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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。

碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。

相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。

面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。

相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。

『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。

対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。

一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。


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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。 一局の碁をお楽しみください。 当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。 初心者の方も、対局できるようになっております。 ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。 囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。 入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。 「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。 オススメするネット囲碁対局場3選 ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質


・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
・コンテンツの充実

これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。 推薦者のブログ 幽玄の間の口コミ 幽玄の間サイト KGSの口コミ KGS パンダネット

当サイトも、及ばずながら、がんばります。




Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)

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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0) 地 (囲碁) 囲碁において地(じ)とは、白黒双方の対局者が自分の生きた石だけで囲い込んだ空間のことを指す。囲碁は、地を大きく囲んだ方が勝ちとなるゲームなので、極めて重要な概念である。下図のような終局図では、aの点が「白地」、bの点が「黒地」となる。cはどちらの地でもない「ダメ」である。 地の中に相手の死んだ石がある場合、終局後に取り上げられて敵の地に埋められることになる。上の図では△の白石は生きられないため、終局を確認した後取り上げられ、白地に埋められる。これを勘定して、黒地は21目、白地は17目あるため、上図では黒の盤面4目勝ちとなる。 まわりを囲む石に欠陥があったり、中に侵入されて生きられるものは「地」ではない。極端な例を挙げれば、下図左上に黒が2手打ち、「この右下の空間は黒が囲んだから全て黒地だ」という主張は成立しない。白1などと打ち込まれて、楽に生きられるからである。逆に言えば、双方が相手の陣地を完全であると認め、打つところがないと認定した時に対局は終了することになる。 目次 [非表示] 1 地の確保 2 関連用語 2.1 確定地 2.2 地合い 2.3 地中に手あり 地の確保[編集] 同じ6目の地を囲む場合を考えると、下図のように隅では5手(左上)、辺では7手(右)、中央では10手を費やすことになる(左下)。すなわち隅は地を取るのに最も効率がよく、次いで辺、中央は最も効率が悪いということになる。 中央に囲んだ地を「中地」(なかじ)と呼ぶ。 上図では黒が中央に「中地」を取り、白は隅と辺を取っている。一見黒地が大きいように見えるが、実は数えると黒地は121目、白地は136目と白が15目も勝っている。このように、中地は見た目よりも存外小さいことがある(格言:中地を囲うな)。 このため囲碁の対局では、お互い隅付近から打ち始めるのが基本である。 関連用語[編集] 確定地[編集] 最もよく用いられる小目からの小ゲイマジマリでは、白に連打を許すなどの特殊事情でない限り、○のついた10目前後を2手でほぼ確実に確保できる。このように、まだ完全に囲い込んだわけではないが、ほぼ侵入が不可能なエリアを「確定地」ということがある。 地合い[編集] 白黒双方の地のバランスのこと。