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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。

相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

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相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。

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対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質


・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
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これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --------- --------- 笑福亭松鶴 (6代目) Nuvola apps important orange.svg この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2012年7月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2012年7月) 雑多な内容を羅列した節があります。(2012年7月) 六代目 笑福亭 松鶴ろくだいめ しょうふくてい しょかく 六代目 笑福亭 松鶴 「戎松日曜会」。後列右が六代目松鶴(当時は三代目光鶴あるいは四代目枝鶴)。左に三代目桂米之助、五代目文枝(当時あやめ)、旭堂南陵(当時二代目小南陵)。子供は和多田勝(当時小つる) 本名 竹内 日出男 たけうち ひでお 別名 六代目、おやっさん 生年月日 1918年8月17日 没年月日 1986年9月5日(満68歳没) 出生地 日本の旗 日本・大阪府大阪市 死没地 日本の旗 日本・大阪府大阪市 師匠 5代目笑福亭松鶴 名跡 1. 竹内日出男(1944年 - 1947年) 2. 初代笑福亭松之助(1947年 - 1948年) 3. 4代目笑福亭光鶴(1948年 - 1953年) 4. 4代目笑福亭枝鶴(1953年 - 1962年) 5. 6代目笑福亭松鶴(1962年 - 1986年) 出囃子 舟行き 活動期間 1944年 - 1986年 活動内容 上方落語 家族 5代目笑福亭松鶴(父) 5代目笑福亭枝鶴(息子) 所属 千土地興行(? - 1960年) 松竹芸能(1960年 - 1986年) 主な作品 「月宮殿星の都」「高津の富」「らくだ」 備考 上方落語協会2代目会長(1968年 - 1977年) 表示 6代目笑福亭 松鶴(しょうふくてい しょかく、1918年8月17日 - 1986年9月5日)は、落語家。大阪府大阪市出身。生前は上方落語協会会長。本名は竹内 日出男(たけうち ひでお)。出囃子は「舟行き」。父は同じく落語家5代目笑福亭松鶴。母は落語家6代目林家正楽の養女。息子は同じく落語家5代目笑福亭枝鶴(後に廃業)。甥は笑福亭小つるを名乗って松鶴と共に若い頃修行していたこともある和多田勝。 歴代笑福亭松鶴を参照 目次 [非表示] 1 略歴 2 人物 3 エピソード 4 東京とのつながり 5 得意としたネタ 6 過去に出演したテレビ・ラジオ番組 7 笑福亭松鶴一門 8 落語会 9 参考文献 10 著書 11 関連書籍 12 関連項目 略歴[編集] 五枚笹は、笑福亭一門の定絞である。 1918年8月18日、大阪市西区京町堀に父5代目松鶴の次男として生まれる。 1933年 高等小学校を卒業し、漫談家・花月亭九里丸の紹介で心斎橋のお茶屋に丁稚奉公に出る。しかし仕事はそこそこに落語や歌舞伎の鑑賞に入れ込み、新町、松島、飛田でも遊ぶ。遊興費は父の着物を質に出したり父松鶴のサークル「楽語荘」の資金にまで手を出すほどであった。周囲は松鶴の御曹司ということとお世話になっていた噺家も多く叱責されなかった 1938年 兵役検査を受けるが不合格。これを機にお茶屋を辞め、遊蕩の日々を過ごす。その傍ら、「楽語荘」や雑誌「上方はなし」編集の手伝い、落語に関わるようになる。 1944年 中之島の大阪市中央公会堂にて、出番に遅れた出演者の穴埋めとして芸名無しで初舞台。演目は「寄合酒」。以降定期的に主に本名で高座に上がる。 1947年 父松鶴に正式に入門。5月19日、今里双葉館にて正式に初舞台。目の大きい容貌だったことから、父の片腕であった4代目桂米團治より、「目玉の松ちゃん」と親しまれた尾上松之助にあやかって初代笑福亭松之助と命名される。演目は「東の旅・発端」。 1948年 1月1日、戎橋松竹の新春興行より4代目笑福亭光鶴(こかく)と改名。 1953年 7月31日、4代目笑福亭枝鶴を襲名。戎橋松竹にて襲名披露興行。出囃子を「だんじり」とする。 1954年 衣笠寿栄と3度目の結婚。布施市(現東大阪市)彌刀に居を構える。 1957年 4月、上方落語協会設立。副会長に就く。 1958年 6月、朝日放送の専属タレントとなる。 1960年 千土地興行から松竹新演芸へ移籍。 1962年 3月1日、6代目笑福亭松鶴を襲名。道頓堀角座にて襲名披露興行。出囃子を「船行き」とする。 1966年 大阪府民奨励賞受賞 1968年 1月2日、大阪厚生年金会館にて初の「笑福亭一門会」(弟弟子の2代目松之助、3代目笑福亭福松門下の初代森乃福郎も参加)を開く。 1968年 6月、上方落語協会第2代会長に就任。1977年まで務める。 1969年 4月23日(〜4月25日)、大阪厚生年金会館にて初の独演会を開く。 1969年 この年、住吉区粉浜に転居(現在の「無学」)。 1971年 1月30日、芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞。 1972年 2月21日、南区千年町(現・中央区東心斎橋)の島之内教会内に定席「島之内寄席」開場。12月、「上方お笑い大賞」受賞。 1973年 10月(〜1977年3月)、関西テレビ制作のドラマ『どてらい男』に「将軍」こと大石老人役でセミレギュラー出演。 1973年 この年、協会運営の落語会「千里繁昌亭」をスタートさせる。 1975年 - 藤本義一の直木賞受賞作の映画『鬼の詩』に特別出演(オープニングで藤本義一と音声対談) 1977年 5月、神戸市東灘区の東灘文化センターで、落語など演芸関係の蔵書300点余が公開される。 