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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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表 話 編 歴
名人(めいじん)は、囲碁の棋戦の一つである名人戦に優勝した棋士に贈られるタイトルである。
目次 [非表示]
1 歴史
2 名人戦
2.1 仕組み
2.2 新旧名人戦の歴史
2.2.1 創設の経緯
2.2.2 第1期名人戦リーグ
2.2.3 覇者交替のドラマ
2.2.4 移管
2.2.5 新名人戦
3 終身名人制(江戸時代~明治以降)
4 名誉名人
5 歴代名人戦優勝者
5.1 旧名人戦
5.2 名人戦
6 獲得数ランキング
7 リーグ戦
7.1 旧名人戦リーグ
7.2 新名人戦リーグ
8 八強争覇戦
9 新・名人リーグ経験者
10 名人戦の記録、エピソード
11 関連項目
12 出典
13 参考文献
歴史[編集]
織田信長が一世本因坊本因坊算砂(日海)の囲碁の腕を讃えて「そちはまことの名人なり」と称揚されたことに由来しているとされる[1]。ただし、証明する資料は一切なく、また、算砂の師匠の仙也も存命であり弱冠20歳の算砂が「名人」と呼ばれたとは信じがたいとの主張がある[2][3]。
これがあらゆる分野で使われる「名人」という言葉の起こりとされる[要出典]。ただし、鎌倉時代の『二中歴』(ca.1210–1221) にはすでに、囲碁と雙六の名人についての記述がある[4]。また、『正徹物語』(ca.1450) にも「名人」の用例がある[5]。
のちに専業将棋棋士も、囲碁にならい名人という称号を使い始めた。
江戸時代、幕府の家元制度の元で囲碁界を統括する立場として確立した。名人の地位に就いたもののうち、寺社奉行から許しを得て碁界の取りまとめ役となったものが「名人碁所」である。名人碁所は棋士全ての段位認定権を持ち、囲碁界の最高権力者であった。この地位をめぐり数々の死闘、暗闘が繰り広げられた。
江戸時代から昭和初期に至るまでは九段が即名人を意味しており、天下にただ1人だけと定められていた。
日本棋院が設立されて大手合による段位の認定が行われるようになり、本因坊秀哉名人引退後は、九段と名人の地位は別のものと定められた。
名人戦[編集]
1962年に創設されて1975年まで読売新聞社主催で開催、1976年から朝日新聞社主催で開催。読売新聞時代の名人戦は「旧名人戦」と呼んで区別されている(移管の経緯については後述)。現行名人戦はこの時から新たに「第1期」からカウントしているが、旧名人戦最後のタイトル者大竹英雄は移行時にもその地位は持ち越され、現行名人戦の第1期に挑戦者を迎えることとなった。名人戦の朝日移管後は、読売は棋聖戦を主催する。
女流棋戦にも女流名人戦があり、また、韓国、中国、台湾にも同名の棋戦がある。
仕組み[編集]
9人が参加するリーグ戦を行い、一位になった者がタイトル保持者と挑戦手合七番勝負を行い、優勝者を決める。優勝賞金は3700万円。七番勝負は例年9月から11月にかけて、持ち時間8時間・2日制で、全国の高級ホテル・旅館を舞台として開催される。
リーグは予選トーナメント勝ち抜き者3名、前期からの残留者5名、七番勝負敗者1名から成る。名人リーグは棋聖・本因坊リーグと並んで「黄金の椅子」とも呼ばれ、この3大リーグに参加することが一流棋士の証とされている。六段以下の棋士が名人リーグ入りを果たした場合、七段に昇段する。またリーグに優勝して挑戦権獲得が決まったら八段に、さらに名人位を奪取した場合九段へ昇段する。
名人戦を五連覇、または通算十期以上獲得した棋士は、60歳以降に名誉名人を名乗る権利を得る。現在、名誉名人の称号を持つのは趙治勲・小林光一の2人で、小林は60歳を迎えた2012年より、趙は2016年よりそれぞれこの称号を名乗っている。
新旧名人戦の歴史[編集]
創設の経緯[編集]
本因坊秀哉名人引退後、本因坊の名跡は本因坊戦に継承されていたが、名人の地位については決まりがついていないままであり、大手合による九段昇段者が出たことでもその意味を明確化する必要性があった。将棋界では名人戦が創設されて人気を博しており、当然囲碁においても同様の形式が期待されてもいた。これは坂口安吾「碁にも名人戦つくれ」(1949年毎日新聞大阪版)にも現われている。日本棋院では1949年の「日本棋院囲碁規約」に「名人規定」を盛り込んだが、具体的な棋戦などは定めず、実際に当時の第一人者と目される読売新聞嘱託の呉清源を加えた棋戦の実現は難しい状況でもあった。
1951年に朝日新聞が、呉清源、藤沢庫之助、橋本宇太郎、木谷實による四強争覇戦を企画したが、立ち消えとなる。1952年に朝日は大手合を発展させて将棋と同様の順位戦制度による名人戦を企画、呉清源にも出場の承諾を得て、契約金1千万円を提示した。日本棋院では渉外担当理事の高川格がこの推進役だったが、木谷實の「名人は作るものではなく、自然に生まれるまで待つべきもの」といった反対論も根強かった。棋士全員による評議委員会では1票差で賛成多数となったが、僅差であることを懸念した高川が三好英之理事長と相談の上でこれを撤回し、高川ら賛成派理事は辞任した。また朝日側の根回し不足から、関西棋院も不参加を表明。朝日はついに断念し、朝日・毎日・読売の新聞三社と日本棋院で、名人戦の呼称は使用しないことなどを申し合わせた。朝日はこの代わりとして1953年から最高位戦を開始、また読売新聞は1956年に「実力名人を決める」と謳った日本最強決定戦を開始する。
その後日本棋院では、物価上昇に比べて棋戦契約金が増えず、また棋士の増加もあって財政難となりつつあった。1960年に渉外担当理事となった藤沢秀行は、この解決策として名人戦創設を計画する。藤沢はこの年の本因坊戦の挑戦者となるが、対局料が1局6万円という安さだったのもその意識に拍車をかけた。当初朝日新聞に提案したが交渉はうまくいかず、次いで読売新聞と交渉して契約金2500万円で話をまとめ、棋士総会でも70対4の圧倒的多数で承認された。こうして関西棋院、呉清源も参加する名人戦が創設される。しかし朝日新聞はこれを機に大手合、最高位決定戦のスポンサーを降りることとなった。
第1期名人戦リーグ[編集]
名人戦スタート当初には「十番碁の覇者である呉清源を初代名人に推戴して始めるべきだ」との声もあったが、結局呉を含めた当時のトップ棋士13名による大型リーグ戦で第1期名人を決定することとなった。リーグ終盤には呉・坂田栄男・藤沢秀行の三者によるトップ争いとなったが、藤沢は最終局に敗れて9勝3敗でリーグ戦を終了。しかし藤沢が「プレーオフに向けて英気を養うため」酒を飲みに行っている間に、坂田-呉戦は終盤呉の猛追によりジゴでの終局となった(コミは5目であった)。規定でジゴは白勝ちとしていたが、通常の勝ちより劣ると決められていたため、呉と同率でありながら「半星」上回って藤沢が初代名人に輝いた。藤沢は渉外担当として名人戦設立に当たり、自ら名人位を手中にするというドラマチックな幕切れであった。
覇者交替のドラマ[編集]
第2期名人戦では、坂田栄男本因坊が藤沢秀行を破り、名人本因坊の称号を手にする。この時最終第7局での120手目のノゾキは「天来の妙手」と呼ばれ、名人位の行方を決定づけた一着として有名である。坂田は第3期も防衛の後、1965年第4期には23歳の林海峰八段が挑戦者となる。予想は当時全盛の坂田が圧倒的に有利であり、坂田は七番勝負1局目に勝った後、「20代の名人などありえない」との発言も出た。しかし林はその後盛り返して4勝2敗で名人位となり、一大センセーションとなった。林は1968年に本因坊位も奪って名人本因坊となり、坂田一強時代はここに終焉した。
続く1968年の名人戦では53歳の高川格が林から名人を奪い「不死鳥」と呼ばれる。1973年には石田芳夫本因坊が林に挑戦し、3連勝と一気に林を土俵際に追い込んだ。しかし第4局、林は驚異の粘りでジゴ勝ちに持ち込むと、あと3番を制して防衛。3連敗4連勝は七番勝負史上初であった。しかし翌年は石田の再挑戦に敗れ、石田が名人本因坊となる。この間林は連続10期名人戦七番勝負の舞台に登場し、挑戦した時は全て奪取を果たすなど「名人戦男」の名をほしいままにした。旧名人戦最後の第14期には石田の兄弟子・大竹英雄が挑戦者として登場、タイトルを奪取した。
移管[編集]
名人戦の契約金は、高度成長期にあって1970年まで変わらず、74年でも2750万円に留まっていた。日本棋院はこの状況を打破するため、1974年12月3日に読売新聞に対して名人戦契約を第14期で打ち切ると通告、次いで12月12日に朝日新聞と1億円の契約金で第15期以降の仮契約を交わす。
これに対し読売新聞は、朝日以上の契約金で日本棋院に再交渉する。日本棋院では当初は朝日移管に対して棋士180人中反対者2人のみだったが、読売支持も増え始めて混乱し、理事会は総辞職する。しかし選挙による新理事選出では朝日派8人、読売派3人となった。読売は1975年7月26日に名人戦の契約を求める仮処分を申請、8月21日に本訴訟を起こす。また読売及び、朝日を除く各マスコミでは、日本棋院を批判する論調であった。しかし裁判は日本棋院有利に進み、12月10に日本棋院顧問岡田儀一による斡旋案「名人戦は朝日と契約」「読売は序列第一位の新棋戦、最高棋士決定戦・棋聖戦を新たに契約」(岡田私案)により、読売と日本棋院は和解することとなった。この一連の経緯は「名人戦騒動」と呼ばれている。この騒動は、当時朝日と契約していた将棋の名人戦の契約金問題(囲碁同様長く契約金が据え置かれていた)にも波及している。
新名人戦[編集]
新生成った名人戦で、当初活躍したのは大竹英雄であった。林海峰との戦いは「チクリンの名勝負」と呼ばれ、ファンを湧かせた。大竹は旧名人戦14期から6期連続で七番勝負に出場、「名人戦男」と呼ばれることになった。
その大竹から名人位を奪ったのは弟弟子・趙治勲であった。趙は第6期(1980年)、24歳の若さで名人を奪取し、祖国韓国で囲碁ブームが巻き起こるきっかけを作った。1983年には棋聖・本因坊と合わせ、史上初の大三冠を達成する。1984年の第9期、趙は大竹英雄に3連敗後4連勝して前人未到の名人5連覇を果たし、初めて名誉名人の資格を得る。しかし6連覇がかかった1985年・第10期に小林光一が悲願の名人奪取。ここから趙・小林の角逐時代が本格的に幕を開けた。