「地合いが足りない」「地合い勝負」などというように使う。 地中に手あり[編集] 一見完全な地に見えるが、相手から打たれると中で生きられたり、セキになったりなど、完全な地でない状態。また、そうした手を発見する問題を指す。 上図の黒は一見7目の地に見えるが、白から1にツケられると、5まで運んでセキにされ、黒地はゼロになってしまう。 道場南口駅 道場南口駅 道場南口駅駅舎 道場南口駅駅舎 どうじょうみなみぐち DŌJŌ MINAMIGUCHI - ◄KB24 二郎 (0.9km)(1.2km) 神鉄道場 KB26► 神戸市北区道場町日下部1806[1] 北緯34度51分22.59秒 東経135度13分22.83秒座標: 北緯34度51分22.59秒 東経135度13分22.83秒 駅番号 ○KB25 所属事業者 Kobe rallway logo mark.svg神戸電鉄 所属路線 三田線 キロ程 7.3km(有馬口起点) 湊川から27.3km 新開地から27.7km 駅構造 地上駅[1] ホーム 1面2線[1] 乗車人員 -統計年度- 1,557人/日(降車客含まず) -2015年- 開業年月日 1928年(昭和3年)12月18日[1] 備考 無人駅[1] テンプレートを表示 駅構内 駅構内 Dojo-Minamiguchi plaza1.jpg 駅前風景 駅前風景 道場南口駅(どうじょうみなみぐちえき)は、兵庫県神戸市北区道場町日下部にある、神戸電鉄三田線の駅[1]。駅番号はKB25。標高169m。 目次 [非表示] 1 歴史 2 駅構造 2.1 のりば 3 駅周辺 3.1 路線バス 4 隣の駅 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 歴史[ソースを編集] 1928年(昭和3年)12月18日 - 神戸有馬電気鉄道の三田線開通と同時に開業[1]。 1947年(昭和22年)1月9日 - 三木電気鉄道との合併により、神有三木電気鉄道(現在の神戸電鉄)の駅となる。 2007年(平成19年)3月27日 - 駅舎改築[1]。 駅構造[ソースを編集] 島式1面2線のホームを持つ行違い可能な地平駅[1]。留置線[1]、作業用のホーム1面がある。駅舎は下り線側三田寄りにあり、駅舎とホームは構内踏切で連絡している[1]。駅舎は2007年に改築された南欧風のものであり、多機能トイレ(車椅子及びオストメイト対応)が併設されている[1]。 沿線光ネットワークに接続された駅務遠隔システムが導入されており、センター駅から自動券売機、自動改札機、自動精算機、TVカメラ、インターホン、シャッターが遠隔操作される。そのため駅員巡回駅となっており、構内売店もない。 のりば[ソースを編集] 1 ■三田線 (下り) 横山・三田方面 2 ■三田線 (上り) 有馬口・谷上・鈴蘭台・湊川・新開地方面 (下り) 横山・三田方面 2番線を上下本線とした一線スルーとなっており、行き違いがない場合は上下列車とも2番線を通るが、現在は大半の列車が当駅で行き違いを行うダイヤになっているため、実質的に方向別でホームが分かれている。 なお、2線とも上下線の発車に対応しているが、1番線は三田方面からの入線に対応していない。 駅周辺[ソースを編集] 駅前に住宅は少ないが、少し離れたところに住宅地がある。当駅の二郎寄りには5線で24両を収容できる留置線がある[1]。 この十年で周辺の道場八多地区(道場町日下部+八多町中)の人口が約1.5倍と大幅に増加しており、それに伴って駅利用客数は1.71倍と増加傾向である。 タクシー乗り場 有馬街道 兵庫県道38号三木三田線 神戸リサーチパーク鹿の子台 グリーンガーデンモール北神戸(関西スーパー・ダイソーなど) ロイヤルホームセンター北神戸店 北神戸ぽかぽか温泉 ホームセンターナフコ鹿の子台店 ケーズデンキ鹿の子台店 マックスバリュ鹿の子台店 神戸市立鹿の子台小学校 神戸市立北神戸中学校 路線バス[ソースを編集] 神姫バス(道場南口停留所) 15系統 三田駅 - 道場南口 - 淡河 - 三木営業所 隣の駅[ソースを編集] 神戸電鉄 三田線 ■特快速(新開地行のみ運転)・■急行・■準急・■普通 二郎駅 (KB24) - 道場南口駅 (KB25) - 神鉄道場駅 (KB26) 脚注[ソースを編集] [ヘルプ] ^ a b c d e f g h i j k l m 『兵庫の鉄道全駅 私鉄・公営鉄道』 神戸新聞総合出版センター、2012年12月10日、175頁。ISBN 9784343006745。 関連項目[ソースを編集] ウィキメディア・コモンズには、道場南口駅に関連するカテゴリがあります。 