1978年 住之江区の住之江公園近くに転居。 1979年 1月、還暦記念落語会「六世松鶴極め付き十三夜」を北区堂島の毎日国際サロンにて開催。 1981年 8月8日、『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』に安宿の老人役で出演。 1981年 11月3日、紫綬褒章受章。上方落語家としては初。 1984年 1月、惣領弟子・仁鶴との親子会「松鶴・仁鶴極め付き十三夜」を中央区本町の北御堂にて開催。 1986年9月5日、膵臓がんのため、大阪警察病院にて死去。68歳没。この日は奇しくも父・5代目松鶴と長男・5代目枝鶴の誕生日に当たっていた。最後の口演は5月28日に北御堂で行われた林家一門の落語会にて演じた「二代目林家染丸の思い出噺」。 1996年 3月、大阪市上方芸能人顕彰に選ばれる。 1998年 2月27日、大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)より上方演芸の殿堂入りに選定される。 人物[編集] 入門当時、消滅寸前だった上方落語の復興を目指し、3代目桂米朝らと奔走。埋もれていた演目を掘り起こし、また多くの弟子を育て上げ、上方落語の復興を果たす。米朝、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治とで「上方落語界の四天王」と讃えられた。豪放な芸風と晩年の呂律が回らない語り口(1974年頃に脳溢血を患った後遺症による)が知られているが、若い頃はまさに立て板に水というところで、テンポよく迫力のある語り、酔態や子供の表現の上手さで人気を得た。特に酒を題材に取った噺(らくだなど)や芝居噺(蔵丁稚など)を得意としていた。松鶴襲名のころまではまさに他の四天王たちやほぼ同年代の噺家たちよりは頭ひとつ抜けた存在であったと評判であった。また、枝鶴、染丸同時襲名の折は看板は枝鶴(6代目松鶴)が上であった。 私生活においては、酒と借金にまつわる数々のエピソードなど、豪遊で知られる。これらは松鶴の弟子たちによって今でも面白おかしく語られ、「六代目」の生き方を偲ぶよすがとなっている。実際は家ではほとんど酒を飲まず、外では芸人「松鶴」を演じていたのではないかと筆頭弟子の仁鶴ほかが証言している。 また、若手の芸人を非常に可愛がっていた事もある。特に、桂きん枝が不祥事で師匠文枝(当時:小文枝)から破門され、サラリーマン生活を送っていた頃に4代目林家小染が他界。その通夜できん枝が泣きながら参列し、松鶴はその姿を見て文枝にきん枝を許すように助言し、その結果きん枝は破門も解かれ、復帰もかなったという。 6代目の旧住居は現在は寄席小屋「無学」となっており、弟子の笑福亭鶴瓶が月1回「帝塚山 無学の会」というイベントを開催している(後述)。 NHK等、媒体で発表された辞世の句は「煩悩を我も振り分け西の旅」である。これは、父・5代目の辞世の句「煩悩を振り分けにして西の旅」(4代目桂米團治作)を踏まえたものである。作者は甥の和多田勝(『六世笑福亭松鶴はなし』桂米朝の回顧より)である。戒名は「笑福亭楽翁松鶴居士」。墓所は大阪府大阪市天王寺区上本町9丁目の壽法寺(別名・紅葉寺)。 エピソード[編集] 元は役者志望だったが、少年時代に片足に重傷を負い引きずるようになったため、断念せざるを得なかった。この経験が後年、視覚にハンディキャップを持つ笑福亭伯鶴を弟子に取ることに繋がった。 生涯3度結婚している。最初の妻とは死別し、最後の妻は元芸妓であり、出会った当初は今里新地で店を開いていた。当時は別の男性と結婚しており、店に夫が姿を見せると機嫌が悪くなり、今里駅前から自宅までの200メートル余りの間を大声を上げながら歩き帰り、家の中でも壁や柱に当り散らしていた(『六世笑福亭松鶴はなし』桂文枝の回顧)。結婚後は家族・弟子から「あーちゃん」と呼ばれて親しまれ、名物的なおかみさんだった。 若手の頃はヒロポン好きであった。覚せい剤取締法が制定される1951年までヒロポンの市販は合法であったが、どれだけのヒロポンを打てるかが芸人のステータスとなっていた当時、松鶴は一升瓶に入ったヒロポンの溶水を掲げ「一日に30本打ったった」と自慢、「ワシや春団治は楽屋でヒロポン打っとったけど、米朝はリンゴ食うとった」との思い出を語っている(同じ松竹芸能所属だった北野誠のラジオでの談話)。 紙切り芸人の香見喜利平が、舞台で使った残り紙を利用して年賀状用に翌年の干支である鼠(子)を切っていたのを見つけ、喜利平の不在の間にそれを全部捨てた上で、自己流の猫を紙で切って置いておいた。用事から帰って破り捨てられた鼠と松鶴の切った猫を前にした喜利平は「これで腹を立てたらシャレの通じん奴やと思われるやろな」とぼやいた(『桂米朝 私の履歴書』より)。 ベルが鳴っている電話に出るのが苦手で、まず弟子か家人に受話器を取らせてから電話を代わった。やむを得ず電話に出なければならないときは受話器を取るなり開口一番「だっだっだ、誰や!」と怒鳴っていた。 一時期「笑福亭」という名の割烹料理屋を営んでいた事がある。芸人が毎日出入りし食事代を踏み倒すのですぐに店を潰した。 鶴瓶の弟子で松鶴の孫弟子にあたる笑福亭笑瓶は落語家志望だったため、鶴瓶に弟子にしてほしいと懇願した。そこで鶴瓶は「ウチの嫁と、師匠の松鶴に気に入られれば入門を認める」と条件を出す。鶴瓶の妻には認められ、その後松鶴と対面した際に「君は人を笑わせるのが好きか」と問われ、笑瓶は「好きです」と即答した。松鶴は笑瓶に対し、「こいつ(鶴瓶)の生き様を見習え」と告げたという。 桂春団治と新世界の飲み屋で、それぞれの弟子を連れて飲んでいた時の事。近くの席でヤクザが女に因縁をつけているのを見つけた松鶴は、春団治にアイコンタクトを取りつつ「三代目」と代数で呼びかけた。状況を察した春団治も松鶴を「六代目」と呼び、弟子たちも師匠を「おやっさん」と呼ぶなどしてしばらく会話しているうちに、件のヤクザは席を立っていた(『六世笑福亭松鶴はなし』春団治の回顧)。 『驚きももの木20世紀』で語られたところによると、地方で独演会を開いた際、なかなか客が集まらなかった。そこで、興行主は、「笑福亭仁鶴の師匠来たる」と既に全国区の売れっ子だった弟子の名前を使い、客を満員にさせた。しかし、この事を知った松鶴は、プライドを傷つけられ憤慨。正統派の上方落語で、客席を爆笑の渦に巻き込む。そして、「仁鶴の師匠」ではなく、「名人の松鶴」を実力で見せつけ、来た客に認識させたという。 1971年、有馬温泉で行われた松竹芸能の親睦パーティーの席で泥酔して騒ぎ、来賓として出席した松竹本社の城戸四郎社長を激怒させるなど周囲の顰蹙を買った。松竹芸能の所属タレントはもちろん、親会社からも松鶴の解雇を要求する声が挙がる中、松竹芸能の勝忠男社長が仲裁に入り、松鶴が勝に謝罪することで事態は収拾した。