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実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
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3:幽玄の間
2:KGS
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だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) --------- 碁石 Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年5月) 囲碁 Go board part.jpg ゲームの詳細 囲碁のルール 囲碁のハンデキャップ (互先 - 定先 - 置き碁) 囲碁の格言 囲碁用語 歴史と文化 囲碁の歴史 碁盤 - 碁石 囲碁の記録一覧 囲碁のタイトル在位者一覧 棋道賞 組織と棋士 国際囲碁連盟 日本棋院 関西棋院 中国棋院 韓国棋院 台湾棋院 全日本学生囲碁連盟 棋戦 棋士 日本の囲碁棋士一覧 コンピュータ コンピュータ囲碁 幽玄の間 AlphaGo対李世乭 表 話 編 歴 碁石(ごいし)は、囲碁、連珠に使用する用具で、黒・白2色の円盤形の物体である。黒白2色で一揃いとなり、碁笥(ごけ)ないし碁器(ごき)と呼ばれる容器に入れておく。囲碁を行う上では単に「石」と呼んだりする(※当項目でも以後は“石”と表記する)。 ゲームを行う上では黒181個、白180個を用意する[1](ただし、この個数にルール上の意味はなく、対局中に不足した場合はアゲハマを同数交換したり、余所から持ってくるなどの形で適宜補充する)。連珠では「珠」と呼び、黒113個、白112個を用意する[2]が、実際には60個程度ずつで差し支えない。 目次 [非表示] 1 形態 2 碁石の歴史 3 碁石の素材 4 碁笥 4.1 碁笥の呼称問題 5 グリーン碁石 6 子 7 脚注・出典 8 関連項目 形態[編集] 石の大きさは白石が直径21.9mm(7分2厘)、黒石が直径22.2mm(7分3厘)。黒石のほうが若干大きくなっているのは、白が膨張色でやや大きく見えるためで、このように若干の差をつけることにより、人間の目にはほぼ同じ大きさであるように見える。厚さは6mm - 14mm程度まである。厚みは号数で表され、25号でおよそ7mm、40号でおよそ11mmで、一般に、厚いものほど打った時の音が響き、高級品とされるが、打ちづらくなってくる。60号近いものも存在するが、34号以上は十分高級である。9mm前後(32 - 34号)のものが持ちやすく、最も多く用いられている。 「石」と呼ばれるが素材は必ずしも石材のみが用いられてはいない(後述#碁石の歴史を参照)。黒石は那智黒、白石は碁石蛤の半化石品が最高級とされる。蛤の白石には「縞」という生長線が見られ、細かいものほど耐久性が高く、「雪」と表現され、比較的目が粗いものを「月」と呼んで区別する。現在販売されているグレードは雪印、月印、実用とあり、最も縞模様の細かい最高級の雪印、それに次ぐ月印、縞模様があまり細かくない実用となっている。ほかに、生産段階でわずかな傷などがあったものを組み合わせた徳用というものもある。練習用には硬質ガラス製のものなどが使用される。石は使用によって破損し、小さなものをホツ、周辺の欠けたものをカケという。碁器の中の石をかき混ぜて音を立てる行為はマナー違反とされている。 碁石の歴史[編集] 碁笥に入れられた碁石 古くは『風土記』(733年頃成立)に碁石に関する記述が見られ、『常陸国風土記』に鹿島のハマグリの碁石が名産として記述されている。また『出雲国風土記』に、島根県の「玉結浜」の記載があり、この海岸からは碁石に適した石が採れたという。奈良県の藤原京で発掘された碁石は丸い自然石で、材質は黒石が黒色頁岩、白石が砂岩。7世紀末 - 8世紀始めに使用されていたと推定される(週間碁)。自然石の碁石は江戸期まで使用された。本因坊道策が幼い頃使ったという碁盤と自然石の碁石が現存している。 正倉院に所蔵された聖武天皇愛用の碁石は紅牙撥鏤碁子(こうげばちるのきし)と名付けられ、直径1.6cm 厚さ0.8cm。象牙を染めて花鳥の文様を彫り付けたものであり、色は緑と紅色である。収蔵品の台帳である「東大寺献物帳」(国家珍宝帳)によると百済の義慈王(在位641年 - 660年)から藤原鎌足あてに贈られたものであるという。600枚が納められたと記載されているが、現存するのは252枚である。『源氏物語絵巻』では碁石は黒と白のものが使用されていることが分かる。 現在は黒は黒色の石を用い、那智黒石(三重県熊野市で産する黒色頁岩または粘板岩)が名品とされる。白はハマグリの貝殻を型抜きして磨いたものである。碁石の材料となるハマグリの代表的な産地は古くは鹿島海岸や志摩の答志島、淡路島、鎌倉海岸、三河などであった。鹿島のハマグリは殻が薄く、明治期の落語の速記本に「せんべいの生みたく反っくりけえった石」と描写されるように、古い碁石には貝殻の曲線どおり、薄くて中央が凹んだものがある。その後、文久年間に宮崎県日向市付近の日向灘沿岸で貝が採取されるようになり、明治中期には他の産地の衰退と共に日向市のお倉が浜で採れるスワブテ蛤[3]が市場を独占し上物として珍重された。現在では取り尽くされてほとんど枯渇してしまっている。 現在一般に出回っているものはメキシコ産である。白石と黒石は価格が違い、ハマグリ製の白石が非常に高価で、業者によっては黒石は「那智黒石付き」と、白石のおまけ扱いにしている。高級品は貝殻の層(縞のように見える)が目立たず、時間がたっても層がはがれたり変色したりしない。 ハマグリの碁石は庶民が気軽に買えるものではなく、明治期には陶器や竹製の安物の碁石が存在した。大正時代にガラスの碁石が試作されたが、当初は硬化ガラスではなく普通のガラスだったので、脆く割れやすかった。その後プラスチックや硬質ガラス製の製品が出回り、安価な用具の大量生産が囲碁の普及に果たした役割は大きいと言える。近年では持ち運び用のマグネット製のものもある。メノウ製の高級品もある。 中国では古代には木で碁石を作ったらしく、中国呉の時代(222年 - 280年)に書かれた『博奕論』(韋曜)に「枯棊三百」 と記されている。「枯棊」とは、木でできた碁石のことを指し、日本の寛永年間(1624年 - 1644年)の『玄玄棊經俚諺鈔』という解説本には、「碁石は元と木を似て造る、故に枯棊と云う」と注記している。また碁石は300個が定数であったことも記されている。時代が下ると、高級な碁石は「玉(ぎょく)」と呼ばれる一種の宝石から作られた。 中国唐代の『杜陽雑編』という書物に、宣宗帝年号大中年間(847年 - 860年)に日本一の碁の名手である日本の王子が来朝し、中国一の名手と対戦する逸話[4]の記載がある。日本の王子は日本には冷暖玉という宝石の碁石があることを物語り、「本國の東に集真島有 島の上に凝霞臺とて臺上に手譚池あり 池中に玉子を出す 製度によらされども自然に黒白明分有 冬ハ暖く夏は冷也 故に冷暖玉とぞにいふ 日本の王子入唐して此石を冷暖玉として唐朝へ進上せらると載たり」と記されている。 玉の碁石は割れやすく、日本のように音を立てて盤に打ち付けるということはなかった。中には石一個が銀貨二枚に相当するとされるほど高価なものもあったが、かつての名品の多くが、碁は退廃的として攻撃された文化大革命時代に収集家から奪われるなどして散逸してしまった。 碁石の素材[編集] 現在は以下のような素材で作られた碁石が存在する。 蛤/那智黒石 瑪瑙碁石(中国産) 云子碁石(中国碁石)(中国産・大理石製、黒石は光を透過させると緑色に見える特徴がある) 硬質ガラス碁石(日本産/韓国産) ユリア樹脂製碁石 プラスチック碁石 プラスチック重量石(通常のプラスチックより重く、打ち味が比較的良いとされる) マグネット碁石 碁笥[編集] 碁笥(ごけ)とは、碁石を入れる容器。碁器(ごき)とも呼ばれる。白石黒石の2個で1組となっている。材質は最高級品は桑(特に御蔵島産の「島桑」が珍重される)、次いで柿、紫檀、黒檀。一般的に用いられているものは欅、花梨、桜、楠、ブビンガ、栗、棗、合成樹脂などがある。表面は木地を出すことが多いが、凝ったものには蒔絵や鎌倉彫を施したものも見受けられる。古くは合子(ごうす)と呼ばれ、正倉院には撥鏤棊子とセットで渡来した精緻な美術品である「銀平脱合子」が収蔵されている。江戸時代には筒型に近い本因坊型と、丸みのある安井型があった。現代で使われているのは安井型に近いものが多い。計点制ルールでは、内部が蜂の巣状で石数180個が確認しやすい独特の碁笥を用いる。 なお、碁笥には蓋があり、対局中にアゲハマを入れておくのに用いられる。 碁笥の呼称問題[編集] 碁笥の素材については上記のほかにも色々な種類の木が用いられるが、外国から輸入した木材を木目や質感が似ていることから「新○○」と称していることが多く、混乱を招いている。例えば、輸入木材であるマホガニーは「新サクラ」、棗は「新ケヤキ」、ケンパスを「新カリン」などと銘打って販売されていることが多い。しかし、木目や質感が似ているからと言って、本来の名前を無視してサクラやケヤキの名を冠するのはどうなのかという議論が近年ネット上で見受けられるようになった。碁盤に関しては「新カヤ」はスプルース材、「新桂」はアガチス材という輸入材であることが知られるようになってきたが、碁笥に関しては碁盤ほどではなく、素材を輸入材と知らずに買うビギナーも多い。この問題に関して良心的な店では新サクラ等の呼称を使わずマホガニー製、棗製と本来の名称で呼ぶ店もある。 グリーン碁石[編集] 通常の碁石は白と黒の2色を用いるが、目に優しいとされる緑系の色を用いたグリーン碁石も少数ながら使用されている。これは作家の夏樹静子が発案し広めたもので、黒の代わりに濃い緑を、白の代わりに薄い緑を用いている。素材は硬質ガラスで、厚さは使いやすく9mmで作られている。普通の白黒の碁石に比べて値段は高い。日本棋院の一般対局室の一部で使用されている。 子[編集] 碁石は一般には何個と数えるが、囲碁用語としての助数詞は「子(もく)」である。しかしながら、囲碁用語特有の読み方のため、「もく」と読めずに本来は誤読の「子(し)」が広まっている。一方で、碁石を指すのに「目(もく)」を当て字として使った例もある。置き碁というハンデ戦で下手が2つ石を置いて対局することを2子局と呼ぶ。 脚注・出典[編集] [ヘルプ] ^ 囲碁の盤は19路で19×19=361個の石が置ける。黒181個、白180個で盤を埋め尽くすことになる。 ^ 連珠の盤は15路で15×15=225個の石が置ける。黒113個、白112個で盤を埋め尽くすことになる。 ^ 宮崎県 (2011年7月25日). “雅趣・伝統の美”. 2012年5月28日閲覧。 ^ この逸話の概要は以下のようなものである。「遣唐使として皇帝と会見した日本の王子が、日本一の碁の名手を名乗り『国の名誉を賭け、唐の名手と対戦したい』と碁の勝負を申し入れた。そこで皇帝は碁の国手といわれた大臣の顧師言を呼び出し、日本の王子と対局させた。双方の実力は互角で序盤から互いに譲らぬ激闘となったが、御前試合で君命を辱めることを恐れた顧師言が汗を振り絞った思考の末、三十二手目に死に物狂いの名手を放ち、それを見た日本の王子は驚嘆し、遂に兜を脱いだ。対局の後で王子は外使の接受担当の鴻臚卿に『顧先生は貴国で何番目の名人なのか』と質問し、鴻臚卿は『三番目であります』と返答した。実際は顧師言は国一番の名手だったのだが、日本の名人と対等勝負だったので、唐の体面を考慮して嘘をついたのだった。日本の王子は不服顔で『唐で一番の名手と対局したい』と言った。鴻臚卿は動ぜず『第三を破って第二と対局し、第二を破って第一と対局できるのです。なぜにいきなり第一と対局できましょう』と答えた。日本の王子は碁盤に蓋をして『小国の第一は、ついに大国の第三に及ばぬのか』と嘆息した」 この対局の棋譜は記録され、現代に伝わっている。 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、碁石に関連するメディアがあります。 囲碁 連珠 --------- コウ 曖昧さ回避 この項目では、囲碁のルールのコウについて説明しています。その他のコウについては「コウ (曖昧さ回避)」をご覧ください。 コウ(こう、劫)は囲碁のルールの1つで、お互いが交互に相手の石を取り、無限に続きうる形。実際には下記のようなルールによって、無限反復は禁止されている。「劫」という語は本来仏教における非常に長い時間を指す。 