁でも、各サイトの基準などに応じて段級位が表示されるものが多い。また、プロが登録して打つ場合にも、アマチュアと共通の段級位が設定される場合が少なくない。
参加者の多いネット碁サイトで多数対局した結果としてつけられた段級位は、実力を正確に測ったものと捉えられるが、その基準は各サイトによってまちまちであり、日本棋院や関西棋院の認定する段級位の基準とは必ずしも一致しない。 他方で、棋力を意図的に過少申告して下位の棋力の者をいたぶるように打って楽しむサンドバッカーの存在もあり、マナー違反として認知されている。
アマチュアとプロの比較
アマチュアとプロの段位の比較は、俗にプロの初段に9子置いて勝てればアマチュア初段と言われる。日本の全国大会で優勝するトップアマがトッププロに対して2子程度である。
坂井秀至は世界アマチュア囲碁選手権戦優勝などの実績を持ち、試験碁の成績により飛び付き五段に認定され、プロ棋士となった。
阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦ではアマ棋戦上位入賞者がプロ棋士と対等の条件で対局して勝ち上がることも珍しくなくなっている[3]。
また、プロと初心者の差を示す「四星目」という囲碁用語がある。プロに星目(9子)置く人(ほぼアマチュア1級)に星目置く人(ほぼ10級)に星目置く人(ほぼ20級)に星目置くのが初心者という意味の言葉である[4]。ルールを覚えただけの状態が30級とされ、アタリが理解できたら25級とも言われる。
近年の囲碁においては、日本国内と海外との段位の格差が大きく開いている。アマチュアにおいては日本の五段と韓国・中国の初段が対等などといわれている。
関連項目
囲碁
脚注
^ 2013年に余正麒が本因坊戦のリーグ入りしたことで、三段から七段へと昇段した。
^ 朝日新聞2009年2月10日
^ 第18期の同棋戦における金成進アマ・河成奉アマが双方、予選Cから出場しながら最終予選をも勝ち抜き、本戦ベスト8まで進出したのが最高である。なお、金成進は後に韓国にてプロとなり、LG杯世界棋王戦では予選を勝ち抜いて本戦進出している。
^ 『囲碁百科辞典』71頁
参考文献
林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年
■
囲碁の段級位制(いごのだんきゅういせい)は、囲碁の技量の度合いを表すための等級制度。級位は数字の多い方から少ない方へと昇っていき、段位になると数字の少ない方から多い方へと昇っていく。棋士を呼ぶ際は、「吉原由香里六段」「一力七段」のように、敬称に代えて氏名または名字の下に段位をつけて呼称することが通例である。英語では「初段=first degree black belt(黒帯1度)」のように意訳する場合と、「初段=shodan」とそのまま表記する場合がある。 通常、段位は漢数字で、級位はアラビア数字で表記する。ただしプロ棋士には級位は存在しない。
目次 
1	歴史
2	プロ
2.1	昇段規定
2.2	経緯
3	アマチュア
3.1	ネット碁における段級位
4	アマチュアとプロの比較
5	関連項目
6	脚注
7	参考文献
歴史
段級位制は、江戸時代の囲碁の大棋士・本因坊道策が始めたものである。それまでは互いの間の手合い割(ハンデキャップ)によって強さを表していたが、家元制度が確立して棋士が増えたこともあり、統一された基準が欲しいということになり、道策は名人(九段)・準名人もしくは名人上手間(八段)・上手(じょうず、七段)を制定し、後に初段から九段までの段位が定められた。
江戸時代は級位やアマチュア段位などは存在せず、専門棋士と素人の段位に区別は無かった。それだけに初段になるのも非常に厳しく、地方ならば初段・二段の免状があればそれを種に生活できたと言う。
明治に入り、村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)は「方円社」を設立し、囲碁人口の拡大を図るために新しく級位制を創設した。ただし、これは現在の段級位制度とは違ったものであり、後に従来の段位制に戻した。
プロ
昇段規定
2014年時点での日本の囲碁のプロ組織での昇段規定は以下である。いずれかを満たせば昇段できる。
昇段	条件
九段へ	対象棋戦200勝
七大タイトルの下位4タイトル2期獲得(天元、王座、碁聖、十段)
三大タイトル獲得(棋聖、名人、本因坊)
特定国際棋戦優勝(三星火災杯、LG杯、春蘭杯、応昌期杯)
八段へ	対象棋戦150勝
七大タイトルの下位四タイトル1期獲得(天元、王座、碁聖、十段)
三大タイトル挑戦(棋聖、名人、本因坊)
特定国際棋戦準優勝(三星火災杯、LG杯、春蘭杯、応昌期杯)
七段へ	対象棋戦120勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院のみ六段より1名)
特定タイトル戦の優勝(桐山杯、竜星。関西棋院は前述のとおり新人王戦、NHK杯、関西棋院第一位決定戦が加わる)
七大タイトルの下位四タイトル挑戦(天元、王座、碁聖、十段)
三大タイトルリーグ入り(棋聖・名人・本因坊、棋聖はSリーグのみ)
特定国際棋戦四強(関西棋院のみ三星火災杯、LG杯、春蘭杯、応昌期杯)
六段へ	対象棋戦90勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院のみ五段より2名)
五段へ	対象棋戦70勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院は四段より2名、関西棋院は初段~四段の中で1名)
四段へ	対象棋戦50勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院は三段より2名、関西棋院は初段~四段の中で1名)
三段へ	対象棋戦40勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院は二段より2名、関西棋院は初段~四段の中で1名)
二段へ	対象棋戦30勝、賞金ランキングによる昇段(日本棋院は初段より2名、関西棋院は初段~四段の中で1名)
対象棋戦=棋聖戦(対アマチュアも含む)・名人戦・本因坊戦・王座戦・天元戦・碁聖戦・十段戦・新人王戦・竜星戦(対アマチュアも含む)・桐山杯(対アマチュアも含む)・広島アルミ杯・マスターズカップ三星火災杯(本戦のみ)・LG杯(本戦のみ)・農心杯春蘭杯百霊杯(本戦のみ)・夢百合杯(本戦のみ)・グロービス杯
勝数で昇段した場合は賞金ランキング上位者の対象から除く
飛び段も可能。(例・三段の棋士がリーグ入りした場合一気に七段になる[1])
経緯
日本棋院創設以前の段位は、棋士間の手合割から二段差で置き石1子の基準で決定されていた。日本棋院設立後には三段差1子に改められた。
現在、プロ試験に合格した者は一律初段となる。これを「入段」と呼ぶ。
日本棋院の場合、プロ試験は予選を行って受験者を絞った後で、総当りリーグ戦を行う。東京本院では夏季に院生(棋院の中で修行するプロ志望者)から1人、冬季に上位2人及び関西総本部・中部総本部で1人または2人と、女流枠1人または2人がプロとなる。
関西棋院の場合、院生は10級から始まり(10級以外の場合もある)、昇級を重ねて初段格になったうえで12勝4敗の成績を上げれば合格となる。誰も12勝できない場合はそのまま持越しであったが、2011年より初段リーグに変更されその成績で入段が可能となった。その他に研修棋士制度も設けており、アマチュアで卓越した成績を収めたものが、四段以下の棋士と2局、九段と1局を打ち、その結果によっては入段することができる。
入段した棋士は、大手合と呼ばれる昇段のための対局で規定の点数を挙げることで昇段していた。しかし大手合制度には九段が参加せず、実力の基準が相対的でしかないという矛盾があり、九段の数が一番多くて初段の方が少ないという逆転現象を生み出した(2004年時点で、日本棋院・関西棋院合わせて九段が109人、初段が31人)。一部の棋士に至っては、昇段にうま味がなく手合自体の負担も大きいことから九段昇段以前から大手合に出場しないこともあった(その中には、柳時熏、山田規三生といった有力棋士も多い)。
そうしたこともあって、2003年、日本棋院は昇段制度を改定した。
それ以前の段位に関わらず、
三大タイトル(棋聖・名人・本因坊)・世界選手権のどれかを1回、あるいは碁聖・十段・王座・天元のどれかを2回以上優勝した場合は無条件に九段。
三大タイトル・世界選手権に準優勝、あるいはそれ以外の七大タイトルに優勝した場合は八段。
三大タイトルの挑戦者決定リーグに入るか、あるいは三大タイトル以外の七大タイトルの準優勝、あるいは阿含桐山杯・竜星戦に優勝した場合は七段。
ある一定以上の勝ち星で順次昇段。
(初段から六段までは)1または2で昇段しなかった各段の棋士の中で賞金ランキングが上位の者が順次昇段。
関西棋院も2005年、これとほぼ同様の新昇段制度(違いは関西棋院第一位優勝、NHK杯優勝、新人王戦優勝で七段昇段)に移行している。
日本棋院、関西棋院ともに、対象棋戦での勝敗による単年ごとの賞金ランキングの優秀者を一段昇段させる制度を導入している。両棋院の違いは、日本棋院が六段から1名、五段から初段まで各段2名の上位者が昇段するのに対し、関西棋院は初段~四段の中で最上位者1名のみ昇段することである。また両棋院独自戦の勝数やアマチュア参加が認められる棋戦の対アマ勝利が勝数規定に含まれるかの違いも存在する。一例として、日本棋院においては独自棋戦である若鯉戦、フマキラー囲碁マスターズカップも対象棋戦に含まれるなど。
日本棋院の昇段者は大手合廃止まで年平均40人を超えていたが、廃止後から2008年までを平均すると、廃止前の半数以下となっている。2008年は17人と、初めて20人を割り込んだ。一方、現役の九段は76人で、全棋士のうち23.6%と高率を占める現状に変わりはないが(制度廃止直前は73人で22.7%)、概して増加は抑制傾向にある[2]。2010年には、日本棋院・関西棋院ともに九段昇段者が出なかった。特に関西棋院においては、移行した2005年以降九段昇段者が2014年現在まで出ていない。
降段制度がないため、高齢の棋士が高段となる傾向が強く、プロ囲碁界では段位が正確に棋力を反映しているとは言えない。90年代に急激なレベルの向上を経た韓国ではこれが顕著で、一部の第一線級を除けば90年代以前に活躍したベテランの九段棋士はほとんど活躍できず、初段や二段程度の棋士が彼らを差し置いて国際戦で代表となることが多い。
なお、タイトルの十段の保持者は○○十段と呼ばれることになるが、十段は「名人」や「棋聖」などと同様の「タイトル名」なので段位そのものとは関係がない。
アマチュア
現在日本ではプロの段位とは別にアマチュアの段級位があり、日本棋院・関西棋院が発行している。2015年現在、日本棋院が認定している最高の段位は八段で、段級位を認定されるためには
日本棋院の認定問題で指定の成績を収める。
日本棋院が関連する大会にてある程度の成績を収める。
プロ棋士・日本棋院支部長の推薦を受ける。
などの方法がある。このうち1.は常に、2.は成績にも応じて一定の金額(初段で3万円程度、8段は100万円など)を支払う必要がある。日本棋院のWebサイトからも応募できる。この方式に対しては段級位を金で売っているかのようであるとの批判もあり、藤沢秀行は独自の低廉な段位免状を発行したことで一時期日本棋院から脱退したことがある(後に独自の免状を発行しないと約束の上で復帰している)。
しかしながら、下記のような事情があり、アマチュアにおいても認定された段級位が必ずしも正確に実力を反映しているわけではない。
日本棋院の認定問題は新聞や雑誌等に掲載されて出されるため、実戦と異なり碁盤に並べて時間をかけて検討することも可能であるし、カンニング等についても実質的に解答者の良識に任されている。
布石など明確な解答の出ないジャンルは特に高段者向けの問題には適さないケースが多い。
段級位認定大会では、目標とする段級位を参加者が自己申告するため相対的な評価にならざるを得ない。
アマチュアでは位が1下がるごとに、置き石が1子増えるのが目安となっている。
碁会所などではハンデの目安などのため、「何段格」などと段級位を設定する場合が多い。しかし、これも碁会所内での固定された対局者内での相対評価とならざるを得ないため、格差が発生することは避けがたい。ある碁会所で初段格で打っていたのに、別の碁会所でその通り初段と名乗った所相手を圧倒してしまうというような例もある。
他に囲碁普及の功労者などに、日本棋院・関西棋院から名誉段位を贈る場合がある。著名な例では、福田赳夫総理大臣に名誉八段、スペースシャトルで初の宇宙囲碁対局を行った若田光一に名誉初段(同ダニエル・T・バリーに二段)などがある。
ネット碁における段級位
ネット碁でも、各サイトの基準などに応じて段級位が表示されるものが多い。また、プロが登録して打つ場合にも、アマチュアと共通の段級位が設定される場合が少なくない。
参加者の多いネット碁サイトで多数対局した結果としてつけられた段級位は、実力を正確に測ったものと捉えられるが、その基準は各サイトによってまちまちであり、日本棋院や関西棋院の認定する段級位の基準とは必ずしも一致しない。 他方で、棋力を意図的に過少申告して下位の棋力の者をいたぶるように打って楽しむサンドバッカーの存在もあり、マナー違反として認知されている。
アマチュアとプロの比較
アマチュアとプロの段位の比較は、俗にプロの初段に9子置いて勝てればアマチュア初段と言われる。日本の全国大会で優勝するトップアマがトッププロに対して2子程度である。
坂井秀至は世界アマチュア囲碁選手権戦優勝などの実績を持ち、試験碁の成績により飛び付き五段に認定され、プロ棋士となった。
阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦ではアマ棋戦上位入賞者がプロ棋士と対等の条件で対局して勝ち上がることも珍しくなくなっている[3]。
また、プロと初心者の差を示す「四星目」という囲碁用語がある。プロに星目(9子)置く人(ほぼアマチュア1級)に星目置く人(ほぼ10級)に星目置く人(ほぼ20級)に星目置くのが初心者という意味の言葉である[4]。ルールを覚えただけの状態が30級とされ、アタリが理解できたら25級とも言われる。
近年の囲碁においては、日本国内と海外との段位の格差が大きく開いている。アマチュアにおいては日本の五段と韓国・中国の初段が対等などといわれている。
関連項目
囲碁
脚注
^ 2013年に余正麒が本因坊戦のリーグ入りしたことで、三段から七段へと昇段した。
^ 朝日新聞2009年2月10日
^ 第18期の同棋戦における金成進アマ・河成奉アマが双方、予選Cから出場しながら最終予選をも勝ち抜き、本戦ベスト8まで進出したのが最高である。なお、金成進は後に韓国にてプロとなり、LG杯世界棋王戦では予選を勝ち抜いて本戦進出している。
^ 『囲碁百科辞典』71頁
参考文献
林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年
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チェス
チェスの駒
チェス(英: chess、ペルシア語: شطرنج‎ šaṭranj シャトランジ)は、2人で行うボードゲーム、マインドスポーツの一種である。先手・後手それぞれ6種類16個の駒を使って、敵のキングを追いつめるゲームである。その文化的背景などから、チェスプレイヤーの間では、チェスはゲームであると同時に「スポーツ」でも「芸術」でも「科学」でもあるとされ[1]、ゲームに勝つためにはこれらのセンスを総合する能力が必要であると言われている[2]。
目次 
1	概要
2	用具
3	チェスのルール(概略)
4	チェスの歴史(概略)
5	戦い方
5.1	駒の配置
5.1.1	マテリアルアドバンテージ
5.1.2	ポーンの形
5.2	戦術
5.3	ゲーム全体の流れ
5.4	形勢判断
5.5	序盤
6	競技人口
7	称号
8	通信チェス(概略)
8.1	通信チェスの概要
8.2	通信チェスの特徴
9	チェスを指す機械(マシン)
9.1	トルコ人
9.2	コンピュータ・チェス
9.3	20-21世紀
10	チェスを扱った作品
10.1	文学
10.2	美術および音楽
10.3	舞台作品
10.4	映画
10.4.1	チェスを主題とした作品
10.4.2	チェスの場面がある作品
10.5	テレビ
10.6	漫画
10.7	アニメーション
11	脚注
12	関連項目
13	外部リンク
概要

1935年チェス五輪の記念バッジ
欧米圏のみならず、全世界150か国以上で楽しまれている。非常に古い歴史を持ち、インターネット対局などを含め現在でも盛んである。カードゲームなども含めたゲーム全般においても、ブリッジと並んで最も多くプレイされている。
チェスの起源には諸説があるが、一般的には古代インドの戦争ゲーム、チャトランガが起源であると言われている[3][4]。日本においては同じチャトランガ系統のゲームである将棋の方がチェスよりも遥かに競技人口が多く[5]、両者は基本的なルールが似ていることから[6]、チェスは西洋将棋と訳されることもある[4][6][7][8]。一方でチェスと将棋はチャトランガが異なるルートで東西に伝播しそれぞれ異なる変遷を遂げたものであるとされ[4][7]、盤の広さや駒の性能、取った駒の扱いに関するルールの違いなどから、両者は似て非なるゲームであるとも評される[9]。 競技としてのチェスは、頭脳によるスポーツの代表格でもある。遊戯としての側面のほかに、ARISF加盟IOC承認スポーツであるなど、スポーツとしての側面も持つ。
ゲーム理論では、二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される[10]。
用具

チェスセットとチェスクロック
チェスの駒
Chess kdt45.svg	キング	Chess klt45.svg
Chess qdt45.svg	クイーン	Chess qlt45.svg
Chess rdt45.svg	ルーク	Chess rlt45.svg
Chess bdt45.svg	ビショップ	Chess blt45.svg
Chess ndt45.svg	ナイト	Chess nlt45.svg
Chess pdt45.svg	ポーン	Chess plt45.svg
最低限必要な物
チェスボード:縦横8マスずつに区切られた、市松模様の正方形の盤。「チェス盤」とも呼ばれている。
駒:6種類の動き方が異なる駒。全体の駒の数は、白黒あわせて32個。
公式戦などで必要になる物
チェス・クロック(対局時計):持ち時間制のゲームを行う場合に使用。
棋譜用紙:公式の競技会では、互いのプレイヤーが駒の動きを一手一手記録する必要がある。
チェスのルール(概略)
詳細は「チェスのルール」を参照
駒の初期配置
a	b	c	d	e	f	g	h	
8	
Chessboard480.svg a8 black rook b8 black knight c8 black bishop d8 black queen e8 black king f8 black bishop g8 black knight h8 black rook a7 black pawn b7 black pawn c7 black pawn d7 black pawn e7 black pawn f7 black pawn g7 black pawn h7 black pawn a2 white pawn b2 white pawn c2 white pawn d2 white pawn e2 white pawn f2 white pawn g2 white pawn h2 white pawn a1 white rook b1 white knight c1 white bishop d1 white queen e1 white king f1 white bishop g1 white knight h1 white rook
8
7	7
6	6
5	5
4	4
3	3
2	2
1	1
a	b	c	d	e	f	g	h	
ゲームは2人のプレイヤーにより、チェスボードの上で行われる。
白が先手、黒が後手となる。
双方のプレイヤーは、交互に盤上にある自分の駒を1回ずつ動かす。パスをすることはできない。
味方の駒の動ける範囲に敵の駒があれば、それを取ることができる。
敵の駒を取った駒は、取られた駒のあったマスへ移動する。取られた駒は盤上から取りのぞく。
チェスの駒は、他の駒を飛び越して移動することはできない。ただし、ナイトと、キャスリング時のキング・ルークは例外である。
キングは、敵の駒が利いている場所には移動することができない。
相手のキングに、自分の駒を利かせて取ろうとする手を「チェック」と呼ぶ。
キングが絶対に逃げられないように追い詰めたチェックのことを、「チェックメイト」と呼ぶ。双方のプレイヤーは、相手のキングをチェックメイトすることを目指す。
ルール上動かせる駒がなく、チェックもされていないときは「ステイルメイト」といい引き分けとなる。
チェスの歴史(概略)

テンプル騎士団
詳細は「チェスの歴史」を参照
チェスの起源は紀元前、古代インドのチャトランガだと言われている[4]。ただしチャトランガがどのようなゲームであったかについては論争がある[11]。詳細は「チャトランガ」を参照。
ペルシアに伝えられてシャトランジと名を変え、さらにヨーロッパに伝わっていった。
8世紀にはロシアに伝えられ、約100年遅れて西ヨーロッパへ伝わる。
15世紀末、ルイス・デ・ルセナによるヨーロッパ最初のチェスの本、「チェスの技術」が出版された。

フィリドール
16世紀、ほぼ現在と同じルールに固定された。「アンパッサン」、「ツークツワンク」、「キャスリング」などの用語がヨーロッパ各地の言語で生まれていることからもわかるように、ヨーロッパ各地でルールが発展していった。
17世紀には、チェスは娯楽として普及。資産家をスポンサーとして競技されるようになる。
1749年、フィリドールが『フィリドールの解析』を著し、「ポーンはチェスの魂である」との言葉を残す。
1857年、ポール・モーフィーが、アメリカのチェス大会で優勝。翌年ヨーロッパに渡り、ここでも圧倒的勝利を収めている。
1886年、ヴィルヘルム・シュタイニッツがツケルトートを破り、「公式」な世界チャンピオンとなる。

フィッシャー
1935年、アレヒンが1937年にタイトルを奪回、1946年に死去するまでチャンピオンの地位にあった。このアレヒン以降は、ソ連-ロシアのプレーヤーがチャンピオンを保持し続ける時代が長かった。
1972年、ボビー・フィッシャーが、ボリス・スパスキーを破ってチャンピオンの座に就く。フィッシャーは「米国の英雄」とも呼ばれたが、1975年防衛戦の実施方法を巡ってFIDEと対立。タイトルを剥奪された。
1997年、FIDEは国際オリンピック委員会(IOC)の勧告を受け入れ、挑戦者制をトーナメント制に改めた。
2000年、インドのアナンドが優勝。初めてチェス発祥の地にチャンピオンが誕生した。
戦い方
チェスの戦い方は、「戦略」と「戦術」の2つの面で考えられることが多い。「戦略」(Strategy)とは、局面を正しく評価すること、長期的な視野に立って計画を立てて戦うことである。「戦術」(Tactics)とは、より短期的な数手程度の作戦を示し、「手筋」などとも呼ばれる。戦略と戦術は、完全に切り離して考えられるものではない。多くの戦略的な目標は戦術によって達成されること、戦術的なチャンスはそれまでの戦略の結果として得られることが多いからである。
駒の配置
ゲームの目的は相手のキングを詰めることである。したがって、まず有利な局面を作ることが目標とされる。局面の優劣を評価する上で重要な要素は、駒を得すること(マテリアルアドバンテージ)と、駒がよい位置を占めること(ポジショナルアドバンテージ)である。
マテリアルアドバンテージ
チェスにおいては、相手より駒が多いか少ないかが重要な意味をもつ。駒の価値は一般に、P = 1点、N = 3点、B = 3点強、R = 5点、Q = 9点 とされ、合計点数が1点でも違うと、特に終盤では大きな差となる。合計点数が多いことを、マテリアルアドバンテージ(material advantage)をもつという。ポーン(P)を1個多く奪われることは、多くの場合勝敗に大きく影響する。終盤では、ポーンがクイーンになるプロモーションの争いとなることが多いからである。このため、7段目に進んだポーンを3点に評価する考え方もある。またビショップは盤上半数のマスには進めないため、自分にだけ2つのビショップが揃っている場合は6点ではなく7点近くに評価する考え方もある。これをツービショップまたはビショップペアという。
ポーンの形
ポーンは後退できない駒なので、前進には慎重さを要する。このように動きに制約があり狙われても容易に逃げることができないので、ポーンが狙われにくい形であることは重要である。ポーンの形は横一列に並んでいる、すなわち初期配置の形が最も好形とされる。
詳細は「ポーン#さまざまなポーンの形」を参照
キングの安全性・空間・重要なマスのコントロール等も大きな要素である。
戦術
戦術は1手から数手程度で完結する短期的な戦い方の技術である。戦術では「先を読む」ことが重要で、コンピュータが得意とする分野である。戦術においてよく用いられる基本的な手段としては、フォーク(両取り)、ピン、ディスカバードアタック、スキュア(串刺し)、ツークツワンクなどがある。戦術のなかでも、駒の犠牲を払って優位な形やチェックメイトを狙うものは、「コンビネーション」と呼ばれている。
ゲーム全体の流れ
チェスの1局は、序盤・中盤・終盤の3つの局面に分けて考えられることが多い。序盤(Opening)は多くの場合、開始10手から25手程度を指し、対局者が戦いに備えて駒を展開する局面である。中盤(middlegame)は多くの駒が展開され、局面を優位にコントロールするために様々な戦術が用いられる。終盤(endgame)は、大部分の駒が交換され盤上から無くなった局面で、キングが戦いにおいて重要な役割を担う。
チェスの戦い方を表す格言として、「序盤は本のように、中盤は奇術師のように、終盤は機械のように指せ」[12]という言葉がある。これは序盤を既に確立された序盤定跡に忠実に従うことを「本」、中盤以降は記憶に頼ることが難しくなるため、そこで要求される巧みさや機転を「奇術」にたとえている。終盤の「機械」とは、特にチェックを意識する最終盤における読みの深さ、ミスを犯さない冷静沈着な精神などを指す。
形勢判断
前述の通り、形勢判断に最も重要な要素は、残存戦力、すなわち残っている駒の数である。次いで駒の働き、キングの安全性が判断材料となる。
序盤
序盤定跡
詳細は「オープニング (チェス)」を参照
序盤定跡については、Batsford Chess Openings 2(BCO2)[13] や、Modern Chess Openings(MCO)[14] が詳しい。
序盤の原則
中央支配
中央を支配することは要点の一つである。中央を支配することによって陣地が広がるので、自分の駒は移動の選択肢が増え、相手(敵)の駒は移動の選択肢が少なくなる。
白の二つのポーンが d4 と e4 に並ぶか、c4, d4 または e4, f4 に並ぶファランクスは白にとって一つの理想であり、最初の数手はこれをめぐる争いであることが多い。定跡 Queen's Gambit Declined(1. d4 d5 2.c4 e6)の 2.c4(gambit)は、もし黒が 2.… dxc4 と取れば 3. e4 としてファランクスを作る意図であるし、そうしない 2. … e6(declined)は、中央を守ろうとするものである。
マイナーピースの展開とイニシャティブ
数多くのマイナーピース(NとB)を早く中央寄りに繰り出すことも重要である。最初の位置よりも中央寄りであるほうが、利きが及ぶ点が多く、駒の力を活かすことになる。
さらに、敵の駒に利きを及ぼすことによって、敵の手が制限されてくる。狙われた駒が守られていない駒ならば、それを守る手が必要になるし、狙われた駒が既に守られている駒であっても、その駒を守っている駒が動かせなくなるという制限を受けることになる。つまり、敵の手の選択肢が減ってくる。このような状態をイニシャティブを取った状態という。
Ruy Lopezの 1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bb5 という動きはこれらの原則の典型である。
競技人口
2012年現在、愛好者数は約7億人とされ、世界中で広く親しまれているゲームのひとつである[15]。日本ではレジャー白書(2011年版)によるデータでは、将棋は1270万人、囲碁は640万人であるので比較すると国内のチェス愛好家は少ない[16]。なお、チェスにはレイティングというものがある。これは囲碁将棋の級などに相当するものである。チェスに興味がある人は登録し年間一試合以上を行うと仮レイティングがつく。日本のチェス人口は囲碁将棋より少ないので、日本ではチェスELOレイティングが全員公開されている[17]。2013年現在、仮レイティングがついている日本人は77名、累積25局以上の本レイティングのついている日本人は146名である。これを合計すると、最低223名のチェス愛好家がいることが確認される。
称号
「国際チェス連盟のタイトル」も参照
終身称号	備考
グランドマスター	男子 GM, 女子 GMW
インターナショナルマスター	男子 IM, 女子 IMW
FIDEマスター	男子 FM, 女子 FMW
国際審判	IA
通信チェスグランドマスター	ICCF GM
通信チェスシニアインターナショナルマスター	ICCF SIM
通信チェスインターナショナルマスター	ICCF IM
期間称号	備考
各種世界チャンピオン	国際チェス連盟が定める規約に従って選出された者
各種国内チャンピオン	国際チェス連盟加盟国協会が定める規約に従い選出された者
通信チェス(概略)
詳細は「通信チェス」を参照

チェスの記念切手
通信チェスの概要
「通信チェス」とは遠距離の相手と、通信を用いて行うチェスの対局を指す。一つのゲームが一日以内で終了するケースはごくまれで、数日・数週間・数ヶ月かかるのが一般的である。
OTB:「Over-The-Board chess」のこと。対局者とボードを挟んで、リアルタイムにプレイする通常のチェスを指す。
通信チェス:「Correspondence chess」のこと。一般郵便・Eメール・専用サーバなどの通信手段を用いて行われる。
ゲームの勝敗はすべて管理組織に報告され、レイティングや次の対局などに反映される。
通信チェスの世界最大の組織は、ICCF(国際通信チェス連盟)[18]である。日本では、ICCF公認のJCCA(日本通信チェス協会)[19]が管理している。
JCCAは、以前はJPCA(日本郵便チェス協会)[20]と呼ばれていた。
インターネットが普及する以前は郵便でのやりとりが多かったため、日本では「郵便チェス」の名で親しまれていた。現在はEメールやWebサーバを使用しての対局が多くなり、変更された組織の正式名称にあわせて「通信チェス」と呼ばれている。
通信チェスの特徴
Stamps of Germany (BRD) Wohlfahrtsmarke 1972 25 Pf.jpg	Stamps of Germany (BRD) Wohlfahrtsmarke 1972 70 Pf.jpg	Stamps of Germany (BRD) Wohlfahrtsmarke 1972 30 Pf.jpg
対局は同時刻に行われず、双方が一手一手異なる時間帯にプレイする。
持ち時間が時間(Hour)ではなく、日数(Day)単位で規定されている。
ゲームの対局中でも、書籍やデータベース・ソフトの利用が公認されている。
チェスを指す機械(マシン)
トルコ人

トルコ人。ケンペレンによって製作された自動チェス人形で「メルツェルの将棋指し」として有名
詳細は「トルコ人 (チェス)」を参照
史上最も古い「チェスマシーン」は、1769年にハンガリーの発明家ヴォルフガング・フォン・ケンペレンによってハプスブルク家当主マリア・テレジアを歓待するために作られた、「トルコ人」として知られるものである。トルコ人の衣装を身にまとい、木製キャビネットに鎮座したこの人形は、熟練者級のチェスの腕を披露するだけでなく、ナイト・ツアーをこなし、チェスボード上の文字を指し示すことで観客の質問にも答えたという。
「トルコ人」はまずヨーロッパ、ついでアメリカで興行を行ない、多くの人々を驚かせた。「トルコ人」と対戦した人々のなかには、ナポレオン・ボナパルトやベンジャミン・フランクリンなどの有名人も含まれている。また、人の代わりにチェスをプレーする機械という存在は、エドモンド・カートライトに人の代わりに布を織る機械という発想を与えたともいわれる。
この「トルコ人」は世界初の「チェスマシーン」であるだけでなく、世界初の大型装置を使ったマジック(イリュージョン)としての重要な側面も持つ。つまり、この機械の「人工知能」はまさに人間であり、人が人形の中に隠れて操作をしていたのであった。主催者は興行に先立ってキャビネットの扉を順々に開け、中身が機械仕掛けだらけである事を観衆に提示するが、巧妙な方法で実は中に人が入り込んでいる。
「トルコ人」は1854年、引き取られたアメリカの博物館で火事に遭い、焼失した。
コンピュータ・チェス
チェスの盤面状態の種類は1050、ゲーム木の複雑性は10123と見積もられている[21]。それに対し、将棋の盤面状態の種類は1071、ゲーム木の複雑性は10226で、チェスに比較して将棋の方が複雑であるとみなされる。
ゲーム理論では、チェスのようなゲームは二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される[10]。理論上は完全な先読みが可能であるこの種のゲームでは、双方のプレーヤーがルール上可能なあらゆる着手の中から最善手を突き詰めた場合、先手必勝、後手必勝、ないし引き分けのいずれかの結果が最初から決まってしまうことがエルンスト・ツェルメロによって証明されている[22]。
チェスの初手から最終手までにルール上可能な着手は、1950年にクロード・シャノン[23]によって10120と試算されている。その全てを網羅し必勝戦略を導き出すことはいまだ実現に至っていないものの、コンピュータにチェスをさせるという試みはコンピュータの黎明期から行なわれており、コンピュータの歴史と、コンピュータチェスの歴史は並行して歩んできた。
20-21世紀
「コンピュータチェス」も参照
コンピュータチェスの発展と、人間対マシンのチェスでの力関係の歴史について解説する。1949年にクロード・シャノンが「チェスをするコンピュータのプログラミング」という、プログラムにチェスの手を計算させる方法に関する論文を発表し、評価関数や探索木の作り方について記述し、理論的に考察した(だが実際にプログラムを制作できたわけではなかった)。実際にチェスを(まがりなりにも最低限)プレイするようなプログラムは1950年代には制作されるようにはなっていた。だが、当初チェスプログラムはとても弱く、人間の頭脳で判断すればすぐに愚かなものだと判断がつくような手を連発するものが多く、人間の中級者(どころか初心者でも)簡単に打ち負かすことができるようなマシン(プログラム)ばかりであった。最も強い部類でもMac Hack VI(マックハック)でせいぜいレーティングは1670と言われる程度にすぎなかった。当時、果たして将来的にでも人間の一流プレーヤーを破ることができるようなプログラムができるのか、という点に関して非常に疑問視されていた。1968年にはインターナショナル・マスターのデイヴィッド・レヴィは「今後10年以内に自分を破るようなコンピュータは現れない」というほうに賭ける賭けを行い、実際1978年に当時最強の<チェス4.7>と対戦し、それに勝った。ただし、当時レヴィは遠くない未来に自分を越えるコンピュータが現れるかもしれない、との感想を漏らした。そして、レヴィがエキシビションマッチでディープ・ソートに敗れたのは1989年のことであった。

カスパロフ
コンピュータと人間の力関係の象徴的なものとして世界中の注目を集め、そして結果として人々に深い印象を残したのは、IBMのディープ・ブルーとガルリ・カスパロフの対戦であった。1996年に両者の対戦が行われたところ、6戦の戦績として、カスパロフ(人間の世界チャンピオン)の側の3勝1敗2引き分けで、人間側の勝利であった(人間の世界チャンピオンの頭脳のほうが、世界最強のチェスマシンよりも強いことを知り喜んだり快く思う人、「ほっとした」人も多かった)。ただし、コンピュータチェスを推進する人々からは、初めて人間の世界チャンピオンから1局であれ勝利を収めた、という点は評価された。1997年、ディープ・ブルーが再度ガルリ・カスパロフと対戦し、ようやく初めて世界チャンピオンに勝利を収め、コンピュータチェスの歴史に残る大きな節目(あるいは人類の意味の歴史の一こま)として大々的に報道された。勝利したIBM側は、格好の宣伝材料としてこの出来事を利用し、すぐにディープ・ブルーを解体してしまい、それとの再戦(リベンジ戦、名誉回復戦)はできない状態にしてしまった[24]。

クラムニク
その後のコンピュータと人間の対戦の際立ったものを挙げると、2002年10月に行われたウラジーミル・クラムニク(露)とコンピュータソフト「ディープ・フリッツ」とのマッチでは、両者が引き分け、2003年01月26日から2月7日までニューヨークで行なわれたカスパロフと「ディープ・ジュニア」とのマッチも、1勝1敗4引き分けで両者引き分けに終わり、2003年11月11日から11月18日まで行なわれたカスパロフと「X3Dフリッツ」のマッチも、1勝1敗2引き分けで両者引き分けに終わったこと、また2006年10月に統一世界チャンピオンとなったクラムニクとディープ・フリッツとの6ゲームマッチが、2006年11月25日から12月5日までボンで行なわれ、ディープ・フリッツが2勝4引き分けでマッチに勝ったことなどが挙げられよう。
こうして、今日では人間のチャンピオン対コンピュータの対戦もよく行われている。また上記のような特殊なチェス専用マシンでなくても、市販のPC上で走る安価なチェスプログラムの中でも上級者が判断しても十分に強いとされるものが開発され版を重ねており、中級者~初心者でも購入し自宅などで対戦して楽しんでいるファンも多い。
チェスを扱った作品
文学
ルイス・キャロル 『鏡の国のアリス』
ウラジーミル・ナボコフ 『ディフェンス』
レイモンド・スマリヤン(野崎昭弘 訳) 『シャーロック・ホームズのチェス・ミステリー』
パトリック・セリー(高橋啓 訳) 『名人と蠍』
ダン・シモンズ 『殺戮のチェスゲーム』
S・S・ヴァン=ダイン 『僧正殺人事件』
ダレン・シャン 『デモナータ』
ベルティーナ・ヘンリヒス 『チェスをする女』
たけうちりうと 『騎士(ナイト)とビショップ』 『騎士とサクリファイス』 『騎士とテロリスト』 『騎士とプリンス』
春原いずみ 『チェックメイトからはじめよう』
小川洋子 『猫を抱いて象と泳ぐ』
ラファエル・ピヴィダル 『08 ou la haute fidélité』
瀬名秀明 『第九の日 The Tragedy of Joy』
浅井ラボ 『灰よ、竜に告げよ』―されど罪人は竜と踊る〈2〉

リュバン・ボージャン, チェス盤のある静物

オノレ・ドーミエ,
チェスをする人
美術および音楽
西洋の絵画、特に17世紀までのヴァニタスをはじめとする寓意的な静物画には、触覚を示す比喩として、チェスボードや駒が描かれる事がある。また、近現代においては、マルセル・デュシャンは自身もチェス・プレイヤーをしていた経歴をもち、作品に度々登場させている。現代音楽では、ジョン・ケージ(チェスに関してはデュシャンの弟子でもある)が、チェスボード上を動く駒の音を作品に取り入れた例がある。
ルドヴィコ・カラッチ 『チェスをする人』
リュバン・ボージャン 『チェス盤のある静物』
ウジェーヌ・ドラクロワ 『チェスをするアラブ人』
オノレ・ドーミエ 『チェスをする人』
アンリ・マティス 『画家の家族』『チェスボードの隣の女』
パウル・クレー 『スーパー・チェス』
マルセル・デュシャン 『チェス・プレイヤーの肖像』『ポケットチェスセット』
ジョン・ケージ(音楽)『0'00" No.2』『チェス・ピース』『再会(Reunion)』(マルセル・デュシャンとの共演)
舞台作品
バレエ『チェックメイト』(振付:ニネット・ド・ヴァロア、作曲:アーサー・ブリス)
ミュージカル『Chess』(1984年、作:ティム・ライス)
映画
チェスを主題とした作品
ボビー・フィッシャーを探して
愛のエチュード(英語版) - ウラジーミル・ナボコフの小説『ディフェンス』を映画化
完全なるチェックメイト - 1972年の世界選手権マッチ、フィッシャー対スパスキー戦を米ソ冷戦の枠組みでとらえる。
ナイト・オブ・チェス/夢のちから(英語版)
ゲーリーじいさんのチェス - ピクサーのアニメーション作品、1997年アカデミー短編アニメ賞受賞
世にも奇妙な物語 映画の特別編 『チェス』
チェスの場面がある作品
チェスをする人 en:Shatranj ke Khilari(サタジット・レイ監督)
2001年宇宙の旅 - 宇宙船を制御するコンピュータである「HAL 9000」が船員を相手にチェスを指す場面がある。チェスで人間を負かす程の知能を持つHAL 9000は、後に船員に対して反乱を起こす。
X-MEN - 主人公側の超能力者グループを率いる指導者と、それと敵対する超能力者グループを率いる指導者は、かつては親しくチェスを指す親友同士であったという描写が登場する。
ハリー・ポッターと賢者の石 - 原作小説、および映画のクライマックスで、主人公らが人間を駒に見立てたチェスを用いて敵対者と対決する場面がある。
華麗なる賭け
007 ロシアより愛をこめて
美しき獲物 en:Knight Moves (film)(クリストファー・ランバート&ダイアン・レイン)
キューブ ゼロ(CUBE ZERO)
相棒 -劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン
デスノート - 映画版には、自分自身が黒幕であることを隠して警察に協力する主人公と、それを暴こうとする好敵手が、チェスで勝負を繰り広げる場面がある。
デスノート the Last name
テレビ
スパイ大作戦(シーズン2)『王手!』
刑事コロンボ『断たれた音』
スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説第13話『白銀の決闘! スキー場は大パニック』 - 主要登場人物の矢島雪乃がチェス大会に出場する。
相棒
CSI:科学捜査班(シーズン14)第16話『破滅の王者』
コールドケース(シーズン2)第19話『チェス』
NUMBERS(シーズン4)14話『死のチェックメイト』
メンタリスト(シーズン2)『赤い鼻の恐怖』
漫画
マンガでおぼえるチェス入門 ISBN 9784381104229 (絶版)
雪リコ 『チェックメイト』
磯見仁月 『クロノ・モノクローム』
若松卓宏 『盤上のポラリス』
山本亜季 『HUMANITASヒューマニタス』第2章「冷戦下・旧ソ連のチェス王者・ユーリ」
アニメーション
カウボーイビバップ(Session#14「ボヘミアン・ラプソディ」)
コードギアス 反逆のルルーシュ - 主人公の特技はチェスという設定があり、作戦行動をチェスの戦局に例えるなど、様々な場面でチェスの用語やチェスセットが象徴的に登場する。対局の場面もある。
うみねこのなく頃に - 主人公の考え方の一つ(元は母、霧江の考え方)にチェス盤思考と言うものがある。「ここでチェス盤をひっくり返す」と言う言い方をし、相手と自分の位置をひっくり返して考えること。
ダーティペア(テレビ版)第24話
ハイスクールD×D - 主人公や人間を悪魔を転生させるために用いる「悪魔の駒」と言うものがあり、それは、チェスの駒になぞらえられている。
ノーゲーム・ノーライフ
アルドノア・ゼロ - EPISODE.15「旋転する罠」で、主人公が左目に埋め込んだ生体デバイスを解説するシーンで、ブラインドチェスが行われている。また、EPISODE.24「いつか見た流星」でもチェスのシーンが使用された。
ルパン三世 - ルパン三世 (TV第2シリーズ)でチェスを行うシーンが多い。22話ではコンピュータチェスとルパン三世が対決するシーンがある。(ルパンの負け、コンピューターはルパンによってスクラップに)ほか57話でもハンター教授がコンピュータチェスで対戦している他、ルパンが「泥棒とチェス(勝負)は終わってみるまでわからない」というシーンもある。
脚注
松田道弘 (1993年9月30日) [1988], ベストゲーム・カタログ 遊びの新世界をパトロール, 現代教養文庫 (初 ed.), 社会思想社, ISBN 4-390-11482-4
ロフリン, Я.Г. (1977年10月25日) [1975] (日本語), 楽しいチェス読本(原題 Книга о шахматах) (第1 ed.), ベースボール・マガジン社, 全国書誌番号:77028261
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^ 『チェスの本』 フランスワ・ル・リヨネ 成相恭二訳 白水社 ISBN 4-560-05603-X
^ 松本康司 「チェスの妙味(解説篇)」『チェスの名人になってみないか 図解チェス入門』 青年書館、1980年3月、20頁。全国書誌番号:80023310。
ロフリン (1977, 日本語版への序)
^ ロフリン (1977, p. 2)
^ a b c d 村上耕司 (2006年1月1日). “将棋の起源”. 朝日現代用語 知恵蔵2006. 朝日新聞社. pp. 999-1000. ISBN 4-02-390006-0.
^ 松田道弘 (1993, p. 323)
^ a b 倉田操 「チェスについて」『ゲームとチェスの遊び方』 虹有社、1981年7月10日、9刷、103頁。全国書誌番号:93009517。「我国では,チェスのことを,将棋によく似ているところから「西洋将棋」とも言っております。」
^ a b 増川宏一 「チェス」『盤上遊戯』 法政大学出版局〈ものと人間の文化史(29)〉、1978年7月10日、初版、137頁。ISBN 978-4588202919。
^ “チェス”. 競技情報. 日本オリンピック委員会 (2006年). 2009年11月7日閲覧。
“チェス〈chess〉”, 旺文社国語辞典 (中型新 ed.), 旺文社, (1965), p. 678, 全国書誌番号:65001185
“chess”, 新英和中辞典 (第4 ed.), 研究社, (1977), p. 248, 全国書誌番号:84016323
“chess”, デイリーコンサイス英和辞典 (第3 ed.), 三省堂, (1979年12月10日), p. 89, ISBN 4-385-10297-X
“chess”, ニュー・アンカー英和辞典 (初 ed.), 学習研究社, (1988年1月20日), p. 226, ISBN 4-05-103565-4
日本語大辞典 (初 ed.). 講談社. (1989年11月6日). pp. 1077,1237. ISBN 4-06-121057-2.
“チェス”, 新明解国語辞典 (第4版小型 ed.), 三省堂, (1989年12月10日), p. 808, ISBN 4-385-13142-2
“チェス[chess]”, 大きな活字の三省堂国語辞典 (第4版大字 ed.), 三省堂, (1992年4月1日), p. 722, ISBN 4-385-13179-1
“チェス[chess]”, 大辞林(goo辞書) (第2 ed.), 三省堂, (1995年11月3日), ISBN 4-385-13902-4 2009年10月29日閲覧。
“チェス【chess】”, 大辞泉(Yahoo!辞書) (増補・新装 ed.), 小学館, (2006), ISBN ISBN 978-4095012124 2009年10月29日閲覧。
“チェス”. マイペディア. 日立システムアンドサービス. (2008年6月) 2009年10月29日閲覧。.
^ “第22回朝日オープン将棋選手権 五番勝負第2局”. asahi.com (朝日新聞社): p. 第7譜. (2004年5月8日) 2009年11月7日閲覧。
^ a b Davis, Morton.D 「第2章 完全情報・有限・2人・ゼロ和ゲーム」『ゲームの理論入門 チェスから核戦略まで』 桐谷維、森克美訳、講談社〈ブルーバックス〉、1973年9月30日(原著1970年)、第46刷、31-32頁。ISBN 4-06-117817-2。「ゲームの理論家の眼から見れば、チェス・ゲームの例には四つの本質的要素がある。(中略)これら四つの特性を持つゲームは「完全情報・有限・2人・ゼロ和ゲーム」といわれる。」
^ 松田道弘 (1993, pp. 206-262)
^ この格言の出典については、チェルネフとスピールマンの二説がある。前者は「最新図解チェス」(渡井美代子、日東書院)などに、後者は英語版ウィキクオートなどに記載されている。
^ Garry Kasparov, Raymond Keene (1989). Batsford Chess Openings 2, Henry Holt and Company. ISBN 0-8050-3409-9.
^ Nick De Firmian (1999). Modern Chess Openings: MCO-14, Random House Puzzles & Games. ISBN 0-8129-3084-3.
^ How Many Chess Players? « ChessManiac
^ “囲碁人口610万人、将棋1200万人 レジャー白書 - 囲碁”. asahi.com(朝日新聞社). (2011年9月13日) 2014年9月24日閲覧。
^ 最新レイティング
^ ICCF:International Correspondence Chess Federation
^ JCCA:Japan Correspondence Chess Association
^ JPCA:Japan Postal Chess Association
^ Yen, Chen, Yang, Hsu (2004) "Computer Chinese Chess"
^ Davis, Morton.D 「第2章 完全情報・有限・2人・ゼロ和ゲーム」『ゲームの理論入門 チェスから核戦略まで』 桐谷維、森克美訳、講談社〈ブルーバックス〉、1973年9月30日(原著1970年)、第46刷、36-37頁。ISBN 4-06-117817-2。
^ Claude Shannon (1950). “Programming a Computer for Playing Chess”. Philosophical Magazine 41 (314).
^ その後、人間がコンピュータに負けにくいアリマアという新しいボードゲームが考案された。
関連項目
Wikibooks:Chess - チェス(英語版Wikibooks)
Wikibooks:Chess Strategy - チェスの戦略(英語版Wikibooks)
Wikibooks:Chess Opening Theory - チェスの序盤定跡(英語版Wikibooks)
ワールドマインドスポーツゲームズ - 2008年に第1回大会が開催。5競技種目の一つとしてチェスを採用。
カーリング - 「氷上のチェス」といわれる。
外部リンク
10 sided die.svg
ポータル ゲーム
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	ウィクショナリーにchessの項目があります。
	ウィキブックスにチェス関連の解説書・教科書があります。
JCA(日本チェス協会)
JCCA(日本通信チェス協会)
FIDE(国際チェス連盟)
ICCF(国際通信チェス連盟)
Chessworld
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Chessgames.com
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連珠
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密芒(ミマン、チベット文字:མིག་མངས; ワイリー方式:mig mangs)、または藏棋(ツァンチー))は、チベットやその周辺で20世紀頃まで行われていた囲碁の一つ。チベット碁とも呼ぶ。基本的なルールは日本や中国と同じだが、碁盤は17路盤を用い、対局開始時に黒白6子ずつの石を碁盤の決まった位置においてから始める。
目次 
1	碁盤
2	対局方法
3	歴史的意義
4	現代における対局
5	参考文献
碁盤
碁盤は17路で、天元及び辺に12個の、計13個の星がある。星には二重丸と花弁型が交互に描かれており、天元には大きい花弁型が描かれている。材質は布製が多いが、花崗岩製の出土品もある(#歴史的意義参照)。
密芒の碁盤イメージ
Miman-board.jpg
対局方法

図1 密芒の事前置石
図2 密芒の死活の例
ルールは、事前置石制の一種で、開始時にあらかじめ図1のように黒白6子ずつを置いて対局を始め、白が先番となる。
ルールは中国ルールだが、相手が取った石の跡にすぐに打つことはできず、別の場所に打った後でなら打つことができる。このため、ナカデによって相手の石を殺すなどの方法が異なってくる。例えば図2では、白1の直後に黒が△に打てないため、黒が別の手を打った直後に白が△に打てば白生きとなる。黒は別のところに石を打って得を図り、それに白が受ければ、黒が改めて△と打って白死にとすることができる(コウダテに類似)。
対局は1局目はコミ無しで打たれ、勝った方が2局目では勝った分だけコミを出す。また片側が平らな碁石を使った場合、平らな側を下にして石を置いた時が着手決定となり、逆においた場合は考慮中を示し、別の場所に打つことができる。
歴史的意義
1999年にチベットのメルド・グンカル県加瑪鄉村にある強巴米久林(チャンバミーチュウリン)宮殿遺跡から、花崗岩でできた17路の碁盤が発掘された。これの年代は定まっていないが、1300年前の吐蕃時代のものか、3000年前のものという説もある。
中国における初期の囲碁は17路盤であったと記録や出土品から推定されており、チベット碁は古い囲碁の形が残されたものと考えられる。
現代における対局
1959年にシッキム王国のソンダップ・ナムギャル皇太子が訪日した際に、日本棋院中央開館を訪れ、伊予本桃市六段(当時)と、持参した17路の布製碁盤でチベットルールによる対局を行った。この時皇太子は、親戚であるチベットのダライ・ラマから囲碁を教えられたとも語っている。
雲南省迪慶チベット族自治州では、密芒の歴史研究が始まり、2005年に「第1回シャングリラ高山植物園チベット盤上ゲーム体育文化祭」が行われ、江鋳久九段、芮廼偉九段夫妻、中国の岳亮四段、韓国の権考珍四段夫妻による密芒対局が行われた(江-岳戦、権-芮戦)。
参考文献
安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年
中野謙二『囲碁中国四千年の知恵』創土社 2002年
大島正雄「チベットの17路盤」(『碁ワールド』2005年8月号)、「悠久の異碁ルール チベットの碁」(同9月号)
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中国流(ちゅうごくりゅう)は囲碁における布石手法の一つ。安永流ともよばれる。星・小目・辺の星脇を組み合わせた配置である。

図の黒の配置が中国流である。辺の一子はaに打つこともあり、これは「高い中国流」「高中国流」と呼ばれる。三連星にも似ているが、一方の隅が小目である分地にも辛いという特色を持つ。
目次 
1	起源・歴史
2	概要
3	白の対策
4	中国流封じ
5	バリエーション
5.1	類義布石
6	参考図書
7	脚注
8	関連項目
起源・歴史
小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。
本格的な中国流の開祖は安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年の日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本に逆輸入された。1970年頃から、島村俊廣が実戦で継続的に用い、その後も加藤正夫や藤沢秀行らが常用して大流行。現代も人気布石の地位を保ち続けている。
概要
中国流の特徴は小目からシマリを省略して辺へ展開するスピードにあり、それまでシマリが絶対優先と考えられていた布石の考え方に変革を起こした。白が下図a・b・cなどと配石の間に打ち込んでくれば厳しく攻撃し、dなどと外からカカってくれば自然と大きな模様が完成する。こうした攻撃性・発展性も中国流の大きな特色である。
こうしたことから中国流への接近手段として、通常のカカリでなくe方面からの「裏ガカリ」などが試みられている。

白の対策
内カカリ
たとえば、下図のように早い段階で中国流の内側に入るのは、ヒラキを制限されているため根拠を得にくく、黒の厳しい攻めを受けるためよい結果をもたらさない。

ヒラキ
白1にヒラけば、黒も2にヒラいて、内側へのカカリを誘う。大きく模様を広げ、侵入を誘って厳しく攻めるのが中国流のスタイルである。侵入せず下辺白3のツメなどであれば、黒4から8と打って右下を効率よく地化する。白はややヒラキが狭く、凝り形と見なされる。
裏ガカリ
そこで最近では、白1のように変則的にカカる「裏ガカリ」がよく打たれる。黒2と受ければ白3とヒラき、発展を妨害したことに満足する。このため黒2の手で3の点あたりにハサむ手も研究されている。また白1の他、a, b, c, dなどの着点も打たれている。
中国流封じ
白から中国流布石を防ぐ手法も考えられている。
白4とカカってしまえば、中国流にはならない。ただし左下空き隅は黒5など、黒に占められることになる。

白4の小目に打つのも中国流封じの有力な手法。なお黒5と中国流に構えれば、白6が右辺に対して切っ先を向け、発展を阻害する好位置のシマリとなる。このため黒5ではaとカカって別の布石に進むことが多い。
バリエーション
高中国流は羽根泰正が得意とした手法であるが、近年ではやや地に甘いとして打たれることが少ない。白番で中国流が打たれることもあるが、やや特殊な趣向の領域に属する。また、「小目からシマリを省略して辺へ展開する」という考え方は、それ以後の布石の考え方に大きな影響を与え、 ミニ中国流や小林流などの新しい布石を生み出すきっかけとなった。
近年では、左下の白に一本カカリを打ってから中国流に構える、上図黒5の手を一路下にずらすなどのバリエーションも開発され、研究の進んだ中国流に新たな展開が生まれつつある。
類義布石
近年、黒5の位置を小目寄りにずらした上図の布石がよく打たれるようになった。河野臨がよく用いることから「臨戦中国流」と名づけられているが、他に「偏中国流」・「ベトナム流」(中国の隣という理由から)・「オバマ流」(幅が狭いから)などの呼び方をする者もあり、いまだに呼び名は一定していない[1]。また、河野臨はこの布石を「スモール中国流」と名づけた解説書も上梓している。
参考図書
林海峯『システム布石 中国流』誠文堂新光社
脚注
^ 週刊碁2008年11月17日号
関連項目
三連星
ミニ中国流
小林流
■
棋戦(きせん)とは囲碁の大会、特にプロのものを指す言葉。
目次 
1	歴史
1.1	黎明期
1.1.1	代表的な新聞の棋譜掲載
1.2	トーナメント制の発展
1.3	世界への拡がり
2	国際棋戦
2.1	世界選手権
2.2	国際対抗戦
2.3	国際女流棋戦
2.4	国際ペア碁棋戦
3	日本の棋戦
3.1	タイトル戦
3.1.1	名誉称号
3.1.1.1	他棋戦称号
3.1.2	グランドスラム
3.1.3	大三冠
3.2	主要棋戦
3.3	女流棋戦
3.4	地方棋戦
3.5	非公式棋戦
3.6	ペア棋戦
3.7	終了棋戦
4	韓国の棋戦
4.1	一般棋戦
4.2	若手棋戦・シニア棋戦
4.3	女流棋戦
4.4	ペア碁棋戦
4.5	韓国囲碁リーグ
4.6	終了棋戦
5	中国の棋戦
5.1	棋戦
5.2	優勝杯
5.3	若手棋戦
5.4	女流棋戦
5.5	地方棋戦
5.6	ペア碁棋戦
5.7	中国囲碁リーグ
5.8	その他
5.9	終了棋戦
6	台湾の棋戦
6.1	一般棋戦
6.2	限定棋戦
7	脚注
7.1	注釈
7.2	出典
8	参考文献
9	関連項目
歴史[ソースを編集]
黎明期[ソースを編集]
室町時代末期から公家や大名により当代の名手を集めた碁会が催されることが多くなり、著名な碁打ちの強さの格付けもされるようになる。江戸時代になると、その中の本因坊算砂や利玄といった者たちから家元制が生まれ、家元が幕府に出仕しての御城碁や、寺社奉行の許可に基づく争碁などが公的な対局として行われていた他、武家や豪商が後援者となっての対局も行われた。
明治時代になって囲碁界が江戸幕府の保護を失うと、棋士達はスポンサーの支援によって対局を行った他、新たに結成された方円社では月例会の棋譜は雑誌「囲棋新報」に掲載される。囲碁愛好者の拡大に応じ、1878年(明治11年)に郵便報知新聞で初めて新聞に棋譜が掲載され、時事新報が1896年から「碁の栞」と題して棋譜連載、続いて1898年に國民新聞、神戸新聞で棋譜を掲載する。1905年に萬朝報で開始された「碁戦」は、本因坊門と方円社それぞれの勝抜き戦を交互に掲載し、1910年からは両派合同の連合選手戦となった。その後、日本新聞、讀賣新聞、その他の新聞が棋譜掲載を行うようになった。この頃対局料は、講評や弁当代まで含んで20円で、萬朝報が参入した頃には25円になった。
代表的な新聞の棋譜掲載[ソースを編集]
時事新報 1896年 碁の栞、1901年 囲碁新手合
萬朝報 1905年 碁戦
東京日日新聞 1906年 敲玉新譜、1926年 新進打切碁戦
東京二六新聞 1906年 読者勝抜戦
都新聞 1907年 雁金派碁譜
東京朝日新聞 1908年 少壮決戦譜
中外商業新聞 1909年 囲碁新手合
やまと新聞 1909年 青年、女流棋客戦
大阪朝日新聞 1909年 関西囲碁研究会提供譜
東京毎日新聞 1910年 当代名手碁戦
報知新聞 1920年 敗退争覇名碁戦
トーナメント制の発展[ソースを編集]
大正時代に設立された裨聖会では、その棋譜を報知新聞に掲載。1924年に日本棋院が設立されると、1927年からその大手合は朝日新聞、日本棋院を脱退した5名の棋士による棋正社の手合は報知新聞、日本棋院対棋正社敗退手合は読売新聞と、それぞれの組織が新聞社と契約するという形になる。國民新聞は日本棋院の少年棋士の対戦譜、東京日日新聞では日本棋院の新進棋士の新進打切碁戦を掲載。また1928年(昭和3年)には東京日日新聞主催で全国素人囲碁大会が開かれ、全国規模のアマチュア棋戦の嚆矢となった。
その後、プロ棋士によるトーナメント戦としては、1933年(昭和8年)に読売新聞主催の日本囲碁選手権手合が行われ、優勝者呉清源と本因坊秀哉名人との記念対局が話題となった。同年には、時事新報による木谷實と呉清源の十番碁も行われた。
1938年(昭和13年)に本因坊秀哉の引退に伴い、本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、その名跡を選手権制で争う「本因坊名跡争奪全日本囲棋選手権大手合」いわゆる本因坊戦が昭和14年から毎日新聞主催で開始される。その後、同様のタイトル戦形式の棋戦が行われるようになり、1953年に王座戦、1954年にラジオ放送によるNHK杯争奪トーナメントなどが始まる。1961年(昭和36年)には多くの軋轢を経た後、名人戦も開始される。
また女流棋士による棋戦として1930年(昭和5年)に時事新報主催の東西対抗女流棋士戦、早碁棋戦として1936年(昭和11年)に時事新報主催の早碁選手権大会など、様々な形の棋戦が行われるようになった。
世界への拡がり[ソースを編集]
日本で発展した棋戦の形式は、韓国でも1947年の朝鮮棋院設立(後に韓国棋院)とともに行われるようになった。中国では中華人民共和国の囲碁強化政策により、1957年に全国囲棋個人戦開始、1962年に中国囲棋協会がプロ棋士制度を取り入れたことにより、日本や韓国と同様の形式の棋戦が行われるようになる。台湾でも1974年開始の名人戦など、同様の棋戦が発展した。ヨーロッパでも明治以降に囲碁の愛好者が少しずつ増え始め、各国でトーナメント戦が行われるようになり、1957年にはヨーロッパ碁コングレスが開始された。
各国間の交流も次第に盛んになり、1955年に5ヶ国のアマチュア棋士が参加しての国際囲碁トーナメント大会、1963-64年に9ヶ国によるインターナショナルアマチュア•碁•トーナメント開催。1979年からは世界アマチュア囲碁選手権戦がには15ヶ国の参加で開始、2007年には68ヶ国•地域が参加するまでになっている。プロ棋士の国際棋戦としては、1988年に世界囲碁選手権富士通杯、IBM早碁オープン戦、応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦が開始、1990年代以降は韓国や中国の主催による世界選手権も開始され始めた。
これまでのプロ棋戦はスポンサーとの契約金を主催する棋士組織内で成績や段位に応じて分配する形で行われていたが、2009年開始のBCカード杯世界囲碁選手権ではトーナメント上位者に賞金を与えるという賞金制の試みもなされている。
囲碁はマインドスポーツの一つとしての位置づけも広まり、2008年開始のワールドマインドスポーツゲームズや、2010年第16回アジア競技大会でも競技種目と採用されるようになった。
また中国では団体戦形式の中国囲棋リーグ戦が1999年に開始、同形式の韓国囲碁リーグも2004年に開始、高い人気を持っている。
国際棋戦[ソースを編集]
世界選手権[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	決勝	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦	応昌期基金会	1988年	五番	3時間30分[注釈 1]	なし	8目(計点制ルール)	40万米ドル	[1]
三星火災杯世界囲碁マスターズ	中央日報
韓国放送公社
三星火災海上保険	1996年	三番	3時間	5分前	6目半	3億ウォン	[2]
LG杯世界棋王戦	朝鮮日報社
LG	1996年	三番	3時間	5分前	6目半	2億5000万ウォン	[3]
春蘭杯世界囲碁選手権戦	春蘭集団	1999年	三番	3時間	5分前	7目半	15万ドル	[4]
百霊愛透杯世界囲碁オープン戦	貴州省人民政府
貴州百霊企業団	2012年	五番	2時間45分	1分5回	7目半	180万元	[5]
Mlily夢百合杯世界囲碁オープン戦	国際囲碁連盟
中国棋院	2013年	五番	3時間	1分5回	7目半	180万元	[6]
利民杯世界囲碁星鋭最強戦	中国囲棋協会、中国棋院杭州分院	2014年					
国際対抗戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
テレビ囲碁アジア選手権	日本放送協会
中国中央電視台
韓国放送公社	1989年	なし[注釈 2]	6目半[注釈 3]		[7]
中韓天元対抗戦	中国新民萬報
スポーツ朝鮮
華中実業
東亜製薬	1997年	3時間	1分5回	6目半		
国際新鋭囲碁対抗戦		1997年				
農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦	韓国日刊スポーツ
農心	1999年	1時間	1分	6目半	2億ウォン	[8]
阿含・桐山杯日中決戦	毎日新聞社
京都新聞社
KBS京都
中国中央電視台
阿含宗	1999年	なし[注釈 2]	6目半	500万円	
鳳凰古城世界囲棋嶺鋒対決	鳳凰古城旅行
北京天下鳳凰文化伝播	2003年			7目半	5万ドル
関西棋院台湾棋院交流戦		2004年	2時間30分	3分前	6目半	
日台精鋭プロ選手権	海峰棋院
日本航空
大通旅行社
LGS傳奇圍棋網	2008年	1時間	1分	6目半	120万元
中国・常徳杯世界囲棋名人争覇戦	人民日報社
湖南省体育局
常徳市人民政府	2010年	2時間45分	5分前	7目半	30万元
招商地産杯中韓囲棋団体対抗戦	招商地産	2011年	2時間45分	1分5回		60万元
珠鋼杯世界囲碁団体選手権	中国囲棋協会、広州市体育総会	2013年				200万元
終了棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	廃止年	決勝	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
世界囲碁選手権富士通杯	読売新聞社
富士通
文部科学省	1987年	2011年	一番	2時間	5分前	6目半	1500万円	[9]
IBM早碁オープン戦	週刊碁
日本アイ・ビー・エム	1988年	1990年		1時間	30秒	5目半	300万円	
東洋証券杯世界選手権戦	ソウル経済新聞社
韓国東洋証券	1989年	1998年	五番	3時間	1分	5目半		
トヨタ&デンソー杯囲碁世界王座戦	トヨタ自動車
デンソー
日本経済新聞社	2001年	2009年	三番	3時間	10分前	6目半	3000万円	[10]
中環杯世界囲碁選手権戦		2004年	2007年		2時間30分	5分前	6目半		[11]
BCカード杯世界囲碁選手権	BCカード	2009年	2012年	五番	2時間	1分3回	6目半	3億ウォン	[12]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	廃止年	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
日中スーパー囲碁	週刊碁
新体育雑誌社
朝日新聞社
NECグループ	1984年	2001年					
日中天元戦	ブロック紙3社連合
新民晩報
囲棋月刊
富士通	1988年	2002年	3時間	1分	5目半		
日中名人戦	朝日新聞社
人民日報社	1988年	1994年	3時間	1分	5目半		
真露杯SBS世界囲碁最強戦	ソウル放送
眞露グループ	1993年	1997年	1時間	1分	5目半	20万ドル	
ロッテ杯中韓囲碁対抗戦	囲棋電視	1994年	1997年	30分	1分1回	6目半	7万ドル	
世界囲碁最強戦	東亜日報	1996年	1996年	4時間	5分前	5目半		
中韓新人王対抗戦	スポーツソウル
BCカード
上海建橋学園	1998年	2005年	3時間	1分5回	6目半	3,000ドル	
CSK杯囲碁アジア対抗戦	CSKグループ
日本経済新聞社
全日本空輸
沖縄タイムス社
琉球新報社
琉球放送
沖縄テレビ放送
琉球朝日放送
NHK沖縄放送局
囲碁・将棋チャンネル	2002年	2006年	2時間	5分前	6目半		
国際女流棋戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
穹窿山兵聖杯世界女子囲碁選手権	蘇州市呉中区人民政府	2010年	2時間	5分前	7目半	20万元	[13]
黄竜士双登杯世界女子囲碁団体選手権		2011年	1時間	5分前	7目半	550万円	[14]
華頂茶業杯世界女流囲碁団体戦		2012年	2時間	1分5回	7目半	20万元	[15]
中韓女子囲碁対抗戦							
終了棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	廃止年	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
翠宝杯世界女子選手権戦	翠宝公司	1993年	1993年					
宝海杯世界女子選手権戦	韓国経済新聞
韓国放送公社
宝海醸造	1994年	1997年					
興倉杯世界女子選手権戦	韓国経済新聞
韓国放送公社
興倉社	1999年	2001年	3時間		6目半		
東方航空杯世界女子プロ囲碁選手権戦	中国東方航空
上海東方電視台	2000年	2000年	70分	なし	5目半	9万元	
泰利特杯中韓女子囲棋対抗戦		2000年	2001年					
山水黔城杯国際女子プロ囲棋選手権戦	貴陽市	2001年	2001年				10万元	
豪爵杯世界女子プロ囲碁選手権戦	江門市
大長江グループ	2002年	2002年	3時間	5分前		10万元	
正官庄杯世界女流囲碁最強戦		2002年	2011年	1時間	40秒3回	6目半		[16]
大理杯世界女流プロ世界選手権		2006年	2007年	2時間	5分前	7目半		[17]
遠洋地産杯・世界女子プロオープン戦	北京龍沢源置業	2007年	2007年	2時間	5分前		10万元	[18]
国際ペア碁棋戦[ソースを編集]
国際名人ペア碁トーナメント 2011-
日本の棋戦[ソースを編集]
本因坊戦などの棋戦は日本棋院によって行われたが、1950年の関西棋院独立以後は、本因坊戦他多くの棋戦は日本棋院と関西棋院の2組織の共同で行われる[注釈 4]。その他に日本棋院単独、関西棋院単独で行われる棋戦もある。(歴代の七大タイトル獲得者は囲碁のタイトル在位者一覧を、歴代の記録については囲碁の記録一覧を参照。)
タイトル戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	挑戦手合	持ち時間	秒読み	優勝賞金	タイトルホルダー	出典
棋聖戦	読売新聞社	1976年	七番	8時間	10分前	4500万円	井山裕太	[19]
名人戦	朝日新聞社[注釈 5]	1976年[注釈 6]	七番	8時間	10分前	3700万円	高尾紳路	[20]
本因坊戦	毎日新聞社
大和証券グループ	1940年	七番	8時間	10分前	3200万円	井山裕太	[21]
王座戦	日本経済新聞社	1952年	五番	3時間	5分前	1400万円	井山裕太	[22]
天元戦	新聞三社連合	1975年	五番	3時間	5分前	1300万円	井山裕太	[23]
碁聖戦	新聞囲碁連盟	1975年	五番	4時間	5分前	800万円	井山裕太	[24]
十段戦	産経新聞社	1961年	五番	3時間	5分前	700万円	井山裕太	[25]
上記が日本棋院の七大タイトルで、棋聖・名人・本因坊はリーグ戦で挑戦者を決定し[注釈 7]、他の棋戦はトーナメントで挑戦者を決める(十段戦は、第49期まで敗者復活式トーナメントで挑戦者を決定していた)。[注釈 8]。特に賞金額が大きい棋聖・名人・本因坊の3つを、三大タイトルと呼ぶことがある。2003年以後の昇段制で棋聖戦・名人戦・本因坊戦・世界戦優勝1回、王座戦・天元戦・碁聖戦・十段戦優勝2回で九段昇段、また棋聖戦・名人戦・本因坊戦の挑戦権獲得あるいは王座戦・天元戦・碁聖戦・十段戦優勝1回で八段昇段となっている。
タイトルの序列は2012年以降は上記の順序で、賞金額によって決まっている。日本棋院の棋士の序列は、七大タイトル保持者、名誉称号保持者、三大タイトル経験者、以下九段・八段・……とされている。
複数のタイトルを持つ棋士の呼称についての規定はない。なお、名人と本因坊の二冠を達成した場合は「名人本因坊」と呼ばれる[26]。
2016年に井山裕太が第53期十段戦を制して七大タイトルを独占し日本囲碁界初の七冠を達成した(2016年4月21日~11月3日)。これに次ぐ六冠を達成したのも井山だけである(棋聖・本因坊・王座・天元・碁聖・十段 2013年3月14日〜4月25日、2016年11月4日~;棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖 2013年10月17日〜2014年12月16日、2015年11月25日~2016年4月20日[26])。
名誉称号[ソースを編集]
各タイトルを5連覇または通算10期以上保持した者は、現役引退後または60歳の誕生日を迎えた後に「名誉○○」(○○はタイトル名)を名乗ることが許される。ただし本因坊戦はかつて「名誉本因坊」の称号を用いていたが、1998年以降「○○世本因坊××」(××は棋士の雅号)と呼称することに変更された。本因坊9連覇の高川秀格はその栄誉をたたえ、特例として1964年より、49歳現役で「名誉本因坊」を名乗ることが許された。また趙治勲も本因坊10連覇により、60歳の誕生日を待たずして現役時より「二十五世本因坊」の名乗りを許されている。
名誉称号一覧
名誉称号	該当者
名誉棋聖	藤沢秀行 ・小林光一 ・井山裕太
名誉名人	趙治勲 ・小林光一
永世本因坊	高川格 (二十二世) ・坂田栄男 (二十三世)
石田芳夫 (二十四世) ・趙治勲 (二十五世)
井山裕太(二十六世)
名誉王座	加藤正夫
名誉天元	林海峰
名誉碁聖	大竹英雄 ・小林光一・井山裕太
名誉十段	
名誉日本棋院選手権者	坂田栄男
名誉NHK杯選手権者	坂田栄男
他棋戦称号[ソースを編集]
名誉女流本因坊 : 謝依旻
名誉女流名人 : 謝依旻
(2017年時点)
[表示]
表 話 編 歴
名誉称号資格者
グランドスラム[ソースを編集]
七大タイトルを全て一回以上通算で経験する事をグランドスラムと呼び、これを達成したのは趙治勲、張栩、井山裕太の三人(2013年現在)。このうち、井山裕太は七大タイトル全てを同時に保持したことがある(2016年)。後1タイトルで達成するのは林海峰、山下敬吾の2人。
グランドスラム達成者
棋士	棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元
1.	趙治勲	1983	1982	1981	1979	1980	1976	1987
2.	張栩	2010	2009	2003	2006	2004	2003	2008
3.	井山裕太	2013	2011	2012	2012	2009	2012	2011
年は初獲得年。黄色はグランドスラム達成時のタイトル。
大三冠[ソースを編集]
棋聖・名人・本因坊を同時に保持する事を大三冠と呼び、これを達成したのは趙治勲と井山裕太の二人(2013年現在)。
棋士	棋戦	1回目		2回目			
1.	趙治勲	棋聖	1983			1997	1998	1999
本因坊				1997	1998	
名人			1996	1997	1998	
棋士	棋戦				
2.	井山裕太	棋聖		2014	2015	2016
本因坊		2014	2015	2016
名人	2013	2014	2015	
大三冠獲得時の獲得棋戦
[表示]  7大タイトル
主要棋戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
阿含・桐山杯	毎日新聞社
京都新聞社
KBS京都
阿含宗	1994年	2時間[注釈 9]	1分	1000万円	[27]
新人王戦	しんぶん赤旗	1975年	3時間	5分前	200万円	[28]
NHK杯	日本放送協会	1953年	なし[注釈 2]	500万円	[29]
竜星戦	囲碁・将棋チャンネル	1990年	なし[注釈 2]	600万円	[30]
フマキラー囲碁マスターズカップ	フマキラー	2011年	1時間	5分前	500万円	[31]
広島アルミ杯・若鯉戦	広島アルミニウム工業	2006年	なし[注釈 2]	200万円	[32]
女流棋戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	挑戦手合	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
女流本因坊戦	共同通信社
パーク24	1981年	五番	4時間	5分前	580万円	[33]
女流名人戦	産経新聞社
クイーポ	1988年	三番	3時間	5分前	500万円	[34]
女流棋聖戦	NTTドコモ	1997年	三番	なし[注釈 2]	500万円	[35]
会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦	温知会	2014年	一番	5時間	5分前	700万	[36]
地方棋戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
王冠戦	中日新聞社	1953年	4時間	5分前	170万円	[37]
関西棋院第一位決定戦	山陽新聞社	1957年			
産経プロアマトーナメント戦	産経新聞社	2005年	1時間30分	5分前	100万円	
非公式棋戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
おかげ杯	濱田総業	2010年	なし[注釈 2]	300万円	[38]
棋戦優勝者選手権戦	囲碁・将棋チャンネル	2013年	なし[注釈 2]	200万円	[39]
ゆうちょ杯囲碁ユース選手権	ゆうちょ銀行	2014年	なし[注釈 2]	100万円	[40]
ペア棋戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
プロ棋士ペア碁選手権	日本ペア碁協会
囲碁・将棋チャンネル
週刊碁
THE DAILY YOMIURI
読売新聞社	1995年	なし[注釈 2]		[41]
終了棋戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	廃止年	決勝	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
中野杯U20選手権	中野孝次基金	2004年	2013年	一番	1時間[注釈 10]	1分	100万円	[42]
大和証券杯ネット囲碁オープン	大和証券グループ	2006年	2013年	一番	なし[注釈 2]	500万円	[43]
NECカップ囲碁トーナメント戦	日本電気	1981年	2012年	一番	10分	30秒	1000万円	[44]
東京精密杯女流プロ最強戦	東京精密
碁ワールド	1998年	2008年	三番	1時間	1分	450万円	[45]
大和証券杯ネット囲碁レディース	大和証券グループ	2007年	2010年	一番	なし[注釈 2]	100万円	[46]
幽玄杯精鋭リーグ戦		2007年	2011年		なし[注釈 2]	10万円	[47]
JALスーパー早碁	テレビ東京
日本航空	2003年	2005年		なし[注釈 11]		
JAL新鋭早碁			
JAL女流早碁			
鳳凰杯オープントーナメント戦		2000年	2007年		1時間		100万円	
関西女流囲碁トーナメント	テレビ大阪	2002年					
韓国の棋戦[ソースを編集]
韓国ではプロ棋戦は韓国棋院が中心となって実施される。
一般棋戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年
国手戦	東亜日報	1956-
名人戦	韓国日報	1968-2003、2007-
KBS杯バドゥク王戦	KBS	1980-
バッカス杯天元戦	スポーツ朝鮮	1996-
GSカルテックス杯プロ棋戦	毎日経済新聞、毎経TV主催	1996-
マキシムコーヒー杯入神連勝最強戦		2000-
物価情報杯プロ棋戦	韓国棋院・囲碁TV主催	2005‐
若手棋戦・シニア棋戦[ソースを編集]
大舟杯プロシニア最強者戦(国際新聞、囲碁TV主催)2010-
メジオン杯オープン新人王戦(韓国棋院、囲碁TV主催)2013-
女流棋戦[ソースを編集]
プロ女流国手戦(韓国経済新聞主催)1994-
女流名人戦(毎日新聞社 (韓国)主催)1999-
女流棋聖戦(扶安郡、韓国棋院主催)2006-
GGオークション杯女流対シニア連勝対抗戦(韓国棋院主催)2007-
女流十段戦 2012-
ペア碁棋戦[ソースを編集]
SG杯ペア碁大会(囲碁TV主催)2011-
韓国囲碁リーグ[ソースを編集]
「韓国囲碁リーグ」も参照
2004年より開催。4人一組のチームで行われるリーグ戦。8チームがそれぞれ18試合を行い、リーグ終了後に3位と4位が戦い、勝者が2位と戦い、更にその勝者が1位と戦い優勝を決める。優勝チームは中国甲級リーグの勝者と対抗戦を行う。
終了棋戦[ソースを編集]
覇王戦(大韓毎日新聞社主催)1959-2003年
最高位戦(釜山日報主催)1959-99年
王位戦(中央日報主催)1966-2007年
韓国棋院選手権戦(慶南毎日新聞主催)1969、77-78年
最強者戦(国際新報主催)1973-79年
棋王戦(朝鮮日報主催)1974-95年
MBC杯国棋戦 1974-76年
国棋戦(京郷新聞主催)1975-1996年
帝王戦(MBC TV主催)1982-95年
バッカス杯戦(東亜製薬主催) 1983-94年
大王戦(大邸毎日新聞主催)1983-97年
棋聖戦(世界日報主催)1990-2008
SBS杯連勝囲碁最強戦(SBS主催)1992-97年
倍達王戦 (韓国PC通信主催)1992-2000年
KT杯マスターズプロ棋戦(韓国棋院、囲碁TV主催)2002-03年
囲碁マスターズ(韓国棋院主催)2005-2007年
圓益杯十段戦(韓国棋院)2006-13年
OllehKT杯オープン選手権(韓国棋院・囲碁TV主催)2010-2013
若手シニア終了棋戦
新王戦(スポーツソウル主催) 1985-89年
BCカード杯新人王戦(ソウル新聞主催) 1991-2008年
SKガス杯新鋭プロ十傑戦(京郷新聞主催) 1997-2008年
オスラムコリア杯新鋭連勝最強戦(囲碁TV主催) 2001-08年
ジャックフィールド杯プロシニア棋戦(囲碁TV主催)2000-05年
KC&A杯新人王戦 2011年
中国の棋戦[ソースを編集]
中国では、中国囲棋協会、または1992年設立の中国棋院が中心になって行うが、成都棋院による西南王戦など地方独自に実施される棋戦もある。また全国運動会、全国体育大会や、全国智力運動会などでも種目と採用されている。
棋戦[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年
名人戦	中国棋院、人民日報主催	1987-
天元戦	新民晩報社、新民囲棋主催	1988-
棋聖戦	中国囲棋協会、洛陽市	2013-
優勝杯[ソースを編集]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年
CCTV杯中国囲棋電視快棋戦	CCTV主催	1987
阿含・桐山杯中国囲棋快棋公開戦	中国棋院、中国国際友好連絡会	1999
リコー杯囲棋戦	中国棋院、リコー主催	1999
威浮房開杯棋王戦	中国囲棋協会、無錫日報、無錫威孚房家開発有限公司主催	2003
倡棋杯中国プロ囲棋選手権戦	中国囲棋協会、上海応昌期囲棋教育基金会主催	2004
竜星戦	中国囲棋協会	2005
衢州・爛柯杯中国囲棋冠軍戦	浙江省体育局、衢州市人民政府、中国囲棋協会	2006
若手棋戦[ソースを編集]
新人王戦(中国棋院、上海棋院主催) 1994-
新秀戦・リコー杯新秀戦(中国囲棋協会主催)2002-
女流棋戦[ソースを編集]
建橋杯女子囲棋公開戦(中国棋院、上海棋院、上海建橋学院主催) 2003-
百霊杯戦(中国囲棋協会、貴州百霊企業集団主催) 2005-
黄龍士佳源杯女子名人戦 (中国棋院、姜堰市主催)2010-
全国女子囲棋国手戦 (中国囲棋協会、陝西省体育局主催)2012-
地方棋戦[ソースを編集]
海峡杯全国囲棋招待戦(福建省海峡文芸出版社主催)1986-91年
西南王戦(中国棋院、成都棋院) 2002-
ペア碁棋戦[ソースを編集]
リコー杯囲棋混双戦(中国囲棋協会、理光(中国)投资有限公主催)2005-
中国囲碁リーグ[ソースを編集]
1999年より開催されている地域毎のチーム対抗のリーグ戦。甲級の下に乙級、丙級があり、乙級の上位と甲級の下位各2チームが入れ替えとなる。日本、韓国、台湾よりの参加者もあり、台湾のチームの参加もある。2013年には女子甲級リーグも開始された。
中国囲棋甲級リーグ戦
中国囲棋乙級リーグ戦
中国囲碁丙級リーグ戦
中国囲碁女子リーグ戦
その他[ソースを編集]
全国囲棋個人戦 1957-
全国囲碁段位戦
体育大会囲碁試合
中国水岸帝景杯
中国代表選抜・訓練試合
終了棋戦[ソースを編集]
新体育杯戦 1979-92年
国手戦(中国囲棋協会主催)1981-87年
十強戦 1987-94年
棋王戦(中国囲棋協会、中国体育報社、嵊州市主催)1989-2001年
宝勝電纜杯囲棋戦 1991-98年
大国手戦 1993-1994年
五牛杯王位戦 1995年
覇王戦 1995-97年
友情杯戦 1995-97年
NEC杯囲棋賽(中国囲棋協会、NEC主催)1996-2009年
楽百氏杯囲棋戦(中国囲棋協会、楽百氏有限公司主催)1997-2002年
棋聖戦(中国囲棋協会、上海南江企業発展公司主催)1999-2001年
華山論道囲棋精鋭戦(陝西旅游集団公司、陝西省社会体育管理中心、中国囲棋協会主催)2001-06年
ルノー杯覇王戦(齊魯晩報、山東岱銀集団主催) 2002年
国手新秀戦戦・新秀菊花杯 1985-94年
女子名人戦 (中国囲棋協会、山東齊魯晩報主催)1989-91年
浪潮杯・八喜杯・石化加油卡杯女子名人戦 (中国囲棋協会他主催)2001-05年
紅金竜杯女子新秀戦 2002年
日立杯中国プロ囲棋混双赛(上海市体育局、上海囲棋協会、上海日立家電主催)1996-2003年
台湾の棋戦[ソースを編集]
台湾では、1952年設立の中国囲棋会によって棋戦が行われていたが、2000年に台湾棋院、2008年に海峰棋院が設立され、それらによる棋戦も行われるようになった。
一般棋戦[ソースを編集]
国手戦 1981-99、2005-
東鋼杯プロ囲棋戦(台湾棋院文化基金会主催)2001-
天元戦(民生報、台湾棋院文化基金会主催)2002-
王座戦(台湾棋院文化基金会主催)2006-
棋王戦(海峰棋院主催)2008-
碁聖戦(台湾棋院主催)2008-
十段戦 (中華職業囲棋協会主催)2011-
海峰杯プロ囲棋戦(海峰棋院主催)2009-
思源杯プロ囲棋戦(台湾棋院主催)2009-
終了棋戦
名人戦(応昌期囲棋基金主催)1974-2009
中環杯囲棋オープン戦(台湾棋院文化基金会主催)1994-2012
電視快棋戦(中華電信、台湾棋院文化基金会主催)2000-08、2012
愛心杯プロ囲棋戦(台湾棋院文化基金会主催)2007-11
棋王戦(中国囲棋会主催)1979-89年
永大杯囲棋戦(応昌期囲棋教育基金会主催)1993-99年
棋霊王杯プロ囲棋戦(台湾棋院文化基金会主催)2002-04年
台湾棋院杯 2002-05年
魔戒杯プロ囲棋戦(台湾棋院文化基金会主催)2003-05年
鈺徳杯十段戦 2007-08年
限定棋戦[ソースを編集]
新人王戦(台湾棋院文化基金会主催)2002-
女子名人戦 2011-
脚注[ソースを編集]
注釈[ソースを編集]
^ 使い切ると3回まで、35分ずつ2目コミだし。
^ a b c d e f g h i j k l m 初手から1手30秒、1分単位で10回の考慮時間。
^ 日本、韓国開催時。中国開催時は7目半。
^ 瓊韻社棋士の参加する場合もある
^ 旧名人戦は読売新聞社主催。
^ 旧名人戦は1962年創設。
^ 棋聖戦は2001年度第25期よりリーグ戦導入。
^ 天元戦は1980年度第6期より挑戦手合制を導入。碁聖戦は1980年第5期からリーグ戦方式からトーナメント方式に移行。
^ 決勝のみ1時間30分。
^ 決勝戦は90分。
^ 初手から1手10秒、1分単位で10回の考慮時間。
出典[ソースを編集]
^ “応氏杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “三星火災杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “LG杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “春蘭杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “百霊杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “夢百合杯”. 日本棋院. 2014年1月12日閲覧。
^ “テレビ囲碁アジア選手権”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “農心杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “富士通杯”. 日本棋院. 2013年2月11日閲覧。
^ “トヨタ&デンソー杯”. 日本棋院. 2013年2月11日閲覧。
^ “中環杯”. 日本棋院. 2013年2月11日閲覧。
^ “BCカード杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “穹窿山兵聖杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “黄竜士双登杯世界女子囲碁団体選手権”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “華頂茶業杯世界女流団体選手権”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “正官庄杯”. 日本棋院. 2013年2月11日閲覧。
^ “大理杯”. 日本棋院. 2013年2月11日閲覧。
^ “遠洋地産杯”. 日本棋院. 2013年2月11日閲覧。
^ “棋聖戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “名人戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “本因坊戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “王座戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “天元戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “碁聖戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “十段戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ a b “囲碁 井山五冠が大三冠達成”. NHK (2013年10月17日). 2013年10月17日閲覧。
^ “阿含・桐山杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “新人王戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “NHK杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “竜星戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “囲碁マスターズカップ”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “広島アルミ杯・若鯉戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “女流本因坊戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “女流名人戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “女流棋聖戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “会津中央病院杯”. 日本棋院. 2014年11月28日閲覧。
^ “王冠戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “おかげ杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “棋戦優勝者選手権戦”. 日本棋院. 2016年4月1日閲覧。
^ “ゆうちょ杯”. 日本棋院. 2016年4月1日閲覧。
^ “PROFESSIONAL PAIR GO CHAMPIONSHIP 2013 ~プロ棋士ペア碁選手権2013~ [ 開催概要 ]”. 日本ペア碁協会. 2013年2月11日閲覧。
^ “中野杯”. 日本棋院. 2016年4月1日閲覧。
^ “大和証券杯ネット囲碁オープン”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “NECカップ”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “女流最強戦”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “第4回大和証券杯ネット囲碁レディース”. 日本棋院. 2013年2月11日閲覧。
^ “幽玄杯”. 日本棋院. 2013年2月11日閲覧。
参考文献[ソースを編集]
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
木谷實『囲碁百年 2 新布石興る』平凡社 1968年
安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年
「囲碁史略年表」(『1993年度版囲碁年鑑』日本棋院、1993年)
関連項目[ソースを編集]
囲碁棋士の獲得タイトル数ランキング
囲碁タイトルの在位者一覧
囲碁世界タイトルの獲得者一覧
国際団体棋戦の優勝国一覧
日本棋院
関西棋院
韓国棋院
台湾棋院
中国囲棋協会
棋戦 (将棋)
世界選手権大会
■
棋待詔(きたいしょう)は、中国の唐以降で置かれた官職で、待詔のうち囲碁をもって仕える役職。その時代の囲碁の名手、国手と呼ばれる者などが務めた。
目次 
1	前史 旧王朝における囲碁
2	唐の時代
3	宋の時代
4	元・明の時代
5	参考文献
前史 旧王朝における囲碁
後漢の時代には、史家の班固がもっとも古い囲碁論とされている「奕旨」を著し、学者の馬融が「囲棋賦」、文人の李尤が「囲棋銘」を著すなど、宮廷に仕える文化人で水準の高い愛棋家が現れた。晋では竹林の七賢の一人阮籍が愛棋家として知られ、官僚だった范汪による「棊品」ではこの時代の愛棋家たちの棋力が論評されている。南北朝時代には、宋の明帝が棋士を管轄する官庁囲棋州邑を設置し、梁の武帝も愛棋家で「棋賦」を残した他、棋手の柳惲に著名棋譜を評定する「棋品」をまとめさせた。
唐の時代
待詔は、琴棋書画などの技芸の優れた者が皇帝に召し出される翰林院の役職で、唐の玄宗皇帝が713年(開元元年)に囲碁の優れた者である棋待詔を設けた。当時これには、「囲碁十訣」の作者として後世に知られる王積薪や、顧師言、王倚、順宗に重用された王叔文、滑能、新羅人の朴球などがいた。玄宗は、「忘憂清楽集」に鄭観音という者と対局した棋譜が載せられるなど囲碁好きであり、また新羅の聖徳王の葬儀に弔問使節を送った際は、囲碁の強い近衛兵の楊李膺という者を副使節に加えたという。中唐の頃の顧師言は「旧唐書」宣宗本記で、848年(大中2年)に入唐した日本国王子と対局したと記されていて、蘇鶚「杜陽雑編」ではこの王子はたいへん強く、顧は一手で二つのシチョウを防ぐ鎮神頭という妙手によって勝つことが出来たと書かれている。
宋の時代
宋にも棋待詔の制度は引き継がれ、賣充、楊希粲、「棋訣」の作者劉仲甫、「忘憂清楽集」を編した李逸民、沈才子などがいた。宋代には囲碁に関する著作も多く書かれ、囲碁のレベルは大きく向上した。北宋の太宗は自分で詰碁を作るほどの囲碁好きで、作品は「忘憂清楽集」にも収められている。太宗は棋待詔の賣玄(賣元)には三目を置いて打ったが、賣玄は常に1目負にしていた。太宗は賣玄に今度負けたら鞭で打つと言ったところ、賣玄はジゴ(引き分け)にした。そこで太宗は、賣玄が勝てば緋衣を与え、勝てなければ池に投げ込むと言った。すると今度もジゴになったが、賣玄を池に投げ込ませようとすると、賣玄は手にアゲハマが残っているのを見せたという話が「湘山野録」に記されている。
他にも太祖に仕えた官僚の宋白は囲碁論「奕棋序」を著し、仁宗に仕えた張擬は「棋経」(棋経十三篇)を著した。南唐の高官であった潘慎修は宋に仕え、囲碁観をまとめた「棋説」を太祖に献上し、この中の「十要」(仁、全、義、守、礼、変、智、兼、信、克)が後の「囲碁十訣」であるとも言われる。同じく南唐出身の徐鉉は、碁盤上の点の呼び方に、一から十九までの線を用いるようにし、また囲碁術語の解説書「囲棋義例詮釈」を著したとも言われる。南宋の孝宗は女性と碁を打つのが好きで、女性の打ち手も増え、囲碁で客の相手をする棋妓も現れた。南宋末期には「玄玄棋経」が晏天章と厳徳甫によって著された。
元・明の時代
元の王族は囲碁への深い執着は無かったが、それまでに倣い囲碁を教えることを務めとする棋官を置く。この時代には、「玄玄棋経」を再編した虞集や、劉因、黄庚などの名手が現れた。奎章閣に勤めていた虞集は文宗に囲碁について問われて、孔子や孟子を引いた上で、碁を習うことは治にいて乱を忘れぬ心がけであると説いたと、「玄玄棋経」序文に記している。
明の時代には、初期には相子先、楼得達、趙九成、氾洪などが国手と呼ばれた。太祖は相子先、楼得達を呼んで対局させ、勝った楼得達に棋官の地位を与えた。嘉靖から万暦の頃に明では最も囲碁が盛んになり、浙江省一帯の永嘉派、安徽省一帯の新安派、北京周辺の京師派の三派が生まれる。永嘉派には鮑一中、李沖、周源、余希聖など、新安派には程汝亮、汪曙、方子謙など、京師派には李釜、顔倫などがいた。明末には、「官子譜」など著し国手とされた過百齢、方子振、林符卿、汪幼清などが名手として名を上げた。
参考文献
田振林、祝士維「中国囲碁外史 5〜29」(『棋道』1987年1月〜89年1月号)
『玄々碁経』高木祥一解説、教育社 1989年
平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社 2001年
中野謙二『囲碁中国四千年の知恵』創土社 2002年
■
木谷道場
名前	木谷道場
所属	日本棋院 韓国棋院
師匠	木谷實
名誉称号	名誉棋聖 名誉名人 二十四世・二十五世本因坊 名誉碁聖 名誉王座
概要
七大タイトル
棋聖	17期 (1983-99)
名人	25期 (1974-99)
本因坊	27期 (1971-82・85-98・02)
王座	18期 (1974-80・82-89・93-94・01)
天元	10期 (1976・78-81・84-88・98-99)
碁聖	23期 (1976-93・95・99・01-02)
十段	26期 (1969・76-94・97・99-00・05-07)
この表について[表示]
木谷道場(きたにどうじょう)とは、木谷實九段が平塚・四谷で主催した囲碁の棋士養成所である。1985年から1998年まで三大タイトルを、1985年から1988年まで七大タイトルを一門で独占した。
目次 
1	概要
2	門下生
3	年譜
4	木谷一門の七大タイトル戦歴
5	棋士別の獲得七大タイトル
6	その他の主要棋戦での活躍
7	最近の活躍
8	エピソード
9	参考文献
10	関連項目
11	脚注
12	外部リンク
概要
1933年(昭和8年)に初弟子が入門して以来全国から棋士を集め育成し続け、70名以上が弟子入りし50名以上がプロ棋士となった。1937年からは平塚、1961年からは四谷三栄町にの自宅に道場を開設し碁に集中できる環境を整えた。門下の七大タイトル合計獲得数は146、名誉称号は囲碁界に大きな足跡を残した。
門下生
入門	棋士	段位	出身	生年	入門年	入段年
1	武久勢士	六段	神戸市	1916	1933年3月	[1]
2	梶和為	九段	東京都	1922	1933年	1941
3	松本篤二	八段	光市	1921	1935年	1941
4	芦葉勝美	七段	東京都	1922	1934年3月	1942
5	中山繁行	五段	東京都	1921	1934年	
6	趙南哲	九段	韓国	1923	1937年12月	1941[2]
7	本田幸子	七段	伊東市	1930	1938年	1947
8	小山嘉代	三段	仙台市	1926	1939年12月	[3]
9	筒井勝美	六段	前橋市	1930	1940年3月	1947
10	石毛嘉久夫	九段	銚子市	1925	1941年8月	1943
11	岩田達明	九段	名古屋市	1926	1941年10月	1943
12	大平修三	九段	岐阜市	1930	1941年11月	1947
13	尾崎春美	八段	京都市	1927	1942年12月	1947
14	加田克司	九段	別府市	1931	1946年11月	1947
15	小林禮子	七段	平塚市	1939	[4]	1956
16	小林祐子	初段	神戸市	1939	1950年	
17	戸沢昭宣	九段	函館市	1940	1951年11月	1956
18	大竹英雄	九段	北九州市	1942	1951年12月	1956
19	尚司和子	三段	豊橋市	1938	1954年1月	1961
20	金島忠	九段	海老名市	1945	1955年3月	1968
21	石榑郁郎	九段	岐阜市	1942	1955年10月	1960
22	春山勇	九段	岐阜市	1946	1956年6月	1960
23	柴田寛二	初段	前橋市	1941	1956年8月	[3]
24	上村邦夫	九段	北見市	1964	1957年4月	1962
25	土田正光	九段	岐阜市	1944	1957年4月	1961
26	石田芳夫	九段	愛知県	1948	1957年7月	1963
27	久島国夫	九段	福井市	1946	1957年7月	1965
28	加藤正夫	九段	福岡市	1947	1959年4月	1964
29	佐藤昌晴	九段	高田市	1947	1959年7月	1964
30	額謙	六段	東京都	1940	1959年9月	1969
31	伊藤誠	九段	彦根市	1945	1960年1月	1964
32	小林千寿	五段	松本市	1954	1960年4月	1972
33	宮沢吾朗	九段	帯広市	1949	1961年12月	1966
34	趙祥衍	七段	韓国	1941	1961年3月	1963
35	金寅	九段	韓国	1943	1962年3月	1958[2]
36	趙治勲	九段	韓国	1956	1962年8月	1968
37	浅野英昭	八段	東京都	1945	1962年10月	1966
38	河燦錫	九段	韓国	1948	1964年1月	1967[2]
39	小林光一	九段	旭川市	1952	1965年3月	1967
40	武宮正樹	九段	東京都	1951	1965年4月	1964
41	石榑まき子	三段	東京都	1949	1965年1月	1972
42	小川誠子	六段	名古屋市	1951	1966年1月	1970
43	井上国夫	八段	東京都	1948	1966年3月	1968
44	大戸省三	六段	東京都	1948	1966年7月	1971
45	尾越一郎	八段	臼杵市	1954	1966年12月	1976
46	佐藤真知子	三段	東京都	1949	1967年4月	1972
47	小林孝之	三段	松本市	1956	1967年4月	1975
48	小林健二	七段	松本市	1958	1967年4月	1975
49	小林覚	九段	松本市	1959	1967年4月	1974
50	信田成仁	六段	東京都	1951	1968年2月	1973
51	園田泰隆	九段	日向市	1957	1970年6月	1976
52	小山秀雄	五段	東京都	1951	1970年10月	1974
53	日高敏之	七段	鹿児島県	1959		1980
[5]	尹奇鉉	九段	韓国	1942		1959[2]
全70名以上。50名以上がプロ入り。
年譜
1937年 神奈川県平塚市にプロ棋士養成のため「平塚木谷道場」を開設。
1944年7月3日、木谷實白紙招集。赤羽工兵隊・京城朝鮮第二十二部隊に配属。同年9月29日帰還。
1955年10月、木谷一家、疎開先から平塚に戻る。
1956年‐ 木谷全国各地へ指導碁に出向く。以後手合の合間を塗って地方で囲碁巡業を行う旅が続く。
1962年5月、東京都四谷三栄町に「四谷木谷道場」を開設。
1962年8月、「木谷一門百段突破記念祝賀会」が産経ホールで開催。
1963年12月 木谷2度目の脳溢血で倒れる。
1969年、大竹英雄が門下初七大タイトルを獲得。
1970年3月、「木谷一門二百段突破記念大会」がサンケイホールで開催。
1974年6月3日限り、「四谷木谷道場」を閉鎖。道場を解散して平塚に戻る。
1975年、石田芳夫が門下初名誉称号を獲得。
1975年12月19日、木谷實逝去。同日、従四位、勲二等瑞宝章を受章。
1983年、門下七大タイトル獲得合計数50突破。
1991年6月3日、木谷實夫人美春逝去。
1991年、門下七大タイトル獲得合計数100突破。
木谷一門の七大タイトル戦歴
色付きのマスは勝利(奪取または防衛)。濃い色付きのマス目は名誉称号獲得。色付きは門下同士の番碁(上段が勝者)。青色は挑戦者または失冠。他の棋士との比較は、囲碁のタイトル在位者一覧 を参照。
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	
1969年
(昭和44)		大竹英雄	加藤正夫			大竹英雄		門下初タイトル
1970年
(昭和45)								十段戦行われず
1971年
(昭和46)		大竹英雄	石田芳夫					石田新本因坊
1972年
(昭和47)			石田芳夫					
1973年
(昭和48)			石田芳夫		石田芳夫			
1974年
(昭和49)			石田芳夫
武宮正樹		石田芳夫	石田芳夫		
1975年
(昭和50)			石田芳夫		大竹英雄
石田芳夫	大竹英雄
石田芳夫		天元戦創設、石田芳夫二十四世本因坊資格
1976年
(昭和51)		加藤正夫	武宮正樹
石田芳夫	加藤正夫
大竹英雄	大竹英雄
石田芳夫	趙治勲
大竹英雄	小林光一	加藤新十段、武宮新本因坊
、趙治新王座、小林光新天元、碁聖戦創設
1977年
(昭和52)		加藤正夫	加藤正夫
武宮正樹	加藤正夫
武宮正樹	大竹英雄	趙治勲		棋聖戦創設、
1978年
(昭和53)	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫
石田芳夫	大竹英雄
加藤正夫	大竹英雄	石田芳夫	加藤正夫	すべてのタイトル戦に出場。
1979年
(昭和54)	石田芳夫	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲
大竹英雄	大竹英雄	加藤正夫
石田芳夫
四冠達成	加藤正夫	加藤史上初の四冠、十段4連覇
1980年
(昭和55)		大竹英雄
加藤正夫	武宮正樹
加藤正夫
四冠終了	大竹英雄
趙治勲	趙治勲
大竹英雄	加藤正夫
石田芳夫	加藤正夫	天元戦挑戦手合に移行
1981年
(昭和56)	大竹英雄	大竹英雄	趙治勲
武宮正樹	大竹英雄
加藤正夫	趙治勲
加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫
小林光一	加藤天元4連覇
1982年
(昭和57)		趙治勲
大竹英雄	趙治勲
小林光一	大竹英雄
趙治勲	趙治勲
大竹英雄	加藤正夫	加藤正夫	
1983年
(昭和58)	趙治勲
四冠達成	加藤正夫
趙治勲
四冠終了	趙治勲	大竹英雄	趙治勲
大竹英雄	加藤正夫
大竹英雄		趙治史上初の大三冠、四冠
1984年
(昭和59)	趙治勲	小林光一
加藤正夫		大竹英雄
加藤正夫	趙治勲
大竹英雄	加藤正夫	石田芳夫	王座戦三番勝負から五番勝負に移行
趙治勲名誉名人資格、大竹英雄名誉碁聖資格
1985年
(昭和60)	趙治勲
武宮正樹	小林光一
大竹英雄	武宮正樹	大竹英雄	小林光一
趙治勲	加藤正夫
小林光一	小林光一
石田芳夫	木谷一門全冠制覇、大竹碁聖6連覇
1986年
(昭和61)	小林光一
趙治勲
四冠達成	小林光一
武宮正樹	武宮正樹	趙治勲
大竹英雄	加藤正夫
小林光一
四冠終了	加藤正夫	小林光一	加藤正夫名誉王座資格、小林四冠
1987年
(昭和62)	小林光一
武宮正樹	加藤正夫
小林光一	武宮正樹	加藤正夫
趙治勲
四冠達成	加藤正夫	加藤正夫
趙治勲	趙治勲
小林光一	趙治史上初のグランドスラム、加藤四冠
1988年
(昭和63)	小林光一
加藤正夫	趙治勲
加藤正夫
四冠終了	武宮正樹
大竹英雄	小林光一
加藤正夫	小林光一
加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	4年連続全冠制覇、武宮本因坊4連覇
1989年
(平成元)	小林光一
武宮正樹	趙治勲	趙治勲
武宮正樹	小林光一	小林光一	加藤正夫	趙治勲	加藤王座8連覇
1990年
(平成2)	小林光一
大竹英雄	武宮正樹
趙治勲	趙治勲
小林光一	小林光一
小林覚	小林光一
大竹英雄	加藤正夫	小林光一	小林光一名誉棋聖資格、
1991年
(平成3)	小林光一
加藤正夫	武宮正樹
趙治勲	趙治勲
小林光一	小林光一
小林覚	小林光一			
1992年
(平成4)	小林光一	武宮正樹
小林光一	趙治勲
小林光一	小林光一
小林覚	小林光一
大竹英雄	小林光一		小林光名誉名人・名誉碁聖資格
1993年
(平成5)	小林光一
加藤正夫	大竹英雄
武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一
大竹英雄	加藤正夫		趙治二十五世本因坊資格
小林光棋聖8連覇、碁聖6連覇
1994年
(平成6)	趙治勲
小林光一	大竹英雄
小林光一	趙治勲	小林光一	小林光一	趙治勲
加藤正夫		小林光名人7連覇
1995年
(平成7)	小林覚
趙治勲	大竹英雄	趙治勲
加藤正夫	小林覚	武宮正樹
小林光一	趙治勲	小林光一	小林覚新棋聖・碁聖
1996年
(平成8)	趙治勲
小林覚		趙治勲	小林覚	趙治勲
武宮正樹			
1997年
(平成9)	趙治勲
小林覚	加藤正夫	趙治勲
加藤正夫		趙治勲
小林光一			
1998年
(平成10)	趙治勲	加藤正夫	趙治勲		趙治勲		小林光一	14年連続3冠独占。
趙治本因坊10連覇(同一タイトル連覇新記録)、
大三冠3連覇(史上唯一)
1999年
(平成11)	趙治勲
小林光一	小林光一	趙治勲	小林光一	趙治勲	趙治勲	小林光一	趙治棋聖4連覇、名人4連覇
2000年
(平成12)	趙治勲	小林光一		小林光一	趙治勲	趙治勲	小林光一	
2001年
(平成13)		小林光一		小林光一		趙治勲		
2002年
(平成14)		武宮正樹	加藤正夫	小林光一	趙治勲	趙治勲		
2003年
(平成15)			加藤正夫	小林光一				
2004年
(平成16)								
2005年
(平成17)		趙治勲			小林覚			
2006年
(平成18)		趙治勲						
2007年
(平成19)		趙治勲						趙初のタイトル獲得から最新のタイトル獲得までの
年数最長記録(31年間)
2008年
(平成20)		趙治勲						
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	
棋士別の獲得七大タイトル
氏名	タイトル	合計
大竹英雄	名人4期 十段5期 碁聖7期 王座1期 	17期
加藤正夫	名人2期 本因坊4期 十段7期 天元2期 王座11期 碁聖3期	31期
石田芳夫	名人1期 本因坊5期、天元1期、王座2期	9期
武宮正樹	名人1期 本因坊6期 十段3期	10期
趙治勲	棋聖8期、名人9期、本因坊12期、十段6期、天元2期、王座3期、碁聖2期	42期
小林光一	棋聖8期、名人8期、十段5期、天元5期、碁聖9期	35期
小林覚	棋聖1期、碁聖1期	2期
囲碁七大タイトル獲得記録
順位	獲得回数	棋士名
1位	42期	趙治勲*
2位	35期	小林光一*
3位	32期	井山裕太*
4位	31期	加藤正夫*
5位	23期	張栩*
6位タイ	21期	坂田栄男 | 林海峰*
8位	17期	大竹英雄*
9位タイ	14期	藤沢秀行 | 山下敬吾*
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*は現役棋士
2016年天元戦終了時点
その他の主要棋戦での活躍
氏名	タイトル
大竹英雄	世界囲碁選手権富士通杯 1回; テレビ囲碁アジア選手権戦1回; 全日本第一位決定戦5期;
NHK杯5回; NEC杯3回; 早碁選手権戦1回; 竜星戦1回
加藤正夫	NHK杯1回; NEC杯3回; 早碁選手権3回;竜星2回;
阿含・桐山杯3回
石田芳夫	日本棋院選手権戦2期; NHK杯3回; NEC杯1回; 早碁選手権3回; プロ十傑戦2回
武宮正樹	世界選手権富士通杯2回;テレビ囲碁アジア選手権戦4回;
NHK杯1回; NEC杯2回; 早碁選手権2回
趙治勲	世界選手権富士通杯1回; 三星火災杯1回; NHK杯4回; NEC杯4回;
早碁選手権7回; プロ十傑戦1回; 竜星2回; 阿含・桐山杯1回
小林光一	世界選手権富士通杯1回; NHK杯2回; NEC杯3回;
早碁選手権4回; 竜星3回; 阿含・桐山杯1回
小林覚	NHK杯1回; 早碁選手権1回; 竜星1回; 阿含・桐山杯1回
岩田達明	王冠戦 9期 中部最高位戦 3期
大平修三	青年棋士選手権戦 1期 首相杯争奪戦 1期
日本棋院選手権戦 5期 早碁選手権 1期
宮沢吾朗	新人王 2期
趙南哲	韓国棋戦 全国棋士選手権戦 1948-55年(1950-52年は開催せず国手戦 1956-64年
王座戦 1958、69覇王戦 1959-62年最高位戦 1959-66年(63年は開催せず)
名人戦 1968、70年 最強者戦 1973年
金寅	国手戦 1965-70年覇王戦 1965、67-71、76年(66、72-75年は中止)王位戦 1966-72、74年
最高位戦1967、71-72年王座戦 1968年青少年杯戦 1968年
最強戦 1968年名人戦 1969年ペクナム戦 1974年棋王戦 1977年
河燦錫	国手戦 1973、74年 王位戦 1973年 バッカス杯戦 1984年
KBS杯バドゥク王戦 1985年

本田幸子	女流選手権戦 1969、73-75、81年 女流本因坊戦 1982、84年
楠光子	女流本因坊戦 1983、85、87-89年 女流鶴聖戦 1984、85年
小林禮子	女流選手権戦 6期 女流名人戦 2期 女流鶴聖戦 2期
小林千寿	女流選手権戦 1976-78年 女流鶴聖戦 1989、93、97年
最近の活躍
2016 棋戦優勝者選手権戦:趙治勲
2015 囲碁マスターズカップ:趙治勲
2014 囲碁マスターズカップ:趙治勲
2013 囲碁マスターズカップ:小林覚
2011 囲碁マスターズカップ:趙治勲
2007 NHK杯:趙治勲
2004 NECカップ:小林光一;NHK杯:小林光一
2003 阿含・桐山杯:加藤正夫;竜星戦:小林光一
2002 阿含・桐山杯:趙治勲;竜星戦:小林光一
2001 NECカップ:趙治勲;NHK杯:石田芳夫:竜星戦:加藤正夫
エピソード
勉強は早碁の一番手直り(一局負けると置き石が増え、勝つと置き石が減る方式)で、一か月に三百局以上打っていて各自が成績ノートを持ち、木谷先生の前へ持参し見ていた。入段試験の最中は、一人ずつ先生の待つ応接室に入り、時間が長ければ好局、短ければ不出来が目安になっていた。木谷先生と打てるのは、入門時に一局、独立祝いに一局の計二局だった。また「初対面の相手には負けてはいけない」と言われていた。[6]
基本的に内弟子の数に対して碁盤が足りていないという事情があり、皆前日の夜に布団へ入るとき碁盤を抱えるようにして寝ていて、朝起きたらその碁盤で勉強した。朝の日課としては起きたらまず碁を一局並べ、それからラジオ体操、朝食、もう一局並べてから学校へ行くという流れになっていた。
午前6時起床→棋譜並べ→7時ラジオ体操→7時半朝食→8時学校→午後3時帰宅、おやつ、ソフトボール→5時夕食、あとかたづけ→6時~9時対局、検討 →10時就寝[7]
弟子たちは先生を囲み、自分が打った碁を並べるが基本的に先生は何も言わずただ一局の中で何回か「ん?」という声を発するだけであった。並べている当人としては「あ、ここが大事なところだったのだ」ということを察知した。
木谷はあまり喋らずたまにしか家におらずいても一人で黙々と碁を並べていて検討も一言二言あればいいほうだった。弟子の碁を見ることはあったがだいたいは弟子同士で切磋琢磨した。木谷はああしろ、こうしろとは言わず子供の個性を尊重した。自分の考えを押し付けず、弟子とともに研究しようという姿勢だった。[8]
日本棋院では毎週土曜日に「木谷会」が開催されていた。弟子は同時に最大16人いて家族や居候を含めると30人以上が同時に住まう状況もあった。
木谷は「私自身が久保松、鈴木の両先生ほか、たくさんの師や先輩のお世話になり、ことに鈴木先生のところでは、十年も内弟子をさせていただいた。私が弟子の面倒を見るのは、恩返しをする気持ちなのです」が口ぐせだったという。[9]
木谷が2度目の脳溢血に倒れたのをきっかけに、木谷は研究会の師範役を梶原武雄九段にお願いした。その研究会は「三栄会」(住んでいた町名から)と名付けられた。週に一度の三栄会はひとりひとりが梶原九段の前に出て自分の碁を並べ好評を受けるスタイルで、ひとつひとつの手に理由があるか聞かれていた。[10]
四谷の木谷道場は囲碁のメッカともいうべき場所だった。アマ十傑戦やアマ本因坊戦の全国大会に出場した地方の選手が訪ねてきたり、腕自慢の大学生が住み込んで勉強していた。プロになるかどうかではなく碁に情熱があれば来る者は拒まずだった。
一番弟子は武久勢士(現・地方棋士七段 大正5年生)。新婚二年目の24歳の木谷が内弟子として引き取った。
門下最後の内弟子は園田泰隆である。[11]
エリートばかりを集めていたわけではなく入門時中学生で級位者だった信田成仁を見事入段に導いた。[12]
大竹英雄が内弟子となったのは、昭和26年12月9歳の時。大竹は多くの木谷門下生にあって、常にリーダー格であり続けた。戦後、木谷家の最も弟子たちの多かった時代、大竹を中心に碁だけでなく、相撲やソフトボールを通してまとまり、大竹のさまざまなアイディアの中で育った弟弟子たちも多い。
加藤正夫が木谷道場に入門するきっかけは、同じ九州出身で戦後の木谷道場入門者の第一号である故加田克司九段の紹介であった。小学校を卒業し、平塚に来たのは、昭和34年4月4日である。当日は、先に入門を果たしていた春山勇(現九段)、久島国夫(九段)の浜岳中学校の入学式にあたり、加藤も着いたその足で入学式に臨んだ。道場での生活を加藤は15年間過ごした。
石田芳夫は、昭和32年7月、名古屋で行なわれた木谷の九段昇段祝賀会に招かれ、この時、大竹英雄初段と六子で指導碁を打ち、夏休みの一ヶ月間を木谷家で生活する。正式の入門は、その年の11月である。小学校3年生9歳であった。当時、石田は内弟子の中で最年少でよく泣かされた。4年後の一歳年下の宮沢吾朗が入門するまで、この状態が続いた。[13]
小林光一の内弟子時、木谷の家には小林を含めて8人の内弟子がいた。木谷が体調を崩して以降に入門したため打つ機会は無かった。内弟子になった最初の日に、腰におもちゃのピストルをぶら下げた子供が部屋や廊下あたりを走り回っていた。小林は近所の子が紛れ込んだと思っていたが、これが当時8歳だった趙治勲だった。小林とは定先くらいの手合で1、2歳の小林より8歳の趙治勲のほうが強いことに小林はショックをうけた。小林は毎日朝5時半にはもう勉強を始めていた。[14][15]そして10歳でプロになれると言われていた趙治勲を追い越し、小林光一が先に入段を果たした。小林光一の入段を見て、今度は趙治勲が奮起し、11歳でプロ入りする。お互いがいい刺激を与え合った。[16]また加藤正夫によく打ってもらっていて、最大6子まで打ち込まれていた。
参考文献
柳田邦夫『強豪木谷一門の秘密―知的戦闘集団・木谷一門ーその強さの謎をとく』現代新社 1979年
木谷美春『木谷道場と七十人の子どもたち 』日本放送出版協会 1992年
関連項目
囲碁の歴史
脚注
^ 地方棋士
^ a b c d 韓国棋院入段
^ a b 準棋士
^ 木谷の実子
^ 加納嘉徳九段に師事するかたわら、木谷道場で研鑽
^ 岡目八目
^ 囲碁人vol.5
^ 囲碁人vol.9
^ 木谷美春『木谷道場と七十人の子どもたち 』日本放送出版協会 1992年
^ 囲碁人vol.12
^ 園田泰隆
^ 囲碁人vol.11
^ 木谷道場の人々 - 平塚市まちづくり財団
^ NHKテキストview
^ 『囲碁人』
^ 囲碁人vol.6
外部リンク
「木谷道場の人々」(平塚市文化スポーツまちづくり振興財団)
「道場の日々 梶原研究会」
「木谷正道さん」
■
棋道(きどう)とは、1924年-1999年に発行されていた日本棋院の機関誌。1924年(大正13年)の日本棋院発足とともに、その機関誌として10月に発刊される。1999年(平成11年)7月号で終刊、姉妹誌『囲碁クラブ』と合併して『碁ワールド』となった。
棋戦などの手合の棋譜や解説などの情報の掲載の他、独自の企画なども行い、情報誌としての機能に加え、メディアを通じての囲碁普及の役割も担った。雑誌として75年の歴史は、日本でも『中央公論』『文藝春秋』に次ぐ長さだった。
目次 
1	歴史
2	記事・企画
3	棋道賞
4	参考文献
歴史
日本棋院設立時の出版事業として、方円社「囲碁新報」、中央棋院「棋院新報」を引き継ぐ新たな機関誌として発行されることとなり、会員に無料配付することとなった。創刊号は68ページ、定価50銭、表紙は斎藤松洲。
1935年からは駅売店で販売される。1944年(昭和19年)には紙の供給事情悪化のため『囲碁クラブ』を合併し、次いで11月に休刊となる。戦後1946年8月に村島誼紀が編集主任となって復刊。復刊時は32ページで定価6円だった。1948年に職員採用があるまで高川格ら棋士によって編集されていた。
1948年からグラビアページを掲載。1950年4月号で初の誌上実力認定試験を行う。1968年からは「棋道賞」を設け、年間の優秀棋士を表彰。1974年からはカラーグラビア掲載。1984年7月号から活版からオフセット印刷に移行。1990年代後半の日本棋院の財政事情の悪化により、「囲碁クラブ」と統合して「碁ワールド」となり、「棋道」は1997年7月号通巻923号をもって終刊となる。
他に大手合の棋譜を掲載した「棋院棋譜」が発行され、1927年の大手合制度改正後は「大手合週報(週刊棋道)」が1943年まで刊行された。1961年からは棋道臨時増刊「囲碁年鑑」が毎年発行されるようになった。
記事・企画
独自棋戦
「新鋭三羽烏勝抜争覇戦」1943年、藤沢朋斎、高川格、坂田栄男による総当戦(優勝坂田)。
「棋道チャンピオン戦」1977-78年、プロトップ棋士による勝ち抜き戦。
「共立住販杯争奪プロアマ8強オープン戦」1987-88年、若手プロとアマ強豪各8名によるトーナメント、第2回まで実施。(優勝結城聡、趙善津)
「荏原製作所・暁星グループ杯世界頂上対決三番勝負」1990年に800号記念企画として、前年の応昌期杯優勝の曺薫鉉と富士通杯優勝の武宮正樹の三番勝負を行った(武宮2-0)。
「32時間一番勝負」1996年、持時間各16時間、打ち継ぎ4回の一番勝負を主催。棋戦の持ち時間が短縮される傾向にあり、三大タイトルの挑戦手合も各8時間、国際棋戦では3時間が主流となっている時世へのアンチテーゼとして「挑戦!平成の名局」と銘打って企画された。第1局は依田紀基-結城聡(中押勝)戦が1-4月号に掲載。第2局は山田規三生-羽根直樹(半目勝)を6-9月号に掲載。
読み物・講座
「昭和新法互先布陣」1928年連載。本因坊秀甫『方円新法』を上回る布石体系を築こうと本因坊秀哉、中川亀三郎、岩佐銈、瀬越憲作、鈴木為次郎などの合議による布石講座。過去に比して足早で戦い方が厳しく、四線への着手でバランスを取ろうという手法が見られる。
「秀格棋話」1977年に、高川秀格名誉本因坊のエッセイを連載。
「中国囲碁外史」1986年9月号から1991年12月号まで連載。古代から清代までの中国の囲碁の歴史、エピソード。田振林・祝士維。
「棋道ミニ博物館」1993年1月号から1995年12月号に連載、囲碁に関する文化事物の紹介。文は相楽十梧、資料提供は水口藤夫で、切手、浮世絵から古代発掘品まで幅広く掲載された。
「ぶらり囲碁紀行」1996年1月号から1999年7月号まで連載した、早稲田大学教授三浦修により、全国各地の囲碁にまつわる史跡、文化を訪ね、写真と共に紹介するエッセイ。
「由紀のイタリア日記」1997年4月号から、ヨーロッパでの囲碁普及のためにイタリアに長期滞在する重野由紀の近況報告エッセイを連載。「碁ワールド」でも引き続き連載。
その他
「日本棋院全棋士年間総合星取表」毎月の棋士の成績を掲載。
「詰碁コーナー」詰碁の新題2問を毎号掲載し、解答正解者に賞品を贈呈。1999年6月号まで掲載。戦後復刊以後の一部は「昭和の詰碁」(全3巻、日本棋院 1990年)として出版された。
「段位認定テスト」誌上に掲載された問題に綴じ込み葉書で回答し、得点に応じて段位(六段まで)を認定する。
「県百傑戦」1983年に各県の日本棋院会員による100位までの順位戦を企画、掲載した。しかし各県支部、幹事による運営負担が大きく、1984年6月号で掲載は終了、自然消滅となった。
「プロの一手グランプリ」1985-87年、プロ棋士の毎月の対戦の中から「現代版耳赤の一手」を選考し、年間最優秀一手賞を選出。最優秀作品の賞金は30万円。選考は石田章(85)、高木祥一(86)、片岡聡(87)、選考委員は藤沢秀行、坂田栄男。
棋道賞
1968年から日本棋院所属棋士の前年の成績による優秀棋士を表彰。
「棋道賞」も参照
第1回の賞は、「最優秀棋士賞」「最多勝利賞」「勝率第一位賞」「連勝賞」「殊勲賞」「敢闘賞」「技能賞」「女流賞」「新人賞」部門。記録部門である最多勝利、勝率、連勝以外の賞は、棋戦主催社である新聞社、テレビ局などの担当記者による選考委員の選考会の評議で決定する。部門賞は23回(1989年度)から「国際賞」新設。25回(1991年度)から殊勲賞、敢闘賞、技能賞を廃止し、「優秀棋士賞」「最多対局賞」新設。その他、年度によって随時特別賞が贈られる。また記録部門は当初七段以上が対象だったが、29回(1995年度)から五段以上に変更。その後「碁ワールド」誌に継続される。
参考文献
木谷實『囲碁百年 2 新布石興る』平凡社 1968年
■
棋道報国会(きどうほうこくかい)は、昭和初期に囲碁・将棋棋士により戦争協力のために設立された組織。1941年(昭和16年)に設立。
目次 
1	経緯
2	体制
2.1	役員
2.2	棋道訓
3	活動
4	参考文献
5	脚注
経緯
1937年(昭和12年)の日華事変の勃発後から、囲碁、将棋の棋士達は、各地の軍病院や軍需工場への慰問活動を行っていた。戦況の深刻化する1941年3月に、前年に結成されていた大日本産業報国会の働きかけで、産業報国会の一組織として日本棋院及び将棋大成会の合同による棋道報国会を結成する準備が進められ、8月までに役員を決定して最初の役員会を開催して今後の方針を決議する。これは、将棋、囲碁をもって産業戦士に奉仕して、間接的に産業増産の一助となるべく、「生産的な思考、推理、創造といふ様な精神的な科学的訓練」と為すことを趣旨として、専門棋士を派遣して指導し、棋道精神を植え付けることを目的とされた。
会長には大政翼賛会第五委員会委員長の下村宏が就き、結成式は10月4日に丸の内糖業会館にて行われ、来賓祝辞には菊池寛なども招かれた。活動の費用は産業報国会が負担した。
体制
役員
会長:下村宏(貴族院議員)
顧問:林幾太郎(日本棋院理事長)、木村義雄(将棋大成会)、三輪嘉壮(大日本産業報国会)
理事:瀬越憲作、小野田千代太郎、村島誼紀、八幡恭助(以上日本棋院)、花田長太郎、土居市太郎、金易二郎、金子金五郎(以上将棋大成会)
常任委員:岩本薫(日本棋院)、渡辺東一(将棋大成会)
棋道訓
一、棋道ハ国技ナリ尊ブベシ
一、棋道ハ推理ナリ鍛フベシ
一、棋道ハ礼ニ依リテ行ヲ慎ムベシ
一、棋道ハ趣味ナリ貪ル勿レ
一、棋道ハ決戦ナリ敢闘スベシ
活動
結成前の1939年には、棋士による中国への皇軍慰問団が上海、南京を訪問した。団長は安永一、塚田正夫で、田岡敬一、梶為和、藤沢秀行、加藤治郎、松田茂行ら、囲碁将棋各5人の編成。1941年には、坂田栄男、藤沢秀行、建部和歌夫らが、満州のハルピン、大連などを訪問[1]。1942年には、青木一男大東亜大臣の招きで、瀬越憲作、橋本宇太郎、呉清源が南京を訪問した。
1942年8月から毎月の定例会を実施、日本棋院の野上彰が書記長となる。10月に棋士を鍛えるための「練成会」が結成され、10月6-9日に有栖川公園にて、日本棋院30名、将棋大成会10名の棋士が参加して、産業報国会錬成部の指導により、講義、禊、静座、勤労作業などを行なった。
1943年1月、棋道報国挺身隊が作られて講演、慰問などの活動を開始。皮切りには、瀬越憲作、岩本薫、木村義雄などが、北海道の日本製鐵、幌内炭坑などを回り、その後も全国各地での活動を行った。3月、婦人棋士による銃後奉公会が結成され、傷病軍人の慰問と、建艦献金活動に従事、5月には傷病兵500人を日本棋院に招待した。また同年、満州で設立された満州棋院を福田正義、藤沢秀行、榊原章二、安田清が訪問、福田は終戦まで滞在して、帰国できたのは終戦1年後だった。11月には、棋院勤労奉公隊が、汐留駅の帯貨整理に従事。12月には、皇軍慰問資金募集大会を開催。
戦況が進むに連れ、棋士達も徴兵されたり疎開したりする者も増え、紙不足で雑誌も休刊を余儀なくされ、1944年にも国内、中国東北部のでの慰問活動を行ったが、7月の千葉県訪問が最後の活動となった。その後には産業報国会とは別に、陸軍の招待により岐阜、石川、新潟などの療養所の慰問活動も行われた。
参考文献
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
岩本薫『囲碁を世界に-本因坊薫和回顧録』講談社 1979年
増川宏一『碁 ものと人間の文化史59』法政大学出版局 1987年
藤沢秀行『勝負と芸 わが囲碁の道』岩波書店 1990年
脚注
^ 坂田栄男『坂田一代』(日本棋院Z)P.77
■
棋道賞(きどうしょう)は年間で活躍した囲碁棋士に贈られる賞。
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目次 
1	概要
2	歴代受賞者
3	記録
4	詳細
5	出典
6	参考資料
7	外部リンク
概要
1967年(昭和42年)、日本棋院の機関誌「棋道」主催で、関係者と棋戦主催者の代表により誌上で選考する形で創設。1999年(平成11年)の第33回からは、「碁ワールド」誌主催となった。
部門賞は年によって変更されることがある。
賞は「最優秀棋士賞」「最多勝利賞」「勝率第一位賞」「連勝賞」「殊勲賞」「敢闘賞」「技能賞」「女流賞」「新人賞」、第25回(1991年度)から殊勲賞、敢闘賞、技能賞、を廃して、「優秀棋士賞」「最多対局賞」「国際賞」が創られた。
毎年2月の選考会の後に発表、3月に日本棋院で合同表彰式が行われる。
歴代受賞者
※受賞は翌年。
-		年号	成績年	最優秀
棋士賞	最多勝利
賞	勝率
第一位賞	連勝
記録賞	殊勲賞	敢闘賞	技能賞	女流賞	新人賞	特別賞
第1回		昭和42	1967年	坂田栄男	林海峰	大窪一玄	大窪一玄	武宮正樹	岩本薰	久井敬史	木谷禮子	加藤正夫	
第2回		昭和43	1968年	高川格	高川格
藤澤秀行	高川格	藤澤秀行	兒玉幸子	石田芳夫	加藤正夫	木谷禮子	武宮正樹	
第3回		昭和44	1969年	林海峰	藤澤秀行	梶原武雄	藤沢朋斎	大竹英雄	加藤正夫	武宮正樹	本田幸子	石田芳夫	
第4回		昭和45	1970年	大竹英雄	石田芳夫	石田芳夫	石田芳夫	武宮正樹	小島高穗	加藤正夫	木谷禮子	曹薰鉉	
第5回		昭和46	1971年	石田芳夫	石田芳夫
加藤正夫	島村俊廣	島村俊宏	工藤紀夫	藤沢朋斎	杉内雅男	---	趙治勲	
第6回		昭和47	1972年	坂田栄男	高木祥一
加藤正夫	高木祥一	加藤正夫	趙治勲	杉内寿子	大平修三	本田幸子	小林光一	
第7回		昭和48	1973年	林海峰	武宮正樹	武宮正樹	武宮正樹	小林光一	岩本薰	石井邦生	杉内寿子	山城宏	
第8回		昭和49	1974年	石田芳夫	武宮正樹	戸澤昭宣	土田正光
戸澤昭宣	趙治勲	小林光一	島村俊宏	白鳥澄子	上村陽生	
第9回		昭和50	1975年	大竹英雄	趙治勲	大平修三	小林光一	趙治勲	坂田栄男	大平修三	小川誠子	郡寿男	
第10回		昭和51	1976年	加藤正夫	加藤正夫
趙治勲	武宮正樹	高木祥一	武宮正樹	小林光一	趙治勲	小林千寿	小林覚	
第11回		昭和52	1977年	加藤正夫	林海峰	林海峰	林海峰	小林光一	島村俊宏	工藤紀夫	小林千寿	新垣武	
第12回		昭和53	1978年	加藤正夫	大竹英雄	羽根泰正	大竹英雄	山城宏	羽根泰正	石田章	小川誠子	王立誠	
第13回		昭和54	1979年	加藤正夫	趙治勲
林海峰	橋本誼	趙治勲	趙治勲	春山勇	石田章	小川誠子	片岡聡	
第14回		昭和55	1980年	趙治勲	趙治勲	佐藤昌晴	山部俊郎	福井正明	佐藤昌晴	山部俊郎	木谷禮子	伊藤庸二	
第15回		昭和56	1981年	趙治勲	山城宏	山城宏	山城宏	王銘琬	依田紀基	小林光一	楠光子	石倉昇	白鳥澄子
第16回		昭和57	1982年	趙治勲	小林光一	石田章
小林覚	石田章	片岡聡	王立誠	石田章	小林禮子	依田紀基	
第17回		昭和58	1983年	林海峰	林海峰	小林覚	山城宏	王銘琬	小林覚	高木祥一	杉内寿子	小県真樹	楠光子
第18回		昭和59	1984年	趙治勲	小林光一	桑田泰明	桑田泰明	小林光一	山城宏
依田紀基	大平修三	楠光子	王銘琬	
第19回		昭和60	1985年	小林光一	小林光一	郡寿男	羽根泰正	王銘琬	楠光子	宮沢吾朗	楠光子	大矢浩一	武宮正樹
第20回		昭和61	1986年	加藤正夫	王立誠	工藤紀夫	加藤正夫	依田紀基	王立誠	山城宏	小川誠子	新海洋子	
第21回		昭和62	1987年	加藤正夫	趙治勲	大平修三	大平修三	依田紀基	王銘琬	大平修三	宮崎志摩子	小松英樹	藤澤秀行
第22回		昭和63	1988年	小林光一	小県真樹	羽根泰正
小林覚	小林光一
依田紀基	依田紀基	宮崎志摩子	羽根泰正	宮崎志摩子	三村智保	藤澤秀行
第23回		平成元年	1989年	小林光一	依田紀基	依田紀基	依田紀基	王銘琬	依田紀基	依田紀基	青木喜久代	-	
第24回		平成2	1990年	小林光一	依田紀基	後藤俊午	後藤俊午	羽根泰正	小林覚	依田紀基	中澤彩子	柳時熏	
-							連勝
記録賞	殊勲賞	敢闘賞	技能賞			
25~		年号	成績年	最優秀
棋士賞	最多
勝利賞	勝率
第一位賞	連勝賞	最多
対局賞	優秀
棋士賞	国際賞	女流賞	新人賞	特別賞
第25回		平成3	1991年	小林光一	小松英樹	工藤紀夫	王立誠	柳時熏	藤澤秀行		青木喜久代	趙善津	
第26回		平成4	1992年	小林光一	小松英樹	土田正光	加藤正夫	小林光一
小松英樹	藤澤秀行
小松英樹		加藤朋子	山田規三生	
第27回		平成5	1993年	小林光一	加藤正夫	王銘琬	加藤正夫	加藤正夫	佐藤昌晴		小川誠子	加藤朋子	
第28回		平成6	1994年	趙治勲	加藤正夫	小林覚	小林覚	山田規三生	柳時熏		加藤朋子	森田道博	
第29回		平成7	1995年	小林覚	小林覚
王立誠	王立誠	小県真樹	加藤正夫	武宮正樹
王立誠		中澤彩子	羽根直樹	
第30回		平成8	1996年	趙治勲	羽根直樹	山田規三生	松村龍一	片岡聡	依田紀基
柳時熏		西田栄美	高尾紳路	
第31回		平成9	1997年	趙治勲	羽根直樹	山下敬吾	山田規三生	山下敬吾	工藤紀夫
山田規三生		青木喜久代	山下敬吾	
第32回		平成10	1998年	趙治勲	山下敬吾	高尾紳路	小松英樹
山下敬吾	山下敬吾	王立誠
彦坂直人	依田紀基	小林泉美	秋山次郎	
第33回		平成11	1999年	趙治勲	高尾紳路	山下敬吾	羽根直樹	高尾紳路	趙善津
小林光一	依田紀基	知念かおり	小林泉美	
第34回		平成12	2000年	王立誠	山下敬吾	張栩	高尾紳路	山下敬吾	依田紀基
王銘琬
山下敬吾	王立誠	祷陽子	張栩	
第35回		平成13	2001年	王立誠	羽根直樹	三村智保	高尾紳路	羽根直樹	林海峰
羽根直樹	---	小林泉美	溝上知親	
第36回		平成14	2002年	加藤正夫	張栩	張栩	小林覚	張栩	王立誠
張栩	ハンス・ピーチ	小林泉美	河野臨	
第37回		平成15	2003年	張栩	張栩	蘇耀国	山田規三生	張栩	山下敬吾
依田紀基
羽根直樹	趙治勲	小林泉美	蘇耀国	
第38回		平成16	2004年	張栩	高尾紳路	鶴山淳志	高尾紳路	山下敬吾	山下敬吾	-	知念かおり	金秀俊	趙治勲
第39回		平成17	2005年	張栩	小林覚	井山裕太	武宮正樹	張栩	羽根直樹
高尾紳路	張栩	矢代久美子	井山裕太	
第40回		平成18	2006年	山下敬吾	張栩	仲邑信也	張栩	山下敬吾	高尾紳路
張栩	依田紀基	謝依旻	松本武久	
第41回		平成19	2007年	張栩	張栩	森田道博	張栩	張栩	山下敬吾
趙治勲	-	謝依旻	黄翊祖	
第42回		平成20	2008年	張栩	張栩	林子淵	森田道博	井山裕太	羽根直樹
井山裕太	-	謝依旻	謝依旻	
第43回		平成21	2009年	張栩	井山裕太	李沂修	張栩	井山裕太
高尾紳路	井山裕太	-	謝依旻	李沂修	
第44回		平成22	2010年	張栩	山下敬吾	山城宏	山下敬吾	山下敬吾	山下敬吾
謝依旻	-	謝依旻	林漢傑	
第45回		平成23	2011年	山下敬吾	井山裕太	金秀俊	金沢真	井山裕太	井山裕太
羽根直樹
謝依旻	-	謝依旻	内田修平	謝依旻
第46回		平成24	2012年	井山裕太	井山裕太	井山裕太	張豊猷	井山裕太	張栩
山下敬吾	-	謝依旻	伊田篤史	
第47回		平成25	2013年	井山裕太	井山裕太	一力遼	富士田明彦	井山裕太	-	井山裕太	向井千瑛	富士田明彦
一力遼	
第48回		平成26	2014年	井山裕太	河野臨	許家元	河野臨	河野臨	高尾紳路	一力遼	藤沢里菜	金沢真
藤沢里菜	
第49回		平成27	2015年	井山裕太	井山裕太
許家元	芝野虎丸	井山裕太	山下敬吾	伊田篤史	一力遼	謝依旻	許家元	
-		年号	成績年	最優秀
棋士賞	最多
勝利賞	勝率
第一位賞	連勝賞	最多
対局賞	優秀
棋士賞	国際賞	女流賞	新人賞	特別賞
※5期以上のタイトルを獲得した棋士の名前には着色している。
記録
最優秀棋士賞獲得数 9回:趙治勲 7回:加藤正夫・小林光一・張栩 3回:林海峰
詳細
※受賞は翌年。
-	成績年	最多勝利
賞	勝数	勝率
第一位賞	率	連勝
記録賞	
第1回	1967年	林海峰	30	大窪一玄	.750	大窪一玄	12
第2回	1968年	高川格
藤澤秀行	26	高川格	.722	藤澤秀行	11
第3回	1969年	藤澤秀行	34	梶原武雄	.727	藤沢朋斎	9
第4回	1970年	石田芳夫	35	石田芳夫	.795	石田芳夫	9
第5回	1971年	石田芳夫
加藤正夫	36	島村俊廣	.786	島村俊宏	13
第6回	1972年	高木祥一
加藤正夫	30	高木祥一	.732	加藤正夫	12
第7回	1973年	武宮正樹	36	武宮正樹	.818	武宮正樹	13
第8回	1974年	武宮正樹	39	戸澤昭宣	.765	土田正光
戸澤昭宣	11
第9回	1975年	趙治勲	39	大平修三	.739	小林光一	11
第10回	1976年	加藤正夫
趙治勲	46	武宮正樹	.787	高木祥一	13
第11回	1977年	林海峰	42	林海峰	.808	林海峰	24
第12回	1978年	大竹英雄	39	羽根泰正	.829	大竹英雄	13
第13回	1979年	趙治勲
林海峰	39	橋本誼	.762	趙治勲	12
第14回	1980年	趙治勲	38	佐藤昌晴	.735	山部俊郎	11
第15回	1981年	山城宏	38	山城宏	.792	山城宏	12
第16回	1982年	小林光一	42	石田章
小林覚	.795	石田章	14
第17回	1983年	林海峰	38	小林覚	.795	山城宏	11
第18回	1984年	小林光一	38	桑田泰明	.786	桑田泰明	13
第19回	1985年	小林光一	39	郡寿男	.788	羽根泰正	12
第20回	1986年	王立誠	37	工藤紀夫	.750	加藤正夫	13
第21回	1987年	趙治勲	40	大平修三	.838	大平修三	17
第22回	1988年	小県真樹	39	羽根泰正
小林覚	.800	小林光一
依田紀基	12
第23回	1989年	依田紀基	51	依田紀基	.773	依田紀基	16
第24回	1990年	依田紀基	46	後藤俊午	.800	後藤俊午	14
成績年	最多
勝利賞		勝率
第一位賞		連勝賞		最多
対局賞	局
第25回	1991年	小松英樹	38	工藤紀夫	.844	王立誠	16	柳時熏	59
第26回	1992年	小松英樹	43	土田正光	.815	加藤正夫	16	小林光一
小松英樹	63
第27回	1993年	加藤正夫	40	王銘琬	.813	加藤正夫	22	加藤正夫	62
第28回	1994年	加藤正夫	39	小林覚	.829	小林覚	18	山田規三生	54
第29回	1995年	小林覚
王立誠	44	王立誠	.800	小県真樹	16	加藤正夫	67
第30回	1996年	羽根直樹	48	山田規三生	.810	松村龍一	15	片岡聡	66
第31回	1997年	羽根直樹	50	山下敬吾	.913	山田規三生	18	山下敬吾	69
第32回	1998年	山下敬吾	60	高尾紳路	.806	小松英樹
山下敬吾	17	山下敬吾	75
第33回	1999年	高尾紳路	61	山下敬吾	.821	羽根直樹	19	高尾紳路	75
第34回	2000年	山下敬吾	59	張栩	.811	高尾紳路	20	山下敬吾	77
第35回	2001年	羽根直樹	63	三村智保	.795	高尾紳路	18	羽根直樹	88
第36回	2002年	張栩	70	張栩	.833	小林覚	17	張栩	84
第37回	2003年	張栩	56	蘇耀国	.782	山田規三生	18	張栩	77
第38回	2004年	高尾紳路	44	鶴山淳志	.750	高尾紳路	15	山下敬吾	71
第39回	2005年	小林覚	46	井山裕太	.7547	武宮正樹	16	張栩	63
第40回	2006年	張栩	49	仲邑信也	.805	張栩	15	山下敬吾	68
第41回	2007年	張栩	51	森田道博	.8049	張栩	17	張栩	73
第42回	2008年	張栩	51	林子淵	.7949	森田道博	14	井山裕太	69
第43回	2009年	井山裕太	43	李沂修	.7600	張栩	17	井山裕太
高尾紳路	57
第44回	2010年	山下敬吾	40	山城宏	.800	山下敬吾	16	山下敬吾	63
第45回	2011年	井山裕太	48	金秀俊	.7742	金沢真	13	井山裕太	67
第46回	2012年	井山裕太	51	井山裕太	.8095	張豊猷	13	井山裕太	63
第47回	2013年	井山裕太	43	一力遼	.8511	富士田明彦	18	井山裕太	61
第48回	2014年	河野臨	50	許家元	.7895	河野臨	19	河野臨	76
第49回	2015年	井山裕太
許家元	41	芝野虎丸	.8125	井山裕太	24	山下敬吾	60
-	成績年	最多
勝利賞	勝	勝率
第一位賞	率	連勝賞		最多
対局賞	局
出典
[1]【ニュースリリース】第43回大倉喜七郎賞・第47回棋道賞の受賞者決定 日本棋院 2014.02.19
[2] 日本棋院 棋士
『棋道』日本棋院
『碁ワールド』日本棋院
参考資料
『囲碁年鑑 2015』 囲碁編集部
外部リンク
日本棋院
■
本因坊秀策囲碁記念館
Japanese Map symbol (Museum) w.svg 本因坊秀策囲碁記念館
Honinbo Shusaku Game of Go Memorial[1]
施設情報
専門分野	本因坊秀策を中心とした囲碁の資料
管理運営	尾道市
開館	2008年
所在地	〒722-2213
広島県尾道市因島外浦町121-1
位置	北緯34度19分41.4秒 東経133度11分1.0秒座標: 北緯34度19分41.4秒 東経133度11分1.0秒
公式サイト	本因坊秀策囲碁記念館
プロジェクト:GLAM
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本因坊秀策囲碁記念館(ほんいんぼうしゅうさくいごきねんかん)は、広島県尾道市の因島にある、本因坊秀策の資料を中心とした囲碁の資料館。
目次 
1	概要
2	施設
3	利用情報
4	交通
5	脚注
6	関連項目
7	外部リンク
概要
因島は「囲碁の島」としても知られる。1997年、因島市は棋聖本因坊秀策やアマ四強村上文祥がこの地で生まれたことから、町おこしの一環として囲碁を市技として制定した[2][3]。これに『ヒカルの碁』での囲碁プームと2004年秀策が囲碁殿堂に顕彰されたことを機に島には観光客が訪れ、さらに町を挙げて囲碁の文化普及を進めてきた[2]。2006年因島市は平成の市町村合併により尾道市と合併消滅するが、尾道市もこの普及を引き継ぎ囲碁を市技とした[2][4]。そして2007年合併記念事業として秀策の生家復元と資料展示が決まり、2008年に開館したのがこの記念館である[2]。
生家は棋戦会場としても用いられ、2016年には井山裕太本因坊初の防衛戦となった第71期本因坊戦が行われている[5]。事前予約すれば因島囲碁協会が派遣した「碁ランティア」と対戦することができる[6]。
記念館の隣が石切風切神社になる。そもそも生家があったところであり[7]、1926年その前に「本因坊秀策碑」が建立されたものの[2]、1972年老朽化に伴い生家は取り壊された[8]。そのため本因坊秀策碑は神社内にあり、記念館ができるまではここに秀策の資料を展示保管していた[7]。また記念館正面山手の地蔵院に秀策の墓がある[9]。
施設
囲碁記念館
鉄筋コンクリート造平屋建。主要フロアは、常設展示の「秀策展示室」と企画展示の「企画展示室」。
秀策展示室には秀策の資料を展示している。愛用の碁盤と碁石、食膳、16才時に書いた筆跡書幅、本因坊より囲碁免状四段、死亡通知書、天保14年版日本国中囲碁名鑑などが見どころ[10]。
企画展示室では囲碁に関するものを展示している[11]。
「研修室」は研修や囲碁対局に利用、「売店」もある。
(復元)生家
旧生家家相図を元に再現したもの。木造平屋建。畳敷4間、土間、台所などからなる。囲碁対局や茶室として利用できる[8]。
見どころは秀策が碁を始めるきっかけとなった押入れ。ある日いたずらをした罰として父に押入れに入れられると、薄暗い押し入れの中で碁石を見つけ夢中で並べていた。それを見た母が碁の手ほどきをするとめきめき上達したという[8]。
利用情報
開館 : 10:00 - 17:00
休日 : 火曜日(ただし祝日の場合は翌水曜日)、年末年始
料金 : 大人300円(団体割引あり)、中学生以下無料
無料駐車場10台分
交通
車
因島北ICから約5分
因島南ICから約10分
バス
土生港から島内バス大橋行き、「入川橋」バス停下車、徒歩約10分
脚注
[ヘルプ]
^ “本因坊秀策囲碁記念館(文化施設等優待施設) (PDF)”. 公益財団法人ひろしま国際センター. 2017年1月16日閲覧。
^ a b c d e “幕末の天才棋士・本因坊秀策顕彰の悲願「生家復元」着工 尾道市・因島合併記念事業「囲碁の館」建設”. せとうちタイムス. 2016年5月29日閲覧。
^ “囲碁の島「因島」”. 本因坊秀策囲碁記念館. 2016年5月29日閲覧。
^ “本因坊秀策囲碁記念館”. 尾道市. 2016年5月29日閲覧。
^ “生誕の地で第71期本因坊戦始まる”. エフエムおのみち. 2016年5月29日閲覧。
^ “出前対局交流「碁ランティア」のご紹介”. ホテルいんのしま. 2016年5月29日閲覧。
^ a b “『ヒカルの碁』に登場!碁聖「本因坊秀策」生誕の地・因島”. マピオンニュース. 2016年5月29日閲覧。
^ a b c “秀策生家”. 本因坊秀策囲碁記念館. 2016年5月29日閲覧。
^ “墓碑と記念碑”. 本因坊秀策囲碁記念館. 2016年5月29日閲覧。
^ “本因坊秀策囲碁記念館”. おのなび. 2016年5月29日閲覧。
^ “企画展・常設展”. 本因坊秀策囲碁記念館. 2016年5月29日閲覧。
関連項目
本因坊秀策囲碁まつり
外部リンク
公式ウェブサイト
本因坊秀策囲碁記念館 (@igokinenkan) - Twitter
■
棋風(きふう)とは、将棋や囲碁、チェスなどのボードゲームにおけるその人の着手の特徴のことである。
目次 
1	概要
2	将棋における棋風
2.1	代表的な将棋棋士の棋風
3	囲碁における棋風
3.1	代表的な囲碁棋士の棋風
4	チェス
5	関連項目
概要
二人零和有限確定完全情報ゲームでは、理論上は完全な先読みが可能ではあるが、現実的には指せる手の選択肢が多く、時間の制限もある。またゲームに対する棋士の考え方などにも影響されるため、同じ局面を同じ技量の棋士が検討しても指し方に違いが現れる。
将棋における棋風
将棋の場合、「居飛車党」と「振り飛車党」のいずれかに該当し、さらに「急戦派」か「持久戦派」のどちらかに分類される。また、羽生善治のように相手にあわせて自在に戦法を変えたり、加藤一二三のように一つの戦法にこだわりを見せる、などの信念の違いも棋風の一つとされる。
定跡データベースを利用した序盤研究が盛んになるにつれ、それまでの人生観や美的感覚が反映された棋風ではなく、「データベース将棋」と称される、勝率や効率など合理性を追求した棋風も見られるようになっている。
プロ棋士の特徴的な棋風には「○○流」などのキャッチフレーズがつけられているが、これは、原田泰夫が命名したものが多い。
代表的な将棋棋士の棋風
升田幸三
大駒、特に角の使い方に独特の感性を持つ。大山康晴が全盛期を迎える頃からは、「新手一生」を座右の銘として掲げ、数々の新手を生み出して対抗した。
大山康晴
若い頃は相居飛車も指したが、居飛車対振り飛車対抗形を得意としている。守りながら敵玉の距離を計るのが上手く、仕留めるときは一気に決めることが多い。囲いで守るよりも序盤は陣形全体のバランスで守り、中盤から徐々に駒を玉側に寄せていくのは独特の感性であり、囲いで守る代表の穴熊を苦にしなかった。羽生善治は大山の棋風について、深く読んで最善手を追求することをせず、大らかに指す棋風であると評している。
加藤一二三
生粋の居飛車党で、良いと思った戦法を指し続けることが多い。代表的な例としては「加藤棒銀」と呼ばれるほど、棒銀にこだわりを持っている。序盤の研究も深く、「加藤流」の名がついたものが多い。先攻しながらも一気にいかずに柔軟に攻めを続けたり、受けつつ力を溜めて一気に攻撃に行くなど、斬り合いに強い。
内藤國雄
指し手のバリエーションが豊富で、「自在流」と呼ばれる。横歩取りの後手番で角を3三に上がり、飛車・角が高く舞う「空中戦法」で、升田幸三賞を受賞。
米長邦雄
中央の厚みを活かす戦い方が多い。終盤で劣勢のとき、紛れを作って逆転することから「泥沼流」と呼ばれる。香車の上に玉を置く「米長玉」で升田幸三賞を受賞している。
中原誠
振り飛車も指すが、全盛期時代は居飛車が多かった。攻防のバランスが取れた棋風であり、指されてみれば自然に見える、格調が高い指し回しで圧倒的な強さを誇ったことから、「自然流」と呼ばれる。桂馬の使い方がうまく、「桂使いの名手」と言われる。手を作ることが上手いため、「中原流」と呼ばれる多くの戦法(将棋大賞の升田幸三賞を受賞)がある。
谷川浩司
終盤において、早い段階で寄せの手順を読むため「光速の寄せ」「光速流」と言われる。また、指し手に迷うとき、駒が前に行く手を優先することから「谷川前進流」とも呼ばれる。
南芳一
対局している姿、棋風ともに「地蔵流」と呼ばれてはいるが、敵陣を一気に攻め潰す将棋も多い。その攻めを「地蔵攻撃」と呼ぶことも。
羽生善治
急戦・持久戦問わず指しこなす居飛車党で、振り飛車を採用することもある。終盤で相手を惑わせる手や気づきにくい妙手を放つことから、「羽生マジック」と呼ばれる。盤面全体を上手く使う柔軟な棋風で、殆どの戦型で高い勝率を誇るため、得手不得手は際立っていない。
佐藤康光
成算があると思えば危険でも踏み込んでいく特徴があり、直線的な指し手が多い。かつては居飛車を主に指し、相手の得意戦法を真っ向から受けて立つ棋風であったが、タイトル戦への登場が頻繁になった頃から振り飛車も頻繁に採用するようになった。またこの頃から、数々の新手も編み出すようになった(2006年度の将棋大賞で、最優秀棋士賞と升田幸三賞を同時受賞)。なお、深く鋭い読みを持つことから「緻密流」と呼ばれるが、先崎学は「‘緻密’ではなく‘野蛮’」と評している。
森内俊之
主に矢倉を好むが振り飛車も指しこなす、オールラウンドプレイヤーである。「受けが強い」というイメージから、一般的には「鉄板流」と呼ばれる。
丸山忠久
居飛車党で、角換わり腰掛け銀などの激しい戦形を得意とするが、攻撃的な手よりも渋い手の方が目立つ。終盤で勝勢になっても一気に勝負を決めに行かずに、着実に自身の優勢を積み上げていく(将棋用語で"辛い")指し回しから、「激辛流」と呼ばれる。
藤井猛
振り飛車の天敵であった居飛車穴熊や左美濃を、序盤から一気に撃退しに行く革新的な四間飛車戦法「藤井システム」(98年度升田幸三賞を受賞)の開発や'振り飛車には角交換'の格言を覆す角交換四間飛車(12年度升田幸三賞を受賞)を発展させるなど四間飛車における序盤研究の大家として有名。対急戦にも研究が深く、対棒銀などでも決定打を出している。また、大駒を切って、金銀で露骨に相手玉に迫る「ガジガジ流」でも恐れられている。なお、居飛車の矢倉も指すことがあり、特に、2008年頃から指すことが増えて話題となった。
渡辺明
居飛車党。穴熊囲いの採用率が多いところが「現代的」と言われていて、居飛車対振り飛車の対抗形だけでなく、矢倉戦でも玉を穴熊に囲うことが多い。ただ、穴熊が多いことでプロでの評価は低かったが、竜王戦で羽生相手に矢倉後手急戦を連続採用したことで、谷川に「評価が変わった」と言わしめた。また、素朴な指し手が多いのも、ある意味特徴的と言える。
久保利明
振り飛車党で三間飛車を得意とし、早石田を現代に蘇らせた棋士の一人である。駒の軽い捌きが特徴で「捌きのアーティスト」「カルサバ流」と呼ばれる。久保の左桂の捌きに憧れるプロ棋士も多い。
囲碁における棋風
囲碁の場合、「実利派」と「模様派」に大別される。前者は先に地を稼いで相手模様の荒らしに賭けるタイプ、後者は雄大な模様のスケールで勝負する。
近年は地に辛いスタイルが、世界的に主流になりつつあるといわれる。
代表的な囲碁棋士の棋風
趙治勲
低く構えて地を先に稼ぎ、後から相手の模様に侵入して荒らすタイプ。ギリギリまで最善を求める、妥協のない打ち方をする。普通とうてい入れないと見られるような地模様に打ち込んで荒らしてしまったり、攻めの対象にはならないような強い壁を攻撃し、もぎ取ってしまうことも。また高尾紳路は趙について、「まったく目算をしていない(できていない)。目算をすると、どうしても手が緩んで、負けに近づいてしまうからでしょう。」と語っている。
山下敬吾
位の高い碁を志向する。攻撃的で読みが鋭く、実戦的なスタイル。かつては五ノ五や初手天元など意表を突く布石を試みたが、近年はオーソドックスな布石を打つ。また地に辛くなりつつあるともいわれる。
張栩
実利を好むタイプ。部分の読みの速さ、正確さに支えられた戦闘力にも定評がある。早い時点から正確に形勢を見切る能力に長けているといわれる。ヨセやコウに強いことでも有名。
高尾紳路
現代にあっては珍しく、厚みを重視する棋風。手厚い打ち方から繰り出される、重厚な攻めに定評がある。
羽根直樹
低段時代は手厚い碁が多かったが、近年は石の形を重視し、地に辛い碁を打つことが多い。バランス型とされるが、時に深いヨミを発揮することもある。
河野臨
冷静な打ち方で、ヨセで勝負をつけることが多かったが、近年戦闘力を身につけて力強さを増したといわれる。また布石の研究にも熱心で、布石の打ち方に工夫が多い。
結城聡
石の働きを追求する戦闘的な棋風で、上段の構えから力で圧倒する。乱戦を好み、「武闘派」と称される。
依田紀基
スケールが大きく華麗な棋風で、大胆なフリカワリや捨て石を見せることも多い。石の筋を重視し、筋についての考え「筋場理論」を考えだしている。また時に白番天元・初手5の十・2手目7の十など非常に大胆な布石を見せることもあるが、総じて布石の上手さには定評がある。「勝ち碁を勝ちきるのが上手い」と評されるが、時に楽観から大逆転負けを喫することもある。
小林光一
実利派であるが、部分の味や含みを残さず「決め打ち」をしてしまうことで有名。勝負に徹した打ち方と評されることが多い。
武宮正樹
黒番のときは、相手に実利を与えて中央に巨大な模様を張る、「宇宙流」といわれる独特のスタイルの碁を打つ。白番のときには、相手の打ち方によって動き方を決める、平明で流れるような碁を打つことから「自然流」といわれる。アマチュアに人気がある他、世界の囲碁界に与えた影響も絶大である。
加藤正夫
圧倒的な戦闘力、攻撃力や、死にそうにない相手の大石を殺してしまうことから「殺し屋」と恐れられた。一時はヨセの正確さから「ヨセの加藤」と謳われた時代もあった。序盤は厚みを重視することが多い。
石田芳夫
緻密な計算と正確なヨセから「コンピュータ」と呼ばれた。定石や布石の研究にも定評がある。目外しや三々を好んで用いることでも有名。
林海峰
若い頃には実利を重視し、粘りのある棋風で「二枚腰」と呼ばれたが、壮年以後は戦闘的な棋風となった。
大竹英雄
石の形、筋にこだわった手厚い打ちまわしは「大竹美学」と呼ばれ、称えられることが多い。
王立誠
実利とスピードを重視した実戦的な棋風と評されることが多い。変幻自在な打ちまわしを見せ、中盤から終盤にかけての逆転力にも定評があり、「立誠マジック」とよばれる。
小林覚
筋を基調とする碁で、若いころは厚みを活かした追い込みに特徴があったが、徐々に地やスピードも重視する棋風に変わってきたと言われる。近年は序盤構想に新境地を見出すことも多い。
片岡聡
石田芳夫と対比して「新コンピュータ」と呼ばれるほど終盤の正確さが際立つ。筋のよい碁を打つことでも有名。
王銘琬
「ゾーンプレス」という独自の理論(正確にはサッカーの戦法からの流用)に基づき、「メイエンワールド」と呼ばれる実利よりも模様・位を重視する独特の碁を打つ。勝率は高いが、ポカが多いことでも有名。
坂田栄男
切れ味の鋭いシノギを特徴として「カミソリ坂田」の異名を持ち、数々の妙手、鬼手と呼ばれる手を残している。また、布石での三々を多用した。
藤沢秀行
豪快で華麗な碁で、「厚みの働きを最もよく知る」と言われた。序盤から中盤にかけて圧倒的な構想力を見せるが、ポカで負けることが多かった。
呉清源
積極的な打ちまわしを見せ、大局観や終盤の収束力に優れていると評される。コウに強いとも言われた。木谷実とともに「新布石法」を発表するなど、序盤研究に余念がない。
井山裕太
決まったスタイルを持たず、地に辛い碁も厚い碁も柔軟に使い分ける。全局的な発想に長けており、定石研究も積極的に行っている。また、常に最強手を選び、妥協しないことでも有名である。
伊田篤史
序盤は厚く打ち、中盤にかけて相手を攻める棋風。また、目外し二連打や大高目打ちなど、奇抜な布石を敷くことも多い。
一力遼
早見えで、序盤から積極的に勝負を仕かけていく好戦的な棋風。
チェス
チェスにおいては棋風に相当する用語としてスタイル(Style)と呼ばれる考えがあり、得意とするオープニングや、駒の交換の拒否、引き分けを積極的に狙うなど、選手の気質や戦略などを表すときに使われる。
関連項目
将棋棋士一覧
将棋の戦法一覧
棋士 (将棋)
棋士 (囲碁)
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急場(きゅうば)とは、物事が差し迫ってすぐに対処しなければならない状況をいう。
その他、囲碁用語の一つとして用いられる。(下記に記載)
囲碁用語の急場
特に序盤、中盤の石の根拠に関わる要点のことをいい、大場よりも優先される場合がある。また、石の競り合いの場面、模様の接点も急場と言える。とくに「石数が多く生きていないところが大きい」(苑田勇一)という格言は至言である。
参考図書
石田芳夫『目で解く大場と急場』 (ISBN 978-4416689059 誠文堂新光社 1989年)
■
切り賃(きりちん)は、近代まで使われていた囲碁のルールの一つ。今日では使われていない。
切り賃のルールというのは「生きるための目を地に数えない」というもので、現代でいう2目の生きは、切り賃ルールのもとでは0目の地となり、20目の地は18目の地として計算される。
一回相手の石を切るたびに二目もらえるので「切り賃」と呼ばれる。
中国のある時代においては、切り賃が1目のときもあった。
切り賃のルールは、古代の囲碁のルールが、純碁に近いことを示唆している。■
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キリ(きり、切り)は囲碁用語の一つで、斜めの位置関係にある相手の石を、つながらせないように連絡を絶つ手のこと。「切り」と表記されることも多い。動詞では「キる」「切る」と表現される。

黒1に打つ手が「キリ」の一例である。
目次 
1	概要
2	キリのいろいろ
2.1	キリチガイ
2.2	デギリ
2.3	捨て石としてのキリ
2.4	キリコミ
2.5	キリトリ
2.6	参考図書
概要
碁においては、弱い石(相手の攻撃目標になる石)を作らないように打つのが基本である。多くの石がつながっていれば、たいていの場合強い石となり、戦いに有利に働く。このためなるべく自分の石同士はつながるように、相手の石は連絡しないように打つのが基本的な考えとなる。このためキリは囲碁において重要な基礎技術であり、「碁は断にあり」と述べる棋士もいるほどである。
例えば上図では、黒1の点に切るのが絶対の一手になる。同じ点を白にツガれると白は連絡して非常に強い石となり、黒は隅の2子と辺の1子に分断されて苦しい姿となる。
このように、キリは相手の石を弱い二団の石に分断し、戦いを挑む手である。もちろん打つ方にとっても兵力を分けて用いる手であるから、ただどこでも切ればいいというものではなく、彼我の石の強さを比べ、局面に合わせて打つべき手である。
キリのいろいろ
キリは上述のような戦いを挑む手段以外にも、様々な形で現れる。
キリチガイ
上図のように黒1にツケ、白2のハネと換わって黒3に切る手を「キリチガイ」あるいは「ツケギリ」と称する。サバキの手段として頻出する。
デギリ
黒1と出て、白2のオサエと換わって3と切る一連の手順を「デギリ」と呼ぶ。敵を強く分断して戦いを挑む手。
捨て石としてのキリ
高目定石の一形。黒1のキリを捨て石にして、黒3,5と隅を確保する。
黒は上図1と内側を切って、黒5までと運ぶこともある(黒がシチョウがよいことが条件)。白2で3の点にツイで頑張ってもよい結果にならないので、素直に切ってきた石を取っておくのがセオリー(格言:切った方を取れ)
左図で一見△の黒石は取られているように見えるが(単にaやbと打っても攻め合い負け)、右図の黒1のキリが手筋。白2と換わってから黒3と打てば、白が△の黒石を取ろうにもダメヅマリのためcに入れず(先にdに抜くよりない)、黒が攻め合い勝ちとなる。
キリコミ
このままであれば白からa,b両方のハネツギを先手で打たれる。黒1のキリを捨て石にして黒3・白4を交換すれば一方のハネツギを先手で防げる。こうした黒1のような小技のキリを「キリコミ」などと表現することがある。
キリトリ
黒1のキリから黒3と取り上げる一連の打ち方をキリトリと称する(カミトリ、噛み取りなどとも)。状況によるが、ヨセとして10目前後の大きさがある、また石の根拠にかかわる場合には、序盤であっても急がれる着点となる。
参考図書
趙治勲『キリの技法(最強囲碁塾)』河出書房新社
『切りちがい対策 (二子アップ中級シリーズ) 』誠文堂新光社
■
棋力(きりょく)とは、囲碁・将棋などの強さのこと。具体的には段級位、レイティングなどで表す。
段級位とレイティング
段級位とレイティングはともに、棋力をはかる指標となるが、両者の性格は微妙に異なる。
段級位は江戸時代にはあった指標であり、囲碁・将棋を統轄する団体(囲碁では日本棋院、将棋では日本将棋連盟)から正式な免状や認定証が与えられるなど、伝統と権威を持ったものである。その反面、段級位の認定が実際の棋力を反映していないといわれることが多い。
理由としては、アマチュアの段級位の取得方法の代表的なものとして認定問題の解答によるものがあるが、認定問題では特定の局面での正解手を選ぶだけであり、1局の対局全体においての強さを測定しているわけではないということがある。プロの場合は、一定の対局数や勝数を積み重ねれば昇段し、年齢などの理由で棋力が低下しても降段することはないため、最高段位である九段であっても成績が伴わない棋士が存在している。
これに対してレイティングは、純粋に対局の結果のみで値が決定し、対局に勝つと数値が大きくなり負けると小さくなる。従ってその時点での棋力をかなり正確に反映したものといえるが、計算方法が非常に複雑になるため、その多くはインターネットを利用した対局サイトで行われている。
碁会所や将棋道場などでは、独自に段級位を定め、道場での対局結果によって昇降段を決定しているところが多い。インターネット上の対局サイトでも、レイティングと段級位を併用しているところがある。
棋力とハンディキャップ
対局相手との棋力差が大きい場合、ハンディキャップをつけて対局することがある。
囲碁の場合、「置石」といって弱いほう(通常黒を持つ)が2個以上の石を置いた状態からゲームを開始する。 将棋の場合は、「駒落ち」といって強いほうが何枚かの駒を除去(ゲーム中は使わない)した状態からゲームを開始する。ただし、駒落ち戦には駒落ち戦特有の指し方があり、平手(駒落ちでないゲーム)の棋力とは違う結果になることもある。
関連項目
段級位制
囲碁の手合割
将棋の手合割
将棋の段級
■
囲碁の記録一覧(いごのきろくいちらん)は囲碁に関する記録の一覧である。
棋戦情報・囲碁の歴史・囲碁のタイトル在位者一覧も参照。
目次 
1	タイトル
1.1	通算記録
1.2	連続記録
1.3	最年少記録
1.4	その他記録
1.5	タイトル連覇記録
1.6	タイトル同時在位
1.6.1	名誉称号
1.6.1.1	他棋戦称号
1.6.2	グランドスラム
1.6.3	大三冠
1.7	名人・本因坊
2	年間記録
3	通算・連勝
3.1	通算
3.2	連勝
4	対局記録
4.1	手数
4.2	長考
4.3	珍形
5	1000勝達成棋士
5.1	1000勝達成
5.2	1100勝達成
5.3	1200勝達成
5.4	1300勝達成
5.5	1400勝達成
6	脚注
7	関連項目
8	注釈
9	外部リンク
タイトル
通算記録
記録	棋士	
通算タイトル獲得・棋戦優勝数	趙治勲 	74(2015年11月現在)
グランドスラム(通算で7大タイトルを全て経験)	趙治勲、張栩、井山裕太	
大三冠(棋聖・名人・本因坊同時獲得)	趙治勲、井山裕太	
同一トーナメント戦最多優勝	坂田栄男 	11回(NHK杯)
連続記録
記録	棋士	
同時タイトル保持数 	坂田栄男[1]、井山裕太[2]	7
同時タイトル保持数(七大タイトル中)	井山裕太	7 [3]
同一タイトル戦連続出場	加藤正夫	12期 王座戦、1980年〜1991年)
最長在籍	林海峰	名人リーグに35年連続を含む39期(名人位含む)
最長タイトル保持	加藤正夫	14年6ヶ月[4]
最年少記録
記録	棋士	年齢	棋戦
最年少棋聖	井山裕太	23歳10か月	
最年少名人	井山裕太	20歳4か月	
最年少本因坊	石田芳夫	22歳10ヶ月	
最年少王座	趙治勲	20歳5ヶ月	
最年少天元	井山裕太	22歳6か月	
最年少碁聖	山下敬吾	21歳11ヶ月	
最年少十段	伊田篤史	21歳11か月	
最年少グランドスラム	井山裕太	23歳10か月	
最年少大三冠	井山裕太	24歳4か月	
最年少六冠	井山裕太	23歳10か月	
最年少五冠	井山裕太	23歳5か月	
最年少四冠	井山裕太	23歳2か月	
最年少三冠	井山裕太	23歳1か月	
最年少二冠	井山裕太	22歳10か月	
最年少名人本因坊	井山裕太	24歳4か月	
最年少タイトル
(七大タイトル)	井山裕太	20歳4ヶ月	名人戦
最年少タイトル[注釈 1]
(七大タイトル以外)	井山裕太	16歳4ヶ月	阿含・桐山杯
最年少タイトル挑戦	井山裕太	19歳3か月	名人戦
最年少入段[注釈 2]	趙治勲	11歳9か月	
最年少九段	井山裕太	20歳4か月	
その他記録
賞金・対局料の史上最高総額  井山裕太 1億6461万円
年間の7大タイトル挑戦手合にすべて出場 井山裕太 
最年長タイトル 藤沢秀行 67歳(王座)
最年長リーグ在籍 橋本宇太郎 74歳(本因坊リーグ)
入段からタイトル獲得までの年数最短記録 伊田篤史 6年0か月
九段昇段最短記録 井山裕太  8年10か月
親子タイトルホルダー 父羽根泰正(1990年王座)、息子羽根直樹(棋聖・本因坊などを獲得)
囲碁七大タイトル獲得記録
順位	獲得回数	棋士名
1位	42期	趙治勲*
2位	35期	小林光一*
3位	32期	井山裕太*
4位	31期	加藤正夫*
5位	23期	張栩*
6位タイ	21期	坂田栄男 | 林海峰*
8位	17期	大竹英雄*
9位タイ	14期	藤沢秀行 | 山下敬吾*
表示
*は現役棋士
2016年天元戦終了時点
タイトル連覇記録
タイトル連覇記録
順位	記録者	タイトル	連覇数	獲得年度	備考
1	趙治勲	本因坊	10	1989 - 1998	 
2	高川格	本因坊	9	1952 - 1960	 
3	加藤正夫	王座	8	1982 - 1989	 
3	小林光一	棋聖	8	1990 - 2001	 
5	坂田栄男	本因坊	7	1961 - 1967	 
5	小林光一	名人	7	1988 - 1994	 
7	藤沢秀行	棋聖	6	1977 - 1982	
7	大竹英雄	碁聖	6	1980 - 1985	 
7	小林光一	碁聖	6	1988 - 1993	 
タイトル同時在位
複数のタイトルに同時に在位した棋士(最高獲得時・七大タイトル)
タイトル数	棋士名	タイトル	開始	終了	在位期間	備考
7	井山裕太	棋聖・名人・本因坊
王座・天元・碁聖・十段	2016十段	2016名人	197日	 
6	井山裕太	棋聖・本因坊・王座
天元・碁聖・十段	2012王座	2013十段	156日	
棋聖・名人・本因坊
王座・天元・碁聖	2013名人	2014王座	405日	
棋聖・名人・本因坊
王座・天元・碁聖	2015天元	継続中	509日	
5	張栩	名人・王座・天元・碁聖・十段	2009十段	2009名人	183日	 
4	加藤正夫	本因坊・王座・天元・十段	1979王座	1980十段	159日	 
名人・王座・碁聖・十段	1987碁聖	1988十段	255日	 
趙治勲	棋聖・名人・本因坊・十段	1983棋聖	1983十段	41日	 
小林光一	棋聖・名人・天元・十段	1986棋聖	1986名人	211日	 
3	坂田栄男	名人・本因坊・王座	1963王座	1965名人		
本因坊・王座・十段	1966王座	1967王座		
石田芳夫	名人・本因坊・王座	1974王座	1975名人		 
大竹英雄	名人・碁聖・十段	1980碁聖	1980名人		 
王立誠	棋聖・王座・十段	2001十段	2001王座	204日	 
名誉称号
各タイトルを5連覇または通算10期以上保持した者は、現役引退後または60歳の誕生日を迎えた後に「名誉○○」(○○はタイトル名)を名乗ることが許される。ただし本因坊戦はかつて「名誉本因坊」の称号を用いていたが、1998年以降「○○世本因坊××」(××は棋士の雅号)と呼称することに変更された。本因坊9連覇の高川秀格はその栄誉をたたえ、特例として1964年より、49歳現役で「名誉本因坊」を名乗ることが許された。また趙治勲も本因坊10連覇により、60歳の誕生日を待たずして現役時より「二十五世本因坊」の名乗りを許されている。
名誉称号一覧
名誉称号	該当者
名誉棋聖	藤沢秀行 ・小林光一
名誉名人	趙治勲 ・小林光一
永世本因坊	高川格 (二十二世) ・坂田栄男 (二十三世)
石田芳夫 (二十四世) ・趙治勲 (二十五世)
井山裕太(二十六世)
名誉王座	加藤正夫
名誉天元	林海峰
名誉碁聖	大竹英雄 ・小林光一・井山裕太
名誉十段	
名誉日本棋院選手権者	坂田栄男
名誉NHK杯選手権者	坂田栄男
他棋戦称号
名誉女流本因坊 : 謝依旻
名誉女流名人 : 謝依旻
(2016年時点)
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表 話 編 歴
名誉称号資格者
グランドスラム
七大タイトルを全て一回以上通算で経験する事をグランドスラムと呼び、これを達成したのは趙治勲、張栩、井山裕太の三人(2013年現在)。このうち、井山裕太は七大タイトル全てを同時に保持したことがある(2016年)。後1タイトルで達成するのは林海峰、山下敬吾の2人。
グランドスラム達成者
棋士	棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元
1.	趙治勲	1983	1982	1981	1979	1980	1976	1987
2.	張栩	2010	2009	2003	2006	2004	2003	2008
3.	井山裕太	2013	2011	2012	2012	2009	2012	2011
年は初獲得年。黄色はグランドスラム達成時のタイトル。
大三冠
棋聖・名人・本因坊を同時に保持する事を大三冠と呼び、これを達成したのは趙治勲と井山裕太の二人(2013年現在)。
棋士	棋戦	1回目		2回目			
1.	趙治勲	棋聖	1983			1997	1998	1999
本因坊				1997	1998	
名人			1996	1997	1998	
棋士	棋戦				
2.	井山裕太	棋聖		2014	2015	2016
本因坊		2014	2015	2016
名人	2013	2014	2015	
大三冠獲得時の獲得棋戦
名人・本因坊
タイトル名人と本因坊を同時獲得した棋士。
列1	氏名	年
1	坂田栄男	1963-1964
2	林海峰	1969
3	石田芳夫	1974
4	趙治勲	1981-1982
1996-1998
5	張栩	2004
6	高尾紳路	2006
7	山下敬吾	2011
8	井山裕太	2013-
年間記録
年間最高勝率 坂田栄男 .9375(30勝2敗、1964年)
年間最多勝利 張栩 70勝(14敗、2002年)
年間最多敗戦 山下敬吾 32敗(39勝、2004年)
年間最多対局 羽根直樹 88局(2002年、63勝25敗)
年間最多獲得賞金 井山裕太 1億7212万円(2015年)
通算・連勝
通算
通算最多勝 趙治勲 1400勝 (2012年9月27日現在)
通算最多敗 林海峰 845敗 (2011年4月現在)
通算最多対戦 趙治勲-小林光一 128局、趙65勝-小林63勝(2011年7月現在)
最年少1000勝達成 結城聡 39歳2ヵ月(日本棋院記録は趙治勲の43歳1ヶ月)
最年長1000勝達成 石井邦生 74歳3ヵ月
最短1000勝達成 結城聡 27年1ヶ月(日本棋院記録は趙治勲の31年4ヶ月)
最長1000勝達成 石井邦生 59年10カ月
連勝
一般棋戦最多連勝 29 坂田栄男(1964年)
大手合 33 趙治勲
同一タイトルマッチ 17 坂田栄男(本因坊戦、1963年〜1967年)
御城碁 19 本因坊秀策
対局記録
手数
最長 411手(山部俊郎-星野紀、1950年大手合)
最短(中押) 33手(前田陳爾—春山勇)
最短(作り碁) 121手(武宮正樹—張栩、2003年名人リーグ)
長考
(時間無制限) 星野紀 16時間
(持時間制) 武宮正樹 5時間7分(1988年本因坊戦挑戦手合第5局、対大竹英雄)
珍形
長生 林海峰—小松英樹(1993年本因坊リーグ)、王銘エン―内田修平(2009年世界囲碁選手権富士通杯予選B)
石柱(盤面を一方の石が19個並んで横断) 本田幸子—山本豊(1951年大手合)
1000勝達成棋士
1000勝達成
順	棋士	達成日	達成年齢	入段からの年数	
1	坂田栄男	1984年4月13日	64歳1ヶ月	49年0ヵ月	
2	林海峰	1994年8月4日	52歳2ヶ月	39年3ヵ月	
3	加藤正夫	1996年5月23日	49歳2ヶ月	32年1ヶ月	
4	小林光一	1998年11月28日	46歳2ヶ月	31年7ヶ月	
5	大竹英雄	1999年2月18日	56歳9ヶ月	42年10ヶ月	
6	趙治勲	1999年8月12日	43歳1ヶ月	31年4ヶ月	
7	橋本昌二	2001年9月[5]	66歳4ヶ月	54年4ヶ月	[6]
8	羽根泰正	2001年11月8日	57歳4ヶ月	43年7ヶ月	
9	武宮正樹	2006年2月9日	55歳1ヶ月	40年10ヵ月	
10	本田邦久	2007年5月[5]	61歳10ヵ月	46年4ヵ月	[6]
11	王立誠	2008年2月14日	49歳3ヵ月	35年10ヵ月	
12	山城宏	2008年7月7日	49歳10ヵ月	36年3ヵ月	
13	石田芳夫	2010年5月20日	61歳9ヵ月	47年1ヶ月	
14	結城聡	2011年4月3日	39歳2ヵ月	27年1ヶ月	[6]
15	依田紀基	2011年7月21日	45歳5ヵ月	31年3ヶ月	
16	工藤紀夫	2011年7月21日	71歳2ヵ月	56年6ヶ月	
17	小林覚	2011年12月1日	52歳7ヵ月	37年8ヶ月	
18	片岡聡	2014年2月27日	55歳6ヵ月	41年10ヵ月	
19	王銘琬	2015年6月4日	53歳6ヵ月	38年2ヵ月	
20	淡路修三	2015年9月24日	66歳1ヵ月	47年5ヵ月	
21	石井邦生	2016年2月1日	74歳3ヵ月	59年10カ月	
22	彦坂直人	2016年8月18日	54歳5ヶ月	40年4ヶ月	
1100勝達成
順	棋士	達成日	達成年齢	入段からの年数	
1	林海峰 	1998年3月2日	55歳9ヵ月	42年11ヵ月	
2	加藤正夫	1999年3月18日	52歳0ヵ月	34年11ヵ月	
3	小林光一	2002年2月28日	49歳5ヶ月	34年10ヶ月	
4	趙治勲	2002年4月4日	45歳9ヶ月	34年0ヶ月	
5	大竹英雄	2004年7月22日	62歳2ヶ月	48年3ヶ月	
6	羽根泰正	2008年6月19日	63歳11ヶ月	50年2ヶ月	
1200勝達成
棋士	達成日	達成年齢	入団からの年数	
1	加藤正夫	2002年3月21日	55歳0ヵ月	37年11ヵ月	
2	林海峰	2002年4月18日	59歳11ヵ月	47年0ヵ月	
3	趙治勲	2005年1月27日	48歳7ヵ月	36年9ヵ月	
4	小林光一	2005年9月1日	52歳11ヵ月	38年4ヵ月	
5	羽根泰正	2015年5月21日	70歳10ヵ月	57年1ヶ月	
1300勝達成
棋士	達成日	年齢	入段からの年数	
1	林海峰	2006年10月19日	64歳4ヵ月	51年5ヵ月	
2	趙治勲	2008年6月19日	51歳11ヵ月	40年2ヵ月	
1400勝達成
棋士	達成日	年齢	入段からの年数	
1	趙治勲	2012年9月27日	56歳3ヵ月	44年5ヵ月	
2	林海峰	2015年8月6日	73歳2ヵ月	60年7ヵ月	
[隠す]
表 話 編 歴
1000勝達成棋士
日本棋院	
坂田栄男 | 林海峰 | 加藤正夫 | 小林光一 | 大竹英雄 | 趙治勲 | 羽根泰正 | 武宮正樹 | 王立誠 | 山城宏 | 石田芳夫 | 依田紀基 | 工藤紀夫 | 小林覚 | 片岡聡 | 王銘琬 | 淡路修三 | 石井邦生 | 彦坂直人
関西棋院	
橋本昌二 | 本田邦久 | 結城聡
脚注
^ (1964年、名人・本因坊・日本棋院選手権戦・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯)
^ (2013年、棋聖・本因坊・十段・王座・天元・碁聖・竜星戦)
^ 2016年4月21日~七冠独占
^ 1976年碁聖獲得から1990年王座失冠まで
^ a b 一部記録の紛失がある
^ a b c 関西棋院所属
関連項目
棋戦 (囲碁)
棋士 (囲碁)
囲碁のタイトル在位者一覧
将棋界
注釈
^ 女流棋戦では藤沢里菜が15歳9ヶ月で会津中央病院杯で優勝している
^ 女流特別枠では藤沢里菜が11歳6カ月で入段している

外部リンク
公益財団法人 日本棋院 公式サイト
■
グズミは、囲碁用語のひとつ。「自らアキ三角を作りに行く形」と表現される。
グズミの例
黒1のような手がグズミ。この手は自らアキ三角を作る手であるため悪手に見えるが、逆に白から1に打たれると白が非常に好形になるうえ、Aの断点を狙われる。黒からAと打てば、逆にBの断点を狙える。このような場合は1の地点がお互いの急所となる。
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ケイマ
曖昧さ回避	この項目では、囲碁用語のケイマについて説明しています。将棋の駒については「桂馬」をご覧ください。
ケイマは囲碁において、すでにある石から横に二路、縦に一路(または横に一路、縦に二路)離れた位置関係のことを指す。下図がケイマの位置関係である。 英語では "knight jump" 。将棋の桂馬やチェスのナイトの動きのような位置関係であることから名づけられた。向きは問わない。なお将棋では「桂馬」と漢字で書くが、囲碁ではふつうカタカナで表記する。
上図のケイマより石が一路遠い、下図の黒石ような位置関係は「大ゲイマ(おおげいま)」と称する。下図の白石のような、さらにもう一路遠いものは「大々ゲイマ(だいだいげいま)」である(白の配置)。これに対比させて通常のケイマを「小ゲイマ」と称することもある。
目次 
1	ケイマの活用
2	ケイマを含む形
3	格言
4	関連項目
5	参考文献
ケイマの活用
ケイマは一間トビなどに比べて若干2つの石の連絡に隙を残すが、その分機動性に富む。このため相手の石を追いかけ、攻める際によく用いる(格言「追うはケイマ、逃げるは一間」)。下図の黒△は白石に迫りつつ厳しく攻めかかるケイマの手である。
隅の石からシマる際には、侵入の隙が少ない「小ゲイマジマリ」が多用される。星・小目・目ハズシいずれの着点からも、小ゲイマジマリは最も基本的なシマリ方とされる。下図は小目からの小ゲイマジマリである。
ケイマを含む形
図のように、一間にトンだ石からケイマに打った形を、族に「犬の顔」または「徳利」と称する。もう一路遠くaの大ゲイマに打つのは「馬の顔」といわれる。
黒1は、aの断点を補うツギ方で、「ケイマツギ」と称する。白がaに切ってきても、シチョウで取れる。aやbにツグより働いた形。
格言
ケイマのツキダシ
相手のケイマの間を出ようとする手は、往々にして味消しの悪手となることが多い。例えば白1のツキダシは、黒2と受けられて安心させてしまう。
ケイマにツケコシ
ケイマに対しては、ツケコシが切断などに有効であるという格言。白1とツケコシを打ち、黒2以下隅に封じ込めれば白が厚く、有利となる。
両ケイマ逃すべからず
両者から見てケイマの位置になるような点は、勢力の消長に関して要点となることが多く、逃がさず打つべきであるという格言。例えば下図黒1は左辺の白模様と中央の黒模様の接点となり、白模様を制限しつつ黒模様を大きく拡大する絶対の一手となる。「両ケイ逃すべからず」とも。
関連項目
コスミ
トビ
ハザマ
参考文献
影山利郎『常識やぶり 影山囲碁教室〈その弐〉ケイマ専科・大ゲイマ専科の巻 (新・碁学読本)』独楽書房 1987年
■
瓊韻社(けいいんしゃ)は、囲碁の組織。プロの囲碁棋士が所属して活動を行う。雁金準一を中心に設立され現在にいたる。
1924年の碁界大合同による日本棋院設立の直後に、雁金準一、鈴木為次郎、加藤信、小野田千代太郎、高部道平の5棋士による棋正社が設立された。その後、院社対抗戦などを経て、鈴木、加藤、小野田が日本棋院に復帰し、棋正社は雁金、高部の2名のみとなった。雁金は1941年に独立して瓊韻社を設立した。この時に棋正社からは、雁金の娘婿でもあった渡辺昇吉六段などの門下の棋士や小沢了正五段など、高部以外のほとんどの棋士が瓊韻社に移った。 この1941年から雁金は呉清源と十番碁を打つが、1勝4敗で打ち切りとなった。翌年には渡辺昇吉と日本棋院の藤沢庫之助の十番碁が行われるが、藤沢3連勝で打ち切りとなる。この後、瓊韻社と日本棋院の間の対局は機会は少なく、雁金に対しては日本棋院への復帰運動もあったが、本人は応じずに瓊韻社に留まった。戦後は旧名人戦、棋聖戦などの棋戦に参加した。
雁金の弟子の富田忠夫は、当初から自宅の教室や瓊韻社の勉強会で、日本棋院の院生の指導をしていた。1972年に富田は日本棋院棋士らと「日華親善囲碁の旅」に同行して台湾へ行き、中国囲棋会からの台湾の少年を日本に囲碁留学させたいという希望を受けて、1973年から王銘琬ら5人を門下として迎え、これも日本棋院の棋士として育て上げている。
目次 
1	主な所属棋士
2	関連項目
3	参考文献
4	外部リンク
主な所属棋士
渡辺昇吉(1911年1月10日-1997年3月17日)東京都出身、雁金準一門下。1925年入段。1942年に藤沢庫之助と十番碁。1959年九段。1961年、第2期名人戦第二次予選に出場し、3勝後に大平修三に敗れる。
富田忠夫(1910年12月2日-2002年2月14日)東京都出身、雁金準一門下。学習院大学卒。1941年飛び付き三段、1997年名誉九段。門下に王銘エン、鄭銘瑝、鄭銘琦、郭求真、渋沢真知子など。1994年大倉喜七郎賞受賞。
小玉高竜(1916年10月13日生)東京都出身、雁金準一門下。1935年入段、1997年九段。
宋麗(1965年10月15日生)中国福州出身。中国四段、1997年入社・五段。鄭銘瑝夫人。
関連項目
日本棋院
雁金準一
参考文献
団鬼六『落日の譜 雁金準一物語』筑摩書房 2012年(あとがき)
外部リンク
宋麗五段プロフィール(パンダネット:富田忠夫との写真あり)
宋麗五段プロフィール(同)
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囲碁の形勢判断(いごのけいせいはんだん)とは、囲碁において、対局途中の局面を評価し、盤上の配置やハマの数から、どちらの対局者がどの程度優勢かを判断すること。
局面の将来の進行を予想しながら対局者は着手を決める。多くの場合、その予想たる読みには複数の可能性がある。その読みの中に現れる局面のうち、石取りなどの戦いがない状態を一段落(またはゲーム理論の静かな局面)と称し、その複数の一段落の局面を形勢判断し比較た上で着手を決める。
目次 
1	形勢判断の基本要素
2	石の働き
2.1	愚形と好形
2.2	手割り
3	石の強弱
3.1	利きと攻め
3.2	軽い
3.3	厚み
4	地の比較
4.1	模様と確定地
4.2	目算
4.2.1	序中盤の目算
4.2.2	終盤の目算
4.2.3	サガリサガリ法
4.3	模様と厚みの評価
5	着手の善悪による形勢判断
6	形勢判断に基づく戦略
6.1	形勢による戦略の変更
6.2	勝負手と形作り
7	その他
8	脚注
9	参考文献
10	外部リンク
形勢判断の基本要素
囲碁の形勢判断は、基本的には
石の働き
石の強弱
地の多少
の3要素の評価で行う。
石の働き
愚形と好形
第1図
第1図は殆ど囲碁を知らない黒と有段者の白の仮想の布石である。黒は囲碁を習った手始めに「隅から打つのがよい」と教わったので、黒1 - 7を1箇所に集め集四(またはダンゴ)の愚形を作った。その間に白は白2 - 6と3つの空き隅を占め、白8で1隅のシマリを打った。
この局面が白の大優勢であることは初級者にも分かる。白は働きのある好形を作り、黒は働きのない愚形を作ったためである。

第2図
第2図は初級者同士の仮想の布石である。黒も白も三線から始めて、2回ずつ一間トビを打った。この局面の形勢は黒白同形だから互角で、次に打つ黒が盤面ではコミの分くらい優勢と判断できる。

第3図
続いて黒は右上方面を地にしようと考え、右上隅に打つ前に黒7・9のノゾキを利かせるのが地を増やすのに得策と考えた。

第4図
白は逆に白12・14を利かすのが後の右上隅の戦いの役に立つと考え、それを打ってから左上隅に手を回した。
この局目の形勢は明らかに白がよい。白12・白14のノゾキは右上隅方面の黒模様の消しに役立つだけでなく、空き三角を重ねたような愚形の黒7子の攻めまで期待できる。黒は△のノゾキの2子がダメ打ちになっているのが形勢を損ねた原因である。なおこの局面で白が何目くらい優勢と見るかは棋力・棋風で異なり、プロ棋士が出す数字はアマチュアには必ずしもあてはまらない。互先の対局であれば、アマ高段者なら白大いによしと判断する。
手割り
第1図・第4図の形勢判断は分かりやすいが、プロ棋士の布石に現れる形では石の働きは互角か僅かな差である。そこで黒白同数の石を取り除いて評価の定まっている定石などと比べ、除いた石を戻して善悪を評価する。この手法を手割りと言う。言葉を変えれば手順を変えてみる方法でもある。手割りの方法は様々な工夫で精緻化されて発展し、現代では定石などの変化を碁の原理から分析する手法の総称として手割りという言葉が使われている[1]。

第5図
第5図は第4図から黒白2子ずつ取り除いた形で、この局面は黒白同形で互角である。

第6図
第5図から黒13 - 白16の手順で第4図と同形になる。この手順を見れば、黒13・15が殆ど無価値な悪手だと明らかに分かる。白14・16は壁にくっつける悪手ではあるが、右上隅の地の削減には役に立つ。互角の第5図から黒は価値がないに等しいな2手を打ち、白は少しは役に立つ2手を打ったことになり、白有利と判断される。なお第4図の白12・14は保留する意味もあるが、無駄のない利かしで悪手とは言えない。
石の強弱
利きと攻め
囲碁における石の強弱は、利きの数と確実性で判断される。ある黒石について、その近くに白石が着手されても黒石を補強する必要がなければ、その黒石は強い。逆に近くに白石が着手されると眼を作るとか逃げるなどの補強が必須なら、その黒石は弱い。相手からの確実な利きが多い石は弱く、その利きを利用されて損を招く。この利きを利用して得を図ることを攻めという。

第7図
第7図の△の石は、黒も白も下辺で眼を作る余地はなく、相手から封鎖されると死んでしまう。従って相手が近くに着手して封鎖を狙われれば、脱出しなければならない。つまり封鎖を狙う手が全て利きとなるので、弱い石である。

第8図
黒1が「攻めはケイマ」と呼ばれる手。白2以降は例えばこうなるという見本の手順で、白は眼を作るために隅の黒地を固めたり中央の黒模様を強化せざるを得ない。この形勢は白必敗と判断される。
軽い
石の強弱は利きの確実性でも判断される。利きがあっても手抜きして取られても構わない石なら、利きの確実性が小さいので弱い石ではない。そのような石を軽いという。
第9図
第9図は高目定石の一つで、白1と黒2を交換して一段落とされる。後では利かない恐れがあるので、この白1は早めに打つものとされている。白1の1子はシチョウアタリにでもなれば十分という意味での軽い利かしであり、黒が序中盤に白1の近くに着手しても滅多に逃げない。
厚み
厚みは一般的には外勢の意味で用いられ、カベ(壁)とも言う[2]。第9図の黒が厚みの例である。第7図の隅のシマリは外勢というよりは地模様だが、厚みと同様の効果を持ち、この意味でこのシマリを厚いところとも言う。厚みの効果は通常その高さで判断される。
自分の厚味の近くに相手が着手すれば、その石は弱い石となり、攻めを狙える。しかし眼形が不確かだったり切断の味がある厚みは、相手からの利きが生じて逆に攻められる場合もあり、これを壁攻めと言う。このような弱点のある外勢を薄みと呼ぶこともある。
自分の厚味の近くに着手すると、凝り形という石の働きが悪い形になり、愚形と言われる場合もある。これらを含意した格言が「厚味に近寄るな[3]」である。
地の比較
模様と確定地
隅から辺にかけて、また中央に関して、片方の石が多い場合は地になる可能性が高い。そのような勢力圏を模様と言う[4]。

第10図
第10図は右上隅の小ゲイマジマリから右辺と上辺の星下にヒラいた配置で、鶴翼の陣と言う[5]。通常の対局では珍しい大きい模様なので大模様ともいう。この配置はまだ地ではないが、白が打ち込んできても黒はそれを攻めての利得を期待できるので、「三線より下の範囲は黒地」と概算できる。

第11図
第10図から黒1 - 3を連打した。この黒1は模様を荒らしにくくする手で、模様に芯を入れると言う[6]。第11図となれば殆ど地と考えられるので地模様と言う。この配置なら「五線より下の範囲は地」と概算できる。
第10図にしても第11図にしても概算になるのは、他の石の配置で評価が変わるからである。例えば第11図でも右下隅に白の厚い配置があれば打ち込みで地が荒らされる可能性がある。また他方面に黒の弱い石があれば、白はそれを攻めながら右上方面の模様になだれこめる。

第12図
第12図の右上隅はまだ地模様だが、左下隅の形(星から小ゲイマに打ち、さらに二線にトビおりた形)となれば、アマチュア有段者なら地と判断できる。白がこの中に打っても、黒はその石を殺せるからである。これを確定地と言う。
目算
一般に、自分の地と相手の地を数えて形勢判断することを目算と言う[7]。しかしこれは『日本囲碁規約』から見れば厳密には正しくない。また実際の形勢判断における目算の意味から見ても正しい定義ではない。
1989年4月10日制定の『日本囲碁規約』には
第八条(地)
一方のみの活き石で囲んだ空点を「目」といい、目以外の空点を「駄目」という。
駄目を有する活き石を「セキ石」といい、セキ石以外の活き石の目を「地」という。
とあり、ダメが空いている石の「目」は「地」ではない[8]。

第13図
第13図の右上隅は8目の黒地と見える。しかしダメが空いているので、このまま終局すると「セキ石」となり、地はないことになる。右下隅の黒1とダメを詰めて地になる。白1と打っても同じく黒地になる。
左上隅はキズがあり、白1に黒2の手入れが必要で、7目の黒地と見る[9]。
通常の対局では、ダメ詰めが終わった後に「対局の停止」となり、対局者の双方が合意して「終局」し、そこで活き石・セキ石が確定して地も確定する。この時点で碁は終わっているので形勢判断の必要はなく、一般には整地して双方の地の目数を比較し、勝敗を決定する。
この規約から、対局中の形勢判断の際の目算は「地を数える」のではなく、「終局時の地の大きさを予想して数える」のが厳密には正しい表現になる。実際には囲碁規約を意識したこの冗長な表現が使われず、単に「地を数える」と言う。
序中盤の目算
実際の形勢判断における目算の意味は、序中盤と終盤とで異なる。序中盤の目算とは確定地や地模様の地の大きさの評価である。自分の地と相手の地の大きさの差から、攻めるか守るか、相手の模様を荒らすか消すかなどの戦略・戦術の判断の材料を得る。

第14図
序中盤の目算では、地模様は確定地と見なし、相手からの先手ヨセを全て受けたと想定したの地の大きさを数えて評価する場合が多い。第14図の右上隅の小ゲイマジマリは、右下隅の黒1 - 白10とヨセられると見て、11目の地と概算する。同様に左上隅の大ゲイマジマリは、左下隅の黒1 - 白12のヨセを受けるとして、地を13目と概算する。この概算では大ゲイマジマリのほうが得なように見えるが、大ゲイマジマリの方が黒に手をつけられやすい弱い石なので、その分を割り引いて評価する。
終盤の目算
終盤の目算は終局時点の地の大きさの予想であって、終局までの読みに近い意味でも用いる。主にヨセが行なわれる終盤では、地の損得を考慮して
死活に関する手
両先手ヨセ
先手ヨセ
逆ヨセ
後手ヨセ
の順に着手する場合が多い。1や2が残っている段階では地の計算より読みが問題になるが、その読みの中で予想した将来の局面の評価には目算などの形勢判断を用いる。1と2を終えた後の目算では、以下の考え方を採る場合が多い。
先手ヨセは先手でヨセができる側の権利と考え、先手ヨセが打たれたものとして目算する。ただし先手ヨセをコウ材に使う必要があったり、先手ヨセを打つことが相手を固めて強い石にする場合があるので、先手ヨセを保留することもある。
自分の手番で逆ヨセが打てる場合、最大の逆ヨセと最大の後手ヨセを比較して、逆ヨセ・後手ヨセのどちらを打つか決める。一般に逆ヨセはその目数の2倍の後手ヨセに相当すると考えられるが、ヨセの箇所が限られているとこの計算は必ずしも成り立たない。例えば黒に逆ヨセ2目と後手ヨセ10目と後手ヨセ11目が残されていれば、「黒逆ヨセ2目、白後手ヨセ11目、黒後手ヨセ10目で黒1目得」、「黒後手ヨセ11目、白先手ヨセ2目、白後手ヨセ10目で黒1目損」なので、黒は逆ヨセ2目を選ぶ。この判断に基づいて目算する。
後手ヨセは双方がヨセた場合の中間の形を想定して目算する(「サガリサガリ法」を参照)。
この考え方で、後手2目と先手1目と逆ヨセ1目とがほぼ等価であると分かる。アマチュアの場合、半目勝負やジゴ一でない限り、最悪でも1目の損に過ぎないから、それらの比較は滅多にしない。比較する必要があれば目算では済まず、終局までのヨセを読みきる必要が生じる。
実戦に生じやすい後手1目よりも小さいヨセの例に半コウがある。半コウの大きさは、半コウを取る側に3分の1目の地があるとして計算する。
実際はヨセの過程で死活など石の強弱に関わる問題が発生する場合があるので、終盤の形勢判断も単なる目算では済まない場合が少なくない。
サガリサガリ法
第15図
第15図の上辺の黒地と白地を目算する。黒番なら右辺の黒1 - 3の後手ヨセを打ち、黒地7目と白地6目で黒が1目多くなる。白番なら同様に左辺の白1 - 3の後手ヨセを打ち、黒地6目と白地7目で白が1目多くなる[10]。両者の結果を平均すると、黒地と白地は同じ大きさと考えられる。前章で述べたように両者の中間の形を想定すると下辺となり、黒地7目と白地7目で同じ大きさである。これは上辺の図から下辺の図に至るのに、下辺の黒1と白2のサガリを打ったと考えてよい。このように地の境界に近い石から盤端に向けて黒も白もサガリを打ったと考えれば、双方がヨセた場合の中間の形になることが多い。この目算方法をサガリサガリ法と言う。