皮肉にも松鶴はこのあとメディアでの露出が増えるが、勝は『六世笑福亭松鶴はなし』にて、有馬温泉の一件での松鶴の謝罪が影響したと回顧している。 弟子の笑福亭鶴光が山本正之のプロデュースで「うぐいすだにミュージックホール」をリリースして大ヒットしたが、それを聞いた松鶴は「鶴光のやつ、落語の勉強せずにストリップの歌など歌いおって、許せん!」と激怒し鶴光に3ヶ月間の破門を言い渡した。 1971年から1979年まで大阪府知事を務めた黒田了一の支持者として知られ、黒田の選挙応援を度々行った。 紫綬褒章授与の際に市民税を30年間滞納していたことが発覚し、急遽支払った。 父が5代目松鶴だったこともあり、上方落語のサラブレッドやプリンスと呼ばれたことがあった。立川談志は初対面の時「随分汚ねえプリンスだな。」とあきれたが、松鶴は「わてがプリンスですねん。そう見えまっか。」と逆手に取って周囲を笑わしていた。 上記の通り大阪警察病院で死去。同じ時期に同じ病院で入院していたのが宮川左近ショーの宮川左近であった。その後左近は松鶴が過ごした個室に入ったがその数日後亡くなった。 最期の言葉には諸説ある。笑福亭鶴瓶によれば、最期に「ばば(大便)したい」と言い残し直後に息を引き取った(『鶴瓶上岡パペポTV』での談話)。また当時の新聞記事には「主治医に『戦争じゃ!』と呼びかけた」という記述がある(『落語ファンクラブ』より)。 2代目松之助によると、5代目桂文枝が若手の頃に5代目松鶴から『天神山』の稽古をつけてもらっていたのを隣で盗み聞きし、文枝よりも先に高座でかけてしまった。 東京とのつながり[編集] 東京の落語家とも親交を持ち、東京でも「六代目」と呼ばれた。特に5代目柳家小さんと三笑亭夢楽とは同じ世代でもあり無二の親友であった。松鶴自身東京の若手をもよく可愛がり、7代目立川談志と3代目古今亭志ん朝は松鶴に心酔した。後年、談志は松鶴について、外見は豪放だったが実に繊細で面倒見がよく、毎晩のように御馳走になったり、普段の高座は「相撲場風景」などの軽いネタしかやらず「大したことないな」と思っていた矢先、「らくだ」をたっぷりと演じたのを聴いて体が震えるほど感動したなどと証言している。 東京の噺家が角座に来演するときは、必ず松鶴自らはトリに出ず東京方に取らせた。「わざわざ遠いとこから来てくれてんのやさかい、気持ちよう出てもらわなあかん」というというのが口癖で、その心遣いにみんな感激した。 弟子の鶴光が東京の落語芸術協会にも加入した時、周りの芸人たちが「六代目の師匠にはかわいがってもらいましたから」と手厚く扱ってくれ、改めて師匠の偉大さに気付いた。また、2代目快楽亭ブラックも短期間ではあるが、松鶴に世話になった事がある。 得意としたネタ[編集] 後引き酒 植木屋娘 うどん屋 鰻屋 うんつく酒 おごろもち盗人 らくだ 江戸荒物 親子酒 貝野村 軽業 黄金の大黒 くっしゃみ講釈 蔵丁稚 月宮殿星の都 鴻池の犬 仔猫 米揚げ笊 子は鎹(かすがい) 桜ノ宮 三十石 三人兄弟 三枚起請 尻餅 相撲場風景 先の仏 平の陰 高津の富 蛸芝居 狸茶屋 ちしゃ医者 天王寺詣り 猫の災難 明石名所 大師めぐり 一人酒盛 貧乏花見 仏師屋盗人 吉野狐 棟梁の遊び 寄合酒 有馬小便 阿弥陀池 馬の田楽 普請褒め 仏師屋盗人 船弁慶 借家怪談 犬の眼 天神山 など 過去に出演したテレビ・ラジオ番組[編集] てれこ談義(朝日放送ラジオ)専属時代には多くのラジオ番組に出演。その一つがてれこ談義で米朝と共に落語のネタを2人で芝居仕立てで演じるラジオドラマ。 突然ガバチョ!(毎日放送、鶴瓶主演)女性アイドル歌手等とトークを繰り広げる「松鶴のお部屋」のコーナーやオープニングで素人等と銭湯に入ったりした。 アップダウンクイズ(毎日放送、解答者)2006年末の同局『朝まで生つるべ』で笑福亭鶴瓶は以下のように語っている。松鶴は2度の不正解で退場となってしまった。その後、ある問題で他の5人の解答者が誰も答えられなかった。この問題を松鶴が正解できれば復帰できる。構成作家が小さな声で松鶴にそっと正解を教えてくれたのだが、松鶴は小声で話されるのが大嫌いで「何でっか? 大きな声で言うとくんなはれ!」と言ってしまい周囲を慌てさせた。 世界一周双六ゲーム(朝日放送、解答者、鶴光とともに出演) 三枝の国盗りゲーム(朝日放送、解答者、鶴瓶とともに出演) 笑点(お正月特番鶴亀大喜利) 寛美の落語紳士録(毎日放送) 笑福亭松鶴一門[編集] 弟子に関しては「来る者拒まず、去る者追わず」の精神で多くの弟子を受け入れたが廃業した者も多い。 詳細は「松鶴一門」を参照 笑福亭仁鶴 5代目笑福亭枝鶴(廃業) 6代目笑福亭枝鶴(5代目枝鶴の弟子。1984年に枝鶴が最初の破門を受けた際、6代目松鶴預かりとなる。) 笑福亭鶴光(落語芸術協会) 笑福亭福笑 笑福亭松喬(前名は鶴三、2013年7月30日逝去) 笑福亭松枝 笑福亭呂鶴 笑福亭松葉(1996年9月22日逝去、死後、7代目松鶴を追贈) 笑福亭鶴瓶 笑福亭小松(入門時期は鶴瓶と鶴志の間だが、一時破門され東京の漫才師「青空ポン児」となったため、序列は末尾である。廃業期間が長く、上方で活動していないため協会の系図には記載されていない。2013年12月14日名古屋大須演芸場にて夏川贋二郎として活動再開したが2014年8月2日逝去) 笑福亭鶴志 笑福亭伯鶴 笑福亭和鶴 笑福亭竹林 笑福亭圓笑(前名は猿笑) 笑福亭鶴松 笑福亭岐代松 笑福亭伯枝 笑福亭忍笑 笑福亭鶴笑 笑福亭鶴二 鶴三(6代目松鶴が枝鶴時代の1953年に入門、後に廃業) 呂鶴(1961年に入門、後に廃業) 鶴司(1970年に入門、1972年に廃業) 手遊(1971年10月に入門、中学生で初高座、高校生で廃業。鶴瓶のエピソードによく出てくる。後の実業家・SBIホールディングス役員の横山信治) 松橋(1973年8月に入門、1979年4月に同門の雛鶴と結婚。松喬襲名時里鶴に改名後死去。) 璃鶴(龍谷大学卒業後、1972年に入門、後に廃業) 一鶴(1973年10月に入門、タレントとして活動したが廃業。) 松竹(1974年3月に入門、1978年3月に廃業、笑福亭の大名跡「しょちく」ではなく「まったけ」と読む。) 遊鶴(1974年4月に入門、後に廃業) 幸鶴(1976年1月に入門、後に廃業、女性) 雛鶴(幸鶴と一緒に入門、1979年4月に同門の松橋と結婚し廃業、女性) 小遊(1973年4月に入門、後に廃業) 千羽(1974年1月に入門、後に廃業) 朝一(元東京の古今亭志ん朝の門下だったが、訛りがあった為松鶴の預かり弟子になるも1978年に廃業) 花丸 千鶴(ちかく、松葉前後に入門女性 廃業後女優タレントとして活動) 福輔(1984年6月に入門、2010年に詐欺容疑で逮捕、これに伴い協会から離籍している) 通常では、惣領弟子の仁鶴を筆頭に呂鶴までが一門の幹部と認識されるが、鶴光・福笑は一門の会合には滅多に顔を出さなかったが、現在は仁鶴と一門とは八代目襲名問題以降疎遠になり、六代目の法要等は福笑が仕切っている。