目次 [非表示] 1 解説 2 死活をめぐるコウ 3 攻め合いにおけるコウ 4 コウのいろいろ 4.1 ヨセコウ 4.2 両コウ 4.3 三コウ 4.4 二段コウ 4.5 三段コウ 4.6 万年コウ 4.7 循環コウ 5 その他のコウをめぐる用語 6 コウに関する格言 7 コウをめぐる事件・エピソード 8 出典 9 参考図書 10 関連項目 解説[編集] 黒が白1子をアタリにしており、次に黒がaの地点に打てば白石を取れる。 しかしその直後、今度は黒1子がアタリとなっており、白がbの地点に打てば黒石を取り返せる。 このように、アタリとなっている石を取ると逆にアタリが発生してすぐに相手に石を取られてしまうような状況では、両者がこの手を繰り返している限り永久に対局が終わらない。そのため、以下のような特別ルールを設けている。 対局者の一方がコウの一子を取った場合、もう一方は他の部分に一手打ち、相手がそれに受けたときに限り、コウの一子を取り返すことができる。すなわち、(盤面全体として)同じ形を繰り返してはならない。 他の部分に打って相手に受けさせる手のことを「コウダテ」または「コウ材」という。相手のコウダテを受けず(手抜き)、コウをツグかまたは△のいずれかの石を取ることを、「コウに勝つ」や「コウを解消する」と表現する。コウに勝つことを目指すか、コウを譲って他で得をするかは、全局的な形勢判断のもとに決める。 例えば下図では、左下でコウが発生している。黒がaの点にツゲばこの一団は二眼を持って生きとなるが、白が勝てばこの一団は全滅する。 黒が1にコウを取った場面。白は1の黒石をすぐには取り返せないため、2に「コウダテ」を打つ。ここで黒はコウダテに受けずaにヌけば左下の黒は生きだが、その代わり白にbへ連打され、右下が取られる。右下と左下どちらが大きいか、他に黒がもっと有効なコウ材をたくさん持っているかなどを考え合わせ、コウダテに受けるかコウを解消するかを決定する必要がある。こうしたコウをめぐる駆け引きは、囲碁の醍醐味の1つである。 死活をめぐるコウ[編集] 星から小ゲイマにシマった形に、白が三々入りしてできる形。黒からならaにコウを取って、bに抜けば隅を取れる。白からならcに打ち抜けば隅を大きく生きられる。実戦ではこうしたコウを仕掛けるタイミングが重要になる。 攻め合いにおけるコウ[編集] 白がaとコウを取ってbに打ち抜くか、黒がコウに勝ってcと白を打ち上げるかの生死を賭けたコウ。コウのついた攻め合いの場合、外ダメを先に詰めてから最後にコウを取る手順が得になる場合が多い。 コウのいろいろ[編集] ヨセコウ[編集] 上図の場合、白からは、aにコウを取った後にbに打ち抜けばコウ勝ちだが、黒からは、白のコウダテに手を抜きcに詰めてからさらにdに打ち抜かねばならない。このように、一方が手を詰める必要のあるコウを「ヨセコウ」と呼ぶ。上の図は一手ヨセコウの例。黒がcにダメを詰めて、両者とも一手で解消できる状態になったコウは「本コウ」と呼ぶ。 上図のような形が二手ヨセコウ。白はコウを取った後でaに打ち抜けばコウを解消できるが、黒からはb、c、dに3手詰めて白石を抜かなければ勝てない。これは「二手ヨセコウ」となる。 三手以上のヨセコウもあるが、ヨセる側が三手以上手をかけている間に他で大きく得をされるため、差が大きすぎるとみなされる。このため「三手ヨセコウはコウにあらず」という格言もある。 両コウ[編集] 上図のような場合、白がaに取ると黒はbに取り返すことができるため、どちらも全体が取られることがない。このため、双方ともセキ生きとして扱われる。両コウセキができると三コウの可能性が高くなる。 こうした形の場合は白がaに取ると黒がbに取り返せるため、白から黒全体を取る手段はない。逆に黒はc, dと詰めれば最終的には白を取れるため、このまま白が取られという扱いになる。ただしこの場合、白は無限のコウ材を持つことになるため、他でコウが発生すると黒には大きな負担になる。「両コウ三年のわずらい」という格言はこれを指す。 三コウ[編集] 盤上に同時に3箇所以上コウが発生した場合、この3箇所をお互いが順に打っていけば、永久に対局が終わらない。このような場合、両対局者が譲らない場合には「無勝負」とされ、打ち直しとなる。この3箇所のコウを三コウと呼ぶ。 左上は単独での三コウ。黒は全体がアタリなので1にコウを取ると、今度は白がアタリなので2に抜く。また黒がアタリなので3に取り返し、白が△の点にコウを取り……と繰り返し、両者が譲らない限り永遠に終わらない。 また右半分は、両コウがらみの三コウ。両者が右上の両コウをコウダテにして右下のコウを争うと、やはり無限に繰り返される。四コウなど、さらに多数のコウがからむケースも存在する。 二段コウ[編集] この形では黒はaに打ち抜けば勝ちだが、白からはまずbのコウに勝ってcに取り、ここでもコウを勝ち抜いてdに打ち上げて初めて勝ちとなる。こうしたケースを二段コウと呼ぶ。 三段コウ[編集] 上図が三段コウと呼ばれる形。白からはeに抜くかaにツゲば勝ちだが、黒が解消しようとすると、まずaのコウでコウダテに手を抜いて勝ち、bのコウで勝ち、cのコウにも勝ち、dに抜くか△にツイでやっと勝ちになる。白は1手で解消できるが、黒は3手かけないと解消できないため、勝つことは難しい。 万年コウ[編集] この形ではaに白がツゲば全体がセキだが、黒から解消しようと思うとまずaに取り、次いでbに詰めて決死のコウを挑まねばならない。白は他のコウ材の具合によってはbに詰めて比較的負担の軽いコウに持ち込むこともでき、選択権は白が持つ。こうした形を「万年コウ」と呼ぶ。 上図のまま終局した(どちらからもコウを仕掛けず、白がツグこともしなかった)場合は、このままセキと扱われる(日本囲碁規約の場合[1])。 循環コウ[編集] この図では、黒1のホウリコミに対し、白が3の点に抜くと黒5にコウを取られてアタリになってしまう。そこで白は2の点にホウリコミ返し、黒3の抜きに対して4に抜く。黒は5にコウを取ると、当初の黒白の立場が入れ替わった形になってしまっており、どちらかが譲らない限り無限にこの応酬が繰り返されることになる。この形を「循環コウ」と呼び、双方が譲らなければ無勝負となる。ただしこの形が実戦に生じた記録はなく、知名度も低いルールとなっている。 その他のコウをめぐる用語[編集] 花見コウ - 一方は負けても大した被害がないが、一方は大損するようなコウのこと。 天下コウ - 盤面上どこにも引き替えとなるようなコウ材が存在しない、非常に大きなコウのこと。「天下利かずのコウ」の略。 半コウ - コウに勝っても負けても周辺の石には影響がなく、勝った方が一目得するだけのコウのこと。二手かけて一目得するだけであるためこう呼ばれる。通常、一局の最後に争われる。 ソバコウ - コウを争っている石の近くに立てるコウダテのこと。例えば死活を争っているコウの際、包囲網を破ろうとするコウダテのような場合を指す。多くの場合、相手はそれに応じなければならない絶対のコウダテとなる。 損コウ - コウダテを打ち、相手が受けることによって自分が損をするようなコウダテのこと(たとえば、もともとセキであった所に自分からダメを詰め、取られに行くような手)。「損なコウ」ではなく「損なコウダテ」の意味で用いられる。どうしてもコウに勝ちたい時は損コウを打つしかないが、その分コウに勝つ価値は下がることになる。 無コウ - 手を抜かれても得をする手がない、無効なコウダテのこと。単語の中の「コウ」は「コウダテ」の意味で用いられている。 コウ移し - 例えば黒がコウダテを打ち、白がそれに応じずコウを解消した後、黒がコウダテを打った場所に連打してコウが始まるような場合を指す。コウの場所が移るためこの名がある。 コウ自慢 - コウダテが豊富にあり、コウが起これば有利に運べるという状態。 コウ含み - コウになりうる場所があるが、すぐにはコウを仕掛けず、局面の展開を見ながら時期を伺う状態。 超コウ(スーパーコウ)ルール - 三コウなどの無勝負を避けるため、盤面全体の同形反復を禁止するルール。 コウに関する格言[編集] 初コウにコウなし - 一局の序盤でできるコウには、それに見合うコウ材が存在しないという格言。 三手ヨセコウはコウにあらず - ヨセコウでも、三手ヨセコウとなるとコウに勝つために払わねばならない犠牲が大きすぎ、ほとんどの場合争う価値がないことを指した格言。 まずコウを取れ - コウができた場合、まず先に取っておけば相手は取り返すためにコウ材をひとつ余計に使う必要が出てくる。このためコウに勝てる確率が上がる、という格言。ただし攻め合いにおけるコウにおいてはこの限りでない(コウ付き攻め合い最後に取れ)。 コウをめぐる事件・エピソード[編集] 織田信長が寂光寺にて日海と鹿塩利玄の勝負を観戦した折、三コウが現れ無勝負となった。ところがその夜本能寺の変が起き、信長は明智光秀に討ち取られた。このことから、以後三コウは不吉の前兆とされるようになった。ただし残された棋譜には三コウになりそうな場所はなく、後世の作り話である可能性が高い。なお三コウはルール上の珍形の中では最もよく出現し、プロの対局でも数十例が記録されている。趙治勲は三コウ・四コウ無勝負を4回経験している。 1928年秋の大手合で、瀬越憲作七段対高橋重行三段(二子)の対戦で万年コウが発生した。形勢は大差で瀬越が優勢であったが、高橋はコウをツイでセキにしようとせず終局まで頑張ったために問題が発生した。この件については侃々諤々の論争が起こり、大手合が中断するほどの騒動となったが、結局本因坊秀哉が「両勝ち」の判定をして収まった。この事件が契機となってルールの成文化が叫ばれるようになり、1949年に「日本棋院囲碁規約」が制定されることとなった。 1960年の第15期本因坊戦七番勝負第6局では、本因坊の高川秀格が無コウを打ち、挑戦者藤沢秀行がこれに気づかず受けてしまうというハプニングが起きた。これに気づいた藤沢は、まだ形勢は悪くなかったのに腐って悪手を連発して敗れ、高川に本因坊9連覇を許すこととなった。 1980年の名人戦七番勝負第4局では、挑戦者の趙治勲がコウを立てる番であったかわからなくなり、記録係に「僕の取り番だっけ?」と確認。記録係は思わず「はい」と誤答してしまったため、趙はコウダテせずにコウを取り返してしまい事件となった。結局立会人裁定で無勝負となったが、これ以後記録係は質問に答えなくてよいとルールに定められた。 プロの対局の反則では、コウダテをせずにコウを取り返すケースが最も多い。タイトルマッチでは、1971年のプロ十傑戦で石田芳夫が梶原武雄との決勝五番勝負第3局で、また1997年の天元戦五番勝負第3局では、挑戦者の工藤紀夫がコウダテをせずにコウを取り返すという反則があった。 加藤正夫は、「碁にコウが無かったら、非常に味気のないものになるでしょう」と著書で語っている。 出典[編集] ^ “Ⅲ 死活確認例 死活例12 「万年劫」”. 日本棋院. 2016年5月10日閲覧。 参考図書[編集] 村島誼紀 『コウ辞典』誠文堂新光社 林海峰『コウの技法(最強囲碁塾)』河出書房新社 マイケル・レドモンド『コウが1から10まで分かる本』毎日コミュニケーションズ 関連項目[編集] 長生 - コウになっていない箇所が原因で同一局面の反復が行われるケース。 純碁、計点制ルール - コウに限らず、すべての同一局面の反復を禁止するルールを採用する例。 千日手 - 将棋における同一局面の反復。 --------- コミ 曖昧さ回避 この項目では、囲碁のルールについて説明しています。ロシア中北部の共和国については「コミ共和国」を、料理に従事する者については「ブリゲード・ド・キュイジーヌ#役職の一覧」をご覧ください。 コミ、コミ出しは、囲碁のルールの一つ。ゲームの性質上先手が有利であるため、地の計算の段階で与えられるハンデキャップを指す。 目次 [非表示] 1 概要 2 歴史 2.1 コミの変遷 3 日本以外のコミ 4 脚注 5 関連項目 概要[編集] 現在の日本のルールでは互先(たがいせん)の場合、先手(黒)が後手(白)に対して6目半のハンデを負う(「コミを出す」という)。つまり盤上で黒が4目の勝ちであったとしてもコミを計算すると白の2目半勝ちとなる。 互先の対局において、黒が盤上で7目のリードを得る(つまり最初の6目半のハンデを取り返して勝っている状態の)ことを「コミが出る」といったり、逆に盤上でリードしていても7目に達しない場合「コミが出ない」といったりする。 コミに「半目」がついているのは勝敗を決するためで、特にその必要がない場合は「半目」をつけない場合がある。その場合には両者の地が同じになると持碁(じご)と呼ばれ引き分けとなる。 