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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

碁を知りたい。
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相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

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対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
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だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 形 (囲碁) 形(かたち)は囲碁用語で、眼を作りやすい、相手の攻撃を受けにくい、相手を封鎖しやすいなど何らかのメリットがある、部分的に定まった打ち方のことを指す。「ここはこう打つのが形」「形を整えて反撃を狙う」といったように用いられる。 例えば下図の場合、黒1とサガると、白2スベリから4のツキアタリを利かされ、眼形を奪われる。 黒1とカケツイでおけば眼形に不安はなく、後を強く戦える。この場合「黒1のカケツギが形」などと表現される。 またこれと逆に、石の働きが重複して能率が悪い形などを「悪形」「愚形」などと表現する。「形」に従って打つことは絶対ではなく、愚形の妙手というものも存在するが、ある程度の形を身につけることは上達に重要である。 目次 [非表示] 1 好形 2 愚形 2.1 空き三角 2.2 陣笠 2.3 凝り形 2.4 裂かれ形 3 参考図書 好形[編集] 石の働きが重複せず、打ちやすい姿であることを「好形」と表現する。眼が作りやすい、後に相手からの利かしや反撃の余地を与えないなどの状態を指す。 星に三々入りした場合の定石。aとbの2つの断点が生じているが、ここでは黒1とカケツぐのが好形。2つのキリを同時に防いでおり、万一包囲されても眼形が豊富なので心配が少ない。aやbに堅くツぐのは、眼形が少なく、働きに乏しい。 1やaの点に打ってもキリは防げるが、白2のハサミツケなどから下辺侵入の手がかりを与えてしまう。 愚形[編集] 好形と逆に、石の働きが重複している姿を「愚形」と呼ぶ。本来広く展開できる石が不必要に固まっている状態などを呼ぶ。 空き三角[編集] 上左図が「空き三角」と呼ばれる典型的な愚形。aの点のダメが空いた三角形なのでこの名がある。本来2つ並んだ石からは、上右図の▲のようにトンでも決して切断されることはない。にも拘わらず左図のように隣接させて打っているのは、石の働きがだぶっていると考えられる。が、グズミのように、自らわざとアキ三角を作りに行き、狙いを作る手もある。なおaの点に白石がある場合には「空き三角」とは呼ばず、愚形でもない。 陣笠[編集] 白5までの姿は、その形から「陣笠」と呼ばれる。空き三角にさらに石がくっついた愚形。眼形も乏しく、黒に攻撃目標を与えるだけとなる。白5ではaとコウで戦うなどが普通。 凝り形[編集] 石が密集し、その効果が重複して効率の悪い形になっていることを「凝り形」と呼ぶ。 白1と二間にヒラくと、黒2とコスミツケられ、白3となる。この場合、白の2つ並んだ石からは本来aくらいまでヒラきたいところであるにも拘わらず(二立三析)、狭く開いてしまっていることになる。これは効率が悪く、「凝り形」ということになる。 裂かれ形[編集] 図の形から、例えば隅を守ることだけを考えて黒1・3とツケヒくのは、白4とツガれて黒▲との連絡を自ら断ち切ってしまう。▲は白の強い石に張り付いた形で、自軍の石を自ら弱体化させたことになる。このように、自ら分断されに行くような手を「裂かれ形」と称し、悪形の代表とされる。 参考図書[編集] 三村智保『石の形 集中講義―楽に身につくプロの感覚 (MYCOM囲碁ブックス)』2006年 ------------------- 明仁 この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2016年4月) 今上天皇 2009年7月10日、リッチモンド・オリンピックオーバル訪問時の今上天皇 2009年(平成21年)7月10日 リッチモンド・オリンピックオーバル訪問時の今上天皇 第125代天皇 在位期間 1989年(昭和64年)1月7日 - 在位中 即位礼 1990年(平成2年)11月12日 皇居 大嘗祭 1990年(平成2年)11月22日・23日 元号 昭和: 1989年1月7日 平成: 1989年1月8日 - 現行 内閣総理大臣 一覧参照 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 安倍晋三 先代 昭和天皇 誕生 1933年(昭和8年)12月23日 午前6時39分(83歳) 日本の旗 日本 東京府東京市麹町区(現東京都千代田区) 宮城内産殿 諱 明仁 1933年(昭和8年)12月29日命名 称号 継宮(つぐのみや) 印 榮 元服 1952年(昭和27年)11月10日 父親 昭和天皇 母親 香淳皇后 皇后 美智子(正田美智子) 1959年(昭和34年)4月10日大婚 子女 皇太子徳仁親王(浩宮徳仁親王) 秋篠宮文仁親王(礼宮文仁親王) 黒田清子(紀宮清子内親王) 皇居 皇居 吹上御所 栄典 大勲位 学歴 1954年(昭和29年) 学習院大学政治経済学部2年次中退 1956年(昭和31年)3月 同聴講課程修了[1] 副業 魚類学者 親署 明仁の親署 テンプレートを表示 天皇と皇族 内廷 Imperial Seal of Japan.svg 今上天皇 皇太子 徳仁親王 敬宮 愛子内親王 皇后 美智子 皇太子妃 雅子 秋篠宮家 Japanese Crest of Akisino no miya.svg 秋篠宮 文仁親王 眞子内親王 悠仁親王 秋篠宮妃 紀子 佳子内親王 常陸宮家 Japanese Crest of Hitachi no miya.svg 常陸宮 正仁親王 常陸宮妃 華子 三笠宮家 Japanese Crest of Mikasa no miya.svg 三笠宮妃 百合子 彬子女王 寛仁親王妃 信子 瑶子女王 高円宮家 Japanese Crest of Takamado no miya.svg 高円宮妃 久子 絢子女王 承子女王 明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日 - )は日本の第125代天皇(在位: 1989年(昭和64年)1月7日 - )である[注釈 1]。平成時代においては「在位中の天皇」を意味する今上天皇(きんじょうてんのう)、または敬称をつけて天皇陛下(てんのうへいか)と呼ばれることが多い。 昭和天皇(第124代天皇)の第一皇子。母は香淳皇后。大正天皇の皇孫かつ明治天皇の皇曾孫。 御称号は継宮(つぐのみや)。皇室典範に定める敬称は陛下。お印は榮(えい、文字がお印)[2]。 日本国憲法施行後初めて即位した天皇であり、また京都ではなく東京で即位の礼を執り行った初めての天皇である。 目次 1 人物 1.1 科学者として 1.1.1 発見したハゼ 2 来歴 2.1 幼少時代 2.2 青年以降 2.2.1 沖縄県訪問に際して 2.3 即位以降 3 天皇退位 4 栄典 4.1 日本 4.2 国外 5 系譜 5.1 男系直系 6 后妃 7 皇子孫 7.1 皇子女 7.2 皇孫 8 外国訪問歴 9 逸話 9.1 青年以降 9.2 即位後 9.3 人物に関するもの 9.3.1 乗り物に関すること 9.3.1.1 日産自動車(主に旧プリンス自動車)とのかかわり 9.4 発言 10 病歴 11 著書 12 出典・注釈 12.1 注釈 12.2 出典 13 参考文献 14 関連項目 15 外部リンク 人物[編集] 1933年(昭和8年)に東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。1952年(昭和27年)に皇室典範規定に基づき18歳で成年。1959年(昭和34年)に正田美智子と婚姻し浩宮徳仁親王(現・皇太子)・礼宮文仁親王(現・秋篠宮文仁親王)・紀宮清子内親王(現・黒田清子)の二男一女を儲ける。 1989年(昭和64年)に昭和天皇・崩御[3]に伴い践祚し皇位を継承[4]。 昭和天皇 父・昭和天皇 香淳皇后 母・香淳皇后 2017年7月(平成29年)現在、83歳である。高齢だが年間約1000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年度[5])、20件近くの祭儀を執り行うなど精力的に活動している[6]。しかし2015年に施設訪問の一部を皇太子同妃および文仁親王同妃に引き継いでいる[7][8]。 科学者として[編集] 魚類学者としても知られハゼの分類学的研究者である。日本魚類学会に属して自ら研究して書いた論文28編を同学会誌に発表。1992年(平成4年)には『Science』誌に"Early cultivators of science in Japan"という題で寄稿している[9]。また2000年(平成12年)、2008年(平成20年)、2016年(平成28年)には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている[10][11][12]。 魚類学における業績は各国で評価され学界において以下に記述する役職に就いている。 1980年(昭和55年)、ロンドン・リンネ協会外国会員。1986年(昭和61年)、同協会名誉会員。 オーストラリア博物館リサーチ・アソシエート。 ロンドン動物学会名誉会員。 アルゼンチン自然科学研究所永久名誉会員。 