仁鶴と鶴笑は吉本興業所属。福笑はフリー。後の殆どは松竹芸能所属である。 落語会[編集] 帝塚山・「無学」(2013年11月撮影) 「帝塚山・無学」は粉浜にあった笑福亭松鶴の旧自邸を鶴瓶が買取をし改築した純和風ホールである。「落語会」を開催し一般にも開いている。今までのライブのゲストにタモリ、甥弟子に当たる明石家さんま、イッセー尾形、桂米朝、桂春団治ら豪華な顔ぶれを迎えている。南海電気鉄道南海本線の粉浜駅から東へ約5分のところにある。 参考文献[編集] 『笑福亭松鶴』三田純市(駸々堂出版 1987年9月) -三田純市による伝記。 『六世笑福亭松鶴はなし』戸田学編(岩波書店、2004年、ISBN 4-00-002586-4) 著書[編集] 〜松鶴極道ばなし〜ほな、いてこまそ(グリーンアロー出版社)1973年ーエッセイ。 六代目松鶴 極めつけおもしろ人生(神戸新聞出版センター 1986年4月) 上方落語(講談社 1987年10月) - 三田純市の選考による、ネタ100篇の速記録。 六代目笑福亭松鶴 その芸・人・一門(1986年1月) 六世笑福亭松鶴はなし(岩波書店、2004年7月) - エピソード集。 古典 上方落語(講談社、1973年) 関連書籍[編集] 笑福亭松枝『ためいき坂くちぶえ坂―松鶴と弟子たちのドガチャガ』(浪速社) -松枝の内弟子時代の思い出を書いたエッセイ。松鶴一家の様々なエピソードの他に、鶴瓶の奇行などが描かれている。 中島らも「寝ずの番」 -上方落語の重鎮が亡くなった通夜の晩の狂騒劇を描いた短編。なくなった落語家“笑満亭橋鶴”とその妻は、松鶴夫婦をモデルにしている。のちに、マキノ雅彦監督により映画化され、橋鶴役は、長門裕之が演じた。 田中啓文『ハナシがちがう!―笑酔亭梅寿謎解噺』『ハナシにならん!―笑酔亭梅寿謎解噺〈2)』(集英社) -上方落語界を舞台にした短編ミステリ集。主人公の師匠(タイトルロール)として、松鶴を忠実にモデルとした「笑酔亭梅寿」なるキャラクターが登場している。時代や世代は二十年ほど後ろにずらし、CD時代にも矍鑠とした老落語家として描かれている。 関連項目[編集] 大阪府出身の人物一覧 松鶴一門 笑福亭松鶴 笑福亭松之助(弟弟子) 落語家一覧 古典落語 カテゴリ: 落語家紫綬褒章受章者大阪市出身の人物1918年生1986年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 言語 リンクを追加 最終更新 2017年6月9日 (金) 16:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki --------- --------- --------- 桂米朝 (3代目) Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年3月) 三代目 桂 米朝さんだいめ かつら べいちょう 三代目 桂 米朝 1947年から1950年ごろ撮影。向かって右の人物が米朝。左は3代目桂春団治(撮影当時は2代目桂小春)。 本名 中川 清 別名 俳号:八十八(やそはち) ちゃーちゃん べーやん 生年月日 1925年11月6日 没年月日 2015年3月19日(満89歳没) 出生地 関東州大連普蘭店 (現:中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区) 師匠 4代目桂米團治 弟子 「米朝一門」を参照 活動期間 1947年 - 2015年 活動内容 上方落語 家族 五代目桂米團治(長男) 所属 千土地興行(1947年 - 1974年) 米朝事務所(1974年 - 2015年) 公式サイト 米朝事務所 主な作品 『地獄八景亡者戯』 『百年目』 『菊江仏壇』 『一文笛』 受賞歴 1987年:紫綬褒章 1996年:人間国宝 2002年:文化功労者顕彰 2009年:文化勲章 2015年:従三位 備考 上方落語協会副会長(1957年 - 1977年) 上方落語協会相談役(1977年 - 2015年) 表示 3代目桂 米朝(かつら べいちょう、1925年(大正14年)11月6日 - 2015年(平成27年)3月19日)は、旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の落語家。本名、中川 清(なかがわ きよし)。出囃子は『三下り鞨鼓』、『都囃子』[1]。俳号は「八十八」(やそはち)[2]。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学の非常勤講師を務めた。所属は米朝事務所。尼崎市に住んだ。 目次 [非表示] 1 生涯 1.1 生い立ち 1.2 上京、正岡との出会い 1.3 終戦の前後 1.4 本格的に落語家へ 1.5 初舞台 1.6 テレビ出演と落語研究家活動 1.7 上方落語四天王らの復興尽力 1.8 文化貢献への評価 1.9 晩年 2 年譜 3 人物 4 幻の桂三木助の襲名 5 主な門弟 6 受賞歴 7 著作物 7.1 LP 7.2 CD 7.3 DVD 7.4 CD+DVD 7.5 著書 7.6 共編著 8 出演作品 8.1 テレビ番組 8.2 ラジオ番組 8.3 テレビドラマ 8.4 映画 8.5 劇場アニメ 9 関連書籍 10 脚注 11 関連項目 12 外部リンク 生涯[編集] 結び柏は、桂米朝一門の定紋である。 生い立ち[編集] 1925年、関東州大連普蘭店(現中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区)に生まれた。4歳のころに奉天(現瀋陽)ヘ転居。実家は兵庫県姫路市の九所御霊天神社の神職であり[3]、祖父の死去に伴い、父が1930年に実家を継承するために一家揃って姫路に帰郷した。米朝自身も上京前に周囲の勧めもあって神職の資格を取得しており、落語家になる前には実家の神社の禰宜(ねぎ)を務めたこともあったという[4]。幼少時代から落語や浪曲に親しみ、父や演芸好きの叔父に連れられて西花月亭や南地花月にもよく通っていた。 上京、正岡との出会い[編集] 旧制姫路中学(現在の兵庫県立姫路西高等学校)卒業後、1943年、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京。在学中、作家であり落語・寄席研究家でもある正岡容(蓉)主催の珍しい落語会を見たことを機に正岡に入門。正岡一門の一番弟子となった。正岡を通じ5代目笑福亭松鶴や、大阪の映画館主の息子であった矢倉悦夫と知り合いとなった。 