置き碁の場合、置き石一つというハンデの間隔はあき過ぎていて妙味が生まれにくいため、プロアマ戦、あるいはアマチュア同士の対戦などでその間隔を埋める場合にも用いられる。この場合、置き石の数が少ない場合に上手がコミを出す「逆コミ」と呼ばれるルールを採用する場合もあり、「コミ出し」に対して「コミもらい」と言うこともある[1]。 歴史[編集] 江戸時代には座興で打たれる碁のような場合を除き、基本的にコミというものはなかった。当時は棋士の数が少なかったこともあり、個人対個人で複数回の対戦(番碁)などを行い、手合割を決めていた。連碁などでコミが採用される場合には先番5目コミ出しのケースが多かったことから、当時から先番の有利さはこの程度と見られていたことがわかる。 大正から昭和に入って棋士の数も増え、また挑戦手合制が碁界の主流を占めるようになるにつれ、一番で勝負を決める必要性が生じてきた。このためコミの必要性が議論されたが、「勝負の純粋性を損なう」として反対意見も強かった。本因坊戦の開始に当たって4目半のコミが導入された時には抵抗する棋士も多く、加藤信などは「コミ碁は碁に非ず」という趣旨の自らの論説を主催紙の毎日新聞に載せることを参加の条件としたほどだった(なお加藤はコミ碁の本因坊戦で活躍し、第1期本因坊の座を関山利一と争っている)。 コミの導入によって碁の性質も大きく変化した。コミなし碁では黒は先着の有利を保つためゆっくりと打ち、堅実にリードを保つ打ち方、逆に白は激しく仕掛け、局面を動かす打ち方がセオリーとされていた。コミの導入後はこれが逆になり、黒は石数の少ないうちに主導権を握るべく積極的に戦いを挑み、白がゆっくりとした局面に導こうとするスタイルに変化している。 タイトル戦が増えるにつれてコミ碁は当たり前のものになり、コミなし碁は大手合のみになっていった。その大手合も21世紀に入って廃止となり、現在は全ての互先での対局がコミ碁となっている。 コミの変遷[編集] 当初4目半であったコミは、黒番の勝率が高いという理由で徐々に改められていった。 1939年 本因坊戦で初めて4目半のコミが採用 1974年 黒が有利なため、コミを5目半に改める 2002年 黒が有利なため、また国際棋戦との整合性のため、タイトル戦ごとに順次コミを6目半に改め始めた コミ5目半の時代には、4目半のコミを「小ゴミ(こごみ)」、5目半のコミを「大ゴミ(おおごみ)」と呼んでいたが、コミ6目半の採用によりこれらの呼称は廃れる方向にある。 日本以外のコミ[編集] 中国・韓国・米国(American Go Association)は、当初いずれも日本にならってコミを5目半としていたが、現在はいずれもより多い値に改定されている。 台湾の計点制ルールでは、早くからコミを8点(日本の7目半にあたる)にしていた。 韓国は日本より早く、2000年の第4回LG杯世界棋王戦でコミを6目半にした。 中国では中国囲碁規則の2001年版でコミを3+3/4子(7目半)とした。 米国でも現在はコミ7目半になっている。 中国・台湾がコミを6目半でなく7目半に変更したのは、中国式ルールでは多くの場合、黒と白の地の差が奇数になるため、コミ6目半と5目半とでは違いが出ないためである。 中国式ルールでは石を置かれた場所も地として数える。盤面全体の点の総数が奇数である[2]ことから、セキでどちらの地にも数えられない点が生じない限り、両者の地の数は、一方が偶数で一方が奇数となる。 米国ルールは上記には該当しない(石を置かれた場所は地として数えない)が、コミを7目半としている[3]。 脚注[編集] ^ この場合コミの大きさは6目を最大幅として調整される。 ^ 19×19=361、13×13=169、9×9=81である。理論上はそれ以外のサイズの盤面も考えられるが、一般的でない。 ^ AGA Concise Rules of Go 関連項目[編集] 囲碁 ハンデキャップ --------- コスミ コスミは囲碁用語のひとつで、すでにある自分の石から斜め隣に打つ手のこと。動詞では「コスむ」という。漢字では「尖み」と表記されるが、近年ではほとんど用いられない。 下の黒1に打つ手がコスミである。aやbの点に黒石や白石がある場合には「コスミ」とは言わない(黒石がある場合は「マガリ」、白石がある場合は「ハネ」という言葉を用いる)。 コスミは白がaに打ってくればb、bに打ってくればaとツゲば切断されることがない。このため足は遅いが確実に連絡しており、中央への堅実な進出手段となる。また、死活やヨセの手段としても頻出する。 目次 [非表示] 1 コスミの活用 1.1 定石におけるコスミ 1.2 死活におけるコスミ 1.3 手筋のコスミ 1.4 ヨセにおけるコスミ 2 コスミツケ 3 コスミダシ 4 三羽烏 5 関連項目 6 参考図書 コスミの活用[編集] 定石におけるコスミ[編集] 黒1は幕末期の大棋士本因坊秀策が多用したため、秀策のコスミと呼ばれる。後にaのカケ、b、c、d方面からのハサミ、左辺へのヒラキなどをにらむ。 ただしコミ碁の現代では、この手は黒がぬるいという見方が主流となり、打たれることは稀になっている。逆に白の方が、このコスミを打つことが多くなっている。 死活におけるコスミ[編集] 死活においてもコスミはしばしば手筋となる。上の図では黒1のコスミで隅の白の眼を取ることができる。 手筋のコスミ[編集] 黒1のコスミが手筋で、白がaにサエギればbに切って攻め合い勝ち。よって白がbとツグよりなく、aに打って黒が生還できる。 ヨセにおけるコスミ[編集] ヨセに入ってからはしばしば二線へのコスミが大きな手となる。黒から1にコスむか、白から先にコスむかは大きな差で、ヨセに入って真っ先に打たれることも多い。さらに黒3から5のハネツギが先手で利く場合は非常に大きなヨセとなる。 コスミツケ[編集] 黒1のようにコスミとツケを兼ねるような手を「コスミツケ」と称する。 コスミダシ[編集] 黒1のように、コスんで相手の石の間から顔を出すような手を、「コスミダシ」と称することがある。 三羽烏[編集] 図のように、黒1から3と三本コスんだ形。隅へ白から侵入は難しく、黒は手堅く15目ほどの地を確保できる。しかし平成になり、一隅に3手もかけるのは効率が悪いという考え方の棋士が増え、打たれることは少なくなっている。 関連項目[編集] トビ ケイマ ハザマ 参考図書[編集] 影山利郎『コスミの戦法 (烏鷺うろブックス) 』 --------- 小目 曖昧さ回避 この項目では、囲碁用語である小目について説明しています。古代日本の地方官である少目については「少目」をご覧ください。 小目(こもく)は囲碁用語の一つで、空きスミへの着手を指す言葉のひとつ。碁盤の隅から数えて(3,4)または(4,3)の地点に打つことをいう。下図黒1、あるいはaの位置が小目である。星と並び、隅を占める手の中で最もよく打たれる着点である。定石の種類も、隅の着点の中で最も多い。 なお「小目」は隅の星の一路辺寄りの(低い)位置を指すものであり、辺の星の一路低い位置は、小目でなく「星下」と呼ばれる。 Go l.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go l.svg Go board diagram image.svg Go board 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diagram image.svg Go board diagram image.svg Go l.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go A.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go l.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go board diagram image.svg Go dl.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg Go d.svg 一つの隅に小目に該当する位置は2箇所あるが、どちらに打つのも同じ意味である。ただし盤上の他の石の配置によっては、戦略上異なる意味を持つ。 目次 [非表示] 1 特徴 2 シマリ 2.1 小ゲイマジマリ 2.2 一間ジマリ 2.3 大ゲイマジマリ 2.4 二間ジマリ 3 カカリ 3.1 ケイマガカリ 3.2 一間高ガカリ 3.3 大ゲイマガカリ 3.4 二間高ガカリ 3.5 裏ガカリ 4 時代による変遷 5 小目を主体とした布石 5.1 秀策流 5.2 向かい小目 5.3 並び小目 5.4 ケンカ小目 5.5 小目から辺へ展開する布石 特徴[編集] 小目は、星よりも隅に寄っており、隅の地を確保する意味では星よりも有利だが、その分中央方向への影響力は弱い。三々よりは中央に寄っているため地と勢力のバランスに優れた着点といえる。 シマリ[編集] 小目に打っただけでは隅を確保したとはいえないため、対角線を挟んだ位置にもう1手かけて隅を完全に陣地化する手(すなわちシマリ)の価値が大きい。シマリを打つことは地を作るだけでなく、辺への展開、相手の石への攻撃の拠点ともなる。このため、シマリは布石の最初期に打たれることが多い(ただし近年、シマリを省いて辺への展開を優先する、中国流などの手法も流行している)。 小ゲイマジマリ[編集] 黒1が小ゲイマジマリ。これによって隅の地を確実に10目程度確保できる。堅固なシマリであり、白からaやbあたりに近づいて来られても危険がないため、後を強く戦える。このため最も基本的であり、よく打たれるシマリである。ただし、周囲の状況によってはcから侵入される場合もある。 一間ジマリ[編集] 上図黒1が一間ジマリ。a方面へ展開すると、雄大な模様が構築できる。その代わり、b方面から迫られると隅の隙があらわになる。cのノゾキやdなど、隅へ侵入する味も残る。 大ゲイマジマリ[編集] 上図黒1が大ゲイマジマリ。隅の地を大きく確保できる可能性がある代わり、白にaと迫られると白bのツケなどから隅を荒らされる手が残る。 二間ジマリ[編集] 黒1が二間ジマリ。隅の隙が大きいため実戦例は少ないが、中央の模様を大きく広げたい場合など、趣向として打たれることがある。 カカリ[編集] 小目からのシマリが大きな価値を持つ以上、それを妨害する手、すなわちカカリの価値も同様に大きい。主に小ゲイマガカリ・一間高ガカリ・大ゲイマガカリの3種が用いられる。 ケイマガカリ[編集] 小目へ白1とケイマにカカった場合、黒はa~fまでのハサミで、この石を攻撃に向かうことが多い。ゆっくり打つ、あるいは左辺を重視する局面では、gのコスミ、hのケイマ、iの二間などに受けることもある。このまま黒が手を抜いて他に先着すれば、白の目ハズシに黒がケイマガカリしたのと同形になる。 一間高ガカリ[編集] もっとも一般的なカカり方。白1の一間高ガカリに対しては、aの下ツケがよく見られる応手で、ここからツケヒキ定石やナダレ定石などの代表的定石が発生する。左辺を重視するなら、bの上ツケやcのケイマが考えられる。戦いに持ち込みたいなら、d~fなどとハサんでカカってきた石を挟撃する。fの二間高バサミは難解な変化を含み、「村正の妖刀」と称される。このまま黒が手を抜いて他に先着すれば、白の高目に黒が小目ガカリしたのと同形になる。 大ゲイマガカリ[編集] 上記のカカリではハサミを打たれ、不利と判断した場合は白1と大ゲイマにカカる手が打たれる。黒はaと打って隅を確保することが多い。左辺を模様化したい場合にはbの肩ツキもある。またcの二間ビラキはあっさりと左辺を地化する打ち方。もしハサんで打つなら、dやeなどに打つことが多い。 二間高ガカリ[編集] 白1と二間に高くカカる手もある。黒はaとカドに打って隅の地を確保するか、bと左辺に展開するのが普通。ハサむ場合はcなどが多い。 裏ガカリ[編集] 黒▲に石がある中国流布石などの場合、通常のカカリでは不利になるため、白1などと左辺側からカカる手が打たれることがある。比較的新しい手法であり、カカる位置も白1の他a~dなどが試されている。まだ発展途上であり、新しい定石が次々と登場している分野である。 時代による変遷[編集] 囲碁の歴史の初期にはあらかじめ星の位置に石を置いて対局を始める事前置き石制であったのが、盤上に何も無い状態から打ち始める自由布石法となることによって、隅への着点として小目が発生した。日本の室町時代後期から江戸時代、明治時代にかけては、小目が布石の主流となり、その周辺での戦いの技法も進歩し、多くの定石が生まれた。また小目から発生する布石として、本法の布石、秀策流などが打たれるようになった。その後昭和になって新布石の登場などにより、布石は星と小目の組み合わせが主流となった。 