第16図
第16図の上辺の黒地と白地を目算する。黒番なら右辺の黒1 - 3の後手ヨセを打った後、サガリサガリ法で白4 - 黒5を打つと見て、黒地8目と白地5目で黒が3目多くなる。白番なら左辺の白1 - 白3の後手ヨセを打ってから、サガリサガリ法で黒4 - 白5を打つとして、黒地5目と白地8目で白が3目多い[11]。この2つの結果を平均すると、黒地と白地は同じ大きさと考えてよい。ここで双方がヨセた形の中間を想定すると下辺の形になり、黒地7目と白地7目で同じ大きさである。これは、上辺の図から下辺の図に至るのに、下辺の黒1 - 2および白3 - 4のサガリを打ったと見なせる。
第14図のシマリの評価も、地の境界に近い三線の石から盤端に向けてサガリサガリ法を適用したのと同じ結果になっている。このようにサガリサガリ法による目算は序中盤の地の概算にも、終盤の後手ヨセの評価にも、ほぼ妥当な値を与える。
模様と厚みの評価
第17図
第17図の右上方面の黒模様は、模様の端と端を×で結んだ範囲の地が見込めるとして概算する。上辺の一・二線の×はサガリサガリ法による。ただしこの形は地模様であって、白が打ち込んで荒らす手がない訳ではない。その場合でも黒には打ち込んできた白を攻めて他で利益を得られる可能性があるので、それを配慮した模様の評価である。
第17図の左下隅は白の小目から生じる定石で、ほぼ互角とされる。従って黒の厚みは白の地と同程度の価値があると考える。サガリサガリ法で白地を概算すると12目なので、黒の厚みの価値も12目程度のはずである。厚みの先端から下辺の端まで斜めに引いた範囲で概算すると、黒の厚みの価値は10目だが、上方へのノビキリの将来性や隅の白への影響力などを勘案して、ほぼ互角と考える。
このように、模様・厚みの評価は定石・布石の評価などの経験則に基づく場合が多い。過去に例のない模様・厚みの評価は、ヨセの場合と同様に黒から打った場合と白から打った場合とを読んで、それぞれの一段落の局面を評価し、その平均を取る場合が多い。両者の局面の差が大きい場合そこへの着手が急がれるので、これは読みの問題に帰着される。
着手の善悪による形勢判断
プロ棋士やアマチュア高段者の場合、序中盤の形勢判断は、それまでの自分の着手と相手の着手との善悪で評価する場合が多い。双方ともに悪手を打たなかった場合を互角とし、実際に打たれた悪手が地に換算して何目くらいの損かを考えて、現在の局面の形勢を判断する。この方が目算などより短時間で済み、棋力が高ければ精度も高いからである。
形勢判断に基づく戦略
形勢による戦略の変更
囲碁の着手は普通どこが最善かを考えて選ぶが、形勢によって以降の戦略を変える場合も少なくない。
一般に優勢の側は局面が単純になるように運んで戦いを避け、劣勢の側は局面が複雑になるように運んで戦いの機会を伺う。ただし序盤でやや不利といった場合には、むしろ手厚く打って相手に弱点が生じるのを待つ戦略(後の先など)を採ることも少なくない。
勝負手と形作り
劣勢な側が形勢の逆転を狙って戦いを仕掛ける着手を勝負手と言う。一般には一段落(または終局)までを読みきって着手を決めるとされるが、複雑で長手数を読む必要がある戦いではプロ棋士でも読みきれない場合がある。優勢の側はそうした見通しの立たない戦いを避け、劣勢の側はその戦いに逆転の可能性があれば積極的にその戦いを挑む。
また必敗の形勢であっても、難解な死活や攻め合いが残されている場合、そこを決着してから投了するほうが棋譜を鑑賞する者に分かりやすい。そこで手段が成立しないことを承知の上で、難解な死活や攻め合いに着手し、相手の的確な応手を見定めて投了する慣習があり、この着手を形作りと言う[12]。アマチュアの場合は形作りに受け損なっての逆転もあり得るので、「形作り」を「最後の勝負手」の意で使う場合もある。
その他
碁聖と称えられる本因坊道策の偉業の一つが手割りの創出である[13]。
絶妙の凌ぎで名高い趙治勲の凌ぎは「壁攻め狙い」と解説されることが少なくない。その著『カベ攻めの極意』の表紙には「モヨウをも攻めるべきと、発想の転換をうながす」と書かれている。
終盤になっても形勢の差が僅かで優劣か判断困難な局面は、どちらが勝っても半目差で終局する場合が多いので、半目勝負と言う。コミの無い対局の場合は持碁か1目差で終局する場合が多いので、ジゴ一と言う。
プロ棋士の場合、形勢の差が僅かでも優劣が逆転する可能性が少ないと判断できる局面がある。そのような局面を優勢な側から見て厚い形勢と言う。
高川格は「全盛時代には、ヨセの入り口から終局までを読みきって半目勝ちを確かめた」という趣旨の話を残されている。
テレビなどで「私は目算はしない」と公言される棋士も少なくない。「ヨセでは得な手を考える方が(目算に)優る」と説明されることもある。趙治勲の言葉に「過激な言い方ですが、形勢判断は必要ありません。そのときどきで盤上の現場をきちんと正しく処理していればそれでいいのです。その場その場の現実をよく観察して、手をヨムことに精を出すこと」がある。
石田芳夫は目算の速さと正確さから「コンピューター」の異名で呼ばれた。
日本では形勢判断で勝ち目がないと出たら潔く投了するのがよいとされている[14]。この投了の目安は目数の差(形勢の開き)ではなく、勝負手が残されているか否かと言われる。
コンピュータ囲碁の苦手なジャンルの一つが形勢判断であるとされる。棋士やアマ強豪でも厚み等の評価には感覚的なところが大きい上、現在コンピュータ囲碁で主に採用されているモンテカルロ法は長手数の読みに難があり、こうした読みなどを踏まえた形勢判断にも必然的に難ができてしまう。
脚注
^ 『囲碁百科辞典』103ページ
^ 『囲碁百科辞典』16ページ
^ 『囲碁百科辞典』158ページ
^ 『囲碁百科辞典』137ページ
^ 『囲碁百科辞典』41ページ
^ 隅の星から両辺の星へ開いた形なら、三々や星下、隅の星からの一間トビなどが模様に芯を入れる手になる。
^ 『囲碁百科辞典』138ページ
^ 本来「目」は「1目勝ち」のように盤上の空点の数助詞、「子」は「2子局」のように碁石の数助詞であるが、「2目の頭」のように「目」と「子」は混同されて同義語化している。「2目の頭」は「2子の頭」が正統である。
^ 死活に絡む手入れの例は隅の板六・バカ八を参照。
^ 双方のヨセの結果の差が2目なので「後手2目のヨセ」と言う。
^ 双方のヨセの結果の差が6目なので「後手6目のヨセ」と言う。
^ 将棋では、囲碁の「形作り」と同様の趣旨の手段に「最後のお願い」という言葉が使われる。
^ 『道策』1ページ
^ 中国などでは「形勢が悪くても最後まで最善を尽くすべき」という考え方もある。
参考文献
呉清源・三堀将・林裕 『道策』 筑摩書房〈日本囲碁体系〉、1975年。
石田芳夫『石田の形勢判断』毎日新聞社、1976年
小林光一『やさしい手割判断法』講談社、1984年
石田芳夫『三段の壁を破るこの手、何目 囲碁・形勢判断が簡単にできる』日本文芸社、1992年
趙治勲 『カベ攻めの極意』 河出書房新社〈新・木谷道場入門5〉、1996年。
小林覚『「手割り」プロの形勢判断法』毎日コミュニケーションズ、2005年。
林裕 『囲碁百科辞典』 金園社、1975年。
外部リンク
囲碁上達ヒント集
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計点制ルール(けいてんせいるーる)は囲碁のルールの一つで、台湾の囲碁ルール研究家応昌期が考案した、従来のルールに合理的な改良を加えたもの。応昌期ルール(応氏ルール)、台湾ルール、SSTルールなどとも呼ばれる。元になっているのはいわゆる中国ルールで、無勝負が生じないこと、判例による判断を不要としてすべて実戦的に解決するなどの工夫が為されている。
目次 
1	制定と採用
2	特徴
2.1	基本的な考え方
2.2	同形反復禁止
2.3	自殺手
2.4	パスと終局
2.5	コミとニギリ
3	参考文献
4	外部リンク
制定と採用
応昌期は1952年に囲碁ルール改良を目指し、1973年に発表、1977年には中国囲棋会で採用された。その後改良を重ね、1988年に完成した。
応自身や応昌期囲棋教育基金はこのルールの普及に努め、基金や台湾棋院で行われる棋戦で採用され、応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦などもこのルールで行われる。またこのルールで無勝負が生じた場合には、対局者それぞれに5万ドルの賞金を出すとしている。欧州囲碁連盟ではこの簡易版が採用されている。
囲碁の国際普及やオリンピック種目化などのために国際統一ルールの制定が囲碁界の課題となっており、そこでは合理性において計点制が優れているが、文化的背景や対局の簡便性について考慮の余地があると考えられている。
特徴
基本的な考え方
勝敗の判定は、中国ルールと同様に、地の大きさと生き石の数で決める。
同形反復禁止
通常のコウ(劫)以外にも、3コウ、循環劫、長生などによる同型反復を禁止しており、日本ルールのように無勝負とならない。
自殺手
同形反復に抵触しない限り、自殺手は禁止されない。 例えば、図で黒aに打つ手は従来ルールでは禁止されるが、計点制では着手可能であり、例えばコウ材として打つことが出来たり、大ナカ小ナカによる攻め合いの結果が変わったりすることがある。
ただし同型反復禁止の制約により、石1個の自殺手は禁止となる。
パスと終局
パスは認められ、双方が連続してパスをした場合に終局となる。
開始時に独自の碁笥を用いて黒白180個ずつの碁石を確認しておき、終局時にこれらの石を盤面の双方の地中に埋めて、残った空点の数で勝敗を判定する。
コミとニギリ
コミは8点(日本ルールの7目半)。先後の決定は、ニギリで当てた方が先手番か後手番を選択できる。
また持ち時間が切れた時に、コミ2目を出して35分延長することが2回まで認められるという運用がされることもある。
参考文献
三堀将「ここがちがう中国ルール」(『圍碁』誌1996年5月号)
外部リンク
中華基督教會燕京書院囲棋學會「應氏圍棋規則」
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二人零和有限確定完全情報ゲーム(ふたり れいわ ゆうげん かくてい かんぜんじょうほう ゲーム)は、ゲーム理論によるゲームの分類のひとつである。チェス・将棋[1]・チェッカー・オセロ・石取りゲーム(ニム)・囲碁・囲連星・連珠・五目並べ・三目並べ(○×ゲーム)・マンカラなど、偶然(運)に左右されないゲームが相当する。
目次 
1	概要
2	解説
2.1	二人
2.2	零和
2.3	有限
2.4	確定
2.5	完全情報
3	二人零和有限確定完全情報ゲームの研究
4	関連項目
5	脚注
6	関連項目
概要
これに分類されるゲームの特徴は、理論上は完全な先読みが可能であり、双方のプレーヤーが最善手を打てば、必ず先手必勝か後手必勝か引き分けかが決まるという点である。実際には選択肢が多くなると完全な先読みを人間が行う事は困難であるため、ゲームとして成立する。
双方のプレーヤーが最善手を打った場合の勝敗が判明しているゲームには以下のものがある。
先手必勝
初期ルールの五目並べ[2]
後手必勝
6×6のオセロ[3]、どうぶつしょうぎ[4]
引き分け
三目並べ[5]、チェッカー[6]
解説
「二人零和有限確定完全情報ゲーム」という言葉は以下のように分解できる。
二人
ゲームを行うプレーヤーが二人のゲーム。
ゲーム理論でいうプレーヤーとはゲームを行う際にゲームの着手を決定する、意思決定する主体を指す。コンピュータであっても良く、また、最終的に意思決定が一つに定まるのであれば、二人以上のチームであっても良い。
ダイヤモンドゲーム、麻雀など、三人以上のプレーヤーが対戦するゲームは含まれない。また、ポーカー等の各種カードゲームの多くや、モノポリーや人生ゲームなど一部のボードゲームのように、プレーヤーの数が可変で二人の場合もあり得るゲームについても含めないのが一般的である。
三人以上のプレーヤーの対戦では、例えばプレーヤーをアリス、ボブ、キャロル、とした時、アリスの手がアリスにとって有利な手だとしても、ボブには助けとなり、キャロルには損害となることがありえるが、このとき、状況としてボブがアリスにとって最大の敵で、キャロルはむしろ潜在的な同盟者というようなことも可能性としてはあり得るため、単純にアリスの手がアリスにとって有利な手だから良いとはいえない。つまり、誰にとって不利な行動をとる事が、自分にとって最も有利な行動となるのかという、自分の直接の利害以外の要素を考える必要があるため、簡単に自分の打つ手を確定することができず、コンピューターなどで完全な先読みを行うことは難しい。
零和
ゲーム上、プレーしている全プレーヤーの利得の合計が常にゼロ、または個々のプレーヤーの指す手の組み合わせに対する利得の合計が全て一定の数値(零和)となるゲーム。利得とはプレーヤーがゲーム終了時(あるいはターンの終了時)に獲得する状況に対する評価である。
全てのプレーヤーがゲーム中に指しうる手の組み合わせを全て考えることができるとき、全ての手の組み合わせに対して各プレーヤーがそれぞれの状況に対して評価値を定めることにより利得表を作ることができる。例えば、ルーレットのようなカジノで行うゲームでは獲得金額を利得として考えることができ、将棋やチェスなどのゲームでは勝利を1、引き分けを0、敗北を-1のように状態に数字をつけて考えることができる。利得表の合計が常にゼロのゲームでは、相手にとっての損がそのまま自分にとっての得になる。また、各状況に対する各プレーヤーの利得の合計が常に一定の数値となるゲームでは、合計を0とする利得表に変換することができるので零和ゲームとして考えることができる。
ルーレットのようなカジノで行うゲームでは、各プレーヤーの利得の合計は必ずしも0あるいは一定の数値になるとは言えないため、零和のゲームとは言えない[7]。
将棋やチェスのような二人ゲームで、終了時の状態が、あるプレーヤーからみた場合、勝利、引き分け、敗北となるゲームについては、可能なすべての指し手の組み合わせに対して、プレーヤー毎に勝利を1、引き分けを0、敗北を-1と点を付けることができる場合、各手の組み合わせについて考えると、一方のプレーヤーの勝利の場合、そのプレーヤーの利得が1で相手の利得は-1となるため、その手の組み合わせの利得の合計は0となる。引き分けとなる手の組み合わせの場合は両方のプレーヤーの利得が0となるため、やはりその組み合わせの利得も合計は0となる。結果として、ゲームの利得表の合計は常に0となることが知られている。ただし実戦上ではまず現れることのない極めて稀なケースではあるが、将棋には現行ルール上に不備があり、勝利、引き分け、敗北のいずれとも決定できない合法的な局面が存在することが詰将棋の最後の審判 (詰将棋)によって示されている[8]。
零和でないゲームは、囚人のジレンマのように均衡点が最適点でなかったり、チキンゲームのように最適点が相手の行動に依存するゲームがあったりと、零和のゲームに比べて一般に複雑であり、コンピューターなどで先読みを行うことは難しいことが多い。
有限
そのゲームにおける各プレーヤーの可能な手の組み合わせの総数が有限であるゲーム。一般に各種ボードゲームやカードゲームはゲームの途中の状態が理論上有限であるため、ある状態から別の状態に変わり、そこからまた元の状態に戻るといった反復が無限に繰り返されない限り有限のゲームとなる。
オセロでは、ゲームの特性上 8 × 8 − 4(初期配置)の60手しかなく、ゲーム研究上有限である。ただし組み合わせ総数は、膨大であり現時点ではコンピュータで全ては解析されていない。
囲碁では日本囲碁規約の規定上は三劫以上の多元劫、長生、循環劫などの状態になった場合、対局者が合意しないと勝負は無限に継続される[9]ため、厳密に言えば有限なゲームではないが、実際にはほぼ有り得ないことであり、ゲーム研究では有限として研究されている。
将棋やチェスに関しては、同一の状態が反復される千日手(チェスでは「スリーフォールド・レピティション」)があり、将棋でもチェスでも反復回数がルール上の規定数に達すると引き分けとなって終了するか、あるいは一方が手を変えなければならない規定があるため有限性は保たれる[10]。将棋の持将棋でも両対局者の確認と承諾を必要としているため合意が形成されない場合、対局が非現実的な長さに継続することもありうるが理論上は有限性が保証されている。また前述の最後の審判 (詰将棋)は千日手の規定の不備をついた形になっている。
この節における以上の議論は「アナログとディジタル」の語義通りの意味でのディジタルなゲームについてのものである。(近年良く言われる「アナログゲーム」ではなく)語義通りの意味でアナログであるゲーム(たとえばボードゲームの「ハープーン」は、図上に円を描いて判定するなど、ディジタルではない)は有限ではない。コンピュータゲームで浮動小数点数を使用しているといった場合は、浮動小数点数を真の実数とみなせば有限ではないが、多くのゲームで組合せ爆発による大きな空間であっても有限として扱っている以上、通常の浮動小数点数であれば有限となる。一方でディジタルであっても、大きさに制限の無い真の整数を扱っている場合は無限になり得る(なお、そのようなコンピュータゲームのプログラムは、理論上、メモリ不足による実行時エラーを起こす可能性が絶対に存在するものとなる)。
有限でないゲームは1つ1つの手の組み合わせを探索しきれず、完全な先読みができない。
確定
プレーヤーの着手以外にゲームに影響を与える偶然の要素が入り込まないという意味。軍人将棋、海戦ゲームなどは初期配置等を含めプレイヤーの意思以外の要素が働かないので確定ゲームである。
ポーカーなどのカードゲームの一部や麻雀のように、ランダムに積み上げられた山から何かを引くようなゲーム、あるいはバックギャモンなどのサイコロでランダムにコマを進める双六系のゲームは、不確定ゲームに分類される。人生ゲームもルーレットで確率要素が介在するので不確定ゲームである。
完全情報
「完全情報ゲーム」も参照
各プレイヤーが自分の手番において、これまでの各プレイヤーの行った選択(あるいは意思決定)について全ての情報を知ることができるゲーム。
将棋やチェス、囲碁、オセロなど多くのボードゲームでは、各プレーヤーが他のプレーヤーの状況を常に把握でき、また、どのような手を指したのかも明確にわかるため完全情報ゲームといえる。普通の双六も偶然の要素は含むものの、完全情報ゲームである。
麻雀やポーカー等のカードゲームの多くでは、各プレーヤーの手牌や手札を他のプレーヤーが見ることができず、他のプレーヤーがどのような状況でその牌やカードを切ったのかを知ることができないため不完全情報ゲームとなる。 じゃんけんのように各プレーヤーの手が同時に指されるゲームでは、自分の手を決定する際に、相手の手を見てから選択することができない。また海戦ゲーム、軍人将棋などは偶然の要素こそないものの、相手の手を不完全にしか把握できず完全な先読みができないため、不完全情報ゲームに分類される。
完全情報ゲームでは、ゲーム終了時の状況から、その状態となる一つ前の状態を考えることができ、そこからさらに1つ前の状態を、さらに1つ前と考えることにより、ゲーム上有利な状況を探り、あるいは不利な状態を避けることができるが、不完全情報ゲームではその状態の1つ前の他のプレーヤーの状態がわからないためこのような推論を行うことができない。
二人零和有限確定完全情報ゲームの研究
ゲームの理論の中で二人零和有限確定完全情報ゲームは、最も単純なゲームといえ、ゲーム理論の研究の最初期から研究されてきた。現在では研究の中心はゲームの性質についての研究から、人工知能を用いた具体的なゲームにおける戦略の研究にその中心が移っている。二人零和有限確定完全情報ゲームの先読みは人工知能の分野で早くから研究されてきた。ミニマックス法を改良したα-β法を基本とするアルゴリズムが主流である。
関連項目
ランチェスターの法則#第2法則
脚注
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^ 将棋のルールは現在の日本将棋連盟の対局規定に基づく。以下、将棋においてはこれに基づいたものについて述べるものとする。
^ 1899年、黒岩涙香が「萬朝報」紙に必勝法を掲載した。連珠#歴史も参照。
^ 1994年、イギリスの研究者ファインシュタインが証明。参照:“Perfect play in 6x6 Othello from two alternative starting positions”. 2008年6月1日閲覧。
^ 田中, 哲朗 (2009), “「どうぶつしょうぎ」の完全解析”, 情報処理学会研究報告. GI, [ゲーム情報学] 2009-GI-22 (3): 1-8.
^ 三目並べ#戦法のコツ参照。
^ 2007年、アルバータ大学の研究チームによって発表された。参照:Project - Chinook - World Man-Machine Checkers Champion(同研究チームのサイト)およびCheckers Is Solved -- Schaeffer et al. 317 (5844): 1518 -- Science(サイエンス誌)。
^ プレーヤーとして胴元も含めるとこれらのゲームでも零和となるものが多い。ただし、カリビアンスタッドポーカーのようなジャックポットのあるゲーム等では非零和となるものがある。
^ 可能な手の組み合わせの総数が有限でない場合、単純に0の加算を続けるからといって合計を0と判断できない場合があるが、多くの場合は0であると考えてよい。
^ 日本囲碁規約参照。第12条の「無勝負」において、両対局者の合意により無勝負となるとある。
^ 実はチェスでは千日手になっても、いずれかの対局者が申し立てをしない限りゲームは続くため、厳密には有限ではない。ただし現実には手を変えると不利になる方が申し立てをして引き分けにするので、実質的には有限と見てよい。
関連項目
ゲーム理論
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消し(けし)は囲碁用語の一つで、打ち込みと並んで相手の地を削減する代表的な手法である。
打ち込みが相手の模様を深く荒らして地を削減するのに対して、消しは相手の模様に浅く臨んで地の盛り上がりを制限する。一般に4線を主体とした模様には打ち込みが、3線を主体とした模様には消しが有効である。
消しでは深入りは禁物で、攻めの対象にならないように形を作る軽いサバキが求められる。
消しの実例
この図で、白が他の点に打ち、黒にaあたりに打たれると上辺の模様が大きく盛り上がり、侵入は難しくなる。かといって黒模様深く打ち込むのは危険が伴う。そこで白1に肩ツキし、以下白5などまでと軽く逃げれば、この一団はそう厳しい攻めを受けない。これにより、上辺にできそうだった黒陣を大きく削減することができる。

下辺の黒模様を消すため、白1あたりに臨むのが適切。消しのラインとしては、敵模様の両端の石(黒▲)を結ぶライン上あたりが多くの場合適当とされる。下辺に深く打ち込むのはシノギが難しい。またある程度囲わせても、aやbなどからヨセる手が残っているので、そう大きくならないという判断である。
参考図書
韓国棋院編『打ち込みと消しの基本 (棋苑囲碁ブックス)』2006年
『早わかり模様小事典―打込みと消しのテクニック』日本棋院 1982年
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ゲタは、囲碁において相手の石を取る手筋の一つ。下図黒1に打つ手が「ゲタ」である。既着の2子ずつの黒石を鼻緒、白石を足に見立て、引っかけるようにして取ることからこの名がついたといわれる。

概要
黒を切断している白の1子を取る場合、aやbのシチョウでも取ることができるが、対隅にシチョウアタリを打たれる可能性がある。これに対し黒1に打てば、aと逃げてもcに抑え、bとさらに逃げてもdで取れるので万全である。その代わり外からcやdとノゾキを利かされることにはなる。ゲタは石を取る際の基本手筋であり、バリエーションも多いのできちんと覚える必要がある。
ゲタのいろいろ
図のような場合は、黒1またはaに打ってもゲタとなり、逃げられない。

白が2子でも、黒1に打てば逃げられない。一回り大きいので「アシダ」と呼ぶこともある。
図の場合は黒1のケイマガケで3子を捕獲可能。aやbのカケでは脱出されてしまうことに注意。

黒のハネツギに白が手を抜いた形。黒5のカケで3子が逃げられない。
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玄玄碁経(げんげんごきょう、繁体字: 玄玄棋經; 簡体字: 玄玄棋经)は、囲碁についての、中国の古典的な棋書。南宋時代に著わされ、元代に再編されて現在まで残っている。現存する棋書としては『忘憂清楽集』に次いで古いものとされる。詰碁や手筋などの問題が多数収録されており、日本でも江戸時代から現在に至るまで囲碁の勉強に活用されている。『玄玄集』、『玄々碁経』と記されることもある。
目次 
1	成り立ち
2	内容
2.1	序文
2.2	序の部
2.3	変の部
2.4	勢の部
3	出版物
4	参考文献
5	関連項目
6	注
7	外部リンク
成り立ち
南宋代の終り頃、廬陵の生まれで当時の強者であった厳徳甫と晏天章が共同で編纂し、これを元の至正7年(1347年)、学者である虞集が再編して出版した。元々は「玄玄経」の題だったが、虞が「玄玄棋経」とした。この名は老子の「玄之又玄衆妙之門」からとられたもの。後に明代の『永楽大典』、清代の『四庫全書』にも収められた。原本とされるものは現在は残っていない。日本では17世紀寛永年間に『玄玄碁経』として出版された。
内容
「序の部」「変の部」「勢の部」の三部構成。
序文
虞集、晏天章、欧陽立による序が付されている。虞集の文では、囲碁の起源は聖帝堯、舜の発明によるとされ、元の文宗に問われて囲碁を薦めたこと、『玄玄経』の成り立ちや囲碁の陰陽道上の意味などついて述べられている。
序の部
囲碁論を集めており、班固の作『奕旨』、馬融『囲棋賦』、柳宗元『序棋』、皮日休『原奕』、呂公『悟棋歌』『四仙子園序』、張擬「『碁経』十三篇」、劉仲甫『碁法四篇』(『棋訣四篇』)、王積薪『囲碁十訣』などが含まれている。
「『碁経[1]』十三篇」は『忘憂清楽集』にも収録されているもの。中で囲碁の「品格」を9段階に分けて述べており、これが現在の日本棋院などのプロ棋士の初段から九段までの免状の文面として使われている。
「碁法四篇」には兵法に擬した記述も現われており、『孫子』などの影響が窺われる。
劉仲甫は宋代の代表的な棋士とされ、囲碁の技量をもって宮中に仕え、当時無敵を誇った。
変の部
定石や布石について、及び実戦譜が収められている。ただし当時の囲碁は、あらかじめ黒白2子ずつを隅の星に置いてから打ち始めるもので、また布石理論のその後の進歩により、現代ではあまり参考とはならないともされている。
勢の部
詰碁や手筋の問題、珍瓏、376題が集められている。この中には「忘憂清楽集」にある題材も含んでいる。これらは現代において知られている手筋をほとんど網羅しているとも言われ、当時の囲碁のレベルの高さを物語っている。以後の棋書にも大きな影響を与えた。
また各題の一つ一つに、「楚漢争鋒」「王質遇仙」といった歴史故事にちなんだ表題が付けられている。
出版物
日本では、以下の出版物がある。
橋本宇太郎編『玄々碁経新定本(現代囲碁全書)』誠文堂新光社 1935年
橋本昌二『名作詰碁辞典 玄玄碁経と発陽論 』誠文堂新光社 1976年
呉清源編『玄玄碁経集(1)(2)』平凡社(東洋文庫) 1980年
橋本宇太郎編『玄玄碁経』山海堂 1980年
橋本宇太郎編『玄玄碁経 囲碁古典シリーズ』山海堂 1997年(1980年の再刊)
橋本宇太郎編『玄玄碁経—詰碁の古典』山海堂 2004年(1997年の改訂)
「序の部」から「序」「碁経十三編」「碁訣」、「変の部」、「勢の部」を掲載。
高木祥一編『玄々碁経(上)(下)』教育社 1989年(1995年再刊)
「勢の部」から140題を抜粋して解説したもの。中国文学者市川宏による表題の解説を付記。
二口外義編『玄玄碁経入門』山海堂 1996年
参考文献
中野謙二『囲碁中国四千年の知恵』創土社 2002年
関連項目
詰碁
囲碁の歴史
注
^ Wikisource reference 張擬. 棋經. - ウィキソース.
外部リンク
玄玄碁経(塚本恵一)
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『現代囲碁大系』(げんだいいごたいけい)は、 講談社から1980年から1984年にかけて刊行された、呉清源、高川格、坂田栄男、藤沢秀行、林海峰、大竹英雄、石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹、趙治勲、小林光一ら、現代囲碁を代表する棋士たちの打碁全集。全47巻、別巻1。編集主幹は林裕。
古典棋士たちについては日本囲碁大系が刊行されている。
内容
明治・大正名棋家集1 本因坊秀哉・小岸壮二・中川亀三郎・広瀬平治郎・岩佐銈(1980年)
明治・大正名棋家集2 雁金準一・高部道平・野沢竹朝・井上因石・稲垣兼太郎(1980年)
昭和名棋士集1 鈴木為次郎・瀬越憲作・久保松勝喜代・加藤信・小野田千代太郎・光原伊太郎・細川千仞・向井一男・高橋重行・田中不二男・伊予本桃市(1981年)
昭和名棋士集2 福田正義・林有太郎・長谷川章・篠原正美・村島誼紀・鍋島一郎・染谷一雄・中村勇太郎・渡辺昇吉 (1981年)
岩本薫(1981年)
橋本宇太郎 上(1980年)
橋本宇太郎 下(1980年)
木谷實 上(1981年)
木谷實 下(1981年)
前田陳爾・宮下秀洋(1982年)
呉清源 上(1980年)
呉清源 下(1980年)
関山利一・半田道玄(1981年)
島村俊廣(1981年)
瀬川良雄・炭野恒廣・久井敬史・橋本誼・石井邦生(1984年)
鯛中新・鈴木越雄・窪内秀知・宮本直毅・本田邦久(1982年)
酒井通温・岩田達明・羽根泰正(1982年)
高川格 上(1981年)
高川格 下(1981年)
藤沢朋斎 上(1980年)
藤沢朋斎 下(1980年)
坂田栄男 上(1980年)
坂田栄男 下(1980年)
杉内雅男(1981年)
梶原武雄(1984年)
藤沢秀行 上(1980年)
藤沢秀行 下(1980年)
山部俊郎(1982年)
曲励起・加納嘉徳・榊原章二・加田克司(1981年)
大平修三(1983年)
橋本昌二(1981年)
工藤紀夫・高木祥一(1982年)
林海峯 上(1980年)
林海峯 下(1980年)
大竹英雄 上(1980年)
大竹英雄 下(1980年)
石田芳夫 上(1980年)
石田芳夫 下(1980年)
加藤正夫 上(1980年)
加藤正夫 下(1980年)
武宮正樹(1983年)
小林光一(1984年)
趙治勲(1983年)
日本棋院精選集(1982年)
関西棋院精選集(1981年)
女流珠玉選1(1983年)
女流珠玉選2(1983年)
別巻 現代囲碁史概説・現代囲碁史年表(1984年)
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碁石(ごいし)は、囲碁、連珠に使用する用具で、黒・白2色の円盤形の物体である。黒白2色で一揃いとなり、碁笥(ごけ)ないし碁器(ごき)と呼ばれる容器に入れておく。囲碁を行う上では単に「石」と呼んだりする(※当項目でも以後は“石”と表記する)。
ゲームを行う上では黒181個、白180個を用意する[1](ただし、この個数にルール上の意味はなく、対局中に不足した場合はアゲハマを同数交換したり、余所から持ってくるなどの形で適宜補充する)。連珠では「珠」と呼び、黒113個、白112個を用意する[2]が、実際には60個程度ずつで差し支えない。
目次 
1	形態
2	碁石の歴史
3	碁石の素材
4	碁笥
4.1	碁笥の呼称問題
5	グリーン碁石
6	子
7	脚注・出典
8	関連項目
形態
石の大きさは白石が直径21.9mm(7分2厘)、黒石が直径22.2mm(7分3厘)。黒石のほうが若干大きくなっているのは、白が膨張色でやや大きく見えるためで、このように若干の差をつけることにより、人間の目にはほぼ同じ大きさであるように見える。厚さは6mm - 14mm程度まである。厚みは号数で表され、25号でおよそ7mm、40号でおよそ11mmで、一般に、厚いものほど打った時の音が響き、高級品とされるが、打ちづらくなってくる。60号近いものも存在するが、34号以上は十分高級である。9mm前後(32 - 34号)のものが持ちやすく、最も多く用いられている。
「石」と呼ばれるが素材は必ずしも石材のみが用いられてはいない(後述#碁石の歴史を参照)。黒石は那智黒、白石は碁石蛤の半化石品が最高級とされる。蛤の白石には「縞」という生長線が見られ、細かいものほど耐久性が高く、「雪」と表現され、比較的目が粗いものを「月」と呼んで区別する。現在販売されているグレードは雪印、月印、実用とあり、最も縞模様の細かい最高級の雪印、それに次ぐ月印、縞模様があまり細かくない実用となっている。ほかに、生産段階でわずかな傷などがあったものを組み合わせた徳用というものもある。練習用には硬質ガラス製のものなどが使用される。石は使用によって破損し、小さなものをホツ、周辺の欠けたものをカケという。碁器の中の石をかき混ぜて音を立てる行為はマナー違反とされている。
碁石の歴史

碁笥に入れられた碁石
古くは『風土記』(733年頃成立)に碁石に関する記述が見られ、『常陸国風土記』に鹿島のハマグリの碁石が名産として記述されている。また『出雲国風土記』に、島根県の「玉結浜」の記載があり、この海岸からは碁石に適した石が採れたという。奈良県の藤原京で発掘された碁石は丸い自然石で、材質は黒石が黒色頁岩、白石が砂岩。7世紀末 - 8世紀始めに使用されていたと推定される(週間碁)。自然石の碁石は江戸期まで使用された。本因坊道策が幼い頃使ったという碁盤と自然石の碁石が現存している。
正倉院に所蔵された聖武天皇愛用の碁石は紅牙撥鏤碁子(こうげばちるのきし)と名付けられ、直径1.6cm 厚さ0.8cm。象牙を染めて花鳥の文様を彫り付けたものであり、色は緑と紅色である。収蔵品の台帳である「東大寺献物帳」(国家珍宝帳)によると百済の義慈王(在位641年 - 660年)から藤原鎌足あてに贈られたものであるという。600枚が納められたと記載されているが、現存するのは252枚である。『源氏物語絵巻』では碁石は黒と白のものが使用されていることが分かる。
現在は黒は黒色の石を用い、那智黒石(三重県熊野市で産する黒色頁岩または粘板岩)が名品とされる。白はハマグリの貝殻を型抜きして磨いたものである。碁石の材料となるハマグリの代表的な産地は古くは鹿島海岸や志摩の答志島、淡路島、鎌倉海岸、三河などであった。鹿島のハマグリは殻が薄く、明治期の落語の速記本に「せんべいの生みたく反っくりけえった石」と描写されるように、古い碁石には貝殻の曲線どおり、薄くて中央が凹んだものがある。その後、文久年間に宮崎県日向市付近の日向灘沿岸で貝が採取されるようになり、明治中期には他の産地の衰退と共に日向市のお倉が浜で採れるスワブテ蛤[3]が市場を独占し上物として珍重された。現在では取り尽くされてほとんど枯渇してしまっている。
現在一般に出回っているものはメキシコ産である。白石と黒石は価格が違い、ハマグリ製の白石が非常に高価で、業者によっては黒石は「那智黒石付き」と、白石のおまけ扱いにしている。高級品は貝殻の層(縞のように見える)が目立たず、時間がたっても層がはがれたり変色したりしない。
ハマグリの碁石は庶民が気軽に買えるものではなく、明治期には陶器や竹製の安物の碁石が存在した。大正時代にガラスの碁石が試作されたが、当初は硬化ガラスではなく普通のガラスだったので、脆く割れやすかった。その後プラスチックや硬質ガラス製の製品が出回り、安価な用具の大量生産が囲碁の普及に果たした役割は大きいと言える。近年では持ち運び用のマグネット製のものもある。メノウ製の高級品もある。
中国では古代には木で碁石を作ったらしく、中国呉の時代(222年 - 280年)に書かれた『博奕論』(韋曜)に「枯棊三百」 と記されている。「枯棊」とは、木でできた碁石のことを指し、日本の寛永年間(1624年 - 1644年)の『玄玄棊經俚諺鈔』という解説本には、「碁石は元と木を似て造る、故に枯棊と云う」と注記している。また碁石は300個が定数であったことも記されている。時代が下ると、高級な碁石は「玉(ぎょく)」と呼ばれる一種の宝石から作られた。
中国唐代の『杜陽雑編』という書物に、宣宗帝年号大中年間(847年 - 860年)に日本一の碁の名手である日本の王子が来朝し、中国一の名手と対戦する逸話[4]の記載がある。日本の王子は日本には冷暖玉という宝石の碁石があることを物語り、「本國の東に集真島有 島の上に凝霞臺とて臺上に手譚池あり 池中に玉子を出す 製度によらされども自然に黒白明分有 冬ハ暖く夏は冷也 故に冷暖玉とぞにいふ 日本の王子入唐して此石を冷暖玉として唐朝へ進上せらると載たり」と記されている。 玉の碁石は割れやすく、日本のように音を立てて盤に打ち付けるということはなかった。中には石一個が銀貨二枚に相当するとされるほど高価なものもあったが、かつての名品の多くが、碁は退廃的として攻撃された文化大革命時代に収集家から奪われるなどして散逸してしまった。
碁石の素材
現在は以下のような素材で作られた碁石が存在する。
蛤/那智黒石
瑪瑙碁石(中国産)
云子碁石(中国碁石)(中国産・大理石製、黒石は光を透過させると緑色に見える特徴がある)
硬質ガラス碁石(日本産/韓国産)
ユリア樹脂製碁石
プラスチック碁石
プラスチック重量石(通常のプラスチックより重く、打ち味が比較的良いとされる)
マグネット碁石
碁笥
碁笥(ごけ)とは、碁石を入れる容器。碁器(ごき)とも呼ばれる。白石黒石の2個で1組となっている。材質は最高級品は桑(特に御蔵島産の「島桑」が珍重される)、次いで柿、紫檀、黒檀。一般的に用いられているものは欅、花梨、桜、楠、ブビンガ、栗、棗、合成樹脂などがある。表面は木地を出すことが多いが、凝ったものには蒔絵や鎌倉彫を施したものも見受けられる。古くは合子(ごうす)と呼ばれ、正倉院には撥鏤棊子とセットで渡来した精緻な美術品である「銀平脱合子」が収蔵されている。江戸時代には筒型に近い本因坊型と、丸みのある安井型があった。現代で使われているのは安井型に近いものが多い。計点制ルールでは、内部が蜂の巣状で石数180個が確認しやすい独特の碁笥を用いる。
なお、碁笥には蓋があり、対局中にアゲハマを入れておくのに用いられる。
碁笥の呼称問題
碁笥の素材については上記のほかにも色々な種類の木が用いられるが、外国から輸入した木材を木目や質感が似ていることから「新○○」と称していることが多く、混乱を招いている。例えば、輸入木材であるマホガニーは「新サクラ」、棗は「新ケヤキ」、ケンパスを「新カリン」などと銘打って販売されていることが多い。しかし、木目や質感が似ているからと言って、本来の名前を無視してサクラやケヤキの名を冠するのはどうなのかという議論が近年ネット上で見受けられるようになった。碁盤に関しては「新カヤ」はスプルース材、「新桂」はアガチス材という輸入材であることが知られるようになってきたが、碁笥に関しては碁盤ほどではなく、素材を輸入材と知らずに買うビギナーも多い。この問題に関して良心的な店では新サクラ等の呼称を使わずマホガニー製、棗製と本来の名称で呼ぶ店もある。
グリーン碁石
通常の碁石は白と黒の2色を用いるが、目に優しいとされる緑系の色を用いたグリーン碁石も少数ながら使用されている。これは作家の夏樹静子が発案し広めたもので、黒の代わりに濃い緑を、白の代わりに薄い緑を用いている。素材は硬質ガラスで、厚さは使いやすく9mmで作られている。普通の白黒の碁石に比べて値段は高い。日本棋院の一般対局室の一部で使用されている。
子
碁石は一般には何個と数えるが、囲碁用語としての助数詞は「子(もく)」である。しかしながら、囲碁用語特有の読み方のため、「もく」と読めずに本来は誤読の「子(し)」が広まっている。一方で、碁石を指すのに「目(もく)」を当て字として使った例もある。置き碁というハンデ戦で下手が2つ石を置いて対局することを2子局と呼ぶ。
脚注・出典
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^ 囲碁の盤は19路で19×19=361個の石が置ける。黒181個、白180個で盤を埋め尽くすことになる。
^ 連珠の盤は15路で15×15=225個の石が置ける。黒113個、白112個で盤を埋め尽くすことになる。
^ 宮崎県 (2011年7月25日). “雅趣・伝統の美”. 2012年5月28日閲覧。
^ この逸話の概要は以下のようなものである。「遣唐使として皇帝と会見した日本の王子が、日本一の碁の名手を名乗り『国の名誉を賭け、唐の名手と対戦したい』と碁の勝負を申し入れた。そこで皇帝は碁の国手といわれた大臣の顧師言を呼び出し、日本の王子と対局させた。双方の実力は互角で序盤から互いに譲らぬ激闘となったが、御前試合で君命を辱めることを恐れた顧師言が汗を振り絞った思考の末、三十二手目に死に物狂いの名手を放ち、それを見た日本の王子は驚嘆し、遂に兜を脱いだ。対局の後で王子は外使の接受担当の鴻臚卿に『顧先生は貴国で何番目の名人なのか』と質問し、鴻臚卿は『三番目であります』と返答した。実際は顧師言は国一番の名手だったのだが、日本の名人と対等勝負だったので、唐の体面を考慮して嘘をついたのだった。日本の王子は不服顔で『唐で一番の名手と対局したい』と言った。鴻臚卿は動ぜず『第三を破って第二と対局し、第二を破って第一と対局できるのです。なぜにいきなり第一と対局できましょう』と答えた。日本の王子は碁盤に蓋をして『小国の第一は、ついに大国の第三に及ばぬのか』と嘆息した」 この対局の棋譜は記録され、現代に伝わっている。
関連項目
	ウィキメディア・コモンズには、碁石に関連するメディアがあります。
囲碁
連珠
■
コウ(こう、劫)は囲碁のルールの1つで、お互いが交互に相手の石を取り、無限に続きうる形。実際には下記のようなルールによって、無限反復は禁止されている。「劫」という語は本来仏教における非常に長い時間を指す。
目次 
1	解説
2	死活をめぐるコウ
3	攻め合いにおけるコウ
4	コウのいろいろ
4.1	ヨセコウ
4.2	両コウ
4.3	三コウ
4.4	二段コウ
4.5	三段コウ
4.6	万年コウ
4.7	循環コウ
5	その他のコウをめぐる用語
6	コウに関する格言
7	コウをめぐる事件・エピソード
8	出典
9	参考図書
10	関連項目
解説
黒が白1子をアタリにしており、次に黒がaの地点に打てば白石を取れる。
しかしその直後、今度は黒1子がアタリとなっており、白がbの地点に打てば黒石を取り返せる。
このように、アタリとなっている石を取ると逆にアタリが発生してすぐに相手に石を取られてしまうような状況では、両者がこの手を繰り返している限り永久に対局が終わらない。そのため、以下のような特別ルールを設けている。
対局者の一方がコウの一子を取った場合、もう一方は他の部分に一手打ち、相手がそれに受けたときに限り、コウの一子を取り返すことができる。すなわち、(盤面全体として)同じ形を繰り返してはならない。
他の部分に打って相手に受けさせる手のことを「コウダテ」または「コウ材」という。相手のコウダテを受けず(手抜き)、コウをツグかまたは△のいずれかの石を取ることを、「コウに勝つ」や「コウを解消する」と表現する。コウに勝つことを目指すか、コウを譲って他で得をするかは、全局的な形勢判断のもとに決める。
例えば下図では、左下でコウが発生している。黒がaの点にツゲばこの一団は二眼を持って生きとなるが、白が勝てばこの一団は全滅する。

黒が1にコウを取った場面。白は1の黒石をすぐには取り返せないため、2に「コウダテ」を打つ。ここで黒はコウダテに受けずaにヌけば左下の黒は生きだが、その代わり白にbへ連打され、右下が取られる。右下と左下どちらが大きいか、他に黒がもっと有効なコウ材をたくさん持っているかなどを考え合わせ、コウダテに受けるかコウを解消するかを決定する必要がある。こうしたコウをめぐる駆け引きは、囲碁の醍醐味の1つである。
死活をめぐるコウ
星から小ゲイマにシマった形に、白が三々入りしてできる形。黒からならaにコウを取って、bに抜けば隅を取れる。白からならcに打ち抜けば隅を大きく生きられる。実戦ではこうしたコウを仕掛けるタイミングが重要になる。
攻め合いにおけるコウ
白がaとコウを取ってbに打ち抜くか、黒がコウに勝ってcと白を打ち上げるかの生死を賭けたコウ。コウのついた攻め合いの場合、外ダメを先に詰めてから最後にコウを取る手順が得になる場合が多い。
コウのいろいろ
ヨセコウ
上図の場合、白からは、aにコウを取った後にbに打ち抜けばコウ勝ちだが、黒からは、白のコウダテに手を抜きcに詰めてからさらにdに打ち抜かねばならない。このように、一方が手を詰める必要のあるコウを「ヨセコウ」と呼ぶ。上の図は一手ヨセコウの例。黒がcにダメを詰めて、両者とも一手で解消できる状態になったコウは「本コウ」と呼ぶ。

上図のような形が二手ヨセコウ。白はコウを取った後でaに打ち抜けばコウを解消できるが、黒からはb、c、dに3手詰めて白石を抜かなければ勝てない。これは「二手ヨセコウ」となる。
三手以上のヨセコウもあるが、ヨセる側が三手以上手をかけている間に他で大きく得をされるため、差が大きすぎるとみなされる。このため「三手ヨセコウはコウにあらず」という格言もある。
両コウ
上図のような場合、白がaに取ると黒はbに取り返すことができるため、どちらも全体が取られることがない。このため、双方ともセキ生きとして扱われる。両コウセキができると三コウの可能性が高くなる。

こうした形の場合は白がaに取ると黒がbに取り返せるため、白から黒全体を取る手段はない。逆に黒はc, dと詰めれば最終的には白を取れるため、このまま白が取られという扱いになる。ただしこの場合、白は無限のコウ材を持つことになるため、他でコウが発生すると黒には大きな負担になる。「両コウ三年のわずらい」という格言はこれを指す。
三コウ
盤上に同時に3箇所以上コウが発生した場合、この3箇所をお互いが順に打っていけば、永久に対局が終わらない。このような場合、両対局者が譲らない場合には「無勝負」とされ、打ち直しとなる。この3箇所のコウを三コウと呼ぶ。
左上は単独での三コウ。黒は全体がアタリなので1にコウを取ると、今度は白がアタリなので2に抜く。また黒がアタリなので3に取り返し、白が△の点にコウを取り……と繰り返し、両者が譲らない限り永遠に終わらない。
また右半分は、両コウがらみの三コウ。両者が右上の両コウをコウダテにして右下のコウを争うと、やはり無限に繰り返される。四コウなど、さらに多数のコウがからむケースも存在する。
二段コウ
この形では黒はaに打ち抜けば勝ちだが、白からはまずbのコウに勝ってcに取り、ここでもコウを勝ち抜いてdに打ち上げて初めて勝ちとなる。こうしたケースを二段コウと呼ぶ。
三段コウ
上図が三段コウと呼ばれる形。白からはeに抜くかaにツゲば勝ちだが、黒が解消しようとすると、まずaのコウでコウダテに手を抜いて勝ち、bのコウで勝ち、cのコウにも勝ち、dに抜くか△にツイでやっと勝ちになる。白は1手で解消できるが、黒は3手かけないと解消できないため、勝つことは難しい。
万年コウ
この形ではaに白がツゲば全体がセキだが、黒から解消しようと思うとまずaに取り、次いでbに詰めて決死のコウを挑まねばならない。白は他のコウ材の具合によってはbに詰めて比較的負担の軽いコウに持ち込むこともでき、選択権は白が持つ。こうした形を「万年コウ」と呼ぶ。
上図のまま終局した(どちらからもコウを仕掛けず、白がツグこともしなかった)場合は、このままセキと扱われる(日本囲碁規約の場合[1])。
循環コウ
この図では、黒1のホウリコミに対し、白が3の点に抜くと黒5にコウを取られてアタリになってしまう。そこで白は2の点にホウリコミ返し、黒3の抜きに対して4に抜く。黒は5にコウを取ると、当初の黒白の立場が入れ替わった形になってしまっており、どちらかが譲らない限り無限にこの応酬が繰り返されることになる。この形を「循環コウ」と呼び、双方が譲らなければ無勝負となる。ただしこの形が実戦に生じた記録はなく、知名度も低いルールとなっている。
その他のコウをめぐる用語
花見コウ - 一方は負けても大した被害がないが、一方は大損するようなコウのこと。
天下コウ - 盤面上どこにも引き替えとなるようなコウ材が存在しない、非常に大きなコウのこと。「天下利かずのコウ」の略。
半コウ - コウに勝っても負けても周辺の石には影響がなく、勝った方が一目得するだけのコウのこと。二手かけて一目得するだけであるためこう呼ばれる。通常、一局の最後に争われる。
ソバコウ - コウを争っている石の近くに立てるコウダテのこと。例えば死活を争っているコウの際、包囲網を破ろうとするコウダテのような場合を指す。多くの場合、相手はそれに応じなければならない絶対のコウダテとなる。
損コウ - コウダテを打ち、相手が受けることによって自分が損をするようなコウダテのこと(たとえば、もともとセキであった所に自分からダメを詰め、取られに行くような手)。「損なコウ」ではなく「損なコウダテ」の意味で用いられる。どうしてもコウに勝ちたい時は損コウを打つしかないが、その分コウに勝つ価値は下がることになる。
無コウ - 手を抜かれても得をする手がない、無効なコウダテのこと。単語の中の「コウ」は「コウダテ」の意味で用いられている。
コウ移し - 例えば黒がコウダテを打ち、白がそれに応じずコウを解消した後、黒がコウダテを打った場所に連打してコウが始まるような場合を指す。コウの場所が移るためこの名がある。
コウ自慢 - コウダテが豊富にあり、コウが起これば有利に運べるという状態。
コウ含み - コウになりうる場所があるが、すぐにはコウを仕掛けず、局面の展開を見ながら時期を伺う状態。
超コウ(スーパーコウ)ルール - 三コウなどの無勝負を避けるため、盤面全体の同形反復を禁止するルール。
コウに関する格言
初コウにコウなし - 一局の序盤でできるコウには、それに見合うコウ材が存在しないという格言。
三手ヨセコウはコウにあらず - ヨセコウでも、三手ヨセコウとなるとコウに勝つために払わねばならない犠牲が大きすぎ、ほとんどの場合争う価値がないことを指した格言。
まずコウを取れ - コウができた場合、まず先に取っておけば相手は取り返すためにコウ材をひとつ余計に使う必要が出てくる。このためコウに勝てる確率が上がる、という格言。ただし攻め合いにおけるコウにおいてはこの限りでない(コウ付き攻め合い最後に取れ)。
コウをめぐる事件・エピソード
織田信長が寂光寺にて日海と鹿塩利玄の勝負を観戦した折、三コウが現れ無勝負となった。ところがその夜本能寺の変が起き、信長は明智光秀に討ち取られた。このことから、以後三コウは不吉の前兆とされるようになった。ただし残された棋譜には三コウになりそうな場所はなく、後世の作り話である可能性が高い。なお三コウはルール上の珍形の中では最もよく出現し、プロの対局でも数十例が記録されている。趙治勲は三コウ・四コウ無勝負を4回経験している。
1928年秋の大手合で、瀬越憲作七段対高橋重行三段(二子)の対戦で万年コウが発生した。形勢は大差で瀬越が優勢であったが、高橋はコウをツイでセキにしようとせず終局まで頑張ったために問題が発生した。この件については侃々諤々の論争が起こり、大手合が中断するほどの騒動となったが、結局本因坊秀哉が「両勝ち」の判定をして収まった。この事件が契機となってルールの成文化が叫ばれるようになり、1949年に「日本棋院囲碁規約」が制定されることとなった。
1960年の第15期本因坊戦七番勝負第6局では、本因坊の高川秀格が無コウを打ち、挑戦者藤沢秀行がこれに気づかず受けてしまうというハプニングが起きた。これに気づいた藤沢は、まだ形勢は悪くなかったのに腐って悪手を連発して敗れ、高川に本因坊9連覇を許すこととなった。
1980年の名人戦七番勝負第4局では、挑戦者の趙治勲がコウを立てる番であったかわからなくなり、記録係に「僕の取り番だっけ?」と確認。記録係は思わず「はい」と誤答してしまったため、趙はコウダテせずにコウを取り返してしまい事件となった。結局立会人裁定で無勝負となったが、これ以後記録係は質問に答えなくてよいとルールに定められた。
プロの対局の反則では、コウダテをせずにコウを取り返すケースが最も多い。タイトルマッチでは、1971年のプロ十傑戦で石田芳夫が梶原武雄との決勝五番勝負第3局で、また1997年の天元戦五番勝負第3局では、挑戦者の工藤紀夫がコウダテをせずにコウを取り返すという反則があった。
加藤正夫は、「碁にコウが無かったら、非常に味気のないものになるでしょう」と著書で語っている。
出典
^ “Ⅲ 死活確認例 死活例12 「万年劫」”. 日本棋院. 2016年5月10日閲覧。
参考図書
村島誼紀 『コウ辞典』誠文堂新光社
林海峰『コウの技法(最強囲碁塾)』河出書房新社
マイケル・レドモンド『コウが1から10まで分かる本』毎日コミュニケーションズ
関連項目
長生 - コウになっていない箇所が原因で同一局面の反復が行われるケース。
純碁、計点制ルール - コウに限らず、すべての同一局面の反復を禁止するルールを採用する例。
千日手 - 将棋における同一局面の反復。
■
碁会所(ごかいしょ)とは、席料を支払い、有料で囲碁を打つことができる場所である。
囲碁センター、サロンのような形態で、駅前などに集中していることが多く全国的に存在している。日本棋院内にも有料で打てる場所がある。
概要
店内に複数の碁盤を用意し、来客者同士で対局を行わせる形式が一般的である。最も重要な要素は席亭(店主)によるマッチメイキング能力である。来客者の碁打ちとしての力量の見極めはもとより、常連客においては打ち方の筋・性格などを見極め「楽しく打てる」(時には刺激を与えるため苦手同士を打たせる)場を作ることが求められる。
サービスは碁会所によってもさまざまであるが、その店独自の段級位システムを構築しているケースが多い。また、初心者への指導も行っている碁会所もある。その他にも、大会などのイベントが催されることもある。
2000年代ごろからはネット碁の普及が進み、碁会所に行かずとも対局相手を探すことが容易になったため、碁会所にとっては小さくない打撃となっている。
2010年ごろには「囲碁ガール」という言葉も生まれ、女性向きの雰囲気の碁会所や、囲碁喫茶・囲碁カフェなど、多様な碁会所の在り方が模索されている。

関連項目
会所
家プロジェクト
外部リンク
碁会所なび
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『碁経衆妙』(ごきょうしゅうみょう、棋经众妙)は、1812年(文化9年)に成立した、囲碁家元・林家11世林元美編纂による、日本の最も代表的な詰碁の古典。「内容が妙に高遠ではなく、アマチュアにも容易に受け入れられて、しかもそんじょそこらの実戦に現れそうな形が少なくない」(前田陳爾)という、基本的な詰碁と手筋が集められているのが特徴である。
目次 
1	構成
2	出版物
3	関連項目
4	外部リンク
構成
生之部
死之部
劫之部
攻之部
追落之部
盤之部
夾・點・続・断・征之部
出版物
『碁経衆妙』(囲碁名著文庫6)池田書店 1983年
『応用死活集 : 新訂碁経衆妙. 〔上〕〔下〕 』(高川秀格解説)東京創元社 1956-57年
林元美/橋本宇太郎『改訂・碁経衆妙―詰碁の原典 』 ISBN 978-4381079725 (山海堂 2004年)
林元美/高木祥一解説『碁経衆妙 上下 原本現代訳』 ISBN 978-4315510256 ISBN 978-4315510263 (教育社新書 1989年)
『呉清源の碁経衆妙』三堀将編集、全4巻、池田書店 1974年
篠原正美『詰碁のいろは-碁経衆妙より- ゴ・スーパーブックス32 』 (日本棋院 1976年)
関連項目
玄玄碁経
官子譜
死活妙機
囲碁発陽論
外部リンク
「碁経衆妙」1 1882年版(近代デジタルライブラリー)

■
後手(ごて)とは、2人で交互に着手するボードゲームにおいて、最初の一手(初手)を着手する側(先手)の次の一手(2手め)を側を指す用語。後手は後手番ともいう。
先後と駒の色、先後の決定方法などについては先手を参照。
将棋で駒落ちの対局を行う場合には、駒を落とした側の対局者を上手(うわて)、落とされた側を下手(したて)といい、振り駒はせずに上手から指し始める。同様に、囲碁の置き碁では、黒石を置かせた側を上手、置いた側を下手といい、白を持つ上手から打ち始める。したがって、これらの場合は「後手」とは言わず「下手」という。
囲碁用語。ある対局者の着手に対して相手が離れた場所に着手(手抜き)すると先の対局者に大きな得をする手段が残る場合、先の対局者の着手を先手という。「手抜きする」ことを「手を抜く」ともいう。通常は先手と呼ばれる着手をされた相手は手抜きせずに先の対局者に得をさせない着手で応じる。この着手を後手(で受ける)という。石を取るか取られるかの戦いなどの場合、互いに手を抜けずに相手の着手の近くに着手することを繰り返す場合があり、その最後の着手を「後手を引く」という。また、その最後の着手で「一段落」という。
将棋用語。ある局面で何らかの不利益(王手や飛車取りなど)を回避するために指し手を抜けない場合に、それを回避するための指し手(王手の回避や飛車取りの回避など)が終わった段階で手番を握っていない側をいう。なお、後手になってしまうことを「後手を引く」という。
関連項目
先手
二人零和有限確定完全情報ゲーム
■
コスミは囲碁用語のひとつで、すでにある自分の石から斜め隣に打つ手のこと。動詞では「コスむ」という。漢字では「尖み」と表記されるが、近年ではほとんど用いられない。
下の黒1に打つ手がコスミである。aやbの点に黒石や白石がある場合には「コスミ」とは言わない(黒石がある場合は「マガリ」、白石がある場合は「ハネ」という言葉を用いる)。 コスミは白がaに打ってくればb、bに打ってくればaとツゲば切断されることがない。このため足は遅いが確実に連絡しており、中央への堅実な進出手段となる。また、死活やヨセの手段としても頻出する。
目次 
1	コスミの活用
1.1	定石におけるコスミ
1.2	死活におけるコスミ
1.3	手筋のコスミ
1.4	ヨセにおけるコスミ
2	コスミツケ
3	コスミダシ
4	三羽烏
5	関連項目
6	参考図書
コスミの活用
定石におけるコスミ
黒1は幕末期の大棋士本因坊秀策が多用したため、秀策のコスミと呼ばれる。後にaのカケ、b、c、d方面からのハサミ、左辺へのヒラキなどをにらむ。 ただしコミ碁の現代では、この手は黒がぬるいという見方が主流となり、打たれることは稀になっている。逆に白の方が、このコスミを打つことが多くなっている。
死活におけるコスミ
死活においてもコスミはしばしば手筋となる。上の図では黒1のコスミで隅の白の眼を取ることができる。
手筋のコスミ
黒1のコスミが手筋で、白がaにサエギればbに切って攻め合い勝ち。よって白がbとツグよりなく、aに打って黒が生還できる。
ヨセにおけるコスミ
ヨセに入ってからはしばしば二線へのコスミが大きな手となる。黒から1にコスむか、白から先にコスむかは大きな差で、ヨセに入って真っ先に打たれることも多い。さらに黒3から5のハネツギが先手で利く場合は非常に大きなヨセとなる。
コスミツケ
黒1のようにコスミとツケを兼ねるような手を「コスミツケ」と称する。
コスミダシ
黒1のように、コスんで相手の石の間から顔を出すような手を、「コスミダシ」と称することがある。
三羽烏
図のように、黒1から3と三本コスんだ形。隅へ白から侵入は難しく、黒は手堅く15目ほどの地を確保できる。しかし平成になり、一隅に3手もかけるのは効率が悪いという考え方の棋士が増え、打たれることは少なくなっている。
関連項目
トビ
ケイマ
ハザマ
参考図書
影山利郎『コスミの戦法 (烏鷺うろブックス) 』

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後手(ごて)とは、2人で交互に着手するボードゲームにおいて、最初の一手(初手)を着手する側(先手)の次の一手(2手め)を側を指す用語。後手は後手番ともいう。
先後と駒の色、先後の決定方法などについては先手を参照。
将棋で駒落ちの対局を行う場合には、駒を落とした側の対局者を上手(うわて)、落とされた側を下手(したて)といい、振り駒はせずに上手から指し始める。同様に、囲碁の置き碁では、黒石を置かせた側を上手、置いた側を下手といい、白を持つ上手から打ち始める。したがって、これらの場合は「後手」とは言わず「下手」という。
囲碁用語。ある対局者の着手に対して相手が離れた場所に着手(手抜き)すると先の対局者に大きな得をする手段が残る場合、先の対局者の着手を先手という。「手抜きする」ことを「手を抜く」ともいう。通常は先手と呼ばれる着手をされた相手は手抜きせずに先の対局者に得をさせない着手で応じる。この着手を後手(で受ける)という。石を取るか取られるかの戦いなどの場合、互いに手を抜けずに相手の着手の近くに着手することを繰り返す場合があり、その最後の着手を「後手を引く」という。また、その最後の着手で「一段落」という。
将棋用語。ある局面で何らかの不利益(王手や飛車取りなど)を回避するために指し手を抜けない場合に、それを回避するための指し手(王手の回避や飛車取りの回避など)が終わった段階で手番を握っていない側をいう。なお、後手になってしまうことを「後手を引く」という。
関連項目
先手
二人零和有限確定完全情報ゲーム
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碁所(ごどころ)は江戸幕府の役職の一つ[1]。職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄など。寺社奉行の管轄下で定員は1名(空位のときもある)、50石20人扶持、お目見え以上。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていなければならない。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、将棋所よりも上位に位置づけられていた。
寛文2年(1662年)に囲碁、将棋が寺社奉行の管轄下に置かれるなど、幕府の政治機構の整備に伴い碁方の正式な長が必要となった。そのため寛文8年(1668年)10月18日、幕府により安井算知を碁所に任命したのがはじまりである。
各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開させた。水戸藩主徳川斉昭[2]、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られている。
また各藩においても、碁技により禄を受けた者を碁所と呼ぶこともあった。
目次 
1	起源
2	碁所就任者
3	関連項目
4	参考文献
5	脚注
6	外部リンク
起源
碁所の起源は、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が時の第一人者であり名人の呼称を許されていた本因坊算砂に20石20人扶持を支給したことなどの、碁打衆の専業化が始まるところにある。続いて幕府を開いた徳川家康が慶長17年(1612年)に囲碁・将棋の強者である碁打衆将棋衆8名に俸禄を与えることとした。その筆頭は囲碁・将棋の両方において本因坊算砂で、五十石五人扶持であった。(明治37年(1904年)刊の安藤如意「坐隠談叢」では、この時を碁所の設置としている。ただし、この書は正確な歴史書とは言えない。また増川宏一『碁』(法政大学出版局)では、碁所の発祥の天正説・慶長説とも否定されている他、慶長17年段階では個人の芸に対する評価としての扶持であり、世襲の概念もいまだ発生していないという。)
これ以降は、算砂と、その後を継いで元和9年(1623年)に名人となった中村道碩が、事実上の碁打衆の頭領格となっていたと思われる。(将棋については1612年に算砂から大橋宗桂に地位を譲ったとされる。)
寛永7年(1630年)の道碩の死後、その地位を巡って本因坊算悦と安井算知が争碁を行うが決着が付かなかった(碁所詮議)。本因坊算悦は万治元年(1658年)に死去し、安井算知は名人の手合に進むこととなり、同時に碁所となった。この頃から、碁所という名称が公に文書で使われるようになり、後の本因坊道策への御證書にも碁所の名称が使われている。
またこの時期から本因坊家、安井家、中村道碩を継いだ井上家の三家に家禄が支給されるようになり、後に林家も加わって家元四家となった。
碁所就任者
安井算知(就任期間:寛文8年(1668年)-延宝4年(1676年))
本因坊道策(延宝5年(1677年)-元禄15年(1702年))
井上道節因碩(宝永7年(1710年)-享保4年(1719年)) - 「名人」には1708年から
本因坊道知(享保6年(1721年)-享保12年(1727年))
本因坊察元(明和7年(1770年)-天明8年(1788年))
本因坊丈和(天保2年(1831年)-天保10年(1839年))
関連項目
囲碁の歴史
名人 (囲碁)
参考文献
増川宏一「ものと人間の文化史59 碁」法政大学出版局 ISBN 4588205919
中山典之「囲碁の世界」岩波書店 ISBN 4004203430
脚注
^ そのように長年考えられていたが、近年の研究で「将棋所」とともに、囲碁・将棋衆の自称であったという説も提示されている(詳細は「将棋所」を参照)。
^ なお、『坐隠談叢』に書かれている水戸藩隠居「翠翁公」について、従来、斉昭とされてきたが。斉昭はこの時点で藩主になったばかりであり、また号も「翠翁」ではない。この点について、囲碁史研究家の大庭信行による、「水戸藩主の一門で、水戸藩家老格の松平保福(斉昭の大叔父)の隠居名が「翠翁」であるため、保福が『翠翁公』ではないか」という説がある。林元美とその周辺(二)~『坐隠談叢』中の「翠翁公」について
外部リンク
日本棋院「囲碁の歴史」
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コネクト6
この写真は白が6つ並べて(左)勝利
コネクト6とは、五目並べを拡張したボードゲームである。六目並べとも呼ばれる。中国語では、六子棋という。
目次 
1	概説
2	類似のゲーム
3	公平性
4	外部リンク
概説
先手の黒が一手目を打ち、その後双方が交互に二手ずつ打つ。先に六つ並べた方が勝ちとなる。五目並べより先攻後攻に不公平がなく、ゲーム展開にも多様性があるという評価がある。主にロシアで行われているが、日本での認知度は低い。 なお、五目並べは先手必勝である。19×19以上の大きさのボードが適している。
類似のゲーム
三目並べ
五目並べ
連珠 - 五目並べに黒に禁手を科し、開局規定などでルールを均等にしたゲーム。
囲連星 - 囲碁と五目並べを組み合わせたゲーム。
四目並べ - 重力付き四目並べで、交互にコマを下から積み重ねるゲーム。
セルゴ(宇宙遊泳) - 長谷川五郎が考案した、10×9路盤を使った移動五目並べ。宇宙遊泳はソクラテス盤(2つのゾーンのある10×9盤)を使ったセルゴの変則タイプのゲーム。
公平性
コネクト6のような二人零和有限確定完全情報ゲームでは先手または後手のいずれかに必勝法がある。五目並べなどのゲームでは必勝法が見つかっている。チェスなどの複雑なゲームは、概して複雑すぎる為、完全に解析できていない。
Herik、UiterwijkとRijswijckは、次のように公平性を定義している(Herik, Uiterwijk, and Rijswijck, 2002)。両方のプレイヤーが同じ割合でミスをする場合に勝率がほぼ等しくなるとき、公平なゲームだとみなされる。この事から、コネクト6は以下の点で公平であると主張されている。
両者とも着手後常に相手より石を1つ多く置いている。
約1000のオープニングテンプレートで、I-Chen Wu教授は、彼のチームによって作成されたAIプログラム同士を対戦させ、その結果、ゲームがこれらのテンプレートのいずれかを有利としていないことを示しているように見えた。このAIプログラムはほとんどの一般プレイヤーを倒す事ができるが、その戦略は必ずしも最適とは限らないという事に注意しなければならない。
Wu教授によると白が二手目に黒から離れた場所に打つのは明らかに不利である。もし不利にならないなら以下の理由によりこのゲームは白に有利になる。黒は白二子の近くに打って対応しなければならなくなり、白が初手に二手打った状態から始まることになる。
しかしながら、この証明は決定的なものではない。
外部リンク
「六目並べ」に高評価 国際PCゲーム会議
Connect 6 六子棋論壇
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五ノ五(ごのご)は囲碁用語の一つで、碁盤上の位置を指す言葉。文字通り、碁盤の隅から数えて(5,5)の地点。布石の段階で隅の着点として稀に打たれる。「5の五」と表記されることも多い。
昭和の新布石の時代に木谷實らによって試みられた他、2000年の碁聖戦など一時期山下敬吾が愛用した。


目次 
1	特徴
1.1	シマリ
1.2	カカリ
2	参考文献
特徴
五線の交点であり、隅の着点として位が高い。このため実利には甘いが、隅への侵入を誘って勢力を築き、模様で打つスタイルや、積極的に戦うスタイルに適していると言える。
シマリ
黒1へのシマリが最も一般的。目ハズシからの一間ジマリと同形になるが、状況によって黒1かaかの選択が可能な点が五ノ五の長所。黒bにシマる手も考えられる。

カカリ
白がカカるときは白1の小目にカカるのが最も一般的である。これに対し黒は黒2にカケ、白を隅に封鎖して中央に勢力を築く。黒4までが、想定される進行の一つ。

また、黒2、白3を交換して黒4に封鎖する打ち方もある。

白1と三々入りする手も考えられる。以下4までが想定される進行。

参考文献
「戦いのベクトル」 山下敬吾著 毎日コミュニケーションズ
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小林流(こばやしりゅう)は囲碁における布石手法の一つ。黒番で星・小目、相手の星へのカカリからヒラキまでの一連の配置を指す。小林光一が全盛時代に多用し、好成績を挙げたことからこの名がある。世界中で流行し、黒番の必勝布石とも呼ばれた。

目次 
1	特徴
2	小林流対策
3	新小林流
4	参考図書
5	関連項目
特徴
中国流同様小目からのシマリを省略した足早な布石であり、発展性・攻撃性を併せ持つ部分でも類似する。
aやbのカカリは挟んで厳しく攻撃し、下辺を地模様としつつ右上をふくらませる。それを避けて白が他に打てば、bにシマって理想形を築く。
白が一間高ガカリした場合の例。黒は二間に高くハサみ(村正の妖刀)、互いにトビ合ったら黒6へのノゾキ一本で白7のツギと換わって下辺を地化し、黒8あたりへヒラく。黒は両辺を打ち、白は根拠のない浮き石を残して打ちにくい局面と判定される。よって白は一間高ガカリでなく、急戦を避ける意味でaの大ゲイマガカリを採用することが多い。同じ理由でbの二間高ガカリが採用されることもある。
大ゲイマガカリした場合。黒2と肩を突いていくことが多い。白3のスベリの後、aからハサむ、bから下辺を拡大するなどの手法が研究された。
小林流対策
黒の小林流を阻むには、例えば白6手目で1へハサミ返す、あるいはaへとカカリ返すような手もある。別の布石へと進むことになる。
新小林流
後に小林は5手目を小ゲイマにシマる手堅い布石を多用した。こちらは「新小林流」と呼ばれる。
参考図書
小林光一『進化する布石構想―「小林流」で序盤から優勢を築く (小林光一の囲碁上達塾)』フローラル出版 2003年
関連項目
三連星
中国流
ミニ中国流
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碁盤と碁石
碁盤(ごばん)は、囲碁の用具の一つで碁石を打つ板のことである。盤の上面には縦横に直線が描かれ、それらは直角に交わっている。また、このような縦横の直線の交差により作られている格子状のものを、碁盤の目状と称する事もある(京都市内の通りなど)。
目次 
1	概要
2	19路盤
3	15路盤
4	13路盤
5	9路盤
6	歴史
7	深曾木の儀
8	出典
9	関連項目
10	外部リンク
概要
碁盤を作る木材には榧(カヤ)、桂、イチョウ、ヒノキ(主に台湾産)、ヒバ(主に米ヒバ、en:Callitropsis nootkatensis)、南洋材のアガチス(アガヂスとも)、北米産のスプルース材などが使用される。碁盤を作るためには少なくとも樹齢数百年の大木が必要である。榧製、特に宮崎県産の榧の柾目盤が最も珍重され高価であるが、近年は榧の大木は国内では非常に稀少となり、中国・雲南産の榧を使った盤が多く販売されるようになった。桂・イチョウなどの盤が普及品としては上物とされ、また安価なものには大木が得やすいスプルース材が多い。業者の広告等で「新カヤ」という商品名で呼ばれているものはスプルース、「新桂」と呼ばれているものはアガチスであるが、それぞれ榧や桂とは全く別種の木材であることには注意すべきである。木材を圧縮接着した積層材の盤、またプラスチック製のものやゴム製、持ち運び用のマグネット碁石に対応した金属製の碁盤も販売されている。
碁盤上に引かれた線はヘラや筆を使って引く手法(箆盛り・筆盛り)の他に、太刀目盛り(たちめもり)と呼ばれる独特な伝統的手法がある。これは日本刀の刃を丸め、温めて黒漆を付け盤面に刃先を押しつけて線を引くものである。表面に漆が乗るため、線には微妙な盛り上がりができる。視覚障害者が、手触りでマス目を判断して碁を楽しめるように、この線をわざと厚めに作る碁盤も存在する[1]。
碁盤の価格は数千円から一千万円超までさまざま。アガチス、桂、スプルース製の厚さ1寸までの卓上盤なら数千円程度、アガチス、桂、スプルース製の足付盤や榧製の卓上盤では数万円から十万円程度、イチョウ、ヒノキ、ヒバ製で三十万円程度まで、榧製は1面ずつ価格が異なるが、相場として板目盤で五万円から八十万円程度、柾目盤は希少価値が高いのでたいへん高価で、数十万円からで銘盤ともなれば数百万円から一千万円超。さらに高いものは、価格応談など、客観的な価格では対応しきれない碁盤もある。
形状は畳などの上で椅子を用いない対局で床に直接置き使用する足付盤以外にも、テーブルの上で用いる薄い板状のものも公式戦で使用される。それ以外にも折畳式のものなどもある。厚さ二寸くらいまでの卓上用の薄い板盤は、充分に乾燥していない一枚板では実用にたえられないほど反ったり線の升目がくるったりする恐れがあるため、板を何枚か接いで1面の盤をつくることが多い。これは接盤(つぎばん)、接合盤と呼ばれる。他にも、左右二枚の板を差し込んで1面の盤にすることで反りなどを防ぐさし込み盤というものもある。また、盤の反りや変形には木目の影響も大きく、この点でも「柾目」が珍重されている。
足付き碁盤の裏側の中央部分にはへこみがある。これは「へそ」と呼ばれる。木材の乾燥による歪みや割れの防止と、石を打った時の音の響きを良くする効果がある。2寸程度の薄い足付き盤にはへこみはない。また、血溜まりと呼ばれることもあり、対局中に横から口を挟む人間は首を刎ねられ、このへこみに乗せられる事になると言う。
碁盤の脚は、クチナシの実の形を模しており、「他人の対局に『口無し』ということ」を示唆している。
中国では布製の碁盤も用いられることがある。
盤上の線のことを「路」(連珠では「道」)と呼ぶ。標準的な碁盤は19路だが、それ以外にも様々な盤があり、よく見かけるのは以下の4種類である。他に入門・研究用として7路以下の盤もよく用いられる。東京大学の囲碁授業では、6路盤が採用されている。また21路盤のように、標準より広い盤も存在する。
19路盤
使用される縦横19本の線を持つ盤を19路盤(じゅうきゅうろばん、連珠愛好家の間では19道盤(じゅうきゅうどうばん))という。碁盤といったとき特に断りがなければこの19路盤を指す。交点(目)の数は361、マス目の数は324。大きさは縦1尺5寸(45.5センチ)、横1尺4寸(42.4センチ)、厚さは足付き盤で2寸~9寸程度まである。連珠で代用されることもある。
また、広将棋にも用いられる。
15路盤
縦横15本の線を持つ盤を15路盤(じゅうごろばん、15道盤(じゅうごどうばん))という。囲碁では使われず、連珠で使われるため「連珠盤」と呼ばれている。交点(目)の数は225、マス目の数は196。大きさは縦1尺2寸、横1尺1寸と将棋盤とほぼ同じで、厚さは足付き盤で2寸~9寸程度まである。
ちなみに、15路盤を採用したのは昭和初期に連珠の第3世名人・高木楽山がルールとして規定したためとされており、これまでは19路の碁盤を使用していた。15路盤が採用されたのは、連珠は囲碁の付属物ではないという考え方と、黒に束縛を加えても17路盤や19路盤では先手が有利であるのに対し、13路盤より狭い盤では逆に後手が有利となるので、対等に勝負できるようにしたためとされている。
13路盤
縦横13本の線を持つ盤を13路盤(じゅうさんろばん)という。通常の19路盤に比べ大きさが小さく全体が把握しやすいため9路盤で基本をつかんだ初級者がより実戦に近い感覚を学ぶために使われることが多い。目の数は169、マス目の数は144。5分から2寸程度の薄い板で作られている。
9路盤
縦横9本の線を持つ盤を9路盤(きゅうろばん)という。主に囲碁の初心者が囲碁の実戦の感覚をつかむために用いられる。盤の大きさが小さいため通常の布石はあまり意味をなさないが、一定の棋力に達した者同士でも楽しむことができる。目の数は81、マス目の数は64。 コンピュータ囲碁プログラムは9路盤をはじめとする小路盤において力を発揮するとされている。2014年現在、プログラムは19路盤では2014年7月現在アマ高段者程度の棋力とされているが、9路盤においてはプロとほぼ互角の棋力を持つというプロ棋士の感想がある。[2]
歴史
漢景帝陽陵からは、漢代のものと思われる陶製碁盤が出土している。装飾の施された木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)という碁盤も著名。正倉院宝物となっている。
碁盤の大きさについては以下の記録が残っている。
『囲碁式』(1199年頃)縦1尺4寸8分、厚さ3寸4分
本因坊道悦の標準盤 縦1尺4寸5分、横1尺3寸5分、厚さ3寸9分
『大江俊矩記』(1807年)縦1尺4寸8分、厚さ5寸3分
現在は碁盤・将棋盤は実際の使い勝手より、厚いほど高級とされているため、八寸・九寸などという盤も稀に存在する。
深曾木の儀
日本の皇室では、七五三にあたるものとして、碁盤から飛び降りるという儀式が行なわれる。世界をしっかりと踏んで立ち成長するようにとの願いを込め、右手に扇、左手に山橘を持ち,碁盤の上から南の方角へ飛び降りる。皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王の使用した碁盤は、1964年に日本棋院から寄贈された。皇室に限らず、「碁盤の儀」として七五三に行っている例もある[3]。
出典
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^ 山本哲正 (2014年6月27日). “手触りで楽しめる囲碁 視覚障害者用・愛好者増える”. 東京新聞 2014年6月28日閲覧。
^ 「囲碁電王戦」プロ棋士が圧勝 NHK NEWS WEB 2014年2月11日、2014年2月13日閲覧
^ 健やかな成長願い「碁盤の儀」 武雄神社 佐賀新聞社、2012年11月10日。
関連項目
将棋盤
チェスボード
条里制
外部リンク
宮崎県:雅趣・伝統の美
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コミ、コミ出しは、囲碁のルールの一つ。ゲームの性質上先手が有利であるため、地の計算の段階で与えられるハンデキャップを指す。
目次 
1	概要
2	歴史
2.1	コミの変遷
3	日本以外のコミ
4	脚注
5	関連項目
概要
現在の日本のルールでは互先(たがいせん)の場合、先手(黒)が後手(白)に対して6目半のハンデを負う(「コミを出す」という)。つまり盤上で黒が4目の勝ちであったとしてもコミを計算すると白の2目半勝ちとなる。
互先の対局において、黒が盤上で7目のリードを得る(つまり最初の6目半のハンデを取り返して勝っている状態の)ことを「コミが出る」といったり、逆に盤上でリードしていても7目に達しない場合「コミが出ない」といったりする。
コミに「半目」がついているのは勝敗を決するためで、特にその必要がない場合は「半目」をつけない場合がある。その場合には両者の地が同じになると持碁(じご)と呼ばれ引き分けとなる。
置き碁の場合、置き石一つというハンデの間隔はあき過ぎていて妙味が生まれにくいため、プロアマ戦、あるいはアマチュア同士の対戦などでその間隔を埋める場合にも用いられる。この場合、置き石の数が少ない場合に上手がコミを出す「逆コミ」と呼ばれるルールを採用する場合もあり、「コミ出し」に対して「コミもらい」と言うこともある[1]。
歴史
江戸時代には座興で打たれる碁のような場合を除き、基本的にコミというものはなかった。当時は棋士の数が少なかったこともあり、個人対個人で複数回の対戦(番碁)などを行い、手合割を決めていた。連碁などでコミが採用される場合には先番5目コミ出しのケースが多かったことから、当時から先番の有利さはこの程度と見られていたことがわかる。
大正から昭和に入って棋士の数も増え、また挑戦手合制が碁界の主流を占めるようになるにつれ、一番で勝負を決める必要性が生じてきた。このためコミの必要性が議論されたが、「勝負の純粋性を損なう」として反対意見も強かった。本因坊戦の開始に当たって4目半のコミが導入された時には抵抗する棋士も多く、加藤信などは「コミ碁は碁に非ず」という趣旨の自らの論説を主催紙の毎日新聞に載せることを参加の条件としたほどだった(なお加藤はコミ碁の本因坊戦で活躍し、第1期本因坊の座を関山利一と争っている)。
コミの導入によって碁の性質も大きく変化した。コミなし碁では黒は先着の有利を保つためゆっくりと打ち、堅実にリードを保つ打ち方、逆に白は激しく仕掛け、局面を動かす打ち方がセオリーとされていた。コミの導入後はこれが逆になり、黒は石数の少ないうちに主導権を握るべく積極的に戦いを挑み、白がゆっくりとした局面に導こうとするスタイルに変化している。
タイトル戦が増えるにつれてコミ碁は当たり前のものになり、コミなし碁は大手合のみになっていった。その大手合も21世紀に入って廃止となり、現在は全ての互先での対局がコミ碁となっている。
コミの変遷
当初4目半であったコミは、黒番の勝率が高いという理由で徐々に改められていった。
1939年 本因坊戦で初めて4目半のコミが採用
1974年 黒が有利なため、コミを5目半に改める
2002年 黒が有利なため、また国際棋戦との整合性のため、タイトル戦ごとに順次コミを6目半に改め始めた
コミ5目半の時代には、4目半のコミを「小ゴミ(こごみ)」、5目半のコミを「大ゴミ(おおごみ)」と呼んでいたが、コミ6目半の採用によりこれらの呼称は廃れる方向にある。
日本以外のコミ
中国・韓国・米国(American Go Association)は、当初いずれも日本にならってコミを5目半としていたが、現在はいずれもより多い値に改定されている。
台湾の計点制ルールでは、早くからコミを8点(日本の7目半にあたる)にしていた。
韓国は日本より早く、2000年の第4回LG杯世界棋王戦でコミを6目半にした。
中国では中国囲碁規則の2001年版でコミを3+3/4子(7目半)とした。
米国でも現在はコミ7目半になっている。
中国・台湾がコミを6目半でなく7目半に変更したのは、中国式ルールでは多くの場合黒と白の目の差が奇数になるため、コミ6目半と5目半で違いが出ないためである(中国式ルールでは石を置かれた場所も地として数えるため、セキでどちらの地にも数えられない点が生じない限り、盤面全体の点の数が奇数=両者の地の数は一方が偶数で一方が奇数となる)。米国ルールはこれに該当しない(石を置かれた場所は地として数えない)もののコミ7目半としている[1]。
脚注
^ この場合コミの大きさは6目を最大幅として調整される。
関連項目
囲碁
ハンデキャップ
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小目(こもく)は囲碁用語の一つで、空きスミへの着手を指す言葉のひとつ。碁盤の隅から数えて(3,4)または(4,3)の地点に打つことをいう。下図黒1、あるいはaの位置が小目である。星と並び、隅を占める手の中で最もよく打たれる着点である。定石の種類も、隅の着点の中で最も多い。
なお「小目」は隅の星の一路辺寄りの(低い)位置を指すものであり、辺の星の一路低い位置は、小目でなく「星下」と呼ばれる。

一つの隅に小目に該当する位置は2箇所あるが、どちらに打つのも同じ意味である。ただし盤上の他の石の配置によっては、戦略上異なる意味を持つ。
目次 
1	特徴
2	シマリ
2.1	小ゲイマジマリ
2.2	一間ジマリ
2.3	大ゲイマジマリ
2.4	二間ジマリ
3	カカリ
3.1	ケイマガカリ
3.2	一間高ガカリ
3.3	大ゲイマガカリ
3.4	二間高ガカリ
3.5	裏ガカリ
4	時代による変遷
5	小目を主体とした布石
5.1	秀策流
5.2	向かい小目
5.3	並び小目
5.4	ケンカ小目
5.5	小目から辺へ展開する布石
特徴
小目は、星よりも隅に寄っており、隅の地を確保する意味では星よりも有利だが、その分中央方向への影響力は弱い。三々よりは中央に寄っているため地と勢力のバランスに優れた着点といえる。
シマリ
小目に打っただけでは隅を確保したとはいえないため、対角線を挟んだ位置にもう1手かけて隅を完全に陣地化する手(すなわちシマリ)の価値が大きい。シマリを打つことは地を作るだけでなく、辺への展開、相手の石への攻撃の拠点ともなる。このため、シマリは布石の最初期に打たれることが多い(ただし近年、シマリを省いて辺への展開を優先する、中国流などの手法も流行している)。
小ゲイマジマリ
黒1が小ゲイマジマリ。これによって隅の地を確実に10目程度確保できる。堅固なシマリであり、白からaやbあたりに近づいて来られても危険がないため、後を強く戦える。このため最も基本的であり、よく打たれるシマリである。ただし、周囲の状況によってはcから侵入される場合もある。
一間ジマリ
上図黒1が一間ジマリ。a方面へ展開すると、雄大な模様が構築できる。その代わり、b方面から迫られると隅の隙があらわになる。cのノゾキやdなど、隅へ侵入する味も残る。
大ゲイマジマリ
上図黒1が大ゲイマジマリ。隅の地を大きく確保できる可能性がある代わり、白にaと迫られると白bのツケなどから隅を荒らされる手が残る。
二間ジマリ
黒1が二間ジマリ。隅の隙が大きいため実戦例は少ないが、中央の模様を大きく広げたい場合など、趣向として打たれることがある。
カカリ
小目からのシマリが大きな価値を持つ以上、それを妨害する手、すなわちカカリの価値も同様に大きい。主に小ゲイマガカリ・一間高ガカリ・大ゲイマガカリの3種が用いられる。
ケイマガカリ
小目へ白1とケイマにカカった場合、黒はa~fまでのハサミで、この石を攻撃に向かうことが多い。ゆっくり打つ、あるいは左辺を重視する局面では、gのコスミ、hのケイマ、iの二間などに受けることもある。このまま黒が手を抜いて他に先着すれば、白の目ハズシに黒がケイマガカリしたのと同形になる。
一間高ガカリ
もっとも一般的なカカり方。白1の一間高ガカリに対しては、aの下ツケがよく見られる応手で、ここからツケヒキ定石やナダレ定石などの代表的定石が発生する。左辺を重視するなら、bの上ツケやcのケイマが考えられる。戦いに持ち込みたいなら、d~fなどとハサんでカカってきた石を挟撃する。fの二間高バサミは難解な変化を含み、「村正の妖刀」と称される。このまま黒が手を抜いて他に先着すれば、白の高目に黒が小目ガカリしたのと同形になる。
大ゲイマガカリ
上記のカカリではハサミを打たれ、不利と判断した場合は白1と大ゲイマにカカる手が打たれる。黒はaと打って隅を確保することが多い。左辺を模様化したい場合にはbの肩ツキもある。またcの二間ビラキはあっさりと左辺を地化する打ち方。もしハサんで打つなら、dやeなどに打つことが多い。
二間高ガカリ
白1と二間に高くカカる手もある。黒はaとカドに打って隅の地を確保するか、bと左辺に展開するのが普通。ハサむ場合はcなどが多い。
裏ガカリ
黒▲に石がある中国流布石などの場合、通常のカカリでは不利になるため、白1などと左辺側からカカる手が打たれることがある。比較的新しい手法であり、カカる位置も白1の他a~dなどが試されている。まだ発展途上であり、新しい定石が次々と登場している分野である。
時代による変遷
囲碁の歴史の初期にはあらかじめ星の位置に石を置いて対局を始める事前置き石制であったのが、盤上に何も無い状態から打ち始める自由布石法となることによって、隅への着点として小目が発生した。日本の室町時代後期から江戸時代、明治時代にかけては、小目が布石の主流となり、その周辺での戦いの技法も進歩し、多くの定石が生まれた。また小目から発生する布石として、本法の布石、秀策流などが打たれるようになった。その後昭和になって新布石の登場などにより、布石は星と小目の組み合わせが主流となった。
小目を主体とした布石
秀策流
黒の配置が秀策流。向きの異なる小目を三隅に配し、手堅く構える布石。本因坊秀策の御城碁19連勝の原動力となった。多くの場合、7手目にコスむまでを秀策流と称する。このコスミは秀策が考案した手ではないが、「碁盤の広さが変わらない限り悪手とはならないだろう」として推奨し、多用したことから「秀策のコスミ」と呼ばれる。コミ碁が主体となった近年では、黒はハサミなどで打つことが多く、逆に白がこのコスミを打つケースが増えている。
向かい小目
黒の配置が向かい小目。
並び小目

黒の配置が並び小目。やや偏った配置であるため打たれることは少ないが、さらにaの星を占める布石を張栩が若手時代に多用し、「張栩スペシャル」と称されたことがある。また、2015年前後には七冠王・井山裕太も一時的に多用した。
ケンカ小目

右辺の白黒の配置をケンカ小目と呼ぶ。黒1、白2とカカリ合うと、黒3などがヒラキとハサミを兼ねて好点となり、黒が有利に戦いを進めることができる。このためケンカ小目は先着した方が有利とされている。
小目から辺へ展開する布石
また現代では中国流布石の流行などにより、シマリを省いて辺への展開を行う手段や、それへの対策の研究も盛んとなっている。

現代における、小目からのシマリを省いた中国流布石の展開例。白は右下隅の小目に直接カカらずに白6と辺から圧力をかけ、黒は黒7で隅を守りつつ6の石への攻撃を狙い、白は8に守った。
この他小目からシマリを省いて辺へ展開する布石に「ミニ中国流」、「小林流」などがある。
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五目ならべの石と盤面
五目並べ(ごもくならべ)とは、2人で行うボードゲームの一種。囲碁の道具を用いて行う簡単なゲームで、盤上に交互に石を置いていき、先に石を直線状に5個並べることを競う。
概要
囲碁同様、2人のプレイヤーが碁盤の上に黒、白の石1つずつ交互に置く。置く場所は原則として自由である。いったん置いた石は除かれない。先に自らの色の石を5個直線(縦、横、若しくは45度の斜め)に並べた方が勝ちである。
正式ルールや大会、広く一般に認められた団体などは存在しない。日本以外にも知られており、ゲームが行われることがある(なお、五目並べのルールに制限を付けて先手・後手の均衡をとったものに連珠があり、これには団体があり段級制度や名人戦、世界大会などが存在する)。
禁手のない五目並べは先手の勝ちになる。明治時代の1899年に黒岩涙香が必勝法を発見している。二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される。
歴史については、連珠項目内に記載があるので参照のこと。
用語
三 
どちらかが3個直線で並べ、両端ともが止まって(その先に相手の石が置いてあるか、版の端に当たっていること)おらず、放置すると棒四になる手のこと。間がひとつあいた三を飛び三といい、三と同じ効果がある。
四 
どちらかが4個直線で並べること。一端が止まっていてもよい。放置すると五になる。間がひとつあいた四を飛び四といい、四と同じ効果がある。
長連 
どちらかが6個~9個直線で並ぶこと。長連でも勝ちとする場合と、長連では勝ちにならない場合がある。
棒四 
達四ともいう。どちらかが4個直線で並んでおり、両端が空いている状態。相手は片方を止めてももう片方で五となるため作った側の勝ち確定である。
三三 
どちらかが三を違う角度で同時に2つ作ること。相手は同時に2つの三を止められないため、作った側の勝ちであるが、禁じ手とされることがある。
四三 
どちらかが三と四を違う角度で同時に作ること。相手は三と四を同時に止めることができないので、四三を作った方が勝ちとなる。ただし、四の方を止めたことによって自分が四になった場合は、止めることができる場合がある。
四四 
どちらかが四を2つ同時に作ること。相手は2つの四を同時に止めることができないので、四四を作った方が勝ちとなる。一直線上にできることもある。
類似のゲーム
三目並べ
連珠
五目並べに黒に禁手を課し、開局規定などでルールを均等にしたゲーム。
囲連星
囲碁と五目並べを組み合わせたゲーム
コネクト6
1手目以外両者2個ずつ石を置き、石を6個先に並べたほうが勝ち
四目並べ
重力付き四目並べで、交互にコマを下から積み重ねるゲーム。
セルゴ(宇宙遊泳)
セルゴは長谷川五郎が考案した、10×9路盤を使った移動五目並べ。宇宙遊泳はソクラテス盤(2つのゾーンのある10×9盤)を使ったセルゴの変則タイプのゲーム。
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碁ワールド(ごわーるど)は、囲碁の月刊誌で、日本棋院の機関誌。『棋道』と『囲碁クラブ』が1999年に合併して『碁ワールド』となった。
1925年から発行されていた日本棋院の機関誌『棋道』と、そ姉妹誌『囲碁クラブ』が、1999年8月号から合併して日本棋院機関誌『月刊 碁ワールド』となった。雑誌コードは『囲碁クラブ』を引き継ぎ、通巻号数は『囲碁クラブ』からの継続で「第46巻第8号」から始まっている。有段者向けと級位者向け記事を配分して掲載。また毎年臨時増刊号として『囲碁年鑑』を発行。
主な記事、企画
棋戦の結果や、グラビア、講座などの他、以下の記事を掲載。
『囲碁クラブ』からの継続
「竹林杯精鋭八強戦」大竹英雄・林海峰主催の若手棋士8名によるトーナメント戦。準決勝から本誌掲載し、河野臨が優勝。2000年からは第2回が開始、高尾紳路が優勝。2001年は第3回として4チームによる世代別対抗戦が行われ、20代チーム(羽根直樹・高尾紳路・山下敬吾)が優勝。
林治文「李昌鎬物語」第8回から1999/12月号第12回まで掲載。
『棋道』からの継続
「重野由紀二段のイタリア日記」2002/12月号まで連載。
「真剣勝負 七段に挑戦」(旧名「目指せ七段 我ら天下六段」)2000/11月号まで。アマチュアがプロ棋士と二子・上手5目コミ出しで対戦して勝てば七段免状を獲得する。
「日本棋院棋士年間総合星取表」毎月の棋士の成績を掲載。
記事
山田規三生「道頓堀交友録」1997/8-2000/6月号。棋士同士の交友関係エッセイ。
小坂秀二「囲碁と大相撲」1999/10-2001/6月号。相撲評論家による力士のこぼれ話。
真部一男「囲碁の虫・将棋の虫」2000/1-01/6月号。将棋棋士で囲碁のアマ強豪でもある著者のエッセイ。
中山典之「昭和囲碁風雲録」2000/4-03/2月号。昭和の囲碁と日本棋院の歴史。
吉丸真理「インターネット囲碁学園」2000/7-09/9月号。パソコンやインターネットによる囲碁の楽しみ方の紹介。番外編として、コンピュータ囲碁について松原仁らに取材。
「若手棋士VS選抜女子学生、打ち込み六番勝負」2000/7-12月号。
藤沢周「藤沢周の番外エッセー」2000/11-02/6月号。作家による勝負事にまつわるエッセイ。
「女子大生置碁道場」2001/7-12月号。
水口藤雄「囲碁の博物誌」2002/1-03/12月号。全国各地の囲碁の風土・風物の旅。
「少年少女置碁道場 ヒカルに続け!」2002/1-9月号。
福井正明「碁界黄金の十九世紀」2002/7-04/12月号大仙知や元丈・知得から秀栄・秀哉まで19世紀の棋士群像を紹介。
松島利行「そこに碁盤があった 囲碁と映画の文化論」2003/5-07-12月号。映画評論家による映画と囲碁にまつわるエッセイ。
呉清源・小川誠子「六合の囲碁」2004/1-05-12月号。呉清源の囲碁講座。
水口藤雄「徳川家康の囲碁物語」2004/1-12月号。徳川家康と囲碁の関わりの記録。
福井正明「囲碁史探偵が行く」2005/1-07/12月号。囲碁史の意外な出来事を取り上げた読物。
古作登「囲碁と将棋の世界」2007/1-12月号。将棋雑誌編集者による将棋界と囲碁界の違いを取り上げた読物。
吉田知子「ザル碁の世界」2008/1月号-。いつまでもけっして強くならない囲碁妖怪達の世界を語るエッセイ。
秋山賢司「囲碁史に遊ぶ」2008/1月号-。囲碁史のエピソードの紹介。
秋山滋・朴ジョンチャン「友情の棋譜」2008/12月号付録。2007年に日本棋院で募集した第1回囲碁マンガ原作大賞の準グランプリ作品をマンガ化したもの。
眉村卓「囲碁ショートショート」2009/1月号-。毎回1作の囲碁を題材にしたショートショートを連載。
北山陽一「一目おかれたい!」2009/2月号-。囲碁初心者のゴスペラーズメンバーによる棋力アップエッセイ。
連載漫画
手塚プロダクション「悟空の囲碁修行」 1997/8-2001/12月号。悟空(手塚治虫「ぼくの孫悟空」主人公)が天竺へ旅しながら囲碁の腕を上げていく。
笠太郎「日々碁席」2005/1-2012/8月号。碁会所を舞台にした人間模様。
藤井ひろし「星のあつみ」2010/1月号-。高校生星あつみの囲碁ライフ。
松田一輝「天棋-TENKI-」2012/9月号-。佐倉藩碁打頭の子である三枝天碁の成長の物語。小林千寿五段監修。
外部リンク
日本棋院「月刊碁ワールド」
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コンピュータ囲碁(コンピュータいご)とは、人工知能研究の一分野で、ボードゲームの囲碁を打てるコンピュータプログラムを作ることを目的とした試みのことを指す。
目次 
1	概要
2	歴史
2.1	1970年代以前
2.2	1980年代
2.3	1990年代
2.4	2000年代
2.5	2010年代前半
2.5.1	第1回囲碁電王戦
2.6	2010年代後半
2.6.1	アルファ碁の動向
2.6.1.1	李世乭との対戦
2.6.1.2	バージョンアップ
2.6.1.3	囲碁の未来サミット
2.6.2	アルファ碁以外の動向
2.6.2.1	第2回囲碁電王戦
2.6.2.2	ワールド碁チャンピオンシップ
3	コンピュータ碁の課題だった点
3.1	モンテカルロ碁の登場前
3.2	モンテカルロ碁の登場後
3.3	アルファ碁(AlphaGo)の登場
4	コンピュータ囲碁棋戦
5	囲碁プログラム
6	注釈
7	脚注
8	参考文献
9	関連項目
10	外部リンク
概要
本格的な研究が始まったのは1980年代以降であり、台湾、中国といった囲碁の盛んな国においても研究開発が行われている。日本では、2000年代前半、日本棋院から段級位認定されたことを売りにするアプリケーションがあったが、重要な場面での手抜きなどコンピュータ囲碁特有の弱点が有り実際には級上位レベルであった。(アマ初段を認定されたアプリケーションに手談対局4、最高峰3、最強の囲碁2003、銀星囲碁3がある)。数十年の研究にもかかわらずアマチュア級位者の実力を脱することがなく、これらのプログラムが人間の初段と互先で戦って勝つのはほぼ不可能という評価をされてきた。しかし、2000年代後半に入ってモンテカルロ法を導入することにより、アマチュア段位者のレベルに向上したとされた。2012年にはプロ相手の公開対局で4子局で勝てるようになり、アマチュア6段程度の棋力があると認定されるにいたった。
2014年、AI将棋の思考エンジン「YSS」の開発者で、コンピュータ囲碁プログラム「彩」の開発者でもある山下宏は、プログラムの棋力はアマチュア県代表レベルであり、98%のアマチュアは勝つことができず、プロとは4子の手合(将棋の飛香落ちに相当)で、コンピュータ将棋に比べると10年遅れている感じだと述べた[1]。
2012年から2015年にかけて、プロ棋士相手の公開対局においては4子を超える手合で勝つことがなく、棋力の伸びが停滞していると考えられていたが、Google傘下の英国・Deepmind社が開発した人工知能コンピュータソフト「AlphaGo(アルファ碁)」が、2015年10月に樊麾(英語版)(フランス)との対局で、史上初となるプロ棋士相手の互先での勝利を収めると、翌2016年3月には世界トップクラスのプロ棋士である李世乭(韓国)との五番碁にも勝利し、人類のトップクラスに一気に並び追い越した。
歴史
1960年代 … 38級程度
1970年代 … 15級程度
2000年代後半 … アマ三 - 四段程度
2010年代前半 … アマ四 - 六段程度
2016年〜  …プロ最強レベルと互角以上
1970年代以前
コンピュータ囲碁の研究はアメリカで始まった(1962年Remusによるコンピュータ囲碁の論文「囲碁の好手、悪手に関する研究」)。最初に19路盤で動作するプログラムを書いたのは1969年のアメリカのZobristで、この時の棋力は38級程度(囲碁のルールを覚えた程度の棋力)であった。
70年代に入って、置かれた石の周辺に発生する影響力を関数として扱う手法や、石の生死を判定するアルゴリズムなどが生まれた。1979年には、攻撃と防御の基本的戦略と、完全につながった石を「連」、つながってはいないがひと塊の石として認識できる石の集まりを「群」として扱う階層パターンを持った囲碁プログラムInterim.2が15級程度の棋力を発揮した[2]。
1980年代
1984年に、初めてのコンピュータ囲碁大会USENIXが開催される。翌1985年、台湾の応昌期が設立したING杯(1985-2000)は2000年までに互先で人間の名人に勝てば4000万台湾ドル(約1億4千万円)の賞金を出したことで有名になった。
80年代のソフトでは、アメリカの「Nemesis」「Go Intellect」、台湾の「Dragon」、オランダの「Goliath」などが有力で、日本の第五世代コンピュータでも人工知能応用ソフトとして「碁世代」が開発された。また、この頃から、商用囲碁ソフトが販売されるようになった。
1990年代
90年代になると中国の「Handtalk」、「Silver Igo」などがアマチュアの級位者上級並みの棋力に到達した。また、日本での大会としては、FOST杯(1995-1999)、世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ(2003-2006)などが開催された。
初期のコンピュータ囲碁のアルゴリズムは、人間の思考に近い手法を採用していた。まず、石の繋がり・地の大きさ・石の強さ(目の有無)などからある局面の状況を評価する静的評価関数をつくる。次に、評価関数の結果を元に石の活きを目指す・相手の石を殺す・勢力を拡大するなどさまざまな目的の候補着手を導く。もしくは、定石・布石・手筋などのデータベースを参照する知識ベースの手法により候補となる着手を作成する。各着手についてその後、数手進めた局面を評価関数によって評価する(ゲーム木探索)。到達局面での評価を元にミニマックス法により互いの対局者が最善手を選択した場合の現局面における各候補着手の優劣の評価を行い着手を決定する。その際、アルファベータ法を採用し、有望ではない着手の先読みを途中で打ち切り、有望な手を深く読む工夫を施した。
1993年、ランダムな候補手で終局まで対局をシミュレーションし(プレイアウトという)、その中で最も勝率の高い着手を選ぶというモンテカルロ法を応用したアルゴリズムを持つ囲碁プログラムが登場した。当初は、コンピュータの性能が低かったことと、単純にランダムな着手によってプレイアウトを行ったため従来の手法を持ったプログラムより弱かった(原始モンテカルロ碁)。
2000年代
2000年代後半になって、ゲーム木探索とモンテカルロ法を融合し、勝率の高い着手により多くのプレイアウトを割り当てプレイアウト回数が基準値を超えたら一手進んだ局面でプレイアウトを行う「モンテカルロ木探索」を実装した囲碁プログラム「Crazy Stone」が登場し、パソコンの計算能力の向上もあいまって格段の棋力向上を果たした。2006年、「Crazy Stone」が第11回コンピュータオリンピアードの9路碁部門で優勝すると、急速にその手法が広がり他の多くのソフトウェアも同様のアルゴリズムを採用した。
2007年に開催された第1回UEC杯コンピュータ囲碁大会で優勝した「Crazy Stone」(2011年から『最強の囲碁』として市販)は、エキシビジョンマッチでプロ棋士の青葉かおり四段(以下、段位・称号は対局当時のもの)との8子局に勝った。翌2008年第2回大会優勝時には青葉との7子局で勝ち、同年8月には情報処理学会のイベント「第7回情報科学技術フォーラム」でトッププロの王銘琬九段と対局し、19路盤の8子局で中押し勝ち、9路盤の黒番互先で1目勝ちをおさめた。王はこの対局を振り返って、「十九路盤の棋力を判定するならアマ三段ぐらいだが、まだ底知れない力を秘めている」「プロレベルまで、十年以内で来るのではないか」と評価している[3]。また、2008年3月には、パリ囲碁トーナメントのエキシビジョンで、モンテカルロ碁の「MoGo」がタラヌ・カタリン五段と対戦し19路盤では9子のハンデをもらって敗れたが、ハンデなしの9路盤で3局対戦し1局に勝利した。
2009年8月には、同年5月に開催された「第14回コンピュータオリンピアード」の優勝プログラム「Zen」(『天頂の囲碁』として市販)が、王銘琬から9路盤黒番コミ2目半で勝利した[4]。Zenも実力をアマチュア三 - 四段と評価されており、王は「従来の囲碁ソフトは読み切れる局面で力を発揮したが、このソフトは読み切れないような難しい局面において力を発揮する」と評価した。
2010年代前半
2010年10月には、第15回コンピュータオリンピアードの優勝プログラムである台湾の『ERICA』と藤沢里菜初段の対局が6子局で打たれ、結果は藤沢の中押し勝ちとなった。ERICAは序盤に悪手を連発したものの、中盤からは独特の手を打ち、藤沢は「最初は順調だったが、途中から定石にない手を時々打たれて難しくなった」と対局を振り返った[5]。
2011年12月には、第5回UEC杯コンピュータ囲碁大会のエキシビションとして、優勝した「Zen」と鄭銘瑝九段、準優勝の「ERICA」と小林千寿五段の対局が持ち時間30分の6子局で打たれ、ERICAは敗れたがZenは中押し勝ちした。鄭はZenについて「アマチュア四段以上はある」とその実力を評価した[6]。
2012年2月25日には、ライブストリーミングサイト「ニコニコ生放送」の企画で、Zenと二十四世本因坊秀芳(石田芳夫九段)の13路盤対局が、Zenの黒番コミなしで打たれ、結果は石田の中押し勝ちとなった[7]。石田はZenの実力について、19路盤なら5子差程度ではないかと語った。
2012年3月17日には、電気通信大学のイベントで、Zenと大橋拓文五段との9路盤対局、同じくZenと武宮正樹九段との19路盤対局が行われた。大橋との対局は持ち時間20分、コミ7目で黒と白を入れ替えての2局打たれ、ZENの黒番では大橋の中押し勝ち、白番ではZenの5目勝ちとなった。武宮との対局は持ち時間30分、一局目が5子局、2局目が1局目の結果を受けての一番手直りで打たれ、1局目はZenの11目勝ち、4子局となった2局目はZenの20目勝ちとなった[8]。
2012年11月25日には、電気通信大学のイベントで、Zenと蘇耀国八段、大橋拓文五段、一力遼二段の3名が9路盤で対局した。対局はプロ一人がそれぞれ黒と白を1局ずつ持って計6局、黒番コミ7目の持碁有りで打たれ、プロの6戦6勝となった。盤面の小さな9路盤はコンピュータに有利な舞台ではあったが、プロ側は事前研究を重ね、また、一力が劣勢から逆転した第1局の勝利からもヒントを得て全勝を果たした[9]。
2013年からは「電聖戦」が開催されることとなった[10]。これはその年のUEC杯コンピュータ囲碁大会で決勝に進んだ2つのプログラムが、日本棋院のプロ棋士とハンデ付きで戦うというものである。第1回大会では石田芳夫が4子局で戦い、Zenには中押し勝ちしたもののCrazy Stoneには3目負けした。石田はCrazy Stoneを「アマ六段くらいの力は十分ある。ただ、プロレベルにはまだまだ」と評した。大会実行委員長の伊藤毅志は「プロレベルになるのは約10年後」と語った[11]。
第1回囲碁電王戦
2014年2月11日には、コンピュータ将棋と人間が対局する棋戦「将棋電王戦」を主催するドワンゴが、囲碁版となる「囲碁電王戦」を電気通信大学の後援で開催した。第1回はエキシビジョン的な要素が強く、本格的なものではなかった。張豊猷八段と平田智也三段がZenを相手に9路盤でそれぞれ黒と白を1局ずつ持ち、合計4局が互先先番コミ6目半、持ち時間20分・秒読み30秒で打たれ、人間側の4戦4勝となった。Zenの開発者である加藤英樹は「プロ棋士にもミスがあったが、チャンスを生かすことができなかった。これまではコンピューターが打つ手の意外性で人間と戦ってきたが、研究を重ねられて通用しなくなってきたようだ。ソフトに改良を加え、来年こそは勝ちたい」と語り、張は「コンピューターの打ち方を学んでいたからこそ勝てたが、小さい碁盤ではプロとコンピューターは、ほとんど互角だと思う」と感想を話した[12]。また、第1回電王戦では世界アマチュア囲碁選手権戦 日本代表決定戦連覇の実績を持つ江村棋弘とZenの13路盤対決、政界きっての打ち手とされる小沢一郎アマ6段とZenの19路盤対決も行われており、13路盤対決は白黒を入れ替えて2局行われたがいずれも江村の勝利、1局のみ行われた19路盤対決ではZenの勝利となっている。Zen開発チームの代表・加藤英樹は「小沢さんとの一戦では、厳しい手を選ぶことが多いZenが(人間のように)囲い合っていたのは新たな発見。19路でプロと互角に戦うのは大変だが、9路では10年程度で追いつきたい」と話した[13]。同年7月26日、ニコニコ囲碁サークルにおいて、小沢一郎同様政界の強豪である与謝野馨アマ7段とZenの対局が行われ、Zenが勝利している。
2014年3月の第2回電聖戦では、依田紀基九段がCrazy Stone(UEC杯準優勝)、Zen(UEC杯優勝)と向4子局(下手半目コミ出し)を打ち、Crazy Stoneに2目半負、Zenに中押し勝ちと、第1回とほぼ同じ結果に終わった[14]。2014年12月の時点ではコンピュータが人に勝つのは10年後になるのではと予想されていた[15]。
2015年1月には世界最強銀星囲碁15と井山裕太名人が向4子局を2局打ち、井山が2勝した。PCのスペックはCPU: Core i7-5960X 8コア 3.0GHz メモリ: 16GB、第1局は白30目勝ち、第2局は白1目勝ちだった[16]。
2015年3月の第3回電聖戦では25世本因坊治勲(趙治勲マスターズ)がCrazy Stone(UEC杯優勝)と向3子局、Dolbaram(UEC杯準優勝)と向4子局を打ち、Crazy Stoneに中押し勝ち、dolbaramに中押し負けした。
2015年5月には、人工知能学会全国大会において下坂美織二段がZenと3子局を打ち、下坂が中押し勝ちした。
2015年11月に行われたミリンバレー杯世界コンピューター囲碁トーナメントではDolBaramが優勝し、エキシビションマッチで中国棋院所属棋士の連笑七段(中国名人)がDolBaramと向4子局からの一番手直り3番勝負を行うことになった。結果は連笑が4子でDolBaramに中押し勝ち、5子でDolBaramに中押し勝ち、6子でDolBaramに中押し負けであった。
2010年代後半
アルファ碁の動向
2016年1月28日、Googleの完全子会社であるイギリスのGoogle DeepMind社が開発した、ディープラーニングの技術を用いた人工知能(AI)のコンピュータソフト「アルファ碁(AlphaGo)」が、2013年から2015年まで欧州囲碁選手権を3連覇した樊麾二段と対局し、5戦全勝したことに基づく研究論文がイギリスの科学雑誌ネイチャーに掲載された。囲碁界でコンピュータがプロ棋士に互先で勝利を収めたのは史上初である。
対局は2015年10月5日から10月9日にかけて、互先コミ7目半の中国ルール、持ち時間60分で切れたら1手30秒、ただし30秒単位で合計3回の考慮時間の条件で5局打たれ、1局目で白番のアルファ碁が2目半勝ちした後はいずれもアルファ碁が中押し勝ちした。またこの論文では、アルファ碁と市販版のCrazyStoneやZenなど5種の既存のソフトウェアが1手5秒の条件で対局し、495戦して494勝の成績を上げたこと、およびCrazyStone、Zen、Pachiの3ソフトに4子のハンデを与えてそれぞれに77%、86%、99%の勝率を上げたことを報告した。ソフト同士の対局を行ったアルファ碁のハードウェアはCPU48、GPU8の構成であるが、開発チームはCPU1202、GPU176からなる分散コンピューティングでもアルファ碁を稼働しており、こちらは前者に対して勝率77%を上げ、プロ五段の実力があると推定しており[17]、樊麾に対して勝利したのはこの分散コンピューティングによるものである。
李世乭との対戦
詳細は「AlphaGo対李世ドル」を参照
論文公開と同時にGoogleは、2016年3月にアルファ碁が韓国の第一人者である李世乭九段と五番碁を打つことを発表した。2016年2月22日にソウルで行われた記者会見において五番碁の詳細が公表され、対局は3月9日から15日までの1週間のうち5日間に1日1局ずつ、どちらかが先に3勝しても必ず第5局まで打たれ、持ち時間はチェスクロックを使用しての双方2時間で切れたら1手1分、ただし1分単位で合計3回の考慮時間があり途中休憩はなし、コミ7目半の中国ルールで打たれる[18]。Googleが李に支払う金額は、対局料として15万米ドル、五番碁に3勝して勝利した際の賞金が100万米ドル、それとは別に1局勝つごとにボーナスが2万米ドル(支払いは1米ドル=1100韓国ウォンの固定レートで行われる)、アルファ碁が五番碁に勝利した際は100万米ドルをUNICEF、STEM教育(Science=科学、Technology=技術、Engineering=工学、Mathematics=数学)および囲碁関連慈善団体に寄付するとされた。対局はアルファ碁が先に3勝をあげ、通算成績4勝1敗で勝利した[19]。
バージョンアップ
2016年から2017年の年末年始にかけて、インターネット対局場の東洋囲碁、野狐囲碁に「magister」「master」と名乗るアカウントが登場し、柯潔、朴廷桓、井山裕太ら全てトップレベルのプロ棋士と推定される相手に1手60秒未満の早碁で60戦全勝の結果を残し話題となった。2017年1月4日にDeepMindのCEOであるデミス・ハサビスは自身のTwitterアカウントで、この2つのアカウントはバージョンアップしたアルファ碁の非公式テストを行ったものであったことを明かし、対局した棋士への謝辞を述べるとともに、2017年中に長時間によるプロ棋士との公式の対局の予定があることを発表した[20]。
囲碁の未来サミット
DeepMind社CEOのデミス・ハサビスは2017年4月10日に、同年5月23日から27日までの5日間にわたり、中国浙江省の烏鎮で「囲碁の未来サミット」を開催することを発表した。メインイベントとして、2017年現在で世界最強の棋士とされる中国の柯潔九段とアルファ碁の三番碁が打たれ、柯潔は対局料として30万ドルを受取、三番碁に勝利した際の賞金として150万ドルが設定された。持ち時間は3時間で切れたら1手1分、ただし1分単位で合計5回の考慮時間ありのルールで打たれる。 この他、5月24日には時越、陳耀燁、芈昱廷、唐韋星、周睿羊の中国トッププロ5人が合議でアルファ碁と対局するチーム対局、5月26日には古力と連笑のこれも中国トッププロがそれぞれアルファ碁とペアを組み、「人間&コンピュータ」のペアが1手ずつ交互に打って相手のペアと競うペア対局が打たれる[21][22]。
アルファ碁以外の動向
2016年2月には、Zenと伊田篤史十段が4子局を打ち、Zenが中押し勝ちした。
2016年3月1日には、ドワンゴが東京大学と日本棋院の協力を得て、世界最強の囲碁AIを目指す「DeepZenGoプロジェクト」の発足を発表した。Zenの開発者である尾島陽児と加藤英樹を中心に、ディープラーニングを専門とする東京大学の松尾豊研究室が参加し、ドワンゴは自らの有するディープラーニング専用GPUサーバファームを提供し、半年から1年でアルファ碁に対抗しうるコンピュータ囲碁の開発を目指す[23]。記者会見に出席した加藤は、現段階でZenはアルファ碁に対して勝率は3から4%と推定されるが、両者の差は開発環境におけるハードウェアの物量と性能差によるところが大きいとし、アルファ碁に匹敵する環境を得られれば1年で追いつき追い越すことも可能であると述べた(以下、本プロジェクトに関与するZenを特に「DeepZenGo」と記載するが、引用元の発言で単にZenと語られている場合はそのまま記載する)。
2016年3月の第4回電聖戦では、小林光一名誉棋聖がZen(UEC杯優勝)、darkforest(UEC杯準優勝)と向3子局を打ち、Zenに4目半負け、darkforestに中押し勝ちした。Zenはアルファ碁以外のコンピュータ囲碁として初めて公開の場で3子局でプロ棋士に勝利した。
2016年6月7日には、第30回人工知能学会全国大会のイベントとしてZenと武宮陽光六段の2子局が打たれ、Zenが9目半勝ちした。Zenはアルファ碁以外のコンピュータ囲碁として初めて公開の場で2子局でプロ棋士に勝利した[24]。
2016年1月に日本棋院は「第1回13路盤プロアマトーナメント戦」を開催し、アマチュア予選にコンピュータ囲碁ソフトが参加可能であること発表した[25]。同年6月に開催されたアマチュア・コンピュータ代表決定トーナメントでは、同年UEC杯優勝のZen、4位のAya、6位のCGI、7位のRayの4ソフトが参加しアマチュア選手と本戦進出を争ったが、予選通過に5連勝が必要な中、Zenが3勝、その他3ソフトが1勝するにとどまり、予選通過はならなかった[26]。
2016年11月23日には、「寝屋川囲碁将棋まつり」でZenが河英一六段と互先で対局し、Zenが中押し勝ちした。
発足当初の発表通りに最後となることが発表されていた2017年3月の第5回電聖戦では、一力遼七段がFine Art(絶芸)(UEC杯優勝)、DeepZenGo(UEC杯準優勝)と互先で打ち、二局ともコンピュータ囲碁が中押し勝ちした。コンピュータ囲碁は初めて電聖戦でプロ棋士に連勝した。
第2回囲碁電王戦
2016年11月9日にドワンゴはZen開発者の加藤、東大松尾研、日本棋院と共同で「DeepZenGoプロジェクト」の中間報告を行い、同年9月段階におけるDeepZenGoが、2015年10月にアルファ碁が樊麾に勝った時と同程度の棋力に向上したと推定されることを発表した。これを受けて同時にドワンゴは第2回囲碁電王戦を開催し、DeepZenGoと趙治勲名誉名人が11月19日から23日にかけて三番碁を打つことを発表した。三番碁は互先で日本ルールのコミ6目半、持ち時間はチェスクロックを使用した2時間で切れたら1手1分、ただし1分単位で合計3回の考慮時間があり、途中でどちらかが先に2勝を上げても必ず第3局まで打たれる条件で行われる。対局におけるDeepZenGoのハードウェアスペックはCPU: Xeon E5-2699v4×2(44コア、2.2GHz)、GPU: TITAN X(Pascal世代)×4であり、ソフトウェアとハードウェアの趙への貸与は行われない[27]。
11月19日に打たれた第1局は223手で黒番趙の中押し勝ち。序・中盤ではDeepZenGoが趙をリードし、対局中には立会人の張栩九段が「ここまではボクより強い打ち方をしているのでは。基本がしっかりしている」と評価し[28]、趙も対局後「布石がめちゃくちゃ強い。まだ展開が予想できない序盤での想像力の高さに人工知能の強さを感じた」と振り返った[29]。しかし終盤のヨセでDeepZenGoに疑問手が出ると趙が正確な着手で逆転した[30]。
11月20日の第2局は179手で黒番DeepZenGoが中押し勝ち。DeepZenGoはアルファ碁以外のコンピュータ囲碁として初めて公開の場で互先でプロ棋士に勝利した。DeepZenGoは第1局同様に序盤でリードを築くと最後は趙の大石を殺して勝利を確定させた。開発者の加藤は「感無量です。(持ち時間を1時間近く残して負けた)第1局より一手の考慮時間を1.6倍増やした。最終局に向けてさらに改良[31]を加えていきたい」と語り、趙は「強すぎますね。人間が気がつかない手を打つ。ソフトが出たら勉強したい」と振り返った[32]。
11月23日の第3局は167手で黒番の趙が中押し勝ちし、2勝1敗で三番碁の勝ち越しを決めた。模様を張るDeepZenGoに対して趙が実利を稼いで凌ぐ展開となったが、ヨセに入った段階でDeepZenGoが形勢を過大評価していることを悟った開発者の加藤が投了を判断した[33]。3局全体を振り返って趙は「強かった。日本にきて55年間囲碁の勉強をしているけど、今までの積み重ねは何だったろうというくらい、序盤の感覚は違った。3月にZenの碁を見てから半年でボクは退化したけど、その間にZenはすごく成長した。半年後に対局したら負けちゃうかもしれないけど、恥ずかしいとも、悔しいとも思わない。AIが強くなったら、それを使って勉強して、互いに強くなっていったらいいんですよ。ここまで強くなってくれて感謝の気持ちしかありません」と語り[34]、加藤は「負けたほうが得るものが多い。どこを直せば強くなるのか方向が見えてきたので、得るものが多い対局だった」と総括した[35]。
ワールド碁チャンピオンシップ
2016年11月29日に日本棋院は、新国際棋戦「ワールド碁チャンピオンシップ」を2017年3月21日から23日に大阪で開催することを発表した。日本・中国・韓国のプロ棋士代表とコンピュータ囲碁の4者が総当たり戦で争う。日本ルールのコミ6目半で持ち時間は3時間。賞金は優勝3000万円、準優勝1000万円、3.4位500万円。日本代表として井山裕太九段(発表当時六冠)、コンピュータ囲碁はDeepZenGoの出場が同時に発表され[36]、中国代表は芈昱廷九段、韓国代表は朴廷桓九段が出場する[37]。日本棋院はアルファ碁にも出場を打診したが、スケジュールの都合で不参加となった[38]。
3月21日の芈昱廷九段 - DeepZenGo戦は283手で芈が黒番中押し勝ち[39]。22日の朴廷桓九段 - DeepZenGo戦は347手で朴が黒番中押し勝ち[40]。23日の井山裕太九段 - DeepZenGo戦は235手でDeepZenGoが黒番中押し勝ちし、DeepZenGoは1勝2敗の3位に終わった[41]。
コンピュータ碁の課題だった点
モンテカルロ碁の登場前
評価関数が作りづらいこと
チェスや将棋では、それぞれの駒の価値が異なるため、駒の交換による損得を評価することができる。また、王将・キングというターゲットがはっきりしているため、王将・キングの守りが薄いか堅いかを評価するなど比較的有効な評価関数を作ることが可能である。しかし、囲碁では、石自体に軽重がなく、置かれた場所や形により要石になったりカス石になったりする。そのため、チェスや将棋のように、有効な評価関数を作ることはできなかった。
オセロでは、隅を取ることが非常に重要である。そのため、隅を占めることを高く評価する評価関数が有効である。しかし、囲碁では、同じ盤上の地点であっても、状況によってその価値が大きく異なることが多く、ここを占めれば明らかに有利という評価が難しい。
感覚的な部分が多いこと
将棋に比べ、囲碁は最善手と次善手の差が少ない。また、理詰めで着手を導きやすい将棋と比較して、感覚的な部分が多分にあることも、コンピュータプログラム(アルゴリズム)との親和性が低い一因である。
データベースが膨大であること
将棋・チェス・オセロの定跡と囲碁の定石では、終局までの手数に占める定石・定跡の手数の割合が将棋・チェス・オセロのほうが高く、勝敗に対する影響度も定石に比べ定跡のほうが高い。そのため、データベースの充実による棋力上昇は、将棋・チェス・オセロのほうが効果的である。オセロと囲碁は、終局に向かうにつれて、着手可能点が減り、最終的には読みきり可能な点で等しい。しかし、オセロの場合は、定石が終わり終局まで読みきれる終盤に至るまでの間(中盤)が囲碁と比べ圧倒的に短い。
盤面が広いこと
将棋・チェス・オセロ・囲碁の盤面の広さは、囲碁が一番広く[注釈 1]、しらみつぶしに着手を評価する場合も囲碁が一番困難である。
このような理由により、悲観的な見方では21世紀中に名人に勝てるコンピュータソフトは現れないだろうと言われていた。限られた範囲内の死活を問う詰碁ではしらみつぶしに着手を探ることでプロ級の評価が挙がるプログラムはあったが、実戦の死活は詰碁になっている部分から石が長く連なっている場合も多く、その先で一眼できる可能性があったり、他の生きた石と連絡が残っている場合がある。更に、仮に石が死ぬケースであってもフリカワリでそれに代わる利得がある場合などもあり、しらみつぶしに調べるには手数が膨大で不可能である。このため、あらゆる手を読まなければならない複雑な中盤になると、途端に弱くなる。特に厚みをどう評価するかは人間のプロにも非常な難題であり、これをプログラムに組み込むことはきわめて難しかった。
モンテカルロ碁の登場後
一方、囲碁は将棋などに比べて最善手と次善手、三番手の差が小さく一本道の攻防が少ないという特徴から、ランダムなプレイを多数回行って勝率を調べることで形勢を評価することが可能である。したがって、その性質を利用したモンテカルロ碁の登場により、2009年にはこの段階でアマチュアの最上位者やプロ目前の奨励会員三段と同等の棋力と評価されていたコンピュータ将棋よりも先に、プロ最上位者に勝つのではないかとする見解も現れた[42]。また、モンテカルロ碁では、従来の評価関数を用いるアルゴリズムに比べて、ソフト開発者の棋力がそれほど必要ない[注釈 2]そのため、研究者の裾野の広がりが期待できるとされた。
モンテカルロ碁は、終局までをシミュレーションし、勝率の高い着手を選択する。したがって、計算力が棋力に大きな影響を与える。このことから、プレイステーション3を8台使用するソフト「不動碁」が現れるなど、計算機の廉価化も棋力向上の要素となっている。また、アルゴリズムの改良により、木探索の効率化も図られている。具体的には、石の配置などから良さそうな手を判断し、優先的もしくは限定的にプレイアウトを行う方法、終局図に至る手順を考慮せずすべての着手を1手目とみなすことにより1回のプレイアウトで数十倍のプレイアウト結果を得たと仮定してプレイアウト回数を稼ぐ方法などがある。
モンテカルロ碁の弱点として、死活やシチョウなど「正解手順はたった一つでかつ長手順だが、正解手順とそれ以外の手順に極めて大きな結果の差が生じるような」手順を見つけにくい点がある。単純なランダム着手によるプレイアウトでは弱いが、着手点を絞るためには手の評価を行わねばならず、正確な評価をしようとするほど、リソースを消費し、プレイアウトの数を減らさざるを得ないという矛盾が生じる。このため、パターンの少ない小碁盤であるほど、一般にその棋力は向上する。
他方で、目算が苦手であるなどの問題点[43]も明らかとなっている。
こうした問題点は将棋ソフトがプロ棋士を次々と下している(将棋電王戦に関する記述を参照)中で、19路盤はおろか13路盤でもアマの日本代表クラスに歯が立たないなど、囲碁における棋士の優位はしばらくの間揺るがなかった。 このため、モンテカルロ法も限界に近付いており、新手法の発見がなければプロ棋士の優位を揺るがすのは難しいとする開発者サイドの見方もあった[44]。
その後、着手を絞る方法をいかに簡素で効果的にするか、もしくは、プレイアウトの数を稼ぎいかに有効な手に深くモンテカルロ木探索を延ばすかというアプローチで、モンテカルロ碁の研究が進んでいた。
アルファ碁(AlphaGo)の登場
「AlphaGo」および「AlphaGo対李世ドル」を参照
2015年10月に非公開で行われていた対局でGoogleが開発したコンピュータソフト「アルファ碁(AlphaGo)」が、欧州のプロ棋士であるファン・フイ(中国ではプロ二段)と対戦し、5戦全勝していたことが2016年1月28日に各報道機関を通して伝えられた。アルファ碁はモンテカルロ木探索にディープニューラルネットワークを組み合わせており、自ら対局を繰り返して試行錯誤し強化学習を行った。その結果、アルファ碁は他の市販ソフトに500局中499局で勝利を収めるほどの実力に達し、他のソフトがトッププロ棋士に3子置いても勝つのが難しいという状況から驚異的なブレイクスルーを果たすこととなった。
コンピュータ囲碁棋戦
コンピュータオリンピアード(囲碁部門は1989年より開催)
UEC杯コンピュータ囲碁大会(2007年 - )
CGFオープン(2001年 - )
世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ(2003 - 2006年)
ING杯(1985 - 2000年)
FOST杯(1995-1999)
KGSコンピュータ囲碁トーナメント
21世紀杯
天宇杯
SG杯
European Go Congress
FJK2000 コンピュータ囲碁大会
囲碁プログラム
Crazy Stone
最強の囲碁(2011年 - )
Zen
天頂の囲碁
KCC Igo(Korea Computer Center)
世界最強 銀星囲碁
ファミリー囲碁
バリュー囲碁
おやじの挑戦 囲碁の奥義
Go++(Go4++)
最強の囲碁(- 2010年)[45]
The Many Faces of Go
AI囲碁
igowin
Goemate(HandTalk)
手談対局
最強囲碁伝説 ハンドトーク
HARUKA
対局囲碁 最高峰
囲碁一番
Wulu
囲碁皇帝 烏鷺
Katsunari(勝也)
やさしい囲碁指導対局
若葉
至高の囲碁 永聖
お気軽囲碁対局
囲碁世界
達観の囲碁
囲碁大全
初段くん
Aya(彩)
囲碁世界V
剛腕王 孟帝
囲碁大全コンプリート
MASAYAN
囲碁初段
Go Intellect
平成棋院
道策
囲碁塾
Goliath
対局囲碁 ゴライアス
GREAT 5
GNU Go
MoGo
Erica
Fuego
Fungo
Martha
GORO
caren(カレンのささやき)
Leela
Steenvreter
不動碁(GGGo、GGMCGo)
思考錯碁
Yogo
Smart Go
GoLois
Indigo
Explorer
NeuroGo
Go Star
Topgoer
GMS
Northan Star(Polar Star)
GoAhead
Dariush
Star of Poland
Jimmy
碁世代(GO Generation)
EGO(Nemesis)
AlphaGo
DeepZenGo(Zenを基礎としている)
注釈
^ 盤面状態の種類は、オセロで10の28乗、チェスで10の50乗、将棋で10の71乗と見積もられるのに対し、囲碁では10の160乗と見積もられる。また、ゲーム木の複雑性は、オセロで10の58乗、チェスで10の123乗、将棋で10の226乗と見積もられるのに対し、囲碁では10の400乗と見積もられている。ただし、9路盤の囲碁はチェスほど複雑ではない。
^ 将棋のBonanzaなどの例外はあるが、通常は戦法などについての知識が必要となる。
脚注
^ 山下宏 (2014年6月22日). “コンピュータ囲碁の仕組み 将棋との違いの資料” (ppt). YSSと彩のページ 2015年3月3日閲覧。
^ 人工知能概論14ページ
^ 「メイエン事件簿」第30回 かんぱいモンテカルロ 2008年9月8日
^ 囲碁ソフト『天頂の囲碁』とプロ棋士の王九段が公開対局 マイコミジャーナル2009年8月11日
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^ 第2回電聖戦より。なお、手合割の決定に際し、運営委員会は「今年のUEC杯のコンピュータ同士の対戦から、顕著な進歩が見られなかった」としている。
^ “The Mystery of Go, the Ancient Game That Computers Still Can’t Win”. www.wired.com (2014年12月5日). 2016年8月3日閲覧。
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^ 将棋電王戦ではバージョンアップや改良は禁止されており、実際に佐藤紳哉からやねうら王に「棋力が向上している」というクレームがありドワンゴはこれを「運営の判断ミス」と言ってバージョンアップ前のソフトと対局することに決定したが、囲碁電王戦ではDeepZenGo側が「最終局に向けさらに改良を」と述べているようにプログラムの修正が認められている。
^ 和製囲碁AI、トッププロに初勝利 電王戦、勝敗タイにasahi.com 2016年11月20日 2016年11月21日閲覧
^ 囲碁電王戦 趙九段がAIに勝つ 最終局で2勝1敗 毎日新聞2016年11月23日 2016年11月23日閲覧
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^ 井山裕太六冠が来春、AIと対局へ 「ワールド碁チャンピオンシップ」で 産経ニュース2016年11月29日 2016年11月29日閲覧
^ 井山は朴に、DeepZenGoは芈に敗れる【ワールド碁チャンピオンシップ1回戦】
^ 井山、DeepZenGoともに連敗【ワールド碁チャンピオンシップ2回戦】
^ 朴廷桓九段(韓国)が優勝! DeepZenGoが井山に勝利【ワールド碁チャンピオンシップ3回戦】
^ でるかコンピューター名人 囲碁に確率重視の「モンテカルロ法」 朝日新聞2009年4月8日 2009年4月9日閲覧
^ 第一回囲碁電王戦初日 たかお日記 2014年2月11日 2014年3月19日閲覧
^ プロ棋士やあの小沢一郎氏が参戦!!将棋電王戦の囲碁版『第1回囲碁電王戦』開催 週アスPLUS 2014年3月19日閲覧
^ 2010年開発終了
参考文献

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年6月)
『週刊碁』2009年1月12日号
Playing with Shannon: a forum about computer go programming
囲碁における正確な着手予測のためのファジーパターンマッチング
コンピュータ囲碁の歴史と将来の展望(勝也作者による解説)
コンピュータ囲碁研究の現状と展望
コンピュータ囲碁(特集ゲームとコンピュータ)(Aya開発者によるコンピュータ囲碁の解説)
モンテカルロ法で囲碁、将棋(Aya開発者によるモンテカルロ碁の解説)
コンピュータ囲碁における モンテカルロ法 - 理論編 -
コンピュータ囲碁における モンテカルロ法 - 実践編 -
モンテカルロ木探索 : コンピュータ囲碁に革命を起こした新手法
関連項目
人工知能
評価関数
三目並べ
囲連星
コンピュータ将棋
コンピュータチェス
コンピュータオセロ
将棋 - チェス - 囲碁
二人零和有限確定完全情報ゲーム
外部リンク
コンピュータ囲碁フォーラム
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KGSのロゴ
KGS(KGS Go Server)とは無料の囲碁サーバ、いわゆるインターネットを利用したネット碁サイトであり囲碁の対局・観戦・検討を無料で行うことができる。ユーザにはランク(30級から9段)が過去180日間に行われた公式対局から数理的に割り当てられ、その推移をランクグラフから見ることもできる。
米国の慈善家William Shubert氏が囲碁普及のために非営利で創始運営しており、各国の有志がボランティアとして協力することで成り立っている。また、日本国内の碁盤店棋聖堂がスポンサードし2006年までは棋聖堂碁サーバー(Kiseido Go Sever, KGS)として運営されていた。
会員数は10万人におよび、世界中の碁打ちが集っている。ヨーロッパからはフランス人が多く、アジアでは日本人、中国人が多い。一方、韓国からの参加は少ない。
プロ棋士による囲碁講座が有料サービスKGS Plusとして提供されている。KGS Plus会員と非会員(通常ユーザ)では、囲碁講座以外において差は無い。
クライアントはCGoban3と呼ばれるJavaのソフトを利用し、Javaのインストールが必要となる。棋譜はSGF形式で保存される。
2006年より棋聖堂との関係を弱めKGS (KGS Go Server)となった。
関連項目
ネット碁
外部リンク
KGS - 公式サイト
統計から見るKGS
■
囲連星(いれんせい)は、碁盤と碁石を使って行うボードゲーム。五目並べと囲碁が複合されたルールとなっている。
1987年、東陶基と伊田正規の対局中に生まれ、2005年に日本囲連星協会が設立された。
目次 
1	囲連星の特徴
2	囲連星のルール
3	棋戦
4	PCゲーム化
5	メディア掲載歴
6	プログラムコンテスト
7	外部リンク
囲連星の特徴
囲碁で使用する碁盤・碁石を使うので囲連星用の道具は特に必要ない。
五目並べの様に先に縦・横・斜めいずれかに七連を作った方が勝ちとなる。また囲碁のルールも踏まえており相手の石を囲んで取ることも可能である。
ただし以上のルールだけ(かんたん囲連星)だと競技として成り立たないため正式には競技用のルールが追加される。
五目並べと異なり必勝法も見つかっていないため、少ない禁手で対局が出来るようになっている。
対局時間も囲碁より短いことが多い。
囲連星のルール
先手後手交互に打っていき、先に縦横斜めに石を7つ並べると勝ち。
相手の石の一団の周囲すべて(上下左右方向に繋がっているものとみなす)を自分の石で取り囲んだ場合、その取り囲まれた石を盤上から取り除く(囲碁と同様)。
それ自身が取られてしまうような場所に石は打てない。ただし、それによって相手の石を取れる場合、ならびに打った石で自分の石が7つ並ぶ場合はこの限りではない。
コウは囲碁同様の制限がある(即座に石を取り返して元の盤面に戻すことは認められない)。
競技用ルールとして以下の2点が追加される。
黒は8つ以上の石を並べると反則負け。白は8つ以上でもよい。
一線、二線の石(隅の石)は7連にはカウントしない。
棋戦
現在行われている棋戦は3つあり、行われる予定のもの、行われていたものを合わせると5つになる。
現在(2007年6月16日現在)行われている棋戦
名人戦 最強者決定戦
テクノエイド杯 年間最多優勝者は棋星位が贈られる。
伊田名人追悼杯
連王戦 2本制の棋戦
初代連王 アーノルド・リマー
過去に行われていた棋戦
定例会 テクノエイド杯に吸収
PCゲーム化
創始者である東陶基が自らの私財を投じ、パソコン用のフリーソフトが開発され2006年4月に完成した。
CPU対戦以外にも思考ルーチンをユーザーが作成することが可能となっており、プログラムが得意な人にも楽しめるゲームとなっている。
メディア掲載歴
囲連星の公式HPに公開されているフリーソフトのメディア掲載歴の紹介。
Webページ
「窓の杜・第314回週末ゲーム」インプレス・2007年9月
雑誌
「脳活フリーソフト ベストセレクション」晋遊舎・2011年10月
「Mr.PC Vol.8 2010年2月号」晋遊舎・2010年1月
「週刊アスキー2009年11月3日号 Windows7発売記念特大号」アスキー・2009年10月
「別冊週刊アスキー ウィンドウズVistaに強力に効く!!フリーソフト500」アスキー・2008年2月
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「Windows100%」晋遊舎・2006年11月
プログラムコンテスト
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2006年11月に赤桐雅司作成のAIが対人初級レベルAIを獲得した。
外部リンク
日本囲連星協会 - 対局例、ルール、過去の大会結果など。
ベクター - 囲連星ゲームソフトを無料配布。
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東洋囲碁はインターネットによるネット碁の対局場。旧名称はタイゼム(Tygem)。2008年7月に東洋囲碁へ名称変更した。
運営主体の東洋オンラインジャパン社は韓国、東洋オンライン社の100%子会社である(設立2004年11月,資本金5000万円,本社:東京都港区赤坂)。東洋オンラインは東洋総合金融証券、東洋生命を中心とする東洋グループに属し、Tygem、pigwing(ゲームポータルサイト)、miclub(女性向けポータルサイト)の運営のほか、グループのIT関連業務を担当している。
外部リンク
日本版(東洋囲碁)
韓国版
中国版
台湾版
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サガリは囲碁用語で、すでに打たれた自分の石から、盤端に近い方に向けて隣接させて打つ手のこと。多くの場合第1~第3線に打つ手を指し、それより高い場合は「ノビ」や「ナラビ」という語が使われることが多い。動詞では「サガる」となる。昔は「オリる」という言葉も使われたが、近年では廃れている。下図1がサガリの実例である。
また、第4線の石からサガる手を、特に「鉄柱」と呼ぶことがある。極めて堅い形であることからこの名がある。下図の黒1が鉄柱の例。敵にサバキの形を与えないなどの利点があるが、反面重くなることもある。
目次 
1	サガリの活用例
1.1	定石におけるサガリ
1.2	死活におけるサガリ
1.3	ヨセにおけるサガリ
2	参考図書
サガリの活用例
定石におけるサガリ
高目定石の一形。黒1のサガリが手筋。この石は逃げられはしないが、以下白が2から8と取りに来る間に外から利かし、厚みを築く。
 	
死活におけるサガリ
黒1から3のハネサガリで、ふところを広げての生きとなる。
 	
上の左図、▲のような一線までのサガリを、強調の意味を込めて「オリキリ」と呼ぶことがある。こうしたオリキリは石の死活に大きな影響を及ぼすことがある。この図の場合、右図黒1のホウリコミから黒3のオキで白が全滅となる。
ヨセにおけるサガリ
黒1のサガリがヨセの手筋。白が2のオサエなら、3から5とハネツギを先手で決められる。黒1で2にハネ、白6、黒1とハネツぐのは後手を引く。
参考図書
片岡聡『ノビとサガリ (烏鷺うろブックス)』日本棋院 1990年
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囲碁の形勢判断(いごのけいせいはんだん)とは、囲碁において、対局途中の局面を評価し、盤上の配置やハマの数から、どちらの対局者がどの程度優勢かを判断すること。
局面の将来の進行を予想しながら対局者は着手を決める。多くの場合、その予想たる読みには複数の可能性がある。その読みの中に現れる局面のうち、石取りなどの戦いがない状態を一段落(またはゲーム理論の静かな局面)と称し、その複数の一段落の局面を形勢判断し比較た上で着手を決める。
目次 
1	形勢判断の基本要素
2	石の働き
2.1	愚形と好形
2.2	手割り
3	石の強弱
3.1	利きと攻め
3.2	軽い
3.3	厚み
4	地の比較
4.1	模様と確定地
4.2	目算
4.2.1	序中盤の目算
4.2.2	終盤の目算
4.2.3	サガリサガリ法
4.3	模様と厚みの評価
5	着手の善悪による形勢判断
6	形勢判断に基づく戦略
6.1	形勢による戦略の変更
6.2	勝負手と形作り
7	その他
8	脚注
9	参考文献
10	外部リンク
形勢判断の基本要素
囲碁の形勢判断は、基本的には
石の働き
石の強弱
地の多少
の3要素の評価で行う。
石の働き
愚形と好形
第1図
第1図は殆ど囲碁を知らない黒と有段者の白の仮想の布石である。黒は囲碁を習った手始めに「隅から打つのがよい」と教わったので、黒1 - 7を1箇所に集め集四(またはダンゴ)の愚形を作った。その間に白は白2 - 6と3つの空き隅を占め、白8で1隅のシマリを打った。
この局面が白の大優勢であることは初級者にも分かる。白は働きのある好形を作り、黒は働きのない愚形を作ったためである。

第2図
第2図は初級者同士の仮想の布石である。黒も白も三線から始めて、2回ずつ一間トビを打った。この局面の形勢は黒白同形だから互角で、次に打つ黒が盤面ではコミの分くらい優勢と判断できる。

第3図
続いて黒は右上方面を地にしようと考え、右上隅に打つ前に黒7・9のノゾキを利かせるのが地を増やすのに得策と考えた。

第4図
白は逆に白12・14を利かすのが後の右上隅の戦いの役に立つと考え、それを打ってから左上隅に手を回した。
この局目の形勢は明らかに白がよい。白12・白14のノゾキは右上隅方面の黒模様の消しに役立つだけでなく、空き三角を重ねたような愚形の黒7子の攻めまで期待できる。黒は△のノゾキの2子がダメ打ちになっているのが形勢を損ねた原因である。なおこの局面で白が何目くらい優勢と見るかは棋力・棋風で異なり、プロ棋士が出す数字はアマチュアには必ずしもあてはまらない。互先の対局であれば、アマ高段者なら白大いによしと判断する。
手割り
第1図・第4図の形勢判断は分かりやすいが、プロ棋士の布石に現れる形では石の働きは互角か僅かな差である。そこで黒白同数の石を取り除いて評価の定まっている定石などと比べ、除いた石を戻して善悪を評価する。この手法を手割りと言う。言葉を変えれば手順を変えてみる方法でもある。手割りの方法は様々な工夫で精緻化されて発展し、現代では定石などの変化を碁の原理から分析する手法の総称として手割りという言葉が使われている[1]。

第5図
第5図は第4図から黒白2子ずつ取り除いた形で、この局面は黒白同形で互角である。

第6図
第5図から黒13 - 白16の手順で第4図と同形になる。この手順を見れば、黒13・15が殆ど無価値な悪手だと明らかに分かる。白14・16は壁にくっつける悪手ではあるが、右上隅の地の削減には役に立つ。互角の第5図から黒は価値がないに等しいな2手を打ち、白は少しは役に立つ2手を打ったことになり、白有利と判断される。なお第4図の白12・14は保留する意味もあるが、無駄のない利かしで悪手とは言えない。
石の強弱
利きと攻め
囲碁における石の強弱は、利きの数と確実性で判断される。ある黒石について、その近くに白石が着手されても黒石を補強する必要がなければ、その黒石は強い。逆に近くに白石が着手されると眼を作るとか逃げるなどの補強が必須なら、その黒石は弱い。相手からの確実な利きが多い石は弱く、その利きを利用されて損を招く。この利きを利用して得を図ることを攻めという。

第7図
第7図の△の石は、黒も白も下辺で眼を作る余地はなく、相手から封鎖されると死んでしまう。従って相手が近くに着手して封鎖を狙われれば、脱出しなければならない。つまり封鎖を狙う手が全て利きとなるので、弱い石である。

第8図
黒1が「攻めはケイマ」と呼ばれる手。白2以降は例えばこうなるという見本の手順で、白は眼を作るために隅の黒地を固めたり中央の黒模様を強化せざるを得ない。この形勢は白必敗と判断される。
軽い
石の強弱は利きの確実性でも判断される。利きがあっても手抜きして取られても構わない石なら、利きの確実性が小さいので弱い石ではない。そのような石を軽いという。
第9図
第9図は高目定石の一つで、白1と黒2を交換して一段落とされる。後では利かない恐れがあるので、この白1は早めに打つものとされている。白1の1子はシチョウアタリにでもなれば十分という意味での軽い利かしであり、黒が序中盤に白1の近くに着手しても滅多に逃げない。
厚み
厚みは一般的には外勢の意味で用いられ、カベ(壁)とも言う[2]。第9図の黒が厚みの例である。第7図の隅のシマリは外勢というよりは地模様だが、厚みと同様の効果を持ち、この意味でこのシマリを厚いところとも言う。厚みの効果は通常その高さで判断される。
自分の厚味の近くに相手が着手すれば、その石は弱い石となり、攻めを狙える。しかし眼形が不確かだったり切断の味がある厚みは、相手からの利きが生じて逆に攻められる場合もあり、これを壁攻めと言う。このような弱点のある外勢を薄みと呼ぶこともある。
自分の厚味の近くに着手すると、凝り形という石の働きが悪い形になり、愚形と言われる場合もある。これらを含意した格言が「厚味に近寄るな[3]」である。
地の比較
模様と確定地
隅から辺にかけて、また中央に関して、片方の石が多い場合は地になる可能性が高い。そのような勢力圏を模様と言う[4]。

第10図
第10図は右上隅の小ゲイマジマリから右辺と上辺の星下にヒラいた配置で、鶴翼の陣と言う[5]。通常の対局では珍しい大きい模様なので大模様ともいう。この配置はまだ地ではないが、白が打ち込んできても黒はそれを攻めての利得を期待できるので、「三線より下の範囲は黒地」と概算できる。

第11図
第10図から黒1 - 3を連打した。この黒1は模様を荒らしにくくする手で、模様に芯を入れると言う[6]。第11図となれば殆ど地と考えられるので地模様と言う。この配置なら「五線より下の範囲は地」と概算できる。
第10図にしても第11図にしても概算になるのは、他の石の配置で評価が変わるからである。例えば第11図でも右下隅に白の厚い配置があれば打ち込みで地が荒らされる可能性がある。また他方面に黒の弱い石があれば、白はそれを攻めながら右上方面の模様になだれこめる。

第12図
第12図の右上隅はまだ地模様だが、左下隅の形(星から小ゲイマに打ち、さらに二線にトビおりた形)となれば、アマチュア有段者なら地と判断できる。白がこの中に打っても、黒はその石を殺せるからである。これを確定地と言う。
目算
一般に、自分の地と相手の地を数えて形勢判断することを目算と言う[7]。しかしこれは『日本囲碁規約』から見れば厳密には正しくない。また実際の形勢判断における目算の意味から見ても正しい定義ではない。
1989年4月10日制定の『日本囲碁規約』には
第八条(地)
一方のみの活き石で囲んだ空点を「目」といい、目以外の空点を「駄目」という。
駄目を有する活き石を「セキ石」といい、セキ石以外の活き石の目を「地」という。
とあり、ダメが空いている石の「目」は「地」ではない[8]。

第13図
第13図の右上隅は8目の黒地と見える。しかしダメが空いているので、このまま終局すると「セキ石」となり、地はないことになる。右下隅の黒1とダメを詰めて地になる。白1と打っても同じく黒地になる。
左上隅はキズがあり、白1に黒2の手入れが必要で、7目の黒地と見る[9]。
通常の対局では、ダメ詰めが終わった後に「対局の停止」となり、対局者の双方が合意して「終局」し、そこで活き石・セキ石が確定して地も確定する。この時点で碁は終わっているので形勢判断の必要はなく、一般には整地して双方の地の目数を比較し、勝敗を決定する。
この規約から、対局中の形勢判断の際の目算は「地を数える」のではなく、「終局時の地の大きさを予想して数える」のが厳密には正しい表現になる。実際には囲碁規約を意識したこの冗長な表現が使われず、単に「地を数える」と言う。
序中盤の目算
実際の形勢判断における目算の意味は、序中盤と終盤とで異なる。序中盤の目算とは確定地や地模様の地の大きさの評価である。自分の地と相手の地の大きさの差から、攻めるか守るか、相手の模様を荒らすか消すかなどの戦略・戦術の判断の材料を得る。

第14図
序中盤の目算では、地模様は確定地と見なし、相手からの先手ヨセを全て受けたと想定したの地の大きさを数えて評価する場合が多い。第14図の右上隅の小ゲイマジマリは、右下隅の黒1 - 白10とヨセられると見て、11目の地と概算する。同様に左上隅の大ゲイマジマリは、左下隅の黒1 - 白12のヨセを受けるとして、地を13目と概算する。この概算では大ゲイマジマリのほうが得なように見えるが、大ゲイマジマリの方が黒に手をつけられやすい弱い石なので、その分を割り引いて評価する。
終盤の目算
終盤の目算は終局時点の地の大きさの予想であって、終局までの読みに近い意味でも用いる。主にヨセが行なわれる終盤では、地の損得を考慮して
死活に関する手
両先手ヨセ
先手ヨセ
逆ヨセ
後手ヨセ
の順に着手する場合が多い。1や2が残っている段階では地の計算より読みが問題になるが、その読みの中で予想した将来の局面の評価には目算などの形勢判断を用いる。1と2を終えた後の目算では、以下の考え方を採る場合が多い。
先手ヨセは先手でヨセができる側の権利と考え、先手ヨセが打たれたものとして目算する。ただし先手ヨセをコウ材に使う必要があったり、先手ヨセを打つことが相手を固めて強い石にする場合があるので、先手ヨセを保留することもある。
自分の手番で逆ヨセが打てる場合、最大の逆ヨセと最大の後手ヨセを比較して、逆ヨセ・後手ヨセのどちらを打つか決める。一般に逆ヨセはその目数の2倍の後手ヨセに相当すると考えられるが、ヨセの箇所が限られているとこの計算は必ずしも成り立たない。例えば黒に逆ヨセ2目と後手ヨセ10目と後手ヨセ11目が残されていれば、「黒逆ヨセ2目、白後手ヨセ11目、黒後手ヨセ10目で黒1目得」、「黒後手ヨセ11目、白先手ヨセ2目、白後手ヨセ10目で黒1目損」なので、黒は逆ヨセ2目を選ぶ。この判断に基づいて目算する。
後手ヨセは双方がヨセた場合の中間の形を想定して目算する(「サガリサガリ法」を参照)。
この考え方で、後手2目と先手1目と逆ヨセ1目とがほぼ等価であると分かる。アマチュアの場合、半目勝負やジゴ一でない限り、最悪でも1目の損に過ぎないから、それらの比較は滅多にしない。比較する必要があれば目算では済まず、終局までのヨセを読みきる必要が生じる。
実戦に生じやすい後手1目よりも小さいヨセの例に半コウがある。半コウの大きさは、半コウを取る側に3分の1目の地があるとして計算する。
実際はヨセの過程で死活など石の強弱に関わる問題が発生する場合があるので、終盤の形勢判断も単なる目算では済まない場合が少なくない。
サガリサガリ法
第15図
第15図の上辺の黒地と白地を目算する。黒番なら右辺の黒1 - 3の後手ヨセを打ち、黒地7目と白地6目で黒が1目多くなる。白番なら同様に左辺の白1 - 3の後手ヨセを打ち、黒地6目と白地7目で白が1目多くなる[10]。両者の結果を平均すると、黒地と白地は同じ大きさと考えられる。前章で述べたように両者の中間の形を想定すると下辺となり、黒地7目と白地7目で同じ大きさである。これは上辺の図から下辺の図に至るのに、下辺の黒1と白2のサガリを打ったと考えてよい。このように地の境界に近い石から盤端に向けて黒も白もサガリを打ったと考えれば、双方がヨセた場合の中間の形になることが多い。この目算方法をサガリサガリ法と言う。

第16図
第16図の上辺の黒地と白地を目算する。黒番なら右辺の黒1 - 3の後手ヨセを打った後、サガリサガリ法で白4 - 黒5を打つと見て、黒地8目と白地5目で黒が3目多くなる。白番なら左辺の白1 - 白3の後手ヨセを打ってから、サガリサガリ法で黒4 - 白5を打つとして、黒地5目と白地8目で白が3目多い[11]。この2つの結果を平均すると、黒地と白地は同じ大きさと考えてよい。ここで双方がヨセた形の中間を想定すると下辺の形になり、黒地7目と白地7目で同じ大きさである。これは、上辺の図から下辺の図に至るのに、下辺の黒1 - 2および白3 - 4のサガリを打ったと見なせる。
第14図のシマリの評価も、地の境界に近い三線の石から盤端に向けてサガリサガリ法を適用したのと同じ結果になっている。このようにサガリサガリ法による目算は序中盤の地の概算にも、終盤の後手ヨセの評価にも、ほぼ妥当な値を与える。
模様と厚みの評価
第17図
第17図の右上方面の黒模様は、模様の端と端を×で結んだ範囲の地が見込めるとして概算する。上辺の一・二線の×はサガリサガリ法による。ただしこの形は地模様であって、白が打ち込んで荒らす手がない訳ではない。その場合でも黒には打ち込んできた白を攻めて他で利益を得られる可能性があるので、それを配慮した模様の評価である。
第17図の左下隅は白の小目から生じる定石で、ほぼ互角とされる。従って黒の厚みは白の地と同程度の価値があると考える。サガリサガリ法で白地を概算すると12目なので、黒の厚みの価値も12目程度のはずである。厚みの先端から下辺の端まで斜めに引いた範囲で概算すると、黒の厚みの価値は10目だが、上方へのノビキリの将来性や隅の白への影響力などを勘案して、ほぼ互角と考える。
このように、模様・厚みの評価は定石・布石の評価などの経験則に基づく場合が多い。過去に例のない模様・厚みの評価は、ヨセの場合と同様に黒から打った場合と白から打った場合とを読んで、それぞれの一段落の局面を評価し、その平均を取る場合が多い。両者の局面の差が大きい場合そこへの着手が急がれるので、これは読みの問題に帰着される。
着手の善悪による形勢判断
プロ棋士やアマチュア高段者の場合、序中盤の形勢判断は、それまでの自分の着手と相手の着手との善悪で評価する場合が多い。双方ともに悪手を打たなかった場合を互角とし、実際に打たれた悪手が地に換算して何目くらいの損かを考えて、現在の局面の形勢を判断する。この方が目算などより短時間で済み、棋力が高ければ精度も高いからである。
形勢判断に基づく戦略
形勢による戦略の変更
囲碁の着手は普通どこが最善かを考えて選ぶが、形勢によって以降の戦略を変える場合も少なくない。
一般に優勢の側は局面が単純になるように運んで戦いを避け、劣勢の側は局面が複雑になるように運んで戦いの機会を伺う。ただし序盤でやや不利といった場合には、むしろ手厚く打って相手に弱点が生じるのを待つ戦略(後の先など)を採ることも少なくない。
勝負手と形作り
劣勢な側が形勢の逆転を狙って戦いを仕掛ける着手を勝負手と言う。一般には一段落(または終局)までを読みきって着手を決めるとされるが、複雑で長手数を読む必要がある戦いではプロ棋士でも読みきれない場合がある。優勢の側はそうした見通しの立たない戦いを避け、劣勢の側はその戦いに逆転の可能性があれば積極的にその戦いを挑む。
また必敗の形勢であっても、難解な死活や攻め合いが残されている場合、そこを決着してから投了するほうが棋譜を鑑賞する者に分かりやすい。そこで手段が成立しないことを承知の上で、難解な死活や攻め合いに着手し、相手の的確な応手を見定めて投了する慣習があり、この着手を形作りと言う[12]。アマチュアの場合は形作りに受け損なっての逆転もあり得るので、「形作り」を「最後の勝負手」の意で使う場合もある。
その他
碁聖と称えられる本因坊道策の偉業の一つが手割りの創出である[13]。
絶妙の凌ぎで名高い趙治勲の凌ぎは「壁攻め狙い」と解説されることが少なくない。その著『カベ攻めの極意』の表紙には「モヨウをも攻めるべきと、発想の転換をうながす」と書かれている。
終盤になっても形勢の差が僅かで優劣か判断困難な局面は、どちらが勝っても半目差で終局する場合が多いので、半目勝負と言う。コミの無い対局の場合は持碁か1目差で終局する場合が多いので、ジゴ一と言う。
プロ棋士の場合、形勢の差が僅かでも優劣が逆転する可能性が少ないと判断できる局面がある。そのような局面を優勢な側から見て厚い形勢と言う。
高川格は「全盛時代には、ヨセの入り口から終局までを読みきって半目勝ちを確かめた」という趣旨の話を残されている。
テレビなどで「私は目算はしない」と公言される棋士も少なくない。「ヨセでは得な手を考える方が(目算に)優る」と説明されることもある。趙治勲の言葉に「過激な言い方ですが、形勢判断は必要ありません。そのときどきで盤上の現場をきちんと正しく処理していればそれでいいのです。その場その場の現実をよく観察して、手をヨムことに精を出すこと」がある。
石田芳夫は目算の速さと正確さから「コンピューター」の異名で呼ばれた。
日本では形勢判断で勝ち目がないと出たら潔く投了するのがよいとされている[14]。この投了の目安は目数の差(形勢の開き)ではなく、勝負手が残されているか否かと言われる。
コンピュータ囲碁の苦手なジャンルの一つが形勢判断であるとされる。棋士やアマ強豪でも厚み等の評価には感覚的なところが大きい上、現在コンピュータ囲碁で主に採用されているモンテカルロ法は長手数の読みに難があり、こうした読みなどを踏まえた形勢判断にも必然的に難ができてしまう。
脚注
^ 『囲碁百科辞典』103ページ
^ 『囲碁百科辞典』16ページ
^ 『囲碁百科辞典』158ページ
^ 『囲碁百科辞典』137ページ
^ 『囲碁百科辞典』41ページ
^ 隅の星から両辺の星へ開いた形なら、三々や星下、隅の星からの一間トビなどが模様に芯を入れる手になる。
^ 『囲碁百科辞典』138ページ
^ 本来「目」は「1目勝ち」のように盤上の空点の数助詞、「子」は「2子局」のように碁石の数助詞であるが、「2目の頭」のように「目」と「子」は混同されて同義語化している。「2目の頭」は「2子の頭」が正統である。
^ 死活に絡む手入れの例は隅の板六・バカ八を参照。
^ 双方のヨセの結果の差が2目なので「後手2目のヨセ」と言う。
^ 双方のヨセの結果の差が6目なので「後手6目のヨセ」と言う。
^ 将棋では、囲碁の「形作り」と同様の趣旨の手段に「最後のお願い」という言葉が使われる。
^ 『道策』1ページ
^ 中国などでは「形勢が悪くても最後まで最善を尽くすべき」という考え方もある。
参考文献
呉清源・三堀将・林裕 『道策』 筑摩書房〈日本囲碁体系〉、1975年。
石田芳夫『石田の形勢判断』毎日新聞社、1976年
小林光一『やさしい手割判断法』講談社、1984年
石田芳夫『三段の壁を破るこの手、何目 囲碁・形勢判断が簡単にできる』日本文芸社、1992年
趙治勲 『カベ攻めの極意』 河出書房新社〈新・木谷道場入門5〉、1996年。
小林覚『「手割り」プロの形勢判断法』毎日コミュニケーションズ、2005年。
林裕 『囲碁百科辞典』 金園社、1975年。
外部リンク
囲碁上達ヒント集
■
アテコミは囲碁用語のひとつ。相手の石が斜めに並んでいる(コスんだ形)とき、その両方に接触させるように打って次の切断を狙う手のこと。動詞では「アテコむ」となる。「ガチャン」とも。下図黒1がアテコミの例で、次にaの点にキリを狙う。

目次 
1	アテコミの例
2	関連用語
2.1	アテツケ
2.2	サシコミ
アテコミの例
黒1のアテコミで左右が連絡する。白aなら黒bでワタリ、白bなら黒aでこの石を取れる。
関連用語
アテコミに似た手段で、アテツケやサシコミがある。
アテツケ
黒1がアテツケ。アテコミと類似するが、自分の石から離れた場所に単独で打つニュアンスの言葉。これにより、種石である△白2子が落ちる。
黒1が最も得なヨセ方。AとBが見合いで、連絡している。
サシコミ
黒1のように、三方を相手の石が囲んでいるところに入っていく手を「サシコミ」と称する。
■
サバキ(さばき)は、
空手のテクニックの一つ。
囲碁用語の一つ。下記に記載。
目次 
1	囲碁のサバキ
2	サバキの実例
2.1	例1
2.2	例2
3	参考図書
囲碁のサバキ
打ち込みや模様の消しの際に、石の強弱を適切に判断して「弱い石や孤立した石の始末をうまくつけること」(大辞泉)。全てを助けようとするのではなく、捨て石の手筋を活用して形を整えるなどが代表的なサバキの手筋で、高度なテクニックに属する。敵の重包囲網下でなんとか二眼を作り、生きを求めるような打ち方は「シノギ」と呼ばれ、サバキと区別される。
「サバキはツケから」と言われる通り、敵の石にツケることからサバキの調子を求めることは多い。また「石数が少ないときはナナメライン」(苑田勇一)という格言もある。
サバキの実例
例1
黒1のキリに対し、下方の2子をなんとか助け出そうと白2,4のようにアテ押すと、△の1子が自然に呑み込まれ、黒に大きな地を与えてしまう。

白2のツケが手筋。黒3と立って抵抗するならば、白4から6・8と突き出して10とマガれば、右方の黒2子を制しながら頭を出し、白好調と判断される。

白2のトビツケに対しては黒3とノビるくらい。以下6までが定石とされる。白のサバキが成功した図。
例2
高中国流の布石から、白が右下の黒模様に侵入した場面。白1とまともにツグと、黒2・4・6と攻めを受け、下辺が黒地として固まってしまう上、白は眼型を作るあてもない。

白1が手筋。もし黒が2のキリなら、白5から7と突き抜き、▲の石を腐らせて好調。このように、敵の勢力圏内のサバキでは全ての石を助けようとするのではなく、捨て石を効果的に使って形を整える手段が有効なことが多い。

黒も無理に切って取りに行かず、2から6と打つくらい。以下白7まで、眼型も豊富で攻められにくい形を得て、白のサバキ成功と見られる。
参考図書
『依田紀基のサバキの急所と手筋 (NHK囲碁シリーズ) 』日本放送出版協会 1994年
『片岡聡 サバキのテクニック (NHK囲碁シリーズ)』日本放送出版協会 2002年
依田紀基『サバキの最強手筋』成美堂出版 2003年
■
サルスベリは囲碁に現れる形のひとつで、2線の石から1線にスベリを打つこと。通常サルスベリといった場合大ゲイマスベリを指し、「大ザル」とも呼ぶ。小ゲイマスベリの場合は区別して「小ザル」と呼ぶことがある。大ザルは場合にもよるが先手8目ほどの大きなヨセであるため、ヨセの初期段階で打たれることが多い。
サルスベリはヨセの重要な基本手筋であり、対策も記憶しておく必要がある。下図、左上黒1が小ザルで白は2と止める。下辺黒1のサルスベリに対しては、白2とコスミツケて受け、以下番号順に打って進出を止めるのが基本である。


余談
ポカ(凡ミス)で有名な藤沢秀行は、サルスベリの止め方を間違えて半目負けを喫したことがある。[1]。■
■
三々(さんさん)は囲碁用語の一つで、碁盤上の位置を指す言葉。碁盤の隅から数えて(3,3)の地点(下図参照)。布石の段階で隅の着点として単独で打たれる他、星や高目、目ハズシなど位の高い着点に対する隅への侵入手段として打たれることも多い。
目次 
1	布石における三々
1.1	特徴
1.2	三々の活用方法
2	星に対しての三々
3	三々の歴史
布石における三々
特徴
単独の着点としての三々は、一手で確実に実利を確保して足早に辺などへの展開が図れる利点を有する。反面星や小目に比べ位が低く、上からの圧迫を受けやすいため模様の発展性には欠ける面がある。小目などに比べれば変化が少なく紛れにくいため、実利派のアマチュアには好まれる着点でもある。
三々の活用方法
三々は一手で隅を完全に確保しているため、ここからのシマリ・カカリは小目の場合ほどに急がない。シマる場合は状況により下図a〜dなどへ展開する。カカる場合にもこれらの点にカカる時が多く、黒は対辺の一間・ケイマなどに受ける。最も多い三々へのアプローチはeの肩ツキで、位の低い三々の弱点を直接にとがめる手である。特に三々から両翼の辺に展開された場合、模様を消す意味で肩ツキは急がれる着点となる。

肩ツキした場合の基本定石を示す。黒は隅に堅く10目ほどの地を確保するが、勢力は白に奪われることになる。
白は左辺を重視する場合、白5にオサエる手もある。7まで一段落。
星に対しての三々
現代囲碁の布石の花形である星の最大の弱点は三々であり、単独で入られた場合は下図のように生きられてしまう。
上記は黒の星に対して白が他に石が無い単独の状態から三々入りした場合の定石である。ただし部分的には星に構えた所にすぐに三々入りするのは不利である。周囲にカカリがある場合やヒラキがある場合など、状況に応じて三々入りが有利か不利かは変動する。そのため「いつ三々入りするか」「いつ三々入りされないように守るか」が星の布石の重要なポイントとなる。
三々の歴史
囲碁の歴史の初期に隅への着点としてまず発生したのは小目であり、室町時代後期から江戸時代、明治時代にかけては三々はほとんど省みられなかった。特に本因坊家では三々は禁手とされており、その他の打ち手が打つ場合にも相手への挑発的な意図を込めて打たれるケースが多かったとされる。記録に残っているものでは、1838年(天保9年)の本因坊秀和-安井算知戦(先相先白番)で、9手目に秀和が空き隅に星へ打ったところ、10手目に算知が残りの空き隅の三々へ打っている。
長らく一人前の着点と見なされていなかった三々に光を当てたのは呉清源で、一手で隅を打ち切って辺への展開のスピードを重視する手法としてこれを多用し、布石の考え方に革命を起こした(新布石)。特に1933年、本因坊秀哉との対戦で三々・星・天元を連打する大胆な布石を披露し、大きな話題を呼んでいる。その後1960〜70年代にかけては坂田栄男・石田芳夫らが二隅三々を打つ「両三々」の布石を駆使して好成績を納め、流行の着点となった。
しかし近年では布石において中央への発展性を重視する傾向が強くなり、この風潮の中で三々は徐々に打たれなくなってきている(武宮正樹などは「三々は盤から落ちそうで打つ気がしない」と冗談を言っている)。現代のプロの間では、三々は趣向あるいは特殊な状況での着点という認識が強くなっているが、簡明さと機動性からいまだこれを好む人も少なくない。
■
三連星(さんれんせい)は囲碁における布石手法の一つ。隣り合った隅・辺・隅の星を占める布石である。辺を打たず、隣り合った隅の星を占めるのは二連星と呼ばれる。中央に大きな模様を張ることを主眼としたスタイルで、武宮正樹が有名な使い手である。

図の黒の配置が三連星、白の配置が二連星である。
目次 
1	歴史
2	特徴
2.1	牛角三連星
2.2	オールスター
3	参考図書
4	関連項目
歴史
三連星は六子以上の置碁には必ず現れる形でありながら、互先の布石としては長らく打たれることはなかった。1933年に当時24歳の木谷実が前田陳爾を相手に実戦で試したのが始まりといわれる。この後プロ棋士間でも大流行したが、新布石の衰退に伴って打たれる回数は減っていった。
三連星に新たな輝きを与えたのは木谷の弟子武宮正樹であり、黒番ではほぼ三連星一本槍の布石を打ち続けて世界選手権を2連覇するなど活躍し、豪快な「宇宙流」を披露した。これに影響を受けて中韓でも三連星が大いに打たれた時期もあったが、近年では対策の研究が進み、やや碁形が単調になりがちとしてプロの間では打たれることが少なくなっている。
特徴
三連星の特徴は全ての石が第四線にあるため中央に模様を張るのに有利であり、かつ隅を一手で済ませているため足早な展開が可能である点である。反面地には甘く、攻め損ねて模様を荒らされてしまうと即負けにつながりやすい。
白1と内側からカカるのは黒2・白3・黒4と重くして攻め立てられ、主導権を黒に与えてしまう。また攻められている間に下方の黒模様が大きくなり、弱石を抱えている限り侵入は難しくなる。このため布石初期において、三連星に対する内側からのカカリは一般に不利とされている。

白の外側からのカカリに対しては例えば黒2へ一間にハサみ、白3への三々入りを促して黒4と押さえ、右辺に大きな黒模様を構築することを目指す。下図のような形は三連星のひとつの理想形である。またカカリに手を抜いて下辺星(a)へと展開するような手もあり、これを「四連星」と呼ぶことがある。

これに対し、白は一間バサミに対して白3と中央にトビ出し、黒4なら白5へとカケて中央への制空権を奪う手法が開発された。左辺が二連星である場合など関連させて大模様を築くこともでき、白の側からの有力な対策とされた。

また黒▲の一間には、白1の打ち込みが絶好になり、簡単に黒模様を荒らされてしまう。これは三連星布石の大きな弱点とされる。
牛角三連星
黒は前図を避けるため、カカリに対して中央へコスむ手が開発された。これも三々入りを誘って中央勝負を目指すこととなる。下図の形は2つのコスミを牛の角に見立て、「牛角三連星」と命名されている。
オールスター
黒の三連星に対して白も三連星を打ち、辺・天元を占め合うと図のような布石となる。これはオールスターまたは九連星と呼ばれ、1990年前後に流行した。ただしこの形は黒が有利という結論が出ており、現在では打たれない。
参考図書
武宮正樹『システム布石 三連星』誠文堂新光社
呉清源『呉清源教室〈1〉三連星―布石でリードする新戦略』毎日コミュニケーションズ
加藤充志『中盤の花形戦法 運用、撃退マニュアル』
■
囲碁 サンサン(いご さんさん)は、ネット碁のシステム開発と運営。福島県いわき市に 本社をおく株式会社サンサン[1]が運営する。
目次 
1	概要
2	主催したネット囲碁棋戦
3	他の活動
4	脚注
5	外部リンク
概要
1994年にゲーム機通信によるオンラインネット碁としてサービス開始[2]。セガのメガドライブを端末にロムカートリッジソフト「サンサン」[3]、NTTの公衆パケット網を利用した。当時NTTはISDN回線の普及に力を入れていた。ISDN回線のDチャンネルパケット(INS-P)[4][5]は時間による課金が無く、送受信されたパケット(128オクテット)の量のみに課金された。囲碁は考慮時間が長く送受信されるデータ(着手の位置と考慮時間等)は極めて少ないため当時は囲碁のオンラインネットには最適の通信手段だった。
1993年4月に発売開始されたメガドライブ2[6]は、初代メガドライブ[7]から「拡張コントロール端子」が外されたため通信機器(メガモデム、メガターミナル[8])を拡張できず、ゲーム機通信が行えない仕様になった。そのためNTT公衆パケット網からの接続を停止2010年まで初代メガドライブとメガターミナル[9]の組み合わせが利用された。1995年Windows95の発売からインターネットが普及したため、Windowsソフトの開発を行い、2000年からはインターネット経由のパケットとNTTの公衆パケット網からのパケットを一緒に1台のサーバで処理した。2005年にははNTT公衆パケット網からの接続を停止し、接続形態をインターネットのみに変更し現在に至る。[10]
ネットで対局された全ての棋譜をデータベースに保存し、常時閲覧可能。対局中のチャット等も棋譜に記録し、マナーの改善に努力している。2015年1月に囲碁BOT(囲碁人工知能)を複数種類導入した。[11]2016年4月にAlphaGoが李世ドルをハンデなしで破った歴史的な出来事があった[12]ためか、囲碁BOT(囲碁人工知能)との対局を望む囲碁ファンが増えている。
主催したネット囲碁棋戦
パケット名人戦(1998年-2006年)[13]
アマを対象に第1回パケット名人戦(1998年)[14]、第2回パケット名人戦(1999年)[15]を開催
棋士を含めたプロアマを対象にパケット名人戦(2000年-2006年)[16]を開催。優勝書金100万円は当時としては画期的なネット棋戦。
ジュニア名人戦(2002年-)[17]
ジュニア名人戦の参加者から田尻悠人、木和田一臣[18]、田中伸幸[19]、小野田拓弥[20]、大西研也[21]、谷口徹[22]、橋本寛[23]、佐田篤史[24]、渡辺貢規[25]等のプロ棋士を輩出している。
学生棋聖戦(2011年-2015年)[26]
大学生、大学院生を対象としたネット棋戦。
他の活動
「未来棋院[27]」に協力し、少年少女の 囲碁の育成に力を注いでいる。[28]
脚注
[ヘルプ]
^ サンサン
^ サンサン会社案内
^ サンサン(囲碁通信対局ネットワーク)
^ パケット通信サービス
^ 第3種パケット交換(INS-P)サービスについての重要事項説明
^ メガドライブ2
^ メガドライブ各種データ
^ [http://blogs.yahoo.co.jp/tatunama/16708269.html MEGAターミナル」
^ [http://blogs.yahoo.co.jp/tatunama/16708269.html MEGAターミナル」
^ サンサン会社案内
^ サンサン会社案内
^ AlphaGo対李世ドル
^ パケット名人戦(1998年-2006年)
^ 第1回パケット名人戦(1998年)
^ 第2回パケット名人戦(1999年)
^ パケット名人戦
^ ジュニア名人戦
^ 木和田一臣
^ 田中伸幸
^ 小野田拓弥
^ 大西研也
^ 谷口徹
^ 橋本寛
^ 佐田篤史
^ 渡辺貢規
^ 学生棋聖戦(2011年-2015年)
^ 未来棋院
^ 未来棋院 規約
外部リンク
サンサン
未来棋院
パケット名人戦
ジュニア名人戦
学生棋聖戦
■
三目並べ(さんもくならべ)、まるばつとは、3×3 の格子を用意し、二人が交互に「○」と「×」を書き込んでいき3つ並べるゲームである。まるかけ、まるぺけ、○×ゲームとも呼ばれる。
目次 
1	概要
2	歴史
3	戦法のコツ
3.1	先手
3.2	後手
4	様々な呼び名
5	注
6	関連項目
7	外部リンク
概要
Bke.JPG
ノートや黒板などでも手軽に遊べることから広く普及している遊びの一種。まず「井」の文字に似た直線の格子図形を描き、二人で先攻後攻を決める。そしてどちらかが「○」でどちらかが「×」となり、先攻後攻と交互に井の字の空いたマスに書き込んでいく。そして最終的にビンゴのように、縦・横・斜めのいずれか1列に3個自分のマークを並べると勝ちとなる。
歴史
この遊びは西洋を起源として古くから遊ばれている。日本では1907年(明治40年)世界遊戯法大全[1]242ページ[2]に英語: Noughts & Crossesの和訳として「丸角競争」の名前で紹介されている。そこではルールがほぼ一緒であるが○と×ではなく○と△の記号を使うようになっている。
戦法のコツ
このゲームでは、先手・後手ともに最善を尽くすと必ず引き分けとなる。
ルールの似ている五目並べにおいては、特別なルールを課さない場合先手必勝であることが知られているが、19×19の広い盤面で行われる五目並べと、3×3のマスの中で行われる三目並べを比較しても無意味であり、広い盤面で三目並べを行えば先手必勝となることは容易に確認できる。
映画『ウォー・ゲーム』でWOPRコンピュータ (Joshua) は、このゲームで戦争に絶対的勝者はおらず無意味と悟る。
先手
Tictactoe1.gif
前述の通り9カ所のどこに打っても、相手も最善を尽くしてきた場合には引き分けになってしまう。しかし、もし相手のミスを狙うなら、角に打つのが得策だろう。
後手
先手が中心、角、辺のどれに打ってきたかによって変わる。ここでは先手が○、後手が×である。後手は×で示した位置以外に打つと、負けが決定してしまう。
 	 	○
 	×	 
■	■	■
×	 	×
 	○	 
×	 	×
×	○	×
 	×	 
 	×	 
また、一番左の経路を辿った場合
A	B	○
B	×	B
○	B	A
事実上後手はAとBの二種類になるがAに打つと、負けが決定してしまう。
様々な呼び名
Tic Tac Toe.gif
ゲルマン語圏
Tic tac toe (アメリカ)
Noughts and Crosses (イギリス)
Boter, kaas en eieren (オランダ)
Tripp trapp trull (スウェーデン)
ロマンス語圏
To-ti-to (グアテマラ)
Ta-te-ti , Tres en raya(スペイン)
Morpion(フランス)
Jogo da Velha (ブラジル)
La Vieja(ベネズエラ)
X şi zero (ルーマニア)
その他
틱택토 (韓国語)
井字遊戯 / 井字過三関 / 圈圈叉叉(○○✗✗) (台湾/香港)
Zero Kata (インドのヒンディー語)
Amõba (ハンガリー)
ristinolla (フィンランド)
注
^ 『世界遊戯法大全』 松浦政泰、博文館、1907年。NDLJP:860315。
^ 世界遊戯法大全p242
関連項目
連珠
五目並べ
量子三目並べ
二人零和有限確定完全情報ゲーム
OXO - 1952年に作られた○×ゲームで、画面の記録が残っている世界最古のテレビゲーム。
外部リンク
	ウィキメディア・コモンズには、三目並べに関連するメディアがあります。
en:Solved_board_games(英語)
まるばつロジック パズル
手書き丸バツ対戦サイト
■
囲碁において地(じ)とは、白黒双方の対局者が自分の生きた石だけで囲い込んだ空間のことを指す。囲碁は、地を大きく囲んだ方が勝ちとなるゲームなので、極めて重要な概念である。下図のような終局図では、aの点が「白地」、bの点が「黒地」となる。cはどちらの地でもない「ダメ」である。
地の中に相手の死んだ石がある場合、終局後に取り上げられて敵の地に埋められることになる。上の図では△の白石は生きられないため、終局を確認した後取り上げられ、白地に埋められる。これを勘定して、黒地は21目、白地は17目あるため、上図では黒の盤面4目勝ちとなる。
まわりを囲む石に欠陥があったり、中に侵入されて生きられるものは「地」ではない。極端な例を挙げれば、下図左上に黒が2手打ち、「この右下の空間は黒が囲んだから全て黒地だ」という主張は成立しない。白1などと打ち込まれて、楽に生きられるからである。逆に言えば、双方が相手の陣地を完全であると認め、打つところがないと認定した時に対局は終了することになる。
目次 
1	地の確保
2	関連用語
2.1	確定地
2.2	地合い
2.3	地中に手あり
地の確保
同じ6目の地を囲む場合を考えると、下図のように隅では5手(左上)、辺では7手(右)、中央では10手を費やすことになる(左下)。すなわち隅は地を取るのに最も効率がよく、次いで辺、中央は最も効率が悪いということになる。
中央に囲んだ地を「中地」(なかじ)と呼ぶ。
上図では黒が中央に「中地」を取り、白は隅と辺を取っている。一見黒地が大きいように見えるが、実は数えると黒地は121目、白地は136目と白が15目も勝っている。このように、中地は見た目よりも存外小さいことがある(格言:中地を囲うな)。
このため囲碁の対局では、お互い隅付近から打ち始めるのが基本である。
関連用語
確定地
最もよく用いられる小目からの小ゲイマジマリでは、白に連打を許すなどの特殊事情でない限り、○のついた10目前後を2手でほぼ確実に確保できる。このように、まだ完全に囲い込んだわけではないが、ほぼ侵入が不可能なエリアを「確定地」ということがある。
地合い
白黒双方の地のバランスのこと。「地合いが足りない」「地合い勝負」などというように使う。
地中に手あり
一見完全な地に見えるが、相手から打たれると中で生きられたり、セキになったりなど、完全な地でない状態。また、そうした手を発見する問題を指す。
上図の黒は一見7目の地に見えるが、白から1にツケられると、5まで運んでセキにされ、黒地はゼロになってしまう。
■
死活(しかつ)は、囲碁用語の一つ。囲碁において最も重要な概念といえる。
囲碁において、「相手に絶対に取られる事の無い石」と「取られても新しく取られない石を置ける石」を活きた石、それ以外の相手に取られる石を死んだ石と表現するため、これを合わせて死活と呼ぶ。
詰碁などの死活を扱った問題のことを死活問題(しかつもんだい)といい、現代日本語で「わが社にとっての死活問題」などと言うのは囲碁の死活問題に由来する。
目次 
1	眼
2	欠け眼
3	ナカデ
4	死活の特別な形
5	参考図書
6	外部リンク
眼
死活の例
右の図の赤い四角の点のように石のかたまりによって囲まれているスペースのことをその石のかたまりの眼(め)と呼ぶ。この眼を二つ以上持つ石の一団は着手禁止点を少なくとも2箇所以上持つため、周囲の空点(ダメ、または駄目)の全てに敵石が置かれても(ダメを詰められても)取られることはない。このような“絶対に取られることのない石”のことを活きた石、活き石(いきいし)などと呼ぶ。
他方、眼を持たない、または一つしか持たない石の一団は駄目を詰められれば最終的には相手に取られることとなる。そのため、眼を二つ以上持つことができない石のことを死んだ石、または死に石などと呼ぶ。
ただし、眼が二つ以上なくとも自分の方から打った場合には相手に取られるが、相手から打たれればこちらが相手の石を取れるセキの場合には、自分が打たない限り相手に取られることがないので活きた石とみなされる。
眼はその広さに関係なく個数が重要となる概念であり、その個数を数えるときは一眼(いちがん)、二眼(にがん)と眼を「がん」と読む。
終局状態では、必ず死活の判定をしなければならないが、それは必ずしも簡単ではない。というのも、囲碁の場合、上述の例のように明らかに死活がわかるような形でない複雑な形の場合も、それ以上手を加えずに終局することがあるからである。しかし、ある程度以上の実力になると、生死の判定に関する意見はほとんどの場合一致する。
欠け眼
上図では、一見2つの眼を確保して生きているように見えるが、aの点の空間は将来bにダメが詰まるとアタリになってツガねばならず、眼にはなっていない。こうした眼を「欠け眼」と呼ぶ。白の一団は一眼しかなく、死となる。
上図では、黒が1の点に打つと、仮に白が黒1を取ってもこの部分が欠け眼になるので死にとなる(このような捨て石の手を「ウチカキ」と言う)。逆に白から先に1の点にツゲば、確実な二眼を確保して生きとなる。
ナカデ
上のような形の場合、真ん中の点(黒1)に打つと白は眼を一つしか作れなくなって死にとなる。逆に白からこの点に打てば仕切りを作って二つの眼を作り、生きることができるようになる。こうした手を「ナカデ(中手)」と呼ぶ。詳細は項目ナカデを参照。
死活の特別な形
上記のように二眼を確保すれば生きというのが基本だが、実際には様々なケースが存在する。詳しくは当該項目を参照。
コウ
三コウ
万年コウ
セキ
隅のマガリ四目
長生
欠け眼生き
aの点はいずれも欠け眼だが、白はぐるりと一周つながっているため黒から全体を取りに行く手がなく、白生きとなる。こうしたケースを欠け眼生きと呼ぶ。詳しくは欠け眼生きのページを参照。
参考図書
『新・早わかり死活小事典』日本棋院
『こだわり講座〈5〉基本死活 虎の巻 (囲碁文庫) 』日本棋院
加藤正夫『死活小辞典』誠文堂新光社
趙治勲『基本死活事典 上・下』日本棋院
張栩『基本死活事典』日本棋院
大平修三『現代囲碁文庫17 初段の心得 実戦死活の百科 』誠文堂新光社
『林海峯の死活に強くなる本』誠文堂新光社
石田芳夫『目で解く実戦詰碁』誠文堂新光社
林海峯『死活手筋集』全3巻 大泉書店
外部リンク
江場弘樹『基本死活辞典』
やさしい詰碁を解きましょう
詰碁問題集(峯松正樹)
goproblems
■
死活(しかつ)は、囲碁用語の一つ。囲碁において最も重要な概念といえる。
囲碁において、「相手に絶対に取られる事の無い石」と「取られても新しく取られない石を置ける石」を活きた石、それ以外の相手に取られる石を死んだ石と表現するため、これを合わせて死活と呼ぶ。
詰碁などの死活を扱った問題のことを死活問題(しかつもんだい)といい、現代日本語で「わが社にとっての死活問題」などと言うのは囲碁の死活問題に由来する。
目次 
1	眼
2	欠け眼
3	ナカデ
4	死活の特別な形
5	参考図書
6	外部リンク
眼
死活の例
右の図の赤い四角の点のように石のかたまりによって囲まれているスペースのことをその石のかたまりの眼(め)と呼ぶ。この眼を二つ以上持つ石の一団は着手禁止点を少なくとも2箇所以上持つため、周囲の空点(ダメ、または駄目)の全てに敵石が置かれても(ダメを詰められても)取られることはない。このような“絶対に取られることのない石”のことを活きた石、活き石(いきいし)などと呼ぶ。
他方、眼を持たない、または一つしか持たない石の一団は駄目を詰められれば最終的には相手に取られることとなる。そのため、眼を二つ以上持つことができない石のことを死んだ石、または死に石などと呼ぶ。
ただし、眼が二つ以上なくとも自分の方から打った場合には相手に取られるが、相手から打たれればこちらが相手の石を取れるセキの場合には、自分が打たない限り相手に取られることがないので活きた石とみなされる。
眼はその広さに関係なく個数が重要となる概念であり、その個数を数えるときは一眼(いちがん)、二眼(にがん)と眼を「がん」と読む。
終局状態では、必ず死活の判定をしなければならないが、それは必ずしも簡単ではない。というのも、囲碁の場合、上述の例のように明らかに死活がわかるような形でない複雑な形の場合も、それ以上手を加えずに終局することがあるからである。しかし、ある程度以上の実力になると、生死の判定に関する意見はほとんどの場合一致する。
欠け眼
上図では、一見2つの眼を確保して生きているように見えるが、aの点の空間は将来bにダメが詰まるとアタリになってツガねばならず、眼にはなっていない。こうした眼を「欠け眼」と呼ぶ。白の一団は一眼しかなく、死となる。
上図では、黒が1の点に打つと、仮に白が黒1を取ってもこの部分が欠け眼になるので死にとなる(このような捨て石の手を「ウチカキ」と言う)。逆に白から先に1の点にツゲば、確実な二眼を確保して生きとなる。
ナカデ
上のような形の場合、真ん中の点(黒1)に打つと白は眼を一つしか作れなくなって死にとなる。逆に白からこの点に打てば仕切りを作って二つの眼を作り、生きることができるようになる。こうした手を「ナカデ(中手)」と呼ぶ。詳細は項目ナカデを参照。
死活の特別な形
上記のように二眼を確保すれば生きというのが基本だが、実際には様々なケースが存在する。詳しくは当該項目を参照。
コウ
三コウ
万年コウ
セキ
隅のマガリ四目
長生
欠け眼生き
aの点はいずれも欠け眼だが、白はぐるりと一周つながっているため黒から全体を取りに行く手がなく、白生きとなる。こうしたケースを欠け眼生きと呼ぶ。詳しくは欠け眼生きのページを参照。
参考図書
『新・早わかり死活小事典』日本棋院
『こだわり講座〈5〉基本死活 虎の巻 (囲碁文庫) 』日本棋院
加藤正夫『死活小辞典』誠文堂新光社
趙治勲『基本死活事典 上・下』日本棋院
張栩『基本死活事典』日本棋院
大平修三『現代囲碁文庫17 初段の心得 実戦死活の百科 』誠文堂新光社
『林海峯の死活に強くなる本』誠文堂新光社
石田芳夫『目で解く実戦詰碁』誠文堂新光社
林海峯『死活手筋集』全3巻 大泉書店
外部リンク
江場弘樹『基本死活辞典』
やさしい詰碁を解きましょう
詰碁問題集(峯松正樹)
goproblems

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ユルミシチョウは囲碁で、相手の石を追いかけて捕まえる手筋のひとつ。
シチョウの場合には、取られようとしている石をアタリの連続で盤端まで追いつめるのに対し、ユルミシチョウは一つダメがあいた状態で追いかける。このため追いかける側に、両アタリなどの断点が生じない形でなければならない。「ダメアキシチョウ」と呼ぶこともある。
ユルミシチョウの例
小目一間高ガカリ定石の一形。黒1に切られたとき、白が3の点に抱えるのではシチョウアタリがあってうまくいかない。白2にカケれば、符号順に追いかけて切ってきた石を捕獲できる。たとえば白6で7の方から追いかけると、断点が生じて捕まえられなくなる。

■
持碁(じご)は囲碁用語の一つ。囲碁の対局で互いの地が同じになり引き分けになる事。「ジゴ」とカタカナで表記されることが多い。
元々『玄玄碁経』の「囲碁三十二字釈義」では「持」とはセキのこととされ、ジゴには「芇(べん、くさかんむりに巾)」の字を当てており、『通玄集』にも「勝負なきを芇と云う」とあるが、歌合せにおける引き分けを「持」というのに倣って「持碁」の字を当てるようになった[1]。
かつてコミが導入された初期には5目コミ出し、ただし持碁の場合は白の勝ちとするルールも採用された。現在の互先対局のように、6目半や7目半といったコミを付ける場合には、持碁は有り得なくなる。置き碁や定先の対局でも、トーナメントなどの都合で勝敗をつけなければならない場合には、持碁は白勝ち、ないし黒勝ちといったルールを決めて行われる[2]。
なお、長生の出現などによる引き分けは「無勝負」と扱われ、「ジゴ」とは称されない。
注
^ 林元美『爛柯堂棋話』
^ 例 : 第1期名人戦[1]
関連項目
持将棋 - 将棋における引き分けの一つ。入玉を参照。
■
シチョウ(四丁・征とも書く)とは、囲碁の基本的な手筋のひとつである。アタリの連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしまう状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。
シチョウによって石を取ることを「シチョウに取る」などと活用する。
目次 
1	概要
2	シチョウアタリ
3	特殊なシチョウの例
4	珍瓏
5	参考文献
概要
左図の局面で△の白石を取るのに、右図の黒1に打つ手がシチョウの基本形。この手を「シチョウに抱える」という言い方もする。白2と逃げ出してきたら、黒3と行く手をふさぐようにアテるのが大事で、反対側からアテると逃げ出されてしまう。
以下白が逃げ出したとしても符号順に追いかけていけば盤端に行き当たり、逃げ場がなくなって白が取られることになる。
シチョウアタリ
上の図のように白の逃げる先の△などに石がある場合、これをシチョウアタリという。
図のように黒が追いかけていけば白はシチョウアタリの石に連絡してしまい、黒はこれ以上アタリをかけられなくなって脱出される。そうなると黒はaなどに両アタリの断点ばかりが残り、大いに形勢を損じる。この場合「黒はシチョウが悪い」「白がシチョウよし」という表現もされる。
従って追われる側も追う側も、シチョウが発生しそうな場合はシチョウアタリがどうなっているのかをしっかり見極める必要がある。シチョウアタリのようにシチョウを邪魔する石がなく、碁盤の端に追いつめられるだけなら追われる方の負けである。
このためシチョウアタリの有無は、定石選択にも大きな影響を与える。例えば小目一間高ガカリ定石の一形で、
右上隅に白石があってシチョウが白有利ならば、白1にマガる手が成立する。黒2とツイでも白3とハネ、黒4の抱えには逃げ出すことができる。従って黒は2でaにノビるなど、別の手段を講じなければならない。
もし白がシチョウ不利なら、白1と打って黒2と2子取りを許す他なく、上図に比べてやや不利な形に甘んじなければならない。
特殊なシチョウの例
アタリの連続で石を取ることをシチョウと呼ぶので、必ずしも階段状になっていない場合がある[要出典]。下図aに黒が打つことによって白2子が取れる。

  ※白6ツグ
シボリやマクリを駆使して石を取ることは、グルグルマワシとも呼ぶ。
珍瓏
珍瓏(ちんろう)とは、指定された局面からシチョウの手筋を用いて指定された石を取る詰碁の問題である。「シチョウで追う」事以外に作成における制約がないため、初形や最終図で文字や形を描いた作品も発表されている。
棋士の中山典之六段が多くの問題を発表しており、特に最終形がハートの形になる問題がよく知られている。
参考文献
『シチョウの世界』(中山典之著・日本棋院) ISBN 4-8182-0434-X
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シノギ(しのぎ)とは、
収入を得るための手段(経済活動)の一つ。
囲碁用語の一つ。
その他
経済活動としてのシノギ
主に暴力団関係の団体・人物が収入を得るために使う手段であり、港湾業務や興行の元締めといった合法手段もあったが、たいていの場合、用心棒、賭博、違法薬物密売、ノミ屋・ダフ屋、闇金融、詐欺集団の元締めなど、違法手段のものが多い。
囲碁のシノギ
相手の勢力が圧倒的に強い場所で、相手の攻めを巧みにいなして自分の石を生存に導くこと。
シノギの名手として、坂田栄男や趙治勲が有名である。
参考図書
趙治勲『シノギの真髄―石は死ぬものではないと、生きる術を徹底探求 (新・木谷道場入門) 』河出書房新社 1997年
『坂田の碁〈2〉石のシノギ方』 (MYCOM囲碁文庫スペシャル) 2004年■
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シボリは、囲碁用語のひとつ。相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手をアタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合、相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。
シボリの実例
図1
 	図2:
小目定石に現れるシボリの一例。黒1とアタリにし、白2と2子を抜かせる。黒はさらに3とホウリコみ、白4と抜かせて黒5にアテる。黒は相手を団子石にし、自分は外回りに石が来る流れとなる(通常、黒3に対して白はaあたりにヒラき、部分的に一段落となる)。

黒は白△の2子をシチョウで取れないため、このままではバラバラに分断される。

そこで黒1,3とアテ、黒5とゲタの形にする。白6,8と取るしかないが、その間に外から黒7,9とアテて締めつけ、強力な外勢を得る。
石塔シボリ
図1:
 	図2:
大斜定石の変化として現れる形。図1、白△と切られると黒が収拾がつかないように見えるが、図2の黒1と2子にして捨てるのが好手。白2なら黒3とアテて取らせ、
図3:
 	図4:
図3の黒5と放り込む。白6なら黒7とアテてシボリ、以下符号順に黒の攻め合い勝ちとなる。このように、二線の石を2子にして取らせ、ダメを詰める手筋を「石塔シボリ」と呼ぶ。「石塔」の名は、出来上がりの形が石の塊から塔が伸びているように見えることから。実戦にもよくあらわれる手筋。
黒15(7)、白16取る(11)
石塔シボリの出現する定石の例。第68期本因坊戦第三局でこの形が出現した。
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シマリは囲碁用語のひとつで、隅にすでに打った石(小目・星・目ハズシ・高目など)の周辺に打ち、隅の地を確保する手をいう。動詞としては「シマる」という言い方をする。下図黒1がシマリの一例である。