終戦の前後[編集] 1945年2月に応召し、入隊するが急性腎臓炎に倒れて、3月には地元の病院に入院、病院で終戦を迎えた。この頃、慰問で病院に訪れた橘ノ圓都と出会うことになる。大学には復学せず、神戸市の神戸生活用品商事で会社員となり一介の落語愛好家として落語会や素人落語の上演会を主催するなど、上方落語復興に力を入れていた。[5] 本格的に落語家へ[編集] 矢倉が3代目桂米之助となったことが縁で、後に師匠となる4代目桂米團治に教えを請う機会が生じた。この時に「高津の富」を教わる。 やがて、師・正岡の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け、本格的に落語家を志すようになり、1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目桂米朝を名乗る[6][7]。一旦勤めを辞めて米團治宅の内弟子となるものの親戚から叱責を受け、姫路市内の広畑郵便局員として1年ほど勤務した[8]。その後、師・米團治の死に遭い、落語のみに精進する事を決意する。 初舞台[編集] 戎橋松竹で初舞台後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座やうめだ花月に出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語、独演会、一門会を中心に活動するようになる。ラジオパーソナリティーを務めていた近畿放送の「天壇ゴールデンリクエスト」の縁で1966年7月16日、初の独演会「米朝 スポットショー」を京都府立勤労会館で開催、その流れで10月25日に現在でも続く桂米朝落語研究会をスタート。1974年、千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。現在一門の多くがここに所属する。 テレビ出演と落語研究家活動[編集] 1958年頃には朝日放送専属となり、放送タレントとしても、1960年代以降は、『ハイ!土曜日です』、『お笑いとんち袋』(関西テレビ)や『味の招待席』、『和朗亭』(朝日放送)など多数の番組に出演して大人気を博した。一方で、落語研究家としても活動を行い、文献から発掘したり落語界の古老から聴き取り調査をしたりして、一度滅んだ噺を多数復活させている。彼によって復活した演目としては「算段の平兵衛」「風の神送り」「矢橋船」などがある。また上方文化の交流を深める「上方風流」を1963年から結成し「上方風流」を発行(1967年まで活動)。 上方落語四天王らの復興尽力[編集] 入門当時には衰微を来たしていた上方落語の復興を願い、共に上方落語四天王と讃えられた6代目笑福亭松鶴、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治らと東奔西走して尽力した。現在の上方落語の隆盛は米朝・松鶴らの功績であるというのが衆目の一致する処である。一言に東奔西走といっても、地方においては昭和40年代(1965年 - 1974年)であってもなお、落語に対する理解は低く、米朝が高座に上がって落語を始めても、客からは「何を一人で喋ってるんだ? 遊んでないで早く落語を始めろ!」と野次が飛んでくる有様だった。地方ではテレビの『笑点』でやっている大喜利が落語であると、その程度の認識であり、その苦労は並大抵のものではなかったのである。 文化貢献への評価[編集] 1987年4月29日、紫綬褒章を受章する。1988年には上方落語協会の選挙で一旦は会長に選出されたが、当時相談役に退いていた米朝は「いまさら会長になる気持ちはない」と辞退したため、「米朝会長」は幻に終わっている[9]。四天王としては唯一、会長に就任していない。1996年、落語家では5代目柳家小さんに続き2人目、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。また、2002年11月3日には、演芸人として史上初の文化功労者顕彰を受ける。 晩年[編集] 2009年3月、医師から脳梗塞と診断され入院し、7月27日にも脳幹出血と診断され入院した[10]が、いずれも軽度で済み、早期に活動復帰している。同年11月3日、演芸人として史上初の文化勲章受章者となった[11]。 2013年8月、肺炎のため入院。2015年3月19日午後7時41分、肺炎のため死去[12]。満89歳没(享年91)。諡は、故中川清大人之命(こなかがわきよしうしのみこと)[13]。4月17日に日本政府は、三代目米朝が上方落語界発展に尽くした功績を讃え、没日の3月19日に遡って従三位に追叙することを閣議決定した[14]。 墓所は姫路市の名古山霊苑内。同市名誉市民として同霊園に築かれた「名誉市民墓」は、上から見ると「米」の字をかたどった形に石が配されている[15]。 年譜[編集] 1925年、関東州大連普蘭店(現中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区)に生まれる。旧制姫路中学(現在の兵庫県立姫路西高等学校)卒業。 1943年、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京。 1944年2月に応召。 1945年に入隊、病気により3月に入院、終戦を迎えた。 1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目桂米朝を名乗る。 1958年4月に元OSSK(大阪松竹少女歌劇団、のちのOSK日本歌劇団)の駒ひかると結婚[16]。同年12月に長男(米團治)、1960年12月に次男・三男が誕生。 1963年次代の上方文化を担う40歳以下の有志で「上方風流(かみがたぶり)」を結成。茂山千之丞、藤山寛美、大村崑、現在の坂田藤十郎や竹本住大夫とで同人誌を出版。 1966年7月16日初の独演会「米朝スポットショー」京都会館にて開催。 同年10月25日安井金比羅宮会館にて「桂米朝落語研究会」を開く。 1967年5月2日、矢野誠一の企画で東京で初の独演会「桂米朝 上方落語の会」紀伊國屋ホールで開催。この会には安藤鶴夫、小沢昭一、永六輔、立川談志ら著名人も会場に駆け付けた。この会がきっかけで米朝の名が東京でも知られるようになる。 1972年に正月と夏にサンケイホールで独演会を開催(その後も長年サンケイでは独演会を開く)。 1973年からは毎年、地元姫路市で「姫路落語会」を開催している[17]。 テレビコマーシャルの出演は一切拒否しているが、『ハイ!土曜日です』でアイバンクを紹介した事が縁で、1983年放送の公共広告機構(現:ACジャパン)のアイバンクのCMに出演している。このCMは、ラジオ部門のACCグランプリ、秀作賞、タレント賞を受賞した。 