この他にも1998年(平成10年)にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年(平成19年)の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年(平成4年)には Platygobiopsis akihito と[13]、2005年(平成17年)には Exyrias akihito[14]、2007年(平成19年)にはハゼの新属にアキヒト属 (Akihito) と[15]、彼の名を織り込んだ献名がなされた。 民族学者である梅棹忠夫は、1971年(昭和46年)8月26日の仲間内の食事会にて「この前、皇太子殿下にご進講に行った。皇太子殿下の植物学に対する造詣はたいしたもの。立派に東大、京大教授が務まる。帝としてはどうか知らないが、学者としては一流だ。」と述べている[16]。 発見したハゼ[編集] キマダラハゼ:Astrabe flavimaculata Akihito et Meguro[17] シマシロクラハゼ:Astrabe fasciata Akihito et Meguro ヒメトサカハゼ:Cristatogobius aurimaculatus Akihito et Meguro コンジキハゼ:Glossogobius aureus Akihito et Meguro クロオビハゼ:Myersina nigrivirgata Akihito et Meguro ミツボシゴマハゼ:Pandaka trimaculata Akihito et Meguro 来歴[編集] 幼少時代[編集] 1934年(昭和9年)、母・香淳皇后に抱かれる明仁親王 1949年(昭和24年)、ヴァイニング夫人と 1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇・香淳皇后の第5子にして初の皇子(第一皇男子)であった。称号「継宮」(つぐのみや)、名前「明仁」(あきひと)は、父・昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅「大教宣布」より「…立極垂統、列皇相承、継之述之…宜明治教以宣揚惟神之大道也…(「極(皇位)」を立て「統(皇統)」を垂れ、列皇(歴代天皇)は相承し、之を継ぎ之を述べ…よろしく治教を明らかにし以て「惟神(かんながら)」の大道を宣揚すべき也)」に出典を求め、命名されたものである。お印の「榮」は文字で、「草花が盛んに茂る様子」を意味する[2]。 1936年(昭和11年)3月29日、満2歳で両親の元を離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。当初日曜日には宮中に帰っていたが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった[18]。学習院時代は山梨勝之進校長の下で教育を受け、内舎人・信国鉄蔵を師として剣道を練成した。 1944年(昭和19年)、第二次世界大戦の戦火の拡大により、初めは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で終戦を迎えた。終戦後に帰京。 1946年(昭和21年)10月から1950年(昭和25年)12月まで、父・昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という新しい教育方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。 青年以降[編集] 1952年(昭和27年)、立太子後、市民の歓呼に応える 1955年(昭和30年)11月、 エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世と 1952年(昭和27年)11月10日、皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式が挙行された。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。 1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪。同年6月2日、イギリス・エリザベス2世の戴冠式へ昭和天皇の名代として参列。このとき地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。しかしこの外遊の結果、学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける[19]。 外遊からの帰国直後の同年12月に、結核の感染を診断される。このとき、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした[20][21]。 結婚の儀に際し 1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会う。テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の写真を出品した。しかし皇太子が積極的に美智子との結婚を考えていると分かると、皇室内外から猛反対を受けた。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と母・香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃と共に昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。 1959年(昭和34年)1月14日に納采の儀が、同年4月10日に結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の民間出身・皇太子妃であり、また結婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が興る。成婚のパレードは盛大に行われ、国民の祝福を受けた。2人の成婚の様子を見るために、当時高価であったテレビも普及し始めた。また婚礼を祝して「祝典行進曲」が作曲された。同年7月15日に、美智子妃の懐妊が発表された。 1960年(昭和35年) 日米修好100周年記念晩餐会にて アイゼンハワー大統領夫妻とワシントンD.C.のホワイトハウスにて 1960年(昭和35年)2月23日に第1子・第一男子浩宮徳仁親王が誕生。3月には妹・清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。同年9月22日から同年10月7日にかけて、美智子妃を伴ってアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。 1965年(昭和40年)11月30日、第2子・第二男子礼宮文仁親王が誕生。1969年(昭和44年)4月18日、第3子・第一女子紀宮清子内親王が誕生。 沖縄県訪問に際して[編集] 沖縄県の祖国復帰(沖縄返還)が実現して3年後の1975年(昭和50年)、沖縄国際海洋博覧会に際し、父・昭和天皇も大正期の皇太子時代に訪問した沖縄県を立太子後、初めて訪問。海洋博の写真を収めた書籍「海 その望ましい未来」、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に参列した皇太子および同妃の姿が収録される。[注釈 2] この訪沖についてはいくつかの事件もあった。同年7月17日、美智子妃を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)から火炎瓶1本を投げつけられる(ひめゆりの塔事件)。同日夜、皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ。」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。 なお、この訪問については同事件の犯人の所属するもの以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会、県学連、全学連などが1000人単位のデモなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)を行ったが[22]、皇太子および同妃に怪我などはなく、つつがなく予定を終了した。皇太子は当時より沖縄に関心をよせ 琉歌を研究し、琉歌8首を発表している[23]。 1976年(昭和51年)1月18日の閉会式にも揃って訪沖している。 1987年(昭和62年)にも、沖縄海邦国体を前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪れ、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇の言葉を代読した。当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う。」と談話を発表した。 即位以降[編集] 2005年(平成17年)11月22日、ロシア大統領ウラジーミル・プーチン(右)と 1989年(昭和64年)1月7日、父・昭和天皇の崩御を受け、即座に歴代2位の年長となる55歳で即位(現在は皇室典範により、践祚と即位が統合されたため、従前の践祚に相当)。同日、皇位継承の儀式(剣璽等承継の儀)を執り行い、翌8日、元号法に基づき平成に改元した。即位後朝見の儀では国民とともに日本国憲法を守り、「国運の一層の進展と世界の平和,人類福祉の増進を切に希望してやみません」とのおことばを発した。[24] 諒闇が明けた1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所(京都府京都市上京区)から皇居(東京都千代田区)へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行われ、同年11月12日に即位礼正殿の儀が行われた。