1986年の第11期には、加藤正夫が1981年以来二度目の挑戦にして初の名人奪取。翌年も林海峰相手に防衛を果たし、七大タイトルのうち四冠を制する。しかし1988年、小林が再び名人奪取。ここから小林の長期政権が始まる。中でも1992年第17期の、兄弟子大竹英雄を挑戦者に迎えての第7局では、終盤まで劣勢であった小林がヨセでワリコミの妙手を放ち逆転に成功。この一局は名人戦史上に残る名勝負といわれる。これを含め、大竹は趙・小林に計6度挑戦を果たしているが、奪取は果たせなかった。
1995年の第20期、小林の8連覇を阻んだのは、かつて石田・加藤とともに「木谷三羽烏」と呼ばれながら、名人戦に縁のなかった武宮正樹であった。この第5局、武宮は攻め合い負けと見えた石を第一線マガリの妙手で逆転。小林は局後に「恐ろしいものを見た」と何度もうめいたといわれる。この局も名人戦史上に残る一番として名高い。
しかし翌年には天敵・趙治勲が12年ぶりに名人戦の舞台に登場、4-2で武宮を降して名人復帰を果たした。趙は以後4連覇、再度の大三冠も達成し、第一人者の貫禄を見せつけた。
2000年の第25期には、依田紀基が二度目の挑戦で趙を4-0で下し、タイトルを奪取した。これにより名人位は、23年ぶりに木谷一門の手から離れることとなった。依田は趙の2度にわたるリターンマッチ、史上最年長での挑戦となった林海峰などを撃破し、4連覇を果たす。
2004年、挑戦者として張栩が登場。依田を下し、24歳の若さで史上5人目の名人本因坊の地位に就いた。さらに2006年には高尾紳路がリーグ初参加初挑戦(史上初)。このシリーズ第4局はコウ争いに次ぐコウ争いとなり、364手という激闘となった。これを制した高尾はその勢いのまま名人を奪取し、史上6人目の名人本因坊となる。しかし翌年には張栩がすかさずこれを奪回、2008年には史上最年少19歳で名人戦挑戦者となった井山裕太を迎え撃ち、4-3で防衛。翌年には名人含め、現行七大タイトル史上初の五冠を達成した。
しかし2009年、井山裕太はリーグ戦を8戦全勝で勝ち上がり、前年に続き挑戦権を獲得。その勢いのまま4-1で張栩を撃破、史上最年少で名人の座に就いた。なお、20歳4ヶ月での獲得は、7大タイトル戦でのタイトル獲得の最年少記録でもある。井山は翌年も高尾紳路の挑戦を4-0のストレートで退け、若き実力者として君臨した。
2011年、山下敬吾が8年ぶりに七番勝負に登場。井山を4-2で破って初の名人位を獲得するとともに、史上7人目の名人本因坊となった。翌2012年は、井山とのプレーオフを制して羽根直樹が名人初挑戦を果たしたが、フルセットの末に山下が防衛を決めた。
2013年の第38期には井山裕太が挑戦者として再登場、4-1で山下を降し、36期の雪辱を果たした。翌2014年には、七番勝負初登場となった河野臨が挑戦者となるが、井山は4-2のスコアで勝利、2連覇となった。
終身名人制(江戸時代~明治以降)[編集]
代 棋士 読み 生年 就任年
1 本因坊算砂 さんさ 1559
2 中村道碩 どうせき 1582 1623-
3 安井算知 さんち 1617 1668-
4 本因坊道策 どうさく 1645 1677-
5 井上道節因碩 どうせついんせき 1646 1708-
6 本因坊道知 どうち 1690 1721-
7 本因坊察元 さつげん 1733 1766-
8 本因坊丈和 じょうわ 1787 1831-
9 本因坊秀栄 しゅうえい 1852 1906-
10 本因坊秀哉 しゅうさい 1874 1914-
[6]
名誉名人[編集]
名人を5連覇、または通算10期以上獲得した棋士は、引退後または60歳以降に「名誉名人」となる資格を得る。
棋士 通算 連覇 年
1 趙治勲 9期 5連覇 1980年-1984年、1996年-1999年
2 小林光一 8期 7連覇 1985年、1988年-1994年
歴代名人戦優勝者[編集]
○●はそのシリーズの勝者から見た勝敗、網掛けは前のタイトル保持者。
旧名人戦[編集]
期 年度 優勝 段位 説明
1 1962年 藤沢秀行 八段 13名のリーグ戦
期 年度 名人 段位 勝敗 対局者 段位
2 1963年 坂田栄男 本因坊 4-3 藤沢秀行 名人
3 1964年 坂田栄男 三冠 4-1 藤沢秀行 九段
4 1965年 林海峰 八段 4-2 坂田栄男 三冠
5 1966年 林海峰 名人 4-1 坂田栄男 二冠
6 1967年 林海峰 名人 4-1 坂田栄男 三冠
7 1968年 高川格 九段 4-1 林海峰 二冠
8 1969年 林海峰 本因坊 4-2 高川格 名人
9 1970年 藤沢秀行 王座 4-2 林海峰 二冠
10 1971年 林海峰 九段 4-2 藤沢秀行 名人
11 1972年 林海峰 名人 4-2 藤澤秀行 九段
12 1973年 林海峰 名人 4-3 石田芳夫 本因坊
13 1974年 石田芳夫 本因坊 4-3 林海峰 二冠
14 1975年 大竹英雄 九段 4-3 石田芳夫 三冠
名人戦[編集]
期 年度 名人 段位 勝敗 対局者 段位
1 1976年 大竹英雄 二冠 ○○○●○ 石田芳夫 九段
2 1977年 林海峰 九段 ○○○○ 大竹英雄 名人
3 1978年 大竹英雄 碁聖 ●○○○●○ 林海峰 名人
4 1979年 大竹英雄 名人 ○○●○○ 坂田栄男 九段
5 1980年 趙治勲 八段 ○○●×○○ 大竹英雄 三冠
6 1981年 趙治勲 二冠 ○○○○ 加藤正夫 二冠
7 1982年 趙治勲 三冠 ○○○●○ 大竹英雄 碁聖
8 1983年 趙治勲 二冠 ○○●○○ 大竹英雄 碁聖
9 1984年 趙治勲 二冠 ●●●○○○○ 大竹英雄 碁聖
10 1985年 小林光一 十段 ○●○○●●○ 趙治勳 二冠
11 1986年 加籐正夫 王座 ○○○○ 小林光一 四冠
12 1987年 加籐正夫 四冠 ○○○○ 林海峰 九段
13 1988年 小林光一 二冠 ●○○○○ 加藤正夫 名人
14 1989年 小林光一 三冠 ●○○○○ 淡路修三 九段
15 1990年 小林光一 三冠 ○●●○○○ 大竹英雄 九段
16 1991年 小林光一 三冠 ○●○○○ 林海峰 天元
17 1992年 小林光一 三冠 ○●○●○●○ 大竹英雄 九段
18 1993年 小林光一 名人 ○○●○○ 大竹英雄 九段
19 1994年 小林光一 名人 ○○○○ 林海峰 天元
20 1995年 武宮正樹 九段 ○○○●○ 小林光一 名人
期 年度 名人 段位 勝敗 対局者 段位
21 1996年 趙治勲 二冠 ○●○○●○ 武宮正樹 名人
22 1997年 趙治勲 大三冠 ●○●○○○ 小林光一 九段
23 1998年 趙治勲 大三冠 ●○○×●○○ 王立誠 九段
24 1999年 趙治勲 二冠 ○○●○○ 依田紀基 九段
25 2000年 依田紀基 九段 ○○○○ 趙治勲 名人
26 2001年 依田紀基 名人 ○○●●○○ 林海峰 九段
27 2002年 依田紀基 名人 ○○●○○ 趙治勳 王座
28 2003年 依田紀基 二冠 ○○●○○ 山下敬吾 棋聖
29 2004年 張栩 二冠 ●○●○○○ 依田紀基 二冠
30 2005年 張栩 二冠 ○○○●●●○ 小林覚 九段
31 2006年 高尾紳路 本因坊 ○○●○●○ 張栩 三冠
32 2007年 張栩 碁聖 ●○○○●●○ 高尾紳路 二冠
33 2008年 張栩 二冠 ●●○○○●○ 井山裕太 八段
34 2009年 井山裕太 八段 ●○○○○ 張栩 五冠
35 2010年 井山裕太 名人 ○○○○ 高尾紳路 九段
36 2011年 山下敬吾 本因坊 ○●○○●○ 井山裕太 二冠
37 2012年 山下敬吾 名人 ○●●○○●○ 羽根直樹 九段
38 2013年 井山裕太 五冠 ●○○○○ 山下敬吾 名人
39 2014年 井山裕太 六冠 ○●●○○○ 河野臨 九段
40 2015年 井山裕太 四冠 ○○○○ 高尾紳路 天元
41 2016年 高尾紳路 九段 ○○○●●●○ 井山裕太 七冠
獲得数ランキング[編集]
順位 棋士 数
1 趙治勲 9
2 林海峰
小林光一 8
4 井山裕太 5
5 大竹英雄
依田紀基
張栩 4
リーグ戦[編集]
旧名人戦リーグ[編集]
◎はタイトル獲得者、△は挑戦者か前タイトル保持者。
旧名人リーグ
期
1 藤沢秀行◎ 木谷實 呉清源 藤沢朋斎 橋本宇太郎 島村俊廣 半田道玄 高川格 坂田栄男 宮下秀洋 杉内雅男 岩田達明 橋本昌二
2 藤沢秀行△ 木谷實 呉清源 藤沢朋斎 林有太郎 鈴木越雄 半田道玄 宮本直毅 坂田栄男◎ 橋本昌二
3 藤沢秀行△ 木谷實 呉清源 藤沢朋斎 中村勇太郎 坂田栄男◎ 宮下秀洋 林海峰 橋本昌二
4 藤沢秀行 木谷實 呉清源 藤沢朋斎 榊原章二 大平修三 高川格 坂田栄男△ 林海峰◎ 橋本昌二
5 藤沢秀行 小林光一 藤沢朋斎 梶原武雄 大平修三 半田道玄 高川格 坂田栄男△ 久井敬史 羽根泰正 林海峰◎ 橋本昌二
6 藤沢秀行 小林光一 山部俊郎 藤沢朋斎 大平修三 高川格 坂田栄男△ 宮下秀洋 杉内雅男 林海峰◎ 橋本昌二
7 藤沢秀行 小林光一 山部俊郎 藤沢朋斎 窪内秀和 島村俊廣 高川格◎ 坂田栄男 久井敬史 羽根泰正 林海峰△ 橋本昌二
8 藤沢秀行 小林光一 前田陳爾 藤沢朋斎 窪内秀和 高川格△ 坂田栄男 大竹英雄 羽根泰正 林海峰◎ 橋本昌二 加田克司
9 藤沢秀行◎ 小林光一 山部俊郎 藤沢朋斎 梶原武雄 本田邦久 高川格 坂田栄男 大竹英雄 林海峰△ 橋本昌二
10 藤沢秀行△ 小林光一 佐藤直男 藤沢朋斎 梶原武雄 島村俊廣 本田邦久 高川格 大竹英雄 杉内雅男 林海峰◎
11 藤沢秀行△ 小林光一 工藤紀夫 藤沢朋斎 梶原武雄 本田邦久 高川格 大竹英雄 林海峰◎ 石田芳夫 加田克司
12 藤沢秀行 小林光一 山部俊郎 藤沢朋斎 星野紀 島村俊廣 大竹英雄 杉内雅男 林海峰◎ 石田芳夫△ 加田克司
13 藤沢秀行 小林光一 山部俊郎 藤沢朋斎 橋本宇太郎 岩本薫 本田邦久 大竹英雄 杉内雅男 林海峰△ 石田芳夫◎
14 藤沢秀行 小林光一 山部俊郎 藤沢朋斎 橋本宇太郎 坂田栄男 大竹英雄◎ 林海峰 石田芳夫△ 加田克司
新名人戦リーグ[編集]
最近の名人リーグ。順位は前年リーグ成績が反映された序列(前回のタイトル保持者or挑戦者が1位)。6位までが前回のリーグ残留者。7位3人は予選トーナメント勝者。名人位は前期の名人獲得者。
◎はタイトル挑戦権獲得者。▼はリーグ陥落。Pはプレーオフ。
名人リーグ
- 名人位 1位 2位 3位 4位 5位 6位 7位