小目を主体とした布石[編集] 秀策流[編集] 黒の配置が秀策流。向きの異なる小目を三隅に配し、手堅く構える布石。本因坊秀策の御城碁19連勝の原動力となった。多くの場合、7手目にコスむまでを秀策流と称する。このコスミは秀策が考案した手ではないが、「碁盤の広さが変わらない限り悪手とはならないだろう」として推奨し、多用したことから「秀策のコスミ」と呼ばれる。コミ碁が主体となった近年では、黒はハサミなどで打つことが多く、逆に白がこのコスミを打つケースが増えている。 向かい小目[編集] 黒の配置が向かい小目。 並び小目[編集] 黒の配置が並び小目。やや偏った配置であるため打たれることは少ないが、さらにaの星を占める布石を張栩が若手時代に多用し、「張栩スペシャル」と称されたことがある。また、2015年前後には七冠王・井山裕太も一時的に多用した。 ケンカ小目[編集] 右辺の白黒の配置をケンカ小目と呼ぶ。黒1、白2とカカリ合うと、黒3などがヒラキとハサミを兼ねて好点となり、黒が有利に戦いを進めることができる。このためケンカ小目は先着した方が有利とされている。 小目から辺へ展開する布石[編集] また現代では中国流布石の流行などにより、シマリを省いて辺への展開を行う手段や、それへの対策の研究も盛んとなっている。 現代における、小目からのシマリを省いた中国流布石の展開例。白は右下隅の小目に直接カカらずに白6と辺から圧力をかけ、黒は黒7で隅を守りつつ6の石への攻撃を狙い、白は8に守った。 この他小目からシマリを省いて辺へ展開する布石に「ミニ中国流」、「小林流」などがある。 --------- 碁聖 碁聖(ごせい)は  日本の歴史上、傑出した囲碁の名手に対する尊称。棋聖とほぼ同義。  囲碁の棋戦の一つである碁聖戦に優勝した棋士に贈られるタイトル。 目次 [非表示] 1 碁聖と呼ばれた人物 2 碁聖戦 3 名誉碁聖 4 歴代碁聖位と挑戦手合 5 脚注 6 参考文献 7 外部リンク 8 関連項目 碁聖と呼ばれた人物[編集] 寛蓮 平安時代の棋士。最も早い時期に碁聖と呼ばれた人物とされる[1]。 本因坊道策 江戸時代前期の棋士。本因坊丈和と比較して「前聖」とも呼ばれる。 本因坊道知 江戸時代中期の棋士。囲碁の名人であるだけでなく、将棋も上手(七段)並みで中将棋も抜群の強さであったため「盤上の聖」と呼ばれた[2]。 本因坊丈和 江戸時代後期の棋士。本因坊道策と比較して「後聖」とも呼ばれる。 本因坊秀策 江戸時代後期の棋士。明治37年の『座隠談叢』に「秀策ハ聖棋神手」、『秀策口訣棋譜』に「先師碁聖秀策」と書かれるなど、明治以降になって碁聖と呼ばれるようになった[3][4]。 呉清源 昭和時代の棋士。中国出身で日本で活躍し「昭和の碁聖」と呼ばれる[5][6]。 碁聖戦[編集] 1976年創設。前身は全日本第一位決定戦。 主催 新聞囲碁連盟(加盟12社:河北新報、新潟日報、信濃毎日新聞、静岡新聞、北國新聞、京都新聞、中国新聞、四国新聞、高知新聞、熊本日日新聞、南日本新聞、沖縄タイムス)、日本棋院、関西棋院 協賛 (第17-30期)日本IBM、第31期-レノボ 第4期までは5人のリーグ戦によって挑戦者を決定し、タイトル保持者と挑戦手合五番勝負で優勝者を決定。第1期は全日本第一位の大竹英雄と決勝五番勝負。第6期からは、トーナメント戦勝ち抜き者とタイトル保持者と挑戦手合五番勝負。トーナメント決勝は、第5-7期は三番勝負、8期以降は一番勝負。 長年七大タイトル戦の中で唯一、出場資格に制限があった。(日本棋院では37期まで五段以上、関西棋院では31期まで五段以上)。 なお大竹は前身の日本棋院第一位決定戦、全日本第一位決定戦でもこのタイトルに強く、全日本のタイトルは一度も大竹以外の手に渡ったことはなかった。 第41期(2016年)までの間に戴冠者は12名いるが、5名以外は2期以上獲得しており、大竹英雄(7期)・小林光一(9期)・依田紀基(6期)・張栩(4期)・井山裕太(5期)の5人だけで通算31期獲得している。 名誉碁聖[編集] 碁聖を5連覇、または通算10期以上獲得した棋士は、60歳以降に名誉碁聖を名乗る権利を得る。 棋士 期 連覇 年 大竹英雄 7期 6連覇 1978、1980-1985 小林光一 9期 6連覇 1988-1993・1999・2001-2002 井山裕太 5期 5連覇 2012- 歴代碁聖位と挑戦手合[編集] ◯●は勝者から見た勝敗、網掛けはタイトル保持者。(第1期は全日本第一位に挑戦) 期 開催年 優勝 勝敗 準優勝 1 1976 加藤正夫 3-2 大竹英雄 2 1977 加藤正夫 3-0 武宮正樹 3 1978 大竹英雄 3-1 加藤正夫 4 1979 趙治勲 3-0 大竹英雄 5 1980 大竹英雄 3-1 趙治勲 6 1981 大竹英雄 3-1 加藤正夫 7 1982 大竹英雄 3-2 趙治勲 8 1983 大竹英雄 3-2 淡路修三 9 1984 大竹英雄 3-1 加藤正夫 10 1985 大竹英雄 3-1 工藤紀夫 11 1986 趙治勲 3-0 大竹英雄 12 1987 加藤正夫 3-1 趙治勲 13 1988 小林光一 3-0 加藤正夫 14 1989 小林光一 3-1 今村俊也 15 1990 小林光一 3-0 小林覚 16 1991 小林光一 3-2 小林覚 17 1992 小林光一 3-1 小林覚 18 1993 小林光一 3-0 林海峰 19 1994 林海峰 3-1 小林光一 20 1995 小林覚 3-2 林海峰 期 開催年 優勝 勝敗 準優勝 21 1996 依田紀基 3○○○0 小林覚 22 1997 依田紀基 3○●○○1 結城聡 23 1998 依田紀基 3○○○0 苑田勇一 24 1999 小林光一 3●●○○○2 依田紀基 25 2000 山下敬吾 3○○●●○2 小林光一 26 2001 小林光一 3○●○●○2 山下敬吾 27 2002 小林光一 3○○●○1 結城聡 28 2003 依田紀基 3○○●●○2 小林光一 29 2004 依田紀基 3○●○○1 山田規三生 30 2005 依田紀基 3○○○0 結城聡 31 2006 張栩 3○○○0 依田紀基 32 2007 張栩 3○○○0 横田茂昭 33 2008 張栩 3●○○○1 山下敬吾 34 2009 張栩 3○○○0 結城聡 35 2010 坂井秀至 3●○●○○2 張栩 36 2011 羽根直樹 3●●○○○2 坂井秀至 37 2012 井山裕太 3○○○0 羽根直樹 38 2013 井山裕太 3●●○○○2 河野臨 39 2014 井山裕太 3●○○●○2 河野臨 40 2015 井山裕太 3○●○○1 山下敬吾 41 2016 井山裕太 3○○○0 村川大介 脚注[編集] ^ 『囲碁の文化史』108頁。同著に依れば、寛蓮が碁聖と呼ばれたことは一条兼良の『花鳥余情』に書かれている。 ^ 『道知』249頁 ^ 『丈和』245頁 ^ 『秀策』275頁 ^ 中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』(岩波書店) ^ 『囲碁の文化史』188頁 参考文献[編集] 石田芳雄・田村孝雄・林裕『秀策』筑摩書房〈日本囲碁体系〉、1976年、275頁。 坂田英男・藤三男・林裕『道知』筑摩書房〈日本囲碁体系〉、1975年、249頁。 高川格・村上明・林裕『秀栄』筑摩書房〈日本囲碁体系〉、1976年、274頁。 林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年、60頁。 藤沢秀行・相場一宏・林裕『丈和』筑摩書房〈日本囲碁体系〉、1976年、245頁。 水口藤雄『囲碁の文化史』日本棋院〈碁スーパーブックス〉、2001年、108、144、160、188頁。 外部リンク[編集] 日本棋院 碁聖戦 --------- 後手 後手(ごて)とは、2人で交互に着手するボードゲームにおいて、最初の一手(初手)を着手する側(先手)の次の一手(2手め)を側を指す用語。後手は後手番ともいう。 先後と駒の色、先後の決定方法などについては先手を参照。 将棋で駒落ちの対局を行う場合には、駒を落とした側の対局者を上手(うわて)、落とされた側を下手(したて)といい、振り駒はせずに上手から指し始める。同様に、囲碁の置き碁では、黒石を置かせた側を上手、置いた側を下手といい、白を持つ上手から打ち始める。したがって、これらの場合は「後手」とは言わず「下手」という。 囲碁用語。ある対局者の着手に対して相手が離れた場所に着手(手抜き)すると先の対局者に大きな得をする手段が残る場合、先の対局者の着手を先手という。「手抜きする」ことを「手を抜く」ともいう。通常は先手と呼ばれる着手をされた相手は手抜きせずに先の対局者に得をさせない着手で応じる。この着手を後手(で受ける)という。石を取るか取られるかの戦いなどの場合、互いに手を抜けずに相手の着手の近くに着手することを繰り返す場合があり、その最後の着手を「後手を引く」という。また、その最後の着手で「一段落」という。 将棋用語。ある局面で何らかの不利益(王手や飛車取りなど)を回避するために指し手を抜けない場合に、それを回避するための指し手(王手の回避や飛車取りの回避など)が終わった段階で手番を握っていない側をいう。なお、後手になってしまうことを「後手を引く」という。 関連項目[編集] 先手 二人零和有限確定完全情報ゲーム --------- 五ノ五 五ノ五(ごのご)は囲碁用語の一つで、碁盤上の位置を指す言葉。文字通り、碁盤の隅から数えて(5,5)の地点。布石の段階で隅の着点として稀に打たれる。「5の五」と表記されることも多い。 昭和の新布石の時代に木谷實らによって試みられた他、2000年の碁聖戦など一時期山下敬吾が愛用した。 目次 [非表示] 1 特徴 1.1 シマリ 1.2 カカリ 2 参考文献 特徴[編集] 五線の交点であり、隅の着点として位が高い。このため実利には甘いが、隅への侵入を誘って勢力を築き、模様で打つスタイルや、積極的に戦うスタイルに適していると言える。 シマリ[編集] 黒1へのシマリが最も一般的。目ハズシからの一間ジマリと同形になるが、状況によって黒1かaかの選択が可能な点が五ノ五の長所。黒bにシマる手も考えられる。 カカリ[編集] 白がカカるときは白1の小目にカカるのが最も一般的である。これに対し黒は黒2にカケ、白を隅に封鎖して中央に勢力を築く。黒4までが、想定される進行の一つ。 また、黒2、白3を交換して黒4に封鎖する打ち方もある。 白1と三々入りする手も考えられる。以下4までが想定される進行。 参考文献[編集] 「戦いのベクトル」 山下敬吾著 毎日コミュニケーションズ --------- 碁盤 囲碁 Go board part.jpg ゲームの詳細 囲碁のルール 囲碁のハンデキャップ (互先 - 定先 - 置き碁) 囲碁の格言 囲碁用語 歴史と文化 囲碁の歴史 碁盤 - 碁石 囲碁の記録一覧 囲碁のタイトル在位者一覧 棋道賞 組織と棋士 国際囲碁連盟 日本棋院 関西棋院 中国棋院 韓国棋院 台湾棋院 全日本学生囲碁連盟 棋戦 棋士 日本の囲碁棋士一覧 コンピュータ コンピュータ囲碁 幽玄の間 AlphaGo対李世乭 表 話 編 歴 碁盤と碁石 碁盤(ごばん)は、囲碁の用具の一つで碁石を打つ板のことである。盤の上面には縦横に直線が描かれ、それらは直角に交わっている。また、このような縦横の直線の交差により作られている格子状のものを、碁盤の目状と称する事もある(京都市内の通りなど)。 目次 [非表示] 1 概要 2 19路盤 3 15路盤 4 13路盤 5 9路盤 6 歴史 7 深曾木の儀 8 出典 9 関連項目 10 外部リンク 概要[編集] 碁盤を作る木材には榧(カヤ)、桂、イチョウ、ヒノキ(主に台湾産)、ヒバ(主に米ヒバ、en:Callitropsis nootkatensis)、南洋材のアガチス(アガヂスとも)、北米産のスプルース材などが使用される。碁盤を作るためには少なくとも樹齢数百年の大木が必要である。榧製、特に宮崎県産の榧の柾目盤が最も珍重され高価であるが、近年は榧の大木は国内では非常に稀少となり、中国・雲南産の榧を使った盤が多く販売されるようになった。桂・イチョウなどの盤が普及品としては上物とされ、また安価なものには大木が得やすいスプルース材が多い。業者の広告等で「新カヤ」という商品名で呼ばれているものはスプルース、「新桂」と呼ばれているものはアガチスであるが、それぞれ榧や桂とは全く別種の木材であることには注意すべきである。木材を圧縮接着した積層材の盤、またプラスチック製のものやゴム製、持ち運び用のマグネット碁石に対応した金属製の碁盤も販売されている。 