1987年4月29日、紫綬褒章受章。 1988年、上方落語協会の会長選挙に選出されるも、当時相談役に退いていた米朝は「いまさら会長になる気持ちはない」と辞退[9]。 1996年、落語家では5代目柳家小さんに続き2人目、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。 2002年の東京・歌舞伎座の口演を最後に一線を退く。11月3日、演芸人として史上初の文化功労者顕彰を受ける。 2007年は芸能生活60周年(米團治に入門してから数えて)であり桂米朝を祝う会なども行われ、退院以来のトリで落語『将棋小噺』を披露した。 2009年3月、医師から脳梗塞と診断され入院し、7月27日にも脳幹梗塞と診断され入院した[18]が、いずれも軽度で済み、早期に活動復帰している。同年11月3日、演芸人として史上初の文化勲章受章者となった[19]。 2012年8月、数え年で米寿を記念してサンケイホールブリーゼで「米寿記念 米朝展」を開催。会では石黒浩が制作した米朝アンドロイドロボットが公開された[20]。これは大阪大学の石黒浩(ロボット工学者)とスペシャル4Dクリエーターの遠藤慎也によって製作されたものである[21][22][23]。 2013年8月、肺炎のため入院。 2015年3月19日午後7時41分、肺炎のため死去[24]。89歳没。同日付で従三位追叙[14]。 人物[編集] この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2013年7月) 芸風及び落語への取り組み 語り口調は端正で上品。容姿も端麗で人気を博した。 「芸は最終的には催眠術である」が持論。お客さんを落語の世界へ引っ張り込むことを催眠術に例えている。 滅びた噺の復活や当時の時代背景、風俗、流行などの研究のために多種多様な古書や文書を収蔵した書庫を自宅に持つ(孫弟子の桂吉弥曰く「米朝文庫」)。特に演目の登場人物が取る仕草の研究に余念がなく、酒席でのほろ酔いと酩酊の演じ分け(酒肴の口の運び方、酒の注ぎ方など)から縫い物の糸切りの位置に至るまで、日常生活上のさり気ない動作に徹底的なリアリティを追求している。 持ちネタは多数あるが、代表的なところでは自ら掘り起こした「地獄八景亡者戯」や「百年目」、自作に「淀の鯉」(中川清時代)や「一文笛」がある。 身近な存在だった実父、正岡、米團治が55歳で亡くなったので、自身も55歳で死ぬと断言していた。自らに課した55歳というタイムリミットに間に合わせるために、後進の育成に加え、書籍や音声資料による落語の記録に精力的に取り組んだ。 古典落語を流暢に演じる正統派としての印象が強いが、時として艶笑落語も演じており、現在でもその音源がⅭⅮに録取され市販されている。特に「続いろはにほへとひとりでする噺篇。」、ではせんずり、自慰などと言う卑猥な言葉も発するなど過激な内容になっている。 弟子との関わり 「#主な門弟」および「米朝一門」も参照 多くの弟子を育て、長男の5代目桂米團治もその一人。特に初期の弟子には月亭可朝、2代目桂枝雀、2代目桂ざこばら異能派が多く、TVなどで売れっ子になっていった。むしろ後期の方に桂吉朝ら、師匠の端正な芸風の後継者と目される人材が多い。かつては芸に厳しく怒鳴ってはいたが、近年は大きな包容力で一門を育て上げた。 一門の弟子たちからは「ちゃーちゃん」と呼ばれている。5代目桂米團治の著書によると、米團治が幼少のころ、「おとーちゃん」と発音しようとして、「ちゃーちゃん」と言っていたものを当時の弟子たちがまねて使ったのが由来であるという。 厳しい指導で知られていたが、一方では、破門者を一人も出さなかったとされ、人情味のある一面も見せていた。枝雀は「自分やったら兄弟弟子の内半分位は破門にしていただろう。」と述べたことがあるという。 家族 中川絹子夫人は元OSSK(大阪松竹少女歌劇団、のちのOSK日本歌劇団)の「駒ひかる」である。十数年パーキンソン病で静養していたが2014年死別[16]、長男は5代目桂米團治。次男と三男は双子で、米朝一家と同じく武庫之荘に住んでいた大村崑の息子とは同級生。 長男・5代目桂米團治によると「父の中川清」は、とりわけて子煩悩でも、教育熱心でもなく、かといって目立った諍いもなく、家に居ても丹念に落語の資料に目を通している父親で父子としては至って普通の淡白な関係であった。ただわからないことを訊ねると子供相手であっても順を追って理路整然と説明するなど、父親と本業の両面が出ていた。舞台での流暢な喋りと温厚そうな雰囲気の反面、TVや新聞を見て気に障ることがあると、途端に虫の居所が悪くなり、怒声や剣幕こそ出さないものの、険しい顔で所作が乱暴になり険悪な雰囲気を撒き散らすなど、子供にとっては居心地の悪くなってしまう気難しい面も持っていた。 その他 ニュースなどで北朝鮮と米国を扱ったいわゆる「米朝問題」を聞くと「自分とは無関係なのにドキっとする」という。 幻の桂三木助の襲名[編集] 3代目の死後空名跡となっていた「桂三木助」の襲名を松本昇三(当時、朝日放送の社員)が発案し、香川登志緒(作家)、三田純市(作家)、そして米朝本人を加えて4人で食事の席を設け、そこで松本が襲名を提案した。3代目三木助の師匠であり落語芸術協会の会長であった6代目春風亭柳橋、3代目が陶酔していた落語協会の8代目桂文楽、三木助未亡人と家族、席亭、安藤鶴夫、久保田万太郎、テレビ局関係者の承諾で襲名間近まで行ったが、文楽から「襲名披露は角座で行うこと」と条件があった。当時、米朝は千土地興行所属であり、千土地と松竹との関係から角座にも定期的に出演はしていたが、原則として角座は松竹芸能が芸人の配給や番組の編成を取り仕切っていた。角座で襲名披露を行うということは、移籍することが必須条件であった[25]。このため、柳橋と文楽を呼び寄せていろいろ話し合いがもたれたが、松本の朝日放送の退社などで計画は頓挫した[26]。米朝自身は著書で「文楽さんにも私にも知らされていなかったが(中略)襲名を条件に私をある興行会社の専属にしようという計画だった」「三木助の名前で誘い込もうというのである。それを知った途端に私の思いは冷めた」と述べている[7]。 その後「三木助」の名は3代目の実子が4代目を襲名したが早世してしまい、永らく空名跡であったが3代目の孫で4代目の甥が2017年秋に襲名予定。4代目は襲名後米朝に稽古を付けて貰っていたことがある。ちなみに米朝の芸風は2代目に似ているといわれていた。 結局、米朝は改名・襲名を生涯行わなかった。 