隅を自陣として効率よく確保すると共に、周辺への展開、相手への攻撃の拠点ともなるので、その価値は極めて高い。このため序盤の非常に早い時期に打たれることが普通である。シマリを妨害する手は「カカリ」といい、当然シマリ同様の価値を持つ。どちらかといえばシマリは守備の手、カカリは接触戦に持ち込む攻撃の手と見ることができる。
目次 
1	小目からのシマリ
2	星からのシマリ
3	目ハズシからのシマリ
4	高目からのシマリ
5	三々からのシマリ
6	シマリを省略する
7	参考図書
小目からのシマリ
「a」の小ゲイマジマリが最もよく打たれる。堅実に隅の地を10目程度確保し、ほとんど侵入のスキがない。「b」の一間ジマリは右辺に影響力が強いが、上辺に迫られると侵入の余地を残す。「c」の大ゲイマジマリは小ゲイマに比べて大きく地を確保できるが、やや侵入のスキがある。「d」の二間ジマリは中央を意識したシマリ方で、やや特殊な打ち方に属する。
星からのシマリ
星からシマる場合には「a」の大ゲイマ、「b」の小ゲイマがよく打たれる。また「c」「d」は中央を意識したシマリ方である。
小目と異なり、星からは「a」「b」などにシマっても「e」の三々、「f」のツケなどで隅の地を荒らされる余地が残る(その代わり黒は中央に強い勢力を築くことができるので、白の立場で侵入の時期は慎重に選ぶ必要がある)。隅の地を完全に確保するなら、「a」「b」からさらに「g」あたりに一手加える必要がある。また、下図黒1のように隅の地を確保する手も「シマリ」と表現されることがある。
目ハズシからのシマリ
目ハズシからは「a」にシマるのが最も普通で、小目からの小ゲイマジマリと同型になる。「b」「c」への高いシマリは中央に働かせるシマり方で、隅には侵入の余地が残る。「d」はやや特殊なシマリだが、「e」または「f」へさらに一手かければ大きく隅を確保できる。「d」から「e」に三手かけるシマり方を「トーチカ」と称する。
高目からのシマリ
高目からは「a」にシマることが多く、小目からの一間高ジマリと同型になる。「b」は中央に働かせたシマリ。
三々からのシマリ
三々からは一手で隅を確保しているため、シマリは他の着点に比べてさほどに急がない。シマるなら「a」「b」「c」あたりに展開する。
シマリを省略する
江戸時代までは隅の着点は小目が中心であり、まずシマって隅を確保、その後で辺へ展開するという手順が正統とされていた。しかし昭和に入って呉清源・木谷實らにより、隅を星・三々などによって一手で済ませ、足早に辺を占拠するスタイルが案出された(新布石)。三連星などがこのスタイルの代表的な布石である。
小目からはシマリを打ってから辺へ展開するのが常識であったが、1970年代からは「中国流」布石が登場し、シマリを省いて辺へ回り、カカリを迎え撃って戦うという手法が編み出された。この影響からミニ中国流、小林流など、シマリを打たずに辺へ先着するスタイルが次々登場している。また近年では互いにシマリ合うよりも、カカリを優先して積極的に戦いに持ち込むケースが多くなっている。もちろん現在でもシマリの価値が高いことは変わりがないが、その優先順位については考え方が変化してきている。
参考図書
石田芳夫『シマリの技法―最強囲碁塾』河出書房新社
■
週刊碁
種類	週刊紙
サイズ	タブロイド判
事業者	日本棋院
創刊	1977年
言語	日本語
価格	1部 280円
月極 13,900円/年
公益財団法人日本棋院
業種	情報・通信業
テンプレートを表示
週刊碁(しゅうかんご)は日本棋院が発行する、囲碁の新聞である。1977年発刊。毎週月曜日に発売。棋戦結果や、囲碁のイベント情報、プロ棋士のニュース、講座、記者のコラムなどを掲載したタブロイド紙で書店、駅売店、郵送による定期購読などで販売。
代表的な記事・企画
「新初段シリーズ」新入段者が一線棋士に胸を借りて対局する企画で、毎年の新入段者が出場する。
「すごもり君」藤井レオの連載4コマ漫画。
1997年に「プロアマ打ち込み真剣五番勝負」を開催。(加藤充志 3-2 坂井秀至、高尾紳路 4-1 平岡聡)
1997年に1000号記念企画として、16人によるトーナメント「十代棋士チャンピオン戦」(山下敬吾が優勝)、「プロプロ打ち込み真剣五番勝負」(秋山次郎 3-2 羽根直樹)を開催。
「サルスベリがとまらない」SF作家新井素子によるエッセイ。2006年10月から連載。
関連項目
日本棋院
外部リンク
週刊碁ブログ(「週刊碁」編集・整理班によるブログ)
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秀策数(しゅうさくすう)とは囲碁の対戦相手によって定義される本因坊秀策への近さを示す尺度である。
定義
ある個人の秀策数は以下のように決まる。
秀策自身の秀策数は0である
秀策以外については、対戦相手の中で最小の秀策数を持つ者の秀策数に1を足したものが、その個人の秀策数となる
上記に該当しない個人の秀策数は定義されない
秀策数はエルデシュ数をもとに考えられたものである。エルデシュ数の拡張からの類推によって、自らより小さい秀策数を持つ対戦相手に勝った者にのみ数を与える第2種秀策数を定義することができる。すなわち秀策本人に勝った者の第2種秀策数は1であり、以下同様に数が決まる。
関連項目
ケヴィン・ベーコン (ベーコン指数)
外部リンク
Sensei's Library: Shusaku Number(英文、秀策数の解説と著名棋士の秀策数)
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十段(じゅうだん)は、囲碁の棋戦の一つである十段戦で優勝した棋士に贈られるタイトル。日本棋院および関西棋院の昇段制度(初段~九段)とは別個に運営される、独立した称号である。
目次 
1	十段戦
1.1	しくみ(第49期まで) 
1.1.1	予選A
1.1.2	最終予選
1.1.3	本選トーナメント
2	歴代十段位と挑戦手合
3	関連項目
4	外部リンク
十段戦
1961年創設。前身は早碁名人戦。産経新聞社主催。2011年の第49期より森ビルが協賛し、森ビル杯十段戦となる。優勝賞金は1500万円であったが、この時より1200万円に改められ、それに伴いタイトルとしての序列は4位から6位に下がった。更に50期からは750万円に改められ、序列も7位に後退した。翌51期には700万となっている。挑戦手合であり、持ち時間は2002年まで5時間、2010年まで4時間、2011年より3時間。
第49期まで七大タイトル戦では唯一、敗者復活戦方式がとられた。16名からなるトーナメント戦で、一度敗退した者は敗者組トーナメントに回り、その優勝者と本戦トーナメント優勝者とで挑戦者決定戦をおこなった。挑戦者はタイトル保持者と五番勝負をおこない、優勝者を決めた。本戦トーナメントで2勝以上した8名は次期にシードされ、予選勝ち抜きの8名とともに挑戦者決定トーナメントを戦った。
第50期からは20人による単純トーナメント方式となっている。
十段を5連覇、または通算10期以上獲得した棋士は、引退後もしくは60歳以後に名誉十段を名乗る権利を得る。ただ現在のところ4連覇(加藤正夫・王立誠)、通算7期(加藤正夫)が最高で、名誉十段の資格保持者は出ていない(七大タイトルのうち、名誉称号保持者がいないのは十段戦のみである)。
しくみ(第49期まで) 
予選A
東京予選
 予選B・C勝ち上がり26名、シード棋士によるトーナメント。
関西・中部予選
 予選B・C勝ち上がり10名、シード棋士によるトーナメント。
最終予選
東京と中部・関西の予選Aの勝ち上がり18名(東京13名、関西・中部5名)、シード棋士14名によるトーナメントによって本選出場者8名を決める。
本選トーナメント
最終予選勝ちあがり8名、前期ベスト4、敗者復活2回戦勝者4名の計16名による2敗失格制トーナメント。優勝者が十段位との5番勝負を行う。
歴代十段位と挑戦手合
◯●は勝者から見た勝敗、網掛けはタイトル保持者。第1期は決勝五番勝負。
期	開催年	優勝	勝敗	準優勝
1	1962	橋本宇太郎	3-1	半田道玄
2	1963	半田道玄	3-1	橋本宇太郎
3	1964	藤沢朋斎	3-2	半田道玄
4	1965	高川格	3-1	藤沢朋斎
5	1966	坂田栄男	3-1	高川格
6	1967	坂田栄男	3-2	藤沢朋斎
7	1968	坂田栄男	3-1	藤沢秀行
8	1969	大竹英雄	3-0	坂田栄男
9	1971	橋本宇太郎	3-2	大竹英雄
10	1972	坂田栄男	3-2	橋本宇太郎
11	1973	坂田栄男	3-0	高木祥一
12	1974	橋本昌二	3-1	坂田栄男
13	1975	林海峰	3-0	橋本昌二
14	1976	加藤正夫	3-2	林海峰
15	1977	加藤正夫	3-0	坂田栄男
16	1978	加藤正夫	3-1	林海峰
17	1979	加藤正夫	3-1	橋本昌二
18	1980	大竹英雄	3-0	加藤正夫
19	1981	大竹英雄	3-2	橋本昌二
20	1982	趙治勲	3-1	大竹英雄
21	1983	加藤正夫	3-2	趙治勲
22	1984	小林光一	3-2	加藤正夫
23	1985	小林光一	3-0	大竹英雄
24	1986	小林光一	3-0	武宮正樹
25	1987	加藤正夫	3-1	小林光一
26	1988	趙治勲	3-2	加藤正夫
27	1989	趙治勲	3-0	林海峰
28	1990	武宮正樹	3-2	趙治勲
29	1991	武宮正樹	3-2	趙治勲
30	1992	武宮正樹	3-1	小林光一
期	開催年	優勝	勝敗	準優勝
31	1993	大竹英雄	3-1	武宮正樹
32	1994	大竹英雄	3-2	小林光一
33	1995	依田紀基	3○○○0	大竹英雄
34	1996	依田紀基	3-1	王立誠
35	1997	加藤正夫	3○●●○○2	依田紀基
36	1998	彦坂直人	3●○○●○2	加藤正夫
37	1999	小林光一	3○○○0	彦坂直人
38	2000	小林光一	3○○○0	中野寛也
39	2001	王立誠	3●○●○○2	小林光一
40	2002	王立誠	3○●○●○2	武宮正樹
41	2003	王立誠	3○●○●○2	高尾紳路
42	2004	王立誠	3○●○○1	張栩
43	2005	趙治勲	3○●●○○2	王立誠
44	2006	趙治勲	3○○●○1	山下敬吾
45	2007	趙治勲	3○○●●○2	山下敬吾
46	2008	高尾紳路	3○○○0	趙治勲
47	2009	張栩	3●○○○1	高尾紳路
48	2010	張栩	3○○○0	山下敬吾
49	2011	井山裕太	3●○●○○2	張栩
50	2012	井山裕太	3○○●○1	張栩
51	2013	結城聡	3●○○●○2	井山裕太
52	2014	高尾紳路	3○●●○○2	結城聡
53	2015	伊田篤史	3●○○●○2	高尾紳路
54	2016	井山裕太	3○○●○1	伊田篤史
関連項目
囲碁タイトルの在位者一覧
棋聖戦 (将棋) - 産経新聞社主催の将棋の棋戦。
十段戦 (将棋) - 同名の将棋の棋戦(終了)。現・竜王戦。
外部リンク
十段戦(日本棋院)
ニュース - 囲碁(MSN産経ニュース)
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純碁(じゅんご)とは、囲碁の入門用として王銘エンが提唱した、囲碁のルールを母体としたゲームである。囲碁のゲーム性を保ったままルールを簡明化したものであり、これから囲碁を覚えようとする者にとって、より理解しやすいものとなっている。9路盤や、それより小さい碁盤を用いることが想定されているが、ルール自体は盤の大きさを制限するものではない。
現在の囲碁のルールの原型に近いものであるとされており、日本ルールよりも中国ルールのほうに近い。
目次 
1	純碁のルール
2	特徴
2.1	長所
2.2	短所
3	合理性の側面
4	関連項目
5	外部リンク
純碁のルール
基本的なルールは通常の囲碁に準ずるが、次に挙げるような違いがある。
石の数を競う
通常の囲碁では、それぞれ地の大きさからアゲハマを引いた目数を比較して勝負を決するが、純碁では、最終的に盤上に置かれている石の数だけを比較する。盤上の石が置かれていない空所や、アゲハマの数は勝負の判定材料にならない。
地の概念がない
前項と関係するが、終局時における盤上の空所は勝負に直接関係しない。そのため、通常の囲碁とは異なり地をいくら囲っていてもそれだけでは点数にはならない。点数にするためには、(通常の囲碁で言う)自分の地を埋めていく作業が必要である。
死活の判定がない
死んでいる相手の石は、終局前に明示的に打ち上げる必要がある。終局時に盤上に残っている石は、どのような形であれ点数に数えられる。
両者連続パスで終局する
一方の対局者がパスをし、次いでもう一方もパスをすれば、それをもって終局とする。通常の囲碁と異なり、終局において何らかの合意が必要となることはなく、終局後の手入れなども発生しない。なお、パスは任意に何度でも行うことができる。
その他、同形反復の禁止、自殺手の禁止などは、通常の囲碁と同じである。
特徴
以下のような長所と短所がある。
長所
ルールが明快である
初心者同士が通常の囲碁を打つ場合において、終局時にはしばしば問題が発生する。死活の判定を両対局者が正しく認識するというのは、初心者にとってはときに難題になるからである。第三者に判定を仰ぐことができればいいが、必ずしもそれが可能であるとも限らない。また、セキの概念を知らず、お互いに相手が先に共通のダメに打つことを期待して自陣を埋め続けるような事態も発生することがある。
純碁においては、このようなトラブルは発生しない。お互いがパスして終局となったら、あとは盤上にある石を単純に数え上げるだけである。ルール上、死活やセキの判定が存在しないため、それらの見解が分かれるといった問題は起こらない。
結果が通常の囲碁とほぼ一致する
純碁の勝負の結果は、大抵の場合、通常の囲碁に切り賃のルールをつけた場合の結果とほぼ一致する。このため、通常の囲碁と純碁とではその最終目的が異なっていても、ゲーム性が大きく変わるようなことがない。これは、純碁を覚えた者が通常の囲碁にスムーズに移行できることにつながる。純碁と同じく囲碁への導入を目的としたポン抜き囲碁は、囲碁とのゲーム性の差が大きい。
対局者が本来死んでいる石(取ることができた石)を活き石(取ることができない石)だと見なし、打ち上げずに終局した場合は、通常の囲碁の正しい結果とは大きな差が生まれる。しかし、純碁はそれを容認するルールであり、指導する立場にあるものは終局後に本当は取ることができたことを教えてあげればよい。
短所
終局前に自陣を埋める必要がある
純碁では、地もそのままではただの空所であり点数にならないため、終局前に、活きるために最低限必要な眼を残して自分の地を埋めていく作業が必要である。これはやらなくてもルール上は問題ないが損であり、純碁のコツをある程度理解した者にとっては退屈な作業である。また、7路盤や9路盤では手間はさほど多くないが、19路盤ともなると、地を埋め尽くす作業量が増え、その後で石を数えるのも大変である。したがって、純碁を覚えた者は、19路盤で打つようになる前にまず普通の囲碁のルールを理解し移行する必要がある。
通常の囲碁と結果が異なる場合がある
純碁と通常の囲碁とで、結果が大きく異なる場合がある。例えば、形の上では死んでいる石を、実際には取りに行けないような場合である。
合理性の側面
純碁は、囲碁のルールの本質のみを、そのままルール化したものだと捉えることができる。このため、ルールに例外が極めて少なく、実用性は別としても非常に合理的なものとなっている。このことは、入門者の理解を容易にする以外にも様々な利点があり、例えばゲーム一般のルールを分析するような研究における囲碁のモデルとして優れている。また、コンピュータに囲碁を打たせる研究においても、判定や処理の容易さや明確さなどの理由から、ルールとして純碁を採用することがある。
終局と計算を合理化した純碁に並んで、同形再現の処理を合理化した超コウというルールがある。通常の囲碁においては、盤面を直前の状態に戻す同形反復はコウの規定で禁止されているが、もっと前の状態に戻すことは禁止されていない。これに対し、超コウは一旦現れた全ての盤面の再現を禁ずるものである。これを採用すると、「合意の上無勝負」という規定を排除できるだけでなく、常に盤面が進行するため、いつか必ず終局することが理論的に保証される。この超コウを純碁と組み合わせると、一種の理想的なゲームルールとなり、例えば2路盤においてもゲームとして意味のある考察を行うことができるようになる。
関連項目
囲碁のルール
王銘エン
外部リンク
王銘エン九段著「純碁」
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巡将碁(じゅんしょうご、スンジャン・パドゥク)は、朝鮮で20世紀前半頃まで行われていた囲碁の一つ。基本的なルールは囲碁と同じだが、対局開始時に黒白8子ずつの石を碁盤の決まった位置に置いてから始める。
目次 
1	対局方法
2	歴史
3	特徴
4	参考文献
対局方法[ソースを編集]
巡将碁のルールは、事前置き石制の一種で、開始時にあらかじめ図のように黒白8子ずつを置いて対局を始める。黒番から打ち始め、1手目は天元に打つのが「決まり手」となっている。
巡将碁の置き石
終局時の地の数え方は、中国ルールとも日本ルールとも異なり、陣地の大きさを数える方法であるが、終局時に地の輪郭が崩れないように地の中の石を取り除いて数える。石を取り除く時は、石がアタリにならないようにする。アゲハマは地の数え方には関係しない。
歴史[ソースを編集]
朝鮮に中国から囲碁が伝来したのは紀元前1世紀頃とされ、5世紀頃に最初の囲碁の記録が現れ、16世紀末頃から両班階級に普及した。このため巡将碁もこの16世紀から17世紀初頃から始まったのではないかと、一般には考えられている。
それに対し、正倉院宝物にある碁盤「木画紫檀棊局」では、盤上の星の位置が巡将碁の置石と同じであることから、これが朝鮮の碁盤であって、7世紀頃の百済で巡将碁が始まったのではないかという林裕や安玲二の説がある。また安の説では、開始時の置き石は城を守る将軍になぞらえたものと考えられている。
20世紀半ばになって、日本で修行して韓国に帰国した趙南哲は、韓国棋院を設立して日本式の自由布石による囲碁を普及させ、巡将碁は打たれることは少なくなった。
特徴[ソースを編集]
布石の段階が無いため、現代の囲碁に比べると最初から激しい戦いが起きる。
参考文献[ソースを編集]
大島正雄「安玲二氏の巡将碁仮説」(『棋道』1996年1-2月号)
■
巡将碁(じゅんしょうご、スンジャン・パドゥク)は、朝鮮で20世紀前半頃まで行われていた囲碁の一つ。基本的なルールは囲碁と同じだが、対局開始時に黒白8子ずつの石を碁盤の決まった位置に置いてから始める。
目次 
1	対局方法
2	歴史
3	特徴
4	参考文献
対局方法[ソースを編集]
巡将碁のルールは、事前置き石制の一種で、開始時にあらかじめ図のように黒白8子ずつを置いて対局を始める。黒番から打ち始め、1手目は天元に打つのが「決まり手」となっている。
巡将碁の置き石
終局時の地の数え方は、中国ルールとも日本ルールとも異なり、陣地の大きさを数える方法であるが、終局時に地の輪郭が崩れないように地の中の石を取り除いて数える。石を取り除く時は、石がアタリにならないようにする。アゲハマは地の数え方には関係しない。
歴史[ソースを編集]
朝鮮に中国から囲碁が伝来したのは紀元前1世紀頃とされ、5世紀頃に最初の囲碁の記録が現れ、16世紀末頃から両班階級に普及した。このため巡将碁もこの16世紀から17世紀初頃から始まったのではないかと、一般には考えられている。
それに対し、正倉院宝物にある碁盤「木画紫檀棊局」では、盤上の星の位置が巡将碁の置石と同じであることから、これが朝鮮の碁盤であって、7世紀頃の百済で巡将碁が始まったのではないかという林裕や安玲二の説がある。また安の説では、開始時の置き石は城を守る将軍になぞらえたものと考えられている。
20世紀半ばになって、日本で修行して韓国に帰国した趙南哲は、韓国棋院を設立して日本式の自由布石による囲碁を普及させ、巡将碁は打たれることは少なくなった。
特徴[ソースを編集]
布石の段階が無いため、現代の囲碁に比べると最初から激しい戦いが起きる。
参考文献[ソースを編集]
大島正雄「安玲二氏の巡将碁仮説」(『棋道』1996年1-2月号)
■
準名人(じゅんめいじん)とは、第一人者である名人に次ぐ位の人。
目次 
1	囲碁の準名人
2	脚注
3	参考文献
4	関連項目
囲碁の準名人
江戸時代に本因坊道策により段級位制が定められ、名人が九段、上手(御城碁の出場資格者)が七段とされ、名人上手間の手合いであった準名人は八段とされた。
囲碁の準名人の中には名人に劣らぬと評価された者が少なくない。本因坊元丈、安井知得仙知、井上幻庵因碩、本因坊秀和の4棋士は「囲碁四哲」とよばれた。嘉永の頃、安井算知(俊哲)の家に太田雄蔵、伊藤松和、阪口仙得などの棋士が集まり、囲碁四哲の芸の話になって本因坊秀和を筆頭とすることで意見が一致したと伝えられている[1]。
元丈と知得は互角に戦ったライバル同士で、名人は「斯道の最長者が其の威望と古今に絶したる神技を以てする」、すなわち、最強の棋聖の地位という信念から名人を望まなかったと伝えられる[2]。
幻庵因碩は本因坊丈和との名人碁所の地位獲得の争いに敗れ、名人になれなかった[3]。秀和は寺社奉行に碁所願いを出したが、井上家の反発があり、却下されてしまった。その後は幕末の混乱に巻き込まれ、名人碁所の許可を得る機会は失われてしまった[4]。
本因坊秀甫は1881年(明治14年)に準名人に昇り、1884年 - 1885年(明治17、18年ごろ)に名人に推されたが、きっぱり拒絶した[5]。
脚注
^ 『秀和』日本囲碁体系260頁
^ 『知得』日本囲碁体系256頁
^ 『幻庵因碩』日本囲碁体系263頁
^ 『秀和』日本囲碁体系255頁
^ 『秀甫』日本囲碁体系256頁
参考文献
日本囲碁体系(全18巻)1975-1976
■
定石、定跡(じょうせき)とは、アブストラクトゲームにおける用語である。お互いが最善と考えられる手を行った場合の一連の手のこと。チェスでは、「オープニング」とも。石を用いる囲碁、オセロ、連珠などでは「定石」が、駒を用いる将棋、チェスなどでは「定跡」が用いられる。
目次 
1	囲碁の定石
1.1	定石の例
1.2	参考図書
2	オセロの定石
3	連珠の定石
4	将棋・チェスの定跡
5	チェッカーの定跡
6	アプリケーションソフトウェア内の定跡
7	関連項目
8	外部リンク
囲碁の定石
囲碁における定石とは、碁盤の中の一部分(主に隅)における、部分的には互角になるワンセットの応酬のことを指す。あくまでも「部分的」に互角であり、他の部分の配石次第で定石どおりに打っても悪い結果になることがある。初中級者が定石の手順を丸暗記して悪い結果になることを「定石を覚えて二子弱くなり」などと揶揄される場合もある。しかし定石の一手一手はそれ自体が手筋の応酬であり、単なる丸暗記ではなくその一手一手の意味を考えながら定石を学ぶことは詰碁と並んで囲碁上達の基本とされている。
定石は不変の物ではなく、プロ・アマチュアの棋士達によって研究が続けられており、改変、創造、棄却が常に行われている。初級者でも使いこなせる簡明な定石も多いが、長手順で変化の多い難解な定石も存在する。前者としてはツケノビ定石・ツケヒキ定石など、後者としては、村正の妖刀・大斜定石・ナダレ定石などが有名である。
定石の例
星の代表的な定石の例。白1のカカリに対し黒2と小ゲイマに受け、白3のスベリ、黒4の三々受け、白5のヒラキまでが定石とされる。黒白双方ともひとまず安定で急な攻めを受けないため、ここまで一段落で他に向かうことになる。
ただし、前述のように周囲の状況が違えばこれが最善とは限らない。黒は下辺を重視したければ黒4の手でaへのハサミやbへのツケなどの手も考えられる。白もこれを嫌えば、白3で単に白5の位置へヒラく手などもある。このように、定石の選択は局面に応じて適切になされなければならない。
参考図書
『定石大事典 上・下 』日本棋院
鈴木為次郎『囲碁大辞典』(全6冊)誠文堂新光社
呉清源『現代定石活用辞典』(全三巻)誠文堂新光社
石田芳夫『基本定石事典 上・下』日本棋院
高尾紳路『新版 基本定石事典 上・下』日本棋院
山部俊郎監修『現代定石事典』平凡社
小林光一『囲碁定石事典―筋と形に強くなる』学習研究社
『新・早わかり互先定石小事典』『新・早わかり星定石小事典』日本棋院
大竹英雄『定石の選択―碁盤を大きく使う (有段者シリーズ) 』土屋書店
オセロの定石
対局において、互角となると考えられている打ち方の手順。動物の名前が付けられているものが多いが、動物以外の形に見立てて名前を付けられたもの、考案者・愛用者の名が冠されているものもある。互角でなくても、定石と呼ばれるものも多い。
連珠の定石
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将棋・チェスの定跡
一般的には序盤が定跡化されており、指し手の選択によって、先手有利、後手有利などの変化が生じる。戦法によっては、終盤まで定跡化されていることもある。これらは日々専門家の実戦によって変化している。
チェスの序盤における定跡は特にオープニングと呼ばれ、シシリアン・ディフェンスなど固有名の他、ECOと呼ばれる分類記号も使われる。将棋でも洗練され、多く用いられるようになると山田定跡などの名前が付けられる。
チェスの場合は駒が少なくなっていくため、終盤についても常形の局面が研究されており、これも定跡(エンドゲーム)ということができる。特に残り駒数が両キングを含めて6以下の局面については、コンピュータ解析によってすべて最善の手順が求められ、データベース化されている。
チェッカーの定跡
チェッカーにおいては定跡から連なる組合せは全て調べ尽くされ、先後互いに最善手を指すと引き分けに終わるとの結論がでている。
アプリケーションソフトウェア内の定跡
コンピュータチェスなどのアプリケーションソフトウェアは、定跡をデータベースとしてもっていて、序盤では定跡どおりに指していく。その目的は2つある。
序盤での消費時間を少なくする。
序盤でのミスを回避する。
データベースに記憶されている定跡には限りがある。中盤に入って定跡の末端まで到達してしまうと、それ以降はプログラムの計算による指し手になり、コンピュータのプログラム本来の強弱が発揮される。
上記の状況は、コンピュータ将棋、コンピュータ囲碁、コンピュータオセロなどでも同様である。ただし、コンピュータチェスでは、終盤でも終盤用の定跡データベースを使用する。
関連項目
升田幸三賞:将棋の新手、妙手の賞。
外部リンク
BruGo.BE - 英語定石事典
オセロ定石の名前と由来
インターネット将棋定跡
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定先(じょうせん)は囲碁の手合割の一つ。対局者の棋力にわずかに差がある場合用いられる方式で、置石が無し、コミなしで行われる対局。
下手が常に黒石(先手)を持ち、上手が常に白石(後手)を持つことでゲームの特質としての「先手の有利性」を下手のハンデとして対局が行なわれる。
ハンデの隙間を埋めるために逆コミが設けられることもある。その場合、逆に黒がもらえる逆コミ6目半までというのが普通である。
なお、「定先」という言い方は先二や先相先といった複数局を一組とするハンデに対し、「常に先番で対局している」ハンデであるということ強調するための呼び方であり、その意識がなければ単に先と呼ぶこともある。
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日本囲碁ジャーナリストクラブ賞(にほん[要出典]いごジャーナリストクラブしょう)は囲碁を掲載している新聞の担当記者らで構成される「日本囲碁ジャーナリストクラブ」の会員が投票して決める賞。1983年から毎年行われている。
受賞者
1983年: 第1回
加藤正夫
1984年: 第2回
藤沢秀行
1985年: 第3回
武宮正樹
1986年: 第4回
趙治勲
1987年: 第5回
安倍吉輝
1988年: 第6回
林海峰
1989年: 第7回
宮崎志摩子
1990年: 第8回
坂田栄男
1991年: 第9回
白江治彦
1992年: 第10回
菊池康郎
1993年: 第11回
三堀将
1994年: 第12回
石田芳夫
1995年: 第13回
柳時熏
1996年: 第14回
小林光一
1997年: 第15回
大竹英雄
1998年: 第16回
工藤紀夫
1999年: 第17回
趙善津
2000年: 第18回
山下敬吾
2001年: 第19回
ほったゆみ、小畑健、梅沢由香里
2002年: 第20回
小林覚
2003年: 第21回
王銘エン
2004年: 第22回
張栩、小林泉美
2005年: 第23回
小林覚
2006年: 第24回
大淵盛人
2007年: 第25回
梅沢由香里
2008年: 第26回
井山裕太
2009年: 第27回
井山裕太、石井邦生
2010年: 第28回
坂井秀至
2011年: 第29回
張栩
2012年: 第30回
Zen
2013年: 第31回
GO・碁・ジャパン
2014年: 第32回
政光順二(クラウドファンディング13路盤選抜プロトーナメント戦企画者)
2015年: 第33回
石倉昇
2016年: 第34回
アルファ碁開発チーム
■
将棋の盤と駒。手前側の駒はゲーム開始時の状態、向こう側の駒は位置は同じで裏返しにして配置している
将棋(しょうぎ)は、2人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種で、一般に「将棋」というときは特に本項で述べる本将棋(ほんしょうぎ)を指す。
チェスなどと同じく、インド古代のチャトランガが起源と考えられている[1]。
以下、本項では主に本将棋について解説する(本将棋以外の将棋及び将棋に関連する遊戯については将棋類の一覧を参照)。
目次 
1	総説
2	ルール
2.1	将棋盤と駒
2.1.1	駒の種類
2.1.2	駒の動き
2.2	対局の進行
2.2.1	駒の配置
2.2.2	手番における動作
2.2.2.1	盤上の駒の移動
2.2.2.2	駒の成・不成の選択
2.2.2.3	持ち駒の使用
2.2.3	持ち時間
2.2.4	手合割
2.3	勝敗の決め方
2.3.1	千日手
2.3.2	持将棋
2.3.3	反則行為
2.3.4	公式戦でのルールの不備
3	戦略と戦術
3.1	ゲームの進行ごとの戦略
3.1.1	序盤戦
3.1.2	中盤戦
3.1.3	終盤戦
3.2	形勢の判断
3.2.1	玉形の状態
3.2.2	駒の価値
3.2.3	手番の先後
3.3	先手の有利度
4	沿革
4.1	古将棋
4.1.1	日本への伝来
4.1.2	平安将棋
4.1.3	将棋の発展
4.2	本将棋
4.2.1	御城将棋と家元
4.2.2	新聞将棋・将棋連盟の結成
4.2.3	将棋禁止の危機
4.3	現代棋界の動向
4.3.1	将棋人口の概要
4.4	日本国外への普及
4.4.1	英語圏の棋譜表記
5	将棋のゲームとしての特質
6	将棋に由来する慣用表現
7	脚注
8	関連項目
9	外部リンク
総説
チェスやシャンチーなどと区別するため日本将棋(にほんしょうぎ)ともいい、特に日本の「本将棋」には「持ち駒」の観念があることが特徴とされ、これは諸外国の将棋類似のゲームにも例のない独特のルールである(持ち駒を利用したチェス派生のゲームも考案されている)。『レジャー白書』によると将棋人口は推定670万人である。
国際将棋フォーラム[2]や世界コンピュータ将棋選手権[3]の開催などもあり、日本国外への普及も進みつつある。
ゲーム理論の分類では二人零和有限確定完全情報ゲームである。ただし後述する千日手のルール上の不備のために、厳密には「有限」でない点がある(2007年時点の日本将棋連盟公式ルールを前提とする)。
現代の日本では特に本項で述べるいわゆる本将棋(81マスの将棋盤と40枚の将棋駒を使用)が普及している。また、はさみ将棋やまわり将棋など本将棋のほかにも将棋の盤と駒を利用して別のルールで遊んだりする遊戯があり変則将棋と総称される[4]。
歴史的には「大将棋」(225マスの将棋盤と130枚の将棋駒を使用)、「中将棋」(144マスの将棋盤と92枚の将棋駒を使用)、「小将棋」(81マスの将棋盤と42枚の将棋駒を使用)などが指されていたこともあり、これらの将棋は現代の将棋に対して「古将棋」と総称される[5][6]。現代でも中将棋などわずかではあるが愛好家が存在する。他に小将棋から派生したと推定される朝倉将棋が福井県を中心として残されており、主に福井県内のイベントなどで朝倉将棋の大会が開かれている。
ルール
将棋は2人の競技者(対局者)によって行われる。ここでは便宜的に自分と相手と呼ぶことにする。
将棋盤と駒
将棋の対局には縦横9マスずつに区切られた将棋盤と将棋駒を用いる。
対局者は将棋盤を挟んで向かい合って対局することになるが、このとき将棋盤の自分側から3段目までのマスを自陣、相手側から3段目までのマスを敵陣と呼ぶ。
他の将棋に類するゲーム(チェス、シャンチーなど)と違い、駒に色分けなどはなく、敵味方共通の駒を用いる。ただし駒は五角形で向きが存在し、一局を通じて自分の駒と相手の駒は常に向き合う方向に配置される。したがって、駒の向いている方向によって、その駒が現在自分と相手のどちらに属しているかが表されることになる。「持ち駒」のルールによって、駒が敵味方どちらに属しているかは目まぐるしく変わることになる。
盤上の駒は一局を通じて常に1つのマスに入ることになる(シャンチーのように線の交点に配置されるわけではない)。1つのマスに複数の駒が存在したり、1つの駒が2つ以上のマスに同時に存在することはできない。
駒の種類

将棋の駒
将棋の駒は玉将(玉)及び王将(王)、飛車(飛)、角行(角)、金将(金)、銀将(銀)、桂馬(桂)、香車(香)、歩兵(歩)の8種類であり、それぞれ動ける範囲が決まっている(玉将と王将の駒の動きは同じであり機能上は完全に同視される)。
一般的に一組の将棋駒には玉将と王将が1枚ずつ入って構成されている。慣例として上位者が王将、下位者が玉将を用いる[7]。ただし、二つとも玉将である「双玉」と呼ばれるものもある[8]。なお、駒の種類である玉将の「玉」、金将の「金」、銀将の「銀」はいずれも宝物の意味であり[8]、本来は2つとも玉将で構成されている双玉であったと考えられている[8]。したがって、将棋で「王様」と呼ぶのは厳密には正しくないとされる[8](そのため、一般的に棋譜読み上げでも玉将と王将を区別せず「ぎょく」と読み上げる。また、一般的に自分側の玉将(王将)のことを「自玉」、相手側の玉将(王将)のことは「相手玉」あるいは「敵玉」という。ただし、玉将(王将)に利きのかかる手は「王手」と言い、「玉手」と言うことは普通ない)。
将棋駒のうち、飛、角、銀、桂、香、歩については敵陣内への移動・敵陣内での移動・敵陣内からの移動の際に成ること(後述)を選択することができ、これによって以下のように駒の動きが変化する(成りを選択した時点で駒を裏返す)。
将棋駒のうち一方向に向かって何マスでも進めることのできる飛車、竜(成った飛車)、角、馬(成った角)、香のことを総称して「走り駒」という。
玉、王以外の大きな駒である飛車、角行はまとめて「大駒(おおごま)」と呼ばれ、金将、銀将をまとめて「金駒(かなごま)」と呼ぶことがある。それぞれ、戦術において似た役割の駒をまとめた言い方でもある。
「駒の利き」とは盤上にある各駒の効力が及んでいる範囲(機能している範囲)を言い、各駒の移動可能となっている範囲に相当する。
駒の動き
元の駒	動き	成駒	動き
玉将(ぎょくしょう)
王将(おうしょう)
玉(ぎょく)
王(おう)
Shogi king.jpg	
○	○	○
○	玉	○
○	○	○
全方向に1マス動ける。	-	-	-
飛車(ひしゃ)
飛(ひ)
車(しゃ)[9]
Shogi rook.jpg	
 	|	 
―	飛	―
 	|	 
縦横に何マスでも動ける。
駒を飛び越えてはいけない。	竜王(りゅうおう)
竜(りゅう)
Shogi rook p.jpg	
○	|	○
―	竜	―
○	|	○
飛の動きに斜めに1マスの動きを足したもの。
角行(かくぎょう)
角(かく)
Shogi bishop.jpg	
\	 	/
 	角	 
/	 	\
斜めに何マスでも動ける。
駒を飛び越えてはいけない。	竜馬(りゅうめ、りゅうま)
馬(うま)
Shogi bishop p.jpg	
\	○	/
○	馬	○
/	○	\
角の動きに縦横に1マスの動きを足したもの。
金将(きんしょう)
金(きん)
Shogi gold.jpg	
○	○	○
○	金	○
 	○	 
斜め後ろ以外に1マス動ける。	-	-	-
銀将(ぎんしょう)
銀(ぎん)
Shogi silver.jpg	
○	○	○
 	銀	 
○	 	○
前と斜めに1マス動ける。	成銀(なりぎん)
Shogi silver p.jpg	
○	○	○
○	全	○
 	○	 
金と同じ。
桂馬(けいま)
桂(けい)
Shogi knight.jpg	
☆	 	☆
 	 	 
 	桂	 
前へ2、横へ1の位置に移動できる。
その際、駒を飛び越えることができる。	成桂(なりけい)
Shogi knight p.jpg	
○	○	○
○	圭	○
 	○	 
金と同じ。
香車(きょうしゃ、きょうす)
香(きょう)
Shogi lance.jpg	
 	|	 
 	香	 
 	 	 
前に何マスでも動ける。
駒を飛び越えてはいけない。	成香(なりきょう)
Shogi lance p.jpg	
○	○	○
○	杏	○
 	○	 
金と同じ。
歩兵(ふひょう)
歩(ふ)
Shogi pawn.jpg	
 	○	 
 	歩	 
 	 	 
前に1マス動ける。	と金(ときん)
と(と)
Shogi pawn p.jpg	
○	○	○
○	と	○
 	○	 
金と同じ。
上の表では便宜的に成銀を「全」、成桂を「圭」、成香を「杏」と表示している。この表記は、将棋駒の活字がない環境で(特に詰将棋で)しばしば用いられる。成銀を「全」、成桂を「今」、成香を「仝」、と金を「个」で表す流儀もある。成銀、成桂、成香、と金は全て「金」と表記されているのが実際で、くずし方を変えることで成る前の駒がわかるようにしている。王将と玉将では役割が同一であっても先手が玉将を持つことで後手と区別している働きが存在する。
対局の進行
将棋は対局者が相互に自らの駒を動かすことによってゲームが進められる。
対局において先に駒を動かし始める側の対局者を先手、そうでない側の対局者を後手という。将棋では一局を通じて先手と後手が交互に盤上にある自分の駒のいずれか1つを一度動かすか、持ち駒(相手から取って自分の駒となった駒。後述)を1つ盤上に置くことを1回ずつ繰り返す。この手順における一回の動作(盤上の駒を動かす又は持ち駒を盤上に置く)を「一手」と呼び、動詞としては盤上の駒を動かす場合には「指す」、持ち駒を盤上に置く場合には「打つ」という。
「将棋を打つ」という表現がなされることがあるが、将棋は「指す」ものであって「打つ」ものではない。ただし、持ち駒を盤面に配置することは「打つ」という(多くのテーブルゲーム類の中で「指す」という表現を用いるのは将棋類のゲームのみ)。
駒の配置
将棋の対局において駒は対局者各20枚ずつの計40枚を用いる。対局者間の棋力の差によって手合割(ハンデ)を考慮する必要もあり、対局者間の棋力の差がかなり大きい場合には駒落ち(棋力で上回る側に属する駒の一部を盤上から除外した状態での対局)となるが、基本的には駒を落さずに対局者各20枚ずつ対等に駒を持つ「平手(ひらて)」で指される(手合割の詳細については後述)。
将棋の対局を始めるには、まず、駒を盤上の定められた位置(初形の位置)に配置する。将棋の正式な礼法では、対局者のうち上位者が駒袋に入った駒を盤の中央に取り出し、対局者はそれぞれ自陣に大橋流あるいは伊藤流の並べ方によって駒を並べてゆく。慣例として上位者が王将、下位者が玉将を用いる[7]。
平手戦の場合、開始時には駒を次のように並べる。
Shogi zhor 22.png	
91	81	71	61	51	41	31	21	11
92	82	72	62	52	42	32	22	12
93	83	73	63	53	43	33	23	13
94	84	74	64	54	44	34	24	14
95	85	75	65	55	45	35	25	15
96	86	76	66	56	46	36	26	16
97	87	77	67	57	47	37	27	17
98	88	78	68	58	48	38	28	18
99	89	79	69	59	49	39	29	19
Shogi zver 22.png
平手戦の初期配置
上図のように盤面を図として表示する場合、下側が先手、上側が後手となる。先手から見て将棋盤の右上のマスを基点とし、横方向に1、2、3、…、9、縦方向に一、二、三、…、九とマス目の位置を表す座標が決められている。棋譜はこの数字を用いて表現される。また、先手は☗(Unicode文字参照2617、Shogi kifu sente.png)、後手は☖(2616、Shogi kifu gote.png)で示すのが一般的だが、コンピュータ上ではJIS2004対応などのフォントが必要で、先手は▲・後手は△で示すことも多い。
先手・後手は振り駒により決定する。(プロのリーグ戦など事前に先手・後手が決定してる場合もある。)
手番における動作
自分の番(手番)が来たら、必ず盤上の自分の駒のいずれか1つを一回動かすか、持ち駒を1つだけ盤上に打たなければならない。二手続けて指したり(二手指し)、パスすること(自分の駒を全く移動せず、持ち駒も打たないこと)はできない。
盤上の駒の移動
盤上にある自分の駒は、その駒の種類に応じて駒の動きに書かれている範囲内に存在するマスであれば、どこにでも移動させることができる。ただし、以下のような制限がある。
本来の駒の動きの範囲内に含まれていても、盤上に存在しないマスには移動できないので、それぞれの駒の利きは盤上にあるマスの範囲に限られる。したがって、飛、角、香などの走り駒の移動できる範囲は盤の端のマスまでになる。また、盤の端に近い位置にある駒は移動できる範囲がマスのある範囲に限られる。
駒の移動においては、それぞれの駒は原則として他の駒を飛び越して移動することができず(桂馬は例外。後述)、また、盤上の駒は常に1つのマスに1つの駒しか入ることができないことから次のような制約がある。
自分の駒を移動させることができる範囲内に他の自分の駒が既に存在する場合、その駒によって塞がれているマスには入れない。また、他の駒を飛び越すことはできないので、他の自分の駒を飛び越してその先のマスへと移動することもできない(自分の駒が移動可能な範囲は他の自分の駒が存在するマスの1つ手前のマスまでとなる)。
自分の駒を移動させることができる範囲内に相手の駒が既に入っている場合、その相手の駒を捕獲して自分の「持ち駒」とした上で、自分の駒をその相手の駒が存在したマスの位置に動かすことができる。したがって、自分の駒が移動可能な範囲は、その相手の駒が存在するマスにまで及ぶことになる。ただし、他の駒を飛び越すことはできないので、飛、角、香などの走り駒であっても、移動範囲を塞いでいる相手の駒を取った上でそのマスに移動することはできるが、移動範囲を塞いでいる相手の駒を飛び越してその先のマスへと移動させることはできない。
桂馬については他の駒とは異なり移動可能なマスが元のマスから離れた場所にあるため(先述の駒の動きを参照)、周囲のマスに他の駒があっても、それを飛び越して移動することができる。ただし、桂馬の移動可能なマスに既に自分の他の駒が入っていて塞がれているときは移動できない。なお、桂馬の移動可能なマスに先に入っている駒が相手の駒である場合には、その相手の駒を取ってそのマスへ移動することができる。
以上のほか、玉将の位置との関係で、自分の駒を移動させることによって自玉を相手駒の利きにさらすことになる場合には、後述する禁じ手に該当することとなり移動できない。
駒の成・不成の選択
前述のように盤上の相手側3段を敵陣と呼ぶが、玉(王)と金以外の駒(飛、角、銀、桂、香、歩)については、敵陣内へ入るとき、敵陣内で移動するとき、敵陣内から出るときに「成る」ことを選択することができる。こうして成った駒を成駒と呼ぶ。成駒となることによって、移動可能な範囲が変化する。飛は竜王(竜)、角は竜馬(馬)となり、それぞれ飛・角の元々の駒の動きに加えて、全方向1マスの範囲にも動けるようになる。また、銀は成銀、桂は成桂、香は成香、歩はと金となり、それらは全て金と同様に扱われる。歩が成った場合にも金と同様に扱われるので、同じ縦の列に歩と成った歩(と金)が並んでも二歩(後述)にはならない。
成りは強制ではなく、成らないこと(「不成(ならず・ふなり[10])」と称する)を選択することができる。ただし、歩を敵陣の一番奥の段に移動させるなど、その駒がそれ以上は動けなくなってしまう場合は、必ず成らなければならない。一度、不成を選択した場合であっても、以後、その駒が成る条件(敵陣に入るとき、敵陣の中で動くとき、敵陣から出るとき)を満たすたびに、成る成らないかを選択することができる。また、一度成駒になってしまうと、その駒が盤上にある限り、元に戻すことはできない。その駒が相手に取られて相手の持ち駒となった時点で、成る前の状態に戻る。従って、持ち駒を成った状態で打つことはできない。
駒が成ることを選択した場合には、それを表示するために、移動先のマスに駒を裏返して配置する(不成を選択した場合には裏返さずそのまま配置する)。銀、桂、香の駒の裏面には「金」の字が崩して書いてある(歩の裏面の「と」も本来は「金」あるいは同音の「今」の字を崩したもの)が、もともとの駒の種類が分からなくならないように各駒の種類に応じて裏面の「金」の字体は変えてある。
上述のように、成りは強制ではなく、成るか成らないかを選択することができる。銀、桂、香は、成ることによって移動できなくなるマスがあるため、不都合を生じることがある(例えば、銀が成ると斜め後ろに動かせなくなる)。そのため、成るか成らないかについて慎重な検討を要することもある。これに対して飛、角、歩は、成っても移動できるマスが増えるだけで減らない(つまり、駒の性能が上がる)ので、成りが選択されることがほとんどである。ただし、極めてまれに、反則である打ち歩詰め(後述)になる局面を回避するなどの理由で、あえて駒を成らない場合もある。その逆に、成ることによって自玉に詰みが生じる局面(大抵は、成ってしまうと自玉の打ち歩詰めが解消されてしまう局面)を回避するなどの理由で、あえて駒を成らない場合もある。
持ち駒の使用

取得した駒は、持ち駒として再利用できる。
持ち駒(自分の駒が移動した際に捕獲して得た駒)は盤上の空いているマスであれば、禁じ手(後述)に該当する場合(二歩や行き所のない駒となる場合)を除いて、好きなところに打つことができる。敵陣に駒を打つ場合でも、成る前の状態で打たなければならない。
持ち時間
詳細は「持ち時間#将棋」を参照
プロの公式戦では持ち時間を定め、ストップウオッチまたは対局時計(チェスクロック)を用い、時間切れによる勝敗を厳正に定める。公式戦では、名人戦では9時間、NHK杯では10分というように棋戦ごとに持ち時間が決められているが、残り時間を使い果たした場合は1手当たりの制限時間(30秒から1分)が課される。プロの公式戦以外では持ち時間なしで最初から1手当たり○秒以内で指す、あるいは持ち時間がなくなれば即負けの対局もある。
手合割
Shogi zhor 22.png	
91	81	71	61	51	41	31	21	11
92	82	72	62	52	42	32	22	12
93	83	73	63	53	43	33	23	13
94	84	74	64	54	44	34	24	14
95	85	75	65	55	45	35	25	15
96	86	76	66	56	46	36	26	16
97	87	77	67	57	47	37	27	17
98	88	78	68	58	48	38	28	18
99	89	79	69	59	49	39	29	19
Shogi zver 22.png
二枚落ちの初期配置
詳細は「将棋の手合割」を参照
対局者の棋力の差によってはハンデキャップ付きの対局も行われる。棋力の差が非常に大きい場合、上位者が駒の一部を取り除いて(駒落ち)対局する。右図は「二枚落ち」と呼ばれる駒落ちの場合である。
駒落ちにおいては棋力の差により、1枚ないし2枚の駒を落とすものから、飛車・角行に加え、金将・銀将・桂馬・香車まで落とす十枚落ちまでの手合割がある。特殊なものとしては、上手が玉将1枚だけになる「裸玉」(19枚落ち)、上手が19枚落ち+持駒に歩3枚を持つだけの「歩三兵」や、金落ち・銀落ちといった特殊な駒落ちが指されることもあるが、あまり一般的ではない。
駒落ち戦の場合には「先手」や「後手」ではなく、駒を落とした方を上手(うわて)、落とされた方を下手(したて)といい上手から指し始める。
勝敗の決め方
将棋は原則として互いに自らの駒で相手の玉将(王将)を捕獲することを目指し、一方の玉将(王将)が相手の駒に捕獲されてしまうことが不可避な状態(詰み)となれば勝敗が決まる。 伝統的に「実際に王を取る」ことは忌避されたため、どちらか一方が逆転不可能と判断した時点で投降することにより対局を終了する習慣になっている(投了)。 投了のタイミングは、ルール上は自分の手番であればいつ行ってもよいが、実際に投了する局面としては、自玉が詰まされることが確定的となったとき(自玉が即詰みになることが判明した場合、自玉に必至がかかり敵玉が詰まないとき)がまず挙げられ、相手の攻めを受け切れず、自玉が一手一手の寄り筋となった場合、攻め合いで相手より早く玉を詰ますことができない場合も該当すると考えられる。この他自玉に具体的な詰み筋・寄り筋は見えなくても、到底勝ち目がないと判断して戦意喪失した場合、すなわち相手の受けが強くて一連の攻めが続かなくなった場合(指し切り)や、攻防に必要な駒を相手にほとんど取られてしまった場合、一方的に入玉されて敵玉が寄る見込みのない形になってしまったなどの場合に投了することもある。特にプロの公式戦では完全に詰むまで指すことは極めて稀である。原則的には詰みまたは投了によって勝敗が確定するが、勝敗の決し方には以下のようなものがある。
どちらかの対局者が以下の状態になった場合には、その対局者の負けとなり、もう一方の対局者の勝ちとなる。
詰み(自玉に王手がかかっており、合法な指し手が存在しない)[11]
投了(勝利不可能と判断して負けを認めた)
時間切れ(持ち時間がなくなった)
反則行為(反則を行ったことを指摘された)
ルール違反(基本ルールに反する動作を行った)
禁手(ルールで禁止された手を指した)
連続王手の千日手(相手玉への王手の連続によって千日手が成立した)
相入玉の点数不足(相入玉に対局者同士が合意し、点数計算で24点未満となった)
被入玉宣言(条件を満たした状態で対戦相手が入玉を宣言した)
以下の状態になった場合には、引き分けとなる。
連続王手以外の千日手(連続王手以外で同一局面が4回現れた)
持将棋(相入玉に対局者同士が合意し、点数計算で両者ともに24点以上となった)
千日手
同一局面が4回現れた場合千日手となる。同一局面とは、「盤面・両者の持駒・手番」がすべて同一の場合のことをいう。千日手は原則として無勝負・指し直しだが、一方が王手の連続で千日手となった場合は、王手をかけていた側の負けである。これは、千日手が成立した手番に関係ないため、自身が指した手で千日手が成立して負けが決まることもあれば、相手が指した手で千日手が成立して負けが決まることもある。通常の禁手のように、自分が指した手で負けが決まるとは限らないため、ルールでは「禁じられた手」ではなくて「禁じられた局面」と表記している。連続王手の千日手は通常の禁手とは異なる特殊な規定のため、双方連続王手の千日手や最後の審判 (詰将棋作品)といった状況においてルールの不備が指摘されている。
持将棋
先後両者の玉(王)が互いに入玉し、互いの玉を詰ますことが困難になった場合、両者の合意の上で判定により勝敗を決める場合がある。この判定法により引き分けとなる場合を持将棋という。プロの公式戦においては、大駒1枚につき5点、小駒1枚につき1点とし、互いに24点以上であれば引き分けとしてる。アマチュアの大会の場合はそれぞれの規定による。一般に27点法(同点)が採用され,点数が多い方が勝ち,同点の場合は後手勝ちとしている。
反則行為
次に挙げる行為は反則と決められており、着手した場合直ちに負けとなる。対局中であれば、反則行為が行われた時点ではそれに気付かずに手が進められても、後になって反則に気付き指摘された時点で勝敗が決定する。ただし、対局相手が反則に気づかないまま投了・終局した際は投了が優先される。また、対局中の助言は一切禁止されるが、反則行為が行われた場合に限り第三者がそれを指摘しても良い[12]。
反則によって決着した場合は、その時点で反則者が投了したものとする[13]。
ルール違反
2手続けて指す(二手指し)、ルール上移動できない位置に駒を移動する(特に、角(馬)を遠い位置に移動させるときに間違えやすい)、駒を成れない状況で成ってしまう、玉や金を成ってしまう、成り駒を盤上で裏返し元の駒に戻す、成り駒を打つ(持ち駒を裏返して打つ)、持ち駒を駒台に乗せず手に隠し持つあるいは将棋盤や駒台の陰に置く(隠し駒)などの基本ルールに反する行為。いったん着手した手を変える行為(待ったと呼ばれる)も基本的には即負けである。駒から手を離した時点で着手が完了となるため、一旦駒を動かしても手を離さなければ、その時点では元に戻して別の手を指してかまわない。ただし、仲間同士の気楽な対局や駒落ちなど指導を目的とする対局の場合は、例外的に許可される場合もある。しかし、多くの人は「待った」をマナー違反とみなすため、注意が必要である。
禁じ手
基本ルールには反していないが、特別に禁止されている手のこと。
連続王手の千日手
連続王手での千日手は王手している側が指し手を変更しなければならないが、これを行わずに千日手が成立してしまった場合。千日手が成立した時点で反則になるため、対戦相手が指し手によって反則が確定する場合もある。
禁じ手は以下の通りである。
二歩
成っていない歩兵を2枚以上同じ縦の列に配置することはできない。
行き所のない駒の禁止
盤上の駒を行き先のない(動けない)状態にしてはいけない。味方の駒に進路を塞がれて一時的に動けない場合はこれにあたらない。打つ場合、不成で進む場合ともに敵陣1段目と2段目の桂馬、1段目の香車・歩兵は配置してはいけない。したがって盤上の桂馬・香車・歩兵がその場所に進む場合は必ず成らなければならない。
打ち歩詰め
歩を打って玉を詰ませてはいけない(つまり歩の駒を打った状態で相手の玉が詰んでしまってはいけない)。ただし、歩による王手が詰め手順の最終手でなければ、歩を打っての王手は反則ではない。したがって、歩を打って王手をかけたのちの連続王手で最終的に「詰み」が成立することは問題がない。また、盤上の歩を突いて玉を詰ます突き歩詰めも反則ではない。
自玉を相手駒の利きにさらす手
自らの着手の後、自らの玉が王手のかかった状態にあってはいけない。すなわち、
相手に王手された場合は王手を回避しなければならない。
玉を相手の駒の利きに移動してはならない。
玉以外の駒を移動させた結果、玉が相手の駒(香車、飛車(竜王)、角行(竜馬))の利きにさらされるようにしてはならない。
記録に残っている1977年から2005年までに、プロの棋戦で発生した反則のうち、回数が多いものは以下の通り[14]。
プロの棋戦で発生した反則の上位(1977年以降)
1位	二歩	44回
2位	二手指し	22回
3位	王手放置、自らの玉を相手の駒の利きにさらす	8回
4位	角・馬が移動できない位置へ移動する	5回
5位	成れない状況で駒を成る	3回
その他、特殊な例として、
持ち駒を成駒の状態で打った(成銀を金と見間違えて打ったという事例がある。参考)。
駒を飛び越える位置に角を動かした[15]。
自分が取った駒を相手の駒台に乗せた[16]。
盤上から駒台に移ってしまった香車を持ち駒として使用した(服の袖が当たったことが原因である。参考)。
後手が先に指した(これは「自分の手番ではないのに指している」ことから、二手指しの一種にあたる[13]。あえて言えば、「0手目」という架空の後手の指し手と合わせて2手となる。棋譜上は「並べた状態のまま投了」の扱いとなる)。
相手の駒を取った後、別の場所に駒を動かした(8八の玉将で7八の相手の馬を取ろうとして、馬を駒台に移した後玉将を8七に移動させた。棋譜上は馬を取らずに玉を8七へ指した王手放置となっている。参考)。
いったん不成で敵陣に置いたように見えた駒を持ち直し、成りに変えた。対局はそのまま継続されたが、テレビ放送後の視聴者の抗議を受け、「待った」であるとされた[17]。
自分で自分の駒を取った(国際将棋トーナメントBクラス日本代表のさかもと未明)
竜を飛車に戻した(マイナビ女子オープンの畑中さゆり)
という反則が知られている。
なお、「王手をするときには『王手!』と言わなければいけない」と誤認する者も多いが、そのようなルールは存在しない[18]。
公式戦でのルールの不備
以下は、公式ルールでは勝敗に関する明確な規定がないルールの不備である。滅多に発生しなかったり、対局マナーとして暗黙の了解ができていたりするため、明文化されていない。
相入玉への非合意
入玉宣言法を導入しないアマチュアの場合、相入玉は対局者同士が合意しなければ成立しないため、一方が合意を拒めば相入玉の状態でいつまでも対局を続けることができる。ただし、完全に相入玉の状態で合意を拒むことは、ルール違反ではないがマナー違反である。コンピュータ将棋などでは、トライルールを採用する場合もある。プロの公式戦では入玉宣言法を導入したため、このような問題は解決された。
双方連続王手の千日手
一方が連続王手の千日手の場合には負けとなるが、両者が連続王手で千日手となった場合については定義されていない。双方連続王手での千日手は現在まで発生した記録がないが、そのような手順が存在するか否かは完全な証明がなされておらず、不明である。
打ち歩によって、連続王手の千日手でしか王手を解除できない状態を作った場合
これが打ち歩詰めに該当するのかが不明である。連続王手の千日手でしか王手を解除できない状態は詰みとみなすのかどうかに依存し、現行ルールではどちらの解釈も可能である。「最後の審判」という詰将棋の問題の形で指摘されている。
ルールの不備が改正された例としては、1983年に千日手の規定が「同一手順を3回繰り返した場合」から「同一局面が4回現れた場合」に変更された例がある。旧規定では、千日手になることなく無限に指し続ける手順の存在が数学を用いて簡単に証明でき、実際に千日手模様の無限ではないが、かなり長手数の対局が見られたことから改正された。
戦略と戦術
詳細は「将棋の戦法一覧」および「将棋の格言」を参照
ゲームの進行ごとの戦略
一局の対局はおおよそ100手前後(先手・後手それぞれの着手を1手と数える)で勝負がつくが、対局全体を大きく以下の3つに分けることができる。ただし、何手目までが序盤であるかなど、明確な線を引くことは通常はできない。
序盤
初手から駒組みが完成するまでのおおよその間。
中盤
駒組みが完成し、両軍の駒のぶつかり合いが始まってから、劣勢の側または両者の玉の囲いが崩れ始めるまでのおおよその間。
終盤
劣勢の側または両者の玉の囲いが崩れ始めてから、終局までの間。
序盤戦
序盤戦はまず戦型を選択するところから始まる。
初手は角道を開ける▲7六歩か飛車先の歩を突く▲2六歩のどちらかが多く、ほとんどの対局はこのどちらかで開始される。しかし、先手ゴキゲン中飛車や藤井システムの登場などにより新しい指し方の研究も進んでいて、▲7六歩や▲2六歩以外の初手についても(まだまだ数は少ないが)いろいろと試みられている。
戦法は、飛車を初期位置から動かさずに攻める居飛車戦法と、左へ動かして展開する振り飛車戦法の2通りに大別され、それぞれに定跡が研究されている。その知識と研究に加えて、相手の動きを見ながら先々の有利を見すえる大局観が重要となる。
基本的には金や銀を使って玉の守りを固め(囲い)ながら、駒を繰り出して敵を攻める体勢を作ることになる。囲いを簡略化してすぐに攻めに入ることを急戦といい、じっくりと守りを固めてから戦いに入ることを持久戦という。双方が囲い合い、駒のぶつかり合いが始まると中盤戦に突入する。
なお、序盤戦での攻め駒と守り駒の配分については、標準的には攻めは主に飛角銀桂(香歩)、守りは金2枚銀1枚と言われている。ただし、これはあくまでも標準であり、金銀4枚すべてを囲いに用いる場合など異なる場合もある。
中盤戦
中盤戦は、駒を取り合い、敵陣に切り込んで相手の囲いを崩しに行く戦いになる。駒の損得と働きが重要になる。
銀、桂、歩などを繰り出しながら相手の駒を攻めて駒得(「駒の価値」の項を参照)を狙い、敵陣に攻め入って竜、馬やと金などを作って相手玉の囲いを脅かすこと、またそのような相手の攻めを防ぐ(受ける)攻防が主となる。攻めと受けのどちらに主眼を置くかによって個人の棋風が現れる部分である。一方または両方の囲いが崩れ出すと、終盤戦に突入する。
なお、駒組みが未完成のまま駒がぶつかり合うことになってしまった場合などには、中盤戦といえるものがはっきりとせず、序盤戦から急に終盤戦に入ったと評価されるような場合がある。
終盤戦
終盤戦では、相手の玉を詰ましに行く(寄せる)戦いになる。駒の損得よりも玉を寄せるスピードが重要となり、正確な読みの力が重要となる。
囲いを崩しながら相手玉に迫り、詰めろをかけ続け、最終的には詰将棋のように王手の連続で詰みまで持っていくことになる。お互いに玉に迫りあっている場合、相手への詰めろを1手外すと逆に自玉にかけ返されてしまうので、1手の緩手で勝敗がひっくり返ってしまうこともある重要な局面である。
一方的に攻められている場合は玉が詰まされないよう逃げ道を確保する。入玉を目指し早めに逃げることもある。
形勢の判断
局面の形勢判断の要素としては、玉形の状態、対局者双方の駒の価値(駒得か駒損か)、手番を握っているかどうかなどがある。
玉形の状態
玉形とは、玉将(王将)の位置とその周りの駒の位置のことである。遠さ、堅さ、広さなどの要素で判断される。
遠さ
基本的に玉は五筋(中央)から離れているほど良いとされる。これはマスの端よりも外から駒が利くことがあり得ないため、玉周辺への攻めが集中しにくいことと、端にある駒(桂馬・香車)が初期位置から動かすことなく防御に使えるためである。通常、玉は戦場(攻め駒がぶつかりやすい場所)からできるだけ遠い場所にいるほうが安全と考えられており、これに関連する将棋の格言として「居玉は避けよ」や「玉飛接近すべからず」などがある。ただし、局面の展開によっては端にいることで逆に逃げる場所が無くなり負けてしまうこともあるので、一概に端にいれば良いというわけではない。
堅さ
玉の周りに置かれる駒を一般的に囲いと呼び、囲いに使われる駒の位置も玉形に含まれる。将棋では囲いの防御の性能を「堅い」あるいは反対に「薄い」などと表す。
囲いは通常自分から動かすことはない。なぜなら囲いとして駒を置いた位置が、最も玉を守れる形である場合が多いため、その位置から動かすことは囲いの性能を落とすことになる。この囲いに使われる駒を攻められ、位置を移動させられたり(駒を移動させて防御の性能を落とさせることを崩すという)、駒自体を取られたりする(囲いの駒を取ることをはがすという)と玉形が悪くなり囲いは薄くなる。
この玉の位置と囲いの形を総合して玉形と呼び、この状態が良いか悪いは勝敗に大きく関わってくる。たとえ駒得をしても玉形が悪ければ形勢が不利とされることがある。相手の玉形を悪化させるためにわざと駒損をしたり、逆に玉形を悪化させてでも駒得を狙うこともある。
一般には金や銀といったいわゆる金駒や角の成った馬が玉の周りに囲いとして組み込まれ、その枚数が多ければ多いほど堅いと評価されるが、囲いを形成する駒相互の位置関係によって囲いの堅さは大きく変化する。例えば一般に角や桂といった前のマスに利きのない駒(将棋では頭が丸い駒という)は玉の上部の防御には不向きである。なお、玉形の良し悪しは相手の攻めの形に大きく影響されるため、相対的に玉形が良いとされることはあるが、この形が絶対的に良いと呼べる玉形はない。例えば居飛車同士の場合、玉は上からの攻めに囲いを使うが、この時の囲いは横からの攻めに弱く、相手が振り飛車であった場合、同じ囲いだと玉形は非常に悪い。
広さ
最終盤では玉形の評価として「堅さ」の要素とは別に「広さ」の要素が評価されることもある。「広さ」は具体的には玉の逃げ場所の広さをいい、広ければ広いほどプラスに評価される。相手玉を詰ませるためには攻め駒が必要となるが、相手玉の逃げ場所が広ければ広いほど詰ませるのに多くの攻め駒を必要とする(捕まりにくい状態になる)からである。序盤に築かれた玉の囲いが相手側の攻めによって崩された場合でも、終盤の局面で玉に有効とみられる逃げ道がある場合には広いとプラスに評価されることもある。
駒の価値
詳細は「大駒・小駒」を参照
玉将、王将は最高の価値を持つ。 駒の価値は次のような順になる。
王将、玉将
飛車
角行
金将
銀将
桂馬
香車
歩兵
飛車と角行を大駒といい、それ以外を小駒という。ただで相手の駒を手に入れたり、価値の低い駒を捨てるかわりに価値の高い駒を手に入れたりすることを駒得(こまどく)といい、一般的には有利になる。その反対は駒損(こまぞん)という。
角行1枚と銀+桂の合わせて2枚との交換など、大駒1枚と小駒(歩兵を除く)2枚を交換することを二枚替えという。一般的には小駒2枚を得た側が有利とされる。例えば、飛車を手に入れたかわりに金と銀を渡した場合、飛車自体は最も強い駒であるが金銀の2枚を失った方が不利になる場合が多い。ただし、駒の価値が大差である場合の二枚替えは有利とは限らない。
この判断基準として、谷川浩司と佐藤康光による駒の価値の評価(点数付け)[19]が参考になる。なお、ここでいう点数計算は持将棋となった場合の判定のための点数計算とは異なる。
(括弧内は、成り駒の場合)
駒	谷川による評価	佐藤による評価
飛車	10 (12)	19(19+3程度)
角行	8 (10)	17(17+3程度)
金将	6	11
銀将	5 (6)	10(11程度)
桂馬	4 (6)	6(11程度)
香車	3 (6)	6(11程度)
歩兵	1 (7)	1(11程度)
考え方の例として、自分の飛車を相手の金将・銀将の2枚と交換(二枚替え)した場合を挙げると、谷川方式では、自分は6点+5点-10点=1点、相手は10点-6点-5点=-1点で、差し引き2点だけ自分が得したことになる。佐藤方式では、自分は11点+10点-19点=2点、相手は19点-11点-10点=-2点で、差し引き4点だけ自分が得したことになる。
二枚替え以外のケースとして自分の‘と金’(歩の成り駒)と相手の銀将を交換した場合を挙げると、谷川方式では、自分は5点-7点=-2点、相手は1点-5点=-4点で、差し引き2点だけ自分が得したことになる。佐藤方式では、自分は10点-11点=-1点、相手は1点-10点で、差し引き9点だけ自分が得したことになる。
駒の種類に応じ各駒の点数によって損得を比較する方法は最も基本的な価値判断の方法として将棋の入門書などで解説されることも多い。当然のことながら将棋において対局者は相互に同じ種類の駒を同じ数だけ盤上に有する状態(駒の損得なしの状態)から開始されるため、対局者相互の駒の種類の変化は序盤から中盤で特に重視される。
谷川浩司著『将棋に勝つ考え方』(1982年;池田書店)では、王将、玉将=点数をつけられない、飛車=15点、角行=13点、金将=9点、銀将=8点、桂馬=6点、香車=5点、歩兵=1点として損得計算の方法を公開している。(成り駒は、龍王=17点、龍馬=15点、成銀=9点、成桂=10点、成香=10点、と金=12点)
以上の形式的な駒の種類による価値判断(点数計算)ではなく、各局面に応じた実質的な駒の価値判断がなされることもある。例えば序盤において、18枚の歩は形式的な駒の種類による価値判断(点数計算)では同じ歩として同じ点数で評価されることになるが、実質的な駒の価値判断では玉を囲う側の端歩と囲わない側の端歩とは盤上での機能が異なるため同価値とは判断できない。将棋では進行に応じて個々の局面において必要な駒が大きく変化するため、特に中盤から終盤にかけては実質的な駒の価値判断が重要な意味を持つ。例えば角交換となった後で一方が盤上に角を打ち込んだ場合、盤上に打たれた成っていない角と未だ持ち駒となっている角とでは同価値とは判断できない。最終盤では全体的な駒の損得ではなく、次に述べる手番の先後が重要となる。
手番の先後
最終盤では寄せる速度が勝負を分けるため、寄せの局面に向けて先手をとることが重要となる。攻防に必要な駒さえあれば全体的な駒の損得はほとんど形勢に影響しない。たとえば、飛車や角を捨てて金を得るということも行われる。これを表す格言として「終盤は駒の損得より速度」がある。
先手の有利度
詳細は「将棋界#将棋は先手が有利か」を参照
戦略・戦術以前の問題として、そもそも対局において先手番が有利か否かという点が話題となることがある(ある局面での手番を意味する「先手」「後手」ではなく、一つの対局の最初の手を指す側か否かの「先手」「後手」)。
沿革
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古将棋
日本への伝来
「チェスの歴史」も参照
将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるという説が最も有力とされている[1]。ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー、朝鮮半島にはチャンギ(將棋 : 장기)、タイにはマークルックがある。
将棋がいつ頃日本に伝わったのかは、明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。伝説としては、将棋は周の武帝が作った[20]、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えた[21]などといわれているが、後者に関しては、江戸時代初めに将棋の権威付けのために創作された説であると考えられている。
日本への伝来時期はいくつかの説があるが、早いもので6世紀ごろと考えられている[22]。最初伝来した将棋は、現在のような平型の駒形ではないという説もある。古代インドから直接日本へ伝来したとする説では、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。一方、6世紀ごろインドから直接ではなく、中国を経由して伝来したという説では、駒の形状は中国のシャンチー(中国象棋)と同様な平型の駒として伝来したという説もある。チェスでは古い駒ほど写実的であるとされるが、アラビア等古い地域において平面の駒がみられる。また今までに立体の日本将棋駒は発見されていない。他説としては、平安時代に入ってからの伝来であったとする説がある。インドからアラビアを経て中国のシャンチーそして朝鮮のチャンギ(朝鮮のものは中国由来)が日本に伝わったというものである。しかし平安時代には既に日本に将棋があったという説が有力である。また、駒の形の違い(アラビア、中国などは丸型、チャトランガは立体像、日本は五角で方向が決まっている)やこれらの駒を線の交点に置くことなど将棋とどれも大きくことなる。これに対し、東南アジアのマークルックは銀と同じ動きの駒があるが、歩にあたるビアの動きがあまりに将棋とは違うことが指摘されている。また、将棋は相手側三列で駒が変化するがマークルックではクン、ルア、コーン、マー、メットとも「成る」ことはない。この点も大きく将棋とは異なる。近年はこの系統の盤戯が中国経由または直接ルートで日本に伝来したとする説がある[23]。また、中国を舞台とした日本と東南アジアの中継貿易は行われていたことから中国経由の伝来は十分に考えられるが、中国での現代のシャンチーの成立時期は平安時代より遅くまた現代のシャンチーはルールも異なる。このため現代中国シャンチーが伝播したものではないと考えられている[24]。いずれにしても日本での、古代の日本将棋に関する文献は皆無で、各説は想像の域を出ない。
平安将棋
将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、南北朝時代に著された『麒麟抄』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる『新猿楽記』(1058年 - 1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。
考古資料として最古のものは、奈良県の興福寺境内から発掘された駒16点[25]で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。
三善為康によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年 - 1221年に編纂されたと推定される習俗事典『二中歴』に、大小2種類の将棋がとりあげられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている[26]。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。
これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある[27]。さらに、チャトランガはその成立から戦争を模したゲームで駒の取り捨てであるが、平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。
古将棋においては桂馬の動きは、チャトランガ(インド)、シャンチー(中国象棋)、チェスと同様に八方桂であったのではないかという説がある。持ち駒のルールが採用されたときに、他の駒とのバランスをとるために八方桂から二方桂に動きが制限されたといわれている。
将棋の発展
これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。
13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。15世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。16世紀ごろには小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられる。元禄年間の1696年に出版された『諸象戯図式』によると、天文年中(1532年-1555年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない[28]。
16世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、174枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象(象)を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。1707年出版の赤県敦庵著作編集の将棋書「象戯網目」に「象(醉象)」の入った詰め将棋が掲載されている。他のルールは現在の将棋とまったく同一である。

将棋をする少年(18世紀)
将棋史上特筆すべきこととして、日本ではこの時期に独自に、日本将棋では「相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール」、すなわち「持ち駒」の使用が始まった。持ち駒の採用は本将棋が考案された16世紀ごろであろうと考えられているが、平安小将棋のころから持ち駒ルールがあったとする説もある。近年有力な説としては、1300年ごろに書かれた『普通唱導集』に将棋指しへの追悼文として「桂馬を飛ばして銀に替ふ」と駒の交換を示す文句があり[29]、この時期には持ち駒の概念があったものとされている[30]。
持ち駒の起源については、小将棋または本将棋において、駒の取り捨てでは双方が駒を消耗し合い駒枯れを起こしやすく、勝敗がつかなくなることが多かったために、相手から取った駒を自分の持ち駒として使うことができるようにして、勝敗をつけやすくした、という説が一般的である[31]。
江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、これらの将棋はごく一部を除いて実際に遊ばれることはなかったと考えられている。江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。
将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の将棋の発展につながってゆく。
本将棋
御城将棋と家元
将棋(本将棋)は、囲碁とともに、江戸時代に幕府の公認となった。1612年(慶長17年)に、幕府は将棋指しの加納算砂(本因坊算砂)・大橋宗桂(大橋姓は没後)らに俸禄を支給することを決定し、やがて彼ら家元は、碁所・将棋所を自称するようになった。初代大橋宗桂は50石5人扶持を賜わっている。寛永年間(1630年頃)には将軍御前で指す「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(11月17日)が「将棋の日」となっている。
将棋の家元である名人らには俸禄が支払われた。江戸時代を通じて、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家の世襲のものとなっていった。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人を襲位した将棋指しは、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのがならわしとなった。
名人を世襲しなかった将棋指しの中にも、天才が現れるようになった。伊藤看寿は江戸時代中期に伊藤家に生まれ、名人候補として期待されたが、早逝したため名人を襲位することはなかった(没後に名人を贈られている)。看寿は詰将棋の創作に優れ、作品集『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られている。江戸末期には天野宗歩が現れ、在野の棋客であったため名人位には縁がなかったが、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。宗歩を史上最強の将棋指しの一人に数える者は少なくない。なお、江戸時代の棋譜は「日本将棋大系」にまとめられている。
新聞将棋・将棋連盟の結成
江戸幕府が崩壊すると、将棋三家に俸禄が支給されなくなり、将棋の家元制も力を失っていった。家元の三家が途絶えたため、名人位は推薦制へ移行した。アマチュアの将棋人気は明治に入っても継続しており、日本各地で将棋会などが催され、風呂屋や理髪店などの人の集まる場所での縁台将棋も盛んに行われていたが、19世紀末には一握りの高段者を除いて、専業プロとして将棋で生活していくことはできなくなったといわれている。
1899年(明治32年)ごろから、萬朝報が新聞としてはじめて紙面に将棋欄を開設し、他社も追随したため[32]、新聞に将棋の実戦棋譜が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成され、1924年(大正13年)には関根金次郎十三世名人のもとに将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の日本将棋連盟の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。
将棋禁止の危機
第二次世界大戦後、日本将棋連盟に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) より呼び出しがかかった。これは武道などを含めた封建的思想の強い競技や娯楽の排除を狙ったものだが、連盟は知識豊富で勝負勘に優れた関西本部長代理の升田幸三を派遣する。その席でGHQは「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」と述べた。それに対して升田は「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥った時にはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論。この発言により将棋は禁止されることを回避することができた[33]。
現代棋界の動向
詳細は「棋戦 (将棋)」、「女流棋士 (将棋)」、「将棋のアマチュア棋戦」、および「コンピュータ将棋」を参照
連盟結成以降の詳細は各記事にゆずるが、1937年の名人戦を皮切りに7つのタイトル戦を含む10以上の棋戦が開催されている。また、女性のプロ(女流棋士)も誕生し、1974年には最初の棋戦である女流名人位戦が開催され、6つのタイトル戦と1つの公式棋戦が行われている(2012年現在)。この期間に定跡が整備され、とくにプロレベルの序盤は高度に精密化された。将棋自身も賭博の対象から純粋なマインドスポーツへと変化している。プロの発展とともに、将棋のアマチュア棋戦も整備され、日本全国からアマチュアの強豪選手が集まる大会が年間に数回開催されている。
また、コンピュータプログラムを利用した将棋の研究、特にコンピュータに着手を計算させる研究は、世界的に見るとチェスのそれの後を追うようにして、日本において1960年代にその萌芽があり[34]21世紀にはプロとの現実的な対局が考慮されるに至った(詳細はコンピュータ将棋の記事を参照)。2008年5月には、この年に開催された第18回世界コンピュータ将棋選手権での優勝・準優勝将棋ソフトがそれぞれトップクラスのアマチュア棋士に完勝。更に、2013年以降は将棋電王戦においてプログラムが現役A級棋士を含む上位棋士を次々に破っており、現在のコンピュータ将棋の実力はプロでも上位に入るレベルに達しているとされている。公式棋戦においてアマチュアトップや奨励会員とプロの実力下位者の対局が年間複数回指され、前者が後者を破ることも珍しくないことから、奨励会員も既にプロ下位者の実力に達しているともされる。
インターネット上で指せる将棋、いわゆるネット将棋も1990年代から発展してきており、将棋倶楽部24・ 81Dojoや、Twitterと連動したshogitterなどがある。
また、2012年の主要タイトル戦の全勝負をインターネットでトッププロによる解説を交えて生配信するなど、幅広い層へのアピールやファンの獲得にも積極的に取り組んでいる。
将棋人口の概要
『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)によると、1年に1回以上将棋を指すいわゆる「将棋人口」は、1985年度の1680万人から、2005年度840万人、2013年670万人と漸減傾向が続いている[35]。
将棋人口が半減した上記の期間に、将棋が一般メディアに取り上げられたことは何度かある。代表的なものでは、羽生善治の七冠達成(1996年)、将棋を題材としたNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠と林葉直子の不倫報道(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)、名人戦の移管問題(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)、将棋電王戦(2012年)、今泉健司のプロ編入試験(2014年)などである。しかしいずれも「将棋ブーム」を生むには至らず、取り上げ方によってはファン離れを加速するものとなっているものもある。
また、1996年頃からJava将棋やザ・グレート将棋など、盤駒を利用しなくともインターネットを通じて対局ができるインターネット将棋が普及。現在は、1998年に運営を開始しアカウント延べ数20万人の将棋倶楽部24や、将棋ウォーズ、近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などインターネット対局が主流になり将棋センターは次々閉鎖されてきた。2010年に英語が公用語の対局サイトである81Dojoが開設され、2012年7月時点で登録者数は8000人を超えている。
日本国外への普及
将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯であり、駒の種類が漢字で書かれて区別されているなどの理由で、日本国外への普及の妨げになっていた。囲碁は国際的に(多少の差異はあるが)ルールが統一されていること、白黒の石でゲームを行うこと、他国の固有ゲームとは類似性が見られない(他国ではチェスなどの将棋系ゲームがすでに存在していることが多い)ゲームであるなどの理由で、世界的に普及が進んでいるのとは対照的である。
将棋の存在そのものは海外でも比較的早く知られていた。中国でははやく明代に倭寇対策として日本文化が研究され、1592年の侯継高『日本風土記』で将棋のルールがかなり詳細に記載されている。またアメリカ合衆国では1860年に万延元年遣米使節によって将棋のゲームが披露されている。1881年のリンデ(オランダ語版)『チェス史の典拠研究』では将棋と中将棋が紹介されている[36]。1966年トレバー・レゲット(英語版)は詳細な将棋の専門書『Shogi: Japan’s Game of Strategy』を出版した。1975年にイギリスのホッジス(George F. Hodges)は将棋協会(The Shogi Association, TSA)というクラブを作り、将棋専門誌『Shogi』を発行した。また西洋式の将棋駒を販売したり、将棋セットを日本から輸入販売したりした。ホッジスはまた中将棋のマニュアルも書いた[37]。1985年にはヨーロッパ将棋協会連盟(FESA)が創立され、毎年ヨーロッパ将棋選手権および世界オープン将棋選手権を開催している[38]。
1990年代になると将棋の日本国外への普及活動が本格的に行われるようになった。特に中華人民共和国、中でも上海への普及が盛んで、上海の将棋人口は50万人となっており、早ければ2012年にはプロ制度発足もあるという[39]。
2010年には英語が公用語の対局サイトである81Dojoが開設された。
非漢字圏への普及のためにいくつかの駒の形が考案された。ホッジスのもの(通常の形の将棋の駒に英語の頭文字と動きが記されている)、GNU のもの[40]、ChessVariants のもの[41]、Hidetchi国際駒[42][43]などがある。最後のものは81Dojoなどで駒のデザインの一つとして選ぶことができる。
英語圏の棋譜表記
英語圏の棋譜表記は何種類かあるが、上記ホッジスによるものがもっとも標準的に使われており、公式戦の棋譜中継で用いられる Kifu for Flash でも言語を日本語以外にするとこの表記になる。この表記は日本での表記とチェスの表記を折衷したような形になっていて、
 駒の種類 動かし方 位置 成・不成
を組み合わせる。あいまいな場合は、駒の種類の後に移動前の位置を記す。
駒の種類は K(King、玉)R(Rook、飛)B(Bishop、角)G(Gold、金)S(Silver、銀)N(Knight、桂)L(Lance、香)P(Pawn、歩)のいずれかであり、成り駒は + を前置することで表す。位置は横の筋を将棋と同様右から左に 1…9 で、縦の段を上から下に a…i で表す。したがって「76歩」は「P-7f」、「55馬」は「+B-5e」となる。動かし方は通常「-」であるが、駒を取るときは「x」、打つときは「*」と書く。「成」は「+」、「不成」は「=」と記す。先手・後手の区別が必要な場合、先手を b(black)、後手を w(white) とする[44]。
将棋のゲームとしての特質
盤面状態の種類が、チェスは1050、シャンチー(象棋)は1048と見積もられるのに対し、将棋は1071と見積もられる[45]。また、ゲーム木の複雑性が、チェスは10123、シャンチーは10150であるのに対し、将棋は10226と計算されており、チェスやシャンチーに比較して将棋の方がゲームとして複雑であるとみなされる(ただし、囲碁ほどには複雑ではない)[45]。
なお、チェス、タイのマークルック、朝鮮のチャンギ、中国のシャンチーについて、ルールを理解し、すべて実際に指してみたという将棋の羽生善治は、将棋に近いのは、タイのマークルックであると述べている[46]。羽生は、日本の将棋と他の将棋類とのあいだの大きな相違点として持ち駒(とった駒の再利用)を挙げている。このルールの相違により、他の将棋では序盤が激しく、駒数の減る終盤は静かな戦いになることが多いのに対し、いつまでも駒数の減らない将棋では終盤の攻防がきわめて激しいものとなるというゲームの質の決定的な違いを生んでいることを指摘している[46]。
将棋に由来する慣用表現
曖昧さ回避	「高飛車」はこの項目へ転送されています。富士急ハイランドの大型ローラーコースターについては「高飛車 (コースター)」をご覧ください。
	ウィキクォートに将棋に関する引用句集があります。
王手(おうて)
次に相手の玉将を取れる状態を表す用語から転じて、あと1勝で優勝などの場面で用いる。また、相手もあと1勝で優勝という状況になったときには「逆王手」という表現が用いられることもあるが、将棋における「逆王手」とは意味が異なる(将棋の場合、逆王手をかけることにより、自玉の王手を解消しつつ、同時に敵玉に王手がかかった状態となるが、一般に慣用表現として使われる「逆王手」は双方ともに王手がかかった状態であり、本来の意味とは異なる)。
詰んでいる(つんでいる)
いかなる手を指そうとも王手の連続で詰みになってしまうことを表す用語から転じて、事実上勝敗は決している状態、また進退窮まる状態を指す。特に、まだ抵抗の余地はあるが何をしても結局は負ける、または苦境を脱することができないという場合に用いられる。
将棋倒し(しょうぎだおし)
大勢の人ごみがあるきっかけで連鎖的に倒れること(類義語 : ドミノ倒し)。駒を立てて並べ連鎖的に倒す遊びに由来する。古くから使用されてきた表現であるが、2001年に発生した明石花火大会歩道橋事故の際には、将棋のイメージが悪くなるとして日本将棋連盟が報道関係各社にこの言葉を使用しないように依頼し、これを受けて実際に使用の自主規制が行われたため、言葉狩りと批判を受けた。
捨て駒(すてごま)
大局的な利益のために駒損を覚悟で相手に取らせる駒のこと。転じて、全体の利益を考えてあえて犠牲として見捨てる味方のこと。
高飛車(たかびしゃ)
飛車を定位置から二間または三間前に出して中央を制圧する戦法のこと。かつて横歩取り8五飛戦法が出現して間もないころは横歩取り高飛車戦法と呼ばれることもあった。近年、将棋の戦法に関しては「浮き飛車」という呼称が多くなり、戦法としての高飛車という呼称はほとんど用いられない。また、飛車の様子から転じて、高圧的な性格のさまを「高飛車な態度」のように使われる。1990年代には、これを略した「タカビー」という若者言葉も生まれた。
成金(なりきん)
歩兵が成って「と金」となることから転じて、急に金持ちになった庶民のことを指す。多くの場合相手をねたんだりさげすむなどの意味で用いられる。似た言葉として、身分の低い者が高い地位に登りつめるという意味の成り上がりがある。
飛車角落ち(ひしゃかくおち)
「二枚落ち」の別の表現で、一方の対局者が飛車と角を取り除いて対局することから転じて、チームスポーツにおける主力選手が二人欠けるなど、中心となる戦力を欠いた状態で勝負すること[47]。
待った(まった)
相手が指した気に入らない手をやめてもらうことを待ったと言い、転じて相手の行動に制約をかけることを指す。「待ったなし」とは待ったを許さない真剣勝負のことで、転じてやり直しの利かないことを指す。
持ち駒(もちごま)、手駒(てごま)、駒(こま)
対戦相手から奪って我が物とした駒の意で、随時任意の場所に打てることから、自分が利用できる人材や権利、選択肢のことを指す。「手駒」、また単に「駒」とも言う。「駒が足りない」のような使い方をする。
脚注
^ a b “将棋の起源”. 朝日現代用語 知恵蔵2006. 朝日新聞社. (2006年1月1日). pp. 999-1000. ISBN 4-02-390006-0.
^ 『日本将棋用語事典』 p.77 東京堂出版 2004年
^ 『日本将棋用語事典』 p.113 東京堂出版 2004年
^ 『日本将棋用語事典』 p.175-176 東京堂出版 2004年
^ 『日本将棋用語事典』 p.129 東京堂出版 2004年
^ 『日本将棋用語事典』 p.102 東京堂出版 2004年
^ a b 『日本将棋用語事典』 p.26-27 東京堂出版 2004年
^ a b c d 『日本将棋用語事典』 p.56 東京堂出版 2004年
^ “しゃ【車】 の意味”. goo辞書(デジタル大辞泉). 2017年1月25日閲覧。
^ 「歩成り」との区別から「ならず」と呼ばれることがほとんどである
^ 将棋の通常の対局ではまず発生しないが、自玉に王手がかかっていないが合法な指し手が存在しない(チェスでいうステイルメイト)場合については、合法手がないため負けが確定している。ただしその場合は詰みにならないため、実際に負けとなるのは、投了するか、持ち時間が切れるか、反則行為を行った時である。コンピュータ将棋などでは、ステイルメイトは詰みと同様とすることが多い。
^ 対局規定(抄録):日本将棋連盟
^ a b 将棋について-本将棋[5.反則]:日本将棋連盟
^ 2006年1月3日 NHK衛星第2放送「大逆転将棋2006」による。
^ “石橋幸緒女流王位がタイトル戦で角による豪快な「反則手」で勝局がふいになる”. 田丸昇公式ブログ と金 横歩き (2009年10月19日). 2013年6月19日閲覧。
^ “伝説の事件 - 第25回朝日オープン将棋選手権本戦第5局”. asahi.com (2007年1月9日). 2013年8月13日閲覧。
^ 対局者の「着手が30秒を超えており、考慮時間が消費されるべきである」との抗議で考慮時間が1回分消費されたが、対局時には反則であるという指摘はされなかった。テレビ放送後の視聴者からの抗議を受けて理事会で協議を行い、反則であるとされ次年度の銀河戦への出場停止などの処分が決定した(参考:加藤一二三九段、第14期銀河戦出場停止に(日本将棋連盟からのお知らせ))。
^ 日本将棋連盟でも、よくあるご質問にて、同じ指摘を行っている。なお、将棋とは異なり、チェスでは王手(チェック)をかける場合、強制ではないが慣習的に「チェック」と口頭で告げるべきとされている(王手#チェスの「王手」参照)。
^ NHK将棋講座
^ 増川宏一『ものと人間の文化史 将棋』(法政大学出版局、ISBN 4-588-20231-6)では、明治時代初めに書かれた『将棋絹篩』([1])の序文などに見られるが、宋代の『太平御覧』にあるものをそのまま引き写したのだろうとしている(88ページ)。が、増川説に対しては、木村義徳「将棋の日本到着時期をめぐって:増川宏一説に対する批判」(『桃山学院大学総合研究所紀要』30-2)[2] (PDF) で、武帝説の起源は初唐の数種の史料に遡る点等を指摘し、批判している。
^ 増川の同書(88 - 89ページ)に、1690年の『人倫訓蒙図彙』、1746年の『本朝俗諺誌』、1755年の『象棋百番奇巧図式序』などに記述があると指摘している。
^ 木村義徳 『持駒使用の謎』 日本将棋連盟、2001年。ISBN 4-8197-0067-7。
^ 将棋棋士の大内延介は、著書『将棋の来た道』(めこん(文庫本は小学館)、ISBN 978-4-8396-0032-7)でマークルックを指した経験から、将棋との類似を指摘し、将棋の源流ではないかと主張している。
^ 前述の増川宏一らが、東南アジア伝来説を主張している。
^ 増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』(集英社、ISBN 4-08-720019-1)、12 - 15ページ。出土資料そのものについては『木簡研究』16号(1994年)、「奈良・興福寺旧境内」(26ページ)参照。
^ 「平安将棋」の呼び名は、関西将棋会館にあった将棋博物館でも採用している(将棋史年表。このページでは木村義徳の説に従っている)。
^ 『遊戯史研究』6号(1994年)、清水康二「将棋伝来についての一試論」(12ページ)。これを紹介したサイトが日本中将棋連盟の古典将棋コラム九 日本将棋と仏教観にある。
^ 大内延介の『将棋の来た道』(小学館文庫版、ISBN 4-09-416541-X)に、大橋家文書に含まれていた碑文から同様の記述が見つかり、記述の信憑性が高まったと指摘している(35ページ)。
^ 村山修一 『普通唱導集―翻刻・解説』 法藏館、2006年。ISBN 978-4-8318-7558-7。「桂馬を飛ばして銀に替ふ」
^ 佐伯真一「「普通唱導集」の将棋関係記事について」第5号、1993年。
^ 将棋の駒である、金・銀・桂(馬)・香はいずれも資産または貿易品であることから、将棋には相手の資産を取り合う貿易や商売のゲームである側面があり、そのために持ち駒(相手から奪った資産)を再利用できるルールが生まれたとの考察もある。井沢元彦はそれに加えて、応仁の乱などの実際の戦乱に嫌気がさした貴族によって、ゲームであっても戦争を忌避し、「駒を殺さない」ルールが生まれたと考察している。
^ 「国民百科事典4」平凡社 p21 1961年11月15日初版発行
^ 升田幸三『名人に香車を引いた男』223ページ「GHQ高官の度肝を抜く」より
^ http://ameblo.jp/professionalhearts/entry-10001276891.html などを参照
^ 「レジャー白書に見るわが国の余暇の現状」
^ 増川宏一 『チェス』 法政大学出版局〈ものと人間の文化史 110〉、2003年、13-14頁。ISBN 4588211013。
^ ホッジスをはじめとする西洋人の努力は増川宏一『将棋II』(法政大学出版局1985) pp.305-307 に簡単に紹介されている
^ Federation of European Shogi Associations
^ http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/hobby/352664/
^ Shogi (Japanese Chess), GNU Operating System
^ Motif Shogi Pieces, The Chess Variant Pages
^ Shogi News: Internationalized shogi pieces - YouTube HIDETCHI(英語) - 他のデザインの国際駒のアイデアも紹介されている。
^ 将棋駒 国際駒 - 銘駒図鑑
^ Shogi Game Notation
^ a b Yen, Chen, Yang, Hsu (2004) "Computer Chinese Chess"
^ a b 羽生「将棋の海外普及」(2011)
^ “飛車角落ち とは”. コトバンク. 2013年5月1日閲覧。(原出典: 大辞林 (3rd ed.), 三省堂, (2006))
関連項目
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外部リンク
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	ウィキブックスに将棋関連の解説書・教科書があります。
	ウィキメディア・コモンズには、将棋に関連するカテゴリがあります。
日本将棋連盟
日本将棋連盟オンライン将棋スクール
日本アマチュア将棋連盟
日本女子プロ将棋協会
山形県天童市総務部 総合政策課 広報係
将棋研究
便利將棋(香港)
■
裨聖会(ひせいかい)は、日本の囲碁の組織。1922年(大正11年)に雁金準一、高部道平、鈴木為次郎、瀬越憲作の4名の棋士によって設立され、1924年(大正13年)の日本棋院設立とともに解散した。当時の本因坊派と方円社の対立のさなかの設立によって、この時代は三派鼎立時代と呼ばれる。旧来の因習を捨てて、総互先制、コミ出し制などの近代的な制度を打ち出した。
設立の経緯
大正期の囲碁界は、本因坊秀哉を中心とした家元本因坊家と、広瀬平治郎を5代目社長とした囲碁結社方円社がそれぞれに棋士の組織として活動しており、明治40年代以降の新聞棋戦の興隆はあったものの、第一次世界大戦後の不況もあって経済的には苦しく、囲碁界の一致団結による碁界合同の気運がたかまっていた。その一方で、鈴木為次郎は秀哉に先の手合割にまで迫っていながら、名人となった秀哉が対局を忌避するなど、碁界の権威主義への不満も積っていた。
方円社は広瀬による丸ビル移転の計画を立てて、寄付金を集めていたが、広瀬の独断的な進め方に方円社理事の鈴木、瀬越の抗議もあって、移転をもって碁界合同を進める合意がされた。しかし寄付金は思うように集まらず、その中で広瀬は1922年11月に病に倒れる。この時、方円社理事だった雁金準一、岩佐銈、瀬越と鈴木、及び本因坊門下の高部道平各六段の5名で、新たな囲碁結社裨聖会設立を宣言、その後岩佐が不参加となったが、12月3日に芝の紅葉館で4名による発会式が行われた。裨聖会の命名は犬養木堂が「西京雑記」からとったもので、聖所に次ぐ場所を意味する。
運営と碁界合同まで
裨聖会は革新的な制度を打ち出した。
段位制を廃して、対局は総互先、先番4目半コミ出しとする。
成績は点数制とする。最高点数の者を棋界の代表選手と認める。
対局時間は一人16時間の持ち時間制とする。
また、棋譜は報知新聞に掲載された。
裨聖会に参加した4名は当時本因坊秀哉に次ぐ実力の棋士達であり、方円社、本因坊派は危機感を持ち、翌1923年1月に合同して中央棋院を設立する。しかし中央棋院は資金運営などで対立し、再び方円社と中央棋院の名を引き継ぐ本因坊派に分裂して、これに裨聖会を加えた三派鼎立の時代となる。
しかし水面下で三派による合同の動きは進められ、同年9月の関東大震災で各派も打撃を受けたことにより、1924年にこの三派に関西、中京の棋士も加えた日本棋院が設立され、裨聖会も解散となった。
裨聖会の対戦は計24局で、成績は以下。
雁金準一 8勝3敗1ジゴ
瀬越憲作 6勝5敗1ジゴ
鈴木為次郎 6勝6敗
高部道平 3勝9敗
これらの記録は、1924年3月刊行の『裨聖会棋譜』(報知新聞社)として刊行され、細川護立、犬養木堂の題辞が贈られている。他に方円社との交流対局もあった。
参考文献
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
瀬越憲作『囲碁百年1 先番必勝を求めて』平凡社 1968年
安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年
■
水平線効果(すいへいせんこうか)は探索アルゴリズムの深度を有限とした場合、それ以降の経路をあたかも水平線の向こうのように考慮しないため、長期的に見て問題のある選択をしてしまう人工知能における問題である。通常多くのゲームにおいて、可能な状態あるいは配置の数は莫大であり、コンピュータはそのごく一部(大抵ゲーム木の数層下)しか探索することができない。
ミニマックス法やαβ枝刈りといった技術を使用して大きなゲーム木を評価する時、探索深度は実現可能性の理由のため制限される。しかしながら、ゲーム木の部分的な評価は紛らわしい結果を与える可能性がある。探索深度の「水平線」のすぐ先に大きな変化が存在する時、計算装置は水平線効果の餌食となる。
水平線効果は静止探索によって探索アルゴリズムを拡張することで緩和することができる。これは、駒の捕獲といったゲーム状態において大きな重要性を持つ手の分類について水平線の先を見る能力を探索アルゴリズムに与える。
葉ノードについて評価関数を書き直す、より多くのノードを十分に解析することの両方もしくは一方によって多くの水平線問題が解決される。
例
たとえば将棋において、10手先までしか読めないコンピュータがあったとし、ちょうど10手目でコンピュータ側の飛車が取られる状況にあったとする。ここで、持ち駒に歩があり、歩で王手をかけ、王が逃げたら歩を成り捨てるを繰り返して、飛車を取られるのを11手目以降に先延ばしする手があったとしよう。この手はもちろん、飛車だけでなく歩をも相手に取られることになるので、単に飛車を取られるより悪い手である。ところが10手先までしか読めないコンピュータにとっては、11手目以降で結局飛車を取られることが探索の水平線の向こう側に消えて見えなくなるため、歩で王手をする「一瞬気持ちのいい」手が飛車を取られずに済む好手であるかのように評価され、コンピュータはその場しのぎでより状況を悪化させる手を選んでしまう。
関連項目
コンピュータ囲碁
コンピュータ将棋
コンピュータチェス
コンピュータオセロ
展開型ゲーム
戦場の霧
効果の一覧
参考文献
Russell, Stuart J.; Norvig, Peter (2003), Artificial Intelligence: A Modern Approach (2nd ed.), Upper Saddle River, New Jersey: Prentice Hall, pp. 174, ISBN 0-13-790395-2
■
スーパー早碁(スーパーはやご)は、かつてテレビ東京で放映されていた囲碁の番組、並びに同番組を舞台に争われていた囲碁の棋戦の名称。2003年から2005年3月まで放送された。
1968年10月6日より東京12チャンネル(当時)が主催する早碁選手権戦(1969年から新鋭トーナメント戦も実施)として『日曜囲碁対局』を開始。以後日曜の早朝番組として、将棋の早指し戦である「早指し将棋選手権」と共に親しまれてきた。
2003年にそれまで日本航空が運営してきた鶴聖戦・女流鶴聖戦と統合され「スーパー早碁」と名称を変更。「1手10秒以内」という非常にシビアな持ち時間ルールを採用したことに加え、
タイトル保持者らトップクラスの棋士15名が参加する「JALスーパー早碁」
女性棋士16名による「JAL女流早碁」
30歳未満七段以下の若手棋士16名による「JAL新鋭早碁」
の3棋戦を1年間の間に順次実施するといったリニューアルを行った。しかし、日本航空がスポンサーを降板したことから、2005年3月をもって番組は終了。各棋戦は2期までの実施となった。
目次 
1	対局規定
2	JALスーパー早碁
3	JAL女流早碁
4	JAL新鋭早碁
5	解説・実況
6	外部リンク
対局規定
持時間は、初手から1手10秒の秒読み。ただし1分単位で10回の考慮時間あり。
コミは6目半。
JALスーパー早碁
4月から10月にかけて放送。第2期は、前期JAL女流早碁、JAL新鋭早碁優勝者も出場。
優勝者と決勝戦(左が優勝者)
2003年 結城聡 - 張栩
2004年 趙治勲 - 三村智保
第1期優勝の結城は、前身の鶴聖戦から数えて2連覇。第2期の趙治勲は通算67個目のタイトル。
JAL女流早碁
11月から1月にかけて放送。
優勝者と決勝戦(左が優勝者)
2003年 小林泉美 - 中澤彩子
2004年 大沢奈留美 - 祷陽子
第1期優勝の小林は、これによって女流本因坊戦、女流名人戦と併せて史上初の女流三冠を達成した。
JAL新鋭早碁
1月から3月にかけて放送。
優勝者と決勝戦(左が優勝者)
2004年 河野臨 - 田原靖史
2005年 山田拓自 - 金秀俊
第1期の河野、第2期の山田とも、それぞれ棋戦初優勝。
解説・実況
番組末期
進行 永山美穂
解説 プロ囲碁棋士(週代わり)
実況 巻幡多栄子(放送終了時二段)
記録担当 河合将史(同五段)
秒読み 向井千瑛(同初段)
外部リンク
スーパー早碁
■
捨て石
石の状態や用途で、次のものをいう。
道端や山野に転がっている石。
日本庭園で、おもむきを出すために置かれる石。
堤防や橋脚の工事で、水の勢いを弱めるために水中に投入する石。
鉱山や炭鉱で、採掘などの際に捨てられる無価値な石。ずり。ぼた。廃石。
囲碁用語のひとつ。本項で解説する。
上記の囲碁用語から転じて、今は無駄なように見える、将来の利益を期待して行う投資や行為のこと。
囲碁において捨て石(すていし、捨石)とは、意図的に相手に取らせることで利益を得るために打たれる石のことである。 序盤からヨセの段階まで、ゲームの進行の各段階においてしばしば用いられる手筋であり手段である。
目次 
1	定石における捨て石
2	中盤における捨て石
3	ヨセにおける捨て石
4	死活における捨て石
5	珍瓏における捨て石
6	参考図書
7	関連項目
定石における捨て石
図の左上は、星のツケギリ定石の進行例である。黒は2子を捨て石にすることで、白を凝り形にしている。黒は9といったん下がって捨て石を増やし、手数が延びたのを利用して11のアテ、13のオサエ、15のアテまでを先手で決めることができる。「二子にして捨てよ」という格言はこうしたケースを指す。
右上もほぼ同様で、隅の黒5・7を捨て石に外勢を固める定石。
右下はハメ手の一種で、黒1以下と打ち込んだ石を捨て石に、外回りを塗り固める手段。
中盤における捨て石
中盤における捨石には、およそ2種類がある。
軽く打っている場合の捨石
主に敵陣においてサバキの手として打たれる。切った石のうちどちらかが助かればよいという打ち方、もしくは2ヶ所に打ち込んでどちらかが助かればよいという打ち方など、見合いの構想によって打たれる。この場合、片方の石は生き、片方は捨石になったとされる。
厚く打っている場合の捨石
取らせる石があらかじめはっきりしているような場合もある。石を取らせることによって相手を強化してしまう反面、自分も強くさせようという打ち方。「2子にして捨てよ」という格言があり、相手がわずかな石を取ることにもたついている間に、自分はもっと効果的な着手をしようという発想である。
囲碁の対局では、布石の段階が終わった時点からは、「自身のもつ模様を広げる」「相手の弱い石を攻める」などの構想を持って打ち進める。相手の弱い石を攻める場合は、キリを入れるなどして、相手の石をとことん弱くしていく方法がよく取られる。この際、「キリを入れた石」など、相手の石を攻める際に重要だ、とされる石を特にカナメ石と呼び、双方の攻防の争点となりやすい。また、対局が進むにつれて「さほど重要ではない点に自分の石が残っている」ケースがあり、この「邪魔な石」を利用しながら攻めるぞ、と相手を脅しながら打つ手段が成立する。この際の「邪魔な石」を、特にカス石と呼び、このような打ち方を俗に「カス石を取らせて打つ」などと表現する。
ヨセにおける捨て石
ヨセにおいては、「先手を保持して打ち進めること」が重要視される。そのためには「手筋」と呼ばれる手段を用いるのが有効であり、その過程で捨て石が利用されることがある。この場合の捨て石は、「手抜きをすると甚大な被害を与えるぞ」と脅す意味が大きい。また、このような捨て石を「おまじない」と表現することもある。
死活における捨て石
上図の場合、黒が1の点に一子を捨て石として打つことにより、この部分を欠け眼にして全体の白を殺すことができる。こうした眼を奪う捨て石の手を「ウチカキ」あるいは「ホウリコミ」と称する。
珍瓏における捨て石
名人因碩こと井上道節因碩が著した『囲碁発陽論』(1713年)の香餌懸魚勢(こうじけんぎょのせい)は15子捨てから始めて計72子を捨てる全局詰碁(珍瓏)である。それを改良したのが赤星因徹で、その著の『玄覧』(1846年)の垂棘屈産失国之形(すいきょくくっさんしっこくのかた)は、16子捨ての場所で一眼しかできず、他の抜き跡ではことごとく眼がつくれない形で、計84子を打ち上げたにもかかわらず全滅するという全局詰碁である。石の下も参照。
参考図書
加納嘉徳『捨て石の百科―初段の心得 (1977年) (現代囲碁文庫)』1977年
『梅沢由香里の石の捨て方入門 (マイコミ囲碁ブックス) 』2007年
関連項目
石の下
シボリ (囲碁)
■
スベリは、囲碁の用語。盤面の辺で打たれる手のひとつを指す。
目次 
1	概要
1.1	スベリの例
1.2	サルスベリ
2	参考図書
概要
「スベリ」とは、盤面の辺において、高い位置にある相手の石に対し、自分の石を低く滑り込ませるように打つ手のことを指す。また、「走る」という表現を使うこともある(「二線へ走る」など)通常既にある自分の石から見て、ケイマや大ゲイマの位置に打つことになる。二線へのスベリは相手の地を荒らす手として、また自らの根拠を確保する手として大きな価値を持つことが多い。
スベリの例
定石に現れるスベリの例。上左図白1、上右図白1,3がスベリ。

黒1のスベリで確実に左右が連絡する。

黒1のスベリで、隅の一団の生きを確保する。
サルスベリ
一線へのスベリは多くヨセの手として打たれ、サルスベリと呼ばれる。一般に、大ゲイマにスベるのを「大ザル」、ケイマスベリを「小ザル」と称する。下図は「大ザル」の例。
参考図書
石井邦生『スベリ専科(烏鷺うろブックス)』日本棋院、ISBN 9784818202955
■
隅のマガリ四目(すみのまがりしもく、すみのまがりよんもく)は、囲碁の死活の形のひとつ。下図のような形が代表的なもの。一見するとセキのようにも見えるが、後述の理由により古来黒の死にとして扱われている。単なるマガリ四目は通常の生きなので、「隅のマガリ四目」はこれと区別される。
成文化されたルール上においては、日本棋院囲碁規約(旧規約)では個別的に死に形であると定められていたのに対し、1989年制定の日本囲碁規約によって隅のマガリ四目が死にであることの合理的根拠付けが与えられた。
目次 
1	概要
2	隅のマガリ四目になる形
3	隅のマガリ四目にならない形
4	外部リンク
概要
上図は隅のマガリ四目の一例である。一見セキのように見えるが、白からaに4目にして捨てる手段があり、これが隅のマガリ四目の名の由来である。白aに対して黒がbに抜くと次図のようになる。
続いて白cと打てば、黒はdにホウリコむより他になく、白はeに抜いてコウとなる(次図)。次に白はfに打てば、黒8子を取ることができる。
最初の図に戻って考えると、白からはいつでもコウを仕掛けることができるが、黒からは打開する手段がない。つまり白はまず黒からのコウダテを全てつぶし、前述の順でコウを仕掛ければ黒を取ることができる。
日本ルールでは、実戦的には死ぬとは限らなくても(「盤面の他の部分に両コウゼキがある」など)、白に一方的にコウを仕掛ける権利があることを重視して、この部分を単独で死にと扱う。なお1989年制定の日本囲碁規約では、"「対局の停止」後での死活確認の際における同一の劫での取り返しは、行うことができない"(第7条の2)、すなわち死活判定はコウの取り返しはないものとみなしてお互いが石を置いたとして生きられるかで判断すると定めているため、やはり死にとなる。すなわち、白はここに石を追加で打って自分の地を損する必要はない。
中国ルールでは自分の地に手を入れても損はないため、実戦的に白側が黒石をアゲハマとして打ち上げて解決する。日本ルールでも、隅のマガリ四目を取り囲んだ外部の石に眼がない場合は、コウを実際に仕掛けたりすることによって解決することになる。
隅のマガリ四目になる形
図 1:
 	図 2:
これらの形も、白はXの点にダメを詰めてから上記の例と同様にコウを仕掛けることができる。よってこれらも黒死である。
隅のマガリ四目にならない形
図 1:
 	図 2:
時に誤解されるが、上図のような形は白から手を詰めていってもコウの形にはならない(その場合は黒が生きられる)ため、隅のマガリ四目ではない。このままセキとみなされる。
図1は、白a・黒bに対して白△とした場合に黒□で黒生き(コウにはならない)となる。黒が先にaかbに詰めると白に取られる。
図2は、白a・白b・黒cに対して白△とした場合に黒□で黒生きとなる。白a・白c・黒bでも似た手順で黒が生きられる。黒が先にbかcに詰めると、白がもう一方に詰めて黒が取られる。
外部リンク
日本囲碁規約(日本棋院) - 「逐条解説 第七条-2」および「死活確認例」に、隅のマガリ四目の形が掲載されている。
隅のマガリ四目は死 改訂版
Bent four in the corner is dead - 英語による隅のマガリ四目の説明のページ
The undead bent fours in the corner - 両者の隅のマガリ四目が繋がっている、特殊な隅のマガリ四目の場合(英語)。同記事における検討では、(隅のマガリ四目を個別に死にとしている旧規約ではなく)1989年制定の日本囲碁規約で判断する場合は、セキとなるとしている。

■
隅の板六(すみのいたろく)は、囲碁用語の一つで、6目の空点を囲んでいるが、ダメヅマリになると手入れが必要な形[1]。
目次 
1	概要
2	ダメが空いていない場合
3	外ダメが1つだけ空いている場合
4	外ダメが2つ以上空いている場合
5	脚注
6	参考文献
7	関連項目
概要
第1図
第1図の黒が隅の板六と呼ばれる形。この黒の外ダメがいくつ空いているか(図では×の2箇所)によって死活が変わる。
ダメが空いていない場合
ダメが空いていない場合、手入れを省くと死にとなる。

第2図
第2図では黒がダメヅマリのため、白から第3図の手段が生じる。

第3図
白1が筋で、黒2に白3と打てば黒死になる。黒aはダメヅマリなので白bで取られる。黒bはナカデなので、白は手を抜いてよい。黒2で他の所は白2でナカデになる。
外ダメが1つだけ空いている場合
外ダメが1つだけ空いている場合、手入れを省くとヨセコウにされる。

第4図
第4図では黒の外ダメが×1個のため、白から第5図の手段が生じる。
第5図
白1が筋で、黒2に白3と打てば黒4と打つよりなく(さもなくば白4で隅のマガリ四目の黒死になる)、白5でヨセコウになる。
外ダメが2つ以上空いている場合
外ダメが2つ以上空いている場合、黒は手抜きしても生きられる。外ダメが2つ以上空いていれば、「外ダメが1つだけ空いている場合」と同様に白が攻めても、第5図で黒aに打つことができるためオシツブシの黒生きとなる。
脚注
^ 『囲碁百科辞典』p22
参考文献
加藤正夫『死活小辞典』誠文堂新光社、1984、98頁。
林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年。
■
囲碁において、セキとは、相手の石を取ろうとすると自分の石が取られてしまうような、お互いに手を出せない状態をいう。
目次 
1	概要
2	セキのいろいろ
3	セキ崩れ
4	関連項目
概要
上図において、黒が内側の白石を取るためにaに打てば白がbに打ち、黒番がbに打てば白番がaに打つことで、逆に内側の黒石が全て取られてしまう。また、白が黒石を取りにいこうとしても、同じように白石の方が取られてしまう。
このように、石を取りに行った方が逆に取られてしまうために両者とも手が出せない状態をセキという。セキは両方の石が生きていると考えられる。また、この図のようなaやbは白黒どちらの地にも数えられない。
現行の日本囲碁規約においては、より一般的な定義がなされている。囲碁のルールを参照のこと。
セキのいろいろ
白がaやbに詰めると黒に取られて生きとなり、黒からa・bの両方に詰めると白△で三目ナカデの死にとなる(一つでも詰めるとその時点で黒死)。従って双方とも手出しができず、セキとなる。

上図のようにコウが2つある場合、白がaに取ると黒はbに取り返すことができるため、どちらも全体が取られることがない。このため双方ともセキ生きとして扱われる(両コウセキ)。

両者が一眼ずつを持ち、aのように内ダメがある場合はどちらからも相手を取りに行けず、これもセキとなる。

これも両者が手出しできず、セキの形。

白地は一見完全に見えるが、周りのダメが詰まると黒1から3の手段が生ずる。両者手出しできず。これもセキ。白は生きてはいるが、地がゼロになってしまう。
セキ崩れ
この場合△のついた石はセキの関係にあるが、それを包囲する右側の白石に眼がないため、いずれ白が全て取られてしまうことになる。これをセキ崩れと呼ぶ。
また一見セキに見えるが、死にになる形として「隅のマガリ四目」がある。詳しくは該当項目参照。
関連項目
死活
ツークツワンク:チェスにおける似た状況。ただしチェスにはパスがないので、状況を悪化させる手を指さねばならない。
■
本因坊 秀策(ほんいんぼう しゅうさく、文政12年5月5日(1829年6月6日) - 文久2年8月10日(1862年9月3日))は江戸時代の囲碁棋士。備後国因島(現・広島県尾道市因島外浦町)出身で俗姓は桑原。幼名は虎次郎。法名は日量。父は桑原輪三。
目次 
1	経歴
2	秀策流
3	耳赤の一局
4	後世への影響
5	文献
6	関連作品
7	関連項目
8	外部リンク
経歴
1837年(天保8年)に出府して本因坊丈和に入門、本家の名字である安田を借り栄斎を名乗る。その打ち振りを見た丈和が「是れ正に百五十年来の碁豪にして、我が門風、これより大いに揚がらん」と絶賛したと伝えられる(百五十年前は道策の全盛期であった)。1839年(天保10年)に初段。翌1840年(天保11年)に秀策と改名し、二段昇段。翌1841年(天保12年)三段昇段、さらに翌1842年(天保13年)四段昇格する。
1846年(弘化3年)、井上幻庵因碩と数度の対局を行う。幻庵八段、秀策四段なので二子の手合だが、一局打ちかけて幻庵は秀策の実力を認め、破格の定先に変更しての対局であった。その中の一局は「耳赤の一局(みみあかのいっきょく)」と呼ばれる著名局である。幻庵因碩は後に「(あのときの)秀策の芸は七段を下らない」と評したという。
当時、一流の打ち手であった幻庵因碩に定先で打ち勝った事を機に、丈和と秀和は秀策を将来の本因坊跡目とする運動を始める(当時丈和は隠居、当主は丈策であり、秀和が跡目であったが、丈和・丈策が一年後に相次いで亡くなっていることから、この時点で両者ともに健康を害していたのではないかと推測されている)。しかし家元につけば同時に幕臣となるが、秀策は父・輪三の主君でもある備後三原城主・浅野甲斐守の家臣と言う扱いであり、甲斐守に対する忠誠心からこれを頑なに拒否。囲碁家元筆頭の本因坊家の跡目を拒否する事などは前代未聞であった。
また師・秀和との対局で先で打っていた所、秀策の大幅な勝ち越しになったため秀和が「手合いを改めよう」と言った所「師匠に黒を持たせるわけにはいきません」と答えたという(先の次は先相先となり三局に1回は上手が黒を持つ事になる)。
1848年(嘉永元年)に正式に第14世本因坊跡目となり同時に六段昇段、また丈和の娘・花と結婚する。また翌年から御城碁に出仕し、それ以後19戦19勝無敗の大記録を作った。秀策最強説の有力な根拠がこれである。もっとも、秀策は御城碁の連勝にこだわっており、林有美(当時五段)との二子局を固辞したエピソードや、10世安井算英(当時二段)との二子局を秀和に打診された際、「二子の碁は必勝を期すわけにはいかない」と固辞したというエピソードが伝えられる。少なくとも、19局中に二子番が皆無というのはかなり不自然といわざるを得ない。ただし、同時に「互先の白番(=コミなし)なら誰が相手でも辞さない」といったことも伝えられている。
秀策の無敵を支えたのは平明秀麗な碁風と、秀和と並ぶ正確な形勢判断である。また秀策の先番は秀策流と呼ばれる布石法が有名であり、秀策の先番は堅実無比と称された。秀策が御城碁下打ちの結果を聞かれた時、「先番でした」とだけ答えたと言う逸話も残っている(ただしこの話は謙虚な秀策の性格とはそぐわないため、「先番でしたので、なんとか勝つことができました」の前半部分だけが一人歩きしてしまったともいわれる)。
1862年(文久2年)、江戸でコレラが大流行し本因坊家内でもコレラ患者が続出した。秀策は秀和が止めるのも聞かず患者の看病に当たり、当人が感染しそのまま34歳で死去した。この年御城碁が中止され消滅した。なお、本因坊家では秀策の看病によりコレラによる犠牲者は秀策以外は1人も出さなかった。
棋力のみならず極めて人格に優れ、本因坊道策(前聖)、本因坊丈和(後聖)に並び称され、後の囲碁ファンに与えた影響は多大である。
秀策流
黒1・3・5の手で向きの異なる小目を連打する布石。多くの場合黒7手目のコスミまでを「秀策流」と称する。この手は秀策の創案ではないが、大いに活用して好成績を挙げたところから「秀策のコスミ」と呼ばれる。秀策は、「碁盤の広さが変わらぬ限り、このコスミが悪手とされることはあるまい」と語ったと伝えられる。
先番でがっちり勝とうとする戦略であり、コミ碁である現代ではやや堅すぎる面はあるが、7手目をコスミからハサミに変えるなどアレンジを加えて現代でも時に打たれる布石である。
耳赤の一局
弘化3年7月21日(1846年9月11日)於浪華天王寺屋辻忠二郎宅 八十九手打掛、同23日(13日) 於原才一郎宅 百四十一手打掛、同25日(15日)於中川順節碁会中之島紙屋亭 打終。先 桑原秀策 井上(幻庵)因碩 325手 黒半コウ勝ツグ 黒三目勝(棋譜の手順が正しいなら実際は黒二目勝)。
右下の大斜定石で秀策が誤り、井上幻庵因碩の繰り出した秘手もあって秀策は劣勢に陥った。幻庵は自在に打ち回したが、126手目のトビ(白△)が緩手。これに対して秀策の打った黒127手目(図の黒▲)が「耳赤(みみあか)の一手」として現代に語り伝えられる妙手であった。この手を打つ直前までは井上の優位だったが、この手によって形勢は急接近したとされる。上辺の模様を拡大し、右辺の白の厚みを消し、下辺の弱石に間接的に助けを送り、左辺の打ち込みを狙う一石四鳥の手である。
対局を横で見ていたある医師はこの様子を見て、「これは秀策の勝ちだ」と断定した。周りの者が何故かと尋ねところ、「碁の内容はよく判らないが、先ほどの一手が打たれた時に井上先生の耳が赤くなった。動揺し、自信を失った証拠であり、これでは勝ち目はないだろう」と述べた。耳赤の一手という名は、このエピソードに由来する。
ただし、この手については緩手という評や、「今の一流棋士ならだれでもそこに打つ」(呉清源)という声もあり、評価は一定していない。また、耳赤の一手もさることながら、全局を通した井上幻庵因碩の打ち回しに対しても評価が高い。
後世への影響

本因坊秀策師之碑
江戸時代までは棋聖と呼ばれていたのは道策と本因坊丈和の2人であったが、明治以降から秀策の人気が高まり、丈和に代わって秀策が棋聖と呼ばれるようになった。名人になった事はないが、史上最強棋士の候補としてあげる声も多い。400局ほどの棋譜が秀策のものとして伝えられており、1900年(明治33年)に石谷広策によって『敲玉余韵』としてまとめられた。これを学ぶプロ棋士は多く、韓国の李昌鎬も若い頃から秀策の棋譜を熱心に並べ「私は一生かけても秀策先生には及ばないだろう」と語っているのは有名である。
また漫画『ヒカルの碁』では、主人公の進藤ヒカルに取り憑いた平安の天才棋士・藤原佐為の霊が、ヒカルの以前に取り憑いていた人物として登場する。このため同作品のヒットに伴う「囲碁ブーム」とともに、子供たちにも「囲碁史上最強の人物」として親しまれることになった。 広島県三原市の糸碕神社には江戸時代に秀策の生涯を記念して建立され、石碑が現在も残る(「ヒカルの碁」にも登場する)。また因島にある秀策の生家は、現在「本因坊秀策囲碁記念館」となっている。因島の所属する尾道市は、この縁で囲碁を「市技」に指定している。
2004年(平成16年)、第一回囲碁殿堂に徳川家康、本因坊算砂、本因坊道策と並んで顕彰された。
文献
『敲玉餘韵』(囲碁名著文庫8)池田書店 1983年
『完本 本因坊秀策全集』誠文堂新光社 1996年
『秀策』(日本囲碁大系15、石田芳夫解説)筑摩書房 1976年
石田芳夫『道策・秀策・呉清源―道を拓いた三大巨星』誠文堂新光社 1987年
福井正明『秀麗秀策 (囲碁古典名局選集) 』日本棋院 1992年
福井正明『名人・名局選 秀策』誠文堂新光社 2008年
高木祥一『秀策極みの一手』日本棋院 2010年
関連作品
パソコンゲーム
『本因坊秀策 囲碁トレーナー』、日本ソフト&ハード社、PC-8800シリーズ、1983年7月。
『秀策御城碁集』、アシーナソフトウェア、FM-8
関連項目
本因坊
巌崎健造
本因坊秀和
本因坊秀甫
水原秀策(ミステリー作家。ペンネームを本因坊秀策から採っている)
ヒカルの碁
秀策数
外部リンク
本因坊秀策囲碁記念館
その時歴史が動いた「勝負師は志高く〜碁聖・本因坊秀策の無敗伝説〜」
■
絶芸(絶藝)は、テンセントのコンピュータ囲碁プログラム。2016年11月1日から同月29日まで、インターネットの囲碁サイト「野狐囲碁」で対局した。 朴廷桓に5勝1敗、姜東潤に3勝1敗、朴永訓に3勝1敗、古力に2勝1敗、などの世界戦優勝者レベル以上の戦績を残しているが、柯潔には1勝3敗と負け越した。[1] 日本棋院の棋士では余正麒がもっとも多く対戦し、絶芸の3勝1敗だった。 世界戦常連の若手棋士と数多く対戦した。
なお、これらの全ゲームは、同サイト利用者が「棋譜鑑賞」のメニューを選択することで見ることができる(鑑賞も、上記戦績の検証も可能)。
足跡
2017年 UEC杯コンピュータ囲碁大会 優勝 [2]
脚注
[ヘルプ]
^ “曝阿法狗今年将正式挑战柯洁 Master未达极限”. 新浪 (2017年1月6日). 2017年3月19日閲覧。
^ “第10回UEC杯コンピュータ囲碁大会” (2017年3月19日). 2017年3月19日閲覧。
■
攻め(せめ)は、戦争・試合やゲームにおいて対戦相手を攻撃して利を得ること。
将棋用語の一つ。主な方法として、「居飛車戦法」「振り飛車戦法」がある。
囲碁用語の一つ。下記に記載。
その他
目次 
1	囲碁の攻め
1.1	攻めのテクニック
1.1.1	根拠を奪う
1.1.2	ボウシ攻め
1.1.3	コスミやケイマによる攻め
1.1.4	重くして攻める
1.1.5	モタレ攻め
2	参考文献
囲碁の攻め
相手の石を攻撃して利得を図ることを指す。必ずしも相手の石を取ることを意味しない。相手の石を挟撃する、厚みを活用する、根拠を奪うなど、様々なパターンがある。また、「美人は追わず」(苑田勇一)と言われるように、やみくもに追って逃がしてしまい逆に自分が薄くなることが最も戒められる。
攻めの強い剛腕の棋士としては、加藤正夫、武宮正樹、淡路修三、宮沢吾朗などが有名である。
攻めのテクニック
根拠を奪う
黒1から5に打つと、白はこの部分だけで眼形を作ることができず、黒の攻めの対象になってしまう。
ボウシ攻め
黒1のボウシで相手の進路をふさいで攻める。
コスミやケイマによる攻め
黒1とケイマに迫り、白△の石を攻める。
重くして攻める
 
白△の石を攻める際、黒1とコスミツケて白2と立たせ、黒3とハサむ手段が常用される。黒1で単に3とハサんだ場合、白aなどと隅にフリカワる余地を残す。黒1と白2の交換によって白を大きな石とし、捨てにくくさせて(重くして)攻める意味合いである。
モタレ攻め
白4までの石を直接追うのではなく、黒5から7と近くの石に「モタレて」打つ攻め方。この後、白aなら黒b、白c、黒dと運んで、上辺で利得を収める。
裂いての攻め
カラミ攻め
小さく生かす攻め など
参考文献
『大竹英雄の攻めに強くなる12章 (NHK囲碁シリーズ)』日本放送出版協会、1994年。
■
攻め合い(せめあい)は囲碁用語の一つで、白と黒の眼のない石が接触し、先にダメの詰まった方が取られてしまう状態をいう。例えば下図のような状態では、▲のついた石同士に眼がなく、攻め合いの状態にある。
もしこの状態から黒番であれば、1,3,5と順次ダメを詰めることにより、白石が取り上げられ黒石が助かることになる。このようにダメが同数で、一手違いで勝ちになる状態を「一手勝ち」と称する。
目次 
1	外ダメと内ダメ
2	攻め合いの手筋
2.1	捨て石の利用
2.2	隅の特殊性の利用
3	攻め合いと眼
3.1	眼あり眼なし
3.2	眼あり眼なしにならない場合
3.3	両者に眼がある場合
4	攻め合いとナカデ
5	攻め取り
6	参考図書
外ダメと内ダメ
 	
左図黒1と内側のダメを先に詰めると、白4まで白の攻め合い勝ちになる。しかし右図黒1と外側から攻めれば、黒5まで黒の勝ちとなる。このaのような点を「内ダメ」という。内ダメは双方共通のダメであるので、詰めると自分の首を絞める結果になる。攻め合いにおいては、まず外ダメを詰めてから内ダメを最後に打つのが正しい。
攻め合いの手筋
捨て石の利用
例えばこうした形の場合、白が何の工夫をもなくダメを詰めていけば、下図のように一手負けとなる。
しかし白は下図1のホウリコミが手筋。黒2と取らせて白3とアテ、以下逆転の一手勝ちとなる。
黒4ツギ(1の点)
このように犠牲打を利用することで、手数を早く詰めることが可能になるケースがある。
隅の特殊性の利用
 	
左図では△のついた石同士が攻め合いだが、黒2手に白3手なので普通に打てば白の勝ち。しかし右図黒1とサガるのが好手で、白2・黒3と詰め合った時白はaにもbにも入れず、黒の勝ちとなる。
攻め合いと眼
眼あり眼なし
下図の場合、単純に数えると白は取られるまで4手、黒は5手あるので、黒が勝ちに見える。ただし白はaの点に眼があり、これが強みとなる。
黒からダメを詰めていくと、隅のaには入れないので黒3と詰めるよりないが、これは自分のダメを詰めることになる。白4と詰められると黒からbに入ることができず、黒が攻め合い負けとなる。
このように攻め合いで一方に眼があり、内ダメがある状態だと、眼のある側が非常に有利になる。これを「眼あり眼なし」と称する。
眼あり眼なしにならない場合
内ダメがない場合は眼があっても特に有利ではなく、単純な詰め合いで決まることになる(下図)。
両者に眼がある場合
両者に眼があり、内ダメが多い場合には、セキになる可能性が高い。下図のような場合、1~4とダメを詰め合ったところで両者手出しができず、セキとなる(何も打たなくても、元の状態でセキ)。
攻め合いとナカデ
ナカデをして攻め合いに持ち込む場合、手数の数え方に注意する必要がある。
たとえば黒1と置いて攻め合いに持ち込むケースを考える。黒の外ダメは5手。
ダメを詰め合い、黒5となったところでアタリなので白6といったん抜く。
再び黒7にナカデし、黒9と詰めて一手勝ちとなる。つまり四目ナカデの手数は、ナカデする手も含めて5手あることになる。
同様に、三目ナカデは3手、五目ナカデは8手、六目ナカデは12手かかる。まとめて、「三・3、四・5、五・8、六・12」と覚えると便利。
攻め取り
図の状態で、△の白石はこのまま取られている。しかし白からaの点にキリが入ると攻め合いの形になるため、いずれ黒はbに手を入れ、この石を打ち上げなければならない。すなわち自分の地に3手入れることになり、3目の損となる。このように、ダメを詰めて取らなければならない状態を「攻め取り」と称する。
参考図書
河野臨『攻め合い力養成トレーニング(マイコミ囲碁ブックス)』
小林覚『攻め合いの手筋 初段・二段・三段』成美堂出版
『三段突破の攻合』誠文堂新光社
■
先手(せんて)は、2人で交互に着手する展開型ゲームで、最初の一手(初手)を着手する側である。初手を着手しない側のことを後手という。先手と後手の双方を合わせて先後という。先手は先手番(せんてばん)、先番ともいい、後手は後手番ともいう。
目次 
1	石などの区別
2	先後の決定
3	手番の優位性
4	局面での先後
4.1	囲碁
4.2	将棋
5	慣用句
6	関連項目
石などの区別
2人で行うボードゲームの中には、両対局者が異なる色の石や駒を使用し、先手と後手の持つ色が決まっているものも多い。
囲碁では先手が黒石を持ち後手が白石を持つ。
オセロでは、囲碁と同じように先手に黒・後手に白が割り当てられる。ただし、表裏を塗り分けた同種の石を使う。
チェスでは逆に先手が白の駒を持ち後手が黒の駒を持つ。
シャンチーでは先手が赤字で書かれた駒を持ち、後手は黒字(あるいは緑字)で書かれた駒を持つ。
いっぽう、将棋では先後で駒の区別はない。駒の向きでどちらの対局者の駒かは区別はされるが、盤面を見て対局者の先後は判断できない。2枚の玉将(王将)のデザインが異なる(「王将」と「玉将」)ことがあるが、これは先後とは関係ない。
カードゲームではもっぱら、場上でのカードの位置でどちらの対局者のカードかが区別され、先後の区別は付かない。
先後の決定
先後をランダムに決定する必要がある場合は、将棋では振り駒が、囲碁ではニギリが行われる。チェスでは、一方の競技者が両手に白と黒のポーンを1つずつ隠し持ち、もう一方がどちらかを選び、その手の中に入っていた側を持つ(「トス」と呼ばれる)方法などで先後を決定する。非公式の素人同士の対局ではじゃんけんで勝者が手番を選ぶという方法もある。
将棋で駒落ちの対局を行う場合には、駒を落とした側の対局者を上手(うわて)、落とされた側を下手(したて)といい、振り駒はせずに上手から指し始める。同様に、囲碁の置き碁では、黒石を置かせた側を上手、置いた側を下手といい、白を持つ上手から打ち始める。したがって、これらの場合は「先手」とは言わず「上手」、「後手」とは言わず「下手」という。
手番の優位性
二人零和有限確定完全情報ゲームでは理論上、先手または後手に必勝法(厳密には、悪くて引き分けの非敗法)がある。たとえば、6×6のオセロは後手必勝である。また、五目並べは先手必勝であるため、先手のみに禁手を課すなどして先手・後手の均衡を図った連珠が作られた。
それ以上に複雑で、必勝法が見つからないようなゲームであっても、どちらかが有利である場合にはハンデキャップが設けられることがある。例えば囲碁では先手が有利なため、後手に一定量の地(コミ)を加算している。
局面での先後
囲碁や将棋では、一局における着手の先後の意味のほかに、以下のように、ある局面での着手の先後を意味することがある。
囲碁
囲碁では、ある対局者の着手に対して相手が離れた場所に着手すると先の対局者に大きな得をする手段が残る場合、先の対局者の着手を先手という。「手抜きする」ことを「手を抜く」ともいう。通常は先手と呼ばれる着手をされた相手は手抜きせずに先の対局者に得をさせない着手で応じる。この着手を後手(で受ける)という。
上図の黒1に対し白が手を抜くと黒は2の所に着手する手段が残る。黒が2の所に打つと隅の白4子が取れて大きな黒地ができる得をする。そこで通常は白は白2と後手で受ける。
ただし、囲碁の場合は将棋の王手のような絶対の先手はなく、離れた場所に、もっと得な手段があれば白は手を抜く場合もある。その例はコウを参照。この1の所を黒先手の場所という。
なお、この黒1白2の交換は、黒の権利だが、コウ材を一つ無くし、黒から2の所に打つ手段などを無くし、黒の一団のダメを一つ無くす。この交換が必須になる前に打たれると「無用、味消し、ダメヅマリ」の悪手と呼ばれる。逆に、先手で打てる所を放置すると相手にその場所か近くに打たれて損をする場合もある。このような先手の手段を行うか否かの選択を「利かしは惜しまず含みは残せ」という格言で表現する。「利かし」は先手の手段で得を図ることであり、「含み」は複数の手段の選択の余地が残されていることである。
石を取るか取られるかの戦いなどの場合、互いに手を抜けずに相手の着手の近くに着手することを繰り返す場合があり、その最後の着手を「後手を引く」という。また、その最後の着手で「一段落」という。一段落の次の着手の権利を得ることを「先手を取る」という。
序盤の隅の戦いである定石では先手を取ることができるものを先手定石、後手を引く場合を後手定石という。
終盤の地の境界を確定させつつ地の得を図る戦いであるヨセでも同様の先手ヨセや後手ヨセがある。
また、武道と同様に、囲碁にも「後の先」という戦法がある。囲碁の場合は自分の石の集まりを強くする(「厚い形にする」という)ことで一端は後手を引くが、後に得をする手段を残すことを指す。その例はマガリを参照。
将棋
将棋では、ある局面で何らかの不利益(王手や飛車取りなど)を回避するために指し手を抜けない局面(手抜けない局面)を生じることがある。このような相手方にとって指し手を抜くことができないような不利益な局面を作り出すことができる側を先手、指し手を抜くことができないような不利益な局面を作り出されてしまった側を後手という。
また、この意味で先手になることを「先手を取る」「手番を握る」「手番が回ってくる」、後手になってしまうことを「後手を引く」という。
具体的にどのような局面が指し手を抜くことのできない不利益な局面になるかは局面の状態によって異なる。例外的に王手は常に回避の必要があるため、王将を移動させた際に相手方に対して開き王手がかかるような特殊な場合を除いて、王手をかけられた側は常に後手を引いてしまうことになる。ただし、「王手は追う手」という将棋の格言があるように、王手は先手を取ることはできるものの、相手の王将を逃がしてしまうような王手は悪手と評価されることになる。
慣用句
囲碁では格下(アマチュアでは1段級位下)の対局者がコミなしの先手番をとることになるため、相手の優位を認めることを「一目置く」という(最初に一目を置くの意)。
この慣用句は「相手が自分よりも能力が高いと認めて敬意を払う」意味で一般にも使われる。
関連項目
囲碁用語一覧
■
囲碁殿堂(いごでんどう)は、囲碁の普及と発展に貢献した人物を顕彰するために設立された殿堂。
日本棋院が2004年、創立80周年記念事業の一環として、野球殿堂を参考に設立した。 有識者や棋士らで構成する囲碁殿堂表彰委員会によって選考され、2004年5月の第1回では対象が江戸時代の人物に限定された。 殿堂入りした人物は、2004年11月15日に日本棋院内に開館する囲碁殿堂資料館(資料館内の研究室は「大阪商業大学アミューズメント産業研究所東京分室」となっている)に胸像と功績を掲げて顕彰される。
目次 
1	殿堂入り
1.1	辞退
2	脚注
3	外部リンク
殿堂入り
第1回(2004年5月28日) - 徳川家康、一世本因坊算砂、四世本因坊道策、本因坊秀策
第2回(2005年9月28日) - 十二世本因坊丈和
第3回(2006年7月28日) - 大倉喜七郎、十四世本因坊秀和
第4回(2007年8月1日) - 十八世本因坊秀甫
第5回(2008年8月5日) - 十七世・十九世本因坊秀栄、二十一世本因坊秀哉
第6回(2009年8月28日) - 瀬越憲作
第7回(2010年7月23日) - 木谷実
第8回(2011年7月13日) - 岩本薫
第9回(2012年6月22日) - 安井算哲、陳毅
第10回(2013年7月16日) - 喜多文子
第11回(2014年7月18日) - 橋本宇太郎
第12回(2015年7月21日) - 呉清源
第13回(2016年7月19日) - 寛蓮、井上幻庵因碩
辞退
呉清源は明治以降の人物を選考の対象とした最初の回に打診されるも「未だ修業中の身であるため」と辞退している。死後の2015年、遺族の許可を得て殿堂入りが決まった[1]。
脚注
^ http://www.sankei.com/life/news/150729/lif1507290011-n1.html
外部リンク
囲碁殿堂資料館
■
韓国棋院
各種表記
ハングル:	한국기원
漢字:	韓國棋院
発音:	ハングッキウォン
日本語読み:	かんこくきいん
英語表記:	Korea Baduk Association
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コンピュータ

コンピュータ囲碁
幽玄の間
AlphaGo対李世乭
表 話 編 歴
韓国棋院(かんこくきいん、한국기원)は、大韓民国の囲碁の組織。プロの囲碁棋士が所属し、棋戦などを行う。
目次 
1	歴史
2	出版物
3	主な棋戦
3.1	国内棋戦
3.2	国際棋戦
4	顕彰
5	関連項目
6	脚注
7	外部リンク
歴史
日本の木谷実九段の門下として1941年にプロ棋士初段となった趙南哲が、1943年に韓国に帰国し、1945年に囲碁団体として漢城棋院を設立。1947年に朝鮮棋院、1949年に大韓棋院と名前を変え、1954年に韓国棋院となる。当時の韓国では、日本ルールによる「現代囲碁」と、あらかじめ白黒16個の置き石をした上で対局を始める、巡将碁(スンジャン・パドゥク)と呼ばれる伝統的な囲碁が混在しており、趙南哲らは「現代囲碁」の普及を目指した。
1950年に韓国囲碁界で初の段位決定戦を行ない、南哲が三段、他に12人を初段とした。この直後の朝鮮戦争の勃発で活動を休止するが、3年後の休戦協定後に活動を再開。1954年に昇段大会、入段大会を開始。
1956年に新聞棋戦国手戦を開始。趙南哲が第1期国手となり、以後9連覇して第一人者となる。その後、1959年開始の覇王戦、最高位戦など多くの棋戦が開催され、当初は金寅、尹奇鉉、河燦錫、曺薫鉉など、日本で囲碁を学んだ棋士がトップとなっていたが、1970年代には徐奉洙が曺に互してタイトルを取るなど、韓国で育った棋士も次第に一流の実力を持つようになる。
1989年には曺薫鉉が第1回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦で優勝し、続いて第2回は徐奉洙、第3回は劉昌赫、第4回は李昌鎬が優勝するなど、1990年代以降はあらゆる世界棋戦で好成績を挙げ、世界最強の囲碁勢力となった。1996年にはLG杯、三星火災杯の2つの世界選手権を開始。1997年 - 1998年のアジア通貨危機による不況では、多くの棋戦がスポンサーによって終了したり、賞金額を削減されるという危機に見舞われたが、その後は経済の復活に伴って新たな棋戦も開始された。
2000年以降は、ポスト李昌鎬として李世乭、朴永訓、崔哲瀚などが世界選手権を制し、国内棋戦でも李昌鎬とタイトルを分け合うようになる。女流棋士も、中国出身で客員棋士に迎えた芮廼偉九段の影響もあってレベルアップされ、2008年には朴鋕恩が韓国人女流初の九段となった。2010年には囲碁広報大使として女優の李英雅を任命している[1]。
出版物
1967年から月刊誌『棋界』(기계)を刊行。1969年からは『月刊囲碁』(월간바둑)に改名。
主な棋戦
国内棋戦
国手戦(東亜日報主催)1956年 -
覇王戦(大韓毎日新聞主催)1959年 - 2003年
最高位戦(釜山日報主催)1959年 - 1999年
王位戦(中央日報主催)1966年 - 2007年
名人戦(韓国日報主催)1968年 - 2003年、2007年 -
KBS杯バドゥク王戦(韓国放送公社主催)1980年 -
棋聖戦(世界日報主催)1989年 -
バッカス杯天元戦(スポーツ朝鮮主催)1996年 - (前身はバッカス杯戦)
GSカルテックス杯プロ棋戦(毎日経済新聞、毎経TV主催)1996年 -
圓益杯十段戦(韓国棋院主催)2006年 -
プロ女流国手戦(韓国経済新聞主催)1994年 -
女流名人戦(毎日新聞主催)2000年 -
女流棋聖戦 2006年 -
韓国囲碁リーグ 2004年 -
国際棋戦
東洋証券杯世界選手権戦(ソウル経済新聞主催)1990年 - 1998年
三星火災杯世界オープン戦(中央日報、KBS、ユニテル3社共同主催)1996年 -
LG杯世界棋王戦(朝鮮日報主催)1997年 -
BCカード杯世界囲碁選手権戦(BCカード主催)2009年 -
農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦(農心主催)1999年 -
宝海杯世界女子選手権戦(韓国経済新聞、KBS共同主催)1994年 - 1998年
正官庄杯世界女子囲碁最強戦(囲碁TV主催)2002年 -
顕彰
1978年 - 1983年、棋道文化賞 最優秀棋士、敢闘賞、新鋭棋士賞などを授与
1989年 - 1992年、プロ棋士MVP
1993年 - 2002年、囲碁文化賞 最優秀棋士、新鋭棋士、女流、アマチュア等の賞を授与
2003年 - 、囲碁大賞 最優秀棋士、人気棋士等の賞を授与
関連項目
日本棋院
関西棋院
台湾棋院
国際囲碁連盟
脚注
^ 京郷新聞 2010/10/7
■
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表 話 編 歴
国際囲碁連盟(こくさいいごれんめい、英: International GO Federation、IGF)は、囲碁の国際普及を目的とする組織。1982年3月18日に加盟国29か国で発足。その後、加盟国は75か国(2015年時点)、他に4つの団体会員(イベロアメリカ囲碁協会、世界ペア碁協会、欧州囲碁連盟、應昌期圍棋教育基金)がいる。
目次 
1	発足までの経緯
2	活動
2.1	棋戦
2.2	普及
3	組織
4	参考文献
5	註
6	外部リンク
発足までの経緯
1957年頃から日本棋院と関係者の間で国際囲碁普及組織の必要性が検討され始め、一時は日本棋院中央会館に国際囲碁協会が設立されて、1963年には9か国が参加するインターナショナル・アマチュア・ゴ・トーナメントが開催された。また1957年からはヨーロッパ碁コングレスが開催されて、1959年にヨーロッパ囲碁協会も設立された。1975年には、日本棋院が後援してロンドン囲碁センターが設立される。
1979年に世界アマチュア囲碁選手権戦が開始され、これの運営組織を元にして1982年に国際囲碁連盟が設立された。
活動
棋戦
世界アマチュア囲碁選手権戦を主管。
1990年から98年まで、相鉄杯世界女流アマチュア囲碁選手権戦を主管。
1991年から国際アマチュア・ペア碁選手権大会を主管。
2006年から、韓国首相杯国際アマチュア囲碁選手権戦に協力。
2012年から、百霊愛透杯世界囲碁オープン戦を共同主宰。
普及
2006年、国際競技連盟連合(GAISF)加盟。
2005年、世界ブリッジ連盟、国際チェス連盟、国際チェッカー連盟とともに、国際マインドスポーツ協会設立を図り、4競技による世界マインドスポーツ大会開催を目指すことを発表。2008年に第1回ワールドマインドスポーツゲームズを、組織委員として開催した。
囲碁の世界統一ルールの制定のための検討を行っている。
組織
2013年まで、会長には主に日本棋院理事長が就任。本部、事務局は、日本棋院内に置かれていた。
2005年、初の女性棋士の理事として、梅沢由香里五段が就任。
2006年、重野由紀(1998年~2006年までイタリアに在住)が事務局長に就任し、2013年までつとめる。
2014年7月、韓国で開かれる国際囲碁連盟年次総会で韓国棋院に国際囲碁連盟会長が移り、事務局長も韓国に移る[1]。会長は洪錫炫(ホン・ソクヒョン)、事務局長は李夏辰(イ・ハジン)[2]となった。
参考文献
岩本薫『囲碁を世界に-本因坊薫和回顧録』講談社 1979年
註
^ 重野由紀 国際囲碁連盟のなりたちと今後の課題
■
全日本囲碁連合(ぜんにほんいごれんごう)は、日本の囲碁統括団体。会長は大竹英雄(日本棋院理事長)。
目次 
1	概説
2	加盟団体
3	アジア競技大会成績
3.1	ペア碁
3.2	男子団体戦
3.3	女子団体戦
4	脚注
5	外部リンク
概説
2010年11月に中国広州で開催される第16回アジア競技大会で囲碁が正式種目に採用されたことを受け、日本国内の囲碁3団体が統括団体として設立し、日本オリンピック委員会(JOC)の承認団体となった。
2011年3月末に解散した[1]。
加盟団体
日本棋院
関西棋院
日本ペア碁協会
アジア競技大会成績
2010年アジア競技大会では、「知恵の和ジャパン」の愛称で囲碁日本代表チームとして、ペア碁、男子団体戦、女子団体戦に出場。監督は大竹英雄、コーチは神田英、今村俊也、孔礼文。
ペア碁
鈴木歩・結城聡ペア、向井千瑛・高尾紳路ペアの2ペアが出場。予選で鈴木・結城ペアが3勝3敗で9位、向井・高尾ペアが3勝3敗で10位となった。
男子団体戦
山下敬吾・井山裕太・高尾紳路・結城聡・山田規三生・秋山次郎の6名で出場。予選で3勝3敗の4位となり、3・4位決定戦で中華台北チームに3-2で勝って銅メダル獲得。
女子団体戦
鈴木歩・吉田美香・向井千瑛、大沢奈留美の4名で出場。予選で3勝3敗の4位となり、3・4位決定戦で中華台北に1-2で敗れて4位となった。
脚注
[ヘルプ]
^ “全日本囲碁連合が解散”. 時事通信 (2011年4月7日). 2011年4月7日閲覧。[リンク切れ]
外部リンク
公式サイト - ウェイバックマシン(2010年12月23日アーカイブ分)
■
全日本学生囲碁連盟(ぜんにほんがくせいいごれんめい)は、日本の囲碁の学生組織。1957年(昭和32年)創立。北海道、東北、関東、北信越、中部、関西、中国四国、九州の8地区の囲碁連盟から構成される。
目次 
1	創設
2	主催イベント
3	参考文献
4	外部リンク
創設
学生の囲碁は、1924年(大正13年)に東京大学囲碁連盟が結成され、いったん弱体化するが1930年に再結成。1931年に6校によるリーグ戦が開始、これを母体に1942年に関東大学囲碁連盟が結成され、参加校は8校となる。しかし大戦の影響でリーグ戦も1943年に中断。戦後1947年に関東大学囲碁連盟が再建、リーグ戦も再開。1952年には関西学生囲碁連盟設立。1957年に全日本大学囲碁連盟が結成され、同年から全日本学生本因坊決定戦も開始された。結成時の役員は、会長津島寿一、副会長藤田梧郎、理事に村島誼紀、酒井健夫、林裕。
1964年には全日本学生囲碁十傑戦も開催され、この頃の参加校は100校ほどになった。
主催イベント
全日本大学囲碁選手権(1957-)
全日本学生本因坊決定戦(1957-)
全日本学生囲碁十傑戦(1964-)
全日本女子学生本因坊決定戦(1966-)
全日本学生囲碁名人戦(1979-)
全日本学生囲碁王座戦(2002-)
世界学生囲碁王座戦(2003-)
この他に、各地区の囲碁連盟によって団体リーグ戦や、個人戦の地区予選、その他の大会も開かれている。
参考文献
坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年
安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年
外部リンク
全日本学生囲碁連盟
■
台湾棋院
各種表記
繁体字:	臺灣棋院
簡体字:	台湾棋院
拼音:	Táiwān Qíyuàn
注音符号:	ㄊㄞˊ ㄨㄢ ㄑ|ˊ ㄩㄢˋ
発音:	タイワン チーユエン
日本語漢音読み:	たいわん きいん
英文:	Taiwan Chi Yuan Culture Foundation
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表 話 編 歴
台湾棋院(たいわんきいん)は台湾の囲碁の組織。プロの囲碁棋士が所属し、棋戦や囲碁の振興活動などを行う。正式名は『台湾棋院文化基金会(台灣棋院文化基金會)』。英語名はTaiwan Chi Yuan Culture Foundation。
目次 
1	歴史
2	棋戦
3	関連項目
4	注
5	外部リンク
歴史
台湾のプロ組織には、1972年(民国61年)発足の中国囲棋会が存在していた。
2000年(民国89年)3月4日に、中環集団社長の翁明顯が理事長となって台湾棋院が発足。
2003年(民国92年)から、関西棋院との定期交流戦を開始。
2008年(民国97年)3月に、新しい棋士処遇制度を定めるが、これに同意しなかった周俊勲、林聖賢、彭景華、周奎宏ら12名の棋士を、主催する棋戦への5年間出場停止処分とした。しかし海峰棋院理事長林文伯らの調停により、2009年9月に改訂した同意書にサインし復帰となった[1]。
2008年から中国乙級リーグに参加、1勝3敗3分の成績で丙級落ちするが、2012年丙級リーグで1位となって乙級昇級を果たした。
2009年に林至涵が台湾棋院設立後初の九段昇段を果たし、2011年には陳詩淵も九段昇段。
棋戦
国内棋戦
中環杯囲棋オープン戦(台湾棋院文化基金会主催)1994年〜
CMC杯電視快棋戦(緯来電視台放送、台湾棋院文化基金会主催)2001年〜
東鋼杯プロ囲棋戦(台湾棋院文化基金会主催)2001年〜
天元戦(民生報、台湾棋院文化基金会主催)2002年〜
棋霊王杯戦(台湾棋院文化基金会主催)2002年〜
新人王戦 2002年〜
魔戒杯戦(台湾棋院文化基金会主催)2003年〜
中環杯国手戦(台湾棋院文化基金会主催)2005年〜
王座戦(台湾棋院文化基金会主催)2006年〜
国際棋戦
中環杯世界囲棋選手権戦(台湾棋院文化基金会主催、中環・JPモーガン後援)2005年〜
亜芸杯両岸交流戦(台湾棋院文化基金会主催)2006年〜
その他、台湾棋院以外主催の棋戦
名人戦(応昌期囲棋基金主催)1972年〜
関連項目
日本棋院
関西棋院
韓国棋院
注
^ http://blog.board19.com/news/2009/09/30/周俊勳等重返台灣棋院-共同聲明/
外部リンク
台湾棋院文化基金会
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中国囲棋協会
ちゅうごくいききょうかい
簡体字表記	中国围棋协会
ピンイン	zhōng guó wéi qí xié huì
中国囲棋協会(ちゅうごくいききょうかい)は、中国の囲碁の組織。プロの囲碁棋士が所属し、囲碁普及活動や、棋士の育成、棋戦などを行う。英語名はChinese Weiqi Association。
目次 
1	歴史
1.1	成立期
1.2	プロ化と発展
1.3	国際化の時代
2	制度・組織
3	脚注
4	参考文献
5	関連項目
6	外部リンク
歴史
成立期
現代中国(中華人民共和国)では囲碁は体育省の管轄となり、国家体育運動委により学校教育なども含めて普及、教育の活動が行われ、副首相の陳毅や強豪の過惕生らがこれを推し進めた。1956年に全国囲碁模範試合を開催、1957年に囲碁規則の制定など、組織的な活動が行われ始める。1959年には地域毎の合宿訓連隊、1961年に国家集中訓練隊を組織。また1957年からは全国個人戦が始まり、第1回には過惕生が優勝、1960年代には陳祖徳らが活躍する。1962年に中国囲棋協会となり、名誉主席に陳毅、主席に国家体育委副主任の李夢華が就く。1964年には段位制を開始し、初段から五段までを認定、過惕生、陳祖徳、呉淞笙、劉棣懐の4人が五段となる。対外的には1960年から日中囲碁交流なども行われ、陳祖徳が日本の九段からも勝利を挙げるほどにレベルアップする。1963年には陳毅に日本棋院と関西棋院から名誉七段が贈られた。
プロ化と発展
文革が始まると各種の囲碁の活動は中断し、国家集中訓練隊は解散、陳祖徳らも下放される。訓練隊は1972年に復活、中断していた日中囲碁交流も1973年に再開した。また1972年の陳毅死去後は、国務院副総理の方毅が名誉主席に就く。1978年から「新体育教育」誌後援の新体育杯が開始され、聶衛平がトップ棋士として活躍し始める。聶は日中囲碁交流でも好成績を挙げ、1979年の第1回世界アマチュア囲碁選手権戦で優勝して、実力を世界に知らしめる。1982年にプロ(専業棋手)制度と新たな段位制度を開始し、それまで実績のあった陳祖徳、呉淞笙、聶衛平の3人を九段として認定。陳、呉、聶の3名は1983年に国家体育委より体育運動栄誉章を贈られた。1984年から始まった日中スーパー囲碁では、聶などの活躍で第1回から3回まで3連勝するなど、日本に対しても引けを取らないレベルに達したことが示された。
1986年には国家少年隊を組織し、有望な少年を北京に集めての訓練を行う。この第1期生は常昊、周鶴洋、羅洗河、王磊らで、その後も中国囲碁界の中核を担う棋士を育成している。
国際化の時代
現在は、1992年に設立された中国棋院が、囲碁、シャンチー(中国象棋)、チェス、連珠、麻雀、コントラクトブリッジなどのゲームを統括し、棋戦を実施している。1995年には馬暁春が、東洋証券杯世界選手権戦と富士通杯の、二つの世界選手権に優勝。また1995年には点数制を開始し、棋士のランキングが作られるようになった。1998年には中国初の世界選手権として、春蘭杯世界囲碁選手権戦を創設。1999年に開始された中国囲棋甲級リーグ戦・乙級リーグ戦には、韓国や日本の棋士も参加して行われる。2000年にLG杯世界棋王戦に優勝した兪斌は、この年の全国優秀運動員十傑にも選ばれた。
制度・組織
最高機構として全国委員会、執行機関として常務委員会、日常業務に事務局を置く。
地域には、北京、上海、天津に特別市分会、及び各省分会、自治区分会、解放軍分会を置き、各分会の下に文化宮、青年宮、少年宮、業余(アマチュア)学校、運動学校がある[1]。また各地に囲棋協会を置き、個々に段位の認定を行うが、五段以上の段位は中国囲棋協会でのみ認定できる。
主席 王汝南、顧問 陳祖徳、副主席 聶衛平、華以剛、羅建文、他。副主席は、実運営に関わる人以外に、各地の名士が名誉職として就任することがある。
代	主席	任期
1	李夢華	1962.11 - 1988.4
2	陳祖徳	1988.4 - 2006.11
3	王汝南	2006.11 - 2007.1
脚注
^ 『囲碁年鑑』日本棋院 1989年
参考文献
陳祖徳「中国囲棋史」中国統計出版社 1999年
中野謙二「囲碁中国四千年の知恵」創土社 2002年
関連項目
日本棋院
関西棋院
外部リンク
中国囲棋協会
中国囲棋協会ネット

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中国棋院
中国棋院
各種表記
繁体字:	中國棋院
簡体字:	中国棋院
拼音:	Zhōngguó Qíyuàn
注音符号:	ㄓㄨㄥ ㄍㄨㄛˊ ㄑ|ˊ ㄩㄢˋ
英文:	China Qiyuan
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コンピュータ囲碁
幽玄の間
AlphaGo対李世乭
表 話 編 歴
中国棋院(ちゅうごくきいん、簡体字:中国棋院)は、中華人民共和国の中国全国体育総会の下部組織で、中国の棋類(棋牌)に分類されるボードゲームを管轄している団体。囲碁、シャンチー(象棋)、チェス(国際象棋)、連珠(五子棋)、ブリッジ(桥牌)、麻雀(麻将)などを実施。1992年に設立。プロやアマチュアの大会の開催、棋士の育成などを行っている。
各地方を統括するための同種の組織として、上海棋院、成都棋院などがある。
目次 
1	組織
2	棋士ランキング
3	その他
4	関連項目
5	外部リンク
組織
国家体育総局の事業機関に位置づけられる。
初代院長には囲碁の名棋士である陳祖徳が就任。陳は健康上の理由から2003年に退任し、続いてやはり囲碁棋士で副院長であった王汝南、華以剛が院長を歴任、それぞれ60歳定年で退任、4代院長には国家体育総局棋牌運動センター主任の劉思明が就任。内部組織としては、囲棋部、象棋部、国際象棋部などがある。
歴代院長
1992-2003 陳祖徳
2003-2007 王汝南
2007-2009 華以剛
2009-2015 劉思明
2015-2017楊俊安(代理)
2017-羅超毅
各競技の棋士は、それぞれ中国囲棋協会、中国チェス協会、中国象棋協会、中国ブリッジ協会などに所属している。
棋士ランキング
1997年から、囲碁、チェス、シャンチー、ブリッジの棋士の成績に応じた点数制によるランキングを制定し、毎年4月、8月、12月の3回発表している。
その他
『ヒカルの碁』主人公・進藤の日本棋院院生時代からの友人・伊角が中国棋院に滞在するエピソードがあり(単行本16巻)、中国全土から中国棋院に集められた有望若手棋士達が囲碁の研鑽に励む姿が描かれている。そのレベルは非常に高いものである。
本部は北京の天壇公園のすぐ近くに位置しており、新館、旧館2つのビルからなる。旧館には日中友好の一環として日本の援助の元に建てられ、日本から輸入された建材が多く使われている。また、新館には対局室、貴賓用対局室、宿泊施設があり、2008年に大幅に改修された。
2年に一度、韓国棋院と持ち回りで世界囲碁選手権富士通杯の準々決勝の会場となっている。
関連項目
中国囲棋協会
華頂茶業杯世界女流囲碁団体戦
外部リンク
中国棋院囲棋ネット
中国棋院象棋ネット
中国棋院青少年体育クラブ
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本因坊秀策囲碁まつり(ほんいんぼうしゅうさくいごまつり)は、本因坊秀策を記念して、その生地であり広島県因島市(2005年まで)、尾道市で、年2回開催されるイベント。指導碁、尾道市市民囲碁大会(クラス別競技会)などが行われ、2002年からは、因島市が1997年に囲碁を市技として制定した5周年事業として、プロとアマチュアの棋士によるトーナメント戦本因坊秀策杯、2012年からは女流秀策杯のトーナメントが開始された。因島市・尾道市囲碁のまちづくり推進協議会開催。
目次 
1	本因坊秀策杯
1.1	優勝者と決勝戦
2	女流秀策杯
2.1	優勝者と決勝戦
3	外部リンク
本因坊秀策杯
2002年第45回より開始。プロ棋士8名と予選を勝抜いたアマチュア8名によるトーナメント戦。公開対局で行われる。
優勝賞金 100万円と因島備南酒造の日本酒「本因坊秀策」1年分
優勝者と決勝戦
(左が優勝者)
第1回 2002年(7月28日)山田規三生 - 清成哲也
第2回 2003年(1月26日)小西和子 - 芦田磯子
第3回 2003年(7月27日)大矢浩一 - 羽根直樹
第4回 2004年(1月25日)石田篤司 - 仲邑信也
第5回 2004年(7月25日)結城聡 - 青木紳一
第6回 2005年(1月23日)藤井秀哉 - 岩井竜一
第7回 2005年(7月31日)村川大介 - 石田篤司
第8回 2006年(1月29日)坂井秀至 - 松本武久
第9回 2006年(7月30日)蘇耀国 - 西村慶二
第10回 2007年(1月28日)林子淵 - 清成哲也
第11回 2007年(7月29日)中小野田智己 - 倉橋正行
第12回 2008年(7月20日)坂井秀至 - 田中伸拓
第13回 2009年(7月19日)秋山次郎 - 大矢浩一
第14回 2010年(7月25日)蘇耀国 - 工藤紀夫
第15回 2011年(7月10日)鶴山淳志 - 石田篤司
第16回 2012年(7月8日) 孫喆 - 下島陽平
第17回 2013年(7月14日) 許家元 - 中野寛也
第18回 2014年(7月13日) 結城聡 - 首藤瞬
第19回 2015年(7月12日) 蘇耀国 - 中野寛也
女流秀策杯
2012年第60回から開始。女流プロ棋士8名と予選を勝抜いた女流アマチュア8名によるトーナメント戦。公開対局で行われる。
優勝賞金 50万円
優勝者と決勝戦
(左が優勝者)
第1回 2012年(1月29日)万波奈穂 - 矢代久美子
第2回 2013年(1月27日)万波奈穂 - 種村小百合
第3回 2014年(1月26日)藤沢里菜 - 小西和子
第4回 2015年(1月25日)藤沢里菜 - 星合志保
第5回 2016年(1月31日)加藤啓子 - 金子真季
外部リンク
尾道市囲碁のまちづくり推進協議会
せとうちタイムズ
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緑星囲碁学園(りょくせいいごがくえん)は、青少年のための囲碁の教育組織。アマチュア棋士の菊池康郎が1979年に設立。数多くのプロ棋士やアマチュア強豪が輩出していることで有名。
目次 
1	設立
2	教育方針
3	出身者
4	その他
5	外部リンク
設立
昭和30年代に当時の若手アマチュア棋士である菊池康郎、村上文祥、原田実らによって研究会「緑星会」が行われていたが中断し、1975年に再開、さらに若手の参加などがあった。これに小学生、中学生なども参加するようになり、菊池と、協力者の結城冴子により1979年に子供の教育機関として緑星囲碁学園が設立された。東京都中野区の本部と、世田谷区の尾山台教室、さいたま市のさいたま新都心校がある。
教育方針
学園の理念は、囲碁の棋力向上と並んで、人格形成にあり、礼儀や自主性などの面で厳しい教育に特徴がある。入園にはテストがあり、約50名の学園生がいる(2006年現在)。また道場に通う学園生の他、インターネットでの対局を行う通信生制度も設けている。国際囲碁交流も活発に行っている。
出身者
多くのプロ棋士、アマチュア強豪が輩出していることでも知られており、卒業生も講師として、あるいは対局のために出席することも多い。出身プロ棋士としては、村松竜一、青木伸一、青木喜久代、高野英樹、鶴丸敬一、加藤充志、鈴木嘉倫、秋山次郎、溝上知親、山下敬吾、望月研一、山田晋次、大沢奈留美、大場惇也、安藤和繁などがおり、日本の囲碁レベル向上にも大きな役割を果たしている。梅沢由香里、原幸子も一時期所属していた。
その他
「緑星」という名を冠してはいるが、特にエスペラント(シンボルマークが緑の星{五芒星})とは関係が無いようである。
外部リンク
緑星囲碁学園
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AI囲碁
AI囲碁(えーあいいご)は、コンピュータ囲碁のプログラム。アメリカのデビッド・フォットランド(David Fotland)により開発された思考エンジン「The Many Faces of Go(旧称Cosmos)」を利用し、日本のイーフロンティア(旧アスキーサムシンググッド→アイフォー)から販売されている。「AI囲碁Version17」(2008年)よりモンテカルロ法とのハイブリッド。
目次 
1	足跡
2	シリーズ
2.1	アスキーサムシンググッド
2.2	アイフォー
2.3	イーフロンティア
2.4	サイバーフロント
2.5	メディアカイト
2.6	BBソフトサービス
3	外部リンク
足跡
1994年 ING杯世界コンピュータ囲碁大会 準優勝
1998年11月 ING杯世界コンピュータ囲碁大会 優勝
2001年3月 国際コンピュータ囲碁大会SG杯 準優勝
2002年7月 21世紀杯 優勝
2005年10月 世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ2005 準優勝
2008年 コンピュータオリンピアード碁(19路)部門 優勝
2008年 UEC杯コンピュータ囲碁大会 3位
シリーズ
アスキーサムシンググッド
AI囲碁2(1990年2月発売)
AI囲碁3(1990年11月1日発売)
AI囲碁4(1993年1月発売)
AI囲碁5(1996年発売)
AI囲碁6(1997年7月6日発売)
AI囲碁7(1998年9月25日発売)
アイフォー
AI囲碁2000(1999年7月2日発売)
AI囲碁2001(2000年7月7日発売)
AI囲碁2001 for Macintosh(2000年8月25日発売)
AI囲碁2002(2001年7月13日発売)
AI囲碁2003(2002年6月21日発売)
別ウインドウで着手を試せる「シミュレーション機能」搭載
AI囲碁2003 2+Network for Windows(2002年11月29日発売)
2002年度21世紀杯優勝を記念して発売
AI囲碁2004(2003年6月27日発売)
AI囲碁Version14(2005年2月25日発売)
対局中の形勢をグラフで表示する「形勢グラフ機能」を搭載
イーフロンティア
AI囲碁 Online Edition(2004年10月22日発売)
廉価版
AI囲碁Version15(2005年12月9日)
AI囲碁GOLD(2006年1月27日発売)
AI囲碁Version15 [Windows Vista対応版](2007年4月6日発売)
3000本限定廉価版
AI囲碁GOLD 2(2007年9月7日発売)
AI囲碁Version15[Windows Vista対応版]をもとに、思考ルーチンのレベルを「強い」までに制限、「形勢グラフ機能」「シミュレーション機能」「インターネット通信対局」などの機能を削除
AI囲碁Version16(2008年2月22日発売)
次の一手の候補を3種類まで表示する「ヒント機能」搭載
自己学習機能搭載
AI囲碁Version17(2008年12月5日発売)
モンテカルロ法採用
定石のアドバイスをする「定石・布石機能」搭載
マルチスレッド対応
USBを挿すだけで使える AI囲碁GOLD 2(2009年7月3日発売)
AI囲碁Version18(2009年11月27日発売)
AI囲碁GOLD 3(2010年3月19日発売)
AI囲碁Version19(2011年4月1日発売)
サイバーフロント
PCゲームBestシリーズVol.10 デビッドフォットランドのAI囲碁6(1999年8月6日発売)
AI囲碁6の廉価版
PCゲームBestシリーズVol.56 みんなで対戦!デビッドフォットランドのAI囲碁6(2001年7月6日発売)
ネットワーク対戦対応版
PCゲームBESTシリーズVol.73 AI囲碁BEST(2002年9月6日発売)
AI囲碁2000の廉価版
PCゲームBESTシリーズメガヒットVol.6 デビッドフォットランドのAI囲碁6(2003年1月31日発売)
MACゲームBestシリーズVol.4 デビッドフォットランドのAI囲碁6(2004年4月14日発売)
AI囲碁6のマッキントッシュ用廉価版
PCゲームBESTシリーズメガヒットVol.16 AI囲碁BEST(2004年5月20日発売)
PCゲームBestシリーズプラチナセレクション AI囲碁6(2004年8月6日発売)
メディアカイト
新撰1480 AI囲碁(2004年1月16日発売)
「シミュレーション機能」搭載
BBソフトサービス
SoftBank SELECTION AI囲碁GOLD 2(2007年11月30日発売)
AI囲碁Version15[Windows Vista対応版]をもとに、思考ルーチンのレベルを「強い」までに制限、「形勢グラフ機能」「シミュレーション機能」「インターネット通信対局」などの機能を削除
外部リンク
David Fotlandホームページ
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モンテカルロ法 (モンテカルロほう、Monte Carlo method, MC) とはシミュレーションや数値計算を乱数を用いて行う手法の総称。元々は、中性子が物質中を動き回る様子を探るためにスタニスワフ・ウラムが考案しジョン・フォン・ノイマンにより命名された手法。カジノで有名な国家モナコ公国の4つの地区(カルティ)の1つであるモンテカルロから名付けられた。ランダム法とも呼ばれる。
目次 
1	計算理論
2	準モンテカルロ法
3	数値積分
4	機械学習
5	統計学
6	乱数(列)の選択
7	精度
8	脚注
9	参考文献
10	関連項目
計算理論
計算理論の分野において、モンテカルロ法とは誤答する確率の上界が与えられる乱択アルゴリズム(ランダム・アルゴリズム)と定義される[1]。一例として素数判定問題におけるミラー-ラビン素数判定法がある。このアルゴリズムは与えられた数値が素数の場合は確実に Yes と答えるが、合成数の場合は非常に少ない確率ではあるが No と答えるべきところを Yes と答える場合がある。一般にモンテカルロ法は独立な乱択を用いて繰り返し、実行時間を犠牲にすれば誤答する確率をいくらでも小さくすることができる。またモンテカルロ法の中でも任意の入力に対して最大時間計算量の上界が入力サイズの多項式で与えられるものを効率的モンテカルロ法という[2]。
なお、これとは対照的に理論上必ずしも終了するとは限らないが、もし答えが得られれば必ず正しい乱択アルゴリズムをラスベガス法と呼ぶ。
計算複雑性理論では、確率的チューリング機械によるモデル化によってモンテカルロ法を用いて解決できる問題のクラスをいくつか定義している。代表的なところでは RPやBPP、PP などがある。これらのクラスと P や NP との関連性を解明していくことによって、モンテカルロ法のようにランダム性を含むアルゴリズムによって解ける問題の範囲が拡大しているのか(P ≠ BPP なのか)、それとも単に決定的アルゴリズムで解ける問題の多項式時間の次数を減らしているだけなのか(P=BPP なのか)は計算複雑性理論における主要課題の1つである。現在、NP ⊂ PP 、RP ⊆ NPであることは解っているが BPP と NPとの関係は解っていない。
準モンテカルロ法
乱数ではなく、一様分布列 (Low-discrepancy sequence) を使用する方法を準モンテカルロ法 (Quasi-Monte Carlo method) という。乱数を利用するよりも収束が早くなる場合がある。ただし、純粋にランダムな方法ではないので、正解を得られる可能性が確率論的に低下する場合がある。
数値積分

モンテカルロ法を円周率πの値の近似に適用した例。30,000点をランダムに置いたとき、πの推定量は実際の値から0.07%以下の誤差の範囲内にあった。
数値解析の分野においてはモンテカルロ法はよく確率を近似的に求める手法として使われる。n 回シミュレーションを行い、ある事象が m 回起これば、その事象の起こる確率は当然ながら m/n で近似される。試行回数が少なければ近似は荒く、試行回数が多ければよい近似となる。
また、この確率を利用すれば、積分(面積)の近似解を求めることが可能となる。領域 R の面積 S は、領域 R を含む面積 T の領域内でランダムに点を打ち、領域 R の中に入る確率 p をモンテカルロ法で求めれば、S = pT で近似される。
n 重積分
{\displaystyle I=\int _{0}^{1}\dotsi \int _{0}^{1}f(x_{1},x_{2},\dotsc ,x_{n})dx_{1}\dotsm dx_{n}} {\displaystyle I=\int _{0}^{1}\dotsi \int _{0}^{1}f(x_{1},x_{2},\dotsc ,x_{n})dx_{1}\dotsm dx_{n}}
をサンプルサイズ N のモンテカルロ法で計算するには、0 以上 1 以下の値をとる n × N 個の一様乱数
{\displaystyle X_{i,j},\quad 1\leq i\leq n,1\leq j\leq N} X_{{i,j}},\quad 1\leq i\leq n,1\leq j\leq N
を生成して、
{\displaystyle I_{N}={\frac {1}{N}}\sum _{j}f(X_{1,j},X_{2,j},\dotsc ,X_{n,j})} {\displaystyle I_{N}={\frac {1}{N}}\sum _{j}f(X_{1,j},X_{2,j},\dotsc ,X_{n,j})}
とすれば、IN が積分の近似値となる。
これに層化抽出法を行うよう改良を加えた MISER 法や、加重サンプリングを行う VEGAS 法といった改良版のアルゴリズムがある。MISER 法では、積分範囲を分割し、それぞれの領域中でランダム・サンプリングを行い、被積分関数値の分散が最も大きくなる領域をより小さな領域に分割して、そこでさらにサンプリングを行うことで精度を上げる。VEGAS 法では、被積分関数値の大きな場所にサンプリング点を増やし、積分値に寄与の大きなところに集中することで精度を上げる。 積分の計算法には他に台形公式・シンプソンの公式・二重指数関数型数値積分公式等があるが、モンテカルロ法はこれらの手法より多次元問題の際に利用しやすく、誤差が少ない。
機械学習
機械学習の分野におけるモンテカルロ法とは強化学習の一種で、行動によって得られた報酬経験だけを頼りに状態価値、行動価値を推定する方法のことを指す。この方法はある状態 s から、得られる報酬の合計を予測しそれを基に状態の価値と次に行う行動を決定する。状態価値を V(s) 、行動価値を Q(s, a) で表す(ここで a は状態 s で行う行動である)とき、モンテカルロ法は以下の式で値を更新する。
{\displaystyle V(s)\leftarrow V(s)+\alpha \left[R_{t}-V(s)\right]} V(s)\leftarrow V(s)+\alpha \left[R_{t}-V(s)\right]
{\displaystyle Q(s,a)\leftarrow Q(s,a)+\alpha \left[R_{t}-Q(s,a)\right]} Q(s,a)\leftarrow Q(s,a)+\alpha \left[R_{t}-Q(s,a)\right]
ここで、αは学習率( 0  α  1)である。また Rt はシミュレーションによって得られる報酬の総和を未来に得られる分、割り引いたものであり、以下の式で表される。
{\displaystyle R_{t}=r_{t+1}+\gamma r_{t+2}+\gamma ^{2}r_{t+3}+\dotsb =\sum _{\tau =0}^{\infty }\gamma ^{\tau }r_{t+1+\tau }} {\displaystyle R_{t}=r_{t+1}+\gamma r_{t+2}+\gamma ^{2}r_{t+3}+\dotsb =\sum _{\tau =0}^{\infty }\gamma ^{\tau }r_{t+1+\tau }}
ここで rt は時刻 t で得られた報酬であり、γ は割引率(0  γ  1) である。モンテカルロ法はある状態 s から何らかの方策で次の行動を選び、 Rt が収束するまでそれを繰り返した後、V(s) と Q(s, a) を更新するという行動を繰り返して最適な状態および行動を学習する。
統計学
統計学におけるモンテカルロ法の1つとして、ブートストラップ法を参照。
乱数(列)の選択
モンテカルロ法では状況に応じた乱数列の選択が重要である。また、結果の品質には使用する乱数の品質に依るところがある。
擬似乱数列
擬似乱数列は初期状態によって未来の数列がすべて決定されるので、いわゆる「真にランダム」ではないが、シミュレーションなどでは(他に非決定的な要素が無ければ)再現性がある、という重要な特性がある。
物理乱数
真の乱数が必要な場合や、擬似乱数列生成系の初期状態の設定のために良質の乱数が必要な場合は、物理現象を利用して物理乱数(真性乱数)を生成するハードウェアを利用する(ダイオードのPN接合部に生じる熱雑音を利用する方法がよく使われる。放射性元素を使うものもある)。
準乱数
逆に規則性の強い乱数であり、数値積分に用いられる[3]。準乱数を用いたモンテカルロ法を準モンテカルロ法という。準乱数のことを、低食い違い量列と呼ぶこともある。準乱数を数値積分に用いる目的は精度を高めることである。
精度
また、精度の良い結果を得るためには多くの試行回数が必要となる。しかし、1回の試行に膨大な時間がかかる場合、多くの試行を行うことは物理的に不可能となる。そのため、モンテカルロ法の精度は1回の試行に掛かる時間にも制限を受ける。
数値積分の精度はサンプルサイズ N を増やすことによって、よくなることが確率論によって保証されている。サンプルが真にランダムな乱数列だった場合には、積分の値と近似値の誤差
{\displaystyle |I-I_{N}|\,} |I-I_{N}|\,
は、N を無限大にしたときほとんど確実に 0 に収束する(大数の法則)。この収束の速さに関しては、
{\displaystyle |I-I_{N}|C{\sqrt {\frac {\log \log N}{N}}}} |I-I_{N}|C{\sqrt  {{\frac  {\log \log N}{N}}}}
となる(重複対数の法則)。すなわち、精度を10倍にするためには100倍のサンプルが必要となる。
これに対して、準モンテカルロ法では
{\displaystyle |I-I_{N}|C{\frac {(\log N)^{n}}{N}}} |I-I_{N}|C{\frac  {(\log N)^{n}}{N}}
となるので、精度を10倍にするためには約10倍のサンプルでよい。これが、準モンテカルロ法の利点である[3]。 ただし多次元の積分を行う場合には次元 n が大きくなるので実際問題として効果が薄くなり、単純なモンテカルロの方が良い結果を与えることが多い。
脚注
^ Motwani & Raghavan 1995, p. 9.
^ Motwani & Raghavan 1995, p. 10.
^ a b 奥村晴彦 『C言語による最新アルゴリズム事典』 技術評論社、1991年、280-281頁。ISBN 4-87408-414-1。
参考文献
Motwani, Rajeev; Raghavan, Prabhakar (1995). Randomized algorithms. Cambridge University Press. ISBN 0-521-47465-5. MR 1344451. Zbl 0849.68039.

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年10月)
Jan van Leeuwen 編、『コンピュータ基礎理論ハンドブックI アルゴリズムと複雑さ』、廣瀬 健、野崎昭弘、小林孝次郎 監訳、丸善、1994年、ISBN 4-621-03921-0
電気学会 GA・ニューロを用いた学習法とその応用調査専門委員会 編、『学習とそのアルゴリズム』、森北出版、2002年、ISBN 4-627-82751-2
杉原・室田、 数値計算法の数理、岩波書店 2003年、978-4000055185
関連項目
	ウィキメディア・コモンズには、モンテカルロ法に関連するカテゴリがあります。
ブートストラップ法
数値積分
乱数列
メトロポリス法
レプリカ交換法
計算物理学
保険数理
金融工学
乱択アルゴリズム - ラスベガス法
逐次モンテカルロ法
マルコフ連鎖モンテカルロ法
次元の呪い
マルコフ連鎖
ランダム
R言語
GNU Octave
コンピュータ囲碁 - モンテカルロ法を応用した探索法により、レベルが急上昇した。
ビュフォンの針 - モンテカルロ法の考えが適用された古い例。
■
銀星囲碁(ぎんせいいご)は、コンピュータ囲碁のプログラム。2002年には初段の認定を受けた。
思考エンジンは北朝鮮の朝鮮コンピューターセンターが開発したKCC囲碁が元となっている。
目次 
1	足跡
2	シリーズ
2.1	発売元:シルバースタージャパン
2.2	発売元:マグノリア
2.3	発売元:ジャングル
2.4	販売元:ソースネクスト
2.5	販売元:メディアカイト
3	銀星囲碁の主な仕様
4	脚注
5	関連項目
6	外部リンク
足跡
1997年 FOST杯コンピュータ囲碁世界選手権などに「シルバー囲碁 Silver Igo」として出場。ING杯世界コンピュータ囲碁大会では4位となる。
1998年 FOST杯で6勝1敗の成績で優勝。
1999年 FOST杯で7勝1敗の成績で優勝。日本棋院より2級の認定を受ける。
2002年 金島忠九段より初段認定、『世界最強銀星囲碁3』として発売される。
2003年 世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ2003を、7勝1敗で優勝。
2004年 世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ2004を、9勝1敗で優勝。
2005年 世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ2005を、9戦全勝で優勝、3連覇。
2006年 au携帯端末向け「最強銀星モバイル」を開始。
世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ2006を、9戦全勝で優勝、4連覇、公式戦23連勝を記録。
2007年 ニンテンドーDS向け『遊んで囲碁が強くなる 銀星囲碁DS』(発売:エレクトロニック・アーツ)が発売される。
2009年 近年急速に台頭してきたモンテカルロ法による思考エンジンを中盤用に採用した『世界最強銀星囲碁10』が発売される。
第3回UEC杯コンピュータ囲碁大会優勝。
2010年 PlayStation Portable (PSP)向け『銀星囲碁ポータブル』(発売:シルバースタージャパン)が発売される。
2014年 PlayStation Vita向け『銀星囲碁 ネクストジェネレーション』(発売:シルバースタージャパン)が発売される[1]。
2016年 近年急速に台頭してきたディープラーニングのアルゴリズムを取り入れ、アマチュア八段相当とされる『世界最強銀星囲碁17』が発売される。
シリーズ
発売元:シルバースタージャパン
銀星囲碁(1999年4月9日発売)
銀星囲碁 2(2000年9月8日発売)
世界大会(FOST杯)優勝エンジン搭載
小島高穂九段より2級認定を受けた
自動対局ツール搭載
OCR機能搭載
世界最強 銀星囲碁 3(2002年4月18日発売)
金島忠九段から初段認定を受けた
前作までの思考エンジン5種類をすべて搭載
別の手機能・目隠し碁・一色碁・リアルタイム地合い表示機能搭載
世界最強 銀星囲碁 3 感謝特別価格版(2002年11月16日発売)
銀星囲碁3が売上No.1を獲得したことを記念した廉価版
世界最強 銀星囲碁 3 Newスタンダード(2003年2月28日発売)
機能限定の廉価版
世界最強 銀星囲碁 4(2003年6月27日発売)
約10万手の定石データベース・定石エディタを搭載
詰碁問題80問収録
詰碁エンジン・音声エンジン搭載
世界最強 銀星囲碁 4 優勝記念特別版(2003年11月28日発売)
「世界コンピュータ囲碁大会Gifuチャレンジ2003」優勝を記念して国際囲碁大学発行の書籍「史上初世界の覇者 薫鉱 布石学特別講座1-3」3冊をもれなくプレゼント
世界最強 銀星囲碁 4 NEW スタンダード(2004年4月23日発売)
機能限定の廉価版
世界最強 銀星囲碁 5 王座(2004年7月9日発売)
宣伝文句は、「15万手におよぶ定石データ、その定石をカバーする布石データを入力し、アマチュア3・4段に匹敵する序盤を実現」
定石・布石エディタ搭載
盤面を3D化(2Dも選択可能)
詰碁問題100問収録
銀星囲碁研究(2004年11月26日発売)
銀製囲碁5に、詰碁問題を400問・手筋問題を100問・布石問題を100問の計600問をプラス
超高速銀星囲碁(2004年11月26日発売)
銀星囲碁5のエンジンを、平均1手5秒という超高速型に改良(棋力は若干低下)
世界最強 銀星囲碁 6(2005年8月26日発売)
4段階の思考速度、5種類のコンピュータ戦法
一度負けた手順は二度と使わない自動学習機能搭載
詰碁問題200問収録
世界最強 銀星囲碁 6 3年連続優勝記念パワーアップキット(2005年12月16日発売)
世界コンピュータ囲碁大会3連覇を記念して、銀星囲碁 六に流行定石・布石を追加したパワーアップ版
簡単銀星囲碁(2006年3月24日)
銀星囲碁 六の機能限定・高速版(棋力は若干低下)
世界最強 銀星囲碁 7(2006年12月15日発売)
5種類の戦法(一般型/三連星/小林流/中国流/ミニ中国流)、3種類の棋風(一般型/勢力型/実利型)、4段階のレベル(下級/標準/上級/最上級)、4段階の思考時間(無制限/長い/普通/短い)から選択できる
詰碁エンジン搭載
詰碁問題200問・ヨセ問題30問・この手何目問題30問収録
スリムパッケージ版も同日発売
世界最強 銀星囲碁 6 NEWスタンダード(2007年4月27日発売)
機能限定の廉価版
世界最強 銀星囲碁 8(2007年12月21日発売)
超高速銀星囲碁2(2008年10月3日発売)
平均1手5秒という銀星囲碁九の高速改良版(棋力は若干低下)
世界最強 銀星囲碁 7 NEWスタンダード(2008年10月24日)
機能限定の廉価版
世界最強 銀星囲碁 9(2008年12月12日発売)
アルゴリズムに「αβ法」を搭載
マルチコアCPU対応
世界最強 銀星囲碁 10(2009年12月18日発売)
モンテカルロ法を採用。
世界最強 銀星囲碁 8 NEWスタンダード(2010年3月12日)
廉価版
世界最強 銀星囲碁 11(2010年11月26日)
世界最強 銀星囲碁 9 NEWスタンダード(2011年3月18日)
廉価版
世界最強 銀星囲碁 12(2011年12月9日)
世界最強 銀星囲碁 10 NEWスタンダード(2012年3月16日)
廉価版
世界最強 銀星囲碁 13(2012年12月7日)
世界最強 銀星囲碁 14(2013年12月13日)
世界最強 銀星囲碁 15(2014年12月19日)
世界最強 銀星囲碁 16(2016年3月4日)
世界最強 銀星囲碁 17(2016年12月16日)
発売元:マグノリア
ファミリー囲碁(1998年発売)
バリュー囲碁(1999年発売)
世界最強 銀星囲碁 for WindowsCE(2000年3月24日発売)
銀星囲碁のWindowsCE版
2級認定
棋譜記録鑑賞ソフト「PocketGoban」を同梱
世界最強 銀星囲碁 for Macintosh(2000年11月10日発売)
銀星囲碁のMacintosh版
2級認定
ファミリー囲碁 2(2000年発売)
世界最強 銀星囲碁 2 with パワーアップキット(2001年7月発売)
銀星囲碁 2のパワーアップ版
日本棋院1級認定
ファミリー囲碁3 スーパーストロング(2001年11月9日発売)
2級認定
バリュー囲碁 2(2001年12月7日発売)
ファミリー囲碁3 デラックス&ストロング(2002年8月2日発売)
日本棋院1級認定
思考時間は一局を通して平均5分以内
バリュー囲碁 3(2003年5月30日発売)
ファミリー囲碁 4(2004年3月25日発売)
バリュー囲碁 4(2004年6月25日発売)
バリュー囲碁 5(2006年6月16日発売)
IT囲碁(2009年4月27日発売)
銀星囲碁 Premium(2010年4月2日発売)
銀星囲碁 Premium 2(2011年5月20日発売)
銀星囲碁 Premium 3(2012年4月27日発売)
マグノリアから発売しているのは、非モンテカルロの廉価版である。
発売元:ジャングル
世界最強銀星囲碁 Super PLATINUM(2010年7月8日発売)
世界最強銀星囲碁 Super PLATINUM 2(2011年4月21日発売)
世界最強銀星囲碁 Super PLATINUM 3(2012年4月6日発売)
世界最強銀星囲碁 Super PLATINUM 4(2013年4月18日発売)
ジャングルから販売している廉価版である。
販売元:ソースネクスト
世界最強銀星囲碁4 NEWスタンダード(2006年6月30日発売)
ソースネクストは現在、銀星囲碁を販売していない。
販売元:メディアカイト
Great Series 世界最強 銀星囲碁 2(2002年3月8日販売)
Ultra Series 世界最強 銀星囲碁(2002年4月5日発売)
Super1500 ファミリー囲碁 2 (2002年4月19日販売)
Great Series 世界最強 銀星囲碁 2の廉価版
遊遊 世界最強 銀星囲碁 2(2004年2月19日販売)
遊遊 ファミリー囲碁 2(2004年2月19日販売)
おやじの挑戦 囲碁の奥義(2004年11月19日発売)
遊遊 ファミリー囲碁 3 デラックス&ストロング(2005年8月19日発売)
メディアカイトは2007年に破産した。
銀星囲碁の主な仕様
データ:15万手の定石、および布石パターンを格納、詰碁エンジンを搭載。
対局機能:戦法や棋風や、レベルを複数から選択可。
他の機能:自動学習機能、定石・布石エディタ、盤面編集機能・変化図の編集(分岐棋譜の作成)、棋譜OCR・棋譜印刷機能、リアルタイム地合い表示、目隠し碁・一色碁設定、音声認識による対局機能、ネット碁会所接続機能。
脚注
^ “PS Vita向け「銀星囲碁 ネクストジェネレーション」11月27日に発売決定”. 4Gamer.net. Aetas, Inc. (2014年9月2日). 2014年9月3日閲覧。
関連項目
コンピュータ囲碁
最強の囲碁
天頂の囲碁
銀星将棋
外部リンク
シルバースタージャパン
■
最強の囲碁(さいきょうのいご)は、コンピュータ囲碁のソフトウェア。日本のアンバランスから販売されている。
当初は、イギリスのマイケル・リース(Michael Reiss)により開発された思考エンジン「Go++(2003年Go4++から名称変更)」を利用し、2002年に初段の認定を受けた。
「最強の囲碁2011」より、フランスのレミ・クーロン(Remi Coulom)により開発された思考エンジン「CrazyStone」(モンテカルロ法)を搭載し、人気ソフトとなる。
目次 
1	足跡
2	シリーズ
3	関連項目
4	外部リンク
足跡
1997年 思考エンジンGo4++をベースに「最強の囲碁」発売
1999年 Go4++がCGFコンピュータ囲碁大会 優勝
1999年 Go4++がING杯世界コンピュータ囲碁大会 優勝
2001年 Go4++が21世紀杯 優勝
2002年 Go4++が天宇杯 準優勝
2002年 「最強の囲碁2003」が初段認定される
2002年 Go4++が第7回コンピュータオリンピアード囲碁部門九路盤 優勝
2003年 Go++が世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ2003 3位
2005年 Go++が第9回KGSコンピュータ囲碁トーナメント 優勝
2006年 CrazyStoneが第11回コンピュータオリンピアード囲碁部門九路盤 優勝
2007年 CrazyStoneが第1回UEC杯コンピュータ囲碁大会 優勝
2008年 CrazyStoneが第2回UEC杯コンピュータ囲碁大会 優勝
2011年 「最強の囲碁2011」から思考エンジンをCrazyStoneに変更
2013年 3月、CrazyStoneが第6回UEC杯コンピュータ囲碁大会 優勝
2013年 3月、CrazyStoneが第1回電聖戦で置碁の四子局ながら、石田芳夫(二十四世本因坊秀芳)に三目勝ち。石田に「アマ六段くらいの力は十分ある」と評された。
2013年 5月、「最強の囲碁 CrazyStone 優勝記念版」発売。
2014年 3月、第2回電聖戦では、Crazy Stone(第7回UEC杯準優勝)が、置碁の四子局で、依田紀基九段に2目半勝ち。
2015年 1月、「最強の囲碁~名人への道~」発売。
2015年 3月、第3回電聖戦では、Crazy Stone(第8回UEC杯優勝)は、25世本因坊治勲(趙治勲マスターズ)と置碁3子局を打ち、中押し負け。
2016年、ディープラーニングを搭載した「最強の囲碁」新バージョンを発売予定だったが、予定した強さに達しなかったため発売延期。
シリーズ
お父さんのための囲碁(1995年発売)
最強の囲碁(1997年発売)
最強の囲碁 パワーアップ版(1997年発売)
お父さんのための囲碁2
最強の囲碁2(1998年発売)
最強の囲碁2 パワーアップ版
お父さんのための囲碁3
最強の囲碁2のエンジンを搭載
お父さんのための強い囲碁(1999年発売)
お父さんのための強い囲碁弐(1999年発売)
囲碁 1999/2000年度版(1999年12月10日発売)
お父さんのための強い囲碁参(2000年発売)
爆発的1480シリーズ 囲碁(2001年6月22日発売)
最強の囲碁2002(2001年7月13日発売)
1級認定
激戦シリーズ 囲碁 1級認定版(2002年3月1日発売)
お父さんのための強い囲碁四(2002年6月7日発売)
「最強の囲碁2002」のエンジンを強化
爆発的1480シリーズ 囲碁 2(2002年7月19日発売)
POCKET囲碁(PocketPC専用)(2002年8月30日発売)
WindowsCE用
最強の囲碁2003(2002年10月11日発売)
初段認定
超爆発的1980シリーズ+Net 囲碁1級認定版(2003年5月2日発売)
最強の囲碁 2003 特別価格版(2003年8月8日発売)
超爆発的1980シリーズ 強い囲碁四(2003年8月8日発売)
1級認定エンジンを強化
爆発的1480シリーズ 囲碁3(2003年10月13日発売)
最新エンジン搭載
最強の囲碁2004(2004年1月22日発売)
爆発的1480シリーズ 最強の囲碁 初段認定版(2004年6月11日発売)
「最強の囲碁2003」の廉価版
本格的シリーズ 最強の囲碁 特別記念版(2004年8月13日発売)
「最強の囲碁2004」に布石・手筋を大幅強化した最新思考エンジンを搭載し名局データを削除
最強の囲碁2005(2004年12月17日発売)
爆発的1480シリーズ 100万人のための囲碁(2005年7月29日発売)
最強の囲碁2006(2006年4月28日発売)
最強の囲碁2007(2007年4月20日発売)
本格的シリーズ 最強の囲碁 高速思考版(2007年10月12日発売)
「最強の囲碁2007」の思考エンジンを搭載
最強の囲碁2008(2008年4月18日発売)
爆発的1480シリーズ 100万人のための囲碁(2008年11月14日発売)
「初級者レベル」5段階を追加
最強の囲碁2009(2009年4月24日発売)
UCTモンテカルロ法を採用
本格的シリーズ 3D囲碁(2009年4月24日発売)
「最強の囲碁2008」の思考エンジンを搭載
本格的シリーズ 最強の囲碁 ハイブリッド思考版 ~モンテカルロ法との融合~(2010年4月9日発売)
「最強の囲碁2009」の思考エンジンを搭載
爆発的1480シリーズ 100万人のための3D囲碁(2010年4月9日発売)
「本格的シリーズ 3D囲碁」に、「初級者レベル」5段階を追加
最強の囲碁2011(2011年4月22日発売)
モンテカルロ法の「CrazyStone」エンジンを搭載
本格的シリーズ 最強の囲碁 新・高速思考版(2011年7月1日発売)
「最強の囲碁2011」の思考エンジンを搭載
最強の囲碁2012(2012年4月6日発売)
最強の囲碁 CrazyStone 優勝記念版(2013年5月17日発売)
最強の囲碁~名人への道~(2015年1月30日発売)
関連項目
コンピュータ囲碁
天頂の囲碁
銀星囲碁
外部リンク
最強の囲碁 ディープラーニング - アンバランス
■
天頂の囲碁
ジャンル	囲碁
対応機種	Windows 2000/XP/Vista
発売元	毎日コミュニケーションズ
メディア	CD-ROM
発売日	2009年9月18日
必要環境	Intel Pentium3 500MHz以上
メモリ256MB以上
200MB以上のハードディスク
CD-ROMを読み込めるドライブ
ハイカラー以上のディスプレイ
エンジン	Zen
テンプレートを表示
天頂の囲碁(てんちょうのいご)は、2009年9月18日に毎日コミュニケーションズ(後のマイナビ、ゲーム事業はマイナビ出版に分社)から発売されたWindows用コンピュータ囲碁ソフト。PlayStation PortableやPlayStation 3にも移植された。
搭載されている思考エンジン「Zen」はモンテカルロ法を採用しており、対局サイト「KGS」でのテストにより、棋力は初~二段と見積もられた。「Zen」エンジンは2009年5月にスペインで行われた第14回コンピュータオリンピアードの囲碁部門で優勝している。この際、エキシビジョンとして王銘琬九段と八子局で対局して中押し勝ちした[1]。2011年にオランダで行われた第16回大会でも優勝した。
通常の対局のほか、レーティング対局機能などがあり、女流棋士の万波佳奈、万波奈穂姉妹が読み上げの音声を担当している。
2010年8月27日には、天頂の囲碁2が発売された。Windows 7へ対応。前作との自己対戦勝率80%といい、最高棋力三段の棋力設定などが追加された[2]。序盤の布石などの棋風が前作とは多少異なっている。また、終盤にコンピュータが優勢な局面での不自然な打ち回しにも改善が見られる。
2011年9月30日には、天頂の囲碁3が発売。前作との自己対戦勝率76%、最高棋力モードは四段にランクアップされ、「一子強くなった」とふれこんでいる。
2011年12月には、思考エンジン「Zen」が第5回UEC杯コンピュータ囲碁大会で優勝し、鄭銘瑝九段との六子局でのエキシビジョンにも中押し勝ちした。また、2012年3月には思考エンジン「Zen」が武宮正樹九段と対局をして、五子局と四子局で勝利した。
2012年7月27日には、天頂の囲碁4が発売された。前作との自己対戦勝率は76%、最高棋力モードは五段となった。また、前作にあった投了が早すぎるという欠点を改善し、棋力を下げたモードの改良や形勢判断機能の追加も行われている。前作に比べ不自然な着手が減り、より碁盤全体を見た打ち回しになった。
2013年12月13日に、天頂の囲碁5が発売。
2016年6月3日には、天頂の囲碁6が発売された。Zen ver11.4が使用されている。着手の評価にディープラーニング(Policy network)を使用したことにより、前作との自己対戦勝率が95%と大幅な棋力の向上を実現した。最高棋力モードは七段(KGS6dレベル)となり、考慮時間設定にするとPCのスペックに応じてさらに強くなる。
脚注
^ マイコミジャーナル:囲碁ソフト『天頂の囲碁』とプロ棋士の王九段が公開対局、2009年8月11日
^ MYCOM GAME WEB  囲碁 for Windows 天頂の囲碁2: 最高棋力三段、さらに「長考」モード搭載
関連項目
コンピュータ囲碁
最強の囲碁
銀星囲碁
■
対局時計(たいきょくどけい)は、2人ゲームの競技者の持ち時間を表示し、ゲームの時間管理を行なうために使用される特別な時計。チェス・クロックまたはゲーム・クロックとも呼ばれている。

対局時計(アナログ式)
目次 
1	概説
2	詳細
2.1	アナログ式
2.2	デジタル式
2.3	実際の使用
2.4	配置
2.5	小史
2.6	その他
3	注釈
4	出典
5	関連項目
6	外部リンク
概説
囲碁、将棋、チェス、その他のボードゲームの対局時に用いられる。
アナログ式とデジタル式の2種類がある。
1台に2つの時計があって、対局者双方の持ち時間が表示される。自分側のボタンを押すと自分の時計が止まり、それと同時に相手側の時計が動き出すようになっている。
詳細

左が時計A、右が時計B
(上部の左がボタンA、右がボタンB)
	この項目では解説の便宜上、名称を次のように定義します。
デジタル式についても同様とします。
対局時計の向かって左側を「時計A」、右側を「時計B」とする。
その上にあるボタンは、それぞれ「ボタンA」および「ボタンB」とする。
時計Aが先手側、時計Bが後手側にあるものとする。
	あくまで解説のためです。
すべての対局時計が、こう規定されているわけではありません。
アナログ式

対局時計(アナログ式)
時計Aは旗が落ちそうな状態。
時計Bは旗が落ちた状態。
アナログ式は、文字盤の長針と短針によって残り時間(時間の経過)を表示する。
ボタンAとBの両方を「半押し」にすることにより、時計を両方とも止めたままにすることができる。どちらかのボタンが完全に押されるまでは、この状態のままになる。
アナログ式は対局の前に、開始時刻と終了時刻を決めておく必要がある。対局者双方が合意すれば、設定する時刻は何時でも構わない。例えば、それぞれの「持ち時間が90分」で終了時刻は5時とした場合、開始時刻は3時30分に設定される。
通常の時計とは異なり、時計盤の上部に小さな赤色の旗(フラッグ)がついている。この旗は、時計の長針が12の5分前になれば徐々にセリ上がり、12を超えると落ちる。
赤色の旗が落ちることで、時間切れを知らせる[1]。デジタル式とは異なり、旗が落ちても特に音は鳴らない[2]。
右図の時計Aは、旗が落ちそうになっている。あと2〜3分で旗が落ちる。
右図の時計Bは、旗が落ちた状態。
アナログ式では、秒単位のカウントはできない。「1手30秒以内」などの設定は、機種によらず不可能である。
「フィッシャーモード」などの特殊な設定も、アナログ式では不可能である。
アナログ式の動力は、「電池式」か「ぜんまい式」である。電池が切れたり「ぜんまい」を巻かないでいると、時計は両方とも動かなくなる。
「ぜんまい式」の特徴の一つに、稼動音があげられる。機種によって違いはあるが、常時「チッチッチッチッ」という音が鳴り続ける。
デジタル式

対局時計(デジタル式)
デジタル式の表示装置により、残り時間(時間の経過)を表示する。
デジタル式はアナログ式とは異なり、持ち時間を直接設定できる。例えば「持ち時間90分」の場合は「01:30」をそのまま入力すればよく、開始時刻や終了時刻などを考える必要はない。
どちらかが時間切れになれば、表示画面はゼロ(「0」「0:00」)やマイナス(「-」)などになる。
時間切れになると、「ビーッ!」という音で勝負がついたことを知らせる[3]。時間切れになってしまう直前に、何らかの警告音を鳴らす機種も多い。
デジタル式の動力は、ほとんどが電池になっている。使用される電池は、時計の機種により多種多様である。電池が切れると、当然時計は動かなくなる。
対局時計自体も、その価格や製作時期によって機能に様々な違いがある。すべてのデジタル式の対局時計で、フィッシャーモードなどの特殊な設定が可能とは限らない。
デジタル式は、どの製品も基本的に無音である。アナログ式のような、「チッチッチッチッ」という音はしない。ただし、時間経過を告げる音が設定できる機種もある。(例:5分経過するごとに「ピッ」。)
時間が少なくなった場合には、人の声による秒読み機能がついているものもある。多くは棋士が秒読み音声を担当しているが、声優の声が使用されているものもある。
実際の使用
あらかじめ対局時間を設定する。公式戦では先手と後手は同じ持ち時間になるが、非公式戦で実力に差があればハンデキャップも設定できる。(例:先手は60分、後手は30分。)
対局開始の合図と同時に後手がボタンBを押すことで、対局時計のカウントが開始される[4]。
手を指した後に、自分側のボタンを押すことによって相手側のカウントが始まる。以後、これを交互に繰り返す。
対局者のどちらかが設定された制限時間を超過すると、その対局者は時間切れで負けとなり対局は終了する。
配置

1960年 フィッシャー vs タリ
対局時計は、盤(碁盤、将棋盤、チェスボードなど)の右側または左側に配置される。公平を期すため、先手からも後手からも等間隔になる場所と決められている。
盤の左右どちらに置くかは、重要なポイントになる。例えば持ち時間が残り少なくなった場合、ボタンが利き手に近い対局者が(わずかでも)有利となる。
通常は対局前に、後手が有利になるよう配置される。ただし、左利きの対局者もいるので、どちらに置くべきかは一定しない。
チェスの公式戦の場合は、審判員(アービター)が対局時計の置き場所を決定する。
右図は1960年に行われた、チェスオリンピックの対局から。アメリカ代表のボビー・フィッシャーが、旧ソ連の世界チャンピオンであるミハイル・タリと対局している。ここでは対局時計は、黒(後手)の右側に配置されている。
小史
チェスの対戦者の考慮時間を公平にするため、昔は砂時計が使用されていた。自分の手番が終わると時計を逆さまにして、砂が落ちきったら負けとされていた。
1866年 アンデルセンvsシュタイニツの試合で、2つのストップウォッチが使用された。立会人がそれぞれの一手ずつの消費時間を記録し、それを合計するというものだった。これは立会人の手加減が入り、いつも揉めごとになっていた。
イギリスで対局専用の時計が考案され、現在の対局時計の原型となった。二つの振子時計をシーソー型に連結し、一方の時計の振子が動いている間、もう片方は休むという簡単な構造だった。
1883年 ロンドンの国際競技会で、最初の対局時計が使用された。
1884年 イギリスの時計会社が、対局時計に関してのパテントを取得した。
1989年 世界で初めてデジタル式の対局時計が登場した。これは日本製の、シチズン対局時計「名人」である。
その他

対局時計(デジタル式)
公正を図るために、「着手に用いる手とボタンを押す手は同じでなくてはならない」とする規定もある[5][6]。不慣れなアマチュアの場合、両手を使用すると正確な時間が計れなくなることや、勢い余って着手以前に時計を押してしまうケースもあるためである。
プロの公式戦では、ゲームによって対局時計の取扱いに若干の違いがある。
囲碁: 対局によって、対局者が管理する場合と記録係が管理する場合がある。
将棋: 基本的に記録係が管理する。ボタンも一手一手記録係が押す事になっている。
チェス: たとえ世界チャンピオン同士の対局でも、双方の対局者自身がボタンを押す。
注釈
^ チェスの対局では、時間が超過した際に「フラッグ!」と宣言することで、対戦相手や審判員に時間切れを伝える。これはデジタル式が一般になった現在でも慣用表現として残っている。
^ 一度ベルが鳴るタイプもある
^ これも機種によって様々な違いがある。まったくブザーが鳴らない機種や、ブザーの切り替え(ON/OFF)が可能な機種、更にボリュームの調節までできる機種もある。
^ この行為は、記録係や審判が行う場合もある。
^ 日本将棋連盟 『将棋ガイドブック』
^ 日本チェス協会 「日本チェス規約 (PDF) 」
出典
(囲碁)日本棋院 対局時計
シチズン 「ザ・名人戦」 (お知らせ)
『最新 図解チェス 必勝の手筋』 松本康司・監修 渡井美代子・著 日東書院 ISBN 4-528-00853-X
『はじめてのチェス』 渡井美代子・著 成美堂出版 ISBN 4-415-02549-8
『挑戦するチェス』 権田源太郎・著 中央公論事業出版 ISBN 4-89514-159-4
『ヒガシ コウヘイのチェス入門 定跡編』 東公平・著 河出書房新社 ISBN 4-309-26001-2
関連項目
持ち時間
チェスボード
棋譜
外部リンク
	ウィキメディア・コモンズには、対局時計に関連するカテゴリがあります。
日本チェス協会
日本将棋連盟
日本棋院 囲碁公式ホームページ
日本オセロ連盟
日本バックギャモン協会
■
大斜定石(たいしゃじょうせき)は囲碁の定石に付けられた俗称の一つで、目外しへのカカリから発生する定石を指す。派生する変化型が多く、複雑な戦いになることから、大斜百変、大斜千変とも呼ばれる、難解定石の代表的なもの。天保頃より特に研究が進み、現代でも多くの変化が生まれ続けている。
また、小目への小ゲイマガカリに三間バサミした場合も、大斜定石となる余地がある。
なお、本来「斜」はケイマを指す語で、「大斜」は大ゲイマに打つ手全般を意味する言葉であるが、単に「大斜」と言う場合でもこの目外しからの大ゲイマガケ定石を指すことが多い。
目次 
1	基本型
2	代表的な図
2.1	ナラビ
2.2	下ツケ
2.3	コスミツケ
2.4	トビツケ
2.4.1	下ツギ
2.4.2	上ツギ
2.5	手抜き
3	小目三間バサミでの大斜ガケ
4	囲碁史上の大斜
4.1	井上門の秘手
4.2	耳赤の局
4.3	高川のコウ材
4.4	石田、大斜でハメる
4.5	依田名人4連覇
5	参考文献
基本型
基本形は、目外しへの小目へのカカリに対して、黒△(図1)のところに打つ形で、この△の手を大斜ガケと言う。
図1
この後の変化の中で、戦い含みの大型定石に発展するものも多く、その後の戦いには他の隅の配石も大きく関わってくるため、周囲の状況に応じた着手を選択しないと全局的に不利となる。黒の立場では、周囲に自分の強い形がある場合に特に効果を発揮する。
白の一般的な応手としては、図2のa、b、c、dがあり、特にdからの変化が多く、ここからの変化を指して大斜定石と呼ぶことも多い。
図2
この他、小目へのケイマガカリ(目外しの位置)に対する三間バサミに対して大斜ガケが打たれることも多く、これも大斜定石の一部として扱われている。
代表的な図
ナラビ
ナラビ(白△、図3)と応じた場合は、黒1、白2で一段落し、黒はこの後上辺に展開するのが一般的。この形は変化が少なく、白からは最もマギレの無い形であるが、黒から大斜でなくケイマガケ(黒1の右)に打って白△、黒1の右下、白2と進む定石に比べると黒の形に弱点がなく、黒に不満の無い進行と言える。本因坊秀和、秀策の碁では、このナラビ型で打った碁が多くある。
図3
下ツケ
下ツケ(白△、図4)と応じた場合、黒はa、bの応手がある。
図4
黒a(図5の黒1)の場合、以下白2、黒3、白4となり、穏やかな別れとなる。ほぼ互角の進行と考えられるが、これも黒からケイマガケする定石に比べると白が一本多く這っているところに、黒の満足がある。
図5
黒b(図6の黒1)の場合、以下白2、黒3、白4、黒5、白6などの進行が考えられ、比較的穏やかな分かれであるが、白は陣笠の愚形であり、損を先にする点に不満を感じる可能性はある。
図6
コスミツケ
コスミツケ(白△、図7)に対しては、黒1が普通であり、それに対して白はaとbの選択肢がある。どちらの場合も、白の実利、黒の勢力という別れになる。また白△に対して黒aと打てば、黒が一間バサミして白△とする定石と同型となる。
図7
トビツケ
トビツケ(白△、図8)に対しては、黒1、白2、黒3まではほぼ必然で、続いて白a(下ツギ)と、白b(上ツギ)の変化がある。
図8
下ツギ
下ツギ(白△、図9)に対しては、黒1の一手で、白2、黒3、白4までが自然な流れ。
図9
続いて黒からは、a、b、cの3通りの打ち方があり(図10)、それぞれに膨大な変化があり、定石化されている。
図10
中でも、黒5〜黒11などに進むのが比較的よく打たれる定石(図11)。部分的には互角だが、上辺左方に黒石がある場合には白が苦しい戦いになる。
図11
※白10(6の2路下)
また黒7の手では、他にも多くの選択肢があり、中にはハメ手含みのものもある。
黒1の時に白2にアテ返す手は、上の定石が不利となる場合の手段で、以下黒9までも定石化された手順だが(図12)、通常は黒ややよしとされる。
図12
※白6(1の上)、白8(1)
上ツギ
上ツギ(白△、図13)は、白のシチョウ有利が前提で、黒1から7まで定石で、部分的には黒の実利が大きいと見られるが、白先手であり、周囲とのバランスで有力である。
図13
手抜き
黒の大斜ガケに対して、白は手抜きも有力な手法である。白が手抜きをしても、黒からもう1手で隅の白を取り切る手が無いため、ここを黒からもう1手連打されても、白としては利かしと見ることもできる。
小目三間バサミでの大斜ガケ
小目に対してコゲイマガカリして、三間にはさまれた時に、大斜ガケするのもある手で、ハサミが無い場合と似た経過を辿ることが多い。
図14
高い三間バサミの場合の変化は、昭和50年代に三間高バサミが流行しだしてから研究された形。一例として黒9と愚形に下がるのが面白い手で、この他にも多くの変化があるが、未完成定石の分野となっている。
図15
囲碁史上の大斜
井上門の秘手
本因坊丈和が名人位に就いた後の天保6年(1835年)、丈和追い落としを策する井上幻庵因碩が弟子の赤星因徹(先)を丈和に向かわせた一局。右上隅で三間バサミから大斜形が生じたが、33手目の黒1、白2、黒3が井門の秘手として研究されていた手で、序盤は黒有利に進むが、丈和が逆転勝利し、結核を病んでいた因徹は投了と同時に吐血し、1ヶ月後に世を去った。(因徹吐血の局)
耳赤の局
本因坊秀策18歳時の井上幻庵因碩との対局として著名な「耳赤の局」でも、幻庵は大斜の新型を繰り出している(弘化3年,1846年)。この時の手順は互角の分かれとなり、現代においても定石とされている。
高川のコウ材
1956年の呉清源-高川秀格十番碁で、既に高川は先相先に打ち込まれた後の第9局。黒番高川は左下の黒の厚みを背景に左上で大斜をしかける。白は戦いを避けてアテ返しの定石に進もうと下図で白△にアテるが、黒は左下にコウ材ありとみて黒aと切り、以下白b抜き、黒cのコウ材、白コウツギ(d)、黒eの振り替わりとなった。高川は本局、第10局と連勝し、通算成績を4勝6敗で終える。
石田、大斜でハメる
1978年、本因坊戦七番勝負第2局の加藤正夫本因坊(黒)-挑戦者石田芳夫(白)戦では、左下隅で白の目外しへの黒のカカリから大斜定石となったが、右下で白△が狙いの手で、下辺と右下の黒がカラミとなる白の理想的な進行。ここで白は優勢となったが、その後黒が逆転勝ち。七番勝負最終局でも石田は優勢な碁を落とし、1975年以来の本因坊復位はならなかった。
依田名人4連覇
2003年、名人戦七番勝負第1局、依田紀基名人(黒)-挑戦者山下敬吾(白)戦では、白は左上の勢力を背景に左下隅で大斜ガケし、黒も戦いを回避して上ツギ定石を選択、さらに図の局面で通常は黒aと抜くところ黒△に打つなど工夫を凝らし、白の勢力の働きを制限して勝利。七番勝負も4-1で制して名人戦4連覇を達成。
参考文献
山部俊郎 『新しい大斜定石 ゴ・スーパーブックス 』日本棋院 1970年
山部俊郎 『定石の魔術』 日本棋院 1972年
石田芳夫 『大斜大作戦』 土屋書店 1993年
相場一宏、福井正明 『碁界黄金の十九世紀(第16回)』(「碁ワールド」誌 2003年10号)
結城聡『決定版 大斜・村正・大ナダレ』誠文堂新光社 2009年
■
原爆下の対局(げんばくかのたいきょく)は、1945年(昭和20年)8月6日に行われた囲碁の第3期本因坊戦第2局のこと。対局者は橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫七段(いずれも当時)。この対局は広島市郊外の佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区吉見園)において行われた。対局中にアメリカ軍の広島市への原子爆弾投下があり、対局者が被爆したことで知られる。原爆対局(げんばくたいきょく)、原爆の碁(げんばくのご)ともいう。
対局が行われていた五日市町吉見園は爆心地から5キロメートルほど離れていたものの、爆風により障子襖などが破壊され対局は一時中断された。混乱はあったが午前中に対局は再開され、原爆投下当日中に終局して白番の橋本本因坊の五目勝となった。
目次 
1	経緯
1.1	背景
1.2	原爆投下
1.3	原爆対局の後
2	参考文献
3	関連項目
経緯