碁盤上に引かれた線はヘラや筆を使って引く手法(箆盛り・筆盛り)の他に、太刀目盛り(たちめもり)と呼ばれる独特な伝統的手法がある。これは日本刀の刃を丸め、温めて黒漆を付け盤面に刃先を押しつけて線を引くものである。表面に漆が乗るため、線には微妙な盛り上がりができる。視覚障害者が、手触りでマス目を判断して碁を楽しめるように、この線をわざと厚めに作る碁盤も存在する[1]。 碁盤の価格は数千円から一千万円超までさまざま。アガチス、桂、スプルース製の厚さ1寸までの卓上盤なら数千円程度、アガチス、桂、スプルース製の足付盤や榧製の卓上盤では数万円から十万円程度、イチョウ、ヒノキ、ヒバ製で三十万円程度まで、榧製は1面ずつ価格が異なるが、相場として板目盤で五万円から八十万円程度、柾目盤は希少価値が高いのでたいへん高価で、数十万円からで銘盤ともなれば数百万円から一千万円超。さらに高いものは、価格応談など、客観的な価格では対応しきれない碁盤もある。 形状は畳などの上で椅子を用いない対局で床に直接置き使用する足付盤以外にも、テーブルの上で用いる薄い板状のものも公式戦で使用される。それ以外にも折畳式のものなどもある。厚さ二寸くらいまでの卓上用の薄い板盤は、充分に乾燥していない一枚板では実用にたえられないほど反ったり線の升目がくるったりする恐れがあるため、板を何枚か接いで1面の盤をつくることが多い。これは接盤(つぎばん)、接合盤と呼ばれる。他にも、左右二枚の板を差し込んで1面の盤にすることで反りなどを防ぐさし込み盤というものもある。また、盤の反りや変形には木目の影響も大きく、この点でも「柾目」が珍重されている。 足付き碁盤の裏側の中央部分にはへこみがある。これは「へそ」と呼ばれる。木材の乾燥による歪みや割れの防止と、石を打った時の音の響きを良くする効果がある。2寸程度の薄い足付き盤にはへこみはない。また、血溜まりと呼ばれることもあり、対局中に横から口を挟む人間は首を刎ねられ、このへこみに乗せられる事になると言う。 碁盤の脚は、クチナシの実の形を模しており、「他人の対局に『口無し』ということ」を示唆している。 中国では布製の碁盤も用いられることがある。 盤上の線のことを「路」(連珠では「道」)と呼ぶ。標準的な碁盤は19路だが、それ以外にも様々な盤があり、よく見かけるのは以下の4種類である。他に入門・研究用として7路以下の盤もよく用いられる。東京大学の囲碁授業では、6路盤が採用されている。また21路盤のように、標準より広い盤も存在する。 19路盤[編集] 使用される縦横19本の線を持つ盤を19路盤(じゅうきゅうろばん、連珠愛好家の間では19道盤(じゅうきゅうどうばん))という。碁盤といったとき特に断りがなければこの19路盤を指す。交点(目)の数は361、マス目の数は324。大きさは縦1尺5寸(45.5センチ)、横1尺4寸(42.4センチ)、厚さは足付き盤で2寸~9寸程度まである。連珠で代用されることもある。 また、広将棋にも用いられる。 15路盤[編集] 縦横15本の線を持つ盤を15路盤(じゅうごろばん、15道盤(じゅうごどうばん))という。囲碁では使われず、連珠で使われるため「連珠盤」と呼ばれている。交点(目)の数は225、マス目の数は196。大きさは縦1尺2寸、横1尺1寸と将棋盤とほぼ同じで、厚さは足付き盤で2寸~9寸程度まである。 ちなみに、15路盤を採用したのは昭和初期に連珠の第3世名人・高木楽山がルールとして規定したためとされており、これまでは19路の碁盤を使用していた。15路盤が採用されたのは、連珠は囲碁の付属物ではないという考え方と、黒に束縛を加えても17路盤や19路盤では先手が有利であるのに対し、13路盤より狭い盤では逆に後手が有利となるので、対等に勝負できるようにしたためとされている。 13路盤[編集] 縦横13本の線を持つ盤を13路盤(じゅうさんろばん)という。通常の19路盤に比べ大きさが小さく全体が把握しやすいため9路盤で基本をつかんだ初級者がより実戦に近い感覚を学ぶために使われることが多い。目の数は169、マス目の数は144。5分から2寸程度の薄い板で作られている。 9路盤[編集] 縦横9本の線を持つ盤を9路盤(きゅうろばん)という。主に囲碁の初心者が囲碁の実戦の感覚をつかむために用いられる。盤の大きさが小さいため通常の布石はあまり意味をなさないが、一定の棋力に達した者同士でも楽しむことができる。目の数は81、マス目の数は64。 コンピュータ囲碁プログラムは9路盤をはじめとする小路盤において力を発揮するとされている。2014年現在、プログラムは19路盤では2014年7月現在アマ高段者程度の棋力とされているが、9路盤においてはプロとほぼ互角の棋力を持つというプロ棋士の感想がある。[2] 歴史[編集] 漢景帝陽陵からは、漢代のものと思われる陶製碁盤が出土している。装飾の施された木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)という碁盤も著名。正倉院宝物となっている。 碁盤の大きさについては以下の記録が残っている。 『囲碁式』(1199年頃)縦1尺4寸8分、厚さ3寸4分 本因坊道悦の標準盤 縦1尺4寸5分、横1尺3寸5分、厚さ3寸9分 『大江俊矩記』(1807年)縦1尺4寸8分、厚さ5寸3分 現在は碁盤・将棋盤は実際の使い勝手より、厚いほど高級とされているため、八寸・九寸などという盤も稀に存在する。 深曾木の儀[編集] 日本の皇室では、七五三にあたるものとして、碁盤から飛び降りるという儀式が行なわれる。世界をしっかりと踏んで立ち成長するようにとの願いを込め、右手に扇、左手に山橘を持ち,碁盤の上から南の方角へ飛び降りる。皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王の使用した碁盤は、1964年に日本棋院から寄贈された。皇室に限らず、「碁盤の儀」として七五三に行っている例もある[3]。 出典[編集] [ヘルプ] ^ 山本哲正 (2014年6月27日). “手触りで楽しめる囲碁 視覚障害者用・愛好者増える”. 東京新聞 2014年6月28日閲覧。 ^ 「囲碁電王戦」プロ棋士が圧勝 NHK NEWS WEB 2014年2月11日、2014年2月13日閲覧 ^ 健やかな成長願い「碁盤の儀」 武雄神社 佐賀新聞社、2012年11月10日。 関連項目[編集] 将棋盤 チェスボード 条里制 外部リンク[編集] 宮崎県:雅趣・伝統の美 --------- 囲碁における根拠 まず、「根拠を持つ」ということはどういうことであろうか。単に生きることとはまた少し違う。 どちらかと言えば、それは「生きる」ということと「逃げる」ということを見合いにしたような石の状態である。相手が、下方からやってきて根拠を脅かそうとすれば逃げれば良いし、上方からやってきて封鎖する手(逃げられないようにする手)を打ってきたならば生きれば良い。石は、生きるか逃げるかすれば死なないのであるから、根拠を持った段階で一段落とすることが出来る。 ただし、どの程度を持って見合いが成立しているのかと判断するのは、ある程度の経験を要するであろう。もし、逃げつく先がはるか遠くで、逃げ切るまでに多くの手数がかかるのが避けられないと判断すれば、さっさと生きておくのが良い場合もあるだろう。 下図は、辺において最も一般な、根拠を持つ手段であるところの2間ビラキ(白の形)である。 --------- 碁会所 Question book-4.svg この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年9月) 碁会所(ごかいしょ)とは、席料を支払い、有料で囲碁を打つことができる場所である。 囲碁センター、サロンのような形態で、駅前などに集中していることが多く全国的に存在している。日本棋院内にも有料で打てる場所がある。 概要[編集] 店内に複数の碁盤を用意し、来客者同士で対局を行わせる形式が一般的である。最も重要な要素は席亭(店主)によるマッチメイキング能力である。来客者の碁打ちとしての力量の見極めはもとより、常連客においては打ち方の筋・性格などを見極め「楽しく打てる」(時には刺激を与えるため苦手同士を打たせる)場を作ることが求められる。 サービスは碁会所によってもさまざまであるが、その店独自の段級位システムを構築しているケースが多い。また、初心者への指導も行っている碁会所もある。その他にも、大会などのイベントが催されることもある。 2000年代ごろからはネット碁の普及が進み、碁会所に行かずとも対局相手を探すことが容易になったため、碁会所にとっては小さくない打撃となっている。 2010年ごろには「囲碁ガール」という言葉も生まれ、女性向きの雰囲気の碁会所や、囲碁喫茶・囲碁カフェなど、多様な碁会所の在り方が模索されている。 関連項目[編集] 会所 家プロジェクト 外部リンク[編集] 碁会所なび --------- 碁経衆妙 『碁経衆妙』(ごきょうしゅうみょう、棋经众妙)は、1812年(文化9年)に成立した、囲碁家元・林家11世林元美編纂による、日本の最も代表的な詰碁の古典。「内容が妙に高遠ではなく、アマチュアにも容易に受け入れられて、しかもそんじょそこらの実戦に現れそうな形が少なくない」(前田陳爾)という、基本的な詰碁と手筋が集められているのが特徴である。 目次 [非表示] 1 構成 2 出版物 3 関連項目 4 外部リンク 構成[編集] 生之部 死之部 劫之部 攻之部 追落之部 盤之部 夾・點・続・断・征之部 出版物[編集] 『碁経衆妙』(囲碁名著文庫6)池田書店 1983年 『応用死活集 : 新訂碁経衆妙. 〔上〕〔下〕 』(高川秀格解説)東京創元社 1956-57年 林元美/橋本宇太郎『改訂・碁経衆妙―詰碁の原典 』 ISBN 978-4381079725 (山海堂 2004年) 林元美/高木祥一解説『碁経衆妙 上下 原本現代訳』 ISBN 978-4315510256 ISBN 978-4315510263 (教育社新書 1989年) 『呉清源の碁経衆妙』三堀将編集、全4巻、池田書店 1974年 篠原正美『詰碁のいろは-碁経衆妙より- ゴ・スーパーブックス32 』 (日本棋院 1976年) 関連項目[編集] 玄玄碁経 官子譜 死活妙機 囲碁発陽論 外部リンク[編集] 「碁経衆妙」1 1882年版(近代デジタルライブラリー) --------- 国際囲碁連盟 囲碁 Go board part.jpg ゲームの詳細 囲碁のルール 囲碁のハンデキャップ (互先 - 定先 - 置き碁) 囲碁の格言 囲碁用語 歴史と文化 囲碁の歴史 碁盤 - 碁石 囲碁の記録一覧 囲碁のタイトル在位者一覧 棋道賞 組織と棋士 国際囲碁連盟 日本棋院 関西棋院 中国棋院 韓国棋院 台湾棋院 全日本学生囲碁連盟 棋戦 棋士 日本の囲碁棋士一覧 コンピュータ コンピュータ囲碁 幽玄の間 AlphaGo対李世乭 表 話 編 歴 国際囲碁連盟(こくさいいごれんめい、英: International GO Federation、IGF)は、囲碁の国際普及を目的とする組織。1982年3月18日に加盟国29か国で発足。その後、加盟国は75か国(2015年時点)、他に4つの団体会員(イベロアメリカ囲碁協会、世界ペア碁協会、欧州囲碁連盟、應昌期圍棋教育基金)がいる。 目次 [非表示] 1 発足までの経緯 2 活動 2.1 棋戦 2.2 普及 3 組織 4 参考文献 5 註 6 外部リンク 発足までの経緯[編集] 1957年頃から日本棋院と関係者の間で国際囲碁普及組織の必要性が検討され始め、一時は日本棋院中央会館に国際囲碁協会が設立されて、1963年には9か国が参加するインターナショナル・アマチュア・ゴ・トーナメントが開催された。また1957年からはヨーロッパ碁コングレスが開催されて、1959年にヨーロッパ囲碁協会も設立された。1975年には、日本棋院が後援してロンドン囲碁センターが設立される。 1979年に世界アマチュア囲碁選手権戦が開始され、これの運営組織を元にして1982年に国際囲碁連盟が設立された。 活動[編集] 棋戦[編集] 世界アマチュア囲碁選手権戦を主管。 1990年から98年まで、相鉄杯世界女流アマチュア囲碁選手権戦を主管。 1991年から国際アマチュア・ペア碁選手権大会を主管。 2006年から、韓国首相杯国際アマチュア囲碁選手権戦に協力。 2012年から、百霊愛透杯世界囲碁オープン戦を共同主宰。 普及[編集] 2006年、国際競技連盟連合(GAISF)加盟。 2005年、世界ブリッジ連盟、国際チェス連盟、国際チェッカー連盟とともに、国際マインドスポーツ協会設立を図り、4競技による世界マインドスポーツ大会開催を目指すことを発表。2008年に第1回ワールドマインドスポーツゲームズを、組織委員として開催した。 