大正天皇・昭和天皇とも即位の礼を京都御所で行っており、関東の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼祝賀御列の儀としてオープンカーでのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が祝福した。 1992年(平成4年)10月、中華人民共和国政府の招待で同国を訪問する[25]。天皇訪中は日中関係史で歴史的な出来事だったが、当時の中国外交部長(外務大臣)で昭和天皇の大喪の礼にも出席した銭其シンは回顧録で天皇訪中は六四天安門事件での西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあったと明かしている[26]。 1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日に御即位十年をお祝いする国民祭典が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。 1993年(平成5年)には、沖縄県行幸を果たした。この折には予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑にも行幸した。2003年(平成15年)までに、47都道府県のすべてを巡幸している。 2009年(平成21年)11月12日、政府主催の御在位二十年記念式典・民間主催の御即位二十年をお祝いする国民祭典が執り行われた。 2009年(平成21年)12月15日、特例で習近平中華人民共和国副主席と会見することとなり、会見を巡る騒動で、羽毛田信吾・宮内庁長官が記者会見で政府・民主党政権・鳩山由紀夫内閣を批判する発言を行った(天皇特例会見)。 2011年(平成23年)3月16日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の発生とそれに伴う被害に鑑み、国民および被災者に対しビデオメッセージを放送した[27]。 2016年(平成28年)7月13日、NHKや毎日新聞が、今上天皇が宮内庁の関係者にその位を生前に皇太子(次期皇位継承者)に譲る「生前退位(譲位)」の意向を示したと一斉に報道[28][29]。諸報道によれば天皇は「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考えており、数年内の譲位を望んでいるとされ[28][29]、天皇自身が広く内外に気持ちを表わす方向で、調整が進められているとされた[28][29]。しかし、宮内庁の山本信一郎次長(当時、現・宮内庁長官)は、報道を受け、各社の取材に対して「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた。」と報道内容を否定した[30]。8月8日、約11分間のビデオを通じて、自ら個人の「お気持ち」を「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」として表明。自身が即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきたと案じていることへの国民の理解を求めた[31][32]。 天皇退位[編集] 2017年(平成29年)6月9日の参議院で天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立し、2017年(平成29年)6月16日に正式公布された。このため、その地位と職務をすべて皇太子徳仁親王へ譲り、自らは光格天皇以来200年ぶりとなる上皇となる予定である。退位時期は法律成立から3年以内に政令で定めることになった[33]。 現在、宮内庁では上皇となった際の新組織の設立等の準備や政府では新しい元号などの検討に入っている。なお、ハゼの研究についてもはこれからも行う予定である。また、この影響で日本のシステム業界では新規案件で元号を使用した機能の受注については、新規元号発表までは見合わせるか、西暦のみか、2018年(平成30年)までとするかで分かれる動きもあり、カレンダー業界では印刷発行と販売に多大なる影響が出ることを危惧している。 栄典[編集] ガーター ガーター騎士団員としての紋章 金羊 金羊毛騎士団員としての紋章 日本[編集] 日本の旗 日本 JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg - 大勲位菊花章頸飾 JPN Kyokujitsu-sho Paulownia BAR.svg - 勲一等旭日桐花大綬章 JPN Zuiho-sho 1Class BAR.svg - 瑞宝大綬章 JPN Order of Culture BAR.svg - 文化勲章 Red Cross Order of Merit (Japan).png - 日本赤十字社特別社員 Red Cross Order of Merit (Japan).png - 日本赤十字社名誉会員 国外[編集] イギリスの旗 イギリス ガーター勲章(ガーター騎士団員): 1998年5月26日受勲[34] フランスの旗 フランス レジオンドヌール勲章グランクロワ - Legion Honneur GC ribbon.svg ドイツの旗 ドイツ ドイツ連邦共和国功労勲章特等大十字章 - GER Bundesverdienstkreuz 9 Sond des Grosskreuzes.svg スペインの旗 スペイン 金羊毛勲章(金羊毛騎士団員)(スペイン)[35] タイ王国の旗 タイ ラーチャミトラーポーン勲章(タイ)[36] - Order of the Rajamitrabhorn (Thailand) ribbon.png 大チャクリー勲章(タイ)- Order of the Royal House of Chakri (Thailand) ribbon.png 系譜[編集] 詳細は「皇室の系図一覧」を参照 122 明治天皇 123 大正天皇 124 昭和天皇 秩父宮雍仁親王 高松宮宣仁親王 三笠宮崇仁親王 125 今上天皇 常陸宮正仁親王 寛仁親王 桂宮宜仁親王 高円宮憲仁親王 皇太子徳仁親王 秋篠宮文仁親王 悠仁親王 明仁(今上天皇)の系譜 16. 第121代 孝明天皇 8. 第122代 明治天皇 17. 中山慶子 4. 第123代 大正天皇 18. 柳原光愛 9. 柳原愛子 19. 長谷川歌野 2. 第124代 昭和天皇 20. 九条尚忠 10. 九条道孝 21. 唐橋姪子 5. 九条節子 22. 野間頼興 11. 野間幾子 1. 明仁(第125代 今上天皇) 24. 伏見宮邦家親王 12. 久邇宮朝彦親王 25. 鳥居小路信子 6. 久邇宮邦彦王 26. 泉亭俊益 13. 泉萬喜子 3. 久邇宮良子女王 28. 島津久光 (島津斉興五男) 14. 島津忠義 29. 島津千百子 7. 島津俔子 15. 山崎寿満子 明仁(今上天皇) 父: 昭和天皇 祖父: 大正天皇 曾祖父: 明治天皇 曾祖母: 柳原愛子 祖母: 貞明皇后 曾祖父: 九条道孝 曾祖母: 野間幾子 母: 香淳皇后 祖父: 邦彦王(久邇宮) 曾祖父: 朝彦親王(久邇宮) 曾祖母: 泉萬喜子 祖母: 俔子 曾祖父: 島津忠義 曾祖母: 山崎寿満子 高祖父:孝明天皇 高祖母:中山慶子(明治天皇生母) 男系直系[編集] 1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝靈天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇 11 垂仁天皇 12 景行天皇 日本武尊 14 仲哀天皇 15 応神天皇 稚野毛二派皇子 意富富杼王 乎非王 彦主人王 26 継体天皇 29 欽明天皇 30 敏達天皇 押坂彦人 大兄皇子 34 舒明天皇 38 天智天皇 志貴皇子 49 光仁天皇 50 桓武天皇 52 嵯峨天皇 54 仁明天皇 58 光孝天皇 59 宇多天皇 60 醍醐天皇 62 村上天皇 64 円融天皇 66 一条天皇 69 後朱雀天皇 71 後三条天皇 72 白河天皇 73 堀河天皇 74 鳥羽天皇 77 後白河天皇 80 高倉天皇 82 後鳥羽天皇 83 土御門天皇 88 後嵯峨天皇 89 後深草天皇 92 伏見天皇 93 後伏見天皇 北1 光厳天皇 北3 崇光天皇 栄仁親王 貞成親王 102 後花園天皇 103 後土御門天皇 104 後柏原天皇 105 後奈良天皇 106 正親町天皇 誠仁親王 107 後陽成天皇 108 後水尾天皇 112 霊元天皇 113 東山天皇 直仁親王 典仁親王 119 光格天皇 120 仁孝天皇 121 孝明天皇 122 明治天皇 123 大正天皇 124 昭和天皇 125 今上天皇 后妃[編集] 身位 名 生年月日 結婚の儀 出身 子女 第125代天皇 皇后 Empress Michiko cropped 20140424.jpg みちこ 美智子 1934年(昭和9年) 10月20日(82歳) 1959年(昭和34年) 4月10日/ 58年90日 正田家 徳仁親王 文仁親王 清子内親王 皇子孫[編集] 皇子女[編集] 天皇一家と諸王 皇后美智子との間に3子がいる。 諱 読み 生年 御称号 続柄 現在 徳仁親王 なるひと 昭和35年(1960) 2月23日(57歳) ひろのみや 浩宮 第1皇男子 皇太子 文仁親王 ふみひと 昭和40年(1965) 11月30日(51歳) あやのみや 礼宮 第2皇男子 秋篠宮家当主 清子内親王 さやこ 昭和44年(1969) 4月18日(48歳) のりのみや 紀宮 第1皇女 黒田家に皇籍離脱 皇孫[編集] 諱 読み 生年 御称号 続柄 愛子内親王 あいこ 平成13年(2001) 12月1日(15歳) としのみや 敬宮 皇太子徳仁親王第1女子 眞子内親王 まこ 平成3年(1991) 10月23日(25歳) 秋篠宮文仁親王第1女子 佳子内親王 かこ 平成6年(1994) 12月29日(22歳) 秋篠宮文仁親王第2女子 悠仁親王 ひさひと 平成18年(2006) 9月6日(10歳) 秋篠宮文仁親王第1男子 ※順序は皇位継承の順序に準ずる。