日本の鉄道駅一覧 外部リンク[ソースを編集] 道場南口駅(神戸電鉄) [隠す] Kobe rallway logo mark.svg 神戸電鉄 三田線 (新開地・湊川方面) 有馬口 - 五社 - 岡場 - 田尾寺 - 二郎 - 道場南口 - 神鉄道場 - (ウッディタウン中央方面) 横山 - 三田本町 - 三田 カテゴリ: 神戸市北区の鉄道駅日本の鉄道駅 と神戸電鉄の鉄道駅1928年開業の鉄道駅 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧ソースを編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン 他のプロジェクト コモンズ ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 English Français リンクを編集 最終更新 2017年5月12日 (金) 06:35 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki ------------------------------------------------------- 建武 (日本) 建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で1334年1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。 目次 [非表示] 1 改元 2 出典 3 決定まで、その後の影響 4 建武期におきた出来事 4.1 死去 5 西暦との対照表 6 脚注 7 関連項目 改元[編集] 元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は流刑先の隠岐から京都に復帰して、鎌倉幕府によって擁立された持明院統の光厳天皇の即位とその元号である「正慶」の無効を宣言した(光厳天皇はこれを拒んだが、後醍醐天皇側の軍事力を前になすすべがなかった)。後醍醐天皇は親政を開始して、元弘4年1月29日(ユリウス暦1334年3月5日)、武の字が不吉だという周囲の反対を押し切り、勅旨を出し建武に改元した。光武帝が簒奪者王莽を倒し、漢王朝を復興した(後漢)際の元号(建武)にちなんだものである。 その後、武家勢力の離反にあい建武の新政は二年余りで崩壊した。後醍醐天皇は建武3年2月29日(ユリウス暦1336年4月11日)に延元に改元した。のちに光明天皇を擁立した北朝方は、建武の元号を使い続け、建武5年8月28日(ユリウス暦1338年10月11日)に暦応に改元した。 出典[編集] 「撥乱反正(乱を撥めて正に反す)」の意を表現する中国の年号を採用せよ、という後醍醐天皇の指示により、前式部大輔藤原藤範・菅原在登・菅原在淳らが勘申した「建武」「大武」「武功」などの中から採用された[1]。 その二文字の出典は不明ながら『文選』などであると考えられる。 決定まで、その後の影響[編集] 後醍醐天皇は「朕が新儀は未来の先例たるべし」[2]という理念で親政を推し進めたが、この改元に限らず、それ以前の元亨改元の際に辛酉革命(醍醐天皇の治世に延喜に改元された)を否定し、正中改元の際に甲子革令(村上天皇の治世に天暦に改元された)を否定し、それぞれ別の理由で改元を行っている。 また、「元亨」決定にあたって行われた改元定は2月23日夜から翌日の昼までかかったという過去があり、後醍醐天皇の先例無視に相当に強い批判があった。今回の「建武」でも、選択の基準が先例と異なっており、より強い反対があった。事実、こののち延元に改元する際、平惟継が「だから前回の改元の際に『武の字を用いるのは縁起が悪いからやめるべきだ』と言ったではありませんか」と後醍醐天皇に嫌味を言っている[3]。 この「建武」以前に、「武」の字を含む元号はなかったが、後醍醐天皇のやり方とその治世を先例とすることを嫌ったか、この後も「武」の字を含む元号は一切用いられることはなかった(元号一覧 (日本)で「武」を検索されたい)。 建武期におきた出来事[編集] 元年(1334年) 1月、大内裏造営費用のための二十分の一税を計画する。 8月、二条河原の落書 11月、護良親王を鎌倉へ幽閉する。 2年(1335年) 6月、西園寺公宗の建武政権転覆計画が発覚する。 7月、信濃国で北条時行を中心に北条氏の残党が蜂起する中先代の乱が起こり、鎌倉が攻略される。足利直義が鎌倉脱出の際に護良親王を殺害する。 8月、足利尊氏が征東将軍として時行討伐のために鎌倉へ向かい、そのまま建武政権から離反する。 12月、足利尊氏が箱根・竹下で新田義貞を破り、京都へ向かう。 3年(1336年) 1月、足利尊氏が京都へ入り、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。足利方は新田義貞や楠木正成、陸奥国より駆けつけた北畠顕家により駆逐される。 2月、足利方が摂津国打出浜、豊島河原などで敗北し、九州へ敗走する。延元に改元。 3月、足利方は筑前国多々良浜の戦いで菊池武敏らに勝利する。北畠顕家らが陸奥へ戻る。 4月、足利方は仁木義長や一色範氏らを九州へ残して再び上京する。 5月、足利方が湊川の戦いにて新田・楠木軍を破る。足利方は光厳上皇を奉じて入京し、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。 8月、光明天皇が即位して北朝が開かれる(北朝は建武を継続して使用)。 9月、後醍醐天皇が皇子の懐良親王を九州へ派遣する。 10月、新田義貞が恒良親王・尊良親王を奉じて越前国へ下る。後醍醐天皇が北朝へ降伏する。 11月、北朝が後醍醐より三種の神器を受け取る。建武式目制定。 12月、後醍醐が京都を脱出し、吉野(奈良県)で南朝を開いて南北朝時代が始まる。 4年(1337年) 3月、新田義貞が拠っていた越前国金ヶ崎城が足利方の攻勢により落城する。 12月、北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて一時鎌倉を攻略する。 