囲碁の世界統一ルールの制定のための検討を行っている。 組織[編集] 2013年まで、会長には主に日本棋院理事長が就任。本部、事務局は、日本棋院内に置かれていた。 2005年、初の女性棋士の理事として、梅沢由香里五段が就任。 2006年、重野由紀(1998年~2006年までイタリアに在住)が事務局長に就任し、2013年までつとめる。 2014年7月、韓国で開かれる国際囲碁連盟年次総会で韓国棋院に国際囲碁連盟会長が移り、事務局長も韓国に移る[1]。会長は洪錫炫(ホン・ソクヒョン)、事務局長は李夏辰(イ・ハジン)[2]となった。 参考文献[編集] 岩本薫『囲碁を世界に-本因坊薫和回顧録』講談社 1979年 註[編集] ^ 重野由紀 国際囲碁連盟のなりたちと今後の課題 ^ http://japanese.joins.com/article/576/187576.html?servcode=400§code=450 外部リンク[編集] THE INTERNATIONAL GO FEDERATION --------- 国際団体棋戦の優勝国一覧 Crystal Clear app kedit.svg この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。目安に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。(2011年8月) 国際団体棋戦の優勝国一覧は、国別対抗で行われる囲碁のプロ団体棋戦・対抗戦の歴代優勝国一覧である。ここに記載する棋戦は、公式非公式(各国棋院の承認有無)を問わず、各国の男性棋士・女性棋士・新鋭棋士のトップクラスが集う棋戦・対抗戦とする。 目次 [非表示] 1 1985~1999年 2 2000年~2009年 3 2010年~ 4 脚注 5 関連項目 1985~1999年[編集] 年 度 真露杯 スーパー囲碁 ロッテ杯 日韓新鋭戦 中韓新鋭戦 備考 参加国 日中韓 日中 中韓 日韓 中韓   条 件   女流・新鋭含む[1]   新鋭 新鋭   方 式 勝ち抜き 勝ち抜き 一斉 一斉 一斉   1985年 中華人民共和国の旗中国(8-7) 1986年 中華人民共和国の旗中国(9-8) 1987年 中華人民共和国の旗中国(9-8) 1988年 日本の旗日本(7-2) 1989年 1990年 中華人民共和国の旗中国(8-3) 1991年 日本の旗日本(8-7) 1992年 韓国の旗韓国(7-4) 日本の旗日本(7-5) 1993年 韓国の旗韓国(6-4) 日本の旗日本(7-3) 1994年 韓国の旗韓国(7-4) 中華人民共和国の旗中国(6-3) 韓国の旗韓国(8-6) 韓国の旗韓国(11-9) 1995年 韓国の旗韓国(6-4) 中華人民共和国の旗中国(7-5) 中華人民共和国の旗中国(9-5) 日本の旗日本(24-15) 1996年 韓国の旗韓国(7-4) 中華人民共和国の旗中国(7-2) 中華人民共和国の旗中国(8-6) 韓国の旗韓国(23-19) 1997年 韓国の旗韓国(9-1) 団体戦は終了 中華人民共和国の旗中国(9-5) 日本の旗日本(18-12) 中華人民共和国の旗韓国の旗中韓タイ 1998年 韓国の旗韓国(49-24) 中華人民共和国の旗韓国の旗中韓タイ 1999年 韓国の旗韓国(29-27) 韓国の旗韓国(10-8) 年度 真露杯 スーパー囲碁 ロッテ杯 日韓新鋭戦 中韓新鋭戦 2000年~2009年[編集] 年 度 農心杯 CSK杯 江原杯 WMSG 男子 泰利特杯 WMSG 女子 国際新鋭戦 中野杯日中戦 日韓新鋭戦 中韓新鋭戦 備考 参加国 日中韓 日中韓台 中韓 世界各国[2] 日中韓[3] 世界各国[2] 日中韓台[4] 日中 日韓 中韓   条 件         女流 女流 新鋭 新鋭 新鋭 新鋭   方 式 勝ち抜き 一斉 勝ち抜き 一斉 勝ち抜き 一斉 一斉 一斉 一斉 一斉   2000年 韓国の旗韓国(6-4) 中華人民共和国の旗中国(7-1) 韓国の旗韓国A(3-0) 韓国の旗韓国(20-16) 真露杯が農心杯として再開 2001年 韓国の旗韓国(7-4) 中華人民共和国の旗中国(6-4) 中華人民共和国の旗中国A(3-0) 韓国の旗韓国(6-4) 2002年 韓国の旗韓国(6-4) 韓国の旗韓国 中華人民共和国の旗中国(3-0) 2003年 韓国の旗韓国(6-4) 日本の旗日本(3-0) 韓国の旗韓国(3-0) 2004年 韓国の旗韓国(5-4) 中華人民共和国の旗中国(3-0) 正官庄杯 韓国の旗韓国(3-0) 中華人民共和国の旗中国(30-12) 国際新鋭戦に台湾が加わる 2005年 韓国の旗韓国(6-4) 韓国の旗韓国(2-1) 中華人民共和国の旗中国(8-4) 韓国の旗韓国(3-0) 中華人民共和国の旗中国(29-13) 正官庄杯が団体棋戦に移行 2006年 日本の旗日本(6-4) 中華人民共和国の旗中国(3-0) 中華人民共和国の旗中国(6-4) 中華人民共和国の旗中国(7-3) 中華人民共和国の旗中国(3-0) 中華人民共和国の旗中国? 2007年 韓国の旗韓国(6-4) 韓国の旗韓国(6-4) 中華人民共和国の旗中国(3-0) 中華人民共和国の旗中国(27-5) 2008年 中華人民共和国の旗中国(7-3) 韓国の旗韓国 韓国の旗韓国(7-3) 中華人民共和国の旗中国 韓国の旗韓国(2-0-1) 2009年 韓国の旗韓国(7-3) 中華人民共和国の旗中国(9-1) 中華人民共和国の旗中国(3-0) 中華人民共和国の旗中国(40-8) 年度 農心杯 CSK杯 江原杯 WMSG 男子 正官庄杯 WMSG 女子 国際新鋭戦 中野杯日中戦 日韓新鋭戦 中韓新鋭戦 2010年~[編集] 年 度 農心杯 WMSG 男子 アジア大会 男子 スポーツアコード 招商地産杯 正官庄杯 黄龍士佳源杯 WMSG 女子 アジア大会 女子 国際新鋭戦 中野杯日中戦 備考 参加国 日中韓 世界各国[2] 世界各国 世界各国 中韓 日中韓 日中韓台 世界各国[2] 世界各国 日中韓台 日中   条 件       女流枠有   女流 女流 女流 女流 新鋭 新鋭   方 式 勝ち抜き 一斉 一斉 一斉 一斉 勝ち抜き 一斉 一斉 一斉 一斉 一斉   2010年 韓国の旗韓国(6-4) 韓国の旗韓国 韓国の旗韓国(6-4) 韓国の旗韓国 韓国の旗韓国(3-0) 中華人民共和国の旗中国(47-13) 2011年 韓国の旗韓国(7-3) 中華人民共和国の旗中国(5-0) 中華人民共和国の旗中国(6-4) 韓国の旗韓国(9-4) 中華人民共和国の旗中国(3-0) 中華人民共和国の旗中国(2-1-1) 中華人民共和国の旗中国(41-13) 中華人民共和国の旗中国(38-22) 2012年 中華人民共和国の旗中国(8-4) 年度 農心杯 WMSG 男子 アジア大会 男子 スポーツアコード 招商地産杯 正官庄杯 黄龍士佳源杯 WMSG 女子 アジア大会 女子 国際新鋭戦 中野杯日中戦 脚注[編集] [ヘルプ] ^ 開催ごとに異なる。 ^ a b c d 個人戦出場棋士等を除く ^ 中韓のみ。後継棋戦の正官庄杯が日中韓。 ^ 第5回より台湾が加わる。 関連項目[編集] 囲碁世界タイトルの獲得者一覧 囲碁タイトルの在位者一覧 --------- 国際囲碁連盟 囲碁 Go board part.jpg ゲームの詳細 囲碁のルール 囲碁のハンデキャップ (互先 - 定先 - 置き碁) 囲碁の格言 囲碁用語 歴史と文化 囲碁の歴史 碁盤 - 碁石 囲碁の記録一覧 囲碁のタイトル在位者一覧 棋道賞 組織と棋士 国際囲碁連盟 日本棋院 関西棋院 中国棋院 韓国棋院 台湾棋院 全日本学生囲碁連盟 棋戦 棋士 日本の囲碁棋士一覧 コンピュータ コンピュータ囲碁 幽玄の間 AlphaGo対李世乭 表 話 編 歴 国際囲碁連盟(こくさいいごれんめい、英: International GO Federation、IGF)は、囲碁の国際普及を目的とする組織。1982年3月18日に加盟国29か国で発足。その後、加盟国は75か国(2015年時点)、他に4つの団体会員(イベロアメリカ囲碁協会、世界ペア碁協会、欧州囲碁連盟、應昌期圍棋教育基金)がいる。 目次 [非表示] 1 発足までの経緯 2 活動 2.1 棋戦 2.2 普及 3 組織 4 参考文献 5 註 6 外部リンク 発足までの経緯[編集] 1957年頃から日本棋院と関係者の間で国際囲碁普及組織の必要性が検討され始め、一時は日本棋院中央会館に国際囲碁協会が設立されて、1963年には9か国が参加するインターナショナル・アマチュア・ゴ・トーナメントが開催された。また1957年からはヨーロッパ碁コングレスが開催されて、1959年にヨーロッパ囲碁協会も設立された。1975年には、日本棋院が後援してロンドン囲碁センターが設立される。 1979年に世界アマチュア囲碁選手権戦が開始され、これの運営組織を元にして1982年に国際囲碁連盟が設立された。 活動[編集] 棋戦[編集] 世界アマチュア囲碁選手権戦を主管。 1990年から98年まで、相鉄杯世界女流アマチュア囲碁選手権戦を主管。 1991年から国際アマチュア・ペア碁選手権大会を主管。 2006年から、韓国首相杯国際アマチュア囲碁選手権戦に協力。 2012年から、百霊愛透杯世界囲碁オープン戦を共同主宰。 普及[編集] 2006年、国際競技連盟連合(GAISF)加盟。 2005年、世界ブリッジ連盟、国際チェス連盟、国際チェッカー連盟とともに、国際マインドスポーツ協会設立を図り、4競技による世界マインドスポーツ大会開催を目指すことを発表。2008年に第1回ワールドマインドスポーツゲームズを、組織委員として開催した。 囲碁の世界統一ルールの制定のための検討を行っている。 組織[編集] 2013年まで、会長には主に日本棋院理事長が就任。本部、事務局は、日本棋院内に置かれていた。 2005年、初の女性棋士の理事として、梅沢由香里五段が就任。 2006年、重野由紀(1998年~2006年までイタリアに在住)が事務局長に就任し、2013年までつとめる。 2014年7月、韓国で開かれる国際囲碁連盟年次総会で韓国棋院に国際囲碁連盟会長が移り、事務局長も韓国に移る[1]。会長は洪錫炫(ホン・ソクヒョン)、事務局長は李夏辰(イ・ハジン)[2]となった。 参考文献[編集] 岩本薫『囲碁を世界に-本因坊薫和回顧録』講談社 1979年 註[編集] ^ 重野由紀 国際囲碁連盟のなりたちと今後の課題 ^ http://japanese.joins.com/article/576/187576.html?servcode=400§code=450 外部リンク[編集] THE INTERNATIONAL GO FEDERATION --------- 国手戦 国手戦(こくしゅせん)は、韓国、中国、台湾で行われる、囲碁のプロ棋士による棋戦。 国手とは「国で一番の打ち手」の意で、この称号を冠したもの。韓国囲碁界で一度でもトップを取った者に与えられる称号。[1] 曖昧さ回避 この項目では、韓国の国手戦について説明しています。 中国の国手戦については「国手戦 (中国囲碁)」をご覧ください。 台湾の国手戦については「国手戦 (台湾)」をご覧ください。 韓国の国手戦(국수전)は、韓国棋院設立の翌年1956年に創設された、韓国では最古のタイトル戦であり、現在まで続いている。 概要[編集] 主催 東亜日報 後援 起亜自動車 優勝賞金 4000万ウォン → 4500万ウォン 2000年には芮廼偉九段が優勝し、プロ棋士による一般棋戦で初めての女性棋士の優勝となった。 また韓国ではプロ女流国手戦もある。 方式[編集] 敗者復活方式によるトーナメント戦を勝ち抜いた挑戦者が、前年の国手に挑戦する。挑戦手合は1961年から五番勝負(1998-2000年は三番勝負)。 コミは6目半 持時間は、(-49期) 予選は各3時間、本戦は各4時間 (50期-)各3時間、1分の秒読み5回 歴代優勝者と挑戦手合[編集] 網掛けは前のタイトル保持者。 