1 大竹英雄 石田芳夫 ◎ 藤沢秀行▼ 坂田栄男 橋本宇太郎 林海峰 山部俊郎▼ 窪内秀知 梶原武雄 工藤紀夫▼
2 大竹英雄 石田芳夫 林海峰 ◎ 坂田栄男 橋本宇太郎 窪内秀知▼ 梶原武雄 加藤正夫 白石裕▼ 趙治勲▼
3 林海峰 大竹英雄 ◎ 石田芳夫 坂田栄男 加藤正夫 P 橋本宇太郎 梶原武雄▼ 工藤紀夫▼ 白石裕▼ 趙治勲
4 大竹英雄 林海峰 加藤正夫 坂田栄男 ◎ 趙治勲 橋本宇太郎 石田芳夫▼ 牛之浜撮雄▼ 武宮正樹 山城宏▼
5 大竹英雄 坂田栄男 加藤正夫 P 武宮正樹 林海峰 趙治勲 ◎ 橋本宇太郎▼ 小林光一 羽根泰正▼ 山城宏▼
6 趙治勲 大竹英雄 P 加藤正夫 ◎ 武宮正樹 林海峰 小林光一 坂田栄男 島村俊廣▼ 山部俊郎 ▼ 佐藤昌晴▼
7 趙治勲 加藤正夫 大竹英雄 ◎ 林海峰 武宮正樹▼ 小林光一 坂田栄男 島村俊廣▼ 本田邦久▼ 羽根泰正
8 趙治勲 大竹英雄 ◎ 林海峰 小林光一 坂田栄男 加藤正夫 羽根泰正 ▼ 東野弘昭▼ 石井邦生 ▼ 石田章
9 趙治勲 大竹英雄 ◎ 林海峰 加藤正夫 小林光一 P 坂田栄男▼ 石田章 橋本昌二 ▼ 高木祥一 小林覚 ▼
10 趙治勲 大竹英雄 小林光一 ◎ 石田章 高木祥一 林海峰 加藤正夫 大平修三 ▼ 山城宏 ▼ 依田紀基▼
11 小林光一 趙治勲 P 大竹英雄 ▼ 加藤正夫 ◎ 石田章 林海峰 高木祥一 ▼ 武宮正樹 山城宏 王銘琬 ▼
12 加籐正夫 小林光一 趙治勲 石田章 武宮正樹 林海峰 ◎ 山城宏 ▼ 藤沢秀行 大竹英雄 ▼ 白石裕 ▼
13 加籐正夫 林海峰 P 小林光一 ◎ 趙治勲 石田章 ▼ 武宮正樹 藤沢秀行 石田芳夫 大平修三 ▼ 淡路修三 ▼
14 小林光一 加藤正夫 林海峰 P 趙治勲 藤沢秀行▼ 武宮正樹 石田芳夫 ▼ 本田邦久 淡路修三 ◎ 上村邦夫 ▼
15 小林光一 淡路修三 林海峰 武宮正樹 趙治勲 本田邦久 ▼ 加藤正夫 ▼ 大竹英雄 ◎ 藤沢秀行 ▼ 依田紀基
16 小林光一 大竹英雄 武宮正樹 趙治勲 淡路修三 ▼ 林海峰 ◎ 依田紀基 藤沢秀行 石井邦生 ▼ 三村智保 ▼
17 小林光一 林海峰 武宮正樹 趙治勲 依田紀基 藤沢秀行 ▼ 大竹英雄 ◎ 岩田達明 ▼ 淡路修三 小松英樹 ▼
18 小林光一 大竹英雄 ◎ 趙治勲 依田紀基 淡路修三 ▼ 武宮正樹 林海峰 加藤正夫 宮沢吾朗 ▼ 片岡聡 ▼
19 小林光一 大竹英雄▼ 趙治勲 P 武宮正樹 依田紀基 ▼ 林海峰 ◎ 加藤正夫 佐藤昌晴 ▼ 淡路修三 片岡聡
20 小林光一 林海峰 趙治勲 加藤正夫 片岡聡 武宮正樹 ◎ 淡路修三 ▼ 王立誠 王銘琬 ▼ 結城聡 ▼
21 武宮正樹 小林光一 王立誠 趙治勲 ◎ 加藤正夫 片岡聡 林海峰 依田紀基 ▼ 工藤紀夫 ▼ 王銘琬 ▼
22 趙治勲 武宮正樹 王立誠 P 加藤正夫 小林光一 ◎ 片岡聡 林海峰 ▼ 依田紀基 ▼ 柳時熏 楊嘉源 ▼
23 趙治勲 小林光一 王立誠 ◎ 片岡聡 ▼ 柳時熏 武宮正樹 加藤正夫 依田紀基 林海峰 ▼ 東野弘昭 ▼
24 趙治勲 王立誠 加藤正夫 依田紀基 ◎ 小林光一 P 柳時熏 武宮正樹 小林覚 ▼ 三村智保 ▼ 酒井真樹 ▼
25 趙治勲 依田紀基 ◎ 小林光一 ▼ 柳時熏 王立誠 加藤正夫 武宮正樹 ▼ 王銘琬 P 今村善彰▼ 羽根直樹
26 依田紀基 趙治勲 王銘琬 王立誠 羽根直樹 ▼ 柳時熏 加藤正夫 林海峰 ◎ 趙善津 小松英樹 ▼
27 依田紀基 林海峰 趙治勲 ◎ 柳時熏 趙善津 ▼ 王銘琬 加藤正夫 ▼ 王立誠 彦坂直人 ▼ 山下敬吾
28 依田紀基 趙治勲 柳時熏 ▼ 山下敬吾 ◎ 王銘琬 林海峰 王立誠 武宮正樹 ▼ 溝上知親 ▼ 張栩
29 依田紀基 山下敬吾 林海峰 ▼ 張栩 ◎ 王立誠 ▼ 趙治勲 ▼ 王銘琬 小林覚 P 今村俊也 山田規三生
30 張栩 依田紀基 小林覚 ◎ 今村俊也 山下敬吾 P 王銘琬 ▼ 山田規三生 趙善津 ▼ 小県真樹 ▼ 坂井秀至
31 張栩 小林覚 山下敬吾 今村俊也 ▼ 山田規三生 坂井秀至 依田紀基 高尾紳路 ◎ 潘善琪▼ 黄翊祖 ▼
32 高尾紳路 張栩 ◎ 山下敬吾 ▼ 坂井秀至 小林覚 山田規三生 依田紀基 彦坂直人 ▼ 三村智保 ▼ 黄翊祖
33 張栩 高尾紳路 山田規三生 坂井秀至 小林覚 依田紀基 ▼ 黄翊祖 ▼ 趙治勲 陳嘉鋭 ▼ 井山裕太 ◎
34 張栩 井山裕太 ◎ 山田規三生 趙治勲 高尾紳路 坂井秀至 小林覚 ▼ 王銘琬 ▼ 小県真樹 張豊猷 ▼
35 井山裕太 張栩 山田規三生▼ 高尾紳路 ◎ 坂井秀至 小県真樹▼ 趙治勲 王銘琬 ▼ 結城聡 溝上知親
36 井山裕太 高尾紳路 張栩 結城聡 坂井秀至▼ 溝上知親 趙治勲▼ 山下敬吾 ◎ 羽根直樹 P 林漢傑▼
37 山下敬吾 井山裕太 P 羽根直樹 ◎ 高尾紳路 張栩 結城聡▼ 溝上知親 河野臨 金秀俊▼ 内田修平▼
38 山下敬吾 羽根直樹 井山裕太 ◎ 河野臨 P 高尾紳路 張栩 溝上知親▼ 結城聡▼ 坂井秀至▼ 村川大介
39 井山裕太 山下敬吾 P 河野臨 ◎ 張栩 羽根直樹 高尾紳路 村川大介 結城聡▼ 柳時熏▼ 黄翊祖▼
40 井山裕太 河野臨 山下敬吾 P 張栩 高尾紳路 ◎ 羽根直樹▼ 村川大介 蘇耀国▼ 黄翊祖 金沢真▼
41 井山裕太 高尾紳路 ◎ 山下敬吾 河野臨 張栩 黄翊祖 村川大介 羽根直樹▼ 内田修平▼ 平田智也▼
42 高尾紳路 井山裕太 村川大介 山下敬吾 張栩 河野臨 黄翊祖 羽根直樹 坂井秀至 余正麒
八強争覇戦[編集]
名人戦が読売から朝日に移った1976年に、朝日新聞は臨時棋戦として八強争覇戦を開催した。出場棋士は、前期名人・王座の大竹英雄、本因坊石田芳夫、十段林海峰、天元藤沢秀行、NHK杯坂田栄男、早碁選手権橋本昌二、プロ十傑戦趙治勲のタイトル保持者、及び橋本宇太郎の8名で、トーナメント戦形式で行い、決勝は三番勝負。当時19歳で、前年に最年少タイトル獲得をしていた趙治勲が優勝した。
準々決勝 準決勝 決勝
橋本宇太郎 ×
趙治勲 ○
趙治勲 ○
林海峰 ×
大竹英雄 ×
林海峰 ○
趙治勲 2
藤沢秀行 1
石田芳夫 ×
藤沢秀行 ○
藤沢秀行 ○
橋本昌二 ×
坂田栄男 ×
橋本昌二 ○
新・名人リーグ経験者[編集]
大竹英雄、石田芳夫、藤沢秀行、坂田栄男、橋本宇太郎、林海峯、山部俊郎、窪内秀知、梶原武雄、工藤紀夫、加藤正夫、白石裕、趙治勲、牛之浜撮雄、武宮正樹、山城宏、小林光一、羽根泰正、島村俊廣、佐藤昌晴、本田邦久、東野弘昭、石井邦生、石田章、橋本昌二、高木祥一、小林覚、大平修三、依田紀基、王銘エン、淡路修三、上村邦夫、三村智保、岩田達明、小松英樹、宮沢吾朗、片岡聡、結城聡、柳時熏、楊嘉源、酒井真樹、今村善彰、羽根直樹、趙善津、王立誠、彦坂直人、山下敬吾、溝上知親、張栩、今村俊也、山田規三生、小県真樹、坂井秀至、高尾紳路、潘善琪、黄翊祖、陳嘉鋭、井山裕太、張豊猷、林漢傑、河野臨、金秀俊、内田修平、村川大介、蘇耀国、金沢真、平田智也、余正麒
名人戦の記録、エピソード[編集]
最多防衛記録は小林光一の7連覇。
通算最多在位は趙治勲の9期、次いで林海峰、小林光一の8期。
名人リーグ最長在籍は林海峰の35期連続、通算39期(名人在位8期を含む)。
最年少記録は井山裕太の20歳4ヶ月での獲得。
最年長記録は高川格の53歳(挑戦者では坂田栄男・林海峰の59歳)。
1980年の無勝負は、第4局に挑戦者趙治勲が、劫の取り番で無かったにも関わらず、劫を打ち抜いたため。趙は直前に記録係の彦坂直人に、取り番であるか確認をして打ち抜いたため、反則負けではなく立会人裁定により、無勝負となった。またこれにより、記録係は対局者の質問に答えなくてもよいこととなった他、タイトル戦での記録係は2名となった。
1998年の無勝負は、第4局に三劫により無勝負となったもの。タイトル戦初の三劫無勝負である。これにより、規約を改定し4勝で決着から七番勝負で勝ち越しが確定した時点で決着となった[7]
関連項目[編集]
囲碁タイトルの在位者一覧
名人戦 (中国囲碁)
名人戦 (台湾)
段級位制
出典[編集]
^ 林元美の『爛柯堂棋話』及び『坐隠談叢』
^ 増川宏一『碁』(法政大学出版局)
^ 福井正明著『囲碁古名人全集』の巻末評伝(秋山賢司)
^ 増川宏一『将棋II』(法政大学出版局)
^ 新村出編『広辞苑』第五版 (1998)「名人」
^ 江戸及び明治の名人は『囲碁の文化誌』p148
^ 朝日新聞 名人戦〈囲碁〉
参考文献[編集]
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年12月)
高川格『秀格烏鷺うろばなし』日本棋院 1972年
中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店 2003年
藤沢秀行『勝負と芸 わが囲碁の道』岩波書店 1990年
水口藤雄『囲碁の文化誌』日本棋院〈碁スーパーブックス〉 2001年
『囲碁名人戦全記録』1977年–
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第1期名人戦(旧) (囲碁)
第1期名人戦(旧)(だい1きめいじんせん)
囲碁の名人戦は、様々な軋轢の末、1960年末に読売新聞との契約が成立して発足し(名人 (囲碁)#創設の経緯参照)、日本棋院と関西棋院によって行われることになり、1961年1月1日の読売新聞に社告が出されて第1期が開始された。この第1期は13人のリーグ戦により、藤沢秀行が9勝3敗の成績で優勝し、第1期名人位となった。
目次 [非表示]
1 方式
2 結果
3 対局譜
4 参考文献
方式[編集]
参加棋士は、当時の九段位である、呉清源、木谷実、藤沢朋斎、坂田栄男、高川格、島村俊宏、宮下秀洋、杉内雅男、橋本宇太郎、橋本昌二、半田道玄の11名、及び前身となる日本最強決定戦リーグに残留していた岩田正男、最高位戦優勝者の藤沢秀行の計13名による総当たりリーグ戦で争われ、この優勝者が第1期名人となることとなった。(関西棋院の窪内秀知も1960年に九段になっていたが、昇段がもっとも新しいということで、日本棋院との折衝でリーグ入りならなかった。)
コミは5目(ジゴは白勝ち)、持時間は各10時間の二日制で行われた。
結果[編集]