主な門弟[編集] 詳細は「米朝一門」を参照 弟子:月亭可朝・桂枝雀・桂ざこば・桂珍丸[27]・桂吉朝・桂米團治・桂すずめ(女優:三林京子)など 孫弟子:月亭八方・桂南光・桂雀三郎・桂雀々・桂塩鯛・桂吉弥など 曾孫弟子:月亭八光・桂南天・桂米紫など 玄孫弟子:月亭天使など 受賞歴[編集] 1963年 : 芸術祭文部大臣奨励賞 1969年 : 芸術祭優秀賞(「愛宕山」にて) 1970年 : 芸術祭優秀賞 1972年 : 第1回上方お笑い大賞 1978年 : 大阪芸術賞 1980年 : 芸術選奨文部大臣賞 1982年 : 第10回日本放送演芸大賞功労賞 1983年 : 第25回ギャラクシー賞・選奨 1987年 : 紫綬褒章 1989年 : 姫路市民文化賞 1992年 : キワニス大阪賞 1993年 : 日本酒大賞 1996年 : 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。 1996年:姫路市名誉市民 1996年 : 朝日賞 1997年 : 日本放送協会放送文化賞 1997年 : 松尾芸能賞特別賞(「はてなの茶碗」にて) 2001年 : 上方お笑い大賞30周年記念特別賞 2002年 : 文化功労者顕彰。 2009年 : 文化勲章 2010年 : 第14回上方演芸の殿堂入り 2015年 : 従三位追叙。 著作物[編集] LP[編集] 米朝艶笑上方落語 いろはにほへと(1971年、東芝EMI)当時だけで1万枚近く売れ、当時の落語のレコードとしては異例の大ヒットになった[28] 米朝艶笑上方落語 続いろはにほへと(1972年8月、東芝EMI) 桂米朝 上方落語大全集(1973年3月 - 1978年3月、東芝EMI)シリーズ累計100万枚を突破し、2枚のゴールデンレコードを獲得した[28] CD[編集] 米朝艶笑上方落語 いろはにほへと(全2集、1988年6月25日、東芝EMI)レコードの復刻 特選!!米朝落語全集(全40集、1989年12月13日 - 1993年12月22日、東芝EMI) 米朝珍品集(全8集、1989年12月6日 - 1999年4月28日、東芝EMI) 桂米朝 上方落語大全集(各10枚組全4期分、2006年6月28日 - 7月26日、東芝EMI)同名レコード全集全23集の復刻 DVD[編集] 特選!!米朝落語全集(全30集、2002年10月17日 - 12月18日、東芝EMI) 文化勲章受賞記念DVD「桂米朝 らくごの世界」(平成紅梅亭の映像を厳選、2010年11月24日、EMI MUSIC JAPAN) 蔵出し!米朝全集(DVD7枚組、2012年12月28日、ユニバーサル) CD+DVD[編集] THE 米朝(DVD・百年目・本能寺、CD・地獄八景亡者戯、2007年12月26日、ユニバーサル) 著書[編集] 『米朝上方落語選』正続(立風書房、1970-72年) 『落語と私』二俣英五郎絵 ポプラ社 ポプラ・ブックス 1975 文春文庫、1986 『上方芸人誌』朝日新聞社 1976 『上方落語ノート』(全4巻、青蛙房、1978年1月 - 1998年1月) 『米朝落語全集』(全7巻、創元社、1980年1月 - 1982年1月) 『米朝ばなし 上方落語地図』毎日新聞社 1981 講談社文庫、1984 『一芸一談』(淡交社、1991年2月)ちくま文庫、2007年 『友あり駄句あり三十年―恥多き男づきあい春重ね』(東京やなぎ句会編、日本経済新聞社、1999年3月) 『桂米朝 私の履歴書』(日本経済新聞社、2002年4月)日経ビジネス人文庫、2007年  『上方落語 桂米朝コレクション』(ちくま文庫、全8冊、2002年9月 - 2003年7月) 『桂米朝集成 上方落語』(全4巻、豊田善敬・戸田学編、岩波書店、2004年11月 - 2005年2月) 『桂米朝座談』(単行本、全2巻、豊田善敬・戸田学編、岩波書店、2005年12月 - 2006年1月) 『米朝よもやま噺』(朝日新聞社、2007年12月) 『藝、これ一生 米朝よもやま噺』(朝日新聞出版、2010年2月) 『桂米朝句集』(岩波書店 2011年) 『【米朝よもやま噺】歳々年々、藝同じからず』(朝日新聞出版、2012年8月) 『桂米朝八十八句』松岡ひでたか 神戸 交友プランニングセンター友月書房 (制作) 2015 共編著[編集] 『日本の名随筆 22 笑』編(作品社、1984年1月) 『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』(上岡龍太郎との共著、朝日新聞社、2000年6月) 『対談 笑いの世界』(筒井康隆との共著、朝日新聞社、2003年9月 『四世桂米團治 寄席随筆』(編著、岩波書店、2007年11月6日)米朝の誕生日に発行 『米朝らくごの舞台裏』小佐田定雄著 筑摩書房 2015年4月 ISBN-10: 4480068260 出演作品[編集] テレビ番組[編集] ハイ!土曜日です(関西テレビ) お笑いとんち袋(関西テレビ) ご両人登場(日本テレビ) 味の招待席(朝日放送) 和朗亭(朝日放送) アベック料理コンテスト(毎日放送) トークロータリー 話題のチャンネル(毎日放送) ビッグショー(NHK総合テレビ、1974年 - 1979年) ※NHK-BS2 『蔵出しエンターテインメント』にて再放送。 ナイトinナイト(朝日放送) 米朝・メイコの面白日本(朝日放送) 第47回NHK紅白歌合戦(NHK、1996年)審査員 知るを楽しむ・なんでも好奇心「米朝の上方歌舞伎案内」 (NHK教育テレビ、2005年7月度講師) ラジオ番組[編集] 天壇ゴールデンリクエスト(近畿放送、焼肉の天壇(京都)提供の番組で水曜日を担当。1968年終了) 題名のない番組 (ラジオ大阪、小松左京と) 特選!!米朝落語全集 (MBSテレビ・ラジオ) 米朝・美智子のほろ宵ばなし (ABCラジオ、鈴木美智子と) 米朝よもやま噺 (ABCラジオ、2005年度 - 2013年度9月) こんちわコンちゃんお昼ですょ! (MBSラジオ) ※月1回のゲスト テレビドラマ[編集] 連続テレビ小説(NHK大阪) 心はいつもラムネ色(1984年) - 藤森 役 いちばん太鼓(1985年) - 風間藤五郎 役 オードリー(2000年) - 花屋武 役 てるてる家族(2003年) - 石川 役 だんだん(2008年) - 畑田富男 役 ふたつの愛(NHK大阪、1998年) 火曜サスペンス劇場 京都金沢浦島太郎殺人事件(日本テレビ、2003年) - 伊藤哲男 役 映画[編集] 女殺油地獄(東宝、1957年) - 市兵衛 役 落語野郎 大馬鹿時代(東宝、1966年) - 西本 役 喜劇 夫婦善哉(松竹、1968年) - 八掛見 役 カモとねぎ(東宝、1968年) - 山崎 役 “経営学入門”より ネオン太平記(日活、1968年) - 田宮 役 小三治(オフィス・シマ/ヒポコミュニケーションズ、2009年)※10代目柳家小三治を追いかけたドキュメンタリー映画 劇場アニメ[編集] 平成狸合戦ぽんぽこ(東宝/スタジオジブリ、1994年) - 6代目金長 役 唯一の声優としての活動 