被爆直前の広島市中島町の模型 - 東(右側)の元安川に架かる元安橋と西(左側)の本川に架かる本川橋の2橋を結ぶ中島本通の中ほどに見える、奥行きのある縦長の建物が藤井商事の社屋である。第一局はこの社屋に隣接する別邸で開催された。ここに見える建造物は爆心地(元安橋東詰よりやや北東方面)から至近距離にあり、すべて原爆により壊滅している。
背景
1939年(昭和14年)に世襲制が廃止され選手権制になった本因坊戦は、当時の日本の囲碁界の最も権威ある、唯一のタイトル戦であった。この頃は、本因坊戦挑戦手合は、2年に1度行われていた。
第3期本因坊戦は、1943年の第2期本因坊戦で、第1期本因坊であった関山利一(本因坊利仙)七段に勝ち、第2期本因坊の座についた橋本宇太郎七段(本因坊昭宇)に対し、岩本薫七段が挑戦する形で、1945年(昭和20年)、太平洋戦争末期の困難な社会情勢のなかで行われた。このとき日本棋院の東京本院は、1945年5月25日の東京大空襲により、既に焼失している。
地元広島に疎開していた橋本本因坊の師である瀬越憲作八段は、「本因坊の灯を消してはならない」と第3期本因坊戦を広島で開催することを考え、日本棋院の藤井順一広島支部長(貿易商藤井商事の社長)の協力を得て、本川に面した広島市内の藤井の別邸(中島本町/現平和公園内)で六番勝負全局の対局を行うことを決定し、橋本本因坊、岩本七段ともに了承した。
第一局は、7月23日、24日、25日の3日間で行われ、挑戦者岩本七段の白番5目勝ちであった。対局前日、広島市内での対局は危険であるとして、青木重臣中国地方総監府勅任参事官兼第一部長(前広島県警察部長。第一部長は内務省関係の担当。青木一男元大東亜大臣の弟)は、記録係を勤めた三輪芳郎五段(橋本本因坊の弟子)を呼び、「対局が行われる前に警察に電話せよ。職権で中止させる」旨命じられていた。これを聞いた立会人をつとめた瀬越八段は「電話をすれば、君は碁界を去らねばならない」と三輪五段に伝えたという。対局日には青木参事官が出張したという偶然もあり、対局中止という事態は避けられたが、対局中、グラマン戦闘機の機銃掃射が対局場の屋根に当たるなど、無事に行われるという状況ではなかった。
出張から戻った青木参事官は、第二局は市内での対局を避けて欲しいとして、中国石炭の津脇勘市社長に依頼して、広島市から10キロほど郊外の、佐伯郡五日市町吉見園(現広島市佐伯区吉見園)にある同社の寮を代替の対局場として提案した。
今度は瀬越八段も断りきれず、また、橋本本因坊も危険な場所での対局は嫌だといったことから、岩本七段が藤井支部長に対局場の変更を申し入れ、藤井支部長も渋々同意し、第二局は、中国石炭の寮で8月4日、5日、6日の3日間で行われることになった。なお、藤井支部長は対局用に疎開先から運んできた食料等を、全て新対局場に提供した。
原爆投下
対局3日目の8月6日、午前8時15分、局面は106手目頃であった。この日の対局が始められた直後に(前日までの手順を並べなおした直後という話もある)、アメリカ軍の爆撃機B-29、エノラ・ゲイが投下した原子爆弾が炸裂した。ピカッという光線と大音響がし、爆風で障子襖が倒れ、碁石は飛び、窓ガラスは粉々になったと言われる。橋本昭宇本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたという。岩本薫の回顧録によれば、
「いきなりピカッと光った。それから間もなくドカンと地を震わすような音がした。聞いたこともない凄みのある音だった。同時に爆風が来て、窓ガラスが粉々になった。(中略)ひどい爆風で私は碁盤の上にうつ伏してしまった(以下略)」
立会人・瀬越は驚くべきことに、端然と床の間を背に正座したままであったという(後に本人は、「腰が抜けて動けなかっただけだ」と語った)。
対局は一時中断されたが、部屋を清掃した後ほどなく再開された。両対局者に動揺はあったものの最後まで打ち切り、同日正午ごろに終局。白番の橋本本因坊の五目勝となった。
この原爆で、第一局を開催した広島支部の藤井支部長の家族や関係者は全員死亡し、瀬越憲作八段の三男と甥も亡くなった。なお青木参事官は奇跡的に助かり、後に民選初代の愛媛県知事に就いているが、この対局場の変更を当時の広島で行った良いことの二つのうちの一つに挙げている。
原爆対局の後
翌日から橋本本因坊、岩本七段ともに広島市に入り、関係者の消息を尋ねており、元々3日空けて第三局を打つ予定であったが、これ以上広島での対局が困難であること、瀬越八段の中学生の三男の死期が近かったことから、対局は中止とし、橋本本因坊と三輪五段は関西へ、岩本七段は郷里の島根へと帰った。東京の日本棋院では両対局者とも死亡したと思われていたが、2週間ほどして三輪五段が到着して経緯を報告した。
第三局は4ヶ月後の1945年11月11、12、13日に、第四局は11月15、16、17日に千葉県野田市で打たれ、1勝1敗であった。第五局は11月19、20、21日に、第六局は11月22、23、24日に東京の目黒で打たれた。二週間で三日制の碁を4局打つというのは、現代では考えられない強行日程である。まして当時は食糧事情も最悪の時期であった。結果は1勝1敗であった。本因坊の座は規定で日本棋院預りとなり、改めて翌年8月に高野山にて三番勝負が実施され、岩本薫七段が2連勝して第3期本因坊の座についた(高野山の決戦)。なお、被爆死した関係者の慰霊のため、決定三番勝負第一局の二手のみ7月26日に五日市町の西隣の廿日市町(現廿日市市)の蓮教寺で打たれている。
立会人瀬越は1972年に83歳で、橋本宇太郎は1994年に87歳で、岩本薫は1999年に97歳で、いずれも長寿を保って亡くなっている。
なお、岩本薫の基金で1995年に建てられたシアトルの日本棋院囲碁センターの壁には、原爆対局の棋譜がタイル張りで飾られている。
参考文献
瀬越憲作『囲碁一路』産業経済新聞社 1956年
岩本薫『囲碁を世界に(本因坊薫和回顧録)』講談社 1979年
橋本宇太郎『囲碁専業五十年』至誠堂 1972年
井口昭夫『本因坊名勝負物語』三一書房 1995年
中山典之『昭和囲碁風雲録』岩波書店 2003年
関連項目
本因坊
日本棋院
中島町 (広島市)
五日市町 (広島県)
■
大局観(たいきょくかん)とは、囲碁、将棋、チェスなどのボードゲームで、的確な形勢判断を行う能力のこと。
概要
ボードゲームに置いて、部分的なせめぎ合いにとらわれずに、全体の形の良し悪しを見極め、自分が今どの程度有利不利にあるのか、堅く安全策をとるか、勝負に出るかなどの判断を行う能力のこと。
大局観に優れると、駒がぶつかっていない場所から意表を突く攻めを行うなど、長期的かつ全体的な視野のもと手を進めることが可能となる。反対に大局観が備わっていなければ、盤上の一部での駒のぶつかり合いや、短期的な駒の損得しか考えられなくなる。多分に直感的なもので、コンピュータでは完全な再現は難しく、駒の位置関係を点数化するなどして擬似的に再現している。
チェス用語ではStrategyが類似した考えである(戦法はTactics)。大局観の英訳は通常「perspective」が当てられる[1]が、チェスからの援用で「Strategy」が用いられる事もある(将棋のStrategyとTactics)。
比喩
転じて、物事の全体像(俯瞰像)をつかむ能力のことを「大局観」または「大局」と呼ばれる。
脚注
^ 大局観の英語・英訳 - 英和辞典・和英辞典 Weblio辞書
■
タイゼム(Tygem)は、インターネットによるネット碁のシステム。韓国の東洋オンライン社が運営する。2004年に設立。韓国、日本、中国向けのサイトがある。対局システムの他に、ネット碁による棋戦、囲碁講座、その他各種のイベントを運営している。日本語版では関西棋院公式ネット「関棋ネット」も運営していた。
2004年に韓国棋院の棋士曺薫絃、李昌鎬、劉昌赫などの呼びかけに応じて、東洋グループ、中央日報、DACOMなどによって設立された。
2008年7月にサイトの名称を「東洋囲碁」に改称することが発表された。2009年2月現在、タイゼムと東洋囲碁の公式サイトが併存しているが、接続する対局室は共通である。
目次 
1	主なサービス
1.1	ネット対局
1.2	ネット棋戦
2	関棋ネット
3	外部リンク
主なサービス
ネット対局
無料と有料の会員制度がある。
懸賞対局
プロ棋士など高段者の対局で、観戦者が勝敗予想して、ポイントを懸賞として賭けることができる制度。LG杯など、国際棋戦の対局中継で行われる場合もある。
ネット棋戦
東洋生命杯タイゼム囲碁オープン戦
韓国、日本、中国のプロ棋士の3人一組16チームによる対抗戦
東洋総合金融証券杯
第2回までは「タイゼム王中王戦」として、予選を勝ち抜いた韓国、日本、中国3カ国の計32名のプロ棋士よるトーナメント戦
第3回は「日韓中3カ国対抗戦」として、予選を勝ち抜いた韓国、日本、中国3カ国の各5名のプロ棋士よるトーナメント戦
日韓スター棋士対抗戦
日韓32人のプロ棋士によるトーナメント 第1期は日本勢が優勝した。
全日本学生囲碁名人戦
1978年から2002年の第24回まで行われていた学生囲碁名人戦を、インターネット対局により2007年から再開するもの。
関棋ネット
関西棋院棋士による囲碁教室、指導碁、棋譜診断、棋士の対局のLIVE中継などを行っていた。
外部リンク
韓国語版
日本語版(タイゼム)
日本語版(東洋囲碁)
■
囲碁のタイトル在位者一覧は、日本国内棋戦七大タイトルの歴代在位者一覧であり、1941年の本因坊戦創設から現在までを網羅する。
BYR color wheel.svg	この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。
目次 
1	表記上の注意
2	一覧
3	七大タイトル獲得数
4	年代別優勝ランキング
5	関連項目
表記上の注意
5期以上のタイトルを獲得した棋士の名前には着色している。
同一タイトル4連覇以上を達成した棋士、初のタイトル獲得、それぞれのタイトルの最年少保持記録は備考に入れている。
名誉称号資格を獲得した棋士は備考に入れている。
一覧
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	
1941年
(昭和16)			関山利一					本因坊戦創設、関山利一初のタイトル保持者
1942年
(昭和17)								
1943年
(昭和18)			橋本宇太郎					橋本宇太郎新本因坊(初タイトル)
1944年
(昭和19)								
1945年
(昭和20)			岩本薫					岩本薫新本因坊(初タイトル)
1946年
(昭和21)								
1947年
(昭和22)			岩本薫					岩本薫初のタイトル防衛
1948年
(昭和23)								
1949年
(昭和24)								
1950年
(昭和25)			橋本宇太郎					本因坊戦1年1期制に
1951年
(昭和26)			橋本宇太郎					
1952年
(昭和27)			高川格					高川格新本因坊(初タイトル)
1953年
(昭和28)			高川格			橋本宇太郎		王座戦創設
1954年
(昭和29)			高川格			高川格		高川格史上初の二冠
1955年
(昭和30)			高川格			橋本宇太郎		
1956年
(昭和31)			高川格			橋本宇太郎		高川格二十二世本因坊資格・初の5連覇・初の名誉資格
1957年
(昭和32)			高川格			島村俊廣		島村俊廣新王座(初タイトル)
1958年
(昭和33)			高川格			藤沢朋斎		藤沢朋斎新王座(初タイトル)
1959年
(昭和34)			高川格			橋本昌二		橋本昌二新王座(初タイトル)
1960年
(昭和35)			高川格			半田道玄		高川格本因坊9連覇、半田道玄新王座(初タイトル)
1961年
(昭和36)			坂田栄男			坂田栄男		坂田栄男新本因坊(初タイトル)
1962年
(昭和37)		橋本宇太郎	坂田栄男		藤沢秀行	宮下秀洋		名人戦創設、十段戦創設、宮下秀洋新王座、藤沢秀行新名人(初タイトル)
1963年
(昭和38)		半田道玄	坂田栄男		坂田栄男	坂田栄男		坂田栄男史上初の名人本因坊・史上初の三冠
1964年
(昭和39)		藤沢朋斎	坂田栄男		坂田栄男	坂田栄男		高川格二十二世本因坊襲名
1965年
(昭和40)		高川格	坂田栄男		林海峰	半田道玄		坂田栄男二十三世本因坊資格、林海峰新名人(初タイトル)
1966年
(昭和41)		坂田栄男	坂田栄男		林海峰	坂田栄男		
1967年
(昭和42)		坂田栄男	坂田栄男		林海峰	藤沢秀行		坂田栄男本因坊7連覇
1968年
(昭和43)		坂田栄男	林海峰		高川格	藤沢秀行		王座戦挑戦手合に移行
1969年
(昭和44)		大竹英雄	林海峰		林海峰	藤沢秀行		大竹英雄新十段(初タイトル)
1970年
(昭和45)			林海峰		藤沢秀行	坂田栄男		十段戦行われず
1971年
(昭和46)		橋本宇太郎	石田芳夫		林海峰	坂田栄男		石田芳夫新本因坊(初タイトル)・最年少本因坊
1972年
(昭和47)		坂田栄男	石田芳夫		林海峰	坂田栄男		
1973年
(昭和48)		坂田栄男	石田芳夫		林海峰	林海峰		
1974年
(昭和49)		橋本昌二	石田芳夫		石田芳夫	石田芳夫		
1975年
(昭和50)		林海峰	石田芳夫		大竹英雄	大竹英雄	藤沢秀行	天元戦創設、石田芳夫二十四世本因坊資格
1976年
(昭和51)		加藤正夫	武宮正樹	加藤正夫	大竹英雄	趙治勲	小林光一	新名人戦開始、碁聖戦創設、加藤正夫新十段、武宮正樹新本因坊、趙治勲新王座・最年少王座
小林光一新天元(初タイトル)
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	備   考
1977年
(昭和52)	第1期
藤沢秀行	第15期
加藤正夫	第32期
加藤正夫	第2期
加藤正夫	第2期
林海峰	第25期
工藤紀夫	第3期
島村俊廣	棋聖戦創設、工藤紀夫新王座(初タイトル)
1978年
(昭和53)	藤沢秀行	加藤正夫	加藤正夫	大竹英雄	大竹英雄	石田芳夫	加藤正夫	
1979年
(昭和54)	藤沢秀行	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	大竹英雄	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫史上初の四冠、十段4連覇
1980年
(昭和55)	藤沢秀行	大竹英雄	武宮正樹	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	加藤正夫	天元戦挑戦手合に移行
1981年
(昭和56)	藤沢秀行	大竹英雄	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	橋本昌二	加藤正夫	藤沢秀行名誉棋聖資格、加藤正夫天元4連覇
1982年
(昭和57)	藤沢秀行	趙治勲	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	藤沢秀行棋聖6連覇、片岡聡新天元(初タイトル)
1983年
(昭和58)	趙治勲	加藤正夫	林海峰	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	趙治勲史上初の大三冠
1984年
(昭和59)	趙治勲	小林光一	林海峰	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	石田芳夫	王座戦三番勝負から五番勝負に移行
趙治勲名誉名人資格、大竹英雄名誉碁聖資格
1985年
(昭和60)	趙治勲	小林光一	武宮正樹	大竹英雄	小林光一	加藤正夫	小林光一	大竹英雄碁聖6連覇
1986年
(昭和61)	小林光一	小林光一	武宮正樹	趙治勲	加藤正夫	加藤正夫	小林光一	加藤正夫名誉王座資格
1987年
(昭和62)	小林光一	加藤正夫	武宮正樹	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	趙治勲史上初のグランドスラム
1988年
(昭和63)	小林光一	趙治勲	武宮正樹	小林光一	小林光一	加藤正夫	趙治勲	武宮正樹本因坊4連覇
1989年
(平成元)	小林光一	趙治勲	趙治勲	小林光一	小林光一	加藤正夫	林海峰	加藤正夫王座8連覇
1990年
(平成2)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	羽根泰正	林海峰	小林光一名誉棋聖資格、羽根泰正新王座(初タイトル)
1991年
(平成3)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	藤沢秀行	林海峰	
1992年
(平成4)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	藤沢秀行	林海峰	小林光一名誉名人資格・名誉碁聖資格、藤沢秀行最年長タイトル保持者(67歳)、
初めて7大タイトル全てが防衛される
1993年
(平成5)	小林光一	大竹英雄	趙治勲	小林光一	小林光一	加藤正夫	林海峰	趙治勲二十五世本因坊資格、林海峰名誉天元資格
小林光一棋聖8連覇・碁聖6連覇・3タイトル同時6連覇(史上唯一)
1994年
(平成6)	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	林海峰	小林光一	趙治勲	柳時熏	小林光一名人7連覇、柳時熏新天元(初タイトル)
1995年
(平成7)	小林覚	依田紀基	趙治勲	小林覚	武宮正樹	王立誠	柳時熏	小林覚新棋聖、依田紀基新十段、王立誠新王座(初タイトル)
1996年
(平成8)	趙治勲	依田紀基	趙治勲	依田紀基	趙治勲	柳時熏	柳時熏	
1997年
(平成9)	趙治勲	加藤正夫	趙治勲	依田紀基	趙治勲	山田規三生	工藤紀夫	山田規三生新王座(初タイトル)
1998年
(平成10)	趙治勲	彦坂直人	趙治勲	依田紀基	趙治勲	王立誠	小林光一	趙治勲本因坊10連覇(同一タイトル連覇記録)・大三冠3連覇
彦坂直人新十段(初タイトル)
1999年
(平成11)	趙治勲	小林光一	趙善津	小林光一	趙治勲	王立誠	小林光一	趙治勲棋聖4連覇・名人4連覇、趙善津新本因坊(初タイトル)
2000年
(平成12)	王立誠	小林光一	王銘琬	山下敬吾	依田紀基	王立誠	柳時熏	王銘琬新本因坊、山下敬吾新碁聖(初タイトル)・最年少碁聖
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	備   考
2001年
(平成13)	王立誠	王立誠	王銘琬	小林光一	依田紀基	趙治勲	羽根直樹	羽根直樹新天元(初タイトル)
2002年
(平成14)	王立誠	王立誠	加藤正夫	小林光一	依田紀基	王銘琬	羽根直樹	
2003年
(平成15)	山下敬吾	王立誠	張栩	依田紀基	依田紀基	張栩	羽根直樹	依田紀基名人4連覇、張栩新本因坊(初タイトル)
2004年
(平成16)	羽根直樹	王立誠	張栩	依田紀基	張栩	張栩	山下敬吾	王立誠十段4連覇
2005年
(平成17)	羽根直樹	趙治勲	高尾紳路	依田紀基	張栩	張栩	河野臨	高尾紳路新本因坊、河野臨新天元(初タイトル)
2006年
(平成18)	山下敬吾	趙治勲	高尾紳路	張栩	高尾紳路	山下敬吾	河野臨	
2007年
(平成19)	山下敬吾	趙治勲	高尾紳路	張栩	張栩	山下敬吾	河野臨	
2008年
(平成20)	山下敬吾	高尾紳路	羽根直樹	張栩	張栩	張栩	張栩	平成四天王がタイトル独占
2009年
(平成21)	山下敬吾	張栩	羽根直樹	張栩	井山裕太	張栩	山下敬吾	井山裕太新名人(初タイトル)・最年少タイトル保持者・最年少名人、張栩史上初の五冠
山下敬吾棋聖4連覇、張栩碁聖4連覇
2010年
(平成22)	張栩	張栩	山下敬吾	坂井秀至	井山裕太	張栩	結城聡	坂井秀至新碁聖、結城聡新天元(初タイトル)
2011年
(平成23)	張栩	井山裕太	山下敬吾	羽根直樹	山下敬吾	張栩	井山裕太	張栩王座4連覇、井山裕太最年少天元
2012年
(平成24)	張栩	井山裕太	井山裕太	井山裕太	山下敬吾	井山裕太	井山裕太	
2013年
(平成25)	井山裕太	結城聡	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太史上初の六冠・最年少棋聖
2014年
(平成26)	井山裕太	高尾紳路	井山裕太	井山裕太	井山裕太	村川大介	高尾紳路	村川大介新王座(初タイトル)
2015年
(平成27)	井山裕太	伊田篤史	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	伊田篤史新十段(初タイトル)・最年少十段・入段からタイトル獲得までの年数最短(6年0か月)
2016年
(平成28)	井山裕太	第54期
井山裕太	第71期
井山裕太	第41期
井山裕太	第41期
高尾紳路	第64期
井山裕太	第42期
井山裕太	井山裕太棋聖4連覇、史上初の七冠独占達成(十段戦)、井山二十六世本因坊資格、名誉碁聖資格
2017年
(平成29)	第41期
井山裕太	井山か
余	井山か
本木					井山裕太名誉棋聖資格
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	
七大タイトル獲得数
タイトル数の黄色は名誉称号資格、太字は最多獲得。
2017年棋聖戦終了時点。
棋士名	七大タイトル合計	三大タイトル合計		棋聖	名人	本因坊	王座	天元	碁聖	十段
1	趙治勲	42	29		8	9	12	3	2	2	6
2	小林光一	35	16		8	8	0	0	5	9	5
3	井山裕太	32	15		5	5	5	4	5	5	3
4	加藤正夫	31	6		0	2	4	11	4	3	7
5	張栩	23	9		3	4	2	7	1	4	2
6	坂田栄男	21	9		0	2	7	7	0	0	5
6	林海峰	21	13		0	8	5	1	5	1	1
8	大竹英雄	17	4		0	4	0	1	0	7	5
9	藤沢秀行	14	8		6	2	0	5	1	0	0
9	山下敬吾	14	9		5	2	2	2	2	1	0
11	高川格	12	10		0	1	9	1	0	0	1
11	依田紀基	12	4		0	4	0	0	0	6	2
13	王立誠	11	3		3	0	0	4	0	0	4
14	武宮正樹	10	7		0	1	6	0	0	0	3
15	石田芳夫	9	6		0	1	5	2	1	0	0
15	高尾紳路	9	6		0	3	3	0	1	0	2
17	橋本宇太郎	8	3		0	0	3	3	0	0	2
17	羽根直樹	8	4		2	0	2	0	3	1	0
19	柳時熏	5	0		0	0	0	1	4	0	0
20	橋本昌二	3	0		0	0	0	2	0	0	1
20	半田道玄	3	0		0	0	0	2	0	0	1
20	王銘琬	3	2		0	0	2	1	0	0	0
20	河野臨	3	0		0	0	0	0	3	0	0
24	岩本薫	2	2		0	0	2	0	0	0	0
24	島村俊廣	2	0		0	0	0	1	1	0	0
24	藤沢朋斎	2	0		0	0	0	1	0	0	1
24	工藤紀夫	2	0		0	0	0	1	1	0	0
24	片岡聡	2	0		0	0	0	0	2	0	0
24	小林覚	2	1		1	0	0	0	0	1	0
24	結城聡	2	0		0	0	0	0	1	0	1
31	関山利一	1	1		0	0	1	0	0	0	0
31	宮下秀洋	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	羽根泰正	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	山田規三生	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	彦坂直人	1	0		0	0	0	0	0	0	1
31	趙善津	1	1		0	0	1	0	0	0	0
31	坂井秀至	1	0		0	0	0	0	0	1	0
31	村川大介	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	伊田篤史	1	0		0	0	0	0	0	0	1
年代別優勝ランキング
※0年~9年までの10年間のタイトル獲得数
1950年代
9 
高川格
5 
橋本宇太郎
1 
島村俊廣, 藤沢朋斎, 橋本昌二
1960年代
16 
坂田栄男
6 
林海峰
4 
藤沢秀行
3 
高川格
2 
半田道玄

1970年代
12 
加藤正夫
8 
石田芳夫
7 
林海峰
6 
大竹英雄
5 
藤沢秀行, 坂田栄男
1980年代
17 
趙治勲
16 
加藤正夫
14 
小林光一
8 
大竹英雄
5 
武宮正樹

1990年代
19 
趙治勲
17 
小林光一
5 
林海峰, 依田紀基
4 
武宮正樹, 柳時熏
2000年代
17 
張栩
10 
山下敬吾
8 
王立誠
7 
依田紀基, 羽根直樹

2010年代
30 
井山裕太
6 
張栩
4 
山下敬吾
3 
高尾紳路
関連項目
囲碁の女流タイトル在位者一覧
囲碁世界タイトルの獲得者一覧
国際団体棋戦の優勝国一覧
■
囲碁の女流タイトル在位者一覧は、日本国内女流棋戦の歴代在位者一覧である。
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目次 
1	表記上の注意
2	一覧
2.1	三大棋戦
2.2	大会
3	終了棋戦
4	タイトル獲得数
5	関連項目
表記上の注意
5期以上のタイトルを獲得した棋士の名前には着色している。
名誉称号資格を獲得した棋士は備考に入れている。
一覧
三大棋戦
年度	女流棋聖	女流名人	女流本因坊	備考
1982年			本田幸子	
1983年			楠光子	
1984年			本田幸子	
1985年			楠光子	
1986年			小川誠子	
1987年			楠光子	
1988年			楠光子	
1989年		宮崎志摩子	楠光子	
1990年		青木喜久代	中澤彩子	
1991年		杉内寿子	中澤彩子	
1992年		杉内寿子	加藤朋子	
1993年		杉内寿子	吉田美香	
1994年		杉内寿子	吉田美香	
1995年		加藤朋子	吉田美香	
1996年		西田栄美	吉田美香	
1997年		西田栄美	知念かおり	
1998年	小林泉美	西田栄美	知念かおり	
1999年	小林泉美	青木喜久代	知念かおり	
2000年	知念かおり	青木喜久代	祷陽子	
2001年	知念かおり	小林泉美	小林泉美	
2002年	知念かおり	青木喜久代	小林泉美	
2003年	知念かおり	小林泉美	小林泉美	
2004年	万波佳奈	小林泉美	知念かおり	
2005年	知念かおり	小山栄美	矢代久美子	
2006年	万波佳奈	青木喜久代	矢代久美子	
2007年	梅沢由香里	加藤啓子	謝依旻	
2008年	梅沢由香里	謝依旻	謝依旻	
2009年	梅沢由香里	謝依旻	謝依旻	
2010年	謝依旻	謝依旻	謝依旻	謝依旻女流三冠
2011年	謝依旻	謝依旻	謝依旻	謝依旻名誉女流本因坊資格
2012年	青木喜久代	謝依旻	謝依旻	謝依旻名誉女流名人資格
2013年	謝依旻	謝依旻	向井千瑛	
2014年	謝依旻	謝依旻	藤沢里菜	
2015年	謝依旻	謝依旻	謝依旻	
2016年	謝依旻	謝依旻	第35期
藤沢里菜	
2017年	第20期
謝依旻	第29期
藤沢里菜		
女流棋聖
1-2月	女流名人
3月	女流本因坊
10‐11月	
大会
年度	会津杯	扇興杯	備考
2014年	藤沢里菜		
2015年	王景怡		
2016年	第3回
謝依旻	第1回
謝依旻	
2017年			
会津杯
6‐7月	扇興杯
7月	
終了棋戦
年度	女流選手権	女流名人
(旧)	備考
1952年	伊藤友恵		
1953年	杉内寿子		
1954年	杉内寿子		
1955年	杉内寿子		
1956年	杉内寿子		
1957年	伊藤友恵		
1958年	伊藤友恵		
1959年	-		
1960年	伊藤友恵		
1961年	伊藤友恵		
1962年	伊藤友恵		
1963年	木谷禮子		
1964年	-		
1965年	伊藤友恵		
1966年	木谷禮子		
1967年	木谷禮子		
1968年	木谷禮子		
1969年	本田幸子		
1970年	-		
1971年	木谷禮子		
1972年	木谷禮子		
1973年	本田幸子	木谷禮子	
1974年	本田幸子		
1975年	本田幸子	木谷禮子	
1976年	小林千寿		
1977年	小林千寿		
1978年	小林千寿		
1979年	小川誠子		
1980年	小川誠子		
1981年	本田幸子		

年度	女流鶴聖	JAL新鋭	女流最強	大和杯	備考
1979年	伊藤友恵				
1980年	鈴木津奈				
1981年	小林禮子				
1982年	小林禮子				
1983年	杉内寿子				
1984年	楠光子				
1985年	楠光子				
1986年	杉内寿子				
1987年	小川誠子				
1988年	宮崎志摩子				
1989年	小林千寿				
1990年	榊原史子				
1991年	青木喜久代				
1992年	青木喜久代				
1993年	小林千寿				
1994年	青木喜久代				
1995年	中澤彩子				
1996年	中澤彩子				
1997年	青木喜久代				
1998年	吉田美香				
1999年	大沢奈留美		新海洋子		
2000年	青木喜久代		加藤朋子		
2001年	加藤朋子		青木喜久代		
2002年	大沢奈留美		岡田結美子		
2003年		小林泉美	鈴木歩		
2004年		大沢奈留美	新海洋子		
2005年			小林泉美		小林泉美女流グランドスラム達成
2006年			謝依旻		
2007年			鈴木歩	小林泉美	
2008年			加藤啓子	謝依旻	
2009年				謝依旻	
2010年				万波佳奈	
タイトル獲得数
タイトル数の黄色は名誉称号資格、太字は最多獲得。
-	棋士名	合計	3大タイトル合計		女流棋聖	女流名人	女流本因坊
/女流選手権	女流鶴聖	女流最強	JAL新鋭	会津杯
1	謝依旻	22	21		6	8	7	0	1	0	0
2	青木喜久代	11	6		1	5	0	4	1	0	0
3	杉内寿子	10	8		0	4	4	2	0	0	0
3	小林禮子	10	8		0	2	6	2	0	0	0
3	小林泉美	10	8		2	3	3	0	1	1	0
6	知念かおり	9	9		5	0	4	0	0	0	0
7	伊藤友恵	8	7		0	0	7	1	0	0	0
8	本田幸子	7	7		0	0	7	0	0	0	0
8	楠光子	7	5		0	0	5	2	0	0	0
10	小林千寿	6	3		0	0	3	3	0	0	0
11	吉田美香	5	4		0	0	4	1	0	0	0
-	棋士名	合計	合計		女流
棋聖	女流
名人	女流
本因坊	女流
鶴聖	女流
最強	JAL
新鋭	会津
杯
関連項目
囲碁のタイトル在位者一覧
囲碁世界タイトルの獲得者一覧
国際団体棋戦の優勝国一覧
■
囲碁のタイトル在位者一覧は、日本国内棋戦七大タイトルの歴代在位者一覧であり、1941年の本因坊戦創設から現在までを網羅する。
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目次 
1	表記上の注意
2	一覧
3	七大タイトル獲得数
4	年代別優勝ランキング
5	関連項目
表記上の注意
5期以上のタイトルを獲得した棋士の名前には着色している。
同一タイトル4連覇以上を達成した棋士、初のタイトル獲得、それぞれのタイトルの最年少保持記録は備考に入れている。
名誉称号資格を獲得した棋士は備考に入れている。
一覧
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	
1941年
(昭和16)			関山利一					本因坊戦創設、関山利一初のタイトル保持者
1942年
(昭和17)								
1943年
(昭和18)			橋本宇太郎					橋本宇太郎新本因坊(初タイトル)
1944年
(昭和19)								
1945年
(昭和20)			岩本薫					岩本薫新本因坊(初タイトル)
1946年
(昭和21)								
1947年
(昭和22)			岩本薫					岩本薫初のタイトル防衛
1948年
(昭和23)								
1949年
(昭和24)								
1950年
(昭和25)			橋本宇太郎					本因坊戦1年1期制に
1951年
(昭和26)			橋本宇太郎					
1952年
(昭和27)			高川格					高川格新本因坊(初タイトル)
1953年
(昭和28)			高川格			橋本宇太郎		王座戦創設
1954年
(昭和29)			高川格			高川格		高川格史上初の二冠
1955年
(昭和30)			高川格			橋本宇太郎		
1956年
(昭和31)			高川格			橋本宇太郎		高川格二十二世本因坊資格・初の5連覇・初の名誉資格
1957年
(昭和32)			高川格			島村俊廣		島村俊廣新王座(初タイトル)
1958年
(昭和33)			高川格			藤沢朋斎		藤沢朋斎新王座(初タイトル)
1959年
(昭和34)			高川格			橋本昌二		橋本昌二新王座(初タイトル)
1960年
(昭和35)			高川格			半田道玄		高川格本因坊9連覇、半田道玄新王座(初タイトル)
1961年
(昭和36)			坂田栄男			坂田栄男		坂田栄男新本因坊(初タイトル)
1962年
(昭和37)		橋本宇太郎	坂田栄男		藤沢秀行	宮下秀洋		名人戦創設、十段戦創設、宮下秀洋新王座、藤沢秀行新名人(初タイトル)
1963年
(昭和38)		半田道玄	坂田栄男		坂田栄男	坂田栄男		坂田栄男史上初の名人本因坊・史上初の三冠
1964年
(昭和39)		藤沢朋斎	坂田栄男		坂田栄男	坂田栄男		高川格二十二世本因坊襲名
1965年
(昭和40)		高川格	坂田栄男		林海峰	半田道玄		坂田栄男二十三世本因坊資格、林海峰新名人(初タイトル)
1966年
(昭和41)		坂田栄男	坂田栄男		林海峰	坂田栄男		
1967年
(昭和42)		坂田栄男	坂田栄男		林海峰	藤沢秀行		坂田栄男本因坊7連覇
1968年
(昭和43)		坂田栄男	林海峰		高川格	藤沢秀行		王座戦挑戦手合に移行
1969年
(昭和44)		大竹英雄	林海峰		林海峰	藤沢秀行		大竹英雄新十段(初タイトル)
1970年
(昭和45)			林海峰		藤沢秀行	坂田栄男		十段戦行われず
1971年
(昭和46)		橋本宇太郎	石田芳夫		林海峰	坂田栄男		石田芳夫新本因坊(初タイトル)・最年少本因坊
1972年
(昭和47)		坂田栄男	石田芳夫		林海峰	坂田栄男		
1973年
(昭和48)		坂田栄男	石田芳夫		林海峰	林海峰		
1974年
(昭和49)		橋本昌二	石田芳夫		石田芳夫	石田芳夫		
1975年
(昭和50)		林海峰	石田芳夫		大竹英雄	大竹英雄	藤沢秀行	天元戦創設、石田芳夫二十四世本因坊資格
1976年
(昭和51)		加藤正夫	武宮正樹	加藤正夫	大竹英雄	趙治勲	小林光一	新名人戦開始、碁聖戦創設、加藤正夫新十段、武宮正樹新本因坊、趙治勲新王座・最年少王座
小林光一新天元(初タイトル)
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	備   考
1977年
(昭和52)	第1期
藤沢秀行	第15期
加藤正夫	第32期
加藤正夫	第2期
加藤正夫	第2期
林海峰	第25期
工藤紀夫	第3期
島村俊廣	棋聖戦創設、工藤紀夫新王座(初タイトル)
1978年
(昭和53)	藤沢秀行	加藤正夫	加藤正夫	大竹英雄	大竹英雄	石田芳夫	加藤正夫	
1979年
(昭和54)	藤沢秀行	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	大竹英雄	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫史上初の四冠、十段4連覇
1980年
(昭和55)	藤沢秀行	大竹英雄	武宮正樹	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	加藤正夫	天元戦挑戦手合に移行
1981年
(昭和56)	藤沢秀行	大竹英雄	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	橋本昌二	加藤正夫	藤沢秀行名誉棋聖資格、加藤正夫天元4連覇
1982年
(昭和57)	藤沢秀行	趙治勲	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	藤沢秀行棋聖6連覇、片岡聡新天元(初タイトル)
1983年
(昭和58)	趙治勲	加藤正夫	林海峰	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	趙治勲史上初の大三冠
1984年
(昭和59)	趙治勲	小林光一	林海峰	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	石田芳夫	王座戦三番勝負から五番勝負に移行
趙治勲名誉名人資格、大竹英雄名誉碁聖資格
1985年
(昭和60)	趙治勲	小林光一	武宮正樹	大竹英雄	小林光一	加藤正夫	小林光一	大竹英雄碁聖6連覇
1986年
(昭和61)	小林光一	小林光一	武宮正樹	趙治勲	加藤正夫	加藤正夫	小林光一	加藤正夫名誉王座資格
1987年
(昭和62)	小林光一	加藤正夫	武宮正樹	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	趙治勲史上初のグランドスラム
1988年
(昭和63)	小林光一	趙治勲	武宮正樹	小林光一	小林光一	加藤正夫	趙治勲	武宮正樹本因坊4連覇
1989年
(平成元)	小林光一	趙治勲	趙治勲	小林光一	小林光一	加藤正夫	林海峰	加藤正夫王座8連覇
1990年
(平成2)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	羽根泰正	林海峰	小林光一名誉棋聖資格、羽根泰正新王座(初タイトル)
1991年
(平成3)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	藤沢秀行	林海峰	
1992年
(平成4)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	藤沢秀行	林海峰	小林光一名誉名人資格・名誉碁聖資格、藤沢秀行最年長タイトル保持者(67歳)、
初めて7大タイトル全てが防衛される
1993年
(平成5)	小林光一	大竹英雄	趙治勲	小林光一	小林光一	加藤正夫	林海峰	趙治勲二十五世本因坊資格、林海峰名誉天元資格
小林光一棋聖8連覇・碁聖6連覇・3タイトル同時6連覇(史上唯一)
1994年
(平成6)	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	林海峰	小林光一	趙治勲	柳時熏	小林光一名人7連覇、柳時熏新天元(初タイトル)
1995年
(平成7)	小林覚	依田紀基	趙治勲	小林覚	武宮正樹	王立誠	柳時熏	小林覚新棋聖、依田紀基新十段、王立誠新王座(初タイトル)
1996年
(平成8)	趙治勲	依田紀基	趙治勲	依田紀基	趙治勲	柳時熏	柳時熏	
1997年
(平成9)	趙治勲	加藤正夫	趙治勲	依田紀基	趙治勲	山田規三生	工藤紀夫	山田規三生新王座(初タイトル)
1998年
(平成10)	趙治勲	彦坂直人	趙治勲	依田紀基	趙治勲	王立誠	小林光一	趙治勲本因坊10連覇(同一タイトル連覇記録)・大三冠3連覇
彦坂直人新十段(初タイトル)
1999年
(平成11)	趙治勲	小林光一	趙善津	小林光一	趙治勲	王立誠	小林光一	趙治勲棋聖4連覇・名人4連覇、趙善津新本因坊(初タイトル)
2000年
(平成12)	王立誠	小林光一	王銘琬	山下敬吾	依田紀基	王立誠	柳時熏	王銘琬新本因坊、山下敬吾新碁聖(初タイトル)・最年少碁聖
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	備   考
2001年
(平成13)	王立誠	王立誠	王銘琬	小林光一	依田紀基	趙治勲	羽根直樹	羽根直樹新天元(初タイトル)
2002年
(平成14)	王立誠	王立誠	加藤正夫	小林光一	依田紀基	王銘琬	羽根直樹	
2003年
(平成15)	山下敬吾	王立誠	張栩	依田紀基	依田紀基	張栩	羽根直樹	依田紀基名人4連覇、張栩新本因坊(初タイトル)
2004年
(平成16)	羽根直樹	王立誠	張栩	依田紀基	張栩	張栩	山下敬吾	王立誠十段4連覇
2005年
(平成17)	羽根直樹	趙治勲	高尾紳路	依田紀基	張栩	張栩	河野臨	高尾紳路新本因坊、河野臨新天元(初タイトル)
2006年
(平成18)	山下敬吾	趙治勲	高尾紳路	張栩	高尾紳路	山下敬吾	河野臨	
2007年
(平成19)	山下敬吾	趙治勲	高尾紳路	張栩	張栩	山下敬吾	河野臨	
2008年
(平成20)	山下敬吾	高尾紳路	羽根直樹	張栩	張栩	張栩	張栩	平成四天王がタイトル独占
2009年
(平成21)	山下敬吾	張栩	羽根直樹	張栩	井山裕太	張栩	山下敬吾	井山裕太新名人(初タイトル)・最年少タイトル保持者・最年少名人、張栩史上初の五冠
山下敬吾棋聖4連覇、張栩碁聖4連覇
2010年
(平成22)	張栩	張栩	山下敬吾	坂井秀至	井山裕太	張栩	結城聡	坂井秀至新碁聖、結城聡新天元(初タイトル)
2011年
(平成23)	張栩	井山裕太	山下敬吾	羽根直樹	山下敬吾	張栩	井山裕太	張栩王座4連覇、井山裕太最年少天元
2012年
(平成24)	張栩	井山裕太	井山裕太	井山裕太	山下敬吾	井山裕太	井山裕太	
2013年
(平成25)	井山裕太	結城聡	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太史上初の六冠・最年少棋聖
2014年
(平成26)	井山裕太	高尾紳路	井山裕太	井山裕太	井山裕太	村川大介	高尾紳路	村川大介新王座(初タイトル)
2015年
(平成27)	井山裕太	伊田篤史	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	伊田篤史新十段(初タイトル)・最年少十段・入段からタイトル獲得までの年数最短(6年0か月)
2016年
(平成28)	井山裕太	第54期
井山裕太	第71期
井山裕太	第41期
井山裕太	第41期
高尾紳路	第64期
井山裕太	第42期
井山裕太	井山裕太棋聖4連覇、史上初の七冠独占達成(十段戦)、井山二十六世本因坊資格、名誉碁聖資格
2017年
(平成29)	第41期
井山裕太	井山か
余	井山か
本木					井山裕太名誉棋聖資格
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	
七大タイトル獲得数
タイトル数の黄色は名誉称号資格、太字は最多獲得。
2017年棋聖戦終了時点。
棋士名	七大タイトル合計	三大タイトル合計		棋聖	名人	本因坊	王座	天元	碁聖	十段
1	趙治勲	42	29		8	9	12	3	2	2	6
2	小林光一	35	16		8	8	0	0	5	9	5
3	井山裕太	32	15		5	5	5	4	5	5	3
4	加藤正夫	31	6		0	2	4	11	4	3	7
5	張栩	23	9		3	4	2	7	1	4	2
6	坂田栄男	21	9		0	2	7	7	0	0	5
6	林海峰	21	13		0	8	5	1	5	1	1
8	大竹英雄	17	4		0	4	0	1	0	7	5
9	藤沢秀行	14	8		6	2	0	5	1	0	0
9	山下敬吾	14	9		5	2	2	2	2	1	0
11	高川格	12	10		0	1	9	1	0	0	1
11	依田紀基	12	4		0	4	0	0	0	6	2
13	王立誠	11	3		3	0	0	4	0	0	4
14	武宮正樹	10	7		0	1	6	0	0	0	3
15	石田芳夫	9	6		0	1	5	2	1	0	0
15	高尾紳路	9	6		0	3	3	0	1	0	2
17	橋本宇太郎	8	3		0	0	3	3	0	0	2
17	羽根直樹	8	4		2	0	2	0	3	1	0
19	柳時熏	5	0		0	0	0	1	4	0	0
20	橋本昌二	3	0		0	0	0	2	0	0	1
20	半田道玄	3	0		0	0	0	2	0	0	1
20	王銘琬	3	2		0	0	2	1	0	0	0
20	河野臨	3	0		0	0	0	0	3	0	0
24	岩本薫	2	2		0	0	2	0	0	0	0
24	島村俊廣	2	0		0	0	0	1	1	0	0
24	藤沢朋斎	2	0		0	0	0	1	0	0	1
24	工藤紀夫	2	0		0	0	0	1	1	0	0
24	片岡聡	2	0		0	0	0	0	2	0	0
24	小林覚	2	1		1	0	0	0	0	1	0
24	結城聡	2	0		0	0	0	0	1	0	1
31	関山利一	1	1		0	0	1	0	0	0	0
31	宮下秀洋	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	羽根泰正	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	山田規三生	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	彦坂直人	1	0		0	0	0	0	0	0	1
31	趙善津	1	1		0	0	1	0	0	0	0
31	坂井秀至	1	0		0	0	0	0	0	1	0
31	村川大介	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	伊田篤史	1	0		0	0	0	0	0	0	1
年代別優勝ランキング
※0年~9年までの10年間のタイトル獲得数
1950年代
9 
高川格
5 
橋本宇太郎
1 
島村俊廣, 藤沢朋斎, 橋本昌二
1960年代
16 
坂田栄男
6 
林海峰
4 
藤沢秀行
3 
高川格
2 
半田道玄

1970年代
12 
加藤正夫
8 
石田芳夫
7 
林海峰
6 
大竹英雄
5 
藤沢秀行, 坂田栄男
1980年代
17 
趙治勲
16 
加藤正夫
14 
小林光一
8 
大竹英雄
5 
武宮正樹

1990年代
19 
趙治勲
17 
小林光一
5 
林海峰, 依田紀基
4 
武宮正樹, 柳時熏
2000年代
17 
張栩
10 
山下敬吾
8 
王立誠
7 
依田紀基, 羽根直樹

2010年代
30 
井山裕太
6 
張栩
4 
山下敬吾
3 
高尾紳路
関連項目
囲碁の女流タイトル在位者一覧
囲碁世界タイトルの獲得者一覧
国際団体棋戦の優勝国一覧
■
台湾の囲碁タイトル在位者一覧は中国の囲碁の棋戦タイトル獲得者の一覧である。
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一覧
天元	十段	碁聖	棋王	国手	王座	名人
1975							林文伯
1976							周咸亨
1977							周咸亨
1978							周咸亨
1979				陳永安			周咸亨
1980				陳永安			周咸亨
1981				陳長清	陳長清		周咸亨
1982				陳長清	陳長清		陳長清
1983				陳長清	陳長清		陳士
1984				陳長清	陳長清		陳士
1985				陳永安	陳長清		陳士
1986				周咸亨	陳長清		周咸亨
1987				周咸亨	陳長清		周咸亨
1988				周咸亨	彭景華		陳長清
1989				周咸亨	陳長清		陳長清
1990					陳長清		彭景華
1991					林聖賢		陳長清
1992					林聖賢		彭景華
1993					林聖賢		林聖賢
1994					陳永安		陳国興
1995					陳永安		周俊勲
1996					彭景華		周俊勲
1997					周俊勲		周俊勲
1998					周俊勲		周俊勲
1999					周俊勲		周俊勲
2000							周俊勲
2001							周俊勲
2002	陳永安						周俊勲
2003	林至涵						周俊勲
2004	周俊勲						周俊勲
2005	周俊勲				蕭正浩	周俊勲	周俊勲
2006	周俊勲				陳詩淵	周俊勲	周俊勲
2007	陳詩淵	周俊勲			陳詩淵	周俊勲	周俊勲
2008	林至涵	秦士	林至涵	周俊勲	林至涵	陳詩淵	周俊勲
2009	林至涵	ー	林書陽	陳詩淵	林至涵	陳詩淵	周俊勲
2010	蕭正浩	ー	陳詩淵	陳詩淵	林至涵	陳詩淵	
2011	陳詩淵	周俊勲	林至涵	陳詩淵	林至涵	陳詩淵	
2012	陳詩淵	周俊勲	蕭正浩	陳詩淵	陳詩淵	陳詩淵	
2013	蕭正浩	王元均	林立祥	王元均	蕭正浩	蕭正浩	
2014	蕭正浩	林君諺	陳詩淵	王元均	蕭正浩		
2015	王元均	蕭正浩	陳詩淵	周俊勲	陳詩淵		
2016	王元均						
天元	十段	碁聖	棋王	国手	王座	名人
関連項目
台湾棋院
囲碁のタイトル在位者一覧
囲碁世界タイトルの獲得者一覧
国際団体棋戦の優勝国一覧
外部リンク
台湾棋院文化基金会
中華民国の旗 台湾囲碁タイトル
棋王戦 | 天元戦 | 十段戦 | 王座戦 | 国手戦 | 碁聖戦
台湾囲碁優勝杯
海峰杯 | 東鋼杯 | 思源杯 | 中正杯
終了棋戦
永大杯1999年 | 聯電千禧杯2000年 | 棋士杯2001年 | 富聚杯2001年 | 魔戒杯2004年 | 棋霊王杯2004 | 亞藝杯2007 | 愛心杯2007 | CMC杯2008 | 力兆杯2008 | 新人王戦2008 | 張栩杯2008 | 名人戦2009年 | 中環杯2012

■
一般財団法人関西棋院(いっぱんざいだんほうじんかんさいきいん)は囲碁の棋士を統括し、近畿を中心として棋戦や囲碁普及などの活動をう組織(一般財団法人)。日本棋院から1950年に分離独立。現在117人の棋士、女流棋士が所属。機関誌『囲碁関西』(月刊)を発行している。
目次 
1	概要
2	歴史
2.1	独立までの動き
2.2	東西対立から独立
2.3	発展と現状
3	顕彰
4	近年の関西棋院棋士のタイトル戦
5	所属棋士
6	役員
7	脚注
8	出典
9	外部リンク
概要
本院は大阪府大阪市中央区北浜にあり、全棋士が本院所属である。
事業活動として、プロ棋士の対局の実施運営、 各種囲碁大会・囲碁セミナー・囲碁ツアーの実施。機関紙『囲碁関西』など出版事業、免状の発行、囲碁サロン・囲碁教室・子ども囲碁学園の経営、 囲碁ネット事業等。2010年現在、48支部ある。
所属棋士が各種タイトル戦に参加する場合、まず3段階(ABC方式)の院内予選を行ない、その勝者が日本棋院所属棋士と混合の最終予選に出場することが多い[注 1]。また関西棋院独自の棋戦として、関西棋院第一位決定戦と産経プロアマトーナメント戦がある[注 2]。その一方、本因坊戦最終予選の参加枠は4人(日本棋院の7分の1)に限られ、竜星戦・阿含桐山杯・NECカップ囲碁トーナメント戦についても出場制限が課されている。
日本棋院同様の院生からの入段(プロ入り)制度とは別に、特例で年長のアマ強豪をプロ編入してきた歴史があり、陳嘉鋭・坂井秀至・石井茜らにプロ棋士への道を開いた。2009年からは「研修棋士制度」[注 3]としてプロ編入試験(試験碁)を制度化し、日本だけでなく中国・韓国出身のアマ強豪が続々入段している[1]。
歴史
独立までの動き
日本棋院設立から昭和初期までの関西囲碁界は、主な棋士は日本棋院に参加し、関西支部(後に関西本部)が設立されていた。中心にいたのは久保松勝喜代、光原伊太郎などで、独自の大手合も行っていたが、五段以上の昇段は東京でなければ認められず、若手の高川格や田中不二男をはじめ、有力な棋士は東京の大手合にも参加していた。
終戦後は、戦時中に宝塚に疎開していた橋本宇太郎を中心にまとまり、関西在住の棋士達の待遇面(主に昇段制度、交通関係)での地位向上を目指した。1947年(昭和22年)には、空襲で焼けた日本棋院会館の復興のために全棋士による募金活動が行われ、関西支部には計50万円の目標が課せられたが、関西でも資金が必要であることから、募金の半分を東京に送ることにして募金を行った。その結果100万円が集まったが、全額を関西で使おうという意見が棋士や後援者で強まり、関西の会館の建物を買い、財団法人関西棋院として財務上は独立した組織となった。
東西対立から独立
関西棋院が法人として独立した後も、日本棋院との関係はそれまでとは変わりなかった。1950年(昭和25年)には日本棋院と関西棋院の12人ずつの選手による東西対抗戦、及び東西対抗勝ち抜き戦が行われ人気を博す。同年第5期本因坊戦で橋本宇太郎が本因坊位を獲得するが、その就位式席上で日本棋院津島寿一総裁が、これまで2年で1期だった本因坊戦を1年1期に改めると述べた。本因坊当人に相談もなく決められたことで、関西棋院の内部は独立派が生まれて、協調派と分かれ、多数となった独立派により同年9月に免状発行権を持った組織として独立が宣言される。協調派の棋士は、日本棋院関西総本部を設立した。
翌年の第6期本因坊戦では、日本棋院新鋭の期待株坂田栄男が挑戦権を得た。この七番勝負で橋本は坂田に1勝3敗に追い込まれたが、そこから3連勝して本因坊を防衛。もしこの勝負に橋本が敗れていたら関西棋院は発足直後に解散に追い込まれていただろうとも言われている。
また1958年に日本棋院東海本部が中部総本部に再編成した際に、伊神肇、植松弘聖らが離脱して、名古屋市に関西棋院中部総本部を設立した。
発展と現状
この後、橋本宇太郎と橋本昌二の「両橋本」(両者に血縁関係はない)が関西棋院の二枚看板となり、十段・王座のタイトルを奪うなど活躍した。1962年には名人戦リーグに10名中4名、本因坊リーグにも8名中3名の関西棋院所属棋士が参加(半田道玄が本因坊挑戦権獲得)、第1期・第2期の十段の座を橋本宇太郎と半田道玄の関西勢同士が争うなど、大いに気勢を上げた。橋本昌二は「組織存続のため、日本棋院との戦いは死活問題だった」と語る[2]。
しかし日本棋院との緊張関係が緩和に向かった上、独立によって日本棋院所属棋士との対局機会が減少したこともあり、所属棋士の活躍は次第に目立たなくなった。七大タイトル保持者も、1981年の橋本昌二(王座)以降、長らく出現しなかった(次項参照)。三大タイトル(棋聖・名人・本因坊)リーグ在籍者もゼロの年が目立ちはじめ、特に本因坊リーグへは2000年度(結城聡)以降、2009年度(同)まで参加がなかった。
しかし2010年になり、坂井秀至が碁聖のタイトルを奪取すると、結城聡も天元位を獲得してこれに続いた。若手の瀬戸大樹・村川大介らの活躍もあり、関西棋院は久々にかつての勢いを取り戻しつつある。2012年の第68期本因坊リーグは8名中3名(32期ぶり)、2013年の第38期名人戦リーグも9名中3名を関西棋院勢が占めた。
中部総本部には一時は20名を超える棋士が所属したが、2010年3月末をもって閉鎖された[3]。
2012年4月1日、法人制度改革に伴い、公益法人より活動の制約が少ない一般財団法人となった[4]。日本棋院との再統合も何度か話題に上っているが、両院の段位の調整、(主に日本棋院側の)財政問題などがネックとなり、未だに実現していない。全日本囲碁連合結成に参加するなど、そのあり方の模索が続いている。
顕彰
1973年に関西棋院賞を創設し、最優秀棋士賞、利仙賞(敢闘賞)、道玄賞(殊勲賞)、新人賞を設ける。1981年からは連勝賞、1992年には永井賞(30歳未満が対象)、山野賞(普及貢献賞)、2007年には吉田賞(対外戦最多勝)を設けた。
近年の関西棋院棋士のタイトル戦
詳細は囲碁のタイトル在位者一覧を参照。色付きはタイトル獲得。
年	棋戦	関西棋院棋士	結果	相手
1941年	本因坊	関山利一	3-3	加藤信
1943年	本因坊	橋本宇太郎	1-0	関山利一
1945年	本因坊	橋本宇太郎	0-2	岩本薫
1949年	本因坊	橋本宇太郎	4-0	岩本薫
1951年	本因坊	橋本宇太郎	4-3	坂田栄男
1952年	本因坊	橋本宇太郎	1-4	高川格
1953年	王座	橋本宇太郎	1-0	前田陳爾
1955年	王座	橋本宇太郎	2-1	島村利博
1956年	王座	橋本宇太郎	2-0	坂田栄男
1957年	王座	半田道玄	0-2	島村利博
1958年	王座	半田道玄	0-2	藤沢朋斎
1959年	王座	橋本昌二	2-0	山部俊郎
1960年	王座	半田道玄	2-0	大窪一玄
1962年	十段	橋本宇太郎	3-1	半田道玄
1962年	本因坊	半田道玄	1-4	坂田栄男
1963年	十段	半田道玄	3-1	橋本宇太郎
1965年	王座	半田道玄	2-0	大窪一玄
1967年	王座	橋本昌二	0-2	藤沢秀行
1971年	王座	橋本昌二	0-2	坂田栄男
1972年	王座	橋本宇太郎	1-2	坂田栄男
1974年	十段	橋本昌二	3-1	坂田栄男
1975年	十段	橋本昌二	0-3	林海峰
1977年	棋聖	橋本宇太郎	1-4	藤沢秀行
1977年	天元	苑田勇一	1-3	島村俊宏
1979年	十段	橋本昌二	1-3	加藤正夫
1981年	十段	橋本昌二	2-3	大竹英雄
1981年	王座	橋本昌二	2-1	加藤正夫
1982年	王座	橋本昌二	2-0	加藤正夫
1986年	天元	苑田勇一	1-3	小林光一
1988年	天元	苑田勇一	1-3	趙治勲
1989年	碁聖	今村俊也	1-3	小林光一
1997年	碁聖	結城聡	1-3	依田紀基
1998年	碁聖	苑田勇一	0-3	依田紀基
2002年	碁聖	結城聡	1-3	小林光一
2005年	棋聖	結城聡	3-4	羽根直樹
2005年	碁聖	結城聡	0-3	依田紀基
2007年	王座	今村俊也	1-3	山下敬吾
2007年	碁聖	横田茂昭	0-3	張栩
2009年	碁聖	結城聡	0-3	張栩
2010年	碁聖	坂井秀至	3-2	張栩
2010年	天元	結城聡	3-0	山下敬吾
2011年	碁聖	坂井秀至	2-3	羽根直樹
2011年	天元	結城聡	0-3	井山裕太
2013年	十段	結城聡	3-2	井山裕太
2013年	十段	結城聡	2-3	高尾紳路
2014年	王座	村川大介	3-2	井山裕太
2015年	王座	村川大介	0-3	井山裕太
2016年	王座	余正麒	0-3	井山裕太
所属棋士
結城聡
苑田勇一
今村俊也
坂井秀至
白石裕
横田茂昭
橋本昌二
本田邦久
村川大介
中野泰宏
瀬戸大樹
清成哲也
余正麒
藤井秀哉
芦田磯子
小西和子
榊原史子
倉橋正行
吉田美香
石井茜
佐田篤史
他、総勢117人
役員
理事長:中川和雄
副理事長:永井一夫
常務理事:滝口政季(九段)、太田清道(棋士会会長)、勝間史朗(七段)、今村俊也(九段)、藤原克也(六段)、
理事:東郷武、田口榮一
監事:五味正義、久保田大
(2010年10月1日現在)
脚注
^ ただし棋聖戦は第1期から第24期まで、各段優勝戦が両棋院混合で行なわれていた。第25期からリーグ制移行に伴い、他棋戦同様に院内予選がおこなわれるようになったが、第29期以降は予選C段階から日本棋院中部総本部・関西総本部との混合で行なわれている。
^ かつては関西棋院選手権戦(神戸新聞社主催)や関西棋院早碁名人戦(産経新聞社主催)もあった。関西棋院選手権戦は天元戦に、関西棋院早碁名人戦は十段戦にそれぞれ統合された。
^ http://www.kansaikiin.jp/kenshukishi/index.html
出典
[ヘルプ]
^ 試験碁で2人採用 関西棋院(朝日新聞2009年7月15日付)
^ 関西の若手 台頭の兆し 「西高東低」の囲碁会に旋風(神戸新聞2005年4月5日付、題字ママ)
^ 『碁ワールド』2010年5月号
^ 一般財団法人に関西棋院が移行(朝日新聞 2012年4月10日)
坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年
外部リンク
関西棋院(公式サイト)
関西棋院の棋士ら大活躍――切磋琢磨し組織に活力
■
官子譜(かんずふ、官子谱)は、中国の詰碁(珍瓏)を集めた棋書。明の時代の過百齢によって著され、清の時代に陶式玉の編注、改訂により現在の形となった。終盤の死活や攻め合いなどの問題を集めたもので、詰碁の二大名著として「玄玄碁経」と並べられるが、手筋の網羅性は「官子譜」が上回っている。
目次 
1	成り立ち
2	内容
3	出版物
4	関連項目
成り立ち
明の時代には囲碁の名手が多く現われ、その末期の梁渓(江蘇省無錫)の過百齢(過伯齢ともいう)もその一人であり、「官子譜」「三子譜」「四子譜」などの優れた棋書を残した。このうち「四子譜」は序盤、中盤について、「官子譜」が終盤(官子、ヨセ)についてのものだった。
その後「官子譜」には曹元尊が手を加えた。清の時代になり、陶式玉(陶尚白ともいう)は、囲碁において終盤の死活やヨセの重要性に着眼し、1689年(康熙28年)に「官子譜」の編注に着手し、6年をかけて1694年(康熙33年)に完成して、榕城(福建省福州)で出版した。この時の校訂協力者には、呉瑞徴、婁子恩、蔡隣卿がいる。陶は、蠡呉(河北省博野県)の県令などをしていた後、「易経」研究でも名を上げたが、山陰(浙江省紹興)に帰郷して「官子譜」にあたった。また序文において陶は存斎を名乗っている。
内容
死活や攻め合いなど1478題を収めており、原本(陶版)は上中下の三巻で構成され、上540題、中558題、下380題とされる。また「玄玄碁経」から収録したものもある。
陶版の序文としては、魚丘厚菴(朱弘祚)、胡献徴、呉貞吉から寄せられている。
出版物
日本では、以下の出版物がある。
西片朝三編『官子譜 (上)(中)(下)』令人堂出版部 1938年
呉清源解説、三堀将編集『官子譜 囲碁手筋の源流 (1)-(4)』平凡社(東洋文庫) 1977-78年
橋本宇太郎、小山靖男解説『官子譜抄—手筋の宝典』山海堂 1980年、改訂版2004年(死活を中心に304題を収録)
高木祥一編『官子譜 (上)(下)』教育社 1995年(164題を収録)
関連項目
詰碁
囲碁の歴史
玄玄碁経
碁経衆妙
死活妙機
囲碁発陽論
■
観戦記者(かんせんきしゃ)とは様々な競技を観戦し記事を執筆する記者のことである。主に新聞の囲碁・将棋欄やこれらの専門誌で「観戦記」の執筆を担当する記者について呼ばれる事が多く、スポーツ競技を観戦する記者については俗にスポーツ記者などと呼ばれる。
本項目では主に将棋・囲碁などにおける観戦記者について述べる。
目次 
1	観戦記
2	観戦記者の仕事
3	過去の観戦記者
4	主な観戦記者
5	チェス
6	脚注
7	関連項目
観戦記
明治時代から現代に至るまで新聞社主催のいわゆる新聞棋戦では、新聞にプロの対局(時にはアマ)の棋譜が掲載される。この棋譜に対局者の紹介、対局の模様、指し手の解説等を加えた記事を観戦記と言う。テレビやインターネットといった伝達手段が発達していなかった時代には、観戦記はプロ棋士と一般のファンとの間を結ぶ唯一の伝達手段であり、それだけ観戦記の役割も大きかったとされる。
観戦記者の仕事
観戦記者は、棋戦が行われる会場に詰めて、プロ棋士の対局を観戦し、対局者の様子や対局の雰囲気を記録することが主な仕事である。ただし、棋戦の主催者(所属記者、あるいは委託を受けた者)以外は対局開始・終了時や感想戦などを除いて対局室に入れないため[1]、その場合は対局中控室でモニター越しに棋戦を観戦する。また控室等で他の棋士達の検討を聞き、取材もする(新聞棋戦の場合は対局ごとに解説役の棋士が付く、あるいは副立会人等の棋士が解説を行うことも多い)。タイトル戦などは長時間の滞在となるため、時には麻雀やトランプ等ほかのことに興じる場合もある。対局の終了後は感想戦で対局者の読み、指し手の解説等を取材して、観戦記を執筆する。
一口に観戦記者と言っても、作家や文筆家など色々なタイプが存在するが、新聞・雑誌の記者とフリーの記者が最も多い。作家や文筆家は基本的にタイトル戦などの大きな勝負のみのゲスト執筆者である。新聞記者・雑誌記者は主に自分の社が主催する棋戦の観戦記を執筆する。フリーの記者には新聞記者・雑誌記者のOBも多い。
過去の観戦記者
(氏名右はペンネーム)
記者
菅谷要(菅谷北斗星)…読売新聞記者(将棋)
山本亨介(天狗太郎)…将棋史についての本多数
倉島竹二郎…作家出身の観戦記者、毎日新聞に執筆(将棋・囲碁)
吉井栄治(「栄」)…作家出身の朝日新聞記者(将棋)
井上宅治(読売新聞囲碁・初代/三代覆面子)
西川勉(読売新聞囲碁・二代目覆面子)
三堀将(読売新聞囲碁欄・四代目覆面子)
多賀谷信乃(読売新聞囲碁、五代目覆面子)
山田覆面子(読売新聞囲碁欄、六代目覆面子、山田虎吉)
三谷水平(毎日新聞囲碁欄)
田岡敬一(朝日新聞囲碁欄、筆名:白鳥人、囲碁)
長谷川耕(朝日新聞囲碁欄、筆名:阿修羅)
田村孝雄(将棋欄では「龍」、囲碁欄では「田村竜騎兵」)…朝日新聞家庭部記者(朝日新聞の観戦記者のペンネームは、漢字一字の場合が多い)
下里正樹(奥山紅樹)…しんぶん赤旗記者(将棋)
田辺忠幸…共同通信記者、後にフリー(将棋)
山田史生…元読売新聞記者、フリー(将棋)囲碁の観戦記者として名高い山田覆面子の息子
谷口牧夫(朝日新聞「牧風」名義、囲碁・将棋)
関則可(記者ではなくフリー。アマチュア将棋強豪(元アマ名人)、朝日新聞将棋欄で「酔象」 名義で担当)
柿沼昭治(記者ではなくフリー。アマチュア将棋強豪。朝日新聞将棋欄で「玉虫」名義で担当)
中平邦彦(神戸新聞将棋記者。筆名:原田史郎)
高林譲司(筆名:信濃桂、三社連合将棋・囲碁記者。『将棋世界』『将棋マガジン』の編集者出身)
井口昭夫(毎日新聞、囲碁・将棋観戦記者)
小堀啓爾(囲碁)
堀田五番士(囲碁・本名は堀田護)
東公平…将棋、フリー(かつて朝日新聞でのペンネーム「紅」。)
プロ棋士
金子金五郎(将棋) 
山川次彦(香取桂太)…元『将棋世界』編集長
加藤治郎(三象子)将棋
山本武雄(陣太鼓)…独特の口語文。新聞の観戦記に2つ図面を載せることを考案した。(将棋)
永沢勝雄(仏法僧)将棋
高柳敏夫…中原誠は高柳の内弟子時代、大手町の日本経済新聞社まで観戦記を届けるのが日課だった。(将棋)
芹沢博文…二上達也と森雞二との棋聖戦5番勝負第一局を30日間連載して話題になった。(将棋)
原田泰夫(将棋)
中山典之(囲碁)
河口俊彦(将棋)
作家・文筆家
菊池寛(将棋)、坂口安吾(囲碁・将棋)、藤沢桓夫(将棋)、大岡昇平(囲碁・将棋)、山口瞳(将棋)、豊田穣(元・中日新聞記者)ら
主な観戦記者
記者
小田尚英…読売新聞文化部記者(将棋)
西條耕一…読売新聞文化部記者(将棋)
山村英樹…毎日新聞学芸部記者(京都大学囲碁部OB)。将棋・囲碁ともに観戦記を執筆。
神谷浩司…日本経済新聞文化部記者(将棋)
村上耕司…朝日新聞文化グループ記者(将棋)
金沢盛栄(毎日新聞編集委員・囲碁アマチュア強豪。弟の金沢東栄もアマチュア強豪)
秋山賢司(「春秋子」、朝日新聞囲碁観戦記者)
湯川博士…フリー。元将棋ジャーナル編集長。
湯川恵子…フリー。元・将棋女流アマチュア名人。将棋がメインだが囲碁の観戦記も担当。
鈴木宏彦…フリー。元将棋世界編集部員。
小暮克洋…フリー。元東京大学将棋部・学生名人。
椎名龍一…フリー。元週刊将棋記者。プロボウラーのライセンスを持つ。
加藤昌彦…フリー。元新進棋士奨励会二段。一時期芸能界に身を置いていた。
池田将之…フリー。元新進棋士奨励会三段。妻は女流棋士の村田智穂。
後藤元気…フリー。元新進棋士奨励会
高見亮子…劇作家、脚本家。読売新聞囲碁欄など。
内藤由起子…フリー。朝日新聞囲碁欄。お茶の水女子大学囲碁部OG。
佐野真…フリー。囲碁ライター、スポーツライター。
藤田麻衣子…フリー。元女流棋士。
大川慎太郎…フリー。元講談社。
チェス
将棋や囲碁と同じく、専門誌のライターや新聞社に所属する記者が担当することが多い。また大会に参加していない選手や作家などが書くこともある。
世界選手権などの大会でテレビやネット中継がある場合、音声による解説も担当することがある。また海外の新聞社ではチェスの記事はスポーツ欄に掲載される(チェスはマインドスポーツであるため)。
脚注
^ 『将棋・名局の記録』(大川慎太郎著、マイナビ出版、2015年)p.144
関連項目
記者
フリーライター
マインドスポーツ
■
感想戦(かんそうせん)とは、囲碁、将棋、チェス、麻雀などのゲームにおいて、対局後に開始から終局まで、またはその一部を再現し、対局中の着手の善悪や、その局面における最善手などを検討することである。
概要
感想戦は双方の対局者の間で行われるが、対局者以外の観戦者も参加することが多い。対局の再現が必要となるため、棋譜を記録するか、記憶しておく必要がある。プロの囲碁・将棋の棋士は、大抵はその対局の棋譜をすべて記憶している[1]。
囲碁・将棋においては、プロの公式戦では感想戦はほとんどの場合に行われ[2]、アマチュアでも高段者、上級者の対局では感想戦が行われることが多い。感想戦を行うことによって、一局を客観的に見直すことができ、棋力の向上につながるためである。
チェスで感想戦に当たる行為はpost mortem[3]といい、コントラクトブリッジの試合でもこの語が使用される。大規模な競技会では、対局を続けている人の邪魔にならないように、検討用の大部屋が別途用意されていることもある。
なお、「感想戦」は本来将棋用語であり、囲碁では通常「局後の検討」という言葉が使用されることが多い(NHK杯の司会者もそのような言い方をしている)。
将棋では対局後に必ず感想戦を行うこととされているが、ルール上明文化されているわけではないので、感想戦を拒否して帰っても特にペナルティはない。実際、プロの公式棋戦でも稀に感想戦を拒否するケースがある[4]。また囲碁では対局後に行わずに帰っても問題とされることはない。チェスでは重要な大会では行われるが、時間的な余裕がない場合は省略してもよく、大会によって異なる。
脚注
^ 将棋棋士の先崎学は、自著『先崎学の浮いたり沈んだり』で、自身が指したばかりの対局の棋譜を再現できないことを明かし、そのような棋士はごく珍しいと書いている。
^ NHK杯などのテレビ棋戦では、対局終了後に時間が余った場合、両対局者に解説、聞き手が加わって、感想戦を行っているところが放送される。
^ チェスに限らず、一般的な用語として、終了後の検討や分析に「post mortem」という表現を用いることがあり、医学用語では検死の意味に使う。en:Post-mortem (disambiguation)参照。
^ 高橋道雄八段(当時)の思い - 将棋ペンクラブログ・2013年2月4日
■
利かし(きかし)とは囲碁用語の一つで、「相手が応ぜざるを得ず、しかも将来のはたらきを含んだ手」(大辞林)のことである。将棋でもほぼ同じような意味で通じる。
利かしの定義には、「先手であること」「打つことで何らかの利益が見込まれること」が含まれる。先手で打てるが、将来の利益や手段を失うマイナスの方が大きい場合のことを味消しという。しかし、利かしを打つタイミング、利かしか味消しであるかは時として微妙で、利かしを打ち損ねて失敗する場合もある。
プロ棋士の間でも、比較的ドライに利かしを決めるタイプと、可能な限り利きを残すタイプの2種類に大別される。前者としては小林光一、後者は大竹英雄や井山裕太などが有名。
また、プロは利かされを嫌い、利かしに対する反発によって思わぬところから戦いが始まることがある。
目次 
1	利かしの実例
2	利かしの保留
3	利き筋
4	参考図書
利かしの実例
 
高目定石の一形。黒は1のアテを利かし、左辺への白の進出を止める。さらに3から5を利かせて外勢を固めることができる。この際、黒3・5を先に打ってしまうと黒1が利かないことに注意。このように、利かしは手順も重要になる。
白からは8のノゾキが利く。黒は切らせるわけにいかないので9とツイでおく。白8の石は対隅のシチョウアタリになる可能性や、この近辺で戦いが起こった時に役に立つ可能性、さらに黒の眼型を奪う意味があり、多くの場合無駄にならない(「打ち得」などと表現する)。

上図の定石で、もし黒が7のカケツギを打たずに手を抜いた場合、同じように白1とノゾいてしまうのは味消しの悪手になる。この形では白が2の点に直接切断して戦えるのに、それを自ら放棄して相手を強化させてしまうからである。このように、先手で打てるからといって、何でも打ってしまえばよいというものではない。
利かしの保留
利かしをいつ打つかは判断が難しい。
大ナダレ外マガリ定石の一形。かつては白a、黒bを換わってから1にツグのが定石とされてきたが、現在ではこの交換を打たずに黙って白1と打つことが多い。状況によってaではなくcから利かす可能性もあるため、絶対の利きを保留する手段である。
利き筋
現在△の2子は取られているが、将来白石がaのどこかに来ると、白bからアテて▲の5子が逆に取られてしまう。このため黒は、aの地点に白石があるものと思って戦わねばならない。こうした場合、aは「白の利き筋」と表現される。
参考図書
山城宏『消しと利かし (烏鷺うろブックス) 』日本棋院 1989年
『実力五段囲碁読本―キカシを考える 』誠文堂新光社 2000年
趙治勲『利かしの哲学(最強囲碁塾)』河出書房新社 2003年
小林覚『「利かし、利き筋」集中講義 (マイコミ囲碁ブックス) 』2007年
■
棋士(きし)は、碁打ちともいい、囲碁を打つ人の総称。
プロを指す事が多いが、アマチュアでも棋士と呼ぶ事もある。
目次 
1	呼称
2	歴史
2.1	中世まで
2.2	近世
2.3	近代以降
3	プロ棋士制度
3.1	日本
3.2	世界
4	各国における棋士
4.1	日本のおもな現役棋士
4.1.1	日本七大タイトル保持者
4.1.1.1	日本七大タイトル経験者
4.1.2	その他の棋士
4.1.3	女性の棋士
4.1.3.1	日本女流四大タイトル保持者
4.1.4	他の物故棋士(昭和以降)
4.2	現代の中国
4.3	韓国
4.4	台湾
4.5	その他
5	棋士の呼び名
5.1	日本
5.2	中国
6	脚注
7	参考文献
8	関連項目
9	外部リンク
呼称
室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れると、彼らは「碁打」と呼ばれるようになる。江戸時代に家元が俸禄を受けるようになると、「碁衆」あるいは将棋の家元との区別で「碁方」「碁之者」などの呼び名が使われた。また江戸時代には「碁士」「碁師」などの呼び方も生れ、地方においても賭碁をする者は碁打と呼ばれた。明治になると「碁客」「碁家」「棋客」「棋家」といった呼び方がされ、また棋戦に出場する者は「選手」とも呼ばれ、大正時代の裨聖会もこの呼び名を使った。日本棋院が設立されると「棋士」を使うようになり、以降の各組織でもこれに倣い現在に至っている。また日本棋院以前の囲碁専業の者や高手に対しても棋士と呼ぶことが多い。
歴史
「囲碁の歴史」も参照
中世まで
漢の時代には『奕旨』を著した歴史家の班固などの愛棋家が知られ、建安七子と呼ばれた文人でも孔融や、王粲、『弈勢』を著した応瑒が碁に長じていた。
呉は琴棋書画が盛んであり、代表的な打ち手の孫策と呂範の対局が最古の棋譜として残されていて[1]、棋力の高さを示している他、武将の陸遜、蔡頴、諸葛瑾が知られ、民間人で「呉の八絶」の一人の厳子卿と馬綏明は『広博物志』で棊聖と呼ばれている。
東晋では河南省で天才少年と言われて後に宰相の王導に引き立てられ将軍となった江彪が最強とされ、范注『棋品』で江彪が棊品第一品、王導が五品と記されている。竹林の七賢と言われた中でも阮籍、王戎は碁好きだった。この頃に王担之が囲碁の別称として「坐隠」と呼んだことが『世説新語』にあり、僧の支遁が手談と呼んだ。
南北朝時代には、斉 (南朝)の王抗が第一品の打ち手とされていて、武帝に命じられて北魏の孝文帝から派遣された打ち手の苑寧児と対局した。
初唐では裵寂、王勃、廬藏用、高智周らが棋士として高名だった。玄宗の時に棋待詔制度が設けられ、王積薪、顧師言、王倚、王叔文、滑能、朴球などが就いた。顧師言は日本の王子と対戦して、鎮神頭の妙手で勝ったとされている。日本の王子の名ははっきりしないが、高岳親王、伴小勝雄の説がある。また玄宗は新羅の聖徳王の葬儀への使節に楊李膺という近衛兵きっての打ち手を同行させ、新羅の打ち手に連戦連勝して面目を保った。
宋代では棋待詔に賣充、楊希粲、劉仲甫、李逸民、沈才子などが高名であった。潘慎修『棋説』、楊希粲『双泉図』、李の『忘憂清楽集』、沈括『夢渓谷筆談』、劉の『棋訣』、張擬『棋経十三篇』、厳徳甫と晏天章『玄玄経(玄玄碁経)』などの著作も書かれ、沈括『夢渓筆談』では囲碁の変化の数についても記された。べん京などの大都市では道観や寺院などで棋会がしばしば開かれるようになり、高手が競った。
元代には文人の中から、『玄玄碁経』を再編した虞集、劉因、黄庚などの名手が出た。
高句麗では長寿王の時代に国手である道琳という僧がいて、百済の蓋鹵王の側近に送り込まれて国力を削ぐ工作をしたとある。
日本では遣唐使に加わった伴小勝雄が碁師と呼ばれており、小勝雄に習った紀夏井は少しの間に小勝雄を越えるほどになった[2]。宇多法皇と醍醐天皇に寵遇された法師寛蓮は、『花鳥余情』で碁聖と記されている。『二中歴』では寛蓮の他、賀陽、祐挙、高行、実定、教覚、道範、十五小院、長範、天王寺冠者といった名がある。
九条兼実は碁を好み、その邸で対局した九条良経の小童が囲碁の上手と『明月記』にある。慈円も後鳥羽上皇に招かれて対局していた。鎌倉時代には玄尊による『囲碁口伝』『囲碁式』も書かれた。
近世
明の初期、相子先が高名を馳せたが、太祖の命で楼得達と対局し、勝った楼得達が棋官の地位を得た。他に趙九成、氾洪などが国手と呼ばれた。嘉靖から万暦の頃に明では最も囲碁が盛んになり、浙江省一帯の永嘉派として鮑一中、李沖、周源、余希聖など、安徽省一帯の新安派として程汝亮、汪曙、方子謙など、北京周辺の京師派には李釜、顔倫などがいて、王世貞『奕旨』では鮑一中、程汝亮、李釜、顔倫が取り上げられている。明末には、江蘇省出身の過百齢が出て、上京して国手の林符卿に勝ち、国手とされるとともに『官子譜』などを著した。他に方子振、汪幼清などが名手として名を上げた。
清朝初期には盛大有、周東候らを打ち負かした黄龍士が最も知られ、その弟子の徐星友も国手となった。続いて范西屏、施襄夏、梁魏今、程蘭如が大家となる。清末には囲碁も水準を落とす中で、「晩清の十八国手」と呼ばれる秋航、任惠南、董六泉など、続いて周小松、浙江省の陳子仙、漢陽の徐耀文、李湛源など国手と呼ばれる棋士がいた。
室町時代に日本から明に渡った僧虚中は、林応龍と協力して『適情録』がまとめられた。『満済准后日記』『看聞御記』では召し出された囲碁の上手として、大円、式部、宗勝、一色、北野、吉原、昌阿(性阿)の名がある。その後には阿弥衆の中で、碁の上手として重阿弥が知られていた。続いて仙也、春阿弥、宗心、樹斎などが現れ、その後の本因坊算砂、本能寺の僧利玄、神尾宗具、仙也の子の仙角、山の内入道、鹿塩、庄林といった者は公家や寺院の他に豊臣秀次や徳川家康などの武家にもしばしば招かれて、江戸時代の家元制度の基礎となった。また北条幻庵に徳斎という者が召し出されており、北条氏直の頃には真野仙楽斎が関東での碁の上手と言われていた[3]。江戸幕府からは家禄を受ける家元として、算砂を始祖とする本因坊家、算砂の弟子の中村道碩を継ぐ井上家、安井算哲に始まる安井家、利玄の禄を継いだ林家が定められた。四家は名人・碁所を筆頭にして、御城碁などで切磋琢磨し、棋聖と呼ばれた本因坊道策、本因坊丈和など多くの高手を生んだ。
「江戸時代の囲碁棋士一覧」も参照
また本因坊算砂は朝鮮通信使にいた本国第一人者の李礿史と三子で対局した。本因坊道策は琉球使節の親雲上浜比嘉には四子で対局し、浜比嘉に三段を認めた。1710年の琉球使節では、屋良里之子が本因坊道知に三子、相原可碩に先番で打った。
近代以降
明治時代になると家元制度は崩壊したが、本因坊家を存続させた本因坊秀和、本因坊秀栄の一門や、本因坊秀甫らによる近代的な囲碁組織方円社によって多くの棋士が活躍した。
「方円社#方円社の棋士」も参照
 また女流の喜多文子や吉田操子が男性棋士と互角の成績を残し、普及や組織運営にも大きな役割を果たした。
本因坊秀哉や高部道平は、中国も訪問して交流を行った。この頃の中華民国では汪雲峰、呉祥麟、潘朗束、顧水如、王子晏、劉棣懐、過惕生らがいたが、三子程度の差があった。
大正末期に碁界合同による日本棋院が誕生し、雁金準一の棋正社との対抗戦が世間を湧かせた。また顧の弟子の呉清源が見いだされて日本へ渡り、木谷實らと角錐しつつ高段へと昇った。
昭和になると終身名人制を廃して、本因坊戦などの選手権制の棋戦が多く生まれ、日本棋院と、そこから分裂した関西棋院の棋士が鎬を削った。また昭和20年代には呉清源が、十番碁で当時の一流棋士すべてを打ち込んで最強と目された。
主な棋戦優勝者:
本因坊戦 関山利一、橋本宇太郎、岩本薫、高川格(二十二世本因坊)、坂田栄男(二十三世本因坊)、林海峰、石田芳夫
王座戦 橋本宇、高川、島村俊廣、藤沢朋斎、橋本昌二、半田道玄、宮下秀洋、坂田、藤沢秀行、加藤正夫(名誉王座)
日本棋院最高段者トーナメント戦・日本棋院第一位決定戦・全日本第一位決定戦 坂田、島村、宮下、藤沢秀、大竹英雄
日本棋院選手権戦 高川、坂田、大平修三、石田
NHK杯争奪トーナメント 島村、岩本、橋本宇、坂田、木谷、高川、橋本昌、大竹、藤沢秀、林
関西棋院早碁名人戦 窪内秀知、半田、鯛中新、東野弘昭、橋本宇、佐藤直男
日本棋院早碁名人戦 坂田、宮下、杉内雅男、藤沢朋
最高位決定戦 坂田、木谷實、藤沢秀
囲碁選手権戦 木谷、坂田、曲励起、島村、高川、藤沢朋、杉内、藤沢秀
日本最強決定戦 呉清源、坂田
名人戦(旧) 藤沢秀、坂田、林、高川、石田、大竹
十段戦 橋本宇、半田、藤沢朋、高川、坂田、大竹、橋本昌、加藤
プロ十傑戦 坂田、藤沢秀、林、橋本宇、石田、趙治勲
女流選手権戦 伊藤友恵、杉内寿子、木谷禮子、本田幸子、小林千寿、小川誠子
プロ棋士制度
日本
法律では職業として囲碁を行うのには資格は不要だが、試合を開催する団体が定める認定が必要になる場合がある。以下は日本棋院と関西棋院が定める規則についての記述である。
日本棋院と関西棋院の2つがプロを認定する組織として存在している。さらに日本棋院は東京本院・中部総本部・関西総本部に分かれている。このいずれかで入段試験を突破した者だけがプロ初段の棋士となり、プロ棋戦への参加資格を得る。プロ入りのためには、普通まずプロの卵である院生となって入段試験手合を勝ち抜くことで資格を得る。また院生にならずとも、外来で予選・試験手合を突破することでもプロ入りは可能である。
プロ入りには年齢制限があるが、関西棋院では研修棋士制度を設けており、プロ棋士相手の試験碁で一定の成績を収めればプロ入りが可能である。
日本棋院の院生で棋士になれなかった者には、研修棋士を経て「普及棋士(準棋士)」の資格が与えられた。また院生以外で入段試験に合格できなかった者には普及専門の「地方棋士」の資格が与えられた。[4]
世界
韓国・中国・台湾でも独自のプロ組織があり、それぞれの棋戦が行われている。またこれらの棋士が一堂に会して戦う国際棋戦も盛んである。
各国における棋士
「Category:囲碁棋士」および「囲碁のタイトル在位者一覧」も参照
日本のおもな現役棋士
日本七大タイトル保持者
(2016年4月現在)
井山裕太(棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖・十段)
日本七大タイトル経験者
趙治勲(二十五世本因坊・名誉名人有資格者)棋聖8期、名人9期、本因坊12期、十段6期、天元2期、王座3期、碁聖2期 七大タイトルグランドスラム
張栩 棋聖3期 名人4期 本因坊2期 王座7期 天元1期 碁聖4期 十段2期  七大タイトルグランドスラム
井山裕太 棋聖3期 名人5期 本因坊4期 王座3期 天元4期 碁聖4期 十段2期 七大タイトルグランドスラム
小林光一(名誉棋聖・名誉名人・名誉碁聖)棋聖8期、名人8期、十段、天元各5期、碁聖9期
石田芳夫(二十四世本因坊)名人1期 本因坊5連覇、王座2期 天元1期
林海峰(名誉天元)名人8期 本因坊5期 王座1期 天元5期 碁聖1期 十段1期
大竹英雄(名誉碁聖)名人4期 王座1期 碁聖7期 十段5期
山下敬吾 棋聖5期 名人2期 本因坊2期 王座2期 天元2期 碁聖1期
王立誠 棋聖3期 王座4期 十段4期
羽根直樹 棋聖2期 本因坊2期 天元3期 碁聖1期
小林覚 棋聖1期、碁聖1期
依田紀基 名人4期 十段2期 碁聖6期
武宮正樹 名人1期 本因坊6期 十段3期
高尾紳路 名人1期 本因坊3期 天元1期 十段2期
王銘エン 本因坊2期 王座1期
趙善津 本因坊1期
工藤紀夫 王座1期 天元1期
柳時熏 王座1期、天元4期
羽根泰正 王座1期
山田規三生 王座1期
村川大介 王座1期
河野臨 天元3期
片岡聡 天元2期
結城聡 天元1期 十段1期
坂井秀至 碁聖1期
彦坂直人 十段1期
伊田篤史 十段1期
その他の棋士
三大タイトル挑戦者
杉内雅男
淡路修三
山城宏
七大タイトル挑戦者
高木祥一
苑田勇一
今村俊也
中野寛也
横田茂昭
秋山次郎
余正麒
一力遼
主要棋戦優勝者
本田邦久
三村智保
小松英樹
森田道博
加藤充志
その他
白江治彦
石倉昇
女性の棋士
「女流棋士 (囲碁)」を参照
日本女流四大タイトル保持者
(2016年6月18日現在)
謝依旻 (女流本因坊・女流名人・女流棋聖・会津中央病院杯)
他の物故棋士(昭和以降)
藤沢秀行(名誉棋聖)
高川格(二十二世本因坊)
坂田栄男(二十三世本因坊)
加藤正夫(名誉王座)
橋本昌二
影山利郎
中山典之
加田克司
安倍吉輝
現代の中国
中華人民共和国では副首相陳毅によって囲碁強化が進められ、全国囲棋個人戦などの大会の実施、中国囲棋協会設立によって、日本に追いつくことを目標として棋士を育成した。顧水如の弟子の陳祖徳は日中囲碁交流で初めて日本の九段に勝利し、1970年代には聶衛平が最強の地位を得る。また日本と同様の棋戦が多く開催されるようになり、劉小光、馬暁春、曹大元、江鋳久、陳臨新、銭宇平、兪斌、張文東らが活躍する。また孔祥明や芮廼偉などの女流棋士も男性と互角に戦うようになった。
1990年代以降は、七小龍と呼ばれる常昊、周鶴洋、邵煒剛、王磊、羅洗河、劉菁、丁偉が国内棋戦の他、国際棋戦でも活躍し、2000年代には小虎世代と呼ばれる古力、孔傑、胡耀宇、黄奕中、王尭、謝赫、邱峻、劉星らが世界戦で好成績を上げる。
韓国
木谷實門下だった趙南哲が第二次世界大戦後に韓国棋院を設立して、現代囲碁の普及を行った。日本で修行した金寅、尹奇鉉、河燦錫らが活躍し、1970年代から曺薫鉉、徐奉洙、続いて劉昌赫、李昌鎬を加えた四強時代となり、1990年代には国際棋戦で多数の優勝を飾るようになる。薫鉉、昌鎬の活躍で囲碁ブームが起こり、2000年代は李世乭、朴永訓、崔哲瀚、睦鎮碩、趙漢乗、元晟溱、姜東潤、朴廷桓、朴鋕恩らが国内戦、世界戦で活躍する。
台湾
台湾からは呉清源に見いだされた林海峰が日本で名人になるなど活躍し、続いて王立誠、王銘琬、張栩なども日本でタイトルを獲得した。また実業家応昌期の後押しで中国囲棋会などの囲碁組織が作られ、周咸亨、陳永安、陳長清がプロ棋士として活躍する。続いて彭景華、林聖賢などが成長し、1990年代には中国で修行した周俊勲が第一人者となり、林至涵、陳詩淵、王元均がこれに続いている。
その他
1978年にはアメリカ人のジェームズ・カーウィンが日本棋院で欧米人として初の初段となり、その後は日本棋院のマイケル・レドモンド、ハンス・ピーチ、韓国棋院のアレキサンダー・ディナーシュタイン、スベトラーナ・シックシナなどがプロ棋士となっている。アメリカではアメリカ在住の棋士による組織でトーナメントが行われており、レドモンドや、中国出身の江鋳久や豊雲、韓国出身の車敏洙などが出場している。2012年アメリカ囲碁協会は、韓国棋院と提携しプロ組織となった。2014年には、欧州囲碁連盟が独自にプロ棋士を認定を始めている。欧米の他にアルゼンチンのフェルナンド・アギラールなども国際棋戦でしばしば上位に進出し、またオーストラリア出身の黒嘉嘉も台湾とオセアニアで活躍している。
棋士の呼び名
日本
「前聖」「後聖」歴史上棋聖と称えられる、本因坊道策を前聖、本因坊丈和を後聖と呼んだ。明治時代になって本因坊秀策の評価が高まり後聖に据えることも多い。
「五弟子」「五虎」「六天王」本因坊道策の弟子の、小川道的、佐山策元、井上道節因碩、星合八碩、熊谷本碩、吉和道玄
「囲碁四哲」江戸時代、名人の力量ありとされながら名人とならなかった、本因坊元丈、安井知得仙知、井上幻庵因碩、本因坊秀和
「天保四傑」天保期前後に活躍した、伊藤松和、阪口仙得、太田雄蔵、安井算知 (俊哲)。嘉永頃には囲碁四傑と呼ばれていたが、明治37年の安藤如意「坐隠談叢」で天保四傑と記され定着した
「方円社四天王」小林鉄次郎、水谷縫次、酒井安次郎、高橋杵三郎。
「戦後派三羽烏」「アプレゲール三羽烏」藤沢秀行、梶原武雄、山部俊郎。「棋道」編集長の宇崎玄々子により命名。
「竹林」大竹英雄、林海峰。
「黄金トリオ」木谷実門下の、加藤正夫、石田芳夫、武宮正樹。3人の若手時代に雑誌で連載した「黄金トリオ研究室」で命名。「木谷門三羽烏」とも呼ばれた。
「アマ四強」アマチュア棋戦の優勝常連である、菊池康郎、村上文祥、平田博則、原田実。西村修、金沢盛栄、三浦浩、中園清三らを加えて、五強、六強、七強などとも呼んだ。
「四天王」:1990年代に活躍した王立誠、小林覚、片岡聡、山城宏についてしばしば用いられた。
「若手四天王」山下敬吾、羽根直樹、張栩、高尾紳路。ただし近年は四人が「若手」のレベルにとどまらない活躍をしているため、単に「四天王」と呼ばれることも多い。最近では「平成四天王」と呼ばれるようになった。
中国
「大龍」1980年代に中国の囲碁を世界レベルに引き上げた、聶衛平
「中龍」1990年代に聶衛平を打ち破って一強時代を築いた、馬暁春
「七小龍」1990年代後半からトップ棋士となった、常昊、周鶴洋、邵煒剛、王磊、羅洗河、劉菁、丁偉
「小虎」2000年代になってトップ棋士となった、古力、孔傑、黄奕中、王尭、謝赫、邱峻、劉星など
「小豹」小虎の次の世代でトップを狙う棋士、彭荃、王檄、王雷、唐莉、陳耀燁など

脚注
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注釈
出典
^ 「忘憂清楽集」
^ 『日本三大実録』
^ 林元美『爛柯堂棋話』
^ 木谷實『囲碁百年 2 新布石興る』平凡社 1978年(第5章 専門棋士)
参考文献
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
増川宏一『碁 ものと人間の文化史59』法政大学出版局 1987年
小堀啓爾「江戸・明治著名棋士名鑑」「日本棋院物故棋士名鑑」(『1993年度版囲碁年鑑』日本棋院、1993年)
中野謙二『囲碁中国四千年の知恵』創土社 2002年
関連項目
日本囲碁大系
現代囲碁大系
外部リンク
日本棋院棋士の紹介
関西棋院棋士の紹介
日本棋院棋士の紹介-タイトル保持者
韓国棋院棋士の紹介
中国囲棋協会棋士の紹介
台湾棋院棋士の紹介
欧州囲碁連盟の棋士認定
■
棋士(きし)は、囲碁、将棋の棋戦などで対局することを主な職業とする人。麻雀の選手も呼ばれることがある(後述)。アマチュアと区別するために、「プロ棋士」という呼称が使われることもある。
囲碁の棋士 - 女流棋士を含む(「女流棋士」は性別が女性の棋士のこと)。
将棋の棋士 - 女流棋士は含まない(「女流棋士」と「棋士」とは別制度)。
なお、将棋界でも囲碁界と同様、女性が棋士になることは制度上可能であり男女の区別はないが、現在まで棋士になれた女性はいない。
麻雀の棋士 - 競技麻雀の選手を指すことが多い。「日本プロ麻雀棋士会」という団体がある。「雀士」と呼ばれることもあるが、明確な定義はないので統一されていない。
一部の古い文献などではチェスの選手を「棋士」と表記していることもあるが、国際チェス連盟では専業のプロとアマチュアを分けていないので表現としては正確ではない。競技会などもイロレーティング別にクラスが設定されており、参加する人間は単に「Player(選手)」と呼ばれる。
■
女流棋士(じょりゅうきし)とは女性のプロ棋士のこと。この項目では、囲碁の女流棋士について解説する。
女流棋士は男女混合の一般棋戦に参加すると同時に、女流しか参加できない女流棋戦に参加することができる。
目次 
1	制度
2	歴史
3	女流の棋戦
3.1	現行国内棋戦
3.2	休廃止棋戦
3.3	国際棋戦
4	主な女流棋士
5	男女混合棋戦での実績
6	参考文献
制度
日本棋院の場合、入段時には年1名から2名の女流特別採用枠がある。関西棋院では、定員は示されていないものの、同様の制度及び研修棋士制度での優遇がある。一般採用枠で入段したのは、2015年現在宮崎志摩子・桑原陽子・加藤啓子・謝依旻の4名のみであり、大多数の女流棋士は特別枠での入段である。
もっとも、入段時の特別枠、および女流棋戦に参加できるという優遇はあるものの、それ以外の昇段規定などは男性棋士と同じである(女流棋戦の成績は昇段に関与しない)。そのため、段位が同じであれば男性棋士であっても女流棋士であっても同等の格と見なされる。将棋の場合、奨励会を経由してプロ棋士になった女性が史上一人も存在せず、女性専用の組織・段制度のもとで戦っており、大きく事情が異なる(将棋の女流棋士を参照。また、将棋にも男女混合棋戦は存在する)。
歴史
平安時代には囲碁は女性のたしなみとされており、枕草子など古典文学にも碁を打つ女性の姿が描写されている。しかし鎌倉期以降囲碁は男性の楽しむものという傾向が強くなる。江戸期には太夫などが嗜む程度であったが、家元制度の整備とともに18世紀後半に初段に進んだ横関伊保、安井知得仙知の娘で三段まで進んだ安井鉚などが現れる。幕末に著された『大日本囲碁姓名録』(弘化3年)には、二段野口松、豊田源(のち三段)など七名が記されている。林家分家の林佐野は16歳で入段、その後四段まで進み、明治碁界でも方円社設立に関わるなど活躍した。その養子である喜多文子は六段に進み(死後名誉八段を追贈)、日本棋院設立に大きな役割を果たした。喜多は杉内寿子、伊藤友恵など多くの弟子を育て、女流棋士の数も増加していった。
1952年、初の女流タイトル戦である女流選手権(後に女流本因坊戦へ発展解消)が設立される。ここでは杉内寿子、本田幸子、楠光子の本田三姉妹らが活躍した。1970年代からは小川誠子・小林千寿らが活躍し、女流棋戦の数も増加した。平成以降ではこれらのタイトルを青木喜久代・小林泉美・加藤啓子・梅沢由香里・謝依旻・万波佳奈・矢代久美子・鈴木歩ら多数の女性が争う戦国時代に入った。ただし2006年謝が女流最強戦を制し最年少女流棋戦優勝記録を更新すると、2008年には女流名人・女流本因坊・大和証券杯ネット囲碁レディースを制し、2010年には女流棋聖3連覇中の梅沢を下し、女流初の同時三冠を達成。これにより謝が頭一つ抜け出した状態になっている。
2014年、15歳9カ月の藤沢里菜が会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦を制し女流棋戦史上最年少で優勝を飾った。
女流の棋戦
現行国内棋戦
1982 - 現在 女流本因坊戦(共同通信社主催)
1989 - 現在 女流名人戦(産経新聞主催)
1998 - 現在 女流棋聖戦(NTTドコモ主催)
2015 - 現在 扇興杯女流最強戦(センコー主催)
2014 - 現在 会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦(日本棋院主催)
1995 - 現在 ペア碁選手権戦(日本ペア囲碁協会主催、非公式戦)
休廃止棋戦
1952 - 1981 女流選手権戦(東京タイムズ主催)
1979 - 2002 女流鶴聖戦(日本航空、東京海上火災主催)
1999 - 2008 女流最強戦(東京精密主催)
2002 - 2007 関西女流囲碁トーナメント(テレビ大阪主催)
2004 - 2005 JAL女流早碁戦(テレビ東京主催)
2007 - 2010 大和証券杯ネット囲碁レディース(大和証券主催)
国際棋戦
1993 翠宝杯世界女流囲碁選手権戦(中国囲棋協会主催)
1994 - 1998 宝海杯世界女子選手権戦(韓国経済新聞、韓国放送公社主催)
1997 - 2003 泰利特杯中韓女流囲碁対抗戦
2000 東方航空杯女子世界プロ囲碁戦(中国囲棋協会主催)
2000 - 2001 興倉杯世界女流囲碁選手権戦(韓国経済新聞、韓国放送公社主催)
2000 - 2001 泰利特杯中韓女流囲碁対抗戦
2002 豪爵杯世界女流囲碁選手権戦
2002 - 2011 正官庄杯世界女子囲碁最強戦(囲碁TV主催)
2007 大理旅行杯女子世界プロ囲碁戦(中国囲棋協会主催)
2007 遠洋地産杯世界女子オープン戦(中国囲棋協会主催)
2010 - 2011 穹窿山兵聖杯世界女子囲碁選手権
2011 - 現在 黄竜士双登杯世界女子囲碁団体選手権
2012 - 現在 華頂茶業杯世界女流団体選手権
主な女流棋士
喜多文子
吉田操子
増淵辰子
伊藤友恵 女流選手権7期(5連覇を含む) 女流鶴聖1期
杉内寿子 女流選手権4期 女流名人4期 女流鶴聖2期
本田幸子 女流選手権5期 女流本因坊2期
楠光子 女流本因坊5期 女流鶴聖2期
小林禮子 女流選手権6期 女流名人2期 女流鶴聖2期
小川誠子 女流選手権2期 女流本因坊1期 女流鶴聖1期
小林千寿 女流選手権 女流鶴聖 各3期
新海洋子 女流最強位2期
加藤朋子 女流本因坊 女流名人 女流鶴聖 女流最強位 各1期
青木喜久代 女流名人5期 女流棋聖1期 女流鶴聖4期 女流最強位1期
宮崎志摩子 女流鶴聖 女流名人 各1期
小山栄美 女流名人4期
吉田美香 女流本因坊4期 女流鶴聖1期
小西和子
榊原史子 女流鶴聖1期
中澤彩子 女流本因坊 女流鶴聖 各2期
岡田結美子 女流最強位1期
梅沢由香里 女流棋聖3期
知念かおり 女流本因坊4期 女流棋聖5期
矢代久美子 女流本因坊2期
大沢奈留美 女流鶴聖2期 JAL女流早碁位1期
小林泉美 女流本因坊3期 女流名人3期 女流棋聖3期 女流最強位1期 JAL女流早碁位1期 (☆女流史上初のグランドスラム達成)
桑原陽子 女流本因坊1期
加藤啓子 女流名人1期 女流最強位1期
万波佳奈 女流棋聖2期
鈴木歩 女流最強位2期
万波奈穂
謝依旻 女流本因坊6期(5連覇達成。名誉女流本因坊資格を得る) 女流名人8期(5連覇達成。名誉女流名人資格を得る) 女流棋聖5期 女流最強位1期 会津中央病院杯1期(☆通算獲得タイトル数は女流棋士史上最多)
藤沢里菜 女流本因坊1期 会津中央病院杯1期
向井千瑛 女流本因坊1期
王景怡 会津中央病院杯1期
石井茜
男女混合棋戦での実績
現在まで日本の女流棋士が七大タイトルの優勝はもちろん、挑戦権獲得や三大リーグ(棋聖・名人・本因坊の各リーグ戦)入りを果たしたことはない。 ただし2006年に創設された若鯉戦(30歳以下および五段以下の棋士を対象)では、並みいる男性棋士を破り、謝依旻がタイトルを獲得した。 他にも、青木喜久代は決勝戦こそ山田規三生に0勝2敗で敗れたものの、1997年第22期新人王戦準優勝の実績がある。 また、小山栄美は25歳以下の男女混合棋戦であったNEC俊英囲碁トーナメント戦準優勝の実績がある。 小林泉美もまた男性棋士に対して互角以上の戦績を残しており、2003年と2004年には七大タイトルの一つである十段戦の本戦に2年連続出場を果たし、リーグ入り間近に迫ったこともある。 2011年には、鈴木歩が棋聖戦リーグ入りにあと1勝と迫ったが、河野臨に阻まれた。 2016年、2015年賞金ランキングで鈴木歩が七段に昇段する。全六段の中で対象棋戦賞金額が最も高かったものが昇段するが、女流棋戦は対象棋戦ではないため、男女同条件での昇段となる。
海外では2000年、韓国棋院の中国女流棋士芮廼偉が、曺薫鉉(世界タイトル11回優勝)を破って韓国のタイトルの一つ国手を奪取しており、世界選手権戦でもベスト4にまで残った実績を持つ。
これらの実績から、囲碁の男女間の実力差は将棋と比べて小さいとする意見が一般的である。
参考文献

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年10月)
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
福井正明、相場一宏『碁界黄金の十九世紀』日本棋院 2007年
■
 日本の囲碁棋士一覧では、日本の現役の囲碁棋士全員を記述する。
目次 
1	タイトル保持者
2	女流タイトル保持者
3	一覧
4	八段以下
5	四段以下
6	引退棋士
6.1	東京本院
6.2	関西総本部
6.3	中部総本部
6.4	関西棋院
7	物故棋士
7.1	日本棋院
7.2	関西棋院
8	外部リンク
タイトル保持者
棋戦	棋士	段位	在位年
棋聖	井山裕太	九段	2013-
名人	井山裕太	〃	2013-
本因坊	井山裕太	〃	2012-
王座	井山裕太	〃	2015-
天元	井山裕太	〃	2015-
碁聖	井山裕太	〃	2012-
十段	井山裕太	〃	2016-
女流タイトル保持者
女流棋聖・女流名人・女流本因坊 謝依旻(六段)
会津中央病院杯 藤沢里菜(二段)
一覧
表は入段順、◎は名誉称号獲得、○は三大タイトル獲得経験者(棋聖・名人・本因坊)。△はそれ以外の七大タイトル獲得経験者。中は中部総本部、西は関西総本部所属。関は関西棋院所属。入段年齢は4月2日起点の満年齢。タイトルは棋聖・名人・本因坊・天元・王座・碁聖・十段・囲碁選手権戦 ・日本最強決定戦。
棋士	段
位	年
齢	入
段		師匠	出
身	入段
年齢	所
属	
高川格	九段	-	1928	◎	光原伊太郎	和歌山	13歳		
坂田栄男	九段	-	1935	◎	増淵辰子	東京	16歳		
藤沢秀行	九段	-	1940	◎	福田正義	神奈川	15歳		
林海峯	九段	74歳	1955	◎	藤田梧郎
呉清源	上海	13歳		
大竹英雄	九段	74歳	1956	◎	木谷實	福岡	14歳		
石田芳夫	九段	68歳	1963	◎	木谷實	愛知	15歳		
加藤正夫	九段	-	1964	◎	木谷實	福岡	16歳		
小林光一	九段	64歳	1967	◎	木谷實	北海道	15歳		
趙治勲	九段	60歳	1968	◎	木谷實	釜山	12歳		
岩本薫	九段	-	1917	○	広瀬平治郎	島根	16歳		
橋本宇太郎	九段	-	1922	○	瀬越憲作	大阪	16歳	関	
木谷實	九段	-	1924	○	久保松勝喜代
鈴木為次郎	兵庫	16歳		
関山利一	九段	-	1926	○	鈴木為次郎	兵庫	17歳	関	
呉清源	九段	-	1929	○	瀬越憲作	福建省	15歳		
半田道玄	九段	-	1934	○	鈴木為次郎	広島	19歳	関	
杉内雅男	九段	96歳	1937	○	井上一郎	宮﨑	17歳		
曲励起	九段	92歳	1942	○	岩本薫	三重	16歳		引退
大平修三	九段	-	1947	○	木谷實	岐阜	18歳		
武宮正樹	九段	66歳	1964	○	田中三七一
木谷實	東京	14歳		
王立誠	九段	58歳	1972	○	加納嘉徳	台湾	14歳		
小林覚	九段	58歳	1974	○	木谷實	長野	15歳		
王銘琬	九段	55歳	1977	○	富田忠夫	台湾	16歳		
依田紀基	九段	51歳	1980	○	安藤武夫	北海道	15歳		
趙善津	九段	46歳	1984	○	安藤武夫	韓国	14歳		
高尾紳路	九段	40歳	1991	○	藤沢秀行	千葉	15歳		
羽根直樹	九段	40歳	1991	○	羽根泰正	三重	15歳	中	
山下敬吾	九段	38歳	1993	○	菊池康郎	北海道	15歳		
張栩	九段	37歳	1994	○	林海峰	台北	15歳		
井山裕太	九段	27歳	2002	○	石井邦生	大阪	13歳	西	
島村俊廣	九段	-	1929	△	三宅一夫
鈴木為次郎	三重	17歳		
宮下秀洋	九段	-	1930	△	本因坊秀哉	福島	17歳		
藤沢朋斎	九段	-	1933	△		神奈川	15歳		
橋本昌二	九段	-	1947	△	橋本国三郎	兵庫	12歳	関	
工藤紀夫	九段	76歳	1955	△	前田陳爾
勝本哲州	青森	15歳		
羽根泰正	九段	72歳	1958	△	島村俊廣	三重	14歳	中	
片岡聡	九段	58歳	1972	△	榊原章二	千葉	14歳		
彦坂直人	九段	55歳	1976	△	馬場滋	愛知	15歳	中	
結城聡	九段	45歳	1984	△	佐藤直男	兵庫	13歳	関	
柳時熏	九段	45歳	1988	△	大枝雄介	ソウル	17歳		
山田規三生	九段	44歳	1989	△	島村俊廣	大阪	17歳	西	
河野臨	九段	36歳	1996	△	小林光一	東京	16歳		
坂井秀至	八段	43歳	2001	△	佐藤直男	兵庫	28歳	関	
村川大介	八段	26歳	2002	△	森山直棋	兵庫	12歳	関	
伊田篤史	八段	23歳	2009	△	馬場滋	三重	16歳	中	
茅野直彦	九段	79歳	1953		中村勇太郎	千葉	16歳		
戸沢昭宣	九段	76歳	1956		木谷實	北海道	16歳		
石井邦生	九段	75歳	1956		細川千仭	福岡	15歳	西	
三王裕考	九段	76歳	1957		瀬越憲作	広島	17歳		
小島高穂	九段	75歳	1959			横浜	17歳		
石榑郁郎	九段	74歳	1960		木谷實	岐阜	18歳		
高木祥一	九段	73歳	1962		中川新之	横浜	19歳		
福井正明	九段	73歳	1962		岩本薫	東京	19歳		
佐藤昌晴	九段	70歳	1964		木谷實	新潟	18歳		
酒井猛	九段	69歳	1964		中岡二郎	東京	17歳		
坂口隆三	九段	68歳	1965		藤田梧郎	京都	17歳	西	
中村秀仁	九段	71歳	1966		長谷川章	山梨	21歳		
宮沢吾朗	九段	67歳	1966		木谷實	北海道	17歳		
馬場滋	九段	69歳	1967		酒井利雄	愛知	20歳	中	
淡路修三	九段	67歳	1968		伊藤友恵	東京	19歳		
上村陽生	九段	67歳	1971		坂田栄男	宮﨑	22歳		
橋本雄二郎	九段	62歳	1971		大窪一玄	石川	17歳		
新垣武	九段	60歳	1971		坂田栄男	沖縄	15歳		
郡寿男	九段	60歳	1974			大阪	18歳	西	
伊藤廣二	九段	58歳	1975			愛知	17歳	中	
園田泰隆	九段	59歳	1976		木谷實	宮﨑	19歳		
黄孟正	九段	58歳	1976		富田忠夫	台湾	18歳		
神田英	九段	55歳	1977		安藤武夫	島根	16歳		
鄭銘コウ	九段	53歳	1979		富田忠夫	台湾	16歳		
石倉昇	九段	62歳	1980			神奈川	26歳		
安田泰敏	九段	53歳	1980		大枝雄介	福岡	17歳		
小県真樹	九段	52歳	1980		土田正光	岐阜	16歳	中	
大矢浩一	九段	51歳	1980		小林光一	東京	15歳		
後藤俊午	九段	50歳	1980		早瀬弘	兵庫	14歳	西	
マイケル
・レドモンド	九段	53歳	1981		大枝雄介	アメリカ	18歳		
宋光復	九段	53歳	1981		川本昇	東京	18歳		
小松英樹	九段	50歳	1981		安永一	愛知	15歳		
青木紳一	九段	51歳	1983		菊池康郎	神奈川	18歳		
大淵盛人	九段	51歳	1983		大枝雄介	福岡	18歳		
円田秀樹	九段	50歳	1983		辻井良太郎	佐賀	17歳	西	
広江博之	九段	50歳	1983		広江勝彦	岐阜	17歳	中	
今村善彰	九段	48歳	1983		島村俊廣	広島	15歳		
石田篤司	九段	47歳	1984		山下順源	大阪	15歳	西	
中小野田智己	九段	47歳	1984		安藤武夫	鹿児島	15歳		
森田道博	九段	46歳	1984		福井正明
藤沢秀行	千葉	14歳		
星野正樹	九段	50歳	1985		岡信光	千葉	18歳		
中野寛也	九段	47歳	1985		島村俊廣	広島	16歳	中	
場嘉源	九段	46歳	1985		大枝雄介	台湾	15歳		
三村智保	九段	47歳	1986		藤沢秀行	福岡	17歳		
大垣雄作	九段	47歳	1986		榊原章二	宮城	16歳		
松岡秀樹	九段	49歳	1987		土田正光	愛知	19歳	中	
加藤充志	九段	42歳	1990		菊池康郎	東京	16歳		
仲邑信也	九段	44歳	1991		山下順源	大阪	18歳	西	
秋山次郎	九段	39歳	1992		菊池康郎	東京	15歳		
溝上知親	九段	39歳	1993		菊池泰郎	長崎	16歳		
蘇耀国	九段	37歳	1994		敖立テイ	広東	15歳	
石井新蔵	九段	74歳	1957		橋本宇太郎	奈良	15歳	関	
大山国男	九段	72歳	1961		宮本直毅	福岡	17歳	関	
本田邦久	九段	71歳	1961		橋本宇太郎	石川	16歳	関	
牛窪義高	九段	69歳	1963		窪内秀知	高知	16歳	関	
牛之浜撮雄	九段	69歳	1963		宮本直毅	鹿児島	16歳	関	
遠藤隆博	九段	69歳	1965		小坂田幸次	京都	17歳	関	
太田清道	九段	68歳	1965		高川格
関山利一	愛媛	17歳	関	
森野節男	九段	66歳	1967		白石裕	鹿児島	13歳	関	
苑田勇一	九段	65歳	1968		小川正治	大阪	17歳	関	
山崎吉廣	九段	69歳	1968		白石裕	石川	20歳	関	
本田満彦	九段	68歳	1969		鯛中新	長崎	21歳	関	
川村和憲	九段	66歳	1971		窪内秀知	兵庫	21歳	関	
村岡茂行	九段	61歳	1972		白石裕	高知	17歳	関	
久保勝昭	九段	59歳	1972		窪内秀知	大阪	15歳	関	
堀田陽三	九段	60歳	1973		窪内秀知	兵庫	17歳	関	
長谷川直	九段	57歳	1973		関山利夫	京都	14歳	関	
清成哲也	九段	55歳	1976		倉橋正蔵	宮崎	15歳	関	
高原周二	九段	52歳	1979		橋本昌二	長崎	15歳	関	
今村俊也	九段	51歳	1980		苑田勇一	奈良	15歳	関	
湯川光久	九段	51歳	1980		家田隆二	大阪	14歳	関	
滝口政季	九段	54歳	1981		東野弘昭	香川	19歳	関	
森山直棋	九段	51歳	1981		橋本昌二	愛知	16歳	関	
横田茂昭	九段	47歳	1983		赤木一夫	岡山	14歳	関	
新垣朱武	九段	46歳	1985		太田清道	沖縄	15歳	関	
倉橋正行	九段	44歳	1986		藤沢秀行
倉橋正蔵	大阪	24歳	関	
陳嘉鋭	九段	62歳	1987			広東	33歳	関	
山田規喜	九段	45歳	1987		本田邦久	福井	15歳	関	
矢田直乙	九段	43歳	1988		白石裕	和歌山	15歳	関	
関山利道	九段	43歳	1988		関山利夫	大阪	15歳	関	
中野泰宏	九段	43歳	1992		森野節男	福岡	19歳	関	
八段以下
棋士	段
位	年
齢	入
段		師匠	出
身	入段
年齢	所
属	
杉内寿子	八段	90歳	1942						女流
江面雄一	八段	74歳							
井上国夫	八段	69歳							
奥村英夫	八段	68歳						中	
梅木英	八段								
尾越一郎	八段								
土井誠	八段	62歳							
小松藤夫	八段	57歳							
吉岡薫	八段	57歳						中	
佐々木正	八段								
片山安雄	八段	52歳						中	
藤澤一就	八段	52歳	1981						
村松竜一	八段	54歳							
小長井克	八段	53歳							
恩田烈彦	八段	52歳							
西村慶二	八段	49歳							
岡田伸一郎	八段	50歳							
星野正樹	八段								
植木善大	八段	48歳						西	
泉谷英雄	八段	47歳							
大森泰志	八段	49歳							
青木喜久代	八段	48歳	1986						女流
楊嘉栄	八段	46歳							
酒井真樹	八段	48歳							
佐坂志朗	八段	47歳						西	
釼持丈	八段	47歳							
井口豊秀	八段	45歳							
有村比呂司	八段	44歳							
中根直行	八段	44歳						中	
高梨聖健	八段	45歳	1989						
中尾準吾	八段	47歳							
杉本明	八段	43歳							
河野貴至	八段	42歳							
矢中克典	八段	45歳						西	
河野光樹	八段	43歳							
下島陽平	八段	38歳							
山田拓自	八段	37歳							
潘善琪	八段	40歳							
金秀俊	八段	38歳	1996						
張豊猷	八段	35歳	1997						
黄翊祖	八段	30歳	2002		鄭銘瑝	台北	15歳		
宮川史彦	八段	45歳	1989					中	
家田隆二	八段							関	
楳田晴彦	八段							関	
倉橋正蔵	八段							関	
徳永汎久	八段							関	
谷田治巳	八段							関	
小田浩光	八段							関	
吉田昇司	八段							関	
斎藤正	八段							関	
吉田美香	八段		1986					関	
本田悟朗	八段							関	
小西和子	八段		1989					関	
古谷裕	八段							関	
楠光子	七段		1956						女流
長原芳明	七段								
泉谷政憲	七段								
鄒海石	七段								
笠井浩二	七段								
谷口敏則	七段								
山本正人	七段								
金川正明	七段								
小林健二	七段								
大野伸行	七段								
萩原睦	七段								
梁川裕政	七段							西	
円田陽一	七段							西	
下地玄昭	七段								
鄭銘琦	七段								
前田良二	七段								
高林正宏	七段							西	
篠田三明	七段							中	
山田和貴雄	七段							西	
奥村靖	七段							中	
大木啓司	七段								
山田至宝	七段							西	
鈴木伊佐男	七段								
鶴丸敬一	七段								
宮崎龍太郎	七段								
佐野貴詔	七段							西	
北野亮	八段							西	
遠藤悦史	七段								
水間俊文	七段								
黒瀧正憲	七段								
高橋秀夫	七段								
田原靖史	七段								
金澤秀男	七段								
鈴木嘉倫	七段								
武井孝志	七段							西	
松本武久	七段		1997						
高野英樹	七段		1998						
孔令文	七段								
鶴山淳志	七段		1999						
首藤瞬	七段								
望月研一	七段								
林漢傑	七段		2000						
三谷哲也	七段		2002						
大場惇也	七段								
安斎伸彰	七段								
李沂修	七段	28歳	2004		潘善琪	台湾	16歳		
大橋成哉	七段	26歳	2005		仲邑信也	大阪	15歳	西	
内田修平	七段	27歳	2005		大淵盛人	山梨	16歳		
志田達哉	七段	26歳	2006			福井	16歳	中	
金沢真	七段	24歳	2007		藤沢秀行	神奈川	15歳		
一力遼	七段	19歳	2010		宋光復	宮城	13歳		
本木克弥	七段	21歳	2012		藤澤一就	群馬	17歳		
平田智也	七段	23歳	2010		宋光復	広島	17歳		
紙谷哲雄	七段							関	
三川新次	七段							関	
端山省三	七段							関	
出雲哲也	七段							関	
金野為人	七段							関	
榊原正晃	七段							関	
金秉民	七段							関	
勝間史朗	七段							関	
藤井秀哉	七段		1996					関	
瀬戸大樹	七段	33歳	2000				17歳	関	
余正麒	七段	21歳	2009		張呂祥	台湾	14歳	関	
高見沢忠夫	六段								
高林拓二	六段								
明戸和巳	六段								
小川誠子	六段		1970						女流
信田成仁	六段								
平本弥星	六段								
郭求真	六段								
浜中隆光	六段							中	
峯松正樹	六段							西	
萩谷和宏	六段								
玉城忍	六段								
小山栄美	六段		1987						女流
小山竜吾	六段								
菅野昌志	六段								
岡田結美子	六段		1989						女流
加藤朋子	六段		1991						女流
桑本晋平	六段							西	
松原大成	六段								
矢代久美子	六段								女流
黒瀧正樹	六段								
荒木一成	六段							西	
久保秀夫	六段								
小林泉美	六段		1995						女流
吉原由香里	六段		1996						女流
桑原陽子	六段		1996						女流
佐々木毅	六段							西	
熊丰	六段								
光永淳造	六段		1999						
加藤啓子	六段								女流
加藤祐輝	六段							中	
岩丸平	六段							西	
山森忠直	六段		2000					中	
川田晃平	六段							中	
山田晋次	六段								
鈴木歩	六段		2001						女流
大橋拓文	六段								
但馬慎吾	六段							西	
謝依旻	六段	27歳	2004		黄孟正	台湾	15歳		女流
白石勇一	六段		2005						
山中章雄	六段							関	
岡橋弘忠	六段							関	
柏原康人	六段							関	
高橋功	六段							関	
石井資郎	六段							関	
張呂祥	六段							関	
芦田磯子	六段		1975					関	
山内正樹	六段							関	
角慎介	六段							関	
林耕三	六段							関	
八幡幸一	六段							関	
榊原史子	六段		1989					関	
藤原克也	六段							関	
前田亮	六段							関	
今井一宏	六段							関	
河英一	六段							関	
河合哲之	五段								
河野征夫	五段								
小林千寿	五段		1972						女流
叶井天平	五段								
小山秀雄	五段								
新海洋子	五段		1978						女流
佐藤文俊	五段								
堀田誠司	五段							中	
平野則一	五段								
菊地義雄	五段								
中澤彩子	五段								女流
佃亜紀子	五段							西	女流
河合将史	五段								
桂篤	五段								
タラヌ・カタリン	五段							中	
王唯任	五段								
山本賢太郎	五段							西	
武宮陽光	五段								
阪本寧生	五段							西	
向井千瑛	五段								女流
鈴木伸二	五段	26歳	2008		岩田一	北海道	18歳		
村松大樹	五段	28歳	2009		仲邑信也	大阪	20歳	西	
知念かおり	五段		1993						女流
窪内秀明	五段							関	
丸山豊治	五段							関	
長崎裕二	五段							関	
松村修	五段							関	
影山敏之	五段							関	
水野弘美	五段							関	
鈴木敬施	五段							関	
孫英世	五段							関	
四段以下
棋士	段
位	年
齢	入
段		師匠	出
身	入段
年齢	所
属	
田中智恵子	四段							西	女流
高群徹朗	四段		1979					中	
小松英子	四段								
桐本和夫	四段		1982					西	
原幸子	四段								
金艶	四段								
富永武	四段		1992						
稲垣陽	四段		1992					中	
古田直義	四段		1993					西	
青葉かおり	四段								
巻幡多栄子	四段								
大澤奈留美	四段								
井澤秋乃	四段								
金賢貞	四段							中	
万波佳奈	四段								
上田崇史	四段		2001						
竹清勇	四段		2001						
古家正大	四段		2003					西	
安藤和繁	四段		2004						
柳澤理志	四段		2005					中	
玉井伸	四段		2005						
田尻悠人	四段		2007						
富士田明彦	四段		2007						
寺山怜	四段		2008						
大淵浩太郎	四段	24歳	2009		大淵盛人	神奈川	17歳		
孫喆	四段	21歳	2011		萩原睦	神奈川	16歳		
村岡美香	四段							関	
白石京子	四段							関	
李楊	四段							関	
星川拓海	四段							関	
久保田大	四段							関	
畠中星信	四段							関	
尚司和子	三段								
中山薫	三段								
菅野尚美	三段								
水戸夕香里	三段							西	
穂坂繭	三段								
甲田明子	三段								
村上晶英	三段								
奥田あや	三段								
万波奈穂	三段								
堀本満成	三段								
熊本秀生	三段							中	
伊藤優詩	三段								
安達利昌	三段								
沼舘沙輝哉	三段								
竹内康祐	三段								
鶴田和志	三段	21歳	2010		吉岡薫	愛知	15歳	中	
藤沢里菜	三段	18歳	2010		藤沢秀行	埼玉	12歳		
許家元	三段	19歳	2013		高林拓二	台湾	16歳		
佐藤彰	三段							関	
荒木真子	三段							関	
多冨佳絵	三段							関	
小野幸治	三段							関	
田村千明	三段							関	
三根康弘	三段							関	
金昞俊	三段							関	
髙嶋武	三段							関	
星川航洋	三段							関	
井上直紀	三段							関	
尹春浩	三段							関	
古庄勝子	二段								
谷宮絢子	二段								
井上初枝	二段								
佐藤真知子	二段								
木谷好美	二段							西	
中村邦子	二段								
松本奈代子	二段							中	
重野由紀	二段							中	
一色識央	二段								
上地宏樹	二段							中	
武田祥典	二段							中	
関達也	二段								
大澤健朗	二段							中	
小田鉄兵	二段							西	
稲葉貴宇	二段								
高木淳平	二段							西	
高橋真澄	二段							中	
吉川一	二段							西	
常石隆志	二段								
小松大樹	二段							西	
風間隼	二段								
菊地正敏	二段							中	
大西研也	二段								
田中伸幸	二段							西	
藤村洋輔	二段		2013						
姚智騰	二段		2013						
小山空也	二段	20歳	2014		小山竜吾	神奈川	18歳		
六浦雄太	二段	17歳	2014		羽根泰正	愛知	15歳	中	
芝野虎丸	二段	17歳	2015			神奈川	16歳		
浅野泰子	二段							中	
古川坤鈺	二段								
長島梢恵	二段								
中島美絵子	二段								
種村小百合	二段							西	
三村芳織	二段								
兆乾	二段								
王景怡	二段							中	
下坂美織	二段								
伊藤加代子	二段							関	
井上綾子	二段							関	
星川愛生	二段							関	
木和田一臣	二段							関	
石井茜	二段							関	
小野田拓弥	二段							関	
洪清泉	二段							関	
谷口徹	二段							関	
佐田篤史	二段							関	
吉田晴美	初段								
卞聞愷	初段		2013					中	
大谷直輝	初段		2014					西	
外柳是聞	初段		2014						
張瑞傑	初段		2014						
宇谷俊太	初段							西	
羽根しげ子	初段							中	
富紅梅	初段								
渋澤真知子	初段								
宮本千春	初段							西	
木部夏生	初段								
星合志保	初段		2013						
金子真季	初段		2014						
國澤大斗	初段							関	
飛田早紀	初段							関	
橋本寛	初段							関	
姜旼候	初段							関	
渡辺貢規	初段							関	
新井満涌	初段							関	
阿部良希	初段							関	
原正和	初段							関	
内海晃希	初段							関	
呉柏毅	初段							関	
飯田純也	初段							関	
髙嶋湧吾	初段							関	
渡辺由宇	初段							関	
西山静佳	初段							関	
西健伸	初段							関	
清成真央	初段							関	
黎婷	初段							関	
出口万里子	初段							関	
佐藤洋平	初段							関	
大熊悠人	初段							関	
髙津昌昭	初段							関	
佐藤優太	初段							関	
中條ちひろ	初段							関	
王景弘	初段							関	
太田亮	初段							関	
田口美星	初段							関	
マイヤー・フランシス	初段							関	
棋士	段
位	年
齢	入
段		師匠	出
身		所
属	
引退棋士
東京本院
棋士	入段		師匠
石井衛	1952		細川千仭
谷宮悌二	1955		梶和為
小杉清	1957		小杉直楓
黒沢忠尚	1959		中村勇太郎
春山勇	1960		五十川正雄
木谷實
川本昇	1961		増淵辰子
福井進	1965		岩本薫
石田章	1966		福田正義
金島忠	1968		木谷實
時本壱	1968		宮下秀洋
梅木英	1969		岩本薫
岩田一	1970		
尾越一郎	1976		木谷實
鳴沢泰一	1978		
松本篤二	1941		木谷實
本間明男			
白江治彦	1957		大窪一玄
小山鎮男			
浅野英昭	1966		木谷實
鄒海石			
小杉勝			
本田幸子	1947		木谷實
安藤武夫			
岡信光			
趙祥衍	1963		木谷實
野口仁	1967		岩本薫
宮崎洋			
吉田洋逸			
額謙	1969		木谷實
大戸省三	1971		木谷實
等力博			
関和也			
鈴木津奈			
白鳥澄子			
酒井正則			
近藤幸子			
伊藤義夫			
宮崎志摩子	1987		大枝雄介
久保本登美子			
安東明雄			
佐藤真知子	1972		木谷實
尾崎宏			
宮下鈴枝			
ジェームス
・カーウィン	1978		岩本薫
関西総本部
棋士	入段		師匠
橋本誼	1950		鍋島一郎
西上好彦	1960		細川千仭
辻井良太郎			
天宅信雄			
川村匡迪			細川千仭
松岡章			
田中秀春			
谷村義行			
平野正明			細川千仭
前谷信吾			細川千仭
井手八百次郎			
太田正人			
谷村久仁子			
中部総本部
棋士	入段		師匠
岩田達明	1943		木谷實
桑田泰明	1959		
土田正光	1961		木谷實
西條雅孝	1964		酒井康雄
伊藤誠	1964		木谷實
森島薫			
下平昭夫			
酒井義允			
酒井栄男			
山下克久			
池崎世典			
奥村登			
島村導弘			島村俊廣
西本欽哉			
関西棋院
棋士	入段		師匠
東野弘昭九段			
松浦日出夫八段			
窪内秀知九段			
中井喜三二段			
森山玄之二段			
近藤進二段			
白石裕九段			
吉田宅治八段			
水谷守江三段			
森川満夫七段			
楳田晴彦九段			
井上修作六段			
窪内秀明六段	1963		窪内秀知
柏原康人七段	1958		鯛中新
宮本義久九段	1951		橋本宇太郎
物故棋士
日本棋院
棋士	入段		師匠
広江勝彦	1960		酒井利雄
鍋島昭			
武田みさを			
大窪一玄	1944		増淵辰子
松岡輝夫			
呉清源	1929		瀬越憲作
岡谷三男			細川千仭
佐々木正	1980		坂田栄男
筒井勝美	1947		木谷實
酒牧幸典			
吉田陽一	1953		細川千仭
岡光雄			
鈴木政春			鈴木為次郎
神林春子			
大山寿子			
早瀬弘	1955		瀬川良雄
石橋千涛			
益子富美彦			大枝雄介
尾崎春美			木谷實
小西泰三			
山本豊			
安藤俊行			
横山国忠	1958		高橋俊光
大枝雄介	1954		前田陳爾
北村洋司			
中山典之			
梶原武雄	1937		関山利一
安倍吉輝	1960		
榊原章二	1944		
渡辺礼二			
長谷川加与子			
関根直久			
森川正夫			
久島国夫	1965		木谷實
水野一郎			
横山孝一			
浮田昌侑	1969		岩本薫
玉木昌治			
長沼信	1950		瀬尾寿
上村邦夫	1962		木谷實
中岡二郎	1941		鹿間千代治
伊藤有			
石毛嘉久夫			木谷實
道家昂			
ハンス・ピーチ	1997		小林千寿
稲垣弘一	1953		酒井康雄
児玉国夫			
瀬川良雄	1929		久保松勝喜代
大谷素弘			
田亦聖			
山下順源	1963		細川千仭
山崎祐男			関山利一
佐藤馨			
木村嘉男			
梶和為	1941		木谷實
久井敬史	1937		瀬越憲作
山部俊郎	1941		向井八段
石榑まき子	1972		木谷實
平光尚			
加納嘉徳	1943		鈴木秀子
天野雅文			藤沢秀行
井口精治			
桜本三郎			
大平修三	1947		木谷實
小林誠一			鈴木為次郎
渡辺英夫			
芦葉勝美	1942		木谷實
小林禮子	1956		木谷實
関西棋院
棋士	入段		師匠
深川牛次郎三段			
山口賛石七段			
岩田三郎五段			
朝倉忠雄五段			
石嶺真一六段			
新村新一四段			
沼田耕蔵五段			
鈴木越雄八段			
小坂田幸次八段			
寺田健一五段			
松浦吉洋九段			
伊藤和照五段			
桜井将也五段			
鯛中新九段			
関山利夫九段	1951		関山利一
余田一雄七段			
刈谷啓八段			
小松重雄四段			
西沢克晃七段			
水田羨博九段			
藤木人見八段			
小林将宏七段			
岸本一男九段			
赤木一夫八段			
小川正治六段			
亀山稔八段			
飯野靖峯七段			
小山靖男九段			
柳内恵美子四段			
小林正昌四段			
武田賢子二段			
長谷川広七段			
田辺巖人五段			
岡部洋明七段			
佐藤直男九段			
木下敬章六段			
青柳英雄八段			
伊神肇七段			
濱田守哉七段			
水野弘士九段			
井上要九段			
植村四郎七段			
東野政治九段			
大熊千久子四段			
安田清七段			
島田義邦六段			
南善己九段			
宮本直毅九段			
横山達也五段			
浅野時秀七段			
星川信明九段			
畑中喜見生三段			
徳永汎久九段	1963		関山利一
赤木一夫
外部リンク
日本棋院の棋士紹介ページ
関西棋院の棋士紹介ページ
■
 李世乭 名人
名前	李世乭
生年月日	1983年3月2日(34歳)
プロ入り年	1995年
出身地	全羅南道新安郡
所属	韓国棋院
師匠	権甲龍
在位中タイトル	名人
段位	九段
概要
この表について[表示]
獲得メダル
韓国の旗 韓国
囲碁
2010年アジア競技大会
金	2010	団体戦
本来の表記は「李世乭」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
李 世乭(イ・セドル、이세돌、1983年3月2日 - )は、韓国の囲碁棋士[1]。全羅南道新安郡の新安諸島飛禽島出身、権甲龍八段門下、韓国棋院所属、九段。兄は棋士の李相勲。国際棋戦で李昌鎬に次ぐ優勝数回を記録し、2000年代から2010年代前半における世界最強の棋士と目されている。
目次 
1	棋風
2	経歴
2.1	棋士休職と復職
3	タイトル歴
3.1	国際棋戦
3.2	国内棋戦
3.3	その他の棋歴
4	著書
5	脚注
6	関連項目
7	外部リンク
棋風
従来の定石に囚われない独創性の強い戦闘的なスタイル。「囲碁界の魔王」「不敗少年」とも呼ばれる。
経歴
父から碁を習い、6歳頃から棋譜並べをしていた。1995年入段。入段後すぐに頭角を現し「不敗少年」というニックネームで呼ばれた。1996年には第1回LG杯世界棋王戦の前夜祭で、曺薫鉉と公開対局を行い先番ジゴ。2000年、17歳の時にバッカス杯天元戦に優勝して初タイトル。またこの年には32連勝も記録した。2003年にKT杯戦に準優勝して七段昇段。また富士通杯世界選手権で2002年、2003年と連続優勝し、九段昇段。国際棋戦重視と言われていたが、2006年には国内棋戦4冠を達成し、李昌鎬と並ぶ実績を挙げ、2007年韓国等級ランキングでは1位に躍り出る。2007年から再開された名人戦ではリーグ戦を7勝2敗で1位となり、6勝3敗の同率決戦で睦鎮碩を制した趙漢乗を、五番勝負で3-0で破って名人位となる。また2007年から08年にかけて、トヨタ&デンソー杯、テレビ囲碁アジア選手権、三星火災杯、LG杯と世界戦4冠を達成。
2006年に結婚。結婚式は3月12日で、この前後の11、13日には春蘭杯世界囲碁選手権戦の1、2回戦が北京で行われ、春蘭杯の日程を知らなかったと言われつつも、北京とソウルを飛行機で往復して対局をこなしてタラヌ・カタリン、羅洗河を破りベスト8に進出したが、9月の準々決勝で謝赫に敗れた。中国甲級リーグでは2004年から貴州チームに参加、2008年には全勝すると10万元、敗れると一銭もなしという契約で8戦全勝を果たし、さらに2009年第10戦で敗れるまでリーグ戦19連勝を果たす。韓国囲碁リーグでは、2005年ピーマン、2006-08年は第一火災チームに参加。農心辛ラーメン杯では2008-09年に初出場し、常昊、古力の二人抜きして韓国優勝を果たした。
棋士休職と復職
2009年4月に、韓国囲碁リーグへの不参加、中国囲棋リーグ戦の契約金5%を韓国棋院に提供しないこと、棋譜の管理を韓国棋院にゆだねることの拒否を表明。これに対して韓国棋院では李の処分を諮り、李は6月に疲労など理由に1年半の棋士休業を発表し、認められた。ただし既に契約済みの中国囲棋リーグには参加を続ける。[2][3]
その後12月に復職依頼を提出して、2010年1月から棋戦に復帰。以来5月まで24連勝し、その間にBCカード杯優勝などして、棋士ランキングも3月には1位に復帰し、2012年6月に朴廷桓に抜かれるまで27か月間1位を維持。2010年11月のアジア競技大会では男子団体戦に出場して金メダル獲得。韓国囲碁リーグでは13勝2敗の成績で新安チーム優勝に貢献し、MVP受賞。
2014年に古力とMilly夢百合杯十番碁を行い、8局目までで6勝2敗で終了。テレビ囲碁アジア選手権戦に2014-15年に2連覇。
2016年、コンピュータ囲碁プログラムであるAlphaGoと対局し1勝4敗と敗れ、コンピュータ囲碁の実力が世界トップクラスの棋士に追いついたことを示した。
詳細は「AlphaGo対李世ドル」を参照
タイトル歴
国際棋戦
棋戦	1997	1998	1999	2000	2001	2002	2003	2004	2005	2006	2007	2008	2009	2010	2011	2012	2013	2014	2015
応昌期杯	-	×	-	24強	-	4強	-	16強	-
富士通杯	×	×	×	×	24強	優勝	優勝	16強	優勝	4強	16強	8強	8強	準優勝	8強	終了
三星杯	×	×	×	16強	8強	32強	8強	優勝	8強	16強	優勝	優勝	×	8強	16強	優勝	準優勝	8強	4強
LG杯	24強	24強	×	準優勝	4強	優勝	8強	8強	4強	16強	優勝	準優勝	32強	32強	32強	16強	16強	32強	×
春蘭杯	-	×	×	×	-	24強	-	24強	-	8強	-	16強	-	優勝	-	準優勝	-	16強	-
BCカード	-	4強	優勝	優勝	32強	終了
トヨタ杯	-	16強	-	優勝	-	優勝	-	8強	終了
中環杯	-	×	準優勝	-	16強	終了
百霊杯	-	32強	-	64強	-
夢百合杯	-	32強	-	準優勝
アジア杯	×	×	×	×	×	4強	×	×	×	×	優勝	優勝	準優勝	×	×		1R	優勝	優勝
農心杯	-	×	×	×	×	×	×	×	×	×	2:0	×	2:1	×	×	×	×	×
「囲碁世界タイトルの獲得者一覧」も参照
タイトル	獲得年度	獲得期数	連覇
世界囲碁選手権富士通杯	2002‐03、05	3期	2
三星火災杯世界オープン戦	2004、08、09、12	4期	
LG杯世界棋王戦	2003、08	2期	
春蘭杯世界囲碁選手権戦	2011	1期	
トヨタ&デンソー杯囲碁世界王座戦	2005、07	2期	2
テレビ囲碁アジア選手権戦	2007、08、14、15	4期	2
農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦	08、10	2期	
鳳凰古城世界囲棋嶺鋒対決 2009年(○古力)
BCカード杯世界囲碁選手権 2010-11年
囲碁世界タイトル優勝記録
順位	優勝回数	棋士名
1位	21	韓国の旗李昌鎬*
2位	18	韓国の旗李世乭*
3位	11	韓国の旗曺薫鉉*
4位	8	中華人民共和国の旗古力*
5位タイ	6	日本の旗武宮正樹* | 韓国の旗劉昌赫* | 中華人民共和国の旗孔傑*
8位タイ	4	日本の旗依田紀基*| 中華人民共和国の旗柯潔*
10位タイ	3	中華人民共和国の旗兪斌* | 韓国の旗朴永訓* | 中華人民共和国の旗常昊* | 韓国の旗崔哲瀚* 
表示
*は現役棋士
国内棋戦
「韓国の囲碁タイトル在位者一覧」も参照
タイトル	獲得年度	登場	獲得期数	連覇
国手	2007-08	3	2期	2
名人	2007-08、12、15	4	4期	2
天元	2000	3	1期	
倍達王	2000	1	1期	
バドゥク王	2006、14	4	2期	
十段	2011	1	1期	
オスラムコリア杯新鋭連勝最強戦 2001年
KTF杯戦 2001年
BCカード杯新人王戦 2002年
SKガス杯新鋭プロ十傑戦 2002年
LG精油杯プロ棋戦/GSカルテックス杯プロ棋戦 2002、06、12年
マキシムコーヒー杯入神連勝最強戦 2005-07、14年
物価情報杯プロ棋戦 2006-07、10年
OllehKT杯オープン選手権 2010-12年
LetsRunPark杯オープントーナメント 2015年
その他の棋歴
ワールドマインドスポーツゲームズ 2008年 男子団体戦金メダル
アジア競技大会 2010年 男子団体戦金メダル
スポーツアコードワールドマインドゲームズ 2011年 混合団体戦金メダル
LG杯世界棋王戦 準優勝 2001、09年
テレビ囲碁アジア選手権戦 準優勝 2009年
世界囲碁選手権富士通杯 準優勝 2010年
三星火災杯世界囲碁マスターズ 準優勝 2013年
春蘭杯世界囲碁選手権戦 準優勝 2013年
中韓天元対抗戦 2001年 0-2 常昊
中韓新人王対抗戦 2002年 2-1 彭筌
鳳凰古城世界囲棋嶺鋒対決 2007年 ×羅洗河
桂林杯世界冠軍争覇戦 2位 2012年
CSK杯囲碁アジア対抗戦
2001年 2-0(○羽根直樹、○楊嘉源)
2002年 1-2(○劉菁、×依田紀基、×王立誠)
2003年 2-1(○王銘琬、○羽根直樹、○丁偉)
2004年 3-0(○王立誠、○羽根直樹、○古力)
2006年 2-1(○高尾紳路、○王銘琬、×古力)
江原ランド杯中韓囲碁対抗戦
2006年 1-1(○朴文尭、×陳耀燁)
農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦
2009年 2-0(○常昊、○古力)
2010年 2-1(○王檄、○井山裕太、×謝赫)
招商地産杯中韓囲棋団体対抗戦
2014年 1-1(○芈昱廷、×古力)
国手山脈杯国際囲棋戦
2014年 1-2 柁嘉熹
2015年 1-2(×范廷鈺、○芈昱廷、×柁嘉熹 )
中国囲棋甲級リーグ戦
2004年(貴州咳速停)2-4
2005年(貴州咳速停)3-1
2006年(貴州咳速停)6-3
2007年(貴州咳速停)9-3
2008年(貴州百魂)8-0
2009年(貴州百魂)6-4
2012年乙級(広西華藍)6-1
2013(広西華藍)8-4
2014(広西華藍)9-3
2015(広西華藍)
韓国囲碁リーグ
2004年(ハンゲーム)5-2
2005年(ピーマン)3-4
2006年(第一火災)9-5
2007年(第一火災)9-4
2008年(第一火災)11-3
2010年(新安天日塩)13-2(MVP)
2011年(新安天日塩)10-4
2012年(新安天日塩)11-3
2013(新安天日塩)8-4
2014(新安天日塩)9-3
2015(新安天日塩)
著書
『李世乭名局撰集(上)(中)(下)』棋苑図書 2012年
脚注
^ 名前の漢字表記について
日本語と中国語では「乭」という文字がないので、「石」、「ドル」、「dol」などの表記に代替することもある。「乭」(ハングル:돌、「トル」または「ドル」に転写)は韓国の国字で、「石」を意味する。韓国の男性の中には、韓国語(朝鮮語)の固有語(日本語の和語に相当)風の「~乭」という名前がたまにある。韓国語で「乭」と同一な字音を持つ漢字は「突」などがある。乭の仮名への転写は、異音によって「トル」または「ドル」とする。詳しくは朝鮮語の音韻を参考。
^ 韓国棋院 이세돌 9단의 한국리그 불참은 잘못됐다!?
^ 朝日新聞 韓国ナンバーワン棋士の李九段、1年半の休職届を提出
関連項目
AlphaGo対李世ドル
■
AlphaGo対李世ドル
本来の表記は「AlphaGo対李世乭」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
AlphaGo対李世乭(アルファご・たい・イ・セドル)は、韓国のプロ囲碁棋士李世乭とGoogle DeepMindによって開発されたコンピュータ囲碁プログラムAlphaGoとの間の囲碁五番勝負である。この対局は1997年に行われたディープ・ブルーとガルリ・カスパロフとの間の歴史的なチェス対局と比較されている。
対局はコミ7目半の中国ルールを使い、持ち時間は両者2時間で、切れると1手1分の秒読み、ただし1分単位で合計3回の考慮時間がある[1]。
勝者(勝ち越し者)は100万米ドルの賞金を得る。もしAlphaGoが勝利すれば、賞金はUNICEFを含むチャリティーへ寄付される[2]。賞金に加えて、李世乭は全5戦の対局料として15万米ドル、1勝につき2万米ドルを得る[1]。
目次 
1	背景
1.1	AI分野における難問
1.2	樊麾との対局
2	対局者
2.1	AlphaGo
2.2	李世乭
3	規則
4	対局
4.1	概要
4.2	第1局
4.3	第2局
4.4	第3局
4.5	第4局
4.6	第5局
5	配信
6	関連項目
7	脚注
背景
AI分野における難問
詳細は「コンピュータ囲碁」を参照
囲碁は創造的、戦略的思考を必要とする複雑なボードゲームである[3]。長い間、AIの分野における難問と見なされており、チェスよりも解決がかなり困難である。数学者のI・J・グッドは1965年に以下のように記している[4]。
コンピュータ上の囲碁? – 単に規則に則ったゲームというよりも、合理的な囲碁のゲームをプレーするようにコンピュータをプログラムするためには – 戦略の原理を形式化する、あるいは学習プログラムを設計する必要がある。囲碁の原理はチェスよりも質的かつ神秘的であり、判断力により依存する。したがって、囲碁の合理的なゲームをプレーするようコンピュータをプログラムすることは、チェスの場合よりもさらにいっそう難しいだろうと私は考える[5]。
2015年より前は[6]、最良の囲碁プログラムはアマチュアの段レベルに達するのがやっとであった[7]。小さな9路盤(9×9)ではコンピュータは健闘し、一部のプログラムはプロ棋士に対して9路盤で勝利できるが、標準的な19路盤ではプロ棋士に太刀打ちできていなかった[8]。人工知能の分野における多くの人々も、囲碁はチェスよりも人間の思考を模倣するためにより多くの要素を必要とすると考えていた[9]。
AlphaGoはそれ以前のAIの取り組みとはニューラルネットワークを応用している点において最も大きく異なっている。ニューラルネットワークでは、評価経験則が人間によってハードコードされておらず、代わりにプログラム自身によって自分自身との対局を数千万回繰り返すことによってかなりの程度まで学ぶ。AlphaGoの開発チームでさえ、AlphaGoがどのように石の配置を評価し次の手を選択しているかを指摘することはできない。モンテカルロ木探索(英語版)もプログラムの推論効率を改善するための主要な方法として用いられている。
コンピュータ囲碁研究の結果は、認知科学、パターン認識、機械学習といったその他の同様の分野に応用されている[10]。
樊麾との対局

樊麾対AlphaGo – 第5局
AlphaGoは2015年10月に、ヨーロッパ王者でプロ二段の樊麾(英語版)を5-0で破った。AIが人間のプロ棋士をハンディキャップなしの19路盤で破ったのはこれが初めてであった[11][12]。一部の解説者は樊麾と李世乭(プロ九段)との間の実力の差を強調した[13]。コンピュータプログラムのZenとCrazy Stone(英語版)はこれ以前に九段のプロ棋士を4子のハンディキャップ付きで破っていた[14][15]。カナダのAI専門家ジョナサン・シェーファー(英語版)は、樊との対局後に論評し、AlphaGoを未熟な「神童」と比較して、「プログラム(AlphaGo)が真にトップの棋士と対局した時が本物の成果となるだろう」と考えた。シェーファーは、2016年3月の対局では李が勝利するだろうと考えた[12]。プロ棋士で国際囲碁連盟事務局長の李夏辰(英語版)は、AIが李に挑戦する見通しに「非常に興奮している」と意見を述べ、両者に等しく勝利する機会があると考えた[12]。
プロ棋士は、樊とAlphaGoの対局から、大局観が要求される局面でミスがあることなどは分かっていたが、それから3月までにどの程度プログラムが改善されているかは分からなかった[16][17]。Google DeepMindのデイヴィッド・シルバーは、AlphaGoは李の以前の棋譜を使って特別に鍛えられてはいないと述べた[18]。
対局者
AlphaGo
詳細は「AlphaGo」を参照
AlphaGoはGoogle DeepMindによって開発された囲碁をプレーするコンピュータプログラムである。AlphaGoのアルゴリズムは機械学習と木探索手法の組み合わせを用いており、人間の対局とコンピュータの対局の両方からの広範囲の訓練を組み合わせている。システムのニューラルネットワークは当初、人間の対局の専門知識からブートされた。AlphaGoは最初は、約3千万通りの着手のデータベースを使って、記録されている歴史的な対局の熟練した棋士の着手と一致するように試みることによって人間の打つ手を模倣するように訓練された[19]。ある程度の熟練度に達した時点で、強化学習の手法を用い、旧バージョンのAlphaGo自身との考慮時間が極端に短い対局を繰り返して訓練された[20]。システムはプレーする手の「データベース」を使用しない。AlphaGoの作成者の一人が説明したように[21]、
我々はこの機械をプレーするようにプログラムしたが、それがどんな手を思い付くかは全く分からない。その手は訓練からの創発現象である。我々は単にデータセットと訓練アルゴリズムを作成しただけだ。しかし、それが思い付く手は我々の手を離れており — そして碁打ちとして我々が思い付くものよりもずっと優れている。
李との対局に使用されるAlphaGoのバージョンは、樊麾との対局と同等のコンピュータパワー(1,202 CPU、176 GPU)を使う[22]。
李世乭
詳細は「李世ドル」を参照

李世乭(2012年)
李世乭は九段のプロ囲碁棋士[23]であり、世界最強の囲碁棋士の1人である。1996年に12歳でプロに昇段し、それ以降に18回の世界王者となっている[24]。李は出身の韓国において「国民的英雄」であり、型にはまらない創造的なプレーで知られている[25]。李世乭は当初AlphaGoを「大勝」で破るだろうと予測した[25]。対局の数週間前、李は韓国の名人戦で勝利した[25]。
規則
対局は五番勝負で行われ、賞金は100万米ドルである[2]。中国ルールに従い、コミは7目半。持ち時間は両者2時間で切れると1手1分以内に着手、ただし1分単位で合計3回の考慮時間がある[1]。対局は3月9日から15日までの1週間で行われ、13時(日本・韓国標準時)から始まる[26]。
対局
この対局は韓国ソウルのフォーシーズンズホテルで2016年3月に行われ、ライブでストリーミング配信される[27][28][29]。DeepMindチームのメンバーでアマチュア6段の黄士傑 (Aja Huang、台湾出身)がAlphaGoのために碁盤に石を置く。AlphaGoはアメリカ合衆国に位置するサーバを使ったGoogleのクラウドコンピューティングによって動作する[30]。
概要
対局
日付	黒番	白番	結果	手数
第1局	2016年3月9日	李世乭	AlphaGo	AlphaGo中押し勝ち	186
第2局	2016年3月10日	AlphaGo	李世乭	AlphaGo中押し勝ち	211
第3局	2016年3月12日	李世乭	AlphaGo	AlphaGo中押し勝ち	176
第4局	2016年3月13日	AlphaGo	李世乭	李世乭中押し勝ち	180
第5局	2016年3月15日	李世乭	AlphaGo	AlphaGo中押し勝ち	280
結果:
AlphaGo 4 – 1 李世乭
第1局
AlphaGo(白)が第1局を勝利した。李は一局の大半を通して主導権を握っているように見えたが、AlphaGoが最後の20分に優位に立ち、李が投了した[31]。李は終局後に、開始時に重大なミスを犯したと述べた。李は、序盤におけるコンピュータの戦略は「卓越」しており、AlphaGoは人間の囲碁棋士が打たないであろう普通ではない手を打ったと述べた[31]。GoGameGuruでこの対局を解説したDavid Ormerodは、李の7手目を「序盤でAlphaGoの実力を試す奇妙な手」と説明し、この手をミスと見なし、AlphaGoの応手を「正確かつ効果的」と見なした。Ormerodは序盤はAlphaGoがリードし、李は81手目に挽回を始めたが、119手目と123手目に「疑問手」を打ち、129手目が「敗着」となったと説明した[13]。プロ囲碁棋士の趙漢乗は、AlphaGoの打ち回しは2015年10月に樊麾を破った時よりも大きく改善されていたと論評した[13]。プロ囲碁棋士マイケル・レドモンドは、コンピュータの打ち方は樊との対局時よりも積極的であったと述べた[32]。
9段の金成龍によれば、李世乭は102手目のAlphaGoの強手に驚かされたようである[33](この手の後に李は10分以上長考した)[33]。
99手目まで
100-186手目
第2局
AlphaGo(黒)が第2局に勝利した。李は対局後に、「AlphaGoはほぼ完璧なゲームをプレーした」[34]、「序盤から自分がリードしたと一度も感じなかった」と述べた[35]。
AlphaGoの作成者の一人デミス・ハサビスは、プロの解説者がどちらがリードしているか分からなかったゲームの中間点からAlphaGoが勝利を確信していた、と述べた[35]。安永吉(英語版)(8段)は、特にAlphaGoの151、157、159手目を賞賛した[36]。
AlphaGoは変則性と幅広い視点からの手を見せた。これらの手についてプロ囲碁棋士が一目ではミスのように見えると解説したが、後から振り返ると意図された戦略であった[37]。特に、AlphaGoの167手目は李に戦うチャンスを与えたように見えた、ほとんどの解説者は明白なミスであると断言した。しかし、多くの人々は現在はこの手が地の差を犠牲にしてAlphaGoの勝利を確かなものとするための賢明な終盤の機略であったと考えている[36]。
99手目まで
100-199手目
200-211手目
第3局
AlphaGo(白)が第3局に勝利した[38]。
第2局後、棋士の間では、AlphaGoが本当に人間が強いという意味において強いプレーヤーであるかどうかについて、まだ強い疑いがあった。第3局ではこの疑いが晴れた。分析者は以下のように論評した。
AlphaGoは、経験を積んだ棋士からのその強さに対する全ての疑いが晴れるように非常に説得力を持って勝利した。実際、AlphaGoはほとんど恐ろしいほどに非常にうまくプレーした ... AlphaGoに非常に厳しく一方的な攻撃を耐えさせたことで、李はそのこれまで気付かれていなかった力を明らかにした .. 李は彼の攻撃から十分な得を得ることができなかった ... 黒の明暗によって最も技巧的な中盤戦の一つの影が薄くなった[39]。
安永吉(8段)とDavid Ormerodによれば、この一局は「AlphaGoが全ての人間の棋士よりも単純に強い」[39]ことを示した。AlphaGoは前2局では見られなかった「コウ」として知られる扱いにくい状況を舵取りできていると見られた[40]。安とOrmerodは148手目が特に注目に値すると考えた。複雑なコウ争いの中盤に、AlphaGoはコウ争いに勝っていると十分な「自信」を見せ、他の大場に先着した[39]。
黒番の李は高中国流を採用し大きな黒の勢力を作ったが、AlphaGoが12手目にそこへ打ち込んだ。このためプログラムは弱い石をしのぐ必要があったが、成功した[39]。安永吉は李の31手目が「敗着」であったと説明し[39]、アメリカ囲碁協会(英語版)のAndy Jacksonは結末は35手目に既に決まっていたと考えた[41]。AlphaGoは48手目によってこの勝負の主導権を握り、李に守勢を余儀無くさせた。李は77/79手目で反撃したが、AlphaGoの応対は効果的で、90手目に局面を単純化することに成功した。AlphaGoは次に盤の下辺を大きく支配し、安が「洗練された」と描写した102手から112手目で局面を強化した[39]。李は115手目と125手目で再び攻撃したが、AlphaGoの応対はまたも効果的だった。李は最終的に131手目から複雑なコウを仕掛けたが、プログラムのエラーを誘うことはできず、176手目に投了した[39]。
99手目まで   
100-176手目(122手目は113の位置、
154手目はGo wT.svg、
163手目は145、164手目は151、
166手目と171手目は160、169手目は145、
175手目はGo bT.svg) 
第4局
第4局は李(白)が勝利した。DeepMindのデミス・ハサビスは、AlphaGoは79手目にミスをし、その時点では勝率が70%と見積っていたが、87手目に、その推定値が突如急落したとしている[42][43]。David Ormerodは87手目から101手目を典型的なモンテカルロベースのプログラムのミスと述べた[44]。
李は、AlphaGoが「相場碁」(好機が訪れた時に多くの小さな利を得ることによって勝とうとすること)を好んでいるようであることから、思い切った作戦の一種である「アマシ」作戦で打つことを選び、中央よりも辺や隅に地を取った[44]。駆け引きに強いAlphaGoであるが、「生きるか死ぬか」の局面に誘導することでわずかなリードを判断する能力がほとんど無意味になる可能性があると李は考えた[44]。
序盤は第2局(この局も李が白番)と同じ進行だった。李は盤の辺と隅に地を取ることに集中し、AlphaGOが中央に模様を張る展開となった、白は40手目と48手目で上辺のAlphaGoの模様を荒らしに行った。AlphaGoは47手目の「カタツキ」で応じ、4子を捨て石にして47手目から53手目・69手目で先手を取った。李は72手目から76手目でAlphaGoを試したがミスは誘発されず、この時点で解説者らは李の打ち回しが勝ち目のないものだと感じ始めていた。しかしながら、「素晴らしい手筋」と表現された、白の78手目のワリコミと続く82手目の強手によって、完全に形勢が逆転した[44]。この手により中央の白の一団が黒地に食い込み、より難解な碁となった[45]。AlphaGoの83手目と85手目の当初の応対は適切だったが、87手目から101手目にかけてAlphaGoは大悪手を連発した。李は92手目の段階でリードを奪い、安永吉は黒105手目を決定的な敗着と表現した。131手目から141手目のよい戦術にもかかわらず、AlphaGoは終盤での巻き返しが不可能であると判断し投了した[44]。AlphaGoの投了は、勝率が20%未満であると評価した時に発動した。これは、逆転の見込みが無いと判断すれば、最後まで打つのではなく投了するプロ棋士の判断と合うように意図されたものである[45]。
中国のプロ棋士(9段)古力は白78手目を「神の一手」と形容し、この手は全く想像していなかったと述べた[44]。GoGamuGuruの安永吉は、この一局が「李世乭にとっての傑作であり、囲碁の歴史における名局となることはほぼ確実だろう」と結論付けた[44]。李は試合後に、AlphaGoは白番(後手)の時が最も強かったと考えていると述べた[46]。
GoGamuGuruのDavid Ormerodは、79手目から87手目のAlphaGoの打ち方の分析はまだであるが、モンテカルロ木探索を用いたアルゴリズムにおける既知の弱点によるものと考えている。モンテカルロ木探索ではあまり関連性のない配列を刈り取るように試みる。ある場合においては、非常に限られた一本道で局面が進行するが、探索木が刈り取られた時にこれが見落されると、「探索レーダー」外となってしまう[47]。
99手目まで   
100から180手目(177手目はGo bS.svg、178手目はGo bT.svg) 
第5局
AlphaGo(白)が第5局に勝利した[48]。この一局は接戦であると評された。ハサビスは、ゲームの序盤にプログラムが「大きな失敗」をしでかした後に追い上げたものであると述べている[48]。
黒番の李は第1局と同様の布石をし、第4局で使用して成功したのと同様の戦略で右辺と左上隅を囲ったが、AlphaGoは中央に大きな勢力を得た。形勢はそれまで互角であったが、 AlphaGoが右下において「石塔シボリ」の手筋を認識できずに打った白の48手目から58手目によって、李が主導権を握ることになった。 AlphaGoは次に中央だけでなく上辺にまで勢力を広げ、李による69手目から81手目までの攻撃を防ぐことに成功した。David Ormerodによると、この黒の攻めは慎重すぎたであったという。白90によってAlphaGoは形勢を互角に持ち込み、Ormerodにより「珍しいが、微妙に印象的である」と評された、わずかに得な手を打った。李は167、169手と一か八かの勝負手に出たが、AlphaGoはこれをうまく防ぎ切った。安永吉は白の154、186、194手目を特に強い手であると指摘した。終盤、プログラムは完璧なヨセで李が投了するまでリードを保った[49]。
99手目まで   
100-199手目(118手目は107の位置、161手目はGo bS.svg)   
200-280手目(240手目は200の位置、271手目はGo bS.svg、
275手目はGo wS.svg、276手目はGo bT.svg) 
配信
対局の模様は中国語、日本語、朝鮮語、英語の解説付きでライブ配信された。朝鮮語の配信はBaduk TVを通じて行われた[50]。古力(九段)と柯潔(九段)が解説を行った中国語での第1局の配信はテンセントとLeEcoによって提供され、視聴者は約6千万人に達した[51]。英語のオンライン配信はマイケル・レドモンド(九段)とアメリカ囲碁協会副会長Chris Garlockによって行われ、平均視聴者は8万人、第1局の終局近くには視聴者が10万人に達した[52]。
関連項目
電聖戦
ディープ・ブルー対ガルリ・カスパロフ
将棋電王戦
脚注
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^ Go on a computer – In order to programme a computer to play a reasonable game of Go, rather than merely a legal game – it is necessary to formalise the principles of good strategy, or to design a learning programme. The principles are more qualitative and mysterious than in chess, and depend more on judgment. So I think it will be even more difficult to programme a computer to play a reasonable game of Go than of chess.
^ Silver, David; Huang, Aja; Maddison, Chris; Guez, Arthur; Sifre, Laurent; van den Driessche, George; Schrittwieser, \tJulian; Antonoglou, Ioannis et al. (2016-01-28). “Mastering the game of Go with deep neural networks and tree search”. Nature.
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^ “Künstliche Intelligenz: "Alpha Go spielt wie eine Göttin" - 
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江戸時代の囲碁棋士一覧
江戸時代の囲碁棋士の、活躍した年代ごとの一覧。
(太字は名人。各家門は最終のもの。)
年代	本因坊家	安井家	井上家	林家	四家外
~1650	一世本因坊算砂
二世本因坊算悦	一世安井算哲	一世中村道碩	林利玄	
1650~
1700	三世本因坊道悦
四世本因坊道策
吉和道玄
本因坊道的
本因坊策元
熊谷本碩
星合八碩
秋山仙朴	二世安井算知
渋川春海
三世安井知哲
安井春知	二世井上玄覚因碩
三世井上道砂因碩	一世林門入斎
二世林門入	牧野成貞
1700~
1750	五世本因坊道知
六世本因坊知伯
七世本因坊秀伯
八世本因坊伯元	四世安井仙角
長谷川知仙
五世安井春哲仙角	四世井上道節因碩
五世井上策雲因碩
相原可碩
高橋友碩
六世井上春碩因碩	三世林玄悦門入
四世林朴入門入
五世林因長門入
六世林門利門入	
1750~
1800	九世本因坊察元
十世本因坊烈元
河野元虎	六世安井仙哲
坂口仙徳
七世安井仙角仙知	七世井上春達因碩
八世井上因達因碩
服部因淑	七世林転入門入
八世林祐元門入
九世林門悦	小松快禅
鈴木順清
山本源吉
1800~	十一世本因坊元丈
水谷琢元
奥貫智策
外山算節
十二世本因坊丈和
水谷琢順
伊藤松和
水谷琢廉
十三世本因坊丈策
宮重策全
勝田栄輔
十四世本因坊秀和
本因坊秀策
小澤三五郎	八世安井知得仙知
桜井知達
阪口仙得
太田雄蔵
鈴木知清
片山知的
九世安井算知
十世安井算英	九世井上春策因碩
十世井上因砂因碩
服部雄節
十一世井上幻庵因碩
中川順節
赤星因徹
服部正徹
十二世井上節山因碩
十三世井上松本因碩	十世林鐵元門入
十一世林元美
十二世林柏栄門入
日置源次郎
林有美	長坂猪之助
四宮米蔵
関山仙太夫
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女流棋士(じょりゅうきし)とは女性のプロ棋士のこと。この項目では、囲碁の女流棋士について解説する。
女流棋士は男女混合の一般棋戦に参加すると同時に、女流しか参加できない女流棋戦に参加することができる。
目次 
1	制度
2	歴史
3	女流の棋戦
3.1	現行国内棋戦
3.2	休廃止棋戦
3.3	国際棋戦
4	主な女流棋士
5	男女混合棋戦での実績
6	参考文献
制度
日本棋院の場合、入段時には年1名から2名の女流特別採用枠がある。関西棋院では、定員は示されていないものの、同様の制度及び研修棋士制度での優遇がある。一般採用枠で入段したのは、2015年現在宮崎志摩子・桑原陽子・加藤啓子・謝依旻の4名のみであり、大多数の女流棋士は特別枠での入段である。
もっとも、入段時の特別枠、および女流棋戦に参加できるという優遇はあるものの、それ以外の昇段規定などは男性棋士と同じである(女流棋戦の成績は昇段に関与しない)。そのため、段位が同じであれば男性棋士であっても女流棋士であっても同等の格と見なされる。将棋の場合、奨励会を経由してプロ棋士になった女性が史上一人も存在せず、女性専用の組織・段制度のもとで戦っており、大きく事情が異なる(将棋の女流棋士を参照。また、将棋にも男女混合棋戦は存在する)。
歴史
平安時代には囲碁は女性のたしなみとされており、枕草子など古典文学にも碁を打つ女性の姿が描写されている。しかし鎌倉期以降囲碁は男性の楽しむものという傾向が強くなる。江戸期には太夫などが嗜む程度であったが、家元制度の整備とともに18世紀後半に初段に進んだ横関伊保、安井知得仙知の娘で三段まで進んだ安井鉚などが現れる。幕末に著された『大日本囲碁姓名録』(弘化3年)には、二段野口松、豊田源(のち三段)など七名が記されている。林家分家の林佐野は16歳で入段、その後四段まで進み、明治碁界でも方円社設立に関わるなど活躍した。その養子である喜多文子は六段に進み(死後名誉八段を追贈)、日本棋院設立に大きな役割を果たした。喜多は杉内寿子、伊藤友恵など多くの弟子を育て、女流棋士の数も増加していった。
1952年、初の女流タイトル戦である女流選手権(後に女流本因坊戦へ発展解消)が設立される。ここでは杉内寿子、本田幸子、楠光子の本田三姉妹らが活躍した。1970年代からは小川誠子・小林千寿らが活躍し、女流棋戦の数も増加した。平成以降ではこれらのタイトルを青木喜久代・小林泉美・加藤啓子・梅沢由香里・謝依旻・万波佳奈・矢代久美子・鈴木歩ら多数の女性が争う戦国時代に入った。ただし2006年謝が女流最強戦を制し最年少女流棋戦優勝記録を更新すると、2008年には女流名人・女流本因坊・大和証券杯ネット囲碁レディースを制し、2010年には女流棋聖3連覇中の梅沢を下し、女流初の同時三冠を達成。これにより謝が頭一つ抜け出した状態になっている。
2014年、15歳9カ月の藤沢里菜が会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦を制し女流棋戦史上最年少で優勝を飾った。
女流の棋戦
現行国内棋戦
1982 - 現在 女流本因坊戦(共同通信社主催)
1989 - 現在 女流名人戦(産経新聞主催)
1998 - 現在 女流棋聖戦(NTTドコモ主催)
2015 - 現在 扇興杯女流最強戦(センコー主催)
2014 - 現在 会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦(日本棋院主催)
1995 - 現在 ペア碁選手権戦(日本ペア囲碁協会主催、非公式戦)
休廃止棋戦
1952 - 1981 女流選手権戦(東京タイムズ主催)
1979 - 2002 女流鶴聖戦(日本航空、東京海上火災主催)
1999 - 2008 女流最強戦(東京精密主催)
2002 - 2007 関西女流囲碁トーナメント(テレビ大阪主催)
2004 - 2005 JAL女流早碁戦(テレビ東京主催)
2007 - 2010 大和証券杯ネット囲碁レディース(大和証券主催)
国際棋戦
1993 翠宝杯世界女流囲碁選手権戦(中国囲棋協会主催)
1994 - 1998 宝海杯世界女子選手権戦(韓国経済新聞、韓国放送公社主催)
1997 - 2003 泰利特杯中韓女流囲碁対抗戦
2000 東方航空杯女子世界プロ囲碁戦(中国囲棋協会主催)
2000 - 2001 興倉杯世界女流囲碁選手権戦(韓国経済新聞、韓国放送公社主催)
2000 - 2001 泰利特杯中韓女流囲碁対抗戦
2002 豪爵杯世界女流囲碁選手権戦
2002 - 2011 正官庄杯世界女子囲碁最強戦(囲碁TV主催)
2007 大理旅行杯女子世界プロ囲碁戦(中国囲棋協会主催)
2007 遠洋地産杯世界女子オープン戦(中国囲棋協会主催)
2010 - 2011 穹窿山兵聖杯世界女子囲碁選手権
2011 - 現在 黄竜士双登杯世界女子囲碁団体選手権
2012 - 現在 華頂茶業杯世界女流団体選手権
主な女流棋士
喜多文子
吉田操子
増淵辰子
伊藤友恵 女流選手権7期(5連覇を含む) 女流鶴聖1期
杉内寿子 女流選手権4期 女流名人4期 女流鶴聖2期
本田幸子 女流選手権5期 女流本因坊2期
楠光子 女流本因坊5期 女流鶴聖2期
小林禮子 女流選手権6期 女流名人2期 女流鶴聖2期
小川誠子 女流選手権2期 女流本因坊1期 女流鶴聖1期
小林千寿 女流選手権 女流鶴聖 各3期
新海洋子 女流最強位2期
加藤朋子 女流本因坊 女流名人 女流鶴聖 女流最強位 各1期
青木喜久代 女流名人5期 女流棋聖1期 女流鶴聖4期 女流最強位1期
宮崎志摩子 女流鶴聖 女流名人 各1期
小山栄美 女流名人4期
吉田美香 女流本因坊4期 女流鶴聖1期
小西和子
榊原史子 女流鶴聖1期
中澤彩子 女流本因坊 女流鶴聖 各2期
岡田結美子 女流最強位1期
梅沢由香里 女流棋聖3期
知念かおり 女流本因坊4期 女流棋聖5期
矢代久美子 女流本因坊2期
大沢奈留美 女流鶴聖2期 JAL女流早碁位1期
小林泉美 女流本因坊3期 女流名人3期 女流棋聖3期 女流最強位1期 JAL女流早碁位1期 (☆女流史上初のグランドスラム達成)
桑原陽子 女流本因坊1期
加藤啓子 女流名人1期 女流最強位1期
万波佳奈 女流棋聖2期
鈴木歩 女流最強位2期
万波奈穂
謝依旻 女流本因坊6期(5連覇達成。名誉女流本因坊資格を得る) 女流名人8期(5連覇達成。名誉女流名人資格を得る) 女流棋聖5期 女流最強位1期 会津中央病院杯1期(☆通算獲得タイトル数は女流棋士史上最多)
藤沢里菜 女流本因坊1期 会津中央病院杯1期
向井千瑛 女流本因坊1期
王景怡 会津中央病院杯1期
石井茜
男女混合棋戦での実績
現在まで日本の女流棋士が七大タイトルの優勝はもちろん、挑戦権獲得や三大リーグ(棋聖・名人・本因坊の各リーグ戦)入りを果たしたことはない。 ただし2006年に創設された若鯉戦(30歳以下および五段以下の棋士を対象)では、並みいる男性棋士を破り、謝依旻がタイトルを獲得した。 他にも、青木喜久代は決勝戦こそ山田規三生に0勝2敗で敗れたものの、1997年第22期新人王戦準優勝の実績がある。 また、小山栄美は25歳以下の男女混合棋戦であったNEC俊英囲碁トーナメント戦準優勝の実績がある。 小林泉美もまた男性棋士に対して互角以上の戦績を残しており、2003年と2004年には七大タイトルの一つである十段戦の本戦に2年連続出場を果たし、リーグ入り間近に迫ったこともある。 2011年には、鈴木歩が棋聖戦リーグ入りにあと1勝と迫ったが、河野臨に阻まれた。 2016年、2015年賞金ランキングで鈴木歩が七段に昇段する。全六段の中で対象棋戦賞金額が最も高かったものが昇段するが、女流棋戦は対象棋戦ではないため、男女同条件での昇段となる。
海外では2000年、韓国棋院の中国女流棋士芮廼偉が、曺薫鉉(世界タイトル11回優勝)を破って韓国のタイトルの一つ国手を奪取しており、世界選手権戦でもベスト4にまで残った実績を持つ。
これらの実績から、囲碁の男女間の実力差は将棋と比べて小さいとする意見が一般的である。
参考文献

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年10月)
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
福井正明、相場一宏『碁界黄金の十九世紀』日本棋院 2007年
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中国囲棋棋手排名(ちゅうごくいききしゅはいめい、中国围棋棋手排名)は、中国の囲碁棋士の等級分(点数制)ランキング。1997年に中国棋院が制定し、棋士の成績に応じて点数を定めてランキングが発表される。以前は4月、8月、12月の年3回の発表であったが現在は毎月発表されている。中国囲棋棋手等級分排名とも呼ぶ。日本では中国棋士ランキングなどとも訳す。
点数は中国棋院が独自に開発した方法で計算され、自分より上位の棋士に勝つと点数追加が多く、下位の棋士に負けると減点が大きい。
他に中国棋院では、国際象棋(チェス)、象棋(シャンチー)、ブリッジのランキングも発表している。
過去のランキング
(毎年12月末上位10人)
年	1位	2位	3位	4位	5位	6位	7位	8位	9位	10位
1997	常昊	馬暁春	兪斌	周鶴洋	邵煒剛	王磊	張文東	劉小光	張璇	呉肇毅
1998
(3月)	常昊	馬暁春	兪斌	邵煒剛	周鶴洋	-	羅洗河	張文東	劉小光	聶衛平
王磊
1999	馬暁春	常昊	周鶴洋	羅洗河	王磊	邵煒剛	兪斌	丁偉	劉小光	孔傑
2000	周鶴洋	邵煒剛	馬暁春	常昊	羅洗河	王磊	兪斌	丁偉	孔傑	劉小光
2001	常昊	馬暁春	周鶴洋	王磊	孔傑	古力	丁偉	劉菁	胡耀宇	羅洗河
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2008	古力	孔傑	常昊	謝赫	朴文尭	王檄	胡耀宇	周鶴洋	周睿羊	邱峻
2009	孔傑	古力	陳耀燁	劉星	王檄	周鶴洋	常昊	周睿羊	胡耀宇	朴文尭
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檀嘯	陳耀燁
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2014	時越	江維傑	古力	芈昱廷	周睿羊	柯潔	柁嘉熹	陳耀燁	唐韋星	范廷鈺
2015	柯潔	時越	周睿羊	陳耀燁	古力	連笑	江維傑	芈昱廷	唐韋星	柁嘉熹
2016[1]	柯潔	周睿羊	柁嘉熹	芈昱廷	時越	陳耀燁	連笑	檀嘯	范蕴若	范廷鈺
脚注
^ “中国围棋等级分(16.12.31)”. 中国棋牌网 (2017年1月9日). 2017年1月14日閲覧。
外部リンク
中国棋院 运动员资料
中国棋院 等級分
TOM棋聖道場「2012等级分」
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井上家
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家祖	中村道碩
著名な人物	井上玄覚因碩
井上幻庵因碩
支流、分家	服部家(外家)
凡例 / Category:日本の氏族
井上家(いのうえけ)は江戸時代、囲碁の家元四家の一つであり、名人 (囲碁)を2名輩出している。初代道碩を除き、代々当主は因碩を名乗るしきたりであった。このため「春碩因碩」「幻庵因碩」などと、跡目時代の名や隠居後の名をつけて区別することが多い。
初代名人である本因坊算砂の高弟中村道碩を祖とする。歴代家元中最も知名度が高いのは十一世の幻庵因碩で、本因坊丈和と名人の地位を激しく争ったことで知られる。井上家は家元四家の中では最も長続きし、十七世の津田因碩が1983年に死去して断絶した。
歴代当主
一世  中村道碩(1582-1630)二世名人
二世  井上因碩(井上玄覚因碩、1605-1673)
三世  井上道砂因碩(-1696)(本因坊道策実弟)
四世  井上道節因碩(1646-1719)五世名人碁所
五世  井上策雲因碩(1672-1735)八段準名人
跡目  井上友碩(1680-1726)七段
六世  井上春碩因碩(1707-1772)八段準名人
七世  井上春達因碩(1728-1784)七段上手
八世  井上因達因碩(1747-1805)七段上手
九世  井上春策因碩(1774-1810)七段上手
十世  井上因砂因碩(1784-1829)六段
十一世 井上幻庵因碩(1798-1859)八段準名人
十二世 井上節山因碩(1820-1856)(本因坊丈和の長男)六段
十三世 井上松本因碩(松本錦四郎、1831-1891)七段
十四世 井上大塚因碩(大塚亀太郎、1831-1904)八段
十五世 井上田淵因碩(田淵米蔵、1871-1917)七段
十六世 井上恵下田因碩(恵下田栄芳、1890-1961)七段
十七世 井上津田因碩(津田義孝、?-1983)六段

※厳密に言えば、中村道碩は高祖・井上玄覚因碩が初代の位置づけだが、井上幻庵因碩の代に上記のように系譜をまとめているためそれに倣い表記した。
門下など
外家として、服部因淑、雄節、正徹の服部家がある。幻庵因碩も因淑門下であり、一時は因淑の養子となっていた。
幻庵因碩門下の中川順節は、大阪に移って多くの弟子を育て、井上家と関西の結び付きを深めた。大塚亀太郎が14世を継いで以後は、井上家は大阪に在することとなる。
十七世襲名裁判
 1961年8月21日に、十六世井上恵下田因碩が死去した際には、跡目の指名はなされていなかった。この時点で井上家にいた専業棋士は、当時碁会所を経営していた津田義孝三段と潮伊一郎四段だけであった。このうち津田が、名門衰亡を惜しむ人々に推され、十七世を襲名しようしたが、それに対し恵下田因碩の未亡人であるミネが反発。ミネが、津田が井上因碩を名乗ることを禁止することを求めて裁判に訴え出ることになった。裁判では、「囲碁家元では、跡目が決められずに家元が死亡した場合、未亡人に跡目を指名する権利があるのか」ということが争点となった。しかるに大阪地方裁判所は、そのような慣習ははいという結論を出すに至った。ミネは大阪高等裁判所に控訴したが、判決が揺らぐことはなかった。津田は十七世を襲名し、最終的には六段に昇ったとされる。
■
井上 道節因碩(いのうえ どうせついんせき、1646年(正保3年) - 1719年(享保4年)12月7日)は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の四世井上因碩、五世名人碁所。元の名は桑原道節で、井上道節因碩、名人因碩と呼ぶ。難解さで古今唯一とされる『囲碁発陽論』の著者。本因坊道策の弟子であったが、道策流の理論的な布石よりは力戦的な碁であったとされる。
(井上家相続時は三世であったが、後の家系書き換えに基づき四世とする)
目次 
1	経歴
2	細川家との関わり
3	御城碁戦績
4	代表局
5	著作
6	関連項目
7	参考文献
8	外部リンク
経歴[ソースを編集]
美濃国大垣に生まれる。1歳年長の本因坊道策の弟子となり、七段準名人に進み門下の五弟子(五虎)、または六天王と呼ばれた一人であった。本因坊跡目には小川道的、次いで佐山策元が選ばれ、道節は争碁を望んだとされる。二人の夭折後も道策は神谷道知に期待し、道節は元禄3年(1690年)に道策の弟である三世井上因碩(道砂因碩)の養子となり、跡目とされる。この年に御城碁に45歳で初出仕。元禄9年(1696年)に三世因碩が没し、翌年家督を継いで四世井上因碩となる。
元禄15年(1702年)の道策臨終においては、因碩を八段準名人に進めるとともに道知の後見を託し、碁所を望まないとの誓約書を書かせた。これにより因碩は本因坊家に居を移し、道知を指導した。宝永3年(1706年)61歳の時、15歳の道知と十番碁を打ち、道知定先で3勝6敗1ジゴとなった。この時の第6局は、因碩の16手目が小目から5線の上大ゲイマにシマッた誤った棋譜が長年伝えられ、「上大ゲイマ締まりの一局」と呼ばれていた。この翌年には道知先相先の七番を打ち、道知勝ち越しにより七段に進め、後見を解く。宝永5年(1708年)、名人九段に進むが、碁所には就かなかった。
宝永7年(1710年)、琉球国中山王の貢使随員の屋良里之子が因碩の斡旋により道知と三子局を打って中押勝ちするが、屋良に免状発行する必要が生じ、そのために因碩が碁所に就く。正徳3年(1713年)、『囲碁発陽論』を著わすが、門外不出とした。後に古今最高の詰碁集として、別名不断桜と呼ばれる。
元禄15年(1702年)に、道策門下の三崎策雲を跡目として井上因節とした。享保4年(1719年)死去し、因節が五世井上因碩となる。御城碁の通算成績は6勝3敗1ジゴ。弟子に、屋良里之子と対戦した相原可碩、後に井上策雲因碩の跡目となる高橋友碩らがいる。
細川家との関わり[ソースを編集]
1705年(宝永2年)熊本藩に過失あった際、道策の母が藩主細川綱利の乳母であった関係から、道策は牧野成貞らに働きかけるとともに、道節に命じて井上家屋敷を担保にするなどして3200両を用立てさせて、幕府による御咎なしとなった。これにより井上家は細川家より300石を賜わり(後に永代150石)、以後も細川家とは深い関係を持つ。
御城碁戦績[ソースを編集]
1690年(元禄3年) 先番6目勝 安井知哲
1691年(元禄4年) 先番中押勝 安井知哲
1693年(元禄6年) 白番1目負 安井知哲
1694年(元禄7年) 先番5目勝 安井知哲
1695年(元禄8年) 向三子5目負 林玄悦門入
1696年(元禄9年) 白番5目負 本因坊策元
1697年(元禄10年) 白番中押勝 安井知哲
1698年(元禄11年) 白番ジゴ 安井仙角
1699年(元禄12年) 先番中押勝 安井知哲
1701年(元禄14年) 白番11目勝 安井仙角
代表局[ソースを編集]
四世井上因碩-本因坊道知(先)十番碁第7局 宝永3年(1706年)2月23日
Dosetsu-dochi-17060223-66-80.jpg
右辺の黒の打ち込みに対する白1(66手目)に、黒が2、4とツケ切った時の白5が好手で、以下白15まで黒を封じ込めて優勢となった。132手まで白中押勝。
著作[ソースを編集]
『伝信録』1706年(本因坊道知らとの共著、本因坊家と碁界の記録)
『石配通図精修編』
『碁経専要集』
『要津定規』
『囲碁発陽論』1713年
関連項目[ソースを編集]
詰碁
参考文献[ソースを編集]
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
『道的・名人因碩(大平修三)』日本囲碁大系4
福井正明『道的・道節・道知 元禄三名人打碁集』誠文堂新光社 2009年
外部リンク[ソースを編集]
木石庵「井上道節因碩」

■
棋正社(きせいしゃ)は、日本の囲碁の組織。1924年(大正13年)に雁金準一、高部道平らによって設立され、1926年に行った日本棋院との対抗戦(院社対抗戦)では満天下を湧かせたが、その後3棋士は日本棋院に復帰し、1941年に雁金の離脱により事実上消滅した。
目次 
1	設立の経緯
2	院社対抗戦
2.1	棋正社の挑戦
2.2	戦局の推移
3	消滅まで
4	院社対抗戦戦績
5	参考文献
設立の経緯
1924年の碁界大合同により日本棋院が設立された際、それまで各組織が個々に新聞社と棋譜掲載の契約をしていたのを、日本棋院一括の抽選により提供されると言う方式に改まった。これに不満を持った報知新聞社がこの年の10月、雁金準一、鈴木為次郎、加藤信、高部道平六段、小野田千代太郎五段の5棋士と、独自の棋戦を行って棋譜を提供すると言う契約を結んだ。しかしこれは日本棋院の規約違反となる個人契約であったため、5名は日本棋院を除名となり、10月25日新たに棋正社結成を宣言し、11月16日に発会式が行われた。
翌年には雑誌「棋友」を買収して、棋正社の機関紙とした(1926年に廃刊)。
院社対抗戦
棋正社の挑戦
棋正社の5棋士は当時のスター棋士であり、かつての稗聖会と同様にすべて互先による対局という方式により対局を行ったが、木谷実ら若手の成長により層の厚くなっていた日本棋院にも勢いがあった。1925年5月には雁金の七段昇段を発表。翌年1月には鈴木の七段昇段を発表するが、鈴木は3月に棋正社を離脱して日本棋院に復帰。次いで加藤も8月に離脱した。
棋正社は読売新聞を通じて8月20日、日本棋院に対して対抗戦の呼びかけを公開した。日本棋院副総裁大倉喜七郎は当初これを拒絶したが、読売新聞社長正力松太郎の本因坊秀哉らへの交渉により、日本棋院は受けて立つこととなり、「日本棋院対棋正社敗退手合」通称院社対抗戦が行われることとなった。方式は双方の棋士が交替で出場する勝ち抜き戦形式で、初戦は本因坊秀哉と雁金準一(先番)戦で1926年(大正15年)9月27日に開始された。
戦局の推移
双方の主将戦とも言える秀哉雁金戦は、特別に持ち時間一人16時間の持ち時間で、打ち掛けをはさみ6日をかけて打たれた。碁は中盤から大乱戦となったが、10月18日に雁金の時間切れ負けとなった。
この対決で勝者の秀哉は健康を損ね、しばらく手合を休むことになり、2局目は高部道平と岩本薫の臨時手合が行われた。
2局目以降は、棋正社は小野田、高部、雁金の3棋士が交互に出場、日本棋院は橋本宇太郎、岩本薫など実力が段位を上回ると言われる伸び盛りの若手棋士が次々に出場し、コミ無し先番の手合割が多かったこともあって優勢に進めた。特に木谷実はジゴをはさんで8連勝を果たした。28局まで進んだところで棋正社は、碁界大合同には参加せずに神戸に隠遁していた野沢竹朝五段を加え、六段、続いて七段を贈って対抗戦に参加させる。通算42局まで行い、棋正社の14勝26敗2ジゴで終了した。
読売新聞はこれを「大正の大争碁」として大々的に宣伝し、観戦記には碁界で初めて河東碧梧桐、村松梢風、菊池寛などの文士を配し、大盤による速報を行うなどして人気を博し、発行部数が一挙に3倍になって一流紙の仲間入りを果たした。この時に紙上で解説を書いた「覆面子」の名前は、これ以降の読売新聞紙上の観戦記者に代々受け継がれる。
また院社対抗戦に続いては、これもかつてのライバル同士であった野沢竹朝と鈴木為次郎の十番碁を企画し、1927年から野沢病気による中止となる30年までに9局まで打たれて、野沢の2勝5敗2ジゴとなった。
消滅まで
小野田も対抗戦の途中で日本棋院に復帰し、野沢は1931年に死去、残るのは雁金と高部、及びそれぞれの弟子のみという状態となった。1930年6月に月刊機関誌『碁』を発刊、高部による打碁講評と、雁金の随想「ぶらつ記」などを掲載した。その後の参加棋士としては、東京の渡辺昇吉、荒木親吉、小沢了正、大阪の都谷森逸郎、堀憲太郎、堀田忠弘、吉田浩三、橋本国三郎、名古屋の稲垣日省、渡辺英夫などがいる。三宅一夫は名古屋に中部日本囲碁連盟(後に東海棋院)を設立するなど、地方都市や朝鮮、台湾に支部を設けるようになる。
1933年には雁金と高部の八段昇段を発表する。これには日本棋院の機関誌『棋道』に大倉喜七郎名で異議が掲載されたが、それ以上の問題には発展しなかった。
1941年に雁金が呉清源との十番碁実施などのために高部と対立し、雁金の娘婿でもあった渡辺昇吉六段など一門の棋士を率いて棋正社を離脱して瓊韻社を設立。高部の懐刀と言われていた小沢了正五段もこれに追従した。棋正社には高部だけが残ることとなり、事実上消滅となった。東海棋院の長村正英、吉川潔、板野棋源各三段、植松弘聖二段は、戦後1948年に日本棋院東海支部が東海本部に再組織する際に合流した。
院社対抗戦戦績
△は先番
日本棋院			棋正社		↓		日本棋院			棋正社	−
本因坊秀哉	○	×	雁金準一	△		2子	木谷	○	×	雁金	
△	橋本宇太郎	○	×	小野田千代太郎			△	木谷	ジ	ゴ	小野田	
△	橋本	○	×	高部道平			△	木谷	ジ	ゴ	小野田	
△	橋本	×	○	雁金			△	木谷	○	×	小野田	
△	岩本薫	○	×	雁金			△	木谷	○	×	高部	
岩本	×	○	小野田	△		△	木谷	×	○	雁金	
△	福田正義	×	○	小野田			△	向井一男	○	×	雁金	
△	篠原正美	○	×	小野田			△	向井	○	×	野沢竹朝	
△	篠原	○	×	高部			△	向井	○	×	高部	
△	篠原	×	○	雁金			2子	向井	○	×	雁金	
△	林有太郎	○	×	雁金			2子	向井	×	○	野沢	
△	林	○	×	小野田			△	前田陳爾	×	○	野沢	
△	林	○	×	高部			△	宮坂寀二	○	×	野沢	
△	村島誼紀	○	×	雁金			△	宮坂	○	×	高部	
△	村島	×	○	小野田			△	宮坂	×	○	雁金	
△	瀬越憲作	×	○	小野田			2子	長谷川章	○	×	雁金	
△	木谷	○	×	小野田			△	長谷川	×	○	野沢	
△	木谷	○	×	高部			△	小杉丁	×	○	野沢	
△	木谷	○	×	雁金			2子	井上一郎	○	×	野沢	
△	木谷	○	×	小野田			△	井上	×	○	高部	
△	木谷	○	×	高部			△	高橋俊光	×	○	高部	
臨時手合成績
高部道平六段 ×-○ 岩本薫六段(互先先番)
雁金準一七段 ×-○ 長谷川章四段(先二先先番)
小野田千代太郎六段 ○-× 岩本薫六段(互先先番)
小野田千代太郎六段(先相先先番) ○-× 野沢竹朝七段
参考文献
木谷実『囲碁百年 2 新布石興る』平凡社 1968年
坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年
中山典之『昭和囲碁風雲録 (上)』岩波書店 2003年
■
2010年アジア競技大会における囲碁競技は、2010年11月20日から11月26日にかけて中国広州市の広州棋院において開催された。囲碁は、前回大会で競技種目となったチェスに続いて、マインドスポーツとして今回初めて競技種目となり、男女ペア碁、男子団体戦、女子団体戦の3種目が実施された。
国別メダル獲得数は、韓国が金3・銅1、中国が銀3、日本が銅1、中華台北が銅1となった。
目次 
1	競技方法
1.1	男女ペア碁
1.2	男子団体戦
1.3	女子団体戦
2	出場国・チーム
2.1	男女ペア碁
2.2	男子団体戦
2.3	女子団体戦
3	競技結果
3.1	概況
3.2	男女ペア戦
3.3	男子団体戦
3.4	女子団体戦
4	注
5	関連項目
6	外部リンク
競技方法
男女ペア碁
参加チームは、10か国・地域の17チーム。
予選はスイス式トーナメント6回戦で行う。予選の上位4チームが決勝トーナメントを行う。
対局は、男女1名ずつのペアが交互に着手して勝敗を争う。着手の順番は、黒番女子→白番女子→黒番男子→白番男子。
持時間は、決勝トーナメントは各チーム1時間で、30秒の秒読み3回。予選は各45分の切れ負け方式。
男子団体戦
参加チームは、1チーム5名で、7か国・地域の7チーム。
対局は5名が同時行い、勝数の多い方が勝ちとなる。1チーム1名の補欠が認められ、メンバーはあらかじめ登録された6名の順位で出場し、上位5名の1名が休場する場合は1名ずつ繰り上げた順位で対戦する。
予選はスイス方式トーナメント6回戦で行う。予選の上位2チームによる決勝戦、3、4位チームによる3位決定戦を行う。
持時間は、1人1時間で、30秒の秒読み3回。
女子団体戦
参加チームは、1チーム3名で、7か国・地域の7チーム。
対局は3名が同時行い、勝数の多い方が勝ちとなる。1チーム1名の補欠が認められ、メンバーはあらかじめ登録された4名の順位で出場し、上位3名の1名が休場する場合は1名ずつ繰り上げた順位で対戦する。
その他は男子団体戦と同じ。
出場国・チーム
男女ペア碁
中華台北2、韓国2、中国2、中国香港2、北朝鮮2、日本2、ベトナム1、タイ2、モンゴル1、マレーシア1
男子団体戦
中国、韓国、中華台北、タイ、日本、マレーシア、ベトナム
女子団体戦
中国、中華台北、マレーシア、日本、韓国、北朝鮮、タイ
競技結果
競技種目	金	銀	銅
男女ペア碁	李瑟娥・朴廷桓(韓国)	宋容慧・謝赫(中国)	金侖映・崔哲瀚(韓国)
男子団体戦	韓国
(李昌鎬・姜東潤・李世乭・趙漢乗・朴廷桓・崔哲瀚)	中国
(常昊・古力・劉星・孔傑・謝赫・周睿羊)	日本
(山下敬吾・井山裕太・高尾紳路・結城聡・山田規三生・秋山次郎)
女子団体戦	韓国
(李玟眞・金侖映・趙惠連・李瑟娥)	中国
(王晨星・芮廼偉・宋容慧・唐奕)	中華台北
(謝依旻・黒嘉嘉・張正平・王景怡)
概況
最初の競技の男女ペア碁は、17歳で2010年の穹窿山兵神杯世界女子囲碁選手権戦に準優勝して注目された17歳の黒嘉嘉と周俊勲の台湾ペアが予選を5勝1敗で1位。同じく5勝の金侖映・崔哲瀚ペア、李瑟娥・朴廷桓ペアと、4勝2敗でSOS得点差で4位にはいった宋容慧・謝赫ペアが決勝に進んだ。北朝鮮のアマチュア趙新星・朴虎吉ペアはプロの向井千瑛・高尾紳路を破るなどして8位に入る活躍を見せた。決勝では李・朴ペアが勝ち進んで優勝、予選1位の黒・周は4位となった。 団体戦では男女とも韓国、中国、日本、中華台北のプロ棋士チームが勝ち進み、いずれも韓国が決勝で中国を破って、男女ペア碁と合わせて金メダルを独占。中国の孔傑は予選から決勝まで韓国の李世乭への2勝を含む8戦全勝、中華台北の張栩も8戦全勝と健闘したが、及ばなかった。韓国の朴廷桓は男女ペア碁で7勝1敗、男子団体戦で8戦全勝と、計15勝1敗の活躍だった。
男女ペア碁予選中で李瑟娥・朴廷桓ペアが、唐奕・劉星ペア戦で、劣勢の終局間際で相手の時間切れを狙った手を打ったとして、審判団によって負けの判定が下されるという事件が起きた[1]。他にも女子団体戦で吉田美香と金侖映の対戦では三コウが発生して無勝負となり、1手10秒による再試合を行う(金が勝利)など、ルール上の課題が浮上した。時間切れ負けは、男子団体予選の常昊-李昌鎬戦、女子団体3位決定戦の鈴木歩-謝依旻戦などでも発生している。
出場棋士では、日本棋院で活動している張栩、王銘琬、謝依旻、王景怡が中華台北チーム、韓国棋院で活動している芮廼偉は中国チームとして出場した。
男女ペア戦
決勝トーナメント(11月22日)
準決勝		決勝
 	 	 	 	 	 
 	 	
 黒嘉嘉・周俊勲(中華台北)	×
 宋容慧・謝赫(中国)	○	 
 	
 宋・謝	×
 	 李・朴	○
 
3位決定戦
 金侖映・崔哲瀚(韓国)	×	 黒・周	×
 李瑟娥・朴廷桓(韓国)	○	 	 金・崔	○
予選結果と順位(対戦相手と勝敗、-は手空き)[2]
順位	出場者	1回戦	2回戦	3回戦	4回戦	5回戦	6回戦	勝数	SOS
1	黒嘉嘉・周俊勲(中華台北)	○12	○7	○13	○4	○2	×3	5	44
2	金侖映・崔哲瀚(韓国)	○15	○9	○8	○7	×1	○6	5	42
3	李瑟娥・朴廷桓(韓国)	○16	×5	○10	○9	○8	○1	5	40
4	宋容慧・謝赫(中国)	○13	○14	○5	×1	×6	○11	4	40
5	唐奕・劉星(中国)	○11	○3	×4	×8	○9	○14	4	40
6	謝依旻・張栩(中華台北)	○17	×8	○11	○10	○4	×2	4	38
7	簡螢・楊士海(中国香港)	○-	×1	○17	×2	○12	○8	4	32
8	趙新星・朴虎吉(北朝鮮)	○10	○6	×2	○5	×3	×7	3	50
9	鈴木歩・結城聡(日本)	○14	×2	○12	×3	×5	○13	3	40
10	向井千瑛・高尾紳路(日本)	×8	○15	×3	×6	○17	○12	3	34
11	金柔美・李光赫(北朝鮮)	×5	○17	×6	○15	○13	×4	3	34
12	黄楽盈・陳乃申(中国香港)	×1	○16	×9	○14	×7	×10	2	38
13	PHAM Thi Kim Long・
DO Khanh Binh(ベトナム)	×4	○-	×1	○16	×11	×9	2	34
14	AROONPHAICHITRA Pattraporn・
TAECHAAMNUAYVIT Nuttakrit(タイ)	×9	×4	○-	×12	○15	×5	2	30
15	RAVJIR Tungalag・TSOLMON Sansar
(モンゴル)	×2	×10	○16	×11	×14	○-	2	30
16	NAWARUK Waraphan・
JIRASOPHIN Apidet(タイ)	×3	×12	×15	×13	○-	○17	2	24
17	FONG Sok Nee・
MOHD ZULKIFLI Mohd
Zaid Waqiyuddin(マレーシア)	×6	×11	×7	○-	×10	×16	1	32
男子団体戦
決勝戦(11月26日)
決勝戦
韓国	4	1	中国
李昌鎬	○	×	古力
姜東潤	○	×	劉星
李世乭	×	○	孔傑
朴廷桓	○	×	謝赫
崔哲瀚	○	×	周睿羊
3位決定戦
日本	3	2	中華台北
山下敬吾	×	○	張栩
井山裕太	○	×	陳詩淵
高尾紳路	×	○	林至涵
結城聡	○	×	蕭正浩
秋山次郎	○	×	周俊勲
予選結果と順位(対戦相手と勝敗、-は手空き)[3]
順位	国名・選手	1回戦	2回戦	3回戦	4回戦	5回戦	6回戦	7回戦	勝数	GSS
1	韓国	○6	○2	○-	○3	○5	○4	○7	7	62
李昌鎬
姜東潤
李世乭
趙漢乗
朴廷桓
崔哲瀚	
○
○
○
○
○	○
○
×
○
○
 	○
○
○
○
○
 	
×
○
○
○
○	
○
○
○
○
○	×

×
○
○
○	
○
○
○
○
○		
2	中国	○-	×1	○3	○5	○4	○7	○6	6	56
常昊
古力
劉星
孔傑
謝赫
周睿羊	○
○
○
○
○
 	×
×

○
×
×	×
○
○
○

○	○
○
×
○

○	
×
○
○
○
○	○
○

○
○
○	○

○
○
○
○		
3	中華台北	○7	○6	×2	×1	○-	○5	○4	5	50
張栩
王銘琬
陳詩淵
林至涵
蕭正浩
周俊勲	○
○
○
○
○
 	○
○
○
○
○
 	○
×
×
×
×
 	○

×
×
×
×	○
○
○
○
○
 	○

○
○
○
○	○
×

×
○
○		
4	日本	○5	○-	○7	○6	×2	×1	×3	4	50
山下敬吾
井山裕太
高尾紳路
結城聡
山田規三生
秋山次郎	○
○
○

○
○	○
○
○

○
○	○
○

○
○
○	○
○

○
○
○	○
×
×
×
×
 	○
○
×
×
×
 	×
○

○
×
×		
5	タイ	×4	○7	○6	×2	×1	×3	○-	3	26
CHAROENSITTHISATHIEN
Vorawat
TAECHAAMNUAYVIT
Nuttakrit
BENCHARIT Rit
TRAIRATANANUSORN
Ruechagorn
JIRASOPHIN Apidet
RUNGRUANGTAWEEPONGU
Theera	×

×

×
×

×

 	×



○
○

○

○	×

○

○
○

×

 	×

×

○
×



×	×

×

×


×

×	×

×

×
×

×

 	○

○

○
○

○

 		
6	ベトナム	×1	×3	×5	×4	○7	○-	×2	2	20
HOANGNam Thang
PHAM Minh Quang
NGUYEN Manh Linh
BUI le Khanh Lam
DO Khanh Binh	×
×
×
×
×	×
×
×
×
×	○
×
×
×
○	×
×
×
×
×	○
×
○
○
×	○
○
○
○
○	×
×
×
×
×		
7	マレーシア	×3	×5	×4	○-	×6	×2	×1	1	16
TENG Boon Ping
MOHD ZULKIFLI Mohd
Zaid Waqiyuddin
TIONG Kee Soon
LEONG Orpheus
KEW Chien Chong
KOH Song Sang	×
×

×
×
×
 	○
×

×
×
×
 	×
×

×
×
×
 	○
○

○
○
○
 	×
○

×
×
○
 	×
×

×
×
×
 	×


×
×
×
×		
女子団体戦
決勝戦(11月26日)
決勝戦
韓国	2	1	中国
李玟眞	○	×	芮廼偉
金侖映	○	×	宋容慧
趙惠連	×	○	唐奕
3位決定戦
中華台北	2	1	日本
謝依旻	○	×	鈴木歩
黒嘉嘉	○	×	吉田美香
張正平	×	○	向井千瑛
予選結果と順位(対戦相手と勝敗、-は手空き)
順位	国名・選手	1回戦	2回戦	3回戦	4回戦	5回戦	6回戦	7回戦	勝数	GSS
1	中国	○-	○3	○6	○4	○2	○5	○7	7	38
王晨星
芮廼偉
宋容慧
唐奕	○
○
○
 	×
○
○
 	○
 