1962年7月までで、藤沢秀行が呉、坂田も破って9勝2敗とトップを走り、日本棋院渉外担当理事として名人戦創設の推進役となった藤沢は、自分で名人戦を作って自分で名人になる気かなどとも言われた。前年の第16期本因坊戦で9連覇中の高川を破って念願の本因坊位に就いていた坂田は半田道玄、木谷実にも敗れて8勝3敗、呉も1961年8月の交通事故の後遺症に苦しみながら8勝3敗とななっていた。8月5-6日の最終戦で呉-坂田戦、藤沢-橋本昌二戦が行われ、この結果で優勝が決定することになる。橋本は前半4勝1敗から宮下に負け、木谷、岩田に勝って6勝2敗と優勝戦線にいたが、その後連敗して6勝5敗と後退していた。
呉-坂田戦は港区芝明舟町の福田屋、藤沢-橋本戦は千代田区紀尾井町の福田屋で行われた。6日の午後9時過ぎに藤沢が投了して9勝3敗となる。呉-坂田戦は中盤まで坂田が優勢だったが、呉が追い上げて、午後11時55分、呉が白番ジゴ勝ちとして、9勝3敗となった。しかしジゴ勝ちは正規の勝ちより下位という事前のルールのため、同率ながらプレーオフ無しで藤沢秀行の優勝、第1期名人が決まった。藤沢は敗戦の時点で同率決戦と思い込んで街に出てしまい、優勝を知らせるために記者が駆け回ったという。
またリーグ戦は6名が陥落し、予選を勝ち抜いた3名が新加入して、9人のリーグ戦で第2期の名人への挑戦者を決定することになった。
リーグ戦績
1位 藤沢秀行 9-3
2位 呉清源 9-3(ジゴ勝1)
3位 坂田栄男 8-4(ジゴ負1)
4位 木谷実 7-5
4位 半田道玄 7-5
4位 橋本昌二 7-5
7位 藤沢朋斎 6-6
8位(リーグ陥落) 宮下秀洋 5-7
8位(リーグ陥落) 杉内雅男 5-7
8位(リーグ陥落) 島村俊宏 5-7
11位(リーグ陥落) 岩田正男 4-8
12位(リーグ陥落) 橋本宇太郎 3-9
12位(リーグ陥落) 高川格 3-9
対局譜[編集]
「劇的なジゴ」第1期名人戦リーグ最終局 1962年8月5-6日 呉清源-坂田栄男(先番)
Go-sakata-19620805-06-153-176.jpg
序盤は互角の戦いだったが、下辺の戦いからコウとなり、黒は右辺を連打して優勢となる。白は上辺の黒の大石を狙って、左辺△(152手目)で二子を動き出し、以下白18までと打ってから白20で目を取りにいく。黒から22の点が利きでなくなっているため黒23までのコウとなり、白a、黒b、白cのコウ材から、白は上辺、黒は左下隅の白を取る振り替りとなった。この時点でも黒が盤面10目は優勢だったが、坂田はヨセで後退して、盤面5目、白のジゴ勝ちとなり、劇的な藤沢名人の誕生となった。この時はジゴを確認するために、念のために記録係の中山典之が別室で並べ直しを2度行った。
参考文献[編集]
坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年
安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年
『橋本昌二 現代囲碁大系31』 講談社 1981年
林裕『囲碁風雲録(下)』講談社 1984年
坂田栄男『怒涛の時代 炎の勝負師 坂田栄男 1』日本棋院 1991年
中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店 2003年
『碁ワールド』2015年11月号(林海峰、秋山賢司「一世を風靡した「昭和の碁聖」を偲ぶ 呉清源特選譜 9」)
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第2期名人戦(旧) (囲碁)
第2期名人戦(旧)(だい2きめいじんせん)
囲碁の名人戦第2期は、1962年(昭和37年)から1963年に行われ、第1期リーグ戦の上位6名と新参加3名の計9によるリーグ戦で、坂田栄男が挑戦者となり、第1期名人藤沢秀行との挑戦手合七番勝負を4勝3敗で制して、名人となった。1961年から本因坊戦3連覇中の坂田栄男は、名人位と本因坊位を併せ持ち、本因坊秀哉以来、選手権制では初の名人本因坊となった。
目次 [非表示]
1 方式
2 結果
3 対局譜
4 参考文献
方式[編集]
挑戦者決定リーグ参加棋士は、前期シードの呉清源、坂田栄男、木谷實、半田道玄、橋本昌二、藤沢朋斎、新参加の林有太郎、鈴木越雄、宮本直毅の9名。
コミは5目(ジゴは白勝ち)、持時間は各10時間の二日制。
結果[編集]
リーグ戦は、7局目までで坂田栄男6勝1敗、呉清源5勝2敗となり、1963年7月の最終局で坂田が呉を敗り、7勝1敗で挑戦者となった。坂田は1961年に最高位、最強戦、日本棋院選手権戦、NHK杯、本因坊、日本棋院第一位決定戦、王座戦の早碁名人戦を除く七冠を達成し、バチアタリ坂田の異名を取っていた。また藤沢と坂田はこれまで最高位決定戦、日本棋院選手権戦の決勝でも戦っており、ライバル対決となった。
またリーグ戦は今期から3名が陥落することとなり、半田、林、鈴木が陥落となった。
挑戦手合い七番勝負は、9月29日からの第1局は坂田1目勝、第2局坂田ジゴ勝と、坂田が2連勝、しかし第3局以降藤沢が3連勝して坂田を追い詰める。この敗戦の後坂田は、自宅で古碁を並べて精神を落ち着かせたという。第6局は白番坂田が得意にしていた三々の布石をやめ、「悪手らしい悪手が見当たりません」と呉清源に評された名局で勝ってタイとした。最終第七局では、先番藤沢が3手目で坂田のお株を奪う三々で始まり、白番坂田の120手目が逆ノゾキの妙手と呼ばれる後世に残る手で、坂田が勝って4勝3敗で名人位に就いた。
七番勝負(1963年)(△は先番)
対局者
1
8月4-5日
2
8月14-15日
3
8月23-24日
4
9月2-3日
5
9月12-13日
6
9月21-22日
7
9月29-30日
藤沢秀行 × △× ○13目 △○12目 ○2目 △× △×
坂田栄男 △○1目 ○ジゴ △× × △× ○中押 ○中押
坂田は同年創設された、日本棋院最優秀棋士に与えられる秀哉賞の第1回も受賞。1964年3月には坂田を祝う「本因坊名人の会」が読売ホールで行われ、1500名の参加者があった。
対局譜[編集]
第2期名人戦挑戦手合い七番勝負第7局 1963年9月29-30日 藤沢秀行名人-坂田栄男(先番)
Sakata-fujisawa-19630929-30-1-18.jpg
坂田が2連勝3連敗から1勝を返した後の第7局は紀尾井町の福田屋で行われ、握り直して先番の藤沢は、3手目に初めて打ったと言う三々で坂田の得意を逆用する。左辺黒11は一路下のカケツギ、13で一路下にヒラクのが普通と言われたが、好点の白14を誘って、右辺黒15に回る作戦だった。
Sakata-fujisawa-19630929-30-119-132.jpg
黒は右辺の白を攻めて、やや厚い形勢と見ていた。中央のマグサ場が焦点となった局面で、白2(120手目)が誰も予想しなかった妙手で、以後中央を白が地模様にして僅かに逆転した。その後藤沢は動揺して悪手を重ね、最後は右下を白に手にされて、178手までで投了。坂田は4勝3敗で第2期名人となった。
第2期名人戦挑戦手合い七番勝負第5局 1963年9月12-13日 藤沢秀行名人-坂田栄男(先番)
Fujisawa-sakata-19630912-13-121-136.jpg
黒番坂田は序盤で右上で三々の肩ツキにズラズラ這って地にしたが、やや利かされだったという。その後下辺の白模様を巧妙に荒らして、細かい局面となった。中央の戦いで黒9(129手目) が敗着で、白10となって白優勢となった。212手完白2目勝、藤沢は辛抱を重ねて3連勝した。
参考文献[編集]
坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年
林裕『囲碁風雲録(下)』講談社 1984年
坂田栄男『碁界を制覇 炎の勝負師 坂田栄男 2』日本棋院 1991年
中山典之『完本 実録囲碁講談』岩波書店 2003年
中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店 2003年
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第1期名人戦 (囲碁)
第1期名人戦(だい1きめいじんせん)
囲碁の名人戦は、1975年(昭和50年)第14期の後、主催が読売新聞から朝日新聞に移管され、新たに第1期名人戦として1976年に開始された。新名人戦は旧名人の仕組みを引き継ぎ、第1期は旧名人戦の最後の名人位大竹英雄に、挑戦者決定リーグ優勝者石田芳夫が挑戦手合七番勝負を挑むこととなった。七番勝負は大竹が4-1で勝ち、第1期名人となった。
またこの第1期名人戦七番勝負から、対局室のテレビカメラによる撮影が開始30分まで認められるようになった。また宝塚市で大なわれた七番勝負第二局当日は、大阪千里の万博記念公園で囲碁フェスティバルが行われ、この参加者から抽選で二十名が対局を15分間観戦した。
目次 [非表示]
1 方式
2 結果
3 対局譜
4 参考文献
方式[編集]
挑戦者決定リーグが同率の場合、前期順位上位者が上位となる。
コミは旧名人戦と同じく5目(ジゴは白勝ち)
持時間はリーグ戦は各6時間、挑戦手合は各9時間の二日制。
結果[編集]
挑戦者決定リーグ参加棋士は、前期挑戦手合敗者の石田芳夫、シードの藤沢秀行、坂田栄男、橋本宇太郎、林海峰、山部俊郎、新参加の窪内秀知、梶原武雄、工藤紀夫の9名。
リーグ戦は、前期挑戦者石田と林海峰が6勝2敗の同率となり、順位により前期に大竹に名人を奪われていた石田のリターンマッチとなった。
前期順位
出場者 / 相手
石田
藤沢
坂田
橋本
林
山部
窪内
梶原
工藤
勝
負
順位
1 石田芳夫 - ○ × ○ ○ × ○ ○ ○ 6 2 挑戦
2 藤沢秀行 × - × ○ × ○ × × ○ 3 5 8(落)
3 坂田栄男 ○ ○ - × × ○ ○ × × 4 4 3
4 橋本宇太郎 × × ○ - × ○ ○ × ○ 4 4 4
5 林海峰 × ○ ○ ○ - ○ × ○ ○ 6 2 2
6 山部俊郎 ○ × × × × - × × × 1 7 9(落)
7 窪内秀知 × ○ × × ○ ○ - ○ × 4 4 5
7 梶原武雄 × ○ ○ ○ × ○ × - × 4 4 5
7 工藤紀夫 × × ○ × × ○ ○ ○ - 4 4 5(落)
挑戦手合七番勝負は、9月16日からの広尾羽沢ガーデンでの第1局は先番で中国流布石を敷いた大竹が中押勝。続いて宝塚市での第2局、石田の郷里に近い犬山市明治村での第3局と大竹が3連勝。大竹の郷里北九州市での第4局で石田が1勝を返したが、伊東市での第5局も大竹が129手まで中押勝し、4勝1敗で大竹の防衛となった。