関連書籍[編集] じごくのそうべえ - 桂米朝・上方落語・地獄八景より(童心社、田島征彦作・絵、1978年1月、ISBN 4-494-01203-3) 桂米朝 噺の世界(写真集、宮崎金次郎撮影、小佐田定雄著、向陽書房、2002年4月、ISBN 4-906108-46-6) なにわ華がたり - 中川絹子 桂米朝と一門をささえた半世記(単行本、廓正子著、淡交社、2004年7月、ISBN 4-473-03182-9) なんでも好奇心 2005年6/7月(ムック、「米朝の上方歌舞伎案内」、日本放送出版協会、2005年5月25日、ISBN 4-14-189125-8) 桂米朝と上方落語の奇蹟(堀井憲一郎 講談社 2013年10月発売予定→諸事情により発売中止)[29][30] 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 従来用いた『三下り鞨鼓(三下りかっこ)』は、2008年(平成20年)10月に息子の桂小米朝が5代目桂米團治を襲名する際に譲った。[要出典] ^ 米朝の米という字を崩した名。 ^ 至宝の話芸 噺家米朝の遺産(上)上方落語復興 神戸新聞 2015年3月21日閲覧 ^ 上岡龍太郎氏「米朝の名前は永久欠番」 デイリースポーツ 2015年3月25日閲覧 ^ 桂米朝さん:芸への心構え、会社員時代の社内報に 毎日新聞 2015年08月25日 ^ 当初、米團治は「いずれ米朝という名前を与える」というつもりで「米朝の名前をあげよう」と中川に告げたが、中川はその場で「米朝という名前をもらった」と思い込んで正岡に知らせてしまった。中川から話を聞いた正岡がすぐさま米團治に礼状を書いてしまったことから、米團治も中川に入門当初から3代目米朝を名乗ることを許した。 ^ a b 桂米朝 『桂米朝 私の履歴書』 日本経済新聞社、2002年。ISBN 978-4532164171。 ^ 郵便局員辞め、落語一筋に 若き米朝26歳の覚悟 ^ a b 5代目文枝の自伝『あんけら荘夜話』。 ^ 桂米朝さん、脳幹梗塞で入院 8月中の出演取りやめアサヒ・コム 2009年7月31日閲覧 ^ 「落語一筋しかなかった」=文化勲章の桂米朝さん時事ドットコム 2009年10月27日閲覧 ^ 桂米朝さん死去 肺炎 89歳 デイリースポーツ 2015年3月19日 ^ 桂米朝さん葬儀に1500人以上参列 桂文枝「遺志を受け継いでいく」 スポーツ報知 2015年3月25日 ^ a b 落語家の故桂米朝氏に従三位 デイリースポーツ 2015年4月17日閲覧 ^ 「姫路市|名古山霊苑散策案内 (桂米朝氏のお墓が披露されました・地球儀噴水池を花壇として再整備しました)」 名古山霊苑管理事務所、姫路市、2017年3月28日閲覧。 ^ a b 米朝 憔悴…車いすで見送る 妻・中川絹子さん告別式 スポニチ 2015年9月2日閲覧 ^ 姫路落語会:米朝さん、古里の高座 元気な姿、ファン満足−40回記念:毎日新聞2012年8月6日 ^ 桂米朝さん、脳幹梗塞で入院 8月中の出演取りやめアサヒ・コム 2009年7月31日閲覧 ^ 「落語一筋しかなかった」=文化勲章の桂米朝さん時事ドットコム 2009年10月27日閲覧 ^ 米寿記念 米朝展 サンケイホールブリーゼ 2012年8月 ^ さらに人間らしく 米朝アンドロイド「初高座」 “落語電脳対決”に歓声 ^ 「米朝アンドロイド」完成  大阪 発表会を開催 ^ 米朝アンドロイド・姫路落語会特別公演 ^ 桂米朝さん死去 肺炎 89歳 デイリースポーツ 2015年3月19日 ^ 6代目松鶴も枝鶴時代までは千土地に所属していたが、松鶴襲名披露を角座で行うために、松竹芸能に移籍している。 ^ 日沢 伸哉 (2009年1月10日). “襲名悲喜交”. らくごくら Web篇 上方落語こぼれ話. 2009年5月2日閲覧。 ^ 公式の記載は無いが、その昔、座の余興と話のネタに作家の小松左京と米朝が命名、高座での活動は皆無。 ^ a b 『桂米朝 私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)184-185頁。 ^ 「桂米朝本」出版中止 講談社「関係者との認識の相違」 朝日新聞 2013年10月12日 ^ 『桂米朝と上方落語の奇蹟』刊行中止に関するお詫びとお知らせ 講談社ニュースリリース 2013年10月11日 関連項目[編集] 桂米朝 米朝一門 正岡容 小松左京 小沢昭一 加藤武 四代目坂田藤十郎(二代目中村扇雀を名乗っていた頃からの付き合い) 吉田文雀(文楽の人形遣い、戦後間もないときからの付き合い) 藤岡琢也(幼少の頃からの付き合いで小学校の後輩、手を繋いで遠足に行ったこともある) 筒井康隆 石毛直道 小澤紘司 屋敷要(同じ兵庫県出身であり球界随一の米朝ファンだった) 大塚徹 外部リンク[編集] 桂米朝 - 日本映画データベース 桂米朝 - allcinema 桂米朝 - KINENOTE Beichou Katsura - インターネット・ムービー・データベース(英語) 桂米朝 (3代目) - Movie Walker 桂米朝 (3代目) - テレビドラマデータベース 米朝事務所 天満天神繁昌亭 落語家名鑑:桂米朝 - 上方落語協会公式プロフィール 1982年度作品 - ACジャパン(旧・公共広告機構)のサイト内の記事 執筆の途中です この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。 執筆の途中です この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。 執筆の途中です この項目は、落語家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:舞台芸術/PJ芸能人)。 典拠管理 WorldCat VIAF: 109416854 SUDOC: 095699651 BnF: cb169152177 (data) MusicBrainz: f2a05fc2-b8bc-4486-a77b-f7dd104b8ebc NDL: 00101909 カテゴリ: 落語家俳人ラジオ番組のパーソナリティ・DJ日本の男性声優日本の司会者人間国宝朝日賞受賞者文化勲章受章者紫綬褒章受章者ギャラクシー選奨郵便に関する人物帝塚山大学の教員兵庫県出身の人物大連出身の人物1925年生2015年没 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 言語 リンクを追加 最終更新 2017年7月10日 (月) 15:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki --------- ---------