○
○	 
○
○
○	 
○
×
○	○
 
○
○	○
 
○
○		
2	韓国	○4	○-	○5	○7	×1	○3	○6	6	32
李玟眞
金侖映
趙惠蓮
李瑟娥	○
○
×
 	○
○
○
 	○
 
○
×	○
 
○
○	 
×
○
×	×
 
○
○	○
○
 
○		
3	中華台北	○7	×1	○-	○6	○4	×2	×5	4	28
謝依旻
黒嘉嘉
張正平
王景怡	○
○
○
 	○
×
×
 	○
○
○
 	○
 
○
○	×
○
○
 	○
×
 
×	○
×
 
×		
4	日本	×2	○5	○7	×1	×3	○6	○-	4	28
鈴木歩
吉田美香
向井千瑛
大沢奈留美	×
×
○
 	○
○
○
 	 
○
○
○	×
×
×
 	○
×

×	 
○
○
○	○
○
○
 		
5	北朝鮮	○6	×4	×2	○-	○7	×1	○3	4	24
黄敬珠
趙新星
金柔美	○
○
○	×
×
×	×
×
○	○
○
○	○
○
○	×
×
×	×
○
○		
6	マレーシア	×5	○7	×1	×3	○-	×4	×2	2	10
LOW Suzanne
FONG Sok Nee
LIM Shu Wen
CHOW Zhi Mei	×
×
×
 	○
○
×
 	×
×
×
 	×
×
×
 	○
○
○
 	×
×
×
 	×
 
×
×		
7	タイ	×3	×6	×4	×2	×5	○-	×1	1	8
NAWARUK Waraphan
AROONPHAICHITRA Pattraporn
SETTHAWONG Simaporn
MEKMOK Krongkamon	×
×
×
 	×
×
○
 	 
×
×
×	×
×
×
 	 
×
×
×	○
○
○
 	×
×
×
注
^ 中国棋院 2010/11/22
^ SOS(Sum of Opponet's Scores):対戦相手の勝数の合計×2
^ GSS:選手の勝数の合計×2
関連項目
全日本囲碁連合(日本代表チームを組織)
外部リンク
日本棋院 第16回アジア競技大会[囲碁種目]
■
CCTV賀歳杯囲棋戦(CCTVがさいはい いきせん、CCTV贺岁杯围棋赛)は、中国で行われる囲碁の棋戦。中国中央電視台(CCTV)が春節を祝うイベントとして、2013年に中国囲棋甲級リーグ戦超覇戦(中国围棋甲级联赛超霸赛)として開始、2014年からCCTV賀歳杯中日韓囲棋争覇戦(CCTV贺岁杯中日韩围棋争霸赛)として、中国、日本、韓国の招待選手によるトーナメントを行う。
ルールは中国ルール。持時間は1手30秒で、10回の考慮時間がある。優勝賞金は、 (第1回)18万元、(第2回-)80万元。
目次 
1	過去の成績
1.1	第1回(2013年)
1.2	第2回(2014年)
1.3	第3回(2015年)
1.4	第4回(2016年)
1.5	第5回(2017年)
2	外部リンク
過去の成績
第1回 2013年 優勝 時越、2位 古力
第2回 2014年 優勝 時越、2位 村川大介、3位 李世乭
第3回 2015年 優勝 柁嘉熹、2位 金志錫、3位 村川大介
第4回 2016年 優勝 柯潔、2位 李世乭、3位 一力遼
第5回 2017年 優勝 柯潔、2位 井山裕太、3位 朴廷桓
第1回(2013年)
2012年は中国囲棋甲級リーグ戦の最優秀選手古力と、最優秀主将時越によって行われた。
時越 - 古力
第2回(2014年)
1回戦 時越 - 村川大介
2回戦 村川大介 - 李世乭
決勝戦 時越 - 村川大介
第3回(2015年)
1回戦 柁嘉熹 - 村川大介
2回戦 金志錫 - 村川大介
決勝戦 柁嘉熹 - 金志錫
第4回(2016年)
1回戦 柯潔 - 一力遼
2回戦 李世乭 - 一力遼
決勝戦 柯潔 - 李世乭
第5回(2017年)
1回戦 井山裕太 - 柯潔
2回戦 柯潔 - 朴廷桓
決勝戦 柯潔 - 井山裕太
外部リンク
中国棋牌网「冠军赛夺冠获18万元奖金 时越:想成为围甲MVP 2013年07月21日
中国棋牌网「贺岁杯中日韩争霸赛时越捧杯 喜获80万元大红包 2014年02月04日」
中国棋牌网「“贺岁杯”围棋赛:柁嘉熹夺冠 笑揽80万奖金 2015年02月22日」
中国棋牌网「贺岁杯柯洁完胜李世石获80万奖金 称给自己100分 2016年02月11日」
■
JT杯星座囲碁選手権戦(JTはいせいざいごせんしゅけんせん)は、日本の囲碁の棋戦。1995年(平成7年)開始、1999年第5期までで終了。棋士の誕生日の星座別に分けて予選を行い、本戦出場者を決めるというユニークな方式で行われた。
主催 日本たばこ産業
目次 
1	方式
2	歴代優勝者と決勝戦
3	注目局
4	外部リンク
方式
出場者は、日本棋院の棋士の星座別のトーナメントの優勝者12名、前期優勝者、棋聖・名人・本因坊・十段・天元・王座タイトル者6名、関西棋院6名、残りは星座別トーナメント準優勝者から抽選で7名(第1期は8名)の、計32名。不足の場合は富士通杯、碁聖、賞金ランキング順で選ぶ。
トーナメント方式で行う。
決勝戦は一番勝負。後半部から公開対局で行われる。
コミは5目半。
持時間は、予選は各1時間、本戦は各2時間。決勝は残り1分から秒読み。
歴代優勝者と決勝戦
(左が優勝者)
1995年 王立誠 - 趙治勲
1996年 趙治勲 - 中小野田智巳
1997年 依田紀基 - 柳時熏
1998年 加藤充志 - 趙治勲
1999年 大竹英雄 - 石田芳夫
各星座優勝者
回次	年度	牡牛座	牡羊座	双子座	蟹座	獅子座	乙女座	天秤座	蠍座	射手座	山羊座	水瓶座	魚座
1	1995	趙善津	西村慶二	青木紳一	石田篤司	羽根直樹	泉谷英雄	石井衛	日高敏之	宮沢吾朗	酒井猛	佐藤文俊	小杉清
2	1996												
3	1997	大垣雄作	大竹英雄	久島国夫	羽根泰正	片岡聡	小林光一	杉内雅男	王銘琬	宮沢吾朗	金島忠	橋本雄二郎	彦坂直人
4	1998	趙善津	高梨聖健	春山勇	三村智保	加藤充志	蘇耀国	森田道博	高尾紳路	広江博之	武宮正樹	金秀俊	植木善大
5	1999	小林覚	大竹英雄	三王裕孝	石田篤司	石田芳夫	山下敬吾	後藤俊午	王銘琬	宮沢吾朗	張栩	金秀俊	小林健二
第1期は王立誠が、3度目の早碁棋戦優勝。第3期は十段・碁聖の依田と、天元・王座の柳時熏の二冠同士の決勝となった。
注目局
「加藤充志初タイトル」第4期決勝戦 加藤充志-趙治勲(先番) 1998年3月14日
Kato-cho-19980314-63-72.jpg
第4期は当時棋聖・名人・本因坊の大三冠の趙治勲と、趙と初対局となる新鋭加藤充志の決勝戦となった。先番趙が上辺で実利を稼いで優勢となり、白は中央の眼の無い大石に狙いを定める。黒は1(163手目)から5と切断して攻め合いに出たが、白6、8が好手で二眼活き、大石を仕留めて196手まで中押勝、加藤の棋戦初優勝となった。
外部リンク
囲碁データベース「JT杯・星座囲碁選手権戦」
■
Over40早碁トーナメント戦(Over40はやごトーナメントせん)は、囲碁の40歳以上の日本棋院所属棋士による棋戦。2014年に創設。
主催 日本棋院
優勝賞金 50万円
方式
64名の予選を勝抜いた4名によるトーナメント戦。
コミは6目半。
持時間は、予選は1手10秒、1分の考慮時間3回。本戦は1手30秒、1分の考慮時間10回。
成績
優勝者(左)と決勝戦(本戦1回戦)
2014年 趙善津 - 青木紳一(超善津 - 加藤充志、青木紳一 - 三村智保)
2015年 王立誠 - 王銘琬(王立誠 - 中小野田智巳、王銘琬 - 大矢浩一)
外部リンク
日本棋院「OVER40 早碁トーナメント戦」
■
囲碁のタイトル在位者一覧は、日本国内棋戦七大タイトルの歴代在位者一覧であり、1941年の本因坊戦創設から現在までを網羅する。
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目次 
1	表記上の注意
2	一覧
3	七大タイトル獲得数
4	年代別優勝ランキング
5	関連項目
表記上の注意
5期以上のタイトルを獲得した棋士の名前には着色している。
同一タイトル4連覇以上を達成した棋士、初のタイトル獲得、それぞれのタイトルの最年少保持記録は備考に入れている。
名誉称号資格を獲得した棋士は備考に入れている。
一覧
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	
1941年
(昭和16)			関山利一					本因坊戦創設、関山利一初のタイトル保持者
1942年
(昭和17)								
1943年
(昭和18)			橋本宇太郎					橋本宇太郎新本因坊(初タイトル)
1944年
(昭和19)								
1945年
(昭和20)			岩本薫					岩本薫新本因坊(初タイトル)
1946年
(昭和21)								
1947年
(昭和22)			岩本薫					岩本薫初のタイトル防衛
1948年
(昭和23)								
1949年
(昭和24)								
1950年
(昭和25)			橋本宇太郎					本因坊戦1年1期制に
1951年
(昭和26)			橋本宇太郎					
1952年
(昭和27)			高川格					高川格新本因坊(初タイトル)
1953年
(昭和28)			高川格			橋本宇太郎		王座戦創設
1954年
(昭和29)			高川格			高川格		高川格史上初の二冠
1955年
(昭和30)			高川格			橋本宇太郎		
1956年
(昭和31)			高川格			橋本宇太郎		高川格二十二世本因坊資格・初の5連覇・初の名誉資格
1957年
(昭和32)			高川格			島村俊廣		島村俊廣新王座(初タイトル)
1958年
(昭和33)			高川格			藤沢朋斎		藤沢朋斎新王座(初タイトル)
1959年
(昭和34)			高川格			橋本昌二		橋本昌二新王座(初タイトル)
1960年
(昭和35)			高川格			半田道玄		高川格本因坊9連覇、半田道玄新王座(初タイトル)
1961年
(昭和36)			坂田栄男			坂田栄男		坂田栄男新本因坊(初タイトル)
1962年
(昭和37)		橋本宇太郎	坂田栄男		藤沢秀行	宮下秀洋		名人戦創設、十段戦創設、宮下秀洋新王座、藤沢秀行新名人(初タイトル)
1963年
(昭和38)		半田道玄	坂田栄男		坂田栄男	坂田栄男		坂田栄男史上初の名人本因坊・史上初の三冠
1964年
(昭和39)		藤沢朋斎	坂田栄男		坂田栄男	坂田栄男		高川格二十二世本因坊襲名
1965年
(昭和40)		高川格	坂田栄男		林海峰	半田道玄		坂田栄男二十三世本因坊資格、林海峰新名人(初タイトル)
1966年
(昭和41)		坂田栄男	坂田栄男		林海峰	坂田栄男		
1967年
(昭和42)		坂田栄男	坂田栄男		林海峰	藤沢秀行		坂田栄男本因坊7連覇
1968年
(昭和43)		坂田栄男	林海峰		高川格	藤沢秀行		王座戦挑戦手合に移行
1969年
(昭和44)		大竹英雄	林海峰		林海峰	藤沢秀行		大竹英雄新十段(初タイトル)
1970年
(昭和45)			林海峰		藤沢秀行	坂田栄男		十段戦行われず
1971年
(昭和46)		橋本宇太郎	石田芳夫		林海峰	坂田栄男		石田芳夫新本因坊(初タイトル)・最年少本因坊
1972年
(昭和47)		坂田栄男	石田芳夫		林海峰	坂田栄男		
1973年
(昭和48)		坂田栄男	石田芳夫		林海峰	林海峰		
1974年
(昭和49)		橋本昌二	石田芳夫		石田芳夫	石田芳夫		
1975年
(昭和50)		林海峰	石田芳夫		大竹英雄	大竹英雄	藤沢秀行	天元戦創設、石田芳夫二十四世本因坊資格
1976年
(昭和51)		加藤正夫	武宮正樹	加藤正夫	大竹英雄	趙治勲	小林光一	新名人戦開始、碁聖戦創設、加藤正夫新十段、武宮正樹新本因坊、趙治勲新王座・最年少王座
小林光一新天元(初タイトル)
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	備   考
1977年
(昭和52)	第1期
藤沢秀行	第15期
加藤正夫	第32期
加藤正夫	第2期
加藤正夫	第2期
林海峰	第25期
工藤紀夫	第3期
島村俊廣	棋聖戦創設、工藤紀夫新王座(初タイトル)
1978年
(昭和53)	藤沢秀行	加藤正夫	加藤正夫	大竹英雄	大竹英雄	石田芳夫	加藤正夫	
1979年
(昭和54)	藤沢秀行	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	大竹英雄	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫史上初の四冠、十段4連覇
1980年
(昭和55)	藤沢秀行	大竹英雄	武宮正樹	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	加藤正夫	天元戦挑戦手合に移行
1981年
(昭和56)	藤沢秀行	大竹英雄	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	橋本昌二	加藤正夫	藤沢秀行名誉棋聖資格、加藤正夫天元4連覇
1982年
(昭和57)	藤沢秀行	趙治勲	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	藤沢秀行棋聖6連覇、片岡聡新天元(初タイトル)
1983年
(昭和58)	趙治勲	加藤正夫	林海峰	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	趙治勲史上初の大三冠
1984年
(昭和59)	趙治勲	小林光一	林海峰	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	石田芳夫	王座戦三番勝負から五番勝負に移行
趙治勲名誉名人資格、大竹英雄名誉碁聖資格
1985年
(昭和60)	趙治勲	小林光一	武宮正樹	大竹英雄	小林光一	加藤正夫	小林光一	大竹英雄碁聖6連覇
1986年
(昭和61)	小林光一	小林光一	武宮正樹	趙治勲	加藤正夫	加藤正夫	小林光一	加藤正夫名誉王座資格
1987年
(昭和62)	小林光一	加藤正夫	武宮正樹	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	趙治勲史上初のグランドスラム
1988年
(昭和63)	小林光一	趙治勲	武宮正樹	小林光一	小林光一	加藤正夫	趙治勲	武宮正樹本因坊4連覇
1989年
(平成元)	小林光一	趙治勲	趙治勲	小林光一	小林光一	加藤正夫	林海峰	加藤正夫王座8連覇
1990年
(平成2)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	羽根泰正	林海峰	小林光一名誉棋聖資格、羽根泰正新王座(初タイトル)
1991年
(平成3)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	藤沢秀行	林海峰	
1992年
(平成4)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	藤沢秀行	林海峰	小林光一名誉名人資格・名誉碁聖資格、藤沢秀行最年長タイトル保持者(67歳)、
初めて7大タイトル全てが防衛される
1993年
(平成5)	小林光一	大竹英雄	趙治勲	小林光一	小林光一	加藤正夫	林海峰	趙治勲二十五世本因坊資格、林海峰名誉天元資格
小林光一棋聖8連覇・碁聖6連覇・3タイトル同時6連覇(史上唯一)
1994年
(平成6)	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	林海峰	小林光一	趙治勲	柳時熏	小林光一名人7連覇、柳時熏新天元(初タイトル)
1995年
(平成7)	小林覚	依田紀基	趙治勲	小林覚	武宮正樹	王立誠	柳時熏	小林覚新棋聖、依田紀基新十段、王立誠新王座(初タイトル)
1996年
(平成8)	趙治勲	依田紀基	趙治勲	依田紀基	趙治勲	柳時熏	柳時熏	
1997年
(平成9)	趙治勲	加藤正夫	趙治勲	依田紀基	趙治勲	山田規三生	工藤紀夫	山田規三生新王座(初タイトル)
1998年
(平成10)	趙治勲	彦坂直人	趙治勲	依田紀基	趙治勲	王立誠	小林光一	趙治勲本因坊10連覇(同一タイトル連覇記録)・大三冠3連覇
彦坂直人新十段(初タイトル)
1999年
(平成11)	趙治勲	小林光一	趙善津	小林光一	趙治勲	王立誠	小林光一	趙治勲棋聖4連覇・名人4連覇、趙善津新本因坊(初タイトル)
2000年
(平成12)	王立誠	小林光一	王銘琬	山下敬吾	依田紀基	王立誠	柳時熏	王銘琬新本因坊、山下敬吾新碁聖(初タイトル)・最年少碁聖
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	備   考
2001年
(平成13)	王立誠	王立誠	王銘琬	小林光一	依田紀基	趙治勲	羽根直樹	羽根直樹新天元(初タイトル)
2002年
(平成14)	王立誠	王立誠	加藤正夫	小林光一	依田紀基	王銘琬	羽根直樹	
2003年
(平成15)	山下敬吾	王立誠	張栩	依田紀基	依田紀基	張栩	羽根直樹	依田紀基名人4連覇、張栩新本因坊(初タイトル)
2004年
(平成16)	羽根直樹	王立誠	張栩	依田紀基	張栩	張栩	山下敬吾	王立誠十段4連覇
2005年
(平成17)	羽根直樹	趙治勲	高尾紳路	依田紀基	張栩	張栩	河野臨	高尾紳路新本因坊、河野臨新天元(初タイトル)
2006年
(平成18)	山下敬吾	趙治勲	高尾紳路	張栩	高尾紳路	山下敬吾	河野臨	
2007年
(平成19)	山下敬吾	趙治勲	高尾紳路	張栩	張栩	山下敬吾	河野臨	
2008年
(平成20)	山下敬吾	高尾紳路	羽根直樹	張栩	張栩	張栩	張栩	平成四天王がタイトル独占
2009年
(平成21)	山下敬吾	張栩	羽根直樹	張栩	井山裕太	張栩	山下敬吾	井山裕太新名人(初タイトル)・最年少タイトル保持者・最年少名人、張栩史上初の五冠
山下敬吾棋聖4連覇、張栩碁聖4連覇
2010年
(平成22)	張栩	張栩	山下敬吾	坂井秀至	井山裕太	張栩	結城聡	坂井秀至新碁聖、結城聡新天元(初タイトル)
2011年
(平成23)	張栩	井山裕太	山下敬吾	羽根直樹	山下敬吾	張栩	井山裕太	張栩王座4連覇、井山裕太最年少天元
2012年
(平成24)	張栩	井山裕太	井山裕太	井山裕太	山下敬吾	井山裕太	井山裕太	
2013年
(平成25)	井山裕太	結城聡	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太史上初の六冠・最年少棋聖
2014年
(平成26)	井山裕太	高尾紳路	井山裕太	井山裕太	井山裕太	村川大介	高尾紳路	村川大介新王座(初タイトル)
2015年
(平成27)	井山裕太	伊田篤史	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	伊田篤史新十段(初タイトル)・最年少十段・入段からタイトル獲得までの年数最短(6年0か月)
2016年
(平成28)	井山裕太	第54期
井山裕太	第71期
井山裕太	第41期
井山裕太	第41期
高尾紳路	第64期
井山裕太	第42期
井山裕太	井山裕太棋聖4連覇、史上初の七冠独占達成(十段戦)、井山二十六世本因坊資格、名誉碁聖資格
2017年
(平成29)	第41期
井山裕太	井山か
余	井山か
本木					井山裕太名誉棋聖資格
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	
七大タイトル獲得数
タイトル数の黄色は名誉称号資格、太字は最多獲得。
2017年棋聖戦終了時点。
棋士名	七大タイトル合計	三大タイトル合計		棋聖	名人	本因坊	王座	天元	碁聖	十段
1	趙治勲	42	29		8	9	12	3	2	2	6
2	小林光一	35	16		8	8	0	0	5	9	5
3	井山裕太	32	15		5	5	5	4	5	5	3
4	加藤正夫	31	6		0	2	4	11	4	3	7
5	張栩	23	9		3	4	2	7	1	4	2
6	坂田栄男	21	9		0	2	7	7	0	0	5
6	林海峰	21	13		0	8	5	1	5	1	1
8	大竹英雄	17	4		0	4	0	1	0	7	5
9	藤沢秀行	14	8		6	2	0	5	1	0	0
9	山下敬吾	14	9		5	2	2	2	2	1	0
11	高川格	12	10		0	1	9	1	0	0	1
11	依田紀基	12	4		0	4	0	0	0	6	2
13	王立誠	11	3		3	0	0	4	0	0	4
14	武宮正樹	10	7		0	1	6	0	0	0	3
15	石田芳夫	9	6		0	1	5	2	1	0	0
15	高尾紳路	9	6		0	3	3	0	1	0	2
17	橋本宇太郎	8	3		0	0	3	3	0	0	2
17	羽根直樹	8	4		2	0	2	0	3	1	0
19	柳時熏	5	0		0	0	0	1	4	0	0
20	橋本昌二	3	0		0	0	0	2	0	0	1
20	半田道玄	3	0		0	0	0	2	0	0	1
20	王銘琬	3	2		0	0	2	1	0	0	0
20	河野臨	3	0		0	0	0	0	3	0	0
24	岩本薫	2	2		0	0	2	0	0	0	0
24	島村俊廣	2	0		0	0	0	1	1	0	0
24	藤沢朋斎	2	0		0	0	0	1	0	0	1
24	工藤紀夫	2	0		0	0	0	1	1	0	0
24	片岡聡	2	0		0	0	0	0	2	0	0
24	小林覚	2	1		1	0	0	0	0	1	0
24	結城聡	2	0		0	0	0	0	1	0	1
31	関山利一	1	1		0	0	1	0	0	0	0
31	宮下秀洋	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	羽根泰正	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	山田規三生	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	彦坂直人	1	0		0	0	0	0	0	0	1
31	趙善津	1	1		0	0	1	0	0	0	0
31	坂井秀至	1	0		0	0	0	0	0	1	0
31	村川大介	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	伊田篤史	1	0		0	0	0	0	0	0	1
年代別優勝ランキング
※0年~9年までの10年間のタイトル獲得数
1950年代
9 
高川格
5 
橋本宇太郎
1 
島村俊廣, 藤沢朋斎, 橋本昌二
1960年代
16 
坂田栄男
6 
林海峰
4 
藤沢秀行
3 
高川格
2 
半田道玄

1970年代
12 
加藤正夫
8 
石田芳夫
7 
林海峰
6 
大竹英雄
5 
藤沢秀行, 坂田栄男
1980年代
17 
趙治勲
16 
加藤正夫
14 
小林光一
8 
大竹英雄
5 
武宮正樹

1990年代
19 
趙治勲
17 
小林光一
5 
林海峰, 依田紀基
4 
武宮正樹, 柳時熏
2000年代
17 
張栩
10 
山下敬吾
8 
王立誠
7 
依田紀基, 羽根直樹

2010年代
30 
井山裕太
6 
張栩
4 
山下敬吾
3 
高尾紳路
関連項目
囲碁の女流タイトル在位者一覧
囲碁世界タイトルの獲得者一覧
国際団体棋戦の優勝国一覧
■
Category:囲碁の棋戦
囲碁の棋戦のカテゴリ。
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ち
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に
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棋戦 (囲碁)
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国際団体棋戦の優勝国一覧
挑戦手合制
A
AlphaGo対李世ドル
T
Template:棋戦 (囲碁)
Template:アマチュア棋戦 (囲碁)
あ
阿含・桐山杯日中決戦
か
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し
ジュニア名人戦
湘南ひらつか囲碁まつり
新さっぽろ囲碁まつり
せ
世界児童国手戦
ち
中韓新人王対抗戦
に
日中囲碁交流
日中スーパー囲碁
日中天元戦
日中名人戦
ほ
鳳凰杯オープントーナメント戦
北米INGマスターズ
北米マスターズ・トーナメント
め
名人戦 (囲連星)
よ
ヨーロッパ碁コングレス
ろ
ロッテ杯中韓囲碁対抗戦
■
囲碁棋士の獲得タイトル数ランキングは、日本の囲碁棋士による獲得タイトル数のランキングである。
2017年4月13日現在
順位	棋士名	タイトル数
1	趙治勲	74
2	坂田栄男	64
3	小林光一	60
4	大竹英雄	48
5	加藤正夫	47
6	井山裕太	42
7	張栩	39
8	林海峰	35
依田紀基
10	謝依旻	26
関連項目
棋士 (囲碁)
棋戦 (囲碁)
囲碁のタイトル在位者一覧
出典・参考
日本棋院ホームページ
■
中国の囲碁タイトル在位者一覧は中国の囲碁の棋戦タイトル獲得者の一覧である。
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一覧
竜星	天元	リコー	爛柯杯	個人戦	名人	倡棋杯	棋王	桐山杯	CCTV杯	棋聖	NEC杯
1957					過惕生							
1958					劉棣懐							
1959					劉棣懐							
1960					黄永吉							
1961					過惕生							
1962					陳祖徳							
1963					陳祖徳							
1964					-							
1965					-							
1966					-							
1967					-							
1968					-							
1969					-							
1970					-							
1971					-							
1972					-							
1973					-							
1974					陳祖徳							
1975					聶衛平							
1976					‐							
1977					聶衛平							
1978	新体育				聶衛平							
1979	聶衛平				聶衛平							
1980	聶衛平		国手		劉小光							
1981	聶衛平		聶衛平		聶衛平							
1982	聶衛平		馬暁春		馬暁春							
1983	聶衛平		邵震中		聶衛平							
1984	馬暁春		陳臨新		馬暁春							
1985	馬暁春		馬暁春		方天豊							
1986	曹大元		劉小光	十強	馬暁春							
1987	兪斌	馬暁春	陳臨新	聶衛平	馬暁春					聶衛平		
1988	聶衛平	劉小光		聶衛平	銭宇平	劉小光				銭宇平		
1989	聶衛平	劉小光		聶衛平	汪見虹	馬暁春		銭宇平		馬暁春		
新体育	天元			個人戦	名人	倡棋杯	棋王	桐山杯	CCTV杯	棋聖	NEC杯
1990	聶衛平	劉小光		馬暁春	劉小光	馬暁春				銭宇平		
1991	陳臨新	聶衛平		聶衛平	馬暁春	馬暁春		聶衛平		馬暁春		
1992	兪斌	聶衛平		馬暁春	邵煒剛	馬暁春		馬暁春		馬暁春		
1993	馬暁春	劉小光		聶衛平	張文東	馬暁春		馬暁春		聶衛平		
1994	馬暁春	馬暁春	友情杯	聶衛平	曹大元	馬暁春	覇王戦	馬暁春		馬暁春		
1995		馬暁春	劉小光	張文東	常昊	馬暁春	曹大元	馬暁春		馬暁春		
1996		馬暁春	馬暁春		周鶴洋	馬暁春	馬暁春			曹大元		曹大元
1997		常昊	邵煒剛	楽百氏	丁偉	馬暁春	王磊			聶衛平		邵煒剛
1998		常昊		常昊	邱峻	馬暁春	‐			曹大元		常昊
1999		常昊	リコー	常昊	周鶴洋	馬暁春	‐		馬暁春	常昊	常昊	周鶴洋
2000	華山	常昊	常昊	常昊	羅洗河	馬暁春	‐	兪斌	周鶴洋	丁偉	周鶴洋	邵煒剛
2001	劉小光	常昊	古力	常昊	孔傑	馬暁春	‐	兪斌	劉菁	胡耀宇	兪斌	邵煒剛
2002	周鶴洋	黄奕中		常昊	謝赫	周鶴洋	謝赫		兪斌	馬暁春		常昊
2003	王磊	古力	孔傑		孔傑	邱峻	倡棋杯	聶衛平	古力	周鶴洋		王磊
2004	周鶴洋	古力	常昊		邱峻	古力	孔傑	孔傑	周鶴洋	古力		古力
2005		古力	謝赫	爛柯杯	陳耀燁	古力	周鹤洋		古力	劉星		常昊
2006		古力	王檄	兪斌	王檄	古力	孔傑		劉星	羅洗河		古力
2007	竜星	古力	胡耀宇	‐	張立	古力	古力	胡耀宇	劉星	朴文尭		邱峻
2008	古力	古力	邱峻	古力	孫騰宇	古力	邱峻	周睿羊	古力	謝赫		古力
2009	-	陳耀燁	王尭	‐	江維傑	古力	王檄	孔傑	孫騰宇	孔傑		古力
2010	古霊益	陳耀燁	孔傑	謝赫	朴文尭	江維傑	柁嘉熹	古霊益	邱峻	陳耀燁		
2011	李喆	陳耀燁	檀嘯	‐	檀嘯	江維傑	古力	檀嘯	朴文尭	鍾文靖		
2012	毛睿竜	陳耀燁	楊鼎新	孟泰齢	芈昱廷	檀嘯	陳耀燁	彭立尭	古力	柁嘉熹		
2013		陳耀燁	周睿羊	‐	周賀璽	陳耀燁	時越	楊鼎新	連笑	王檄	周睿羊	
2014	古力	陳耀燁	連笑	范廷鈺	李軒豪	陳耀燁	楊鼎新	時越	柯潔	李欽誠	周睿羊	
2015	柁嘉熹	陳耀燁	柯潔	‐	辜梓豪	連笑	連笑	柯潔	黄雲嵩			
2016	芈昱廷	陳耀燁		芈昱廷	范胤		柁嘉熹	黃雲嵩	柯潔	芈昱廷		
2017												
竜星	天元	リコー	爛柯杯	個人戦	名人	倡棋杯	棋王	桐山杯	CCTV杯	棋聖	NEC杯
関連項目
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外部リンク
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中国棋院青少年体育クラブ
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長生
曖昧さ回避	この項目では、囲碁用語の長生について説明しています。千葉県の郡については「長生郡」を、村については「長生村」をご覧ください。
長生(ちょうせい)は囲碁用語の一つで、死活がらみで同型反復になる特殊な形。中国にある長生殿での対局中にこの形が出現したことからこの名がついた[1]。
現代の日本ルールでは、実戦で黒白双方とも譲らなかった場合ルールにより無勝負となる。一方で中国ルールでは、超コウルール(同形反復の禁止)により生き死にの結論が出される。
下の図のような形が長生の代表例である。
目次 
1	長生の経過
2	コウつき長生
3	プロの対局での出現例
4	モニュメント
5	脚注
6	関連項目
長生の経過
上の図で、黒にaと打たれると五目ナカデで白は全滅する。そこで、同じ点に下図白1と差し込む妙手がある。放置すると白bに抜かれて生きなので、黒は2に打って2子を抜くよりない。
白は3に取り返すことになるが、黒は目を奪うため▲の点にウチカく。すると一番上の図に戻ることになる。
このまま打ち続ければ、永遠に同じ形が繰り返されることになる。このまま両者が譲らなかった場合には、無勝負となることに決められている。
コウつき長生
この形では、黒1とコウを取った時、白2がコウダテとして使える。黒3と取り返した後、

白4とコウを取り返した時、今度は黒5と差し込む手がコウダテになる。白6と取り返すと、最初の形に戻る。これも双方が譲らなければ永遠に繰り返されることとなり、無勝負となる。
プロの対局での出現例
実戦で生じた事例は少ない。
1993年9月23日、本因坊リーグの林海峰名誉天元 - 小松英樹八段戦において終局間際に上記コウつき長生が発生し、無勝負となった。この時は、打ち直しをせずリーグは半星扱いとなった。
2009年9月14日、富士通杯予選Bにおいて、王銘琬九段 - 内田修平三段の対局でコウつき長生が発生。同日打ち直しで王が勝利した。
2013年6月29日、KB国民銀行囲碁リーグにおいて、安成浚四段 - 崔哲瀚九段の対局で長生が発生。規定により、再対局はなく89手で引き分けとなった。韓国初の事例、かつ日本以外のプロ組織による公式戦では初の長生となった。また、プロの対局でコウなし長生が発生した初のケースでもあった。
モニュメント
日本棋院の最寄り駅である市ヶ谷駅改札付近の床面に、長生を題材としたモザイクアートが設置されている。長生は永遠に繰り返すことから、長寿につながる縁起のよいものとして選ばれた[2]。
脚注
^ 関口晴利 『囲碁ルールの研究』 文芸社、2007年、79頁。ISBN 9784286031422。
^ http://www.nihonkiin.or.jp/news/2010/12/jr.html
関連項目
引き分け
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長考(ちょうこう)とは、特に囲碁や将棋のような思考型の対戦ゲームにおいて、次の一手を長く考えること。長考の中でも長い長考を大長考と呼ぶ。
概要
長考は故意に遅滞して相手に嫌がらせしているわけではなく、最善手を模索するためにできるだけ多くの選択肢を考慮しているにすぎない。思考型のゲームにおいてこのことはある意味でゲームの本来の目的に適った行為ともいえる。名人による長考が伝説となる所以である。
その一方、長考に陥るのは事前に相手の出方を予想できていなかったためともいえるわけだから、窮余の策に過ぎず、けっして胸を張れる行為ではないとも考えられる。持ち時間が設定されていない、特に仲間内での勝負等の際は、マナー等の面においてあまり頻繁に長考しないほうが良いとされる。
持ち時間制のゲームでは長考をすれば、それだけ後の残り考慮時間が少なくなる。持ち時間の制限を厳しくした早指し戦と呼ばれる対戦形式(囲碁では早碁と呼ぶ)もある。
将棋の最も長い大長考では2005年9月2日の順位戦で青野照市九段と堀口一史座七段の対局で、堀口の56手目に5時間24分がある。
囲碁の最も長い大長考では時間無制限では星野紀の16時間、持時間制では武宮正樹の5時間7分(本因坊戦挑戦手合、1988年)がある。
通信チェスでは一手に一日以上使うこともできる。
郵便将棋や郵便碁では、事実上長考することが可能な仕組みになっている。
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ツキアタリ
ツキアタリ(つきあたり、突き当たり)は囲碁用語の一つで、相手と自分の石が一路隙間を空けて対峙しているとき、その隙間に打つ手のこと。文字通り相手に突き当たるような手。下図が「ツキアタリ」の一例である。
動詞では「ツキアタる」となる。また「突っ張り」「ブツカリ」と表現されることもある。
ツキアタリの例
白1ではaのオサエではなく、▲の石に響かせてツキアタリで決める。黒2と受けさせ、白3とハネて制すれば好形。ただし、黒2だと将来白b黒c白dから白eのサガリを狙う手段が残るので、黒2でeに打つ場合もある。
図1
 	図2
△のハイコミに対し、図1のようにすぐオサエると白2のオキからえぐられ、根拠を奪われる。これを防ぐため、図2黒1とツキアタリを決めてから黒3とオサエれば無事。ただし、白2とノビられるのは損なので、黒1でaやbに打つ場合が多い。
■
ツギは囲碁において、すでに打った石を相手に切断されないよう連絡する手を指す。
上図黒1がツギである。 囲碁においては、一般に相手にキラレてしまうと二団に分断され、攻めを受けて不利になることが多い。こうした攻めや取られを防ぐため、ツギは重要な基本技術である。
目次 
1	ツギの種類
1.1	カタツギ
1.2	カケツギ
1.3	ケイマツギ
1.4	タケフ
1.5	カネツギ
2	参考図書
ツギの種類
カタツギ
上の左図のように、斜めに並んでいる石の断点を直接がっちりとつなぐ手。働きにはやや乏しいが、最も手堅い。
また上の右図のようなツギ方を「棒ツギ」と呼ぶことがある。
カケツギ
aの点に直接ツガずとも、上図黒1に打てば白はaに切ることができない。こうしたツギ方を「カケツギ」と呼ぶ。カタツギより働いているが、bからのノゾキや場合によってはコウの可能性も残る。
ケイマツギ
aの点をツグ代わりに、1に打つことでもキリを防いでいる(aに切られてもシチョウで取れる)。こうしたツギ方をケイマツギと呼び、働いたツギ方である。
タケフ
図で黒1と打つと、aとbが見合いで切断されない(白がaに出てくればbとツギ、bに出てくればaにツグ)。この形を「タケフ」と呼ぶ(漢字で書くと「竹節」)。黒はaやbに直接ツグよりも1に打った方が中央に進出しやすく、働いた形である。
カネツギ
黒1から3のハネツギに対して、普通にaなどとツグと、黒b、白c、黒dのハネツギも先手で利かされてしまう。白4と受ければ、黒からのaのキリに対する防御となる上、黒bからのハネツギを後手にすることができる。このように、両方のツギを一手で済ます働いたツギ方を「カネツギ」と呼ぶことがある。
参考図書
春山勇『切りとツギ (烏鷺うろブックス) 』
■
作る(つくる)は、囲碁用語の一つで、終局後に地を数えやすいように石をずらしたり取り替えたりして整形すること[1]。
この「作る」という囲碁用語は現在でも使われているが、近年は「整地(せいち)」または「整地する」と書かれることが多くなった。
また、投了せずに終局に至る碁を「作り碁」という。
目次 
1	作る方法
2	作る形の例
3	脚注
4	参考文献
5	関連項目
作る方法
自分の地の中にある相手の死石を取り上げハマに加える。
双方が相手側の地を作る。
ハマを相手の地の中に置く。
地を数えやすいように石をずらしたり取り替えたりして整形する。この際、地の大きさが変わらないように注意する。
作る形の例
左上隅は、3×4-2で、10目の黒地である。
右上隅は、7×3-1で、20目の白地である。
下辺は、辺の星の位置が盤端から10番目であることを利用した40目の黒地である。
脚注
^ 『囲碁百科辞典』96頁
参考文献
林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年
■
ツケは囲碁用語で、着手を表す言葉のひとつ。すでに打たれている相手の石に隣接させるように打つ手を指す。例えば下図の黒1などがツケの例である。
ただし「ツケ」という言葉は多くの場合単独で打つ場合を指し、打った石の周辺に味方や相手の石がある場合には別の用語を使うことが多い。例えば下図左の黒1は「ハネ」であり、下図右の黒2は「ワリコミ」である。
(ハネ)
 	(ワリコミ)
目次 
1	関連用語
1.1	ハサミツケ
1.2	ツケコシ
1.3	鼻ヅケ
2	ツケに関する格言
2.1	参考図書
関連用語
またコスミながら相手の石にツケる手を「コスミツケ」、トビながらツケる手を「トビツケ」などと呼ぶ。
(コスミツケ)
 	(トビツケ)
またツケた後ヒキを打つ手、ツケた後ノビる手をワンセットにして「ツケヒキ」「ツケノビ」と称することがある。下記の形からは、「ツケヒキ定石」「ツケノビ定石」と呼ばれる有名な定石が発生する。
(ツケヒキ)
 	(ツケノビ)
ハサミツケ
黒1のように、相手の石を挟み込むようにツケる手を「ハサミツケ」と称する。サバキの手筋、ヨセの手筋などとして頻出する。
ツケコシ
黒1のように、ケイマの位置にある相手の石の間にツケ、△同士の分断を図る手を「ツケコシ」と称する(格言:「ケイマにツケコシ」)。
鼻ヅケ
黒1のように、△2子の先端にツケる手を「鼻ヅケ」と呼ぶことがある。白がaに遮断すればbで取られ、bならaとワタって白地は激減する。
ツケに関する格言
弱い石にツケるな……ツケは自分の石を固めるが、一方で相手の石も強くしてしまう。このため相手の弱石に対しては直接ツケるのではなく、遠巻きに攻める方が多くの場合有効である。
サバキはツケから……敵の勢力圏内で軽くサバく場合には、相手の石にツケることで手がかりを得ることが有効になる。例えば下図の白はaなどとまともに逃げ出しても石数からいって不利であるため、白1にツケて形に就く手がかりとする。
参考図書
趙治勲『ツケの技法 (最強囲碁塾)』河出書房新社
■
ツケヒキ定石(ツケヒキじょうせき)は、囲碁における基本的な定石の一つ。小目に対する一間高ガカリから発生する下記の形を指す。他にもツケヒキを含む定石は数多くあるが、単に「ツケヒキ定石」と言った場合は下記の形を指す。
小目の一間高ガカリに対し、黒が下に1とツケ、白2のオサエに対して黒3と引いてできる形。ツケヒキが打たれた後、白からはaのカタツギまたはbのカケツギが普通。中央を重視する場合、cの大ゲイマあるいはdのケイマなどが打たれることがある。また白は何も打たず、このまま手を抜くこともある。
黒は隅に10目程度の地を確保して安定し、白は下辺に展開して、部分的に互角とみなされる。
目次 
1	カタツギ
2	カケツギ
3	大ゲイマ
4	手抜き
5	定石の方向
6	参考文献
カタツギ
(上辺)白が1に堅くツイだ場合、次に白からaとツケる手を防いで、黒2あたりにトンでおくのが普通で、bにコスむ手もある。白は3と上辺へ二立三析にヒラいて一段落となる。後に黒cのツメからdの打ち込みなどが狙いとなる。
(下辺)白3と高くヒラく手もある。aやbなどに味方の石がいる時などは、バランスの観点からこちらへヒラくことが多い。黒はcにツメてからdへのオキ、eとツメればfの打ち込み、あるいは単独でgへの侵入などが後の狙いとなる。
カケツギ
(上辺)白が1にカケツイだ場合も、黒はやはりaのツケを嫌って2などに備えておく。白は3と、カタツギの場合よりも一路広くヒラけるのが利点。ただし黒からbにツメられるとcの打ち込みが厳しい(黒dのワタリが狙い)ので、白eとトンで備えておくのも立派な一手。
(下辺)左辺への発展を重視するなら、白1のカケツギに対して黒2のノゾキを利かせ、黒4へのコスミあるいはaへのケイマといった手もある。ただし後に黒bの打ち込みを失う(黒cでワタれなくなる)ため、近年はあまり打たれない。
大ゲイマ
白1と大ゲイマして中央制覇を狙う手もある。黒aのキリなら、白bから符号順に打って外勢を固める。黒は2などに打って、後に白の薄みを狙うことが多い。黒が手を抜けば、白から2あたりに打って封鎖する展開が考えられる。
手抜き
白はツケヒキの形のまま手を抜き、黒1のキリを許すこともある。後に白からaと引き出す手なども残る。このためさらに黒からaの点にカカエておくのも立派な一手。
定石の方向
ツケヒキ定石では、白が下辺に展開する形となる。しかし下辺の価値が低く石を向けたくない局面などでは、黒1のツケに対してaとオサエるのではなく白2 - 4と運び、ナダレ定石に持っていく手もある。これにより下辺でなく左辺に石を向けられる。黒もこれを嫌えば、黒1でbと上ツケするなどの手も考えられる。
参考文献
高尾紳路『基本定石事典』日本棋院
■
詰碁(つめご)とは、囲碁の部分的な死活を問う問題のこと。将棋の詰将棋に対応するもの。
目次 
1	概要
2	例題
2.1	解答
3	歴史
4	詰碁名作ベストテン
5	その他
6	脚注
7	関連項目
8	参考文献
9	外部リンク
概要
白黒の石が置かれた囲碁の盤面の一部(まれには全部)と、手番(「白番」、「白先」もしくは「黒番」、「黒先」)が示され、どのように打てば自分の石を生きにもちこめるか、または相手の石を殺すことができるか、すなわち死活を考えるものである。
いくつも詰碁を解き、パターンを覚えておけば、実戦に類似した形が生じた場合に短時間で対応できるようになる。また、読みの力を養う絶好のトレーニングともなることから、囲碁の上達には欠かせない。このため、多数の詰碁問題集が市販されている。
なお、詰碁という用語は、死活のからむ問題に用いられる。一方で、死活に関係なく、局所的な得を図るような問題は手筋問題といわれる。
たとえば、黒番で黒の石を生かす問題は「黒先活(くろせんいき)」、白の石を殺す問題は「黒先白死(くろせんしろし)」という(白番の場合は、「白先活(しろせんいき)」、「白先黒死(しろせんくろし)」)。また、最善の手順を尽くすとコウになる(コウに勝ったとした場合にのみ自分の石が生きられる/相手の石を殺せる)問題もあり、それらは「黒先コウ」「白先コウ」という。詰碁の問題集では結果(たとえば「黒先コウ」)まで書いているものもあるが、「黒先」か「白先」のみが示されていることの方が多い。結果が書かれていないものでは、最善の結果になる手を答える。たとえば、黒先の問題で、白の無条件死になる手順と、コウになる手順があったとすると、無条件死の手順を示さなければ正解とならない。
詰碁の難易度は様々で、初級者でもすぐ解けるものから、プロ棋士が何日もかかるような難問もある。「3分で解ければ初段」などと、棋力の目安のついた問題などもある。
例題
自分の石を生かす問題と相手の石を殺す問題[1]。共に黒先。
問題 1:
 	問題 2:
解答
解答 1:
1が「二の一」と呼ばれる急所で、本問では白にここを打たれるとどう打っても生きられない。黒1・3に打った左側に一眼できるのを白は防げない(黒がaに打てば一眼できるのは明らかであり、白がここに打ったとしても取られる)ため、右側に作ることができる一眼と合わせて二眼の生きとなる。白2で3に打つのは黒2でやはり生き。
解答 2:
3の後、ダメヅマリにより白はaに打つことができない(まとめて取られてしまう)。白の2手目が3なら黒2でやはり白死(欠け眼になる)。なお、黒が初手で2に打つと白1 黒3 白aで失敗(白活き)となる。
歴史
詰碁は、囲碁の死活を独立させたもので、古くから棋書の一部として存在した。中でも元に成立した『玄玄碁経(げんげんごきょう)』(1349年)が有名。明時代には『官子譜(かんずふ)』が作られた。この時代には詰碁を「珍瓏(ちんろう)」と呼んでいる。また中国ではヨセを官子と呼ぶ。(「詰碁」の語はおそらく「詰将棋」の影響によって日本で作られたと考えられる。囲碁の死活には「詰める」という言葉を使わないため)中国では詰碁という言葉は用いられず「死活問題集」「攻防問題集」「手筋問題集」「官子(ヨセ)問題集」「布局問題集」という用語が使われてきた。
日本では、1713年、井上道節因碩により『囲碁発陽論』が作られた。これは難解なことで有名だが、作成当時は井上家門外不出の書とされていた。1812年には林元美により『碁経衆妙(ごきょうしゅうみょう)』が出版された。
近代になると、職業棋士が、雑誌、新聞などで継続的に詰碁を発表するようになる。有名な詰碁作家として前田陳爾、橋本宇太郎、呉清源、加田克司、石榑郁郎、石田章、張栩らがいる。また数は多くないがアマチュアの作家(塚本惠一ら)も活躍している。
詰碁名作ベストテン
詰碁名作ベストテンは、前田陳爾が昭和47年に『棋道』誌に連載したエッセー(『詰碁の神様 前田陳爾傑作集2』に再録)。
玄玄碁経
発陽論
官子譜
玄覧(赤星因徹)
碁経衆妙
死活妙機(本因坊秀哉)
橋本宇太郎
佐藤直男
加田克司
筆者
となっている。
その他
現在は「珍瓏」といえば、盤面の全体を使った問題を指す。「珍瓏」では「この石が取れるか?」といった条件付きの問題も認められていて、定められた石をアタリの連続で(主にシチョウを使って)追うものもある。中山典之が多くの作品を発表している。
脚注
^ 『碁経衆妙』(林元美)
関連項目
玄玄碁経
碁経衆妙
官子譜
囲碁発陽論
参考文献

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年10月)
事典類
趙治勲『基本死活事典』全2巻 日本棋院 1984-85年
『新・早わかり 死活小事典』日本棋院 1993年
張栩『基本死活事典』日本棋院 2014年
瀬越憲作『詰碁辞典(改訂版) 』日本貿易出版 1971年
関山利一、利夫『傑作詰碁辞典』誠文堂新光社 1975年(改訂版 2010年)
橋本昌二『名作詰碁辞典 玄玄碁経と発陽論』誠文堂新光社 1976年
加藤正夫『死活小辞典』誠文堂新光社 1984年
江場弘樹『基本死活辞典』エフエー出版 1992年

現代の代表的詰碁作家の作品集
『前田陳爾』(100万人の詰碁1)講談社 1983年
『橋本宇太郎』(100万人の詰碁2)講談社 1983年
『呉清源』(100万人の詰碁3)講談社 1983年
『加田克司詰碁教室』(ゴ・スーパーブックス15)日本棋院 1971年 
『石榑郁郎傑作詰碁選』三一書房 1996年
佐藤直男『棋力アップ さわやか詰碁』誠文堂新光社 1999年
『秀行創作詰碁傑作集』日本棋院 1980年
『坂田 珠玉詰碁』誠文堂新光社 1995年
『石田章 詰碁傑作選 ~基本手筋の反復練習~ (マイコミ囲碁ブックス) 』2007年 
『張栩の特選詰碁』日本棋院 2008年
塚本恵一『読むだけで強くなる 詰碁の鉄人』毎日コミュニケーションズ 2007年
入門書
『藤沢秀行詰碁教室 初級編』読売新聞社 1980年
『藤沢秀行詰碁教室 中・上級編』読売新聞社 1980年
『前田初級詰碁』東京創元社
『前田中級詰碁』東京創元社
『前田上級詰碁』東京創元社
『囲碁次の一手〈2 初・中級編〉初・中級詰碁』角川文庫
『囲碁次の一手〈5 上級編〉上級詰碁』角川文庫
『詰碁ジョイブックス』全10巻 日本棋院
外部リンク
黒白の部屋(塚本恵一)
詰碁の創り方(塚本惠一)
詰碁を楽しむ会
基本死活辞典(江場弘樹)
鈴木歩三段の詰碁のすすめ
■
囲碁における手合割(てあいわり)とは、囲碁の対局における実力差に応じたハンディキャップのこと。またそれに基づく実力差、ないし段級位差を指すこともある。
目次 
1	概説
2	プロ棋士の手合割
3	アマチュアの手合割
4	緑星会方式
5	その他の方式
概説
囲碁において、棋力の差に応じたハンディキャップを与えて、対等な勝負ができるようにするための仕組みである。
現代の一般的な対局では、棋力に差が無い、もしくは対等として対局する際は、対局時の先手番(先番)、後手番はどちらとなってもよく、先番が何目かの目数をハンディキャップとして負う(コミ)こととし、これを互先(たがいせん)という。
棋力に差があるとき、その差に応じて下位者がコミ無しの先番を持つか、あらかじめ下位者が盤上にいくつかの石を配置した状態で開始する。これを置き碁(おきご)と言う。置き碁では必ず上位者の手番で対局で開始する。この時の上位者を上手(うわて)、下位者を下手(したて)と呼ぶ。置き碁の2子局の下位者となる手番を2子番などとも呼ぶ。
プロ棋士の手合割
現在は全ての互先での対局が、先番がコミを出して1局で勝敗を決着するコミ碁となっている。
日本棋院設立以前には、棋士間の手合割は二段差1子であった。
日本棋院が制定した、プロ棋士の段位を決める大手合では三段差1子を基準とする、以下の手合割の考え方が採用されていた。(日本棋院では2003年、関西棋院では2004年に廃止された。)
「大手合」も参照
段級差	名称	内容
0	互先	2局一組として考え、交互に先手を持ち、同一の相手とは偶数局を行うのが基本。
1	先相先	3局一組として考え(以下同じ)、下位者が3局のうち2局で先番、1局で後手番とする。
2	先	下位者が3局のうち3局とも先番とする。定先とも呼ぶ。
3	先二先	下位者が3局のうち2局を先手、1局を2子番とする。
4	二先二	下位者が3局のうち1局を先番、2局を2子番とする。
5	二子	下位者が3局のうち3局とも2子番とする。
6	二三二	下位者が3局のうち2局を2子番、1局を3子番とする。
7	三二三	下位者が3局のうち1局を2子番、2局を3子番とする。
8	三子	下位者が3局のうち3局とも3子番とする。
名称のうち先相先の場合は、3局を先番、後手番、先番の順で打つが、古くは先番、先番、後手番の順で打たれた。
原則として、二者間の対局で、片方が4番勝ち越しとなった場合に手合割を変えるのが通例。下位者が勝ち越した場合は、昇段の権利を主張でき、実際には複数の相手に対しての成績を考慮して昇段を認められる。この仕組みは棋士の数が少ないうちはある程度有効に機能するが、棋士の数が多くなると昇段の判定基準が難しくなり、同一の対局相手とは1局だけ行い、成績を点数制という形で基準化したのが大手合制度となる。
十番碁などの打込み制の対局を偶数局で行うのは、互先では2局一組とする考え方の延長。
アマチュアの手合割
アマチュアの段級位は、1段級差1子とするのが一般的で、以下のようになる。
段級差	名称	内容
0	互先	交互に先手を持つ。または先手がコミを出す。
1	先	下位者が先番とする。定先とも呼ぶ。
2	二子	下位者が2子番とする。
3	三子	下位者が3子番とする。
4	四子	下位者が4子番とする。
...	...	...
9	九子	下位者が9子番とする。
...	...	...
手合割の変更や、昇段、昇級の基準に一般的に定まったものはない。手合割の変更は対局者同士でルールを決めてもよく、3番、あるいは4番勝ち越しといった方法が多い。昇段、昇級は、日本棋院などのプロ組織の発行する免状によるものの他に、碁会所やクラブなどの内部で独自の方式を決めることも多い。
緑星会方式
アマチュアの囲碁研究会であった緑星会で採用された点数方式で、代表的な点数方式。他の碁会所やクラブで採用するところも多い。
置き碁と、1目刻み5目までのコミ出しを組み合わせた手合割を用いる。個人には各々の持ち点があり、対局者間の持ち点の差をコミの目数とし、コミが5目を越える毎に置き石を1子増やしてコミをマイナス5目とする。6点差は2子で下位者の5目コミ出しとなり、点差が増えると下位者のコミを減らし、11点差でコミが0目の2子局、12点差からはまた上位者のコミ出しを1目ずつ増やす。対局者は1勝すれば持ち点を1点増やし、1敗すれば1点減らすことで、点数を実力に見合うように適正化する。
その他の方式
上記以外にも、多様な手合割の方法が提案、実行されている。ネット碁会所などでは、非常に多人数の手合割を合理的に決める必要があり、それぞれ独自の点数制と段級位の組み合わせなどの方式を用いている。
■
出入り計算(でいりけいさん)とは囲碁における手の価値の計算法である。自分から着手した場合と相手から着手した場合の地の差を出入りといい、出入りに基づいて計算する。ヨセにならないと実際の計算は難しいので、主にヨセで使われる。手の価値の計算法は他に見合い計算がある。
出入り計算においては手の価値は出入りの大きさに加えて、先手後手を考慮する。
両先手
双方から先手の手。
(片)先手
打つ側から先手、打たれる側から後手。
逆ヨセ
打つ側からは後手、打たれる側から先手。
(両)後手
双方から後手。
これらの後に出入りの目数を加えて、逆ヨセ3目の手、後手2目の手などと言う。両先手が一番大きく、先手と逆ヨセは同等で後手ヨセの二倍の価値と考える。
なお出入りを計算するときに地の境界がはっきり定まらないときは、見合い計算による地の計算に基づき出入りを計算するが、 計算するうえで、意識しておくべきことは下の二点で十分である。
片先手は、先手側がその着手を行ったものとして計算する。
両後手は、お互いが着手した形から折半する。
見合い計算との比較
双方が着手した図から比較した数字なので直感的にわかりやすく計算がしやすい。
複雑な形勢判断はできないが、ヨセの手の大きさを比較するには出入り計算で十分である。
見合い計算も、数え方が異なるが双方の図をみるという意味では出入り計算と同じである。■
■
手筋(てすじ)とは囲碁用語の一つで、通常より大きな効果を挙げることのできる着手のこと。多くの場合、平凡な発想では達し得ない、やや意外性を含んだ効果的な手を指すことが多い。単に「筋」(すじ)と呼ぶこともある。将棋やチェスなどにおいても同様の意味で使われる。
正しい手筋を身につけることは、囲碁上達の大きな要諦である。このため様々なレベルの手筋だけを反復練習する本が多数出版されている。
手筋には、相手の石を取る手、自分の石が生きる手、連絡を図る手、攻め合いに勝つ手、形を整える手、相手の地を削減する手、先手を取る手などが含まれる。これらはツケ、ハサミツケ、トビツケ、ハナヅケ、ツケコシ、オキ、ワリコミ、キリ、ハネとオサエ、コスミ、コスミツケ、サガリ、ゲタ、シチョウ、ワタリ、捨て石、目を欠く、アテコミ、オイオトシ、ダメヅマリ、シボリ、オシツブシ、トビなどの形で現れる。手筋ではない筋の悪い手を俗筋、イモ筋という。また一見手筋風の手、本物の手筋の一路違いだが効果がない手を筋違い・異筋などと称することがある。なお、依田紀基は、最近手筋をより合理的に定義できる「筋場理論」を提唱している。
目次 
1	手筋の例
2	石を取る手筋の例
3	筋場理論
4	参考図書
手筋の例
相手の石を取る手筋の例として「鶴の巣ごもり」と呼ばれる手がある。図のように、白△とトビ出して3子を逃げだそうとした場合である。
これに対し、トンだ石の間の黒1へワリコむのが手筋である。白2と逃げようとしてきたら、黒はaにツガず、黒3に切る。1子のアタリに構わず切る発想の飛躍が、手筋たるゆえんである。
白は白1と1子を取りつつ逃げるしかないが、ここで黒2とアテれば全体がオイオトシとなり、白は脱出できない。
石を取る手筋の例
ゲタ
シチョウ
ユルミシチョウ
オイオトシ
ウッテガエシ
筋場理論
提唱する依田紀基によれば、「筋場理論」は「碁の歴史を変えるほどの大発見である筋の根本原理である」理論である。
筋場とは、石が2つ以上並んだ瞬間に存在するもので、「2つ以上石が並んだ、相手の石がない側の1路横」、つまりアキ三角になる場所のことである。
手筋とは、「利き筋を手順よく利用して、相手の石を筋場に持って来て石の働きをよくする打ち方、あるいは自分の石が筋場にこない、そういう形を目指す打ち方」とできる。なお、碁の筋には、①筋場理論と②ダメ詰まり(ウッテ返し系)があり、筋場が手筋になる場合もある。
参考図書
月刊碁学編『ひと目でわかる「本筋・俗筋」対照表 (マイコミ囲碁文庫シリーズ)』2008年
『新・早わかり手筋小事典』日本棋院
『手筋大事典』日本棋院
瀬越憲作・呉清源『手筋事典 上・中・下』誠文堂新光社
藤沢秀行『基本手筋事典 上・下』日本棋院
山下敬吾『新装版 基本手筋事典』日本棋院
石田芳夫『これが手筋だ』(全三巻)大泉書店
依田紀基『マイコミ囲碁ブックス 石の効率がぐんぐん良くなる本』マイコミ
■
手抜き(てぬき)とは、囲碁や将棋において、直前の着手に対して応接せずに、離れた場所に着手すること。
目次 
1	囲碁における手抜き
1.1	手抜きの実例
1.2	手を抜くための工夫
2	三手抜き
囲碁における手抜き
一般に、戦いの最中や、大きな欠陥を残すような場面で手を抜くのはよくない。しかし手を抜いても大きな損害が出ないような場合なら、思い切って手を抜き、大場に先着するのも重要な戦法である。また、完全に形を決めてしまわず、後に味や含みを残しておくために手を抜くこともある。
手抜きの実例
星に三々入りしてできる定石の例。ここで黒は1の点にカケツイでおくのが普通。ここで手を抜いて他に回ると、aのキリやbのハサミツケなどを残し、通常よくない。黒1で手を抜いて他に回るのは、よほど特殊な条件の時に限られる。

ツケヒキ定石の途中。ここで白はaやbにツイでおくのが普通だが、手を抜いて他に回る打ち方もある。他の状況を見つつ、aやbにツグか、cやdなどに打つなど選択肢を残しておく手段である。黒から先にaへ切られる可能性もあるが、まだ周囲に利きが残っており、白2子はまだ死にきっていない。
手を抜くための工夫
白は1の手でaとサガって根拠を確保しておくのが手堅い手法だが、白1黒2を交換し、手を抜いて他に回る打ち方もある。何も打たずに他に回ると黒aのハネで眼型が失われるが、白1黒2を交換しておけば、黒aに対して白b黒c白dと運んで2子が落ちる。黒に眼型を与え、強化してしまうのと引き替えに、他の好点を目指す手法である。
こうしたことから、「手抜きは常に三番目以内の着手」(その場所における最善手、次善手、次々善手のいずれかである)と言われる。
三手抜き
星に対して両ガカリされた際、さらに手を抜いてできる形。下図白1とカケられ、封鎖された形を指す。黒からはaにコスんで生きるべきとされてきたが、bにコスミツケて生きる方が正しいという指摘が呉清源よりなされている。ただし、こうして封鎖されてしまうとどちらにしろ結果は悪く、両ガカリされた段階で黒は1あるいはcなどに打って、頭を出しておくべきであるとされる。

■
天元(てんげん)は囲碁用語で、碁盤の中心点のこと。下図黒1の点。
タイトル戦の名称にある天元は、ここからとったものである。

目次 
1	歴史
2	布石における天元
3	評価
4	その他
5	参考文献
歴史
碁盤の目は19×19=361目あるが、これは古代中国の五行説でいう一年の360日に対応していた。この余る一目を中央の「天元」に擬して、万物の根源と考えることで数を合わせていたと考えられる。ただし当時天元という言葉はなく、「太極」などと呼ばれていた。天元の名を与えたのは天文学者としても有名であった江戸時代の棋士・二世安井算哲(天文学者としての名は渋川春海)であったと考えられている。
布石における天元
囲碁の布石においては、地をとりやすい小目・星など隅から打ち始めることがセオリーとされている。しかし碁盤の中央を最初から占める打ち方も、昔から考えられていた。例えば第一着を天元に打ち、後を相手のマネをして点対称の位置に打つ「太閤碁」などがそれである。下図は太閤碁の一例(1929(昭和4)年、呉清源(黒)-木谷實)

しかし専門棋士でこれを最初に試したのは、先の二世算哲であった。彼は当時の最強者・本因坊道策と対戦するにあたり、自らの天文学理論を応用して第一着を天元に打ち下ろした。しかし道策は冷静に対応し、安井の研究不足もあって9目の負けとなった。その後南里与兵衛がやはり道策に初手天元で立ち向かったが、中押し負けを喫している。
その後は長く初手天元は現れず、明治時代に入って黒田俊節が本因坊秀甫に打った記録がある程度である。天元が脚光を浴びるのは、昭和時代になってからになる。木谷實・呉清源の提唱した新布石の中で中央を重視する手法として打ち出され、久保松勝喜代は特に熱心にこれを研究した。久保松は、「中央に大きな地を築くよりも、戦いに活用すべき着点」との見解を示している。
さらに呉清源が、本因坊秀哉名人との対戦で三々・星・天元を連打する布石を打ち、大センセーションを巻き起こすこととなった。
(白:本因坊秀哉 黒:呉清源)
 新布石旋風が止むと再び初手天元は用いられなくなり、マネ碁対策などとして散発的に打たれる程度となった。有名な碁としては、1950年に東西対抗戦で山部俊郎が橋本宇太郎に対して初手天元を放ったものがある。橋本はノータイムで天元にケイマガカリ、山部も間髪入れずにケイマに受け、大いに囲碁ファンを沸かせた。当時は東西の対抗意識が最盛期に達していた時期で、挑発的な感情が背景にあったといわれる。
(黒:山部俊郎 白:橋本宇太郎)
平成時代に入っては、山下敬吾が天元戦で集中的に初手天元を試して話題となった。また依田紀基なども時に天元打ちを試し、白番2手目での天元なども打っている。下に示すのは2000年の新鋭トーナメント戦決勝にて、山下敬吾が高尾紳路相手に白番天元を放った一局。
評価
布石における天元は、研究不足のためもあって利用法が難しく、プロ間でも勝率は高くない。天元の効果は全局に薄く広く及ぶため、その効率的な活用が難しいためと考えられる。たとえば加藤正夫は、「天元に打ってもらうとコミにして2目半ほど得した気分」と述べている。かつて天元を多用した山下敬吾も「若い頃に、トップ棋士対策として使用した一種の奇襲戦法であり、今後打つことはないだろう」とコメントするなど、プロレベルでは今のところ有効な着点とは見なされていない。ただし究められていない部分はまだ多く、序盤研究の最終地点となるのではないかとの見方もある。
その他
『天元坊』 山松ゆうきち……初手天元を打つ僧侶が主人公の漫画作品。
参考文献
「天元への挑戦」 山下敬吾・相場一宏著 河出書房新社■
■
天元戦(てんげんせん)は、日本で開かれている囲碁の棋戦。優勝者には天元のタイトルが与えられる。
目次 
1	概略
2	名誉天元
3	歴代天元戦五番勝負結果
4	記録
5	国外の天元戦
6	関連項目
7	参照
8	外部リンク
概略
1976年創設。前身は日本棋院選手権戦。新聞三社連合(北海道新聞、中日新聞/東京新聞、西日本新聞、神戸新聞、徳島新聞)主催。創設にあたり、関西棋院でおこなわれていた関西棋院選手権戦(神戸新聞社主催)も統合された。
トーナメント戦による勝者がタイトル保持者と五番勝負を行い、優勝者を決める。毎年11月から12月にかけて五番勝負を行うことから、一年間の碁界を締めくくるタイトル戦である。名称は碁盤の中心点である「天元」から採られている。
トーナメント制である上に、同様の十段戦・王座戦・碁聖戦に比べて本戦トーナメントの出場枠が多い(28名+α)のが特徴で、小林光一・片岡聡・柳時熏・羽根直樹・河野臨ら若手が初タイトルとして戴冠することが多い棋戦となっている。
2009年の第35期から、七大タイトル戦では王座戦に続き、持ち時間3時間制を導入した。
2014年の第40期より、七大タイトルの序列4位から5位へ降格した[1]
名誉天元
天元戦を5連覇以上した棋士は、60歳以降に名誉天元を名乗る権利を得る。
通算	連覇	年
1	林海峰	5期	5連覇	1989-1993
歴代天元戦五番勝負結果
年度は五番勝負が行われた年。第6期から挑戦手合制に移行。左が勝者、◯●は勝者から見た勝敗、網掛けはタイトル保持者。
期	開催年	優勝者	勝敗	準優勝
1	1975	藤沢秀行	3-1	大平修三
2	1976	小林光一	3-1	杉内雅男
3	1977	島村俊宏	3-1	苑田勇一
4	1978	加藤正夫	3-1	藤沢秀行
5	1979	加藤正夫	3-0	片岡聡
期	開催年	優勝者	勝敗	準優勝
6	1980	加藤正夫	3-0	山部俊郎
7	1981	加藤正夫	3-2	小林光一
8	1982	片岡聡	3-2	加藤正夫
9	1983	片岡聡	3-1	淡路修三
10	1984	石田芳夫	3-1	片岡聡
11	1985	小林光一	3-0	石田芳夫
12	1986	小林光一	3-1	苑田勇一
13	1987	趙治勲	3-2	小林光一
14	1988	趙治勲	3-2	苑田勇一
15	1989	林海峰	3-2	趙治勲
16	1990	林海峰	3-1	小林光一
17	1991	林海峰	3-1	加藤正夫
18	1992	林海峰	3-1	山城宏
19	1993	林海峰	3-1	片岡聡
20	1994	柳時熏	3○●○○1	林海峰
期	開催年	優勝者	勝敗	準優勝
21	1995	柳時熏	3-2	小林光一
22	1996	柳時熏	3○●●○○2	林海峰
23	1997	工藤紀夫	3○○●○1	柳時熏
24	1998	小林光一	3●○○●○2	工藤紀夫
25	1999	小林光一	3○○○0	工藤紀夫
26	2000	柳時熏	3○○○0	小林光一
27	2001	羽根直樹	3●○○○1	柳時熏
28	2002	羽根直樹	3○○○0	趙善津
29	2003	羽根直樹	3●○○●○2	山下敬吾
30	2004	山下敬吾	3○○○0	羽根直樹
31	2005	河野臨	3●○○●○2	山下敬吾
32	2006	河野臨	3○●○○1	山下敬吾
33	2007	河野臨	3●○○○1	山下敬吾
34	2008	張栩	3○○○0	河野臨
35	2009	山下敬吾	3○●○●○2	張栩
36	2010	結城聡	3○○○0	山下敬吾
37	2011	井山裕太	3○○○0	結城聡
38	2012	井山裕太	3○○○0	河野臨
39	2013	井山裕太	3○○○0	秋山次郎
40	2014	高尾紳路	3●○●○○2	井山裕太
41	2015	井山裕太	3○○○0	高尾紳路
42	2016	井山裕太	3○●○○1	一力遼
記録
最年長天元は、第3期島村俊宏の65歳。当時の史上最高齢タイトル記録でもあった。
最年少天元は、第37期井山裕太の22歳。第5期には片岡聡が20歳で決勝進出しているが、タイトル獲得は成らなかった。
最多連続在位は林海峰の5期。
山下敬吾は2003年、2005~2007年と挑戦権を獲得しており、本戦トーナメントにおいて22連勝の記録を持っている。
趙治勲は第36期まで36期連続本戦出場した(天元位在位時を含む。第37期予選で林漢傑に敗れ、本戦出場ならず)。
国外の天元戦
他国にも似た名称の棋戦があり、優勝者には天元のタイトルが与えられる。
バッカス杯天元戦 - 韓国
中国囲棋天元戦 - 中国
天元戦 (台湾) - 台湾
そのほか国際棋戦があり、中国と日本の天元が対局する「日中天元戦」は1988年から2002年まで開催、中国と韓国の天元が対戦する「中韓天元戦」は1997年から開催されている。
関連項目
囲碁タイトルの在位者一覧
王位戦 (将棋) - 3社連合の主催による将棋の棋戦
参照
^ 朝日新聞 「七大タイトルの序列変更 囲碁」2014年5月27日
外部リンク
天元戦(日本棋院)
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投了(とうりょう、Resignation、Surrender、Concede)とは、ボードゲームなどのゲームにおいて、不利な方が負けを認め、本来の対戦終了となる条件が成立するよりも前にゲームを終えること。他の表現として「投げる」「ゲームを降りる」などとも言う。
目次 
1	概説
2	オセロ
3	バックギャモン
4	囲碁
5	将棋
5.1	公式棋戦における逸話
6	連珠
7	チェス
8	TCG
9	カーリング
10	脚注
概説
投了が行われる時機としては、勝利の見込みがない、戦意を喪失してしまった、などがある。単なる時間や労力の無駄をなくすためだけでなく、勝負にならない対局を継続することは対局相手に失礼になるとする考えがある。
一般に、投了優先の原則があり、反則等があっても指摘せずに投了した場合は投了を優先する。
オセロ
オセロでは石数によって勝敗を決定する場合が多く(先後二番打ち)、そうでない場合でも最終局面まで打って石差をはっきりさせるのが一般である。
バックギャモン
バックギャモンは勝ち方、負け方で得点が異なるため、終了間際までプレイする。「これは何点の勝ちになるのが確実」と判断されたとき、双方の合意で終局となる。
囲碁
自分の手番で「ありません」「負けました」等と発して頭を下げることで、投了の意思表示をすることが一般的である。またアゲハマを盤上に置くことも投了の意思表示となる。
投了により勝敗の決着がついた場合、「中押し(ちゅうおし)勝ち」「中押し負け」と呼ばれる。日本囲碁規約では、第十一条において「対局の途中でも、自らの負けを申し出て対局を終えることができる。これを「投了」という。その相手方を「中押勝」という。」と定められている。[1]
将棋
将棋では、自分の手番で
「負けました」などと発声するか、
頭を下げて駒台に手を置くこと
によって投了の意思を表示することができる。[2]
棋譜を汚さないように、上手い手を出現させた時点での投了、一手違いの形にしてからの投了などの美学が存在し、最後の詰みまで指すことはごくまれである。投げ場を求める、などと言われる。
将棋で投了となる局面は、大きく次の3通りに分けられる。
詰み - 自玉が即詰みとなることがわかったとき。前述のとおり、最後の詰みまで指すことはまれ。
必至(必死) - 自玉に必至がかかり、かつ相手玉が詰まないとき。
戦意喪失 - 駒損が著しい、有力な攻め(受け)が見込めないなどの理由で、勝ち目がないと判断したとき。
なお二歩などの反則や千日手が発生しても対局者が気付かずに指し継ぎ終局となった場合、反則や千日手如何にかかわらず投了による終局・勝敗が優先となる。
公式棋戦における逸話
2007年10月30日に行われた第66期順位戦C級2組6回戦・先手豊島将之四段-後手真部一男八段(段位は当時)の対局では、真部が直後に極めて有力な攻めの妙手を発見していたにもかかわらず、それを指さずに僅か33手で投了した。この時真部は癌を患っており、その妙手を指すと豊島が応手に困り長考に沈み、自らの身体が持たないであろうと判断して投了したという。
詳細は、真部一男#幻の妙手△4二角を参照。
連珠
連珠では、先に五連を作った者が勝ちとなり、黒が禁手を打った場合はその時点で白の勝ちとなる。しかし、相手が四三(白の場合は三三、四四も)を打ち、防ぐことが不可能な場合 は、五連を待たずに投了するのが一般的である。有段者の対局ではそれ以前に投了することも多いが、四追い勝ち(三や他の手を要さず、四の連続で勝つ)の途中で投了するのは美しくないとされている。
チェス
チェスにおいては、「(I) resign」「負けました」などと発し、握手をすることでゲームが終了となる。自分のキングを倒すことでも投了の意思は発せられる。倒すふりや、掴むだけであることが多い。
相手の手番で投了してもルール違反ではないが、相手の考慮を無駄にさせるため、投了は自分の手番で行なうのがマナーとされる。
TCG
トレーディングカードゲームでは投了などを認めているタイトルと禁じているタイトル双方が存在する。後者の理由として、ゲームを意図的に長引かせる戦術トランスや「一回の勝利で2ゲーム分の勝ち点を得るカード」が存在しているためなどがあげられる。
カーリング
運動スポーツでは珍しく投了に相当する「コンシード」というルールがある。第6エンド以降に行なえる。
脚注
[ヘルプ]
^ http://www.nihonkiin.or.jp/joho/kiyaku/kiyaku11-12.htm
^ 日本将棋連盟|将棋の基礎知識|本将棋|4.王手と詰み
■
トビとは、囲碁用語で、自分の石から1路または2路離れた位置に打つ手のことをいう。あまり離れすぎているものは繋がりとしての意味がないため、3路以上の間があるものは普通はトビとは呼ばない。動詞形では「トブ」または「飛ぶ」という。また、根拠を確保する目的で三線や四線で辺に平行に打った場合はヒラキといい、トビとは区別する。
目次 
1	概要
2	関連用語
2.1	トビツケ
2.2	トビコミ
2.3	トビサガリ
2.4	トビマガリ
3	トビの手筋
4	格言
概要
石と石との間の交点を数えるときは間(けん)という単位を用いるので、白1を一間トビ(いっけんとび)、白3を二間トビ(にけんとび)という。 英語ではそれぞれ、「one-point jump」「two-point jump」。このように、自分の石が攻められて中央に逃げる場合などに、トビは最も多く打たれる。
関連用語
トビツケ
黒1のように、トビながら相手の石にツケる手を「トビツケ」と称する。
トビコミ
白1のように、相手の陣地内に侵入する低いトビのことを、特に「トビコミ」と称する。多くは第二線に打つ手のことを指す。ヨセの手段として頻出する。
トビサガリ
白1のように、盤端に向けてのトビを「トビサガリ」と呼ぶ。
トビマガリ
白1のようにL字型に曲がって飛ぶ手を「トビマガリ」と称する。
トビの手筋
黒1の第一線へのトビが手筋で、隅の石が連絡できる。白aなら黒b。黒1でbに飛ぶと、白cのハネ出しで切れてしまう。
格言
一間トビに悪手なし……中央に一間にトンでおく手は、手堅く自分の石を強化し、勢力を蓄えることになるので、まず悪手にはならないという意味。
追うはケイマ、逃げは一間……相手を攻める場合には、多少の隙があっても敵の石に厳しく迫るケイマがよい。逆に逃げる場合には、隙を残さない一間トビが有効。下図白1が逃げの一間トビ、黒2が攻めのケイマ。
参考図書:石倉昇『一間トビの効用 (烏鷺うろブックス) 』
■
取らず三目(とらずさんもく)は、囲碁用語で、下図のような形が代表的なもの。黒から打てば白地3目(場合によれば最大8目)になり、白から打てば白地2目(場合によれば1目)になるため、先に打ったほうが損をする。そのため、何目の地とするかがルール上の問題とされてきた。現行の日本ルール(1989年制定の日本囲碁規約)では白地2目となる(「歴史」節を参照)。
目次 
1	詳細
2	歴史
3	脚注
4	出典
5	参考文献
6	外部リンク
7	関連項目
詳細
黒から打てば白地3目になる。

黒1で黒のアゲハマは1個になる。

白2で白のアゲハマは5個になる。黒5で黒のアゲハマは1個増えて2個になる。結果として白のアゲハマが3個多くなり、白地3目になる。
なお、白にコウ材が多ければ、白地は最大8目になる。

黒5:コウダテ
白4とコウにする手があり、白6で白のアゲハマは1個増えて6個になり、盤面に3目の白地が残る。このとき黒のアゲハマは1個なので、この隅の白地は8目になる。黒にはコウダテによる他の箇所での得がはかれる。
逆に白から打てば白地2目になる。

白1で白のアゲハマは4個になる。

黒4で黒のアゲハマは3個になる。

白7で白のアゲハマは1個増えて5個になる。結果として白のアゲハマが2個多くなり、白地2目になる。
なお、黒にコウ材が多ければ、黒6で7の左に打つ手があってさらに白地は1目減る。
歴史
嘉永年間に取らず三目の形が実戦にでき、本因坊秀和が裁決を依頼されて「取らず三目(打たず三目)がよかろう」と答えたと伝えられている [1]。
1949年の日本棋院囲碁規約の日本棋院判例で
取らず3目の形は、そのまま終局すれば白地を三目と計算する。
とされた。
1989年の日本囲碁規約では、死活確認例で
黒の四子、白の一子はともに「活き石」で、第八条により「セキ石」。[2]
とされた[注 1]。すなわち、どちらも着手せずに終わればどちらの地にもならないため、実戦では白が着手して二目を得ることになる。
脚注
^ 日本囲碁規約では日本棋院囲碁規約とセキの定義が異なる。日本囲碁規約におけるセキの定義は囲碁のルール#死活判定も参照。
出典
^ 『囲碁百科辞典』403ページ
^ “Ⅲ 死活確認例”. 日本棋院. 2016年8月10日閲覧。
参考文献
林裕 『囲碁百科辞典』 金園社、1975年。
関口晴利 『囲碁ルールの研究』 文芸社、2007年。
外部リンク
囲碁ルール博物館
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ナカデは、囲碁において石を殺す筋のひとつ。
目次 
1	概要
2	3目ナカデ
3	4目ナカデ
4	5目ナカデ
5	6目ナカデ
6	関連項目
概要
抜き跡もしくは数目の相手の陣地の中に、石を置くことによって二眼を作らせず、相手の石を殺す手をナカデと呼ぶ。敵陣の中心付近に打って、二眼を作らせないようにするためこの名がある。
3目~6目の敵の地の中に打って眼を奪い、殺す手のことをそれぞれ、三目ナカデ、四目ナカデ、五目ナカデ、六目ナカデと呼ぶ。その形から、五目ナカデは「花五」、六目ナカデは「花六」と呼ばれることがある。七目ナカデ以上は存在しないが、抜き跡を囲んでいる石に欠陥がある場合、二眼を作れないケースも存在する(石の下など)。
3目ナカデ
白1と打つと、黒は二眼を作れなくなる。
4目ナカデ
右上の形は、白1と打つと黒は二眼を作れなくなる。これが四目ナカデの形である。
一方、左上の形は、白が手を下すまでもなくこのまま黒死である(もし黒aなら白bで3目ナカデの形になる)。
逆に、左下の直線型(直四)や右下の鍵型などは、白から打っても黒を殺せず(それぞれcとd、eとfが見合い)黒生きである。
5目ナカデ
白1と打つと、黒は2眼を作れなくなる。左の形は「花五」または「花五目」という。上記以外の5目の地は、欠陥がなければそのまま生きとなる。
6目ナカデ
白1に打つと、黒は2眼を作れなくなる。この形から「花六」「花六目」と呼ぶ。
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ナダレ定石(なだれじょうせき)は囲碁の定石に付けられた俗称の一つで、小目への一間高ガカリに下ツケする形から発生する定石を指す。最初から接触戦となり、また変化型が多い難解定石の代表の一つ。石が接触しながら戦いになっていく様を「ナダレ」と形容された。定石として研究されたのは昭和になってからと新しく、現代でも多くの変化が生まれ続けている。また大型定石となる形も多く、周囲に石がある場合にはツブレ(勝負が終わりになるほどの酷い結果)となる可能性もあるため、周辺の配石に注意して着手を選ぶ必要がある点でも難しい手法と言える。
目次 
1	基本型と歴史
2	代表的な図
2.1	簡明な形
2.2	小ナダレ
2.3	大ナダレ
3	大ナダレへの異手順
4	実戦譜
4.1	初期外マガリ定石
4.2	新手内マガリ
4.3	世界戦でハメる
5	注
6	参考文献
基本型と歴史
基本形は、小目に対する一間高ガカリに黒1と下ツケした場合に、白2 - 白4とする形。プロ棋士はかつてはこの形を白の悪形と考えて打たなかったが、アマチュアの間ではかなり打たれていたと思われる。昭和になって、アマチュアからこの形について質問を受けた長谷川章名誉八段が、調べてみると意外に難しいことに気付き、研究して実戦で用いて定石化された。黒からは簡明に分かれる形も選択できるが、戦いになる形には小ナダレ定石、大ナダレ定石がある。
この形からの黒の応手はa - eがあり、黒cなら小ナダレ定石、黒dならば大ナダレ定石に進行する可能性がある。
ナダレの命名者は、呉清源とも、囲碁ライターの三堀将[1]とも言われている。
代表的な図
簡明な形
黒1 (a) とツゲば、白2とノビるくらいで、黒3, 白4などとなれば、簡明な分かれとなる。白は黒3まででの手抜きもある。
黒1 (b) の二段バネはある形で、白2 - 白6までと黒1を捨て石にして穏やかな分かれを得る。
小ナダレ
黒1 (c) と打てば、白2 - 黒5となり、小ナダレ定石と言われる形となる。この後、シチョウ関係や周囲の状況に応じて、険しい接触戦となる。
大ナダレ
黒1 (d) と一本ノビ、白2を待って黒3とハネれば、以下白4 - 白6となり、大ナダレ定石と言われる形となる。この後、黒aの内マガリ形、黒bの外マガリ形の2種類の選択肢があるが、どちらも難解な長手順の定石となる。初期は外マガリが打たれていたが、呉清源により内マガリが打ちだされた。また黒1の時点で白が手を抜くこともある。
上図白2に、下図黒1と辛抱すれば、これ以上白から隅への追求は無い。白はここまでの形を利かしと見て満足してこれ以上は打たないか、白2 - 白4と打つ手などが考えられる。
大ナダレ形には現在も続々と新手・新定石が生まれており、最新研究を知らないとプロでもハマることが珍しくない。2005年に韓国では、下図の黒1という、驚くような手も研究されて打たれている。
難解な変化を避けて白1, 黒2とし、白3またはここで手を抜いてaなど辺へ展開する手も古くからあり、2006年ごろからまた多く打たれるようになっている。
大ナダレへの異手順
黒の下ツケに対して白1とヒク手も時々見られる。これに黒2とさらに這えば、白3 - 白5と大ナダレに進む。
小目に対して白が二間高ガカリし、黒1とカドに打った時に白2, 黒3と運べば、以下白4 - 白6と、これも大ナダレに進む。
実戦譜
初期外マガリ定石
第4期本因坊戦挑戦手合五番勝負第3局 1947年11月25-27日 本因坊薫和-木谷實(先番)
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当時は大ナダレに白1(16手目)の外マガリ形しか無かった。黒18ではその左下に打つのが当時の定型だったが、先番木谷は黒18, 20と激しい戦いを挑んだ。しばらく後には白7で16にハネ上げる安永一創案と言われる手が多く打たれる。碁は右上の戦いで黒有利に進むが、中盤から白が追い上げて、209手完、白2目半勝ち。途中木谷が貧血で倒れるというアクシデントもあった。岩本は最終第5局も勝って本因坊2連覇。
新手内マガリ
第1期日本最強決定戦 1957年2月21-22日 本因坊秀格-呉清源(先番)
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左上の大ナダレでの黒1(37手目)が初めて打たれた内マガリ形で、それまではこの手で3に打つ外マガリが定石だった。その後、白2では白4, 黒5を先に打つのが手順、白10は保留するなど改良されて定石型となっている。本局の配石では黒有利だが、先番の呉が難しい局面を逃げ切って151手まで中押し勝ち。呉はリーグ戦8勝2敗で第1期最強位に就いた。
世界戦でハメる
第10期世界囲碁選手権富士通杯2回戦 1997年4月14日 王立誠-劉小光(先番)
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黒1(23手目)はこの頃研究されていた外マガリ形の新形。黒15が緩手で、白16とカケられて黒3子が動けないのではハマリ形。282手完、白17目半勝ち。ナダレ定石の指折りの研究家でもあった王はこの大会で準優勝。
注
^ 1939年に加藤信の著書のために、当時読売新聞囲碁欄担当記者だった三堀が「かりにこれを雪崩型と云わうか」と記した(三堀将『黒白縦横』東京書籍 1979年)
参考文献
結城聡『決定版 大斜・村正・大ナダレ 』誠実文堂新光社 2009年
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ナラビは囲碁用語のひとつ。自分のすでに打たれた石の隣に打つ手。動詞では「ナラぶ」となる。似たような術語に「ノビ」「ヒキ」などがあるが、ナラビは相手の打った石に呼応して打つのではなく、自分の石だけに隣接させて打つ手のイメージである。また盤の端に向かって打つ手には「サガリ」が用いられることが多い。詳しくは該当項目を参照。
ナラビの例
白1のナラビで、aのトビ出しやbのツケによる進出を見る。
黒1のナラビで外勢を強化し、aのツケコシを狙う。
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ニギリは、囲碁用語の一つ。また、株取引における違法行為のひとつを指す隠語でもある。
概要
囲碁におけるニギリは、互先対局を行う場合に、先手と後手をランダムに決定するために行う行為。また、囲碁と同じ道具を使う連珠でも、仮先、仮後を決めるのに行うこともある。
まず対局者の一方(年長者が握るのが正式)が白石を数個握り、もう一方が黒石を1個(奇数の意)ないし2個(偶数の意)盤に置く。白石を開いて奇数か偶数かを調べ、当たった場合は黒石を置いた方すなわち当てた方がそのまま先手(黒番)となり、外れた場合は白黒を交換して後手(白番)になる。
株におけるニギリ
証券会社が大口顧客に対して年利益を保証する契約を結ぶ違法行為のこと。
関連項目
互先
振り駒(将棋の先後決定方法)
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日曜囲碁対局(にちよう・いご・たいきょく)は1968年-2002年に、テレビ東京(1981年9月30日まで東京12チャンネル)などで放送された囲碁のテレビ棋戦番組である。
概要
1968年10月、民放初となるテレビ棋戦「早碁選手権戦」の第1回大会開催とともに開始されたもので、日本棋院・関西棋院所属の棋士による早差し囲碁の熱戦を展開した。翌1969年からは若手棋士による大会「新鋭トーナメント戦」も開催され、これを半年間交互に開催してきた。
2002年に日本航空協賛の鶴聖戦・女流鶴聖戦と大会を統合した際、「スーパー早碁」として発展解消された。テレビ東京の将棋棋戦「テレビ将棋対局・早指し将棋選手権」やNHK教育テレビジョンの「NHK杯テレビ囲碁トーナメント」・「NHK杯テレビ将棋トーナメント」と並ぶテレビ棋戦として視聴者に親しまれた。
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日中囲碁交流は、
日本と中国の間で、囲碁のプロ・アマチュアの棋士が相手国を訪問するなどして対局を行うこと。
1.のうち、特に1960年から1992年にかけて、読売新聞主催で、日本棋院、関西棋院、中国囲棋協会、及びアマチュアの棋士による代表団を交互に送って行われた交流手合。
個人の資格で行われた囲碁交流の中では、藤沢秀行名誉棋聖が若手棋士とともに訪中しての対局が有名。
目次 
1	明治から昭和
1.1	交流初期
1.2	呉清源来日
1.3	昭和初期
2	読売新聞日中囲碁交流
2.1	開始の経緯
2.2	対局方法
2.3	概況
2.4	代表団と戦績
3	藤沢秀行訪中団
4	その他の棋戦・交流
5	注
6	参考文献
7	関連項目
明治から昭和
交流初期
明治になって家元制度崩壊後、方円社の活動などによって棋士の活動が安定すると、朝鮮、中国、台湾などとの交流も行われるようになった。中でも高部道平は、1909年に中国、1911年から1912年にかけて朝鮮、台湾を訪問するなどした。当時四段の高部は中国高手とされる張楽山、汪雲峰には向二子であった。また中国ではこの時までは、黒白2子ずつを盤上に置いてから対局開始する事前置石制であったのを、高部が初手から自由に着手する方法を伝えたと言われる。1918年には広瀬平治郎が、中華民国の国務院総理であった段祺瑞の招きで、弟子の岩本薫を伴い訪中。 1919年、瀬越憲作が満州、青島を歴訪、汪雲峰、伊耀卿、顧永如らと向2、3子であった。続いて同年、本因坊秀哉、広瀬、瀬越、高部らが訪中、秀哉は陶審安らに向4子で打った。中国での対局は中国ルールで行われることが通例であったが、この時秀哉は中国ルールでの対局を嫌ったと言われる。これらの対戦が、中国の棋士にとって大きな経験となる。
呉清源来日
またこの頃、中国から日本に留学した際に囲碁を学ぶものも多く、呉清源の父呉毅も方円社に通うなどして初段に2子ぐらいの手合となり、帰国時には棋書を多く持ち帰った。また顧水如は日本に囲碁留学し、喜多文子とは2子の手合だった。呉清源は12歳の時に北京の囲碁クラブで日本人と対局して天才少年と話題になり、1926年に訪中した岩本薫に3子で勝ち、2子で負け、1927年訪中の井上孝平に2子で勝ち、先で1勝1敗。瀬越は1928年に弟子の橋本宇太郎を派遣し、呉は先番で勝つ。これにより呉は瀬越に招かれて来日、試験手合により日本棋院の三段に認められる。
昭和初期
日中間の紛争が始まって後、1934年に日満華囲碁親善使節団として、木谷実、呉清源、安永一、田岡敬一らが訪中、上海、無錫、北京、青島、天津などを回って中国棋士との交流を行い、満州では木谷と呉による溥儀の前での御前試合も行われた。また皇軍慰問団の一つとして日本棋院や日本将棋連盟の棋士による訪中が行われ、1938年の慰問団は、囲碁では安永一を団長とし、田岡敬一、梶為和、藤沢秀行らだった。満州には在留日本人向けの囲碁組織として、1941年に満州棋院(別称日本棋院満州別院)が設立された。1942年に大東亜大臣であり汪兆銘政権の顧問でもあった青木一男の招待で、瀬越、橋本、呉、井上一郎らが南京の中日文化協会や上海を訪問。この時日本棋院から、顧水如、劉棣懐ら6人に四段などの段位が贈られた。1943年には福田正義、藤沢秀行、榊原章二らが満州に1年間滞在し、政府や南満州鉄道職員、軍人らへの指導を行った。
読売新聞日中囲碁交流
開始の経緯
中華人民共和国成立後、中国から日中友好協会を通じて日本棋院へ訪中が依頼されたが、この時は「時期尚早」として見送る。1957年には団長瀬越憲作、宮下秀洋、長谷川章、村島誼紀の4棋士による訪台使節団を送る。1959年に自民党顧問の松村謙三の訪中において、周恩来、陳毅との会談で文化面での交流が合意される。これにより読売新聞社及び日中友好協会主催の定期的な囲碁交流が開始されることになり、1960年に瀬越憲作を団長とする第1回の日本代表団が訪中。以後、中国代表団による訪日と交互に行われるようになる。
対局方法
ルールは、日本で対局する場合は日本ルール、中国で対局する場合は中国ルールで行われた。(ただし第1回訪中団では日本ルール)
手合割は、互先、及び定先、置碁などもある。
概況
第1回には全て中国側が先で打って2勝しか挙げられなかったが(王幼宸−瀬越憲作、劉棣懐−瀬川良雄)、その後徐々に実力差を詰め、1965年には陳祖徳が岩田達明九段に勝利し、初めて日本の九段に互先での勝利を挙げる。中国ではこの勝利を記念して、この時の布石を図案とした切手も発行された。1974年から出場した聶衛平は、1975年には高川格名誉本因坊に、1976年には藤沢秀行天元、石田芳夫本因坊に勝つなど好成績を収め、日中の実力接近をうかがわせた。
1963年には訪中した杉内雅男団長から、中国囲棋協会の陳毅名誉主席に、日本棋院と関西棋院による名誉七段が贈られた。
中国の文化大革命による1967年から72年までの中断を挟んで再開。その後中国の成績がよくなるにつれ日本側も一線棋士を揃えるべきとの声が高まり、特に読売新聞の主催する棋聖位の出場が望まれた。しかしこのための調整が始まった1983年に趙治勲が棋聖位に就き、韓国籍棋士と中国棋士の対戦は政治的課題となるが、その後中国の対韓国の姿勢が柔軟化し、また日本棋院でも三大タイトル保持者の対外対局を認めたために、1984年から個人間の三番勝負も組み入れられるようになり、名称も日中囲碁決戦となった。この初回には聶衛平は趙治勲棋聖、加藤正夫王座に連敗するが、馬暁春が橋本昌二九段に勝利する。また当時中国と国交の無かった韓国籍の趙治勲との聶衛平の対局は歴史的な対局でもあった。1989年からは若手主体の対抗戦となり、日本は25歳七段以下、中国は28歳以下の棋士から選手を選抜した。1992年の第20回で終了。
代表団と戦績
(日本代表団は訪中、中国代表団は来日。戦績は代表団から見て「勝-負-ジゴ」、1984-88年は個人毎の三番勝負成績、その他は総成績)
1960年日本代表団:(団長)瀬越憲作名誉九段(3-1-1)、坂田栄男九段(6-0)、橋本宇太郎九段(6-0)、瀬川良雄七段(5-1)、鈴木五良七段(6-0)、総戦績32-2-1
1961年日本代表団:(団長)有光次郎、曲励起八段(8-0)、小山靖男七段(7-1)、伊藤友恵五段(8-0)、菊池康郎(7-1)、安藤英雄(4-3-1)、総戦績34-5-1
1962年中国代表団:(団長)李夢華、劉棣懐、孫平化、黄永吉(1-6)、過惕生(2-5)、陳祖徳(4-3)、張福田(3-4)、張錫明(2-5)、総戦績12-23
1963年日本代表団:(団長)杉内雅男九段(11-0)、宮本直殻八段(7-4)、桑原宗久七段(5-6)、田岡敬一(4-5)、村上文祥(6-4-1)、総戦績33-19-1
1964年中国代表団:(団長)寥井丹、陳祖徳(5-4)、呉淞笙(4-5)、沈果孫(3-4-2)、王汝南(4-5)、羅建文(3-6)、陳錫明(1-6-2)、総戦績20-30-4
1965年日本代表団:(団長)梶原武雄八段(6-2-1)、工藤紀夫六段(7-2)、安倍吉輝五段(6-2-1)、総戦績19-6-2
1965年日本代表団:(団長)伊藤友恵五段、アマチュア女流棋士12名、総戦績7-28-1
1965年中国代表団:(団長)姚耐、陳祖徳(2-5)、呉淞笙(4-3)、王汝南(4-2-1)、美国震(1-6)、黄進先(0-6-1)、戦績11-22-2
1965年日本代表団:(団長)岩田達明九段(9-1)、刈谷啓八段(7-3)、谷宮悌二五段(8-1-1)、木谷禮子四段(5-5)、原田実(5-5)、西村修(6-2-2)、総戦績40-17-3
1966年中国代表団:(団長)仰柱、呉淞笙(2-3)、王汝南(3-2)、黄良玉(1-4)、沈果蓀(0-5)、黄進先(0-5)、黄徳勲、総戦績6-19
1966年日本代表団:(団長)島村俊広九段(6-0)、宮本義久八段(1-4-1)、家田隆二五段(4-2)、石田芳夫四段(5-0-1)、加藤正夫四段(5-1)、武宮正樹二段(4-2)、総戦績24-9-3
1973年中国代表(陳祖徳)3-6
第1回 1973年日本代表団:(団長)有光次郎、坂田栄男十段(6-1)、本田邦久九段(6-1)、石井邦生八段(6-1)、加藤正夫七段(6-1)、太田耕造六段(5-2)、小川誠子二段(3-3-1)、菊池康郎(5-1-1)、西村修(3-4)、総戦績40-14-2
第2回 1974年中国代表団:(団長)陳淇、陳祖徳(2-5)、呉淞笙(6-1)、王汝南(3-4)、黄徳勲(2-5)、邱鑫(4-3)、華以剛(5-2)、孔祥明(2-3-2)、陳慧芳(1-6)、総戦績25-29-2
第3回 1975年日本代表団:(団長)高川格九段(4-1-2)、窪内秀知九段(5-2)、石榑郁郎八段(3-4)、戸沢昭宣七段(5-2)、白鳥澄子三段(3-4)、芦田磯子初段(3-4)、村岡利彦(2-4-1)、今村文明(5-2)、総戦績30-23-3
第4回 1976年中国代表団:(団長)高文治、陳祖徳(2-5)、聶衛平(6-1)、呉淞笙(2-3-2)、王汝南(2-4-1)、華以剛(0-5-2)、曹志林(4-3)、王群(4-3)、孔祥明(7-0)、総戦績27-24-5
第5回 1977年日本代表団:(団長)橋本宇太郎九段(4-2-1)、東野弘昭九段(5-1-1)、石田章七段(5-1-1)、家田隆二七段(3-4)、佐藤昌晴六段(5-2)、井上真知子初段、菊地康郎、三浦浩(3-4)、総戦績30-23-3
第6回 1978年中国代表団:(団長)孫楽宣、陳祖徳(3-4)、聶衛平(3-4)、呉淞笙(4-3)、華以剛(5-2)、陳志剛(1-6)、孔祥明(5-2)、楊以倫(4-3)、江鳴久(3-4)、総戦績28-28(三番勝負 2-6)
1978年日本代表団:(団長)杉内雅男九段(2-1-1)、淡路修三七段(2-1-1)、山城宏六段(1-2-1)、上村陽生六段(3-1)、石倉昇(3-1)、総戦績11-6-3
第7回 1979年日本代表団:(団長)大窪一玄九段(4-2)、白石裕九段(2-3-1)、羽根泰正八段(4-2)、中村秀仁七段(2-3-1)、時本壱六段(2-3-1)、星川信明六段、小林千寿五段、小林覚五段(3-3)、総戦績22-21-5
第8回 1980年中国代表団:(団長)胡昌栄、聶衛平(3-4)、呉淞笙(4-3)、華以剛(2-4)、黄徳勲(3-4)、曹大元(6-1)、江鋳久(6-1)、孔祥明(3-4)、楊暉(5-2)、総戦績32-14
第9回 1981年日本代表団:(団長)橋本昌二九段(7-0)、小島高穂九段(3-4)、福井正明七段(4-3)、宮沢吾朗七段(5-2)、片岡聡六段(5-2)、清成哲也六段(3-4)、小林健二四段(2-5)、新海洋子二段(1-6)、総戦績30-26
第10回 1982年中国代表団:(団長)胡昌栄、聶衛平(6-1)、馬暁春(4-3)、曹大元(5-2)、楊普華(3-4)、江鳴久(6-1)、江鋳久(7-0)、銭宇平(5-2)、芮廼偉(7-0)、総戦績43-13
第11回 1983年日本代表団:(団長)石田芳夫九段(4-3)、石井邦生九段(4-3)、小林光一九段(7-0)、苑田勇一九段(6-1)、佐藤昌晴八段(2-5)、中村秀仁八段(3-1)、山城宏八段、長谷川直八段(3-4)、総戦績31-25
第12回 1984年中国代表団:(団長)杜維忠、聶衛平(0-2 趙治勲、0-2 加藤正夫)、馬暁春(0-2 加藤正夫、2-0 橋本昌二)、曹大元(0-2 酒井猛、1-2 羽根泰正)、劉小光(2-0 大平修三、2-1 本田邦久)、孔祥明(0-2 小林覚、0-2 東野弘昭)、銭宇平(1-2-1 片岡聡、2-1 山城宏)、宋雪林(0-2 宮沢吾朗、1-2 石井邦生)、王元(1-2 上村邦夫、2-0 牛之浜撮雄)、総戦績22-33-1無勝負
第13回 1985年日本代表団:(団長)坂田栄男名誉本因坊、本田邦久九段(1-2 聶衛平)、牛之浜撮雄九段(1-2 曹大元)、酒井猛九段(2-0 江鋳久)、石田章九段(0-2 馬暁春)、淡路修三九段(1-1-1 劉小光)、桑田泰明八段(1-2 王群)、上村陽生八段(1-2 銭宇平)、総戦績26-26-1
第14回 1986年中国代表団:(団長)陳祖徳、聶衛平(1-2 加藤正夫、2-0 羽根泰正)、馬暁春(2-0 小林覚、1-2 苑田勇一)、曹大元(2-1 工藤紀夫、1-2 橋本昌二)、孔祥明(1-2 時本壱、1-2 坂口隆三)、銭宇平(1-2 宮沢吾朗、1-2 彦坂直人)、邵震中(0-2 酒井猛、2-0 白石裕)、王群(2-0 園田泰隆、2-1 郡寿男)、芮廼偉(2-1 菅野清規、2-0 久保勝昭)、総戦績31-25
第15回 1987年日本代表団:(団長)加藤正夫名人(0-2 聶衛平、1-2 馬暁春)、淡路修三九段(2-0 馬暁春、2-1 江鋳久)、苑田勇一九段(1-2 曹大元、2-1 劉小光)、上村陽生八段(2-1 王群、2-1 曹大元)、彦坂直人七段(1-2 銭宇平、2-0 邵震中)、今村俊也七段、依田紀基六段、大矢浩一六段(2-0 張文東、0-2 兪斌)、総戦績32-24
第16回 1988年中国代表団:(団長)聶衛平6-1(2-0 橋本宇太郎、2-0 淡路修三、○石井邦生、×坂田栄男、○小松英樹)、馬暁春4-3(2-1 山城宏、1-2 工藤紀夫、○梶原武雄)、曹大元5-3(2-0 石井邦生、2-1 小島高穂、○苑田勇一、×山部俊郎)、劉小光5-2(2-1 本田邦久、2-1 上村邦夫、×加納嘉徳)、芮廼偉5-2(1-2 長谷川直、2-0 新垣武、○大窪一玄、○淡路修三)、方天豊4-3(1-2 小県真樹、2-1 石倉昇、○大平修三)、梁偉棠4-3(2-0 後藤俊午、0-2 小松英樹、×結城聡、○梶和為、○楠光子)、張璇6-1(2-0 結城聡、2-0 楠光子、○後藤俊午、○影山利郎)、総戦績39-17
第17回 1989年日本代表団:(団長)後藤文生読売文化部長、小松英樹六段(4-3)、結城聡六段(3-4)、山田和貴雄五段(0-7)、篠田秀行四段(4-3)、森田道博四段(6-1)、三村智保四段(4-3)、青木喜久代二段(6-1)、宮崎志摩子二段(2-5)、総戦績29-27
第18回 1990年中国代表団:(団長)李春竜、廖桂永(2-0 大矢浩一)、王剣坤(2-1 恩田烈彦)、楊暉(2-0 青木紳一)、張璇(2-0 青木喜久代)、李星(0-2 趙善津)、方捷(2-1 泉谷英雄)、邵煒剛(2-1 酒井真樹)、劉菁(0-2 有村比呂司)、総成績38-18
第19回 1991年日本代表団:(団長)丸山元弘読売事業開発部次長、森山直棋七段(7-0)、中小野田智巳五段(4-3)、柳時熏四段(4-2-1)、楊四段(2-5)、榊原史子三段(0-7)、関山利道三段(2-5)、宮崎龍太郎三段(0-7)、中澤彩子初段(1-6)、総戦績20-35-1
第20回 1992年中国代表団:(団長)李桂明、馬石(0-2 森田道博)、方捷(1-2 三村智保)、邵煒剛(2-1 楊嘉源)、楊士海(0-2 大森泰志)、常昊(2-0 有村比呂司)、趙棟(2-1 加藤充志)、羅洗河(1-2 高尾紳路)、葉桂(2-0 青木喜久代)、総成績32-24
藤沢秀行訪中団
藤沢秀行が若手棋士を集めた研究会を1980年から始め(通称秀行軍団)、この勉強の意味も兼ねて、1981年から訪中しての交流手合を行うようになった。当初の日本側メンバーは安倍吉輝、入段したばかりの依田紀基、安田泰敏、院生の藤沢一就ら。中国側は聶衛平、馬暁春などが中心だった。中国棋士の熱心さを目の当たりに見た藤沢は、早くから「中国軍団の馬蹄の響きが聞こえる」と言って、中国棋士のレベル向上を予言していた。
その他の棋戦・交流
1985年には日中スーパー囲碁が開始。また同年には日中テレビ囲碁選手権戦も始まり、後にテレビ囲碁アジア選手権戦に発展する。1988年には日中名人戦、日中天元戦が開始されるなど、日中棋士の対局機会は増え、また世界選手権としても1979年に世界アマチュア囲碁選手権戦、1988年の世界囲碁選手権富士通杯が開始されるなど多数を数えるようになり、日中間に限らず、国を越えての囲碁交流は日常的なものとなった。1986年には中日友好囲棋会館が設立された。
愛知万博
2005年の愛知万博では、中国館の湖南省ウィークの催しとして、日中の好敵手を集めた中日囲碁対抗戦「五人対抗戦」「三人対抗戦」が行われた。[1]
「五人対抗戦」(5月30日)
林海峰○ - ×陳祖徳
小林光一○ - ×聶衛平
武宮正樹○ - ×馬暁春
羽根直樹× - ○常昊
山城宏○ - 羅洗河
「三人対抗戦」(6月1日)
大竹英雄○ - ×陳祖徳
羽根泰正× - ○聶衛平
結城聡○ - ×常昊
院生合宿
2010年に日本棋院の孔令文と中国棋院の協力により、中国棋院にて日本棋院院生10名と中国若手選手との対抗戦が行われた。結果は日本側の18勝48敗。その他に早碁や孔傑、王磊らトップ棋士も参加しての検討も行われた。[2]
アマチュアの交流
1986年に日中アマ囲碁友好会(理事長菊池康郎)が設立されるなど、アマチュアによる囲碁交流も盛んとなっている。個人単位での観光旅行の中に、現地の囲碁組織の協力によって囲碁交流のイベントが組み込まれることも行われている。
注
^ 『碁ワールド』2005年7月号「碁界トピックス」
^ 『碁ワールド』2010年6月号「勝負の赤壁」
参考文献
安永一『囲碁百年』 時事通信社 1970年
関連項目
囲碁の歴史
日本棋院
関西棋院
中国囲棋協会
■
『日本囲碁大系』(にほんいごたいけい)は、筑摩書房から1975年から1977年に刊行された、本因坊道策、本因坊秀策ら、囲碁の古典棋士たちの打碁全集。総編集は林裕。1992年に再刊されている。現代の棋士については現代囲碁大系が刊行されている。
内容
算砂・道碩(岩本薫、山本有光)
算悦・算知・道悦(趙治勲、秋本悦士)
道策(呉清源、三堀将)
道的・名人因碩(大平修三、広瀬保博)
道知(坂田栄男、藤三男)
察元・烈元・因淑 (加藤正夫、水口藤雄)
親仙徳・大仙知(大竹英雄、酒巻忠雄)
元丈(武宮正樹、竹田雅一)
知得(島村俊廣, 本田順英)
丈和(藤沢秀行, 相場一宏)
幻庵因碩(橋本宇太郎、志智嘉九郎)
元美・俊哲・仙得(梶原武雄、伊藤敬一)
松和・雄蔵(橋本昌二、橋本篤慶)
秀和(杉内雅男、小堀啓爾)
秀策(石田芳夫、田村孝雄)
秀甫(林海峰、井口昭夫)
秀栄(高川格、村上明)
秀哉(榊原章二、田中宏道)
  ( )内は解説者、執筆者

■
公益財団法人日本棋院(こうえきざいだんほうじんにほんきいん)は、東京都千代田区五番町(市ヶ谷駅前)に本部をおく、囲碁の棋士を統括し、棋戦をおこなっていくための公益財団法人。 約300人の棋士が所属するほか、職員として事務員や棋院発行の出版物をまとめる記者などが所属している。
目次 
1	歴史
2	発行誌
3	組織
3.1	東京本院
3.2	関西総本部
3.3	中部総本部
3.4	日本国外
4	役員
4.1	現在の役員
4.2	歴代総裁
4.3	歴代理事長
5	顕彰
6	関連項目
7	外部リンク
歴史
明治維新以降、幕府というパトロンを失った棋士たちは離合集散を繰り返し、囲碁界は混沌とした情勢であった。1872年(明治5年)に村瀬秀甫により設立された史上初の近代的なプロ棋士の団体である方円社と、封建的な風習を墨守する家元の本因坊家とが、対立、並存する時代が長年続いていた。1923年(大正12年)の大正関東地震(関東大震災)を機に棋士たちの大同団結の機運が高まり、翌1924年(大正13年)、大倉喜七郎を後援者として、本因坊秀哉以下の坊門の棋士や方円社などほとんどの棋士が集結し、日本棋院が設立された。
設立直後に棋正社の独立などもあり多少動揺した日本棋院であったが、その後新布石法の発表などで囲碁の人気も高まり、磐石の体制を築く。
第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)の東京大空襲で赤坂区(現港区)赤坂溜池にあった棋院本部が焼失するなど大きな被害を受けた。戦後すぐに瀬越憲作、岩本薫らが中心になって再建を目指し、大手合も料亭や後援者の邸宅などを借りて再開された。1948年(昭和23年)には港区高輪に新しい棋院会館が設立され、順調に日本棋院の再建は成されていった。
1947年(昭和22年)には坂田栄男、梶原武雄ら8棋士が「囲碁新社」を旗揚げするが、1949年(昭和24年)復帰する。 さらに1950年(昭和25年)、今度は当時本因坊の座にあった橋本宇太郎を旗頭に関西棋院が設立された。橋本は翌年の本因坊戦で坂田の挑戦を1-3からの大逆転で降してタイトルを防衛、関西棋院の独立を守った。その後いく度か再統合の話も出ているが、段位の調整や(主に日本棋院側の)財政問題などがネックとなり実現していない。この日本国内の棋院の分裂構造は日本将棋連盟が関東・関西・中部と一枚岩なのと比べきわめて対照的である。
1971年(昭和46年)には千代田区五番町の市ヶ谷駅前に現在も使用されている新会館が建設された。その後紆余曲折はあったものの、現在でも、世界囲碁界の中でも重要な地位を占める。ただし1990年代以降赤字財政が続いている他、囲碁人口の減少(2007年(平成19年)の囲碁愛好者は約240万人。『レジャー白書』による)、国際棋戦における日本棋士の不振など、問題山積が現状である。
2011年(平成23年)に公益財団法人へ移行した。
発行誌
機関誌として月刊「碁ワールド」、また年刊「囲碁年鑑」がある。入門者向け雑誌として「囲碁未来」、週刊誌として「週刊碁」がある。
棋道
日本棋院の創立とともに、日本棋院の機関誌として、1924年(大正13年)10月に創刊。棋戦などの手合の情報の掲載の他、独自の企画なども行い、情報誌としての機能に加え、メディアを通じての囲碁普及の役割も担った。1999年(平成11年)7月号で終刊し、「囲碁クラブ」と合併して「碁ワールド」となる。
詳細は「棋道」を参照
囲碁クラブ
「棋道」の姉妹誌として「爛柯」が1925年(大正14年)に創刊され、その後「囲碁クラブ」に改名。戦時中に休刊し、1954年(昭和29年)に復刊。「碁ワールド」発刊により終刊。
独自棋戦の主催も行い、1988年(昭和63年)から1996年(平成8年)までの、プロとアマチュア混合の地域対抗団体戦「キリン杯GO団体戦」などがある。
碁ワールド
「棋道」「囲碁クラブ」を引き継ぐ機関誌として、1999年(平成11年)8月から発刊。
囲碁未来
初級者向けの月刊誌。1962年(昭和37年)に「碁」として創刊。1967年(昭和42年)終刊、1973年(昭和48年)に復刊し、1980年(昭和55年)に「レッツ碁」に改名、1995年(平成7年)に「囲碁未来」に改名した。
週刊碁
週刊の情報新聞として、1977年(昭和52年)から発行。朝日新聞社が販売協力する。
組織
東京本院
発足当初は銀座に仮事務所を置き、1925年12月に永田町の溜池に会館を建設。1945年5月の空襲で溜池は消失し、終戦後は柿の木坂の岩本薫宅を仮事務所とし、1948年に高輪のビルを購入して会館とした。1954年に東京駅八重洲口の国際観光会館ビルに日本棋院中央会館を開館(1991年に八重洲囲碁センターに改称移転、2013年に有楽町に移転し有楽町囲碁センターとなっている)。1971年に千代田区の市ヶ谷駅前に本院を移転した。
関西総本部
大阪市にあり、近畿地区、広島、岡山両県を統轄する。1950年(昭和25年)に関西棋院が独立した際に、日本棋院残留派によって同年発足した。2008年(平成20年)2月現在、山田規三生・井山裕太など棋士39名が所属する。
中部総本部
名古屋市にあり、中部地区と三重県を統轄する。1940年(昭和15年)設立の日本棋院東海支部から、1948年(昭和23年)に日本棋院東海本部に昇格、1955年(昭和30年)に日本棋院中部総本部となる。2008年(平成20年)2月現在、羽根直樹・羽根泰正・山城宏など棋士43名が所属する。独自のタイトル戦として王冠戦がある。
日本国外
日本棋院南米本部(Nihon KI-IN do Brasil)
日本棋院ヨーロッパ囲碁文化センター(Stichting The Nihon KI-IN European GO Cultural Centre)
日本棋院アメリカ西部囲碁センター(Nihon KI-IN GO Institute Of The West U.S.A)
日本棋院ニューヨーク碁センター(New York GO Center)
役員
現在の役員
(2016年現在)
総裁:今井敬(経団連名誉会長)
顧問:大竹英雄(九段)
理事長:團宏明(公益財団法人通信文化協会理事長)
副理事長:山城宏(九段)
常務理事:大淵盛人(九段)、円田秀樹(九段)、小林千寿(五段)、宮川史彦(七段)、平野則一(五段)、原幸子(四段)、重野由紀(二段)
理事:阿久根操、岩崎和人、小川誠子(六段)、齋藤喜以子、角和夫、堀義人、松浦晃一郎
監事:久保秀夫(六段)、満田庸一(公認会計士)
歴代総裁
初代(1924 - 46年):牧野伸顕(外務大臣、内大臣)
2代(1955 - 67年):津島寿一(大蔵大臣、防衛庁長官)
3代(1967 - 73年):足立正(王子製紙社長、ラジオ東京(現:TBS)社長 
4代(1973 - 74年):佐藤喜一郎(三井銀行会長)
5代(1974 - 82年):田実渉(三菱銀行会長)
6代(1982 - 87年):稲山嘉寛(旧経団連会長、新日本製鐵社長)
7代目(1993 - 1996年11月):朝田静夫(元日本航空相談役)
8代目(2004年7月 - ):今井敬(旧経団連会長、新日本製鐵相談役名誉会長)
歴代理事長
初代(1946 - 48年):瀬越憲作
2代(1948 - 49年):岩本薫
3代(1949 - 51年):津島寿一
4代(1951 - 55年):足立正
5代(1955 - 56年):三好英之(北海道開発庁長官)
6代(1956 - 75年):有光次郎(文部事務次官)
7代(1975 - 78年):長谷川章
8代(1978 - 86年):坂田栄男
9代(1986 - 87年):色部義明(協和銀行相談役)
10代(1988 - 93年):朝田静夫
11代(1993 - 98年):渡辺文夫(日本航空会長)
12代(1999 - 2004年):利光松男(日本航空社長)
13代(2004年):加藤正夫
14代(2006 - 2008年):岡部弘(デンソー会長)
15代(2008 - 2012年):大竹英雄
16代(2012 - 2016年):和田紀夫(NTT相談役)
17代(2016 - ):團宏明(公益財団法人通信文化協会理事長)
顕彰
秀哉賞
年間最優秀棋士に贈られる賞。本因坊秀哉の名を取って、1963年(昭和38年)に創設。識者と関係者による秀哉賞選考委員によって選考される。
大倉喜七郎賞
囲碁の普及、発展の功労者に贈られる賞。日本棋院創設に功績のあった大倉喜七郎の名を取って、1964年(昭和39年)に創設。当初の名称は大倉賞だったが、1989年(平成元年)に現在の名称に改称。
棋道賞
「棋道賞」も参照
年間で活躍した棋士に贈られる賞。1967年(昭和42年)に、日本棋院の機関誌「棋道」主催で、関係者と棋戦主催者の代表により誌上で選考する形で創設し、最優秀棋士賞、記録部門賞、その他の部門賞を選ぶ。1999年(平成11年)の第33回からは、「碁ワールド」誌主催となった。
部門賞は年によって変更されることがある。1988年(昭和63年)からは国際賞を設置。当初あった敢闘賞、技能賞、殊勲賞は、1990年(平成2年)以降は廃止されて優秀棋士賞が作られた。特別賞など、その年限りの賞を贈られることもある。記録部門賞も、当初は七段以上の棋士を対象にしていたが、棋戦の構成上その規定に合理性がないため1995年(平成7年)からは五段以上に改められた。
松原賞
関西総本部主催。
土川賞
中部総本部主催。
関連項目
全日本囲碁連合
関西棋院
国際囲碁連盟
中国棋院
韓国棋院
台湾棋院
方円社
精鋭リーグ戦
週刊碁
幽玄の間
外部リンク
公益財団法人 日本棋院 公式サイト
日本棋院関西総本部
日本棋院中部総本部
■
幽玄の間(ゆうげんのま)は、日本棋院が運営するインターネット囲碁対局サービス。
概要
[icon]	この節の加筆が望まれています。
幽玄の間では、アマチュア25級~8段が自由に対局をしている。 近い棋力の人と級・段位の向上を目指してポイント変動をかけ戦う“レーティング対局”と 練習対局及びペア碁や五目並べなどのお楽しみもできる“自由対局”の大きく2つに分かれる。
■
竜星戦(りゅうせいせん)は、囲碁のテレビ棋戦。毎年8月から9月にかけて、決勝トーナメントが行われる。1990年度創設で、1997年から公式戦となった。また2006年より、中国棋院と囲碁・将棋チャンネル共催で中国竜星戦が行われている。
竜星戦はCATV、スカパー!、スカパー!光、ひかりTVなどの『囲碁・将棋チャンネル』で、毎週金曜日と日曜日に放映されている。(詳しくはテレビ放送の項を参照)
主催 日本棋院
協賛 株式会社 囲碁将棋チャンネル
優勝賞金 600万円(2012年現在)
目次 
1	しくみ
1.1	予選
1.2	ブロック戦
1.3	決勝トーナメント
2	歴代決勝結果
3	テレビ放送
3.1	関連番組
4	脚注
5	関連項目
6	外部リンク
7	脚注
しくみ
予選・ブロック戦・決勝トーナメントからなり、テレビ放映はブロック戦からである。優勝者は、次回優勝者が決定する対局が放送されるまで、竜星を名乗ることができる。
予選
ブロック戦に出場する棋士を決定するもので、非公開で行われる。
持ち時間は1時間で、秒読みは時計により60秒となっている。
なお、前期決勝トーナメント進出者は無条件で予選免除となる。
ブロック戦
A~Hの8ブロックに、各12名の棋士及びアマ(合計96名)がパラマストーナメントを戦う。
20期までは前期の決勝トーナメント進出者のうち1回戦で敗れた者は無条件で各ブロックの序列2位、2回戦以上に進出した者は序列1位に置かれていたのだが、21期よりルールが変わった。23期よりアマ竜星及び準優勝者が予選に出場できるようになり、勝ち上がれば本戦に出場可能となった。これにより、洪爽義アマ竜星が23期本戦Aトーナメントの最下位で出場を果たしている。
序列1位資格者(この順で資格がある)
前期優勝者
前期準優勝者
タイトルホルダー[1]
前期決勝トーナメント準決勝敗退者
前期決勝トーナメント2回戦敗退者
序列2位資格者
前期決勝トーナメント1回戦敗退者(タイトルホルダーを除く)
序列1位が定員オーバーになった場合は資格の順位が下位の棋士(複数いるときはその中で棋士の序列で下位の者)が序列2位へと押し出され、その分序列2位資格者のうち棋士の序列下位のものが序列3位へと押し出される。
各ブロックの優勝者(最終戦に勝った者)と、優勝者を除く最多勝ち抜き者(複数いる場合は序列上位の者)が決勝トーナメントに出場する。
なお、各ブロックの第1回戦に登場した者(序列11位または12位の者)が優勝(11人抜き)をしてしまった場合には、そのブロックはその者のみが出場し、欠員は他の7ブロックで決勝トーナメント出場資格を失った者のうちの最多勝ち抜き者が補充される。
持ち時間はなく、初手から30秒の秒読み。ただし考慮時間(1分単位で10回)あり。
なお、現在のように8ブロックに分かれたのは第11期からで、それまでは1ブロック24名[2]の4ブロック制だった。
決勝トーナメント
16名(10期までは8名)による通常のトーナメントである。
持ち時間や考慮時間の利用はブロック戦と同じ。
歴代決勝結果
年は決勝トーナメントが実施された時点。ブロック戦は前年10月から行われている。 左が勝者。
1991年 趙治勲 - 石田芳夫
1992年 大竹英雄 - 趙治勲
1993年 趙治勲 - 柳時熏
1994年 森田道博 - 林海峰
1996年 小林覚 - 中小野田智己
1997年 小林光一 - 小松英樹
1998年 加藤正夫 - 趙治勲
1999年 山田規三生 - 森田道博
2000年 高尾紳路 - 高木祥一
2001年 加藤正夫 - 張栩
2002年 小林光一 - 王銘琬
2003年 小林光一 - 羽根直樹
2004年 高尾紳路 - 山田規三生
2005年 結城聡 - 張栩
2006年 張栩 - 結城聡
2007年 張栩 - 結城聡
2008年 河野臨 - 張栩
2009年 井山裕太 - 張栩
2010年 山下敬吾 - 中野寛也
2011年 井山裕太 - 結城聡
2012年 井山裕太 - 林漢傑
2013年 山下敬吾 - 河野臨(三コウ無勝負により再戦)
2014年 河野臨 - 余正麒
2015年 結城聡 - 趙治勲(趙の一身上の都合に伴う対局辞退のため結城の不戦勝)
2016年 一力遼 - 井山裕太
テレビ放送
2010年度 (第19期)
毎週金曜日、日曜日 20:00 放送
毎週月曜日、水曜日 8:00 再放送
毎週火曜日、木曜日 24:00 再々放送
※なおいずれも対局が早く終わり局後の検討などを含めても時間が余った場合は、「詰碁TV」「次の一手TV」などの再放送で穴埋めする。また、第22期からは将棋の銀河戦と同じく両対局者、記録係と合わせて棋譜読み上げ係が登場しており、NHK杯と同じように着手後に棋譜の読み上げを行うようになった。翌第23期からは、これも銀河戦同様に手番表示を行うようになっている。いずれも同チャンネルで放送される女流棋聖戦でも同様の措置を取る。
関連番組
竜星クラブ(毎週火曜日 17:30~18:00、毎週水曜日 19:00~19:30、毎週金曜日7:00~7:30)
最新2局の棋譜解説と、次週の対局の見所などを紹介。
竜星戦ダイジェスト
上記と同様。出演は進行役の女性観戦記者と解説役の男性棋士の2名によるコンビ。解説役の棋士は鶴山淳志七段と高梨聖健八段。大盤による解説でなく、パソコンによる棋譜再現を用いて解説するのが特徴。
※第21期以降、このような関連番組は放送されていない。
脚注
^ 20期までは、決勝トーナメント進出を逃した場合は序列3位に置かれた
^ 5期および6期のみ12名であった。
関連項目
銀河戦(主催の将棋のテレビ棋戦)
外部リンク
日本棋院竜星戦
囲碁将棋チャンネル 竜星戦
■
1から始める梅沢由香里の碁
ジャンル	趣味番組
放送時間	毎週水曜日 12:30 - 12:55(25分)
放送期間	2004年4月7日 - 6月30日(13回)
放送国	日本の旗 日本
制作局	NHK教育テレビジョン
出演者	梅沢由香里ほか。
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1から始める梅沢由香里の碁(いちからはじめるうめざわゆかりのご)は、NHK教育テレビジョンの趣味悠々で放送された全13回のテレビ番組である。
目次 
1	放送日
2	出演
3	内容
4	テキスト
5	関連項目
放送日
2004年4月7日 - 2004年6月30日
本放送:毎週水曜日 12:30 - 12:55
再放送:本放送日の 22:00 - 22:25
出演
講師:梅沢由香里(うめざわ ゆかり)
司会・生徒:加藤夏希(かとう なつき)、夏木ゆたか(なつき ゆたか)
内容
第1回:囲碁のルールは簡単!(2004年4月7日放送)
第2回:囲碁へのステップ6路盤で「石埋め碁」(2004年4月14日放送)
第3回:「石埋め碁」でゲーム!(2004年4月21日放送)
第4回:7路盤にステップアップ!(2004年4月28日放送)
第5回:7路盤で囲碁を始めよう!(2004年5月5日放送)
第6回:互先で打ってみよう(2004年5月12日放送)
第7回:ここが違う!「囲碁」(2004年5月19日放送)
第8回:9路盤にステップアップ!(2004年5月26日放送)
第9回:9路盤で対局(2004年6月2日放送)
第10回:13路盤で布石を体験しよう!(2004年6月9日放送)
第11回:13路盤で対局(2004年6月16日放送)
第12回:目標の19路盤にチャレンジ!(2004年6月23日放送)
第13回:念願の19路盤で対局(2004年6月30日放送)
テキスト
日本放送協会・日本放送出版協会/編 『NHK趣味悠々 1から始める梅沢由香里の碁』 日本放送出版協会 ISBN 4-14-188380-8
関連項目
囲碁
NHK教育テレビ番組一覧
■
如仏の判決(にょぶつのはんけつ)は、囲碁のルールのうちの死活において「両劫に仮生一つ」を認めたという鎌倉時代の判例。日本棋院などの現代の囲碁ルールでは否定(死であると)されている。この生き形は「月光の活」の呼び名もある。
目次 
1	問題事例
2	発端
3	家元会議
4	現代の判断
5	参考文献
問題事例
図における両コウゼキ(左上)があり、同じ盤面上に一眼とコウを持つ白石(右上)がある場合の、右上の白石の生死に関する問題。
部分死活論 - 右上隅の白石には二眼が無いため、左上隅の両コウは関係なく「死」
全局死活論 - 右上のコウを黒から取られても、両コウのところに無限のコウ材があり、白も常にコウを取り返せるので「生」
という考えの、どちらが正しいかが問題となる。
発端
『古今著聞集』に当時の出来事として、この問題の記述がある。1253年(建長5年)に法探坊と刑部坊という二人の僧の対局にこの形が現れ、法探坊は生と、刑部坊は死と主張して決着がつかず、当時の囲碁の上手と言われた備中法眼俊快に訪ねたところ「両劫にかせう一つとは是なり」(生)と言い、さらに如仏に尋ねると「目一つありと雖も、両劫のあらむには死石にあらず」(生)と述べられ、法探坊の勝ちと認められた。以後、これが「如仏の判決」として伝え残る。
家元会議
1821年(文政4年)に福山藩の儒学者太田八郎が、家元四家にこの問題について問い合わせた。本因坊元丈・安井知得仙知・井上因砂因碩・林元美・服部因淑が討議し、元丈から「如仏非に成りし」と回答。これによりルール解釈が覆ることとなった。
また俊快の述べた「かせう」の文字は「仮生」「可生」「加生」などとする説があった。
現代の判断
明治時代になると如仏の判決(全局死活論)を支持する棋士が多かったが、日本棋院が1949年に制定した囲碁規約では部分死活論が採用された。1989年の日本囲碁規約改訂では、対局の停止後での「死活確認の際における同一劫での取り返しは、行うことができない」という規定により、これが継承された。また中国ルール・台湾ルール(計点制ルール)では、コウに限らず一局中においてすべての同形反復が禁止されていることから死とされる。
1959年の呉清源 - 藤沢朋斎の三番勝負第2局において、呉が全局死活論での対局を申し入れた。呉が日本棋院所属棋士ではないために可能だった提案である。藤沢はこれを了承し、例外的なルールでの対局が行われた例となった。これは直前に行われた呉 - 高川格の本因坊三番碁の第2局で、終局時にコウの手入れを巡るルール解釈の問題が生じたことから、当時不合理な点の残る当時の囲碁規約見直しについての問題提起の一つであった、との見方もある。
参考文献
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』(新樹社、1955年)
増川宏一『碁』(法政大学出版局、1987年)
中山典之『完本 実録囲碁講談』(岩波書店、2003年)
『碁ワールド』2004年8月号特別付録「簡明日本囲碁規約」
■
ネット棋院(ねっときいん)は、酒井猛主宰で設立された、インターネットによるネット碁のシステム。2000年に酒井猛をネット棋院代表として、日本棋院、関西棋院のプロ棋士によって、棋士のネット活動の場として構想、(有)ネット棋院として設立された。2007年に(株)ネット棋院に移行。
酒井がWWGo技術顧問として培ったノウハウを元に開発した対局システムを利用する。プロ棋士とアマチュア棋士を統一して扱う独自の段級位制度による対局と、対局閲覧、掲示板などのコミュニティー、指導対局、囲碁入門システムなどを提供する。またデジタル・ネット免状発行を計画している。2007年より、それまでWWGoにて開催されていた「インターネット囲碁世界ランキング戦」を、「ネット棋院ランキング世界オープン戦」と改名して共催する。
会員には、プロ会員、段位制度に基づく公式対局室を利用できる正会員(有料)、自由対局を利用できる自由会員(無料)がある。
沿革
2000年 (有)ネット棋院設立
2001年 第1次正会員募集開始
2002年 囲碁入門トレーニング、名物コラム「今週の感動!!」開始
2004年 ウェブマネーによる電子決済対応
2006年 対局ソフトに関する「プロフェッショナル着手機能」特許取得
2007年 (株)ネット棋院に移行
外部リンク
ネット棋院
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ネット碁(ネットご)は、インターネットや専用線などのコンピュータネットワークを介して行われる囲碁の対局である。インターネット囲碁、ネット囲碁ともいう。オンラインゲームの一つ。
目次 
1	概要
1.1	歴史
1.2	ネット棋戦
2	利用・特徴
3	利点
4	問題点
5	脚注
6	関連項目
7	外部リンク
概要
歴史
日本ではパソコン通信(ニフティサーブ)の時代から、電子メールを利用した「メール碁」、掲示板を利用した「ボード碁」「ポスト碁」、チャットを利用した「RT(リアルタイム)碁」などのオンライン対局が楽しまれていた[1]。
現在のネット碁(オンライン)の草分けは、株式会社アイシステムがソニーと協力し1989年にパソコン通信(NTTの公衆パケット網を利用)による世界で最初のネット碁(GO-NET)としてサービス開始。専用パソコンソフト「碁熱闘」を利用した。1988年に通信機能を持ったセガのメガドライブが発売されたため、1992年からメガドライブにメガモデム(DDX-TP)またはメガターミナル[2](ターミナルアダプタ)を付けてゲーム機通信によるオンラインのネット碁を提供した。その後、NTTの公衆パケット網を利用したネット碁(オンライン)は隆祥産業(1993年?)サンサン(1994年)[3]等が挙げられる。1995年にリリースされたWindows95からインターネットが主流となり、GO-NET、サンサン等のネット碁サーバーはインターネットとNTT公衆パケット網を併用した。インターネット利用のネット碁は、1992年2月、アメリカのニューメキシコ大学に設置された無料サーバー「IGS(Internet Go Server)」によるオンライン対局である[4]。その後、IGSの売却や有料化の検討といった表明を受けて、有志により各国に無料サーバーが設立された(「NNGS(No Name Go Server)」等。多くは閉鎖されている)。IGSは1995年、韓国企業INetに売却され、日本では株式会社NKBが運営権を取得し、パンダネット事業として運営を開始した[5]。パンダネットは後にIGS本体を買収した。
1997年2月、パンダネットは日本人(jpドメイン)ユーザーによるIGSへの接続を有料化した[6]。これに反撥した有志により、1997年6月8日、無料サーバー「WING(World-wide InterNet Gokaisho)」が設立された[7]。その他、1996年に東芝情報システム株式会社が設立した「WWGo(World Web Go)」[8]、1998年7月27日にリリースされた「Yahoo!ゲーム囲碁」、2000年に株式会社棋聖堂がスポンサーとなった「棋聖堂囲碁サーバ(Kiseido Go Server, KGS)」[9]なども、無料利用を希望するユーザーの受け皿となった。
現在、大手有料サイトとしては日本棋院幽玄の間[10]、パンダネット、サンサン[11]、韓国の東洋囲碁などがある。大手無料サイトとしてはKGS、Yahoo!モバゲー囲碁などがある。
漫画ヒカルの碁(1999-2003年)では、主人公に憑依している天才棋士・藤原佐為がその正体を隠したまま自在に対局できるネット碁の世界で活躍する描写がある。ここでは様々な条件下にある世界中の人々がインターネットを通じて囲碁を打ち、観戦し、情報を共有するというネット碁の利点とともに、中にはマナーに欠ける打ち手もいるという問題点も描かれている。
囲碁棋士の井山裕太は、師匠石井邦生からネット碁(アイシステムのGO-NET)を通じて指導を受けた。
ネット棋戦
ネット碁の普及とともに、1998年からネット棋戦が開催されるようになった。それまでにも、GO-NETが会員を対象にリーグ戦等を開催していた。
1998年、アマを対象する第1回パケット名人戦[12](主催:サンサン、協賛:NTT、後援:日本棋院)が優勝賞金50万円で開催された。第3回(2000年)からはプロアマオープンの棋戦となり、日本棋院の要望で[第1期パケット名人戦][13]と名称を改め、主催:サンサン、後援:日本棋院、関西棋院で開催された。パケット名人戦[14]は2006年まで都合9回開催された。第2期パケット名人戦(2001年)からは優勝賞金が100万円に増額された。 その後、2006年にはプロ棋士を対象とするネット早碁棋戦として、大和証券杯ネット囲碁オープンが開催された。翌年、女流棋戦とアマチュア棋戦が併設され、2012年に公式戦となるまでに発展したが、2013年に終了した[15]。
アマチュア棋戦としては、パケット名人戦(1998年-1999年)[16]、ジュニア名人戦(2002年-)[17]、全日本学生囲碁名人戦(2007年-2009年)、学生棋聖戦(2011-2015)[18]、全日本学生囲碁最強位戦(2013年-)、ネット棋聖戦(2014年-)等が開催されている。韓国のOllehKT杯オープン選手権(2010年-)では、アマチュア予選にネット碁が使われている。
利用・特徴
ネット碁のサイトには有料と無料とがあり、双方を併用しサービスに差を設けている所もある。
概ね会員制であるが、非会員をゲストとして機能制限付きで迎え入れているサイトもある。通常は会員となる旨を運営者に申し込むことでアカウント(ID)を作成する。
ログインして申告棋力を設定し、対局を待っている相手に申し込んだり、自分が申し込みを待ったりして、合意が成立すると対局開始となる。こうした手続きを省き、対局希望者同士を自動的にマッチングするサービスを備えたサイトもある。
棋力の目安となるランクは囲碁の段級位制に準じたもの(英語では級をk、段をdと表記する)が大半で、対局成績によって自動的に変動する。レーティングの手法はサイトによってまちまちである。なお、海外のレーティングは、日本の碁会所に比べて厳しめといわれている。
他の会員の対局を観戦したり、他の会員とのチャットによる会話を楽しむことも可能なケースが多い。
ネット碁で対戦した際の棋譜はSGFなどのファイルフォーマットで記録される事が多く、後で見直すことができる場合も多い。
プロ棋士の公式戦を中継するサービスも同時に行われる場合がある。
利点
ネット碁の利点は、時と場所を選ばず、安全に、棋力に応じた相手と対局できることである[19]。
時を選ばない。ネット碁は24時間運営されており、世界中の人々が接続していることから、ほぼいつでも対局が成立する。深夜営業している碁会所は少ないため、仕事で忙しい人も対局機会を確保できる。
場所を選ばない。近くに対局相手がいなくても対局ができる。このことは、囲碁人口が比較的多いアメリカ、ヨーロッパ、南米など[20]でのレベルと人気の向上に大きく貢献している。囲碁が盛んな日本を含む東アジアにおいても、普段打てないような遠隔地(外国在住の相手と打てることもある)の相手や見ず知らずの多くの愛好者と対局できるという利点から人気が高く、ネット碁を通じた遠隔地の囲碁愛好家とのコミュニケーションもしばしば見られる。
安全性が高い。ネット碁には特有の問題点もあるが、実害がないという点では安全である。例えば、碁会所の不健康な側面(賭け碁、ローカルマナー等)、直接の対局に特有な問題点(喫煙、威圧感を与える言動、碁石や扇子による騒音等)、あるいはそれらに起因するトラブル等を気にする必要がない。また、同一の対局条件が適用され、かつ現に対局者であるという以上の属性(年齢、性別、国籍、社会的地位等)が強調されないため、より競技囲碁に近い対等性・公平性を確保できる。
棋力に応じた相手と対局できる。適正なレーティングが施されている場合、母数が多い範囲から外れた棋力の持ち主(まったくの初心者や級位者、あるいはアマチュア高段者)であっても、常時多人数を抱える大型のネット碁サイトであれば、棋力に見合った相手を見つけやすい。ネット碁の参加者には匿名のプロ棋士が入っていることもある。
安価である。碁会所の席料は1日辺り1000円程度かかることが多いが、ネット碁は有料であっても月々2000円程度であり、利用形態によるが安価に多数回対局することが可能である。碁会所への交通費などもかからない。
問題点
マナーに欠ける打ち手がいることはネット碁に限らないが、ネット碁特有の問題点として相手の顔が見えないことから本人の自制が働きにくく、コミュニティーによる教育や是正の機会に乏しいこともあり、対局の前提自体を破壊するような悪質な行為が目立つ傾向にある。
荒らし : 対局または観戦中に暴言を吐いたり、相手を挑発したりする。
エスケーパー : 負けそうになると投了せずに接続を切って逃げる。あるいは自分が時間切れになるまで対局を放棄する。ただしインターネットの回線品質の問題で、意図せず接続が切れたり、遅延によって時間切れ負けになるケースがあるため、劣勢時に接続が切れたからといって直ちにエスケーパーということは難しい。
切れ負け狙い : 完全に負けている局面であっても相手が持ち時間が少ないときに相手の時間切れ負けや所用で席を離れなければならなくなること等を狙って意味のない手を打ち続ける。
サンドバッガー : 故意に棋力を過少申告したり、意図的に負けてランクを下げたりして、自分より弱い相手をいたぶるように打つ。ただし高段の場合初期登録段位に制限があるケースが多く、また他サイトや碁会所での段位を参考に登録した結果、意図せず棋力を過少申告してしまう場合もあるため、ランクに見合わない棋力であることをもってマナー違反とは限らない。
ソフト打ち : コンピュータープログラムに代打ちさせる。市販される囲碁プログラムは現在アマ6段、プロ棋士に対して4子ほどの棋力がある[21]ため、代打ちによって(本来の棋力に見合わない)上位のランクを得ることも十分可能となっている。
なりすまし : (不正目的で)他人に対局してもらう。あるいは他人を詐称する。特に大会においては大会そのものを成り立たなくさせる深刻な問題である。
このうち、悪質性が明らかな違反行為[22]に対しては、大半のサイトが会員資格停止等を含めた対策を講じている。ただし悪質性が明らかでない、または証明不可能な事例も多く、実質的に参加者の良心に任されている部分が少なくない。
同様のことはチェス、将棋、オセロ、麻雀のオンライン対局でも問題になっている。
脚注
^ ふぃご村囲碁道場:ポスト碁とRT碁。2015年7月30日閲覧。
^ MEGAターミナル
^ サンサン
^ GOBASE.org。2015年7月30日閲覧。
^ 2002年、株式会社パンダネットとして分社化された。
^ IGS有料化問題を語ろう (1997年8月15日)。2015年7月30日閲覧。
^ WING:WINGヒストリー(1997年6月17日)。2015年7月30日閲覧。
^ ISP事業「InfoPepper」の一部として提供されていた(東芝情報システム株式会社:技術情報誌「Wave」バックナンバー:Vol. 3(2003年7月)。2015年7月30日閲覧)。その後、2006年4月に株式会社イージェーワークスに「InfoPepper」の営業権が移管され、2008年にパンダネットとの運営提携及び有料化が行われた。さらに2013年にパンダネットに事業譲渡された。
^ 棋聖堂:会社概要。2015年7月30日閲覧。
^ 2003年、韓国棋院の株式会社世界サイバー棋院(現サイバーオロ)との提携により設立された。提携企業の選定を巡る日本棋院内の紛争が話題となった(朝日新聞:提携先の再選定勧告日本棋院のネット対局計画で監査委(2004年4月22日)。2015年7月30日閲覧)。
^ サンサン
^ 第1回パケット名人戦
^ 第1期パケット名人戦
^ パケット名人戦
^ 日本棋院:囲碁ネット棋戦大和証券杯。2015年7月30日閲覧。大和証券杯としてはネット将棋棋戦も開催されていた。
^ パケット名人戦
^ ジュニア名人戦(2002年-)
^ 学生棋聖戦
^ 岩橋培樹「東アジアに展開される碁ビジネス-現代的な創造産業としての現状と可能性-」。公益財団法人アジア成長研究所「東アジアへの視点」第20巻3号、pp. 30-32。2015年7月30日閲覧。
^ 日本棋院:世界の囲碁人口分布図(2003年)。2015年7月30日閲覧。
^ 電聖戦の項目を参照。
^ 一例としてKGSヘルプ:初心者向けFAQにエスケーパー、荒らし、サンドバッガーの定義が記載されている。また、KGSヘルプ:対局のマナーには日本の慣習を強調し過ぎない、最大公約数的なマナーが記載されている。
関連項目
KGS Go Server
GO-NET
囲碁 サンサン
タイゼム
東洋囲碁
Smart Game Format
GNU Go
外部リンク
goxi
WWGo
日本棋院ネット対局 幽玄の間
囲碁・パンダネット
囲碁・サンサン
HiBiKi
GNU Go
glGo
KGS Go Server
タイゼム
東洋囲碁
ネット棋院
囲碁クエスト
定石ペディア
■
ノゾキは囲碁用語の一つで、次に相手の石を切断することを狙って接近する手を指す。動詞では「ノゾく」という。

上図黒1の位置に打つ手がノゾキで、次にaに出て切断することを狙った手。白は多くの場合aにつないで受けることになる(格言「ノゾキにツガぬ馬鹿はなし」)。相手の眼型を奪い、重くして攻める意味を持つ。反面、相手の石を強化させてしまうことにもなる。
目次 
1	ノゾキのいろいろ
1.1	両ノゾキ
1.2	生ノゾキ
1.3	ハスカイノゾキ
ノゾキのいろいろ
白1の位置にノゾき、aの連絡とbで隅に侵入する手を見合いにしたもの。

白が直接aに切りに行くとゲタで取られるので、白1の位置にノゾく。ここは黒の眼型を奪う(bとcが見合いでこの場所に眼を作れない)急所であり、黒からは先に同点に備えておくのが立派な一手。

白1,3と二本ノゾき、黒の眼型を奪って重くする手。
両ノゾキ
黒1と打ち、aとbの両方の切断を狙うような手を「両ノゾキ」と称する。
生ノゾキ
例えば黒1のように、直接切断できるところをノゾいてaとツガせてしまう手を「生ノゾキ」と称する。多くの場合相手を強化させるだけの悪手となる。
ハスカイノゾキ
黒1のように、斜めの位置からノゾく手を「ハスカイノゾキ」と称することがある。aに直接ノゾくより好形。
■
ノビは囲碁用語で、すでに打たれた自分の石に隣接させて打つ手を指す。文字通り自分の石を伸ばすように打つ手で、動詞では「ノビる」となる。下図1がノビの実例である。
このノビにより、相手と接触している△の石を補強し、中央に勢力を蓄えることができる。このように、ノビは戦いの中で頻出する打ち方である。相手の石にツケを打ち、ハネられたらノビを打つ形はワンセットでよく出てくる(格言「ツケにはハネよ、ハネにはノビよ」)。この一連の打ち方をツケノビと称する。下図がツケノビの例である。
(ツケノビ)
また、相手にコスミツケやツキアタリを打たれた時に中央へノビる手を、特に「立ち」と表現することがある。下図黒の1に対する白2が「立ち」の例である。
(例1)
 	(例2)
類義語
中央へ向けて強くノビ、勢力圏争いを制するような手を、強調の意味合いを込めて「ノビキリ」と称することがある。下図白1のような手が「ノビキリ」の例である。
ノビと似たような術語に、ヒキ、サガリ、ナラビなどがある。これらには厳密な定義があるわけではないが、ノビは相手の打った手に反応して中央に向けて打つ手であり、ヒキは自軍と連絡するように打つ手、サガリは盤の端に向かって打つ手、ナラビは相手の石が接触していない時に自分の石に並べるように打つ手、というニュアンスである。
ツキアタリ(ブツカリ)、オシ、マガリなども自分の石に並べて打つ手であるが、それぞれの定義については各項目を参照されたい。
参考図書
片岡聡『ノビとサガリ (烏鷺うろブックス)』日本棋院 1990年
■
ハイは囲碁用語のひとつ。漢字では「這い」と表記し、動詞では「ハウ」となる。形としては「オシ」に似ているが、相手の石よりも低い位置で、辺に平行するように打つ手。下図の黒1,3がハイの一例である。
ハイの用法
ハイを打つことで、自分の陣地を広げることができる。このため、相手に上から圧迫された時に、ハイを打って眼型や地を確保する目的で打たれることが多い。下図の黒1,5などがそれである。
ハイは自陣を広げるが、相手を一歩先にノビさせ、強化させてしまう意味もある。このため、どこまでもハウのは多くの場合得策ではない。一般的には、相手からオサエが利かなくなるまでハウのがよいとされる。たとえば下図1では、白1のオサエに対して黒2と受けないと隅が死んでしまう(白1が利き)。図2の黒1と一本ハッておけば、白からaのオサエが利かない(手抜きで隅の黒は生きている)ので、ここまで打っておくのがよい。序盤の段階で黒からaにハウのは、白bとノビられて損になる(ただしこれは序盤・中盤のことであり、ヨセに入ってからの二線ハイは極めて大きな手になる)。
図1
 	図2
ハイに関する格言
囲碁の格言で、「二線敗線、四線勝線」というのがある。図3のように二線をハウのは地が1目ずつしか増えないので不利であり、図4のように四線をハウのは地が3目ずつ増えるので効率的という意味。このため二線を必要以上にハウこと、四線を必要以上にハわせるのは不利である。
図3
 	図4
参考文献
・早わかり用語小事典(日本棋院)
■
バカ八(ばかはち)は、囲碁用語の一つで、8目の空点を囲んでいるが、ダメヅマリになると手入れが必要な形[1]。8目もの空点を囲んでいるのに、ダメヅマリになって手を抜くと相手から先手でセキにされて地がなくなることから付けられた蔑称で、正式には隅の八目または隅の板八というべき形[2]。
目次 
1	概要
2	脚注
3	参考文献
4	関連項目
概要
第1図
第1図の黒がバカ八と呼ばれる形。黒がダメヅマリのため、黒はaかbに手を入れて7目の地とする。この手入れより他に大きい所があれば黒は手を抜くが、白から第2図の手段が生じて地がなくなる。

第2図
白1が筋で黒2以下黒6までの手順でセキになり(黒6でcに打てない)、黒地がなくなる。
黒2で5か6でもセキになる[3]。
脚注
^ 『囲碁百科辞典』117頁
^ 『囲碁百科辞典』20頁、117頁
^ 『読むだけで強くなる 詰碁の鉄人』268頁
参考文献
武宮正樹監修、塚本惠一著『読むだけで強くなる 詰碁の鉄人』株式会社毎日コミュニケーションズ、2007年
林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年
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ハガシは囲碁のルールにおける反則の一つ。一旦「自分が打った手を取り消して別の場所に打ち直す」行為をさす。公式ルールでは反則負け。
現在の「日本棋院囲碁規約」にはハガシおよび待ったに関する明確な取り決めはなされていないが、「日本棋院囲碁規約」「付属囲碁作法に関する特別規定」(1949年10月2日制定)の第四条第六項には
対局は、一旦着手した自己の石を、再び他の点へ置き換えること(俗に「待った」という)をしてはならない。
とある。この項では「待った」と「ハガシ」が同一視されているが、「待った」が「相手の着手と自分の着手のやり直し」であるのに対して「ハガシ」は「自分の着手のやり直し」として区別されている。
どこまでがセーフでどこからが「ハガシ」になるのかということについては、「石を碁盤に置いた後、指が石から離れていなければセーフ。離れた後ならば『ハガシ』」とされているが、反則ではないとしても重大なマナー違反であることは間違いない。
ヒカルの碁でもこの反則を犯し、その場で負けとなった対局がある。
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ハサミは囲碁において、主に隅の石にカカってきた相手の石を、ヒラキを妨害するように挟撃する手を指す。多くの場合、挟む石も挟まれる石も3線か4線にある場合に使い、中央にある石を挟撃しても「ハサミ」とは呼ばない。下図黒1がハサミの例である。
ハサミは多くの場合相手に二間にヒラいて安定する隙を与えないため、相手の石から3路以上離れずに打つ。相手の石からの間隔が1路なら「一間バサミ」、2路なら「二間バサミ」、3路なら「三間バサミ」と呼ぶ。また4線に挟む場合、3線へのハサミと区別して「高バサミ」と称する。上図は「二間高バサミ」ということになる。相手に近いほど厳しいハサミ、遠いほどゆっくりしたハサミとされる。
目次 
1	小目
1.1	小ゲイマガカリへのハサミ
1.2	一間高ガカリへのハサミ
1.3	大ゲイマガカリへのハサミ
1.4	二間高ガカリへのハサミ
2	星
2.1	小ゲイマガカリへのハサミ
2.2	一間高ガカリへのハサミ
3	目ハズシ
3.1	小目ガカリへのハサミ
3.2	高ガカリへのハサミ
小目
小ゲイマガカリへのハサミ
aの「一間バサミ」、dの「二間高バサミ」、eの「三間バサミ」などが多く用いられる。挟まれた白は中央への進出を図るか、小目の石や挟んできた石に仕掛けてサバキを図ることとなる。ここから多くの定石が派生する。
一間高ガカリへのハサミ
a, b, cの3種のハサミが主に用いられる。aはdにツケて渡る手をにらんだもので、このワタリをめぐっての攻防が焦点となる。bは比較的最近打ち出された厳しいハサミ。cは「村正の妖刀」と呼ばれ、難解な変化を生じやすい。
大ゲイマガカリへのハサミ
大ゲイマガカリはもともと小ゲイマや一間高ガカリでは挟まれて不利なときに、ハサミを避けるために打たれるカカリである。それでもなおハサミを打つ場合は、aの一間またはbの二間高バサミが多く打たれる。白はこれらのハサミに対し、cと三々にツケてサバキを図ることが多い。
二間高ガカリへのハサミ
二間高ガカリに対してはaのハサミが多い。
星
小ゲイマガカリへのハサミ
a - fまでの6通りのハサミが考えられる。白はgなど中央への進出、hと三々に入る、iとツケてサバく、jなどへの両ガカリ、k方面からのハサミ返しといった対応が考えられる。
一間高ガカリへのハサミ
星に対する一間高ガカリに対しては多くの場合aと受けていて不満はない。下辺に模様を張りたいときなどに、bの一間高バサミが打たれることがある。
目ハズシ
小目ガカリへのハサミ
目ハズシへの小ゲイマガカリに対しては、黒a,b,cなどにハサんで打つことがある。fに打つ手は「大斜ガケ」と呼ばれ、大斜定石という難しい定石に進む。白はd,eなどに頭を出す打ち方が普通。
高ガカリへのハサミ
白の高ガカリに対しては、まれにaなどとハサんで打つことがある。
■
ハザマは囲碁において、すでにある石から横に二路、縦に二路離れた位置関係のことを指す。下図黒1と▲がハザマの位置関係である。黒1を「ハザマトビ」、白2のようにその間隙を衝く手を「ハザマを衝く」と表現する。ただしハザマトビとハザマをつく手を両方とも単に「ハザマ」と表記してあることも多い。

ハザマの活用
ハザマトビはすぐにも連絡を絶たれる手が残る手法であり、ハザマを衝かれた時の対策がなければ使えない。いわば「誘いの隙」を見せて戦う高等戦術といえる。
例えば小目定石で、上図白1とハザマトビする手がある。もし黒が2とすぐにハザマを衝いてくれば、

白1から突き抜いて、強い厚みを得られる。隅はaなどの隙が残り、完全な黒地ではない。
■
バックギャモン
バックギャモン
Backgammon lg.png
1枚のボードと15個の駒2組、2個のサイコロ2組、1個のダブリングキューブ、2個のダイスカップからなるバックギャモンセット
期間	約5千年前から現在
ジャンル	ボードゲーム
レースゲーム
サイコロゲーム
プレイ人数	2
準備時間	10–30秒
プレイ時間	5–60分
運要素	中程度(サイコロ)
必要技能	戦略(英語版)、戦術、 カウンティング[要曖昧さ回避]、確率
バックギャモン (Backgammon) は基本的に二人で遊ぶボードゲームの一種で、盤上に配置された双方15個の駒をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う。バックギャモンは世界最古のボードゲームとされるテーブルズ(英語版)の一種である。日本には奈良時代(飛鳥時代との説もある)に伝来し、平安時代より雙六・盤双六の名で流行したが、その後賭博の一種であるとして朝廷に禁止され、一度廃れている。
サイコロを使用するため、運が結果に対する決定因子の一つであるものの、長期的には戦略がより重要な役割を果たす[1]。プレイヤーはサイコロを振るたびに膨大な選択肢の中から、相手の次の可能性のある手を予測しながら手を選択し、自分の駒を移動させる。20世紀初頭のニューヨークを起源とする現代のバックギャモンは、ゲーム中に勝ち点の点数(後述)をレイズする(上げる)ことができる(ダブリングキューブを参照)。
チェスと同様に、バックギャモンは計算機科学者の興味の対象として研究がなされてきた。この研究によって、バックギャモンソフトは人間の世界チャンピオンを破る程に発展している。

バックギャモンのボード
目次 
1	ルール
1.1	盤
1.2	駒の配置
1.3	先手の決定
1.4	駒の移動
1.5	基本的なゲームポイント
1.6	ダブルおよびダブリングキューブ
2	基本的な戦略
3	形勢判断
4	コンピュータとバックギャモン
5	歴史
5.1	セネト
5.2	タブラ
5.3	ナルド
5.4	雙陸
5.5	雙六
5.6	バックギャモン
6	脚注
7	参考文献
8	関連項目
9	外部リンク
ルール
盤
盤は、24箇所の地点(ポイント)と、一時的にゲームから取り除かれた駒を置く場所(バー)、ゴールからなる。各ポイントは、1から24までの番号を付けて呼ばれる。駒の進行においてゴールに最も近いものが第1ポイント、最も遠いものが第24ポイントである。双方のプレイヤーにとって、駒の進む向きは逆であるため、自分と相手ではポイントの番号も異なるものとなり、例えば自分の第1ポイントは相手の第24ポイントである。第5ポイント(相手にとっての第20ポイント)はゴールデンポイントといい、ここのポイントの確保(後述)はゲームの流れを左右することが多い。
駒の配置
各プレイヤーは、第6ポイントに5つ、第8ポイントに3つ、第13ポイントに5つ、第24ポイントに2つの駒を初期配置する。第24ポイント(相手側にとっての第1ポイント)に配置された駒をバックマンという。
先手の決定
まず、最初に双方が1つずつのサイコロを振り、大きい目が出た方が先手となる。このとき出た目はそのまま先手の最初の出目として使われる。双方が同じ目の場合には再び振りなおす。
駒の移動
2つのサイコロを振り、出た目の数だけ駒を動かす。同じ駒を2回動かしても、それぞれのサイコロで異なる駒を動かしても構わない。また原則で出た目は最大限使わなければならない(例えば4と5の目の際にある駒を3つ進めることはできない、ただし後述のように駒をゴールさせる場合に限り例外がある)
ぞろ目が出た場合には、通常の2倍(すなわち、ぞろ目となっている数の4回分)駒を動かすことができる。この場合も4つの駒をそれぞれ動かすことも、1つの駒を目の4倍分進めることも可能である。
駒は、相手の駒にヒット(後述)されて盤上から取り除かれる場合を除いて、後戻りできない。
移動先のポイントまたは再配置しようとしたポイントに敵の駒が二つ以上存在する場合、そこには移動できない(これをブロックという)。ブロックを作ることを、ポイントを作る、あるいはポイントを確保するという。1つの駒を複数のサイコロの目で動かすときは、サイコロの目が合計されるのではなく、2回の動きを続けて行うとみなされるところに注意しなくてはならない。例えば3と5の目が出たときに、ある駒の8つ先のポイントが空いていたとしても、3つ先と5つ先がともにブロックされていればその駒は動かせない。
敵の駒が1つだけあるポイント(これをブロットという)に駒を移動した場合、それまであった敵の駒を一時的にゲームから取り除かれる。これをヒットという。
ヒットされた駒はバーに移動させる。次回以降の駒移動のサイコロの目を使って、相手の第1~6ポイント(自分の第24~19ポイント)に再配置する。すなわち、バーは自分の第25ポイントと考えてよい。
バーにある自分の駒は最優先で動かさなければならない。
すべての駒の移動先がブロックされている場合、その回には全く移動できない。これをダンスという。特に、バーに駒があり、相手インナー(第19~24ポイント)がすべてブロックされていて駒を動かせない状態をクローズアウトと呼び、この場合サイコロを振ることもできない(いかなる目が出てもダンスになってしまう)
ルールに従った移動が可能な限り、サイコロの目を可能な限り多く使わなければならない。目の両方が動かせるが、片方を使った場合に他方が使えない場合には、大きい目で動かさなければならない。
駒がゴールするためには、自分の駒がすべてが第1~6ポイント(自分のインナー)になければならない。自分の駒を第6ポイント以内に全て集めることをベアリングインという。
ベアリングインが完了すると、自分の駒をゴールさせることができる。これをベアリングオフという。ベアリングオフした駒は、盤上から取り除かれ、その後ゲーム中で使用することはない。
一部の駒がベアリングオフした状態であっても、自分の駒がヒットされた場合、その駒が自分のインナーに戻る(つまり再度ベアリングインが完了する)まで、駒をゴールさせることはできない。
サイコロの目の数通りに移動できる駒がない場合は、より大きな数の目であってもゴールが可能である。たとえば、自分の駒が第21ポイントに1つ、第22ポイントに1つ、第23ポイントに2つある場合で、出た目が5と6であった場合は第21ポイントと22ポイントの駒をゴールさせることができる。
基本的なゲームポイント
ここで言うポイントとは、勝ち点のことである。バックギャモンのゲームのポイントはその勝ち方によって3通りに分かれる。
相手の駒がゴールし始めている状態で勝利した場合、勝者は1ポイントを獲得する。これをシングルという。
相手の駒が1つもゴールしていない状態で勝利した場合、勝者は2ポイントを獲得する。これをギャモンという。
上記の場合でさらに相手の駒がバーもしくは勝者側のインナーに残っていた場合、勝者は3ポイントを獲得する。これをバックギャモンと呼ぶ。
ダブル(後述)がなされている場合には、ダブリングキューブが表示する倍率をこれに乗じたものとなる。
競技会ルールでは、5以上の奇数ポイントを統一して設定し、そのポイントを先取した者の勝利としてゲームを行うことが普通である。ただし、ダブルがあるために、一度のゲームで勝敗が決まることもある。なお、デュースのルールは一般的でない。
ダブルおよびダブリングキューブ

ダブリングキューブ
手番プレイヤーは、試合中移動のサイコロを振る前にそのゲームの得点を倍にする「ダブル」を提案できる。相手プレイヤーがダブルを拒否した場合はゲームは終了となり、ダブルの提案をした側が1点勝ちとなる。ダブルの提案を受けることをテイク、断ることをパスという。
ダブルには2つの意義があり、ポイントを2倍にするという意義と、大勢が決しているゲームを終わらせるという意義がある。
特に後者について、ダブルが導入される以前は、勝敗が完全に確定するまで、優勢な側は単なる作業として、劣勢な側はわずかな逆転の望みに懸けて、ただダイスを振り続けるという実質的にほとんど意味のない行動を双方がしなければならなかった。ダブルの導入は、前述の状況を解消し、ゲームのスピーディー化をもたらしたという意味で重要であり、ダブルがバックギャモンを絶滅から救った、とまで言われるほどである。
このためダブルは通常優勢な側のプレイヤーが提案する。
双方がダブルをかけていない状態においては、どちらのプレイヤーがかけてもよいが、2回目以降のダブル(リダブル)は前回ダブルを受け入れた側のプレイヤーにだけかける権利がある。このときリダブルを拒否した場合、拒否した側の2点差負けとなる。双方がダブルをかけ合った場合、得点率は4倍、8倍、16倍、……と倍々で増加してゆくことになる。
ダブリングキューブと呼ぶ2, 4, 8, 16, 32, 64の記されたサイコロを使って現在の倍率を表示し、そのキューブの置かれた位置によって次にダブルをかける権利のあるプレイヤーを示す。初期状態ではキューブは中央に置かれ、また通常のダブリングキューブには1の面がないため、64の面を上にしてその代わりとする。
ダブルを交互にかけ合い続けた場合、理論的には倍率は際限なく上がることになるが、実際にはそこまでダブルをかけ合うほどの連続逆転は起こりがたく、また競技会ルールでの必要得点などの面からもそのようなダブルには意味のないことが多い。これ以上ダブルの倍率を上げることが無意味になった状態や、クロフォードルール(後述)が適用されているゲームのことをキューブデッドという。128倍以上の高倍率が記された特殊なダブリングキューブも存在するが一般的ではないため、このような倍率が実際に発生した場合には、少なくとも競技者双方にとって紛らわしくないような表示を適宜決める必要がある。
ダブルに関して、「25%理論」と呼ばれる理論がある。これは、逆転の確率が25%以上ある場合は、ダブルを受け入れた方がよいというものである。
たとえば、逆転確率が25%の全く同じ状況が4回発生したとする。もし、4回ともダブルを受けずに敗北を宣言すると4回とも失点1なので、合計は失点4となる。もし、4回ともダブルを受け入れる場合は4回のうち1回は勝って得点2、残り3回は負けて失点6となり、合計は失点4となる。よって、逆転の確率が25%の場合、失点の合計はダブルを受けても受けなくても変わらない。このため、勝率が50%を超える場合はダブルをかけるほうが有利であり、またダブルをかけられたほうは逆転の可能性が25%を超えるならばダブルを受け入れる方がよいという、興味深い設定となっている。
ただし、これは盤面の特殊な状況(例えば、負ける場合はギャモン負けとなる可能性が高い状態など)を考慮せず、また持ち点が無限にあると仮定した場合の戦略であり、実際にはそのときの盤面や、競技会ルールの場合には現在の持ち点を考慮してダブルの是非を決めることになる。また、ダブルをかけるということは、相手にダブルの権利を与えるということでもあり、これによって戦略上の不利が生じる場合もあるので注意が必要である。
ダブルに関して、以下のような変則ルールが存在する。
クロフォードルール 
競技会ルールで、どちらかのプレイヤーが先にマッチポイント(あと1点で勝利を得る状態)になった場合、次の1ゲームに限りダブルをかけられない、というルール。マッチポイントを得たプレイヤーの優位性を保護するためのルールであり、ほとんどの競技会で採用されている。ただし、クロフォードルールは1ゲームに限り適用され、そのゲームが終わると解除され、ダブルをかけることができるようになる。例えば、5点先取のマッチで、Aが1点、Bが4点の場合、Aはダブルを提案できないが、そのゲームでAがシングル勝ちし、Aが2点、Bが4点となると依然BのマッチポイントであるがAはダブルを提案できる。
オートマチックダブル 
先手を決める最初のサイコロが双方同じ目となった場合、ダブルの倍率を2倍にしてから振り直す、というルール。先手が決まるまで、同じ目が出続ければさらに倍々となってゆく。上がるのは倍率のみで、最初のダブルをかける権利は変わらず双方にある。競技会では通常採用されない。
ビーバー 
ダブルを提案されたプレイヤーが通常のダブルを受ける選択の他に、そのさらに2倍の倍率を逆提案できるルール。すなわち倍率はダブルをかける前の4倍となり、次のダブルをかける権利はビーバーで受けた、すなわち最初にダブルを提案した側が持つ。前述の25%理論と同様の設定では、双方が勝率を正しく判断しているならばビーバーで受けるべきダブルがかけられることはありえないので、ビーバーで受けるのは主に、相手の勝率計算が誤っていると考えた場合になる[2]。ビーバーを逆提案された場合、当初ダブルを提案した側が拒否することも可能であり、この場合はビーバーを逆提案したプレイヤーの1点差勝ちとなる。競技会では通常採用されない。
ジャコビー 
ダブルがかけられていない場合、ギャモン勝ちやバックギャモン勝ちも1点勝ちするルール(ダブルがかけられると、ギャモン勝ちは4点、バックギャモン勝ちは6点となる)。ダブルをかけて降りられては1点しか得られないため、ギャモン勝ちが見えている場合ダブルをかけずに進行することになり、ダブルの趣旨であるゲームの迅速化が果たされないので、このようなギャモンを認めずにさらなる迅速化を図る目的がある。競技会では通常採用されない。
基本的な戦略
基本的なゲーム戦略としては、
相手からのヒットを避ける(ブロットを作らない)ようにして駒を進めること
ヒットした相手の駒を再配置させない、または再配置後の移動が困難になるよう自分の駒を移動させることにある。
ただし、サイコロの目によって採りうる戦略は左右されるため、状況により随時その戦略を変えなくてはならない。 そのため以下のような戦略がある。
プライミング:プライム(連続して6つのポイントをブロックし、相手の駒を進めないようになった状態)もしくはセミプライムをつくることで相手のバックマンを捉えて、動きを阻み、相手がインナーの防御を壊さざるを得ない状況(動かせる駒がある場合は動かさなければならないため)を作る。この結果としてインナーの駒が進み過ぎてしまった状態をナッシングボードという。
ブロッキング:相手インナーに複数のポイントを確保し、ベアリングインしようとするところをヒットする。
アタッキング:ブリッツともいう。序盤から積極的に相手をヒットし、プライム・クローズアウトにより相手をねじ伏せる。相手のコマを連続してヒットし続けることで、相手のバックマン二個をバーの上に乗せ続け、相手の行動を完全に封殺する戦法である。勝つときは大抵ギャモン勝ちとなるという決まると爽快な戦法である。ただし、一度失敗すると取り返しがつかないこともよくあり、細心の注意が必要とされる。
バックゲーム:不利な状況において相手インナーの深いポイントを複数確保し、逆転を狙う。失敗すればギャモン負け必至の背水の陣の戦略であるが、それだけに成功したときはアタッキングとは違う意味での快感がある。
ランニング:序盤から大きい目やゾロ目が連続して出てヒップカウントの優位を確保した場合、早々に双方の駒が完全にすれ違いヒットされる可能性のない状態(これをノーコンタクトという)に持ち込んで、安全勝ちを目指す。ギャモン勝ちは狙いにくいが優勢を確保してから、逆転される可能性が低く安全性の高い戦略である。
ギャモントライ:勝利が確実な状況になった場合、ダブルを提案せずギャモン勝ちを目指す戦略。逆に敗北が確実な状況でギャモン負けを回避する戦略をギャモンセーブという。ギャモントライやギャモンセーブは勝負結果自体は見えているため副次的なものと考えられることもあるが、その成否は1ゲームの勝敗に相当するため、これらも重要な戦略である。
形勢判断
形勢判断の材料として用いられるのが、ピップカウントである。これは、自身のコマのゴールからの距離の合計値であり、少ない方が有利とされる。また一般にインナーまで多くの駒を進めている側は優勢であるが、上記の通り相手インナーにブロックポイントを作る戦術もあり、またサイコロの目次第での逆転も有り得るためチェスのような明白な優劣がついている状態は起こりにくい。
コンピュータとバックギャモン
ルールがシンプルなこともあり、バックギャモンはコンピュータの黎明期からさまざまなプログラムが作成されている。ネット上での対戦も容易であり、Play65やGridGammonなどが存在しており活発にプレイされている。
バックギャモン解析ソフトウェアの進歩はバックギャモンの戦略に革命を起こした。
有名なのはSnowie[3]、GNU Backgammon[4](略称gnubg)、eXtreme Gammon[5](略称XG)である。SnowieおよびeXtreme Gammonは日本では日本バックギャモン協会から有償で販売されている。GNU Backgammonは自由なソフトウェアであり無償である。
バックギャモンはサイコロを使う偶然性があり、ある局面の有利不利、あるいはある局面での動かし方についてその局面から何度もプレイしてみても正確な評価が非常に難しいことがあるが、Variance Reduction[6](分散低減)という手法を用いて、バックギャモン解析ソフトウェアは非常に精度の高い局面評価、最善手の検索が可能となった。
バックギャモン解析ソフトウェアを使用するとある局面の有利不利の評価、最善手が分かるようになる。しかし何故その局面がそう評価されるのか、何故それが最善手なのかは教えてくれない。教えてくれるのは「この局面の勝率は63%だ」とか、「最善手はこの動かし方で、勝率が3%下がる次善手はこれ」といった情報である。そのため、人間がその情報を元に上達するためには局面の解析結果から人間的思考手順を導き出さなければならない。
歴史
セネト
バックギャモンの原型は紀元前3500年頃の古代エジプトでプレイされたセネトと呼ばれる10枡3列の遊戯盤ではないかという説がある。しかしセネトをプレイすると、現代のバックギャモンとは見た目もルールも大きく異なるため、かなり違和感を覚える。ツタンカーメン王の墓からもセネトの道具が発掘されている。元々は古代エジプト人にとって最大の関心事であった「死と再生」の過程が盤上に描かれるなど、セネトはエジプト神話及び宗教と結びついたものであった。だが、エジプト文明の衰退とともに宗教色が薄れ、エジプト末期王朝には宗教的な絵やヒエログリフが外されていった。これがかえってギリシアやローマに受け入れられていく素地となっていった。
タブラ
ローマ帝国では改良が加えられて12枡3列となり、タブラと呼ばれるようになる。5世紀頃に現在のバックギャモンと同じ様に12枡2列となり、中世ヨーロッパで広く遊ばれるようになった。だが、賭博のための遊戯としての色彩が強まるとともにキリスト教的な観点から批判する声も高まり、宗教改革期にはタブラの廃絶運動が起こった。だが、聖俗問わずタブラを好む人が多かったために完全な廃絶には至らなかった。むしろ、ルーレットなどの新たな賭博の出現がタブラを主役から降ろす事になる。
ナルド
一方、ギリシア・ローマの影響を受けて、中近東方面でもナルド(英語版)(Nard)の名前で広がった。
雙陸
中国でも6世紀には雙陸(中国語版)(シュアンルー、zh)の名前で広がった。
雙六
日本への伝来は7世紀で、持統天皇の治世に早くも雙六(盤双六)賭博禁止令が出されている(以後の歴史については盤双六を参照のこと)。なお、西洋型のバックギャモンは戦国時代に初めて伝来したが、盤双六に馴染んだ日本人には受け入れられなかったようである。
だが、盤双六は幕末から明治維新にかけて他の賭博に押されて衰退していき、遅くても昭和初期ごろには消滅したとされる。また、明治以後に再伝来したバックギャモンとは歴史的な連続性は無いと考えられている。
バックギャモン
一方、ヨーロッパでも20世紀に入ると、衰微の様相を呈していたが、1920年代にアメリカで発明された「ダブリングキューブ」が導入されてゲーム性が高められると、再び盛んになり始めた。今日においてもインド以西のユーラシア大陸全域とアメリカにおいては代表的なボードゲームの一つである。
脚注
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^ “"Backgammon Luck vs Skill"”. backgammon.org. 2014年8月25日閲覧。
^ ただし、バックギャモンは1ゲームの勝敗だけで決まるものではなく、ポイントマッチであるため得点の状況によっては、ビーバーで受ける方が得になる状況も有り得る。例えば9点先取のマッチでAが7点、Bが5点の状態で、Aがダブルを提案した場合、Bはビーバーで受けるのが絶対優位戦略となる。
^ “Backgammon Snowie - the new software by Snowie Group”. 2014年8月25日閲覧。
^ “GNU Backgammon”. 2014年8月25日閲覧。
^ “eXtreme Gammon, backgammon learning and analyzing program”. 2014年8月25日閲覧。
^ David Montgomery著、仙石祥一郎 訳 (2000年6月30日). “Variance Reduction”. 2014年8月25日閲覧。
参考文献
増川宏一『すごろく ものと人間の文化史79』(法政大学出版局、1995年) ISBN 4-588-20791-1
日本バックギャモン協会『バックギャモン・ブック』(河出書房新社、2002年) ISBN 978-4-309-26597-1
関連項目
	ウィキメディア・コモンズには、バックギャモンに関連するカテゴリがあります。
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ポータル ゲーム
日本バックギャモン協会
すごろく…盤双六(雙六)について解説
矢澤亜希子…プロフェッショナルバックギャモンプレイヤー。2014年の世界チャンピオン。
望月正行…日本人初の世界チャンピオン
武宮正樹
片上大輔
森内俊之
すぎやまこういち…日本バックギャモン協会名誉会長
木原直哉…ポーカー選手になる前、バックギャモンの選手だった。
外部リンク
JBL(日本バックギャモン協会)
GNU Backgammon
Snowie
eXtreme Gammon
■
ハネは囲碁用語の一つで、自分と相手の石が接触している状態から、相手の石の行く手を制限するように、自分の石から見て斜めの位置に打つ手を指す。図1の白△に打つ手が「ハネ」である。動詞では「ハネる」という言い方をし、漢字では「跳ね」と表記する。なお、図2のような場合は「マガリ」であり、ハネとは呼ばない。
図1 ハネ
図2 マガリ 

目次 
1	ハネの例
2	二段バネ
3	ハネツギ
4	ハネっ放し
5	ハネコミ
6	ハネダシ
7	参考図書
ハネの例
相手が自分の石にツケで接触した場合、黒△のようにハネて対応することが多い(格言「ツケにはハネよ」)。

死活の問題でもハネは重要になる。白1のようにハネで相手の面積を狭め、眼を作るスペースを奪うことが多くの場合有力な手となる(格言「死はハネにあり」)。ハネによって相手の石を殺すことを「ハネ殺し」と表現する。

自分の2子と相手の2子が対峙した状態では、黒1と相手の頭を叩くようにハネる手が好点となる(格言:「二目の頭は見ずにハネよ」)。これによって白は発展性を制限され、ダメの詰まった窮屈な形になる。黒は一挙に右辺方面に模様が見込め、上辺を攻める手を見て楽しみな形になる。白番であれば、同じ点にノビておく手がほぼ絶対となる。なおこのようなハネを「タタキ」「頭を叩く」と表現することがある。
二段バネ
自分のハネに対して相手もハネで応じたとき、さらにもう一度ハネる黒1,3のような手を「二段バネ」と称する。二段バネは断点が二つできるため、切断に注意しなければならない。
また図のように、白2のハネに対して黒3とハネ返す手段も「二段バネ」と表現されることがある。また「ハネ返し」とも呼ぶ。サバキの手筋として頻出する。
ハネツギ
例1