七番勝負(1976年)(△は先番)
対局者
1
9月16-17日
2
9月29-30日
3
10月6-7日
4
10月20-21日
5
10月27-28日
6
7
大竹英雄 △○中押 ○5目 △○2目 × △○中押 - -
石田芳夫 × △× × △○2目 × - -
このシリーズで石田は時間をほぼ一杯に使い、終盤で秒読みに追われることが多かったが、早打ちの大竹は、2局目で消費時間4時間45分、4局目で5時間59分、最終局も6時間30分と、夕食休憩前に終局することが多かった。
対局譜[編集]
第1期名人戦挑戦手合七番勝負第5局 1976年10月27-28日 大竹英雄名人(先番)-石田芳夫九段
Ishida-Otake-19761027-28-47-66.jpg
挑戦者の石田が3連敗後1勝の後の第5局は、序盤はゆっくりした碁で、白番の石田のペースかと思えた。右上隅で白46手目に△と全体の黒の薄味をうかがったが、黒1(47手目)から、黒3のコスミツケ一本で隅を間に合わせて黒5と打ったのが絶妙の1手と言われ、黒15までさばき形に進んだ。この後、隅の手順で白が間違えて、黒が勝勢となった。129手まで黒中押勝となり、大竹は名人位を防衛、2連覇となった。白△の手では7の点に飛んでおけば、黒の薄味を守るのが難しかったったろうというのが、解説の林海峰の意見だった。
石田1勝 第4局 1976年10月20-21日 大竹英雄名人-石田芳夫九段(先番)
Otake-ishida-19761020-21-29-53.jpg
先番石田の黒1(29手目)の利かそうとする手に大竹は白2と反発した。一日目の封じ手は誰も予想できない右辺黒7のツケで、石田はこの手に1時間20分を使っている。二日目になって黒9と突き出して黒のペースだが、白16が敗着に近い悪手で、黒19が中央を厚くする絶好点となり、さらに右辺黒25まで模様が大きくなって、黒の優勢となった。白16では一路右に打つべきだった。その後黒が右上で失着があり、中央に大きな白地ができたが、黒がリードを守り切って、229手まで黒2目勝。ようやく1勝を挙げた。
参考文献[編集]
朝日新聞東京本社学芸部編『第1期囲碁名人戦』朝日ソノラマ 1977年
林裕『囲碁風雲録(下)』講談社 1984年
中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店 2003年
カテゴリ: 日本の囲碁の棋戦朝日新聞社のイベント1976年の日本
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名人 (小説)
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呉清源棋談・名人
The Master of Go
著者 川端康成
イラスト 題簽:呉清源
発行日 1954年7月10日
発行元 文藝春秋新社
ジャンル 歴史小説、長編小説
国 日本の旗 日本
言語 日本語
形態 上製本、クロス装
ページ数 209(写真1、本文208)
公式サイト [1]
コード NCID BN06452146
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『名人』(めいじん)は、川端康成の長編小説。1938年(昭和13年)の6月26日から12月4日にかけて打ち継がれた21世本因坊秀哉名人の引退碁の観戦記を元に小説の形にまとめたもので、川端文学の名作の一つとされている[1]。秀哉名人没後の翌々年の1942年(昭和17年)から本格的に書き出され、途中の中断を経て十数年がかりで完成と成った[2][1][3]。
家元制最後の本因坊秀哉の人生最後の勝負碁の姿を見た川端自身が、観戦記者からの視点で「不敗の名人」の敗れる姿を「敬尊」の念を持って描いた記録小説で、名人の生死を賭けた孤高の敗着に「古い日本への挽歌」、芸術家の理想像を重ねた作品である[4][5][6][1]。女性を描くことがほとんどの川端作品の中では異色の作品である[6]。
目次 [非表示]
1 発表経過
2 あらすじ
3 登場人物
4 作品背景
4.1 実際の対局
4.2 川端の観戦記
4.3 大竹七段
5 作品評価・研究
6 翻案作品
7 おもな刊行本
7.1 全集収録
7.2 外国語版
8 脚注
8.1 注釈
8.2 出典
9 参考文献
10 関連項目
発表経過[編集]
川端康成は、1938年(昭和13年)に『東京日日新聞』(7月23日号-12月29日号)に「本因坊名人引退碁観戦記」を連載した後、1940年(昭和15年)1月の本因坊名人死去を受け、「本因坊秀哉名人」を雑誌『囲碁春秋』8月号から10月号まで掲載した[2][7]。しかしこれは、川端の病により中断となった[7]。
川端は2年後の 1942年(昭和17年)から新たに作品を書き始め、終戦をまたいで書き継ぐが一旦中絶し(未想熟版)、これに満足しなかった川端は稿を改めて1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)にかけて各雑誌に断続的に分載した(完成版)。その経過は以下のようになる[7][8][2]。
未想熟版(プレオリジナル)
1942年(昭和17年)
「名人」(序の章で中断) - 『八雲』8月号(第1号)
1943年(昭和18年)
「夕日」 - 『日本評論』8月号と12月号 ※第6回(戦後最後の)菊池寛賞を受賞。
1944年(昭和19年)
「夕日」(未完) - 『日本評論』3月号
1947年(昭和22年)
「花」(「名人」と同じ。未完) - 『世界文化』4月号
1948年(昭和23年)
「未亡人」 - 『改造』1月号
この八雲版(未想熟版プレオリジナル)の『名人』は、1949年(昭和24年)12月10日に細川書店より刊行の『哀愁』に収録され、1950年(昭和25年)5月に新潮社より刊行の『川端康成全集第10巻 花のワルツ』(全16巻本)に収録された。なお、「未亡人」は、本因坊名人の未亡人の死を書いた短篇で、刊行時に取り入れてられていない[2]。
完成版
1951年(昭和26年)
「名人」 - 『新潮』8月号
1952年(昭和27年)
「名人生涯」 - 『世界』1月号
「名人供養」 - 『世界』5月号
1954年(昭和29年)
「名人余香」- 『世界』5月号
定本『名人』
完本の『名人』と称されているものには2種類あり、上記の完成版の「名人」「名人生涯」「名人供養」の3篇をまとめた全41章と、この3篇に「名人余香」を加え、4篇をまとめた全47章(先の41章目は完全に取り払っている)がある。
「41章版」は、1952年(昭和27年)9月に刊行の『川端康成全集第14巻 名人』(全16巻本)と、1960年(昭和35年)12月刊行の『川端康成全集第10巻 名人』(全12巻本)に収録された。
「47章版」は、1954年(昭和29年)7月10日に文藝春秋新社より刊行の『呉清源棋談・名人』に収録された。
この「41章版」と「47章版」のどちらを定本にするかは、川端研究者により意見が分かれており[9][6]、未だに決着がついていない[6]。
「41章版」を定本とする派は、「47章版」で出した本が『呉清源棋談・名人』しかないところから、川端自身が「41章版」を重んじ評価していたと主張し[9][6]、「41章版」の終章の方が緊迫感のある「動」で終わり、筆が冴えているとしている[6]。
「41章版」の文庫版は新潮文庫より刊行されている。また、観戦記他、囲碁に関連する諸作品については、1981年(昭和56年)8月刊行の『川端康成全集第25巻』(全37巻本)に収録されている。
翻訳版は、エドワード・サイデンステッカー訳(英題:The Master of Go)、閔丙山訳(韓題:Myeong In)、フランス(仏題:Le maître, ou le tournoi de Go)、セルビア・クロアチア(題:Vellemajstor)など世界各国で行われている[10]。
あらすじ[編集]
1940年(昭和15年)1月18日朝、数え年67歳の第21世秀哉名人は熱海のうろこ屋旅館で亡くなった。私はちょうどその日の前日に行われた「紅葉祭」(尾崎紅葉『金色夜叉』の「今月今夜の月」を記念したもの)に出席するために熱海を訪れており、秀哉名人が亡くなる2日前には名人と将棋をした。名人の訃報を聞き、駆けつけた私は、遺族の依頼により名人の死顔の写真を撮った。私は出来上がったその写真を眺めながら、一昨年1938年(昭和13年)6月26日から12月4日にかけて観戦記者として秀哉名人の引退碁の勝負を見守った時のことを回想する。
30年の上、「黒」を持ったことがなかった「不敗の名人」であった秀哉名人が迎えた引退碁は、「封じ手」という名人が初めて経験する規則であった。すべて規則ずくめ、芸道の雅懐も廃れ、長上への敬恭も失われ、相互の人格も重んじないかのような今日の合理主義に、名人は生涯最後の碁で苦しめられたと言えぬでもなかった。秀哉名人は途中、体調悪化で入院するなどから、大竹七段がこの碁を放棄すると度々言い張ったりといろんな紛糾が起き、中断の危機があったが、勝負は11月25日に再開された。
12月1日の戦争のような「黒」と「白」の勝負は、大竹七段が封じ手を戦術に使ったのか、卑怯で陋劣なものだった。素人の「私」には、白130の一手が「不敗の名人」の敗着であったとはまだ分からなかったが、秀哉名人は私に、大竹七段の黒121手について、「あんな手を打っておいて、二日の休みのあいだに、調べようというのですよ。狡い」と吐き出した[注釈 1]。しかし碁盤にまた向かった秀哉名人は顔色や素振りには出さなかった。
12月4日の朝、坊主のように頭を刈った秀哉名人は終局の碁盤に向かった。全力を挙げて打った「不敗の名人」はついに引退碁に敗れた。翌々年1940年(昭和15年)の正月7日に、私は秀哉名人と碁を打ったが、秀哉名人は石をしっかり指につまめなくて、軽く落とすような石にさえ音がないようだった。そして16日の午後、熱海で再び秀哉名人と将棋の相手をしたが、その翌々日の18日の夜明け前に秀哉名人は死んだ。名人の遺骸がその日東京へ帰るため自動車で運ばれた。いそいで買った花束を、私は名人のいる車のなかの夫人に渡した。
登場人物[編集]
年齢は数え年
私(浦上)
小説家。熱海の旅館で亡くなった秀哉名人の死顔を写真に撮る。その一昨年、名人の引退碁の観戦記者として、観戦記を新聞に64回にわたって連載していた。
本因坊秀哉