期 年 優勝 結果 相手 1 1957 趙南哲 辛鎬烈 2 1958 趙南哲 4-0 閔泳鉉 3 1959 趙南哲 4-0 金明煥 4 1960 趙南哲 2-1 金明煥 5 1961 趙南哲 2-1 金鳳善 6 1962 趙南哲 3-1 金寅 7 1963 趙南哲 3-1 李昌世 8 1964 趙南哲 3-2 李昌世 9 1965 趙南哲 3-1 尹奇鉉 10 1966 金寅 3-1 趙南哲 11 1967 金寅 3-0 尹奇鉉 12 1968 金寅 3-0 尹奇鉉 13 1969 金寅 3-1 趙南哲 14 1970 金寅 3-0 金在九 15 1971 金寅 3-2 趙南哲 16 1972 尹奇鉉 3-2 金寅 17 1973 尹奇鉉 3-1 盧永夏 18 1974 河燦錫 3-1 尹奇鉉 19 1975 河燦錫 3-1 姜哲民 20 1976 曺薫鉉 3-1 河燦錫 21 1977 曺薫鉉 3-0 洪鍾賢 22 1978 曺薫鉉 3-0 金秀壮 23 1979 曺薫鉉 3-0 河燦錫 24 1980 曺薫鉉 3-0 徐奉洙 25 1981 曺薫鉉 3-1 徐奉洙 26 1982 曺薫鉉 3-1 徐奉洙 27 1983 曺薫鉉 3-2 徐奉洙 28 1984 曺薫鉉 3-1 徐奉洙 29 1985 曺薫鉉 3-0 徐奉洙 30 1986 徐奉洙 3-0 曺薫鉉 31 1987 徐奉洙 3-1 曺薫鉉 32 1988 曺薫鉉 3-0 徐奉洙 33 1989 曺薫鉉 3-2 李昌鎬 期 年 優勝 結果 相手 34 1990 李昌鎬 3-1 曺薫鉉 35 1991 曺薫鉉 3-0 李昌鎬 36 1992 曺薫鉉 3-2 李昌鎬 37 1993 李昌鎬 3-1 曺薫鉉 38 1994 李昌鎬 3-2 曺薫鉉 39 1995 李昌鎬 3-1 曺薫鉉 40 1996 李昌鎬 3-2 曺薫鉉 41 1997 李昌鎬 3-1 徐奉洙 42 1998 曺薫鉉 2-0 李昌鎬 43 1999 芮廼偉 2-1 曺薫鉉 44 2000 曺薫鉉 3-0 芮廼偉 45 2001 李昌鎬 3-1 曺薫鉉 46 2002 李昌鎬 3-0 趙漢乗 47 2003 崔哲瀚 3-2 李昌鎬 48 2004 崔哲瀚 3-0 李昌鎬 49 2005 李昌鎬 3-2 崔哲瀚 50 2006 尹畯相 3-1 李昌鎬 51 2007 李世乭 3-0 尹畯相 52 2008 李世乭 3-1 睦鎮碩 53 2009 李昌鎬 3-1 洪基杓 54 2010 崔哲瀚 3-1 李昌鎬 55 2011 趙漢乗 3-2 崔哲瀚 56 2012 趙漢乗 3-0 崔哲瀚 57 2013[2] 趙漢乗 3-1 李世乭 58 2015[3] 朴廷桓 3-1 趙漢乗 59 2015[4] 朴廷桓 3-0 趙漢乗 出典[編集] ^ 『勝負する心 李昌鎬自伝』p69 ^ 2013年11月‐2014年1月 ^ 2015年1月 ^ 2015年12月‐ 外部リンク[編集] --------- 呉清源〜極みの棋譜〜 呉清源〜極みの棋譜〜 タイトル表記 繁体字 吳清源 簡体字 吴清源 ピン音 wú qīngyuán (ウー チンユェン) 英題 The Go Master 各種情報 監督 田壮壮(ティエン・チュアンチュアン) 脚本 阿城(アー・チョン) 出演者 チャン・チェン 柄本明 シルビア・チャン 伊藤歩 野村宏伸 南果歩 松坂慶子 音楽 趙立(チャオ・リー) 撮影 王昱(ワン・ユー) 編集 楊紅雨(ヤン・ホンユィ) 衣装 ワダエミ・福田明 美術 ワダエミ・愛甲悦子 製作会社 世紀英雄電影投資有限公司 配給 日本の旗 エスピーオー 公開 アメリカ合衆国の旗 2006年9月27日 日本の旗 2007年11月17日 上映時間 107分 製作国 中華人民共和国の旗 中国・日本の旗 日本 言語 日本語・中国語(普通話) テンプレートを表示 『呉清源〜極みの棋譜〜』(ごせいげん きわみのきふ、原題:呉清源)は、中国出身の囲碁の棋士、呉清源の生涯を描いた伝記映画。2006年公開。 原作は呉清源の自著『中の精神』(東京新聞出版局刊)。 出演[編集] 呉清源: 張震(チャン・チェン) 瀬越憲作: 柄本明 舒文(呉の母): 張艾嘉(シルビア・チャン) 中原和子: 伊藤歩 呉炎(呉の兄): 辛柏青(シン・バイチン) 呉の妹 : 黄奕(ホアン・イー) 李玉堂 : 李雪健(リー・シュエチェン) 木谷實: 仁科貴 橋本宇太郎: 大森南朋 本因坊秀哉: 井上堯之 金木: 宇津宮雅代 西園寺公毅: 米倉斉加年 川端康成: 野村宏伸 長岡良子: 南果歩 喜多文子: 松坂慶子 受賞等[編集] 2007年上海国際映画祭 最優秀監督賞、最優秀撮影賞 外部リンク[編集] 呉清源〜極みの棋譜〜オフィシャルサイト 新浪網-呉清源特集頁 (中国語) 呉清源〜極みの棋譜〜 - allcinema 呉清源〜極みの棋譜〜 - KINENOTE The Go Master - AllMovie(英語) Wu Qingyuan - インターネット・ムービー・データベース(英語) --------- 碁所 碁所(ごどころ)は江戸幕府の役職の一つ[1]。職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄など。寺社奉行の管轄下で定員は1名(空位のときもある)、50石20人扶持、お目見え以上。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていなければならない。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、将棋所よりも上位に位置づけられていた。 寛文2年(1662年)に囲碁、将棋が寺社奉行の管轄下に置かれるなど、幕府の政治機構の整備に伴い碁方の正式な長が必要となった。そのため寛文8年(1668年)10月18日、幕府により安井算知を碁所に任命したのがはじまりである。 各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開させた。水戸藩主徳川斉昭[2]、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られている。 また各藩においても、碁技により禄を受けた者を碁所と呼ぶこともあった。 目次 [非表示] 1 起源 2 碁所就任者 3 関連項目 4 参考文献 5 脚注 6 外部リンク 起源[編集] 碁所の起源は、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が時の第一人者であり名人の呼称を許されていた本因坊算砂に20石20人扶持を支給したことなどの、碁打衆の専業化が始まるところにある。続いて幕府を開いた徳川家康が慶長17年(1612年)に囲碁・将棋の強者である碁打衆将棋衆8名に俸禄を与えることとした。その筆頭は囲碁・将棋の両方において本因坊算砂で、五十石五人扶持であった。(明治37年(1904年)刊の安藤如意「坐隠談叢」では、この時を碁所の設置としている。ただし、この書は正確な歴史書とは言えない。また増川宏一『碁』(法政大学出版局)では、碁所の発祥の天正説・慶長説とも否定されている他、慶長17年段階では個人の芸に対する評価としての扶持であり、世襲の概念もいまだ発生していないという。) これ以降は、算砂と、その後を継いで元和9年(1623年)に名人となった中村道碩が、事実上の碁打衆の頭領格となっていたと思われる。(将棋については1612年に算砂から大橋宗桂に地位を譲ったとされる。) 寛永7年(1630年)の道碩の死後、その地位を巡って本因坊算悦と安井算知が争碁を行うが決着が付かなかった(碁所詮議)。本因坊算悦は万治元年(1658年)に死去し、安井算知は名人の手合に進むこととなり、同時に碁所となった。この頃から、碁所という名称が公に文書で使われるようになり、後の本因坊道策への御證書にも碁所の名称が使われている。 またこの時期から本因坊家、安井家、中村道碩を継いだ井上家の三家に家禄が支給されるようになり、後に林家も加わって家元四家となった。 碁所就任者[編集] 安井算知(就任期間:寛文8年(1668年)-延宝4年(1676年)) 本因坊道策(延宝5年(1677年)-元禄15年(1702年)) 井上道節因碩(宝永7年(1710年)-享保4年(1719年)) - 「名人」には1708年から 本因坊道知(享保6年(1721年)-享保12年(1727年)) 本因坊察元(明和7年(1770年)-天明8年(1788年)) 本因坊丈和(天保2年(1831年)-天保10年(1839年)) 関連項目[編集] 囲碁の歴史 名人 (囲碁) 参考文献[編集] 増川宏一「ものと人間の文化史59 碁」法政大学出版局 ISBN 4588205919 中山典之「囲碁の世界」岩波書店 ISBN 4004203430 脚注[編集] ^ そのように長年考えられていたが、近年の研究で「将棋所」とともに、囲碁・将棋衆の自称であったという説も提示されている(詳細は「将棋所」を参照)。 ^ なお、『坐隠談叢』に書かれている水戸藩隠居「翠翁公」について、従来、斉昭とされてきたが。斉昭はこの時点で藩主になったばかりであり、また号も「翠翁」ではない。この点について、囲碁史研究家の大庭信行による、「水戸藩主の一門で、水戸藩家老格の松平保福(斉昭の大叔父)の隠居名が「翠翁」であるため、保福が『翠翁公』ではないか」という説がある。林元美とその周辺(二)~『坐隠談叢』中の「翠翁公」について 外部リンク[編集] 日本棋院「囲碁の歴史」 執筆の途中です この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 --------- 碁泥 碁泥(ごどろ)は、落語の演目の1つ。上方では「碁打盗人」と呼ぶ。現在は主に東京で演じられる。 3代目柳家小さんが、大阪の4代目桂文吾に教わり、東京に移した。 あらすじ[編集] 主人が、友人を呼んで碁を一局することになる。以前、碁に夢中になって畳を焦がしてしまったから、「碁は碁、煙草は煙草」と分けて、一局打った後にゆっくり煙草を吸おうと決め、二人は碁盤に向かう。だが、「おい!煙草がないぞ!」と約束も忘れてしまう。家人も気を利かして、煙草盆に紅生姜を入れて女中と外出する。 そうとは知らぬ二人、碁に夢中である。煙草に火を点けようとしても紅生姜だから点かない。「あれ!?おかしいなあ。点かねえ」と言いながらも、碁盤ばかり見つめている。 そこへ一人の泥棒が入っていくる。ありたけ盗んでさあ引上げようとしたら、パチリ!という碁石を打つ音が、静かな夜更けだから余計に響く。また、因果とこの泥棒も碁好きときているから。… 「あっ!やっているな。…手はどうかな。…あっ? それはいけない。もしもし、だめですよォ!」と、自身が泥棒に入ったのを忘れて、対局に首を突っ込む始末。二人も、まさか泥棒とは気付かない。 「何言ってる。これでなくちゃあ…うるさいねえ。あれ?知らない人だ」と初めて気づくが、また碁盤に目を落とし「お前は誰だいっと、いくか」とパチリ。相手も「じゃあ。わたくしもお前は誰だいっと!」パチリ。 「へへ。泥棒です」 「泥棒さんか」パチリ。「よくいらしゃったねえ」とパチリ。 概略[編集] 「笠碁」とならぶ碁をテーマにした落語の代表的演目である。5代目柳家小さん、6代目春風亭柳橋が得意とした。柳橋は、「よくいらっしゃたねえ。」のあと、「お景気はいかがです。」「おかげでこんなに御宅からいただきました。」「それはよいことをしましたな。・・・これからちょいちょいいらっしゃい。」 というサゲを用いていた。 --------- 小林流 (囲碁) 小林流(こばやしりゅう)は囲碁における布石手法の一つ。黒番で星・小目、相手の星へのカカリからヒラキまでの一連の配置を指す。小林光一が全盛時代に多用し、好成績を挙げたことからこの名がある。世界中で流行し、黒番の必勝布石とも呼ばれた。 目次 [非表示] 1 特徴 2 小林流対策 3 新小林流 4 参考図書 5 関連項目 特徴[編集] 中国流同様小目からのシマリを省略した足早な布石であり、発展性・攻撃性を併せ持つ部分でも類似する。 aやbのカカリは挟んで厳しく攻撃し、下辺を地模様としつつ右上をふくらませる。それを避けて白が他に打てば、bにシマって理想形を築く。 白が一間高ガカリした場合の例。黒は二間に高くハサみ(村正の妖刀)、互いにトビ合ったら黒6へのノゾキ一本で白7のツギと換わって下辺を地化し、黒8あたりへヒラく。黒は両辺を打ち、白は根拠のない浮き石を残して打ちにくい局面と判定される。よって白は一間高ガカリでなく、急戦を避ける意味でaの大ゲイマガカリを採用することが多い。同じ理由でbの二間高ガカリが採用されることもある。 大ゲイマガカリした場合。黒2と肩を突いていくことが多い。白3のスベリの後、aからハサむ、bから下辺を拡大するなどの手法が研究された。 小林流対策[編集] 黒の小林流を阻むには、例えば白6手目で1へハサミ返す、あるいはaへとカカリ返すような手もある。別の布石へと進むことになる。 新小林流[編集] 後に小林は5手目を小ゲイマにシマる手堅い布石を多用した。こちらは「新小林流」と呼ばれる。 参考図書[編集] 小林光一『進化する布石構想―「小林流」で序盤から優勢を築く (小林光一の囲碁上達塾)』フローラル出版 2003年 関連項目[編集] 三連星 中国流 ミニ中国流 --------- 五目並べ 曖昧さ回避 この項目では、一般的なボードゲームについて説明しています。