例2
黒1にハネ、白2のオサエと換わって黒3にツギを打つ一連の手順を「ハネツギ」と称する。普通一線、二線の場合に用い、ヨセの手順として頻出する。
ハネっ放し
図のように、一本黒1とハネて、aの三々打ち込みを緩和して他に回るような場合もある。これを「ハネっ放し」と称する。
ハネコミ
上図左の黒1のようにハネとワリコミを兼ねたような手を「ハネコミ」と称する。以下、上図右の手順によりオイオトシで白の△2子が取れる(白aとしても黒b、白5の下、黒cで逃げられない)。
ハネダシ
図のように、黒1とハネてケイマの位置関係にある相手の石を分断しに行く手を「ハネダシ」と称する。「ハネ出し」とも表記する。
参考図書
淡路修三『ハネとオサエ (烏鷺うろブックス)』日本棋院 1989年
『二段バネの攻防 (二子アップ中級シリーズ)』誠文堂新光社 2003年
■
ハマ、アゲハマは、囲碁の用語のひとつ。囲碁では対戦中に盤上の相手の石の幾つかを取り上げることがあり、日本ルールに於いてはその取り上げた石をハマもしくはアゲハマと呼ぶ。後で数がわかるように手元に置いておかなければならず、通常碁笥の蓋を裏返して、ハマを乗せておく。
終局後、盤上の死んだ石もハマに加えられ、ハマと盤上の地の広さの合計が、白黒の対局者の総得点となる。整地では分かりやすいように、自分が取ったハマで相手の地を埋める(つまりハマが多いほど、相手の地が減る)。
このようにハマを取っておくのは、日本ルールの中に於いてのことである。中国ルールでは、取った石を、取った直後に相手の碁笥へ返却する。これは中国ルールでの計算の仕方が日本とは違い、領地内の空点のみを数えるのではなく、空点及び自分の石の数を数える為である。例えば200手で終局したとして、黒が10個の白石をアゲハマとして取った場合には、黒100個、白90個の石が盤上にあるはずである。この場合、ハマの10個を数えるのが日本流であり、盤上の90個を数えるのが中国流と言うことになる。
■
ハメ手(はめて)は、囲碁・将棋などのゲームにおいて用いられるトリック戦法のこと。一見スキのある手を打ち(指し)、相手がそれに引っかかって欲張った手で対応すると、大きな損害を与える「罠」のような手段である。
多くの場合は、相手に正しく対応されると、ハメ手を仕掛けた方が大損害を受けることになる。なお、正しく対応されても互角に近いワカレになる手も存在するが、これをハメ手と呼ぶかは見解が分かれる。 正しく受けられれば損害を受けるハメ手をハメ手と知りつつ着手することは、勝負手などやむを得ないケースを除けば好ましい事とは評価されないことが通例である。
囲碁におけるハメ手
高目定石におけるハメ手の一例。黒1にカケ、白2とコスミ出した時には通常aなどにコスむのが定石だが、ここで3と引っかけるのがハメ手。
スキだらけなので白1,3と出て5と切ると、6に突っ込まれてツゲず、下の3子が切れて大損害を受けることになる。白5ではaの方に切るのが正しい対応で、黒がbにツイだらcにノビ切って黒1子を取り込むことができる。取り込んだ形は、断点が多く白有利とされる。
将棋におけるハメ手
奇襲戦法を参照。
■
早指し(はやざし)は将棋や囲碁などのボードゲームで、1手の時間が通常の対局よりも短く制限された対戦形式。
囲碁の場合は「早碁」(はやご)と呼び、「早指し」とは呼ばない(囲碁は「指す」ものではなく「打つ」ものであるため)。
目次 
1	将棋
2	囲碁
3	チェス
4	関連項目
将棋
持ち時間(無し〜30分程度以内で棋戦による)を使い切った後、1手の制限時間が短くなる。将棋においては、制限時間が1手30秒程度未満とするルールのことを早指しと呼び、1分未満の場合は早指しと呼ばないのが通例である。
早指しのプロ公式棋戦には、下記のものがある。いずれも、テレビ放送・公開対局・リアルタイムのネット中継のいずれかが行われるものを対象としている(予選は該当しない場合あり)。
棋戦名	持ち時間※	備考
棋士の公式戦
NHK杯テレビ将棋トーナメント	10分、切れたら1手30秒(1分単位で10回の考慮時間あり)	NHK教育テレビで放送
JT将棋日本シリーズ	10分、切れたら1手30秒(1分単位で5回の考慮時間あり)	全国主要都市での公開対局
銀河戦	15分、切れたら1手30秒(1分単位で10回の考慮時間あり)	「囲碁・将棋チャンネル」で放送
大和証券杯ネット将棋・最強戦	30分、切れたら1手30秒	インターネットで対局状況をリアルタイム配信
棋士の非公式戦
富士通杯達人戦	(決勝のみ)15分、切れたら1手30秒(1分単位で10回の考慮時間あり)	決勝のみ早指し・公開対局
女流棋士の公式戦
女流王将戦	25分、切れたら1手40秒	2009年より。「囲碁・将棋チャンネル」で放送
大和証券杯ネット将棋・女流最強戦	30分、切れたら1手30秒	インターネットで対局状況をリアルタイム配信
終了した棋戦
早指し将棋選手権
早指し新鋭戦	1手20 - 30秒(1分単位で3回の考慮時間あり)
※41手目以降。詳細は当該記事参照	テレビ東京で放送
鹿島杯女流将棋トーナメント	10分、切れたら1手30秒	MXテレビで放送
※特記ない限り本戦の持ち時間。予選は異なる場合がある。詳細は各記事を参照。
囲碁
囲碁における早碁の棋戦には、下記のものがある。
NHK杯テレビ囲碁トーナメント(NHK教育テレビ)
スーパー早碁 - テレビ東京で放映されていた早打ち囲碁の番組。2005年で終了。
「JALスーパー早碁戦」
「JAL新鋭早碁戦」
「JAL女流早碁戦」
チェス
詳細は「早指しチェス」を参照
「持ち時間5分」や「持ち時間なし・1手10秒」などの方式がある。大きな大会の追加イベントとして実施される場合も多い。
関連項目
持ち時間
■
早碁選手権戦(はやごせんしゅけんせん)は、囲碁の棋戦で、テレビ東京で「日曜囲碁対局」として放映された。日本棋院と関西棋院の棋士が参加する。1968年から開始され、2002年35期まで実施。2003年からは鶴聖戦と統合され、「スーパー早碁」と名称を変更。
主催 テレビ東京(旧東京12チャンネル)
目次 
1	方式
2	歴代優勝者と決勝戦
3	記録
4	外部リンク
方式
出場棋士は、賞金ランキング上位棋士と、新鋭トーナメント戦優勝者の、16名。
トーナメント方式で争われ、12-18期の決勝戦は3番勝負、その他は1番勝負。
持時間
1-16期 一人10分、使い切ると1手30秒
17-33期 一人5分、使い切ると1手30秒、3分の考慮時間を2回
34-35期 持ち時間無し、1手10秒、1分の考慮時間を10回
歴代優勝者と決勝戦
(左が優勝者)
1969年 藤沢秀行 - 藤沢朋斎
1970年 橋本宇太郎 - 大平修三
1971年 宮下秀洋 - 藤沢朋斎
1972年 藤沢朋斎 - 橋本宇太郎
1973年 小林光一 - 藤沢朋斎
1974年 大竹英雄 - 橋本昌二
1975年 橋本昌二 - 大竹英雄
1976年 林海峰 - 坂田栄男
1977年 大平修三 - 山部俊郎
1978年 武宮正樹 - 藤沢秀行
1980年 石田芳夫 2-1 大竹英雄
1981年 坂田栄男 2-1 加藤正夫
1982年 小林光一 2-1 山部俊郎
1983年 石田芳夫 2-0 小林光一
1984年 石田芳夫 2-1 小林光一
1985年 林海峰 2-0 加藤正夫
1986年 趙治勲 2-1 小林光一
1987年 小林光一 - 趙治勲
1987年 林海峰 - 石田芳夫
1988年 加藤正夫 - 武宮正樹
1989年 武宮正樹 - 加藤正夫
1990年 趙治勲 - 林海峰
1991年 趙治勲 - 結城聡
1992年 趙治勲 - 王立誠
1993年 片岡聡 - 依田紀基
1994年 加藤正夫 - 山田規三生
1995年 結城聡 - 林海峰
1996年 趙治勲 - 依田紀基
1997年 小林光一 - 王立誠
1998年 片岡聡 - 加藤正夫
1999年 加藤正夫 - 小林覚
2000年 小林覚 - 小林光一
2001年 趙治勲 - 小林光一
2002年 趙治勲 - 石田芳夫
記録
最多優勝 7回 趙治勲
新鋭トーナメントから出場して優勝 小林光一(1973年)
外部リンク
囲碁データベース「早碁選手権戦」
■
盤外戦(ばんがいせん)とは、ボードゲームにおいて、盤上の勝負とは別に、対局前や対局中に行われる心理戦のことを指す。
目次 
1	概要
2	将棋
2.1	大山康晴
2.2	その他有名棋士たちの盤外戦術
2.3	盤外戦術をしない棋士達
3	囲碁
4	チェス
5	麻雀
6	脚注
7	関連項目
概要
主として、対局中の行動によって相手の集中力を妨げたり、心理的なプレッシャーを与えたり、対局の前に苦手意識や劣等感を植え付けたりして、勝負で優位に立つ手法がある。このような心理戦は、軍事や外交、ビジネスでの交渉でみられるものと類似している。
通常ボードゲームは頭脳スポーツであり、対局における技術・技能の優劣が勝負を大きく支配する。特に将棋や囲碁などの二人零和有限確定完全情報ゲームなどは運が関係しないため、純粋に頭脳の戦いとなるが、これとは別に相手の思考や判断を、妨害したり弱体化させることで、結果として自分が優位になるように図るのが盤外戦の基本である。
例としては冷暖房を極端にしたり、ささやき戦術や戦法予告をするなどがあげられる。将棋棋士七段で将棋ライターの河口俊彦は「こういう時はなんであれ自分の言い分を通した方が勝ち」と述べている。囲碁では藤沢秀行が晩年のインタビューで「あの頃(藤沢と坂田栄男がタイトル戦でしのぎを削っていた頃)は相手を怒らせるのも勝負の内だった」と語っており、棋力が拮抗した者同士での対局では、優位を得るための方法として重要視されている。
その一方で、盤外戦の応酬によって対局が妨害されるのを防止するため、相手の集中を削ぐ行為(対局中に呟く、扇子などを開閉する等)の禁止を明文化している団体(国際チェス連盟)もある。
もっとも、下記のとおり盤外戦は対局中だけのものではなく、長期間にわたって同じ相手と何度も対戦する頭脳競技の世界では対局場以外や私生活まで盤外戦の場となることがある。河口が著作で触れた例では、「金に困って対局料の前借りを申し込みその引け目から経理担当理事に勝てなくなった棋士が居た」という。
将棋
公式戦を管轄する日本将棋連盟には、盤外戦について明文化された罰則などはなく、使うか否かについては棋士の判断にゆだねられている。
第3期名人戦第1局、木村義雄と神田辰之助の一戦で、神田有利で迎えた終盤で神田の秒読みの時間が切れそうになった。当時はタイトル戦でもそう厳密ではなかったが、木村は12歳年長の神田に「君!時間だよ!」と一喝、とっさに指した手が大悪手で神田の逆転負けとなった。七番勝負は4-0で木村の勝ち。[1]
第7期名人戦挑戦者決定戦の「高野山の決戦」では、A級1位だった升田幸三が塚田正夫への挑戦者で当然だったが、名人戦を当時主催していた毎日新聞社は、自社の嘱託棋士であったB級1位の大山康晴を強引に参画させるため、突然A級上位3名とB級1位のプレーオフで名人戦挑戦者を決める変則を実施した。朝日新聞社の嘱託棋士であった升田には対局の日程も場所も事前に通知は無かった一方で、毎日新聞社は大山には高野山への豪勢な送迎をしていた。しかも、十二指腸の具合がよくなかった升田は温暖な場所での対局を依頼していたにもかかわらず、毎日新聞社は寒冷な高野山を選んだ[1]。
名人戦の主催社が朝日新聞社に移行して以降は、升田幸三が勝てば役員総出で大宴会になり、大山康晴が勝ったらそのまま全員帰ったとか、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も投了の瞬間を再現するようせまったとかの逸話が伝えられている。
大山康晴
第一人者となった後の大山康晴は、自身がトップに立ち続けるために、相手に屈辱感やコンプレックスを徹底的に植え付ける、非情なまでの勝負至上主義であった[1]。
盤上で勝勢になっても、一気に寄せずに長手数の対局で相手をいたぶり、じっくり時間をかけて心理的な屈辱と無力感を与えた[1]。たとえば、第19期名人戦では、挑戦者の加藤一二三は第1局で1勝した後の第2・3・4局で3連敗してカド番を迎えたが、第5局にて大山は千日手指し直しを含めて一気に勝ちを決めずになぶり殺すようにして、加藤の潜在意識に屈辱と無力感を徹底的に刷り込んだ。
中原誠に名人位を奪われても、「十五世名人」の称号ではなく「大山名人」と呼ぶように相手に強いた。
相手が長考に入ると、相手の視線を狙って脇に挟んだ扇子を回して集中力を妨げるなどのテクニックもあった[2]。
河口俊彦は「別冊NHK将棋講座 もう一度見たい!伝説の名勝負」に寄稿した中で、「大山は催眠術を使っている、という説があって、森や田中寅彦は本気で信じていたようだった。まさかと思ったが実際に対局してみると森や田中の気持ちがわかった」と書いている。ただし、河口は催眠術の正体について「今思い返すと、催眠術にかけられたわけではなく大山の威圧感に圧倒されたのである」といっている[3]。
二上達也は詰将棋作家でもあったが、対局中に記録係が詰将棋の本を手にしていると、大山は「詰将棋なんかは何の役にも立たないよ」と罵って、対局相手の二上の神経を逆撫でた[2] 。さらに、全盛期の大山に二上がタイトル挑戦してきたことで二上に目をつけて、日本将棋連盟会長であった大山は、徹底的にパワーハラスメントで当時理事を務めた二上をいたぶった[1]。なお、二上自身は盤外戦を全くやらなかったので、対比としても語られることが多いエピソードである。
米長邦雄対内藤國雄のタイトル戦を「あんなのは二軍戦だよ」と大山康晴は言い捨てたことを、大山没後の対談集で語っている[4]。
大山康晴は、花村元司を破った対局後に「花ちゃん、あんたは所詮素人だもんね」と、真剣師からプロ棋士に転向した花村に痛烈な言葉を浴びせた。
小学生名人戦で羽生善治が優勝したとき、谷川浩司が「このまま頑張れば、プロになるのも夢ではない」と羽生を讃えて励ましたのに対して、大山康晴は「数年後は谷川君を目標にタイトルを争っているでしょう」と言い放ち、谷川は恥辱を受けて顔が引きつるだけだった[5]。ただし、1988年度NHK杯で羽生は大山や谷川らを破って優勝しているので、予言としては大山の発言は当たっている。
羽生善治がまだ駆け出し(C1級で高校に通学中)の頃に、大山康晴との対戦(1988年5月王将戦二次予選)の前後に過密スケジュールを大山に組ませられ、しかも大山は途中で対局を一時中断すると羽生を青森県百石町まで連れ出し、そこで対局の再開を強いた上に後援会の宴席まで出席を強要した[6]。
大山康晴対羽生善治の対局で、大山が優勢な局面で羽生があっさり投了した。投了のタイミングの早さに対局解説の島朗も驚くほどだった。長手数でじっくりいたぶる盤外戦術をかわされたことで、大山は不機嫌になり米長邦雄が勧めても感想戦を行わなかった。
中原誠も大山の盤外戦術が通じなかった一人であった。河口俊彦は「大山と中原が棋界関係者とゴルフに行き、旅館に着いた時、『飯を食って麻雀をしよう』と大山が言い出した、大山の言うことなのでみんな嫌々飯の準備をしていると遅れて現れた中原が『なんで風呂に入らないんですか?そんな手はないですよ』と言い出し、やれうれしやと皆中原について風呂へ、大山は一人宴会場に取り残された」という逸話を紹介している[1]。
1991年、ガンが再発して手術する直前に指した順位戦の対有吉道夫戦では、弟子の有吉に対し対局前の雑談の際に「ガンが再発したので今度手術する」と告げた。もっとも、将棋自体は有吉が勝っているが、その後大山は、本来なら入院中で不戦敗になるはずの次の対局を「入院前に繰り上げて指したい」と将棋連盟に申し入れ、その繰り上げ対局はきっちり勝っている[1]。
その他有名棋士たちの盤外戦術
米長邦雄は、1990年(1989年度)の王将戦で挑戦者となったとき、「横歩も取れないような男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、横歩取り戦法をほとんど指さなかった南芳一王将(当時)を挑発した。すると、南は対局で横歩を取った。ちなみに、この七番勝負では2局が横歩取りとなり、1勝1敗であったが、七番勝負は米長が勝っている。ただし、米長は、後年「盤外戦術は不利な方がやると相場が決まっている。そんなものをしかけてしまっては、不利と焦りを認め、相手に自信を付けさせるだけでかえって損」と語っている[7]。
加藤一二三は、しきりと対局条件に注文をつけることで有名で、盤駒の交換申出から冷暖房の調子、果ては「(地方の旅館でのタイトル戦で)庭園の滝の音がうるさいから止めてほしい」と言ったことがある。また、対局中にも空咳、空打ち、相手の背後に回って相手の視点から局面を見る[8]、などの奇行が多い。これが意図的な盤外戦なのか単に神経質なだけなのかは不明だが、これらを気に病んだ棋士が日本将棋連盟の理事会で「加藤の奇行をやめさせろ」と提起したことがある。なお、加藤本人は、「ストーブにしろエアコンにしろ盤の位置にしろ、どっちでもいいじゃないかと思われるかもしれない。でも、勝負師としてそこで譲ってしまってはいけない。自分の主張を通そうとするのは『絶対に勝つんだ』という強い意識の表れで、引いてしまったら上下関係が決してしまう。勝負師たるもの、盤外戦ととられようと主張すべきところは絶対に主張すべき」と述べている[9]。
中原誠は、大山ほどは盤外戦は使わなかったが、終盤で勝ちを読み切るとトイレに立つという習慣があった。これには環境を変えて読み直しを行うことでポカを防ぐという意図があったが、この習慣が他の棋士に知れ渡るにつれて、中原が終盤でトイレに立つだけで戦意を半ば喪失する対戦相手も少なくなかった。また、米長邦雄との対局時、本来誰にも知られてはいけないはずの「封じ手」を行う際に、あろうことか対局相手である米長に対し、「△4六角を△3七角成とするにはどう書いたらいいか」と尋ねた[10]。
盤外戦術をしない棋士達
ルールとして禁止されているわけではないが、二上達也のように盤上での勝負にこだわり、盤外戦を行わなかった棋士も存在する。また戦後生まれの棋士が増えるに従って、語りぐさになるような派手な盤外戦は見られなくなっている。
囲碁
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チェス
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国際チェス連盟が管轄する公式な大会では、中立的な立場のアービター[11]達が、対局中の盤外戦について監視を行っている。
かつては頻繁に引き分けの申請をすることで、相手の思考を妨害するなどのマナー違反が野放しであったため、現在では「どのような方法であっても、対局者を動揺させる行為は禁止」と規則に明文化されており、間違った指し手や時間切れの指摘、引き分けの申し出以外に相手に話しかけることも禁止している。引き分けの申し出についても、自分が不利な局面で何度も申し出るなど、アービターが妨害行為と判断すれば、反則負けとなる。
また2006年にはウラジーミル・クラムニクが対局中に頻繁にトイレに立つため、相手陣営から不正行為(ソフトによるカンニング)の疑いがあるとしてクレームを受けるなど、近年では対局中の挙動[12]や服装[13]についても厳しくなっている。
麻雀
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脚注
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^ a b c d e f g 河口俊彦『大山康晴の晩節』(新潮文庫、ISBN 978-4101265131)
^ a b 『現代に生きる大山振り飛車』 藤井猛・鈴木宏彦、日本将棋連盟、2006年12月、ISBN 978-4-819-70232-4
^ 「別冊NHK将棋講座 もう一度見たい!伝説の名勝負」P137~138、NHK出版 2011年2月
^ 『勝負師』(朝日新聞社、ISBN 978-4022598578)
^ 1982年小学生名人解説会
^ ただし、これに関しては、羽生を将来のタイトルホルダーと見込んだ大山が、地方対局の多いタイトル戦の雰囲気を羽生に体感させるために行ったとする見方もある。(椎名龍一『羽生善治 夢と、自信と。』)なお、日本将棋連盟発行の「大山康晴名局集」(P410~、2012年)に収録されているこの対局の自戦記では、大山は対局場の移動に触れていない。
^ 原田泰夫 (監修)、荒木一郎 (プロデュース)、森内俊之ら(編)、2004、『日本将棋用語事典』、東京堂出版 ISBN 4-490-10660-2
^ 石田和雄も同様の行為を頻りに行う傾向があった。
^ 加藤一二三「将棋名人血風録」角川書店、2012年、P116
^ 『日本将棋用語事典』p.124 斜体部はここからの引用。なお、日本将棋連盟 2004年『米長邦雄の本』でもこの逸話が紹介されているとのことである。
^ 申し立ての仲裁などを行う資格を持った審判員。
^ 自分の手番では、駒を移動するまで着席している必要があり、相手の手番でも席を外す際はアービターに許可を得る必要がある
^ European Chess Union introduces 'no cleavage' dress code
関連項目
ボードゲーム
心理戦
トラッシュ・トーク
アングル
■
番勝負(ばんしょうぶ)は、主として、囲碁や将棋の棋戦などにおいて、同じ2名の対局者が複数回の対局を行い、勝数が多い方を優勝者等とする仕組みを指す言葉である。「番」は対局の局数(回数)を意味する助数詞であり、本来は「七番勝負」のように漢数字を冠して表記するが、様々な番数の勝負の総称として「番勝負」と言う。囲碁では「番碁」(ばんご)という言葉を使うことも多い。
目次 
1	形態
2	囲碁・将棋
2.1	現代の番勝負
2.1.1	囲碁の番勝負
2.1.2	将棋の番勝負
2.1.2.1	将棋の番勝負の例外
2.2	江戸 - 大正時代
3	チェス
4	スポーツ
5	脚注
形態
番勝負には、次のようにいくつかの形態がある。
1人と1人が複数回戦うもの(= 典型的な番勝負)
予選を勝ち抜いた挑戦者がタイトル保持者・前回優勝者に挑戦するとき(囲碁界では「挑戦手合い」と呼ぶ)のほか、一部のトーナメント戦の決勝戦、タイトル戦の予選の最後となる挑戦者決定戦等がこの形態に属する。
スポーツなどにおける、同一相手との複数回の対戦で勝敗を決める際の「○番勝負」の表現もこの形態に属する。
1人が1回ごとに相手を変えつつ複数人と戦うもの
後述の瀬川晶司のプロ編入試験やプロレスの場合はこの形態である。
他に有名なものとして、山口瞳の「血涙十番勝負」や映画の「新吾十番勝負」が挙げられる。
複数人同士が戦うもの
囲碁や将棋の月刊雑誌の企画としてよく行われるのがこの形態である。
複数人がチームを組んで戦う点は団体戦と同じだが、通常の団体戦と異なるのは、選手が一堂に会して一斉に対局を行うのではなく、1人ずつ順番に対局するという点である。
1人と1人が1回だけ戦うもの(一番勝負)
予選を勝ち抜いた挑戦者がタイトル保持者・前回優勝者と1回だけ対戦する形態であり、通常は番勝負の範疇には入らない。ただし、タイトルマッチであることをわかりやすく表現するため、「一番勝負」の表記が用いられることがある。
囲碁の王冠戦(後述)が、その例である。
囲碁・将棋
現代の番勝負
現在の番勝負では勝負をつける必要があるため、奇数番の勝負が普通である。
三番勝負であれば先に2勝した方が、五番勝負であれば先に3勝した方が、七番勝負であれば先に4勝した方が勝ちとなる。 現代では勝敗が決した段階で残りの対局はキャンセルされるのが一般的だが、過去には将棋の王将戦における「指し込み制」のように、必ず決まった対局数まで対局を行う例もあった。
囲碁の七大タイトル戦、将棋の全7タイトル戦は、すべて、タイトル保持者と挑戦者1名との番勝負で優勝者を決める。
囲碁の番勝負
七大タイトル戦
七番勝負:棋聖戦、名人戦、本因坊戦
五番勝負:王座戦、天元戦、碁聖戦、十段戦
女流の挑戦手合い
五番勝負:女流本因坊戦
三番勝負:女流名人戦、女流棋聖戦
地方のタイトル戦での挑戦手合い
一番勝負:王冠戦
三番勝負:関西棋院第一位決定戦
その他
三番勝負:新人王戦決勝
なお、黒番(先番)と白番の回数が不平等にならないように、第1局開始時にニギリで第1局の先後を決めた後は、1局ごとに先後を入れ替えて対局する。勝負が最終局までもつれ込んだ場合は、再度、ニギリが行われる。
また、昔の番勝負(囲碁の手合割を参照)とは異なり、現代の番勝負ではコミが採用されている[1]。
将棋の番勝負
タイトル戦
七番勝負:竜王戦、名人戦、王位戦、王将戦
五番勝負:王座戦(タイトル戦へ格上げ前は三番勝負)、棋王戦、棋聖戦
女流タイトル戦
五番勝負:マイナビ女子オープン、女流王座戦、女流名人戦(第7期までは三番勝負)、女流王位戦
三番勝負:女流王将戦(第17期~第30期は五番勝負)、大山名人杯倉敷藤花戦
その他公式戦
竜王戦挑戦者決定戦三番勝負
棋王戦挑戦者決定戦二番勝負(無敗で勝ち上がった者は1勝、敗者復活で勝ち上がった者は2連勝が必要)(第17期までは一番勝負)
新人王戦決勝三番勝負
加古川青流戦決勝三番勝負
叡王戦決勝三番勝負
終了棋戦
七番勝負:十段戦(竜王戦の前身のタイトル戦)、九段戦(十段戦の前身のタイトル戦)(第6期までは五番勝負)
五番勝負:朝日オープン将棋選手権(準タイトル戦)、全日本プロトーナメント決勝(第8回までは三番勝負)
三番勝負:早指し王位決定戦決勝、最強者決定戦決勝、名将戦決勝、鹿島杯女流将棋トーナメント決勝(第8回からは一番勝負)
将棋大会(アマチュア)
朝日アマ名人戦三番勝負(アマチュア主要個人戦6棋戦の中で唯一、前年度優勝者と挑戦者とのタイトルマッチが行われる。)
なお、先手番と後手番の回数が不平等にならないように、第1局開始時に振り駒で第1局の先後を決めた後は、1局ごとに先後を入れ替えて対局する。勝負が最終局までもつれ込んだ場合は、再度、振り駒が行われる。
将棋の番勝負の例外
プロ編入試験
瀬川晶司のプロ編入試験(六番勝負) - 制度化される前の特例によるプロ編入試験。瀬川がプロ棋士など6人と対局し、瀬川の3勝でプロ編入を認めるものとなった。毎局振り駒が行われた。
制度化以降のプロ編入試験(五番勝負) - プロ編入希望者がプロ棋士5人と対局する。第1局と最終局に振り駒が行われる。
電王戦
第1期以降、コンピュータ将棋ソフトとプロ棋士の二番勝負。
俗な用法
同じ対局者同士が同時期に複数の番勝負を戦う場合、俗に、すべての番勝負の数字を加えた数を用いて「○○番勝負」と表現することがある。たとえば2005年度の将棋のタイトル戦では、連続する3つのタイトル戦、棋聖戦五番勝負、王位戦七番勝負、王座戦五番勝負に羽生善治と佐藤康光が登場し、「十七番勝負」と呼ばれた。
江戸 - 大正時代
江戸時代から明治・大正にかけては棋士の数が少なく、そのため強さの序列をつけるのに同じ相手と何局も戦い、その結果によって決めていた。特に必要がある場合に期間を決めてまとめて打つこと、指すことがあった。
有名なものとして、次のようなものが挙げられる。
囲碁
本因坊道悦 - 安井算知
算知の碁所襲位に異を唱えたもの。道悦定先の手合割で60番の予定であったが、16番目終了時に道悦が6番勝ち越して手合割が先先先に直ったため20番で終了し、算知は碁所を引退。
井上道節因碩 - 本因坊道知
道知が独り立ちできるかの試験碁で、10番を2度打っている。[2]ただし、目的を達したのか2度目は7番で終了している[3]。
本因坊察元 - 井上春碩因碩
名人碁所決定戦。互先20番の予定だったが初番を持碁[4]のあと察元が5連勝して圧倒したためその後自然消滅。
本因坊秀策 - 太田雄蔵
手合割は互先、17番目で秀策が4番勝ち越しとなり雄蔵の先先先に直る。30番の予定であったが23番で終了。
呉清源の十番碁
相手を変えて何度も行われたため、第一の形態と第二の形態の混合になっているほか、ずばり第二の形態のものも行われている。
将棋
大橋宗銀-伊藤印達
まだ若い[5]跡目二人に対し、将来の名人将棋所を実力で決めさせようという意図があったという見方が有力だが、家元同士の代理戦争だったのではという俗説もある将棋界唯一の争い将棋。途中から4連勝手直りという条件が加わり、結果印達が宗銀を角落ちにまで指し込む。対局者双方が体を壊したため57番(56番とも言われる)で打ち切られ、その後対局者双方とも2年を経ずして亡くなるという壮絶な結末を迎えた。予定番数は不明だが一説には100番であったといわれている。
昔は上のように偶数番の番勝負が普通であった。というのも、二局一組の手合割[6]というのがあったため不公平のないように、また実力伯仲、あるいは実力差が手合割に見合うものならばあえて勝負をつける必要がないという考えがあったためである。
チェス
チェスでも大きな大会の決勝などでは、同じ相手と複数回対局するシステムが取られ、best of # matches と呼ばれる。
囲碁や将棋とは違い、偶数回の対局となり、白と黒を同じ回数ずつ持つ。引き分けを0.5勝と数え、過半数の勝数をあげれば勝ちとなる。偶数回の対局としているのは、先後の回数による有利不利をなくすことと、引き分けが多いために囲碁・将棋のような番勝負の仕組みが成立しないことが理由である。
スポーツ
その他、北米4大プロスポーツリーグのうちMLB(ワールドシリーズ)・NBA(NBAファイナル)・NHL(スタンレー・カップ)や、日本プロ野球(クライマックスシリーズ・日本シリーズ)・プロバスケットボール(JBLプレーオフ)など、各国のスポーツのポストシーズンではこの方式を採用しているものが多い(多くは5戦3勝制、あるいは7戦4勝制)。
プロレスでは、「未来のエースと目された若手レスラーの試練」などの理由で、「○○十番勝負」という企画が行われることがある。大物レスラー十人が対戦相手を務める。ジャンボ鶴田の「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」、藤波辰巳の「飛龍十番勝負」などが有名。七番勝負の場合もある。
脚注
^ ただし、コミのルールは、現代では番勝負に限ったことではない。
^ 手合割は1度目は道知の定先。2度目は不明(おそらく道知の先先先)
^ 一度目はすべて棋譜が残っているのに、こちらの方はなぜか棋譜が一局も残っていない。
^ 上記の道悦・算知が争碁を打つ前に御城碁で対戦することになり、申し合わせで持碁にしたことから、その故事に倣ったものらしい
^ 宗銀は16歳(年齢は数え年)、印達は12歳。
^ 囲碁の互先は本来1局毎に互いに先手番と後手番を交換して打つという意味であり、将棋の平手も同様である。また囲碁では定先と二子の間に先二、将棋では平手と香落ちと間に平香交じり(半香ともいう)というのがある。
■
ヒカルの碁
ジャンル	囲碁、少年漫画
漫画
原作・原案など	ほったゆみ
作画	小畑健
出版社	集英社
[表示]その他の出版社
掲載誌	週刊少年ジャンプ
レーベル	ジャンプ・コミックス(JC)
愛蔵版コミックス(完全版)
集英社文庫(文庫)
発表号	1999年2・3合併号 - 2003年33号
巻数	全23巻(JC)
全20巻(完全版)
全12巻(文庫)
話数	本編:全189話 / 番外編:全9話[注 1]
その他	監修:梅沢由香里(日本棋院)
小説
著者	横手美智子
イラスト	小畑健
出版社	集英社
レーベル	ジャンプ ジェイ ブックス
巻数	全2巻
テンプレート - ノート
プロジェクト	漫画、ライトノベル
ポータル	漫画、文学
『ヒカルの碁』(ヒカルのご)は、ほったゆみ(原作)と小畑健(漫画)による囲碁を題材にした日本の少年漫画。日本棋院所属の女流棋士・梅沢由香里が監修を務めた。『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて、1999年(平成11年)2・3合併号から2003年(平成15年)33号にかけて連載された。話数の数え方は「第○局」。テレビアニメ、小説、コンピューターゲームなど様々な形でのメディアミックスも行われている。
単行本は全23巻(完全版では全20巻)。累計発行部数は2500万部[1]。2000年に第45回小学館漫画賞 、2003年に第7回手塚治虫文化賞新生賞を受賞した。
目次 
1	作品解説
2	あらすじ
2.1	佐為編
2.2	北斗杯編
3	登場人物
3.1	主要人物
3.2	日本のプロ棋士
3.3	韓国のプロ棋士及び韓国棋院関係者
3.4	中国のプロ棋士及び中国棋院関係者
3.5	中学校囲碁部員及び関係者
3.6	院生及びプロ試験受験者
3.7	国際アマチュア囲碁カップ出場者・関係者
3.8	碁会所関係者
3.9	日本棋院及び囲碁業界関係者
3.10	その他の碁打ち
3.11	その他の人物
4	担当編集者
5	メディアミックス
5.1	アニメ
5.2	ゲーム
5.3	小説
6	書誌情報
6.1	漫画本編
6.2	その他
7	脚注
7.1	注釈
7.2	出典
8	外部リンク
作品解説
平凡な小学生の少年が天才囲碁棋士の霊に取り憑かれたことで囲碁の世界に巻き込まれ、「神の一手」を目指す姿を描く作品。日本国外でも出版され韓国では『ゴースト囲碁王』、中国では『棋魂』というタイトルである[注 2]。その他、タイ、シンガポール、フランス、アメリカなど、数多くの国、言語で翻訳されている。
少年漫画としては異色の囲碁漫画だったが、話の主軸は少年の成長であり[2]、緻密で繊細な作画と熟考されたストーリーで人気を博した。
以前までは年配の愛好家が主だった囲碁を小学生・中学生を中心に浸透させ、囲碁ブームを引き起こした。中には1989年(平成元年)生まれの関達也二段のように、この作品をきっかけに囲碁を始め、プロ棋士になった者もいる[3]。本作は日本棋院が全面バックアップをしており、作中にも棋院内部や関連施設、イベントなどが登場している。連載開始時に「世界初」と銘打たれるほど囲碁漫画は珍しいジャンルだった。囲碁漫画は地味になりがちなこと、また動きが碁石を置くだけなどで単調になりがちなことから[4]、青年誌を含めても皆無に近く、少年誌での連載はこれが初めてだった。結果的に作品が成功したため、棋院自身も『ヒカルの碁』にちなんだイベントを数多く行った。
また、先述のように日本国外でも翻訳刊行され、少年少女の囲碁ファンを増やす効果を呼んでいる。
本作は二部構成に分かれており、主人公ヒカルと佐為の出会いやアキラとのライバル関係を描いた第一部「佐為編」、その後のヒカルの活躍を描いた第二部「北斗杯編」からなっている。この間に一時中断があり、定期的に「番外編」と銘打たれた30ページほどの読切が6話掲載された。
囲碁については、初心者にもわかる程度の基本ルールの説明にとどまり、対局の進行描写や技術解説のほとんどは省略されていた[5]。しかし、囲碁の専門用語やルールを知らない読者でもストーリーが理解できるように工夫されており、またわからない用語をあえて用いることで、逆に雰囲気を盛り上げる効果も狙っている[6]。また盤面の状態は厳密に考証されており、囲碁を覚えてから読み直すと物語をさらに深く楽しめる、二度おいしい作品となっている[7]。単行本第17巻での海外取材記事の中でも少し触れられているが、プロ棋士にも、日本国内外を問わず愛読者が多い。
棋界の構造についてもおおむね現実に対して忠実に描かれているが、わかりやすさ、描きやすさを重視して改変が加えられている設定も存在する。コミが連載を通して5目半に統一されていること[注 3]、日本・韓国など各国の棋界に自国籍の棋士しか所属していないこと[注 4]などがその一例。
作中に描かれる対局はほぼ全て実在の棋戦の棋譜を元にしており、第22期名人戦リーグや本因坊算砂の三コウ、本因坊秀策の耳赤の一局などが作中で登場している。
また、本作の前身として、『週刊少年ジャンプ』の新人漫画家募集企画「ストーリーキング」第2回ネーム部門の準受賞作「九つの星」がある[注 5]。約100ページにわたるネーム状態の読切作品で、あらすじは連載版とほぼ同じである。作品誕生のきっかけは、原作者のほったゆみが趣味でやっていた囲碁が上手くならず、「囲碁の神様がいてくれたらなぁ」と思ったことだと、単行本第1巻に記載されている。
2009年2月4日から2010年4月30日まで完全版が刊行された(全20巻)。なお、当初は1ヶ月毎に2冊ずつ刊行と告知されていたが、第9巻より1ヶ月1冊となった。
あらすじ
佐為編
主人公・進藤ヒカルは、運動好きで頭を使うことが嫌いなごく普通の小学校6年生。たまたまに祖父の家の倉を物色していた際、古い碁盤に血痕を見つけたヒカルは、その碁盤に宿っていた平安時代の天才棋士・藤原佐為(ふじわらのさい)の霊に取り憑かれる。囲碁のルールも、佐為がかつて憑いていた棋聖・本因坊秀策の強さも知らないヒカルは、「神の一手を極める」という彼の壮大な目標に付き合わされ、彼にせがまれるままに碁を打つことになる。以降、佐為はヒカル以外には姿も見えず会話もできず、物を動かすことすら出来ない存在であることを前提に物語は進む。
囲碁が打ちたいという佐為の要望に応えるためにめぐっていたとある碁会所で、ヒカルは同年代の少年塔矢アキラと出会う。アキラは現在の囲碁界のトップ中のトップである塔矢行洋の一人息子であり、すでにプロ級の腕前を持ち、将来の名人と目される少年であった。そんな相手とは露知らず、佐為の指示通りに石を打って対局した結果、ヒカルはアキラに勝利する。同年代に自分と伍する相手がいるとは思っていなかったアキラはこの敗戦をきっかけに、ヒカルを自分の倒すべき高い目標として追いかけることになる。一方、訳のわからぬままに勝利を収めたヒカルは、アキラの囲碁にかける熱い思いを見て、自分自身がもっと囲碁に対しての理解を深めたいと思うようになる。
他方で塔矢行洋は、息子のアキラを破ったヒカルに密かに注目するようになり、また佐為は現在の最強者であり自分と対等以上に戦える相手である行洋と対局してみたいと願う。
そのようなことがあり、中学に進学したヒカルは部活動として囲碁部を選択し、囲碁の団体戦に出場し勝利することを目標とする。一方でアキラは、自分より格上のヒカルが中学の部活などに参加することが理解できなかったが、ヒカルと対局したい一心で自分もまた中学の囲碁部に参加する。紆余曲折あり、大会でヒカルとアキラの一戦が実現する。当初は佐為の指示通りに打っていたヒカルであったが、自分の意志で打ってみたいという欲望がもたげてきて、対局途中からはヒカル自身がアキラと対局する。当然、素のヒカルとアキラでは勝負にならず、アキラからは「ふざけるな!!」と失望・大喝され、ヒカルの大敗に終わる。しかしその石の運びは、佐為をして「面白い」と言わしめ、ヒカルの才能の煌めきを感じさせるものであった。
ヒカルに失望したアキラは改めてプロの道を邁進し、父の背中を追うことを誓ったが、ヒカルに対しての思いは喉の奥の魚の骨のように引っかかったままであった。ヒカルはアキラに失望されたことを屈辱に思い、いつか自らの力でアキラと対等な勝負がしたいと思うようになる。一方で「囲碁が打ちたい」という佐為の無聊を慰めるための手段としてネット碁を見出して、ハンドルネーム「sai」として佐為を対局させる。ネット碁の世界で「sai」の圧倒的な実力はたちまち知れ渡ることとなり、アマチュア世界選手権の場で大会そっちのけで「sai」の正体探しに参加者が奔走するような事態となる。ヒカルはアキラが「sai」を追い求めてきたことで「sai」騒動を知り、ネット碁を止め、自ら佐為と対局するようになる。
佐為との対局で急速に力をつけたヒカルは、アキラを追いかけるために院生(日本棋院で修行するプロ予備軍)の世界に自ら飛び込む。院生のライバルたちとの切磋琢磨の中でさらに実力をつけ、厳しいプロ試験を潜り抜けて、ヒカルはついにプロ囲碁棋士となる。
ヒカルがプロ棋士となった直後の「新初段シリーズ」(新たにプロとなった棋士とトッププロとのお祭り的な対局)で、ヒカルと行洋が対局することになる。この機会に何とか行洋と対局したいと佐為は願うが、ヒカルは佐為に対局させてやりたいと思いつつも佐為の正体がばれることは困る。妥協案として、佐為の実力が発揮できないよう佐為に大きなハンデを背負わせて対局に臨むが、当然佐為の敗北に終わる。行洋はヒカルと佐為の事情はまったく知らないものの、佐為の実力は見抜き、「次は互先で」と述べる。佐為もまた行洋と対等に戦える日を待ち望む。
ヒカルのプロ棋士としての公式戦第一局は奇しくもアキラ相手であったが、その対局直前に行洋が心臓の病で倒れ、対局はアキラの不戦敗となる。行洋の見舞いに行ったヒカルは、行洋がネット碁をすることを知り、ネットの上でなら佐為(sai)を行洋と互先で対局させられることを知る。いよいよ始まった佐為と行洋の頂上決戦、一進一退の熱戦となるが、中盤の佐為(sai)の妙手で佐為の勝利となる。強敵に打ち勝った佐為は満足げな表情を見せるが、局後の検討でヒカルに指摘された手が自らの構想を上回っていることを認識し、「亡霊として1000年存在してきたのは『この一局をヒカルに見せるためだった』」と悟り、自らの成仏の時が近いことを悟る。そのような佐為の事情は露知らずのヒカル、佐為と行洋の一局を観戦したことで実力が上がったことを自覚したヒカルは好成績を収めていた。
そして5月5日、こどもの日。佐為は自らの役目が終わったことを悟って、陽光の中に消えていく。
佐為が消えてしまったことを理解できないヒカル。必死に佐為を追い求めて佐為のかつての宿主であった本因坊秀策の故郷因島まで赴くものの、そこにも佐為の姿はない。東京に戻り、秀策すなわち佐為が打った棋譜を見返すヒカル。それにより佐為がどれだけの天才棋士であったかを初めて理解し、神に対して佐為を戻してと頼むが、当然誰も答えるものはいない。
佐為が消えてしまったショックでヒカルはプロ棋士としての活動を停止し、誰とも囲碁を打たない日々が続く。そうしていればいつか佐為が帰ってくるのではないかと思って。その状況を打破したのは、院生時代の同窓生でライバルあった伊角だった。伊角はプロ試験でのヒカルとの対局での、反則負けという苦い記憶を振り払うためにヒカルと対局する。当初は気の進まないヒカルであったが、対局が進むうちに囲碁の楽しさを思い出し、対局に没頭するようになる。
そして対局のうち自分の打った一手が、かつて佐為の打っていた手であることにヒカルは気が付く。佐為は既に現世のどこにも存在していない。しかし唯一、自分が佐為から受け継いだ囲碁の中にだけ、佐為が生きていることをヒカルは悟ったのである。
伊角との対局を終え、ヒカルは終生のライバルと見定めたアキラを追って再び棋士として立ち上がる。そのアキラとの初対局、互いに譲らぬ大熱戦の最中、アキラはヒカルの中にもう一人いるそれが「sai」(佐為)だと看破する。それまで自分しか知ることがなかった佐為の存在をアキラに知覚されたことを、ヒカルは非常にうれしく思う。
アキラとの対局が終わった夜、ヒカルは夢の中で佐為と出会う。佐為は最後にヒカルに扇子を託し、光の中に消えていく。
北斗杯編
[icon]	この節の加筆が望まれています。 (2015年5月)
18歳以下の国際戦であり、日本・中国・韓国対抗で3対3での団体戦である北斗杯が開かれることになり、アキラはシードとして一足先に選手に選出される。そして代表選出のための予選にヒカルは出場する。ヒカルと関西棋院出身の社清春が日本代表となる。
日中韓の棋士が普段から入り混じって棋戦を争う実在の囲碁界と違い、各国が独自の大型タイトルを設定していて、北斗杯のような国際試合は貴重という設定である。中国、韓国の新進気鋭の棋士たちが新たなライバルとなり、ヒカル、アキラ、清春の前に立ちはだかる。
登場人物
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主要人物
進藤ヒカル(しんどう ヒカル)
声 - 川上とも子
日本棋院所属。初段。1986年9月20日生まれ、O型。身長155cm(プロ試験合格時)。好きな食べ物は、ラーメン。
本作の主人公。性格は、やんちゃで無鉄砲なトラブルメーカー。連載開始時は丸顔だったが、成長するごとにシャープな顔つきになっていった。作中で「5」や「GO」の文字が入った数多くの服を着ていた。勉強が大の苦手で、小学生時代に社会科のテストで低い点数を取るほどである。囲碁界の常識については無知であり、プロのタイトルも知ろうとしないなど、周りを呆れさせることも多い。
小学6年の冬に祖父の蔵で見つけた古い碁盤に宿っていた佐為に取り憑かれる。最初の頃は、佐為に言われるがままに仕方なく碁を打っていたが、アキラとの出会いや中学囲碁部への参加などで囲碁の楽しさに目覚め、以降は佐為を師として自らの手で打つようになっていく。当初は嗜み程度で満足していたがアキラに刺激され奮起、プロを目指すため院生になり、自身の素質や佐為の指導によって著しく棋力を伸ばす。また、憑いた佐為により、早い段階から類い稀なる棋力を見せていたため、塔矢名人や緒方、桑原などのトップ棋士から注目されるようになる。
通算24勝3敗でプロ試験に次席で合格し、院生入りして1年で入段。しかし、その直後に佐為が消え、彼に自由に碁を打たせなかったことから自責の念が生まれ、一時的に碁から離れたが、家に訪ねてきた伊角との対局で立ち直った。その後はさらなる成長を重ね、塔矢アキラとの直接対決では彼に「生涯のライバル」と認めさせている。夢の中で一度だけ再会した佐為から扇子を渡された。その後、売店で扇子を購入し愛用している(森下九段からは「ただの扇子ではない」と見抜かれている)。
佐為が消えた後は彼(本因坊秀策)へのこだわりが強くなり、後に北斗杯の代表を勝ちとった後、ヒカルを挑発するために秀策を侮辱した発言をした高永夏への敵愾心から、周囲からの評価では格上である彼と互角に渡り合い、半目差で敗北したもののその名を知らしめる。また、北斗杯での対局を通じ、ついにアキラと並ぶ棋士へと成長する。そして最後は、若獅子戦でアキラへ勝利する事を予感させつつ物語は終了する。
小畑健が書いた10年後の予想図では、アキラと比べそれほど容姿に変化はない。
藤原佐為(ふじわらの さい)
声 - 千葉進歩
身長、体重、生年月日、血液型、年齢、血縁関係といった素性のほとんどが不明。ガマガエルが大の苦手。
平安時代の天才棋士の亡霊で、本作におけるもう1人の主人公。
かつては内裏で天皇の囲碁指南役として活躍していたが、指南役仲間だった菅原顕忠(すがわらの あきただ)の勝負で謀略に嵌められ都を追放、その二日後に失意のうちに入水自殺してしまった。その後、江戸時代に本因坊秀策に憑依し、作中では本因坊秀策の対局の実績は全て彼によるものという設定になっている。しかし、秀策が流行り病で34歳の若さで夭逝してしまい、悲しみのうちに佐為は盤面の秀策の血を媒介にして碁盤へ宿り、およそ140年の時を経てヒカルと巡り会った。
平安貴族らしくたおやかな性格で、喜怒哀楽を惜しげもなく表現する子供っぽい一面も持つ[注 6]が、囲碁となると鬼神のごとき強さを発揮する。ただ自身が霊体のため、物を持つことも話しかけることもできず、媒体となるヒカルを通してでないと周囲との接触も碁を打つこともできず、自分の存在を知らしめることは不可能である。そのためヒカルを介して対局したり、ネット上でハンドルネーム「sai」を名乗ってネット碁を打ったりしていた。その棋力から、ネット碁を行う世界中のアマ棋士の間で正体を探られる程に認知されることとなる。当初は「神の一手」を極めるために現世に固執していたが、ヒカルの成長を見守るうちに段々保護者のような存在になっていった。また、現代碁を学ぶ中で自身の棋力も上がったという。現代では、塔矢行洋を「あの者」と呼んでライバル視しており、どうにかして対局したいと機会を窺っていた。しかし行洋との対局という宿願が果たされた後、ヒカルの思いがけない一言で佐為は自分が魂魄として生き永らえた時の意味を悟ると同時に急激な魂の寿命の磨耗を感じ取った。やがて5月5日の麗かな春の陽光の中、ヒカルと最期の対局をし、囲碁界の行く末を祈りながら静かに成仏した。後にヒカルの夢に現れた時にヒカルに扇子を手渡した。
女性と見紛う美しい容姿と穏やかな性格だが、男性である[注 7]。大阪出身[要出典]。
塔矢アキラ(とうや アキラ)
声 - 小林沙苗
日本棋院所属。塔矢行洋名人門下。三段。1986年12月14日生まれ、AB型。身長は164cm(ヒカルのプロ試験合格時)。
ヒカルと同い年の天才少年棋士。父に名人の塔矢行洋を持ち、2歳の頃から直々に囲碁の教育を受けてきたエリート中のエリート。誰よりも囲碁を心から愛している。院生ではないが、アマチュアの囲碁大会に出ることは他の子の芽を摘みかねないとして父親から認められていないため、実績はない。小学六年生の頃には名人に3子で毎日打っていて、囲碁教室では1番の成績を収める、小学生アマ全国優勝した少年に当然のように勝つ、唯一参加したアマの中学囲碁大会団体戦では3試合全勝するなど棋力は確かである。筒井の話によると「院生すらぬるい」とのこと。同じ年頃のライバルの不在に漠然とした不満を持っていた頃にヒカル(佐為)に敗れ、ヒカルを猛烈にライバル視して追いかける。おかっぱ頭がトレードマーク。碁を侮辱されたり、ヒカルを意識したりすると周りが見えなくなり、他人に対して無礼な行動を取ってしまうことがある。
同年代とは別次元の強さを誇ることから、海王中囲碁部では先輩部員から反感を持たれたり嫌がらせをされたりしたこともある。中学囲碁部の大会では顧問から大将(一番の実力者が務める位置)に指名されていたがヒカルと対局するために、大会後の退部を条件に三将として出場した。中学囲碁部の大会での対局でヒカルの棋力の低さに失望し、その後彼に二度と会わないと決心する。
そしてプロ試験に合格する(予選は3勝無敗で通り、本戦では初戦不戦敗後、伊角や和谷に勝利、同期の辻岡に中押し勝ち、真柴に4目半勝ちし、1敗のまま首席で合格する)が、目標が無くなり消沈する彼を見かねた緒方の計らいで、院生となったヒカルと再会。ヒカルに眼中が無いという態度を装いつつも内心では強く意識するようになり、特にプロ試験本選で勝ち星積み重ねるようになってからその様子は顕著になり、ヒカルと秀英の棋譜を見た後は彼をしっかり評価し直し、自身の息が掛かった越智との戦いでヒカルが勝利したことを知ると、ヒカルの力は自分でしか測れないと確信する。
ヒカルが囲碁から離れた時には苛立ちを募らせ、「決して顔を合わせない」という不文律を破って学校にまで押しかけ、彼の説得にかかった。ヒカルが復帰した際には「追ってこい!」と力強く後押しした。
第一部のラストで、名人戦1次予選において2年4ヶ月振りにヒカルと対局。その真の実力を認め、勝利したものの彼を生涯のライバルと確信するとともに、彼の打ち筋の中に見え隠れするsai(=佐為)の姿に気付く。saiと「出会った頃の進藤ヒカル」が同一人物であることを作中でただ一人看破し、かなり真相に近いところまで佐為の正体に迫るに至った。
第二部では囲碁サロンでヒカルと頻繁に対局するようになっているが、小学生並みの口喧嘩ばかりしている。しかし忌憚なく素直な気持ちで話し、ヒカルのいない所でヒカルを貶す発言を聞くと窘めてもいる所から、ヒカルを一人の友としても、共に棋道を極める仲間としても信頼していることが窺える。
後に北斗杯の代表メンバーに選ばれ(しかもシード枠)、これからの国際戦を見据えて、北斗杯編の頃から中国語と韓国語を勉強し始めた。当初は2つの言語を同時に習っていたため混乱していたらしいが、終盤では洪秀英などと通訳無しで会話できるほどに上達する。
10年後の予想図では、次作のDEATH NOTEに登場する奈南川零司似のロングヘアーの風貌となっている。
塔矢行洋(とうや こうよう)
声 - 津田英三
元日本棋院所属。九段。7月29日生まれ、B型。身長178cm。
アキラの父で、囲碁界の頂点に君臨する棋士。名人をはじめとする多くのタイトルを持ち、一時は五冠(名人・十段・碁聖・天元・王座)を持っていた(引退時は四冠)。神の一手に一番近い人物と言われ、佐為に並々ならぬライバル心を向けられている。棋士業の他に碁会所の経営も行っている。アキラに勝ったヒカルに非常に強い関心を寄せていて、いつも多忙で断っていた新初段シリーズにヒカルを指名して参加する。その際はヒカル(佐為)が自らハンデを背負っていたこともあって中押し勝ちするが、佐為の気迫を感じとり、ヒカルの評価を下げずに次は互先で打つことを約束した。
緒方との十段防衛戦のシーズン中、ヒカルがアキラと対局するはずだった大手合の日に心筋梗塞で入院。大事には至らなかったがその際に緒方に勧められ、手慰みでネット碁を打つようになる。それを知ったヒカルに、「sai」と対局するよう頼まれる。最初は正体を隠している「sai」を胡散臭い輩と思いつつも十段戦の気休め感覚で打つことを承諾したが、ヒカルが「行洋が負けるかもしれない」と思っていることを悟り、「負けたら引退、勝ったら「sai」の正体を明かす」という条件で本気で打つことを決める。そして一進一退の攻防を繰り広げたが、自身の半目負けを確信し投了。対局の最中に新初段シリーズの時と同じ空気を感じたことからヒカルが「sai」であると疑ったが、深くは追求せず、ヒカルにもう一度「sai」と打たせてもらうよう嘆願した。この時行洋は引退を引き留めようとしたヒカルに「プロでなくとも、この身があれば本気の碁が打てる」と諭し、十段戦後に宣言通り引退する。引退後は後進の育成と新人の発掘のため各国を飛び回っているが強さは衰えを見せることがなく、新しい自分の碁を打つようになった。現在は最善の一手の追求を目標とし、自分の碁の新たな可能性を示してくれた「ある相手(sai)」との再対局を望んでいる。息子のアキラが通う海王中学の校長は、塔矢行洋の海王中学時代の担任教師。
日本のプロ棋士
登場当時は院生等であっても後にプロとなった者はこちらに含まれる。
緒方精次(おがた せいじ)
声 - 藤原啓治
日本棋院所属。塔矢行洋名人門下。九段。1月17日生まれ、A型。身長180cm。
アキラの兄弟子で、タイトルホルダー最有力候補と目されている若手棋士。芦原や倉田よりもやや上の世代だと思われ、アキラとは年が一回り近く離れている。
初心者時代のヒカルを知る数少ない関係者の一人で、親しく付き合っていた訳ではないにもかかわらず、一旦門前払いされたヒカルを院生試験に推薦したり、塔矢門下の研究会に誘ったりしている。ネット碁の心得もあり、「sai」には勝負師として大いに関心を持っている。行洋とヒカルの病院での会話を偶然聞いたことから、ヒカルが「sai」と関係があるのではないかと疑い、ヒカルに「俺にも打たせろ」とたびたび迫っている。後に酒の入った状態ではあったが佐為との対局が実現し、ヒカルを除いた彼の最期の対局相手となる。
若手棋士の中で行洋に最も近い存在で、後に彼から十段を奪取。その後も空位となった碁聖を獲得し、名実ともにトップ棋士の仲間入りを果たす。
一見、クールで落ち着きのある性格をしているが、実際は非常な野心家。また、激情型で挑発に乗りやすい部分もあり、その性格を逆手に取られて本因坊戦で苦汁をなめる結果に終わっている。だが、タイトルを取るにつれて徐々に貫禄をつけていき、物語中盤以降は桑原の挑発も涼しい顔で受け流すようになった。前述の一件もあり、桑原のことはあまり快く思っておらず、たまに正面から「ジジイ」と呼ぶ。その後、アキラや座間を退け本因坊リーグを突破し、再び桑原と対決する。
愛煙家で、銘柄はLARKを好む。美人の彼女がいるが、囲碁には興味がないらしい。愛車はRX-7。
名前は、内田康夫の『本因坊殺人事件』の登場人物に由来する。
和谷義高(わや よしたか)
声 - 高木礼子
日本棋院所属。森下茂雄九段門下。二段。1985年8月12日生まれ、O型。身長168cm(プロ試験合格時)。
ヒカルの院生仲間で、1つ上の兄貴分。ヒカルが院生に入りたての時は1組6位の成績だった。また、3度目のプロ試験では予選からだったが、4度目では本戦からの参加で、越智からも伊角、本田と並ぶプロ試験の要注意人物として見られている。後輩思いの素直で優しい性格で、「打倒塔矢」発言をしたヒカルを小馬鹿にしながらも、彼を森下の研究会に誘ったり、プロ試験対策と称して碁会所に連れて行ったりと、ヒカルのことを常に気にかけている。ヒカルと共に棋力向上の特訓をするも院生仲間の飯島に責められる。偽者のsaiをネット上で発見して憤慨したり、伊角を小馬鹿にする真柴に掴みかかったりと気性が激しい一面も見せる。プロ試験では伊角や越智同様、6戦全勝を続けていたが足立に敗れ連勝がとまる。その後、越智(2目半差)、ヒカル(中押し)に敗北するも、相性が悪かった福井に最終戦で勝利したことで24勝3敗で次席の合格。ヒカルと同期のプロ試験合格者。ネット碁編のキーパーソンでもある。ハンドルネームは「zelda」。saiの事がかなり気になっており、ヒカルのことをsaiの弟子などと言ったりと、勘の鋭さを見せている。伊角とは仲が良く、他にも誰とでも仲良くできるムードメーカー。北斗杯編では、急激に伸び始めたヒカルの力を内心恐れるようになる。後に、自分の部屋で行っている研究会でリーグ戦を行いヒカルや伊角・本田らを誘っている。同時に越智をその研究会に誘うなど彼を自らのライバルとして認めるようになっていく。北斗杯予選では、ヒカルや社と当らないことに内心有難いと思っていたが、代表を決する対局で越智に敗れ、更に越智が社との対局を望み高いプライドを示したことで、自身のプライドと向上心の低さを痛感する。その後、開会式の当日出逢った揚海に中国棋院へ修行に行く約束をし、自身を高めることを誓う。
伊角慎一郎(いすみ しんいちろう)
声 - 鈴村健一
日本棋院所属。成澤九段門下。九星会出身。新初段。1982年4月18日生まれ、A型。身長176cm。
ヒカルより4つ上。院生1位の成績を誇り、周囲から期待の新星と言われながらも、精神面の脆さから何度もプロ試験を落ち続け、ヒカルが院生になった年に院生でいられる最後の年を迎えた崖っぷちの最年長の院生。温和で誠実な気質で年長のため、皆からも碁以外でもいろいろと頼りにされている(まちがえて買ったブラックコーヒーを代わりに飲んでもらうように頼まれたり、後輩にお寿司をご馳走する等)。プロ試験本戦では、外来の椿や、院生の小宮に勝利し、6戦全勝の一人として挙げられる。第11戦で、1敗のヒカルと対局するも、ヒカルを警戒するあまりハガシをしてしまい、進藤に指摘される前に優勢であったにも関わらず投了する。その敗北で調子を崩してしまい和谷、福井に痛恨の連敗を喫する。だが越智の挑発に対する対抗心で自身を取り戻し彼に勝ち連勝を続ける。その後は本田戦のみ落とし、23勝4敗。2敗の越智、3敗のヒカルと和谷がいるため、プレーオフなく4位の成績でプロ試験不合格となる。一時期消息不明になっていたが、中国棋院での楊海による武者修行で唯一の欠点だった精神面を克服。楽平と互角に打ち合っていた棋力も、のちに北斗杯代表になる趙石にもほぼ互角に渡れるほど上がった。秘めていた才能の開花に伴い、翌年のプロ試験に全勝でトップ合格。新初段シリーズでは桑原本因坊と対局し、彼の精神攻撃に屈せず6目半差で勝利し、桑原自身も伊角の実力を認めている。佐為と別れたショックで目的を失っていたヒカルを立ち直らせる原動力となる。北斗杯編では、楽平にそっくりな和谷を楊海に会わせるのを楽しみにしていた。18歳以下限定の大会の北斗杯に、既に満19歳だったのに自らも出ようとしていたりと、少し抜けている一面もある。和谷の研究会に誘われ、その時、門脇にも声を掛けた事で彼を研究会に招いた。北斗杯後の若獅子戦では、アキラ、ヒカル以外の優勝候補として挙げられている(篠田院生師範の言葉より)。ジャンプ誌上で行われた読者の人気投票では、2位以下に約7500票近い大差をつけ1位となった(獲得票数11366票)。
越智康介(おち こうすけ)
声 - 松岡洋子
日本棋院所属。二段。1987年11月2日生まれ、A型。
ヒカルの1つ下の同期で、彼より3ヶ月早く院生になる。実業家で囲碁好きの祖父の傍らで育ち、自邸にプロを呼んで指導碁を受けるといった非常に恵まれた環境で育つ。自分に厳しく、対局に負けるとトイレにこもり検討をする癖がある(はじめに気づいたのは本田)。院生時代では伊角が一番のライバルで、祖父もそのことを知っている。伊角からは「(勝ち負けの数は)五分ってところ」、「力は認めても敵わないと思ったことはない」と思われている。自尊心が高くやや無作法なところもあるが、自分より強いと思う者には敬意を払う性格。院生1組3位の頃に、院生2組25位のヒカルと出会う。プロ試験の目標は「全勝のトップ合格」だったが、後に「打倒進藤」へとより高い目標へ変わる。そのため、25勝2敗でトップ合格しているも、伊角や特にヒカルに負けたときは悔しさを隠し切れなかった。院生時代の若獅子戦で2回戦を勝った事があり、ハンデをつけてもらえる新初段シリーズでも勝利をした。北斗杯予選では代表に選ばれたものの、実力者の社と当たらずに組み合わせの運で勝ち上がってしまった事に不満を感じ、プライドのため、代表の座を賭けて社に再戦を申し込み敗北。代表決定戦後に和谷の研究会に誘われる。眼鏡をかけていて、キノコのような髪型をしているので、作中で「メガネキノコ」と呼ばれた事がある。
桑原仁(くわばら ?)
声 - 納谷六朗
日本棋院所属。九段。
本因坊のタイトルホルダーで、連続防衛記録を保持している。
飄々とした陽気な好々爺だが思慮深い性格で、傍観者でただ一人、対局者であった行洋と同様に、新初段シリーズにおけるヒカル打ち回しの真意を見抜いた。
盤外戦(精神戦)に長けた老獪な勝負師であり、作中で緒方や倉田ら若手トップ棋士の挑戦を退けた。また、ヒカルに「ただならぬ気配(佐為)」を感じた不可思議な人物でもある(本人曰く「シックスセンス」)。
若手の台頭を喜びながらも、自身がその壁となることを決めている。また、主だったトップ棋士の中で唯一、ヒカルとアキラの両名と対局する描写がない。
姓は本因坊秀策の元姓に由来する。下の名前は明確ではないが、単行本8巻で色紙に書いたサインによると、漢字で「仁」と書く様子(読み方は、そのまま「じん」や「ひとし」が考えられるが、正確には不明)。
座間(ざま)
声 - 石住昭彦
日本棋院所属。九段。
王座のタイトルホルダー。真剣に思考すると扇子をかじる癖がある。
新初段シリーズの際、当初はアキラに華を持たせて負けるつもりであったが、彼の物怖じしない態度が気に入らなかったため予定を変更。アキラも健闘したが、最終的に座間が貫禄の違いを見せつけて勝利する。その後、本因坊リーグでも対局し、再び勝利を収めている。また、同リーグ内で挑戦者の権利を最後まで緒方と争い続けた。
一時、王座のタイトルを行洋に奪われて無冠になるが、後年奪取する。
上記の通り、作中では相当な実力者として描かれており、アキラに複数勝利した唯一の棋士でもある。小畑健お気に入りのキャラの一人である。
一柳(いちりゅう)
声 - 楠見尚己
日本棋院所属。九段。
当初は棋聖のタイトルホルダーだったが、防衛に失敗して無冠になる。禿げ頭と落語家のような饒舌な口調が特徴。
実はハンドルネーム「ichiryu」でネット碁も打っており、入院中の塔矢行洋を偽物と思って挑んだこともある。普段は気さくで優しい性格だが、アキラに本因坊リーグで敗れた際に露骨なまでに悔しがるなど、少し大人気ない一面もある。
畑中(はたなか)
関西棋院所属。九段。
桑原からは若造と呼ばれているが、 緒方・倉田に並ぶ次世代トップ棋士候補の一人。痩せ型でメガネをかけている。塔矢行洋引退によって空位となった名人位を一柳と争い、勝ち取った。
倉田厚(くらた あつし)
声 - 岩田光央
日本棋院所属。七段(当初は四段)。
緒方と並ぶ次世代タイトルホルダーの筆頭候補である若手棋士。芦原と同い年でヒカルより7歳年上。
ビッグマウスだが決して自信過剰なわけではなく、実力も伴っており、アキラやヒカルを退けている。大食漢の肥満体で、自己顕示欲が強くデリカシーゼロだが、どこか憎めない愛嬌がある。
囲碁を始めて2年でプロになったというヒカルの前例で[8]、中学生時代には競馬の1着を当てることに熱中していた。その後、碁に興味を持ちプロ棋士になる。競馬・囲碁ともに非凡な勝負勘の持ち主。上に立つ者よりもアキラやヒカルのような下から来る者こそが脅威だと語っている。不調時に国際手合で安太善に敗れ、その際に彼に失礼な発言を受けたと感じたことから強いライバル心を向けていて、北斗杯で安太善が韓国の団長になったと知るや否や、無理やり日本選手団の団長となった。そして韓国戦では非難を承知でヒカルを敢えて高永夏と対戦させてヒカルの成長を促す。
芹澤(せりざわ)
日本棋院所属。九段。
本因坊リーグ戦で塔矢アキラと対局、勝利する。のちに北斗杯でのヒカルの健闘を知り、自身の研究会に誘う。
芦原弘幸(あしわら ひろゆき)
声 - 小西克幸
日本棋院所属。塔矢行洋門下。四段。
アキラの兄弟子で、倉田と同い年の若手棋士(アキラを除けば最年少[9])で、ヒカルやアキラより7歳年上[10]。四段。アキラとはライバルというより友達の関係。明るく能天気な性格で、塔矢門下ではムードメーカー的存在である。森下の言いつけで自分をライバル視している冴木のことはあまり意識していない。プロ試験に合格したばかりのアキラには3回に1回は負けているらしい。
笹木(ささき)
日本棋院所属。塔矢行洋門下。段位不明(少なくとも芦原より上の模様)。
本因坊秀策が現代に甦ったら塔矢名人とどちらが上か、芦原と噂していた。
冴木光二(さえき こうじ)
声 - 清水敏孝
日本棋院所属。森下茂雄九段門下。四段。
和谷の兄弟子。芦原よりも少し年下で、ヒカルより5歳ほど年上。森下の塔矢門下に対する対抗心から芦原をライバルにされ、半ば強迫観念で彼を意識している(塔矢門下はそのように思っていない)。ヒカルが中学2年生の時の若獅子戦に参加していたため、若獅子戦の結果は不明だが、優勝していない。復帰したヒカルと対局し力負けした。
真柴充(ましば みつる)
声 - 吉野裕行
日本棋院所属。溝口九段門下。二段。
元院生でアキラの同期だが、嫌味な性格で院生達(特に和谷と奈瀬)から嫌われている。その一方で小心者でもある。プロ試験ではアキラに4目半差で負け、伊角にも負けたがリズムに乗って3位で合格した。若獅子戦で伊角と対局、彼を挑発するもあっけなく敗れる、負け惜しみで伊角を馬鹿にしたことで激高した和谷に殴られそうになった。伊角の棋力が高いことは公に認めており、レベルの高い棋士が次々に出てくる事に、自分の棋力の低さも手伝って内心焦っている。伊角と同い年だが、彼には「さん」をつけて主に敬語で話す。溝口九段門下。新初段シリーズでは桑原本因坊に気後れして敗れた。
ゲーム『ヒカルの碁2』では奈瀬との対立が目立った。
森下茂男(もりした しげお)
声 - 北川勝博
日本棋院所属。九段。
ヒカルが通う森下研究会の主宰者であり、ヒカルとは第二部で一度対局。塔矢行洋とは同期で、「(冴木に対して)芦原より先に五段になれ!」「(ヒカル、和谷に対して)塔矢アキラを何とかせいっ!!」と無理やり発破をかけるなど、何かと塔矢門下を一方的にライバル視している。自身もタイトル戦の挑戦者となった経験を持つ実力者である。長男・一雄と長女・しげ子(声:町井美紀)を棋士にしようとしていたが、2人とも囲碁の才がない上(本人曰く「棋士の子供なのにヘボ碁しか打てない」)囲碁に関心がないため、諦めている。ヒカルが碁を離れたときには彼に怒りを見せていたが、復帰した後は彼の才能と碁に対する姿勢を高く評価し、自分もやられかねないほどの実力と評している。その後本因坊戦二次予選でヒカルと対局、対局におけるベテラン棋士の力を見せつけて勝利する。名前の由来は長嶋茂雄から。
白川道夫(しらかわ みちお)
声 - 遊佐浩二
日本棋院所属。森下茂雄九段門下。七段。
囲碁のいの字も知らなかったヒカルが初めて訪れた初心者囲碁教室の講師だったプロ棋士。温厚な性格。1年後、院生になったヒカルと再会し、その成長の早さに驚く。モデルについては諸説ある[注 8]。7月3日生まれ。
都築(つづき)
日本棋院所属。森下茂雄九段門下。七段。
森下九段の研究会に通う棋士の中では最年長。上に進めないことで悩むヒカルに「伸びる時は伸びる」と励ました。
柿本(かきもと)
声 - 水野龍司
プロ棋士。全国こども囲碁大会でヒカルを叱るも、その才能に驚く。その後プロ試験にて篠田師範の代理として登場、塔矢名人ほか多数の棋士がヒカルに期待していると語った。
桜野千恵子(さくらの ちえこ)
声 - 湯屋敦子
日本棋院所属。成澤九段門下。女流二段。九星会出身。
伊角の姉貴分。年齢は、推定20代半ば〜後半で、肩にかかる程度のクセのある髪と、濃い化粧が特徴。日本棋院足立支部主催ふれあい囲碁まつりに欠席したところで初めて名前が登場した。実際の登場は伊角の中国修行編にて同行者としてが最初。
師匠の成澤(体調不良で引退した棋士)同様伊角を高く買っており、手合いでも幾度となく伊角に負けている。中国棋院に行った帰りでは、観光より買い物を優先しようとした。和谷とも面識がある。
篠田(しのだ)
声 - 坂東尚樹
日本棋院所属。
院生師範を務める入段して30年になるベテラン棋士。礼儀作法には厳しいが普段は温厚な性格で、プロ試験に臨む人々を温かく見守る。院生たちからは「先生」と呼ばれている。
村上信一(むらかみ しんいち)
声 - くわはら利晃
日本棋院所属。塔矢名人門下。二段。
棋力に関しては、佐為曰く「序盤の棋力は院生とさほど変わらない」とのこと。若獅子戦1回戦のヒカルの対局相手で、中盤で悪手を好手に化けさせた彼の打ち回しに驚愕するも、ヨセで先手を取って勝ちを収める。その後、ヒカルについてしつこく聞くアキラに憤慨するが、2回戦でアキラに苦もなくひねられる。その後、大手合にて佐為の成仏から立ち直ったヒカルと対局。攻め立てるはずが手をかけすぎて差が広がり戦意喪失し投了した。
門脇龍彦(かどわき たつひこ)
声 - 高瀬右光
日本棋院所属。新初段。
アマチュア界では知る人ぞ知る実力者で、学生タイトルをすべて取った実績を持つ天才棋士。軽く受かると思ってプロ試験を受けようとしたが、肩慣らしのつもりで対局した院生時代のヒカルに完膚なきまでに叩きのめされ、自分の甘さを実感し受験を諦める(ただし、実際には佐為が対局しており、ヒカル自身も「つえーよこの人」と驚愕している)。1年の修練の後にプロ試験に望み、本選では伊角の1敗以外は全勝して合格する(伊角、本田と同期)。
その後、偶然再会したヒカルと対局。再び敗北するも、昔の方が強かったという感想をもらしたが、それに納得しているヒカルに困惑していた。伊角に誘われ和谷の研究会に参加する事になる。
本田敏則(ほんだ としのり)
声 - 櫻井孝宏
日本棋院所属。船村門下。新初段。
ヒカルの3つ上の院生仲間、唇が厚い。ヒカルや伊角の陰に隠れているが、実際は相当の実力を持っており、越智や伊角に勝利したり、若獅子戦で2回戦を勝ちあがったこともある。ヒカルが合格した年のプロ試験では進藤や伊角に勝つも、和谷、越智、椿、奈瀬に負けて18勝4敗でプロ入りの目が残っていたが、第26戦で片桐に負けて試験落ちが確定(最終結果は21勝6敗)。翌年のプロ試験では伊角、門脇に負けるも6敗で合格する(伊角、門脇と同期)。プロ試験後も度々登場し、プロの世界を「一生身を置く世界」であるとしている。
御器曽(ごきそ)
声 - 廣田行生
日本棋院所属。七段。
株で失敗した損失を補填するため、囲碁フェスティバルに碁盤の材質を偽って売る悪徳業者を参入させ、さらには自ら碁盤に書いた「本因坊秀策」の署名を秀策自筆のものであるとして佐為を激怒させた。ヒカルの言葉で碁盤の購入をためらった客との指導碁においては、一方的に相手をいたぶる酷い碁を見せ、佐為だけではなくヒカルの怒りも買う。その後ヒカルが引き継いで打ち、怒りに燃える佐為に逆転負けを喫する。
その後、プロとしてのキャリアをスタートさせたヒカルと再戦し負ける。本人曰く「華麗な打ち回し」で中盤までは気持ちよく打てていたようだが、最終的には地に走りすぎたことが敗因となった。「下の連中に踏みつけられていくのは慣れっこ」と語っているが、それでも「初段」に負けたことはかなりショックだったようである。
岩崎(いわさき)
日本棋院所属。七段。
越智家へ出張指導碁に赴き、康介に指導を行う。教え方が上手だと評価を受けた。
萩原昌彦(はぎわら まさひこ)
日本棋院所属。九段。
かつて本因坊リーグに在籍していたほどの実力者。同リーグに7年ぶりとなる復帰のかかった一局で、塔矢アキラに敗れる。リーグ入りしたアキラを「さすがは塔矢先生の息子」と言った若い棋士に「さすがは塔矢アキラ、だ。塔矢先生は関係ない」とたしなめ、アキラのことを一人の棋士として認めた。
乃木(のぎ)
日本棋院所属。九段。
塔矢行洋引退によって空位となった碁聖タイトルを緒方九段と争い、敗れた。10年前に名人位3連覇を果たしたほどの実力者。のちに天元のタイトルを奪取する。
中山(なかやま)
日本棋院所属。段位不明。
2年前まで院生だった。第9回若獅子杯1回戦で和谷と対戦、勝利。しかし和谷の成長も見てとり、激励する。のちに和谷の部屋での研究会にも参加する。
辻岡忠男(つじおか ただお)
声 - 斉藤瑞樹
日本棋院所属。二段。
アキラと真柴の同期。アキラの新初段シリーズを観戦した一人。佐為成仏の傷心から復帰したヒカルを見て、アキラがライバルと目しているヒカルと打ちたかったと語る。その後のヒカルとの対局で一方的な展開にされ、中押し負けを喫した。
石原(いしはら)
日本棋院中部総本部所属、段位不明。
塔矢アキラと対戦し、中押し負け。その圧倒的な力量差に「一生勉強してもあいつ(塔矢)には勝てない」と漏らした。
西川恵美(にしかわ えみ)
日本棋院三段、女流棋士。
囲碁ゼミナールで解説の聞き役を担当。ショートカットでメガネをかけており、緒方九段の対戦相手である春木初段を「良子ちゃん」と呼んでいた。
春木良子(はるき りょうこ)
日本棋院初段、女流棋士。
囲碁ゼミナールで緒方九段と公開早碁で対局。力技で相手をねじ伏せる棋風。
社清春(やしろ きよはる)
声 - 石塚堅
関西棋院所属。吉川八段門下。新初段。
ヒカルやアキラと同い年。東京生まれの大阪育ちで関西弁を使う。初手天元、五の五など奇手をよく使うが、倉田にその手を使うにはまだ実力不足であることを指摘された。ヒカル、アキラと同じ北斗杯の日本代表。北斗杯では、慣れないカメラに緊張していたが、代表になるきっかけを作った越智に会う事で冷静さを取り戻し、対局に臨む。結果は全敗だったが、非常にレベルが高いと評価された。父親がプロ碁界に否定的なため高校を卒業することを条件にプロ活動をしており、いつか彼に自分を認めさせることを目標としている。
吉川(よしかわ)
関西棋院所属。八段。
社の師匠。本田の師匠の船村と交流があり、その縁で社を紹介した。その後、北斗杯会場で社の父と出会い、彼に囲碁界の将来の危うさを指摘され、反論できずに気を落としてしまうが、北斗杯の盛況ぶりや、ヒカルやアキラのような若く立派な棋士が育っていることで不安を払拭した。
渡辺(わたなべ)
声 - 石波義人
日本棋院所属。八段。
北斗杯日本チーム予選から立ち会う。北斗杯の事を「才能のむき出しの戦い」であるとし、非常に期待している。黒縁メガネ、太い眉、厚い唇が特徴的。
北斗杯本戦でも大盤解説役となり、倉田に引きずられる形でヒカルの応援に近い解説を行った。
船村(ふなむら)
日本棋院所属。段位不明。
本田の師匠。吉川と交流があり、その縁で社と本田を対局させた。社に負けた本田に「棋士は一生勉強だ」と諭した。
松永利之(まつなが としゆき)
日本棋院所属。六段。
王座戦二次予選二回戦で塔矢アキラに敗れる。
上前津宏(かみまえづ ひろし)
日本棋院所属。七段。
天元戦二次予選一回戦で塔矢アキラに敗れる。
川崎(かわさき)
声 - 川村拓央
日本棋院所属。三段。
本因坊戦一次予選でヒカルと対局、敗北した。その見事な打ちまわしにヒカルを「最強の初段」と称した。
稲垣(いながき)
日本棋院所属。三段。18歳。
北斗杯予選で社と対局し、彼の実力の前に敗れ去る。東京組の中で、自分だけが一回戦で負けたと知って落胆した。
秋山(あきやま)
日本棋院関西総本部所属。初段。17歳。
北斗杯予選で和谷と対局、敗北。どう打っても一局だと手拍子で打つなど、かなり迂闊な性格。
韓国のプロ棋士及び韓国棋院関係者
登場当時は研究生等であっても後にプロとなった者はこちらに含まれる。
洪秀英(ホン スヨン)
声 - 伊東みやこ
韓国棋院所属。二段。年齢は、ヒカルより2つ下。
研究生時代、手合での負けが続きスランプに陥っていた頃、日本で碁会所を経営する叔父を頼って来日、偶然出会ったヒカルと対局するが敗北、負けた悔しさでスランプから抜け出す事に成功した。後にプロになり、北斗杯の韓国代表の一人に選ばれる。院生時代、ヒカルに敗れた事を今でも忘れておらず、ヒカルに勝利し自分の名前を名乗りたい一心で日本語も話せるようになった(その事をヒカルに感心された為、思わず照れてしまった)。先輩として高永夏を尊敬しているが、彼が秀策に対する発言への誤解をわざと拗れさせたことや、ヒカルの力を認めようとしない言葉に関しては怒りを顕にしていた。
北斗杯ではヒカルと当たらなかったが、その後プライベートでヒカルとの対局が実現し、その際はヒカルが勝利していた事をアキラが語っている。また、中国チームの趙石には負ける碁を拾い、日本チームの社清春にも3目半の差にて勝利を収めた。
高永夏(コ ヨンハ)
韓国棋院所属。三段。
新進気鋭の天才棋士で、既に国内のタイトル挑戦者になっている。北斗杯の韓国代表の一人。ヒカルやアキラより1歳上。
塔矢行洋相手にも善戦したことがある。その際に行洋から「塔矢アキラと対等の力を持つ」と評価される。
通訳トラブルのため、秀策を褒めたつもりが逆に秀策を侮辱したと取材した古瀬村に誤解され、その話を聞いたヒカルを激怒させることになる。
秀策だけでなく道策や丈和まで研究している勉強家だが、高慢な自信家で子供っぽい一面もある。秀英を通して通訳が自分の言葉を誤訳したのだと気付いたが、弁明せずに逆に便乗して秀策の価値を切り捨てるような発言をし、ヒカルに挑発的な態度をとる。そして大将戦でヒカルと対局、半目差で勝利する。この時も最初はヒカルを軽くみた発言をしていたが、内心ではヒカルを「自分と対等の棋士」であると認めた。長身長髪でまつげが長く、美形として描かれている。作中に登場した彼の自宅は韓国棋士・朴永訓三段(当時)の自宅がモデルである。
安太善(アン テソン)
韓国棋院所属。八段。
国際手合で倉田を退ける実力者。中肉中背でマッシュルームカットの頭髪。穏やかかつ人を気遣う温和な性格だが、倉田に対するある意味失礼な態度を悪気なく見せてしまうような天然な一面もある。後に北斗杯の韓国代表戦手団団長に任命された。その際倉田に異様に敵対心を燃やされ子供じみた言動を連発され、終始困惑していた。初めは日本チームを歯牙にもかけていなかった(塔矢アキラのみ警戒はしていたが経験が足りないと評価)が、日中戦を見て考えを改める。高永夏の日本チームに対する挑発的な態度に頭を抱える様子も見られた。
徐彰元(ソ チャンウォン)
韓国棋院所属。九段。
塔矢行洋と同等の実力者として描かれている。韓国囲碁タイトルの一つである「国手」のタイトルホルダー。高永夏の挑戦を退ける技量の持ち主。中国の深圳団体チームに所属している。塔矢行洋と親交がある。その塔矢行洋が日本囲碁棋士を引退したことを知り、韓国棋院の客員棋士として迎え入れるよう働きかける。
日本棋院を逐電した塔矢行洋の目的が「最善の一手の追求」以外にもあることを見抜いていた。外見は塔矢行洋をやや若くし目を細くした印象。
林日煥(イム イルファン)
韓国棋院所属。四段。
北斗杯韓国代表メンバーの一人で副将。3人の中では最も好戦的で、将来高永夏を相手に巻き返しもあると期待される。中国チームの王世振に勝利したが、塔矢アキラ相手に敗れる。通訳トラブルには「ばかばかしい」と余り関心を持たなかった。
金康日(キム カンイル)
韓国棋院所属。九段。
名前のみの登場。秀英に敗れる。
愈(ユ)
韓国棋院所属。七段。名前のみの登場。
ネット碁でsaiに敗北。友人である金氏がアマチュア囲碁大会出場のため日本へ行くことを知り、saiの情報を集めるよう依頼した。
金相烈(キム サンヨル)・張成豪(チャン ソンホ)
両名とも韓国のプロ棋士、「十代の実力者」として名前のみ登場。
相勲(サンフン)
北斗杯韓国代表の随行員。中肉中背、短めの髪にメガネと誠実そうな印象。永夏の問題発言への対処に奔走させられた。
金(キム)、朴(パク)
韓国棋院の職員。古瀬村からの北斗杯選手インタビューを金が受け、その内容を朴が聞き、準備していたものの予定より一日早く古瀬村が来た。この食い違いを「古瀬村が間違えたせい」と結論付けた。
中国のプロ棋士及び中国棋院関係者
李(リィ)
北京にある中国棋院の師範。囲碁と生活の両方を総括する。下腹が出ている初老の男性で、伊角の長期滞在を認めた。不真面目な態度の人物には厳格だが、真剣に囲碁に向き合う者には寛大で、伊角が勉強のために揚海の部屋に規則に反して寝泊りしていることを黙認した。また、伊角に負けたことで楽平の向上心に火がついたことを素直に喜んでいた。棋士達からは「李老師(リィ先生)」と呼ばれている。
楊海(ヤン ハイ)
声 - 坂口賢一
中国囲棋協会所属。八段。雲南省出身。
語学が趣味と言い切るほど語学に長けており、英語・日本語・韓国語などを流暢に話す。くだけた性格で中国棋院で孤立しがちだった修業中の伊角の面倒を見たり精神面の指導をし、秘めた才能を覚醒させた。実は中国きっての実力派の棋士で、後には北斗杯の中国代表選手団団長にも任命された。作中でも非常に高い実力を誇るとされていて、中国でトップクラス。元院生1位の伊角に2子置かせて指導碁も行った。ITにも精通しており、ネット碁を嗜むのはもちろん、コンピュータ囲碁のプロジェクトまで手掛けている[注 9]。最終巻で和谷、アキラに続いて“sai”の正体に漸近し、更にはその最期まで言い当てた。
趙石(チャオ シイ)
声 - 藤巻恵理子
中国囲棋協会所属。三段。14歳。
まだ少年だが中国棋院を訪れた伊角を対局で一蹴し、伊角が中国棋院で修行するきっかけを作る。北斗杯でも中国代表の一人として来日。対日戦で社に勝つも対韓戦で秀英に優勢の碁を落とす。屈託のない性格。
陸力(ルー リィ)
中国囲棋協会所属。五段。18歳。
細面でメガネをかけている。北斗杯対日戦では大将。来日時には調子を落としていたらしく、アキラと対局するが、力にねじ伏せられ、敗北。その後の対韓戦でも敗れた。
王世振(ワン シチェン)
中国囲棋協会所属。四段。16歳。
中肉中背、短髪、眉が太い。北斗杯対日戦では副将。経験不足で緊張したヒカルを相手に中盤まで圧倒的有利に対局を進めるが、決着がついたはずの勝負に執拗に食いつかれ、怒涛のヨセにペースを乱される。最終的に勝利を収めるものの「薄氷の勝利」でしかなく、心の動揺を抑えられないまま対韓戦に突入、敗北を喫した。
楽平(レェピン)
声 - 高木礼子
中国囲棋協会所属。
歳は趙石より1つ下で、中国棋院で伊角と出会う。顔が和谷に酷似しており、伊角に「小さい和谷」と思われている。楊海と同じ雲南省出身。楊海は楽平の両親に、一人息子の楽平の様子を見てやって欲しいと頼まれていた。当初の楽平は田舎出身だったため、大都会北京にすっかり魅了されてしまい、あまり碁の勉強をせず遊んでばかりいた。
それでも中国棋院に選ばれた棋士の一人としての実力は備えていて、1回目の対局では伊角が子供と侮ったこともあり勝利するが、2回目の対局では精神的に開き直ることで成長した伊角に敗北した。それがきっかけで向上心に火が点き、以来伊角の修業期間中ずっと彼の側を付いて回り、熱心に碁の勉強に取り組んだ。敗北した悔しさから伊角に敵愾心を強く表していたが、伊角の話では、腹痛を起こした際に伊角が「和谷がいつもこうしている」という理由で与えられた正露丸で収まった事で、結局一番仲良しになった。いまだに身長は伸びていない様子で、北斗杯には楊海のバックに潜り込んでついていこうとしたらしい。でべそ。
陳学明(チェン シュエミン)
中国囲棋協会所属。八段。
徐彰元の回想に登場。3年前(4冠時代)の塔矢行洋と対局、中押し負けを喫する。雪辱を期して研鑽を重ね、トッププロに列する実力を得る。その力量をもって再戦するも、再び敗北した。くせ毛で、丸メガネをかけている。
王星(ワン シン)
中国囲棋協会所属。九段。
団体戦では北京チームに所属し、中国でもトップクラスの実力者。気さくな人柄で、伊角が中国棋院へ修行に来た際に対局した。
陳怡(チャン イー)
中国囲棋協会所属。女流棋士。
棋院内のリーグ戦で伊角に敗れる。
劉安(りゅう あん)
中国囲棋協会所属。
春蘭杯で高永夏と対局した。
中学校囲碁部員及び関係者
区立葉瀬中学校
藤崎あかり(ふじさき あかり)
声 - かかずゆみ
ヒカルと同い年の幼馴染。第1話ではヒカルの人生の転機となったお蔵の宝探しに付き合っている。ヒカルについていく形で彼女も囲碁を始め、ヒカルがプロを目指すために退部した葉瀬中囲碁部を引き継いだ。棋力はいまいち伸び悩んでいるが、ヒカルの退部によって一時崩壊の危機に瀕した囲碁部を力強い一言で救った。ヒカルに好意を持っている模様でたびたびアプローチをかけているが、ヒカルは気づいていない。作中には登場しないが姉がいる。中学2年生頃まではヒカルより身長が高く、終盤で身長を追い抜かされたことによって彼の成長を感じ取る描写があった。高校入学後も囲碁部に入る(部がなければ作る)と発言している。1986年5月17日生まれ、O型。
筒井公宏(つつい きみひろ)
声 - 津村まこと
ヒカルの2つ上の先輩で、葉瀬中囲碁部の創設者。大人しい性格だが囲碁のことになると感情的になる。定石をこよなく愛するがそれ故に斬新な打ち回しが出来ず、範囲の狭い碁しか打てない(大会の時でも定石の本を片手に勝負する。なお、これは反則というわけではない)ものの、ヨセは加賀も認めるほど上手。中学2年の時は中学生囲碁大会で加賀や当時小学生のヒカルと共に副将として出場。二回戦は敗北するが、決勝の海王戦では相手のミスもあって念願かなって勝利する。正義感が強くイカサマをしていた三谷とは折り合いが悪かったが、彼の棋力を「僕の十倍強い」と認めており、その後三谷がイカサマから足を洗ったことで和解した。囲碁部で対局を重ねるうちに目覚ましい成長を遂げたヒカルに“打倒海王”の夢を託そうとしたが、ヒカルの更なる目標を聞き、寂しさを堪えてヒカルを送り出した。後に北斗杯編でヒカルの対局を観戦に来る。作中には登場しないが、妹がいる。アニメ最終回では、女性と歩いている所を加賀に目撃されている。1984年4月23日生まれ、O型。
加賀鉄男(かが てつお)
声 - 伊藤健太郎
囲碁部の誰よりも囲碁が強い葉瀬中将棋部部長で、ヒカルの2年上の先輩。原作漫画では、未成年でありながらタバコを吸っている。生活指導教員のカツマタから逃げ回ってばかりいる一匹狼。初登場時には碁盤にタバコの火を押し付ける(アニメではガム)という棋士にとっては到底許しがたい蛮行を働いた。しかし、学力については「自分は勉強せずとも進学できる」と豪語している(受験校は筒井と同じ)。また、葉瀬中内では将棋部の部員を始め、野球部の部員からも「泣く子も黙る加賀」と呼ばれ恐れられているが、中2のときに囲碁部が筒井のみで、彼から碁の強さを見込まれ「大会に一緒に出てほしい」と嘆願されたこともあったり、将棋部では加賀の名前が綴られているトロフィーなどが部室内に多く飾られており、卒業後に将棋部の顧問から「将棋の棋力が乏しい部員をOBとして指導してくれ」と呼び出されていることから、それなりに人間関係を築き、信頼も得ている。
幼年時代、将棋指しになりたかった加賀の意向を無視し碁打ちになって欲しかった父親の無理強いによって、昔アキラと同じ囲碁教室に通わされていた事があり、2学年下の彼には一度も勝てずずっと教室内の2番手だった。終いには父に叱られているところをアキラに目撃された上に同情までされ、挙句の果てに対局で手を抜かれたことが原因で彼が自分のことを眼中に入れていなかったことが分かり激怒、大の囲碁嫌いになった。
中学2年の時にヒカル(佐為)と対局。ヒカルのミスで辛くも勝利するが、その棋力の高さに絶句し、小学六年生である彼を半ば脅迫して大会に参加。本人も大将として参加。この過程で囲碁嫌いは治ったようである。大会終了後は将棋部に戻るが、ヒカルが囲碁部を辞めて院生を目指す際には他の面々が戸惑う中ヒカルの背中を力強く後押ししながらヒカルが甘えたことを言った時には厳しく叱るなど頼りになる先輩として成長した姿を見せた。
後に番外編で、将棋部のOBとして再び葉瀬中を訪れる。もののついでに囲碁部を覗き、そこで小池に筒井と間違われ、その際に再び囲碁部を救うことになる。
棋力に関して、小学校時代は囲碁教室でアキラに次ぐ実力・実績を持っていた。中学2、3年時では長年囲碁を離れていたにもかかわらず、佐為や他校の囲碁部顧問、院生師範から棋力や囲碁の感覚の良さを認められる。また、塔矢アキラなら解けるかもしれないといわれる難しい詰め碁を即答(正解)、大会でも2局勝利、院生試験を控えているヒカルにもヒカルの三面打ちながら6目半差で勝利する等、勝った描写が多い。海王中の大将(岸本の先代)には投了し、海王中の囲碁部の水準の高さを実感する。登場は主に中学生時代の短期間に限られるものの、『ジャンプ』誌上の人気投票では上位の常連であった。「神の一手に最も近いのは?」というランキングで、ヒカルとアキラを抑えて佐為に次ぐ2位を獲得している。1984年1月8日生まれ、A型。
三谷祐輝(みたに ゆうき)
声 - 浅川悠
ヒカルの同級生。他人との接触をあまり好まない一匹狼。小遣い稼ぎのために碁会所で賭け碁をしていた。上級者向けの詰め碁を正しく解く、夏期大会1回戦で中学生大将に早い時間で負かす、佐為に「腕はなかなかに惜しい」と評価される等、棋力は高い。ヒカルにとって身近なライバルの一人だった。ところが不利になると、整地をごまかす、石をずらす等という卑怯な手を使い勝っていたため、碁会所のマスターである修とダケさんの策略で大敗し、有り金を全て奪われるという屈辱を味わう。ヒカル(佐為)の助力によって賭け金は取り戻したが、その対価として強引に囲碁部に入れられる。初めはあまり熱心ではなかったが、大会で岸本の棋力の高さと挑発的な態度に触発され、二回戦で彼と戦うも、自身の我流の強さを逆手に取られ敗北。その後はメンバー集めやあかりや津田への指導など熱心な様子を見せるようになる。成長したヒカルに互先で初めて負けたときは感情を露わにした。目覚ましい成長をしたヒカルと組めば打倒海王が実現すると思っていた。新入部員の夏目を連れてきた直後、自らを囲碁部に引き込んだヒカルの突然の退部に激昂、退部することを決意する。ヒカルとの最後の一局では、6目半差で敗れ、棋力を越される。以前と変わらない囲碁部の皆の態度に徐々に顔を出すようになり、3年時に大会を軽く見たヒカルの発言に激怒して再び囲碁部に舞い戻る。ヒカルとは退部以降まともに会話することはほとんどなかったが、無愛想な態度とは裏腹に常に気にかけている様子である。アニメではプロ試験に合格したヒカルに、不器用ながら祝福の言葉をかけている。ネットカフェで働く姉が1人いる。男勝りな金子が苦手。1986年10月15日生まれ、AB型。
金子正子(かねこ まさこ)
声 - ゆきじ
ヒカルの同級生。本来はバレー部員だが、碁が打てるということでヒカルに強引に囲碁部に誘われる。金太郎のような恰幅の良い体格と豪快な性格で、葉瀬中囲碁部のお母さん的存在。ヒカルが碁から離れた時には部活に誘ってみたり、ヒカルを心配するあかりに声を掛けたりと、さりげなく気遣いが出来る性格でもある。棋力は三谷には及ばないものの小池や夏目に比べれば力はある。三谷の天敵のような存在でもある。また学業優秀で、一流校に推薦合格し、勉強に精を出さない三谷の面倒を見てやったりしている。1986年9月6日生まれ、O型。
夏目(なつめ)
声 - 川村拓央
ヒカルの同級生。背が高い。棋力は後輩の小池と同じくらいだが、副将を務めている。また、院生2組のヒカルと対局した時には9子を置いていた。中一の夏休みから囲碁をはじめる。三谷に誘われ囲碁部に入るが、その直後にヒカルと三谷がやめてしまい、男子が一人だけになってしまった。その後、藤崎や津田に囲碁を教えながら、三谷に部活に戻るように何度も説得する。三年時に念願の団体戦出場、準優勝を果たした。葉瀬中囲碁部2代目の部長。
小池仁志(こいけ ひとし)
声 - 重松朋
ヒカルより1学年下級生。ヒカルが院生になった後に入部したため、部員として共に活動したことはない。葉瀬中囲碁部3代目の部長。番外編で、加賀のことを「伝説の筒井先輩」と勘違いする(ヒカルとの面識も、番外編でのみ確認できる)。棋力は今一だが、かつての囲碁部を取り戻そうと必死に活動している。
津田久美子(つだ くみこ)
声 - 渡辺明乃
ヒカルの同級生。碁に関してはまったくの初心者だが、あかりに誘われて葉瀬中囲碁部に入部する。恥ずかしがりや。
矢部(やべ)
小池より1学年下級生。囲碁部の存在を知り、加えて「プロがいる」との噂を聞いて入部を考えるが、実際には小池1人と知り落胆、入部を取り消そうとする。その時偶然加賀があらわれ、かなり強引に入部させられる。棋力は小池より上(加賀からみれば大差はない様子)で大会参加にも熱心、強くならない小池ややる気のない岡村に牙をむいている。
岡村(おかむら)
小池より1学年下級生。もとは将棋部員だったが、加賀の「筒井ごっこ」の犠牲となり囲碁部に入部させられる。入部経緯のためやる気は全くないが、それなりに囲碁(ウッテガエシ)は覚えており、対局で勝った時などは素直に喜んでいる。将棋の腕前は親戚のどのおじさんより強いと豪語するも、6枚落ちのハンディを背負った加賀には勝てない程度。
上島(うえしま)
小池より1学年下級生。もとは陸上部だったが関節を痛めたため矢部の勧めで囲碁部へ転向した。いつも父と対局しており、矢部もすごく期待していたが、実は岡村よりも弱かった。
タマ子先生(たまこせんせい)
声 - 石塚理恵
囲碁部の顧問及びヒカルの2年生時の担任、担当科目は理科。正式な部でなかった当時からヒカルらを応援しており、部としての予算獲得から家にあった古い碁盤提供まで、細かな支援を行った。その後、ヒカルがプロになったことに困惑するも、暖かく見守っていた。
私立海王中学校
岸本薫(きしもと かおる)
声 - 櫻井孝宏
1年時のアキラが所属していた海王中囲碁部の当時の主将。ヒカルが中学生の振りをして参加した大会には選手として出場していなかった。棋力はプロ並みのアキラを除けば海王中№1。葉瀬中大将の三谷や院生試験を受ける前のヒカルを苦も無く倒す。冷静な性格で分析力も高い。故に囲碁を通して三谷の癖や攻略法や、アキラを引きつけるヒカルの奥底に何かがあることを見抜いた。中学1年生のころにプロを目指し院生になるも挫折する。一度だけ1組になったこともあり和谷や伊角とも対局したことがある。その頃から長身であり、メガネをかけていてブラックコーヒーを愛飲している。囲碁部に入ったアキラを叱責することもあったが、内心ではアキラとの対局や検討をだれよりも望んでいた。アキラとの互先で完敗したことにより、プロになる夢を叶えられないことを再確認する。1985年3月5日生まれ、AB型。
日高由梨(ひだか ゆり)
声 - 本田貴子
海王中囲碁部女子部員。正義感がつよく、部内いじめを止めに入ったこともある。悪気はないが毒舌であり、葉瀬中チーム(特に筒井)を怒らせたこともある。練習を怠らず、大将を務める等、棋力は本物である。ゲーム『平安幻想異聞録』では嫌味な座間派の女房役として登場し、あかりの君(あかり)にケンカを売り、3対3の団体戦をする事となる。1985年2月11日生まれ、AB型。
奥村(おくむら)
声 - 浅野まゆみ
海王中1年で囲碁部員。棋力は今一つで、マネ碁で塔矢と引き分けに持ち込もうとするが、ダメヅマリからあっさりと敗北。その後伊藤や小島と連携して塔矢にいじめをしかけるが、日高に露見して失敗した。棋力は低く、稚拙な打ち方である。しかしその打ち方によって伊藤や小島よりもアキラを苦しめることになる。ただ本人はそれに気づいていなかった。
伊藤(いとう)
声 - 岸尾大輔
海王中2年で囲碁部員。奥村や小島と共謀し塔矢に目隠し碁のいじめを仕掛けるが大敗を喫し、のちに退部した。塾に通っている。海王囲碁部の中で棋力は低い方だが、小島と奥村よりは高い。
小島(こじま)
声 - くわはら利晃
海王中2年で囲碁部員。伊藤と奥村と3人で塔矢をいじめるも、逆激を受けて失敗した。家庭教師を雇っている。棋力は奥村と伊藤の間。
青木(あおき)
声 - 斉藤瑞樹
海王中囲碁部の3年生。岸本、久野に続く実力者。温厚な人柄で後輩からの信頼も厚い。しかし塔矢が入部することで大会メンバーから外される位置におり、塔矢と対局(敗北)することで周囲に実力差を見せて、静かに去った。
久野(くの)
声 - くわはら利晃
海王中囲碁部副部長。夏の大会では副将として参加。2回戦では慎重に打つ筒井と対局、余裕の勝利を得た。棋力は、海王囲碁部でアキラと岸本に次いで高い。岸本からは院生試験2ヶ月前のヒカルの棋力と互角といわれている。
美和(みわ)
声 - 清水敏考
海王中3年囲碁部員。塔矢の実力を見る対局に立候補するも、尹先生に断られ、3年生が1年生にあっさり負けるのは好ましくないことだと察する。
宇野(うの)
海王中囲碁部の新入部員、女性。守りが甘いと尹先生に注意された。
中井(なかい)
岸本と同じ学年。アキラを意識するあまり神経質になっていた。そして同じ学年の囲碁部員に注意される。
山田(やまだ)
詰め碁に10秒以上時間をかけてしまい、先輩に注意される。塔矢アキラと同じ学年。
尹(ユン)
声 - 伊藤和晃
海王中囲碁部顧問。韓国人。母国でも子供たちに囲碁を教えていた。プロを目指すはずのアキラが囲碁部に入部したことに困惑するものの、彼やヒカルの才能を高く評価している。また中学の囲碁大会からほぼ1年後にヒカルと洪秀英の対局を観戦して、ヒカルの成長ぶりに感嘆する。
冬期海王中大将(とうきかいおうちゅうたいしょう)
岸本や日高より1学年上の先輩。冬期囲碁大会の決勝戦で加賀と対局し中押し勝ちを収める。
冬期海王中副将(とうきかいおうちゅうふくしょう)
岸本や日高より1学年上の先輩。冬期囲碁大会では、筒井の準決勝戦を観て彼のヨセの技術を認める。決勝戦で筒井と対局し勝勢のはずが終盤にぽかをしてしまい敗れる。この話は後輩・日高にも知られている。
冬期海王中三将(とうきかいおうちゅうさんしょう)
岸本や日高より1学年上の先輩。冬期囲碁大会決勝戦では小六のヒカル(佐為)と対局し善戦する。佐為や尹にも称えられる。
その他の中学
森山(もりやま)
声 - 浅野まゆみ
川萩中囲碁部員で、ヒカルが小学生時代の大会では大将だった。加賀を将棋部員と侮るが、わずか10分で中押し負けを喫する。自分の棋力に関しては自信があったらしい。
冬期川萩中副将(とうきかわはぎちゅうふくしょう)
定石の本を読みながら対局する筒井をバカにする。中盤までは勝勢だったが、筒井の正確な目算とヨセによって20目差がひっくり返ってしまい、半目の差で逆転負けする。原作ではその後泣いている描写がある。
冬期川萩中三将(とうきかわはぎちゅうさんしょう)
大会で小学6年生のヒカルと対局。ヒカルが佐為の力を借りなかったので勝つも、なかなか投了しないヒカルにうんざりする。ヒカルの対局時計の押し忘れを、指摘した。
池下(いけした)
佐和良中囲碁部員で、ヒカルが小学生時代の大会では大将だった。加賀と対局、勝つ見込みがなく投了するも顧問に責められる。
冬期佐和良中副将(とうきさわらちゅうふくしょう)
眼鏡をかけている男の子。ヒカルが対局を一手目から並べ直すことができることに驚く。筒井を警戒していたが、大したことがないとわかると5目程の差で負かす。棋力は川萩中副将より強いと加賀に思われている。
冬期佐和良中三将(とうきさわらちゅうさんしょう)
空き時間に副将と対局し、負けそうになるとわざと石をずらした。近くで見ていたヒカルに石を並べ直され、ヒカルに当たる。2回戦でヒカルを追い込むも、佐為の助力によりヒカルに敗れる。
夏期囲碁大会岩名中大将(かきいごたいかいいわなちゅうたいしょう)
1回戦で三谷と対局した男の子。三谷の早碁に圧倒され中押しで敗れる。
夏期囲碁大会岩名中副将(かきいごたいかいいわなちゅうふくしょう)
1回戦で筒井と対局した男の子。筒井の気合の碁に歯が立たず16目半差で敗れる。
夏期囲碁大会岩名中三将(かきいごたいかいいわなちゅうさんしょう)
1回戦でヒカルと対局した男の子。形勢有利の盤面を見て笑うも、ヒカルに逆転負けの結果と終わる。
院生及びプロ試験受験者
登場時は院生であっても、のちにプロとなった者は「プロ棋士」の項に掲載している。
奈瀬明日美(なせ あすみ)[注 10]
声 - 榎本温子
ヒカルの2つ上の院生仲間。世話焼きだが攻撃的で剛胆で人一倍負けん気の強い美人女子高生。ヒカルの研修仲間内では紅一点。1組の中でも下位(若獅子戦に参加していたため16位以上ではある)で自分の棋力について疑問を抱き進路で悩んでいる。プロ試験予選を通過し、プロ試験本戦では、2勝4敗と早くからプロ入りの目が危うくなっていたが、上位陣に残っていた本田を破っている(最終結果は13勝14敗)。番外編では飯島が院生をやめる事やプロ試験合格者(ヒカル・和谷・越智)が自分より年下だった事もあり囲碁に対する情熱を失いかけたが、棋院をサボってデートをした際に、碁会所に行き本来の自分の姿を見つけた事で、院生を続ける事にした。1984年5月10日生まれ、B型。
福井雄太(ふくい ゆうた)
声 - 水田わさび
愛称「フク」。ヒカルの2つ下の院生仲間。ヒカルの研修仲間内では院生1組で最年少である。朗らかな性格で院生のムードメーカ的な役割を果たしている。早碁が得意。1組の中でも下位(若獅子戦には参加しているため16位以上ではある)だが、和谷や小宮相手には勝利している。特に和谷はフクに苦手意識を持つほどだった。逆にヒカルは3回しか負けておらず、相性が良いと感じていた。プロ試験本戦では、早くからプロ入りの目が無くなっていたが、調子を崩したヒカルや伊角に勝利している(最終結果は13勝14敗)。1988年6月21日生まれ、O型。
飯島良(いいじま りょう)
声 - 山口隆行
ヒカルの3つ上の院生仲間。棋力が伸びず進路について助言してくれる師匠がいないため、プロを目指すか普通の人生を歩むかで悩んでいた。プロ試験本選では15勝12敗。現実主義者。キレ易い性格で、ヒカルを碁会所で鍛えた和谷を一方的に責め立てた。後にプロをあきらめ、大学に進学するために院生をやめる。奈瀬に気があるのか、番外編で彼女がデートしたと聞いた時には少々嫉妬していた。
小宮英二(こみや えいじ)
声 - 河相智哉
1組上位。プロ試験本戦時では、奈瀬や足立と年齢が同じ。プロ試験本戦が始まった頃、越智からは、伊角、本田、和谷に次ぐ足立、ヒカルと同じくらいの実力者(ライバル)と評価されている。パソコンを使ったことがなく、ネット碁について和谷に聞いていた。プロ試験本戦第8戦で進藤に敗れた際に「進藤は強くなってやがる」と言っていたことが伊角の口から語られた。プロ試験本戦第21戦終了時点で16勝5敗でプロ入りの目が残っていたが、第22戦で和谷に負け試験落ちが確定(最終結果は19勝8敗)。プロ試験後も一度和谷のアパートのシーンで再登場している。
さらに番外編では奈瀬と共に再登場し、庄司と岡の評価をヒカルに話していた。「ちぇっ」が口癖。
足立俊輝(あだち としき)
声 - 川村拓央
1組上位。若獅子戦で1回戦を勝ったこともある。プロ試験本戦ではトップグループの和谷に勝つなどして第17戦終了時点で12勝5敗で上位陣に食い込んでいたが、第18戦で同じ12勝5敗の小宮に敗れて上位陣から脱落した(最終結果は20勝7敗)。番外編では、ヒカル、和谷、越智、伊角、本田がプロになったため現在の院生1位として名前が挙げられている。
内田(うちだ)
声 - 町井美紀
ヒカルが院生になった当時の2組5位。ヒカルより少し年上の少女。プロ試験突破、打倒塔矢アキラしか見ていないヒカルに相当の棋力を予想するが、それに反して勝ってしまった。その年のプロ試験本戦には出ていない。
今西(いまにし)
院生2組。棋力が伸び悩み、高校受験を前にして学校の成績も落ち、あげく見損じでヒカルに負けたため、碁石に八つ当たりする形で対局場をあとにした。その様子を見た篠田師範がしかめ面をした。
庄司(しょうじ)・岡(おか)
北斗杯編で登場した小5の院生2人。庄司の順位は1組16位で若獅子戦出場崖っぷちのサボり魔。岡の順位は1組14位で不真面目な庄司とは逆に勉強家だが、怠け者の庄司と順位が然程変わらないのに苛立ち、事ある毎に庄司に噛み付く。いつもの院生研修でも北斗杯でのヒカルとアキラの優劣の舌戦を繰り広げたが、若獅子戦で2人の強さに圧倒され、ヒカル派だった庄司とアキラ派だった岡の主張を著しく変えた。2人の実力が五分五分である事を暗に示す役割を持つ。
椿俊郎(つばき としろう)
声 - 西村知道
外来(院生外)のプロ試験受験者。三船敏郎似の風貌とがさつな性格から、ヒカルたちに「ヒゲゴジラ」と呼ばれ恐れられるが、気のいい兄貴分でもある。プロ試験予選ではヒカルや奈瀬たちに勝ち、本戦に出る。2回戦で伊角に敗れ、7戦目で精神的・技術的に進歩しているヒカルと対局し敗れる。受験資格ギリギリの年齢で会社を辞めてまでプロ試験を受けに来たが夢破れ、ヒカルにその夢を託す。最終結果は17勝10敗で、プロ試験本戦では不合格ながらも勝ち越しを収めた。その後は工事現場で働いており、その休み時間の合間などで時折囲碁を打っている様子。
片桐恭平(かたぎり きょうへい)
声 - 遊佐浩二
外来(院生外)のプロ試験受験者。本試験で本田を破り、最後まで上位陣に食らいつくなど実力者であったが、力一歩及ばず不合格。外見は20代半ばのサラリーマン風。東京圏外在住だが東京に友人がおり、試験の時は宿泊させてもらっている。翌年も受験し、不合格となる。
大島博(おおしま ひろし)
外来のプロ試験受験者。体調不良のヒカルに勝つも、13勝14敗で不合格となる。翌年も受験し、不合格となる。
日野和彦(ひのかずひこ)
外来のプロ試験受験者。本戦の対戦くじでは1番をひいた。初戦は椿とあたり敗北し、飯島にも負ける。最終戦では伊角と対局。飯島に「4敗の伊角さんが今回負けたら進藤と和谷が自動的に合格するが、対戦相手を見る限り…」と推測されている。
田中一成(たなかかずなり)
越智と対局し敗れる。アニメでは越智と伊角の会話で「どうしてプロ試験を受けたのかわからない。ほとんどの人に白星をあげにきたと思われるぐらいひどい碁を打つ」と評されている。
国際アマチュア囲碁カップ出場者・関係者
李臨新(リ リンシン)
声 - くわはら利晃
第20回、21回国際アマチュア囲碁カップ中国代表。大会参加前にネット碁でsaiと対局し敗北。大会会場でsaiの情報を求めるが得られなかった。21回囲碁カップでは優勝したことがフランクによって語られている。その後toyakoyo(塔矢名人)と対局し中押し負け。さらにsaiとtoyakoyoの対局を観戦し、toyakoyoを下したsaiの技量に絶句した。
フランク
声 - 石波義人
第19回、20回国際アマチュア囲碁カップオランダ代表。大学教授の助手をしているが、その仕事をおろそかにして囲碁教室を開くほど囲碁に傾倒している。大会参加前にネット碁にてsaiに敗北、その強さを「心臓が破裂しそう」と表現し、大会会場でsaiの情報を求めたが得られなかった。塔矢名人の大ファンで、彼が「toya koyo」のハンドルネームでネット碁に参加した際には「ネット碁のグローバル化」と大変喜び興奮し、友人のオーイェルからの電話でsaiとtoyakoyoの対局を知り観戦した。第19回の成績は6位。コーヒー1杯にシュガースティック5本分の砂糖を入れるほどの甘党。
島野(しまの)
声 - 清水敏孝
第20回国際アマチュア囲碁カップ日本代表で、森下はプロと互角に渡り合うという。ネットの碁豪「sai」ではないかと疑われていたが、本人が否定した。かつて塔矢名人の研究会にも通っていたことがあり、緒方九段とも面識がある。
金(キム)
声 - 遊佐浩二
第20回国際アマチュア囲碁カップ韓国代表。韓国のプロ棋士 愈七段と知り合いで、彼に頼まれsaiの情報を求めた。その文脈で愈七段がsaiに敗れたことを語った。
周平(しゅうへい)
声 - 檜山修之
第22回国際アマチュア囲碁カップ日本代表。広島県因島出身。日本におけるアマチュアNo.1で、関西のプロと互先で打てる技量の持ち主。姿を消した佐為を探して因島に来たヒカルと河合に出会う。大の広島カープファンで、河合がカープを馬鹿にしたことに腹を立てた。河合に勝利後、碁会所に河合を迎えに来たヒカルと対局する。当初は新初段シリーズの不振などもあって侮っていたが、ノータイムの応手に加えて尋常ならざるヨミの前に敗北。ヒカルの力量を認めて新幹線の駅まで送っていった。
碁会所関係者
市河晴美(いちかわ はるみ)
声 - 雪乃五月
塔矢名人が経営する碁会所「囲碁サロン」の受付嬢。外見は20代前半〜半ば。塔矢アキラを溺愛すること甚だしく、頼みを積極的に引き受け、指導碁をエサに学校まで迎えに行くほど。アキラがプロにならず碁会所でのんびり碁を打つという状況を気に入っており、急にプロ試験を受けると知り動揺していた。アキラを「アキラくん」と呼んでいる。北島に「プロになったのだから先生と呼ばないといけない」と窘められ、半泣きになるほどショックを受けたが、アキラに「市河さんに先生と呼ばれたら、(囲碁サロンに)来にくくなっちゃう」と言われ、目を輝かせて喜んだ。
北島(きたじま)
声 - 河相智哉
「囲碁サロン」の常連客。痩身の老人男性。この上ないアキラのファンで、アキラを「若先生」と呼んでいる。アキラと対等に話すヒカルを苦々しく思っており、アキラと同じプロであるにも関わらず、「進藤」と呼び捨てにしている。北斗杯でヒカルの対局を見て、実力を認めた。
広瀬(ひろせ)
「囲碁サロン」の常連客。髪の生え際がかなり後退している、恰幅の良い男性。棋力は北島よりやや劣るものの、それゆえ良き碁敵として尊敬もしている。面倒見が良い人物で、アキラがプロ試験を受けると聞いて動揺した市河に男性を紹介しようと持ちかけて逆ギレされた。
久米(くめ)
「囲碁サロン」の客。久しぶりに立ち寄った囲碁サロンにてヒカルとアキラの喧嘩を目撃、ヒカルを見下す発言をしたところアキラに咎められた。
修さん(しゅうさん)
声 - 田原アルノ
碁会所「囲碁さろん」の席亭、痩身の好々爺。三谷の「ズル」を見抜いており、たしなめるためにダケさんを呼んだ。息子夫婦とうまくいっておらず、三谷に嫌われたくないためにダケさんを呼んだことを指摘され、狼狽していた。
碁会所「道玄坂」のマスター
声 - 石波義人
プロに二子で勝ったこともある実力者だが、伊角に三子で敗れた。その後も碁会所に勉強にやってくるヒカルを温かく見守る。ヒカルが目算が苦手なことを見抜き、わざと持碁にする練習を持ちかけた。また、プロ試験合格後は、囲碁界に詳しくないヒカルのために、古い囲碁雑誌を持ち帰らせた。ヒカルがアキラを連れて来ようかと口走った時、鼻息を荒くして約束を取り付けようとするなど、ミーハーな一面も見せる。
河合(かわい)
声 - 小野健一
碁会所「道玄坂」の常連客のタクシー運転手。道玄坂に腕試しに来たヒカルと三子置きで対局して敗れてから、ヒカルのことをかわいがっている。相手の頭をぐしゃぐしゃに掻き回す癖がある。ヒカルが顔を出すようになってからは、毎日碁会所に入り浸っていた。タクシーの仕事をサボって碁会所に来るなど不真面目な人間だが、本因坊秀策の縁の地に行きたがるヒカルに同行してお金を貸すなど面倒見も良い。ヒカルが囲碁から離れた際は、結果の載っている「週刊碁」をグシャグシャに丸めるほど怒っていた。北斗杯の時もヒカルの応援のために会場まで来て、高永夏とヒカルの対局を観戦した。その際ヒカルの敗北に不満をこぼした観客に掴みかかる騒動を起こした。
堂本(どうもと)
「道玄坂」の常連客。プロ試験本選前の腕試しに店に来たヒカルと対局、敗北。河合と仲が良く、二人で北斗杯の解説場に足を運んでいた。
曽我(そが)
「道玄坂」の常連客、禿頭の老人。三子置いて和谷に勝つなど、かなりの棋力の持ち主。そのため、ヒカルと対局する際は二子置いていた。ヘビースモーカー。
「道玄坂」のマスターの妻(どうげんざかのますたーのつま)
「道玄坂」で接客を主に担当している、夫より恰幅の良い中年女性。「ナマイキなクチきくガキはキライ」だそうだが、佐為成仏のために囲碁から逃げて不戦敗を重ねていたヒカルを「理由があるのだろう、温かく見守るべき」と擁護するなど、優しさももっている。
柳(リュウ)
碁会所「柳」の席亭、韓国人。秀英のおじで、研究生(韓国棋院の「院生」)でのクラス落ちからやる気をなくしてしまった彼を一時的に日本に呼び寄せた。ヒカルとの勝負に負けて悔し泣きする秀英を見て、気力が戻ったと確信した。
神宮寺(じんぐうじ)
碁会所「石心」の客。かなりの棋力をもち、知り合いのプロからも「プロになれるだけの力がある」と言われていたが、腕試しに来た伊角に苦も無く負けて、プロの言葉がただのお世辞であることを思い知らされた。その後伊角に「強いのがいる碁会所」として「柳」を紹介した。
土庄(どしょう)
碁会所「囲碁サロン 道楽」の客。禿頭の「いかついおっさん(奈瀬 談)」。院生研修をさぼってデートしていた奈瀬と対局、最初は女の子と侮って手を抜き、軽くひねられ、本気で再戦するも大差で敗北した。
日本棋院及び囲碁業界関係者
天野(あまの)
声 - 石波義人
『週刊碁』の記者。連載開始当初からアキラに注目していた。ヒカルへの評価は当初は辛口だったが、塔矢名人や緒方九段などの大人物が注目している事を知り、さらにアキラがヒカルをライバルとはっきり認めたことで、自らもヒカルに対する評価を改めた。
古瀬村(こせむら)
声 - 川村拓央
天野と同じく、『週刊碁』の記者。あまり物事を深く考えない、明るい性格。人事異動で天野の後釜を務める事に。モデルは、実在の『週刊碁』編集担当の棋院職員[11]。韓国棋院に行った折、韓国代表の高永夏の取材で通訳ミスにより秀策を馬鹿にされたと勘違いし、高永夏を強く嫌っている。事の発端は取材日を古瀬村本人が間違っていたことによるスケジュールミスなのだが、本人は最後まで気づかず終いに終わった。
吉川(よしかわ)
『週刊碁』の編集者の一人。韓国語に堪能で、通訳のため取材に同行することもある。
坂巻(さかまき)
日本棋院職員、事務担当。強面の中年で性格も外見と同じ。失礼な言動の多いヒカルを「礼儀のなってないただのガキ(アニメ版では『今どきの子供』と表現を柔らかくしている)」と斬って捨てるなど、容赦のない人物。
その他の碁打ち
上記以外の、碁を打つ描写のある、または碁打ちであると明言されている人物について列記する。
進藤平八(しんどう へいはち)
声 - 中博史
ヒカルの父方の祖父。兄の形見分けでもらった碁盤に佐為が宿っており、佐為がヒカルのもとに降臨するきっかけを作った人物でもある。原作では、ヒカル(佐為)と初めて対局した人物。ヒカルの住む町内では高い棋力の持ち主で、「クツワ町の井上さんに勝てたのは自分だけ」と豪語する他、ヒカルに事ある毎に大量のトロフィーを見せたがる。筒井と互先で勝てるようになったヒカルと対局、ヒカルの急成長に驚くもヒカルに勝利する。ヒカルのために碁のセット(総額5万円)を買い与えるなど、ヒカルの行く末を楽しみにしている。プロになったヒカルに置石を置くよう言われるが、孫相手に置石など置けるかと突っぱねたところ、ヒカルに大差をつけて勝つことを宣言され慌てている。
阿古田末三郎(あこた すえさぶろう)
声 - 高瀬右光
ヒカルが囲碁の基本を学ぶために通った囲碁教室の生徒の一人。棋力は高いが、性格は悪く、下手をいたぶるような碁(佐為が「相手が弱いと見ての無茶な攻め、攪乱させるだけの無意味な手」と称している)を打つ。実はハゲで、最初はカツラ。ヒカルにカツラが暴かれてからは、帽子で隠すようになる。あかりのことを非常にかわいがっており、あかりが囲碁教室に通うようになってからは人格が変わったと称されるほど優しくなった。成長したヒカルと対局して敗北する(その後、ヒカルは三谷に互先ではじめて勝利する)。
ダケさん(だけさん)
声 - 長嶝高士
凄腕のイカサマ棋士で、碁会所などから依頼を受けて自分と同じようなイカサマ師を退治する稼業(「熊退治」と称する)をしている。囲碁だけでなく麻雀もこなす。修さんの依頼を受けて整地のズルをする三谷と対局する。手加減をし形成不利であったが中盤から本気を出し、差を詰めた。石を一路ずらしたり、整地をごまかしたりして12目半差の大差で勝利する。その後、三谷から奪った1万円を賭けてヒカル(佐為)と対局、「本因坊秀策」の力の前に中押し負けした。
栗本正助(くりもと しょうすけ)
都議。日本棋院足立支部の「ふれあい囲碁まつり」開催に尽力。尊大な人物で、桜野女流棋士が来ないことを知って暴言を吐いたり、碁盤の上に濡れたコップを置いたり(碁盤は水分に弱い)、碁石を踏むなどしている。秘書の置石が3つだったため、自身も見栄を張って置石を5つから3つに減らしたが、棋力はアキラ曰く大したことがない。自身を含め4人と対局したアキラが意図的に全て持碁にしたことに愕然とした。
栗本の秘書(くりもとのひしょ)
ふれあい囲碁まつりに参加した一人。アキラに四面持碁にされたメンバーの中では1番の実力者であり、ほかのプロだけでなくアキラにも棋力を認められた。アキラとの対局では3つの黒石を始めに置いていた。栗本の囲碁に対する行いを軽蔑しており、陰で「ボンクラ」と呼び、アキラに「(故意の次碁は)ばれないように上手くやるんですね」と助言した。
糸井(いとい)
後援会員。アキラとの対局では置石を5つ置いた。実力はアキラ曰く普通で、置石の数も妥当なところらしい。
栗本の後援会員(くりもとのこうえんかいいん)
後援会員。棋力は糸井よりやや劣るようで、糸井がプロのアキラを相手に5子置いたのを見て、6子置いた。
越智(おち)
越智康介の祖父。実業家でかなり裕福であり、家には専属の運転手と家政婦がいる。金に飽かせて家にプロ棋士を呼んで指導碁をつけてもらっていたが、そばで見ていた康介が碁を覚え棋力を抜いたことから康介のために出張指導碁を呼ぶようになる。
孫の心情を慮れる人物で、伊角に負けて動揺する康介のために無断で塔矢二段を呼んだ。
磯部秀樹(いそべ ひでき)
声 - 渡辺久美子
小学生を対象とした全国レベルの大会「こども名人戦」の優勝者。勲章にたがわぬ実力者で、大人を相手に指導碁の真似事もしていた。「表に出ず影で威張る」塔矢アキラの存在を疎んでおり、「囲碁サロン」の存在を知って勝負に赴く。自信満々で挑んだものの、アキラに中押し負けする。芦原からは十分強いと褒められた。
中村茂蔵(なかむら しげぞう)
ヒカルが住む町で古美術商を営む老人、アマチュア五段の証書を持っている。贋物を高値で売りつけることに心が痛まない守銭奴で、周囲にトラブルが絶えなかった。「この世に人間は2種類。目が効く奴と、目が利かない間抜け」とのたまい、騙された客を小馬鹿にしている。
偶然からヒカル(佐為)と対局、圧倒的大差で中押し負け。さらに白黒を交換してヒカルが勝てば安値で売っていた盗品の花器を返す条件を付けて継続、これに逆転負けを喫し盗品の花器を奪われる。その花器が弥右衛門最後の傑作と知り、己が「目の利かない間抜け」であることを思い知らされ悔しがった。
本因坊秀策
江戸末期に活躍した実在の天才棋士。幼名は虎次郎。棋力に秀でていたばかりではなく高潔な人格者でもあり、佐為も「賢くて優しい」と評し、多くの人々に尊敬されていた。ヒカルの前に佐為が取り憑いていた人物で同じ碁打ちとして佐為の強さを感じ取ったのか、生涯を彼に打たせて過ごした。御城碁の第一人者、そして本因坊家の跡目として将来を嘱望されていたが、1862年に江戸で大流行したコレラに感染して夭折してしまった。享年34。囲碁の歴史の中でも史上最強棋士候補として名前が挙がる一人。
菅原顕忠(すがわらのあきただ)
平安時代、佐為とともに囲碁指南役として天皇に仕えていた棋士。指南役は一人で十分として佐為と対局、誤魔化しをして勝とうとするが佐為に見破られかけ、逆に佐為が誤魔化しをしようとしたとして糾弾、心を乱した佐為に勝利した。
原作にもアニメ版にも名前は登場しないが、小説版にて名前が判明した。
井上(いのうえ)
ヒカルの祖父の知己でクツワ町の住人。周囲では名の知られた碁豪で、彼を倒したのはヒカルの祖父のみ。
その他の人物
進藤美津子(しんどう みつこ)
声 - 日野由利加
ヒカルの母。初登場(第38局)時は「小太りのおばさん」だったが、だんだん若々しくスマートに描かれるようになる。
囲碁の知識は全くなく、碁に傾倒し果てにプロになったヒカルを危ぶんでもいた。佐為成仏から虚脱状態になったヒカルに受験勉強させようとするが失敗、立ち直り碁に打ち込む姿を見て真剣に応援しようと決めた。
モデルは、自身も母として育児に奮闘した経験がある原作者のほったゆみ。
進藤正夫(しんどう まさお)
ヒカルの父で平八の息子。本編には未登場で平八のセリフで言及されたのみ。碁を全く打たない。
三谷(みたに)
祐輝の姉、高校生。インターネットカフェでアルバイトをしている。弟の友人であるヒカルに、タダでパソコンを使わせてあげた。
カツマタ(かつまた)
葉瀬中学生徒指導担当教諭。ゴリラを思わせる筋骨隆々の体格にこれ以上ない強面と、威圧感十分な風貌。素行不良著しい加賀を目の敵にしており、毎日のように加賀を追い回している。
鈴木(すずき)
ヒカルが中学3年の時の担任。囲碁から離れたヒカルに受験勉強させたいというヒカルの母からの相談に、言葉を濁らせる。その後立ち直ったヒカルを見て安堵していた。
松井(まつい)
葉瀬中学社会科担当教諭。ヒカルの依頼で佐為について調べるが、実在の証拠は見つからず。「いたかいなかったかはわからない」と結論付けた。
塔矢明子(とうや あきこ)
声 - 佐久間レイ
塔矢行洋の妻、アキラの母。ショートカットのおっとり美人だが、妻としての義務は果たしている。夫の地方対局の際には付き添うなど、サポートもこなしている。
戸刈(とがり)
声 - 小野健一
北斗杯スポンサーである北斗通信社の北斗杯担当室長。
北斗杯が始まるまでは囲碁そのものに全く興味がなく、国際棋戦主催もあくまで中韓へのコネクション強化のためと割り切ったもの。しかしヒカルや囲碁と身近で関わることで囲碁への認識を改めていき、一度限りの予定だった北斗杯を大盛況により翌年も開催するよう社長に進言するまでにいたった。その際、高永夏に敗れ涙するヒカルを激励した。
相川(あいかわ)
北斗通信社に勤めるOLで戸刈の部下。かなり子供っぽいところがある。
また、自覚はないようだがかなりのミーハーで、企画当初は母国日本のチームを応援すると言いながら趙石のかわいさや高永夏の美貌に魅了され、結果どのチームも応援するという考えに落ち着いた。
天童丸(てんどうまる)
「碁ジャス☆キャラクターガイド」巻末の描き下ろし『千年放浪』に登場する少年。佐為と仲が良く、よく遊んでいた。しかし本人は囲碁より蹴鞠が好きで、佐為の蹴鞠下手に振り回されていた。佐為が入水した(と推測できる描写あり)の時、「魂が千年現世に留まる予兆」とされる白い梟を見た。
担当編集者
高橋雅奈(連載スタート時からの担当。単行本の「ネームの日々」に登場する「タカハシさん」のこと。2002年に副編集長に昇格し担当を交代)[12]
吉田幸司(2代目担当。2002年35号より担当を引き継ぎ、終了まで継続)[13]
メディアミックス
アニメ
詳細は「ヒカルの碁 (アニメ)」を参照
テレビアニメ
ゲーム
詳細は「ヒカルの碁 (アニメ)#ゲーム」を参照
コナミデジタルエンタテインメントよりアニメをベースとしたコンピュータゲーム5作とトレーディングカードゲーム1作が発売されている。
また、任天堂の『JUMP SUPER STARS』 (ニンテンドーDS)には、ヒカルと佐為がサポートキャラクターとして登場している。
小説
横手美智子による小説化作品が、集英社の〈ジャンプ ジェイ ブックス〉より2002年と2003年にそれぞれ1作づつ発表されている。
書誌情報
特記のない限り全て集英社からの発行。
漫画本編
著者は全て、ほったゆみ・小畑健。
『ヒカルの碁』〈ジャンプ・コミックス〉新書判、全23巻
「棋聖降臨」1999年5月5日第1刷発行(4月30日発売[集 1])、ISBN 4-08-872717-7
「初陣」1999年8月9日第1刷発行(8月4日発売[集 2])、ISBN 4-08-872751-7
「前哨戦」1999年10月9日第1刷発行(10月4日発売[集 3])、ISBN 4-08-872777-0
「神の幻影」1999年12月7日第1刷発行(12月2日発売[集 4])、ISBN 4-08-872800-9
「始動」2000年2月7日第1刷発行(2月2日発売[集 5])、ISBN 4-08-872826-2
「院生試験」2000年4月9日第1刷発行(4月4日発売[集 6])、ISBN 4-08-872849-1
「若獅子戦」2000年6月7日第1刷発行(6月2日発売[集 7])、ISBN 4-08-872873-4
「プロ試験予選4日目 そして――」2000年8月9日第1刷発行(8月4日発売[集 8])、ISBN 4-08-872894-7
「本戦開始」2000年10月9日第1刷発行(10月4日発売[集 9])、ISBN 4-08-873022-4
「起死回生」2000年12月9日第1刷発行(12月4日発売[集 10])、ISBN 4-08-873047-X
「激戦」2001年3月7日第1刷発行(3月2日発売[集 11])、ISBN 4-08-873086-0
「新初段シリーズ」2001年5月6日第1刷発行(5月1日発売[集 12])、ISBN 4-08-873110-7
「プロ第一戦」2001年8月8日第1刷発行(8月3日発売[集 13])、ISBN 4-08-873144-1
「sai vs toya koyo」2001年10月9日第1刷発行(10月4日発売[集 14])、ISBN 4-08-873169-7
「さよなら」2001年12月29日第1刷発行(12月24日発売[集 15])、ISBN 4-08-873215-4
「中国棋院」2002年3月9日第1刷発行(3月4日発売[集 16])、ISBN 4-08-873232-4
「なつかしい笑顔」2002年6月9日第1刷発行(6月4日発売[集 17])、ISBN 4-08-873268-5
「番外編」2002年8月7日第1刷発行(8月2日発売[集 18])、ISBN 4-08-873289-8
「最強初段」2002年10月9日第1刷発行(10月4日発売[集 19])、ISBN 4-08-873332-0
「社 vs ヒカル」2003年1月11日第1刷発行(1月6日発売[集 20])、ISBN 4-08-873365-7
「北斗杯会場へ」2003年4月9日第1刷発行(4月4日発売[集 21])、ISBN 4-08-873408-4
「打倒高永夏」2003年6月9日第1刷発行(6月4日発売[集 22])、ISBN 4-08-873432-7
「あなたに呼びかけている」2003年9月9日第1刷発行(9月4日発売[集 23])、ISBN 4-08-873504-8
『ヒカルの碁 完全版』〈愛蔵版コミックス〉A5判、全20巻
2009年2月9日第1刷発行(2月4日発売[集 24])、ISBN 978-4-08-782206-9
2009年2月9日第1刷発行(2月4日発売[集 25])、ISBN 978-4-08-782207-6
2009年3月9日第1刷発行(3月4日発売[集 26])、ISBN 978-4-08-782208-3
2009年3月9日第1刷発行(3月4日発売[集 27])、ISBN 978-4-08-782209-0
2009年4月9日第1刷発行(4月3日発売[集 28])、ISBN 978-4-08-782210-6
2009年4月9日第1刷発行(4月3日発売[集 29])、ISBN 978-4-08-782211-3
2009年5月6日第1刷発行(5月1日発売[集 30])、ISBN 978-4-08-782212-0
2009年5月6日第1刷発行(5月1日発売[集 31])、ISBN 978-4-08-782213-7
2009年6月9日第1刷発行(6月4日発売[集 32])、ISBN 978-4-08-782214-4
2009年7月8日第1刷発行(7月3日発売[集 33])、ISBN 978-4-08-782215-1
2009年8月9日第1刷発行(8月4日発売[集 34])、ISBN 978-4-08-782216-8
2009年9月9日第1刷発行(9月4日発売[集 35])、ISBN 978-4-08-782217-5
2009年10月7日第1刷発行(10月2日発売[集 36])、ISBN 978-4-08-782218-2
2010年11月9日第1刷発行(11月4日発売[集 37])、ISBN 978-4-08-782219-9
2010年12月9日第1刷発行(12月4日発売[集 38])、ISBN 978-4-08-782220-5
2010年1月9日第1刷発行(1月4日発売[集 39])、ISBN 978-4-08-782221-2
2010年2月9日第1刷発行(2月4日発売[集 40])、ISBN 978-4-08-782222-9
2010年3月9日第1刷発行(3月4日発売[集 41])、ISBN 978-4-08-782223-6
2010年4月7日第1刷発行(4月2日発売[集 42])、ISBN 978-4-08-782224-3
2010年4月30日第1刷発行(4月30日発売[集 43])、ISBN 978-4-08-782225-0
『ヒカルの碁』〈集英社文庫〉文庫判、全12巻
2012年2月17日発売[集 44]、ISBN 978-4-08-619328-3
2012年2月17日発売[集 45]、ISBN 978-4-08-619329-0
2012年3月16日発売[集 46]、ISBN 978-4-08-619330-6
2012年3月16日発売[集 47]、ISBN 978-4-08-619331-3
2012年4月18日発売[集 48]、ISBN 978-4-08-619332-0
2012年4月18日発売[集 49]、ISBN 978-4-08-619333-7
2012年5月18日発売[集 50]、ISBN 978-4-08-619334-4
2012年5月18日発売[集 51]、ISBN 978-4-08-619335-1
2012年6月15日発売[集 52]、ISBN 978-4-08-619336-8
2012年6月15日発売[集 53]、ISBN 978-4-08-619337-5
2012年7月18日発売[集 54]、ISBN 978-4-08-619338-2
2012年7月18日発売[集 55]、ISBN 978-4-08-619339-9
その他
『ヒカルの碁 碁ジャス☆キャラクターズガイド』〈ジャンプ・コミックス〉2002年4月9日第1刷発行(4月4日発売[集 56])、ISBN 4-08-873278-2
『ヒカルの碁 囲碁スターターBOX』〈ジャンプ・コミックス〉2002年7月19日発売[集 57])、ISBN 4-08-905091-X
『ヒカルの碁イラスト集 「彩-sai-」』2002年4月初版発行(5月1日発売[集 58])、ISBN 4-08-782049-1
『小畑健画集 blanc et noir』2006年5月31日初版発行(5月31日発売[集 59])、 ISBN 4-08-782146-3
2001年から2006年に描かれた『DEATH NOTE』『ヒカルの碁』の画が中心
ほったゆみ・小畑健・横手美智子〈ジャンプ ジェイ ブックス〉
『ヒカルの碁―Boy Meets Ghost』2002年3月初版発行、ISBN 4-08-703112-8
新装版 2009年7月3日発売[集 60]、ISBN 978-4-08-703205-5
『ヒカルの碁―KAIO vs. HAZE ISBN』 2003年3月初版発行、4-08-703125-X
新装版 2009年7月3日発売[集 61]、ISBN 978-4-08-703206-2
石倉昇『ヒカルの碁勝利学』集英社インターナショナル、2002年5月24日発売[集 62]、ISBN 4-79-767050-9 (碁の導入書兼人生本)四六判変型
文庫版:集英社〈集英社文庫〉2009年2月20日発売[集 63]、ISBN 978-4-08-746408-5
石倉昇『ヒカルの囲碁入門』 2009年2月初版発行、ISBN 4-79-767188-2
吉田直樹『子どもを育てる碁学力 「ヒカルの碁」から始める教育術』集英社、2009年8月5日発売[集 64]、ISBN 978-4-08-775391-2、四六判
脚注
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注釈
^ 単行本第18巻に6話、第23巻に2話をそれぞれ収録(1話未収録)。また、後の完全版では第16巻に7話、第20巻に2話が収録された(未収録なし)。
^ 台湾では当初『棋霊王』というタイトルで21巻まで発売されたが、出版社が代わったのを期に香港版と同じ『棋魂』に統一され、1巻から再出版された。
^ 現実のプロ棋戦のコミは、連載途中の2002年から6目半に変更されている。
^ 実際の日本棋界においては、韓国・台湾などの外国籍棋士も多く所属し、活躍している。
^ 「九つの星」とは碁盤の目にある9つの黒い点を指し、作中で主人公が碁盤を宇宙に碁石を星に見立てて碁を打つ場面がある。
^ ヒカルと完全にうち解けるまでは(碁が打てないなどの理由で)佐為が本気で落ち込むとヒカルの体調に影響が出たほど。
^ 読者から女性と間違われることが多く、原作者は「ネームの日々18」(単行本7巻収録)において「佐為は男だと言い続けるのに疲れました」と苦労話を明かしている。作画の小畑健も「キャラ俳句優秀作」(単行本12巻収録)のコメントで女だと思っていたとの俳句に対し「イヤ…もうどっちでもいいです(笑)」と選評を書いている。
^ 『ヒカルの碁勝利学』の著者である石倉昇(九段)がモデルとする説があり、同書籍にも「白川七段のモデルはこの私です」という石倉九段による一文がある。また原作者が通った囲碁教室の講師である[1]水野芳香棋士とする説もあり、囲碁教室などでは「『ヒカルの碁』に登場した水野講師」と紹介をされている(瑞浪市役所広報誌1077号14頁)。両者とも、作者側からモデルについて言及があったことはない。
^ 作中で「神の一手」を極めるのはコンピュータだと発言し他の棋士に「あと100年はかかる」と笑われていたが、現実の囲碁界でも2016年3月にアルファ碁がイ・セドルに勝利したことで現実味を帯びてきた
^ 院生編以前から同一人物と見られる女子が登場していたものの、プロ試験編に至るまで名前が判明せず、第一回人気投票では「院生一組女子」という仮名称がつけられていた。その名称は単行本収録時に「奈瀬」にすべて統一された。
出典
^ “「ヒカルの碁」原作者が8年ぶり新作「はじマン」連載 自らマンガ執筆”. Mantanweb(まんたんウェブ) (2013年5月16日). 2013年5月20日閲覧。
^ 『朝日新聞』2003年5月27日
^ 『毎日新聞』2006年10月21日
^ 『朝日新聞』2000年9月9日夕刊
^ 『毎日新聞』2002年1月11日
^ 『Children's Express』2002年4月24日小中学生に囲碁ブーム(最終更新確認:2006年8月20日)
^ 仁太郎組「コミックダカーポ第5回」『ダカーポ 475号2001年9月5日』マガジンハウス、2001年
^ ただし、ヒカルは小学校6年生から始めたのに対し、彼は中学校2年生頃から始めている。
^ ただし、碁ジャス☆キャラクターズガイドでは、芦原より年下の村上信一も塔矢門下と紹介されている。
^ アキラが小学6年生(12歳)の時は20歳前(18巻より)で、アキラが中学2年生(14歳の誕生日を迎える)の頃は21歳の誕生日を迎えるため若獅子戦に参加できなかった(7巻より)。
^ “「ヒカルの碁」ネタ - 週刊碁ブログ”. 日本棋院 (2006年7月12日). 2008年8月18日閲覧。
^ 昇格については単行本19巻より。
^ 編集者交代については『ジャンプ』2002年35号の作者コメント、及び単行本19巻より。
以下の出典は『集英社BOOK NAVI』(集英社)内のページ。書誌情報の発売日の出典としている。
^ “ヒカルの碁/1|ジャンプコミックス” (n.d.). 2012年11月1日閲覧。
^ “ヒカルの碁/2|ジャンプコミックス” (n.d.). 2012年11月1日閲覧。
^ “ヒカルの碁/3|ジャンプコミックス” (n.d.). 2012年11月1日閲覧。
^ “ヒカルの碁/4|ジャンプコミックス” (n.d.). 2012年11月1日閲覧。
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^ “ヒカルの碁 完全版/1|愛蔵版コミックス” (n.d.). 2012年11月1日閲覧。
^ “ヒカルの碁 完全版/2|愛蔵版コミックス” (n.d.). 2012年11月1日閲覧。
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^ “ヒカルの碁 完全版/4|愛蔵版コミックス” (n.d.). 2012年11月1日閲覧。
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^ “ヒカルの碁 完全版/18|愛蔵版コミックス” (n.d.). 2012年11月1日閲覧。
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^ “ヒカルの碁/1|集英社文庫(コミック版)” (n.d.). 2012年11月1日閲覧。
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^ “新装版 ヒカルの碁/Boy Meets Ghost|JUMP jBOOKS” (n.d.). 2012年11月1日閲覧。
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^ “ヒカルの碁勝利学|随筆/ノンフィクション/他” (n.d.). 2012年11月11日閲覧。
^ “ヒカルの碁勝利学|集英社文庫(日本)” (n.d.). 2012年11月11日閲覧。
^ “子どもを育てる碁学力/「ヒカルの碁」から始める教育術|随筆/ノンフィクション/他” (n.d.). 2012年11月11日閲覧。
外部リンク
集英社内公式サイト - 「ヒカルの碁完全版」公式サイト
アニメ公式サイト
テレビ東京内公式サイト
ぴえろ内公式サイト
■
ヒカルの碁  ヒカルの碁 (アニメ)
ヒカルの碁
ジャンル	囲碁、少年向けアニメ
アニメ
原作	ほったゆみ、小畑健
監督	西澤晋、神谷純、えんどうてつや
シリーズ構成	大橋志吉
キャラクターデザイン	本橋秀之(メイン)、関口可奈味
上田美由紀、芝美奈子
音楽	若草恵
アニメーション制作	ぴえろ
製作	テレビ東京、電通、ぴえろ
放送局	テレビ東京および系列各局
放送期間	2001年10月10日 - 2003年3月26日
話数	全75話+スペシャル+特別編
その他	囲碁アドバイザー:梅沢由香里
製作協力:日本棋院
テンプレート - ノート
プロジェクト	アニメ
ポータル	アニメ
ヒカルの碁 (アニメ)では、ほったゆみ(原作)と小畑健(漫画)による漫画作品『ヒカルの碁』を原作としたアニメ作品およびその関連作品を扱う。
目次 
1	概要
1.1	テレビアニメ
1.2	ジャンプ・スーパーアニメツアー2002版
2	スタッフ
2.1	GOGO囲碁
3	主題歌
4	各話リスト
5	放送局
6	韓国での展開
7	ゲーム
7.1	コンピュータゲーム
7.1.1	ゲーム攻略本
7.2	カードゲーム
8	脚注
8.1	注釈
8.2	出典
9	外部リンク
概要
テレビアニメ
テレビ東京系列にて2001年10月10日から2003年3月26日まで全75話が放送された。原作コミックスの1巻から17巻および18巻の番外編の一部を基に、原作をほぼ忠実に再現している。
本編の後に「梅沢由香里の『GOGO囲碁』」という実写(VTR収録)のミニコーナーが用意されている。原作の監修を担当する梅沢由香里が2人の少年少女(子役)に囲碁の簡単なルールを解説して実践させるハウツーもので、EDと次回予告の間に放送された。ビデオソフトでは放送通り収録されているが、再放送では割愛されている場合がある(後述)。
アニメ化により原作の知名度も高まり、日本全国に囲碁ブームを巻き起こした(キッズステーションの作品紹介ではそのように紹介されている)が、アニメおよび原作の終了で2003年以降ブームは下火になっていった。その後、原作の北斗杯編前半(19巻 - 21巻)の予選部分をアニメ化した『ヒカルの碁スペシャル 北斗杯への道』が2004年1月3日に放送された。後半にあたる本戦のアニメ化は行われていない。
本放送では同時ネット局も含めてJR東日本がスポンサーとなっており、2001年11月に開始されたICカード乗車券「Suica」の最初期のCMが放映されていた(『ポケットモンスター』と違い制作には加わっていない)。第二期OPではSuica対応の自動改札機が描かれ、ヒカルが足早にきっぷを入れて通過するシーンがある。なお日本棋院は五番町(市ヶ谷)にあるが、序盤(3話)でアキラが市ヶ谷駅に向かうために乗り込んだのは都営新宿線であった。それ以外に登場人物が利用する路線についてはほぼ架空のものとなっている。
音楽制作はavex mode(現:avex entertainment)が『キャプテン翼』と共に全面的に関与した最初期のテレビアニメであり、主題歌は全てavex系レーベル所属アーティストによるものとなっている。ビデオソフトについても全てavex modeから発売され、2004年6月には、キャラクターソングを基に編集したビデオクリップとノンテロップOP/EDを収録した「SPECIAL CHARACTER DVD ヒカルの碁 -MEMORIES-」(テレビ版を基にした唯一のOVAでもある)を制作・発売している。
2009年4月20日から9月7日まで、テレビ東京系列にて月曜19時28分枠で「ヒカルの碁セレクション」のタイトルで再放送を行った。セレクションでは新たにEDが制作され、ED曲も新たに採用された。次回予告は無く、ED前に次回のサブタイトルをテロップで表示し、「GOGO囲碁」は放送していない。
2010年1月20日からアニマックスにて再放送開始。こちらは「GOGO囲碁」は放送されている。
2012年3月5日よりディズニーXDでも再放送を開始。こちらでは「GOGO囲碁」は放送されてはなく、EDの後に公式サイトのURLを隠した予告が放送されている。
ジャンプ・スーパーアニメツアー2002版
ヒカルの碁 特別編・裁きの一局!いにしえの華よ咲け!!
ジャンプ・スーパーアニメツアー2002(2001年秋冬)で上映。スタッフなどはテレビアニメ版と同一。その後、2002年の『週刊少年ジャンプ』8号から10号にて読者全員プレゼント企画でビデオが頒布された。また、2009年11月発売のDVD-BOX「『ヒカルの碁』全集」にて初DVD化されている。本作のみ手書きのセル画によるアニメになっておりデジタル制作されたテレビアニメ版とは雰囲気が異なる。
スタッフ
特記のないものはテレビアニメのみのスタッフ。※はジャンプ・スーパーアニメツアーとテレビの兼任、※※はジャンプ・スーパーアニメツアーとのみのスタッフを示す。
原作 - ほったゆみ、小畑健
囲碁アドバイザー - 梅沢由香里
企画 - 岩田圭介、原田孝、布川ゆうじ
監督 - 西澤晋※、神谷純、えんどうてつや
監修 - かみやじゅん
シリーズ構成 - 大橋志吉
メインキャラクターデザイン - 本橋秀之
キャラクターデザイン - 関口可奈味、上田美由紀、芝美奈子
プロップデザイン - 棚澤隆
美術監督 - 高木佐和子※
色彩設計 - いわみみか。
撮影監督 - 沖野雅英※
編集 - 松村正宏
音響監督 - 高橋秀雄
音楽プロデューサー - 長澤隆之
音楽 - 若草恵、古川順※※
音楽協力 - テレビ東京ミュージック
音楽制作 - ホット・ウェイヴ※※
プログラムマネージャー - 渡辺哲也
プロデューサー - 崔鐘秀→小林教子、山西太平、三上孝一→萩野賢
アニメーションプロデューサー - 鈴木重裕
製作協力 - 日本棋院
製作 - テレビ東京、電通、スタジオぴえろ→ぴえろ※
GOGO囲碁
出演
ゆかり先生 - 梅沢由香里
まいちゃん - 林真唯
ゆうきくん - 高橋優希
構成 - 横手美智子
演出 - 今林啓
制作プロダクション - ジェイ・フォース
制作 - 本間紀昭
主題歌
オープニング
曲名	作詞	作曲	編曲	歌	使用話
Get Over	松室麻衣	BOUNCEBACK	矢崎俊輔・中尾昌史	dream	第1話 - 第30話
北斗杯への道
I'll be the one	HΛLNA	佐藤あつし	HΛL	第31話 - 第60話
FANTASY	片瀬那奈	長岡成貢	片瀬那奈	第61話 - 第75話
エンディング
曲名	作詞	作曲	編曲	歌	使用話
ボクらの冒険	Keiji	Keiji、朝三“Sammy”憲一	Kids Alive、朝三“Sammy”憲一	Kids Alive	第1話 - 第12話
ヒトミノチカラ	森浩美	高見沢俊彦	上野圭市	観月ありさ	第13話 - 第30話
SINCERELY 〜ever dream〜	松室麻衣	菊池一仁	HΛL	dream	第31話 - 第46話
Days	shela	原一博	shela	第47話 - 第63話
MUSIC IS MY THING	John Sauli・Fonny De Wudi
日本語詞:海老根祐子	冬野竜彦	dream	第64話 - 第74話
Get Over (Special Mix)	松室麻衣	BOUNCEBACK	松藤由利+wonderwall	dream	第75話
Everlasting Snow	dream+BOUNCEBACK	ats-	北斗杯への道
最後のGAME	井上カノ	北野正人	亀田誠治	Do As Infinity	ヒカルの碁セレクション
(2009年6月15日 - 9月7日放送分)
坂道	SHOCO	古川順	五條真由美	スーパーアニメツアー
各話リスト
()内の日付は『ヒカルの碁セレクション』で放送された回。
放送日
(セレクション)	話数	サブタイトル	脚本	絵コンテ	演出	作画監督
2001年10月10日
(2009年4月20日)	第一局	永遠のライバル	大橋志吉	西澤晋	西澤晋	本橋秀之
2001年10月17日
(2009年4月27日)	第二局	見抜かれた急所!!	関本雄二	時矢義則
2001年10月24日
(2009年5月18日)	第三局	牙をむくアキラ	林有紀	本橋秀之
2001年10月31日
(2009年5月25日)	第四局	将棋部の加賀	冨岡淳広	島津奔	熊谷雅晃	時矢義則
大西貴子
2001年11月7日
(2009年6月1日)	第五局	覚醒の予感	大橋志吉	大原実	高瀬節夫	宮前真一
2001年11月14日
(2009年6月8日)	第六局	美しい一局	横手美智子	西澤晋	関本雄二	阿部純子
2001年11月21日
(2009年6月15日)	第七局	お前とは打たない	冨岡淳広	林有紀	本橋秀之
2001年11月28日	第八局	雨の中の策略	大橋志吉	榎本明広	青木佐恵子	和泉絹子
2001年12月5日	第九局	目ざわりな奴!!	ところともかず	高瀬節夫	宮前真一
2001年12月12日
(2009年6月29日)	第十局	3人目のメンバー	横手美智子	島津奔	関本雄二	時矢義則
2001年12月19日
(2009年7月6日)	第十一局	最も卑劣な行為	冨岡淳広	西澤晋	飯島正勝	福島豊明
2001年12月26日
(2009年7月13日)	第十二局	三将はお前だ	大橋志吉	林有紀	本橋秀之
2002年1月9日	第十三局	それぞれの決意	横手美智子	ところともかず	高瀬節夫	宮前真一
2002年1月16日
(2009年7月20日)	第十四局	三度目の対局	冨岡淳広	島津奔	真原五行	君塚勝教
2002年1月23日	第十五局	ネットに潜む棋士	大橋志吉	西澤晋	林有紀	本橋秀之
2002年1月30日	第十六局	saiはだれだ	横手美智子	かみやじゅん
えんどうてつや	えんどうてつや	君塚勝教
2002年2月6日
(2009年7月27日)	第十七局	追憶の一局	冨岡淳広	殿勝秀樹	宮前真一
2002年2月13日
(2009年8月3日)	第十八局	アキラ対sai	大橋志吉	えんどうてつや	時矢義則
2002年2月20日	第十九局	ヒカルの実力	横手美智子	かみやじゅん	政木伸一	福島豊明
2002年2月27日
(2009年8月10日)	第二十局	プロへの道	冨岡淳広	えんどうてつや	芝美奈子
時矢義則
2002年3月6日
(2009年8月17日)	第二十一局	葉瀬中囲碁部	大橋志吉	ところともかず	谷田部勝義	宮前真一
2002年3月13日
(2009年8月24日)	第二十二局	院生試験	横手美智子	えんどうてつや	杉藤さゆり
2002年3月20日
(2009年8月31日)	第二十三局	幽玄の間	冨岡淳広	政木伸一	福島豊明
2002年3月27日
(2009年9月7日)	第二十四局	王座VSアキラ	大橋志吉	えんどうてつや	芝美奈子
時矢義則
2002年4月10日	第二十五局	恐れとあせりと[特番 1]	殿勝秀樹	前澤弘美
第二十六局	ようこそ一組へ[特番 1]	冨岡淳広	政木伸一	杉藤さゆり
2002年4月17日	第二十七局	時々戻りたい場所	大橋志吉	えんどうてつや	きみしま幾智
河野悦隆
2002年4月24日	第二十八局	若獅子戦	横手美智子	かみやじゅん	えんどうてつや	福島豊明
2002年5月1日	第二十九局	桑原本因坊	冨岡淳広	殿勝秀樹	谷田部勝義	宮前真一
2002年5月8日	第三十局	緒方VS本因坊	大橋志吉	えんどうてつや	上田美由紀
鄭世權
2002年5月15日	第三十一局	プロ試験開始	横手美智子	菊池一仁	岡嶋国敏	芝美奈子
2002年5月22日	第三十二局	予選最終日	冨岡淳広	大森貴弘	えんどうてつや	森海斗
2002年5月29日	第三十三局	チーム結成!	大橋志吉	高瀬節夫	前澤弘美
2002年6月5日	第三十四局	勝ってはならない	横手美智子	関本雄二	えんどうてつや	佐光幸恵
2002年6月12日	第三十五局	勝者はひとり	冨岡淳広	政木伸一	杉藤さゆり
2002年6月19日	第三十六局	オレの名は	えんどうてつや	上田美由紀
2002年6月26日	第三十七局	本戦開始	大橋志吉	谷田部勝義	宮前真一
2002年7月3日	第三十八局	挑戦者たち	横手美智子	くるおひろし	きみしま幾智
2002年7月10日	第三十九局	魔の一瞬	冨岡淳広	新留俊哉	えんどうてつや	芝美奈子
2002年7月17日	第四十局	白星の行方	大橋志吉	川崎逸朗	政木伸一	福島豊明
2002年7月24日	第四十一局	三週では遅い!	横手美智子	えんどうてつや	仲田美歩
2002年7月31日	第四十二局	一人目の合格者	冨岡淳広	高瀬節夫	前澤弘美
2002年8月7日	第四十三局	ヒカルVS和谷	大橋志吉	えんどうてつや	杉藤さゆり
2002年8月14日	第四十四局	起死回生	横手美智子	野中卓也	きみしま幾智
2002年8月21日	第四十五局	ヒカルVS越智	冨岡淳広	政木伸一	佐光幸恵
2002年8月28日	第四十六局	プロ試験最終日	大橋志吉	くるおひろし	岡嶋国敏	福島豊明
2002年9月4日	第四十七局	プロの世界へ	横手美智子	殿勝秀樹	宮前真一
2002年9月11日	第四十八局	佐為VS名人	冨岡淳広	えんどうてつや	上田美由紀
大島巧
2002年9月18日	第四十九局	捨て身の一局	大橋志吉	政木伸一	杉藤さゆり
2002年9月25日	第五十局	藤原佐為	えんどうてつや	大島巧
2002年10月2日	第五十一局	倉田六段	横手美智子	くるおひろし	きみしま幾智
2002年10月9日	第五十二局	ヒカルVSアキラ	冨岡淳広	えんどうてつや	仲田美歩
芝美奈子
2002年10月16日	第五十三局	saiの告白	大橋志吉	谷田部勝義	前澤弘美
2002年10月23日	第五十四局	たかぶる心	冨岡淳広	えんどうてつや	上田美由紀
杉藤さゆり
2002年10月30日	第五十五局	sai vs toya koyo	大橋志吉	政木伸一	佐光幸恵
2002年11月6日	第五十六局	千年の答え	横手美智子	くるおひろし	岡嶋国敏	きみしま幾智
2002年11月13日	第五十七局	saiと打たせろ	冨岡淳広	成田歳法	浜津武広
2002年11月20日	第五十八局	一色碁	殿勝秀樹	宮前真一
2002年11月27日	第五十九局	塔矢行洋引退!	大橋志吉	新留俊哉	岡崎洋美
2002年12月4日	第六十局	さよならヒカル	横手美智子	えんどうてつや	佐光幸恵
2002年12月11日	第六十一局	佐為が消えた?	大橋志吉	神谷純	大島巧
2002年12月18日	第六十二局	広島最強棋士	冨岡淳広	政木伸一	君塚勝教
2002年12月25日	第六十三局	もう打たない	大橋志吉	谷田部勝義	前澤弘美
2003年1月8日	第六十四局	慶長の花器	横手美智子	なせなるみ	岡崎洋美
2003年1月15日	第六十五局	伊角の碁	おざわかずひろ	三宅雄一郎	齋藤雅和
2003年1月22日	第六十六局	運命の出会い	冨岡淳広	えんどうてつや	上田美由紀
2003年1月29日	第六十七局	試される伊角	大橋志吉	おざわかずひろ	大隈孝晴	越智信次
2003年2月5日	第六十八局	不戦敗	成田歳法	浜津武広
2003年2月12日	第六十九局	決意の訪問者	横手美智子	殿勝秀樹	宮前真一
2003年2月19日	第七十局	佐為がいた…	冨岡淳広	政木伸一	伊藤真朱	大島巧
2003年2月26日	第七十一局	復帰初戦	大橋志吉	なせなるみ	岡崎洋美
2003年3月5日	第七十二局	走り出した二人	横手美智子	おざわかずひろ	三宅雄一郎	齋藤雅和
2003年3月12日	第七十三局	進藤対塔矢	冨岡淳広	谷田部勝義	前澤弘美
2003年3月19日	第七十四局	キミの中にいる	大橋志吉	えんどうてつや	恩田尚之
2003年3月26日	第七十五局	なつかしい笑顔	上田美由紀
2004年1月3日	スペシャル	北斗杯への道	横手美智子
えんどうてつや	えんどうてつや
おざわかずひろ
伊藤真朱	わたなべぢゅんいち
岡嶋国敏
伊藤真朱	宮前真一
窪詔之
岡崎洋美
浜津武広
芝美奈子
ジャンプ・スーパーアニメツアー2002版
ヒカルの碁 特別編・裁きの一局!いにしえの華よ咲け!!	大橋志吉			本橋秀之
注釈
^ a b 本放映時、2話連続放映(1時間スペシャル)の際のタイトルは「突きつけられた佐為の刃 ヒカル最大の壁」
放送局
放送対象地域	放送局	系列	ネット形態
関東広域圏	テレビ東京	テレビ東京系列	制作局
北海道	テレビ北海道	同時ネット
岩手県	岩手めんこいテレビ	フジテレビ系列	遅れネット
宮城県	東北放送	TBS系列
山形県	山形テレビ	テレビ朝日系列
福島県	福島中央テレビ	日本テレビ系列
長野県	テレビ信州
山梨県	山梨放送
富山県	北日本放送
石川県	石川テレビ	フジテレビ系列
愛知県	テレビ愛知	テレビ東京系列	同時ネット
岐阜県	岐阜放送	独立協
三重県	三重テレビ	遅れネット
大阪府	テレビ大阪	テレビ東京系列	同時ネット
滋賀県	びわ湖放送	独立協	遅れネット
奈良県	奈良テレビ
和歌山県	テレビ和歌山
岡山県
香川県	テレビせとうち	テレビ東京系列	同時ネット
福岡県	TVQ九州放送
長崎県	長崎放送	TBS系列	遅れネット
鹿児島県	鹿児島テレビ	フジテレビ系列
沖縄県	琉球放送	TBS系列
日本全域	BSジャパン	衛星放送
その他
2015年9月からは、テレ朝チャンネル1でも放送が開始されている。
韓国での展開
韓国では、2000年より『ゴースト囲碁王(고스트 바둑왕)』のタイトルで韓国語版の漫画単行本全23巻(2000年3月9日~2003年10月22日)がソウル文化社により翻訳・発売された。
その後アニメーション版は韓国放送公社により、『ゴースト囲碁王』としてKBS第2チャンネルにて地上波放送された[1]。厳しい局内審議規定をくぐり抜けるため、舞台は日本から韓国に、平安時代は新羅に、原作の韓国は中国に、洪秀英は研修生に変更されるなど、設定が置き換えられた[2]。それに伴い和服の描写も修正され、佐為が着ている狩衣は幽霊という設定の下、真っ白なぼかしに差し替えられていた[2]。漫画版での評価が高かったことから、アニメ版での改変は混乱を呼び[3]、1話目を放送した時点で視聴者から多数のクレームが寄せられた[4]。
当初の予定としては、KBSが1話~26話、27話~最終回はアニメ専門放送局のトゥーニバースが制作・放送するはずだったが、最終的にKBS制作で最終回まで放送した。内容の改変と放送期間の都合により、75話から50話に短縮されている[1]。元々ほったゆみが韓国棋院関係者と親交が深く、その関連でソウル文化社と韓国棋院が合同して韓国での放送権を購入したが、韓国での囲碁ブームを起こす狙いもあったため、棋院の「視聴者数の多い地上波で放送した方が影響力が大きい」[3]という意向によりKBSで放送された経緯がある。
また、日本語版と同じく実写パートが用意され、イ・セドル9段(当時)が基本的な囲碁ルールを解説するというものだった[5]。
2005年4月4日には、KBSの全話終了を待たないまま、トゥーニバースにて放送が開始された。こちらは登場人物の名前や設定、オープニング曲などは原作のままとされ、放送話数も75話となった。通常は地上波版の映像を衛星局が買い取って放送する形が多いが、本作品については過度な映像編集が行われていため[1]、KBS版の映像は使用せず、トゥーニバースが新たに1話から韓国語版の制作を行った。
その後漫画版に関しても、完全版(集英社の2009年版)を翻訳したものが、2011年に「ヒカルの碁(히카루의 바둑)」のタイトルで発売された。こちらは韓国のプロ棋士、チン・ドンギュとイ・ダヘによる翻訳監修も入った他、表紙から本編に至るまで原作に忠実な翻訳が行われた[6]。
ゲーム
コンピュータゲーム
タイトル	発売日	プラットフォーム	メーカー	
ヒカルの碁	2001年10月25日	ゲームボーイアドバンス	コナミデジタルエンタテインメント	ストーリーは、ヒカルが院生になる直前か直後。
ヒカルの碁 平安幻想異聞録	2002年5月30日	プレイステーション	平安時代を舞台に、囲碁で妖怪を退治する外伝。
ヒカルの碁2―めざせプロ棋士!!	2002年7月18日	ゲームボーイアドバンス	前作にはなかった登場人物達に声が付いた。
ヒカルの碁 院生頂上決戦	2002年12月19日	プレイステーション	主人公はプレイヤー自身で、男女から選択。
相手への好感度や物語の選択次第でエンディングが変わる。
ヒカルの碁3	2003年3月20日	ニンテンドーゲームキューブ	ゲームボーイアドバンス版の集大成的な内容。
JUMP SUPER STARS	2005年8月8日	ニンテンドーDS	任天堂	ヒカルと佐為がサポートキャラクターとして登場している。
ゲーム攻略本
ヒカルの碁―めざせ棋聖!! ISBN 978-4-08-779138-9
ヒカルの碁2―めざせプロ棋士!! ISBN 978-4-08-779185-3
ヒカルの碁平安幻想異聞録―プレイステーション版 ISBN 978-4-08-779173-0
ヒカルの碁院生頂上決戦―プレイステーション版 ISBN 978-4-08-779211-9
ヒカルの碁3 ISBN 4-08-779230-7
カードゲーム
『ヒカルの碁 トレーディングカードゲーム 棋聖降臨』 - 漫画版およびアニメ版のヒカルの碁を題材にした、コナミ製作のトレーディングカードゲーム。囲碁の対局をイメージしたメイキングが特徴。
脚注
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注釈
出典
^ a b c タイジェムニュース:トゥーニバースもゴースト囲碁王放映する
^ a b 西村幸祐「捏造・改変なんでもあり! やっぱり変わらない韓国メディアの「反日無罪」」、『SAPIO』2009年5月27日・6月3日号、小学館、 p.85、2011年5月5日閲覧。
^ a b JOY囲碁 囲碁ニュース:【国内】ゴースト囲碁王、なぜブームを起こせなかったか
^ 中央日報日本語版:『ゴースト囲碁王』、不自然な画面処理で視聴者ら不満
^ Tygem - "楽しい囲碁ランド" 楽しむイ・セドル9段 1年目の院生と共に「ゴースト囲碁王」の囲碁教室進行
^ ORO - 国内ニュース:「ヒカルの碁」"完全版"出る ゴースト囲碁王、プロ棋士チン・ドンギュ、イ・ダヘ参加して完全版作業
外部リンク
テレビ東京内公式サイト
ぴえろ内公式サイト
テレビ東京系 水曜19:27 - 19:55枠
前番組	番組名	次番組
いい旅・夢気分
※19:00 - 20:00
【60分繰下げて継続】
ヒカルの碁
【本作以降アニメ枠】
NARUTO -ナルト-
【木曜18時台後半から移動】
テレビ東京系 月曜19:28 - 19:54枠(2009年4月 - 9月)
月曜時代劇傑作選・幻十郎必殺剣
※19:00 - 19:54
(再放送)
【ここまで時代劇枠】
ヒカルの碁セレクション
(再放送)
【本作以降アニメ枠】
たまごっち!
※19:00 - 19:30
FAIRY TAIL
※19:30 - 20:00
[隠す]
表 話 編 歴
ヒカルの碁
メディア展開	
テレビアニメ | ノベライズ
ゲーム	
ヒカルの碁 | ヒカルの碁 平安幻想異聞録 | ヒカルの碁2―めざせプロ棋士!! | ヒカルの碁 院生頂上決戦 | ヒカルの碁3
関連楽曲	
アニメOP	
Get Over | I'll be the one | FANTASY
アニメED	
ボクらの冒険 | ヒトミノチカラ | SINCERELY 〜ever dream〜 | Days | MUSIC IS MY THING | Get Over (Special Mix) | Everlasting Snow
関連項目	
ほったゆみ | 小畑健 | 吉原由香里 | JUMP SUPER STARS
■
『ヒカルの碁』(ヒカルのご)は、コナミより2001年10月25日に発売されたゲームボーイアドバンス用ゲームソフト。
囲碁漫画ヒカルの碁を原作としたゲームで、続編として2002年7月18日に『ヒカルの碁2』、2003年3月20日に『ヒカルの碁3』が発売された。
目次 
1	1作目
1.1	フリー対局
1.1.1	対局設定
1.1.2	初心者設定
1.1.3	佐偽メニュー
2	ヒカルの碁2
3	ヒカルの碁3
4	脚注
5	外部リンク
1作目
ストーリーは原作の初期に相当する。プレイヤーは葉瀬中の生徒で、何故か佐為が見えたため、ヒカルと共に囲碁部に入部して塔矢アキラとの対局を目指す。
チュートリアルを内包したストーリーモードとフリー対局(9路、13路、19路盤が選択可能)、通信対局(要 通信ケーブル)、詰碁(初級・中級・上級各100問+α)で構成されている。ハードのスペック上、上級者との対局はCPUの思考時間がかなり長い。
フリー対局
フリー対局はストーリーモードを進めると対局できる相手が増える。
対局設定
対局設定は下記を設定可能。
項目	選択肢	説明
対局開始	-	対局を開始。
碁盤	九路・十三路・十九路	碁盤の大きさを設定。
手番	黒番・白番・ニギリ	対局の手番を設定。
手合割	二~九・無	対局前に置かれる黒石の数を設定。手番が「ニギリ」では設定不可。
初心者設定	-	初心者設定画面に移動。
コミ	三~七目半・逆三・六・七目半・無	終局時、白番に足される目数を設定。逆コミの場合は白番の目数から引かれる。
演出	ON・OFF	対局中に一部の会話・碁盤の演出の有無を設定。相手が有利なら背景はブラックホール、自分が有利なら花、大量に碁石を取られた場合は稲妻の演出が出る。
自動設定	ON・OFF	自分と相手のランクの差に合わせて自動設定。これを付けると変更できる項目は「碁盤」「演出」「自動設定」のみとなる。
初心者設定
項目	選択肢	説明
対局開始	-	対局を開始。
地合分析	リアルタイム・ノーマル・オフ	対局中に表示される地合を設定。リアルタイムの場合はカーソルに合わせておおよその地合を表示。ノーマルはRボタンを押した場合のみ表示。
目算	ON・OFF	対局中、石を打つ度に目算を表示する設定が可能。ただしコミは数えない。
ヒント	最良手・三択・無	Lボタンで表示されるヒントの数を選択。最良手は一番お薦めの手を表示。三択は3箇所までお薦めの手を表示。
対局設定	-	対局設定画面に移動。佐偽メニューから選んだ場合は選べない。
待った	有・無	対局中、「待った」を使えるかどうか選択出来る。
警告	ON・OFF	相手が石を打ったとき、アタリになっている場所を表示してくれる。
初心者設定	ON・OFF	これをOFFにすると全ての初心者設定が無効になり、対局者の表情が変化せず、佐偽メニューからの再設定も出来なくなる。
佐偽メニュー
対局中にセレクトボタンを押すと佐偽メニューが出る。
項目	説明
パス	自分の手番を1回パスする。パスした直後に相手も「パス」すると終局。
終局確認	終局してもいいか相手に確認する。相手に断られても打ち直しが可能。
投了	自分の負けを認め、試合終了。
中断	対局を中断する。フリー対局では中断データを呼び出さないと敗北となる。ストーリー対局ではストーリーモードを選ぶとすぐに続きから対局する。
待った	前回の自分の手番を打ちなおすことができる。初心者設定で待ったが無しになってる場合は選択不可。
初心者設定	初心者設定を変更することができる。初心者設定が無しになってる場合もしくはストーリー対局では選択不可。
ヒカルの碁2
院生となり、ヒカルらと共にプロ棋士を目指す。コレクション碁石によるエフェクトの強化やボイスの追加がされている。
各キャラとの親密度によりイベントが起こるキャンペーン(ストーリー)モードや勝ち抜き戦のサバイバルモード等を収録。
ヒカルの碁3
ニンテンドーゲームキューブ用ソフトで思考時間が比較的短くなっている。ダウンロード専用GBAカートリッジを同梱しており、ジョイキャリーによって問題集や携帯碁盤をGBAにダウンロードしプレイすることが出来る。
ストーリーモードは1作目と『2』を併せたものになっている。初心者向けの3択碁やペア碁(最大4人プレイの2VS2対局)も追加されている。
脚注
外部リンク
ヒカルの碁(任天堂) - ウェイバックマシン(2013年9月8日アーカイブ分)
ヒカルの碁2(任天堂) - ウェイバックマシン(2013年9月6日アーカイブ分)
ヒカルの碁3(任天堂) - ウェイバックマシン(2013年5月27日アーカイブ分)
[隠す]
表 話 編 歴
ヒカルの碁
メディア展開	
テレビアニメ | ノベライズ
ゲーム	
ヒカルの碁 | ヒカルの碁 平安幻想異聞録 | ヒカルの碁2―めざせプロ棋士!! | ヒカルの碁 院生頂上決戦 | ヒカルの碁3
関連楽曲	
アニメOP	
Get Over | I'll be the one | FANTASY
アニメED	
ボクらの冒険 | ヒトミノチカラ | SINCERELY 〜ever dream〜 | Days | MUSIC IS MY THING | Get Over (Special Mix) | Everlasting Snow
関連項目	
ほったゆみ | 小畑健 | 吉原由香里 | JUMP SUPER STARS

■
ヒカルの碁 平安幻想異聞録(ひかるのごへいあんげんそういぶんろく)は2002年5月30日にコナミより発売されたプレイステーション用のゲームソフト。
目次 
1	解説
2	物語
3	登場人物
3.1	主要人物
3.2	妖し
3.3	光の友人
3.4	ED曲
4	関連項目
解説
人気囲碁漫画ヒカルの碁を原作としたキャラクターゲーム。内容は完全にゲームオリジナルで、平安時代を舞台に、都にはびこる妖怪と囲碁で戦い退治する和風ファンタジー外伝である。佐為以外の原作キャラクターはよく似た別人として登場する。
ストーリーモードでは盤の小さな9路盤で戦う。ヒントモードもあるので、原作は好きだが囲碁がわからないというプレイヤーでも十分クリアは可能。33人のキャラクターと自由に対局できるフリー対局モードでは9路、13路、19路盤が選択可能。
物語
都には最近妖しが出没する。藤原行洋の命を受け、近衛光は天才棋士藤原佐為を迎えに行く。内裏を訪れた佐為に、行洋は「陰陽師の賀茂明と共に都にはびこる妖しを退治せよ」と命じる。こうして光・佐為・明の妖怪退治が始まる。
登場人物
主要人物
藤原佐為(ふじわらの さい)
声優:千葉進歩
本作の主人公。
都では1番強い棋士であり、普段は町民に指導碁をしている。妖怪退治には囲碁の力が必要となり内裏に出入りできるようになった。
原作同様、光とは息が合うコンビ。
近衛光(このえの ひかる)
原作:進藤ヒカル、声優:川上とも子
原作の主人公で本作でも実質の主人公。
昔の警察である検非違使。今まであまり外に出なかった佐為の護衛役となる。
碁は素人だったが佐為に習い始める。その素質は未知数。
賀茂明(かもの あきら)
原作:塔矢アキラ、声優:小林沙苗
都では有名で帝からの信頼も厚い陰陽師。
光・佐為と共に妖怪退治に命じられ、お札などを使い佐為をサポートする。
幼い頃から陰陽師として育てられ友達がいなかったが、イベント「明の事情」をクリアすると光と友人関係が芽生える。
藤原行洋(ふじわらの こうよう)
原作:塔矢行洋、声優:津田英三
朝廷を二分する力を持つ大貴族。
妖怪を倒すため佐為・明・光を内裏に呼んだ。原作では明の父親だが本作では佐為の父親である。
緒方通匡(おがたの みちまさ)
原作:緒方精次、声優:藤原啓治
行洋派の中でもトップクラスの力を持つ中堅貴族。自宅で「お花見」ができるほどの力を持つ。
座間長房(ざまの ながふさ)
原作:座間、声優:石住昭彦
行洋派と対立する座間派のボス。行洋と同じぐらいの力を持つ。
イヤミな性格であり、佐為や光にイヤミを言ってくる。終盤からは佐為を陥れる罠をしかける。
菅原顕忠(すがはらの あきただ)
声優:星野充昭
倉田益隆(くらたの ますたか)
原作:倉田厚、声優:岩田光央
座間派の陰陽師。座間派だが別に光たちの邪魔をするわけでは無く、光たちとも仲が良い。
陰陽師としての実力は明と対等。
妖し
京の妖し(きょうの あやかし)
声優:納谷六朗
青龍(せいりゅう)
声優:楠見尚己
鬼(おに)
牛鬼(うしおに)
白虎(びゃっこ)
声優:北川勝博
狐(きつね)
人魚(にんぎょ)
朱雀(すざく)
声優:廣田行生
鵺(ぬえ)
河童(かっぱ)
玄武(げんぶ)
声優:吉野裕行
光の友人
伊角信輔(いすみの のぶすけ)
原作:伊角慎一郎、声優:鈴村健一
下級貴族。緒方から行洋派閥にスカウトされる程の実力がある(何の実力かは不明)。
平民と貴族の差を目の当たりにし悩む日々が続く。
原作同様和谷と仲が良い。
和谷助秀(わやの すけひで)
原作:和谷義高、声優:高木礼子
加賀諸純(かがの もろずみ)
原作:加賀鉄男、声優:伊藤健太郎
筒井公任(つついの きんとう)
原作:筒井公宏、声優:津村まこと
三谷基頼(みたにの もとより)
原作:三谷祐輝、声優:浅川悠
あかりの君( - きみ)
原作:藤崎あかり、声優:かかずゆみ
なせの君( - きみ)
原作:奈瀬明日美、声優:榎本温子
かねこの君( - きみ)
原作:金子正子、声優:ゆきじ
ED曲
『Love of a Life time』(歌:新谷さなえ)

■
連笑(れん しょう、连笑、Lian Xiao、1994年4月8日 - )は、中国の囲碁棋士。遼寧省丹東市出身、中国囲棋協会に所属、八段。阿含・桐山杯中国囲棋快棋公開戦、名人戦優勝、LG杯世界棋王戦ベスト8など。
目次 
1	経歴
1.1	タイトル歴
1.2	他の棋歴
2	参考文献
3	外部リンク
経歴
5歳で囲碁を学び、2002年に北京で呉肇毅道場に入門。2007年晩報杯全国業余囲棋選手権戦準優勝、同年初段。2008年乙級リーグに初出場。2009年全国個人戦乙級2位、三段。2010年新人王戦ベスト4、リコー杯新秀戦優勝、甲級リーグに山東チームで初出場、LG杯ベスト16進出、四段。2012年中信銀行杯決勝で柁嘉熹に敗れ準優勝、全国囲棋個人戦2位、第8届威孚房開杯棋王戦ベスト4、17期LG杯ベスト8。
2013年、七段、阿含・桐山杯優勝。2014年リコー杯囲棋戦優勝、名人戦挑戦者となるが陳耀燁に1-3で敗退。2015年、農心杯で副将として出場し韓国主将金志錫を破って中国優勝とした。同年名人戦で連続挑戦、3連勝で名人位となる。2017年に名人位防衛、天元戦で8連覇中の陳耀燁に2-0で勝ってタイトル獲得。
中国棋士ランキングでは2012年20位、2014年11位、2016年7位。
タイトル歴
リコー杯新秀戦 2010年
阿含・桐山杯中国囲棋快棋公開戦 2013年
リコー杯囲棋戦 2014年
名人戦 2015、17年
倡棋杯中国プロ囲棋選手権戦 2015年
中国囲棋天元戦 2017年
他の棋歴
国際棋戦
LG杯世界棋王戦 ベスト8 2012年(○朴文尭、○朴廷桓、×崔哲瀚)
Mlily夢百合杯世界囲碁オープン戦 ベスト8 2013年
百霊愛透杯世界囲碁オープン戦 ベスト8 2016年
春蘭杯世界囲碁選手権戦 ベスト8 2016年
阿含・桐山杯日中決戦 2013年 ○村川大介
おかげ杯国際新鋭対抗戦 2014年 3-0(○金庭賢、○瀬戸大樹、○陳詩淵)
農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦
2015年(16回) 1-0(○金志錫)
2016年(17回) 0-1(×李世乭)
国内棋戦
全国囲棋個人戦 2位 2012年
中信銀行杯電視囲棋快棋戦 準優勝 2012年
倡棋杯中国プロ囲棋選手権戦 準優勝 2013、16年
洛陽龍門杯中国囲棋棋聖戦 挑戦者 2014年
名人戦 挑戦者 2014年
中国囲棋甲級リーグ戦
2008年乙級(深圳棋院)5-2
2009年乙級(広東東湖棋院倶楽部有限公司)5-2
2010年(山東景芝酒業)10-8
2011年乙級(杭州囲棋学校)4-3
2012年(蘇泊爾杭州)13-7
2013年(蘇泊爾杭州)7-10
2014年乙級(蘇泊爾杭州)3-4
2015年(蘇泊爾杭州)11-10
2016年(蘇泊爾杭州)16-6(最高人気賞)
参考文献
『2010囲棋年鑑』中国囲棋協会 2011年
外部リンク
百度百科「连笑」
■
評価関数(ひょうかかんすう、英: evaluation function)とは、コンピュータにゲームをプレーさせるソフトウェアを開発する際に使われるプログラミング技術のひとつで、ゲームの局面の状態を静的に評価し数値に変換する関数のこと。
概要
評価関数を用いるプログラムは、局面の良し悪しを数値化し、それをもとにして着手を決定する。将棋やチェスでは駒の損得、オセロでは打つことができる場所の多さ、囲碁では陣地の大きさで評価関数を作る。しかし、現実のゲームでは、単純なアルゴリズムでは測れない要素が複雑に関係し合うため、正確な局面の評価はできない。そのため、着手ごとに枝分かれしていくゲーム木を作り、数手先の局面で評価関数を使用すること(探索)により、着手を決定する方法が用いられる。
原理的には、ゲーム開始から終了までの完全なゲーム木を再現できれば最善手を見つけることができる。しかし、完全なゲーム木は巨大であり、実際には扱うことはできない。そこでミニマックス法を使って探索を途中で終了したり、アルファ・ベータ法を使って枝数を減らし(枝刈り)探索の深さを伸ばす、といったアルゴリズム上の工夫が行われる。
素朴な評価関数の設計において、その精度はプログラマのゲームの理解力に依存する。ゲームのどの要素を重視するか、取捨選択がプログラマに委ねられているためである。近年ではプログラマのゲームの理解だけに頼らない、大量のゲーム履歴データを用いた評価関数の設計の試みにより、精度が大幅に高まった。
将棋のソフトウェアであるBonanzaは、6万局の棋譜から評価関数を自動生成した。2006年5月に行われた第16回世界コンピュータ将棋選手権においてBonanzaが優勝した。これを機に、他の将棋ソフトウェアも大量の棋譜から評価関数を生成する手法を用いるようになった。囲碁では 2006年、モンテカルロ法を応用しランダムに終局までをシミュレートし勝率の高かった着手を選択する手法を使ったソフトウェアCrazy Stoneが登場し、棋力が向上した。
関連項目
コンピュータ囲碁
コンピュータ将棋
コンピュータチェス
コンピュータオセロ
展開型ゲーム
ゲーム木
ミニマックス法
アルファ・ベータ法
深さ優先探索
幅優先探索
深さ制限探索
反復深化深さ優先探索
分枝限定法
力まかせ探索
モンテカルロ法

■
ヒラキは囲碁用語の一つで、すでに打たれた自分の石から辺へ向かって展開するように打つ手を指す。根拠の確保や勢力圏の拡大を目指す手である。打たれた手と壁の間に石がある場合や、打たれた手の近辺に自分の石がある場合はヒラキとは言われない。動詞では「ヒラく」「開く」と表現する。英語では「extension」。
概要
上図の白1 - 黒4および黒6・白7がそれぞれ「ヒラキ」の実例である。白1は白△3子からの勢力圏拡大と根拠の確保を図った手。また黒2・白3・白7はツメも兼ねているため、ヒラキヅメと呼ぶこともある。黒4のようにヒラキの間が二路である場合を「二間ビラキ」、白1のように三路である場合「三間ビラキ」と称する。
勢力確保のためには、一つずつ石を並べていくよりも大きくヒラいた方が速く勢力圏を拡大できる。しかし白3のように大きくヒラくと、黒8のように相手の打ち込みを喫する可能性も高くなる。しかし黒8は白が2子で構えている所に黒が1子で乗り込んできたわけで、次に打つ白石と合わせて1対3の兵力で戦える、という見方も出来る。このように相手に打ち込ませないようにするか、それとも相手に打ち込ませてその石を攻めて得を図ろうとするか、どちらを選ぶかが布石の重要な考えになる。
根拠を確保する目的のヒラキでは一間では狭すぎ、三間では薄いので、黒4のように二間ビラキが基本とされる。辺に石があり、相手がその石に迫ってきた場合は、二間ビラキをすることで根拠を確保するのが大事とされる。
ただし上辺の白△のように2子が縦に並んでいる場所では、この勢力によって打ち込みの威力を緩和できるため、三間までヒラける。これを格言で「二立三析」(「析」はヒラキの意)と言う。同様に「三立四析」「四立五析」という言い方もする。
■
封じ手(ふうじて)とは、主にボードゲームにおいて、対局の中断時に有利不利がでないよう、次の手をあらかじめ決めておく方法のことである。
目次 
1	概要
2	封じ手の構成
2.1	封じ手用紙
2.2	封筒
3	封じ手の手順
4	封じ手の戦略
5	その他
6	脚注
7	関連項目
概要
持ち時間制の対局を途中で中断する場合に、手番のプレイヤーが中断中も次の手を考え続けられるのでは不当に有利になり、持ち時間制の興も削がれる。このような不公平をなくすために、封じ手が用いられる。
具体的には、中断の規定時刻が来ると手番のプレイヤーは次の一手を決め、相手のプレイヤーに知られないよう紙に記入し、封筒に入れて封をする。これを再開後に開き、記入しておいた手を指して続行する。この方式により、中断中は双方とも相手の次の手がわからない状態で局面を考えなくてはならない。
封じ手は規定の時刻前に行うこともできる(この場合、規定時刻まで持ち時間を消費したものとして扱う)。また、規定の時刻に達しても、ただちに封じる必要はなく、持ち時間のある限り次の手を考慮してよい。
この方式はチェスで始まったもので、19世紀には既に行なわれていた。将棋では1927年に報知新聞社の記者で当時東京将棋連盟の評議委員だった生駒粂蔵の発案により導入された。現在公式に用いられているのは将棋と囲碁だけであるが、手番と持ち時間が影響するようなゲーム(例えばカードゲームや、ウォーゲームなど)ならすべて利用できる。
封じ手は、観戦するアマチュアにクイズとして出され、懸賞の対象とされることも多い。
封じ手の構成
封じ手には専用の用紙と封筒を用いる。
封じ手用紙
将棋(日本将棋連盟の棋戦の場合)
用紙は横置きの縦書きで四ツ折になっている[1]。
右側 - 右端に「封じ手」の表題が印刷されており、その横に棋戦名を記入する欄(「第○○期○○戦第○局」)、先手の名前を記入する欄、後手の名前を記入する欄がある。
左側 - 盤面が印刷されており、その上部に「(封じ手局面○○○まで)」と注記する欄がある。
囲碁(日本棋院の棋戦の場合)
用紙は縦置きの縦書きで四ツ折になっている[2]。
上側 - 右端の枠外に棋戦名の欄があり、その横の枠内に対局者の欄や消費時間を記入する欄がある。
下側 - 盤面が印刷されており、その図の右端に対局日や対局者等の欄があり、また、最下段には「日本棋院」と印刷されている。
封筒
将棋(日本将棋連盟の棋戦の場合)
封じ手を入れる封筒は縦書きの構成で、次のような欄が設けられている[1]。
表面
中央 - 「封じ手」の表題が印刷されている。
左側 - 上側に棋戦名を記入する欄(「第○○期○○戦第○局」)があり、その下側に会場名を記入する欄(「於○○○○○」)がある。
右側 - 上側に対局者を記入する欄(タイトル保持者の称号・名前を記入する「保持者」の欄と挑戦者の段位・名前を記入する「挑戦者」の欄)がある。また、その下側には立会人が署名する「立会人」の欄があり、この欄には副立会人も連署する。
裏面
裏面中央には「日本将棋連盟」の文字が印刷されており、左上に封じ手をした日付を記入する欄がある。
囲碁(日本棋院の棋戦の場合)
封じ手を入れる封筒は横書きの構成で、次のような欄が設けられている[2]。
表面(上から)
最上段には「封じ手」の表題が印刷されている。
2段目には棋戦名を記入する欄(「第○○期○○戦」)がある。
3段目には局数を記入する欄(「第○局」)がある。
4段目には立会が署名する「立会」の欄がある。
5段目・6段目には記録者の名前を記入する「記録」の欄がある。
7段目には封じ手の手数を記入する「封じ手○○○手目」の欄がある。
8段目には封じ手をした日時を記入する欄がある。
9段目から11段目までは消費時間を記入する欄であり、9段目には「消費時間(持ち時間・各○時間)」と印刷されている。その下の10段目には黒番の対局者の氏名と消費時間、11段目には白番の対局者の氏名と消費時間を記入する欄がある。
12段目には「保管者署名」の欄がある。
最下段には「財団法人日本棋院」の文字が印刷されている。
封じ手の手順
将棋や囲碁の一部のタイトル戦では2日にわたって対局が行われ、指しかけ(打ちかけ)にはすべてに封じ手が用いられる。
例えば将棋の名人戦は、一日目の午後6時30分が規定時刻となる。規定時刻になった時点で立会人(囲碁の場合は立会)は、次の一手が封じ手となることを知らせるが、規定時刻を過ぎても指し手を考慮することは認められている(持ち時間が残されている限り、どれだけ過ぎていてもよい)。
封じ手は次のような流れで行われる。将棋と囲碁とでは若干記入内容などが異なるが、ほぼ同様の手順で行われる。
封じ手番の対局者は、立会人に対し次の手を封じる旨の意思表明をする。このとき、記録係はただちに時計を止める(持ち時間の消費はここでストップする)。
記録係が封じ手用紙に棋戦名、対局者名、現在の局面を封じ手用紙に記入する(囲碁の場合には黒番と白番をそれぞれ青と赤に色分けして手順に従って数字を記入する)。将棋の封じ手の場合には2枚、囲碁の封じ手の場合には1枚の封じ手用紙に記入する。
対局者は秘密裏に封じ手用紙に記入する(将棋の場合は封じ手を2通作成するので2枚ともに記入する)。将棋の封じ手の場合、赤のペンで動かす駒を丸で囲み、移動先まで矢印を引くことで示される。棋譜符号が併せて用いられることもあり、同じく赤ペンで記入する。なお、将棋で駒を成るか成らないかを表す必要がある場合には局面欄外に記す。囲碁の封じ手の場合、封じ手の局面の図で用いられている黒番(青)と白番(赤)との色分けに従って、青いペンまたは赤いペンで石を打つ位置に丸をする。
封じ手が記入された封じ手用紙は秘密裏に封入される。将棋の場合、確認のために両対局者は封筒裏側の上部と下部の閉じ口の部分に赤のペンで名前を自署する(封の部分に苗字を自署して丸で囲む)。タイトル保持者と挑戦者は封筒の上下2ヶ所の対角の位置にそれぞれ署名するので、署名は両対局者のものを合わせると計4ヶ所になされることになる。なお、封筒表側の棋戦名・会場名・対局者の欄については立会人が記入し、立会人欄に立会人が署名したのち副立会人が連署する形をとる。囲碁の場合には立会の者が封筒の上部の封の部分に署名する。
将棋の場合、2通のうちひとつは立会人、もうひとつは対局場の金庫などに保管する。囲碁の場合、封じ手は1通で通常は立会が保管する(特に保管者がいる場合には「保管者署名」の欄に署名する)。
翌日、対局者は記録係の読み上げに従って前日までの手順を並べ、封じ手直前の局面を再現する。
立会人は対局者の前で鋏により封筒を開封し、(将棋の場合には2通の両方が同一の内容であることを確認の上で)封じ手を読み上げる。
封じ手番の対局者は、封じ手を実際の局面に反映させ対局を再開する。この時点で時計も再開される。
2日にわたらない対局でも、封じ手が用いられることがある。将棋日本シリーズでは、解説者の任意のタイミングで封じ手となり、対局が中断されて両対局者は休憩に入る。テレビ東京で放送されていた早指し将棋選手権でも、先手が41手目を封じる封じ手制が用いられていた。
また、非公式戦の公開対局のファンサービスなどで、懸賞次の一手などで用いられる着手も封じ手と呼ばれるが、不公平さをなくすという意味は少なく、便宜上の呼び名にとどまる。
将棋の場合、現在の体制になった当初である第二次大戦直後は、封じ手は符号で記入することになっていた。また、指しかけの時刻になったところで振り駒を行い、どちらが封じ手を行うかを決定していた。現在は指しかけ時に手番を持つものが封じ手を行うように変更されている。
駒の移動を符号でなく、図上の矢印で示すことになった経緯は諸説ある。一般には誤記入を避けるためといわれているが、ほとんど非識字棋士であったとされる阪田三吉が棋戦に登場した際、阪田に恥をかかせるわけにはいかず、当時の観戦記者、菅谷北斗星が発案したという講談のような話も残っている。
昼・夕の休憩時の指し掛けや打ち掛けでは封じ手は行わない。これについては、休憩の時点で手番を持っているものが長時間考えられて有利となり、公平さを欠くという主張もあるが、プロの対局者間ではあまり問題視されていない[3]。そもそも二日制の対局は囲碁・将棋ともに年間に数えるほどであるが、昼・夕休憩はほとんど全ての対局が該当し、これをすべて封じ手制にしていたらとてつもない労力が必要になる。
封じ手の戦略
一般的に、必然の一手を封じることは良くない。これは、非封じ手側がその必然の一手に対しての選択肢を深く考えることが出来てしまうからである。いくつか候補手が存在し、自分がどれを選んだか相手側にはわからないような局面で封じるのが望ましい。逆に、相手にそうさせないように持ち時間を調節するのもテクニックのひとつである。
とはいえあまりにも自分の選択肢の広い場面で封じ手をするのも良くない。自分が選んだ手が良いか悪いかを延々と考える羽目になるからである。
チェスでは、コンピュータ解析の発達と、持時間の短縮にともない、封じ手は1990年代後半にほぼ全廃された(ルール上は現存している)。
一方の囲碁や将棋においても、
一般のプレイヤーが封じ手を要求されることはない
プロプレイヤーにおいても、2日制のタイトル戦に出場するのは一部のトッププロに限られる
1日目に形勢がはっきりするような局面にすることは味が悪いとし、好まれない。必然、封じ手が重要な意味をもつことも少ない
などの理由で、封じ手の戦略について系統だった研究は発表されていない。主に、プレイヤーの好みや、その場の流れで選択することが多いようである。
『将棋世界』2008年2月号で、羽生善治・佐藤康光・森内俊之・谷川浩司・渡辺明・藤井猛の6人のプロ将棋棋士に封じ手の戦略や駆け引きについて質問している[4]。羽生・森内・谷川はそれほど気にしていないが、佐藤・渡辺・藤井は駆け引きがあると回答しており、特に渡辺と藤井は「封じる側が有利」としている。
囲碁においても、封じ手を嫌う棋士はいる。悪手を打ったのではないか、用紙に書き間違えていないかなどが気になり、眠れない棋士もいるという。1963年の第2期名人戦挑戦手合第6局では、挑戦者坂田栄男が封じ手の定刻間際に着手。自分に封じ手をさせようという坂田の作戦に怒った藤沢秀行名人がすかさず次の手を打つが、坂田も間髪入れずに着手、藤沢に封じ手を打たせた。この盤外戦に動揺した藤沢はこの封じ手で悪手を打ってしまい、この碁を落とした。次の第7局では、藤沢が定刻数秒前に打って坂田に封じ手をさせることに成功したが、結局この碁にも敗れ、名人を失う結果となった。「ヒカルの碁」でも、対局者同士の封じ手を巡る心理戦のやり取りが描かれている。
その他
2014年の将棋のタイトル戦では、第63期王将戦第1局~第7局、第72期名人戦第1局~第4局、第55期王位戦第1局~第4局(第3局は持将棋)と15局連続して封じた側が勝利できなかった(持将棋1局を挟んで封じた側の14連敗)。
テレビドラマ『古畑任三郎』第1シリーズ(『警部補古畑任三郎』)第5話「汚れた王将」(ゲスト:坂東八十助)では、ストーリー中に「封じ手」が登場、犯人の使用したトリックとして描かれている。しかし、実際に行われている封じ手のルールではこのトリックは不可能で、脚本の三谷幸喜も小説版のあとがきで、トリックが稚拙だったと認めている。
脚注
^ a b 日本将棋連盟「竜王戦中継plus」 (2010年10月27日). “封じ手用紙”. 日本将棋連盟. 2012年8月18日閲覧。
^ a b 毎日新聞社Twitterアカウント「毎日が囲碁道場」 (2012年7月29日). “封じ手用紙と封筒。 用紙には封じ手を示す丸印が確認できる。”. 毎日新聞社. 2012年8月18日閲覧。
^ たとえば、『将棋世界』2007年1月号185ページ「連盟の瀬川さん」に、不公平ではないかという読者からの質問と、そのように考えている棋士はいないと思われるとの瀬川晶司の回答が掲載されている。
^ 『将棋世界』2008年2月号、108~109ページ、「イメージと読みの将棋観」。
関連項目
将棋
囲碁
■
布石(ふせき)は囲碁序盤戦の打ち方。文字通り、お互いが盤上に石を布いてゆき、勢力圏を確保しようとする段階。これからどういう構想を持って打ち進めていくかを表すいわば土台作りの段階であり、盤上での双方のおおよその石の配置を定めていく。これが転じて布石という言葉は、将来のための準備を意味する一般用語として用いられるようになった。
一局のうちどこまでが布石かは対局ごとに異なり、明確な線が引けるわけではない。多くの場合、互いの石が接触して戦闘が始まるまでの段階を指す。明確な布石の段階を経ずに戦いに突入する場合もある。
目次 
1	布石の基本
1.1	布石の例
2	布石の歴史
3	布石の型と流行
3.1	並行型とタスキ型
3.2	本法の布石
3.3	秀策流
3.4	新布石
3.5	現代の布石
4	主な布石の例
5	参考図書
6	関連項目
7	外部リンク
布石の基本
囲碁は地を取り合うゲームであり、最も地を確保しやすい場所は隅であることから、お互いに隅から打ち始めることが普通である。次にシマリを打って隅を確保するか、カカリを打ってシマリを妨害し、定石が打たれる。そして辺へのヒラキ、ツメによって勢力圏を拡大し合い、戦闘へ入っていくというのが一般的な流れである。これを指した囲碁格言に「一隅、二シマリ、三ヒラキ」というものがある(ヒラキとカカリは同価値。また「四ツメ、五トビ」と続くこともある)。大場と急場の見極めも重要である。
布石の例
右上、右下でシマリ、左上、左下で定石が打たれた後白14とヒラキ、白22あたりまでがこの碁の布石段階。黒23の打ち込みから両者の石が接触し、中盤戦が開始される。
布石の歴史
室町時代までは、盤上に隅の星の位置に白黒の石を2子ずつ置いてから対局を始める事前置石制(互先置石制)が主流であったため、現代風の布石の概念は無く、最初から戦いが始まるのが一般的だった。室町後期から盤上に何もない状態から対局が開始される自由布石が広まり、布石と呼ばれる段階が発生した。本因坊算砂などの時代にはこの対局方法が広まり、隅への着点も小目、高目、目外しなどが主流となる。江戸時代になると家元制の下で、「一に空き隅、二にシマリかカカリ、三に辺」の布石理論が固まっていった。またこの時代に、隅の定石が整備され、布石と一体となって発展していった。本因坊道策は全局的な視点と手割論による合理的な布石法を生み出し、その後の布石の進歩に大きく貢献した。江戸末期の本因坊秀和、本因坊秀策らの時代にこの布石法は頂点に達し、秀策流の名も残っている。
江戸中期の7世安井仙知の中央重視の布石や、明治期の本因坊秀栄のスピードを重視した星打ちなど、新しい考え方も少しずつ広がった。昭和初期には木谷実と呉清源らが新布石を発表し、まったく新しいスタイルとして大流行を起こした。新布石はそれまでの小目中心の布石から星、三々を中心にすえたスピード感あふれる布石であり、また旧来の考え方からは想像も出来ない初手天元や五の五などの大胆な発想で一世を風靡し、囲碁界のみならず一般社会も巻き込んで一大センセーションを巻き起こした。
その後、新布石はそれ以前の旧布石と融合し、現代の布石に至った。また現代においてはコミの導入の影響により、黒番ではより攻撃的な布石が目指されるように変わった。三連星や中国流などシステム化された布石も数多く生まれている。近年では、武宮正樹による中央重視の「宇宙流布石」が、世界の囲碁界にインパクトをもたらした。中国流の、隅のシマリより辺のヒラキを優先する発想もまた、その後の布石の進化に大きな影響を与えている。
中国では清代(明治期)に日本の自由布石が伝わり、事前置石制から移行した。韓国では巡将碁と呼ばれる事前に16子を置く事前置石制が主流だったが、戦後に日本で修行した趙南哲が自由布石法を広めた。両国とも1980年代には棋力のレベルも日本と肩を並べ、それぞれ独自の布石研究も進んだ。
布石の型と流行
布石にも時代により流行り廃りがある。研究が進んだことによって不利となり、省みられなくなる布石もあるが、時の第一人者の棋風に影響される面も大きい。
並行型とタスキ型
布石は、最初に隅に打たれる4手の配置により、大きく並行型とタスキ型に分類できる。
並行型
タスキ型
 上図のように、黒石・白石が同じ辺を占める打ち方を「並行型」、対角線を占める打ち方を「タスキ型」と称する。並行型では対辺をお互いが勢力圏とするために模様の碁に、タスキ型では局面が細分化されて戦いの碁になりやすい傾向がある。
本法の布石
江戸期までの布石の型。小目中心の布石で、交互に空き隅の小目を占め、続いてそれぞれの小目のシマリを打つ型を言う。これを基本型として、シマリの代わりにカカリ、空き隅の代わりにカカリ、空き隅の占め方を小目の代わりに高目、目外しを選ぶといったバリエーションが生じる。そこから隅を中心とした戦いに移行していく。

 本法の布石
秀策流
江戸末期に本因坊秀策が先番必勝の布石として愛用したことで知られる。先番(黒)が隅の小目を占め、後手(白)が空き隅の代わりに黒の小目へのケイマのカカリ(目外しの位置)に打った場合、黒は小目から黒7のコスミを打つ型を言う。このコスミを「秀策のコスミ」とも言い、隅を強い形にし、そこを基点にした辺への展開と白石への攻めの二通りの狙いを持つことが出来るのが特長で、明治以降にもこの考え方が多用された。ただしコミの導入された現代では、黒の布石としてはややぬるいという考え方が生まれ、黒番ではより攻撃的な手法が考案されるとともに、秀策のコスミ自体はむしろ白番の手法として見直されている。

 秀策流(黒7が秀策のコスミ)

 現代における白番のコスミ
新布石
中央への勢力と、隅は星、三々を占めることによるスピードを重視した布石(新布石の項参照)。昭和初期に勃興し、中央重視の流れから、さまざまなスタイルが試みられた。 木谷らはその後旧布石に戻ったが、呉や高川格など星打ちを中心にした布石を続けた者も多い。特に黒番での二連星と一間高ガカリの組み合わせは呉が十番碁などで用いて、他の棋士も多用したため、「秀策の一、三、五」になぞらえて「昭和の一、三、五」と呼ばれた。
小杉丁(黒)-呉清源(1933年)

 昭和の一、三、五の布石
現代の布石
昭和になって坂田栄男や石田芳夫らによって三々打ちが流行したが、位の高い攻撃的な布石が人気を集めるにつれて三々は徐々に少なくなった。1970年代からは武宮正樹の中央志向の布石・宇宙流が人気を集め、二連星、三連星などの簡明な布石がプロアマ問わず流行した。同様に中国流、小林光一の多用した小林流などが登場し、現代でも多く打たれている。
90年代以降韓国囲碁界が隆盛を迎え、一つの布石を多数のプロが集中的に打って徹底的に研究し尽くすスタイルが出来上がった。この中でミニ中国流などが必勝布石として数多く打たれたが、近年では序盤から布石らしい布石のないまま乱戦が始まることが多くなっている。
現代では日中韓とも厚み、勢力よりも地に辛く打つスタイルが主流になりつつあるが、高尾紳路など厚み派に分類される棋士も活躍している。結局、布石は棋風や好みに合わせて選択されるもので、「これがベスト」といえるようなものはない。

主な布石の例
二連星
上の図のように、2隅を星で占める布石。辺への展開力、スピードに優れている。 黒番、白番問わずよく打たれる布石である。 なお、同じ星でも対角の2隅を占めるものはタスキ星と呼ばれる。

三連星

二連星からさらに辺の星を占める布石。新布石時代にも打たれていた布石で、地に甘いが中央志向が強く、大模様になりやすい布石である。 昭和末期~平成初期にかけて流行、特に武宮正樹はこの布石を愛用して大活躍を収めた。 最近では三連星対策の研究が進み、また地に甘い事を嫌ってか、プロの碁で打たれる事は少なくなっている。

中国流
上図のように、星・小目・辺の星の斜め下に構える布石。 三連星に似た構えだが、三連星に比べて地に辛く、場合によっては模様を捨てて実利に転換する事ができる和戦両様の布石である。 プロの碁では現在でもよく打たれる布石で、愛好者も多い。 辺の石をaの地点に構えるのもある(高中国流という)が、近年では地に甘いと見なされ、低い中国流に比べるとあまり打たれなくなっている。項目中国流も参照。

小林流
上図の黒の構えが小林流。小林光一が愛用した事からこの名前がついた。 韓国囲碁界で一時期大流行し、この後の打ち方について様々な研究が行われた。 現在でもよく打たれている。項目小林流も参照。
ミニ中国流
上図の下辺の黒の構えがミニ中国流である。 前述の通り、韓国で数多く打たれ、様々な研究が行われた。
参考図書
『新・早わかり布石小事典』日本棋院
『布石大事典』日本棋院
高川格『布石辞典 上・下』誠文堂新光社
林海峯『基本布石事典 上・下』日本棋院
依田紀基『新版 基本布石事典 上・下』日本棋院
関連項目
囲碁の歴史
定石
外部リンク
布石問題集
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新布石(しんふせき)は、1933年(昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁の布石のスタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。
目次 
1	経過
2	理論
2.1	隅の占拠
2.1.1	隅先占の理由
2.1.2	隅先占の方法
2.2	辺への発展
2.2.1	第三線の価値
2.2.2	第三線の不利
2.3	地域の可能性と固定性
2.3.1	偏りと融通性
2.3.2	新布石法成立の根本的理由
2.4	新布石法の基礎
2.4.1	新布石法の抽象論
2.4.2	平均の理論
2.4.3	隅の重要性
2.4.4	平均における星の優位
2.4.5	「五の五」の性質
2.4.6	辺における星の優位
2.4.7	天元の優位
2.4.8	二着の平均
2.4.9	三着の平均
2.5	釣合い論
2.6	三連星の理論
2.7	一・三・五・七の型
2.8	布石各論
3	新布石の例
3.1	呉清源 対 小杉丁
3.2	木谷実 対 呉清源
3.3	本因坊秀哉名人 対 呉清源
3.4	田中不二男 対 高川格
4	影響・評価
5	記念碑
6	脚注
経過
1931年(昭和6年)頃から白番での旧来の小目定石の辺への展開の遅さにもどかしさを感じていた呉清源は三三・星を試していた。昭和8年、木谷實との十番碁で呉は黒番で当時では珍しいタスキ星を打ち、木谷もはっきりと隅より中央の勢力を重視した打ち方をした。
1933年夏、十番碁第5局の途中に木谷が呉を避暑を兼ねて温泉に保養に行こうと誘い、2人で木谷夫人の実家のある長野県の地獄谷温泉にでかけた。2日目か3日目の朝、呉が木谷の部屋に行くと木谷が『布石と定石の統合』という本の口述執筆をライターにしていた。興味を覚えた呉は傍に座って講義をきいた。話の中身は中央を中心とした布石の考え方についてであり、初めは納得出来なかった呉だがしだいに理解していった。その後1周間の滞在で議論を重ね新布石の構想を練っていった。時に木谷24歳、呉19歳であった。[1]

本因坊秀哉名人(左)と呉清源五段(右)の対局。
同年秋の大手合において二人はこの斬新なスタイルを駆使し、呉が1等、木谷が2等という好成績を収めて話題を集めた。10月には呉が本因坊秀哉名人に対し三々・星・天元の大胆な布石で勝負を挑み、満天下の注目を集めた(秀哉白番2目勝)。
新布石が世間一般にも広がったのは安永が書いた『囲碁の革命 新布石法』が世に出てからである。
地獄谷へ行った年の大晦日、呉が西園寺先生のお宅からの帰りに木谷さんの家によると、日本棋院の編集長をしている安永が来ていた。安永は2人に新布石についてしきりに議論をもちかけた。呉と木谷がそれについて意見を述べ合い、果ては碁盤を囲み、石を並べ、議論はいつまでも果てることがなかった。夢中になって議論をしているうちに徹 夜になり、いつしか夜も白々と明けて正月の朝が来てしまった。木谷の新布石の考え方は一言では説明するのは難しいが隅の地よりも中央に向かう勢力を大切にするということで、三連星は新布石の代表的なものの一つである[1]
安永が書いた『囲碁の革命 新布石法』が出版されたのはそれからまもなくのことである。この本は木谷実、呉清源、安永一の三人の共著となっているが、木谷と呉の意見を安永がまとめ見事に理論づけしたもので安永は原稿の執筆から販売まで1カ月で仕上げたと言って自慢をしていた。
『新布石法』はアマチュアの間で大歓迎を受けた。1934年には発売当日本を買いに来た人の行列が発行者の平凡社の社屋を二重三重に取り巻いたという。当時で10万部売れたそうで、この時代に碁の方がこれだけ売れたのは超ベストセラーであった。とにかく新布石は大変な人気となり呉と木谷の対局で木谷の打った新布石が号外として街頭で配られたこともある。この時木谷は黒1と黒3を「5の五」に打った。この他、「4の六」は「大高目」とか「超高目」というふうに呼ばれた。
煩わしい定石に縛られなくとも良い新布石はアマチュアの間で歓迎された。ともかく新布石が打ち出されたことにより、旧来の小目定石に縛られていた布石が解放されて、布石に対する考え方が自由になり、盤上の世界が広がった。新布石はしばらくのあいだ木谷と呉が大いに打ち、勝率も良かったので大いに人気を煽った。そのため他の棋士も2人にならって宇宙流を打ち、盤上では華々しい空中戦が繰り広げられた。しかし新布石が旧来の布石より必ず優れているから勝つわけではない。要は打つ人の棋力に負うものであった。[1]
この年の春期大手合では久保松勝喜代ら関西の棋士が一斉に第一着を天元に打つなど、専門棋士の間にも波及し始めた。これに対し権威者であった本因坊秀哉は否定的な見解を示し、一門の弟子たちは旧来の布石を守って新布石に戦いを挑んだ。
この後、田中不二男らが7の七、5の十の四連打といった「ウルトラ新布石」を試みるなど暴走とも言える展開を見せたが、1936年ころには木谷も地を重視するスタイルに変化し、ブームとしての新布石は終わりを告げた。
理論
隅の占拠


隅先占の理由
囲碁は終局において彼我の地域の代償を比較して勝敗を定めるものである関係上、第一に考えるねばならぬことは、いかにすれば最も有効に地域を占め得るかということでなければならない。有効ということは相手が一手ずつ打つのだから手数が最も少ないということに帰する。[1]
隅先占の方法
隅の先占が有利であるとするならば、いかなる方法で占めるか。この方法は現在までは周知のごとく「シマリ」の形式が取られている。
その他に、星、三々等を上げることができるがこれは比較的少ない。三々は隅を一手で打って、その一手により隅を最も確実に独占する着手でありながら、なぜ用いられなかったのか。
一体隅の先占と言うことには、単に隅を打つだけの意味ではなく、根底的に隅を囲むということが入っている。この見地から三々は隅を打って入るが、囲むべき隅を自ら消してる訳で、これが従来三々の選ばれなかった理由である。この理由から必然的に考えられることは、隅を一手で打ち切らずに、二手で打とうということである。
星も三々と同じく隅に対して偏ってなく一手で打ち切ってるため、隅を囲むことに主眼をおいていた時代には同様余り多く用いられなかった。
一手で打ち切るということは必然的に――隅のみに関して――後続手段の少ないことを意味する。と同時に星、三々の利益とする所は、他の小目、目外し等に比べて隅を余計に打っているだけに、他から働きかけてきた時に有利に応酬し得る。数字で例示してみると、隅を二手でシマることが「4」だけの価値と仮定すると、星や三々は一手で「2」だけ打っている。これに対しシマリの方は二手重なると「4」であるが、一手では「1」の価値しか持っていない理になる。その代わり星や三々は続いてもう一手打つと「4」でなく「3」に低減する恐れがある所に難点を持つ。
詰みの重要性を考慮に入れて、隅を囲むという見地から必然的に現れるのがシマリである。しかし、この考えに至る道程を仔細に考察すると、隅の地に対する考え方は正しいが全局的の連関に深い考慮が払われていない避難を免れない。すなわちシマリの考え方が余りにも部分的である点に満足できない。
これらは囲碁の根本命題であるすべての着手が最もよく釣り合いを保って連関しているべきであるということに反してくる。[1]

シマリが一つの偏りであることは済の一間ジマリはこの場合aの三々一着だけで間に合いシマリの脆弱たることが暴露している。もちろんこの図においてシマリ以外の外側の石を打つ時に、このシマリの血管を考慮すればよいのだが、外側の石は隅より外部に対してより深い交渉を持つ場合が多いから、この制限――隅のシマリを有効ならしめる――に束縛されることはそれだけ着手の自由を妨げられることになる。
この考えからシマリが必ずしも絶対に優位になるとは信じられない場合が生じてくる。[1]
辺への発展
第三線の価値
隅の先占次いで考えられるのは辺への発展である。辺ではどの位置が良いか。aはもっとも堅固であるがいかにも狭く、地を形成しても非常に小さい。bは中庸を得ていて内側への敵の手段を牽制していると同時に外側への相当の発展力を持っている。cに至っては辺日を取る意味から遠ざかっているので従来はあまり喜ばれなかった。これらの結果から帰納して、辺における地域の目的をすればbすなわち第三線が選ばれるのは当然であった。[1]
第三線の不利
しかし第三線にも不利を伴っており、図においてaとbを比較して見るにaは18目bは28目、しかも石数は等しいのである。ここには重大な意味が潜んでおりすなわち二手三手位の少ない手数でへんを手に有する場合には第三線の有利を認め得るが、石数を増やすと必ずしも第三線が有利ではないことが解かる。すなわち呉は現在の地より終局の地を重視する点から考えて第三線が必ずしも最適の先ではないことを知る。a、bの手数をそれぞれ半減したc,d両図についてもこの理は通じる。[1]
地域の可能性と固定性
偏りと融通性
以上で第三線有利の根本条件は石数の少ない、すなわちその部分で固定している地域を根底としていることが分明した。かりにこれを固定的地域と名付ける。すべて固定的のものには融通性がない。しかるに囲碁の根本命題が全局的相関にあるのでこの三線着手が囲碁の本義にもとる訳である。如上の理由から、四線または五線が辺の着手として選ばれると同時に新布石法においてはこの固定性が極度に排撃されるのである。現在は地ではないが後に至って地になる可能性のあるものを可能的地域と名付ける。
可能的地域は固定的地域に比し不安を持つ反面融通性を多分に持つ。少しく誇張して言えば、融通性は不安と不確かに正比例するという意義さえ無いではない。この融通性に富むことはすなわち偏りの少ないことである。[1]
新布石法成立の根本的理由
この図においてaの地は黒約45目、bの地は黒約33目しかも石数はabとも同数である。始めaの隅の方の五目だけあったものと仮定する。次にもう五目並べるとしてその線に沿って下方に並べたbよりも、右方外側に置くaのほうが優ることが分かる。
要約すると固定的地域は発展性に乏しく、後続手段に対して有効に関連しにくいということである。囲碁において最も望ましいことは全ての着手が相関的に効果を持つことなので、これを囲碁の根本命題とする。固定的地域は部分的に固定している、すなわちその局部局部で完成しているわけだからそれからの発展性は少ないわけになる。すなわち囲碁が渾然たる融和を持つ一つの有機的統一体であることを妨げることになるから悪いのは当然である。[1]
新布石法の基礎
新布石法の抽象論
平均の理論
隅の重要性
平均における星の優位
星はそれ自身で隅を打ち切っていると同時に固定された地域としては隅を少しも打っていないことになる。すなわち敵の石が三々にくれば地でなくなるから星は隅を打ち、隅を打っていないとも言えるわけで、このことは隅に対して星が偏っていない証拠である。これは平均の理論から非常に重要な事であって実は星には平均の極地と言える。
「五の五」の性質
辺における星の優位
天元の優位
二着の平均
三着の平均
釣合い論
三連星の理論
一・三・五・七の型
布石各論
新布石の例
 呉清源(先番) 対 木谷實
新布石誕生の一局と言われる。時事新聞社企画の十番碁第6局。黒は当時では珍しいタスキ星を打っている。木谷もはっきりと隅より中央の勢力を重視した打ち方に変わっている。図の局面までで打ち掛けになっていたところで木谷・呉の地獄谷での意見交換があり、再開後に呉は黒31へと模様を消した。地獄谷での新布石構想がなければ、31でなく「a」に打ち込むつもりであったという。黒31に対して白32に受けたところで、黒33と中央を意識した高いカカリを放った。この碁を境に新布石が具体化する。
呉清源 対 小杉丁
小杉丁(先番)
秋の大手合。古来からの盤面遊技に形が似ていたため、「十六むさしの一局」と呼ばれた。白の位の高い新布石に対抗して、黒の小杉四段は、意識的に位の低い布石を敷いている。黒は隅と辺で実利を稼ぎ、後は天元に打って城の中央の勢力をぼかしてしまう作戦である。[1]小杉はこの局について「奇をもって奇に当たったに過ぎません」と述べている。
木谷実 対 呉清源
木谷実(先番)
報知新聞社主催の手合で木谷は黒1と黒3を「5の五」に打った。これを報知新聞は「木谷5の五に打つ」と号外として街頭で配られた。
本因坊秀哉名人 対 呉清源
 先番:呉清源
1933年(昭和8年)、新布石旋風が囲碁界を吹きまくる頃、読売新聞が日本囲碁選手権戦を企画した。優勝者は本因坊秀哉名人に先番で打ってもらえることだった。呉清源はトーナメントを勝ち上がり名人と対局することなった。この対局は「不敗の名人対鬼才呉清源の対決」という謳い文句で大いに宣伝され、前人気はたいへんなものとなった。呉は気が楽である一方、秀哉名人はを総帥とする本因坊一門にとっては負ければ本因坊家の権威にかかわるので、大変に不安多い重大な対局であったに違いない。[1]
21手目まで。黒の呉が三々・星・天元と新布石を連打した。白が二隅とも小目だから、黒としては地と勢力のバランスをとるために5手目に天元を打ったのであり、特に奇をてらったつもりはなかった。ところが、これが大変な反響を引き起こした。この三手が本因坊家の布石の教えに背くものであったからである。とくに三三は坊門の中では禁手であった。坊門の棋士たちの気に障っただけでなく、一般の囲碁ファンもびっくりしたらしい。呉はそれ以前にも打っていたのだがまだ『新布石法』が一出版される直前であり、まだ世間の目にはあまり触れていなかった。また五手目に天元を打ったのは呉自身も初だった。[1]
とにかく三三の禁手を第一手目に打ったことは、世間の囲碁ファンの人気を煽ると同時に、名人に対する、いや日本の伝手王に対する挑戦である、けしからん!という調子の投書も随分と新聞社に舞い込んだそうである。[1]
ちょうどその時期は日本が満州事変を起こし、日中の関係が険悪化の一途を辿っていた頃であった。新聞も二人の対決を大げさに書き立て、周囲の関心が強まるにつれて、次第に日中対抗のような雰囲気を帯びてきた。[1]
対局は名人の健康のこともあって毎週一回月曜日に打たれ、昭和八年10月16日に開始され、翌年の1月の29日までかかった。封じ手制はなく名人の都合でいつでも白番で打ち掛けにできた。第八日目などは名人は打ち、黒の呉が二分考えてすぐに応じると、名人は三時間半も考えたあげく、一手も打つこと無く打ち掛となってしまった。
碁の内容は接戦で中盤では若干黒が厚いという進行であったが、秀哉名人の160手目の妙手で5子を取り、逆転二目勝利で権威を死守した。 [2]。
田中不二男 対 高川格
高川格(先番)
田中不二男の「ウルトラ新布石」。呉に匹敵すると言われた才能の主だったが、25歳で夭折した。後に本因坊を連覇していた時代の高川は、「もし田中が生きていたら、僕なんかまだ頭を押さえられていますよ」と評している。
影響・評価
旧来の碁は隅から辺へ、辺から中央へという石運びの順が決められ、絶対普遍の真理だった。呉は物心ついたころから中国古典を叩きこまれた人であり、地獄谷にも「大学」と「中庸」を持参して読みふけっていた。新布石構想の屋台骨に「中庸」の考え方があり、中国で生まれ育った天才棋士には本因坊家がどうのといったしがらみもなかった。そこに自由奔放な碁を思考して木谷が加わった。当時は三々は「本因坊家の禁手」といわれ、序盤でそこに打つのはタブーとされており、またこのような形式は、他にも随所にちりばめられていた。木谷は三連星、呉は三々、星、天元を打ち、人気を二分する両棋士が打ち始めた新布石で囲碁界は騒然となった。
囲碁は地の広さを競うゲームであるため、少ない石数で地を囲うことが出来る隅から打ち始め次に辺へ、地を作りにくい中央は後回しにされていた。このような石運びは絶対の真理とされてきた。確かに地の作りやすさという点では隅・辺・中央の順である。しかし、碁全体が地を作るということに偏りすぎて、決まりきった型から抜け出せないのではないか。立ち止まって考えれば、最後に地が多ければいいのであって、最初から地を取る必要はない。石の働きには周りに対する力「勢力」があり、これを明確に意識しこれにそった打ち方があっていいはずである。地と勢力の中庸を行くべきであり、勢力によって相手の石を圧倒し、最終的に相手より多くの地を作ることを目的とした。
後から思えば当たり前のことだが、「常識』という硬い殻を打ち破るのは並大抵のことではなかった。昭和の囲碁界に新布石の嵐が吹き荒れ、基本理念〈棋理)が変わるとプロ棋士から碁会所の力自慢まで囲碁が大きく変わっていった。それまでの碁法のくびきを抜け出し、石運びのスピードアップ、戦術、展開の高速化が始まった。速度(=時間)という新たな軸が明確に意識されるようになった。平面的思考だった所に時間という新しい軸が加わり、囲碁が三次元的に展開されるようになった。その一例として四線の価値が見直されたことである。極端に言えば「いま、ここ」しか見なかった囲碁の思想を「将来、全体へ」と脱皮させたのが新布石だった。部分の理に止まっていた思考を飛躍させ、盤上の風景を変えたのだった。新布石はその後、幾多の批判、修正を経ながら、旧来の考え方も融合して、今日の近代布石として確立されていった。[3]
川端康成は『木谷実選集』(日本棋院刊)の月報に寄せた一文「新布石青春」の中で次のようなことを書いている。「木谷実、呉清源の新布石の時代は、ふたりの若い天才の青春時代であったにとどまらないで、実にまた現代の碁の青春時代であった。新布石は青春の創造と冒険との情熱を燃やし、棋界そのものを鮮麗絢爛な青春とするかの新風だった。木谷、呉の後にも勿論すぐれた後進は現れたけれども、新布石時代の木谷、呉ほど明らかに時代を盛り上げ、時代を新たに画した新人はまだ出ていないと思える。木谷、呉の新布石は今日の碁の開花の象徴であった。[4]
記念碑
2003年、新布石誕生70周年を祝して信州地獄谷に「新布石発祥之地」の石碑が建てられ、呉清源、大竹英雄(木谷の弟子)、木谷の遺児たちが参列して10月12日に除幕式が行われた。
脚注
^ a b c d e f g h i j k l m n o 『新布石法』呉清源 木谷実 安永一 1997 白水社
^ 呉清源 (2009年7月28日). “呉清源師の生涯一局(4)名人相手に「三々、星、天元」(寄稿連載)その二”. 読売新聞. 2014年12月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月21日閲覧。
^ 『石心 囲碁棋士・大竹英雄小伝』 石風社 2013年
^ 『呉清源回想録 以文会友』白水社 1997
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フリカワリは囲碁用語のひとつで、相手に利益を与える代わり、自分も別の場所で利益を取って変化することを指す。漢字では「振り替わり」と表記される。布石からヨセに至るまで、幅広く用いられる概念である。
フリカワリの実例
フリカワリの行われる典型的な例は、コウが決着する時である。相手のコウダテに手を抜いてコウを解決し、相手がコウダテの部分を2連打することでフリカワリが成立する。
定石などでも、フリカワリを含むものは多い。例えば下図は「村正の妖刀」と呼ばれる定石の一変化。黒1とハザマに打ってきたら、白は2とコスんで出る。
以下、白は△に打った石を捨てて黒に外勢を与えつつ、自分は4から8と隅の地を確保する。
星にカカった石をハサまれた場合。白1と打つと、黒2と地を確保しつつ根拠を奪って攻められよくない。
そこで、白は1と三々に入り、白△の石を捨てて隅の地を奪い、フリカワる打ち方がある。
フリカワリの名手
フリカワリは、どちらが得かを正確に判断しなければならず、高度な技術であるといえる。このため、フリカワリの名手といわれるのは、形勢判断の明るさと深い読みを兼ね備えた打ち手となる。江戸時代の打ち手では本因坊秀和、太田雄蔵が有名で、現代では依田紀基、井山裕太などが名手として知られる。
参考文献
「新・早わかり 用語小事典」 日本棋院
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ペア碁選手権戦(ペアいごせんしゅけんせん)は、囲碁の男女棋士ペアによる棋戦。男女のプロ棋士がペアとなり、交代に着手する(相談は不可)というペア碁の形式でトーナメントを戦い、優勝者を決める。2009年までは協賛のリコーを冠したリコー杯ペア碁選手権。
主催 日本ペア碁協会
特別協力 日本棋院
協力 関西棋院、週刊碁、The Daily Yomiuri
後援 読売新聞社
協賛 15回までリコー 16回以降 東京メトロ、JR貨物、パンダネット、メトロアドエージェンシー、JR東日本 17回以降 シャープ、山崎製パン 16回のみ アサヒビール、大塚製薬、オカムラ、KDDI、ANA、東京海上日動火災保険、野村證券、三菱地所
2010年優勝ペアは、ペア碁ワールドカップに出場。 2014年優勝ペアは、日中韓ペア碁名人選手権に出場。
方式
前期優勝ペアはシードされ、タイトル権者・ランキングから棋士は選出され、ペアはくじで決定される。
16組で5回戦のトーナメントを行い優勝ペアを決定する。2009年のみ、16組を2ブロックに分け、トーナメントにより優勝ペア2組を決定。
2011年は、アジア競技大会ペア碁代表の2組がシードされた。
歴代優勝ペアと決勝戦
(左が優勝者)
1995年 小西和子・橋本昌二 - 中澤彩子・石田芳夫
1996年 小林泉美・小林光一 - 小西和子・橋本昌二
1997年 知念かおり・結城聡 - 佃亜紀子・大竹英雄
1998年 青木喜久代・本田邦久 - 矢代久美子・加藤正夫
1999年 青木喜久代・本田邦久 - 西田栄美・柳時熏
2000年 吉田美香・東野弘昭 - 穂坂繭・山田規三生
2001年 楠光子・依田紀基 - 大澤奈留美・林海峰
2002年 祷陽子・趙治勲 - 楠光子・依田紀基
2003年 祷陽子・趙治勲 - 吉田美香・小林光一
2004年 小林泉美・山下敬吾 - 祷陽子・趙治勲
2005年 青木喜久代・三村智保 - 加藤啓子・王立誠
2006年 鈴木歩・張栩 - 小林泉美・山下敬吾
2007年 山田規三生・岡田結美子 - 鈴木歩・張栩
2008年 大沢奈留美・趙治勲 - 謝依旻・河野臨
2009年 加藤啓子・羽根直樹 - 謝依旻・井山裕太
2010年 (Aブロック)石井茜・坂井秀至 - 吉田美香・黄翊祖、(Bブロック)梅沢由香里・高尾紳路 - 加藤啓子・羽根直樹
2011年 謝依旻・王銘琬 - 鈴木歩・結城聡
2012年 謝依旻・王銘琬 - 吉原由香里・結城聡
2013年 謝依旻・ 小林覚 - 大澤奈留美・溝上知親
2014年 矢代久美子・井山裕太 - 向井千瑛・結城聡
2015年 小山栄美・羽根直樹 - 鈴木歩・秋山次郎
2016年 王景怡・村川大介 - 奥田あや・高尾紳路
外部リンク
プロ棋士ペア碁選手権
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平成四天王 
名前	平成四天王
出身地	台湾台北市・北海道旭川市・三重県志摩市・千葉県千葉市
所属	日本棋院東京本院・中部総本部
師匠	林海峰・菊池康郎・羽根泰正・藤沢秀行
概要
七大タイトル
棋聖	10期 (2003-12)
名人	7期 (2004-08・11-12・16)
本因坊	9期 (2003-11)
王座	9期 (2003-11)
天元	7期 (2001-04・08-09・14)
碁聖	6期 (2000・06-09・11)
十段	4期 (2008-10・14)
この表について[表示]
平成四天王(へいせいしてんのう)は、平成期に活躍しているトップ囲碁棋士四名の総称。張栩、山下敬吾、羽根直樹、高尾紳路の四人を指す。
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目次 
1	概要
2	若手時代
3	七大タイトル歴
4	棋道賞
5	その他のタイトル
6	国際棋戦での活躍
7	参考文献
8	外部リンク
概要
1970年代後半に小林光一、趙治勲らの世代が台頭して以降、依田紀基を除いてはこの世代の棋士達からタイトルを奪取できる棋士が長らく現れない時代が続いていた。
そのような時代において、1990年代後半から張、山下、羽根、高尾の四人が二十歳前後の若さで相次いで好成績をあげ始めたことから「若手四天王」と呼ばれ将来を嘱望されるようになった。実際に、2000年の山下の碁聖位獲得を皮切りに、2004年から2008年までは三大タイトルを独占、2008年には七大タイトルを独占、2006年から2010年までの全ての七大タイトルに登場するなど、その後の活躍も大きく、「平成四天王」と呼ばれるようになり平成囲碁界の中心的存在となった。
2010年以降は、次世代の筆頭格である井山裕太の台頭により、四天王の全員が井山からタイトルを奪取され第一人者としての地位を奪われているが、2016年には張がNHK杯戦で優勝、さらに高尾が当時七冠独占を果たしていた井山から名人位を奪い返しており、現在もなお奮闘している。
若手時代
1995 羽根:新鋭トーナメント戦優勝
1996 高尾: 新人王戦優勝
1998 山下: 新人王戦優勝(以後4連覇)高尾:新人王戦準優勝
1999 羽根: 王冠、新人王戦準優勝
2000 張栩: 棋聖・本因坊リーグ入り; 山下:碁聖; 高尾:竜星; 羽根:名人・本因坊リーグ入り、新人王戦準優勝
2001 張栩: 本因坊戦挑戦者; 羽根:天元、棋聖リーグ入り
2002 張栩: NHK杯、新人王戦優勝; 山下:棋聖・名人・本因坊リーグ入り; 羽根:天元
七大タイトル歴
色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)、色付きのマス目は四天王同士の対決(上段が勝者)。青色は挑戦者または失冠。他の棋士との比較は、囲碁のタイトル在位者一覧 、囲碁の記録一覧を参照。
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備 考
2000年
(平成12)				山下敬吾				山下新碁聖
2001年
(平成13)			張栩	山下敬吾			羽根直樹	羽根新天元
2002年
(平成14)							羽根直樹	
2003年
(平成15)	山下敬吾		張栩		山下敬吾	張栩	羽根直樹
山下敬吾	山下新棋聖、張新本因坊、張新王座
2004年
(平成16)	羽根直樹
山下敬吾	張栩	張栩		張栩	張栩
山下敬吾	山下敬吾
羽根直樹	羽根新棋聖、張新名人、山下新天元
2005年
(平成17)	羽根直樹		高尾紳路
張栩		張栩	張栩
山下敬吾	山下敬吾	高尾新本因坊
2006年
(平成18)	山下敬吾
羽根直樹	山下敬吾	高尾紳路	張栩	高尾紳路
張栩	山下敬吾
張栩	山下敬吾	張新碁聖、高尾新名人、山下新王座
すべてのタイトル戦に四天王が出場。
2007年
(平成19)	山下敬吾	山下敬吾	高尾紳路	張栩	張栩
高尾紳路	山下敬吾	山下敬吾	
2008年
(平成20)	山下敬吾	高尾紳路	羽根直樹
高尾紳路	張栩
山下敬吾	張栩	張栩
山下敬吾	張栩	高尾新十段、羽根新本因坊、張新天元
四天王がタイトル独占
2009年
(平成21)	山下敬吾	張栩
高尾紳路	羽根直樹
高尾紳路	張栩	張栩	張栩	山下敬吾
張栩	張新十段、張史上初の五冠、張碁聖4連覇、山下棋聖4連覇
2010年
(平成22)	張栩
山下敬吾	張栩
山下敬吾	山下敬吾
羽根直樹	張栩	高尾紳路	張栩	山下敬吾	張新棋聖、山下新本因坊、張史上二人目のグランドスラム
2011年
(平成23)	張栩	張栩	山下敬吾
羽根直樹	羽根直樹	山下敬吾	張栩
羽根直樹		羽根新碁聖、山下新名人、張王座4連覇
2012年
(平成24)	張栩
高尾紳路	張栩	山下敬吾	羽根直樹	山下敬吾
羽根直樹	張栩		
2013年
(平成25)	張栩		高尾紳路		山下敬吾	張栩		
2014年
(平成26)	山下敬吾	高尾紳路					高尾紳路	高尾新天元
2015年
(平成27)	山下敬吾	高尾紳路	山下敬吾	山下敬吾	高尾紳路		高尾紳路	
2016年
(平成28)	山下敬吾		高尾紳路		高尾紳路			井山裕太がタイトル独占
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備 考
2014年9月現在52タイトル獲得。
囲碁七大タイトル獲得記録
順位	獲得回数	棋士名
1位	42期	趙治勲*
2位	35期	小林光一*
3位	32期	井山裕太*
4位	31期	加藤正夫*
5位	23期	張栩*
6位タイ	21期	坂田栄男 | 林海峰*
8位	17期	大竹英雄*
9位タイ	14期	藤沢秀行 | 山下敬吾*
表示
*は現役棋士
2016年天元戦終了時点
棋道賞
最優秀棋士賞 9回(9年連続) 張栩:7回 / 山下敬吾:2回
優秀棋士賞 16回(7年連続) 張栩:3回 / 山下敬吾:6回 / 高尾紳路 : 2回 / 羽根直樹 : 5回
最多勝利賞 13回 (9年連続) 張栩:5回 / 山下敬吾:3回 / 高尾紳路 : 2回 / 羽根直樹 : 3回
その他のタイトル
2004 高尾紳路:竜星戦; 羽根直樹:阿含・桐山杯
2005 張栩:NECカップ、NHK杯
2006 張栩:阿含・桐山杯、竜星戦; 高尾紳路:大和証券杯; 羽根直樹:NHK杯
2007 張栩:NECカップ、阿含・桐山杯、竜星戦; 高尾紳路:大和証券杯
2008 張栩:阿含・桐山杯、NHK杯
2009 羽根直樹:NECカップ、阿含・桐山杯
2010 山下敬吾:阿含・桐山杯、竜星戦
2011 張栩:NECカップ
2012 張栩:阿含・桐山杯; 高尾紳路: NECカップ
2013 山下敬吾:竜星戦
2016 張栩:NHK杯
国際棋戦での活躍
2002 羽根直樹:日中天元戦優勝
2003 羽根直樹:第4期春蘭杯世界囲碁選手権戦準優勝
2005 張栩: 9回LG杯世界棋王戦優勝、17回テレビ囲碁アジア選手権戦優勝
2007 張栩:3回トヨタ&デンソー杯囲碁世界王座戦準優勝 
参考文献
上村邦夫『新四天王(山下敬吾・張栩・羽根直樹・高尾紳路)のここが強い』誠文堂新光社 2006年
外部リンク
「若手四天王番碁に新風」
「平成四天王」
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ボウシは囲碁用語のひとつで、相手の石に上からかぶせるように打ち、進路を阻む手を指す。下図の黒1のような手が「ボウシ」である。文字通り相手の頭にかぶせるように打つため、「帽子」の連想で名付けられた。
下図のように、ボウシは相手の石の真上2路離して打つ手を指すことがほとんどである。

ボウシの活用
ボウシが打たれるケースは、相手への攻撃の場合と、相手の模様を消す場合の2つに大きく分かれる。上図の黒1は、相手の弱い石の進路を阻んで攻撃する手として打たれた場合である。
模様の消し
白1がボウシによる黒模様の消し方の例。aの打ち込みやbの肩ツキより、こちらがこの局面では適切。
黒は2とケイマに受けるのが普通(格言「ボウシにケイマ」)。白は軽く3などと打って、黒模様の拡大を防いだ。
攻め
黒1がボウシ。白の進出路をふさいで攻める手。
参考図書
石田芳夫『ボウシの威力 (烏鷺うろブックス)』 日本棋院
『ボウシこの一手! (二子アップ中級シリーズ) 』誠文堂新光社
■
方円社(ほうえんしゃ、方圓社)は、明治、大正時代の日本の囲碁の組織。 1879年に村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)、中川亀三郎らにより設立され、1924年の碁界大合同による日本棋院設立まで続いた。明治後期の日本における最も繁栄した囲碁組織で、本因坊家などと対立しながらも、封建的な家元制度を脱却し、実力主義を導入、従来の段位制度に代わり、級位制を取り入れるなど、次々と新しい試みを打ち出し、囲碁の普及と近代化に大いに功績があった。
「方円」とは、四角の碁盤と丸い碁石を用いる囲碁の、古来からの別名である。機関誌「囲棋新報(囲碁新報)」は、世界初の囲碁雑誌であった。方円社を援助した財界人には、井上馨、後藤象二郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一らがいる。
目次 
1	設立の背景
2	歴史
2.1	秀甫の時代
2.2	坊社対立と発展
2.3	碁界合同へ
3	囲碁普及の功績
3.1	出版活動
3.2	国際普及
4	人物
4.1	歴代社長
4.2	方円社の棋士
5	関連項目
6	参考文献
7	外部リンク
設立の背景
江戸時代に幕府から家禄を得ることで家元制度としての発展を遂げていた囲碁界は、明治維新により幕府の保護を失うという打撃を受けることになった。まず棋士達の研鑽の成果を発揮する場であった御城碁が幕末以後行われなくなってしまい、これを補うために本因坊秀和は「三の日会」と称して対局の場を設けたが、資金難により3、4年で中断した。1869年(明治2年)には秀和門下で本因坊丈和三男の中川亀三郎が、本因坊跡目秀悦、林秀栄(後の本因坊秀栄)、安井算英、小林鉄次郎、吉田半十郎らを自宅に招いて「六人会」という例会を1年ばかり続けるなどしていた。この資金は豪商の田口重次郎が賄い、後に海老沢健造、白石喜三郎なども参加した。
この1869年には、明治政府東京府庁から、屋敷の引き渡し、及び家禄の半減の措置が取られ、1871年(明治4年)には家禄奉還となり、各家元は公的な財政基盤を失った。このため碁界では棋士の研鑽と育成を継続するための方策と、そのための資金の支援者が必要となっていた。
歴史
秀甫の時代
設立
秀和門下で当時の棋界の第一人者だった村瀬秀甫七段と、中川亀三郎六段が中心となり、1879年(明治12年)4月に囲碁研究会として「方円社」発会、秀甫が社長となる。これを記念した方円社発会記念対局には、本因坊秀悦、林秀栄五段、安井算英五段などの家元四家の棋士も参加した。また毎月第3日曜に月例会を催し、秀甫の講評を付けて例会の棋譜を掲載する「囲棋新報」を月報として発刊を開始。しかし実力第一主義を謳い家元の権威を認めない方円社のやり方に、家元側の秀栄らが反発し、席次と入社時の条件不実行を理由に脱退して方円社は9月に分裂。秀栄は本因坊秀元、井上松本因碩らと図って、方円社の社員となっていた門下の段位を剥奪、方円社と秀甫に対抗するようになった。黒田俊節、梅生長江らは憤慨して家元に免状を返上。秀甫は方円社を再組織し、11月神田神保町で方円社を発会。1880年(明治13年)方円社独自の免状の発行を始める。社員の従来の段位を確認し、「囲棋新報」(第十集)の対局譜に段位を付して発表した。
1881年(明治14年)、秀甫が中川を先二に打ち込み、八段に推薦される。この年より、常置指南を置くことになり、村瀬秀甫、中川亀三郎、小林鉄次郎、水谷縫次、高橋周徳、高橋杵三郎、梅主長江、酒井安次郎、大沢銀次郎、林佐野、今井金江茂、関源吉らが交代でこの役割を担当した。1883年(明治16年)、従来の段位制を廃し、級位制を採用する。
坊社再分離
1884年(明治17年)17世本因坊となった秀栄は後藤象二郎に方円社との和解の仲裁を委ね、方円社手合に出席するようになり、12月21日には秀甫との十番碁(秀栄先)を開始する。1886年(明治19年)7月30日、秀栄は秀甫の八段を正式に認め、同時に本因坊を譲って土屋秀栄を名乗る。村瀬秀甫は18世本因坊となり、即日秀栄(五段)に七段を贈る。秀甫対秀栄の十番碁は5勝5敗の打ち分けとなるが、8月6日の最終局は秀甫の絶局となり、10月14日に秀甫没(享年49)。11月、中川亀三郎が2代目の方円社社長となる。秀栄は秀甫との、本因坊は方円社社長を兼ねるという合意に基づき中川との勝負碁を迫るが、中川は本因坊継承の意志が無いことを示して勝負を避け、これ以降再度本因坊家と方円社は分離した状態となる。
坊社対立と発展
方円社の勢力
方円社の所属棋士には、方円社四天王と称された小林鉄次郎、水谷縫次、酒井安次郎、高橋杵三郎らがいた。ことに水谷は1880年(明治13年)に秀甫の招きで上京して四段(6級)に認められた後、ただ一人秀甫に先相先の手合に進むが、1884年(明治17年)に夭逝する。方円社はまた塾生制度により年少棋士を育成し、後に石井千治(1883入塾、後の二代目中川亀三郎)、田村保寿(本因坊秀哉、1885)、林文子(喜多文子)、杉岡栄次郎、田村嘉平(1891)、広瀬平治郎(1891)、雁金準一(1891)、岩佐銈(1895)、高部道平(1899)などを輩出する。塾生時代の石井、田村、杉岡は方円社三小僧と呼ばれた。1889年(明治22年)には「青年研究会」を発会、「青年囲碁研究会新誌」も創刊される。1907年(明治40年)には鈴木為次郎が飛び付き三段、1909年(明治42年)には瀬越憲作が飛び付き三段で参加する。
また1893年には、級位制から元の段位制に復帰した。中川亀三郎は1899年に引退し、小林鉄次郎に代わって副社長となっていた元安井家門人の巌崎健造が3代目方円社社長、石井千治が副社長となる。
本因坊派の動き
それに対し本因坊秀栄は、1892年(明治25年)「囲碁奨励会」、1895年(明治28年)「四象会」を発足するなど研鑽に励み、実力抜きん出るに至って1898年(明治31年)八段に進む。安井算英、隠居の本因坊秀元らに加え、方円社を退社した田村保寿が入門、また石井千治、広瀬平治郎らも参加、雁金準一も1905年(明治39年)に方円社を退社して門下となるなど方円社を凌ぐ勢いとなり、野沢竹朝などの有力な若手棋士も育ち、1906年(明治39年)に名人に進む。1895年(明治28年)、1896年には、石井と、田村保寿、秀栄の十番碁、1900年(明治33年)雁金と秀栄の十番碁も行われた。1907年に本因坊秀栄が死去すると、田村保寿と雁金準一の本因坊継承争いが起こり、田村が本因坊秀哉となり、雁金は後に方円社理事として復帰する。
碁界の趨勢
方円社でも、1900年(明治33年)頃には初段以上の名簿は全国で500人に達するなど、普及による興隆を果たした。1907年(明治40年)中川家を継いで中川千治となっていた石井千治が方円社を退社、1909年には七段昇段して2代目中川亀三郎を襲名、岩佐銈、野沢竹朝らとともに囲碁同志会を結成するという分裂もあったが、中川は1912年(大正元年)に復帰して、巌崎健造を継いで方円社4代目社長に就任、囲碁同志会は解散する。
1898年(明治31年)に神戸新聞で最初の新聞碁が開始。1899年(明治32年)には読売新聞がスポンサーとなり、初の囲碁電信手合が東京の巌埼健造と大阪の泉秀節により対局される。また時事新報は1901年(明治34年)に「囲碁新手合」を開始、続いて明治末までに朝日、毎日、読売新聞が囲碁の棋譜を掲載するようになる。萬朝報の黒岩涙香は新聞碁を通じて坊社を結びつけようと考え、1905年から「碁戦」という囲碁欄を設けて坊門と方円社の手合を交互に掲載、1910年からは坊門と方円社の対抗戦「連合選手戦」が開始される。1916年(大正5年)大阪朝日新聞にて坊社対抗戦(選手各8名、方円社の喜多文子は坊門側で出場)。1917年(大正6年)時事新報で坊社合同対局、広瀬平治郎と野沢竹朝の対局が行われる。
1912年に巌埼健造が引退し、2代目中川亀三郎が4代目方円社社長となる。
碁界合同へ
三派鼎立
1920年(大正9年)には中外商業新報(日本経済新聞の前身)で坊社両派の混合敗退戦を開始、第1局は方円社岩佐銈と坊門の井上孝平が対局した。また同年、小杉丁、向井一男らが中心となり、本因坊門と方円社の若手棋士6名による研究会「六華会」結成。瀬越憲作、鈴木為次郎、井上孝平らに講評を依頼、小岸壮二を会友に迎えるなどし、九州日報社の内田好之輔の運動で棋譜が地方新聞に掲載されるようになり、その後も岩本薫、橋本宇太郎、木谷實、前田陳爾ら多くの若手棋士が参加、日本棋院結成時までには会員20数名を数えるまでになった。1921年(大正10年)には中川亀三郎に八段を贈り、方円社顧問を委嘱。
第一次世界大戦後からの碁界合同の機運が高まった1922年(大正11年)、時事新報の矢野由次郎や代議士の大縄久雄発起で、秀哉以下の坊門、方円社、16世井上因碩を始めとする関西の棋士、稲垣日省など中京の棋士が署名した「日本囲碁協会」の趣意書が配付され、政財界からも多くの賛同を受けた。1920年に方円社長となった広瀬平治郎はこの機運に乗じて社屋の丸ビル移転を計画し、財界有志による寄付金を募集、移転披露囲碁大会を「日本橋倶楽部」で開催などするが、病に倒れ計画は頓挫する。同年12月に方円社理事の雁金準一、鈴木為次郎、瀬越憲作と高部道平の4名が独立して「裨聖会」を設立、総互先・コミ出し制、持ち時間制、成績の点数制などの近代的な手合制度を開始する。これに刺激を受けて、方円社の副社長格岩佐銈と広瀬門下の加藤信は、本因坊秀哉との間で坊社合同を合議し、広瀬の集めた資金により翌年1月に丸ビルに中央棋院を設立する。
しかしほどなく資金運用を巡って加藤と本因坊派が対立し、4月に社屋は方円社に復し、本因坊派は中央棋院として日本橋に移転した。ただしこの時に旧方円社の小野田千代太郎、喜多文子の2名が合同の意志を継続して中央棋院に残った。これにより、碁界は、中央棋院、方円社、裨聖会の三派鼎立時代と呼ばれるようになる。この年3月には本因坊算砂300年祭が行われ、関西の吉田操子や本因坊秀哉らの斡旋で、裨聖会を除く方円社や井上家などの棋士も勢ぞろいする盛況となり、合同への再度の動きの契機となった。また第一次大戦後の不況もあり、各派の経済事情も苦しくなってきたこともこれを促した。
大合同
1923年(大正12年)の関東大震災により各派は大きな打撃を受け、中央棋院と裨聖会は方円社に合同を申し入れ、これを拒否するならば方円社との新聞手合を拒絶すると迫った。雁金らを欠き、小野田の中央棋院行きなどもあって加藤信に続く棋士が岩本薫四段ぐらいとなっていた方円社はこれを受け入れた。また大倉財閥の大倉喜七郎の援助を受けるられることとなり、1924年(大正13年)4月に関西の棋士らも参加して棋界合同協議開催、5月に方円社解散、7月に碁界大合同による日本棋院設立、方円社所属棋士は日本棋院所属となった。
囲碁普及の功績
方円社が明治期における一般の囲碁愛好家向けに果たした功績は大きい。その一つには短期間ではあるが級位制の採用があり、これは従来の9段階の段位制を12段階に広げ、免状を受けられる人の範囲を広げるとともに、宣伝上の効果、免状発行による収入増の効果もあった。また雑誌「囲棋新報」等の発行により、棋譜の紹介を迅速にし、不特定多数への宣伝にもなった。
また1885年(明治18年)に横浜、1887年(明治20年)に泉秀節が大阪に方円分社を設立するなど、地方への普及にも力を入れた。中根鳳次郎が1992年(明治25年)に岡山、1993年(明治26年)に神戸に方円支社を設立。田村嘉平が1908年(明治41年)に京都分社長となる。
出版活動
1879年(明治12年)4月20日の例会開始とともに、方円社の定例手合の棋譜を評とともに掲載する「囲棋新報(圍棋新報)」を月報として発行開始した。1988年(明治21年)からはそれまで和紙木版だったのを洋紙活版とし。1924年(大正13年)4月520号まで発行される。
1900年(明治33年)には初段以下を対象とする「囲碁初学独修新報(圍碁初學獨習新報)」を姉妹雑誌として発刊(1908年に「囲棋初学新報(圍棋初學新報)」に改名)。1912年(大正元年)に2代目中川亀三郎が方円社社長就任した際、囲碁同志会の機関誌であった「囲棋世界」と合併、1913年に「棋道」として再発刊。1913年2月号までで終刊して「囲棋新報」に合併。
1907年(明治40年)には、機関誌というより趣味誌的性格として、講座や読み物も多くした「方円新報(方圓新報)」を発刊、村瀬秀甫著「方円新法」と同名のため、後に「碁界新報」に改名。
これらの他、明治末期から大正にかけて、各囲碁団体や出版社がそれぞれに囲碁雑誌を刊行した。
国際普及
工務局の鉄道関係技師として日本に招かれていたドイツ人オスカー・コルセルトが方円社を訪れ、碁の指南を望んだ折、村瀬秀甫は海外普及の好機至れりと喜んで、コルセルトを弟子とし、懇切に碁を指導した。帰国したコルセルトが、1882年に発表した碁を紹介する記事から、ヨーロッパへの囲碁の歴史が始まった。
人物
歴代社長
社長	任期
初代	村瀬秀甫(本因坊秀甫)	1879 - 1886
2	中川亀三郎	1886 - 1899
3	巌崎健造	1899 - 1912
4	二代目中川亀三郎	1912 - 1920
5	広瀬平治郎	1920 - 1924
6	岩佐銈	1924
方円社の棋士
梅主長江( -1886頃)安井家門下で、元の名は白石喜三郎。家元と方円社が不和になって免状剥奪となった際に、自ら五段を返上して方円社に入社した。
水谷四谷( -1887頃)水谷琢廉の子、五段。方円社設立に参加。
杉山千和(1821-1899)美濃国生まれ、旧姓山本、旧名千代三郎。伊藤松和に学び、本因坊秀和より五段、方円社より六段を受ける。
高橋周徳(1822-1886)旗本で元の名は鍋三郎、安井息軒から周徳の号を受ける。方円社設立に尽力した。五段。
今井金江茂(-1895)本因坊門下で旧名金蔵。方円社設立直後に入社、横浜在住し、五段まで進む。
林佐野(1825-1901) 林元美実子で林家の分家林藤三郎の養女となり、16歳で入段。方円社創設に協力、三段に進み、喜多文子らを育てた。
山崎外三郎(1829-1894)尾州徳川藩士で、加藤隆和門下で五段となる。上京して方円社員と多く対局を重ね、六段を追贈された。
梶川昇(1831-1890)伊勢国生まれ、元の名は守禮、旧姓橘。医者の家柄だが、本因坊秀和門下で学び五段となり、方円社設立に参加して東上。郷里で県会議員、徴兵参事官などを務めた。
吉田半十郎(1831-1897)本因坊秀悦らとの六人会を経て方円社設立を進めた。
高橋杵三郎(1836-1902)本因坊秀和門下で、方円社四天王の一人。水谷縫治と十番碁。
三好紀徳(1837-1885)佐賀藩の儒士。三段。「囲棋新報」で評論を執筆。
黒田俊節(1839-1884)服部正徹門下で、大阪に居し、初期の方円社棋士と交流した。
高崎泰策(1839-1907)関西、中京で大塚亀太郎、泉秀節らと囲碁普及に努めた。
泉秀節(1844-1904)中川順節門下で、大阪方円分社を設立。子の泉喜一郎が分社長を継いだ。
大沢銀二郎(1844-1906)安井算知門下、9歳の時に聾となる。28歳で四段。方円社設立時に入社し、方円社、安井家より五段。1901年に方円社勤続功労の褒状を贈られた。
水谷縫次(1846-1884)少年時代に秀策との対局で名が知られていたが、秀甫の招聘で1880年に愛媛から上京して方円社定式会に参加、四段(6級)を認定。その後秀甫にただ一人先相先の手合い進むが、38歳で夭逝。
内垣末吉(1847-1918)因幡国生れ。本因坊秀和門下で三段となり、明治になって官職に転じ、井上馨に従って1903年まで精勤。方円社設立に参加し、1912年六段に進む。没後方円社より追悼七段。
小林鉄次郎(1848-1893)井上門下だったが方円社設立時から参加。実務的手腕に優れ、幹事、副社長も務めるなど運営面で大きく貢献した。
酒井安次郎(1851-1883)江戸の生まれ、吉田半十郎門下で、雀小僧と呼ばれる。小林鉄次郎と信州遊歴の後、方円社設立に参加し、方円社四天王の一人となり、五段に昇る。
稲垣兼太郎(1854-1940)方円社設立とともに入社。中京碁界の組織化に尽力した。
中根鳳次郎(1855-1921)井上松本因碩門下から方円社に参加。岡山、神戸で方円社分社設立。
関源吉(1856-1925)本因坊秀和、秀甫に学び、石井千治と青年囲碁研究会を設立、本因坊秀栄らと碁界合同を探った。
石井千治(1869-1928)1983年に入塾、85年初段。中川亀三郎没後に養子となり、一時期方円社脱退し二代目中川亀三郎を襲名、その後4代目社長を務める。
長野敬次郎(1870-1921)鹿児島生まれ。長崎で重久元和に学び、1903年に東京に出て方円社に参加、1904年三段、1909年五段。その後は九州碁界発展に尽くした。
林徳蔵(1872-1931)1908年に本因坊門と方円社から二段を認められ、1919年四段、追贈五段。林有太郎の父。
都築米子(1872-1937)本因坊秀栄、梅主長江に教えを受け、方円社定式手合に参加、囲碁同志会にも参加した。追贈五段。
田村保寿(本因坊秀哉、1874-1940)1885年に方円社に入塾し、住み込みの塾生となる。石井千治、杉岡栄次郎とともに方円社の三小僧と呼ばれるが、1891年に除名。その後本因坊秀栄門下となり、秀栄死後に21世本因坊となる。
喜多文子(1875-1950)方円社で女流棋士のパイオニアとして活躍し、日本棋院設立時にの調整に奔走した。
小林鍵太郎(1875-1935)父は小林鉄次郎。18歳初段。父は棋士となることを禁じたが、父の死後に囲碁の道へ進む。五段。実子の小林誠一も棋士。
竹田逸子(1875-1935)以津子とも書いた。旧名高橋閑子。明治20年頃に方円社女子部に在籍したが、公式手合は打たず、指導に徹し、また薙刀など多芸の持ち主だった。四段。門下に竹中幸太郎、星野紀など。
井上孝平(1877-1941)巌崎健造に学び、本因坊秀栄、秀哉などとも繋がりを持ち、石井千治の囲碁同志会にも参加。
田村嘉平(1878-1937)方円社塾生の後、京都、大阪で活動、方円社京都分社長、日本棋院関西支部長を務める。
吉田操子(1881-1944)泉秀節、本因坊秀哉らに学んだ後、京都で囲碁界組織化。日本棋院設立では関西碁会をまとめた。
都谷森逸郎(1882-)青森県生まれ。広瀬平治郎門下で、1923年五段。関西で手合の他、著作を多く残した。
伊藤幸次郎(1883-1956)東京生まれ。1899年に巌崎建造に入門、入段の後に方円社塾生となり、日本棋院にも所属。六段。琵琶の名手としても知られた。
鈴木為次郎(1883-1960) 中学時代から方円社に通い、巌崎健造の弟子となって棋士となるが、脱退して裨聖会を設立。日本棋院時代にかけて一貫して本因坊秀哉打倒に執念を燃やした。
瀬越憲作(1889-1972)20歳で上京して入社、裨聖会に参加し三派鼎立の後、大倉喜七郎の後援を得て日本棋院設立を為した。
久保松勝喜代(1894-1941)泉秀節に学び、関西囲碁研究会などを組織。少年時代の橋本宇太郎、木谷實らの他、多くの関西棋士を育てた。
小野田千代太郎(1896-1944)方円社塾生から新進棋士として活躍。中央棋院で坊社合同に尽力した。
向井一男(1900-1969)愛媛県出身、田坂信太郎門下。1918年入段。本因坊門下と共同の若手棋士研究会六華会設立の中心となった。
岩本薫(1902-1999)1913年に広瀬平治郎に入門し、1917年入段。第3-4期本因坊。戦後の日本棋院復興、海外への囲碁普及に尽力した。
橋本宇太郎(1907-1994)久保松勝喜代門下を経て、1920年に瀬越憲作に入門、1922年入段。第2、5-6期本因坊。1950年に関西棋院設立。
関連項目
日本棋院
参考文献
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
瀬越憲作『囲碁百年 1 先番必勝を求めて』平凡社 1968年
安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年
増川宏一『碁 ものと人間の文化史 59』法政大学出版局 1987年
小堀啓爾「江戸・明治著名棋士名鑑」「日本棋院物故棋士名鑑」(『1993年度版囲碁年鑑』日本棋院、1993年)
外部リンク
囲碁史年表1800年代
囲碁史年表1900年代
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忘憂清楽集(ぼうゆうせいらくしゅう、忘憂清樂集)は、中国の古典的な囲碁に関する棋書で、現存する最古の棋書とされている。
目次 
1	成り立ち
2	内容
2.1	書名
2.2	棋論
2.3	棋譜
2.4	その他
3	出版物
4	参考文献
5	外部リンク
成り立ち
北宋末期に、八代皇帝徽宗の待詔で、囲碁の国手とされる李逸民によって編集され、南宋初頭に印刷された。現存する原書は北京図書館所蔵の1式のみとされる。囲碁論、打碁の棋譜、定石、詰碁などが集められ、この時代の囲碁のルールや、打ち方についての貴重な資料となっている。
元、明の代にはそれほど広まらなかったが、清代の蔵書家黄丕烈はこの本を探し求め、1802年に華陽橋の顧氏より入手する。黄の蔵書が散逸した際に、汪士鐘がこれを得、その散逸後には常熟の瞿氏が入手、これが現在北京図書館に収蔵されている。
内容
書名
書名の「忘憂清楽」は、徽宗が囲碁(棋)について詠んだ詩である、
忘憂清楽在枰棋
仙子精攻歳未笄
窓下毎将圖局案
恐防宣詔較高低
にちなんだもの。
棋論
「棋訣」宋代を代表する国手である劉仲甫による四編。布石(布置)、ヨセ(侵凌)、戦い(用戦)、捨て石(取捨)について。
「棋経」仁宗の時代の翰林学士張擬による十三編。計算(得算)、序盤(權輿)、戦い(合戰)、虚実、自知、審局、斜正、洞微、名數、品格、などについて。
「論棋訣要雑説」張靖による。
棋譜
19局の棋譜が集められている。
「孫策詔呂範弈棋局面」AD196年の孫策と呂範の対局。最古の棋譜とされるが、偽作との説もある。
「晉武帝詔王武子弈棋局面」
「明皇詔鄭觀音弈棋局図」
「諸國手野戰轉換十格図」
「遇仙図」劉仲甫の棋譜
「爛柯図」晋代に王質という木こりが山中で二人の童子の碁を見ていたところ、気付いたら斧の柄が腐っていたという故事に基づく。
またこれらの記録から、当時は「切り賃」ルールが適用されていたことが判る。
その他
定石、詰碁などが収められている。
唐代の名手で、玄宗の棋待詔であった王積薪が発見したという妙手「一子解二征」も収められている。
白からの2つのシチョウを、黒1の1手で防いでいる。
出版物
日本語版
『忘憂清楽集』 宇野精一訳、呉清源解説、講談社 1983年、新装普及版2004年
中国語版
『忘憂清樂集』 蜀蓉棋藝出版社 1987年
参考文献
平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社 2001年
外部リンク
中華基督教會燕京書院囲棋学會「忘憂清樂集」
忘憂清楽集(塚本恵一)
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星(ほし)は囲碁用語の一つ。 碁盤の左上隅から数えて(4, 4)、(4, 10)、(4, 16)、(10, 4)、(10, 10)、(10, 16)、(16, 4)、(16, 10)、(16, 16)に当たる9ヶ所の交点を指す言葉。

置き碁の際は置石をこの星に置いていく。これら9点には目印として碁盤上に大きな点が記されているため、「星」という名称がついた。
基本的には上記の9箇所を指すが、単に「星」といった場合は盤上の四隅、つまり(4, 4)、(4, 16)、(16, 4)、(16, 16)の4箇所を指すことが多い。(4, 10)、(10, 4)、(10, 16)、(16, 10)の4点を特に指す場合は「辺の星」という言い方をする。また碁盤の中心(10, 10)は特に天元と呼ぶ。また、辺の星の一路下(aなどの点)を「星下」、その一路横(bなどの点)を「星脇」と呼ぶことがある。
目次 
1	布石における星
1.1	特徴
1.2	星からのシマリ
2	星へのカカリ
3	星を主体にした布石
4	星打ちの歴史
5	連珠における星
布石における星
特徴
布石において隅を占める着点として、小目と並んでよく打たれる。一手で隅を占めて辺へスピーディに展開できる点が長所であり、中央へ向けた発展性にも富む。その分隅の地には甘く、三々に侵入されると簡単に生きられる。逆に言えば、相手の侵入を誘って厚みを築き、中央で勝負するのが星打ちのスタイルのひとつでもある。
星からのシマリ
星からのシマリはaの小ゲイマジマリ、bの一間ジマリ、cの大ゲイマジマリがよく打たれ、状況によりdの二間、eの鉄柱、fのコスミなども打たれる。小ゲイマ・大ゲイマにシマっただけでは隅を完全に確保できたわけではなく、三々への侵入などの手段が残る。さらにfあたりに一手かけることで完全な地になる。
星へのカカリ
星へのカカリはaの小ゲイマガガリが最も普通で、bの一間ガカリはやや特殊な手法に属する。黒は右辺を重視するならcかdへの受け、攻撃を志向するならe方面へのハサミで打つなどの打ち方がある。またカカリとはいえないが、状況によってfの三々打ち込みや、gへのツケも有力となる。
星を主体にした布石
二連星・三連星
右辺の黒のように一辺の3つの星を占める布石。白のように両隅を占めた場合は「二連星」という。aなどと外側からカカってくればbなどにハサんで三々入りを促し、中央に雄大な模様を築く。cなどと内側に侵入してくれば重くして攻め立て、主導権を握る。武宮正樹が愛用して有名になった戦法。地に甘いため、現在では打たれることが少なくなってきている。
タスキ星
対角の星を占める布石。黒の配置がタスキ星。
中国流
星、小目、辺の星脇を組み合わせた布石。三連星に似た意図だがやや地に辛く、発展性にも優れる。1970年代から流行し、今でもよく打たれる。
高中国流
中国流のバリエーション。羽根泰正が得意とする。相手を戦いに誘う布石である。三連星と同じく地に甘いためこちらも打たれることが少なくなっている。
オールスター
黒の三連星に対して白も三連星で対抗してきたときに発生する形。「九連星」あるいは「オールスター」ともいう。1990年前後に流行したが、現在では黒有利と考えられており、プロの間では打たれなくなっている。
星打ちの歴史
星は置き碁で必ず出てくる着点でありながら、江戸時代には互先の碁で打たれる例はほとんどなかった。幕末期にようやく本因坊秀和や秀策が白番星打ちを試験的に打っている例が登場する。明治に入って本因坊秀栄が白での星打ちをかなり多用しており、タスキ星・二連星などの棋譜も残されている。
昭和に入り、呉清源・木谷實が打ち出した新布石において、星の価値は大いに見直されることとなった。一手で隅を占め、辺・中央への展開を重視するスタイルに星打ちは最適であり、一躍人気の着点となった。星を3連打する三連星布石もこの時期に登場している。
新布石ブームが去った後も、星は隅を占める着点として完全に定着した。武宮正樹による宇宙流布石、中国流や小林流など星を中心とした布石が次々と開発されている。また近年白番の布石では、スピード重視のため二連星が打たれることが最も多くなっている。
連珠における星
連珠盤(縦横15路)にも星は存在し、左上隅から数えて(4, 4)、(4, 12)、(8, 8)、(12, 4)、(12, 12)に当たる5ヶ所の交点を指す言葉。 このうち特に連珠盤の中心(8, 8)は碁盤と同様、天元と呼ぶ。
連珠では初手は(8, 8)に打たなければならない決まりがある。
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囲碁クラブ(いごくらぶ)は、
囲碁を打つための場所、碁会所。またはそのための組織。
囲碁の雑誌。以下で詳述。
囲碁クラブ(いごくらぶ)は、日本棋院発行の囲碁の月刊誌。1925年『爛柯』として創刊。その後『囲碁クラブ』と改名。1999年に『棋道』と合併して『碁ワールド』となった。
歴史
日本棋院が1924年(大正13年)に設立された翌1925年、機関誌『棋道』の姉妹誌『爛柯』が創刊(10月号)。創刊号は84ページ、50銭で、掲載記事は、全棋士集合写真、日本棋院設立趣旨、本因坊秀哉「圍棋上達法」、置碁の棋譜、碁界便り、川柳、小説、素人囲碁番付、詰碁など。主にアマチュア向けの囲碁普及を目的とする内容で刊行される。1928年8月号で『囲棋倶楽部』に改名、その後『囲碁クラブ』となる。
第二次世界大戦激化のために用紙が逼迫すると、1944年には32ページとなり、次いで4月号からは『棋道』に合併され、この年の11月号で休刊となる。戦後は『棋道』復刊より遅れて1954年6月号で復刊。
1990年代になると日本棋院の財政悪化が進み、1999年に『棋道』と合併して『碁ワールド』となった。雑誌コードは『囲碁クラブ』を引き継いだため、『碁ワールド』の通巻号数は『囲碁クラブ』からの継続となっている。
主な記事、企画
「段級囲試験問題集」1955-58年、「特別懸賞問題」1958-63年、「段級囲認定試験」1963-99年 誌上問題による段級囲認定
「木谷道場百段突破記念 内弟子指導碁シリーズ」1962年 木谷實門下の内弟子が木谷の胸を借りた置碁を掲載
中山典之「実録囲碁講談」1975-77年 プロ棋士のエピソード集
「必殺打込み勝負」1984年 棋聖・名人の趙治勲と新撰組(王立誠、小林覚、山城宏)との打ち込み碁。一時は趙が二子に打ちこんだ。
「日中スーパー囲碁」1984-85年 日本と中国の棋士により勝ち抜き戦。翌年第2回からは『週刊碁』に移管。
「孔祥明中国八段対日本若手棋士 真剣五番勝負」1987年
孔祥明が、小県真樹、大矢浩一、小川誠子、後藤俊午、彦坂直人の5人に対して1勝4敗。
「キリン杯GO団体戦」1988-96年 地域別のプロとアマチュアの混成チームによる団体戦トーナメント
「囲碁クラブ大賞」1991-95年 読者投稿による囲碁をテーマとした文芸作品の募集
「依田紀基・李昌鎬五番勝負」1991年 当時の日本と韓国の若手ホープ同士の対決で、依田3-1李。
林治文「李昌鎬物語」1999年
「竹林杯精鋭八強戦」1999年 大竹英雄、林海峰の主催による、若手棋士8名によるトーナメント戦。『碁ワールド』に引き継がれた。
連載漫画 藤井レオ「ワシは本因坊」「天下星目」、山松ゆうきち「俺は天才だろうか」、うじなお子「あっちゃんの『碁きげんいかが』」
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囲碁(いご)は、日本の囲碁の月刊誌。題字は「圍碁」を使っている。1951年7月に青桐社から創刊。1954年6月に誠文堂新光社に移籍。毎月5日発売。判型はB5判。
棋戦の棋譜紹介や、アマチュア向け講座の他に、アマプロ対抗戦などの独自企画を掲載していた。初代編集長は岩谷泉。
部数低迷のため、2012年4月5日発売の同年5月号(通巻737号)をもって休刊することとなった[1]。
主な記事、企画
「置碁検討録」1951-75年 前田陳爾による連載。
「馬暁春 機略縦横 私の布石戦略」1995-1997年 中国の馬暁春による自戦解説。
「芮廼偉九段VSプロ精鋭」1996年 来日中の芮廼偉九段と日本のプロ棋士5名(結城聡、小松英樹、山城宏、森山直棋、宮沢吾朗)と各三番勝負を行った。
ケン・コーポレーション協賛企画 2001年からケンコーポレーション協賛による棋戦を実施
「坂井秀至・試練の12番勝負」2001年 アマチュア時代の坂井秀至による対局。
「新鋭プロVSアマ強豪打込み12番勝負」 2006-07年 若手プロとアマチュアによる一番手直りによる打込み手合い。
「女流プロVSアマ精鋭打込み12番勝負」2008年 女流プロとアマチュアによる一番手直りによる打込み手合い。
「ワールドケンカップ プロアマオープントーナメント」2011年による、若手プロ5名とアマチュア7名によるトーナメント戦。
付録「名局細解」1957年- 毎号1局の棋譜を冊子1冊(96ページ程度)で解説する。毎年1年分12冊を箱入りにして購入可能にもなる。他に棋士ごとに4局を分をまとめた単行本もある。
脚注
^ “月刊誌「囲碁」4月で休刊へ 60年の歴史に幕”. 朝日新聞. (2012年2月22日) 2012年2月22日閲覧。
外部リンク
誠文堂新光社「圍碁」

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棋書(きしょ)は囲碁についての書籍。
囲碁のルールについて述べたもの。入門用解説書など。
打碁集。過去の対局の棋譜を収録したもの。棋士毎に集めたもの、棋戦やテーマ毎に集めたもの、年鑑などがある。
解説書。囲碁理論の説明、上達のためのアドバイスなど。
辞典。定石や、布石、その他について、型毎に整理してまとめたもの。
詰碁集。詰碁の問題を集めたもの。手筋、攻め合い、ヨセなどの問題も含むことがある。
雑誌、新聞(囲碁の専門誌)。
目次 
1	古典
2	打碁集
3	詰碁集
4	雑誌・新聞
5	その他
6	関連項目
7	外部リンク
古典
『忘憂清楽集』最古の本格的な棋書とされる。1104年頃に李逸民が著した。囲碁論、打碁、定石、詰碁などが収められている。
『玄玄碁経』南宋時代に厳徳甫と晏天章が編纂し、1347年に虞集が再編した。囲碁論、定石、布石、打碁、詰碁などが収められている。
『適情録』中国に滞在していた日本の虚中上人が林応龍とともに、1525年に完成。囲碁論、棋譜、定石、詰碁などを収めている。
打碁集
『国技観光』本因坊丈和が自戦譜73局に解説を付けたもの。1826年刊。
『囲碁妙伝』井上幻庵因碩が自戦譜に解説を付けたもの。1852年刊。
『敲玉余韵』本因坊秀策の打碁集で、石谷広策が1900年にまとめた。日本以外にも中国、韓国などでも愛読されている。
『御城碁譜』瀬越憲作らによってまとめられた、御城碁の記録。1950-51年刊。
『日本囲碁大系』筑摩書房より1975-77年から刊行。本因坊算砂から本因坊秀哉までの棋士毎の棋譜を収録。全18巻。
『現代囲碁大系』講談社より1980-84年に刊行。明治から昭和のまでの棋士毎の棋譜を収録。全48巻。
『呉清源打込十番碁集(全5巻)』1979年刊。『呉清源自選百局』1982年刊。『呉清源全集(全16巻)』1987年刊。『呉清源打碁全集(全4巻)』1997年刊。
『曺薫鉉囲碁名局集』曺薫鉉の打碁集。1995年刊。
『聶衛平囲碁名局集』聶衛平の打碁集。1995年刊。
『日本棋院囲碁年鑑』毎年の日本のプロ、アマチュアの国内棋戦、国際棋戦の棋譜を収録。日本棋院刊。現在の形のものは1961年から刊行開始した。
『韓国棋院囲碁年鑑』韓国棋院刊。
その他、多くの著名棋士の打碁集が出版されている。
詰碁集
『官子譜』明の時代に過百齢が著し、その後、陶式玉らに再編された。
『囲碁発陽論』井上道節因碩が1713年に著す。難解なことで知られ、「不断桜」とも呼ばれる。
『碁経衆妙』船橋元美(林元美)が1812年に著す。比較的平易な問題が集められている。
『死活妙機』本因坊秀哉が実戦を元に作成した問題集。1909年刊。
『前田詰碁集』『新選前田詰碁集』昭和の代表的な詰碁作家前田陳爾の作品集。簡明な形での意外な手筋が特徴。1952、58年刊。
『寿石不老』『自強不息』呉清源の作品集。1995、97年刊。
『張栩の詰碁』張栩の作品集。2006年刊。
雑誌・新聞
日本棋院発行の、月刊誌「碁ワールド」「囲碁未来」、週刊紙「週刊碁」
関西棋院発行の、月刊誌「囲碁関西」
日本放送出版協会の、月刊誌「NHK囲碁講座」
誠文堂新光社の、月刊誌「圍碁」
中国の新体育雑誌社の、月2回発行「囲棋天地」
その他
囲碁に関する書籍としては以下のようなものもあるが、一般には棋書とは呼ばれていない。
囲碁の歴史や文化について述べたもの。
棋士の評伝、自伝、随筆。
囲碁を題材にした小説、漫画、随筆、及び映画・ドラマ等の解説書。
囲碁のコンピュータゲームに関する研究書、特定のゲームの説明書。
関連項目
定石
詰碁
外部リンク
日本棋院「出版物のご案内」
関西棋院「囲碁用品」
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呉清源〜極みの棋譜〜
タイトル表記
繁体字	吳清源
簡体字	吴清源
ピン音	wú qīngyuán
(ウー チンユェン)
英題	The Go Master
各種情報
監督	田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)
脚本	阿城(アー・チョン)
出演者	チャン・チェン
柄本明
シルビア・チャン
伊藤歩
野村宏伸
南果歩
松坂慶子
音楽	趙立(チャオ・リー)
撮影	王昱(ワン・ユー)
編集	楊紅雨(ヤン・ホンユィ)
衣装	ワダエミ・福田明
美術	ワダエミ・愛甲悦子
製作会社	世紀英雄電影投資有限公司
配給	日本の旗 エスピーオー
公開	アメリカ合衆国の旗 2006年9月27日
日本の旗 2007年11月17日
上映時間	107分
製作国	中華人民共和国の旗 中国・日本の旗 日本
言語	日本語・中国語(普通話)
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『呉清源〜極みの棋譜〜』(ごせいげん きわみのきふ、原題:呉清源)は、中国出身の囲碁の棋士、呉清源の生涯を描いた伝記映画。2006年公開。
原作は呉清源の自著『中の精神』(東京新聞出版局刊)。
出演
呉清源: 張震(チャン・チェン)
瀬越憲作: 柄本明
舒文(呉の母): 張艾嘉(シルビア・チャン)
中原和子: 伊藤歩
呉炎(呉の兄): 辛柏青(シン・バイチン)
呉の妹 : 黄奕(ホアン・イー)
李玉堂 : 李雪健(リー・シュエチェン)
木谷實: 仁科貴
橋本宇太郎: 大森南朋
本因坊秀哉: 井上堯之
金木: 宇津宮雅代
西園寺公毅: 米倉斉加年
川端康成: 野村宏伸
長岡良子: 南果歩
喜多文子: 松坂慶子
受賞等
2007年上海国際映画祭 最優秀監督賞、最優秀撮影賞
外部リンク
呉清源〜極みの棋譜〜オフィシャルサイト
新浪網-呉清源特集頁 (中国語)
呉清源〜極みの棋譜〜 - allcinema
呉清源〜極みの棋譜〜 - KINENOTE
The Go Master - AllMovie(英語)
Wu Qingyuan - インターネット・ムービー・データベース(英語)
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月刊碁学(げっかん ごがく)は、囲碁の月刊誌で、1976年創刊、1988年まで、碁学社から発行された。アマチュアの級位者向けの内容を主にして、関西を中心に販売された。
発行人三木正の考えに基づいた、独特のアマチュア向けの講座の他、関西棋院棋士による三番碁企画などが掲載された。連載記事は『別冊月刊碁学』として刊行された他、2008年以降には『マイコミ囲碁文庫シリーズ』(毎日コミュニケーションズ)として再刊された。
刊行書
宮本直毅『序・中・終盤/この一手』1982年
本田邦久『定石と布石の相性診断』1983年
宮本直毅『圧勝・置碁戦法』
橋本宇太郎『ひらめきアップ』
宮本直毅『圧勝・序盤戦法 第2集』
本田邦久『ヨセの強化トレーニング』(マイコミ囲碁文庫 2012年)
月刊碁学編集室『本筋俗筋対象表 碁はヒラメキ!!』(マイコミ囲碁文庫 2008年)
岩田昇二『アマチュア創作詰碁』
橋本宇太郎『碁感トレーニング』
牛窪義高『たのしいヨセ』
本田邦久『局面ズームアップ』
宮本直毅『棋力開発テスト』(マイコミ囲碁文庫 2008年)
宮本直毅『棋力開発テスト 第2集』
宮本直毅、石井新蔵、本田邦久『勝利への設計A・B・C』
本田邦久『序盤の戦いかた』
関山利夫『実戦・ネライと手筋』
橋本宇太郎『次の一手プラス ヨミと筋』
関山利夫『明快!!えぐり戦法』
宮本直毅『アマチュアの弱点 85型』
月刊碁学編集室『楽しいドッキング』
牛窪義高『碁の戦術』(マイコミ囲碁文庫 2008年)
牛窪義高『碁は戦略』(マイコミ囲碁文庫 2009年)
藤沢秀行『秀行打碁撰集』
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碁娘伝
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『碁娘伝』(ごじょうでん)は、2001年10月25日及び2007年6月25日に潮出版社から刊行された諸星大二郎の漫画作品集、およびその表題作となった短編漫画作品である。
あらすじ
唐代の天宝の頃に、碁娘(ごじょう)と呼ばれる女がいた。
碁を打つ美女の妖怪とも、清廉なる者を助ける女侠客とも言われていた。碁娘は、父が殺されたときに残された碁盤から、その時の対局相手を仇と探していた。
初出
碁娘伝「月刊コミコミ」1985年4月号(白泉社)
碁娘後伝「漫画アクション」1993年11月30日号~12月21日号(双葉社)
碁娘翅鳥剣「月刊コミックトムプラス」2000年1~3月号(潮出版社)
棋盤山「月刊コミックトムプラス」2001年5月号(潮出版社)
書籍情報
コミックス 潮出版社 2001年10月 ISBN 978-4267904011
コミック文庫 潮出版社 2007年6月 ISBN 978-4267017568
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適情録(てきじょうろく、適情錄)は、中国明代の囲碁の棋書。林応龍が、日本の僧虚中と協力して編纂し、1525年(嘉靖4年)に刊行された。
適情録
各種表記
繁体字:	適情錄
簡体字:	适情录
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目次 
1	成り立ち
2	出版物
3	注
4	参考文献
成り立ち
京都東山建仁寺の虚中上人は、明の弘治年間に中国に渡り、杭州で仏教を学びながら、『忘憂清楽集』『玄玄碁経』などから囲碁の棋譜、定石、詰碁など384局を収集して『決勝図』二巻にまとめた。南京の林応龍は杭州滞在中に虚中と親しくなり、二人でこれらを再編し、虚中は帰国することなく当地で死去するが、林応龍は虚中の死後に『玄通集』としてまとめた。さらに20年後に再度これを元に碁経、易経なども加えて『適情録』二十巻にまとめ、鎮江で刊行された。
明代では、寧献王朱権による『爛柯経』、許谷『石室仙機』、方子振『奕微』、諸克明『秋仙遺譜』、陸玄宇父子『仙機武庫』、明潞王朱常澇『萬匯仙機』、過百齢『官子譜』などとともに代表的な棋書とされる。また日本人による中国での囲碁についての最初の記録とも言われる[1]。「適情」という題は、王安石の詩の中の一節「忘情塞上馬、適誌夢中蝶」から取ったと林応龍は述べている。
出版物
呉清源解説『適情録』組本社 1980年
注
^ 幸田露伴「囲碁雑考」(『露伴随筆集(上)』岩波書店 1993年)
参考文献
田振林、祝士維「中国囲碁外史 42」(『棋道』1990年2月号)
大島正雄、松田一輝『奥義秘伝 囲碁3000年』日本放送出版協会 2000年
中野謙二『囲碁中国四千年の知恵』創土社 2002年
外部リンク
中華基督教燕京書院囲棋學會「中國圍囲棋故事」
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星空のカラス
ジャンル	少女漫画、囲碁
漫画
作者	モリエサトシ
出版社	白泉社
掲載誌	花とゆめ
発表期間	2012年21号 - 2015年21号
巻数	全8巻
テンプレート - ノート
プロジェクト	漫画
ポータル	漫画
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『星空のカラス』(ほしぞらのカラス)は、モリエサトシによる日本の漫画作品。
目次 
1	概要
2	あらすじ
3	登場人物
3.1	主要人物
3.2	プロ棋士
3.3	アマチュア棋士・院生
3.4	棋士の関係者
3.5	その他
4	書誌情報
5	脚注
6	外部リンク
概要
少女漫画史上初となる囲碁を題材にした作品。
『花とゆめ』(白泉社)にて2012年14号に読み切りとして掲載され[1]、同年21号より連載化[2]され、『花とゆめ』2015年21号で完結した。
プロの囲碁棋士を目指す少女の物語で、穂坂繭[3]が監修を務めている。単行本は全8巻[4]。
作中に登場した対局シーンで使用された棋譜は、実際にプロ棋士によって打たれたもので、穂坂繭三段の監修の元で綿密な裏づけがなされている。また、棋界事情についても忠実に描かれており、囲碁漫画の先駆者となった『ヒカルの碁』と比べ、より専門的に描かれているのが特徴である。
本作のもう1つの特徴として、各エピソードごとに中心人物の視点が変わることが挙げられる。そのため、内容次第では主人公がほとんど登場しない場合もある。
なお、モリエサトシにとって最長期連載作品でもある。
あらすじ
気難しく嫌われ者だったプロ棋士の祖父から囲碁を教わり、その魅力に取りつかれた烏丸和歌、13歳。自身もプロ棋士になりたいと願うが、倒れた妻(和歌の祖母)より囲碁の試合を優先した祖父のような非情な人間になってほしくないと、母親からプロ棋士どころか囲碁をすることさえ猛反対されている。
ある日、アマの囲碁大会に出ていた和歌は、指導に来ていたプロ棋士の鷺坂と出会う。後日、怪我を隠しながら名人リーグ戦に挑む鷺坂の勝利への執念と気迫を目の当たりにした和歌は、より一層、プロ棋士への夢を確かにし、母親から「少年少女囲碁大会の全国大会で優勝したらプロ棋士になることを許してもらう代わりに、負けたら囲碁を辞める」との約束を取り付ける。
登場人物
主要人物
2人の主人公の名前は、囲碁を意味する「烏鷺」から由来している。
烏丸 和歌(からすま わか)
本作の主人公兼ヒロイン。13→16歳(蟹座)。身長165→167センチメートル。鷺坂総司名人門下。二段。
腰まで届く長い黒髪と長身が特徴の、大人びた雰囲気を持つ和風美少女。しかし、実際は明るく無邪気な性格の持ち主で、少し子供っぽいところもある。
女性問題や金銭問題で家族に迷惑をかけ、誰も近寄ろうしない囲碁棋士の祖父から囲碁を教わり、その魅力に取りつかれていく。本気で囲碁棋士を目指すまで、囲碁嫌いの母の批判を避けるため、一時的に高校生の従姉・里津の名前を借りて手合いに出ていた。
棋風は、祖父から受け継いだ「相手に最も響く一手」を追求した斬新かつ独創的なスタイル。一方、ヨセや目算といった細かいことは苦手。
本作終盤で、総司と義理の従兄妹同士であることが判明。そのことが原因で2年以上も彼と連絡が途絶えてしまっていたが、その間にも16歳9ヶ月の史上最年少女流名人に就く。最後は挑戦者杯に出場して決勝まで上り詰めてたが、対戦直前に交通事故に遭ってしまうものの、迎えに来た彼と対戦した。
鷺坂 総司(さぎさか そうじ)
本作のもう1人の主人公。1996年[5]4月28日生まれ(牡牛座)、17→20歳。七→九段。鷺坂暁生名誉名人門下。
12歳で入段し、16歳にして史上最年少で名人リーグ入りした若き天才棋士。高名な棋士だった祖父を持ち、その影響もあって将来を非常に嘱望されており、南雲ら四天王を追う1番手と目されている。
棋風は、「勝つための最善の道」を模索した堅実に地を稼ぐスタイルで、ヨセの名手。しかし、名人リーグで南雲に完敗したことを機に、それまで並べることのできなかった祖父の棋譜を並べるようになり、今までになかった斬新な手を打てるようになる。その後も短期間で凄まじい成長を遂げ、ついに史上最年少となる18歳の名人となる。
暁生譲りの尊大かつ好戦的な性格の持ち主で、作中でも登場人物と頻繁に口論になり、多くの棋界関係者から快く思われていない。一方、大の占い好きなであり、その日のラッキーアイテムを身につけているといった、意外な一面もある。
物語中盤から和歌の正式な師匠となり、日常的に厳しく鍛えている。また、終盤にて義従兄であることも判明する。
2年後には、名人を含む二冠[6]に輝き、棋界の第一人者として国内外問わず[7]活躍している。
プロ棋士
鷺坂 暁生(さぎさか あきお)
和歌と総司の祖父で、本作の裏主人公。名誉名人、九段。身長約170センチメートル。
故人で、物語開始の約3年前に既に死亡している。7大タイトルを総嘗めにした昭和最強の棋士の1人で、死亡時も名人位を保持していた。数多くの棋士や業界関係者からも慕われており、死んだ後でもその功績は語り継がれている。
傍若無人な性格で借金も暴力といった数々の迷惑行為を繰り返し、極めつけに死亡した棋士仲間の未亡人(総司の祖母)を引き取るために、前妻(和歌の祖母)を捨てて双方の家庭を滅茶苦茶にし、周囲に多大なる迷惑を齎したことである。
上記の通り、和歌は前妻との間に出来た実子(和歌の母・歌奈)の孫で、総司は後妻の連れ子(総司の母・笙子)の孫である。
南雲 清一郎(なぐも せいいちろう)
総司の兄弟子。鷺坂暁生名誉名人門下。31歳(山羊座)。九段。
四天王と称される現役有数の棋士の1人で、本因坊、王座、天元などを獲得している。
暁生が保持していた名人位に対し、並々ならぬ感情を抱いている。生まれつき重い持病を患っており、それが原因で長時間の対局は困難である。総司の最大のライバルとして立ちはだかり、作中で三度にわたり彼と死闘を繰り広げた。
首藤 龍臣(すどう たつおみ)
総司の親友で弟弟子。鷺坂暁生名誉名人門下。17→20歳。五→八段。手厚い棋風。
小学3年生時に、少年少女囲碁大会で優勝した経験を持ち、意気揚々と院生になった矢先に同い年の総司に完敗を喫した。その後、暁生の内弟子となり兄弟弟子達と切磋琢磨し強くなった。若手棋士の中では、総司に次ぐ二番手として描かれている。総司とはプライベートでも仲が良く、彼の家に居座ることが多い。
二年後には、リーグ入りを果たすなど若手内でも屈指の実力者となるが、総司とは大きく溝を空けられてしまった。
飯塚(いいづか)
32→35歳。三段。
囲碁のレッスンプロで、単行本のおまけページ「りっちゃんの囲碁入門」コーナーで指導役を務める。25歳で入段したという遅咲きの棋士。
次郎丸 康子(じろうまる やすこ)
女流三冠王。20→23歳。四段。
非常に攻撃的な棋風。総司の元彼女。別れた際に断髪してもらい、それ以来ずっとベリーショトヘアである。和歌以上の長身。2年後、女流名人戦で和歌に敗れた。
明神(みょうじん)
推定50代。喫煙者。総司の実力を非常に高く評価し、和歌に対しても名記録係として気に入っている。自身も相当な実力者で、総司を下すほどである。
劉(りゅう)
葉月の師匠。九段。
総司よりもやや上の世代の棋士。名人リーグに在籍し、総司・南雲に次ぐ成績を収める活躍を見せている。飄々とした掴みどころのない性格で、総司から苦手意識を持たれている。
名人(めいじん)
本名不明。妻子持ち。南雲の挑戦を退けるも、翌年には総司と死闘を繰り広げて敗れた。
アマチュア棋士・院生
後にプロ棋士になった登場人物もこちらに含める。
八日町 吟(ようかまち ぎん)
少年少女囲碁大会・兵庫県代表。13→16歳。二段。身長145→171センチメートル。
左目の下にある傷が特徴。前年まで小学生の部を三連覇した実力の持ち主だが、里津の名で大会に出場していた和歌に負けた経験がある。
実家が医者の家系で、長兄が研修医、次兄が医大生という家庭環境で育ち、彼も両親から将来医者になることを期待されている。
石を取ることを信条とした戦闘的な棋風。作中で成長過程が最も顕著に描かれた人物。
丹羽 宏(にわ ひろし)
少年少女囲碁大会・愛知県代表。
マッシュルームカットが特徴。目算が得意。
国領 葉月(こくりょう はづき)
少年少女囲碁大会・埼玉県代表。15→18歳。二段。
和歌の幼馴染で、小学生時代に彼女と同じ碁会所に通っていた。その後、院生になり序列1位まで上り詰めたが、棋士採用試験には受からずに院生を辞めたという経歴を持つ。少年少女囲碁大会では、歌奈に頼まれて和歌に囲碁を止めさせるためにに出場する。
轟 豪(とどろき ごう)
カンナの兄。初段。
轟 カンナ(とどろき カンナ)
豪の妹。初段。女流三冠王・次郎丸康子を尊敬している。
黄 一仁(ファン イーレン)
台湾出身。現院生順位1位→二段。
首藤 蘭子(すどう らんこ)
首藤の妹。11→14歳。
ロングウェーブとガーリー系ファッションが特徴。総司に強い憧れを抱いている。二年後も囲碁を続けている様子。
皿家 しをり(さらや しをり)
盤外戦を得意とする女性棋士。常に不気味な笑みを浮かべ、対戦相手の弱みを突いて動揺させて相手の自滅で勝利を掴むという方法を用いている。総司に反感を抱く出版社の編集員を操って和歌に心理戦を仕掛ける。弟がいる。
後書きでプロ棋士になれず、院生を辞めたことが語られている。
常盤 大志(ときわ たいし)
総司の院生時代の同期。非常に大柄な体格の持ち主だが、大人しく気弱な性格である。
後書きでは、年齢制限で院生を辞めたが棋士になる夢は諦めてない旨が書かれている。
棋士の関係者
烏丸 里津(からすま りつ)
和歌の父方の従姉。17→20歳。身長約150センチメートル。
小柄な体格だが、かなりの巨乳の持ち主。買い物が趣味で、すぐにクローゼットがいっぱいになってしまうので、着なくなった服は和歌にあげているが、和歌の方が背が高いため、丈が短すぎになってしまうものも少なくない。同い年の親戚である総司とは犬猿の仲。和歌を2年も放っておくのにも激怒している。
烏丸 歌奈(からすま かな)
和歌の母。鷺坂暁生の前妻との間に生まれた子。旧姓:鷺坂→中手。
父・暁生の影響で大の囲碁嫌いで、当初は和歌にも棋士になってほしくないと強く願っていた。そのため、和歌が幼い頃は同じ碁会所に通う葉月と仲良くすることすら拒み、父と同じく棋士である総司や南雲に対しても、一貫して嫌悪感を露わにしていた。
鷺坂 笙子(さぎさか しょうこ)
総司の母。鷺坂暁生の後妻の連れ子。
顔は息子似だが、彼と違い囲碁の才能に恵まれなかった。そのため、義姉妹にあたる歌奈や義姪の和歌を激しく憎んでいる。
その他
蛤(はまぐり)
暁生が突如として持ってきたヤギで、烏丸家でペットとして飼われている。祖父の迷惑行為の1つとしてカウントされ、総司がヤギ嫌いになった元凶でもある。
長谷川(はせがわ)
通称:ハセ。里津の同級生で、サッカー部所属。左目の下にある黒子が特徴。
4歳も年下である和歌に惚れるが、総司の存在を知って身を引く覚悟をする。
作中で唯一、囲碁棋士及びその関係者以外で視点が当てられた人物で、総司の部屋に出入りした数少ない人物でもある[8]
ツネ
長谷川の親友で、里津の元彼。サッカー部のエース。
書誌情報
モリエサトシ 『星空のカラス』 白泉社〈花とゆめコミックス〉、全8巻[4]
2013年2月20日発売、ISBN 978-4-592-19681-5
2013年7月19日発売、ISBN 978-4-592-19682-2
2013年12月20日発売、ISBN 978-4-592-19683-9
2014年5月20日発売、ISBN 978-4-592-19684-6
2014年8月20日発売、ISBN 978-4-592-19685-3
2015年2月20日発売、ISBN 978-4-592-19686-0
2015年8月20日発売、ISBN 978-4-592-19687-7
2016年1月20日発売、ISBN 978-4-592-19688-4
脚注
^ “コミックナタリー - 花とゆめラジオ開始、パーソナリティーは下野紘&島崎信長”. 2013年5月15日閲覧。
^ “コミックナタリー - 花とゆめで囲碁マンガ始動、13歳の少女がプロ棋士目指す”. 2013年5月15日閲覧。
^ 三段(2013年現在)、夫は将棋棋士の先崎学
^ a b s-book.net Library Service
^ 第1巻に登場した第33回(2013年)少年少女囲碁大会時に17歳だったため。
^ 作中では直接言及されていないが、もう1つのタイトルは棋聖である可能性が高い。理由としては、和歌が獲得した女流名人(毎年3月に行われる)と、同時期に獲得できる7大タイトルは棋聖だけである。
^ 国際棋戦において、日本勢の中で唯一ベスト8入りを果たしている。
^ 作中で確認できる範囲、総司の部屋に出入りしたのは和歌、首藤、康子(回想シーン)、笙子に彼を加えた4人だけである。
外部リンク
星空のカラス|白泉社
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『未完の対局』(みかんのたいきょく)は、日中国交正常化10周年記念映画として製作された、戦後初の日中合作映画。1982年公開。大正から日中戦争を挟んだ昭和にかけて、日本と中国の囲碁の天才棋士の交流を描いた作品。同名のノベライゼーションも出版されている。
目次 
1	諸元
2	制作の経緯
3	あらすじ
4	キャスト
5	受賞・評価
5.1	受賞
5.2	評価等
6	ノベライゼーション
7	脚注
8	参考文献
9	関連項目
10	外部リンク
諸元[ソースを編集]
製作 「未完の対局」製作委員会(東光徳間、北京電影制片廠)
配給 日本では東宝にて配給
監督 佐藤純彌、段吉順
134分
制作の経緯[ソースを編集]
1979年に北京映画撮影所発行「電影制片」7月号に、李洪洲、葛康同の共同名による文学台本「一盤没有下完的棋」が発表され、これを読んで感動した北京映画撮影所の李華が日中合作による映画化を大映社長徳間康快に提案した。監督には日本側は中村登が予定されたが、制作途中の1981年に中村が死去したため、『君よ憤怒の河を渉れ』が中国で大ヒットした佐藤純彌を起用。中国側の主演も当初は中国映画界の大スター趙丹だったがクランクイン直前にガンで死去、孫道臨に変更された。日本側では興行的要素から主人公を棋士以外とすることを提案したが、中国側の熱意でこれを変更することはせず、脚本を安部徹郎、脚本改訂を神波史男で撮影台本を完成させる。
あらすじ[ソースを編集]
1924年(大正13年)、日本の棋士松波麟作六段は中国を訪れ、江南の棋王と呼ばれる況易山と対局するが、官憲の妨害が入って中断する。松波は易山の息子阿明の才能を見込み、日本で囲碁の修行をさせるために引き取るが、その後日中は戦争の波に飲み込まれる。阿明は天分を発揮し、1941年(昭和16年)に天聖位に就くが、軍部に日本帰化を強要され、密航により中国帰国を企てるが憲兵に射殺される。戦争が終り、1960年(昭和35年)に第1回日中囲碁交流の代表団として訪中した松波は易山と再会する。
本作の登場人物は、1928年に14歳で来日した呉清源とそのライバル木谷實を思わせる点もある。実際の呉清源は戦前、戦後にかけて日本囲碁界の第一人者となったが、中国側の脚本家は呉清源の故事が念頭にあったことを述べている。[1]
キャスト[ソースを編集]
況易山:孫道臨
松波麟作:三國連太郎
况阿明(少年時代):劉新
况阿明:沈冠初
况巴(松波の娘):紺野美沙子
恩田忍(松波の妹):三田佳子
况華林(阿明と巴の娘):伊藤つかさ
况婉怡:黄宗英
况阿恵(少女時代):茅為恵
况阿恵:沈丹萍
関小舟:杜彭
恩田雄二:山本亘
森川:石田純一
森川よね:乙羽信子
立花医師:松坂慶子
張医師:于紹康
篠原八段:中野誠也
橋本隆吉:大滝秀治
黒田参謀:待田京介
尾崎大佐:室田日出男
情報局・滝井:小林稔侍
小阿恵:張磊
張医院の書生:林道紀
警察署長:織本順吉
日本領事:鈴木瑞穂
日華會館婦 : 小川眞由美
受賞・評価[ソースを編集]
受賞[ソースを編集]
1982年度毎日映画コンクール日本映画優秀賞、音楽賞(林光、江定仙)、録音賞(橋本文雄、呂慶昌)
1983年モントリオール世界映画祭グランプリ
1983年日本アカデミー賞優秀作品賞
1983年金鶏奨特別賞
1983年文化部優秀作品賞
評価等[ソースを編集]
中国では制作段階から大きく評判になり、ロケ先の各地方では大歓迎を受けた。[2]
中国側の脚本家は陳祖徳とも親しいなど囲碁に理解が深かったが、日本側スタッフは囲碁に詳しくないためか、対局の場面に迫力がないとの批判もある。[3]
日本国内では作品内容に関して右翼が反発し、上映を妨害する事件が発生した。
ノベライゼーション[ソースを編集]
映画制作と並行してノベライゼーション『未完の対局』が南里征典によって書かれ、公開と同時に刊行された。
脚注[ソースを編集]
^ 松島利行『囲碁と映画の文化論(21)』(「碁ワールド」誌2005年1月号)
^ 南里征典『未完の対局』あとがきにかえて
^ 松島利行『囲碁と映画の文化論(18)』(「碁ワールド」誌2004年12月号)
参考文献[ソースを編集]
南里征典『未完の対局』徳間書店 1982年
関連項目[ソースを編集]
江ノ島電鉄800形電車 - 「青電」塗装に変更され、本作の撮影で使用された。
外部リンク[ソースを編集]
未完の対局 - allcinema
未完の対局 - KINENOTE
The Go Masters - AllMovie(英語)
Mikan no taikyoku - インターネット・ムービー・データベース(英語)

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名人 (小説)
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呉清源棋談・名人
The Master of Go
著者	川端康成
イラスト	題簽:呉清源
発行日	1954年7月10日
発行元	文藝春秋新社
ジャンル	歴史小説、長編小説
国	日本の旗 日本
言語	日本語
形態	上製本、クロス装
ページ数	209(写真1、本文208)
公式サイト	[1]
コード	NCID BN06452146
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『名人』(めいじん)は、川端康成の長編小説。1938年(昭和13年)の6月26日から12月4日にかけて打ち継がれた21世本因坊秀哉名人の引退碁の観戦記を元に小説の形にまとめたもので、川端文学の名作の一つとされている[1]。秀哉名人没後の翌々年の1942年(昭和17年)から本格的に書き出され、途中の中断を経て十数年がかりで完成と成った[2][1][3]。
家元制最後の本因坊秀哉の人生最後の勝負碁の姿を見た川端自身が、観戦記者からの視点で「不敗の名人」の敗れる姿を「敬尊」の念を持って描いた記録小説で、名人の生死を賭けた孤高の敗着に「古い日本への挽歌」、芸術家の理想像を重ねた作品である[4][5][6][1]。女性を描くことがほとんどの川端作品の中では異色の作品である[6]。
目次 
1	発表経過
2	あらすじ
3	登場人物
4	作品背景
4.1	実際の対局
4.2	川端の観戦記
4.3	大竹七段
5	作品評価・研究
6	翻案作品
7	おもな刊行本
7.1	全集収録
7.2	外国語版
8	脚注
8.1	注釈
8.2	出典
9	参考文献
10	関連項目
発表経過
川端康成は、1938年(昭和13年)に『東京日日新聞』(7月23日号-12月29日号)に「本因坊名人引退碁観戦記」を連載した後、1940年(昭和15年)1月の本因坊名人死去を受け、「本因坊秀哉名人」を雑誌『囲碁春秋』8月号から10月号まで掲載した[2][7]。しかしこれは、川端の病により中断となった[7]。
川端は2年後の 1942年(昭和17年)から新たに作品を書き始め、終戦をまたいで書き継ぐが一旦中絶し(未想熟版)、これに満足しなかった川端は稿を改めて1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)にかけて各雑誌に断続的に分載した(完成版)。その経過は以下のようになる[7][8][2]。
未想熟版(プレオリジナル)
1942年(昭和17年)
「名人」(序の章で中断) - 『八雲』8月号(第1号)
1943年(昭和18年)
「夕日」 - 『日本評論』8月号と12月号 ※第6回(戦後最後の)菊池寛賞を受賞。
1944年(昭和19年)
「夕日」(未完) - 『日本評論』3月号
1947年(昭和22年)
「花」(「名人」と同じ。未完) - 『世界文化』4月号
1948年(昭和23年)
「未亡人」 - 『改造』1月号
この八雲版(未想熟版プレオリジナル)の『名人』は、1949年(昭和24年)12月10日に細川書店より刊行の『哀愁』に収録され、1950年(昭和25年)5月に新潮社より刊行の『川端康成全集第10巻 花のワルツ』(全16巻本)に収録された。なお、「未亡人」は、本因坊名人の未亡人の死を書いた短篇で、刊行時に取り入れてられていない[2]。
完成版
1951年(昭和26年)
「名人」 - 『新潮』8月号
1952年(昭和27年)
「名人生涯」 - 『世界』1月号
「名人供養」 - 『世界』5月号
1954年(昭和29年)
「名人余香」- 『世界』5月号
定本『名人』
完本の『名人』と称されているものには2種類あり、上記の完成版の「名人」「名人生涯」「名人供養」の3篇をまとめた全41章と、この3篇に「名人余香」を加え、4篇をまとめた全47章(先の41章目は完全に取り払っている)がある。
「41章版」は、1952年(昭和27年)9月に刊行の『川端康成全集第14巻 名人』(全16巻本)と、1960年(昭和35年)12月刊行の『川端康成全集第10巻 名人』(全12巻本)に収録された。
「47章版」は、1954年(昭和29年)7月10日に文藝春秋新社より刊行の『呉清源棋談・名人』に収録された。
この「41章版」と「47章版」のどちらを定本にするかは、川端研究者により意見が分かれており[9][6]、未だに決着がついていない[6]。
「41章版」を定本とする派は、「47章版」で出した本が『呉清源棋談・名人』しかないところから、川端自身が「41章版」を重んじ評価していたと主張し[9][6]、「41章版」の終章の方が緊迫感のある「動」で終わり、筆が冴えているとしている[6]。
「41章版」の文庫版は新潮文庫より刊行されている。また、観戦記他、囲碁に関連する諸作品については、1981年(昭和56年)8月刊行の『川端康成全集第25巻』(全37巻本)に収録されている。
翻訳版は、エドワード・サイデンステッカー訳(英題:The Master of Go)、閔丙山訳(韓題:Myeong In)、フランス(仏題:Le maître, ou le tournoi de Go)、セルビア・クロアチア(題:Vellemajstor)など世界各国で行われている[10]。
あらすじ
1940年(昭和15年)1月18日朝、数え年67歳の第21世秀哉名人は熱海のうろこ屋旅館で亡くなった。私はちょうどその日の前日に行われた「紅葉祭」(尾崎紅葉『金色夜叉』の「今月今夜の月」を記念したもの)に出席するために熱海を訪れており、秀哉名人が亡くなる2日前には名人と将棋をした。名人の訃報を聞き、駆けつけた私は、遺族の依頼により名人の死顔の写真を撮った。私は出来上がったその写真を眺めながら、一昨年1938年(昭和13年)6月26日から12月4日にかけて観戦記者として秀哉名人の引退碁の勝負を見守った時のことを回想する。
30年の上、「黒」を持ったことがなかった「不敗の名人」であった秀哉名人が迎えた引退碁は、「封じ手」という名人が初めて経験する規則であった。すべて規則ずくめ、芸道の雅懐も廃れ、長上への敬恭も失われ、相互の人格も重んじないかのような今日の合理主義に、名人は生涯最後の碁で苦しめられたと言えぬでもなかった。秀哉名人は途中、体調悪化で入院するなどから、大竹七段がこの碁を放棄すると度々言い張ったりといろんな紛糾が起き、中断の危機があったが、勝負は11月25日に再開された。
12月1日の戦争のような「黒」と「白」の勝負は、大竹七段が封じ手を戦術に使ったのか、卑怯で陋劣なものだった。素人の「私」には、白130の一手が「不敗の名人」の敗着であったとはまだ分からなかったが、秀哉名人は私に、大竹七段の黒121手について、「あんな手を打っておいて、二日の休みのあいだに、調べようというのですよ。狡い」と吐き出した[注釈 1]。しかし碁盤にまた向かった秀哉名人は顔色や素振りには出さなかった。
12月4日の朝、坊主のように頭を刈った秀哉名人は終局の碁盤に向かった。全力を挙げて打った「不敗の名人」はついに引退碁に敗れた。翌々年1940年(昭和15年)の正月7日に、私は秀哉名人と碁を打ったが、秀哉名人は石をしっかり指につまめなくて、軽く落とすような石にさえ音がないようだった。そして16日の午後、熱海で再び秀哉名人と将棋の相手をしたが、その翌々日の18日の夜明け前に秀哉名人は死んだ。名人の遺骸がその日東京へ帰るため自動車で運ばれた。いそいで買った花束を、私は名人のいる車のなかの夫人に渡した。
登場人物
年齢は数え年
私(浦上)
小説家。熱海の旅館で亡くなった秀哉名人の死顔を写真に撮る。その一昨年、名人の引退碁の観戦記者として、観戦記を新聞に64回にわたって連載していた。
本因坊秀哉
65歳。囲碁の棋士。第21世本因坊秀哉名人。「不敗の名人」と呼ばれた。体重八貫、身長五尺しかないが、碁盤の前に座ると大きく見える胴長。顔も長めで大きく、鼻、口、耳などが大きく、顎の骨が出っ張っている。ふくらはぎにまるで肉がない。心臓病を患っている。世田谷区宇奈根で妻と二人住まいで、子供はいない。跡目を考えていた愛弟子の小岸壮二六段は1924年(大正13年)に27歳で若死した。
大竹七段(モデルは木谷實)
30歳。囲碁の棋士。秀哉名人の引退碁の相手。内弟子の少年少女数人を含めた16人家族。体重十六貫。五段当時に23歳で結婚し、三人の子供がいる。長女は6歳、次女は4歳、長男は8ヶ月の桃太郎のような赤ん坊。
呉清源
中国出身の囲碁の棋士。大竹七段の好敵手。長野県の富士見高原診療所で療養している。「私」はそこへ見舞いに行く。
その他の人々
秀哉名人の夫人。大竹夫人。大竹七段の子供や内弟子たち。小野田六段。村島五段(秀哉名人の門弟)。村松梢風。安永四段。記録係の少年棋士・少女棋士。将棋の関根13世名人(71歳)。将棋の木村名人(34歳)。聯珠の高木名人(51歳)。木村伊兵衛。「東京日日新聞」の五井記者と黒崎記者と砂田記者と伊東通信員。岩本六段。藤沢五段。久米正雄(「東京日日新聞」の学芸部長になっていた)。前田陳爾六段(秀哉名人の門弟)。日本棋院の八幡幹事。将棋の土居八段。東京の聖路加病院の川島博士と稲田博士。宮ノ下の岡島医師。軽井沢に帰る「私」が車中で会った囲碁好きのアメリカ人。文藝春秋社の斎藤竜太郎。理髪師。小杉四段。手のひら療法の術者・東郷。高橋四段(秀哉名人の義弟。夫人の弟)。「私」の妻。「紅葉祭」の写真師。
作品背景
実際の対局
秀哉名人の引退に当たり、『東京日日新聞』はその引退碁を企画し、リーグ戦で勝ち抜いた木谷實七段が対戦相手に選ばれた。時に、秀哉65歳、木谷29歳だった。
木谷の先番で1938年(昭和13年)6月26日に芝公園の「紅葉館」で打ち始められ、途中8月中ごろから11月中ごろまで、秀哉名人の体調不良による長期入院をはさみ、足かけ半年をかけて12月4日に伊東市の「暖香園」で打ち終えた。
終わった時間は午後2時42分で、勝負は木谷の5目勝ちであった。この碁が命取りとなり、秀哉名人はこれを最後の対局として、翌々年1940年(昭和15年)1月18日に満66歳で生涯を閉じた。
川端の観戦記
『東京日日新聞』、『大阪毎日新聞』両紙に連載された秀哉名人の引退碁観戦記は、小説家の目で詳細に描かれた観戦記という画期的なものだったが[3]、川端康成自身が、〈私の精励な凝り性の一面〉が出ていると語っているように[4]、川端も若い時から碁に親しみ、文壇の囲碁仲間内でも「打ち手」として知られていた[3]。
作中に明らかなやうに、私は対局の棋士の風貌、表情、動作、言葉は勿論、対局の時間の天候、部屋の模様や床の生花に至るまで、丹念にノオトして、観戦記にも使ひ、この作品でさらに書き加へた。(中略)私の精励な凝り性の一面が、観戦記にもこの「名人」にも出てゐる。さうあり得たのは観戦記当時の碁好きのせゐばかりではなく、名人にたいする私の敬尊のおかげである。
— 川端康成「あとがき」(『呉清源棋談・名人』)[4]
対局の約1年半後の1940年(昭和15年)1月18日に秀哉名人は熱海のうろこ屋旅館で亡くなったが、川端はその前日の1月17日の「紅葉祭」(尾崎紅葉の『金色夜叉』の「今月今夜の月」の日)のために熱海に滞在しており、秀哉名人の死の2日前に会って最後の将棋の相手をしていた。そして名人の死に駆けつけて、死顔の写真も撮ったという縁があった。川端は名人の死をきっかけにして小説『名人』の執筆に至った。
大竹七段
この小説では、主人公の「私(浦上)」(川端康成)以外、ほぼ全員が実名で登場しているが、対局者の木谷だけ「大竹七段」と名前を変えられている。理由について川端は『呉清源棋談・名人』の「あとがき」で、次のように述べている[4]。
「名人」は題名が示す通り主になつた。相手の大竹七段は従である。作中、大竹七段と日日新聞の囲碁記者だけは仮名にした。大竹七段が木谷實七段(当時)なのはまぎれもない。名人を本名として相手の木谷七段は仮名としたのも、他意あつてのことではないが、この小説が作中の対局を必然に虚構して、迷惑をおよぼすだらうといふ気持から、書きはじめた時に、故人の名人は本名のままにしたけれども、木谷七段は仮名を用い、その後これにしたがつたまでである。
— 川端康成「あとがき」(『呉清源棋談・名人』)[4]
木谷実の弟子に大竹英雄がいるが、これは偶然である。このためある川端の研究者が「名人の対戦相手がまだ生存している」と聞いて、大竹の元を訪れてきたというエピソードがある。大竹英雄は、後にタイトル制の名人の座に就いている。
作品評価・研究
川端の作品としては、女性がほとんど出てこない点で地味な印象の作品だが、碁という「静」の世界の激しさと静けさを、強く張り切った冷徹な筆で綴り、勝負の世界に生きて、〈一芸に執して、現実の多くを失つた人〉の、その純粋な人生の結末を的確に描いている[6][1]。『名人』は、東洋の「芸」に一途であった名人と、名人に「敬尊」を抱く川端の、同じ〈芸道〉に生きる者同士の「鬼気」、「幽気」が相通じて成った作で、その念は1953年(昭和28年)に書かれた『呉清源棋談』などにも流れている[3]。
川嶋至は、川端が秀哉名人を語る際に、〈芸〉という言葉を多用していることに着目し、それは川端が自身と同様、名人の中に「〈芸〉に苦悩する姿」を見出し、「文芸にすべてを投入して生きるみずからの生命をもかえりみていたにちがいない」としている[12]。そして川嶋は、秀哉名人の引退碁を観戦中の川端は、「名人のうちに、この世ならぬ〈真実〉で〈無垢〉な、没我の境にある純粋な人間の姿を発見したのである」と解説している[12]。
作品冒頭に置かれた秀哉名人の死は、川端氏にとって、世に稀なひとりの純粋な人間の姿が消滅したことを意味していた。現実の世にある純粋のかたち、それは純粋ゆえに脆弱でこわれやすい。(中略)川端氏を「名人」創造に駆りたてたものは、芸道に努力精進する厳しい人間の姿ではなく、秀哉名人が天性有する芸道への没我の純粋性なのである。世俗の一切の拘束を忘れ、みずから努力することなく自然に碁一筋の道に没入できる名人の純粋さは、小説家としての川端氏の常に求めてやまぬものであった。(中略)
観念的な純粋の世界は、現実の世界に引き下ろせば、氷解し霧散しなければならない。文字によって創造された、川端氏の観念的な非現実の世界も、同様の運命を辿る。それは川端氏のもっともよく知るところであろう。その氏は、現実の生身を有しながら、純粋の観念の世界に遊ぶ名人を発見した驚きは大きかった。
— 川嶋至「川端康成の世界 第六章 現実からの飛翔―『雪国』と『名人』―」[12]
今村潤子は、『名人』には名人の死顔に対する、〈一芸に執して、現実の多くを失つた人の、悲劇の果ての顔〉という感慨がモチーフとなっていると解説し、長年をかけて創作された『名人』へのエネルギーを生み出したものは、川端文学のテーマの一つである「魔界」の主題とも無関係ではないとしている[6]。また、『名人』が、「戦争」「敗戦」という社会状勢や背景の中で、執筆・改変・完結していった経緯から、そこに主題の根底があることが、小林一郎により指摘されている[13][6]。
今村は、川端が秀哉名人の敗北を、「一つの時代の終焉(死)としてはっきり描き、更に意識の底で日本の敗戦と強く係わらせて捉えている」とし[6]、現代の合理主義を代表する人物である大竹七段に、〈いにしえの人〉である秀哉名人が、あえて現代的な対局法で勝負に臨み、名誉や命を賭けて生涯の最後を飾ろうとした姿や戦いぶりを、〈一つの血統が滅びようとする最後の月光の如き花〉(「嘘と逆」)[14]、〈残燭の焔のやうに、滅びようとする血がいまはの果てに燃え上がつた〉(「末期の眼」)[15]姿として川端が捉え、確信していたと解説している[6]。
しかしながら、合理主義の新しい戦法の〈卑怯で陋劣〉〈狡い〉手に負けても、〈一筋の乱れもなく戦つた〉名人には、敗着(敗戦)そのものへこだわりは薄く、勝負には負けても「芸術として棋面」を創ろうとしたその姿勢に、「精神の高雅さ」を見る川端の『名人』の描き方は、決して悲観論に終わっていないと今村は考察し[6]、「真に芸に生きた人の雄姿」である名人の生涯最後の勝負碁における負けや戦いぶりは、「新しい合理主義が日本に持ち込まれても、日本の古い伝統の中に潜む美は微動だにしない」という矜持に繋がっていると解説している[6]。
そして、名人の敗着を折からの日本の敗戦と重ね合わせ、名人の碁を「日本の古い伝統芸術の象徴」とした川端は、その名人の生き方に、「戦後の日本人の在り方の一つの理想像」を示して描いていると論考し[6]、またその「名人の自己投企の純粋性」は、川端文学のモチーフでもある「魔界」にも通じ、それを川端は「美の勝利」として捉えていると今村は述べている[6]。
羽鳥徹哉は、東洋に古くから伝わる「芸道」としての碁が、近代合理主義戦法に敗れる姿に、川端が秀哉名人への挽歌、「古い日本への挽歌」として捉えようとしたと解説し[5]、山本健吉も、「もう秀哉名人のような、古風な“芸道”の人として対局に臨む人はなくなった」[1]と、囲碁でも将棋でも、スポーツと同じように単に「選手権を争う仕合」と化した時勢に触れつつ、合理の世界と非合理の世界の関係から生じる「“いにしえ”の世界の崩壊」であったと解説している[1]。
また山本は、川端が名人と大竹七段の生活態度や性格を対比的に描きながらも、碁盤の世界は、そういったものから離れた「打合う黒と白とによってだけ構成される抽象的な世界」であることを表わしているとし、その上で、なおかつそこに「人が移調された人生の象徴を読み取った」と考察している[1]。
翻案作品
1984年のフランス・スイス合作映画『La Diagonale du fou』(Richard Dembo監督)は、この小説をベースにしたとクレジットされており、囲碁はチェスに置き換えられ、ソ連の世界チャンピオンと若きアメリカ人選手が対局する、国家間のサスペンス的な作品となっている[16]。
おもな刊行本
『哀愁』(細川書店、1949年12月10日)
収録作品:「哀愁」「反橋」「しぐれ」「住吉」「片岡鉄兵の死」「武田麟太郎」「武田麟太郎と島木健作」「横光利一」「天の象徴」「菊池さん」「名人」「さざん花」「紅梅」「かけす」「夏と冬」「足袋」「東京裁判の老人達」「東京裁判判決の日」「平和を守るために」「浮舟」
※プレオリジナル版(八雲版)が収録。
『呉清源棋談・名人』(文藝春秋新社、1954年7月10日)
題簽:呉清源。口絵写真(撮影:濱谷浩)。写真1枚+本文208頁
収録作品:「呉清源棋談」「名人」
文庫版『名人』(新潮文庫、1962年9月5日。改版2004年10月25日)
カバーデザイン:新潮社装幀室。解説:山本健吉。付録:引退碁の勝負碁盤表
全集収録
『川端康成全集第14巻 名人』(新潮社、1952年9月30日)
装幀・題簽:安田靫彦。四六判。函入。付録:川端康成「あとがき」
収録作品:「名人」「冬の曲」「さざん花」「かけす」「夏と冬」「地獄」「北の海から」「たまゆら」「少年」
『川端康成全集第10巻 名人』(新潮社、1960年12月25日)
菊判。函入。口絵写真葉:著者小影、唐三彩小瓶
収録作品:「名人」「日も月も」「自然」「無言」「明月」「水月」「小春日」「横町」「離合」
『川端康成全集第10巻 名人』(新潮社、1969年7月25日)
カバー題字:松井如流。菊判変形。函入。口絵写真葉:著者小影、十便帖の一・耕便(池大雅)
収録作品:「名人」「日も月も」「自然」「無言」「明月」「水月」「小春日」「横町」「離合」
『川端康成全集第11巻』(新潮社、1980年12月20日)
カバー題字:東山魁夷。四六判。函入。
収録作品:「虹いくたび」「日も月も」「名人」
『川端康成全集第25巻』(新潮社、1981年8月20日)
仕様は上記と同じ。
収録内容:「囲棋観戦記」「本因坊名人引退碁観戦記」「観戦記―本因坊名人呉四段対局―」「観戦記―木谷・呉三番大棋戦―」「呉・本因坊十番碁第一局を観て」「呉清源棋談」「囲棋随筆」「棋の観戦記を書いて」「本因坊名人を偲ぶ」「印象」「呉清源その他」「日に新たなる者」「新布石青春」「名人(プレオリジナル)」「本因坊秀哉名人」「名人」「夕日」「花」「未亡人」
外国語版
韓国語:『名人』閔丙山 訳、新丘文化社 Myeong In, Ming Byeong Son訳, Shingu Munhwa Sa, Seoul, 1969
英語:"The Master of Go" Edward G. Seidensticker訳, Alfred A. Knopf, New York, 1972
フランス語:"Le Maître ou Le Tournoi de Go", Sylvie Regnault-Gatier訳, Albin Michel, Paris, 1975
セルボクロアート語:"Velemajstor" ("Velemajstor, Snežna zemlja"所収), Ljiljana Đurović訳, Slovo ljubve, Beograd, 1981
繁体中文:『名人』劉華亭 訳、台湾星光出版社 Mingren, Liu Hua Ting (劉華亭)訳, Xingguang Chubenshe, Taipei, 1985
オランダ語:"De meester van het Go-spel", Annemarie van Frankenhuysen訳 (英語版からの重訳), Uitgeverij BZZToH, 's-Gravenhage, 1987
チェコ語:"Meidžin" ("Tanečnice z Izu a jiné prózy"所収), Vlasta Winkelhöferová 及び Miroslav Novák訳, Odeon, Praha, 1988
トルコ語:"Go ustasi", Belkıs Çorakçı (Dişbudak)訳 (英語版からの重訳), Remzi Kitabevi, İstanbul, 1992
イタリア語:"Il Maestro di Go", Cristina Ceci訳, Arnoldo Mondadori, Milano, 1995 (47章版の翻訳)
簡体中文:『名人』葉渭渠 訳、中国社会科学出版社 Mingren, Ye Wei Qu 訳, Zhongguo Shehui Kexue Chubenshe, Beijing, 1996
ロシア語:"Méydzin", Boris Kornilow訳, Alexandre Nosovsky, Moskva, 1998 又 Arkadij Bogatskij, Kijew, 2003
ポーランド語:"Meijin - mistrz go", Henryk Lipszyc訳, Wydawnictwo Elay, Bielsko-Biała, 2004
スペイン語:"El Maestro de Go", Amalia Sato訳 (英語版からの重訳), Emecé Editores S.A., Buenos Aires, 2004
ルーマニア語:"Maestrul de go", Flavius Florea訳, Humanitas Fiction, Bucuresti, 2007
ドイツ語:"Meijin", Felix Heisel訳 (英語版からの重訳), Brett und Stein Verlag, Frankfurt, 2015
脚注
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注釈
^ ただしこの手は時間かせぎではなく盤上での意味があることを木谷実(大竹)は後の自戦解説で述べている[11]。
出典
^ a b c d e f g 山本健吉「解説」(名人文庫 2004, pp. 166-175)
^ a b c d 「あとがき」(『川端康成全集第14巻 名人』新潮社、1952年9月)。独影自命 1970, pp. 244-257に所収
^ a b c d 「『雪国』へ」(アルバム川端 1984, pp. 32-64)
^ a b c d e 「あとがき」(『呉清源棋談・名人』文藝春秋新社、1954年7月)。評論5 1982, pp. 651
^ a b 羽鳥一英「『名人』論」(作品研究 1969, pp. 205-219)。羽鳥徹哉「『名人』論」(論集成5 2010)
^ a b c d e f g h i j k l m n o 「第二部 第二章 『名人』論」(今村 1988, pp. 107-125)
^ a b c 近藤裕子「名人」(事典 1998, pp. 352-355)
^ 「解題――名人」(小説11 1980, pp. 593)
^ a b 松坂俊夫「『名人』小考」(『現代国語シリーズ「川端康成』尚学図書、1982年5月)。今村 1988, p. 110
^ 「翻訳書目録」(雑纂2 1983, pp. 649-680)
^ 木谷実『現代の名局3 木谷実』(誠文堂新光社、1968年12月)p.169
^ a b c 「第六章 現実からの飛翔―『雪国』と『名人』―」(川嶋 1969, pp. 200-242)
^ 小林一郎「『名人』論」(川端文学研究会編『川端康成研究叢書7 鎮魂の哀歌』教育出版センター、1980年4月)。今村 1988, p. 115
^ 「嘘と逆」(文學時代 1929年12月号)。評論5 1982, pp. 60-63、作家の自伝 1994に所収
^ 「末期の眼」(文藝 1933年12月号)。随筆2 1982, pp. 13-26、一草一花 1991, pp. 99-118、随筆集 2013, pp. 8-26に所収
^ 松島利行「そこに碁盤があった 囲碁と映画の文化論(第3回)」(碁ワールド 2003年7月号)
参考文献
『川端康成全集第10巻 名人』 新潮社、1969年7月。NCID BN06162601。
『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』 新潮社、1970年10月。NCID BN04731783。
『川端康成全集第11巻 小説11』 新潮社、1980年12月。ISBN 978-4106438110。
『川端康成全集第25巻 小説25』 新潮社、1981年8月。ISBN 978-4106438257。
『川端康成全集第27巻 随筆2』 新潮社、1982年3月。ISBN 978-4106438271。
『川端康成全集第33巻 評論5』 新潮社、1982年5月。ISBN 978-4-10-643833-2。
『川端康成全集第35巻 雑纂2』 新潮社、1983年2月。ISBN 978-4-10-643835-6。
川端康成 『名人』 (改版) 新潮文庫、2004年10月。ISBN 978-4-10-100119-7。 - 初版は1962年9月。
川端康成 『一草一花』 講談社文芸文庫、1991年3月。ISBN 978-4-06-196118-0。
川端康成 『川端康成随筆集』 岩波文庫、2013年12月。ISBN 978-4-00-310815-4。
板垣信著、福田清人編、 『川端康成 人と作品20』 センチュリーブックス/清水書院、1969年6月。ISBN 978-4-389-40020-0。
今村潤子 『川端康成研究』 審美社、1988年6月。ISBN 978-4788340565。
川嶋至 『川端康成の世界』 講談社、1969年10月。NCID BN01844841。
長谷川泉編 『川端康成作品研究』 八木書店〈近代文学研究双書〉、1969年3月。NCID BN01844524。 増補版1973年1月。
羽鳥徹哉; 原善編 『川端康成全作品研究事典』 勉誠出版、1998年6月。ISBN 978-4-585-06008-6。
羽鳥徹哉編 『作家の自伝15 川端康成』 日本図書センター、1994年9月。ISBN 978-4-8205-8016-4。
深澤晴美; 細谷博編 『川端康成作品論集成 第5巻――十六歳の日記・名人』 おうふう、2010年10月。ISBN 978-4273035754。
保昌正夫編 『新潮日本文学アルバム16 川端康成』 新潮社、1984年3月。ISBN 978-4-10-620616-0。
関連項目
封じ手
直木三十五
日華事変
■
本因坊

第一世本因坊算砂旧跡、京都市左京区仁王門通東大路西入南側寂光寺前

囲碁本因坊発祥の地、京都市中京区寺町通夷川上る東側
本因坊(ほんいんぼう)
江戸時代、安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つ(→下記項目「本因坊家」に詳述)。
昭和になって創設された、囲碁の棋戦の一つである本因坊戦に優勝した棋士に贈られるタイトル(→下記項目「本因坊戦」に詳述)。
目次 
1	本因坊家
2	本因坊戦
2.1	創設
2.2	実施方式
3	歴史
3.1	創設
3.2	東西対決
3.3	高川9連覇
3.4	坂田時代
3.5	木谷門の時代
3.5.1	趙治勲10連覇
3.6	平成四天王の時代
3.7	井山裕太の時代
4	世襲本因坊
5	永世称号
6	歴代本因坊戦優勝者
7	本因坊リーグ戦
8	本因坊リーグ経験者
9	雅号
10	参考文献
11	脚注
12	関連項目
13	外部リンク
本因坊家
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた(とされる[1])日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来する。「本因坊」はもとは連声して「ほんにんぼう」と読んだが、囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになった。
以降5人の名人を含め多くの名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった。道策・丈和・秀和・秀策・秀栄などは、中でも高名である。明治以後にもその権威は受け継がれるが、昭和13年二十一世本因坊秀哉が引退した際、その名跡を日本棋院に譲渡し、家元制から実力制に移行することとなった。 昭和16年第一期本因坊戦が開催され現在まで続いている。
本因坊家の外家としては、水谷家(水谷琢元、水谷琢順、跡目琢廉、跡目順策、四谷)がある。
※歴代の世襲制本因坊については、下記項目「歴代本因坊」の世襲本因坊に記載あり。
本因坊戦
創設
1939年(昭和14年)創設。毎日新聞社主催。最後の世襲本因坊二十一世本因坊秀哉名人は、本因坊の名は棋界随一の実力者が名乗るべきものであるという思いから、日本棋院に本因坊の名跡を譲り渡し、選手権制による本因坊戦「本因坊名跡争奪・全日本専門棋士選手権大手合」が行われることになった。囲碁におけるタイトル制度はこれが始まりであり、以後に始まる多くの棋戦のモデルとなった。
なお、女流戦にも女流本因坊戦がある。
実施方式
第1-5期までは、2年で1期の開催。第6期から1年1期となる。この変更が、本因坊就位直後の橋本宇太郎率いる関西棋院独立の一因にもなった。
現在では、前年度の本因坊七番勝負敗退者と前年度のリーグ戦二位から四位までの4人に加え、予選トーナメントによって4人を選出し、計8名によるリーグ戦を行って挑戦者を決定する。リーグ戦の五位以下は陥落となり、翌年度は再び予選トーナメントからの参加になる。このため、入りやすいが陥落もしやすいという特徴があり、勝ち越しながら陥落した例が、第64期(2008-2009年)までの間に16回ある[2]。本因坊リーグは棋聖・名人リーグとともに三大リーグと呼ばれ、ここに参加することが一流棋士の証とされる。
六段以下の棋士が本因坊リーグ入りを果たした場合、七段に昇段する。またリーグに優勝して挑戦権獲得が決まったら八段に、さらに本因坊位を奪取した場合九段へ昇段する。
リーグ戦の一位者はタイトル保持者と七番勝負を行い、優勝者を決める。七番勝負は全国の有名旅館・ホテルを舞台に、持ち時間各8時間、封じ手制による2日制で戦われる。
歴史
創設
1934年、21世本因坊秀哉は引退にあたり、その名跡を全棋士に開放して実力制本因坊戦を開始することを決意した。この背景には、秀哉が後継者として期待していた小岸壮二が夭折していたこと、将棋界で13世関根金次郎名人の引退と共に名人戦が始まっていたことがあるといわれる。なお本因坊戦の設営に当たったのは、当時毎日新聞学芸部副部長で、後に作家に転じた井上靖であった。
1939年、準備が完了して、本因坊戦が開始された(方式など、詳しくは第1期本因坊戦の項を参照)。当時の高段者が参加して4度のトーナメント戦が行われ、その合計ポイントの上位2名による決戦によって争われた。本命と見られていた呉清源は4度のトーナメントのうち2回優勝したが、規定によりポイント不足で涙を飲んでいる。1位となった関山利一と2位の加藤信の間で六番勝負が行われて3勝3敗となり、1941年7月、規定により予選1位の関山が初代実力制本因坊の座に就いた。
1943年の第2期には橋本宇太郎が挑戦者として登場したが、関山は神経性の胃痛と嘔吐に襲われ、第1局の途中で棄権。橋本が第2期本因坊となった(方式など、詳しくは第2期本因坊戦の項を参照)。倒れた関山に代わり、弟子の梶原武雄が打ち継ぐという話も出たが、これは当然実現しなかった。
またこの時には「挑戦者決定リーグの第2位の者が、6ヶ月以内に本因坊に挑戦できる」という規定があった。このルールにより木谷實が挑戦を行うと表明したが、橋本は対局料として3万円を要求し、これを木谷が工面できず挑戦を諦めるという場面もあった。
1945年第3期の本因坊戦には岩本薫が挑戦者に名乗りを挙げる。物資の不足する中で勝負は行われるが、広島市郊外で行われた第2局が原子爆弾の被害に見舞われる(原爆下の対局)。こうした中でも本因坊戦は打ち継がれ、3-3の五分になった後、1946年7月の高野山の決戦によって岩本が新本因坊に就いた。岩本は第4期にも木谷の挑戦を退け、防衛を果たす。
東西対決
1948年の第5期には関西在住の橋本宇太郎が挑戦者として登場し、4-0のストレートで本因坊を奪取する。しかしこの時期関西地区の棋士は関東への反発が高まっており、さらにこの年から「本因坊戦を一期一年とする」という発表がなされた。この発表は橋本の就位に合わせ、しかも橋本に何の断りもなくなされたことから、ついに関西棋士の反感が爆発した。この結果、1950年に橋本を総帥として関西棋院は独立を宣言することとなった。
橋本から本因坊を剥奪せよとの声もあった中、日本棋院は新鋭・坂田栄男を挑戦者として送り込んだ。満天下の注目の中、坂田は3-1と橋本を追い込むが「首を洗ってきました」と開き直った橋本は残りを3連勝し、逆転で防衛を果たした。このきっかけとなった第5局の対局が山梨県の昇仙峡でなされたことから「昇仙峡の逆転劇」と呼ばれる。この時橋本が敗れていれば、関西棋院は崩壊していたと見る者も多い。
高川9連覇
翌1952年には、高川格が挑戦権を獲得する。当時高川はまだ実績がなく、期待する者はほとんどなかったといわれる。第1局で高川は歴史的見損じを演じて日本棋院側を落胆させるが、本人はこれで冷静になり、第2局以降を4連勝して予想外の奪取劇を演じた。
平明な棋風だが非力と見られていた高川は、本因坊になってもその力は正しく評価されていなかった。しかし高川は木谷・杉内雅男・島村利博・藤沢朋斎といった実力者の挑戦を次々に退け、連覇を重ねた。特に木谷は毎年好成績を挙げ、計3度本因坊に挑戦しながら奪取は成らず、悲運の大棋士と呼ばれた。
1960年の第15期には藤沢秀行が挑戦。2-1とリードする。第4局も藤沢優勢であったが、ここで高川は無コウ(無効なコウダテ)を使い、藤沢がうっかりそれに受けてしまうというハプニングが起きた。藤沢はこれに気づいて精神的に動揺し、ミスを重ねて敗局。高川はその後も連勝で押し切り、9連覇を達成した。
この9連覇において、高川は奪取を果たした第7期は4-1、島村利博を挑戦者として迎えた第10期を4-0で勝った以外は、全て4-2で勝利を収めている。高川はいち早くコミ碁に対応し、七番勝負の闘い方を心得た新時代の勝負師と呼ばれた。
坂田時代
1961年、10年前に橋本に逆転負けを喫して以来挑戦権に縁のなかった坂田栄男がついに登場する。41歳の坂田は積年の鬱憤を晴らすように4-1で本因坊を奪取、ここに坂田時代が幕を開けた。1963年には名人も奪取、秀哉以来の「本因坊名人」が誕生した。この時期坂田は圧倒的強さを発揮し、高川の2度のリターンマッチも粉砕、山部俊郎・藤沢秀行もストレートで降している。1963年から67年にかけては挑戦手合17連勝という大記録を達成し、満天下にその実力を見せつけた。
7連覇を果たした坂田のタイトルを奪ったのは、新鋭林海峰だった。すでに坂田から名人位を奪っていた林は、2度目の挑戦となった1968年の第23期、フルセットの激闘の末坂田から本因坊を奪い取る。林はここに本因坊名人となり、覇者は交代した。
木谷門の時代
翌1969年には、予選を這い上がってリーグ入りを果たし優勝した22歳の加藤正夫五段が登場するが、林の壁に阻まれ4-2で敗退。しかし1971年には木谷門下第二の刺客・22歳の石田芳夫が挑戦権を獲得。石田は「林さんの、いったいどこが強いんですか」と公言した上で林を降し、木谷門下の時代の先鞭をつけた(ただし数年後、石田は「林さんはこれまで戦った中で最強の人だった」と評価を改めている)。石田は林の2度のリターンマッチも撃退。第30期には坂田栄男が登場し、石田を3-1でカド番に追いつめるも、第5局終盤の攻め合いでミスをし、以後連敗。石田は劇的な形で5連覇を果たし、名誉本因坊(24世本因坊)の資格を手にした。
石田が6連覇を狙った第31期には、やはり木谷門下の武宮正樹が登場。4-1で石田を降し、初の本因坊に輝いた。武宮の豪快な宇宙流布石はファンの人気を集め、アマチュアの間にも三連星がブームとなった。
しかし翌年、兄弟子の加藤正夫が挑戦者として登場。加藤は第1局で「殺し屋」の本領を発揮、武宮の大石を撲殺して先勝すると、その勢いのままに4-1で本因坊位を奪取した。加藤は3連覇を果たすが、第35期には武宮が本因坊を奪回、雪辱を果たした。
翌第36期には趙治勲が挑戦者となり、4-2で本因坊を奪取。史上4人目の「名人本因坊」となり、若き第一人者として君臨することとなった。翌年はライバル小林光一の挑戦を退ける。小林はこれを含め4度本因坊に挑んでいるが、全て趙の前に敗れ去っている。しかし第38期、林海峰が3連敗の後の4連勝という大逆転で13年ぶりの本因坊復位を果たした。林にとって3連敗4連勝は10年前に石田相手に果たして以来2度目であった。
1985年の第40期には武宮正樹が林を4-1で降した。3度の本因坊就位は史上唯一である。武宮は山城宏相手の挑戦手合で「上大ゲイマガカリ」の奇手を披露するなど、独創的なスタイルで4連覇を果たした。
趙治勲10連覇
しかし第44期には武宮の天敵・趙治勲が登場し、4-0のストレートで本因坊を奪取した。翌年からは小林光一が3年連続で挑戦権を握るが、趙はそれぞれ1-3、0-2、0-3からの大逆転勝利で防衛を果たし、小林の大三冠達成を寸前で阻止した。この3年連続決戦は長く続いた両雄の角逐の頂点、さらには現代囲碁史のハイライトともいわれている。
趙はその後も山城宏、片岡聡、柳時熏、さらに加藤正夫の二度の挑戦を退け、連覇を重ねた。高川の記録を破る10期目には王立誠を挑戦者に迎えるが、趙は珍しく「絶対に今回は勝つ」と宣言した上で王を撃破、前人未踏の10連覇を達成した。これは囲碁のあらゆるタイトルの最長連覇記録として、今も破られていない。
平成四天王の時代
1999年の第54期、趙善津がタイトル初挑戦ながら4-2で本因坊を奪取。趙治勲の長期連覇時代は終わりを迎えた。さらに2000年の第55期には王銘エンが奪取する。2001年の第56期には「平成四天王」で初めて張栩が挑戦者となるが、フルセットの末、王が防衛を果たした。
その翌期の本因坊リーグは、若手4人、木谷門下4人の新旧対決の場となり、木谷門下の加藤正夫が挑戦権を得る。2002年の王との第57期七番勝負で、加藤は2連敗後の4連勝という劇的な逆転で、23年ぶり、史上最年長55歳3か月で本因坊に復位した。加藤以後、木谷門下からは本因坊位獲得者も挑戦者も出ていない。
2003年の第58期、張栩が再び挑戦者となり、4-2で本因坊を奪取。これ以後、平成四天王たちが本因坊位を奪取・連覇するようになる。張栩は翌2004年の第59期、依田紀基の挑戦を退け連覇。さらに同年、依田から名人位を奪取し、史上5人目にして最年少の名人本因坊となった。
2005年の第60期、四天王の中ではタイトル争いでやや遅れをとっていた高尾紳路が、リーグ初参加にして挑戦権を得る。七番勝負では張栩を4-1で下し、本因坊を奪取。以後、2006年の第61期で山田規三生、2007年の第62期で依田紀基の挑戦を退け、3連覇する。その間、2006年には張栩から名人位を奪取、史上6人目の名人本因坊となった。
3連覇を機に雅号「秀紳」を名乗った高尾に、2008年の第63期七番勝負で挑戦したのは、当時四天王の中で唯一無冠だった羽根直樹であった。羽根は本因坊戦史上3例目の3連敗4連勝の大逆転を果たし、本因坊を奪取。さらに翌2009年の第64期も、高尾のリターンマッチを制して連覇した。
2010年の第65期は、これまで本因坊位に縁のなかった山下敬吾が挑戦者として登場。4-1で山下が羽根を押しきり、初の本因坊奪取を果たした。これにより、平成四天王全員が本因坊に就位した。翌2011年の第66期も、山下は羽根のリターンマッチを土俵際で退け防衛。さらに同年、名人位を獲得し、史上7人目の名人本因坊となった。
井山裕太の時代
2012年の第67期には、挑戦者として天元・十段のタイトルを引っさげた井山裕太が初登場。フルセットの末に山下を降して3連覇を阻むと同時に、史上最年少の三冠王に輝いた(23歳1ヶ月)。2014年の第69期には、初のリーグ入りであった伊田篤史がリーグを6勝1敗で終え、プレーオフで山下敬吾を降して、本因坊戦史上最年少(20歳0ヶ月)での挑戦を決めた。初の年下の挑戦者を迎えて井山の戦いぶりが注目されたが、4-1で伊田を撃破、3連覇を達成した。2015年の第70期は、リーグ第三戦、全勝同士で迎えた山下を下した伊田が再び挑戦権を獲得するかと思われた。しかし伊田は5,6,7戦を立て続けに落とし、伊田以外に全勝した山下が挑戦権を得た。2012年~2015年の山下はリーグ戦勝率80%、この年1月の棋聖戦でも挑戦者として登場しており、最強の挑戦者として井山に挑んだ。しかし第一戦から第三戦を井山が中押しで制し、第四戦を山下が返したものの、第五戦を再び井山が制し、本因坊戦4連覇を達成、二十六世本因坊に王手をかけた。なお、この年、山下は棋聖戦(3-4)、本因坊戦(1-4)、碁聖戦(1-3)で井山に挑戦したが全て敗退した。また、井山は早碁を除く全棋戦で11月19日現在まで山下以外には無敗という記録を継続中である。
世襲本因坊
生年		
一世	本因坊算砂	1559-	一世名人	
二世	本因坊算悦	1611-		
三世	本因坊道悦	1636-	準名人	
四世	本因坊道策	1645-	四世名人	二代目碁所
五世	本因坊道知	1690-	六世名人	四代目碁所
六世	本因坊知伯	1710-		六段
七世	本因坊秀伯	1716-		六段
八世	本因坊伯元	1726-		六段
九世	本因坊察元	1733-	七世名人	五代目碁所
十世	本因坊烈元	1750-	準名人	八段
十一世	本因坊元丈	1775-	準名人	八段
十二世	本因坊丈和	1787-	八世名人	六代目碁所
十三世	本因坊丈策	1803-		七段
十四世	本因坊秀和	1820-	準名人	八段
十五世	本因坊秀悦	1850-		六段
十六世	本因坊秀元	1854-		六段
十七世	本因坊秀栄	1852-	九世名人	
十八世	本因坊秀甫	1838-	準名人	八段
十九世	本因坊秀栄	再任	-	-
二十世	本因坊秀元	再任	-	-
二十一世	本因坊秀哉	1874-	十世名人	
四世跡目 - 本因坊道的 七段上手
四世跡目 - 本因坊策元 上手
十一世跡目 - 本因坊知策 五段
十四世跡目 - 本因坊秀策 七段
永世称号
本因坊戦を5連覇以上、あるいは通算10期以上獲得した棋士は、引退後または現役で60歳に達した際[3]に、永世称号として○○世本因坊を名乗る権利を得る。もとは名誉本因坊と称し、他のタイトルの名誉称号はこれに倣ったものである。1998年「名誉本因坊有資格者永世称号」が制定され、現在の称号となった。有資格者は下記の5人で、家元制最後の21世本因坊秀哉の後に続き、それぞれ22世~26世を名乗る。
ただし趙治勲のみ10連覇の偉業を称え、60歳を待たずして「25世本因坊治勲」を名乗ることを許されている。また9連覇を達成した高川格は、日本棋院創立40周年を記念して、1964年から「名誉本因坊・高川秀格」を名乗ることを許された。
雅号	名	通算	連覇	年
1	二十二世本因坊秀格	高川格	9期	9連覇	1952年-1960年
2	二十三世本因坊栄寿	坂田栄男	7期	7連覇	1961年-1967年
3	二十四世本因坊秀芳	石田芳夫	5期	5連覇	1971年-1975年
4	二十五世本因坊治勲	趙治勲	12期	10連覇	1981年-1982年、1989年-1998年
5	二十六世本因坊文裕	井山裕太	5期	5連覇	2012年-
歴代本因坊戦優勝者
○●はそのシリーズの勝者から見た勝敗、網掛けは前のタイトル保持者。
期	開催年	予選一位	勝敗	予選二位
1	1941	関山利一	○●○●○●[注 1]	加藤信
期	開催年	歴代本因坊	勝敗	対局者
2	1943	橋本宇太郎	○[注 2]	関山利一
3	1945	岩本薫	○●●○●○[注 3]
(再決戦:○○)	橋本宇太郎
4	1947	岩本薫	●○○●○	木谷実
5	1949	橋本宇太郎	○○○○	岩本薫
6	1951	橋本宇太郎	●○●●○○○	坂田栄男
7	1952	高川格	●○○○○	橋本宇太郎
8	1953	高川格	●○○○●○	木谷実
9	1954	高川格	○●○●○○	杉内雅男
10	1955	高川格	○○○○	島村利博
11	1956	高川格	○●●○○○	島村利博
12	1957	高川格	●○○○●○	藤沢朋斎
13	1958	高川格	○○●●○○	杉内雅男
14	1959	高川格	●○○●○○	木谷実
15	1960	高川格	4-2	藤沢秀行
16	1961	坂田栄男	○○○●○	高川格
17	1962	坂田栄男	○○●○○	半田道玄
18	1963	坂田栄男	4-2	高川格
19	1964	坂田栄男	○○○○	高川格
20	1965	坂田栄男	○○○○	山部俊郎
21	1966	坂田栄男	○○○○	藤沢秀行
22	1967	坂田栄男	○○○●○	林海峰
23	1968	林海峰	4-3	坂田栄男
24	1969	林海峰	○●○○●○	加藤正夫
25	1970	林海峰	○○○○	坂田栄男
26	1971	石田芳夫	4-2	林海峰
27	1972	石田芳夫	4-3	林海峰
28	1973	石田芳夫	○○○○	林海峰
29	1974	石田芳夫	4-3	武宮正樹
30	1975	石田芳夫	4-3	坂田栄男
31	1976	武宮正樹	4-1	石田芳夫
32	1977	加藤正夫	4-1	武宮正樹
33	1978	加藤正夫	4-3	石田芳夫
34	1979	加藤正夫	4-1	林海峰
35	1980	武宮正樹	4-1	加藤正夫
36	1981	趙治勲	4-2	武宮正樹
37	1982	趙治勲	●○●○○○	小林光一
38	1983	林海峰	●●●○○○○	趙治勲
39	1984	林海峰	○●○○○	淡路修三
40	1985	武宮正樹	○○●○○	林海峰
^ 規定により予選一位の関山が本因坊に
^ 関山病気棄権
^ 第2局が原爆下の対局
期	開催年	本因坊	勝敗	対局者
41	1986	武宮正樹	○●○○○	山城宏
42	1987	武宮正樹	○○○○	山城宏
43	1988	武宮正樹	●○○●○●○	大竹英雄
44	1989	趙治勲	○○○○	武宮正樹
45	1990	趙治勲	○●●●○○○	小林光一
46	1991	趙治勲	●●○○○○	小林光一
47	1992	趙治勲	●●●○○○○	小林光一
48	1993	趙治勲	○●○○○	山城宏
49	1994	趙治勲	●○○○●●○	片岡聡
50	1995	趙治勲	○●○○○	加藤正夫
51	1996	趙治勲	○○●○●○	柳時熏
52	1997	趙治勲	○○○○	加藤正夫
53	1998	趙治勲	○○●○●○	王立誠
54	1999	趙善津	●○●○○○	趙治勲
55	2000	王銘琬	●○○●○○	趙善津
56	2001	王銘琬	●○●○●○○	張栩
57	2002	加藤正夫	●●○○○○	王銘琬
58	2003	張栩 	●○●○○○	加藤正夫
59	2004	張栩	○○●○●○	依田紀基
60	2005	高尾紳路	○○○●○	張栩
61	2006	高尾紳路	○●○○●○	山田規三生
62	2007	高尾紳路	○●○○○	依田紀基
63	2008	羽根直樹	●●●○○○○	高尾紳路
64	2009	羽根直樹	○●○○●○	高尾紳路
65	2010	山下敬吾	●○○○○	羽根直樹
66	2011	山下敬吾	○○○●●●○	羽根直樹
67	2012	井山裕太	○○●●○●○	山下敬吾
68	2013	井山裕太	○●●○○●○	高尾紳路
69	2014	井山裕太	○○○●○	伊田篤史
70	2015	井山裕太	○○○●○	山下敬吾
71	2016	井山裕太	●○○○○	高尾紳路
本因坊リーグ戦
ここ数年のリーグ戦。順位は前年リーグ成績が反映された序列(前回のタイトル保持者or挑戦者が1位)。4位までは前年のリーグ残留者。5位4人は予選トーナメントの勝者。本因坊は前年の獲得者。
◎はタイトル挑戦権獲得者。▼はリーグ陥落。Pはプレーオフ。
本因坊リーグ
-	本因坊		1位	2位	3位	4位	5位
52	趙治勲		柳時熏	加藤正夫 ◎	楊嘉源 ▼	片岡聡 ▼	林海峰 ▼	彦坂直人	小松英樹▼	趙善津
53	趙治勲		加藤正夫 ▼	柳時熏 ▼	彦坂直人	趙善津 ▼	小林覚	王立誠◎	王銘琬 P	山田規三生 ▼
54	趙治勲		王立誠	王銘琬 ▼	彦坂直人 P	小林覚 ▼	山田規三生	石田章 ▼	趙善津 ◎	柳時熏 ▼
55	趙善津		趙治勲	彦坂直人 ▼	王立誠 ▼	山田規三生	林海峰 ▼	大竹英雄	王銘琬 ◎	柳時熏 ▼
56	王銘琬		趙善津	趙治勲	山田規三生 ▼	大竹英雄 ▼	結城聡 ▼	大矢浩一 ▼	羽根直樹	張栩 ◎
57	王銘琬		張栩	趙善津	趙治勲	羽根直樹 ▼	加藤正夫 ◎	大竹英雄 ▼	宮沢吾朗 ▼	山田規三生 ▼
58	加藤正夫		王銘琬 P	張栩 ◎	趙善津 ▼	趙治勲 ▼	小林光一	林海峰 ▼	柳時熏 ▼	山下敬吾
59	張栩 		加藤正夫 ▼	王銘琬 ▼	山下敬吾 ▼	小林光一 ▼	依田紀基 ◎	王立誠	趙善津	三村智保 P
60	張栩		依田紀基	三村智保 ▼	王立誠 ▼	趙善津 P	王銘琬	高尾紳路 ◎	蘇耀国 ▼	潘善琪 ▼
61	高尾紳路		張栩	趙善津 ▼	依田紀基 P	王銘琬 ▼	羽根直樹 P	王立誠 ▼	山田規三生 ◎	蘇耀国 ▼
62	高尾紳路		山田規三生	依田紀基 ◎	羽根直樹 ▼	張栩	小林覚 ▼	王銘琬 ▼	趙善津 ▼	蘇耀国 P
63	高尾紳路		依田紀基	蘇耀国▼	山田規三生	張栩 ▼	山下敬吾	羽根直樹 ◎	王銘琬 ▼	溝上朝親 ▼
64	羽根直樹		高尾紳路 ◎	山田規三生	山下敬吾	依田紀基 ▼	張栩	片岡聡 ▼	中小野田智己 ▼	蘇耀国 ▼
65	羽根直樹		高尾紳路	山田規三生▼	山下敬吾 ◎	張栩 	武宮正樹▼	結城聡▼	三村智保▼	井山裕太 P
66	山下敬吾		羽根直樹 ◎	井山裕太	高尾紳路▼	張栩	王立誠▼	小林覚▼	趙善津▼	瀬戸大樹
67	山下敬吾		羽根直樹▼	井山裕太 ◎	張栩	瀬戸大樹▼	結城聡	高尾紳路	河野臨▼	黄翊祖▼
68	井山裕太		山下敬吾	結城聡	張栩	高尾紳路 ◎	趙善津▼	今村俊也▼	黄翊祖▼	瀬戸大樹▼
69	井山裕太		高尾紳路▼	山下敬吾 P	張栩	結城聡▼	河野臨	坂井秀至▼	伊田篤史 ◎	余正麒▼
70	井山裕太		伊田篤史	山下敬吾 ◎	張栩	河野臨	高尾紳路▼	三村智保▼	柳時熏▼	余正麒▼
71	井山裕太		山下敬吾	伊田篤史▼	張栩	河野臨▼	高尾紳路 ◎	余正麒▼	一力遼▼	本木克弥
72	井山裕太		高尾紳路	本木克弥	山下敬吾	張栩	羽根直樹	結城聡	黄翊祖	三谷哲也
本因坊リーグ経験者
趙治勲、柳時熏、加藤正夫、楊嘉源、片岡聡、林海峯、彦坂直人、小松英樹、趙善津、小林覚、王立誠、王銘エン、山田規三生、石田章、大竹英雄、結城聡、大矢浩一、羽根直樹、張栩、宮沢吾朗、小林光一、山下敬吾、依田紀基、三村智保、高尾紳路、蘇耀国、潘善琪、溝上知親、中小野田智己、武宮正樹、井山裕太、瀬戸大樹、河野臨、黄翊祖、今村俊也、伊田篤史、余正麒、一力遼、本木克弥、三谷哲也 ※52期以降
雅号
本因坊位獲得者は、本因坊名跡を継承する主旨で本因坊○○と名乗る慣例がある。当初は日本棋院から号を贈られていたが、本因坊薫和(岩本薫)以降、個人的に雅号を決める慣例ができた。雅号は多くの場合本名から一字を取り、もう一字と組み合わせる。もう一字としては、本因坊秀格(高川格)、本因坊秀芳(石田芳夫)のように本因坊家ゆかりの「秀」の字を用いるのが主流とされる。
ただ近年は号を名乗らない例が多くなっている。高尾紳路は当初、周囲から雅号を勧められても時期尚早として固辞しつづけ、3連覇を機にようやく「本因坊秀紳」を名乗った。また羽根直樹は本因坊奪取直後のテレビ出演で、実力や実績が伴っていないとして雅号を名乗らない考えを示している。外国出身の林海峰や趙治勲は、実名を号としている。
なお、武宮正樹は初めての本因坊就位の際には「本因坊秀樹(しゅうじゅ)」を名乗ったが、本名と勘違いされたことから、二度目以降は「本因坊正樹(せいじゅ)」と号を変更している。
号を名乗った棋士
号	読み	実名	号の由来
本因坊利仙	りせん	関山利一	日本棋院から号を贈られる。
本因坊昭宇	しょうう	橋本宇太郎	日本棋院から号を贈られる。
本因坊薫和	くんわ	岩本薫	
本因坊秀格	しゅうかく	高川格	本因坊秀栄に因む。
本因坊栄寿	えいじゅ	坂田栄男	本因坊秀哉の本名の「田村保寿」と、当時の日本棋院総裁の津島寿一に因む[4]。
本因坊海峯	かいほう	林海峰	実名から。
本因坊秀芳	しゅうほう	石田芳夫	親交のあった書家・佐々木泰南(木谷道場の書の指導者、石田の結婚の媒酌人[5])の命名。
本因坊秀樹・正樹	しゅうじゅ・せいじゅ	武宮正樹	二期目以降は実名から。
本因坊劔正	けんせい	加藤正夫	同郷の有力後援者であった劔木亨弘の名から。
本因坊治勲	ちくん	趙治勲	実名から。
本因坊秀紳	しゅうしん	高尾紳路	師匠藤沢秀行の命名。
本因坊道吾	どうわ	山下敬吾	本因坊道策と出身地・北海道に因む。
本因坊文裕	もんゆう	井山裕太	文殊菩薩と実名から一字ずつ。本因坊算砂を輩出した寂光寺の大川定信住職の命名。
参考文献
根岸鎮衛 『耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。本因坊についての逸話を収録。
村松梢風『本因坊物語―近世名勝負物語』新潮社 1954年
『本因坊戦全集』(全7冊+別巻+呉清源特別棋戦2冊)毎日新聞社 1969-71年
井口昭夫『本因坊名勝負物語』三一書房 1995年
脚注
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^ 増川宏一『碁』(法政大学出版会)では「信長・秀吉に仕えたこと」は否定されている。
^ 張栩、蘇耀国、本因坊リーグ勝ち越しでも・・・
^ 主催紙の毎日新聞は9連覇も呼称の権利とする。井山、高尾降し5連覇 永世本因坊に、7冠堅持 毎日新聞2016年6月30日 2016年7月1日閲覧
^ 坂田栄男『坂田一代』(日本棋院)P.184
^ 江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P.228
関連項目
囲碁タイトルの在位者一覧
第1期本因坊戦
第2期本因坊戦
第3期本因坊戦
第4期本因坊戦
第5期本因坊戦
第6期本因坊戦
第7期本因坊戦
第8期本因坊戦
外部リンク
本因坊400年・手談見聞録(毎日新聞・金沢盛栄)
本因坊戦七番勝負(毎日新聞社)
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本手(ほんて)とは囲碁用語の一つ。急所を突いた本筋の手で、一見足が遅いようであとあとまで一手の価値を失わない働きのある手のことである。「厚い手」と呼ばれるニュアンスに近い。
他方、急所を外れたその場の間に合わせの手をウソ手とも言う。こうした薄い手には後々まで禍根が残る。
じっくりした厚い本手を好む棋士は追い込み型で、本格派の棋士とも言われる。藤沢秀行、大竹英雄、高尾紳路らがその代表格である。ただし、厚がり過ぎて布石に遅れる場合もあり、それを避けて要点を足早に先取して逃げ切りをはかるタイプの棋士もいる。
本手の実例
星の定石の例。黒1と、後手でも一手入れておくのが本手。放置するとaのオサエコミ、bのトビなど白△を動き出す手が残る。

小目定石の一例。かつてはここで黒1とアテ、白2とツガせて先手を取っていた。しかしこの形はシチョウ関係次第でaのキリが残り、隅に対する味も消している。

そこで最近では、後手でも黒1とサガる手が打たれるようになった。この形では、aのキリはシチョウに関係なく取れる(ユルミシチョウの項目参照)。またbから左辺方面への白の進出を止めて封鎖する手や、cのツケから隅を大きくヨセる手などが残る。現在では、よほど他に急ぐ場所がない限り、黒1のサガリが本手と見なされている。
参考図書
大竹英雄『本手指南(囲碁最強塾)』河出書房新社
■
「ポン抜き囲碁」(ポンぬきいご)とは、囲碁のルールを学ぶ過程で用いられることが多いミニゲームである。碁盤と呼ばれる盤上にそれぞれが一色を持って二色の碁石(石)を置いていき、自分の石をうまく利用して相手の石を奪取するのが目的のゲームである。
目次 
1	存在意義
2	ルール
2.1	用いられる用具
2.2	着手・勝敗のルール
3	「ポン抜き囲碁」からの卒業
存在意義
囲碁は、ルールだけを見るとそれほど難しいものではない。しかし、実際に対局するとなると、そのルールを「どう運用して着手すれば良いのか」「勝敗はどのようにつければよいのか」など、難しい点も少なくない。そのため、囲碁教室では初心者に対して、ある程度の段階に分けて、囲碁の遊び方を教えている。「ポン抜き囲碁」も、その一環である。囲碁の根幹を成す「石の生き死に」のルールを勉強する段階で、用いられることが多い。
ルール
ポン抜き囲碁は、囲碁本来の目的である「地の獲得」に関する部分はいったん無視して、「囲碁のルールにのっとり、相手の石をうまく取る」ことを勝利の条件とする。
用いられる用具
用いられる物は、通常の囲碁の対局で用いられるもの(囲碁#用具参照)と、大差はない。「碁盤」と「碁石」があれば十分である。ただ、碁盤と碁石は、特別に値段が高い物を用意する必要はない。「白紙の上に線をひいたものの上に、オセロのコマを置いていく」といった、手軽なもので代用することもできる。
着手・勝敗のルール
対局者が、交互に自分の石を盤上に打つ。
一度置かれた石を動かしてはならない。
自分の石で、相手の石を、「縦と横で隙間なく囲む」ことに成功すると、取り囲んだ相手の石を「自分の得点」として獲得することができる。
「何個の石を取れれば勝ちにするか」については対局者同士、あるいは囲碁教室の先生などが決める。
「ポン抜き囲碁」からの卒業
ポン抜き囲碁は、あくまでも「囲碁のルールの一部」しか用いていないミニゲームである。そのため、飲み込みが早い方であれば、数時間で要領を把握することも可能である。このゲームを他人の力を借りずに開始・終了できるようになったら、その時点でポン抜き囲碁を卒業させ、「囲碁の本来の目的」を理解するための次の段階に進ませることが多い(各種囲碁教室ごとに対応は異なる)。なお、このゲームそのものの強さは、囲碁の本来の目的から言えば、あまり深く考える必要はない。ポン抜き囲碁の目的は、あくまで「石を取る方法」「取られない方法」の基礎を身につけることにあり、その勝敗にはあまり意味がないからである。
■
マガリは囲碁用語のひとつで、すでにある自分の石から曲がった形に打つ手のこと。動詞では「マガる」という。漢字では「曲がる」と表記される。下図黒1が「マガリ」の例。

マガリの例
黒1とマゲ、封鎖するのが厚い手。

黒1のようなマガリの手は、「オサエ」あるいは「オサエコミ」と表現されることも多い。

黒1のマガリが急所。白2のマガリはaの点が空いた「アキ三角」の愚形で、効率がよくない。
関連用語
トビマガリ
上図黒1のように曲がった形に飛ぶ手は、「トビマガリ」と表現する。
千両マガリ
両者の勢力の接点など、絶好点となるマガリを「千両マガリ」と表現する。
参考文献
「囲碁用語小事典」(日本棋院)
■
囲碁・将棋ジャーナル(いご・しょうぎジャーナル)は、NHK衛星第2テレビジョン[1]で2011年3月19日まで放送された囲碁界・将棋界の最新情報を伝えていた情報番組。前身の番組名は「囲碁・将棋ウィークリー」であり、本記事でも触れる。
2011年4月から地上波の教育テレビで放送の「囲碁・将棋フォーカス」(毎週日曜日11:45 - 12:15)に引き継がれる。
目次 
1	放送
1.1	番組内容
1.2	最終回
2	司会と解説
2.1	歴代司会者
2.1.1	司会者2名の時代
2.1.2	司会者1名の時代
3	脚注
4	外部リンク
放送
JST・毎週土曜日の12:10-13:28に生放送
2010年1月16日に放送500回を数えた。
2005年度までは大相撲本場所が開催されている週は13:00までの短縮版での放送であったが、2006年度以降は通常通りの放送となっている。
『列島縦断短歌スペシャル』・『列島縦断俳句スペシャル』と放送日が重なる場合は休止となった。
2008年4月放送分よりデジタル放送では16:9のサイズで放送した(日本国内のみ)。ただし番組中のVTRは4:3の場合が多く、その場合サイドパネルが付いた。
番組内容
「今週の囲碁」「今週の将棋」
その週に行われた将棋と囲碁の棋戦の結果[2]や動向・情報を伝えると共に、注目の一局ピックアップしてを聞き手と解説者とが盤を用いて解説した。
トーク
番組の冒頭や終わりに、出演者がトークをした。内容は、将棋の内容のほかにプライベートの部分にも話が及ぶことがあった。
最終回
2011年3月11日の日中に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生して以来、1週間ほどNHKの番組は同震災を伝えるニュースや情報の一色となり、2011年3月12日放送予定の囲碁・将棋ジャーナルも放送中止となった。
その1週間後(2011年3月19日)に当番組は最終回を迎えたが、震災の一つである福島第一原子力発電所事故関連ニュースのため、放送時間が12:40 - 14:00に変更された。最終回の出演者は、武宮正樹(囲碁解説)、森内俊之(将棋解説)、矢代久美子(囲碁の解説聞き手)、高群佐知子(将棋の解説聞き手)、伊藤博英アナウンサー(司会)であった。内容は、張栩の棋聖位防衛、久保利明の王将位・棋王位防衛などを伝えるものであった。
司会と解説
2005年度までは囲碁・将棋の関係者各1名が司会をしていたが、2006年度の放送からNHKの男性アナウンサーが週替わりで総合司会となり、これに月替わりで囲碁・将棋の女流棋士(または女流アマ強豪)が解説聞き手として加わる3名体制となった(2008年度からは3か月交代、最終時は半年)。解説は、週替わりのゲストとして、囲碁・将棋のプロ棋士各1名が務めた。
聞き手・解説者がその週に何らかのタイトル戦に出場している場合は、自分の対局をとりあげることがある。
歴代司会者
司会者2名の時代
囲碁
白江治彦(将棋が清水市代担当の時、番組名が「囲碁・将棋ウィークリー」だった頃)
佃亜紀子
小山竜吾
林芳美
向井梢恵
将棋
古作登(元奨励会三段、週刊将棋編集者)
清水市代
神吉宏充
山田久美
北島忠雄
矢内理絵子
司会者1名の時代
伊藤博英アナウンサー( - 2011年)
福井慎二アナウンサー(2006年4月 - 2008年6月)
泉浩司アナウンサー(2007年4月 - 2011年、水戸局)
澗隨操司アナウンサー(2008年6月 - 2011年)
吉岡大輔アナウンサー( - 2011年)
長野亮アナウンサー
脚注
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^ NHKワールド・プレミアムでも放送。
^ 企業名を冠した棋戦に触れる際は、企業名を省いた名称に言い換えられる(例:「マイナビ女子オープン」→「女子オープン」)。
外部リンク
囲碁・将棋ジャーナル公式ページ[リンク切れ] - NHK
[隠す]
表 話 編 歴
将棋の番組
レギュラー放送	
情報番組	
将棋フォーカス(「将棋講座」を含む、NHK Eテレ) 月刊!順位戦(月1回更新、囲碁・将棋チャンネル)
主催棋戦	
銀河戦(囲碁・将棋チャンネル) NHK杯テレビ将棋トーナメント(NHK Eテレ) 女流王将戦(囲碁・将棋チャンネル)
タイトル戦中継	
将棋竜王戦(10-12月頃・生中継・NHK BSプレミアム) 将棋名人戦(4-6月頃・生中継・NHK BSプレミアム)
年1回放送	
棋戦・特集	
将棋界の一番長い日(3月・生中継・NHK BSプレミアム) NHK杯テレビ将棋トーナメント出場女流棋士決定戦(3月頃・NHK Eテレ)
アマチュア	
全日本アマチュア将棋名人戦(決勝、9月頃・NHK Eテレ) 決定!こども将棋名人(準決勝・決勝、5月頃・NHK Eテレ)
バラエティ	
新春お好み将棋対局(1月・NHK Eテレ)
終了した番組	
情報番組	
囲碁・将棋フォーカス(生放送・NHK Eテレ) 週刊!将棋ステーション(囲碁・将棋チャンネル) 囲碁・将棋ジャーナル、囲碁・将棋ウィークリー(生放送・NHK BS2)
主催棋戦	
早指し将棋選手権、早指し新鋭戦(番組名「テレビ将棋対局」、テレビ東京) 鹿島杯女流将棋トーナメント(TOKYO MX)
バラエティ	
大逆転将棋(1月・NHK BS2)
名称廃止	
将棋の時間(NHK教育)

■
囲碁・将棋チャンネル
株式会社囲碁将棋チャンネル
IGO & SHOGI CHANNEL INC.
種類	株式会社
本社所在地	〒102-0076
東京都千代田区五番町7-2
日本棋院会館B1F
設立	1990年8月2日
業種	情報・通信業
事業内容	囲碁・将棋チャンネルの衛星一般放送事業
映像ソフトの企画、制作および販売
イベント事業
代表者	代表取締役社長 岡本光正
資本金	8,800万円
従業員数	28人
主要株主	東北新社 80.1%
伊藤忠商事 8.5%
日本棋院 5.7%
日本将棋連盟 5.7%
外部リンク	http://www.igoshogi.net/
テンプレートを表示
囲碁・将棋チャンネル
囲碁・将棋チャンネルHD
基本情報
運営(番組供給)事業者	株式会社囲碁将棋チャンネル
本社(本部)	〒102-0076
東京都千代田区五番町7-2 日本棋院会館B1F
放送(配信)開始	1991年10月1日
HD放送(配信)開始	2012年10月1日
ジャンル	教育
放送内容	囲碁・将棋の対戦、棋界情報、講座など
視聴可能世帯数	約571万世帯(2010年5月末現在)
衛星基幹放送(東経110度CS放送)
プラットフォーム	スカパー!
放送事業者	株式会社囲碁将棋チャンネル
チャンネル番号	Ch.363(SD16:9)
物理チャンネル	ND4
視聴料金	月額1,400(税別)円
放送開始	2012年10月1日※
スカパー!プレミアムサービス
放送事業者	株式会社スカパー・ブロードキャスティング
チャンネル番号	Ch.521(HD)
視聴料金	月額1,400(税別)円
放送開始	2012年10月1日
スカパー!プレミアムサービス(標準画質)
放送事業者	株式会社囲碁将棋チャンネル
チャンネル番号	Ch.320
視聴料金	月額1,400(税別)円
放送開始	1996年10月1日
放送終了	2013年6月30日
ディレクTV(放送終了)
放送事業者	ディレク・ティービー・ジャパン株式会社
チャンネル番号	Ch.691
放送開始	1999年4月1日
放送終了	2000年9月30日
その他(再送信・配信)
ひかりTV	832(HD)
eo光テレビ	320
J:COM	700
JCN	602
公式サイト
特記事項:
※2002年10月1日 - 2004年3月31日、Ch.721(委託放送事業者はスペーステリア、プラットフォームはプラット・ワン)で放送されていた。また、2004年12月1日 - 2005年9月30日、ch.081(放送事業者は、メガポート放送、プラットフォームはWOWOWデジタルプラス)で放送されていた。
囲碁・将棋チャンネル(いご・しょうぎチャンネル)は、ケーブルテレビおよびスカパー!プレミアムサービス、スカパー!(東経110度CS放送)で放送される、囲碁と将棋に特化した番組のテレビチャンネルである。衛星基幹放送事業者の株式会社囲碁将棋チャンネルが運営している。
囲碁・将棋とも、講座とプロ棋戦の解説が多く放送され、棋界の最新情報を紹介する番組(囲碁・将棋のそれぞれで別番組)もある。また、囲碁将棋チャンネルが主催する棋戦(囲碁:竜星戦、将棋:銀河戦)の放送も行っている。詳しくは後述。
目次 
1	概歴
2	基本番組表
2.1	情報番組
2.2	テレビ棋戦
2.3	棋譜解説番組
2.3.1	囲碁
2.3.2	将棋
2.4	その他
2.4.1	囲碁
2.4.2	将棋
3	主催大会
4	脚注
5	関連項目
6	外部リンク
概歴
1990年8月2日 - 日建学院を運営する建築資料研究社によりサテライトカルチャージャパン株式会社設立。
1991年10月 - ケーブルテレビ向け番組配信開始。
JSAT(現・スカパーJSAT)のJCSAT-2を用いたCS放送第16チャンネル「ニッケンサテライト」として、「工務店チャンネル」(日建学院・工務店関係者向け専門チャンネル)と供用する形で、毎日6:00 - 8:00、18:00 - 24:00に配信していた(8:00-18:00は工務店チャンネル)。ケーブルテレビ局では空き時間となる8:00 - 18:00をケーブルテレビ局で独自収録した再放送や「キッズステーション」等に振り替えて編成していた。
1996年9月 - パーフェクTV!(現・スカパー!プレミアムサービス(標準画質))放送開始に伴い衛星番組配信を終了し、放送へ移行する。放送開始当時の放送時間は、6:00 - 24:00。
1999年4月 - ディレクTVで放送開始(2000年9月終了)。
2002年10月 - 東経110度CS放送のプラット・ワンで放送開始(2004年3月終了)。
2004年11月- 東経110度CS放送のWOWOWデジタルプラスで放送開始(2005年9月終了)。
2009年12月 - 東北新社がサテライトカルチャージャパン株式の80.1%を建築資料研究社から取得、連結子会社とする[1]。
2010年
7月7日 - 社名をサテライトカルチャージャパン株式会社から、株式会社囲碁将棋チャンネルに変更[2]。
7月12日 - CMを除く全番組にて、画面左下にウォーターマークの表示を開始。[3]
2012年
2月10日 - 総務省から東経110度CS放送の衛星基幹放送業務が認定される。[4]
10月1日
囲碁将棋チャンネルが衛星基幹放送事業者となり、スカパー!(東経110度CS放送)で放送を開始した(Ch.363)。CS2ND-4ch 3.2スロット。東経110度CS放送において7年ぶりに放送を再開し、画角情報は、16:9フルサイズのSD放送(標準画質)。また、「スカパー!基本パック」の構成チャンネルとなっている。
スカパー!プレミアムサービス・スカパー!プレミアムサービス光に於いてハイビジョン放送「囲碁・将棋チャンネルHD」を開始。スカパー!、プレミアムサービス共に字幕放送を開始。字幕放送開始に伴いウォーターマークを右上に移動。
これまで午前2-6時に設けていた定時での放送休止を不定期に変更し、24時間放送に移行。
2013年
5月1日 - 日本デジタル配信にてハイビジョン放送を開始した。
6月30日 - スカパー!プレミアムサービス(標準画質)・スカパー!プレミアムサービス光(標準画質)にてSD放送を終了し、HD放送に完全移行した。
10月1日 - スカパー!プレミアムサービスにて、「プレミアムパック」「プレミアム15」の構成チャンネルとなる。
2014年
2月3日 - ニコニコ動画の公式チャンネルとして「銀河将棋チャンネル」「竜星囲碁チャンネル」を開設。本チャンネルの番組の一部(主に講座系番組)をオンデマンド配信する。
2015年
6月1日 - 独自の動画配信サービスとして「将棋プレミアム」「囲碁プレミアム」を開始。タイトル戦の独自中継などがニコニコ動画からこちらに移行した。
2016年
12月1日 - スカパー!プレミアムサービスの衛星一般放送事業者が、スカパー・ブロードキャスティングからスカパー・エンターテイメントに変更。
基本番組表
囲碁と将棋の番組が、1日4回交代で放送される。時刻はいずれも日本時間。午前6時基点
囲碁
月曜・金曜 - 午前2時 - 12時、午後4時 - 10時
火曜・木曜・土曜 - 午後0時 - 6時、10時 - 翌午前2時
水曜・日曜 - 午前2時 - 12時、午後6時 - 10時
将棋
月曜・金曜 - 午後0時 - 4時、10時 - 翌午前2時
火曜・木曜・土曜 - 午前2時 - 12時、午後6時 - 10時
水曜・日曜 - 午後0時 - 6時、10時 - 翌午前2時
※2012年10月以後の延長分・午前2-6時は囲碁と将棋を曜日ごとに入れ替えて放送。(月・水・金・日=囲碁、火・木・土=将棋)
情報番組
2012年10月現在、囲碁・将棋とも週単位で更新される情報番組は放送されていない。以下の番組はどちらも2012年3月期まで放送されていたものである。
週刊囲碁パラダイス - 月曜午後6時 - 6時50分(再放送:水曜午前6時 - 6時50分、土曜午後1時 - 1時48分)
キャスター:佐野真、相川智華、永田磨梨奈(相川と永田は隔週で登場)
その週内に行われた主な棋戦の結果、囲碁界のニュース、特集コーナーなどからなる。
週刊!将棋ステーション - 火曜午後8時 - 8時50分(再放送:水曜深夜(木曜午前)0時 - 0時50分、木曜午前10時20分 - 11時10分、日曜午後0時 - 0時50分)
キャスター:山田史生、恩田菜穂
その週内に行われた主な棋戦の結果、将棋界のニュース、ゲスト棋士とのトークコーナーなどからなる。
将棋についてはこれらとは別に、「月刊!順位戦」、「めざせプロ棋士」、「駒桜通信」という番組(いずれも後述)もある。これら3番組は2014年1月現在も放送中である。一方、囲碁にはそのような情報番組は存在していない。
テレビ棋戦
いずれも週2回放送される。共に進行役に女流棋士(竜星戦は女性インストラクターの場合もある)、解説役に棋士の2名が出演し、NHK杯同様に大盤解説を行いながら進行する[5]。終局後は竜星戦では局後の検討[6]、銀河戦では感想戦が放送される(共に対局が長引くなど時間の都合でカットされることもある)。
竜星戦(囲碁) - 金曜午後8時 - 10時(再放送:月曜午前8時 - 10時、再々放送:火曜深夜(水曜午前)0時 - 2時)、日曜午後8時 - 10時(再放送:水曜午前8時 - 10時、再々放送:木曜深夜(金曜午前)0時 - 2時)[7]
銀河戦(将棋) - 木曜午後8時 - 9時38分(再放送:火曜午前8時 - 9時38分、再々放送:金曜深夜(土曜午前)0時 - 1時38分)、土曜午後8時 - 9時38分(再放送:木曜午前8時 - 9時38分、日曜深夜(月曜午前)0時 - 1時38分)
2011年度までは、両棋戦とも2局目の初回放送の数日後に、その週に放映された2つの対局のダイジェスト解説番組が放映されていた。出演していたのは、どちらも進行役の観戦記者と解説役のプロ棋士の2名ずつ。
また、将棋の女流棋戦「霧島酒造杯女流王将戦」、囲碁の女流棋戦「ドコモ杯女流棋聖戦」(前者は囲碁・将棋チャンネルが主催。後者は日本棋院が主催)が、それぞれ銀河戦・竜星戦と同様のスタイル[5]で放送されている。
棋譜解説番組
囲碁・将棋とも、複数の棋譜解説番組が存在する。
囲碁
厳選棋譜解説
国内・海外の過去のタイトル戦棋譜解説[8]
囲碁名局の解説、記憶の一局
「名局の解説」では、過去の名棋士の対局や名勝負の棋譜解説を行う[9]。「記憶の一局」ではゲスト棋士に記憶に残る対局4~5局を挙げてもらい、毎回1局ずつ大盤解説をしながら、その対局にまつわるエピソードなどを聞く。
上記各番組での聞き手は女流棋士またはインストラクター。まれに女性観戦記者など。解説役は棋士。
将棋
タイトル戦徹底解説、最新対局徹底解説
過去のタイトル戦、最新対局の棋譜解説[8]。
将棋連盟が選ぶ注目の一局
日本将棋連盟がテーマ(特定戦法、玉の囲い方など)ごとに選んだ注目対局の棋譜解説。
女流棋戦
女流棋士同士の対局を取り上げ、棋譜解説を行う番組。途中に次の一手問題を数題出すのが特徴。
その他棋戦解説番組
特定の棋戦について注目対局の棋譜解説を行う。2013年から2014年にかけては王将戦が取り上げられている。
上記各番組での聞き手は女流棋士[10]、解説役は棋士。
その他
囲碁
各種講座番組(主催はパンダネット、日本棋院、幽玄の間、日本囲碁連盟など)[11][12]
棋力認定番組『テレビ囲碁認定』[13]
進行役は中島美絵子。
『棋力向上委員会 The PASSION!!』
アマチュア挑戦者4人が、半年間毎週1名ずつ目標となる段級位を設定し、インストラクター役の棋士(主に女流アマ高段者またはプロ棋士)との指導対局(毎回対局前に講師による手合割の設定がある)を受けながら棋力の向上を図る。
途中で開始時に設定した目標段級位に達した場合、挑戦者と協議して目標の上方修正を行い、改めて設定した目標段級位を目指す場合がある。各期の最後には挑戦者1名ずつが認定対局を実施し、そこで最終到達段級位が確定し、番組独自の認定状(免状ではない)を授与される。
進行役(番組内では「委員長」を名乗る)は稲葉禄子、講師は黄孟正・小松英樹。番組冒頭に「ガチンコ対局番組」とキャッチフレーズを読み上げる他、視聴者からの質問メールに講師が答えるコーナーもある。
『お好み置碁道場』(プロアマ対局番組)[14]
各種詰碁・次の一手問題番組[15]
将棋
各種講座番組[11]
『月刊!順位戦』(毎月最終水曜夜更新)
将棋のタイトル戦のうち、名人戦やそれに付随する順位戦各グループの情報や注目対局の棋譜解説などを、進行役の女流棋士(主に伊藤明日香や矢内理絵子など)がゲスト棋士や解説役の観戦記者を交えて伝える番組。他に、ゲスト棋士へのインタビュー、更にゲスト棋士の順位戦などでの対局から、勝敗を分けた一手についての解説を棋譜解説を交えて行うコーナーもある[16]。
『めざせプロ棋士』(毎週火曜夜更新)
奨励会所属棋士の対局の中から、奨励会三段リーグの対局及び二段以下の棋士の(主に一方の昇段・昇級がかかった)対局の計1局ずつを紹介する番組。この他、奨励会情報なども伝える。回によっては、新四段となった棋士や女流棋士となった女性棋士を招いて、昇級昇段のきっかけとなった対局などの模様を解説役の棋士と共に自戦解説するケースもある。
2014年2月現在の進行役は女流棋士(現在は山口恵梨子、安食総子、飯野愛[17]。過去には上田初美など)で、解説役には主に奨励会幹事を務める棋士が出演する。OP/EDテーマ曲は棋士の西尾明が提供しており、西尾自身も解説役として出演していたことがある。
過去分も再放送されている(日曜及び月曜深夜、火曜早朝。それぞれ放送回は異なる)。
『駒桜通信』(毎週土曜夜更新。2014年3月終了)
女流棋士ファンクラブ「駒桜」の番組。女流棋士を毎回1名(引退棋士も含むが、LPSA所属棋士は取り上げられない)取り上げ、インタビューしつつ紹介をする番組。最後に出演棋士による揮毫が披露される。ミニ番組である。2014年3月に終了した。なお、全回とも囲碁・将棋チャンネルのホームページで視聴可能。
棋力認定番組『テレビ将棋認定』[13]
進行役は上田初美、矢内理絵子、山田久美など。
『お好み将棋道場』(プロアマ対局番組)[14]
各種詰将棋番組[15]
以上は主なもの。この他、不定期で特別番組が制作・放送される[18]。詳しくは公式サイトを参照の事。
現在は、全日オリジナル番組で構成されているが、以前はテレビ東京、読売テレビ、TOKYO MXの囲碁・将棋関連番組(「ヒカルの碁」「ミニ碁一番勝負」など)を、地上波での初回放送から数か月ないし数年遅れで放送していたほか、韓国パドック(囲碁)TVで放送された囲碁番組を、日本語通訳を付加して放送していた。また、近年でもNHK杯トーナメント選(囲碁将棋とも)、中国竜星戦(囲碁、中国天元囲碁チャンネル(貴州電視台天元囲棋頻道)制作)などが放送される。
また一時期、早朝と深夜に一般のテレビショッピングが放送されていた事もある。
2012年9月までの放送時間は、前述のように6:00~26:00(午前2:00)で、放送開始前5分間と放送終了後5分間にオープニング/エンディング映像が流されていた。
主催大会
[icon]	この節の加筆が望まれています。
J:COM杯 3月のライオン子ども将棋大会 - 2012年から毎年夏に開催。J:COMを運営するジュピターテレコムと共に大会を主催している。なお、全国大会の模様は、後日、当チャンネルで放送される[19][20]。
脚注
^ 東北新社「囲碁・将棋チャンネル」を買収
^ 囲碁将棋チャンネル 社名変更に関する件
^ 当初はカラー表示だったが、2010年8月3日からは白抜き表示に変更された。
^ 東経110度CS放送に係る衛星基幹放送の業務の認定
^ a b 2012年9月まで行われていた銀河戦第20期、竜星戦第21期までは棋譜の読み上げは行われなかったが、2012年10月から行われている銀河戦第21期、竜星戦第22期からはNHK杯に倣い棋譜読み上げ係も対局場に同席し、棋譜読み上げを行うようになっている。更に、2013年後半からの銀河戦第21期、竜星戦第22期のそれぞれ終盤戦からは手番表示も行われるようになっており、これらは共に将棋の女流王将戦、囲碁の女流棋聖戦でも採用されているほか、お好み対局番組でも採用されている。
^ 2012年1月頃からしばらくは、専用のスタジオが工事中につき日本棋院を利用していたため、他の対局と音声等がかぶる関係から、局後の検討ではなくその対局のポイント解説を放送していた。工事完成後は元通り両対局者を交えた局後の検討を放送している。
^ 対局の手数が多くなり放送時間内に収まらない場合には、解説なしで盤面の映像だけ流して対応することがある。
^ a b 囲碁・将棋ともリーグ戦、トーナメント戦、番勝負問わず。将棋については別番組のある名人戦及び順位戦なども含む。また将棋の「タイトル戦徹底解説」では、解説役として出演する棋士による自戦解説を行う場合がある。
^ 特に囲碁「名局の解説」の場合、そこで取り上げられる棋士が比較的近世の棋士である場合、その棋士に縁のある棋士やその棋士に詳しい棋士が解説役として登場する。
^ 「タイトル戦~」・「最新対局~」・「注目の~」では藤田綾・早水千紗・貞升南らが務め、「女流棋戦」では中村桃子や井道千尋らが務めることが多い。
^ a b 新作旧作織り交ぜて頻繁に放送される。内容は、囲碁・将棋共に入門講座から特定の戦法・戦術・局面に於ける打ち回し/指し回しなどまで多岐にわたる。1番組およそ5~30分程度で、30分から1時間にまとめて2~4回連続で放送されることもある。1講座につき全13回または全26回で構成される。出演者は、囲碁は講師役の棋士と聞き手の女性棋士やインストラクターなどの2人1組で、将棋は講師役の棋士のみで担当する場合がほとんどだが、囲碁が講師役のみ、将棋にアシスタントがつく場合(特に入門講座系の番組など)もある。
^ 囲碁の講座番組に生徒役でオスマン・サンコン、相撲の稲川親方(元普天王)や将棋の女流棋士・鈴木環那が出演したことがある。また、夫婦・兄弟姉妹棋士が何例か存在する囲碁では、その組合せで講座を行うことがあり、夫婦棋士では三村智保・芳織夫妻や中根直行・金賢貞夫妻などが、姉妹棋士では万波姉妹(佳奈・奈穂)や向井姉妹(芳織・梢恵・千瑛)などが講師を務めた例がある。また、囲碁ではかつて、一般生徒向けの囲碁教室にインストラクター2名が出向き、その教室の一般人生徒に教えるスタイルでの講座番組が収録・放送されたこともあった。
^ a b 毎週(囲碁が日曜日、将棋が土曜日)更新。囲碁・将棋とも基本的に次の一手問題(囲碁は局面の死活から全局面的な問題まで、将棋は過去のプロ棋戦を題材とする全局面的な問題)であり、毎回の出題数は囲碁が2問、将棋が1問。10週連続で応募し、囲碁は1問5点、将棋は1問10点で採点され、その結果、一定の点数以上で囲碁は5級から五段の、将棋は3級から三段の各範囲内で段級位の認定が受けられる。また、特定段位以上では免状申請も可能(有料)な場合がある。
^ a b 出演者は両対局者と記録係・棋譜読み上げ係(2012年10月以降)、それに進行役の女流棋士(囲碁では女性インストラクターなども)と解説役の棋士。囲碁は置き碁、将棋は駒落ちのハンデがそれぞれつく。但し、将棋はごくまれに平手での対局が組まれる場合もある。なお、2013年10月以降の対局分からは、同チャンネルで放送されるテレビ棋戦同様に先後の手番を表示するようにもなっている。
^ a b 1番組およそ5~15分程度のミニ番組。囲碁は1回につき最大3問(段級位別に出題されることがある)出題され進行兼解説役の女性棋士またはインストラクターが出演し解答紹介時に解説を行う。これに対して将棋は、3手詰・5手詰・7手詰の各番組で1回につき1問出題されるが進行兼解説役は出演しないため解説はない。
^ 一手解説のコーナーでは、通常の大盤ではなくパソコンの棋譜再生ソフトを用いる。
^ 2014年1月7日に初回放送された第711回で、前年10月に女流棋士になったばかりの飯野の当番組進行役への就任が発表され、同年2月18日初回放送の第717回から飯野も進行役に加わった。なお、飯野の実父で師匠の飯野健二七段も当番組の解説役を担当していたことがあり、親子二代にわたる出演となった。
^ 主として毎週、囲碁は金曜の、将棋は土曜の20時からの2時間枠で、それら新作特別番組が放送されることが多い。
^ 地方大会の模様は、該当地域のJ:COM配信局で放送。
^ 大会の内容 - J:COMホームページ
関連項目
スカパー!(東経110度CS放送)
スカパー!プレミアムサービス
スカパー!プレミアムサービス光
スカパー! チャンネル一覧
外部リンク
囲碁・将棋チャンネル(公式サイト)

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Category:囲碁・将棋の番組
放送番組のジャンル  スポーツ番組  囲碁・将棋の番組
放送番組のジャンル  教育番組  教養番組  囲碁・将棋の番組
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C
CCTV杯中国囲棋電視快棋戦
N
NHK杯テレビ囲碁トーナメント
い
囲碁・将棋ウィークリー
囲碁・将棋ジャーナル
囲碁・将棋チャンネル
囲碁・将棋フォーカス
囲碁の時間
囲碁フォーカス
え
NHK杯テレビ将棋トーナメント
か
鹿島杯女流将棋トーナメント
き
銀河戦
し
小学生将棋名人戦
将棋講座
将棋講座 (NHK)
将棋の時間
将棋フォーカス
少年少女囲碁大会
た
大逆転将棋
て
T.S.R 2005 -つるの剛士の将棋列伝-
テレビ将棋対局
に
日曜囲碁対局
は
早碁選手権戦
早指し将棋選手権
早指し新鋭戦
み
ミニ碁一番勝負
り
日中竜星戦
竜星戦
竜星戦 (中国)
■
囲碁・将棋フォーカス(いごしょうぎ- )は、NHK教育テレビジョンで2011年4月から2012年3月18日まで放送され囲碁界・将棋界の最新情報を伝えた情報番組である。
目次 
1	概要
2	放送
3	番組構成
4	司会と聞き手
5	エピソード
6	出典
7	脚注
概要
前身の番組は、NHK BS2で放送された「囲碁・将棋ジャーナル」である。
2012年4月からは囲碁と将棋が切り離され、『将棋講座』と当番組の将棋部門をあわせた『将棋フォーカス』、及び『囲碁講座』と当番組の囲碁部門をあわせた『囲碁フォーカス』に引き継がれた。なお、本番組を放送したNHKワールド・プレミアム(海外向けテレビ番組配信)では日曜日午前3:00台に『将棋フォーカス』と『囲碁フォーカス』が続けて放送されるため、実質的なコンプレックス番組となった。
放送
毎週日曜日、11:45 - 12:15(JST、以下同様)に放送された。従来10:00 - 12:00に放送された「将棋の時間」の終了を前に15分間縮め、従来12:00 - 14:00に放送された「囲碁の時間」の開始を後ろに15分間縮めて当番組が挿入される格好となった。
「囲碁・将棋ジャーナル」から当番組に引き継がれた2011年3月 - 4月は、ちょうど、「NHK衛星第2テレビジョン」(BS2)と「NHKハイビジョン放送」(BShi)が「NHK BSプレミアム」に再編された時期に当たる。
「囲碁・将棋ジャーナル」との比較
囲碁・将棋フォーカス	囲碁・将棋ジャーナル
チャンネル	教育テレビ
(地上波)	BS2
(衛星放送)
曜日	日曜日	土曜日
時間	11:45 - 12:15
(30分間)	12:10-13:30
(80分間)
情報・解説	囲碁、将棋を1週毎交互に放送
(片方にとっては隔週)	前半の40分間弱は囲碁
後半の40分間弱は将棋
(毎週)
総合司会	女性1名
(レギュラー)	NHKの男性アナウンサー1名
(不規則に交替)
聞き手	囲碁または将棋の関係者1名
(女性、隔週レギュラー)	囲碁・将棋の関係者各1名 = 合計2名
(女性、レギュラー)
ゲスト解説	囲碁または将棋のプロ1名	囲碁、将棋のプロ各1名 = 合計2名
なお、スタジオセットや棋戦情報のグラフィックも、「囲碁・将棋ジャーナル」に比べてカラフルなものに刷新された。
2012年3月18日を以て番組の放送が終了した。2012年4月からは将棋フォーカス(10:00 - 10:30)、囲碁フォーカス(12:00~12:30)と将棋・囲碁それぞれ独立した番組となり、それまで「囲碁の時間」「将棋の時間」の冒頭で行っていた初心者向け講座もそれぞれの番組に吸収した総合的な囲碁・将棋専門の番組となった。
番組構成
最新情報
プロ囲碁界・将棋界の棋戦の最新結果を伝えるコーナー。
「フォーカス・オン」
一つの話題を取り上げる特集コーナー。必ずしも最新情報という性格ではない。
「今日の解説」
最新の主要な一局を取り上げ、ゲスト解説者と聞き手とで解説を行う。
司会と聞き手
メンバーは下記の通り。
総合司会:福山知沙
囲碁の解説聞き手:長島梢恵(囲碁棋士)[1]
将棋の解説聞き手:
笠井友貴(元女流アマ名人、2011年4月10日から8月28日まで)
髙﨑真子(アマ強豪、2011年9月11日から2012年3月18日まで)
エピソード
第1回(囲碁)の最後のトークで石田秀芳は「あっという間の30分」、「もっともっと長くやっていたい」と述べ、第2回(将棋)の最後のトークでは渡辺明が「30分、あっという間で」、「解説がばたばたして」と感想を述べた(前身の番組「囲碁・将棋ジャーナル」より実質10分短縮された)。
第2回(将棋)では、東日本大震災への義援金を集めるため将棋棋士が街頭募金をする模様を撮影した写真が紹介されたが、その中の1枚である羽生善治と瀬川晶司のツーショットを見た渡辺明が、瀬川を森内俊之と間違えた。
2011年7月24日は岩手・宮城・福島以外の各県でアナログ地上波放送が正午で終了となったため、高校野球地方大会を放送した一部の県を除き、当番組(第17回・囲碁編)の途中でアナログの放送終了となった。総合テレビの放送終了時に鈴木奈穂子が説明とあいさつをしている時間に、当番組がモニターで映し出された。
最終回(将棋)では、勝又清和が戦法に関する解説を行う際、自らのノートパソコンをスタジオに持ち込んで、パソコンの画面(過去の全対局をデータベース化したシステムや、戦法の割合を示した円グラフのbmpファイル)を表示する形式で解説を行った。
出典
	出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年2月)
囲碁・将棋フォーカス(NHK)
脚注
^ 長島梢恵は、結婚前の「向井梢恵」名の時代、囲碁・将棋ジャーナルが司会2名体制のときに、矢内理絵子とともにレギュラー司会者を務めた経験がある。
[隠す]
表 話 編 歴
将棋の番組
レギュラー放送	
情報番組	
将棋フォーカス(「将棋講座」を含む、NHK Eテレ) 月刊!順位戦(月1回更新、囲碁・将棋チャンネル)
主催棋戦	
銀河戦(囲碁・将棋チャンネル) NHK杯テレビ将棋トーナメント(NHK Eテレ) 女流王将戦(囲碁・将棋チャンネル)
タイトル戦中継	
将棋竜王戦(10-12月頃・生中継・NHK BSプレミアム) 将棋名人戦(4-6月頃・生中継・NHK BSプレミアム)
年1回放送	
棋戦・特集	
将棋界の一番長い日(3月・生中継・NHK BSプレミアム) NHK杯テレビ将棋トーナメント出場女流棋士決定戦(3月頃・NHK Eテレ)
アマチュア	
全日本アマチュア将棋名人戦(決勝、9月頃・NHK Eテレ) 決定!こども将棋名人(準決勝・決勝、5月頃・NHK Eテレ)
バラエティ	
新春お好み将棋対局(1月・NHK Eテレ)
終了した番組	
情報番組	
囲碁・将棋フォーカス(生放送・NHK Eテレ) 週刊!将棋ステーション(囲碁・将棋チャンネル) 囲碁・将棋ジャーナル、囲碁・将棋ウィークリー(生放送・NHK BS2)
主催棋戦	
早指し将棋選手権、早指し新鋭戦(番組名「テレビ将棋対局」、テレビ東京) 鹿島杯女流将棋トーナメント(TOKYO MX)
バラエティ	
大逆転将棋(1月・NHK BS2)
名称廃止	
将棋の時間(NHK教育)
■
『囲碁の時間』(いごのじかん)は、2012年3月までNHK教育テレビで毎週日曜日に放送された囲碁番組である。
目次 
1	概要
2	囲碁講座
3	関連項目
4	外部リンク
概要
番組は以下の2部で構成される(放送時間は2011年度のもの)。
第1部 - 囲碁講座(12:15 - 12:30)
現役棋士や女流棋士が講師を務め、女流棋士やタレントなどが聞き手を担当する。1993年までは毎年4月から翌年3月までを、1994年以降は毎年4月から9月まで(前期)と、10月から翌年3月まで(後期)をそれぞれ一つのタームとしてあるテーマを持って講座が進められた。
2007年上期は講師と聞き手講座ではなく2人で講座を行う方式で行われた。
2010年の囲碁講座については木曜日(05:05 - 05:25)に再放送がなされた。
第2部 - NHK杯テレビ囲碁トーナメント大会(12:30 - 14:00、短縮の場合もある)
2010年度までは第1部が12:00 - 12:20、第2部が12:20 - 14:00の放送であった。2011年度は新たに11:45 - 12:15に「囲碁・将棋フォーカス」が放送されるようになったため囲碁講座の詰碁のコーナーが廃止となり、放送時間も囲碁講座が5分、トーナメント戦が10分短縮となった。
2012年3月18日の放送をもって「囲碁の時間」としての放送は終了となった。同年4月8日からは毎週日曜に、「囲碁・将棋フォーカス」で隔週放送された囲碁情報と囲碁講座の内容を統合した「囲碁フォーカス」(正午 - 12:30)と、「NHK杯テレビ囲碁トーナメント」(12:30 - 14:00)に分離することになった。
毎年正月3が日のうちの1日で「新春お好み囲碁対局」が催された。これは、「若手対ベテラン」の夢の対局であったり、囲碁愛好家の著名人を迎えたプロ・アマ戦などの形式をとる。
囲碁講座
年度と期別	講座名	講師	聞き手
1976年度	入門から入段まで	白江治彦	堤加容子
1979年度	小山定石談議	小山鎮男	
1980年度	囲碁史にみる人と名局		
1981年度	ワンポイント手筋教室	小林千寿	山崎イサオ
1982年度	「実戦教室」~プロプロ置碁(九子局)	小山鎮男	楠瀬真理子
1983年度	この手にはこの手で・必ず出てくる置き碁のパターン	泉谷政憲	楠瀬真理子
1984年度	碁敵の知らない新定石	安倍吉輝	井戸田啓子
1985年度	これでOK初級突破法	石倉昇	井戸田啓子
1986年度	発想を変えよう中盤戦法	上村邦夫	島田広美
1987年度	囲碁は楽しい会話ですよ	王銘琬	島田広美
1988年度	あなたも碁が楽しめる初級コース	泉谷政憲	島田広美
1989年度	これならわかる定石の生かし方	石倉昇	島田広美
1990年度	パターンで覚える攻めの戦略	淡路修三	林恵美子
1991年度	楽しく覚える一週ワンステップ	白江治彦	林恵美子
1992年度	実戦に役立つ格言上達法	清成哲也	林恵美子
1993年度	中国流で勝つ	羽根泰正	重野由紀
1994年度前期	小山竜吾の入門講座	小山竜吾	多内結花
1994年度後期	石井邦生の初級講座	石井邦生	水戸夕香里
1995年度前期	美香の見合い大作戦	吉田美香	原田大二郎
1995年度後期	形と筋に明るくなろう	杉内寿子	山下千文
1996年度前期	楊嘉源の基本戦略	楊嘉源	星野智美
1996年度後期	21世紀の打ち方	呉清源	小川誠子
1997年度前期	結城聡の戦いのポイント	結城聡	渋澤真知子
1997年度後期	白江治彦の手筋・ヘボ筋	白江治彦	林芳美
1998年度前期	梅沢由香里のレッツ碁	梅沢由香里	辰巳琢郎
1998年度後期	梅沢由香里の続レッツ碁	梅沢由香里	辰巳琢郎
1999年度前期	呉清源21世紀の打ち方・思い出の名局から	呉清源	小川誠子
1999年度後期	石倉昇のすぐに役立つ初級突破法	石倉昇	林芳美
2000年度前期	攻めの基本守りの基本	マイケル・レドモンド	林芳美
2000年度後期	苑田流基本戦略	苑田勇一	高倉由季
2001年度前期	広いほうから押し込む	王銘琬	林浩美
2001年度後期	片岡聡の基本テクニック	片岡聡	林芳美
2002年度前期	林海峰の実戦に学ぼう	林海峰	万波佳奈
2002年度後期	淡路語録があなたを変える	淡路修三	石井妙子
2003年度前期	基礎を固めてレベルアップ	白江治彦	稲葉禄子
2003年度後期	白江治彦の置き碁戦略	白江治彦	稲葉禄子
2004年度前期	石の形を美しく	小川誠子	石井妙子
2004年度後期	石倉昇の「上達の秘訣」教えます	石倉昇	押田華奈
2005年度前期	大竹美学の真髄	大竹英雄	林芳美
2005年度後期	大森泰志の自分流のススメ	大森泰志	稲葉禄子
2006年度前期	石田芳夫のやさしく考える碁	石田芳夫	木下かおり
2006年度後期	山田規三夫の超攻撃法	山田規三生	祷陽子
2007年度前期	やっしー&陽光の楽しく上達	矢代久美子、武宮陽光	-
2007年度後期	結城聡のこれが世界の新感覚	結城聡	万波佳奈
2008年度前期	レドモンドの基本は格言にあり	マイケル・レドモンド	青葉かおり
2008年度後期	二十四世本因坊秀芳のやさしく考える定石	石田芳夫	向井梢恵
2009年度前期	石倉昇のあなたも囲碁仲間 ~入門から初段まで~	石倉昇	高倉梢
2009年度後期	横田茂昭の厚味の戦略	横田茂昭	稲葉禄子
2010年度前期	小林光一の攻めの構想小林流	小林光一	穂坂繭
2010年度後期	淡路修三の楽しく学べるヨセ	淡路修三	木下かおり
2011年度前期	中野寛也の戦いの"碁力(ゴヂカラ)"	中野寛也	万波佳奈
2011年度後期	溝上知親 定石のソムリエ	溝上知親	新垣未希
関連項目
NHK杯テレビ囲碁トーナメント
将棋の時間
NHK杯テレビ将棋トーナメント
外部リンク
囲碁講座[リンク切れ]
■
本因坊 丈和(ほんいんぼう じょうわ、天明7年(1787年) - 弘化4年(1847年))は、江戸時代の棋士。十二世本因坊、名人碁所。法名は日竟。本因坊元丈門下。元の姓は戸谷、後に葛野(かどの)。
丈和の生地は明らかでなく、信濃、武蔵国、伊豆、江戸などの説があるが、伊豆説が有力。幼名は松之助。16歳で初段。文化4年(1807年)に庄内藩士長坂猪之助と二十一番碁を打ち(丈和定先)、12局目まで8勝4敗で先相先とした。当時元丈の跡目には丈和の1歳上の奥貫智策が据えられていたが、智策は文化9年(1812年)に27歳で夭逝、文政2年(1819年)に丈和が跡目となる。その後33歳で六段。
文政10年(1827年)40歳の時、七段に進み、元丈の跡を継いで十二世本因坊丈和となる。翌年八段。天保2年(1831年)に、ライバル井上幻庵因碩を策謀によって降し、名人碁所に就く(後述)。
長男の戸谷梅太郎は、水谷琢順の養子となった後に井上家を継ぎ、12世井上節山因碩となった。三男は明治期方円社2代目社長の中川亀三郎。長女はなは本因坊秀策に嫁いだ。
目次 
1	天保の内訌と松平家碁会
1.1	丈和の三妙手
2	出自
3	評価
4	著作
5	関連項目
6	脚注
7	参考文献
天保の内訌と松平家碁会
名人昇格の際、丈和は不透明な陰謀をめぐらしたため後に禍根を残す事になった。
文政11年(1828年)に名人碁所願を提出し、安井知得仙知宅で家元同職会議が行われる。席上仙知は時期尚早と主張し、丈和の1月遅れで八段になっていた井上幻庵因碩との争碁を勧めるが因碩は受けず、仙知が争碁を打つことになり寺社奉行から許可を得る。しかし仙知の病気などで日程が決まらず、因碩が争碁願を提出、仙知の裁定で2、3年待って争碁を行うこととしたが、天保2年に突如丈和が名人碁所に任命される。この急な任命の理由は不明だが、林元美が丈和から八段昇段の約束を得て、出身である水戸藩の隠居「翠翁公」[1]を通じて寺社奉行に働きかけたとの見方がある[2]。
天保6年(1835年)に浜田藩の家老で安井家門人(二段)でもあった岡田頼母が老中松平周防守に碁会を勧め、松平宅にて碁所で御止碁となっていた丈和も含めた手合を組む。因碩は丈和を名人位から引き摺り下ろそうと、弟子の赤星因徹を丈和に挑ませる。もしこの対局で赤星が勝てば、丈和に名人の資格無しとして公儀に訴え出る算段であった。赤星の実力は確かなもので、いったんは優勢に持ち込むが、丈和は有名な「丈和の三妙手」を放ち、赤星を下した。この対局中赤星は血を吐き、その後26歳の若さで死亡。ここからこの一局を「吐血の局」と呼ぶ。これにより因碩の野望は砕いたものの、林元美の八段昇段の内約を破ったことの訴えなどがあって、天保10年(1839年)に碁所を返上して引退。元丈の子である丈策に家督を譲った。
丈和の三妙手
赤星因徹(黒)との一局。右辺黒が1,3と形を決めに来たところを白4と内側からスベったのが「第一の妙手」で、手を抜くと内側で生きられるため黒5の備えが省けない。さらに白6と先手で左下を間に合わせたのが「第二の妙手」で、aのキリを狙っているので黒7と備えざるを得ない。白からb,cのキキがあるためこの白の一団は心配がなく、先手で白8と左辺の打ち込みに回った。黒13に対し、頭をぶつけるような白14から形の悪い白16が力強い手で(第三の妙手)、黒の優位を突き崩し逆転に成功した。丈和の読みの深さと強腕を示す手で、後世に「丈和の三妙手」と語り伝えられている。
出自
丈和の出自については自身では明かすことが無かった。文化2年の『囲碁人名録』には江戸生まれとなっており、公儀に提出した親類書では武州本庄の戸谷姓となっており、後に中川亀三郎は、生国は不明だが幼時に武州熊谷あたりで成長したらしいと述べていた。大沢永弘の研究では、伊豆木負村の五十集商(魚の仲買人)葛野七右衛門の次男として生まれ、幼名は一作、貫一。その後江戸で烈元門下となるが、事情で本庄に丁稚奉公に出され、14歳に江戸に戻って奉公人として働いたという。その事情とは、本因坊家を継ぐに相応しい家柄を必要とした事である。その為、本庄宿の大豪商にして公での名字帯刀を許されていた戸谷半兵衛の丁稚となった。また、戸谷はその才能を見抜き、中屋に埋もれさせておくには忍びがたいとして、江戸の室町にあった支店島屋に赴任させたとあり、これをきっかけに烈元の門下になったともされる。戸谷家に残る日記帳、伝承などから寛政年間の末から文化年間の初めまで奉公していた丁稚の己之助が若き日の丈和であったと考えられている。
評価
丈和の碁は〝強力無双〟と呼ばれる激しい力碁が特徴で、道策の前聖に対して後聖と呼ばれた。明治中頃、名人就任に関する一連の醜聞で一時期丈和の評価が落ち、秀策に後聖の名を奪われた事があった。しかし現在では丈和の実力は再認識され、囲碁の三棋聖の一人として、また史上最強棋士候補の一人として確固たる地位を得ている。
著作
『国技観光』1826年(『石立擲碁国技観光』(囲碁名著選集3,4)池田書店 1979年;囲碁名著文庫1、1982、池田書店)
『收枰精思』1835年(囲碁名著選集5、池田書店 1979年、囲碁名著文庫9、池田書店、1983年)
関連項目
竹島事件(松平康任と岡田頼母の関係)
脚注
^ なお、『坐隠談叢』に書かれている水戸藩隠居「翠翁公」について、従来、徳川斉昭とされてきたが。斉昭はこの時点で藩主になったばかりであり、また号も「翠翁」ではない。この点について、囲碁史研究家の大庭信行による、「水戸藩主の一門で、水戸藩家老格の松平保福(斉昭の大叔父)の隠居名が「翠翁」であるため、保福が『翠翁公』ではないか」という説がある。林元美とその周辺(二)~『坐隠談叢』中の「翠翁公」について
^ ただし、名人就位前に丈和が幻庵との争碁を申し出ている文書が近年発見されており、「丈和の陰謀」については見直しが必要な可能性がある。福井正明著(秋山賢司構成)「囲碁史探偵が行く」(日本棋院)より。
参考文献
『本因坊丈和全集』(全三巻)誠文堂新光社 1957年
『丈和』(日本囲碁大系10、解説:藤沢秀行)筑摩書房
大沢永弘『本因坊丈和出自考』西光山自性院 1984年
高木祥一『剛腕丈和 (囲碁古典名局選集) 』日本棋院 1991年
相場一宏、福井正明「碁界黄金の十九世紀(第8回)」(「碁ワールド」誌 2003年3月号)
福井正明『名人・名局選 丈和』誠文堂新光社 2009年
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マネ碁(マネご)は囲碁の戦法の一つで、相手の打った石から点対称の位置にマネをしながら打っていくこと。白番で黒の打つ手をマネしていく「白番マネ碁」と、黒で第一着を天元に打ち、その後白のマネをしていく「太閤碁」の2種類がある。下図は白番マネ碁の局面の一例である。
目次 
1	白番マネ碁
2	太閤碁
3	マネ碁の評価
4	関連項目
白番マネ碁
白番で黒の手に追随して打ち進め、相手がミスをしたら変化する戦法。藤沢朋斎が得意とした。対策としては模様の張り合いに持ち込み、天元に打ってより大きな模様規模を確保するもの、中央付近で戦闘を起こして天元を切り札として打つもの、シチョウを利用するものなどがある。
シチョウ作戦は、隅でシチョウを発生させて中央で激突するように打つもので、1961年に杉内雅男が開発した。
このままシチョウを追いかけ合うと中央でぶつかり、白が取られてしまうのでなんらかの形で回避しなければならない。回避しても白によい図はできず、当時白番マネ碁破りの決定版と呼ばれた。
太閤碁
太閤碁という名称は、碁を知らなかった豊臣秀吉が碁を打たねばならなくなった時、臣下の者の入れ知恵によって第一着を天元に打ち、後を相手のマネをして一目勝ちを収めたという逸話に由来する。ただし、その気になれば碁を知らない相手に太閤碁を打たれても回避は容易であり(下図はその一例)、秀吉自身も実際にはかなり碁をたしなんでいたことから、この話は後世の作り話であろうとされる。

史上有名な太閤碁としては、呉清源が来日初手合で木谷實相手に打ったものがある。呉は63手目までマネを続けたが、結果は木谷の妙手もあり白の3目勝ちに終わった。
呉清源(黒)-木谷實(1929年)
太閤碁はコミなしの碁で1目勝ちを目指すならある程度有力な戦法であるが、現代では6目半のコミを出すのが容易でないため打たれることはない。
マネ碁の評価
藤沢朋斎はかなり長期にわたってマネ碁を打ち続けたが、「創造性に欠ける」などとして評価は決して高いものではなかった(藤沢のマネ碁の勝率は通算勝率より相当低い)。また白番マネ碁は、対策が進んだ事もあって勝率は5割を切ったとの統計もあり、戦法としても有効とは言い難い。対策を知らないアマチュア相手にはある程度力を発揮することもあるが、人によっては「卑怯な戦法」として不愉快に受け取ることもある。
関連項目
太閤将棋
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囲碁において見合いとは、打ちたい場所が2ヶ所あり、相手が一方を打ったらこちらはもう一方を打てる、という状態を指す。布石・中盤戦からヨセに至るまで、幅広く用いられる重要な概念である。
目次 
1	布石における見合い
2	定石における見合い
3	見合いの手筋
4	関連用語
布石における見合い
黒1とワリウチし、白の勢力圏を分割する。白2と上からツメられたら、黒3とヒラいて安定する。逆にaとツメられたら、bにヒラいて不安はない。この場合、「黒は上下のヒラキを見合いにしている」と表現される。
定石における見合い
星に対する小ゲイマガカリ定石。白3とスベリ、aと隅に受けてくれば、bとヒラく。cなどとハサんで来たら、aと隅に侵入して地を取る。つまり白は三々とヒラキを見合いにしている。
見合いの手筋
図1	図2	図3
図1で黒は一眼しかないが、黒1のサガリでオイオトシとワタリを見合いにして生還できる。図2のように白2とハネてワタリを妨げてきたら、黒3と詰める。白はオイオトシのためaにツゲず、隅の白2子を取って生きとなる。
図3のように白2とオイオトシを防いだら、黒3のアテコミで右方に連絡する。白4のキリには黒5とサガれば、白はすぐにcに入れないため、白b、黒cで黒が攻め合い勝ち(白4を取れる)となり生きられる。
関連用語
見合い計算
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見合い計算(みあいけいさん)とは囲碁において
地の計算法
手の価値の計算法
の二つの意味がある。前者は形成判断、後者はヨセにおける手の選択に使われる。王銘琬の絶対計算も見合い計算と同じものである。
目次 
1	地の計算
1.1	計算の妥当性
2	手の価値の計算
2.1	特徴と出入り計算との比較
3	権利と先手
地の計算
決まりのついているところは、単に数えればいいだけである。決まりのついてないところに関しては、権利に基づいて計算する:
両方から後手のところは権利は半々なので、黒から打った局面と白から打った局面を計算し、それらの中間を現在の地だと考える。
片方から先手のところは、先手側が打ったものとして考える。
両先手のところは権利が強いほうが打ったものとして考えるのが妥当だが、現実には計算を保留することが多い。
計算の妥当性
ある時点での本当の形勢とは双方が最善を尽くし終局したときの形勢である。しかし見合い計算は正しく完全に計算できるときでも、その本当の形勢と一致するとは限らない。つまり所詮近似に過ぎない。それでも見合い計算に意味があるのは、双方が最善を尽くす図を読みきるのに比べ、遥かに計算が簡単だからである(それでも十分難しいのは確か)。
しかし近似をするにしてもやり方はいろいろあるのになぜ上の方法をとるのか? なぜ両後手の場合に中間なのか? なぜ先手のときには打ったものと考えるのか? これには理由がある。もしも両後手のときに中間でなく例えば3:1に内分するところとしたり、片先手のときもどこか間を取るというようなことをすると、計算した形勢とほんとうの形勢の差が現在の最大の手よりも大きくなりうる。しかし、上のようにすれば、計算と本当の形勢とのズレは最大の手よりも小さくなることが保障できる。
手の価値の計算
手の価値は、その手を打った局面の地と打つ前の地を地の計算法により計算し、その差を手の価値とする。
特徴と出入り計算との比較
定義から分かるように、現在の地を計算し、そこに打った手の価値を足せば、打った後の局面の地と一致する。そのため実際の損得を考えるときなどに分かりやすい。
先手や後手などは考えずに手の価値を比較できる。それにより、出入りの目数が同じなら逆ヨセは両後手の2倍の価値があることがわかる。ただ先手の手の価値は見合い計算では0目となる。先手や後手などの情報は現在の局面の地を計算する部分からおり込まれる。
権利と先手
権利とは大雑把に言うと、ある手よりその後続する手段が大きいときに生まれるものである。後続手段が盤上で最大となるとき、その手は先手になる。後続手段が大きいほうがより権利も大きい。

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ミニ中国流(-ちゅうごくりゅう)は囲碁における布石手法の一つ。右上空き隅、小目、相手の星へのカカリから星脇へのヒラキまでの一連の配置を指す。下図下辺の黒の配置がミニ中国流である。右上隅の着点は必ずしも決まってはいないが、星との組み合わせが最もよく打たれる。近年流行している構えだが、すでに400年ほど前に本因坊道策が試みていた。このため道策流とも呼ばれる。

下辺小目(黒3)と辺へのヒラキ(黒7)の位置関係が中国流に類似しているためこの名称がある。
目次 
1	特徴
2	白の対策
3	類似布石
4	参考図書
5	関連項目
特徴
中国流と同様に足早で、侵入してきた敵を厳しく叩いて主導権を握る攻撃的な構えである。また下辺・右辺どちらも模様化しうる、柔軟性のある布石でもある。例えば白1にカカリきたら黒2に受け、白が根拠を持とうとするうちに下辺・右辺を固めて有利な進行を期待できる。
従って白は白1と右辺にワリウつのが普通だが、これには黒2とツメ、白3のヒラキに黒4とケイマに打って下辺を大きく地化することを狙う。さらに近年では黒2でaの肩ツキ、bのツケなどといった過激な手法も開発されている。
白の対策
ミニ中国流は日中韓で1990年代から流行し、黒番の必勝布石とまで呼ばれ広く打たれた。ミニ中国流が完成すると白から有効な対策が立てにくいので、構えが完成する前に妨害する策が様々に検討された。端的には6手目でaへのハサミ、あるいはbへのカカリ返しでミニ中国流を防げる(もっともそれで黒が悪くなるわけではない)。
類似布石
河野臨は黒7の位置をaから一路小目寄りにずらした、上図のような布石を打ち出している。この布石はミニスモール中国流、もしくはミニベトナム流と呼ばれ(名称はいまだに確立されていない)、平成になってからの流行型である。現在も研究が進められており、井山裕太や一力遼などの次世代の棋士を中心に広く浸透している。
参考図書
林海峰『ミニ中国流の徹底解明 最速の方程式(MYCOM囲碁ブックス)』2005年
河野臨『スモール中国流布石 徹底ガイド(MYCOM囲碁ブックス)』2011年
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妙手
妙手(みょうしゅ)とは、囲碁や将棋において特に優れた着手のことを指す。多くの場合、通常予想しえないような、意外性の高い着手というニュアンスが含まれる。
目次 
1	囲碁における妙手
1.1	狸の腹ツヅミ
1.2	鎮神頭
1.3	ヨセの妙手―本因坊道知
1.4	打たれざる妙手―本因坊烈元対安井仙知
1.5	ダメの妙手―安井知得
1.6	耳赤の一手―本因坊秀策
1.7	丈和の三妙手―本因坊丈和
1.8	妙手を打って敗れる―勝田栄輔
1.9	三子捨て―本因坊秀栄
1.10	黒地強襲―本因坊秀哉
1.11	AIに一矢報いた「神の一手」
2	将棋における妙手
2.1	タイトル戦における3大妙手
2.2	その他の妙手
2.3	升田幸三賞を受賞した妙手
3	参考文献
囲碁における妙手
「このような手が妙手である」という明確な基準は存在しない。初級者にとっては非常な妙手に見えても、上級者やプロにとっては全く当然の手であるということもありうる。ここでは、各種棋書において「妙手」として取り上げられることの多い、古来有名な手を列挙する。
狸の腹ツヅミ
攻め合いの状態で、手数を伸ばそうとしてきた黒1ハネに対して白2のオキが妙手。黒3の再度のハネに対しては白4のナラビがまた妙手で、黒の手数は伸びず攻め合い勝ちとなる。「狸の腹ヅツミ」と呼ばれる手筋。
鎮神頭
遣唐使の一員として唐に向かった小勝雄(白)が、唐の第一人者・顧師言と打った一番と伝えられる。白が1とマガリ、aとbのシチョウを見合いにして必勝を信じた時、黒2が絶妙であった。両シチョウを一挙にシノぐ手で、「鎮神頭」と名づけられている。のち、第20期棋聖戦挑戦手合・趙治勲―小林覚戦でこれに似た形が出現し、話題となった。
ヨセの妙手―本因坊道知
1705(宝永5)年、本因坊道知―安井仙角の一局。
道知が黒1から手をつけ、白8までを交換してから9,11とハネツイだのが好手順。白12の抜きが省けず(手抜きはセキにされる)、通常後手になるハネツギを先手で打ち、一目勝ちに結びつけた。
打たれざる妙手―本因坊烈元対安井仙知
本因坊烈元対安井仙角仙知(先)の一戦。実戦では烈元が白1と打ち、黒2を許したために黒優勢となった。
しかし局後に、そばで見ていた若手棋士の若山立長が、白1から3と打つ手を指摘。白がシチョウ有利であるため、これで黒が潰れていた。実際には打たれなかった「幻の妙手」として名高い。
ダメの妙手―安井知得
安井知得(先)―本因坊元丈
すでに黒優勢の局面、知得は黒1と白から切る手のないところをツイだ。一見ダメのような手であるが、後にaに打って一眼を確保する手を見つつ、白b,黒1,白c,黒dの攻めを防いでいる。このまま黒が押し切り、中押し勝ち。
耳赤の一手―本因坊秀策
本因坊秀策が17歳当時、幻庵因碩との対局で打った、中央付近の一手。当該項目を参照。
丈和の三妙手―本因坊丈和
1840年、松平家の碁会での赤星因徹において本因坊丈和が放った手。右辺を先手でサバき、左辺の打ち込みから敵の石を分断した強手。白68・70・78手目を指すという説と、68・70・80手目を指すという説がある。詳細は当該項目参照。
妙手を打って敗れる―勝田栄輔
嘉永五(1852)年、勝田栄輔(黒)が幻庵因碩に挑んだ一局。力の差があり、幻庵有利に進んでいた局面であった。しかし勝田は黒1から11までと準備し、13のオキが絶妙の一着。白aのツギにはb,c,dと運んで△の石が落ちる。愕然とした幻庵だったがここで打ち掛けを提案、体勢を立て直すと後をきっちりとヨセて、逆転の一目勝ちに持ち込んだ。勝利は確実と周囲に吹聴していた勝田は大いに面目を失ったとされる。
三子捨て―本因坊秀栄
本因坊秀栄が、田村保寿(後の本因坊秀哉)との対戦で打った手。取られている二子を引っ張り出して三子にすることで巧妙なシノギを図った一手。当該項目を参照。
黒地強襲―本因坊秀哉
1933年の本因坊秀哉―呉清源戦にて、秀哉が黒地に侵入を図った160手目(図の白1)が高名な妙手。呉も黒2のツケが「受けの妙手」で崩壊を免れたが、秀哉はこの攻防で優勢を確立し、二目差で逃げ切った。しかしこの手は打ち掛けの間に秀哉の弟子である前田陳爾が案出したという説があり、真相は今も不明のままである。
AIに一矢報いた「神の一手」
2016年に行われたAlphaGo対李世ドルにおいて、人工知能であるAlphaGoの3連勝で迎えた第4局。黒番のAlphGoが上辺を大きく囲ってきたのに対し、李世ドルは白1から黒6を交換した上、白7と割り込む一手を放って黒地を突き破ることに成功。人類に貴重な一勝をもたらしたこの一手を、中国の古力は「神の一手」と呼んで讃えた。
将棋における妙手
将棋における妙手は、多くはただ捨ての手として現れ、寄せの加速、受けの手稼ぎにつながる。

タイトル戦における3大妙手
勝又清和は、次の3つを「タイトル戦における3大妙手」としている。
1979年4月26日、第37期名人戦第4局。先手中原誠対後手米長邦雄戦の▲5七銀。
82手目 △3三同桂まで
△米長邦雄棋王 持駒:金歩二
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▲中原誠名人 持駒:角金歩
2001年の第26期棋王戦第4局。先手羽生善治対後手久保利明戦の▲7九金。
100手目 △8八金打まで
△久保利明六段 持駒:歩二
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▲羽生善治棋王 持駒:飛角二歩
2005年の第63期名人戦第2局。先手森内俊之対後手羽生善治戦の▲4八金。
86手目 △4五歩まで
△羽生善治四冠 持駒:歩三
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▲森内俊之名人 持駒:桂香歩二
その他の妙手
その他の有名な妙手は以下の通り。
1971年、第30期名人戦第3局。先手大山康晴後手対升田幸三戦の△3五銀。
93手目 ▲2六同飛まで
△升田幸三九段 持駒:なし
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▲大山康晴名人 持駒:歩四
1972年4月18日、第31期名人戦第2局。先手中原誠後手対大山康晴戦の△8一玉。
111手目 ▲7三飛打まで
△大山康晴名人 持駒:角銀二歩二
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91	81	71	61	51	41	31	21	11
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▲中原誠十段 持駒:なし
1988年の第38回NHK杯準々決勝。先手羽生善治対加藤一二三戦の▲5二銀。
60手目 △3二同玉まで
△加藤一二三九段 持駒:桂歩
Shogi zhor 22.png	
91	81	71	61	51	41	31	21	11
92	82	72	62	52	42	32	22	12
93	83	73	63	53	43	33	23	13
94	84	74	64	54	44	34	24	14
95	85	75	65	55	45	35	25	15
96	86	76	66	56	46	36	26	16
97	87	77	67	57	47	37	27	17
98	88	78	68	58	48	38	28	18
99	89	79	69	59	49	39	29	19
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▲羽生善治五段 持駒:角金銀二香歩
1996年の第9期竜王戦第2局。先手羽生善治対後手谷川浩司戦の△7七桂。
79手目 ▲6九飛まで
△谷川浩司九段 持駒:桂歩
Shogi zhor 22.png	
91	81	71	61	51	41	31	21	11
92	82	72	62	52	42	32	22	12
93	83	73	63	53	43	33	23	13
94	84	74	64	54	44	34	24	14
95	85	75	65	55	45	35	25	15
96	86	76	66	56	46	36	26	16
97	87	77	67	57	47	37	27	17
98	88	78	68	58	48	38	28	18
99	89	79	69	59	49	39	29	19
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▲羽生善治竜王 持駒:桂歩三
2006年の第19期竜王戦第3局。先手佐藤康光対後手渡辺明戦の△7九角。
123手目 ▲7八同銀まで
△渡辺明竜王 持駒:角金桂歩三
Shogi zhor 22.png	
91	81	71	61	51	41	31	21	11
92	82	72	62	52	42	32	22	12
93	83	73	63	53	43	33	23	13
94	84	74	64	54	44	34	24	14
95	85	75	65	55	45	35	25	15
96	86	76	66	56	46	36	26	16
97	87	77	67	57	47	37	27	17
98	88	78	68	58	48	38	28	18
99	89	79	69	59	49	39	29	19
Shogi zver 22.png
▲佐藤康光棋聖 持駒:銀
升田幸三賞を受賞した妙手
将棋大賞の升田幸三賞を受賞した妙手には次のものがある。
第31回将棋大賞 升田幸三賞 谷川浩司 「A級順位戦、対島朗戦(2003年12月19日)での54手目△7七銀成」
第53手目 ▲8八銀まで
△谷川浩司王位 持駒:歩
Shogi zhor 22.png	
91	81	71	61	51	41	31	21	11
92	82	72	62	52	42	32	22	12
93	83	73	63	53	43	33	23	13
94	84	74	64	54	44	34	24	14
95	85	75	65	55	45	35	25	15
96	86	76	66	56	46	36	26	16
97	87	77	67	57	47	37	27	17
98	88	78	68	58	48	38	28	18
99	89	79	69	59	49	39	29	19
Shogi zver 22.png
▲島朗八段 持駒:歩四
第35回将棋大賞 升田幸三賞特別賞 真部一男 「対豊島将之戦(2007年10月30日)の幻の△4二角」
33手目 ▲6七銀引まで
△真部一男八段 持ち駒 角
Shogi zhor 22.png	
91	81	71	61	51	41	31	21	11
92	82	72	62	52	42	32	22	12
93	83	73	63	53	43	33	23	13
94	84	74	64	54	44	34	24	14
95	85	75	65	55	45	35	25	15
96	86	76	66	56	46	36	26	16
97	87	77	67	57	47	37	27	17
98	88	78	68	58	48	38	28	18
99	89	79	69	59	49	39	29	19
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▲豊島将之四段 持ち駒 角
参考文献
「妙手誕生 近世から現代まで囲碁史に輝く一手」 安倍吉輝著 日本棋院
■
ミラクルファイブ (Miracle Five) は、長谷川五郎が考案しメガハウスより発売されたボードゲームのひとつ。
目次 
1	概要
2	盤と駒
3	種類
3.1	ミラクルファイブ(スペースウォーク[1])
3.2	アタック
3.3	テンゲスト(スカイゲスト[2])
3.4	ダイナミックレース
3.4.1	ツースリー
3.4.2	ナインゲーム
3.4.3	Dレース
4	セルゴ
5	出典
6	脚注
7	外部リンク
8	関連項目
概要
2007年に日本で発売され、2009年には米国でも発売された。
日本オセロ連盟を通じて購入することができるほか、同連盟の公式サイトでコンピュータを相手に対局することができる。
盤と駒
盤は10×9の90マスで、外周と中央横1列の42マスが青色、それ以外の48マスが緑色に塗られている。
駒は楕円柱状で、昼と夜の2種類がある。昼駒は白色で、片面に赤い太陽の記号が描かれている。夜駒は黒色で、片面に黄色い三日月の記号が描かれている。
種類
全部で8種類のゲームができる。大きく分けると4種類である。全てのゲームで夜駒側が先手となる。
ミラクルファイブ(スペースウォーク[1])
西遊記をモチーフにした五目並べ。緑マスを地上界、青マスを宇宙界と呼ぶ。基本ルールと第二ルールの2種類がある。
基本ルールでは昼・夜駒は縦横に1マスだけ動かすことができ、太陽・月駒は斜めにも1マス動かすことができる。最初に打つときは昼・夜駒の状態で打ち、動かしたあとに太陽・月駒に成ることができる。第二ルールでは昼・夜駒はチェスのキングと同じ動き、太陽・月駒はチェスのナイトと同じ動きである。最初に太陽・月駒の状態で打つこともでき、動かしたあとに太陽・月駒から昼・夜駒に戻ることもできる。
縦・横・斜めに隣接する敵駒があった場合は、通常の動きのほかに敵駒を何個でも飛び越すことができる。
宇宙界にある駒は通常の動きのほかに他の駒にぶつからない限り宇宙界を自由に進むことができる。これを「宇宙遊泳」という。
三三などの禁手は存在しない。盤上のどこでも自駒が1直線上に5個並べば勝ちとなる。
アタック
三国志をモチーフにした即決ゲーム。中央の青マスを青空と呼ぶ。
自分側の横1列に昼・夜駒を並べ、互いに2駒ずつ裏返して太陽・月駒にする。全ての駒は前方にいくらでも、横にも1マス進むことができるが後退はできない。太陽・月駒は斜め前方に1マス動かすこともできる。青空にある駒は横に何マスでも移動することができる。駒を取れるのは隣接するマスに敵駒があるときのみ。
最上段の敵陣に自駒が突入し、次の手で敵に取られなければ「完全突入」といって勝ちとなる。
テンゲスト(スカイゲスト[2])
アラビアンナイトの「天からのお客様」をモチーフにした、チェッカーに似たゲーム。基本ルールと上級ルールの2種類がある。
このゲームは盤が少し異なり、紙または布製の盤を上に重ねてプレイする。青マスは外周のみで宇宙界と呼ぶ。内側のマスは地上界と呼び、市松状に白と緑または赤に塗り分けられる。両側の最も手前の8マスが赤、それ以外の20マスが緑である。赤マスを本陣と呼ぶ。白マスに駒が移動することはない。
両者12個ずつの駒を4×3になるように赤と緑のマスに配置する。基本ルールでは2段目の4個が太陽・月駒で男性の駒、残りの8個が昼・夜駒で女性の駒となる。駒は斜めに進むが、必ず前進しなければならない。ただし移動途中の後退は許されており、1手の中での最終的な到達点が元の位置より前方にあればよい。隣接する駒は自駒・敵駒を問わず飛び越せる。また宇宙界に来た駒は何度でも同角度で反射することができるが、宇宙界にとどまることはできない。これを「宇宙反射」という。上級ルールでは1手ずつ夜・月駒と昼・太陽駒を交互に12マスの中に配置し、全て置き終わってから駒を動かす。男性の駒と女性の駒は基本ルールと同じである。
敵同士の男性の駒と女性の駒が隣接するとチェックとなり、相手は次の手番でチェックされた駒を動かさなければならない。ただし、動かせる場所がない場合はノーチェックとなり、違う駒を動かしてよい。
相手の本陣を全て自駒が占領すれば勝ちとなる。
ダイナミックレース
ツースリー
100メートル走をモチーフにしたゲーム。
2×7の専用の盤を上に重ねてプレイする。夜駒と昼駒をそれぞれ手前の6マスに配置する。前方に1マス進み、敵駒を何個でも飛び越すことができる。前方に動かせない場合は後退するが、この時にも敵駒を飛び越すことができる。斜めには進めない。
6駒全てを敵陣に進めれば勝ちとなる。
ナインゲーム
マラソンをモチーフにしたゲーム。
3×9の専用の盤を上に重ねてプレイする。夜駒と昼駒をそれぞれ手前の9マスに配置する。駒の動かし方はツースリーと同じである。
9駒全てを敵陣に進めれば勝ちとなる。
Dレース
400メートル障害走をモチーフにしたゲーム。このゲームのみ最大4人までプレイできる。
左下の角のマスに駒を置き、サイコロを振って出た目の数だけ青マス上を反時計回りに進める。中央の列の分岐点のマスに止まった場合は、中央の列を通る近道を進む。途中で相手に追いついた場合は相手の駒の上に乗ることができ、相手はその駒を乗せたまま動かして到達点で解放する。
一番早く出発点のマスに戻った者が勝ちとなる。
セルゴ
ミラクルファイブの元となったのは、長谷川五郎が1970年代に考案した『セルゴ[3]』である。
・セルゴ盤は10×9で、ミラクルファイブ盤のような五段目に横断する(盤を鳥瞰すると日の形)■(宇宙空間)が無く、端の1列と10列のマス以外は□(地上界)である(盤を鳥瞰すると口の形)。)
(セルゴ盤の五段目は■□□□□□□□□■、ミラクルファイブの五段目は■■■■■■■■■■である)
●×12 成ると月 ○×12 成ると太陽
・黒から始めて五目並べたら勝ち
・打つ他に、□(地上界)では縦横1枡動かすのも可 (12駒すべて打ち終えたら、動かすのみ。)
・敵の駒を取ったり、自分の駒を手駒に戻したりは出来ない
・敵の駒は何個並んでいても、次の枡が空いていれば飛び越え可 (チェッカーのように連続で飛び越えは不可。)
・■(宇宙空間)は駒にぶつかるまで移動が可。駒の手前で止まる。
・■(宇宙空間)に入った駒は成り月または太陽の成駒(将棋の王将の動き)となる。 (将棋のように不成は不可。また、次の手番で■(宇宙空間)から出ても成駒のまま)
・■(宇宙空間)に打っても、いきなりは成れず。次の手番で動かして成る(■(宇宙空間)から□(地上界)へ出ても成り)。
・三々・四々・六連も白黒ともに反則ではない
 セルゴは、のちに「ニューセルゴ[4]」を経て「ソクラテス(宇宙遊泳)」、そして現在の「ミラクルファイブ(スペースウォーク)」に改変されている。
出典
『ミラクルファイブ入門』(2010年 長谷川五郎著 河出書房新社 ISBN 978-4-309-90892-2)
『セルゴ解説書』(1979年 日本セルゴ連盟・ツクダオリジナル「セルゴ」解説書)
『オセロの勝ち方 新装改訂版』(2015年 長谷川五郎著 河出書房新社 )
脚注
[ヘルプ]
^ 2013年世界大会での呼称(「オセロの勝ち方 新装改訂版」長谷川五郎著 河出書房新社、2015年 )
^ 「スペースウォーク」と同様に、2013年世界大会での呼称
^ 他に大会競技の「セルガー(真剣勝負、アタック)」、「セルゲスト(黒檀の馬、テンゲスト、スターゲスト)」、初心者向けの「ツースリー」とダイスを使用する「運だめし( Dレース )」の4種類の遊び方あり
^ 成駒は王将ではなく、八方桂(ナイト)の動き。
外部リンク
日本オセロ連盟
関連項目
五目並べ
■
村正の妖刀(むらまさのようとう)は囲碁の定石の一つである。
小目への一間高ガカリに二間高バサミして生ずる一連の変化を指す。難解で未解明部分も多く、また変化型が多いために誤ると自らも傷を負うところから、村正にちなんでこの名が付いた。妖刀定石とも。大斜、大ナダレとともに三大難解定石とされる。
最初にこの二間高バサミを打ったのは、1928年の久保松勝喜代八段と言われる。
目次 
1	基本型
2	代表的な図
2.1	一間トビ、二間トビ
2.2	下ツケ、上ツケ
2.3	ケイマ
2.4	大ゲイマ
2.5	大々ゲイマ、ハサミ返し
2.6	手抜き
3	実戦例
3.1	初期定石誕生
3.2	武宮流大模様
3.3	山下棋聖復位
4	参考文献
基本型
基本形は、小目への一間高ガカリ(白1)に対する、黒2の二間高バサミ。このハサミが比較的新しい手で、これに対する白の応手も様々なものが試されている。現在打たれているものとしては、白a - hなどがある。
代表的な図
一間トビ、二間トビ
白1の一間トビには黒2と受けるくらいで、続いて白3, 黒4の後、白は上辺から黒をハサむ展開が考えられ、この部分では比較的穏やかな分かれだが、続いてハサんだ石を巡る攻防となる。また白はこの流れで、aへ三々ツケを一本打つことも多い。
白1の二間トビはこの部分を軽く見る手で、黒2と二間に受ければ、白はここは打ち切って他に向かう。黒はaと堅く打って、白の二間トビの連絡を脅かす手もある。
下ツケ、上ツケ
白1の下ツケは、以下黒2 - 黒6などと応じられ、白に比べて黒に働きがあり、黒有利とされる。
白1の上ツケには、黒aと下から受ければ平穏な分かれ。黒bとハネダす手や、黒cとツキアタリ、黒b、白cに切る手は、難解な変化となる。
ケイマ
白1のケイマには、黒2 - 黒8までと応じられ、白はシチョウで一目抜いても石が重複しており、黒の実利が勝る。ただし白5で白aの横ノビや、白6のサガリなどの変化がある。
大ゲイマ
白1の大ゲイマガケは多くの変化があり、妖刀定石と呼ばれる主たる部分となる。黒の主な応手には、aの上ツケ、bのツキアタリ、cのハザマなどがある。黒d,e,などは場合の手。この大ゲイマは、1952年の呉清源-藤沢朋斎の第三次十番碁で藤沢が打ちだした。
黒1のツキアタリは、続いて白2, 黒3, 白4に黒5と切るまでが狙いの進行。
続いて白1, 黒2, 白3と進めば簡明だが、先の見えない戦いになる。白a, 黒2から白bと押さえ込むのは、隅を巡る難解な攻防となるが、ほぼ定石化されている手順。
黒1の上ツケには白2とハネる。ここで黒3 - 黒7までと運べば簡明で実利も大きいが、白が先手で一子ポン抜いた姿はケイマガケで生じた形(△がaにある形)より働きがあり、白満足とされる。
白2のハネには黒3と白を裂いていくのが自然な発想。続いて白4に、黒aと打つのは最初期の形、黒bはシチョウが関係する難戦、近年では黒cのトビが多く打たれる。白4で白dの三々ツケは近年試みられている未完成定石。

以下白6までがよく打たれる定石手順。シチョウ不利なら白6はaにカケツぐ打ち方もある。黒は左辺に開いて打つのが普通。
黒1のハザマは、白2 - 黒5と、隅を捨てて勢力に就こうという狙い。これに対して白aと打つ勢力重視の姿勢は、梶原武雄九段の創案。
大々ゲイマ、ハサミ返し
白aの大々ゲイマは、工藤紀夫九段が打ち出した手。白bのハサミ返しも近年試みられている手で、2005年名人戦七番勝負第6局でも小林覚九段が打っている。

手抜き
白の手抜きには、黒1, 黒3と2手かけてこの隅を制するのが立派な手になるが、この後、白からのaにツケるなど策動の余地も残っている。
実戦例
初期定石誕生
1952年の呉清源-藤沢庫之助の第三次十番碁第5局で、白番呉が当時では珍しい二間高バサミを打つと、藤沢は新手の大ゲイマ飛びで応え、以下黒11までの分かれは最初期の定石となった。
武宮流大模様
1969年プロ十傑戦の、武宮正樹四段-本田邦久七段(黒)戦。左上隅で白の二間高バサミに、黒上ツケ、白は左下隅の目外しの意図を継承してハネダシから黒1まで勢力を得る分かれを選び、続いて白2, 黒3, 白4として左辺一体が大模様となる。武宮はこの棋戦で前年8位に続いてこの年も5位入賞し、十傑戦ボーイと呼ばれた。
山下棋聖復位
2006年棋聖戦の羽根直樹棋聖-山下敬吾挑戦者の七番勝負第1局(山下黒)の左上隅で妖刀定石。シチョウ白有利な場合は白aに下がる場合が多く、また黒もすぐに黒1以下切っていくのが近年の打ち方。左上の攻め合いは白勝ちとなるが、黒11と切り、続いて右下方面のシチョウ当たりを狙う(先番中押し勝ち)。山下は4連勝で、3期ぶりの棋聖位。
参考文献
長谷川章『妖刀という名の定石』日本棋院 1972年
高川格『秀格烏鷺うろばなし』日本棋院 1972年
小林光一『早わかり大斜・村正・大ナダレ 』誠文堂新光社1981年
高木祥一『裏の裏定石必勝法』土屋書店 1988年
結城聡『決定版 大斜・村正・大ナダレ』誠文堂新光社 2009年
■
名人(めいじん)は、囲碁の棋戦の一つである名人戦に優勝した棋士に贈られるタイトルである。
目次 
1	歴史
2	名人戦
2.1	仕組み
2.2	新旧名人戦の歴史
2.2.1	創設の経緯
2.2.2	第1期名人戦リーグ
2.2.3	覇者交替のドラマ
2.2.4	移管
2.2.5	新名人戦
3	終身名人制(江戸時代~明治以降)
4	名誉名人
5	歴代名人戦優勝者
5.1	旧名人戦
5.2	名人戦
6	獲得数ランキング
7	リーグ戦
7.1	旧名人戦リーグ
7.2	新名人戦リーグ
8	八強争覇戦
9	新・名人リーグ経験者
10	名人戦の記録、エピソード
11	関連項目
12	出典
13	参考文献
歴史
織田信長が一世本因坊本因坊算砂(日海)の囲碁の腕を讃えて「そちはまことの名人なり」と称揚されたことに由来しているとされる[1]。ただし、証明する資料は一切なく、また、算砂の師匠の仙也も存命であり弱冠20歳の算砂が「名人」と呼ばれたとは信じがたいとの主張がある[2][3]。
これがあらゆる分野で使われる「名人」という言葉の起こりとされる[要出典]。ただし、鎌倉時代の『二中歴』(ca.1210–1221) にはすでに、囲碁と雙六の名人についての記述がある[4]。また、『正徹物語』(ca.1450) にも「名人」の用例がある[5]。
のちに専業将棋棋士も、囲碁にならい名人という称号を使い始めた。
江戸時代、幕府の家元制度の元で囲碁界を統括する立場として確立した。名人の地位に就いたもののうち、寺社奉行から許しを得て碁界の取りまとめ役となったものが「名人碁所」である。名人碁所は棋士全ての段位認定権を持ち、囲碁界の最高権力者であった。この地位をめぐり数々の死闘、暗闘が繰り広げられた。
江戸時代から昭和初期に至るまでは九段が即名人を意味しており、天下にただ1人だけと定められていた。
日本棋院が設立されて大手合による段位の認定が行われるようになり、本因坊秀哉名人引退後は、九段と名人の地位は別のものと定められた。
名人戦
1962年に創設されて1975年まで読売新聞社主催で開催、1976年から朝日新聞社主催で開催。読売新聞時代の名人戦は「旧名人戦」と呼んで区別されている(移管の経緯については後述)。現行名人戦はこの時から新たに「第1期」からカウントしているが、旧名人戦最後のタイトル者大竹英雄は移行時にもその地位は持ち越され、現行名人戦の第1期に挑戦者を迎えることとなった。名人戦の朝日移管後は、読売は棋聖戦を主催する。
女流棋戦にも女流名人戦があり、また、韓国、中国、台湾にも同名の棋戦がある。
仕組み
9人が参加するリーグ戦を行い、一位になった者がタイトル保持者と挑戦手合七番勝負を行い、優勝者を決める。優勝賞金は3700万円。七番勝負は例年9月から11月にかけて、持ち時間8時間・2日制で、全国の高級ホテル・旅館を舞台として開催される。
リーグは予選トーナメント勝ち抜き者3名、前期からの残留者5名、七番勝負敗者1名から成る。名人リーグは棋聖・本因坊リーグと並んで「黄金の椅子」とも呼ばれ、この3大リーグに参加することが一流棋士の証とされている。六段以下の棋士が名人リーグ入りを果たした場合、七段に昇段する。またリーグに優勝して挑戦権獲得が決まったら八段に、さらに名人位を奪取した場合九段へ昇段する。
名人戦を五連覇、または通算十期以上獲得した棋士は、60歳以降に名誉名人を名乗る権利を得る。現在、名誉名人の称号を持つのは趙治勲・小林光一の2人で、小林は60歳を迎えた2012年より、趙は2016年よりそれぞれこの称号を名乗っている。
新旧名人戦の歴史
創設の経緯
本因坊秀哉名人引退後、本因坊の名跡は本因坊戦に継承されていたが、名人の地位については決まりがついていないままであり、大手合による九段昇段者が出たことでもその意味を明確化する必要性があった。将棋界では名人戦が創設されて人気を博しており、当然囲碁においても同様の形式が期待されてもいた。これは坂口安吾「碁にも名人戦つくれ」(1949年毎日新聞大阪版)にも現われている。日本棋院では1949年の「日本棋院囲碁規約」に「名人規定」を盛り込んだが、具体的な棋戦などは定めず、実際に当時の第一人者と目される読売新聞嘱託の呉清源を加えた棋戦の実現は難しい状況でもあった。
1951年に朝日新聞が、呉清源、藤沢庫之助、橋本宇太郎、木谷實による四強争覇戦を企画したが、立ち消えとなる。1952年に朝日は大手合を発展させて将棋と同様の順位戦制度による名人戦を企画、呉清源にも出場の承諾を得て、契約金1千万円を提示した。日本棋院では渉外担当理事の高川格がこの推進役だったが、木谷實の「名人は作るものではなく、自然に生まれるまで待つべきもの」といった反対論も根強かった。棋士全員による評議委員会では1票差で賛成多数となったが、僅差であることを懸念した高川が三好英之理事長と相談の上でこれを撤回し、高川ら賛成派理事は辞任した。また朝日側の根回し不足から、関西棋院も不参加を表明。朝日はついに断念し、朝日・毎日・読売の新聞三社と日本棋院で、名人戦の呼称は使用しないことなどを申し合わせた。朝日はこの代わりとして1953年から最高位戦を開始、また読売新聞は1956年に「実力名人を決める」と謳った日本最強決定戦を開始する。
その後日本棋院では、物価上昇に比べて棋戦契約金が増えず、また棋士の増加もあって財政難となりつつあった。1960年に渉外担当理事となった藤沢秀行は、この解決策として名人戦創設を計画する。藤沢はこの年の本因坊戦の挑戦者となるが、対局料が1局6万円という安さだったのもその意識に拍車をかけた。当初朝日新聞に提案したが交渉はうまくいかず、次いで読売新聞と交渉して契約金2500万円で話をまとめ、棋士総会でも70対4の圧倒的多数で承認された。こうして関西棋院、呉清源も参加する名人戦が創設される。しかし朝日新聞はこれを機に大手合、最高位決定戦のスポンサーを降りることとなった。
第1期名人戦リーグ
名人戦スタート当初には「十番碁の覇者である呉清源を初代名人に推戴して始めるべきだ」との声もあったが、結局呉を含めた当時のトップ棋士13名による大型リーグ戦で第1期名人を決定することとなった。リーグ終盤には呉・坂田栄男・藤沢秀行の三者によるトップ争いとなったが、藤沢は最終局に敗れて9勝3敗でリーグ戦を終了。しかし藤沢が「プレーオフに向けて英気を養うため」酒を飲みに行っている間に、坂田-呉戦は終盤呉の猛追によりジゴでの終局となった(コミは5目であった)。規定でジゴは白勝ちとしていたが、通常の勝ちより劣ると決められていたため、呉と同率でありながら「半星」上回って藤沢が初代名人に輝いた。藤沢は渉外担当として名人戦設立に当たり、自ら名人位を手中にするというドラマチックな幕切れであった。
覇者交替のドラマ
第2期名人戦では、坂田栄男本因坊が藤沢秀行を破り、名人本因坊の称号を手にする。この時最終第7局での120手目のノゾキは「天来の妙手」と呼ばれ、名人位の行方を決定づけた一着として有名である。坂田は第3期も防衛の後、1965年第4期には23歳の林海峰八段が挑戦者となる。予想は当時全盛の坂田が圧倒的に有利であり、坂田は七番勝負1局目に勝った後、「20代の名人などありえない」との発言も出た。しかし林はその後盛り返して4勝2敗で名人位となり、一大センセーションとなった。林は1968年に本因坊位も奪って名人本因坊となり、坂田一強時代はここに終焉した。
続く1968年の名人戦では53歳の高川格が林から名人を奪い「不死鳥」と呼ばれる。1973年には石田芳夫本因坊が林に挑戦し、3連勝と一気に林を土俵際に追い込んだ。しかし第4局、林は驚異の粘りでジゴ勝ちに持ち込むと、あと3番を制して防衛。3連敗4連勝は七番勝負史上初であった。しかし翌年は石田の再挑戦に敗れ、石田が名人本因坊となる。この間林は連続10期名人戦七番勝負の舞台に登場し、挑戦した時は全て奪取を果たすなど「名人戦男」の名をほしいままにした。旧名人戦最後の第14期には石田の兄弟子・大竹英雄が挑戦者として登場、タイトルを奪取した。
移管
名人戦の契約金は、高度成長期にあって1970年まで変わらず、74年でも2750万円に留まっていた。日本棋院はこの状況を打破するため、1974年12月3日に読売新聞に対して名人戦契約を第14期で打ち切ると通告、次いで12月12日に朝日新聞と1億円の契約金で第15期以降の仮契約を交わす。
これに対し読売新聞は、朝日以上の契約金で日本棋院に再交渉する。日本棋院では当初は朝日移管に対して棋士180人中反対者2人のみだったが、読売支持も増え始めて混乱し、理事会は総辞職する。しかし選挙による新理事選出では朝日派8人、読売派3人となった。読売は1975年7月26日に名人戦の契約を求める仮処分を申請、8月21日に本訴訟を起こす。また読売及び、朝日を除く各マスコミでは、日本棋院を批判する論調であった。しかし裁判は日本棋院有利に進み、12月10に日本棋院顧問岡田儀一による斡旋案「名人戦は朝日と契約」「読売は序列第一位の新棋戦、最高棋士決定戦・棋聖戦を新たに契約」(岡田私案)により、読売と日本棋院は和解することとなった。この一連の経緯は「名人戦騒動」と呼ばれている。この騒動は、当時朝日と契約していた将棋の名人戦の契約金問題(囲碁同様長く契約金が据え置かれていた)にも波及している。
新名人戦
新生成った名人戦で、当初活躍したのは大竹英雄であった。林海峰との戦いは「チクリンの名勝負」と呼ばれ、ファンを湧かせた。大竹は旧名人戦14期から6期連続で七番勝負に出場、「名人戦男」と呼ばれることになった。
その大竹から名人位を奪ったのは弟弟子・趙治勲であった。趙は第6期(1980年)、24歳の若さで名人を奪取し、祖国韓国で囲碁ブームが巻き起こるきっかけを作った。1983年には棋聖・本因坊と合わせ、史上初の大三冠を達成する。1984年の第9期、趙は大竹英雄に3連敗後4連勝して前人未到の名人5連覇を果たし、初めて名誉名人の資格を得る。しかし6連覇がかかった1985年・第10期に小林光一が悲願の名人奪取。ここから趙・小林の角逐時代が本格的に幕を開けた。
1986年の第11期には、加藤正夫が1981年以来二度目の挑戦にして初の名人奪取。翌年も林海峰相手に防衛を果たし、七大タイトルのうち四冠を制する。しかし1988年、小林が再び名人奪取。ここから小林の長期政権が始まる。中でも1992年第17期の、兄弟子大竹英雄を挑戦者に迎えての第7局では、終盤まで劣勢であった小林がヨセでワリコミの妙手を放ち逆転に成功。この一局は名人戦史上に残る名勝負といわれる。これを含め、大竹は趙・小林に計6度挑戦を果たしているが、奪取は果たせなかった。
1995年の第20期、小林の8連覇を阻んだのは、かつて石田・加藤とともに「木谷三羽烏」と呼ばれながら、名人戦に縁のなかった武宮正樹であった。この第5局、武宮は攻め合い負けと見えた石を第一線マガリの妙手で逆転。小林は局後に「恐ろしいものを見た」と何度もうめいたといわれる。この局も名人戦史上に残る一番として名高い。
しかし翌年には天敵・趙治勲が12年ぶりに名人戦の舞台に登場、4-2で武宮を降して名人復帰を果たした。趙は以後4連覇、再度の大三冠も達成し、第一人者の貫禄を見せつけた。
2000年の第25期には、依田紀基が二度目の挑戦で趙を4-0で下し、タイトルを奪取した。これにより名人位は、23年ぶりに木谷一門の手から離れることとなった。依田は趙の2度にわたるリターンマッチ、史上最年長での挑戦となった林海峰などを撃破し、4連覇を果たす。
2004年、挑戦者として張栩が登場。依田を下し、24歳の若さで史上5人目の名人本因坊の地位に就いた。さらに2006年には高尾紳路がリーグ初参加初挑戦(史上初)。このシリーズ第4局はコウ争いに次ぐコウ争いとなり、364手という激闘となった。これを制した高尾はその勢いのまま名人を奪取し、史上6人目の名人本因坊となる。しかし翌年には張栩がすかさずこれを奪回、2008年には史上最年少19歳で名人戦挑戦者となった井山裕太を迎え撃ち、4-3で防衛。翌年には名人含め、現行七大タイトル史上初の五冠を達成した。
しかし2009年、井山裕太はリーグ戦を8戦全勝で勝ち上がり、前年に続き挑戦権を獲得。その勢いのまま4-1で張栩を撃破、史上最年少で名人の座に就いた。なお、20歳4ヶ月での獲得は、7大タイトル戦でのタイトル獲得の最年少記録でもある。井山は翌年も高尾紳路の挑戦を4-0のストレートで退け、若き実力者として君臨した。
2011年、山下敬吾が8年ぶりに七番勝負に登場。井山を4-2で破って初の名人位を獲得するとともに、史上7人目の名人本因坊となった。翌2012年は、井山とのプレーオフを制して羽根直樹が名人初挑戦を果たしたが、フルセットの末に山下が防衛を決めた。
2013年の第38期には井山裕太が挑戦者として再登場、4-1で山下を降し、36期の雪辱を果たした。翌2014年には、七番勝負初登場となった河野臨が挑戦者となるが、井山は4-2のスコアで勝利、2連覇となった。
終身名人制(江戸時代~明治以降)
代	棋士	読み	生年	就任年
1	本因坊算砂	さんさ	1559	
2	中村道碩	どうせき	1582	1623-
3	安井算知 	さんち	1617	1668-
4	本因坊道策 	どうさく	1645	1677-
5	井上道節因碩 	どうせついんせき	1646	1708-
6	本因坊道知 	どうち	1690	1721-
7	本因坊察元 	さつげん	1733	1766-
8	本因坊丈和 	じょうわ	1787	1831-
9	本因坊秀栄 	しゅうえい	1852	1906-
10	本因坊秀哉 	しゅうさい	1874	1914-
[6]
名誉名人
名人を5連覇、または通算10期以上獲得した棋士は、引退後または60歳以降に「名誉名人」となる資格を得る。
棋士	通算	連覇	年
1	趙治勲	9期	5連覇	1980年-1984年、1996年-1999年
2	小林光一	8期	7連覇	1985年、1988年-1994年
歴代名人戦優勝者
○●はそのシリーズの勝者から見た勝敗、網掛けは前のタイトル保持者。
旧名人戦
期	年度	優勝	段位	説明
1	1962年	藤沢秀行	八段	13名のリーグ戦
期	年度	名人	段位	勝敗	対局者	段位
2	1963年	坂田栄男	本因坊	4-3	藤沢秀行	名人
3	1964年	坂田栄男	三冠	4-1	藤沢秀行	九段
4	1965年	林海峰	八段	4-2	坂田栄男	三冠
5	1966年	林海峰	名人	4-1	坂田栄男	二冠
6	1967年	林海峰	名人	4-1	坂田栄男	三冠
7	1968年	高川格	九段	4-1	林海峰	二冠
8	1969年	林海峰	本因坊	4-2	高川格	名人
9	1970年	藤沢秀行	王座	4-2	林海峰	二冠
10	1971年	林海峰	九段	4-2	藤沢秀行	名人
11	1972年	林海峰	名人	4-2	藤澤秀行	九段
12	1973年	林海峰	名人	4-3	石田芳夫	本因坊
13	1974年	石田芳夫	本因坊	4-3	林海峰	二冠
14	1975年	大竹英雄	九段	4-3	石田芳夫	三冠
名人戦
期	年度	名人	段位	勝敗	対局者	段位
1	1976年	大竹英雄	二冠	○○○●○	石田芳夫	九段
2	1977年	林海峰	九段	○○○○	大竹英雄	名人
3	1978年	大竹英雄	碁聖	●○○○●○	林海峰	名人
4	1979年	大竹英雄	名人	○○●○○	坂田栄男	九段
5	1980年	趙治勲	八段	○○●×○○	大竹英雄	三冠
6	1981年	趙治勲	二冠	○○○○	加藤正夫	二冠
7	1982年	趙治勲	三冠	○○○●○	大竹英雄	碁聖
8	1983年	趙治勲	二冠	○○●○○	大竹英雄	碁聖
9	1984年	趙治勲	二冠	●●●○○○○	大竹英雄	碁聖
10	1985年	小林光一	十段	○●○○●●○	趙治勳	二冠
11	1986年	加籐正夫	王座	○○○○	小林光一	四冠
12	1987年	加籐正夫	四冠	○○○○	林海峰	九段
13	1988年	小林光一	二冠	●○○○○	加藤正夫	名人
14	1989年	小林光一	三冠	●○○○○	淡路修三	九段
15	1990年	小林光一	三冠	○●●○○○	大竹英雄	九段
16	1991年	小林光一	三冠	○●○○○	林海峰	天元
17	1992年	小林光一	三冠	○●○●○●○	大竹英雄	九段
18	1993年	小林光一	名人	○○●○○	大竹英雄	九段
19	1994年	小林光一	名人	○○○○	林海峰	天元
20	1995年	武宮正樹	九段	○○○●○	小林光一	名人
期	年度	名人	段位	勝敗	対局者	段位
21	1996年	趙治勲	二冠	○●○○●○	武宮正樹	名人
22	1997年	趙治勲	大三冠	●○●○○○	小林光一	九段
23	1998年	趙治勲	大三冠	●○○×●○○	王立誠	九段
24	1999年	趙治勲	二冠	○○●○○	依田紀基	九段
25	2000年	依田紀基	九段	○○○○	趙治勲	名人
26	2001年	依田紀基	名人	○○●●○○	林海峰	九段
27	2002年	依田紀基	名人	○○●○○	趙治勳	王座
28	2003年	依田紀基	二冠	○○●○○	山下敬吾	棋聖
29	2004年	張栩	二冠	●○●○○○	依田紀基	二冠
30	2005年	張栩	二冠	○○○●●●○	小林覚	九段
31	2006年	高尾紳路	本因坊	○○●○●○	張栩	三冠
32	2007年	張栩	碁聖	●○○○●●○	高尾紳路	二冠
33	2008年	張栩	二冠	●●○○○●○	井山裕太	八段
34	2009年	井山裕太	八段	●○○○○	張栩	五冠
35	2010年	井山裕太	名人	○○○○	高尾紳路	九段
36	2011年	山下敬吾	本因坊	○●○○●○	井山裕太	二冠
37	2012年	山下敬吾	名人	○●●○○●○	羽根直樹	九段
38	2013年	井山裕太	五冠	●○○○○	山下敬吾	名人
39	2014年	井山裕太	六冠	○●●○○○	河野臨	九段
40	2015年	井山裕太	四冠	○○○○	高尾紳路	天元
41	2016年	高尾紳路	九段	○○○●●●○	井山裕太	七冠
獲得数ランキング
順位	棋士	数
1	趙治勲	9
2	林海峰
小林光一	8
4	井山裕太	5
5	大竹英雄
依田紀基
張栩	4
リーグ戦
旧名人戦リーグ
◎はタイトル獲得者、△は挑戦者か前タイトル保持者。
旧名人リーグ
期														
1	藤沢秀行◎	木谷實	呉清源	藤沢朋斎	橋本宇太郎	島村俊廣	半田道玄	高川格	坂田栄男	宮下秀洋	杉内雅男	岩田達明	橋本昌二	
2	藤沢秀行△	木谷實	呉清源	藤沢朋斎	林有太郎	鈴木越雄	半田道玄	宮本直毅	坂田栄男◎				橋本昌二	
3	藤沢秀行△	木谷實	呉清源	藤沢朋斎	中村勇太郎				坂田栄男◎	宮下秀洋		林海峰	橋本昌二	
4	藤沢秀行	木谷實	呉清源	藤沢朋斎	榊原章二	大平修三		高川格	坂田栄男△			林海峰◎	橋本昌二	
5	藤沢秀行	小林光一		藤沢朋斎	梶原武雄	大平修三	半田道玄	高川格	坂田栄男△	久井敬史	羽根泰正	林海峰◎	橋本昌二	
6	藤沢秀行	小林光一	山部俊郎	藤沢朋斎		大平修三		高川格	坂田栄男△	宮下秀洋	杉内雅男	林海峰◎	橋本昌二	
7	藤沢秀行	小林光一	山部俊郎	藤沢朋斎	窪内秀和	島村俊廣		高川格◎	坂田栄男	久井敬史	羽根泰正	林海峰△	橋本昌二	
8	藤沢秀行	小林光一	前田陳爾	藤沢朋斎	窪内秀和			高川格△	坂田栄男	大竹英雄	羽根泰正	林海峰◎	橋本昌二	加田克司
9	藤沢秀行◎	小林光一	山部俊郎	藤沢朋斎	梶原武雄		本田邦久	高川格	坂田栄男	大竹英雄		林海峰△	橋本昌二	
10	藤沢秀行△	小林光一	佐藤直男	藤沢朋斎	梶原武雄	島村俊廣	本田邦久	高川格		大竹英雄	杉内雅男	林海峰◎		
11	藤沢秀行△	小林光一	工藤紀夫	藤沢朋斎	梶原武雄		本田邦久	高川格		大竹英雄		林海峰◎	石田芳夫	加田克司
12	藤沢秀行	小林光一	山部俊郎	藤沢朋斎	星野紀	島村俊廣				大竹英雄	杉内雅男	林海峰◎	石田芳夫△	加田克司
13	藤沢秀行	小林光一	山部俊郎	藤沢朋斎	橋本宇太郎	岩本薫	本田邦久			大竹英雄	杉内雅男	林海峰△	石田芳夫◎	
14	藤沢秀行	小林光一	山部俊郎	藤沢朋斎	橋本宇太郎				坂田栄男	大竹英雄◎		林海峰	石田芳夫△	加田克司
新名人戦リーグ
最近の名人リーグ。順位は前年リーグ成績が反映された序列(前回のタイトル保持者or挑戦者が1位)。6位までが前回のリーグ残留者。7位3人は予選トーナメント勝者。名人位は前期の名人獲得者。
◎はタイトル挑戦権獲得者。▼はリーグ陥落。Pはプレーオフ。
名人リーグ
-	名人位		1位	2位	3位	4位	5位	6位	7位
1	大竹英雄		石田芳夫 ◎	藤沢秀行▼	坂田栄男	橋本宇太郎	林海峰	山部俊郎▼	窪内秀知	梶原武雄	工藤紀夫▼
2	大竹英雄		石田芳夫	林海峰 ◎	坂田栄男	橋本宇太郎	窪内秀知▼	梶原武雄	加藤正夫	白石裕▼	趙治勲▼
3	林海峰		大竹英雄 ◎	石田芳夫	坂田栄男	加藤正夫 P	橋本宇太郎	梶原武雄▼	工藤紀夫▼	白石裕▼	趙治勲
4	大竹英雄		林海峰	加藤正夫	坂田栄男 ◎	趙治勲	橋本宇太郎	石田芳夫▼	牛之浜撮雄▼	武宮正樹	山城宏▼
5	大竹英雄		坂田栄男	加藤正夫 P	武宮正樹	林海峰	趙治勲 ◎	橋本宇太郎▼	小林光一	羽根泰正▼	山城宏▼
6	趙治勲		大竹英雄 P	加藤正夫 ◎	武宮正樹	林海峰	小林光一	坂田栄男	島村俊廣▼	山部俊郎 ▼	佐藤昌晴▼
7	趙治勲		加藤正夫	大竹英雄 ◎	林海峰	武宮正樹▼	小林光一	坂田栄男	島村俊廣▼	本田邦久▼	羽根泰正
8	趙治勲		大竹英雄 ◎	林海峰	小林光一	坂田栄男	加藤正夫	羽根泰正 ▼	東野弘昭▼	石井邦生 ▼	石田章
9	趙治勲		大竹英雄 ◎	林海峰	加藤正夫	小林光一 P	坂田栄男▼	石田章	橋本昌二 ▼	高木祥一	小林覚 ▼
10	趙治勲		大竹英雄	小林光一 ◎	石田章	高木祥一	林海峰	加藤正夫	大平修三 ▼	山城宏 ▼	依田紀基▼
11	小林光一		趙治勲 P	大竹英雄 ▼	加藤正夫 ◎	石田章	林海峰	高木祥一 ▼	武宮正樹	山城宏	王銘琬 ▼
12	加籐正夫		小林光一	趙治勲	石田章	武宮正樹	林海峰 ◎	山城宏 ▼	藤沢秀行	大竹英雄 ▼	白石裕 ▼
13	加籐正夫		林海峰 P	小林光一 ◎	趙治勲	石田章 ▼	武宮正樹	藤沢秀行	石田芳夫	大平修三 ▼	淡路修三 ▼
14	小林光一		加藤正夫	林海峰 P	趙治勲	藤沢秀行▼	武宮正樹	石田芳夫 ▼	本田邦久	淡路修三 ◎	上村邦夫 ▼
15	小林光一		淡路修三	林海峰	武宮正樹	趙治勲	本田邦久 ▼	加藤正夫 ▼	大竹英雄 ◎	藤沢秀行 ▼	依田紀基
16	小林光一		大竹英雄	武宮正樹	趙治勲	淡路修三  ▼	林海峰 ◎	依田紀基	藤沢秀行	石井邦生 ▼	三村智保 ▼
17	小林光一		林海峰	武宮正樹	趙治勲	依田紀基	藤沢秀行 ▼	大竹英雄 ◎	岩田達明 ▼	淡路修三	小松英樹 ▼
18	小林光一		大竹英雄 ◎	趙治勲	依田紀基	淡路修三 ▼	武宮正樹	林海峰	加藤正夫	宮沢吾朗 ▼	片岡聡 ▼
19	小林光一		大竹英雄▼	趙治勲 P	武宮正樹	依田紀基 ▼	林海峰 ◎	加藤正夫	佐藤昌晴 ▼	淡路修三	片岡聡
20	小林光一		林海峰	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	武宮正樹 ◎	淡路修三 ▼	王立誠	王銘琬 ▼	結城聡 ▼
21	武宮正樹		小林光一	王立誠	趙治勲 ◎	加藤正夫	片岡聡	林海峰	依田紀基 ▼	工藤紀夫 ▼	王銘琬 ▼
22	趙治勲		武宮正樹	王立誠 P	加藤正夫	小林光一 ◎	片岡聡	林海峰 ▼	依田紀基 ▼	柳時熏	楊嘉源 ▼
23	趙治勲		小林光一	王立誠 ◎	片岡聡 ▼	柳時熏	武宮正樹	加藤正夫	依田紀基	林海峰 ▼	東野弘昭 ▼
24	趙治勲		王立誠	加藤正夫	依田紀基 ◎	小林光一 P	柳時熏	武宮正樹	小林覚 ▼	三村智保 ▼	酒井真樹 ▼
25	趙治勲		依田紀基 ◎	小林光一 ▼	柳時熏	王立誠	加藤正夫	武宮正樹 ▼	王銘琬 P	今村善彰▼	羽根直樹
26	依田紀基		趙治勲	王銘琬	王立誠	羽根直樹 ▼	柳時熏	加藤正夫	林海峰 ◎	趙善津	小松英樹 ▼
27	依田紀基		林海峰	趙治勲 ◎	柳時熏	趙善津 ▼	王銘琬	加藤正夫 ▼	王立誠	彦坂直人 ▼	山下敬吾
28	依田紀基		趙治勲	柳時熏 ▼	山下敬吾 ◎	王銘琬	林海峰	王立誠	武宮正樹 ▼	溝上知親 ▼	張栩
29	依田紀基		山下敬吾	林海峰 ▼	張栩 ◎	王立誠 ▼	趙治勲 ▼	王銘琬	小林覚 P	今村俊也	山田規三生
30	張栩		依田紀基	小林覚 ◎	今村俊也	山下敬吾 P	王銘琬 ▼	山田規三生	趙善津 ▼	小県真樹 ▼	坂井秀至
31	張栩		小林覚	山下敬吾	今村俊也 ▼	山田規三生	坂井秀至	依田紀基	高尾紳路 ◎	潘善琪▼	黄翊祖 ▼
32	高尾紳路		張栩 ◎	山下敬吾 ▼	坂井秀至	小林覚	山田規三生	依田紀基	彦坂直人  ▼	三村智保 ▼	黄翊祖
33	張栩		高尾紳路	山田規三生	坂井秀至	小林覚	依田紀基 ▼	黄翊祖 ▼	趙治勲	陳嘉鋭 ▼	井山裕太 ◎
34	張栩		井山裕太 ◎	山田規三生	趙治勲	高尾紳路	坂井秀至	小林覚 ▼	王銘琬 ▼	小県真樹	張豊猷 ▼
35	井山裕太		張栩	山田規三生▼	高尾紳路 ◎	坂井秀至	小県真樹▼	趙治勲	王銘琬 ▼	結城聡	溝上知親
36	井山裕太		高尾紳路	張栩	結城聡	坂井秀至▼	溝上知親	趙治勲▼	山下敬吾 ◎	羽根直樹 P	林漢傑▼
37	山下敬吾		井山裕太 P	羽根直樹 ◎	高尾紳路	張栩	結城聡▼	溝上知親	河野臨	金秀俊▼	内田修平▼
38	山下敬吾		羽根直樹	井山裕太 ◎	河野臨 P	高尾紳路	張栩	溝上知親▼	結城聡▼	坂井秀至▼	村川大介
39	井山裕太		山下敬吾 P	河野臨 ◎	張栩	羽根直樹	高尾紳路	村川大介	結城聡▼	柳時熏▼	黄翊祖▼
40	井山裕太		河野臨	山下敬吾 P	張栩	高尾紳路 ◎	羽根直樹▼	村川大介	蘇耀国▼	黄翊祖	金沢真▼
41	井山裕太		高尾紳路 ◎	山下敬吾	河野臨	張栩	黄翊祖	村川大介	羽根直樹▼	内田修平▼	平田智也▼
42	高尾紳路		井山裕太	村川大介	山下敬吾	張栩	河野臨	黄翊祖	羽根直樹	坂井秀至	余正麒
八強争覇戦
名人戦が読売から朝日に移った1976年に、朝日新聞は臨時棋戦として八強争覇戦を開催した。出場棋士は、前期名人・王座の大竹英雄、本因坊石田芳夫、十段林海峰、天元藤沢秀行、NHK杯坂田栄男、早碁選手権橋本昌二、プロ十傑戦趙治勲のタイトル保持者、及び橋本宇太郎の8名で、トーナメント戦形式で行い、決勝は三番勝負。当時19歳で、前年に最年少タイトル獲得をしていた趙治勲が優勝した。
準々決勝		準決勝		決勝
 	 	 	 	 	 	 	 	 	 
 	 		 	 	
 橋本宇太郎	×
 趙治勲	○	 
 趙治勲	○
 	 林海峰	×	 
 大竹英雄	×
 林海峰	○	 
 趙治勲	2
 	 藤沢秀行	1
 石田芳夫	×
 藤沢秀行	○	 
 藤沢秀行	○
 	 橋本昌二	×	 
 坂田栄男	×
 橋本昌二	○	 
新・名人リーグ経験者
大竹英雄、石田芳夫、藤沢秀行、坂田栄男、橋本宇太郎、林海峯、山部俊郎、窪内秀知、梶原武雄、工藤紀夫、加藤正夫、白石裕、趙治勲、牛之浜撮雄、武宮正樹、山城宏、小林光一、羽根泰正、島村俊廣、佐藤昌晴、本田邦久、東野弘昭、石井邦生、石田章、橋本昌二、高木祥一、小林覚、大平修三、依田紀基、王銘エン、淡路修三、上村邦夫、三村智保、岩田達明、小松英樹、宮沢吾朗、片岡聡、結城聡、柳時熏、楊嘉源、酒井真樹、今村善彰、羽根直樹、趙善津、王立誠、彦坂直人、山下敬吾、溝上知親、張栩、今村俊也、山田規三生、小県真樹、坂井秀至、高尾紳路、潘善琪、黄翊祖、陳嘉鋭、井山裕太、張豊猷、林漢傑、河野臨、金秀俊、内田修平、村川大介、蘇耀国、金沢真、平田智也、余正麒
名人戦の記録、エピソード
最多防衛記録は小林光一の7連覇。
通算最多在位は趙治勲の9期、次いで林海峰、小林光一の8期。
名人リーグ最長在籍は林海峰の35期連続、通算39期(名人在位8期を含む)。
最年少記録は井山裕太の20歳4ヶ月での獲得。
最年長記録は高川格の53歳(挑戦者では坂田栄男・林海峰の59歳)。
1980年の無勝負は、第4局に挑戦者趙治勲が、劫の取り番で無かったにも関わらず、劫を打ち抜いたため。趙は直前に記録係の彦坂直人に、取り番であるか確認をして打ち抜いたため、反則負けではなく立会人裁定により、無勝負となった。またこれにより、記録係は対局者の質問に答えなくてもよいこととなった他、タイトル戦での記録係は2名となった。
1998年の無勝負は、第4局に三劫により無勝負となったもの。タイトル戦初の三劫無勝負である。これにより、規約を改定し4勝で決着から七番勝負で勝ち越しが確定した時点で決着となった[7]
関連項目
囲碁タイトルの在位者一覧
名人戦 (中国囲碁)
名人戦 (台湾)
段級位制
出典
^ 林元美の『爛柯堂棋話』及び『坐隠談叢』
^ 増川宏一『碁』(法政大学出版局)
^ 福井正明著『囲碁古名人全集』の巻末評伝(秋山賢司)
^ 増川宏一『将棋II』(法政大学出版局)
^ 新村出編『広辞苑』第五版 (1998)「名人」
^ 江戸及び明治の名人は『囲碁の文化誌』p148
^ 朝日新聞 名人戦〈囲碁〉
参考文献

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年12月)
高川格『秀格烏鷺うろばなし』日本棋院 1972年
中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店 2003年
藤沢秀行『勝負と芸 わが囲碁の道』岩波書店 1990年
水口藤雄『囲碁の文化誌』日本棋院〈碁スーパーブックス〉 2001年
『囲碁名人戦全記録』1977年–
■
目ハズシ(もくはずし、または目外し)は囲碁用語の一つで、碁盤上の位置を指す言葉。碁盤の隅から数えて(3,5)または(5,3)の地点。布石の極めて初期の段階で、隅の着点として打たれることが多い。
図の黒1の位置を目ハズシと呼ぶ。一つの隅に目ハズシに該当する位置は1とaの2箇所あり、盤上の他の石の配置によって戦略上異なる意味を持つ。
目次 
1	特徴
2	目ハズシの活用方法
2.1	シマリ
2.1.1	小ゲイマジマリ
2.1.2	高ジマリ
2.1.3	トーチカ
2.2	カカリ
2.2.1	小目カカリ
2.2.2	高ガカリ
2.2.3	その他のカカリ
3	目ハズシの戦略
4	目ハズシを得意とする棋士
5	注
特徴
三線と五線の交点であり、打ち手の意図、相手の出方によって実利志向にも勢力志向にも持って行くことが可能である。また大斜定石など難解な変化も内包しており、変幻自在な上級者向けの着点と言える。辺に寄っているため、相手の勢力を牽制するなど戦略的な意図を持って打たれることが多い。
目ハズシの活用方法
小目と同じく1手で隅をすべてを確保したとは言えず、対角線を挟んだ位置にもう1手かけて隅を完全に確保する手(シマリ)に価値が大きく、また相手からすればそれを邪魔する手(カカリ)の価値が大きい。
シマリ
小ゲイマジマリ
aへのシマリが最も一般的であり、小目からの小ゲイマジマリと同形になる。
高ジマリ
勢力を志向する場合黒1またはa,bなどの高いシマリも打たれるが、cなどに打ち込みの隙が残るため特殊な場合に打たれる着点である。
トーチカ
1から3にシマるのは「トーチカ」と呼ばれ、隅を大きく確保できる上に左辺・下辺に強い勢力が及ぶ。1935年の小野田千代太郎-橋本宇太郎戦で現れ[1]、長谷川章が愛用した。ただし近年は一隅に3手かけるのは非効率と見られ、打たれることは少ない。黒3ではaと広くシマることもある。
カカリ
小目カカリ
白がカカるときは1の小目にカカるのが最も一般的である。これに対し黒はaで圧迫して勢力を築く、bの大ゲイマガケで難戦を挑む、c~fなど左辺からハサんで打つなどの対応がある。特にbの大ゲイマガケは極めて変化が多く、「大斜千変」とも呼ばれる難解定石である。
高ガカリ
白1へ高くカカり、隅の実利を譲って打つ行き方もある。黒はaに受けて隅の実利を確保して多くの場合不満はない。bにツケ、下辺に勢力を張る手もある。
その他のカカリ
aの三々は根拠と実利を早目に確保する意図で、周辺に黒石があって戦いになるのを避けようとする時などに有力。bのカカリは呉清源推奨で、簡明に分かれることができる。cは勢力を志向した特殊なカカリ。
目ハズシの戦略
目ハズシはやや特殊な打ち方で、他の隅との関連で戦略性を持って打たれることが多い。
左辺のケースでは、黒1と目ハズシに打つ手段がある。もし白2のカカリなら、まず黒3からカケ、左上隅でも黒7から圧迫して、白を低位に押し込めることができる。白は2の手で3に高ガカリするなど工夫せねばならず、部分的に最も得な小ゲイマガカリを遠慮させたことになる。
右辺では、黒1の目ハズシに打ち、白2のカカリなら黒3がヒラキとハサミを兼ねた好点となる。となれば、白はaなどにカカる手段を選ぶことになり、相手の戦略幅を狭めている。
目ハズシを得意とする棋士
石田芳夫
太田雄蔵
関山仙太夫
注
^ 木谷実『囲碁百年2 新布石興る』平凡社 1968年
■
目ハズシ(もくはずし、または目外し)は囲碁用語の一つで、碁盤上の位置を指す言葉。碁盤の隅から数えて(3,5)または(5,3)の地点。布石の極めて初期の段階で、隅の着点として打たれることが多い。
図の黒1の位置を目ハズシと呼ぶ。一つの隅に目ハズシに該当する位置は1とaの2箇所あり、盤上の他の石の配置によって戦略上異なる意味を持つ。
目次 
1	特徴
2	目ハズシの活用方法
2.1	シマリ
2.1.1	小ゲイマジマリ
2.1.2	高ジマリ
2.1.3	トーチカ
2.2	カカリ
2.2.1	小目カカリ
2.2.2	高ガカリ
2.2.3	その他のカカリ
3	目ハズシの戦略
4	目ハズシを得意とする棋士
5	注
特徴
三線と五線の交点であり、打ち手の意図、相手の出方によって実利志向にも勢力志向にも持って行くことが可能である。また大斜定石など難解な変化も内包しており、変幻自在な上級者向けの着点と言える。辺に寄っているため、相手の勢力を牽制するなど戦略的な意図を持って打たれることが多い。
目ハズシの活用方法
小目と同じく1手で隅をすべてを確保したとは言えず、対角線を挟んだ位置にもう1手かけて隅を完全に確保する手(シマリ)に価値が大きく、また相手からすればそれを邪魔する手(カカリ)の価値が大きい。
シマリ
小ゲイマジマリ
aへのシマリが最も一般的であり、小目からの小ゲイマジマリと同形になる。
高ジマリ
勢力を志向する場合黒1またはa,bなどの高いシマリも打たれるが、cなどに打ち込みの隙が残るため特殊な場合に打たれる着点である。
トーチカ
1から3にシマるのは「トーチカ」と呼ばれ、隅を大きく確保できる上に左辺・下辺に強い勢力が及ぶ。1935年の小野田千代太郎-橋本宇太郎戦で現れ[1]、長谷川章が愛用した。ただし近年は一隅に3手かけるのは非効率と見られ、打たれることは少ない。黒3ではaと広くシマることもある。
カカリ
小目カカリ
白がカカるときは1の小目にカカるのが最も一般的である。これに対し黒はaで圧迫して勢力を築く、bの大ゲイマガケで難戦を挑む、c~fなど左辺からハサんで打つなどの対応がある。特にbの大ゲイマガケは極めて変化が多く、「大斜千変」とも呼ばれる難解定石である。
高ガカリ
白1へ高くカカり、隅の実利を譲って打つ行き方もある。黒はaに受けて隅の実利を確保して多くの場合不満はない。bにツケ、下辺に勢力を張る手もある。
その他のカカリ
aの三々は根拠と実利を早目に確保する意図で、周辺に黒石があって戦いになるのを避けようとする時などに有力。bのカカリは呉清源推奨で、簡明に分かれることができる。cは勢力を志向した特殊なカカリ。
目ハズシの戦略
目ハズシはやや特殊な打ち方で、他の隅との関連で戦略性を持って打たれることが多い。
左辺のケースでは、黒1と目ハズシに打つ手段がある。もし白2のカカリなら、まず黒3からカケ、左上隅でも黒7から圧迫して、白を低位に押し込めることができる。白は2の手で3に高ガカリするなど工夫せねばならず、部分的に最も得な小ゲイマガカリを遠慮させたことになる。
右辺では、黒1の目ハズシに打ち、白2のカカリなら黒3がヒラキとハサミを兼ねた好点となる。となれば、白はaなどにカカる手段を選ぶことになり、相手の戦略幅を狭めている。
目ハズシを得意とする棋士
石田芳夫
太田雄蔵
関山仙太夫
注
^ 木谷実『囲碁百年2 新布石興る』平凡社 1968年
■
持ち時間(もちじかん)とは、将棋、囲碁などのボードゲームをする際にあらかじめ定められた対局に使用できる時間限度のこと。持ち時間を使い切った対局者は負けとなる。対局両当事者に同じ持ち時間を定めることで公平を保ち、ゲームの途中放棄や故意の遅滞による相手への嫌がらせを排除する目的で設定される。
目次 
1	持ち時間設定
1.1	指し切り
1.2	秒読み
1.3	フィッシャーモード
2	将棋
2.1	消費時間の計測
2.2	各棋戦の持ち時間
2.3	歴史
2.4	指し直し局の持時間
3	囲碁
3.1	棋戦ごとの持ち時間
3.2	歴史
4	チェス
5	持ち時間と戦略
6	脚注
7	参考文献
8	関連項目
持ち時間設定
指し切り
あらかじめ定めた持ち時間を過ぎると即時間切れとなる設定。制限時間がくると、無情に対局時計の旗が落ちる様子からギロチンとも呼ばれる。最も単純な方式で、対局時間もあらかじめ定めた時間よりも延長しないこと、どのような対局時計でも対応していることから、アマチュアの大会や早指し、練習対局などで主に採用される。
シビアで緊張感がある一方、時間切れ間際での棋譜のレベル低下や盤上の勝負と無関係な時間切れによる決着、終盤時間に追われた対局者による局面の乱雑化(駒や石の位置が正確に分からなくなる)や対局時計を叩きあう見苦しい状況などが起こりうるため、プロによる公式な大会ではほとんど採用されない。
秒読み
囲碁や将棋で主に行われる設定。持ち時間を使い終わった後も一定時間内に指し(打ち)続ければ時間切れにはならないという方式で、時計係が秒数をカウントすることから「秒読み」と呼ばれる。すでに盤上でほぼ勝負がついている場合、次の手にほとんど時間をとる必要はないため、秒読みを採用することで「勝負に勝って試合で負ける」ような事態を避けることができる。
指し切りの問題点を解消できる代わりに、採用するには時計係や秒読みに対応したデジタル式の対局時計が必要となる。 加えて、対局終了の時間が定まらず、延々と続く可能性があるため、アマチュアの大会では進行の遅延を招くとして敬遠されがちである(決勝や準決勝など上位対局にのみ採用されるケースもある)。
フィッシャーモード
あらかじめ定められた持ち時間に加え、一手ごとに決められた時間が加算されていく設定。加算時間より早く次の手を指すと、残りの加算時間分持ち時間が増える点で秒読みと異なる。考案者であるボビー・フィッシャーからフィッシャーモード(Fischer mode)と呼ばれる。
秒読みと同様、指しきり方式の問題点を解消した方式だが、対応したチェスクロックを必要とする。また、設定によっては持ち時間が増え続けるという事態も起こりうるが、チェスは将棋などに比べると一局が短いので、あまり弊害がない。また、公式な競技会で採用されるため、チェスクロックにはフィッシャーモードへの切り替えができる物もある。
2016年に行われた第26回世界コンピュータ将棋選手権はフィッシャーモードが採用された。
将棋
消費時間の計測
1分未満切り捨ての計時
プロ将棋の対局では多くの場合、記録係によりストップウォッチで計時され、実際に消費した時間から1分未満の部分を切り捨てたものが消費時間として記録される。持ち時間の最後の1分は使い切らずに残して指す必要があり、残り1分になってからは1手1分未満で指し続ける「1分将棋」となる。
対局では終局までにほとんどの棋士が持ち時間をほぼ使い切るが、展開によっては持ち時間をほとんど使わずに対局が終了することがあり、中には終局まで1手1分未満で指し続けて「自分の持ち時間を1分も使わずに勝利する」といった例も存在する。公式戦で記録が残っているものとしては、過去に関屋喜代作、灘蓮照、大平武洋[1]の3人が達成している。
対局時計による計時
テレビ棋戦など持ち時間の短い棋戦では、計時に対局時計(チェスクロック)が用いられる。対局時計使用の対局では消費時間が秒単位で計測され、持ち時間を使い切るとそこから「1分将棋」や「30秒将棋」などになる。チェスクロックの操作はプロ棋戦では記録係が行い、アマチュアの大会では対局者自身が行うことが多い。アマチュアの大会では、持ち時間を使い切った時点で負けとする(「切れ負け」という)ルールもある。1秒未満の消費時間は通常切り捨てとなるが、コンピュータ将棋では1手1秒未満で着手することが可能なため、「1手につき最低1秒は必ず消費する」ルールを採用する場合がある[2]。
テレビ棋戦の銀河戦・NHK杯、および公開対局を行う日本シリーズ・達人戦(達人戦は決勝のみ)では、持ち時間を使い切った後は原則として1手30秒未満で指さなくてはならない。ただし、これらの棋戦では、規定の回数を限度として、1手に考える時間を30秒以上に延長することができる。この延長時間のことを考慮時間という。前記のいずれの棋戦も考慮時間は1分単位と規定されているが、1手に2回以上の考慮時間を連続して使ってもよい。たとえば、考慮時間を1回使えば1手に1分30秒考えることができ、3回連続で考慮時間を使えば1手に3分30秒考えることができる。なお、考慮時間を使用するか否かを対局者自身が宣言する必要はなく、対局者が指さないまま考慮時間に入った時点で記録係がその旨を告げる。
遅刻の取り扱い
日本将棋連盟の対局規定によれば、対局に遅刻をした場合、遅刻をした時間の3倍の時間、即ち10分遅刻なら30分、30分遅刻なら1時間半を持ち時間から差し引くことになっている。差し引かれる時間がその対局の持ち時間を上回った場合、あるいは1時間以上遅刻した場合[3]は不戦敗となる。
なお対局者の一方が意図的なボイコットを事前に宣言している場合も運用上は遅刻扱いとなるため、対局の持ち時間が切れるまで不戦敗は確定しない(具体例として、2013年1月のマイナビ女子オープン準決勝・里見香奈対石橋幸緒戦などがある[4])。
各棋戦の持ち時間
下表では、チェスクロック方式の対局で持ち時間を使い切った後に1手1分未満で指し続ける「1分将棋」に★印、1手30秒未満の「30秒将棋」に☆印、1手40秒未満の「40秒将棋」に(40)を付している。色付きはタイトル戦である。
棋戦	挑戦手合	本戦	予選
竜王戦	8時間(2日制、七番勝負)	5時間(挑戦者決定三番勝負、決勝トーナメント)	5時間(ランキング戦)
3時間★(残留決定戦)
名人戦
順位戦	2016年度から	9時間(2日制、七番勝負)	6時間(順位戦A級・B級1組)
6時間★(順位戦B級2組以下)
2015年度まで	6時間(順位戦)
王位戦	8時間(2日制、七番勝負)	4時間(挑戦者決定戦、紅白リーグ、予選)
王座戦	5時間(1日制、五番勝負)	5時間(挑戦者決定トーナメント、二次予選、一次予選)
棋王戦	4時間(1日制、五番勝負)	4時間(挑戦者決定二番勝負、挑戦者決定トーナメント、予選)
王将戦	8時間(2日制、七番勝負)	4時間(挑戦者決定リーグ)	3時間(二次予選、一次予選)
棋聖戦	2010年度から	4時間(1日制、五番勝負)	4時間(挑戦者決定トーナメント)	3時間(二次予選)
1時間★(一次予選)
2009年度まで	3時間(最終予選、二次予選、一次予選)
棋戦	本戦(決勝)	本戦(準決勝まで)	予選
叡王戦	5時間★(三番勝負)	1時間★
朝日杯オープン戦	40分★(本戦トーナメント、二次予選、一次予選)
銀河戦	15分☆(考慮時間10回)(決勝トーナメント、本戦トーナメント)	25分☆
NHK杯	2011年度から	10分☆(考慮時間10回)(本戦トーナメント)	20分☆
2010年度まで	15分☆(考慮時間10回)(本戦トーナメント)
日本シリーズ	10分☆(考慮時間5回)	-
新人王戦	2006年度から	3時間(三番勝負)	3時間	-
2005年度まで	5時間(三番勝負)	4時間	1時間(奨励会予選)
上州YAMADAチャレンジ杯	20分☆	-
加古川青流戦	1時間☆(三番勝負)	1時間☆	-
女流棋戦	挑戦手合	本戦	予選
マイナビ女子オープン	3時間★	(1日制、五番勝負)	3時間★	40分★(トーナメント)
30分☆(予備予選)
女流王座戦	3時間	(1日制、五番勝負)	3時間(トーナメント)	3時間★(二次予選)
40分★(一次予選)
15分☆(アマチュア予選)
女流名人戦	3時間	(1日制、五番勝負)	2時間(女流名人リーグ、予選)
女流王位戦	4時間	(1日制、五番勝負)	3時間(挑戦者決定戦、紅白リーグ)	2時間
女流王将戦	2009年度から	25分(40)	(1日制、三番勝負)	25分(40)(本戦、予選)※2009年度は予選なし(選抜)
2008年度まで	3時間	(1日制、五番勝負)	2時間(本戦、予選)
倉敷藤花戦	2時間★	(1日制、三番勝負)	2時間★(トーナメント)
女流棋戦	本戦(決勝)	本戦(準決勝まで)	予選
女子将棋YAMADAチャレンジ杯	2016年度から	20分☆	-
2015年度まで	10分☆	30分☆
歴史
昭和の初めまでは、持ち時間制は採用されていなかった模様である[5]。
かつては非常に長い持ち時間の棋戦も多く、最初のタイトル戦である名人戦では、持ち時間15時間の3日制を採用していた。また、「南禅寺の決戦」として知られる阪田三吉と木村義雄の対局では、持ち時間を30時間と設定し、7日間にわたる対局となっている。
21世紀に入ってから持ち時間が短縮された例がある。2005年に新人王戦の持ち時間が4時間から3時間になった。2007年には朝日オープン将棋選手権が朝日杯将棋オープン戦に移行された際、持ち時間が3時間(1分未満は切り捨て)から40分(対局時計使用)に大きく短縮されている。2009年には棋聖戦の一次予選の持ち時間が1時間(対局時計使用)に短縮されている。
指し直し局の持時間
日本将棋連盟の対局規定では、千日手や持将棋の成立による指し直し局の持時間は成立時の残り時間を引き継ぐものと定められている。なお対局者のどちらか一方または双方の残り時間が1時間未満(タイトル戦の挑戦手合では2時間未満)であった場合は、残り時間が少ない方の対局者の持時間が1時間(タイトル戦の挑戦手合では2時間)となるように両対局者の持時間に同じ時間を加算する。ただし本来の持時間を超えて加算されることはない。再度指し直しとなった場合も同様の措置を採る。
また早指し棋戦等、持時間が1時間以下の棋戦の指し直し局の持時間の扱いについては棋戦ごとの実行規定に定められている。
囲碁
基本的には将棋と同じ。ただし、記録係が消費時間を計測する場合で、対局時計を使わない場合において違いが生じてくる。
この場合、記録係は消費時間の記録のために通常の小型の時計(腕時計など)を用い、その分針の位置で消費時間を計測する。そのため、次のような状況が起こる。
ある局面から、たまたま双方が1手ごとに50秒ずつ使って6手進めたとする。
説明の都合上ある局面になった(すなわち直前の手が打たれた)のが午前11時きっかりとし、次の手番を黒とする。すると、
一手目:時計は11時00分(50秒)を指しているので黒に消費時間は記録されない。
二手目:時計は11時01分(40秒)を指しているので白に消費時間1分が記録される。
三手目:時計は11時02分(30秒)を指しているので黒に消費時間1分が記録される。
四手目:時計は11時03分(20秒)を指しているので白に消費時間1分が記録される。
五手目:時計は11時04分(10秒)を指しているので黒に消費時間1分が記録される。
六手目:時計は11時05分(00秒)を指しているので白に消費時間1分が記録される。
結果、黒に消費時間2分、白に消費時間3分が記録されることになる。
これに対し将棋ではすべての手に対して消費時間は0と記録され、結果双方とも消費時間は0である。
なお、残り時間が逼迫して秒読みが始まっている場合は適用されない。
棋戦ごとの持ち時間
(日本の最新の棋戦に限る)
棋戦名	番勝負	本戦	予選
棋聖戦	8時間(2日制)	5時間(リーグ戦)	5時間(最終予選)
3時間(予選A・B・C)
名人戦	8時間(2日制)	5時間(リーグ戦)	5時間(最終予選)
3時間(予選A・B・C)
本因坊戦	8時間(2日制)	5時間(リーグ戦)	5時間(最終予選)
3時間(予選A・B・C)
十段戦	3時間(1日制)	3時間	3時間
天元	3時間(1日制)	3時間	3時間
王座戦	3時間(1日制)	3時間	3時間
碁聖	3時間(1日制)	3時間	3時間
NECカップ	 	10分	 
阿含桐山杯	1時間30分(決勝)	2時間	1時間
新人王戦	3時間	3時間	3時間
王冠戦	4時間	4時間	3時間
NHK杯	 	初手から1手30秒
1分×10回の考慮時間	 
竜星戦	 	初手から1手30秒
1分×10回の考慮時間	1時間
歴史
対局に持ち時間制を設けたのは1922年(大正11年)に設立された裨聖会で、当時盛んになり出した労働運動で8時間労働が唱えられていたことを参考に、1日各8時間で二日打切りとして、持ち時間を各16時間とした。その後、1924年に設立された日本棋院の棋戦では持ち時間制は無く、棋戦によっては16時間、15時間、13時間などが用いられるが、これらは実際は二日では終わらず三日がかりの対局だった。1937年に行われた本因坊引退碁挑戦者決定リーグ戦では各12時間、同年から開始された第1期本因坊戦では各11時間、決勝六番勝負が13時間となった。本因坊戦は1953年の第8期から、挑戦手合は各10時間二日打切りとなる。1954年開始の早碁名人戦では各4時間が採用されるなど、持ち時間短縮の傾向が進む。1988年開始の世界囲碁選手権富士通杯では各3時間となり、世界戦や中国、韓国などの棋戦では3時間が主流となった。さらに2010年アジア競技大会では各1時間となるなど、スポーツとしての時間短縮化も進んでいる。
チェス

FIDEの認定マークが付いた対局時計
チェスでは19世紀中ごろから持ち時間の制限が始まり、はじめ砂時計が、続いてストップウォッチが、1880年代からは現代と同じ対局時計(チェスクロック)が使われた。主要国際大会の持ち時間は戦前は「30手2時間、そこで指しかけの後15手につき1時間ずつ延長」が多かった。戦後は「40手2時間半、16手につき1時間ずつ延長」となり、さらに「40手2時間、20手につき1時間ずつ延長」と短縮された。
1990年代にはボビー・フィッシャーが1手ずつ持ち時間を追加する「フィッシャーモード」を提唱、1992年の対ボリス・スパスキー戦で初めて使用し、この方式は急速に普及した。このため現代のチェスクロックの上位機種は必ずデジタル式で、フィッシャーモードでの追加時間を1秒単位で設定できることが必須となる。FIDE公式の競技会で使用が許可されている、認定チェスクロックなども販売されている。
1990年代後半になるとコンピュータ解析の発達によって指しかけも廃止され、「40手2時間、41手目に1時間追加、61手目に30分追加(計3時間半)」を一気に行なう「7時間セッション」と呼ばれる方式が定着した。またこれにフィッシャーモードを加える場合も多い。
世界選手権などFIDEの主要大会でも同じであったが、FIDEは2000年から「90分、初手から1手につき30秒追加」、つまり一人あたり平均2時間弱という短い持ち時間(「FIDE持ち時間」などと呼ばれる)を主要な公式大会で適用した。しかし伝統的なやり方に拘る地域では不評で、2008年からは41手目に30分を加えることにしたが、まだ一人あたり2時間半弱である。この間もずっとクラシカルの世界選手権マッチ、主要招待大会、伝統的なクラブ対抗戦などは7時間セッションで行われていた。また非公式の競技会などでは、事情に合わせて持ち時間を短縮することも多い。
2016年現在、世界チェス選手権大会などでは「40手120分、41手目に60分追加、61手目に15分追加、さらに61手目以降は1手につき30秒追加」の方式となっており7時間セッションに近い持ち時間に戻った。[6]
持ち時間と戦略
持ち時間が足りなくなってくると、対局者の思考は時間不足や焦りなどからしばしば乱れ、それによって勝敗が逆転してしまうケースは、プロ同士であっても珍しくない。考え出せばキリがない局面では時間を使わずに局面の知識や勘で着手し、時間を使えば優位を得ることができそうな局面や勝負所でのみ時間を投入するというような時間配分戦略も、持ち時間ありの対局では必要になることがある。
また、相手方が自身の着手を考えている時間にも自身の着手を考えておくことや、秒読みにおいては自身の着手が決まってもギリギリまで着手せずに先を読むことも、時間節約のために有用な技術である。
秒読み対局では、相手に特定の応手を強制する着手で考慮する時間をキープする「時間つなぎ」も、しばしば行われる。 ただし、ほんのわずかな局面のずれが勝敗に直結する将棋・チェスでは無意味な時間つなぎが即負けにつながるケースが多く、めったなことでは行えない(千日手になる状態を利用することで、局面に影響させず行うことは可能)。囲碁では比較的時間つなぎのリスクは少ないが、コウ材を使ってしまうために不利をもたらす可能性がある。
他方で、あえて時間を使い切り、自身を秒読みに追い込むことで集中力を保つことができるという面もあり、各人にあった時間戦略が必要となる。
ただし、特に囲碁において相手方の持ち時間を切らせるために故意に終局に同意しない行為はマナー違反とされている。大会によっては審判権限で形勢判断の上で時間切れの側に勝ちを認めるなどの対応がとられるケースもあり、持ち時間戦略にも節度が求められている。
脚注
^ 大平のケース(2005年3月18日・竜王戦昇級者決定戦1回戦・対児玉孝一戦)は、埼玉で行われたZONEのコンサートに、対局場の大阪から駆けつけるためであったことで有名であり、「トリビアの泉」(2006年6月7日放送)でも紹介された。
^ 世界コンピュータ将棋選手権 大会ルール 第22条1項
^ 田丸の勝率、里見香奈女流四冠へのコメントと遅刻の罰則規定について - 田丸昇、2013年9月2日(2014年5月28日閲覧)。
^ 女流将棋界で対局ボイコット騒動 プロ資格巡り対立 - 日本経済新聞・2013年1月30日
^ 『近代将棋』連載の「名人義雄」によると、日本将棋連盟設立前の対局である、1921年の木村義雄四段対金子金五郎四段(段位は当時)戦では持ち時間は設定されておらず、3日間の長丁場の戦いとなっている。
^ 04. Rules & Regulations for the FIDE World Championship Match (FWCM) 2016
参考文献
井口昭夫『本因坊名勝負物語』三一書房 1995年
関連項目
長考
早指し
封じ手
対局時計
■
模様(もよう)は囲碁用語の一つで、大きな地になりうる可能性のある勢力圏のことを指す。多くの場合、隅から辺、中央へ広がるものを呼ぶ。カタカナで「モヨウ」と表記されることもある。
例えば下図では、右辺一帯が黒の「模様」である。黒模様はaなどへの侵入、bなどへの消しの余地があって完全な地ではなくこの先の展開によっては目減りすることも有り得るが、一方でcなどに打てばさらにスケールを拡大し、より大きな利得に成り得る。
このような性質のため、確定地は価値が変動することがない「現金」、模様は状況によって価値が変動する「株式などの投資」にたとえられることがある。
多くの場合、模様を築くには相手に実利を譲る必要がある。棋士の棋風は、先に実利を取りに行くタイプと、相手に地を与えて模様を張るタイプに大別することができる。模様を張るためには、隅の着点を星や高目など位の高い位置に打つことが多い。模様を築くことを目的とした布石としては、三連星などが代表的である。
模様は確定地ではないため、相手から打ち込みを受けて荒らされる可能性を残している。この侵入してきた相手の石を攻めて利得を図るのも、模様を張る目的の一つである。また、ほぼ確定地に近いような固まった模様を「地模様」と呼ぶことがある。
大模様
スケールの大きな模様を「大模様」と呼ぶことがある。明確な基準はないが、盤面全体にわたるようなサイズのものを指す。下図は、模様派の棋士として知られる武宮正樹(黒)による大模様の一例。
模様の接点
たとえば上図で黒1の点に打てば、下辺の黒模様を盛り上げ、左辺から上辺の白模様を削減できる。逆に白が1の点に先着すると、白模様が大きく拡大して黒模様の規模が小さくなる。このように、互いの模様の接点は価値が大きく、しばしば必争点となる。
参考文献
「進化する三連星」武宮正樹著 河出書房新社
「大模様の攻防」李昌鎬著 棋苑図書
■
通信対局 囲碁道場2700問
ジャンル	囲碁
対応機種	Wii(Wiiウェア)
開発元	スパイスゲームズ、ランカース
発売元	任天堂
人数	1 - 2人
発売日	2008年8月5日
デバイス	Wiiリモコン
その他	ニンテンドーWi-Fiコネクション対応
テンプレートを表示
『通信対局 囲碁道場2700問』(つうしんたいきょく いごどうじょう2700もん)は、2008年8月5日よりWiiウェアでダウンロード販売開始された任天堂初のコンピュータ囲碁ソフトである。『通信対局』シリーズ第2弾。
目次 
1	概要
2	備考
3	関連項目
4	外部リンク
概要
対局(19路盤・13路盤・9路盤)はオフライン、オンライン(ニンテンドーWi-Fiコネクションを利用)、初心者向けにコンピュータとの練習対局がある。棋譜データの保存により、対局の中断・再開(ただし、オンライン対局では再開時の相手はコンピュータになる)や打ち筋の研究が可能。オンラインはフレンド登録した相手のほか、初級・中級・上級とレベルを自己申告することで相手を募集、対局履歴によりマッチングの精度が上がっていく。
ほかにも囲碁講座(初級・上級)、定石集が収録されている(問題・解説はケイティアンドワイズのWindows用ソフト「囲碁塾」「棋力アップシリーズ」「お気軽囲碁対局IV」のものを使用)。
備考
「任天堂が囲碁ゲームを出す際は、ゲームのCPU(思考ルーチン)が山内溥と勝負し、それに勝たなければならない」という暗黙のルールがあり、このゲームが発売されるまで、任天堂は一度も囲碁ゲームを発売したことが無い。
関連項目
通信対局 早指将棋三段
通信対局 ワールドチェス
外部リンク
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八百長(やおちょう)とは、相撲や各種の競技などで、一方が前もって負ける約束をしておいて、うわべだけの勝負をすること[1]。
	ウィクショナリーに八百長の項目があります。
目次 
1	概説
2	由来
3	隠語
4	主な事件・疑惑
4.1	関係者が処分された例
4.1.1	日本
4.1.2	日本国外
4.2	後日になって八百長を持ちかけられていたと告白した例
5	大相撲
5.1	主な疑惑
5.2	諸事情
5.3	告発について
6	音楽コンクール
7	注釈
8	脚注
9	参考文献
10	関連項目
11	外部リンク
概説
選手、審判およびその家族や関係者を脅し(または人質を取り)、わざと敗退を強要する場合もあれば、選手に金品などの利益を供与し、便宜を図って行われる場合もある。
勝負事においては競技の如何を問わず、常にブックメーカーや暗黒街の暴力団、マフィアの主導による非合法の賭博が絡むなどの現実的側面が付きまとっているため、公営ギャンブル対象競技はもちろん、公営ギャンブル対象ではない他の競技でも組織の内部規定によって永久追放・出場停止・降格など厳しく処分される。
なお、複数の選手が同時に参加する個人競技において、同じチームメイトが複数人参加している場合はチーム側の意向で参加選手の前後位置を入れ替える例(モータースポーツのチームオーダー)や、自身の好記録を目標とせずに仲間の走行を容易にするためにペース作りや風除けなどでサポートする例(自転車ロードレース競技のアシスト・陸上競技のペースメーカー・競馬のラビット)がある。これらの行為は個人競技において「個人の上位進出を目指さず、故意に敗退すること」を前提としているため、スポーツマンシップに反するとしてかつてはタブー視されたり明文ルールで禁止された事例もあるが、現在は日本競馬のラビットを除き事実上黙認されている。
日本においては公営競技(競馬・競輪・競艇・オートレース)やJリーグなど、「合法的な賭博」の対象となる競技は競馬法第32条の2〜第32条の4・自転車競技法第60条〜第63条・小型自動車競走法第65条〜第68条・モーターボート競走法第72条〜第75条・スポーツ振興投票実施法第37条〜第40条で選手などに対し八百長などの不正行為に対する刑事罰が規定されている。
また賄賂でなくても選手が金銭的利益のために競走について他人に得させるために全力を出さない状況にしないため、競馬法第29条・自転車競技法第10条・小型自動車競走法第14条・モーターボート競走法第10条・スポーツ振興投票実施法第10条で選手などが投票券を購入や譲り受けをすることについて刑事罰が規定されている。また競輪・オートレースや競艇では競技場への選手による携帯電話の持ち込みを禁止し、違反者は長期間の出場停止や選手資格の剥奪など処罰の対象になる[2]。
さらに競馬では競馬法第31条で自己が財産上の利益を得なくても、「一時的に馬の競走能力を減ずる薬品などを使用した者」や「(競走について他人に得させるため)競走において馬の全能力を発揮させなかった騎手」に対する刑事罰が規定されている。陸上競技のペースメーカーに類似した競馬のラビットは、刑事罰を規定した競馬法第31条の条文「他人に得させるため競走において馬の全能力を発揮させなかった騎手」に解釈次第によっては該当する可能性がある。
公営競技とJリーグを除く勝負事の八百長を刑事罰に規定する直接の法律はない[3]が、闇社会による賭博が絡む場合、賭博罪や詐欺罪の対象となる可能性がある[3]。また懸賞金がからむ勝負事での八百長については懸賞金を出す者に対する詐欺罪、勝負事を業務とすることができれば偽計業務妨害罪の適用可能性がある[3]。
八百長に伴う金銭の授受があった場合は、課税上の問題として現金を受け取った側に贈与税や雑所得としての所得税の課税対象になる可能性があるが、小額の場合は資産蓄積や対価性認定の問題もある[3]。
由来
八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべえ)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。
しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。
2002年に発刊された日本相撲協会監修の『相撲大事典』の八百長の項目では、おおむね上記の通りで書かれているが、異説として長兵衛は囲碁ではなく花相撲に参加して親戚一同の前でわざと勝たせてもらった事を挙げているが、どちらも伝承で真偽は不明としており、「呑込八百長」とも言われたと記述されている。
1901年10月4日付の読売新聞では、「八百長」とは、もと八百屋で水茶屋「島屋」を営んでいた斎藤長吉のことであるとしている。
隠語
大相撲の隠語で、八百長は「注射」と呼ばれ、逆の真剣勝負は「ガチンコ」と呼ばれる。
対戦者の一方のみ敗退行為[4]を行う場合は「片八百長」「片八百」と呼ばれることがある。
主な事件・疑惑
関係者が処分された例
日本
山岡事件(競馬)[† 1]。
黒い霧事件(オートレース、日本プロ野球)[† 2]。
新潟事件(競馬)
大相撲八百長問題(大相撲、日本相撲協会)
日本国外
ブラックソックス事件(メジャーリーグ)
エスケープ事件(競馬)
シンガポール事件(F1世界選手権)
2011年発覚イギリス競馬八百長事件(競馬)
黒米事件(台湾プロ野球)
2009年欧州サッカー八百長疑惑事件(2009 European football betting scandal)
Kリーグ八百長事件
ギリシャにおけるプロサッカースキャンダル
Vリーグ八百長事件
NBA八百長事件(プロバスケットボール、審判による八百長)
男子プロテニス八百長事件[† 3][5][6]
カルチョ・スキャンダル(イタリアサッカーセリエA)
オリンピック・マルセイユの八百長スキャンダル(フランス)
韓国プロ野球八百長事件
クラッシュゲート(F1)
後日になって八百長を持ちかけられていたと告白した例
1973年10月20日中日対阪神戦(セ・リーグペナントレース)[† 4][7][8]。
2006年FIFAワールドカップ一次リーグ チェコ対ガーナ戦[9]
大相撲
そもそも日本相撲協会は、八百長の概念すら認めておらず、2011年の大相撲八百長問題においても「故意による無気力相撲」という表現を用いるにとどまっている。故意による無気力相撲の定義は「怪我や病気をしたままで場所に出ること」としている(週刊現代との訴訟における、当時の理事長北の湖の発言による)。
主な疑惑
1963年9月場所千秋楽:柏戸剛 - 大鵬幸喜
4場所連続休場中だった横綱・柏戸が勝って全勝優勝を決めたが、場所後石原慎太郎がスポーツ紙上の手記でこの一番を八百長として糾弾。日本相撲協会の告訴にまで発展したがのちに和解。
1972年3月場所12日目:前の山太郎 - 琴櫻傑將
同年1月場所を休場した大関・前の山は角番の3月場所も苦戦、11日目を終わって5勝6敗だった。大関同士の琴桜との対戦で前の山が勝ったが、監察委員会より無気力相撲ではないかとの注意を受け、前の山は翌日から休場、大関から陥落した。
1980年-1999年、週刊ポストによる八百長報道
1980年、元十両四季の花範雄によって現役時代に金銭の絡む八百長の仲介者として働かされたことが暴露された。この証言に対して賛同するように、元前頭禊鳳英二、元十両八竜信定、元幕下谷ノ海太一が八百長を証言した。その後、元立行司木村庄之助 (26代)、元序二段大ノ花、元序二段戸山、元三段目富士昇(元大関北天佑の弟)が八百長を証言した。
1988年、元横綱双羽黒光司の元付け人上山進によって現役時代に金銭の絡む八百長の仲介者として働かされたことが暴露された。
1996年、元関脇高鐵山孝之進によって現役時代における金銭の絡む八百長が暴露された。
1996年、元小結板井圭介の元付け人(匿名)によって現役時代に金銭の絡む八百長の仲介者として働かされたことが暴露された。
1997年、当時の現役横綱曙太郎の元付け人高見旺によって現役時代に八百長の仲介者として働かされたことが暴露された。
1999年、「千代大海の大関昇進の裏に九重親方の八百長工作があった」と報じられ[10]、「引退のかかった若乃花に琴錦が800万円で持ち掛けたが断られた」と報じられた[11]。
1988年3月場所-11月場所:千代の富士貢の53連勝による八百長疑惑
このときの千代の富士に53連勝の際には、板井圭介と師匠である当時の大鳴戸親方がそのうち約6割を八百長であると告発。
1991年の出場停止処分を含む規定改定後の厳重注意
当時の二子山理事長により、1992年1月場所から敢闘精神に欠ける相撲をした者に3日の出場停止処分をすることが発表される(ただし、八百長という言葉は用いていない)。以下、敢闘精神が見られないとして厳重注意を受けた例があるが、実際に出場停止処分を受けた者は今日に至るまでいない。
1992年1月場所14日目:琴の若實哉-巴富士俊英
1992年1月場所14日目:日立龍栄一-時津洋宏典
1992年3月場所6日目:武蔵丸光洋(相手の小錦八十吉は対象外)
この間10年以上無気力相撲による厳重注意者が出なかった時期がある。
2004年1月場所12日目:増健亘志-濱錦竜郎
2008年11月場所4日目:保志光信一(相手の若天狼啓介は対象外)
2009年5月場所千秋楽:千代大海龍二-把瑠都凱斗
1995年11月場所千秋楽の八百長疑惑
11月場所は実の兄弟である横綱・貴乃花と大関・若乃花が他の力士に星2つの差をつけ千秋楽へ突入。優勝決定戦で若貴対決が観られるのではないかと思われた。[12][13]本割において両者ともに敗れたため史上初の兄弟力士での優勝決定戦になった。前場所まで4連覇中だった横綱・貴乃花が四つに組んだ後これといった攻めもなく下手ひねりに敗れる。この取り組みは社会的な注目を集めたが、弟である貴乃花に対しては、八百長とはいわないまでもやはり勝負に徹しきれない心理もあったのではないかという見方は当時から強かったため問題視されることはなかった。しかし、貴乃花が引退後にこれをふりかえって「やりにくかった」と発言、八百長を認めたとの誤解を招いて問題化した。この後、一部報道では決定戦の前夜、両者の師匠であり実父である二子山親方が宿舎の貴乃花の自室を訪ね、「光司、明日は分かっているだろうな」と、暗に優勝を譲ることを求めたとされた。また本割で若乃花が敗れたため、貴乃花-武蔵丸戦を前に二子山親方が再度「分かっているだろうな」と念を入れ、兄弟対決をアシストさせたとも報じた[14]。横綱に昇進し、順調に優勝を重ねる貴乃花に対し、初優勝から2年半以上遠ざかっていた兄である若乃花に実父である二子山が特別な感情を持っていたであろうということは、多くの関係者が証言している。
2000年1月21日、日本外国特派員協会での講演:板井圭介
元小結・板井圭介が現役時代の八百長を認め、八百長にかかわった横綱・曙太郎以下20名の力士の実名を公表した。協会は板井に謝罪を求める書面を送付したが、最終的に「板井発言に信憑性はなく、八百長は存在しない。しかし板井氏を告訴もしない」という形でこの問題を決着させた。
2005年-2007年、朝青龍明徳の連続優勝に関して
2007年1月発売の『週刊現代』「横綱・朝青龍の八百長を告発する」という記事において、朝青龍が白星を80万円で買っていたのではないかという疑惑が浮上。15回の優勝のうち、実に11回分の優勝は朝青龍が金で買ったものだとした。この報道に対し朝青龍は疑惑を完全否定。日本相撲協会は、八百長にかかわったとされる力士全員に事情聴取をしたが、全員が否定した。2007年2月8日に相撲協会は、週刊現代発行元の講談社と記事のライターである武田頼政に対して民事訴訟を起こした。ただし、旭天鵬勝の付き人旭天山武が東西の支度部屋を行き来し談笑するなど、周囲から公正性を疑われるような行為が協会にあったこともまた事実である。
同年5月に『週刊現代』は、2006年名古屋場所の千秋楽で、綱取りのかかった大関白鵬翔の師匠(当時)である宮城野が、朝青龍から300万円で星を買ったという旨の証拠音声を入手したと報道、同誌のウェブサイトでその音声の前半部を公開している。これに対し、宮城野は事実無根と否定した。日本相撲協会は、7月9日、『週刊現代』の発行元である講談社や武田らを刑事告訴したと発表。[15]
2011年2月、大相撲八百長問題
2010年に発生した大相撲野球賭博問題における捜査で、警視庁は力士の携帯電話のメールを調べていたが、10数人の力士が八百長をうかがわせるメールのやり取りをしていたことが判明。警視庁が文部科学省に説明したところでは、取組の結果はメールのやり取り通りになったとされている。2日に会見が開かれ、力士などの関係者を対象に調査すると発表、過去の疑惑については全面否定している。[16]
諸事情
2017年現在でいう意味での、「個人による八百長疑惑」が取りざたされるようになったきっかけは大鵬と柏戸の一戦の疑惑が取りざたされたころからである。[17]
シカゴ大学の経済学者スティーヴン・レヴィットは、著書『ヤバい経済学』で、大相撲の過去の取組結果を元に調査を行った結果を次のように報告している[18]。レヴィットが、1989年1月から2000年1月までの、本場所の上位力士281人による32,000番の取組から、千秋楽の時点で7勝7敗の力士と8勝6敗の力士の過去の対戦成績を抽出したところ、7勝7敗の力士の8勝6敗の力士に対する勝率は48.7%であったが、これが千秋楽の対戦になると79.6%に上昇していた。
さらに、その両者が次の場所で勝ち越しに関係がない対戦をした場合、前回7勝7敗の力士の勝率は40%に下がり、その次の試合では勝率約50%と、平均値に戻った。また、日本のマスコミが八百長疑惑について報じた直後の千秋楽では、7勝7敗の力士の8勝6敗の力士に対する勝率は50%前後に戻るという結果を得た。
こうした結果を元に、レヴィットは「勝ち越しが掛かっている場合に星のやり取りが行われ、次の場所で借りを返している」「八百長疑惑が報じられた直後は、力士たちは八百長を控えている」と述べ、「八百長がないとはとてもいえない」と結論している[19]。
2011年の大相撲八百長問題では、疑惑が浮上した力士は主に十両力士だった。十両と幕下以下との待遇格差の大きさや、公傷制度の廃止などで故障のリスクが増したことによって、「安定志向」の力士が増えたことが八百長の動機として挙げられている。[20]
告発について
好角家で知られた吉田秀和が横行する八百長に嫌気がさし、週刊朝日に訣別宣言を掲載した。これは角界というより文壇で評判となり、丸谷才一などがしばしば話題にしていた。
大相撲の八百長疑惑では、1980年から小学館の週刊誌『週刊ポスト』が元十両・四季の花範雄の八百長告発手記を初めて公開し、その後も元力士や元角界関係者による告発シリーズを約20年にわたり掲載した。なかでも1996年に部屋持ち親方としては初めて11代大鳴戸(元関脇・高鐵山孝之進)の菅孝之進と元大鳴戸部屋後援会副会長の橋本成一郎が行った14回にわたる告発手記は、八百長問題・年寄株問題・暴力団との関わり・角界の乱れた女性関係などを暴露し、大きなインパクトを与えた。
このときは協会が告訴する事態にまで発展した。それをまとめた11代大鳴戸親方の著作として『八百長―相撲協会一刀両断』(1996年、ラインブックス)が出版された。しかし、この著書の発売直前に、告発者の菅孝之進と橋本成一郎が「同日に、同じ病院で、同じ病気により」急死した。事件性も疑われたが、結局は病死ということで処理された。当時は週刊誌で騒がれ、今でも謎の残る「怪死」だと告発者を支持する側は主張している。
その4年後の2000年、11代大鳴戸親方の弟子だった元小結・板井圭介が外国人記者クラブで、大相撲の八百長問題を語った。それまでも『週刊ポスト』で元力士らの証言は繰り返されていたが、元三役力士からの証言はこの時が初でしかも記者会見で当時の現役力士の実名を挙げての暴露だったこともあり、角界だけではなく世間一般にも大きな衝撃を与えた。その後、板井は『中盆―私が見続けた国技・大相撲の“深奥”』(2000年、小学館)を出版した。ここでは中盆(板井の主張する角界隠語で、八百長を取り仕切る仲介・工作人の意)として君臨した板井の証言が著されている。菅孝之進の告発本との共通点も多くみられる。
この師弟の主張はおおむね次のようなものである。

八百長には応じなかったと言われる元横綱大乃国の芝田山親方
大相撲の八百長は完全にシステム化されており、大きく分けて星の「買取」と「貸し借り」の2つにわけられる。買取は、おもに、つねに好成績を求められる横綱・大関などが地位を守るために使用する。貸し借りは三役以下の平幕力士同士が勝ち越すためや、十両に落ちないようにするための手段として使用する方法である。横綱・大関の買取は70万-100万円くらいが通常の相場であり、貸し借りは先に対戦相手に頼むほうが40万円を支払うということになっている。横綱大関同士などの優勝が懸かった一番や、大関、横綱昇進の懸かった取組みなどでは相場はもっと上がり、200万-300万にもなることもあるという。また、部屋の親方が所属力士のために八百長工作に動く場合もある。八百長の代金の清算は場所後の巡業などで付け人が関取の意を受けて行うことが通例。
力士はおおよそ、「八百長力士(注射力士とも)」と「非八百長力士(ガチンコ力士とも)」に判別される。大相撲の八百長は、実力に裏付けされていなければ、この八百長力士のグループには組み入れてもらえず、やはり真剣勝負(ガチンコ)で勝つ力がなければ地位は保つことはできないとされている。横綱・大関にしても、「この横綱・大関とガチンコで勝負しても勝てない。だったら星を売ってカネにしたほうがいい」と思わせる実力がなければ地位は保てないとされている。関脇までは、ガチンコ力士でも、やはり横綱・大関に上がると地位に見合った成績を上げなければいけないプレッシャーからか八百長に手を染めてしまう力士もいる。大相撲ではどんな強い力士でも取りこぼしというものが存在し、とくに負けることがニュースになってしまう横綱・大関はより確実に勝利を重ねるために八百長で白星を保障しておくという意味合いが強く、横綱・千代の富士などはその典型だったといわれている。そうすることによって強い横綱に取りこぼしがなくなりより一層確実に好成績をあげられるというわけである。平幕力士の場合は横綱・大関陣との対戦が多い、上位(三役〜前頭5枚目)で星を売ったり、貸したりして番付が下がった翌場所に平幕下位(6枚目以下)で貸している星を返してもらい勝ち越して幕内力士としての地位を保つをいう手段が多くみられた。ただし、これもガチンコでしっかり何番か勝てる力がなければ勝ち越すことはできない。ガチンコで何番か勝つ実力がなければ、たとえ八百長をしていても勝ち越すことはできず地位を下げていくことになってしまう。この様に、板井、菅師弟は八百長を告発はしても、必ずしもその「八百長力士」の実力まで否定しているわけではなく、輪島や千代の富士らの実力はむしろ肯定している。板井は千代の富士について「ガチンコでも一番強かった。」としており、菅は輪島について、その人間性については「とにかくデタラメな男」「金と女にだらしない」と酷評し、八百長についても「輪島は(普段の豪遊の影響もあって)金がないため、星の「買取」ではなく「貸し借り」で八百長を行っていた。」と暴露しながらも、星の貸し借りが出来たのも「前場所で借りた星をいくつか返しても、ガチンコで横綱を維持する最低ラインである10勝を挙げる自信があったからだ。」としており、自身の対戦経験からも「本当に強かった。」「14回しか優勝できなかったのが不思議」と評している。
ただし、八百長が横行していた1980年代の千代の富士全盛時代に比べると、現在の角界における八百長は少なくなったといわれている。それには生涯ガチンコを貫いて22回の優勝を果たした横綱・貴乃花の影響が大きいといわれている。優勝回数が大鵬や千代の富士など他の大横綱に及ばなかったのも、引退までガチンコ相撲を取り続けた結果、肉体の限界を超え強い相撲が取れなくなったためとされる。 ただ、1995年11月場所千秋楽の優勝決定戦で若乃花-貴乃花戦が八百長を疑われる声があり、これは貴乃花が「やりにくかった」と回顧しているように、八百長というよりも「無気力相撲」の類いにあたるだろう。この一番においてはあまりにも貴乃花の方に「やりにくさ」、「力が入っていない」というところがミエミエであり、八百長相撲の取組みというものは一般のファンなどの素人にはわかりにくいようにするために「熱戦」にみせかけるものであるために、このような一番は八百長とはいわないものである。この後に発売された週刊ポストに掲載された大相撲八百長問題に関する座談会でも、この一番については「あれはいわば片八百長」としたうえで、「あの一番は仕方がない」としていた。
無気力相撲と八百長相撲は意味合いがまったく異なり、ガチンコ力士であっても自らの調子が悪かったり、相手に対して手心があったり、さまざまな状況からやりにくさがあれば無気力相撲になることもありえる。杉山邦博らは満身創痍の横綱貴乃花と武蔵丸の一番で武蔵丸が明らかにやりにくそうにして、力を出し切れず負けたと言われる一番を例に挙げ「あのような怪我をしている相手に対して非情になり、全力で攻められますか?」として、この様な一番を「人情相撲」と呼んでいる。八百長相撲というのは金銭のやり取りから予定調和された一番のことを意味する。こうした角界の八百長のシステム化は1950年代の半ばから行われはじめ、1960年代に確立した。また、大乃国は師匠譲りのガチンコ力士との評判があり、国民が注目し大きな話題となっていた千代の富士の連勝を止めたことや、横綱の地位で負け越しをしたことなどがその評判に根拠を与えている[21]。
日本相撲協会は『週刊ポスト』が国民栄誉賞まで受賞している横綱・千代の富士らなどの実名をあげての告発が20年にわたったにもかかわらず、告訴は1度しかしておらず、それも元大鳴戸親方の手記の一部分を告訴するという特殊な方法でしか告訴していない(のちに不起訴)。また、板井の記者会見や手記に関しても全く法的手段に訴えておらず、そこをとらえて「角界に八百長が存在している」ことは事実だと考える者もいる。
音楽コンクール
2010年のショパン国際ピアノコンクールではユリアンナ・アブデヴェーヴァが優勝したが、彼女は実はDVD審査で前もって落選していたことが発覚。そのために審査やり直しがあったことも明らかになった。しかも、彼女はそのまま優勝してしまったことで、大問題になった。この経緯が「ショパン・コンクール - 最高峰の舞台を読み解く (中公新書)」 で詳細に明らかにされている。
注釈
^ 八百長の問題となった「たちばな賞」については専門家の間でも八百長に否定的な意見が出ている。実際にたちばな賞のパトロールフィルムを見た大川慶次郎、寺山修司は八百長なのかは分からないと発言した他、三木晴男や渡辺敬一郎は八百長の対象馬が4番人気であった点を疑問視し八百長に懐疑的な見解を述べている
^ 当時のオートレース第一人者広瀬登喜夫が冤罪で逮捕された
^ ダニエル・ケレラー、ダビド・サビッチなど数選手が八百長に関与し永久資格停止処分を受けた
^ この日先発した阪神の江夏豊(当時)は引退後、自身の著書『左腕の誇り』でこの試合に触れ、試合の2日前、当時の阪神タイガース球団代表長田睦夫と常務の鈴木一男から呼び出され「(最終戦甲子園の巨人戦で優勝を決めたいから)この試合は負けるように」と指示されたとし、江夏が反論すると監督の金田正泰も(この日の敗戦は)了承しているから」と言われたと記述している反論として、当時阪神のヘッドコーチ岡本伊三美は試合当日まで中日戦に江夏が登板することを知らされていなかった。また対戦相手の中日先発星野仙一は2011年、大相撲の八百長問題に関連して当時を振り返り、星野自身が消化試合であったことから(阪神を勝たせるため)阪神のバッターに打ち頃の球を投げ続けたが、阪神のバッターは一向に打てなかったと振り返っている。
脚注
^ 広辞苑 第五版 【八百長】
^ 日本経済新聞2011年2月9日
^ a b c d 八百長問題 逮捕は?直接の法規定なし東京新聞2011年2月4日
^ 競技者もしくはチームが、故意に試合に敗れる、または敗れるために策を用いるなどの行為を、対戦相手に知らせずに(知られずに)行うこと。
^ http://www.nikkansports.com/sports/news/f-sp-tp0-20120324-922297.html
^ [八百長でダビド・サビッチの永久失格確定]http://www.nikkansports.com/sports/news/f-sp-tp0-20120906-1012690.html
^ 「疑惑の名勝負大全」ミリオン出版74〜75ページ
^ 江夏豊著『左腕の誇り』
^ [W杯で八百長!?元ガーナ代表GK 06年チェコ戦を言及]http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/09/11/kiji/K20120911004090230.html
^ 週刊ポスト1999年2月19日号
^ 週刊ポスト1999年10月1日号
^ 当時地方巡業や相撲トーナメントではお好み対決として若貴が戦うことはあったが本割では実現不可。
^ 1993年7月場所で兄弟対決の可能性があったが巴戦で曙が若貴に連勝し実現しなかった。
^ 今日は何の日?:貴乃花vs若乃花、史上初の兄弟優勝決定戦 スポルティーバ、集英社
^ 相撲協会が刑事告訴へ 週刊誌の八百長疑惑報道 共同通信 2010年6月22日
^ 朝日新聞 2011年2月2日夕刊
^ 石原知事定例記者会見録
^ 『ヤバい経済学――悪ガキ教授が世の裏側を探検する』、スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー著、望月衛訳、東洋経済新報社、2006年。ISBN 978-4492313657
^ M. Duggan and D. Levitt. “Winning isn’t everything: corruption in sumo wrestling,” American Economic Review, 92(5):1594-1605, 2002.[1] (PDF) 。スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー 『ヤバい経済学』
^ クローズアップ2011:大相撲八百長疑惑 番付維持、なれ合い 毎日新聞東京朝刊 2011年2月14日
^ 大乃国の負け越しは1989年9月場所の7勝8敗だが、ちょうど10年後の1999年9月場所には若乃花が7勝8敗で負け越している。これもガチンコを貫いた結果とされている。
参考文献
元大鳴戸親方『八百長―相撲協会一刀両断』鹿砦社 ISBN 4-846-30141-9
板井圭介『中盆―私が見続けた国技・大相撲の“深奥”』鹿砦社 ISBN 4-093-79546-0
関連項目
引退#失格選手
自作自演
買収
賭博
EWS (Early warning system)
やらせ
演出
詐欺
談合試合
チームオーダー
地元判定
外部リンク
君は木村政彦を知っているか - 力道山の八百長破りによって血を吐いてマットに沈んだ柔道王・木村政彦の悲劇を追ったテレビドキュメンタリー。
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梅沢由香里のやさしい囲碁
ジャンル	テーブルゲーム(囲碁)
対応機種	ニンテンドーDS[DS]
PSP[PSP]
開発元	毎日コミュニケーションズ
発売元	毎日コミュニケーションズ
人数	1人 - 2人(交互プレイ)
発売日	[DS]2008年1月31日
[PSP]2008年10月9日
対象年齢	CERO:A区分(全年齢対象)
テンプレートを表示
『梅沢由香里のやさしい囲碁』は、毎日コミュニケーションズ(後のマイナビ、ゲーム事業はマイナビ出版に分社)が開発、発売した囲碁ゲームである。以下、複数機種のゲーム機を対象として発売されている。
ニンテンドーDS版 - 2008年1月31日発売、以下DS版と略記
PlayStation Portable版 - 2008年10月9日発売、以下PSP版と略記
目次 
1	概要
2	ゲームシステム
2.1	講座
2.2	対局
2.3	梅沢先生に挑戦
2.4	棋力認定
2.5	棋譜編集
3	脚注
3.1	出典
4	関連項目
5	外部リンク
概要
「ヒカルの碁」の監修など、囲碁の普及活動で知名度の高い梅沢由香里がナビゲーション役として出演している囲碁ゲームである。2008年(平成20年)1月31日にDS版が発売された後、同年10月9日に機能強化してPSP版が発売された。梅沢は、タイトルメニューには実写で、ゲーム途中にはデフォルメでメインキャラクターとして出演しており、ゲーム中のナビゲーションは梅沢の声によって行われる。これは、梅沢のかねてからの夢「アニメのキャラクターになる」[1]を叶える作品となった。
本作は、初めて囲碁を触る人にも判るように作成されており[1]、ゲーム内の「囲碁講座」で表現されている。また、梅沢は、自身が蓄積してきた初心者が上達するためのノウハウが詰まっており、初心者でも初段の免状が取れるほどの実力が身につくと語っている[2]。これはゲーム内の「梅沢先生に挑戦」で表現されている。
なお、本作には監修を行っている日本棋院による棋力認定試験が設けられており、試験後のパスワードを付与の上で郵送にて申請することで、最高で初段の免状を実際に取得することが可能となっている。
ゲームシステム
本作には、以下の機能が設けられている。
講座
対局
梅沢先生に挑戦
棋力認定
棋譜編集
講座
梅沢由香里がナビゲーション役となって、囲碁のルールや用語、布石、定石などについて解説するというものである。以下の講座が設けられている。
囲碁のルール - 初心者向けのルール説明
石を取るワザ - アタリ、シチョウ、ゲタ、ウッテガエシ、オイオトシ、リョウアタリなど
石の生き死に - 2眼、欠け眼、セキなどの説明
布石講座
定石講座
なお、DS版に比べてPSP版は、約3倍の布石、定石データを収録している。
対局
対局は、CPU対局と対人対局に分けられ、対人対局はPSP版に限られる。CPU対局では梅沢が対局相手となり、開始終了のナビゲーション、1手ごとに「いい手ですね」「その調子だよ」「これでどうだ」といった音声で対局を盛り上げる仕組みとなっている。対人対局にはPSPの赤外線通信機能は用いず、1台のゲーム機を2人が交互に操作することで対局を実現している。なお、CPU同士の対局が行えるモードは設けられていない。
また、手取り足取り対局というモードが設けられており、CPU対局、対人対局、いずれの場合も1手ごとに、地合(形勢状況)の表示、次の1手のアドバイス、アドバイス通りに打った場合の地合変化の表示を行う機能が設けられている。アドバイスの際は、単に次の1手がどこであるかだけでなく、「アタリから逃げる手/ハネる手/ノビる手/ツナギの手/石を取る手を打っておくのはどうでしょう?」などのように、囲碁用語を用いたアドバイスとなる趣向が施されている。
対局において変更可能なオプションは以下の通りである。
CPUの強さ(3段階、CPU対局の場合のみ)
盤の大きさ(9路、13路、19路の3段階)
手合い(互先、定先、二子局 - 九子局)
コミ(なし、半目、1目半 - 9目半、デフォルト6目半)
なお、PSP版はDS版に比べて、CPU対局時の思考時間が約5分の1に短縮されている。
梅沢先生に挑戦
DS版は1000問以上、PSP版は1300問以上用意された練習問題(生き/死に/特定石を助ける/特定石を取るなど)に対して、正解となる手順を解答することで順位が上がっていくモードとなっている。規程の回数だけ連続正解することで1つ順位が上がるようになっている。また、出題される問題の難易度も順位に応じて上がっていくこととなる。
用意されている順位は以下の通りである。それぞれ順位が1位まで上がった後、その順位をクリアすると、次の段階の10位に進むことになる。なお、下に示されるヒント回数は、次の順位に上がるまでに使用可能なヒント回数のことである。誤答すると連続正解数が0に戻り、それと同時に使用可能なヒント回数は下記の回数に回復する。
学年10位 - 1位(連続2問正解で順位が上がる、ヒント無制限)
全校10位 - 1位(連続2問正解で順位が上がる、ヒント2回まで)
県内10位 - 1位(連続3問正解で順位が上がる、ヒント2回まで)
全国10位 - 1位(連続3問正解で順位が上がる、ヒント2回まで)
世界10位 - 1位
梅沢先生に挑戦
棋力認定
本作は日本棋院が監修しており、この棋力認定の結果(パスワード)を日本棋院に送ることで、10級から初段までの免状を得ることが可能となっている。この初段免状取得は、日本棋院の普及指導員の条件である初段以上[3]を満たすものとなる、正式な資格である。
10級から6級までをBランク、5級から初段までをAランクとし、ランクに合わせた全10問のランダム問題を解答、各問10点満点(解答によっては6点などの部分得点もあり)で、その合計点数によって棋力を認定するというシステムとなっている。なお、Aランク認定を行うにはBランクの最高位、6級の認定が必要となっている。
棋譜編集
本作では、対局モードでの対局における棋譜を保存しておき、後ほど呼び出すことが可能となっている。保存された棋譜を呼び出して再生する機能はDS版、PSP版いずれにも設けられている。
PSP版はこれに加えて、棋譜の編集機能が設けられており、対局の途中から手を分岐させて、その後の変化を確認することが可能となっている。また、対局モードの棋譜を編集するのみでなく、初手から編集する、つまりプロの棋譜などを入力して再生する、分岐させてその後の変化を確認するといったことも可能となっている。但し、分岐後の石は手動で置くのみであり、CPUによる分岐譜面を用いた継続プレイなどの機能は設けられていない。
脚注
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出典
^ a b “【インタビュー】由香里先生と「初段」を目指せ! - 『梅沢由香里のやさしい囲碁』発売記念インタビュー (2) 『ヒカルの朞』、そして『梅沢由香里のやさしい囲碁』”. 2010年2月8日閲覧。
^ “MYCOM GAME WEB 囲碁 for ニンテンドーDS”. 2010年2月8日閲覧。
^ “財団法人日本棋院 - 普及指導員”. 2010年2月8日閲覧。
関連項目
梅沢由香里
外部リンク
毎日コミュニケーションズ公式
DS版
PSP版
任天堂公式
PlayStation.com公式
梅沢由香里への発売記念インタビュー
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ユルミシチョウは囲碁で、相手の石を追いかけて捕まえる手筋のひとつ。
シチョウの場合には、取られようとしている石をアタリの連続で盤端まで追いつめるのに対し、ユルミシチョウは一つダメがあいた状態で追いかける。このため追いかける側に、両アタリなどの断点が生じない形でなければならない。「ダメアキシチョウ」と呼ぶこともある。
ユルミシチョウの例
小目一間高ガカリ定石の一形。黒1に切られたとき、白が3の点に抱えるのではシチョウアタリがあってうまくいかない。白2にカケれば、符号順に追いかけて切ってきた石を捕獲できる。たとえば白6で7の方から追いかけると、断点が生じて捕まえられなくなる。
■
ヨーロッパ囲碁連盟(ヨーロッパいごれんめい、European Go Federation、EGF)は、ヨーロッパで囲碁の普及、促進、調整を目的とした非営利団体。ヨーロッパ碁コングレス(EGC)がドイツのクックスハーフェンで開始された1957年に設立された。以降のコングレスはヨーロッパ各国持ち回りで行われ、ヨーロッパ選手権、および連盟の年次総会が同時に行われる。参加資格はヨーロッパとその周辺各国の囲碁組織であることで、37の加盟組織がある。国際囲碁連盟の加盟組織。2014年にはヨーロッパ・プロ棋士制度を制定した。
目次 
1	活動
2	参加組織
3	プロ棋士
4	外部リンク
活動
年次総会においては、通常の活動のためのいくつかの委員会を統括する実行委員会を選出する。
ヨーロッパでの主要なトーナメントは、実行委員会の監督ではないが、連盟が直接調整を行う。そのいくつかのトーナメントは「ヨーロピアン・カップ」の一部となっている。ヨーロッパ・レーティングは、多くのヨーロッパ・トーナメントの結果によって決定される。
参加組織
Country	Member name
アルメニアの旗 アルメニア	Armenian Draughts and Go Federation
オーストリアの旗 オーストリア	Austrian Go Federation (Go Verband Österreich)
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン	Azerbaijan GalaGAPI Federation (Azerbaycan Qalaqapi Federasiyasi)
ベラルーシの旗 ベラルーシ	Belarus Go Federation
ベルギーの旗 ベルギー	Belgian Go Federation (Belgische Go Federatie - Fédération Belge de Go)
ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア	Go Association of Bosnia and Herzegovina (Go Asocijacija Bosne i Hecegovine)
ブルガリアの旗 ブルガリア	Bulgarian Go Association (Bulgarska Go Asotsiatsija)
クロアチアの旗 クロアチア	Croatian Igo Alliance (Hrvatska Igo Udruga)
キプロスの旗 キプロス	Cyprus Go Association (Kypriakos Syndesmos Go)
チェコの旗 チェコ	Czech Go Association (Ceska Asociace Go)
デンマークの旗 デンマーク	Danish Go Association (Dansk Go Forbund)
フィンランドの旗 フィンランド	Finnish Go Association (Suomen Go-liitto ry)
フランスの旗 フランス	French Go Federation (Fédération Française de Go)
ドイツの旗 ドイツ	German Go Federation (Deutscher Go-Bund)
ハンガリーの旗 ハンガリー	Hungarian Go Association (Magyar Goszovetseg)
アイルランドの旗 アイルランド	Irish Go Association (Irish Go Association)
イスラエルの旗 イスラエル	Israeli Go Association (Agudat Ha-Go Ha-Yisraelit)
イタリアの旗 イタリア	Italian Go Federation (Federazione Italiana Giuoco Go)
カザフスタンの旗 カザフスタン	Kazakhstan Go Federation (Kazakhstan Go Federation)
ラトビアの旗 ラトビア	Latvian Go Federation (Latvijas Go Federacija)
リトアニアの旗 リトアニア	Lithuanian Go Association (Lietuvos Go Asociacija)
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルグ	Go Club Luxemburg (Le Club de Go du Luxembourg)
オランダの旗 オランダ	Dutch Go Association (Nederlandse Go Bond)
ノルウェーの旗 ノルウェイ	Norwegian Go Association (Go i Norge)
ポーランドの旗 ポーランド	Polish Go Association (Polskie Stowarzyszenie Go)
ポルトガルの旗 ポルトガル	Portuguese Go Association (Associaçăo Portuguesa de Go)
ルーマニアの旗 ルーマニア	Romanian Go Federation (Federatia Romana de Go)
ロシアの旗 ロシア	Russian Go Federation (Rossiiskaya Federatziaya Go)
セルビアの旗 セルビア	Serbian Go Federation (Go Savez Srbije)
スロバキアの旗 スロヴァキア	Slovak Go Association (Slovenská Asociácia Go)
スロベニアの旗 スロベニア	Slovenian Go Association (Go Zveza Slovenije)
スペインの旗 スペイン	Spanish Go Association (Asociacion Espanola de Go)
スウェーデンの旗 スウェーデン	Swedish Go Association (Svenska Goförbundet)
スイスの旗 スイス	Swiss Go Association (Federation Suisse de Go / Schweizerische Go Verband / Federazione Svizzera di Go)
トルコの旗 トルコ	Turkish Go Players' Association (Türkiye Go Oyunculari Dernegi)
ウクライナの旗 ウクライナ	Ukrainian Go Federation (Ukrainska' Federatsiya Go)
イギリスの旗 イギリス	British Go Association (British Go Association)
(アルファベット順)
プロ棋士
2014年: Pavol Lisy(スロバキア)、Ali Jabarin(イスラエル)
2015年: Mateusz Surma(ポーランド)、Ilya Shikshin(ロシア)
外部リンク
「The European Go Federation」
European Go Database「EGF ratings system」
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ヨセは囲碁用語の一つで、通常対局終盤に打たれる地の境界に関する着手のこと。かつては「侵分」とも呼んだが、現在では一般的ではない。布石、中盤を通じて明らかになってきた双方の地を確定していく段階である。 下図は、九路盤対局におけるヨセの例。
ヨセでは、一般に大きなところからお互いにヨセてゆき、次第に小さな場所に移って、最後は半コウを争って終局となるのが一般的な流れである。このため、どのヨセが何目の価値があるか、判定しながらうち進めることが大切である。ヨセ合いで互いに反発したりして、思わぬところから戦いが発生して、中盤に戻ることもある。また、特に石の根拠にかかわるような場合では、序盤から大きなヨセの手が打たれることもある。
ヨセの名手として安井知得、石田芳夫、李昌鎬、朴永訓などが知られている。
ヨセの大きさ
上図では、黒が1と出るとaの点はどちらの地でもないダメとなる。逆に白が1の点にオサエれば、aの点が白地1目となる。つまり、黒1の手は白地1目を消す「1目の手」ということになる。

上図では、黒が1に打つと△の白石が取れるため、地1目+アゲハマ1子で2目となる。逆に白が1の点に打てば、▲の黒石が取れ、これは同様に4目の価値を持つ。すなわち、1の点に先着した方は2+4で6目の得をする、つまり1は出入り6目の手ということになる。詳細は、出入り計算の項目を参照。
ヨセに関する用語
大ヨセ
一般に、10目以上の価値のある大きなヨセの手を指す。例えば星の定石からできる形の下図黒1などは、ヨセに入ったら真っ先に打たれるほどの大きな手である。このあと、黒bから符号順にさらにヨセる手がある。逆に白から1の点にオサエられると、gの点に打たれて一子が取られる手が残る。これらを勘案し、だいたい15目程度の価値があると見られる。
小ヨセ
一般に10目以下のヨセを指す。第一線のハネツギなどがこれに相当する。
先手ヨセ・後手ヨセ
一方のヨセに対して相手が手を抜くと、大きく地を荒らされたり石を取られたりする手が残るため、手を抜けないような手段を指す。さらに次のヨセに手を回すことができるため、価値が高い。一方、ヨセた後に特に大きな手が残らないため、相手が他の着点に回れるようなヨセを「後手ヨセ」と称する。
上図の場合、黒1から3のハネツギに対して白が手を抜くと、黒から4の点に切られて大きく地を荒らされるため、白4の受けが省けない。これは「黒の先手ヨセ」と呼ばれる。一方黒5から7のハネツギは、後に黒からの手段もないため白は他のヨセに先行できる。これは「黒の後手ヨセ」と呼ばれる。
ただし、「先手ヨセ」は絶対のものではなく、例えば上図白4の手で他にもっと大きな着点があれば、白は手を抜いてそちらへ向かうことになる。つまり先手後手というのは、その局面全体を見て判断せねばならない。
両先手
どちらから打っても先手になるようなヨセのこと。例えば下図では、どちらからもコスミからハネツギが先手で利く。両先手の場所は、ヨセに入ったら真っ先に打つべき場所となる。
 	
片先手
一方だけが先手となり、もう一方からは後手となるような場所のこと。一般に、先手の側が打つことになる。下図、黒1に対して受けなければ2の点に打たれて全滅なので、ここは黒が先手となる。一方、白から1の点に打つのは1目のヨセだが後手。「黒1は黒の権利」などと表現される。
両後手
どちらからも後手となるヨセ。
逆ヨセ
片先手である場所を、後手の側から打つこと。先手ヨセを防ぐため、両後手の場所の2倍の価値があると計算される。たとえば下図の形は左図のように白1から8までが白の権利だが、黒は右図の1に打てばこの先手ヨセを封じることができ、大きな逆ヨセとなる。
 	
参考図書
『新・早わかり ヨセ小事典―碁敵に勝つヨセの順序と手筋』日本棋院
加納嘉徳『新編 ヨセ辞典』誠文堂新光社
『林海峯のヨセに強くなる本』誠文堂新光社
石田芳夫『目で解くヨセのテクニック』誠文堂新光社
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四目並べ(よんもくならべ)は、卓上で遊ぶゲームである。交互にコマを下から積み重ねて、先に縦・横・斜めいずれかに直線状に4つ並べた方が勝ちになる。
目次 
1	ルール
1.1	重力付き四目並べ
1.2	立体四目並べ
2	類似のゲーム
3	外部リンク
ルール
重力付き四目並べ
一般に四目並べといえばこちらを指すが、五目並べと同じ2次元上で行う。交互にコマを下から積み重ね、空中に置くことはできない。長連は有効勝ちである。
この四目並べでは、アメリカ合衆国のゲーム製造会社Milton Bradleyが1974年に発表した「コネクト・フォー」(Connect Four)が有名である。これは、盤面上に6列7行に棒を立てたもので、コマの形状は玉ではなく円盤状になっている。コネクト・フォーはそれ以前にあった「キャプテンズ・ミストレス」(The Captain's Mistress)という同種のゲームを改良したものである。
立体四目並べ
4×4×4の立体場の枠内で4個の玉を先に一直線に並べることを競う遊びで、同様にコマを直線に並べることを競う連珠や五目並べなどとの相違点は、玉を配置する空間が2次元ではなく3次元である点にある。
四目並べを行なう盤面には、格子状に並べられた棒が垂直に立っている。色の違う2種類の玉の中央に穴を開けたものを用意し、2人のプレイヤーが交互に自分の色の玉をこれらの棒のどこかに入れる。平面方向には任意の場所を選ぶことができるが、垂直方向に対しては重力の関係で先に入っている玉の真上(または盤面のすぐ上)にしか玉を置けないという点がこのゲームのキーポイントになっている。
プレイヤーは交互に玉を入れていき、自分の色の玉を縦横斜めいずれかに4つ並べることを目指す。
類似のゲーム
三目並べ
五目並べ
連珠 
五目並べに黒に禁手を課し、開局規定などでルールを均等にしたゲーム。
囲連星
囲碁と五目並べを組み合わせたゲーム
コネクト6
1手目以外両者2個ずつ石を置き、石を6個先に並べたほうが勝ち。
セルゴ(宇宙遊泳)
長谷川五郎が考案した、10×9路盤を使った移動五目並べ。宇宙遊泳はソクラテス盤(2つのゾーンのある10×9盤)を使ったセルゴの変則タイプのゲーム。
外部リンク
Victor Allis's Master's Thesis containing the solution of the game コネクト4解法解説(英語・PDF)
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笠碁(かさご)は、古典落語の演題の一つ。 上方落語であったが、東京に移植された。 囲碁をテーマにした人情噺で、原作は、初代露の五郎兵衛。
あらすじ
碁の好きな二人、「碁敵は憎さも憎し懐かしし」の言葉通り、毎日、のべつあれやこれや言いあって碁を打っている。
一人の男が相手の家にやってくる。さっき根岸の友人宅で負けてきたのだが、敗因は「待った」をするからと指摘されたという。そうなると、二人で勝負せざるを得なくなる。
「今日は一つ待ったなしで一番。」「それはよろしゅうございます。さ、おいでくださいまし。」と早速打ち始める。「では、一つ、ここへ。」「…こりゃあ、まずいねえ。この石どけてください。」「待ったですか。」「そうじゃございませんが、…どけてもらいませんか。」「だめです。」「そういうけど、以前お金をお返ししましたが、一度も貸すのを待ったって言いましたか。」「それはお世話になりました。ですから期日までに返したじゃありませんか。」「返さなきゃあ詐欺ですよ。」とだんだん二人は興奮してお互いに「へぼだ!」と言いあう。そして、「帰れ!」「何でエ。ここの内に何度大掃除に来たと思っていやがるんでえ。蕎麦も一杯も出しやがらねえで。しみったれ野郎。」「何言ってやんでえ。来るな!」「来るもんけえ。」と喧嘩別れ。
数日たった雨の午後、片方は暇を持て余している。「よく降るねえ。どうも…新聞も見あきたし、こんなときにあいつが来てくれたらねえ。」と今になって「待ったって言うんじゃなかった…」後悔する。かといって呼びに行くのも気が悪い。他の相手じゃ駄目だ。でもそろそろ来そうだからと、男は店先に碁盤を置いて、喧嘩別れした相手を待っている有様である。
相手も、家でごろごろしてもどうしようもないから、女房に勧められて古笠をかぶってやってくる。
「おや、来やがった。…あれ、向こうを向いて歩いてやがる。おっそろしく汚ねえ笠被ってやがる。…こっちを見やがれ、こっちを。碁盤が目に入るのに。おい、茶と羊羹出しとくれ。…あ、向こう行きやがった。素直に来ればいいのに、…あ、又来やがった。…けつまづきやがった。…何だい。」と待ちに待った碁敵が来たのはいいが、入りづらいので我慢できず、「やい!へぼ!」と呼びかける。
相手もきっかけが欲しかったので、「へぼって何でエ。こっちが待ったをするなと言うのに、待ったを掛けやがって。へぼはどっちだ。」「言いやがったな。じゃあ、どっちがへぼか。勝負だ。」と碁盤を差し出したから、「やらなくってこっちだって勝負だ。」と入り込んでくる。「ようし、やろうじぇねえか。待ったなして言ったのは、お前さんじゃねえか。…うん、碁盤が濡れているよ。恐ろしく雨が漏るなあ。」
よく見ると「お前さん、笠被りっぱなしだ。」
主な演者・概説
金原亭馬生 (10代目)
三笑亭可楽 (8代目)
三遊亭小圓朝 (3代目)
柳家小さん (5代目)
柳派でよく演じられていた。地味だが、喧嘩しながらも離れられない人情の機微が鮮やかに描き出されている。 近年では五代目小さんの緻密な芸と、八代目可楽の渋味溢れる芸が双璧と謳われた。
古今亭志ん生 (5代目)は碁を将棋に変え、題名も「雨の将棋」と変更し演じていた。 話のあらすじはほぼ同じだが、最後に二人が将棋を指す場面で紛失した王将の駒の変わりに座敷に入り込んできたアブラムシを使用したり、盤上からいなくなったアブラムシが股の間から出てきて「王様勝てないと思って金の後ろに隠れやがった」とサゲるなど笑いの色が強くなっている。
関連項目
古典落語
碁泥
囲碁
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碁泥(ごどろ)は、落語の演目の1つ。上方では「碁打盗人」と呼ぶ。現在は主に東京で演じられる。 3代目柳家小さんが、大阪の4代目桂文吾に教わり、東京に移した。
あらすじ
主人が、友人を呼んで碁を一局することになる。以前、碁に夢中になって畳を焦がしてしまったから、「碁は碁、煙草は煙草」と分けて、一局打った後にゆっくり煙草を吸おうと決め、二人は碁盤に向かう。だが、「おい!煙草がないぞ!」と約束も忘れてしまう。家人も気を利かして、煙草盆に紅生姜を入れて女中と外出する。
そうとは知らぬ二人、碁に夢中である。煙草に火を点けようとしても紅生姜だから点かない。「あれ!?おかしいなあ。点かねえ」と言いながらも、碁盤ばかり見つめている。
そこへ一人の泥棒が入っていくる。ありたけ盗んでさあ引上げようとしたら、パチリ!という碁石を打つ音が、静かな夜更けだから余計に響く。また、因果とこの泥棒も碁好きときているから。…
「あっ!やっているな。…手はどうかな。…あっ? それはいけない。もしもし、だめですよォ!」と、自身が泥棒に入ったのを忘れて、対局に首を突っ込む始末。二人も、まさか泥棒とは気付かない。
「何言ってる。これでなくちゃあ…うるさいねえ。あれ?知らない人だ」と初めて気づくが、また碁盤に目を落とし「お前は誰だいっと、いくか」とパチリ。相手も「じゃあ。わたくしもお前は誰だいっと!」パチリ。
「へへ。泥棒です」
「泥棒さんか」パチリ。「よくいらしゃったねえ」とパチリ。
概略
「笠碁」とならぶ碁をテーマにした落語の代表的演目である。5代目柳家小さん、6代目春風亭柳橋が得意とした。柳橋は、「よくいらっしゃたねえ。」のあと、「お景気はいかがです。」「おかげでこんなに御宅からいただきました。」「それはよいことをしましたな。・・・これからちょいちょいいらっしゃい。」 というサゲを用いていた。
■
爛柯(らんか)は、囲碁の別称の一つで、中国の『述異記』などにある伝説に基づいたもの。
目次 
1	述異記などの伝説
2	類似の伝説
3	爛柯への言及
4	爛柯山
5	注
6	参考文献
7	関連項目
述異記などの伝説
南朝梁の任昉『述異記』上巻に以下の故事がある。
晋の時代[1]に信安郡の石室山に王質という木こりがやってくると、そこで数人の童子が歌いながら碁を打っていた。王質は童子にもらった棗の種のようなものを口に入れてそれを見物していたが、童子に言われて気がつくと斧の柄(柯)がぼろぼろに爛れていた。山から里に帰ると、知っている人は誰一人いなくなっていた。
この話は『述異記』が著名だが、虞喜『志林』(太寧3年(325年)刊)に記されているものが最も古い。『晋書』にも同様の話が所載されている。
北魏の酈道元『水経注』には、やはり晋の時代に、
王質が木を伐りに行って石室に着くと、4人の童子が琴を弾いて歌っていた。王質はこれを聞いていたが、しばらくして童子が帰るように言われると、斧の柄が爛し尽くされており、家に帰ると数十年が過ぎていた。
宋代の『太平寰宇記』巻九十七、江南東道の衢州信安県の条で、石室山は別名石橋山、空石山ともいい、王質が童子の碁を見ていると、童子が、汝の柯、爛せりと言う。家に帰ると100歳になっていた。この山は爛柯山とも名付けられた。同書の巻八十では、剣南道翆集嶲州越嶲県の条で、王質は二人の仙人が碁を打っているのを見て、碁が終わって見ると斧の柄が腐っており、二人が仙人であることを悟った。
明の時代の王世貞『絵図列仙全伝』では、王質が童子の碁を見ていると、斧の柄が爛り、家に帰ると数百年が過ぎており、王質はふたたび山に入り仙人となる。
類似の伝説
唐の段成式の『酉陽雑俎』では、
晋の太始年間、北海の蓬球、字は伯堅という者が、貝丘の玉女山の山奥で不思議な宮殿にたどり着くと、中では四人の婦人が碁を打っていた。そこに鶴に乗った女が現れ、球のいることに怒ったので、門を出て振り返ると宮殿は消え失せていて、家に帰ると建平年間になっていた。
『幽明録』にある民話では、漢の明帝の永平5年(62年)に剡県で、劉晨と阮肇が天台山で女に出会い、村へ帰ると七代後の子孫が住んでいた。この変形で「仙女の洞窟」という民話では、劉晨と阮肇が山で迷い込んだ洞窟で仙女が碁を打っていた。村へ帰ると4、500年が過ぎており、洞窟に戻ると扉が閉じていて、二人は頭を壁に打ちつけて死んでしまった。天はこれを哀れんで、二人を幸運の神と悪運の神に任命した。
また南朝宋の劉敬叙『異苑』には、男が馬に乗って山中の洞窟を通りがかると、二人の老人が樗蒲をしていた。見物していて気がつくと、鞭は腐り馬は白骨化していたという話がある。
同じく宋の頃、江西省黎川近くの蒙秦山の伝説では、木こりが牛にまたがって山中に入り、仙人の碁を見ていると斧が腐り牛は骨と皮ばかりに干涸びていた。[2]
東晋の干宝『捜神記』の「北斗南斗桑下囲棋」は、
占星家の管輅が南陽で趙顔という若者に若死にの相があると告げ、顔は言われた通りに、桑の木の下で碁を打っている二人の男に酒と肉をやると寿命を延ばしてくれた。[3]
爛柯への言及
唐代の孟郊による「爛柯山石橋」や、白居易、劉禹錫などが、爛柯山についての詩を詠んでいる。『西遊記』の第十回、太宗と魏徴が布陣した場面では「爛柯経に云わく」として戦術論が述べられている。
菅原道真の『菅家文草』に収められる「囲碁」と題する詩では、「若得逢仙客 樵夫定爛柯」(若し仙人に逢えば樵の斧は柄は腐るだろう)と結ばれている。『古今集』には紀友則「故郷は 見しこともあらず 斧の柄の くちし所ぞ 恋しかりける」という、碁仲間を思う歌が収められている。
近松門左衛門『国性爺合戦』の第四段「碁立軍法(九仙山)」では、明の幼太子を連れた呉三桂が放浪の末に江化府の九仙山に登ると、二人の老翁が碁を打っており、碁盤を世界に見立てた呉との会話に「軍は華の亂れ碁や、飛びかふ烏、群居る鷺と譬えしも、白き黒きに夜晝も、別で昔の斧の柄も、おのづからとや朽ちぬべし」とある。呉は翁に促されて、日本から来た国性爺が明の復興のために中国全土で戦を繰り広げる様を、山頂から一瞬で幻視する。
江戸時代の囲碁棋士林元美は、欄柯堂の筆名を用い、『爛柯堂棋話』などの著作を残した。日本棋院は1925年に、機関誌『棋道』の姉妹誌として『爛柯』を創刊し、後に『囲碁クラブ』に改名された。
爛柯山
爛柯山という山の名は、浙江省衢州市、山西省武郷県、陝西省洛川県、広東省高要県に残されており、それぞれに爛柯伝説がある。また四川省達県の鳳凰山にも同様の伝説があり、欄柯邸が建てられている。
一般には衢州のものが本来の土地と考えられており、青霞洞という洞窟が王質の入った石室とされ、山門わきに中国囲棋協会の陳祖徳の書による「衢州爛柯 囲棋仙地」の石碑も建てられている。2006年からは囲碁棋戦衢州・爛柯杯中国囲棋冠軍戦が、衢州市で開催されている。
注
^ 中山典之『囲碁の世界』では春秋時代の晋とされているが、中野謙二『中国囲碁三千年の知恵』では西晋または東晋とされている。
^ 田振林、祝士維「中国囲碁外史 37」(『棋道』1989年9月号)
^ 竹田晃訳(平凡社 2000年)では山東省平原の話、若者の名前は顔趙。
参考文献
林元美、林裕校注『爛柯堂棋話』平凡社 1978年
中野謙二『中国囲碁四千年の知恵』創土社 2002年
大室幹雄『囲碁の民話学』岩波書店 2004年
関連項目
リップ・ヴァン・ウィンクル
浦島太郎
■
力戦(りきせん)とは、将棋や囲碁では、定石(定跡)から外れた戦いのことである。
語源
『史記』馮唐伝より。力を尽くして戦うことを言う。
前例がない対局であれば、対局者自身の実力のみで戦うという意味からか。
将棋
「手将棋」(てしょうぎ)、「力将棋」(ちからしょうぎ)とも言う。
力戦の戦形や局面のことを「力戦形」(りきせんけい)もしくは「力戦調」(りきせんちょう)という。阪田三吉のように力戦を好む棋士を実戦派と呼ぶこともある。
囲碁
「力碁」(ちからご)とも言う。
■
竜星戦(りゅうせいせん)は、囲碁のテレビ棋戦。毎年8月から9月にかけて、決勝トーナメントが行われる。1990年度創設で、1997年から公式戦となった。また2006年より、中国棋院と囲碁・将棋チャンネル共催で中国竜星戦が行われている。
竜星戦はCATV、スカパー!、スカパー!光、ひかりTVなどの『囲碁・将棋チャンネル』で、毎週金曜日と日曜日に放映されている。(詳しくはテレビ放送の項を参照)
主催 日本棋院
協賛 株式会社 囲碁将棋チャンネル
優勝賞金 600万円(2012年現在)
目次 
1	しくみ
1.1	予選
1.2	ブロック戦
1.3	決勝トーナメント
2	歴代決勝結果
3	テレビ放送
3.1	関連番組
4	脚注
5	関連項目
6	外部リンク
7	脚注
しくみ
予選・ブロック戦・決勝トーナメントからなり、テレビ放映はブロック戦からである。優勝者は、次回優勝者が決定する対局が放送されるまで、竜星を名乗ることができる。
予選
ブロック戦に出場する棋士を決定するもので、非公開で行われる。
持ち時間は1時間で、秒読みは時計により60秒となっている。
なお、前期決勝トーナメント進出者は無条件で予選免除となる。
ブロック戦
A~Hの8ブロックに、各12名の棋士及びアマ(合計96名)がパラマストーナメントを戦う。
20期までは前期の決勝トーナメント進出者のうち1回戦で敗れた者は無条件で各ブロックの序列2位、2回戦以上に進出した者は序列1位に置かれていたのだが、21期よりルールが変わった。23期よりアマ竜星及び準優勝者が予選に出場できるようになり、勝ち上がれば本戦に出場可能となった。これにより、洪爽義アマ竜星が23期本戦Aトーナメントの最下位で出場を果たしている。
序列1位資格者(この順で資格がある)
前期優勝者
前期準優勝者
タイトルホルダー[1]
前期決勝トーナメント準決勝敗退者
前期決勝トーナメント2回戦敗退者
序列2位資格者
前期決勝トーナメント1回戦敗退者(タイトルホルダーを除く)
序列1位が定員オーバーになった場合は資格の順位が下位の棋士(複数いるときはその中で棋士の序列で下位の者)が序列2位へと押し出され、その分序列2位資格者のうち棋士の序列下位のものが序列3位へと押し出される。
各ブロックの優勝者(最終戦に勝った者)と、優勝者を除く最多勝ち抜き者(複数いる場合は序列上位の者)が決勝トーナメントに出場する。
なお、各ブロックの第1回戦に登場した者(序列11位または12位の者)が優勝(11人抜き)をしてしまった場合には、そのブロックはその者のみが出場し、欠員は他の7ブロックで決勝トーナメント出場資格を失った者のうちの最多勝ち抜き者が補充される。
持ち時間はなく、初手から30秒の秒読み。ただし考慮時間(1分単位で10回)あり。
なお、現在のように8ブロックに分かれたのは第11期からで、それまでは1ブロック24名[2]の4ブロック制だった。
決勝トーナメント
16名(10期までは8名)による通常のトーナメントである。
持ち時間や考慮時間の利用はブロック戦と同じ。
歴代決勝結果
年は決勝トーナメントが実施された時点。ブロック戦は前年10月から行われている。 左が勝者。
1991年 趙治勲 - 石田芳夫
1992年 大竹英雄 - 趙治勲
1993年 趙治勲 - 柳時熏
1994年 森田道博 - 林海峰
1996年 小林覚 - 中小野田智己
1997年 小林光一 - 小松英樹
1998年 加藤正夫 - 趙治勲
1999年 山田規三生 - 森田道博
2000年 高尾紳路 - 高木祥一
2001年 加藤正夫 - 張栩
2002年 小林光一 - 王銘琬
2003年 小林光一 - 羽根直樹
2004年 高尾紳路 - 山田規三生
2005年 結城聡 - 張栩
2006年 張栩 - 結城聡
2007年 張栩 - 結城聡
2008年 河野臨 - 張栩
2009年 井山裕太 - 張栩
2010年 山下敬吾 - 中野寛也
2011年 井山裕太 - 結城聡
2012年 井山裕太 - 林漢傑
2013年 山下敬吾 - 河野臨(三コウ無勝負により再戦)
2014年 河野臨 - 余正麒
2015年 結城聡 - 趙治勲(趙の一身上の都合に伴う対局辞退のため結城の不戦勝)
2016年 一力遼 - 井山裕太
テレビ放送
2010年度 (第19期)
毎週金曜日、日曜日 20:00 放送
毎週月曜日、水曜日 8:00 再放送
毎週火曜日、木曜日 24:00 再々放送
※なおいずれも対局が早く終わり局後の検討などを含めても時間が余った場合は、「詰碁TV」「次の一手TV」などの再放送で穴埋めする。また、第22期からは将棋の銀河戦と同じく両対局者、記録係と合わせて棋譜読み上げ係が登場しており、NHK杯と同じように着手後に棋譜の読み上げを行うようになった。翌第23期からは、これも銀河戦同様に手番表示を行うようになっている。いずれも同チャンネルで放送される女流棋聖戦でも同様の措置を取る。
関連番組
竜星クラブ(毎週火曜日 17:30~18:00、毎週水曜日 19:00~19:30、毎週金曜日7:00~7:30)
最新2局の棋譜解説と、次週の対局の見所などを紹介。
竜星戦ダイジェスト
上記と同様。出演は進行役の女性観戦記者と解説役の男性棋士の2名によるコンビ。解説役の棋士は鶴山淳志七段と高梨聖健八段。大盤による解説でなく、パソコンによる棋譜再現を用いて解説するのが特徴。
※第21期以降、このような関連番組は放送されていない。
脚注
^ 20期までは、決勝トーナメント進出を逃した場合は序列3位に置かれた
^ 5期および6期のみ12名であった。
関連項目
銀河戦(主催の将棋のテレビ棋戦)
外部リンク
日本棋院竜星戦
囲碁将棋チャンネル 竜星戦
脚注
棋戦 (囲碁)
■
量子三目並べ(りょうしさんもくならべ)は、Allan Goffらが三目並べをもとに2002年に考案した二人零和有限確定完全情報ゲームである。量子力学における重ね合わせ、量子もつれ等の量子力学の基本的な概念の理解を助けることを目的として考案された。(石関・松浦(2010, p.101))
目次 
1	ルール
2	参考文献
3	関連資料
4	外部リンク
ルール
盤は通常の三目並べと同様に3×3の9つのマスを使用する。マークは先手を○、後手を×として、順に○1、×2、○3、…、×8、○9とする。
各手番でプレイヤーは、9つのマスのうちの2つに確定していないマーク(石関・松浦(2010)では量子マークと呼んでいるのでここではこれに倣う)を置く。マークした時点ではこのマークは確定せず、ゲームの進行によって後から確定することになる。量子マークは他の量子マークがすでに置かれているマスにも置くことができる。特例として、○9の手番ですでに他の8マスが確定している場合のみ、残りの1マスを即座に○に確定させる。
プレイヤーの新たな量子マークによって、同じ番号の2つずつ量子マークをそれぞれ結んだときに輪ができる状態になったとき(これを「"cyclic entanglement"が発生した」と言う。)、この輪を完成させた方ではない方のプレイヤーが、この輪に関わるマークの確定のしかたを選ぶ。なお、cyclic entanglementが発生したとき、この輪を形成するいずれかの番号の量子マークをどちらかのマスに確定させると、連鎖的にこの輪に関わる全てのマークが確定するため、有りうる確定の結果は2通りである。ここで、「この輪に関わるマーク」とは、直接に輪を形成しているマークのみでなく、ペアのうち一方が輪の上あり、もう一方が輪に関係ないマスにある量子マークのペアも含む(このようなペアの量子マークは、輪に関係ない方のマスに確定する。)。
通常の三目並べと同様に、確定した自分のマークを一列に3つ並べたプレイヤーが勝利である。しかし、量子三目並べでは、cyclic entanglementを確定させた結果、先手と後手が同時にラインを完成させる場合がある。この場合は、ラインを形成する確定したマークの番号のそれぞれの最大値を比べて、これが小さい方が優位であるとされる。
参考文献
石関匠・松浦昭洋 「量子三目並べの必勝法解析」『ゲームプログラミングワークショップ2010論文集』2010巻12号、2010年、pp.101-107。
関連資料
Allan Goff, “Quantum tic-tac-toe: A teaching metaphor for superposition in quantum mechanics,” American Journal of Physics, Volume 74, Issue 11, 2006, pp.
外部リンク
QTPy(英語) - コンピューターと量子三目並べの対戦をすることができる。
量子三目並べの必勝法解析 - 情報学広場:情報処理学会電子図書館 - 論文「量子三目並べの必勝法解析」のPDFファイルを無料でダウンロードできる。
Scitation: Quantum tic-tac-toe: A teaching metaphor for superposition in quantum mechanics(英語) - 有料でAllan Goffが発表した論文を読むことができる。■
■
囲碁のルール(いごのルール)について、以下に記す。
目次 
1	概要
2	基本ルール
3	対局者(プレーヤー)
4	盤上の石の状態
4.1	石の連続
4.2	取り
4.3	石の存在
5	着手
5.1	呼吸点
5.2	自殺の禁止
5.3	同型反復禁止(コウ)
6	終局
6.1	投了
6.2	連続パス(対局の停止)
6.3	死活判定
6.4	地
6.5	死石の処理
6.6	終局に関するトラブル
7	勝敗判定
8	ハンディキャップ
9	反則
10	出典
11	参考文献
12	外部リンク
概要
基本的なルールは長い歴史の中でも変わっていないが、トラブルが少なくなるように、またゲームとして楽しめるように細かな改良が続けられてきた。だが大部分はほぼ不変で、囲碁がボードゲームとして完成されていることを表している。現在では大きく分けて、中国ルールと日本ルールの2系統が主流であるが、どちらを用いてもほとんどの場合勝敗や戦略には変わりがない。
以下では日本ルールを説明する。個々の概念の詳細は、外部リンクを参照されたい。
まず、囲碁においては信義則が重要となる。日本囲碁規約にも「この規約は対局者の良識と相互信頼の精神に基づいて運用されなければならない。」とある。とりわけゲームの特性上、終局処理に両者の合意が数多く必要とされる囲碁においては円滑に対局を行う上で必要不可欠である。近年、ネット碁で対局者がお互い匿名である場合も多いが、そのような状況では信義則はより重要である。
基本ルール
碁盤の線の交差部分に黒と白が交互に打つ。
地(自分の領域)の多いほうが勝利。
相手の石は上下左右を囲うと取れる。
着手禁止点(自殺手)
コウ
対局者(プレーヤー)
黒番と白番と呼ばれる2人のプレイヤーがそれぞれ、黒・白の石を使用する。黒番・白番を略して、それぞれ黒・白と呼ぶこともある。[1]
盤上の石の状態
以下の条件で盤上の交点上に石が存在し続ける。
石の連続
複数個の一つの色の石が縦横の碁盤の線に沿ってつながっているものは石の一団とよばれる。
縦横のつながりが重要で、斜めは関係ない。「つながっている」「囲まれる」などの言葉は、縦横に限った話である。
取り
石の一団は、その周囲の交点全てに相手の石を置かれると取られる。
石の一団は隣接点で呼吸をしている。隣接点が空点(石が存在しない交点、呼吸点)であれば、呼吸ができる。隣接点に相手の石があれば呼吸を邪魔される。上下左右四方向とも相手の石にふさがれると窒息してしまい取られてしまう。もし、隣接点に味方の石がある場合は、味方の石を通じて呼吸ができ、石の一団で一つでも呼吸のできる石があれば、その石の一団全体が呼吸できる。全ての石の縦横が塞がれ、呼吸のできる石が一つも無くなった場合は、その石の一団全体が窒息し取られてしまう。取った石はハマとよばれる。
石の存在
取られない石は、着手されてから終局まで盤上に存在し続ける。
着手
黒と白が、交互に一つずつ石を置いていく(打つ、着手する)。黒が先手で、白が後手となる。
以下に述べる着手禁止点を除く、盤上のすべての空いている交点に着手して良い。パスも可能。
呼吸点
盤上の交点に石を置いたとき上下左右に隣接した4つの交点が存在する。石はこの点を使って呼吸をしていると考えることができ、この点を呼吸点と呼ぶ。 呼吸点をすべて相手の石で囲まれると石は死にハマとなる。
自殺の禁止
自分の石を置くとその石が取られる状態になる点は着手禁止点となる。つまり自殺は禁止。ただし、自殺手によって、相手の石が取れる場合は、自殺手は許され、打ち込んだその石自体も取られない。
同型反復禁止(コウ)

同型反復禁止(コウ)
詳細は「コウ」を参照
対局者の一方が一つの石(以後一子と称す)を取った後、即座にもう一方の対局者が一子を取れる状態になる場合。この状態をコウと呼ぶ。一子の取り合いを続けていると永久に対局が終わらないことになるため、コウには特別ルールを設けている。一方の対局者がコウの一子を取った後、もう一方の対局者は別の場所に1手打たない限りはコウの一子を取り返すことが出来ないものとする。なお、この別の場所に打たれる一手のことを、コウ材またはコウダテと呼ぶ。コウがあまりに長くその局が長手数になると打つ石が碁笥の中に無くなってしまう場合があるが、その時は互いのアゲハマを同じ数交換し補充する。
終局
投了
一方のプレーヤーが投了を告げた場合はその時点で終局となり、もう片方のプレーヤーが勝ちになる(「中押し(ちゅうおし)勝ち」と表記される)。
連続パス(対局の停止)
また、二人のプレーヤーが連続でパスをすると終局処理に入る。ネット碁でない通常の対局では、パスの代わりに、両対局者の合意によって終局状態に移行する。言葉で終局を確認したり、頷きあったりして確認することが多い。逆に、「両対局者の合意」などの終局状態への移行手続きを形式化した表現が連続パスであると考えて良い。
死活判定
「死活」も参照
Go regeln lebende gruppe.png
盤上にある石は活き、死にの二つの状態のどちらかになる。日本囲碁規約では以下の通り定められている。
活き:相手方の着手により取られない、又は取られても新たに相手方に取られない石を生じうること。
ここで「取られても新たに相手方に取られない石」とは例えば、ウッテガエシのような「一度取られてもその後取られない石」[2]や、相手がある石を取ろうとしたことが原因で自分が新たに置ける活き石[3]が該当する。
セキ:一方のみの活き石で囲んだ空点を目(め:地を数える単位も同じ漢字だが、読み方はもく)といい、目以外の空点を駄目(ダメ)という。活き石のうち、駄目を有する(隣接している)活き石をセキ石という。
死に:活きでないこと
死活判定は必ずしも簡単ではない。日本囲碁規約逐条解説では、死活例が多数示されているが、あくまでも基本パターンを示したに過ぎず、ここでも対局者両者の合意が前提となる。
地
セキ石以外の活き石の目を地という。死石を除去すると、盤上には活きた白石と黒石のみが存在する。自分の石と碁盤の端で囲んだ領域を、自分の地と定義する。
死石の処理
相手の死んだ石は、盤上から取り除き、自分のハマに加える。ハマをもって相手方の地を埋める。
終局に関するトラブル
とりわけ日本ルールでは終局に関するルールがやや煩雑である。そこで、例えば、お互いの合意が成立していないのに終局が成立していると勘違いし、駄目詰めに対して必要な着手(手入れという。)をせずに石をとられてしまい、終局していたかどうかで争いになってしまうといったトラブルが後を絶たない。こういったトラブルはアマチュアだけでなくプロでも起こり得る。
2002年王立誠二冠(棋聖・十段)に柳時熏七段が挑戦した第26期棋聖戦七番勝負第五局において、終局したと思っていた柳時熏は「駄目詰め」の作業に入っていたが、王立誠は終局とは思っておらず柳時熏の石六子を取ってしまった。終局していないのなら柳時熏は取られないように「手入れ」すべきで、終局しているなら順序関係なくお互いの地にならない駄目をつめるだけだったため柳時熏は手入れを怠った。これにより王立誠の逆転勝利となり、行為の正当性を巡り囲碁界に論争を巻き起こした。この騒動では、初めてビデオによる裁定が行われた。なお一部で誤解されているが、この事件によって日本囲碁規約が改訂されたということはなく、この事件の影響はプロの間で終局処理が実際に日本囲碁規約に沿った形で明確に行われるようになったということである。
勝敗判定
地の一点を「一目」という。地の面積は、交点の数で数え、単位は目(もく)である。双方の地の目数を比較して、その多い方を勝ちとする。同数の場合は引き分けとし、これを持碁という。中国ルールにおいては、地の目数と盤面で生きている石の数の合計の大小で勝敗を決する。このため、セキの場合などに勝敗が変わることがある。
麻雀などの他の点数を使うゲームと異なり、囲碁においては通常目数の差は重要ではない。そのため、複数回対局して優劣を競う大会などでは、目数差は累積せず、単に勝敗のみを記録して集計する。
ハンディキャップ
囲碁は先手有利のゲームなので、両者が同程度の有利さで対局する(互先)場合、コミと呼ばれるハンディキャップを先手の地の計算から引くことが一般的。実力差がある場合は、置き碁が行われることがある。
反則
囲碁において反則負けとなる行為には以下のようなものがある。
ハガシ
一度打った自分の手を打ち直すこと。
二度打ち
相手の手番を飛ばして二度続けて打ってしまうこと。
コウの取り番の間違い。
コウ材を打っていないのにコウをとってしまうこと。
着手禁止点
打った時点で相手に取られてしまうような着手は打ってはいけない。
出典
^ 『囲碁百科辞典』
^ “Ⅱ日本囲碁規約(ルール)逐条解説”. 日本棋院. 2016年8月10日閲覧。
^ “Ⅲ 死活確認例”. 日本棋院. 2016年8月10日閲覧。
参考文献
林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年。
関口晴利『囲碁ルールの研究』文芸社、2007年。
外部リンク
日本囲碁規約
囲碁ルール博物館
■
狩野永徳による囲碁の絵
この項目では、囲碁の歴史(いごのれきし)について解説する。
目次 
1	中国の囲碁
1.1	起源・考古資料
1.2	先秦時代
1.3	漢魏晋
1.4	南北朝時代
1.5	唐代
1.6	宋代
1.7	元代
1.8	明代
1.9	清代
2	日本の囲碁
2.1	日本伝来
2.2	愛好者の広まり
2.3	江戸の黄金期
2.4	日本棋院誕生
2.5	戦後の囲碁
3	現代の日本の囲碁
4	現代の韓国・中国の囲碁
5	その他の国の囲碁
6	持ち時間の歴史
7	参考文献
7.1	日本の囲碁
8	脚注
中国の囲碁
棋待詔(囲碁を以って仕えた官職)も参考
起源・考古資料

朱氏筆 三星碁図 絹本着色 中国元代 根津美術館
囲碁の実際の起源ははっきりとは判っていないが、中国で占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったのではないかと言われている。
考古学的な考証を見ると、2002年に中国陝西省の考古学者が、前漢の景帝陽陵で、前漢時代(206 BC - 24 AD)のものと思われる陶製碁盤の断片を発見した。中国の考古学者の調査によれば、この碁盤は皇帝の陵墓から出土したとはいえ、皇族が使用したものではなく、陵墓の墓守達の遊戯のために使用されていたものと推定されている。このことから、中国では囲碁は2000年前には庶民の間にゲームとして一般的であったと考えられる。初期の碁石は、唐宋期のものが残っている。
先秦時代
伝説では、堯が息子の丹朱が賢くないのを見て、囲碁を発明し、教えたという。晋代の張華は「博物志」で、「堯造圍棋,以教子丹朱」と「舜以子商均愚,故作圍棋以教之」と記載する。“夏人烏曹作賭博圍棋。”(『潛確類書』)と、夏の時代に発明されたとする伝説もあった。もちろんこれは寓話であり事実ではない。
紀元前には囲碁のことを「弈」(エキ)と呼んでおり[1][2]、「棋」は六博という別のゲームの駒を意味していた。後漢にはいると六博がすたれて、「棋」は弾棋を意味するようになったが、弾棋もすたれると、ようやく囲碁のことを「棋」というようになった。
春秋時代、孔子は囲碁について触れ、「飽食終日,無所用心,難矣哉!不有博弈者乎,為之,猶賢乎已!」(一日中何もしないよりは六博や碁でもやっていた方がましだ)と述べている。(論語・陽貨)
『孟子』や『春秋左氏伝』にも「弈」(囲碁)に関する記載がある。
先秦時代の囲碁のルールは明らかでない。
漢魏晋

石製碁盤 望都漢墓 中国後漢
この期間、囲碁はサイコロを使ったゲームの「六博」とともに「博弈」と称され、上層階級に広まった。ただし、前漢では運次第の「六博」の方が知力を競う囲碁よりも流行していた。後漢に至ってようやくこの状況は改善され、囲碁は兵法に類似しているとして、段々と重視されるようになってきた。班固の『弈旨』は世界初の囲碁の専門書とみなされる。馬融は『圍棋賦』のなかで最初に「三尺之局兮,為戰鬥場」との思想を表明した。曹操や孫策や王粲などの当時の著名人はみな囲碁をたしなんだ。関羽が矢傷を負った際、碁を打ちながら手術を受けたというエピソードはよく知られる。
河北省望都の後漢の墓から出土した棋具と魏の邯鄲淳の『芸経』[3]の記載から、この時代の碁盤は17路だったと考えられる。碁石については、安徽省亳州の元宝坑一号墓から後漢末の四角い碁石が出土しているという[4][5]。山東省鄒城の劉宝墓から出土した西晋の碁石は卵型である[6]。
中国に現存する最古の棋譜と言われているものに三国時代の「孫策詔呂范弈棋図」があるが[7]、19路であるために後人の仮託であろう[8]。
南北朝時代
この時期に囲碁は、南方の文人や雅士の間で流行した。碁盤は19路に拡大した[9]。19路の碁盤の現物は隋の時代のものが河南省安陽張盛墓から出土している[6]。
南朝では棋品制度と圍棋州邑制度が設けられ、専業の棋士をそれぞれ異なる級に分け、一定の待遇を与えた。梁の武帝は自ら『圍棋賦』を作って、囲碁を唱導し、囲碁は黄金時代を迎えた。
武帝はまた全国的な囲碁の大会を開催した。これは証拠がある最初の全国大会である。参加者は夥しかった。大会後、上品級と入品を確定した棋士は278人であった。
唐代

王積薪(黒)驪山老媼(白)
唐代に入り、囲碁は急速に発展した。宮中には棋待詔という職が設けられ、皇帝と囲碁をする棋士を専門に養成した。王積薪は開元年間の名人であり、圍棋十訣をまとめた。「不得貪勝,入界宜緩,攻彼顧我,棄子爭先,舍小就大,逢危須棄,慎勿輕速,動須相應,彼強自保,勢孤取和」というこの秘訣は囲碁の古典理論とされる。伝説では王積薪は夢のなかで青龍が棋経九部を吐いて己に授け、この時からその芸が進んだという。唐の天宝年間、安史の乱を避けて王積薪は四川に行き、驪山の老婆の嫁姑の対局を見たという伝説がある。宋代の「忘憂清楽集」には、王積薪の「一子解双征」の棋譜が載っている。(一説には顧師言と日本国王子の対局という)。
開元25年(西暦738年)、棋士の楊季鷹が特使とともに新羅に使者として赴いた。楊季鷹に新羅棋士で敵うものは居なかった。約百年後、長安で顧師言と日本王子高岳親王が対局した。初めての正式な日中対抗戦と言えよう。顧師言はこの対局で「神來之筆」と後に呼ばれた「三十三招鎮神頭」で、一挙に勝ちを決めた。
またこの時期に囲碁が日本に伝来した。
宋代
宋の張擬は孫子の兵法を真似て《棋経十三篇》を書き、後世の囲碁理論と実践に深い影響を及ぼした。北宋時期の劉仲甫は囲碁に関する著作が多く、《忘憂清樂集》、《棋勢》、《造微》、《精理》、《棋訣》等がある。北宋時期の范仲淹、欧陽脩、司馬光、王安石、蘇軾、黄庭堅といった文人や忠臣も高い囲碁の造詣を持っていた。
元代
元朝の嚴德甫と晏天章は『玄玄碁経』を編集し、前人の大量の理論の著述や囲碁の死活や定石をあつめた。
明代
明末の名人の過百齢が『官子譜』を書き、各種の手を収録した。民間では囲碁を使った賭け事が盛んになり、朱元璋が「禁棋令」を出すほどだった。
清代
清朝の時代も、囲碁の名手は続々と出た。康熙年間、黄龍士が徐星友に三子譲った対局の10番の棋譜「血泪篇」は著名である、。乾隆四年(1739年)、施定庵と范西屏は浙江平湖で有名な「当湖十局」を打った。
公的な地位の低下は、明清時期の民間の棋士の経済収入を長く不安定な状態にした。棋士の収入は、囲碁の指導や弟子への伝授のほか、主に観客(主に顕官、富裕な商人、上層文人)の「賞金」や「賭け金」に依存していた。これは明らかに運まかせであった。もし太平の世であれば、貴顕たちにも余裕があって、民間の囲碁活動も盛んになり、棋士の生活も安定する。「諸子爭雄競霸,累局不啻千盤」,「海内国手幾十数輩,往來江淮之間」と、王燮は「弈墨·序」で清初の棋壇の盛况ぶりを描写した。しかしいったん民生が苦しくなると、棋士の生活も苦しくなった。囲碁のレベルも自然と段々下がり、後継者も減った。このような賞金にたよった生活方式は、棋士に独特の勝負観と社会的地位を形成した。囲碁は依然として高尚な芸術であったが、棋士は役者や占い師のように低く見られた。
日本の囲碁
日本伝来

源氏物語絵巻 竹河 部分
日本には遣唐使に加わった吉備真備が伝えたとされる。しかし大宝律令の中に碁に関する項目があること、隋書倭国伝に「好棋博、握槊、樗蒲之戲。(囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む)」との記載があるから、実際にはさらに以前から伝わっていたと思われる。奈良時代には盛んに打たれていた様で、正倉院に碁盤「木画紫檀棊局」が収められている。平安時代には貴族のたしなみとして好まれ、「枕草子」「源氏物語」などこの時代の代表的な文学作品にもしばしば碁の描写が登場する。現在伝えられている日本最古の棋譜と呼ばれる物は1252年に日蓮がその弟子吉祥丸(後の日朗)と打ったという棋譜であるが、おそらくは後世の偽作である。
愛好者の広まり
室町時代に入ると、それまで公家、僧侶階級に愛好されていた囲碁は武家や庶民にも広がり、同時に碁盤と碁石を使った様々な数とり遊びも生み出されて広まった。有力者は「碁打ち」「上手」と呼ばれる半専業の者を抱えて、競わせるようになり、その中には同朋衆や、出自不明の者も少なくなかった。戦国時代に入ると、戦のシミュレーションとして大いに好まれ、隆盛を迎える。武田信玄他、多くの戦国武将が碁を好んだという記録が残っている。
この時期に群を抜いた第一人者として登場したのが日海(後の本因坊算砂)である。この時代には、それまでは対局する両者が碁盤上にあらかじめいくつかの石を置いて対局していたものを、盤上にまったく石の無い状態から打ち始める方式への移行もあった[10]。このため布石の概念も算砂の時代から生まれたといえる。
算砂は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の囲碁の師であり、三人共に算砂に五子置いていたと言う。算砂を現在のトッププロとすれば、信長たちは現在のアマチュア4、5段ということになる。その腕を信長に認められた算砂は名人の称号を名乗ることを許され[11]、更に秀吉にも重用されて扶持を貰うようになり、家康が将軍となった後は名人碁所(めいじんごどころ)として碁界を統括することを命ぜられた。(算砂は将棋所も受けている)[12]
戦国から江戸にかけては日本の碁のレベルが飛躍した時代であり、来日していた朝鮮人の李礿(礿は示編に勺)に三子を置かせて勝利したという記録が残っている。三子という数字は現代でいえばトッププロとトップアマの差である。
江戸の黄金期
江戸時代には算砂の本因坊家と井上家、安井家、林家の四家が碁の家元と呼ばれるようになり、優秀な棋士を育て、互いに切磋琢磨しあうこととなった。四家はそれぞれ幕府から扶持を受けており、それぞれの宗家は血筋ではなく、実力により決められる事となった(血筋も影響したようではある)。その技術の発揮の場が年に一回江戸城内、将軍御前にて行われる御城碁である。この勝負は四家がそれぞれ代表を数人選んで対局され、負けることは家の不名誉であり、弟子の集まり方にも影響があった。
また囲碁界の統括者である名人碁所の地位は、各家元いずれかの宗家であり、棋力が他を圧倒し、かつ人格的にも他の家元からも認められることが必要とされた。本因坊道策のように例外的に何の反対も無く名人となった者もいるが、名人の地位は他の棋士に対して段位を発行する権限を保有するなどの数々の特権と大きな名誉を有しており、多くの場合は名人の地位は争いとなった。争いの解決は対局で行われ、その対局を争碁(そうご、あらそいご)と呼ぶ。
史上初の争碁は二世本因坊算悦と安井家二世の算知との間で争われた。御城碁における手合割を不服としたもので、9年がかりで6戦して3勝3敗の打ち分けのまま、算悦の死によって終わりを告げた。
算知は算悦の死後10年目に名人碁所の座に就くが、算悦の弟子で三世本因坊となっていた道悦がこれに異を唱え、再び争碁が開始された。幕府の意にあえて逆らった道悦は、遠島あるいは死をも覚悟しての争碁であった。両者20戦して道悦の12勝4敗4ジゴとなったところで対戦は打ち切られ、名人算知は引退を表明した。また道悦も「公儀の決定に背いたのは畏れ多い」とし、弟子道策に後を譲って隠居した。道策の技量はこのときすでに道悦を上回っていたとされ、争碁後半で道悦が大きく勝ち越したのには道策との共同研究によるところが大きかったといわれる。
四世本因坊道策は当時の実力者たちを軒並みなぎ倒し、全て向先(ハンデの種類)以下にまで打ち込み、実力十三段と称揚された。もちろん名人にも文句なしに就位している。始祖算砂、棋聖道策と言う二人の不世出の棋士により、本因坊家は名実共に四家の筆頭となった。
時の最強者本因坊道策の下には天下の才能が集まったが、厳しい修行が仇となったのか次々と夭折した。このうち本因坊道的は19歳の時すでに師の道策と互角であったとされ、囲碁史上最大の神童といわれる。晩年、道策は道的に劣らぬ才能本因坊道知を見出し、これを後継者とした。道知もまた後に名人碁所となる。
道知以後は本因坊家の家元も三代にわたって六段止まりとなり、囲碁界自体も沈滞の時代を迎える。しかしここで現れた九世本因坊察元は他家を力でねじ伏せて久々の名人となり、本因坊家に中興をもたらした。また安井家七世安井仙知(大仙知)も華麗な棋風で活躍し、後世に大きな影響を与えた。
18世紀末から19世紀初頭は十一世本因坊元丈と安井家八世の知得の角逐時代を迎える。両者は80局以上に及ぶ対戦を重ねるが戦績はほぼ互角で、江戸期最高のライバルと謳われる。後の十一世井上幻庵因碩・十四世本因坊秀和と合わせ、名人の力を持ちながら名人になれなかった者として「囲碁四哲」と呼ばれる。
十二世本因坊丈和は棋力は第一級であったが、幻庵因碩と碁所の座を争い、策略を駆使して名人位に就いたために後世に悪評を残した[13]。ただしその腕力は史上でも随一とされ、幻庵因碩が刺客として送り込んだ愛弟子赤星因徹を「三妙手」で返り討ちにした松平家の碁会(1840年)は江戸囲碁史のハイライトとされる。
丈和隠退後、幻庵因碩は名人位を望むが、これに抵抗したのが本因坊一門の若き天才児本因坊秀和であった。秀和は本場所というべき御城碁で幻庵を撃破し、その野望を阻んだ。秀和は史上最強の棋士として名が挙がるほどの実力であったが、名人位を望んだ時には世は幕末の動乱期に突入しており、江戸幕府はすでに囲碁どころではない状況に陥っていた。
本因坊秀和の弟子である本因坊秀策は若い頃より才能を発揮して、御城碁に19戦19勝と言う大記録を作ったが、コレラにより夭折した。秀和と秀策と秀策の弟弟子である村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)の三人を合わせて三秀と呼び、江戸時代の囲碁の精華とされる。
江戸時代には武士だけではなく、各地の商人・豪農が棋士を招聘して打ってもらうことが良くあり、落語の『碁打盗人』で有名なように、市井でも盛んに打たれていた。一方で地方によっては双六などとともに賭け事の一種と見られて、禁止令が発されることもあった。
日本棋院誕生
しかし明治維新により江戸幕府が崩壊すると、パトロンを失った家元制度もまた崩壊した。本因坊宗家の秀和は生活に苦しみ、一時は倉庫暮らしとなったほどである。更に西洋文明への傾斜、伝統文明の軽視と言う風潮から囲碁自体も軽く見られるようになった。
その中で囲碁の火を絶やすまいと1879年に村瀬秀甫は囲碁結社「方円社」を設立(方は碁盤、円は碁石のことで囲碁の別名である)。新たに級位制度を採用するなど、底辺の開拓を試みた。それに対抗して秀和の息子である土屋秀栄(後の本因坊秀栄)は1892年に「囲碁奨励会」を設立した。こうして坊社対立時代が続くが、秀栄は秀甫に本因坊の座を譲って和解した。しかしその1ヶ月後に秀甫は死去、秀栄が本因坊に復帰する。
こうした対局の熱気を受けて新聞にも囲碁欄が登場するようになり、一般の囲碁界に対する興味が高まってきた。
一旦は秀栄が本因坊家を相続、名人位に就位して並み居る棋士をなぎ倒して囲碁界を統一した。しかし秀栄の死後は団体が乱立し、囲碁界は混乱の極みとなる。秀栄は後継者を決めないままに死去し、田村保寿(後の本因坊秀哉)と雁金準一が後継の座を争い、囲碁界は混沌とした時期を送った。結局秀栄の弟本因坊秀元がいったん二十世本因坊を襲名し、一年後に秀哉に本因坊位を譲ることでこの難局を収拾した。
この状況の中で関東大震災が起き、囲碁界も大ダメージを受けた。この苦境を乗り切るためには分裂は好ましくないという機運が生まれ、帝国ホテル創業者として有名な大倉喜七郎の呼びかけにより、1923年に東西の棋士が集まって日本棋院が設立された。
発足直後に一部の棋士が離脱し棋正社を結成、日本棋院との間で対抗戦が行われた(院社対抗戦)。この時の本因坊秀哉名人と雁金準一の対局は新聞上に記載されて大人気を呼んだ。これによって読売新聞は発行部数を一挙に3倍に伸ばしたといわれる。1927年には大手合(棋士の段位を決めるための対局)が始まり、これも新聞上で人気を博した。
本因坊秀哉名人は死期が近づいてくると本因坊の世襲制を取りやめることを宣言し、本因坊の名跡を日本棋院に譲り渡した。1936年、日本棋院は本因坊の座を争う棋戦を開催することを決定した。これが本因坊戦であり、囲碁のタイトル戦の始まりでもある。秀哉名人は引退するに当たり木谷実と数ヶ月に及ぶ引退碁を打ち(木谷先番5目勝)、終了後まもなく死去した。
秀哉名人に代わって第一人者の地位を勝ち取ったのが、中国から来た天才棋士・呉清源である。呉清源は1933年、木谷実と共にそれまでの布石の概念を覆す「新布石」を発表し、本因坊戦の開催と前後して秀哉名人と対局を行い、その冒頭「星・三々・天元」という極めて斬新な布石を披露し、世間をあっと驚かせた。この新布石は囲碁界のみならず一般社会をも巻き込んで囲碁のブームを巻き起こした。
戦後の囲碁
1941年には実力制による本因坊戦が開始され、関山利一(利仙と号す)が第一期本因坊の座に就いた。しかし太平洋戦争が勃発すると棋士たちは地方に疎開せざるを得なくなり、各地でどさ周りをするようになった。日本棋院の建物も空襲で全焼しており、棋士・岩本薫の自宅に一時事務所を移転した。
その中でも本因坊戦は続けられていた。1945年8月6日の第三期本因坊戦(橋本宇太郎対岩本薫)の第2局は広島市郊外で行われ、対局中に原子爆弾の投下が行われ、対局場にも爆風が及び、碁石が飛び散ったが、対局は最後まで行われた。この対局は「原爆下の対局」と呼ばれる。
戦後しばらく日本棋院は都内各所の料亭などに場所を借りて対局を行っていたが、自前の対局所を持つべきだという声が強まり、1947年港区高輪に棋院会館が開設された。
呉清源は戦前より、当時の一流棋士たち相手に十番碁(十回対局をして優劣を決める)を何度も行い、その全てに勝利した。1950年には名人の別名である九段位(現在はそういった意味は無い)に推挙され、「昭和の棋聖」と呼ばれた。
1950年には不満を持った関西の棋士たちが当時の本因坊・橋本昭宇(橋本宇太郎)に率いられて日本棋院を離脱し、新たに関西棋院を設立した。1951年、その橋本から高川格が本因坊を奪取、以後9連覇という偉業を成し遂げた。また1953年には王座戦、1956年には十段戦、1962年には名人戦が新たなタイトルとして設立され、新聞碁でもタイトル戦が中心となる。
呉清源は1961年に交通事故に遭い、その後は精彩を欠いた。それに代わって碁界を制覇したのが坂田栄男である。坂田は高川格から本因坊位を奪い取った後に七連覇、また名人戦でも1963年の第二期では藤沢秀行からタイトルを奪った。この年は30勝2敗という驚異的な成績を残し、十段を除く当時のタイトルを独占した。
この坂田時代に待ったをかけたのが台湾から来日して日本のプロとなった林海峰である。1965年に名人を坂田から奪ったのを皮切りに、坂田の牙城を崩していった。更に林に対抗した木谷実門下の大竹英雄が登場し、竹林時代を作る。
またその他の木谷実の門下生たちも一気に活躍し出し、石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹の三人は木谷三羽烏と呼ばれた。この後1990年代まで、木谷の弟子たちが互いにタイトルを奪い合う一門の黄金時代(木谷一門黄金時代)が続いた。この時期この中に割って入ったのが藤沢秀行で、50代になってから棋聖戦で6連覇を記録するなど一人気を吐いた。
1974年、読売新聞が主催していた名人戦が朝日新聞に移籍するという名人戦事件が勃発。物価の上昇にも関わらず長年据え置かれていた各棋戦の契約金が見直されるきっかけとなった。これにより1975年に天元戦、1976年には棋聖戦・碁聖戦が設立、現在の七大タイトルが出揃うこととなった。
木谷三羽烏の後に時代を築いたのが、またしても木谷門下の趙治勲と小林光一の二人である。先に趙が活躍をはじめ、1983年には棋聖・名人・本因坊の三大タイトルを一年に独占する大三冠(だいさんかん)を達成し、1987年には七大タイトル全てを一回以上獲得する(一年に独占ではない)グランドスラムを達成した。少し遅れて活躍を始めた小林は趙から棋聖・名人を奪い取り、それぞれ八連覇・七連覇を達成した。小林は本因坊を取れば大三冠というチャンスを幾度となくつかむが、その都度趙に阻まれる。趙は1989年から本因坊十連覇を成し遂げ、これは囲碁界のタイトル最長連覇記録となっている。
90年代後半に入ってからは、ようやく衰えを見せた木谷一門に代わり、依田紀基と王立誠の両名が覇権を争い、21世紀に入ってからは張栩、高尾紳路、山下敬吾、羽根直樹ら平成四天王がタイトル戦線を割拠した。
しかし、2009年に平成生まれの天才棋士・井山裕太が初の大タイトルとなる名人を戴冠すると、2012年には一挙に五冠王となり、23歳にして第一人者の地位に就いた。そして、2016年には囲碁史上初となる七冠独占を達成し、世代交代の波を告げた。また、同時期から村川大介、伊田篤史、一力遼などの平成生まれの棋士たちが続々と躍進を見せている。
現代の日本の囲碁
ただし90年代からは囲碁の世界戦が開始され、当初は武宮正樹らの活躍があったものの、近年は韓国・中国の後塵を拝する時代が続いている。日本は若手の育成が遅れ、韓国・中国の急速な伸張に対抗しきれずに現在に至る。囲碁人口自体も老年の男性に偏り、若いうち(10歳前後)が大事といわれる棋士の育成が阻害されている。
このように競技人口の高齢化が深刻な問題となっていた日本囲碁界だったが、1998年から2003年まで週刊少年ジャンプにて漫画『ヒカルの碁』(後にテレビアニメとしても放送)により囲碁ブームとなり、多くの子供たちが囲碁を打つ姿が見られるようになった。しかし連載終了によって囲碁ブームも去り、子供たちをどう育成していくかが今後の課題である。「囲碁競技人口」は、1982年の1130万人から、2004年450万人、2006年360万人、2007年240万人と漸減傾向が続いている。
日本は国際大会でも連敗を続けており、世界戦では日本人がベスト16にも名を連ねられないことも珍しくない。この原因の一つとして、韓国・中国と日本の賞金の違いが考えられる。日本の棋聖戦の優勝賞金は4500万円(2010年現在)の賞金であり、国際戦最高額の富士通杯が2000万円であることから、日本は国内戦を優先に戦っている。韓国・中国の国内戦は日本戦に比べると安く、韓国の最高額であるKT杯マスターズプロ棋戦で5000万ウォン≒500万円である。また韓国人棋士は世界戦に優勝すると兵役を免除されるという特典がある。しかしこうした実利的な面ばかりでなく、囲碁熱の高さ、囲碁に対する国民の注目度、それがもたらす層の厚さが大きな要因といえる。また日本の主要な棋戦と持ち時間の長さが異なることも要因の一つとして挙げられている(後述)。
現代の韓国・中国の囲碁
中国と韓国では長らく囲碁は余技としてあまり重視されておらず、江戸時代には日本とはっきりした実力差があった。たとえば1620年に朝鮮の第一人者が来日した際には、本因坊算砂は三子置かせて勝利を収めている。昭和に入っても中韓にはプロ棋士という制度がなかったため、囲碁を志す者は日本にやってきてプロを目指すのが通例であり、呉清源・林海峰・趙治勲・曺薫鉉らはその代表である。曺薫鉉は、日本で修業した後、韓国へ帰り囲碁の普及に尽力した。
しかし1955年に韓国棋院が設立され、韓国内でプロを目指すものも増えてきた。中国でも1981年に中国囲棋協会が創設され、棋士を目指す子供が急増し、国内で囲碁のリーグ戦が開かれるようになった。また1984年から開始された日中対抗戦・日中スーパー囲碁では聶衛平が日本のトッププロに対して11連勝を記録し、レベル向上を印象づける結果となった。
1988年に日中韓の棋士たちが集まる世界大会世界囲碁選手権富士通杯が創設され、世界大会が次々と創設されるようになった。その国際戦を曺薫鉉・李昌鎬らの韓国棋士が勝利するようになると人気が爆発し、韓国内のそこここで囲碁教室が開かれるようになり、頭の良い子供たちは収入の良いプロ囲碁棋士になれと親から言われるようになった。特に李昌鎬の活躍は目覚ましく、16歳で世界大会初優勝を果たした後、世界の第一人者と呼ばれるようになった。
21世紀初頭に至り、韓国勢は世界の囲碁界を制した。李昌鎬と李世ドル(ドルの字は石の下に乙。韓国の国字)の二人が相争いながら世界タイトル戦線を席巻し、それに曺薫鉉・劉昌赫の二人を加えた四人が世界の四強と言われた(全て韓国)。それを追いかける朴永訓ら新鋭の層も極めて厚く、その覇権は盤石と思われた。しかし2005年ころから国家レベルで若手棋士の育成に励む中国が急ピッチでこれを追い上げ、常昊・古力ら若い棋士が世界のトップを争うようになっている。中国では周睿羊、陳耀燁、王檄ら、韓国では崔哲瀚、朴永訓、姜東潤ら10代から20代の若手がトップ戦線を走り、周俊勲ら、台湾勢も台頭し始めた。
その他の国の囲碁
事前置石の無い自由布石は、四百年前の日本に端を発するため、諸外国においては事前置石のルールが受け継がれている。中国韓国では、プロ組織の編制を機に自由布石が普及を開始した。これらの近代普及以前に囲碁が伝わった地域としては、中国韓国以外にはチベットが知られており、チベットの皇子が来日した際、17路式の囲碁の遊具を持参して日本のプロと打ったという記録がある(密芒)。
戦後になると、岩本薫らの努力によって、これらの国以外にも囲碁は世界に普及し始めた。さらにインターネットの出現によりネット碁を通じてどこにいても強い相手と戦える環境が整い、南米のアマチュアが日本のプロ九段を破るような事態もすでに発生している。日本棋院所属のマイケル・レドモンド(アメリカ出身)など、欧米出身のプロ棋士も数人存在する。
アマチュアの世界では更に拡大の傾向を見せており、アメリカで20万人・ロシアで10万人・ドイツで5万人の競技人口がいると推定される。
持ち時間の歴史
江戸時代、明治時代には持ち時間という考え方がなく、対局時間は無制限であった。ただし全ての碁が極めて長かったというわけではなく、1日で2局打ち上げた記録も残るなど早打ちの棋士も多かったらしい。大正期以降、新聞碁が主流になってくると掲載時期の関係から無制限というわけにはいかなくなり、1926年の院社対抗戦、本因坊秀哉名人対雁金準一七段戦で初めて持ち時間が導入された。この時の持ち時間は両者16時間ずつという極めて長いもので、これは秀哉が極端な長考派であったことが影響しているとされる。またこの時は秒読みというものがなく、考慮中の雁金に突然時間切れ負けが宣告されるという幕切れを迎えた。秀哉名人引退碁では両者に持ち時間40時間が与えられている。
タイトル戦初期の頃には持ち時間も各10~13時間、三日制であったが、これは徐々に短縮されていった。現在は一般棋戦では持ち時間5時間、棋聖・名人・本因坊の三大タイトルの七番勝負のみ二日制、各8時間持ちとなっている。しかし韓国・中国では各3時間持ちというのが一般的であり、国際棋戦もこれに合わせて行われるものが多く、日本人棋士が国際戦で振るわない原因の一つに挙げられている。持ち時間の長い国内棋戦に対し、3時間が主流の国際棋戦では布石に持ち時間を使うよりも研究で突き詰める方が効率がよく、日本の棋士が布石の研究で遅れた部分もある。このため日本国内のタイトル戦も国際戦に合わせるべきという声が高まり、王座戦などで3時間制が導入されるようになっている。
「早碁」も当初は持ち時間が4時間というものであったが、近年テレビ放送に合わせて1手30秒、持ち時間10分というシステムが一般化した。
参考文献
日本の囲碁
林元美『襴柯堂棋話』1778年(嘉永2年)
安藤如意『坐隠談叢』1904年(明治37年)**改訂版 1910年(明治43年)**渡辺英夫増補版 1955年(昭和30年)
増川宏一『碁 ものと人間の文化史59』法政大学出版局 1987年
横井清『中世民衆の生活文化』講談社 2007年
中山典之『囲碁の世界』岩波新書 2003年
日本囲碁大系
現代囲碁大系
『囲碁百年』(全3巻)平凡社 1968年
福井正明『碁界黄金の十九世紀―江戸後期から明治‐日本の碁を頂点に導いた名手たち』日本棋院 2007年
『昭和の名局』(全5巻)日本棋院 1980年
田村竜騎兵『物語り 囲碁英傑伝』毎日コミュニケーションズ 2005年(初版1972年)
伊藤敬一『昭和囲碁名勝負物語』全2巻 三一書房 1994年
中山典之『昭和囲碁風雲録』全2巻 岩波書店 2003年
脚注
^ 許慎『説文解字』𠬞部「弈、圍棊也。」
^ 揚雄『方言』巻5「圍棊謂之弈。自關而東、齊魯之間、皆謂之弈。」
^ 『文選』巻52、韋昭「博弈論」の李善注が引用している
^ 中野謙二 『囲碁 中国四千年の知恵』 創土社、2002年、111頁。
^ 『中华奇葩』 2016国际智力运动联盟智力运动精英赛。
^ a b Andrew West (2009-04-15), A Pictorial History of the Game of Go, BabelStone
^ 南宋の李逸民『忘憂清楽集』に見える
^ 銭大昕 『十賀斎養新録』巻19・棊局。
^ 『孫子算経』(遅くとも5世紀に成立)巻下「今有棋局、方一十九道」
^ 置石制の廃止は算砂によるという説もあるが、それを示す証拠は見つかっていない。
^ 実際に「信長から名人の称号を受けた」かには異論もある。詳細は本因坊算砂を参照。
^ 「碁所」「将棋所」という名称がこの時期に確立していたか、また幕府から与えられた役職かどうかは疑問視する説も提示されている。詳細は「碁所」「将棋所」を参照。
^ ただし、名人就位前に幻庵と争碁を申し出ている文書が近年、発見されている。福井正明(秋山賢司構成)「囲碁史探偵が行く」(日本棋院)より。
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連珠(れんじゅ)は、五目並べ競技として成立するようにルールを整えたボードゲームの一種である。
目次 
1	概要
2	用具
3	歴史
4	現行の用語と基本ルール
5	珠型
5.1	直接打ち
5.2	間接打ち
6	開局規定
6.1	珠型交替・五珠二ヶ所打ち
6.2	珠型五珠題数提示選択打ち
6.3	均衡打ち
6.4	五回交代打ち
6.5	二回交代打ち
7	必勝定石
8	類似のゲーム
9	関連項目
10	外部リンク
概要
連珠は碁盤の上に黒白の碁石を交互に置き、先に石を縦横斜めのいずれかに5つ並べた者が勝ちである。
しかしこの条件では先手の必勝法が解明(後述の#歴史を参照)されており競技として成立しないため、ルールにより先手の着手を制限して先手と後手の均衡をとったものを連珠もしくは着手制限連珠と呼称することが多い。しかし、先手の着手を制限してもなお、先手必勝の方法が発見されたため、現在では単純に先手・後手を決めるのではなく、変則的な方法によるものが正式なルールとなっている(詳細は「開局規定」の項を参照)。連珠は、二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される。
かつては「聯珠」とも表記していたが、戦後は常用漢字制限により「連珠」という表記がほとんどである。
用具
連珠では以下の用具を用いる。
碁石(「珠」ともいう): 黒・白の二色。基本的には囲碁で使う碁石と同じものを使用する。連珠では一度打たれた碁石が移動しないため、中国の碁石は「片面がフラットなドーム形状」になっているので、研究などで変化手順を検討するときは、石を裏返しに置くことで「変化で打たれた碁石」が判別しやすいという特徴がある。
碁笥(ごけ): 碁石を入れる器。珠笥(じゅけ)ともいう。連珠用に小さく作られている。
連珠盤: 板の上に、直交する縦横それぞれ同じ本数の直線を引いたもの。碁石を置くのは囲碁と同様に縦線と横線の交点である。正式には、囲碁の19道(路)盤より各辺2路ずつ狭い、縦横15路ずつの15道盤が使われる。
通常使用される縦横15本の線を持つ盤を15道盤(じゅうごどうばん)という。交点(目)の数は225、マス目の数は196。第3世名人・高木楽山がルールとして15道盤の採用を決めるまでは碁盤(19道盤。囲碁では19路盤という)が使われ、現在でも公式戦以外では碁盤を代用することもある。連珠はそもそも先手が優位に立ちやすい性質上15道より数が増えるとより先手持ちの対局進行になるので先手に禁手を与えると共にこれ以上の数は増やさず15道で定められている。
連珠盤を作る木材には碁盤と同様、カヤ、スプルース(新カヤ)、カツラ、イチョウ、ヒノキ、ヒバ、アガチス(新カツラ)などがあり、カヤ製の柾目盤が最も高価である。またプラスチック製のものやゴム製、持ち運び用のマグネット碁石に対応した金属製のものもある。
連珠盤の価格は将棋盤とほぼ同じで数千円から数百万円までさまざま。競技人口が少ないせいもあって受注生産となる場合がほとんどである。
形状は畳などの上で椅子を用いない対局で床に直接置き使用する足付盤以外にも、テーブルの上で用いる薄い板状のものも公式戦で使用される。それ以外にも折畳式のものなどもある。
足付き連珠盤の裏側の中央部分にはへこみがある。これは血溜まりと呼ばれ、対局中に横から口を挟む人間は首を刎ねられ、このへこみに乗せられる事になると言う。しかし実際には打ったときの音の響きをよくするためとも言われている。足付き盤でも2寸程度の薄い盤にはへこみはついていない。
大きさは将棋盤(縦1尺2寸、横1尺1寸)とほぼ同じで、厚さは足付き盤で2寸-9寸程度まである。木製のものは将棋盤用に切った材料から製作され、将棋盤の天面を削り線を引きなおす場合もある。
対局時計: 公式戦では制限時間を定め、時間切れによる勝敗を厳正に定めるために対局時計を用いる。
練習対局では、連珠盤と碁石の代わりに、碁盤や縦横15本ずつ線を引いた方眼紙と筆記具を用いることもある。
歴史
五目並べのような、石を連続して並べることを競うゲームについては、日本のほかに囲碁の発祥であった中国、その他の国についても類似のルールがあるとされる。とはいえ、原型であると主張されたものが後に全く別のゲームであることがわかるなど、それらの説はそれほど定かではない。
連珠そのものは日本が発祥であることは明らかである。この原型となった五目並べについて歴史をさかのぼると、平安時代には存在していることははっきりしている。この時期のものは碁盤を使い、特に禁手もないものであったようだ。しかし、明治に入ると、禁手のない五目並べが完全に先手必勝であることがわかるようになる。
黒岩涙香は五目並べに興味を持ち、1899年、自身が主幹であった萬朝報に五目並べの先手必勝法を掲載する。これが反響を呼び、彼は同年12月6日、このゲームを「聯珠」と呼ぶことを同紙上で提案した。この日が連珠の発祥した日となる。このころ既に三三は黒白とも禁手、長連は黒白ともに無効な手とされていたが、1903年には三三は黒のみの禁じ手とされることになった。
なお、連珠の初代永世名人である高山互楽とは黒岩涙香本人であり、高山互楽は彼の号である。
1912年には、たとえ守りのためであっても(打たされても)黒が三三を打った際には負けとなる一方、白が長連を打っても勝ちとなるようルール改正が行われた。1918年までに黒の長連ははっきり負けとなり、また同年に黒の四三三も負けとなった。
1931年、第三代の名人であり囲碁も強かった高木楽山は15道盤の採用や黒の四四を禁じ手とするなどのルール改正を提唱した。しかしこれは論争を引き起こし、連珠関連団体の分裂の遠因となった。
1966年、分裂していた連盟が社団法人日本連珠社として1つになる。そして1988年、連珠国際連盟が発足した。連珠国際連盟は日本連珠社のルールに準拠したルールを採用している。
1989年から連珠国際連盟が主催する連珠世界選手権が開始され、奇数年に個人世界選手権が、偶数年にチーム世界選手権が実施されている。
2014年、日本連珠社は公益社団法人化された。
現行の用語と基本ルール
連珠の特徴は、黒と白とでルールが違うところである。双方の均衡を募るため黒にさまざまな制約を課している。
2人の対局者がそれぞれ黒、白の碁石を持ち、交互に1つずつ石を置いていく。石を置く場所は線の交点上である。 黒が先手で1手目は天元(中央の星)に打つ。また、白の2手目は天元から1目離れた場所に、黒の3手目は天元から2目以内離れた場所に打たなければならない。このため、3手目までの形が(対称形を除き)26通りあり、これらを珠型(しゅけい)と呼ぶ。珠型にはそれぞれ名がついている。なお4手目以降の打つ場所に制限はない。
連珠の用語とその定義
用語	定義
連	縦・横・斜めのいずれかの隣接する交点に同色の右が空間なく一直線上につらなるもの。ルール用語としての連というのは五連と長連のみに用い、四連・三連などは単に四・三という。
五連	ちょうど5個の石の連。黒白問わずこれを作ったら勝ちとなる。黒の場合反則となる石団を同時に作っていても五連が優先され反則負けとはならず勝ちとなる。
長連	6個以上の石の連。黒の場合は反則負け、白の場合は勝ちとなる。
四	同種の石を1個加えると五連になるもの。珠法の差があるので、白の場合は1個石を加えると長連になるものも四とみなすが、黒の場合はみなさない。(達四の場合も同様である)
達四	四の一種。同種の石を1個加えると五連になる点が2カ所あるもの。また、棒四ともいう。
三	同種の石を1個加えると達四になるもの。
四四	同一衝点に四(達四も含む)が2個以上同時にできるもの。一直線状に四四ができる場合もある。黒が作ったら反則負けとなる。
三三	同一衝点に三が2個以上同時にできるもの。黒が作ったら反則負けとなる。
四三	同一衝点に四(達四も含む)と三が同時にできるもの。黒が勝つためにはこれを作るしかないが、四(達四も含む)と三のどちらかが2個以上できてると四四もしくは三三が優先されるため反則負けとなる。
眠三	剣先ともいう。片側が相手の石で止まっているか盤の端に当たっている3連のこと。三とはみなされないため、黒が眠三を2個、もしくは眠三と三を同時に作っても三三とはならず反則にはならない。
黒が有利とならないよう、黒に限って五連を並べる前の三三、四四、長連は禁手となる。黒が禁手を打った場合はその時点で指摘されれば負けとなる。白に禁手はなく、長連は五連とみなして勝ちとなる。ただし、長連を除いては、黒が禁手を打ち白が黒の禁手に気づかずに次の手を着手した場合は、禁手が解除され対局を続行させることができる。
上記のルールにより、三と四と四が同時にできる三四四を黒が作った場合は黒の禁手になる。一方、黒が五連を作った瞬間に三三も同時にできる五三三や四四ができる五四四、五六など五連と同時に長連もできる場合は禁手とならず、黒の勝ちである。
過去、縁日や盛り場で盛んに大道五目(大道連珠)が行われていた。これは詰め連珠(五目)の問題を提示して、正解者には商品を進呈するかわりに、失敗者からは幾らかの料金を取るものであった。大道五目と現在の国際ルールの最大の違いは、大道五目が五三三や五四四、五六が禁手であることであった。ほとんどが二手勝ちの問題であったが、この微妙なルールの差異によって一見勝ち筋が大量にあるように見えても、実際にはほとんどの勝ち筋が禁じ手になるため、連珠の有段者でも間違う難解な問題が多かった。
珠型
白の2手目は、黒の1手目(天元)の1つ上に並べて置くか、右斜め上に置くことになっている。並べて置くほうを直接打ちといい、斜めに置くほうを間接打ちといって区別する。
珠型には、「月」または「星」の文字が入った名がそれぞれの形ごとに決まっている。白石を月に見立て、黒石を木や山などに見立てて名づけられたのが珠型の名の起源である。(例:月、山巓に在り。故に山月と謂ふ。)
かつて珠型は、黒の1手目と3手目の石の位置を基準に・連(2つの石が隣り合った位置)・間(縦横斜めのいずれかに1つ飛ばした位置)桂(囲碁でいうケイマの位置)に分類され、桂と連に「月」、間に「星」のつく名が割り当てられた。現在では珠型を直接打ち・間接打ちに分類するため、それぞれに「月」と「星」のつく名が混在している。
直接打ち
直接1号「寒星」	
直接2号「渓月」	
直接3号「疎星」	
直接4号「花月」	
直接5号「残月」
直接6号「雨月」	
直接7号「金星」	
直接8号「松月」	
直接9号「丘月」	
直接10号「新月」
直接11号「瑞星」	
直接12号「山月」	
直接13号「遊星」	 	 
間接打ち
間接1号「長星」	
間接2号「峡月」	
間接3号「恒星」	
間接4号「水月」	
間接5号「流星」
間接6号「雲月」	
間接7号「浦月」	
間接8号「嵐月」	
間接9号「銀月」	
間接10号「明星」
間接11号「斜月」	
間接12号「名月」	
間接13号「彗星」	 	 
開局規定
開局規定(オープニングルール)とは、その名の通り開局を行うための規定である。単に交互に打ち進めていくだけでは多くの珠型で必ず先手が勝ってしまうため、先手後手の均等を取るために開局規定が考案された。
珠型交替・五珠二ヶ所打ち
現在の世界共通ルール(RIFルール)では珠型交替・五珠二ヶ所打ちが用いられる。これは以下の手順によって行う。
まず、両対局者が任意に白石か黒石を選んで、相手に見えないように石を適当数握った後同時に盤上に出す。
両者の石数の合計数が奇数ならそのまま、偶数なら黒石と白石とを持ち替える。このとき黒石を持つことになった方が仮先(仮の先手)、白石を持つことになった方を仮後(仮の後手)と呼ぶ。
仮後は白石一石を仮先に渡す。対局時計を使用している場合はここで時計を押す。→仮先の持ち時間が減っていく。
仮先は、26珠型の中から1つを提示する。提示後に仮先が時計を押す。→仮後の持ち時間が減っていく。
仮後は、提示された珠型を見て、黒番白番のうち自分の持ちたい側を選ぶ。これにより黒(先手)と白(後手)が決まる。
選んだ後に、正式に白番となった側が白の4手目を任意の場所に打つ。
次の黒番が、黒の5手目の着手位置を2か所指定する。この2か所は互いに対称形とならないようにする。
白番は、この2か所を比較し、打たせたい珠を残し、もう1か所を取り除くことによって5手目の着手を選択する。
続いて白が6手目を打ち、以下黒白交互に任意の場所に打つ。
珠型五珠題数提示選択打ち
珠型五珠題数提示選択打ちは日本の山口釉水九段が提唱したルールである。通称で「題数指定打ち」「題数提示打ち」と呼ばれる。
現在の二ヶ所打ちよりオープニングの幅を増やそうと考案された次世代ルール。今後は二ヶ所打ちに変わってこれが主流になると思われる。
対局者の1人を提示者(仮先)、もう1人を選択者(仮後)と決める(これは握りなどで決める)。
提示者は、次の2つを盤上に提示する。
(α)珠型
(β)黒になった対局者が、5手目で打つ題数
選択者は、提示された内容を見て、黒で打つか白で打つかを選ぶ。
黒か白かが決まったら、白番になった対局者が白の4手目を任意の場所に打つ。
黒の対局者は、示された題数分の5手目を打つ。
白の対局者は、黒が打った5手目の着手の中から1つの着手を選択する。
続いて白が6手目を打ち、以下黒白交互に任意の場所に打つ。
均衡打ち
均衡打ちとは、坂田吾朗九段が提唱したルール。
まず、黒が天元に黒1を打つ。
次に、白が天元の一つ斜め隣か、横隣に白2を打つ。
次に、黒が天元から一間飛びの範囲内に黒3を打つ。このため基本珠形の数は26種になる。
次に、黒が白4の打つ場所を指定する。
続いて、黒が黒5を打つ。
白石を打っている人は、局面を観察して引き続き白石を持って戦うか、交替して黒石を使うかを決める。
以降は、通常の方法と同じである。
五回交代打ち
五回交代打ちとは、ロシアのユーリー・タラニコフが提唱したルール。
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二回交代打ち
二回交代打ちとは、スウェーデンのピーター・ヨンソンが提唱したルール。
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必勝定石
連珠は先手番による必勝定石が存在することが知られている数少ないゲームである。禁手を設けても、単純に黒白が交互に打っていくならば、先手側に様々な必勝手順があることが確立されている。そこで、現行では珠型交替・五珠二ヶ所打ちなどの開局規定により、両対局者間の均衡をとっている。
ただし、必勝といわれている定石でも非常に変化に富んだものが多く、実際に対局で打ちこなすには相当の知識と技量が必要である。そのため、逆にあえて必勝といわれる形を打たせて、間違いを誘うことで勝ちを得ようとする後手策も数多く存在する。
類似のゲーム
五目並べ: 連珠の起源。
コネクト6: 石を6個先に並べたほうが勝ち。1手目以外両者2個ずつ石を置く。主にロシアで行われている。
五子棋: 連珠の中国での名称。
囲連星: 連珠と囲碁がミックスされたゲーム。
二抜き連珠(朝鮮五目): 石を2個はさめば取ることができる(3個以上は取れない)。石を5個並べるか、10個取れば勝ち。
ペンテ: 二抜き連珠のバリエーション。
梅花碁: 十字の形に石を並べれば勝ちとなる。大きさは問わない。
四目並べ : 重力付き四目並べで、下から積み重ねる
関連項目
連珠世界選手権
名人戦 (連珠)
中村茂 (連珠棋士)
岡部寛
外部リンク
日本連珠社
連珠国際連盟
■
連珠世界選手権(れんじゅせかいせんしゅけん、英 : Renju World Championship)とは2年に1回連珠国際連盟主催で開催される連珠の世界選手権大会である。1989年に個人世界選手権(奇数年開催)が、1996年にチーム世界選手権(偶数年開催)が開始された。
目次 
1	大会一覧
1.1	個人世界選手権
1.2	チーム世界選手権
2	外部リンク
大会一覧
個人世界選手権
回	年	開催地	優勝者
1	1989年	京都(日本の旗 日本)	中村茂(日本の旗 日本)
2	1991年	モスクワ(ロシアの旗 ロシア)	中村茂(日本の旗 日本)
3	1993年	アルイェプログ(スウェーデンの旗 スウェーデン)	アンドゥ・メリティ(エストニアの旗 エストニア)
4	1995年	タリン(エストニアの旗 エストニア)	河村典彦(日本の旗 日本)
5	1997年	サンクトペテルブルク(ロシアの旗 ロシア)	長谷川一人(日本の旗 日本)
6	1999年	北京(中華人民共和国の旗 中国)	アンドゥ・メリティ(エストニアの旗 エストニア)
7	2001年	京都(日本の旗 日本)	アンドゥ・メリティ(エストニアの旗 エストニア)
8	2003年	ヴァステーナ(スウェーデンの旗 スウェーデン)	Tunnet Taimla(エストニアの旗 エストニア)
9	2005年	タリン(エストニアの旗 エストニア)	アンドゥ・メリティ(エストニアの旗 エストニア)
10	2007年	チュメニ(ロシアの旗 ロシア)	呉鏑(中華人民共和国の旗 中国)
11	2009年	パルドビツェ(チェコの旗 チェコ)	ウラジーミル・スシュコフ(ロシアの旗 ロシア)
12	2011年	フースクバーナ(スウェーデンの旗 スウェーデン)	曹冬(中華人民共和国の旗 中国)
13	2013年	タリン(エストニアの旗 エストニア)	Tunnet Taimla(エストニアの旗 エストニア)
14	2015年	スーズダリ(ロシアの旗 ロシア)	祁観(中華人民共和国の旗 中国)
チーム世界選手権
回	年	開催地	優勝者
1	1996年	サンクトペテルブルク(ロシアの旗 ロシア)	ロシアの旗 ロシア-1
2	1998年	エレバン(アルメニアの旗 アルメニア)	中止
3	2000年	タリン(エストニアの旗 エストニア)	ロシアの旗 ロシア-1
4	2002年	ヴァステーナ(スウェーデンの旗 スウェーデン)	ロシアの旗 ロシア-1
5	2004年	チュメニ(ロシアの旗 ロシア)	ロシアの旗 ロシア-1
6	2006年	タリン(エストニアの旗 エストニア)	ロシアの旗 ロシア-1
7	2008年	ヘルシンキ(フィンランドの旗 フィンランド)	エストニアの旗 エストニア
8	2010年	東京(日本の旗 日本)	中華人民共和国の旗 中国
9	2012年	北京(中華人民共和国の旗 中国)	日本の旗 日本
10	2014年	台北(チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ)	エストニアの旗 エストニア
11	2016年	タリン(エストニアの旗 エストニア)	エストニアの旗 エストニア-1
外部リンク
第8回チーム世界選手権(日本連珠社)
連珠国際連盟

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六死八活(ろくしはっかつ)または六死八生(ろくしはっしょう)は、囲碁の死活に関する言葉である。
第二線に石が並び、それが相手の石で囲まれている場合、石の数によって生死が分かれる。いくつあれば生きられるかを表した言葉である。
目次 
1	六死
2	八活
3	七
4	隅
六死
石が6個のときは黒が先手でも死ぬ。黒1と守っても、白2のハネから4のナカデで黒が死ぬ。
八活
石が8個のときは黒が後手でも生きる。白1から攻めても、黒には2眼作る余裕が残る。
七
石が7個のときは、どちらが先手かによって生死が変わる。黒が先手なら上辺の手順で生きる(1手目は黒aでもよい)。白が先手なら左辺ないし右辺の手順で死ぬ(右辺、白7は白1の下)。
隅
四死
 	六活
隅の場合、一方からしか攻められないので「四死六活」となる。
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若鯉戦(わかごいせん)は、囲碁の棋戦で、日本棋院の30歳以下および五段以下の棋士によって争われる。2006年創設。当初は非公式戦であったが、2011年第6回より公式戦となった。正式タイトル名は、協賛企業名を冠した広島アルミ杯若鯉戦である。
主催:日本棋院、日本棋院広島県本部 協賛:広島アルミニウム工業株式会社 優勝賞金:200万円
方式
トーナメント方式で争われる。予選は各支部で行われ、関東男性・関東女性・関西男性・中部男性・関西中部女性の枠を争う。本選(16名)は、広島県広島市でトーナメント方式で2日に渡って行われる。決勝は1番勝負。非公式戦であった第1回から第5回は、地元広島県在住の山本賢太郎が予選免除で出場していた。
コミは、6目半。
持時間は初手から1手30秒で秒読み時計を使用し、1分単位で合計10回の考慮時間がある(いわゆるNHK杯方式)。第3回までは各30分、使い切ってから1分の秒読み式であった。
歴代優勝者と決勝戦
(左が優勝者)
2006年 謝依旻 - 李沂修
2007年 志田達哉 - 三谷哲也
2008年 三谷哲也 - 安斎伸彰
2009年 内田修平 - 山森忠直
2010年 寺山怜 - 山本賢太郎
2011年 内田修平 - 志田達哉
2012年 鈴木伸二 - 一力遼
2013年 一力遼 - 富士田明彦
2014年 本木克弥 - 六浦雄太
外部リンク
日本棋院「若鯉戦」
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ワタリは囲碁用語のひとつで、相手の石の下をくぐるように盤端に打って自分の石同士を連絡する手を指す。動詞では「ワタる」「渡る」と表現する。下図黒1がワタリの一例で、▲の石と連絡する。
「ワタリ」という言葉は多くの場合1~3線に打つ手を指す。中央に打って連絡する手はワタリとは呼ばない。ワタリは自分の石の安全を確保する重要な手段であるが、時にただ連絡するだけで地がつかず、働きのないワタり方を「貧乏ワタリ」などと称することがある。
ワタリの例
黒1またはaにコスむのが手筋で、左右の黒が連絡する。bのケイマではaまたは1にツケられてワタれないことに注意。
黒1のアテコミが手筋で、白2のキリなら黒3にサガって全体が連絡できる。
黒1のケイマが味のよい連絡の手筋。白aならbにハネてワタっている。黒1でcに打つと、白aに切られて手が生じる。
小目一間高ガカリ定石。黒1のツケから黒3にツギ、ここに石が来たことで黒5のワタリが成立する。続いて白がaにハネ出してきても、bのキリでこの石を取れる。
参考図書
加納嘉徳『ワタリのすべて (烏鷺うろブックス) 』
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ワリウチは囲碁用語の一つで、相手が隣り合った隅を占めた時、その中間付近に打つ手を指していう。「割り打ち」とも表記される。下図左辺黒1がワリウチの一例である。相手の勢力圏を分割するように打ち、模様化を防ぐ目的で打たれる。多くの場合、第3線(第4線のこともある)に打たれる手を指す。相手の勢力圏の真ん中に打つ手でも、中央付近に打たれる手は通常ワリウチとは呼ばない。

黒1とワリウち、白2とツメられれば、黒3とヒラいて安定する。逆に白がaの方からツメてきたら、bへヒラく。このようにワリウチは、両方のヒラキを見合いにして根拠を確保する余地がある場合に用いる。右辺白4や下辺黒5も相手の勢力圏の間に打つ手だが、間が狭いため両辺のヒラキを見合いにする余地がない。この場合にはワリウチでなく、「打ち込み」という用語が用いられる。
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ワリコミ
曖昧さ回避	この項目では、囲碁用語について説明しています。その他の用法については「割り込み」をご覧ください。
ワリコミは囲碁用語で、一間にトンだ相手の石の間に、文字通り割り込むように打つ手のこと。下図黒1が「ワリコミ」である。
ただし下図のようにすでに▲の位置に石がある場合にはワリコミとは呼ばず、「出(デ)」と表現する。
ワリコミの例
黒1のワリコミで△2子が取れる。白2と逃げ出しても黒3以下シチョウ。
黒1のワリコミで、種石の△が取れる。黒2なら白3でオイオトシ。黒2で3の点に打ってきたら、白は2の点にノビてよい。
関連用語
黒1のようにハネとワリコミを兼ねた手を「ハネコミ」と称する。またワリコミから黒3のツギのワンセットの手順を「ワリツギ」と呼ぶことがある。
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