65歳。囲碁の棋士。第21世本因坊秀哉名人。「不敗の名人」と呼ばれた。体重八貫、身長五尺しかないが、碁盤の前に座ると大きく見える胴長。顔も長めで大きく、鼻、口、耳などが大きく、顎の骨が出っ張っている。ふくらはぎにまるで肉がない。心臓病を患っている。世田谷区宇奈根で妻と二人住まいで、子供はいない。跡目を考えていた愛弟子の小岸壮二六段は1924年(大正13年)に27歳で若死した。
大竹七段(モデルは木谷實)
30歳。囲碁の棋士。秀哉名人の引退碁の相手。内弟子の少年少女数人を含めた16人家族。体重十六貫。五段当時に23歳で結婚し、三人の子供がいる。長女は6歳、次女は4歳、長男は8ヶ月の桃太郎のような赤ん坊。
呉清源
中国出身の囲碁の棋士。大竹七段の好敵手。長野県の富士見高原診療所で療養している。「私」はそこへ見舞いに行く。
その他の人々
秀哉名人の夫人。大竹夫人。大竹七段の子供や内弟子たち。小野田六段。村島五段(秀哉名人の門弟)。村松梢風。安永四段。記録係の少年棋士・少女棋士。将棋の関根13世名人(71歳)。将棋の木村名人(34歳)。聯珠の高木名人(51歳)。木村伊兵衛。「東京日日新聞」の五井記者と黒崎記者と砂田記者と伊東通信員。岩本六段。藤沢五段。久米正雄(「東京日日新聞」の学芸部長になっていた)。前田陳爾六段(秀哉名人の門弟)。日本棋院の八幡幹事。将棋の土居八段。東京の聖路加病院の川島博士と稲田博士。宮ノ下の岡島医師。軽井沢に帰る「私」が車中で会った囲碁好きのアメリカ人。文藝春秋社の斎藤竜太郎。理髪師。小杉四段。手のひら療法の術者・東郷。高橋四段(秀哉名人の義弟。夫人の弟)。「私」の妻。「紅葉祭」の写真師。
作品背景[編集]
実際の対局[編集]
秀哉名人の引退に当たり、『東京日日新聞』はその引退碁を企画し、リーグ戦で勝ち抜いた木谷實七段が対戦相手に選ばれた。時に、秀哉65歳、木谷29歳だった。
木谷の先番で1938年(昭和13年)6月26日に芝公園の「紅葉館」で打ち始められ、途中8月中ごろから11月中ごろまで、秀哉名人の体調不良による長期入院をはさみ、足かけ半年をかけて12月4日に伊東市の「暖香園」で打ち終えた。
終わった時間は午後2時42分で、勝負は木谷の5目勝ちであった。この碁が命取りとなり、秀哉名人はこれを最後の対局として、翌々年1940年(昭和15年)1月18日に満66歳で生涯を閉じた。
川端の観戦記[編集]
『東京日日新聞』、『大阪毎日新聞』両紙に連載された秀哉名人の引退碁観戦記は、小説家の目で詳細に描かれた観戦記という画期的なものだったが[3]、川端康成自身が、〈私の精励な凝り性の一面〉が出ていると語っているように[4]、川端も若い時から碁に親しみ、文壇の囲碁仲間内でも「打ち手」として知られていた[3]。
作中に明らかなやうに、私は対局の棋士の風貌、表情、動作、言葉は勿論、対局の時間の天候、部屋の模様や床の生花に至るまで、丹念にノオトして、観戦記にも使ひ、この作品でさらに書き加へた。(中略)私の精励な凝り性の一面が、観戦記にもこの「名人」にも出てゐる。さうあり得たのは観戦記当時の碁好きのせゐばかりではなく、名人にたいする私の敬尊のおかげである。
— 川端康成「あとがき」(『呉清源棋談・名人』)[4]
対局の約1年半後の1940年(昭和15年)1月18日に秀哉名人は熱海のうろこ屋旅館で亡くなったが、川端はその前日の1月17日の「紅葉祭」(尾崎紅葉の『金色夜叉』の「今月今夜の月」の日)のために熱海に滞在しており、秀哉名人の死の2日前に会って最後の将棋の相手をしていた。そして名人の死に駆けつけて、死顔の写真も撮ったという縁があった。川端は名人の死をきっかけにして小説『名人』の執筆に至った。
大竹七段[編集]
この小説では、主人公の「私(浦上)」(川端康成)以外、ほぼ全員が実名で登場しているが、対局者の木谷だけ「大竹七段」と名前を変えられている。理由について川端は『呉清源棋談・名人』の「あとがき」で、次のように述べている[4]。
「名人」は題名が示す通り主になつた。相手の大竹七段は従である。作中、大竹七段と日日新聞の囲碁記者だけは仮名にした。大竹七段が木谷實七段(当時)なのはまぎれもない。名人を本名として相手の木谷七段は仮名としたのも、他意あつてのことではないが、この小説が作中の対局を必然に虚構して、迷惑をおよぼすだらうといふ気持から、書きはじめた時に、故人の名人は本名のままにしたけれども、木谷七段は仮名を用い、その後これにしたがつたまでである。
— 川端康成「あとがき」(『呉清源棋談・名人』)[4]
木谷実の弟子に大竹英雄がいるが、これは偶然である。このためある川端の研究者が「名人の対戦相手がまだ生存している」と聞いて、大竹の元を訪れてきたというエピソードがある。大竹英雄は、後にタイトル制の名人の座に就いている。
作品評価・研究[編集]
川端の作品としては、女性がほとんど出てこない点で地味な印象の作品だが、碁という「静」の世界の激しさと静けさを、強く張り切った冷徹な筆で綴り、勝負の世界に生きて、〈一芸に執して、現実の多くを失つた人〉の、その純粋な人生の結末を的確に描いている[6][1]。『名人』は、東洋の「芸」に一途であった名人と、名人に「敬尊」を抱く川端の、同じ〈芸道〉に生きる者同士の「鬼気」、「幽気」が相通じて成った作で、その念は1953年(昭和28年)に書かれた『呉清源棋談』などにも流れている[3]。
川嶋至は、川端が秀哉名人を語る際に、〈芸〉という言葉を多用していることに着目し、それは川端が自身と同様、名人の中に「〈芸〉に苦悩する姿」を見出し、「文芸にすべてを投入して生きるみずからの生命をもかえりみていたにちがいない」としている[12]。そして川嶋は、秀哉名人の引退碁を観戦中の川端は、「名人のうちに、この世ならぬ〈真実〉で〈無垢〉な、没我の境にある純粋な人間の姿を発見したのである」と解説している[12]。
作品冒頭に置かれた秀哉名人の死は、川端氏にとって、世に稀なひとりの純粋な人間の姿が消滅したことを意味していた。現実の世にある純粋のかたち、それは純粋ゆえに脆弱でこわれやすい。(中略)川端氏を「名人」創造に駆りたてたものは、芸道に努力精進する厳しい人間の姿ではなく、秀哉名人が天性有する芸道への没我の純粋性なのである。世俗の一切の拘束を忘れ、みずから努力することなく自然に碁一筋の道に没入できる名人の純粋さは、小説家としての川端氏の常に求めてやまぬものであった。(中略)
観念的な純粋の世界は、現実の世界に引き下ろせば、氷解し霧散しなければならない。文字によって創造された、川端氏の観念的な非現実の世界も、同様の運命を辿る。それは川端氏のもっともよく知るところであろう。その氏は、現実の生身を有しながら、純粋の観念の世界に遊ぶ名人を発見した驚きは大きかった。
— 川嶋至「川端康成の世界 第六章 現実からの飛翔―『雪国』と『名人』―」[12]
今村潤子は、『名人』には名人の死顔に対する、〈一芸に執して、現実の多くを失つた人の、悲劇の果ての顔〉という感慨がモチーフとなっていると解説し、長年をかけて創作された『名人』へのエネルギーを生み出したものは、川端文学のテーマの一つである「魔界」の主題とも無関係ではないとしている[6]。また、『名人』が、「戦争」「敗戦」という社会状勢や背景の中で、執筆・改変・完結していった経緯から、そこに主題の根底があることが、小林一郎により指摘されている[13][6]。
今村は、川端が秀哉名人の敗北を、「一つの時代の終焉(死)としてはっきり描き、更に意識の底で日本の敗戦と強く係わらせて捉えている」とし[6]、現代の合理主義を代表する人物である大竹七段に、〈いにしえの人〉である秀哉名人が、あえて現代的な対局法で勝負に臨み、名誉や命を賭けて生涯の最後を飾ろうとした姿や戦いぶりを、〈一つの血統が滅びようとする最後の月光の如き花〉(「嘘と逆」)[14]、〈残燭の焔のやうに、滅びようとする血がいまはの果てに燃え上がつた〉(「末期の眼」)[15]姿として川端が捉え、確信していたと解説している[6]。
しかしながら、合理主義の新しい戦法の〈卑怯で陋劣〉〈狡い〉手に負けても、〈一筋の乱れもなく戦つた〉名人には、敗着(敗戦)そのものへこだわりは薄く、勝負には負けても「芸術として棋面」を創ろうとしたその姿勢に、「精神の高雅さ」を見る川端の『名人』の描き方は、決して悲観論に終わっていないと今村は考察し[6]、「真に芸に生きた人の雄姿」である名人の生涯最後の勝負碁における負けや戦いぶりは、「新しい合理主義が日本に持ち込まれても、日本の古い伝統の中に潜む美は微動だにしない」という矜持に繋がっていると解説している[6]。
そして、名人の敗着を折からの日本の敗戦と重ね合わせ、名人の碁を「日本の古い伝統芸術の象徴」とした川端は、その名人の生き方に、「戦後の日本人の在り方の一つの理想像」を示して描いていると論考し[6]、またその「名人の自己投企の純粋性」は、川端文学のモチーフでもある「魔界」にも通じ、それを川端は「美の勝利」として捉えていると今村は述べている[6]。
羽鳥徹哉は、東洋に古くから伝わる「芸道」としての碁が、近代合理主義戦法に敗れる姿に、川端が秀哉名人への挽歌、「古い日本への挽歌」として捉えようとしたと解説し[5]、山本健吉も、「もう秀哉名人のような、古風な“芸道”の人として対局に臨む人はなくなった」[1]と、囲碁でも将棋でも、スポーツと同じように単に「選手権を争う仕合」と化した時勢に触れつつ、合理の世界と非合理の世界の関係から生じる「“いにしえ”の世界の崩壊」であったと解説している[1]。
また山本は、川端が名人と大竹七段の生活態度や性格を対比的に描きながらも、碁盤の世界は、そういったものから離れた「打合う黒と白とによってだけ構成される抽象的な世界」であることを表わしているとし、その上で、なおかつそこに「人が移調された人生の象徴を読み取った」と考察している[1]。
翻案作品[編集]
1984年のフランス・スイス合作映画『La Diagonale du fou』(Richard Dembo監督)は、この小説をベースにしたとクレジットされており、囲碁はチェスに置き換えられ、ソ連の世界チャンピオンと若きアメリカ人選手が対局する、国家間のサスペンス的な作品となっている[16]。
おもな刊行本[編集]
『哀愁』(細川書店、1949年12月10日)
収録作品:「哀愁」「反橋」「しぐれ」「住吉」「片岡鉄兵の死」「武田麟太郎」「武田麟太郎と島木健作」「横光利一」「天の象徴」「菊池さん」「名人」「さざん花」「紅梅」「かけす」「夏と冬」「足袋」「東京裁判の老人達」「東京裁判判決の日」「平和を守るために」「浮舟」
※プレオリジナル版(八雲版)が収録。