死去[編集] 護良親王 名和長年 楠木正成 楠木正季 新田義貞 尊良親王 西暦との対照表[編集] ※は小の月を示す。 建武元年(甲戌) 一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月 七月※ 八月 九月 十月※ 十一月 十二月 ユリウス暦 1334/2/5 3/6 4/5 5/4 6/3 7/2 8/1 8/30 9/29 10/29 11/27 12/27 建武二年(乙亥) 一月※ 二月 三月※ 四月※ 五月※ 六月 七月※ 八月 九月 十月※ 閏十月※ 十一月 十二月 ユリウス暦 1335/1/26 2/24 3/26 4/24 5/23 6/21 7/21 8/19 9/18 10/18 11/16 12/15 1336/1/14 建武三年(丙子) 一月 二月※ 三月 四月※ 五月※ 六月 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月 十二月 延元元年 ユリウス暦 1336/2/13 3/14 4/12 5/12 6/10 7/9 8/8 9/6 10/6 11/4 12/4 1337/1/3 建武四年(丁丑) 一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月※ 七月 八月※ 九月 十月※ 十一月 十二月 延元二年 ユリウス暦 1337/2/2 3/3 4/2 5/1 5/31 6/29 7/28 8/27 9/25 10/25 11/23 12/23 建武五年(戊寅) 一月 二月※ 三月 四月※ 五月 六月※ 七月※ 閏七月※ 八月 九月 十月※ 十一月 十二月 延元三年 ユリウス暦 1338/1/22 2/21 3/22 4/21 5/20 6/19 7/18 8/16 9/14 10/14 11/13 12/12 1339/1/11 脚注[編集] ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 中公文庫新版 ISBN 978-4122044814、62p ^ 『梅松論』 18 建武の新政 ^ 中院通冬の日記『中院一品記』 建武三年二月二十九日条 関連項目[編集] [隠す] 表 話 編 歴 日本の元号 飛鳥時代 大化645-650 白雉650-654 白鳳? 朱雀? 朱鳥686 大宝701-704 慶雲704-708 和銅708-715 奈良時代 霊亀715-717 養老717-724 神亀724-729 天平729-749 天平感宝749 天平勝宝749-757 天平宝字757-765 天平神護765-767 神護景雲767-770 宝亀770-781 天応781-782 延暦782-806 平安時代 大同806-810 弘仁810-824 天長824-834 承和834-848 嘉祥848-851 仁寿851-854 斉衡854-857 天安857-859 貞観859-877 元慶877-885 仁和885-889 寛平889-898 昌泰898-901 延喜901-923 延長923-931 承平931-938 天慶938-947 天暦947-957 天徳957-961 応和961-964 康保964-968 安和968-970 天禄970-974 天延974-976 貞元976-978 天元978-983 永観983-985 寛和985-987 永延987-989 永祚989-990 正暦990-995 長徳995-999 長保999-1004 寛弘1004-1013 長和1013-1017 寛仁1017-1021 治安1021-1024 万寿1024-1028 長元1028-1037 長暦1037-1040 長久1040-1044 寛徳1044-1046 永承1046-1053 天喜1053-1058 康平1058-1065 治暦1065-1069 延久1069-1074 承保1074-1077 承暦1077-1081 永保1081-1084 応徳1084-1087 寛治1087-1095 嘉保1095-1097 永長1097-1097 承徳1097-1099 康和1099-1104 長治1104-1106 嘉承1106-1108 天仁1108-1110 天永1110-1113 永久1113-1118 元永1118-1120 保安1120-1124 天治1124-1126 大治1126-1131 天承1131-1132 長承1132-1135 保延1135-1141 永治1141-1142 康治1142-1144 天養1144-1145 久安1145-1151 仁平1151-1154 久寿1154-1156 保元1156-1159 平治1159-1160 永暦1160-1161 応保1161-1163 長寛1163-1165 永万1165-1166 仁安1166-1169 嘉応1169-1171 承安1171-1175 安元1175-1177 治承1177-1181 養和1181-1182 寿永1182-1184 元暦1184-1185 鎌倉時代 文治1185-1190 建久1190-1199 正治1199-1201 建仁1201-1204 元久1204-1206 建永1206-1207 承元1207-1211 