[37] 外国訪問歴[編集] 親王時の外国訪問 [38] 年 出国 帰国 訪問地 同行 備考 1953 3月30日 10月12日 イギリスの旗 イギリス (アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国・カナダの旗 カナダ・フランスの旗 フランス帝国・スペインの旗 スペイン・モナコの旗 モナコ・スイスの旗 スイスなど13国に立寄り) 英女王戴冠式参列、天皇名代 1960 9月22日 10月7日 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 皇太子妃 日米修好100年記念 11月12日 12月9日 イランの旗 イラン・エチオピアの旗 エチオピア・インドの旗 インド・ネパールの旗 ネパール (タイ王国の旗 タイ立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 1962 1月22日 2月10日 パキスタンの旗 パキスタン・インドネシアの旗 インドネシア 皇太子妃 国際親善(名代) 11月5日 11月10日 フィリピンの旗 フィリピン 皇太子妃 国際親善(名代) 1964 5月10日 5月17日 メキシコの旗 メキシコ (アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 12月14日 12月21日 タイ王国の旗 タイ 皇太子妃 国際親善(名代) 1967 5月9日 5月31日 ペルーの旗 ペルー・アルゼンチンの旗 アルゼンチン・Flag of Brazil (1960-1968).svg ブラジル 皇太子妃 国際親善(名代) 1970 2月19日 2月28日 マレーシアの旗 マレーシア(天皇名代)・ シンガポールの旗 シンガポール 皇太子妃 国際親善  1971 6月3日 6月12日 アフガニスタンの旗 アフガニスタン (イランの旗 イラン・タイ王国の旗 タイ立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 1973 5月6日 5月23日 オーストラリアの旗 オーストラリア・ニュージーランドの旗 ニュージーランド 皇太子妃 国際親善 10月11日 10月22日 スペインの旗 スペイン(アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国・ベルギーの旗 ベルギー立寄り) 皇太子妃 国際親善 1975 2月20日 2月28日 ネパールの旗 ネパール (バングラデシュの旗 バングラデシュ・インドの旗 インド立寄り) 皇太子妃 ネパール国王戴冠式参列 1976 6月8日 6月25日 ヨルダンの旗 ヨルダン・ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア(名代)・イギリスの旗 イギリス (タイ王国の旗 タイ立寄り) 皇太子妃 国際親善 1978 6月12日 6月27日 ブラジルの旗 ブラジル・パラグアイの旗 パラグアイ (アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国立寄り) 皇太子妃 ブラジル移住70周年記念式典参列 1979 10月5日 10月14日 ルーマニアの旗 ルーマニア・ブルガリアの旗 ブルガリア(名代) (オランダの旗 オランダ・ベルギーの旗 ベルギー立寄り) 皇太子妃 国際親善 1981 2月27日 3月7日 サウジアラビアの旗 サウジアラビア・スリランカの旗 スリランカ (タイ王国の旗 タイ・シンガポールの旗 シンガポール立寄り) 皇太子妃 国際親善 7月26日 8月2日 イギリスの旗 イギリス (ベルギーの旗 ベルギー立寄り) 皇太子妃 英皇太子結婚参列 差遣 1983 3月10日 3月25日 ザンビアの旗 ザンビア・タンザニアの旗 タンザニア・ケニアの旗 ケニア(名代) (ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク・ベルギーの旗 ベルギー・タイ王国の旗 タイ立寄り) 皇太子妃 国際親善 1984 2月25日 3月8日 ザイールの旗 ザイール・セネガルの旗 セネガル(名代) (ベルギーの旗 ベルギー・イギリスの旗 イギリス立寄り) 皇太子妃 国際親善 1985 2月23日 3月9日 スペインの旗 スペイン・アイルランドの旗 アイルランド(名代) (ポーランドの旗 ポーランド・イギリスの旗 イギリス立寄り) 皇太子妃 国際親善 6月1日 6月15日 スウェーデンの旗 スウェーデン・デンマークの旗 デンマーク・ノルウェーの旗 ノルウェー(名代)・フィンランドの旗 フィンランド 皇太子妃 国際親善 1987 10月3日 10月10日 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 皇太子妃 国際親善 第125代天皇在位中の外国訪問 年 出国 帰国 訪問地 同行 備考 1991年 (平成3) 9月26日 10月6日 タイ王国の旗 タイ、マレーシアの旗 マレーシア、インドネシアの旗 インドネシア 皇后 国際親善 各国からの招待 1992年 (平成4) 10月23日 10月28日 中華人民共和国の旗 中国 皇后 国際親善 中国からの招待 1993年 (平成5) 8月6日 8月9日 ベルギーの旗 ベルギー 皇后 国王ボードゥアン1世の国葬参列 9月3日 9月19日 イタリアの旗 イタリア・ベルギーの旗 ベルギー・ドイツの旗 ドイツ(バチカンの旗 バチカン立寄り) 皇后 国際親善 各国からの招待 1994年 (平成6) 6月10日 6月26日 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 皇后 国際親善 アメリカからの招待 10月2日 10月14日 フランスの旗 フランス・スペインの旗 スペイン( ドイツの旗 ドイツ立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 1997年 (平成9) 5月30日 6月13日 ブラジルの旗 ブラジル・アルゼンチンの旗 アルゼンチン(ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク・アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 1998年 (平成10) 5月23日 6月5日 イギリスの旗 イギリス・デンマークの旗 デンマーク(ポーランドの旗 ポーランド立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2000年 (平成12) 5月20日 6月1日 オランダの旗 オランダ・スウェーデンの旗 スウェーデン(スイスの旗 スイス、フィンランドの旗 フィンランド立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2002年 (平成14) 7月6日 7月20日 ポーランドの旗 ポーランド・ハンガリーの旗 ハンガリー(チェコの旗 チェコ、オーストリアの旗 オーストリア立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2005年 (平成17) 5月7日 5月14日 ノルウェーの旗 ノルウェー(アイルランドの旗 アイルランド立寄り) 皇后 国際親善 ノルウェーからの招待 6月27日 6月28日 北マリアナ諸島の旗 サイパン島 皇后 平和祈念 戦没者慰霊 2006年 (平成18) 6月8日 6月15日 シンガポールの旗 シンガポール・タイ王国の旗 タイ(マレーシアの旗 マレーシア立寄り) 皇后 国際親善 シンガポールからの招待 タイ国王即位60年記念式典臨席 2007年 (平成19) 5月21日 5月30日 スウェーデンの旗 スウェーデン・エストニアの旗 エストニア・ラトビアの旗 ラトビアリトアニアの旗 リトアニア・イギリスの旗 イギリス 皇后 国際親善 各国からの招待[39][40] 2009年 (平成21) 7月3日 7月17日 カナダの旗 カナダ・ハワイ州の旗ハワイ 皇后 国際親善 カナダからの招待 ハワイ州皇太子明仁親王奨学金財団50周年記念行事[41] 2012年 (平成24) 5月16日 5月20日 イギリスの旗 イギリス 皇后 女王エリザベス2世即位60周年の記念午餐会招待[42] 2013年 (平成25) 11月30日 12月6日 インドの旗 インド 皇后 国際親善 インド政府からの招待[43][44] 2015年 (平成27) 4月8日 4月9日 パラオの旗 パラオ 皇后 戦没者慰霊[45] 平和祈念 パラオ国の招請[46] 2016年 (平成28) 1月27日 1月30日 フィリピンの旗 フィリピン 皇后 国際親善 フィリピン政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念[47][48] 2017年 (平成29) 2月28日 3月6日 ベトナムの旗 ベトナム(タイ王国の旗 タイ立寄り) 皇后 国際親善 ベトナム政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 タイ国前国王プミポン・アドゥンヤデートの弔問[49] 2005(平成17)年6月28日、 米国自治領・サイパン島訪問時、皇后と共に 2009(平成21)年7月10日、 カナダ・ブリティッシュコロンビア州訪問時 逸話[編集] 1938年(昭和13年)、三輪車に乗る明仁親王 青年以降[編集] 皇太子時代のMGM撮影所見学、1953年(昭和28年) 1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世戴冠式のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊。 