『呉清源棋談・名人』(文藝春秋新社、1954年7月10日)
題簽:呉清源。口絵写真(撮影:濱谷浩)。写真1枚+本文208頁
収録作品:「呉清源棋談」「名人」
文庫版『名人』(新潮文庫、1962年9月5日。改版2004年10月25日)
カバーデザイン:新潮社装幀室。解説:山本健吉。付録:引退碁の勝負碁盤表
全集収録[編集]
『川端康成全集第14巻 名人』(新潮社、1952年9月30日)
装幀・題簽:安田靫彦。四六判。函入。付録:川端康成「あとがき」
収録作品:「名人」「冬の曲」「さざん花」「かけす」「夏と冬」「地獄」「北の海から」「たまゆら」「少年」
『川端康成全集第10巻 名人』(新潮社、1960年12月25日)
菊判。函入。口絵写真葉:著者小影、唐三彩小瓶
収録作品:「名人」「日も月も」「自然」「無言」「明月」「水月」「小春日」「横町」「離合」
『川端康成全集第10巻 名人』(新潮社、1969年7月25日)
カバー題字:松井如流。菊判変形。函入。口絵写真葉:著者小影、十便帖の一・耕便(池大雅)
収録作品:「名人」「日も月も」「自然」「無言」「明月」「水月」「小春日」「横町」「離合」
『川端康成全集第11巻』(新潮社、1980年12月20日)
カバー題字:東山魁夷。四六判。函入。
収録作品:「虹いくたび」「日も月も」「名人」
『川端康成全集第25巻』(新潮社、1981年8月20日)
仕様は上記と同じ。
収録内容:「囲棋観戦記」「本因坊名人引退碁観戦記」「観戦記―本因坊名人呉四段対局―」「観戦記―木谷・呉三番大棋戦―」「呉・本因坊十番碁第一局を観て」「呉清源棋談」「囲棋随筆」「棋の観戦記を書いて」「本因坊名人を偲ぶ」「印象」「呉清源その他」「日に新たなる者」「新布石青春」「名人(プレオリジナル)」「本因坊秀哉名人」「名人」「夕日」「花」「未亡人」
外国語版[編集]
韓国語: 『名人』("Myeong In"), 閔丙山 (Ming Byeong Son)訳, 新丘文化社 (Shingu Munhwa Sa), Seoul, 1969
英語:"The Master of Go" Edward G. Seidensticker訳, Alfred A. Knopf, New York, 1972
フランス語:"Le Maître ou Le Tournoi de Go", Sylvie Regnault-Gatier訳, Albin Michel, Paris, 1975
セルボクロアート語:"Velemajstor" ("Velemajstor, Snežna zemlja"所収), Ljiljana Đurović訳, Slovo ljubve, Beograd, 1981
繁体中文:『名人』("Mingren"), 劉華亭 (Liu Hua Ting)訳, 星光出版社 (Xingguang Chubenshe), Taipei, 1985
オランダ語:"De meester van het Go-spel", Annemarie van Frankenhuysen訳 (英語版からの重訳), Uitgeverij BZZToH, 's-Gravenhage, 1987
チェコ語:"Meidžin" ("Tanečnice z Izu a jiné prózy"所収), Vlasta Winkelhöferová 及び Miroslav Novák訳, Odeon, Praha, 1988
トルコ語:"Go ustasi", Belkıs Çorakçı (Dişbudak)訳 (英語版からの重訳), Remzi Kitabevi, İstanbul, 1992
イタリア語:"Il Maestro di Go", Cristina Ceci訳, Arnoldo Mondadori, Milano, 1995 (47章版の翻訳)
簡体中文:『名人』("Mingren"), 葉渭渠 (Ye Wei Qu)訳, 中国社会科学出版社 (Zhongguo Shehui Kexue Chubenshe), Beijing, 1996
ロシア語:"Méydzin", Boris Kornilow訳, Alexandre Nosovsky, Moskva, 1998 又 Arkadij Bogatskij, Kijew, 2003
ポーランド語:"Meijin - mistrz go", Henryk Lipszyc訳, Wydawnictwo Elay, Bielsko-Biała, 2004
スペイン語:"El Maestro de Go", Amalia Sato訳 (英語版からの重訳), Emecé Editores S.A., Buenos Aires, 2004
ルーマニア語:"Maestrul de go", Flavius Florea訳, Humanitas Fiction, Bucuresti, 2007
ドイツ語:"Meijin", Felix Heisel訳 (英語版からの重訳), Brett und Stein Verlag, Frankfurt am Main, 2015
脚注[編集]
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注釈[編集]
^ ただしこの手は時間かせぎではなく盤上での意味があることを木谷実(大竹)は後の自戦解説で述べている[11]。
出典[編集]
^ a b c d e f g 山本健吉「解説」(名人文庫 2004, pp. 166-175)
^ a b c d 「あとがき」(『川端康成全集第14巻 名人』新潮社、1952年9月)。独影自命 1970, pp. 244-257に所収
^ a b c d 「『雪国』へ」(アルバム川端 1984, pp. 32-64)
^ a b c d e 「あとがき」(『呉清源棋談・名人』文藝春秋新社、1954年7月)。評論5 1982, pp. 651
^ a b 羽鳥一英「『名人』論」(作品研究 1969, pp. 205-219)。羽鳥徹哉「『名人』論」(論集成5 2010)
^ a b c d e f g h i j k l m n o 「第二部 第二章 『名人』論」(今村 1988, pp. 107-125)
^ a b c 近藤裕子「名人」(事典 1998, pp. 352-355)
^ 「解題――名人」(小説11 1980, pp. 593)
^ a b 松坂俊夫「『名人』小考」(『現代国語シリーズ「川端康成』尚学図書、1982年5月)。今村 1988, p. 110
^ 「翻訳書目録」(雑纂2 1983, pp. 649-680)
^ 木谷実『現代の名局3 木谷実』(誠文堂新光社、1968年12月)p.169
^ a b c 「第六章 現実からの飛翔―『雪国』と『名人』―」(川嶋 1969, pp. 200-242)
^ 小林一郎「『名人』論」(川端文学研究会編『川端康成研究叢書7 鎮魂の哀歌』教育出版センター、1980年4月)。今村 1988, p. 115
^ 「嘘と逆」(文學時代 1929年12月号)。評論5 1982, pp. 60-63、作家の自伝 1994に所収
^ 「末期の眼」(文藝 1933年12月号)。随筆2 1982, pp. 13-26、一草一花 1991, pp. 99-118、随筆集 2013, pp. 8-26に所収
^ 松島利行「そこに碁盤があった 囲碁と映画の文化論(第3回)」(碁ワールド 2003年7月号)
参考文献[編集]
『川端康成全集第10巻 名人』 新潮社、1969年7月。NCID BN06162601。
『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』 新潮社、1970年10月。NCID BN04731783。
『川端康成全集第11巻 小説11』 新潮社、1980年12月。ISBN 978-4106438110。
『川端康成全集第25巻 小説25』 新潮社、1981年8月。ISBN 978-4106438257。
『川端康成全集第27巻 随筆2』 新潮社、1982年3月。ISBN 978-4106438271。
『川端康成全集第33巻 評論5』 新潮社、1982年5月。ISBN 978-4-10-643833-2。
『川端康成全集第35巻 雑纂2』 新潮社、1983年2月。ISBN 978-4-10-643835-6。
川端康成 『名人』 (改版) 新潮文庫、2004年10月。ISBN 978-4-10-100119-7。 - 初版は1962年9月。
川端康成 『一草一花』 講談社文芸文庫、1991年3月。ISBN 978-4-06-196118-0。
川端康成 『川端康成随筆集』 岩波文庫、2013年12月。ISBN 978-4-00-310815-4。
板垣信著、福田清人編、 『川端康成 人と作品20』 センチュリーブックス/清水書院、1969年6月。ISBN 978-4-389-40020-0。
今村潤子 『川端康成研究』 審美社、1988年6月。ISBN 978-4788340565。
川嶋至 『川端康成の世界』 講談社、1969年10月。NCID BN01844841。
長谷川泉編 『川端康成作品研究』 八木書店〈近代文学研究双書〉、1969年3月。NCID BN01844524。 増補版1973年1月。
羽鳥徹哉; 原善編 『川端康成全作品研究事典』 勉誠出版、1998年6月。ISBN 978-4-585-06008-6。
羽鳥徹哉編 『作家の自伝15 川端康成』 日本図書センター、1994年9月。ISBN 978-4-8205-8016-4。
深澤晴美; 細谷博編 『川端康成作品論集成 第5巻――十六歳の日記・名人』 おうふう、2010年10月。ISBN 978-4273035754。
保昌正夫編 『新潮日本文学アルバム16 川端康成』 新潮社、1984年3月。ISBN 978-4-10-620616-0。
関連項目[編集]
封じ手
直木三十五
日華事変
---------
永久 (元号)
永久(えいきゅう)は、日本の元号の一つ。天永の後、元永の前。1113年から1117年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。
改元[編集]
天永4年7月13日(ユリウス暦1113年8月25日) 天変、怪異、疫病、戦乱などにより改元
永久6年4月3日(ユリウス暦1118年4月25日) 元永に改元
出典[編集]