建暦1211-1214 建保1214-1219 承久1219-1222 貞応1222-1224 元仁1224-1225 嘉禄1225-1228 安貞1228-1229 寛喜1229-1232 貞永1232-1233 天福1233-1234 文暦1234-1235 嘉禎1235-1238 暦仁1238-1239 延応1239-1240 仁治1240-1243 寛元1243-1247 宝治1247-1249 建長1249-1256 康元1256-1257 正嘉1257-1259 正元1259-1260 文応1260-1261 弘長1261-1264 文永1264-1275 建治1275-1278 弘安1278-1288 正応1288-1293 永仁1293-1299 正安1299-1302 乾元1302-1303 嘉元1303-1307 徳治1307-1308 延慶1308-1311 応長1311-1312 正和1312-1317 文保1317-1319 元応1319-1321 元亨1321-1324 正中1324-1326 嘉暦1326-1329 元徳1329-1331(大覚寺統)、1329-1332(持明院統) 大覚寺統 元弘1331-1334 持明院統 正慶1332-1333 南北朝時代 室町時代 建武1334-1336(南朝)、1334-1338(北朝) 南朝 延元1336-1340 興国1340-1347 正平1347-1370 建徳1370-1372 文中1372-1375 天授1375-1381 弘和1381-1384 元中1384-1392 北朝 暦応1338-1342 康永1342-1345 貞和1345-1350 観応1350-1352 文和1352-1356 延文1356-1361 康安1361-1362 貞治1362-1368 応安1368-1375 永和1375-1379 康暦1379-1381 永徳1381-1384 至徳1384-1387 嘉慶1387-1389 康応1389-1390 明徳1390-1394 応永1394-1428 正長1428-1429 永享1429-1441 嘉吉1441-1444 文安1444-1449 宝徳1449-1452 享徳1452-1455 康正1455-1457 長禄1457-1461 寛正1461-1466 文正1466-1467 戦国時代 応仁1467-1469 文明1469-1487 長享1487-1489 延徳1489-1492 明応1492-1501 文亀1501-1504 永正1504-1521 大永1521-1528 享禄1528-1532 天文1532-1555 弘治1555-1558 永禄1558-1570 元亀1570-1573 安土桃山時代 天正1573-1593 文禄1593-1596 慶長1596-1615 江戸時代 元和1615-1624 寛永1624-1645 正保1645-1648 慶安1648-1652 承応1652-1655 明暦1655-1658 万治1658-1661 寛文1661-1673 延宝1673-1681 天和1681-1684 貞享1684-1688 元禄1688-1704 宝永1704-1711 正徳1711-1716 享保1716-1736 元文1736-1741 寛保1741-1744 延享1744-1748 寛延1748-1751 宝暦1751-1764 明和1764-1772 安永1772-1781 天明1781-1789 寛政1789-1801 享和1801-1804 文化1804-1818 文政1818-1831 天保1831-1845 弘化1845-1848 嘉永1848-1855 安政1855-1860 万延1860-1861 文久1861-1864 元治1864-1865 慶応1865-1868 明治時代以降 明治1868-1912 大正1912-1926 昭和1926-1989 平成1989-現在 ※注1:元号の後の年代は、元号の初年と終年に対応する西暦。「天正」の初年まではユリウス暦、同じく終年以後はグレゴリオ暦による。 ※注2:「白鳳」と「朱雀」は正史『日本書紀』には見えない私年号だが、地方の文献等に散見する。 カテゴリ: 日本の元号南北朝時代 (日本) 案内メニュー ログインしていませんトーク投稿記録アカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示検索 Wikipedia内を検索 表示 メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ 印刷/書き出し ブックの新規作成 PDF 形式でダウンロード 印刷用バージョン ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用 他言語版 English Français Interlingua 한국어 Русский Simple English Српски / srpski Svenska 中文 リンクを編集 最終更新 2015年8月31日 (月) 12:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項開発者Cookieに関する声明モバイルビューWikimedia Foundation Powered by MediaWiki