ファミコンゲームについては「五目ならべ 連珠」をご覧ください。 五目ならべの石と盤面 五目並べ(ごもくならべ)とは、2人で行うボードゲームの一種。囲碁の道具を用いて行う簡単なゲームで、盤上に交互に石を置いていき、先に石を直線状に5個並べることを競う。 概要[編集] 囲碁同様、2人のプレイヤーが碁盤の上に黒、白の石1つずつ交互に置く。置く場所は原則として自由である。いったん置いた石は除かれない。先に自らの色の石を5個直線(縦、横、若しくは45度の斜め)に並べた方が勝ちである。 正式ルールや大会、広く一般に認められた団体などは存在しない。日本以外にも知られており、ゲームが行われることがある(なお、五目並べのルールに制限を付けて先手・後手の均衡をとったものに連珠があり、これには団体があり段級制度や名人戦、世界大会などが存在する)。 禁手のない五目並べは先手の勝ちになる。明治時代の1899年に黒岩涙香が必勝法を発見している。二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される。 歴史については、連珠項目内に記載があるので参照のこと。 用語[編集] 三 どちらかが3個直線で並べ、両端ともが止まって(その先に相手の石が置いてあるか、版の端に当たっていること)おらず、放置すると棒四になる手のこと。間がひとつあいた三を飛び三といい、三と同じ効果がある。 四 どちらかが4個直線で並べること。一端が止まっていてもよい。放置すると五になる。間がひとつあいた四を飛び四といい、四と同じ効果がある。 長連 どちらかが6個~9個直線で並ぶこと。長連でも勝ちとする場合と、長連では勝ちにならない場合がある。 棒四 達四ともいう。どちらかが4個直線で並んでおり、両端が空いている状態。相手は片方を止めてももう片方で五となるため作った側の勝ち確定である。 三三 どちらかが三を違う角度で同時に2つ作ること。相手は同時に2つの三を止められないため、作った側の勝ちであるが、禁じ手とされることがある。 四三 どちらかが三と四を違う角度で同時に作ること。相手は三と四を同時に止めることができないので、四三を作った方が勝ちとなる。ただし、四の方を止めたことによって自分が四になった場合は、止めることができる場合がある。 四四 どちらかが四を2つ同時に作ること。相手は2つの四を同時に止めることができないので、四四を作った方が勝ちとなる。一直線上にできることもある。 類似のゲーム[編集] 三目並べ 連珠 五目並べに黒に禁手を課し、開局規定などでルールを均等にしたゲーム。 囲連星 囲碁と五目並べを組み合わせたゲーム コネクト6 1手目以外両者2個ずつ石を置き、石を6個先に並べたほうが勝ち 四目並べ 重力付き四目並べで、交互にコマを下から積み重ねるゲーム。 セルゴ(宇宙遊泳) セルゴは長谷川五郎が考案した、10×9路盤を使った移動五目並べ。宇宙遊泳はソクラテス盤(2つのゾーンのある10×9盤)を使ったセルゴの変則タイプのゲーム。 カテゴリ: 五目並べ抽象戦略ゲーム日本のゲーム --------- 寛和 寛和(かんな)は、日本の元号の一つ。永観の後、永延の前。985年から987年までの期間を指す。この時代の天皇は花山天皇、一条天皇。 改元[編集] 永観3年4月27日(ユリウス暦985年5月19日) 改元 寛和3年4月5日(ユリウス暦987年5月5日) 永延に改元 出典[編集] 寛和期におきた出来事[編集] 寛和元年(985年) 4月、源信『往生要集』を著す。 寛和2年(986年) 6月、花山天皇が退位し、一条天皇が即位(寛和の変)。 7月、大宰府に宋商来着。 西暦との対照表[編集] ※は小の月を示す。 寛和元年(乙酉) 一月 二月※ 三月 四月 五月※ 六月 七月※ 八月※ 閏八月 九月※ 十月 十一月※ 十二月 ユリウス暦 985/1/24 2/23 3/24 4/23 5/23 6/21 7/21 8/19 9/17 10/17 11/15 12/15 986/1/13 寛和二年(丙戌) 一月※ 二月 三月 四月※ 五月 六月※ 七月 八月※ 九月 十月※ 十一月 十二月※ ユリウス暦 986/2/12 3/13 4/12 5/12 6/10 7/10 8/8 9/7 10/6 11/5 12/4 987/1/3 寛和三年(丁亥) 一月 二月※ 三月 四月※ 五月 六月 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月※ 十二月 ユリウス暦 987/2/1 3/3 4/1 5/1 5/30 6/29 7/29 8/27 9/26 10/25 11/24 12/23 関連項目[編集] [隠す] 表 話 編 歴 日本の元号 飛鳥時代 大化645-650 白雉650-654 白鳳? 朱雀? 朱鳥686 大宝701-704 慶雲704-708 和銅708-715 奈良時代 霊亀715-717 養老717-724 神亀724-729 天平729-749 天平感宝749 天平勝宝749-757 天平宝字757-765 天平神護765-767 神護景雲767-770 宝亀770-781 天応781-782 延暦782-806 平安時代 大同806-810 弘仁810-824 天長824-834 承和834-848 嘉祥848-851 仁寿851-854 斉衡854-857 天安857-859 貞観859-877 元慶877-885 仁和885-889 寛平889-898 昌泰898-901 延喜901-923 延長923-931 承平931-938 天慶938-947 天暦947-957 天徳957-961 応和961-964 康保964-968 安和968-970 天禄970-974 天延974-976 貞元976-978 天元978-983 永観983-985 寛和985-987 永延987-989 永祚989-990 正暦990-995 長徳995-999 長保999-1004 寛弘1004-1013 長和1013-1017 寛仁1017-1021 治安1021-1024 万寿1024-1028 長元1028-1037 長暦1037-1040 長久1040-1044 寛徳1044-1046 永承1046-1053 天喜1053-1058 康平1058-1065 治暦1065-1069 延久1069-1074 承保1074-1077 承暦1077-1081 永保1081-1084 応徳1084-1087 寛治1087-1095 嘉保1095-1097 永長1097-1097 承徳1097-1099 康和1099-1104 長治1104-1106 嘉承1106-1108 天仁1108-1110 天永1110-1113 永久1113-1118 元永1118-1120 保安1120-1124 天治1124-1126 大治1126-1131 天承1131-1132 長承1132-1135 保延1135-1141 永治1141-1142 康治1142-1144 天養1144-1145 久安1145-1151 仁平1151-1154 久寿1154-1156 保元1156-1159 平治1159-1160 永暦1160-1161 応保1161-1163 長寛1163-1165 永万1165-1166 仁安1166-1169 嘉応1169-1171 承安1171-1175 安元1175-1177 治承1177-1181 養和1181-1182 寿永1182-1184 元暦1184-1185 鎌倉時代 文治1185-1190 建久1190-1199 正治1199-1201 建仁1201-1204 元久1204-1206 建永1206-1207 承元1207-1211 建暦1211-1214 建保1214-1219 承久1219-1222 貞応1222-1224 元仁1224-1225 嘉禄1225-1228 安貞1228-1229 寛喜1229-1232 貞永1232-1233 天福1233-1234 文暦1234-1235 嘉禎1235-1238 暦仁1238-1239 延応1239-1240 仁治1240-1243 寛元1243-1247 宝治1247-1249 建長1249-1256 康元1256-1257 正嘉1257-1259 正元1259-1260 文応1260-1261 弘長1261-1264 文永1264-1275 建治1275-1278 弘安1278-1288 正応1288-1293 永仁1293-1299 正安1299-1302 乾元1302-1303 嘉元1303-1307 徳治1307-1308 延慶1308-1311 応長1311-1312 正和1312-1317 文保1317-1319 元応1319-1321 元亨1321-1324 正中1324-1326 嘉暦1326-1329 元徳1329-1331(大覚寺統)、1329-1332(持明院統) 大覚寺統 元弘1331-1334 持明院統 正慶1332-1333 南北朝時代 室町時代 建武1334-1336(南朝)、1334-1338(北朝) 南朝 延元1336-1340 興国1340-1347 正平1347-1370 建徳1370-1372 文中1372-1375 天授1375-1381 弘和1381-1384 元中1384-1392 北朝 暦応1338-1342 康永1342-1345 貞和1345-1350 観応1350-1352 文和1352-1356 延文1356-1361 康安1361-1362 貞治1362-1368 応安1368-1375 永和1375-1379 康暦1379-1381 永徳1381-1384 至徳1384-1387 嘉慶1387-1389 康応1389-1390 明徳1390-1394 応永1394-1428 正長1428-1429 永享1429-1441 嘉吉1441-1444 文安1444-1449 宝徳1449-1452 享徳1452-1455 康正1455-1457 長禄1457-1461 寛正1461-1466 文正1466-1467 戦国時代 応仁1467-1469 文明1469-1487 長享1487-1489 延徳1489-1492 明応1492-1501 文亀1501-1504 永正1504-1521 大永1521-1528 享禄1528-1532 天文1532-1555 弘治1555-1558 永禄1558-1570 元亀1570-1573 安土桃山時代 天正1573-1593 文禄1593-1596 慶長1596-1615 江戸時代 元和1615-1624 寛永1624-1645 正保1645-1648 慶安1648-1652 承応1652-1655 明暦1655-1658 万治1658-1661 寛文1661-1673 延宝1673-1681 天和1681-1684 貞享1684-1688 元禄1688-1704 宝永1704-1711 正徳1711-1716 享保1716-1736 元文1736-1741 寛保1741-1744 延享1744-1748 寛延1748-1751 宝暦1751-1764 明和1764-1772 安永1772-1781 天明1781-1789 寛政1789-1801 享和1801-1804 文化1804-1818 文政1818-1831 天保1831-1845 弘化1845-1848 嘉永1848-1855 安政1855-1860 万延1860-1861 文久1861-1864 元治1864-1865 慶応1865-1868 明治時代以降 明治1868-1912 大正1912-1926 昭和1926-1989 平成1989-現在 ※注1:元号の後の年代は、元号の初年と終年に対応する西暦。「天正」の初年まではユリウス暦、同じく終年以後はグレゴリオ暦による。 ※注2:「白鳳」と「朱雀」は正史『日本書紀』には見えない私年号だが、地方の文献等に散見する。 カテゴリ: 日本の元号平安時代 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 English Français Interlingua Bahasa Indonesia 한국어 Русский 中文 他 3 リンクを編集 最終更新 2017年5月28日 (日) 14:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki --------- --------- --------- --------- --------- --------- --------- ---------