出典は不詳だが、『詩経』小雅、六月の「吉甫燕喜、既多受祉、来帰自鎬、我行永久」や蔡邕『難夏育請伐鮮卑議』の「其設不戦之計、守禦之固者、皆社稷之臣、永久之策也」に依ると考えられる。
勘申者は式部大輔菅原在良。
永久期におきた出来事[編集]
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西暦との対照表[編集]
※は小の月を示す。
永久元年(癸巳) 一月※ 二月※ 三月 閏三月※ 四月※ 五月 六月※ 七月 八月 九月 十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1113/1/20 2/18 3/19 4/18 5/17 6/15 7/15 8/13 9/12 10/12 11/11 12/10 1114/1/9
永久二年(甲午) 一月※ 二月※ 三月 四月※ 五月※ 六月 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月 十二月
ユリウス暦 1114/2/8 3/9 4/7 5/7 6/5 7/4 8/3 9/1 10/1 10/30 11/29 12/29
永久三年(乙未) 一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月※ 七月 八月※ 九月 十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1115/1/28 2/26 3/28 4/26 5/26 6/24 7/23 8/22 9/20 10/20 11/18 12/18
永久四年(丙申) 一月 閏一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月※ 七月 八月※ 九月 十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1116/1/17 2/16 3/16 4/15 5/14 6/13 7/12 8/10 9/9 10/8 11/7 12/6 1117/1/5
永久五年(丁酉) 一月※ 二月 三月 四月※ 五月 六月※ 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月※ 十二月
ユリウス暦 1117/2/4 3/5 4/4 5/4 6/2 7/2 7/31 8/29 9/28 10/27 11/26 12/25
永久六年(戊戌) 一月※ 二月 三月 四月※ 五月 六月※ 七月 八月※ 九月 閏九月※ 十月 十一月※ 十二月
ユリウス暦 1118/1/24 2/22 3/24 4/23 5/22 6/21 7/20 8/19 9/17 10/17 11/15 12/15 1119/1/13
関連項目[編集]
[隠す]
表 話 編 歴
日本の元号
飛鳥時代
大化645-650 白雉650-654 白鳳? 朱雀? 朱鳥686 大宝701-704 慶雲704-708 和銅708-715
奈良時代
霊亀715-717 養老717-724 神亀724-729 天平729-749 天平感宝749 天平勝宝749-757 天平宝字757-765 天平神護765-767 神護景雲767-770 宝亀770-781 天応781-782 延暦782-806
平安時代
大同806-810 弘仁810-824 天長824-834 承和834-848 嘉祥848-851 仁寿851-854 斉衡854-857 天安857-859 貞観859-877 元慶877-885 仁和885-889 寛平889-898 昌泰898-901 延喜901-923 延長923-931 承平931-938 天慶938-947 天暦947-957 天徳957-961 応和961-964 康保964-968 安和968-970 天禄970-974 天延974-976 貞元976-978 天元978-983 永観983-985 寛和985-987 永延987-989 永祚989-990 正暦990-995 長徳995-999 長保999-1004 寛弘1004-1013 長和1013-1017 寛仁1017-1021 治安1021-1024 万寿1024-1028 長元1028-1037 長暦1037-1040 長久1040-1044 寛徳1044-1046 永承1046-1053 天喜1053-1058 康平1058-1065 治暦1065-1069 延久1069-1074 承保1074-1077 承暦1077-1081 永保1081-1084 応徳1084-1087 寛治1087-1095 嘉保1095-1097 永長1097-1097 承徳1097-1099 康和1099-1104 長治1104-1106 嘉承1106-1108 天仁1108-1110 天永1110-1113 永久1113-1118 元永1118-1120 保安1120-1124 天治1124-1126 大治1126-1131 天承1131-1132 長承1132-1135 保延1135-1141 永治1141-1142 康治1142-1144 天養1144-1145 久安1145-1151 仁平1151-1154 久寿1154-1156 保元1156-1159 平治1159-1160 永暦1160-1161 応保1161-1163 長寛1163-1165 永万1165-1166 仁安1166-1169 嘉応1169-1171 承安1171-1175 安元1175-1177 治承1177-1181 養和1181-1182 寿永1182-1184 元暦1184-1185
鎌倉時代
文治1185-1190 建久1190-1199 正治1199-1201 建仁1201-1204 元久1204-1206 建永1206-1207 承元1207-1211 建暦1211-1214 建保1214-1219 承久1219-1222 貞応1222-1224 元仁1224-1225 嘉禄1225-1228 安貞1228-1229 寛喜1229-1232 貞永1232-1233 天福1233-1234 文暦1234-1235 嘉禎1235-1238 暦仁1238-1239 延応1239-1240 仁治1240-1243 寛元1243-1247 宝治1247-1249 建長1249-1256 康元1256-1257 正嘉1257-1259 正元1259-1260 文応1260-1261 弘長1261-1264 文永1264-1275 建治1275-1278 弘安1278-1288 正応1288-1293 永仁1293-1299 正安1299-1302 乾元1302-1303 嘉元1303-1307 徳治1307-1308 延慶1308-1311 応長1311-1312 正和1312-1317 文保1317-1319 元応1319-1321 元亨1321-1324 正中1324-1326 嘉暦1326-1329 元徳1329-1331(大覚寺統)、1329-1332(持明院統)
大覚寺統
元弘1331-1334
持明院統
正慶1332-1333
南北朝時代
室町時代
建武1334-1336(南朝)、1334-1338(北朝)
南朝
延元1336-1340 興国1340-1347 正平1347-1370 建徳1370-1372 文中1372-1375 天授1375-1381 弘和1381-1384 元中1384-1392
北朝
暦応1338-1342 康永1342-1345 貞和1345-1350 観応1350-1352 文和1352-1356 延文1356-1361 康安1361-1362 貞治1362-1368 応安1368-1375 永和1375-1379 康暦1379-1381 永徳1381-1384 至徳1384-1387 嘉慶1387-1389 康応1389-1390 明徳1390-1394
応永1394-1428 正長1428-1429 永享1429-1441 嘉吉1441-1444 文安1444-1449 宝徳1449-1452 享徳1452-1455 康正1455-1457 長禄1457-1461 寛正1461-1466 文正1466-1467
戦国時代
応仁1467-1469 文明1469-1487 長享1487-1489 延徳1489-1492 明応1492-1501 文亀1501-1504 永正1504-1521 大永1521-1528 享禄1528-1532 天文1532-1555 弘治1555-1558 永禄1558-1570 元亀1570-1573
安土桃山時代
天正1573-1593 文禄1593-1596 慶長1596-1615
江戸時代
元和1615-1624 寛永1624-1645 正保1645-1648 慶安1648-1652 承応1652-1655 明暦1655-1658 万治1658-1661 寛文1661-1673 延宝1673-1681 天和1681-1684 貞享1684-1688 元禄1688-1704 宝永1704-1711 正徳1711-1716 享保1716-1736 元文1736-1741 寛保1741-1744 延享1744-1748 寛延1748-1751 宝暦1751-1764 明和1764-1772 安永1772-1781 天明1781-1789 寛政1789-1801 享和1801-1804 文化1804-1818 文政1818-1831 天保1831-1845 弘化1845-1848 嘉永1848-1855 安政1855-1860 万延1860-1861 文久1861-1864 元治1864-1865 慶応1865-1868
明治時代以降
明治1868-1912 大正1912-1926 昭和1926-1989 平成1989-現在
※注1:元号の後の年代は、元号の初年と終年に対応する西暦。「天正」の初年まではユリウス暦、同じく終年以後はグレゴリオ暦による。
※注2:「白鳳」と「朱雀」は正史『日本書紀』には見えない私年号だが、地方の文献等に散見する。
カテゴリ: 日本の元号平安時代
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最終更新 2016年4月15日 (金) 08:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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