出発の際には、皇居から横浜港まで、小旗を持った100万人もの人が見送ったという。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した[50]。 大型客船プレジデント・ウィルソン号(アメリカン・プレジデント・ライン社所属、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した[51]。三島由紀夫も2年前に同船でハワイに向け出帆し世界旅行に出るなど[52][注釈 3]。 イギリスでは、第二次世界大戦で敵対国であった記憶は未だ褪せておらず、戴冠式において13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられたが、女王との対面まで長時間待たされた。また女王は、握手は交わしたが視線は交わさなかった[50]。 半年にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科を中退し聴講生として大学に残った。聴講生となってからはクラブ活動にも原則として参加できなかった[53]。このため、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁ウェブサイトに拠る)としている。なお学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会初代会長島村宜伸がいる。島村は1956年(昭和31年)3月に政治学士となり、39年5か月後の1995年(平成7年)8月に村山改造内閣で初入閣し文部大臣の認証を受けている。 1959年(昭和34年)4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像[注釈 4]が発行された。また切手は郵政省から皇室と正田家に「皇太子御成婚記念切手帖」が献上されている[注釈 5]。 1960年(昭和35年)にシカゴ市長により寄贈された、ミシシッピ川水系原産のブルーギルを皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思ってのことであったが、ブルーギルは水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の(自己批判を意味する)発言をしている[54]。 即位後[編集] ファイル:Emperor of Japan - Tenno - New Years 2010.ogv 国民へ向かって新年の挨拶(2010年) 2005年(平成17年)12月23日、天皇誕生日一般参賀にて 2009年(平成21年)7月15日、ハワイ州ホノルル市にて 昭和天皇崩御にあたり、相続税4億2800万円を納めた[55]。また、皇居のある千代田区には住民税を納めている[55]。 2008年(平成20年)9月8日、新潟県行幸の折り、被害の大きかった被災当時の山古志村(現・長岡市山古志)を視察。その後、山古志の被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ[56]。 2002年(平成14年)2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后のピアノ伴奏に合わせて演奏を行い、故人を偲んだ[57]。 2005年(平成17年)6月28日、サイパン島訪問の際には当初の訪問予定に含まれていなかった韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)に皇后を連れて立ち寄った。これは天皇の意向だったとされている[58]。 2008年(平成20年)11月8日、先代の昭和天皇同様、慶應義塾大学創立150周年記念式典に皇后と共に臨席し「おことば」を述べた[59]。 2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については前述のように異例のビデオメッセージを送ったほか、各地の避難所を皇后と共に歴訪している[60]。 2013年(平成25年)4月15日、1泊2日の私的旅行に出掛けた。行き先は長野県で、千曲市にある「あんずの里」を散策した。定例の静養や公的行事の出席ではなく、自ら場所と時期を選んで出掛けた即位後初の私的宿泊旅行である[61]。 人物に関するもの[編集] 1949年(昭和24年)、祖母皇太后節子(後の貞明皇后)と共に 1952年(昭和27年)、父・昭和天皇と共に 1952年(昭和27年)、弟・正仁親王と共に乗馬を楽しむ明仁親王(手前) 学生時代のエピソードとして、「銀ブラ事件」が有名である。学習院高等科3年の試験が終わった日、学友の橋本明、千家崇彦と3人だって周りの人間を出し抜き、銀座をぶらついた。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し、皆でお金を出し合い、一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンバン」でアップルパイと紅茶を楽しんだが、当然ながらすぐに事件は発覚。連れ出した学友は警察と皇室関係者にこっぴどく叱られた。 上述の銀ブラをはじめとする高等科時代のエピソードを基に、同級生だった藤島泰輔が皇太子に捧げて書いた[62]小説が『孤獨の人』(1956年)である。同作は発売前からマスコミに取り上げられ、映画化もされた。一方、戦後の日本において、戦争のイメージがなく、若く清新な「新生日本」にふさわしいともてはやされた皇太子の実像が、学友たちの権力争いの道具となり宮内庁職員らの窮屈な支配に諦めを抱く存在として描かれたことで、その人気は結婚によるミッチー・ブームが起こるまで陰りを見せた。背景には逆コースと呼ばれた民主化に逆行する風潮への批判があり、日本社会党の茜ケ久保重光と江田三郎は国会でこの小説を取り上げ、枠に嵌められる皇太子の状況への同情と落胆を語り、宮内庁への批判を展開した[63]。 靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。一方で靖国神社の元宮司である南部利昭には、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている[注釈 6]。 「好きなテレビ番組は?」との質問については、「各局の競争が激しいので…」などと回答を拒否するのが普通である(これは父・昭和天皇も同様であった)。ただし、皇太子時代に好きなテレビ番組として『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)を挙げたことがある。他に即位後の園遊会で水木しげるに「『ゲゲゲの女房』を見ましたが、絵をかくのは大変そうですね」と声をかけた[64]。 皇居がある千代田区は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う計画停電の対象外地域であったが、「国民と困難を分かち合いたい」とする天皇の意向により、皇居は停電時間に合わせ電源を落とした[65]。計画停電の実施が終了した後もこの「自主停電」は続けたという[66]。 2011年7月29日から8月10日、アメリカの調査会社GfKとAP通信が、日本全国の成人1000人を対象に電話で行った世論調査では、各国の元首や首脳についての設問で、天皇は「好き」を70%獲得し、オバマ大統領(同41%)などを大幅に超えて1位であった[67]。 乗り物に関すること[編集] 2016年現在使用しているとされる2代目インテグラ(写真は同型北米仕様車) 1953年、皇太子は葉山において学友の所有するアルファロメオ・1900を運転している。この車は、当時最先端の高性能車であった。このドライブでは、車の所有者の学友が助手席に座り、護衛または侍従が後部座席に収まり、皇太子が実際に運転している[68]。 2016年(平成28年)現在、プライベートで運転するのは1991年(平成3年)製のグレーのホンダ・インテグラ(4ドア仕様・MT)[69]。法令に基づき、2007年(平成19年)以降3年ごとに高齢者講習を受講の上運転免許を更新しているが、2016年の更新を最後にする意向である[70]。 ビクトリアカナダ空軍基地において軍用機のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。またビクトリアからバンクーバーまではこの空軍機で移動した。同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは2009年(平成21年)のカナダ訪問の際に再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた[71]。 日産自動車(主に旧プリンス自動車)とのかかわり[編集] 1954年(昭和29年)、妹・清宮貴子内親王(右)と、皇太子のプリンス・セダンの前にて 独身時代にはしばしば、成婚後もしばらくの間、愛車でドライブを楽しんでおり、国産車では1954年に献上されたプリンス自動車(現:日産自動車)のプリンス・セダン(後年、日産自動車に返還され現存)以降、通算9台のプリンス車を用いた。その中にはプリンスの試作1900ccエンジンを先行搭載した初代スカイラインや、高級車「グランド・グロリア」の後席スペースを100mm延長した特注車も含まれていた。なおこのグロリアのストレッチ仕様車は、標準車のスペースでは「私はよいのですが美智子が…」という皇太子妃への気配りにより特別生産された[72]。 その他、プリンスが納入した公用車については、同様に妃への気配りから「サイドシル(車体側面・ドア部分の敷居)をもっと低くできないか」(乗り降りをしやすくするため)という質問も出している。プリンス側では、後席シート座面を低く下げ、天井内張りの厚みを薄くすることで乗り降りのしやすさを改善した[73]。 発言[編集] 「さきに,日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが,ここに「即位礼正殿の儀」を行い,即位を内外に宣明いたします。 このときに当たり,改めて,御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間,いかなるときも,国民と苦楽を共にされた御心を心として,常に国民の幸福を願いつつ,日本国憲法を遵守し,日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い,国民の叡智とたゆみない努力によって,我が国が一層の発展を遂げ,国際社会の友好と平和,人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」 1990年(平成2年)11月12日、即位礼正殿の儀にて[74]。 「日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です」 1998年(平成10年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて[75]。 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」 2001年(平成13年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて[76]。 この発言は内外の興味を強く引き、韓国においても大々的に報道された。桓武天皇#今上天皇の発言も参照。 「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」 2003年(平成15年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて[77]。 母方の祖母・俔子妃が島津家の出身である。 「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」- 東京都教育委員の米長邦雄の「日本中の学校に国旗を掲げ、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して。 2004年(平成16年)10月28日、秋の園遊会にて 「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」- 人格否定発言を受けて 2004年(平成16年)、誕生日に際する文書回答より[78]。 「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」 以上、2005年(平成17年)12月19日、誕生日に際する記者会見にて[79]。 「これからの日本の教育の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人が亡くなり、さらに総理1人がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。」- 在日外国報道協会代表質問「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込むことが、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」に対して。 2006年(平成18年)6月6日、シンガポール・タイ王国訪問前の記者会見にて[80] 「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです。(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」 2006年(平成18年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて[81]。 「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したものであり、当時食用魚としての期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」 2007年(平成19年)第27回全国豊かな海づくり大会にて[54]。 「皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています」 2008年(平成20年)12月23日、誕生日に際する文書回答にて[82]。 「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」 「2人のそれぞれの在り方についての話し合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。(中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。」 以上、2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見にて[83]。 「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います」 「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています」 以上、2009年(平成21年)11月11日、即位20年に際する記者会見にて[84]。 「(公務の)負担の軽減は,公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので,十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています」 2012年(平成24年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[85]。 「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」 「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています」 以上、2013年(平成25年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[86] 「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」 2016年(平成28年)8月8日、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」にて[87]。 病歴[編集] 2014年(平成26年)4月24日、皇居にてアメリカ合衆国の大統領バラク・オバマ(左)と 2008年(平成20年)12月9日の宮内庁記者会見においては、天皇が12月上旬に上室性不整脈に罹患し、また、消化器官検査で胃と十二指腸に炎症が発見されたことなどが発表された[88]。原因は心身のストレスであり、宮内庁は「将来にわたる皇統の問題をはじめ、皇室に関わる諸々の問題を憂慮されている」と述べ、ストレスの中心に皇位継承問題があるとの考えを示した[89]。 天皇自身が、公務等の見直しは在位20周年となる2009年(平成21年)以降からと希望していた[90]。 2011年(平成23年)11月18日よりマイコプラズマ肺炎に罹り東大病院に入院していた[91]。 2012年(平成24年)2月11日に東大病院での検査入院[92]の結果、狭心症の症状が認められることなどから冠動脈のバイパス手術を受けることになり[93]、2月18日に東大病院で手術が行われた。東大と順天堂大の合同チームが行った手術は、心臓を動かしたままで行う「オフポンプ手術」と呼ばれる高度な方法で、執刀は順天堂大の天野篤らが担当した[94][95][96]。 著書[編集] 『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年(昭和61年)12月 ISBN 9784573143012 『道 平成元年〜平成10年 天皇陛下御即位十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、1999年(平成11年)10月 / 新装版2009年(平成22年)9月、ISBN 4140813903 『道 平成11年〜平成20年 天皇陛下御即位二十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、2009年(平成22年)9月、ISBN 414081389X 『天皇陛下科学を語る』宮内庁侍従職監修、朝日新聞出版、2009年10月 ISBN 4023304522 『日本産魚類大図鑑=The fishes of the Japanese archipelago』 東海大学出版会、1984年(昭和59年)12月 ISBN 4-486-05053-3(図版) ISBN 4-486-05053-3(解説) ISBN 4-486-05054-1 (Text) 論文『ハゼ科魚類の進化』を所収(他に第2版で、ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、益田一ほか編。 『日本の淡水魚』 山と溪谷社、1989年(平成元年)11月、ISBN 4-635-09021-3 (チチブ類の項目を執筆)、川那部浩哉、水野信彦編・監修 『日本産魚類検索 全種の同定』 東海大学出版会、1993年(平成5年)10月 / 第2版2000年(平成12年)12月 / 第3版2013年(平成25年)3月、ISBN 4486018044 (ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、中坊徹次編 出典・注釈[編集] 注釈[編集] [ヘルプ] ^ 代数は皇統譜による。 ^ 後者は2006年7月21日、DVDが発売されている(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントより、定価5250円)。開会式で宣言を読み上げる姿はテレビ中継もされ(7月19日、NHK総合テレビ)、後年ドキュメンタリー番組にもそのまま使用された(「映像でつづる復帰30周年」) ^ 学習院の先輩であった三島は、皇太子外遊にあたり「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」を書き、同船についても触れている[51]。 ^ 『郵趣』2009年4月号によれば、宮内庁から服装の変更申し出により、原案から皇太子は背広からモーニング、皇太子妃は洋装から和服に変更されている。 ^ 実物と同じものが逓信総合博物館で所蔵されている。 ^ 『週刊朝日』2004年12月3日。ただし、南部は「どうやら、久邇さまが陛下にお願いしていたようです」と『週刊朝日』に述べており、天皇の発言は南部を宮司に推挙した久邇邦昭(天皇の従兄)からの依頼によるものとしている。 出典[編集] [ヘルプ] ^ 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(February 2016). doi:10.1016/j.gene.2015.10.014. PMID 26475939.文仁親王の所属は東京大学総合研究博物館および東京農業大学となっている。 ^ “Platygobiopsis akihito, new genus and species of gobiid fish from Flores, Indonesia”. Japanese Journal of Ichihyology 38 (4): 349-355. (1992). ^ “Exyrias akihito, A New Species of Coral-Reef Goby (Gobiidae) from the Western Pacific”. The Raffles Bulletin of Zoology 53 (2): 231-235. 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(2012年2月19日) 2012年2月28日閲覧。 参考文献[編集] 君塚直隆 『女王陛下の外交戦略――エリザベス二世と「三つのサークル」』 講談社、2008年3月。ISBN 978-4062145664。 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集27巻 評論2』 新潮社、2003年2月。ISBN 978-4106425677。 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集28巻 評論3』 新潮社、2003年3月。ISBN 978-4106425684。 小林彰太郞 『天皇の御料車』 二玄社、1993年。(別冊CG) 関連項目[編集] ウィキソースには次の原文があります。 親王御誕生 親王御名命 今上天皇による国会開会式のおことば 皇太子明仁親王殿下が皇位を継承された件 ウィキメディア・コモンズには、明仁に関連するカテゴリがあります。 宮内庁 ハゼ ティラピア ヒレナガニシキゴイ 郁沃会 小泉信三 外部リンク[編集] 宮内庁ホームページ 皇太子さまご結婚- NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス 天皇陛下即位の礼 - NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス 明仁 皇室 1933年12月23日 - 存命中 日本の皇室 先代: 昭和天皇 (裕仁) 皇位 1989年(平成元年) – 現在 次代: 徳仁親王 表 話 編 歴 天皇旗 天皇一覧 菊の御紋 神話時代 初代 神武天皇 第2代 綏靖天皇 第3代 安寧天皇 第4代 懿徳天皇 第5代 孝昭天皇 第6代 孝安天皇 第7代 孝霊天皇 第8代 孝元天皇 第9代 開化天皇 第10代 崇神天皇 第11代 垂仁天皇 第12代 景行天皇 第13代 成務天皇 第14代 仲哀天皇 古墳時代 第15代 応神天皇 第16代 仁徳天皇 第17代 履中天皇 第18代 反正天皇 第19代 允恭天皇 第20代 安康天皇 第21代 雄略天皇 第22代 清寧天皇 第23代 顕宗天皇 第24代 仁賢天皇 第25代 武烈天皇 第26代 継体天皇(507? - 531?) 第27代 安閑天皇(531? - 535?) 第28代 宣化天皇(535? - 539?) 第29代 欽明天皇(539? - 571?) 第30代 敏達天皇(572? - 585?) 第31代 用明天皇(585? - 587?) 第32代 崇峻天皇(587? - 592?) 飛鳥時代 第33代 推古天皇(592 - 628) 第34代 舒明天皇(629 - 641) 第35代 皇極天皇(642 - 645△) 第36代 孝徳天皇(645 - 654) 第37代 斉明天皇(655 - 661) 第38代 天智天皇(661 - 671) 第39代 弘文天皇(671? - 672?) 第40代 天武天皇(673 - 686) 第41代 持統天皇(686 - 697△) 第42代 文武天皇(697 - 707) 奈良時代 第43代 元明天皇(707 - 715△) 第44代 元正天皇(715 - 724△) 第45代 聖武天皇(724 - 749△) 第46代 孝謙天皇(749 - 758△) 第47代 淳仁天皇(758 - 764▼) 第48代 称徳天皇(764 - 770) 第49代 光仁天皇(770 - 781△) 平安時代 第50代 桓武天皇(781 - 806) 第51代 平城天皇(806 - 809△) 第52代 嵯峨天皇(809 - 823△) 第53代 淳和天皇(823 - 833△) 第54代 仁明天皇(833 - 850△) 第55代 文徳天皇(850 - 858) 第56代 清和天皇(858 - 876△) 第57代 陽成天皇(876 - 884△) 第58代 光孝天皇(884 - 887) 第59代 宇多天皇(887 - 897△) 第60代 醍醐天皇(897 - 930△) 第61代 朱雀天皇(930 - 946△) 第62代 村上天皇(946 - 967△) 第63代 冷泉天皇(967 - 969△) 第64代 円融天皇(969 - 984△) 第65代 花山天皇(984 - 986△) 第66代 一条天皇(986 - 1011△) 第67代 三条天皇(1011 - 1016△) 第68代 後一条天皇(1016 - 1036) 第69代 後朱雀天皇(1036 - 1045△) 第70代 後冷泉天皇(1045 - 1068) 第71代 後三条天皇(1068 - 1072△) 第72代 白河天皇(1072 - 1086△) 第73代 堀河天皇(1086 - 1107) 第74代 鳥羽天皇(1107 - 1123△) 第75代 崇徳天皇(1123 - 1141△) 第76代 近衛天皇(1141 - 1155△) 第77代 後白河天皇(1155 - 1158△) 第78代 二条天皇(1158 - 1165△) 第79代 六条天皇(1165 - 1168△) 第80代 高倉天皇(1168 - 1180△) 第81代 安徳天皇(1180 - 1185) 鎌倉時代 第82代 後鳥羽天皇(1183 - 1198△) 第83代 土御門天皇(1198 - 1210△) 第84代 順徳天皇(1210 - 1221△) 第85代 仲恭天皇(1221▼) 第86代 後堀河天皇(1221 - 1232△) 第87代 四条天皇(1232 - 1242) 第88代 後嵯峨天皇(1242 - 1246△) 第89代 後深草天皇(1246 - 1259△) 第90代 亀山天皇(1259 - 1274△) 第91代 後宇多天皇(1274 - 1287△) 第92代 伏見天皇(1287 - 1298△) 第93代 後伏見天皇(1298 - 1301△) 第94代 後二条天皇(1301 - 1308) 第95代 花園天皇(1308 - 1318△) 南北朝時代 南朝 第96代 後醍醐天皇(1318 - 1339△) 第97代 後村上天皇(1339 - 1368) 第98代 長慶天皇(1368 - 1383△) 第99代 後亀山天皇(1383 - 1392△) 北朝 北朝 初代 光厳天皇(1331 - 1333▼) 北朝 第2代 光明天皇(1336 - 1348△) 北朝 第3代 崇光天皇(1348 - 1351▼) 北朝 第4代 後光厳天皇(1352 - 1371△) 北朝 第5代 後円融天皇(1371 - 1382△) 北朝 第6代→第100代 後小松天皇(1382 - 1412△) 室町時代 戦国時代 第101代 称光天皇(1412 - 1428) 第102代 後花園天皇(1428 - 1464△) 第103代 後土御門天皇(1464 - 1500) 第104代 後柏原天皇(1500 - 1526) 第105代 後奈良天皇(1526 - 1557) 第106代 正親町天皇(1557 - 1586△) 江戸時代 第107代 後陽成天皇(1586 - 1611△) 第108代 後水尾天皇(1611 - 1629△) 第109代 明正天皇(1629 - 1643△) 第110代 後光明天皇(1643 - 1654) 第111代 後西天皇(1655 - 1663△) 第112代 霊元天皇(1663 - 1687△) 第113代 東山天皇(1687 - 1709△) 第114代 中御門天皇(1709 - 1735△) 第115代 桜町天皇(1735 - 1747△) 第116代 桃園天皇(1747 - 1762) 第117代 後桜町天皇(1762 - 1770△) 第118代 後桃園天皇(1770 - 1779△) 第119代 光格天皇(1779 - 1817△) 第120代 仁孝天皇(1817 - 1846) 第121代 孝明天皇(1846 - 1866) 明治以降 第122代 明治天皇(1867 - 1912) 第123代 大正天皇(1912 - 1926) 第124代 昭和天皇(1926 - 1989) 第125代 今上天皇(1989 - 現在) 大正の初年までは神功皇后を在位した天皇に含めてこれを第15代としていた。 赤字は女帝。括弧内は在位年。「△」は譲位、「▼」は廃位、「?」は当該年に異説があることを示す。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の重祚。第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 第38代天智天皇の在位年は6年半に及んだ即位前の称制を含む。第41代持統天皇の在位年は3年半に及んだ即位前の称制を含む。 第57代陽成天皇の譲位は事実上の廃位。 第81代安徳天皇の在位の最後の2年間は、第82代後鳥羽天皇の在位の最初の2年間と重複する。 第96代後醍醐天皇の在位は、実際には2度の廃位と復辟をはさんだ1318 - 1331年(鎌倉時代)、1333 - 1335年(建武の新政期)、1335 - 1339年(吉野時代)の3期にまたがる。しかしそれぞれの廃位後に擁立された光厳天皇と光明天皇の即位を認めず、その間自身のみが一貫して天皇だったと主張した。 現行の天皇歴代は、南朝の天皇を正統とする観点から数えられている。北朝の天皇はこの天皇歴代には数えないものの、同時期に在位した正当な天皇として皇統譜に含まれている(参照)。後小松天皇の在位は、始めの10年間が北朝の第6代、後の20年間が天皇歴代の第100代となる(参照)。 表 話 編 歴 菊の御紋 皇室 菊の御紋 一覧 天皇の一覧 皇后の一覧 皇室系図の一覧 元号の一覧 宮家一覧 男性皇族一覧 十六八重表菊(菊花紋章) 身位 天皇 今上天皇 皇后 上皇 上皇后 皇太后 太皇太后 皇太子 東宮 儲君 皇太子妃 親王 親王妃 内親王 王 王妃 女王 摂政 摂政宮 一品親王 入道親王 法親王 太上天皇 上皇 太上法皇 法皇 准太上天皇 大行天皇 後宮 后位 准后 中宮 女御 更衣 御息所 御匣殿別当 皇太妃 皇太夫人 国母 宮家 直宮家 皇族 旧皇族 内廷皇族 即位 践祚 崩御 譲位 薨去 臣籍降下 親王宣下 皇別 皇位 皇嗣 皇別摂家 皇位継承 敬称 陛下 殿下 御称号 宮号 尊号 全名 諡 お印 宮中祭祀 宮中三殿 賢所 皇霊殿 神殿 天照大神 皇祖神 伊勢神宮 神 日本神話 神道 公務・制度 日本の元首 日本国憲法第1章 国事行為 国事行為臨時代行 国事行為の臨時代行に関する法律 行幸・行啓 園遊会 皇室典範 旧皇室典範 皇室経済法 皇室経済会議 皇室経済法施行法 皇室会議 皇室財産 皇室費用 宮廷費・内廷費・皇族費 皇室令 宮内庁法 宮内庁御用達 最高敬語 永世皇族制 象徴天皇制 天皇制 皇室裁判所 皇族軍人 名誉総裁 皇室の儀式 ・行事 即位の礼 大喪の礼 立太子の礼 講書始 歌会始 雅楽 蹴鞠 鴨場 古式馬術 打毬 大祓 信任状捧呈式 認証官任命式 一般参賀 新年祝賀の儀 納采の儀 命名の儀 斂葬の儀 四方拝 先帝祭 大嘗祭 天皇誕生日 鎮魂祭 招魂祭 紀元節祭 神嘗祭 元始祭 皇霊祭 歳旦祭 新嘗祭 神武天皇祭 皇妣たる皇后の例祭 紀元二千六百年記念行事 宝物・御物 三種の神器 八咫鏡 八尺瓊勾玉 天叢雲剣 正倉院 三の丸尚蔵館 御府 国璽 御璽 居所・陵墓 皇居 京都御所 大宮御所 東宮御所 吹上御所 紅葉山御養蚕所 仙洞御所 御用邸 桂離宮 赤坂御用地 赤坂離宮 修学院離宮 離宮 天皇陵 豊島岡墓地 明治宮殿 組織 宮内庁 宮内省 侍従 女官 尚侍 典侍 掌侍 女孺 掌典職 皇后宮職 皇太后宮職 宮内庁侍従職 宮内庁東宮職 東宮侍従 東宮大夫 皇宮警察本部 皇宮護衛官 菊葉文化協会 菊栄親睦会 霞会館 内大臣府 御歌所 帝室博物館 帝室林野局 車馬 鳳輦 お召し列車 皇室用客車 賢所乗御車 御料車 牛車 日産・プリンスロイヤル トヨタ・センチュリーロイヤル その他 院政 泉涌寺 皇居外苑 菊花紋章 君が代 学習院 天皇陛下万歳 恩賜のたばこ 明治神宮 表 話 編 歴 アジアの元首(関連カテゴリ:Category:大統領、Category:内閣、Category:君主) 東アジア 韓国大統領 北朝鮮国務委員長 中華人民共和国主席 中華民国総統 日本内閣・日本首相1 モンゴル大統領 東南アジア インドネシア大統領 カンボジア国王 シンガポール大統領 タイ国王 東ティモール大統領 フィリピン大統領 ブルネイ国王 ベトナム国家主席 マレーシア国王 ミャンマー大統領 ラオス国家主席 南アジア アフガニスタン大統領 インド大統領 スリランカ大統領 ネパール大統領 パキスタン大統領 バングラデシュ大統領 ブータン国王 モルディブ大統領 中央アジア ウズベキスタン大統領 カザフスタン大統領2 キルギス大統領 タジキスタン大統領 トルクメニスタン大統領 西アジア アゼルバイジャン大統領2 アラブ首長国連邦大統領 アルメニア大統領2 イエメン大統領3 イスラエル大統領2 イラク大統領 イラン大統領 エジプト大統領3 オマーン国王(英語版) カタール首長 キプロス大統領2 クウェート首長 サウジアラビア国王 ジョージア大統領2 シリア大統領 トルコ大統領2 バーレーン国王(英語版) ヨルダン国王 レバノン大統領 事実上独立した地域 アブハジア大統領2 北キプロス大統領2 ナゴルノ・カラバフ大統領2 パレスチナ大統領 南オセチア大統領2 各列内は五十音順。※ 1 大多数の学説によれば、内閣あるいは首相が元首(参考)。 ※ 2 ヨーロッパにも分類され得る。※ 3 一部はアフリカに含まれる。 アフリカ アメリカ オセアニア ヨーロッパ 表 話 編 歴 Arms of the Most Noble Order of the Garter.svg ガーター騎士団員 職権上の騎士 女王エリザベス2世1947 プリンス・オブ・ウェールズ1958 Arms of the Most Noble Order of the Garter.svg 臣民の騎士 第6代キャリントン男爵1985 ブラモール男爵1990 セインズベリー男爵(英語版)1992 第7代アシュバートン男爵1994 サー・ニニアン・スティーヴン1994 サー・ティモシー・コールマン(英語版)1996 第5代アバコーン公爵1999 サー・ウィリアム・グラッドストン準男爵1999 イング男爵2001 サー・アンソニー・オークランド(英語版)2001 バトラー男爵(英語版)2003 モリス男爵(英語版)2003 サー・ジョン・メージャー2005 ルース男爵(英語版)2008 サー・トマス・ダン(英語版)2008 フィリップス男爵2011 ボイス男爵2011 スターラップ男爵2013 マニンガム=ブラー女男爵2014 キング男爵2014 第5代シャトルワース男爵2016 サー・デイヴィッド・ ブリューワー(英語版)2016 空席2席 王族の騎士 エディンバラ公爵1947 ケント公爵1985 プリンセス・ロイヤル1994 グロスター公爵1997 アレクサンドラ王女2003 ヨーク公爵2006 ウェセックス伯爵2006 ケンブリッジ公爵2008 外国君主の騎士 ジャン(ルクセンブルク前大公)1972 マルグレーテ2世(デンマーク女王)1979 カール16世グスタフ(スウェーデン国王)1983 フアン・カルロス1世(スペイン前国王)1988 ベアトリクス(オランダ前女王)1989 今上天皇(日本天皇)1998 ハーラル5世(ノルウェー国王)2001 オフィサー Prelate:ウィンチェスター主教ティム・デーキン(英語版) Chancellor:第5代アバコーン公爵 Registrar:ウィンザー首席司祭デイヴィッド・コナー(英語版) Garter Principal King of Arms:トマス・ウッドコック(英語版) Secretary:パトリック・ディキンソン(英語版) Black Rod:デヴィッド・リーキー(英語版) 典拠管理 WorldCat VIAF: 111992561 LCCN: n88289770 ISNI: 0000 0000 8347 3348 GND: 119028379 SUDOC: 110144589 NLA: 47753252 NDL: 00162868 NKC: xx0004208 CiNii: DA05777536 カテゴリ: 日本の天皇大勲位菊花章頸飾受章者大勲位菊花大綬章受章者ガーター勲章金羊毛騎士団員レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者ラーチャミトラーポーン勲章受章者大チャクリー勲章受章者ロイヤル・ヴィクトリア勲章ソロモン勲章受章者日本の慈善家日本の魚類学者王立協会ロンドン・リンネ協会結核に罹患した人物大阪万博に関係した人物平成時代東京都区部出身の人物1933年生存命人物 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 検索表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 العربية English Español Bahasa Indonesia 한국어 Bahasa Melayu Русский اردو 中文 他 79 リンクを編集 最終更新 2017年7月7日 (金) 14:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki