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ネット囲碁

ネット囲碁は、インターネット環境を使う対局場です。
インターネットは日々進化しています。 2017年1月現在では、HTML5の特徴を利用すると、他のソフトを使うことなく対局ができます。

対局サイトは多くあります。専用ソフトを使うサイトや、JAVAアプレットやSilverLightやFlashを使うサイト等、最適な環境で対局できます。

当サイトは後発てすが、それを生かして、JavaScriptだけで動作するサイトにしました。専用ソフトやJavaを使いません。


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囲碁は平安の頃には、中国から伝わっていたようで、紫式部や清少納言も打っていたと言われるボードゲームです。 「囲碁は高尚で、将棋は大衆向き」と云われ無き評価もあるようですが、誤解されていると思います。 将棋は駒の進め方など覚えルールは多い。囲碁は覚えるべきルールは少ない。 しかし、次の一手を選ぶ決め手が、将棋は直接読めるが囲碁は、勢力を読みます。この読むのが難しいので、将棋ほど大衆化しないのかもしれません。
囲碁を始めたい。囲碁を打ちたい、打ってみたい。しかし、相手がいない、打つ場所がない。碁会所に入ってみたい。でもなんとなく入りにくい。
頻繁に耳にする言葉です。
以前は、個人宅や公園で、縁台囲碁や縁台将棋が開放的に行われており、道行く人が眺めたり、チラ見をして、碁や将棋に馴染む環境がありました。 門前の小僧のように身近に馴染み、親近感がありました。現在は個々の垣根が高くなり、接する機会が少くなりました。自発的に興味を持たないと、馴染む機会すらありません。時代の流れですが残念なことです。
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人と対面して打てる街角の碁会所や縁台碁は、理想的な対局ですが、そういう機会は少なくなってきました。 ネット囲碁対局は、顔が見えないというマイナーな面がありますが、地域、時間の制約を受けません。 各地の愛好者と囲碁対局が可能です。このメリットは大きいてず。
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Webの特性を最大限に有効利用したネット囲碁対局を実現したネット碁会所です。是非お試してみて下さい。 実在の碁会所と異なり、相手と対面しないので、気楽です。特に初心者は親しみやすいので、気兼ねなく対局できます。



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囲碁

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碁会所


ネット碁会所

ネット碁会所とは、インターネットを利用したネットワーク上に展開する対局型の碁で、ネット囲碁とも言われます。 リアルタイムの対局は、ネット将棋とも共通する仕組みに立脚するシステムです。 対局専用ソフトを使用するネット囲碁対局場や、JAVAを使用するネット碁会所、対局専用ソフトを使用しない、ネット碁会所など、多岐に渡ります。 対局ルールは、持ち時間制、考慮時間制など各対局場で固有の運用ルールがあるので、好みで選ぶとよいでしょう。 ネット碁会所は、インターネット上で実現させた碁会所です。 リアルな対人対局と違い、相手の顔が見えません。顔色や三味線、所作などの心理戦が取れません。 現在は、実在の碁会所に入るのに躊躇する人が多く、敬遠されがちのようです。ネット碁会所なら気楽に入れます。 デメリットもあります。マナーに欠ける利用者が一定数存在します。ネット碁会所の運営者は、不愉快な対局にならないように努めていますが、排除するのが困難な面があります。 心の寂しい人は何処の業界にもいますね。 将棋では、用語が異なり、ネット将棋道場、ネット将棋センター等と称しています。 当サイトのような、インターネット上で対局する対局場を指します。
・専用ソフトを用いる対局場: ブラウザー以外に碁盤を表示するプログラムを用います。
・ブラウザーで動作する対局場
・JAVAやFlashなどプラグインの元で動作する対局場
・HTML/CSSだけで動作する対局場
の4つの形態があります。 運用形態や会員の棋力など、構成要素も多々あり、選択に迷いますが、いずれも長短があります。 ご自分に適した使い勝手のよい対局場の形態が見つかるはずです。

ネット囲碁対局

インターネット回線を用いて対局する囲碁のこと。 オンラインゲームだと、双方同時通話が重要な要素になるので、 高速インターネット網が確立するまでは、普及しませんでしたが、 囲碁や将棋は、一時点に片方だけのアクションなので、インターネット以前のパソコン通信の時代から、実現されていました。 20数年以前から始まり、歴史を刻んでいます。ネット囲碁対局に特有の、文化やマナーが発達しました。 良いマナーよりも悪いマナーが目につきますが、何時ても何処でも打てるのが最大のメリットです。 自動判定する対局場も増えています。便利になりましたが、実際の碁石で打った経験のない人も増え、整地できない人もいるようです。 これも、時代の流れなんでしょうね。 ネット対局は、最近のものと思われますが、原理は、郵便碁(メール碁)と同じです。 郵便処理がネット処理に変わっただけとも言えます。いつから始まったかは、不確かですが、郵便制度が始まった直後まで遡れそうです。100年以上の歴史がありそうです。

ネット囲碁

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ネット碁

ネット碁とは、インターネットを利用したネットワーク上に展開する対局型の碁で、ネット囲碁とも言われます。 リアルタイムの対局は、ネット将棋とも共通する仕組みに立脚するシステムです。 対局専用ソフトを使用するネット囲碁対局場や、JAVAを使用するネット碁対局場、対局専用ソフトを使用しない、ネット碁会所など、多岐に渡ります。 対局ルールは、持ち時間制、考慮時間制など各対局場で固有の運用ルールがあるので、好みで選ぶとよいでしょう。 ネット碁対局は、インターネット上で実現させた碁会所です。 リアルな対人対局と違い、相手の顔が見えません。顔色や三味線、所作などの心理戦が取れません。 現在は、実在の碁会所に入るのに躊躇する人が多く、敬遠されがちのようです。ネット碁対局場なら気楽に入れます。 デメリットもあります。マナーに欠ける利用者が一定数存在します。ネット碁対局場の運営者は、不愉快な対局にならないように努めていますが、排除するのが困難な面があります。 心の寂しい人は何処の業界にもいますね。 将棋では、用語が異なり、ネット将棋道場、ネット将棋センター等と称しています。 当サイトのような、インターネット上で対局する対局場を指します。
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ネット対局

インターネット回線を用いて対局する囲碁のこと。 オンラインゲームだと、双方同時通話が重要な要素になるので、 高速インターネット網が確立するまでは、普及しませんでしたが、 囲碁や将棋は、一時点に片方だけのアクションなので、インターネット以前のパソコン通信の時代から、実現されていました。 20数年以前から始まり、歴史を刻んでいます。ネット対局に特有の、文化やマナーが発達しました。 良いマナーよりも悪いマナーが目につきますが、何時ても何処でも打てるのが最大のメリットです。 自動判定する対局場も増えています。便利になりましたが、実際の碁石で打った経験のない人も増え、整地できない人もいるようです。 これも、時代の流れなんでしょうね。 ネット対局は、最近のものと思われますが、原理は、郵便碁(メール碁)と同じです。 郵便処理がネット処理に変わっただけとも言えます。いつから始まったかは、不確かですが、郵便制度が始まった直後まで遡れそうです。100年以上の歴史がありそうです。

(CC BY-SA 3.0)を参考に、Wikipediaの記事を引用します。

囲碁

囲碁とは2人で行うボードゲームの一種。交互に盤上に石を置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを争う。単に碁とも呼ばれる。

目次  
1	概要
2	歴史
3	用具・用具に関係する囲碁用語
4	ルール
4.1	着手に関するルール
4.2	置碁
4.3	死活に関するルール
4.4	勝敗に関するルール
5	対局の進行
5.1	序盤
5.2	中盤
5.3	終盤
6	基本戦略
6.1	布石
6.2	石の形
6.3	厚み
6.4	石の働き
7	競技としての囲碁
7.1	段級位制度
7.2	囲碁の大会
7.3	プロ組織
8	競技人口の概要
9	囲碁と数学
10	文化における囲碁
10.1	囲碁の別称とその意味
10.2	囲碁に由来する慣用表現
10.3	囲碁を扱った作品
10.3.1	文芸
10.3.2	映画
10.3.3	文楽・歌舞伎
10.3.4	漫画
10.3.5	落語
10.3.6	その他
11	参考文献

1.概要
2人のプレイヤーが、碁石と呼ばれる白黒の石を、通常19×19の格子が描かれた碁盤と呼ばれる板へ交互に配置する。一度置かれた石は、相手の石に全周を取り囲まれない限り、取り除いたり移動することはできない。ゲームの目的は、自分の色の石によって盤面のより広い領域(地)を確保する(囲う)ことである。
アブストラクトゲーム、ボードゲームの一種で、ゲーム理論の言葉で言えば二人零和有限確定完全情報ゲームである。勝敗は、より大きな地を確保することで決定される(#勝敗に関するルール)。ゲームの終了は、将棋やチェスと同じように、一方が負けを認めること(投了という)もしくは双方の「もう打つべきところがない」という合意によって行われる。他のボードゲームと比較した場合の特異な特徴は、ルール上の制約が極めて少ないこと、パスが認められていることが挙げられる。
発祥は中国と考えられ、少なくとも2000年以上前から東アジアを中心に親しまれてきた。そうした文化・歴史の中で爛柯(らんか)をはじめとしたさまざまな別称を持つ(#囲碁の別称とその意味)。日本でも平安時代から広く親しまれ、枕草子や源氏物語といった古典作品にも数多く登場する。戦国期には武将のたしなみでもあり、庶民にも広く普及した。江戸時代には家元四家を中心としたプロ組織もでき、興隆の時期を迎えた。明治以降も引き続き広く親しまれ、近年ではインターネットを経由して対戦するネット碁も盛んである。
西洋的な価値観からはチェスなどと同様マインドスポーツ(つまり競技)でもあり、国際囲碁連盟は国際オリンピック委員会が承認する国際スポーツ団体総連合に加盟し、五輪競技としての採用を目指している。中国・広州で開催される2010年アジア競技大会では競技種目として採用された。
日本では古くから親しまれ、駄目、布石、捨て石、定石など、数多くの囲碁用語は、そのまま日本語の慣用句としても定着している(#囲碁に由来する慣用表現)。

2.歴史
「碁」という字は本来は「棋・棊」の異体字で、意味も発音も同じだった。現在も中国では「围棋(圍棋)」と書く。日本漢字音での「ゴ」と「キ」の音の違いは呉音と漢音の違いに由来する。
囲碁の実際の起源ははっきりとはわかっていない。少なくとも春秋時代には成立していたようで、『論語』・『孟子』の中には碁の話題が出てくる。中国碁は前漢時代17路盤であったと考えられている。
伝統的な中国碁は、盤上に多くの石を載せたほうが勝ちというルールであった。
初期の碁石は、唐宋期のものが残っている。
その後5世紀には朝鮮へ、7世紀頃に日本に伝わったとされる。そのころから日本の貴族を中心に広く遊ばれ、正倉院には碁盤と碁石が収められている。清少納言や紫式部も碁をよく打ったとされ、枕草子や源氏物語中にも囲碁と思われるものが登場する。
室町時代末期からは碁打ちが公家や武将に招かれるなどの専業化も進むとともに、それまでの事前置石制から自由布石への移行も起こった。戦国時代には戦国武将たちに大いに好まれ、織田信長に日海(本因坊算砂)が名人の称号を許されたと言われる。江戸時代には幕府から家禄を受ける家元制度が成立し、囲碁の技術が飛躍的に向上するとともに、将軍御目見えによる御城碁が行われたり、碁会所が生まれるなど庶民の娯楽としても定着した。
1999年ごろには漫画『ヒカルの碁』の影響で若年層にも囲碁ブームが生まれた。
囲碁は日本のみならず韓国、北朝鮮、中華人民共和国、台湾などでも盛んに行われ、その他にも北アメリカ・南アメリカ、ヨーロッパなどでも行われている。今日、囲碁は世界80ヶ国以上で打たれており、世界選手権も行われている。
レジャー白書によると、日本の囲碁人口は2013年で推計280万人である。2013年の年齢別構成は男+女合計で10歳代11.8%、60歳以上8.1%であった。

3.用具・用具に関係する囲碁用語

碁盤

碁石
碁盤
板の上に、直交する縦横それぞれ同じ本数の線分を引いたもの。碁石を置くのは縦線と横線の交点である。一般に、縦横19本ずつの19路盤が使われる。初心者向け、お好み対局向けに13路盤や9路盤、7路盤や6路盤もある。古来使用されたものには17路盤も存在した。
線は最も外側にあるものから順に第1線、第2線、第3線……のように呼ぶ。また第4線の交点や辺の中間、碁盤の中心にある黒点を星と呼び、19路盤の場合、9つある。碁盤の中央にある星を特に天元という。
碁盤の交点座標は、先手の黒から見て、横の座標を左から右に1~19の算用数字で、縦の座標を上から下に一~十九の漢数字で表すことが多く、これは数学の直交座標系における第四象限と考えるとわかりやすい。この場合、右上隅の星は「16の四」、天元は「10の十」と表現する。
座標については、上述の表記が最も伝統的なものであり新聞や雑誌でももっぱらこの表記法が用いられるが、海外の囲碁ファンの増加などもあり算用数字とアルファベットで座標を表現することもある。ただし、その表現方法は統一されていない。横の座標はアルファベット、縦の座標は算用数字を用いるが、「数字の1とアルファベットのIの混合を避けるために、Iを用いないかどうか」、「数字の0とアルファベットのOの混合も避けるために、Oも用いないかどうか」、「縦の座標を上から下にとる(直交座標系における第四象限)か、下から上にとるか(同じく第一象限)」は場合によってまちまちである。
碁石
単に石ともいう。黒・白の二色あり、合わせて碁盤を埋め尽くせる数(黒181、白180)だけ用意される(グリーン碁石と呼ばれる、濃い緑と薄い緑の二色のものもある)。碁石を入れる器を碁笥(ごけ)と言う。盤上の碁石を数える時の単位は「子(もく)」であり、一つを一子(いちもく)、二つを二子(にもく)などと表す。しかしながら、囲碁特有の読み方であるため、「子」が「し」と読まれることもある。「子(もく)」ではなく「目(もく)」の字を当てることもある。

4.ルール
囲碁のルールには、いわゆる日本ルールと中国ルール、中国ルールを元に台湾で考案された計点制ルールなどがある。いずれもゲームの進め方や勝敗の判定に大きな違いはないが、細かい違いはある。以下は日本ルール(日本棋院と関西棋院による日本囲碁規約)を元に説明する。
主なルールは5つ。
碁盤の線の交差部分に黒と白が交互に打つ。
地(自分の領域)の多いほうが勝利。
相手の石は上下左右を囲うと取れる。
着手禁止点(自殺手)
コウ

4.1.着手に関するルール
黒、白の対局者が交互に自分の石を盤上の交互に着手する。着手した石は、取られない限りそこから動かしてはならない。
相手の石を縦横に隙間なく取り囲むと、ハマとして取ることができる。取ることができるようになった石は、着手の後に盤面から取り除かなければならない。下図の場合、黒がそれぞれ1と打った場合、△の白が取り上げられる。取られる1手前の状態を「アタリ」と言い、下図の白石はそれぞれアタリの状態である。
自殺手は禁止(自ら取り囲まれた状態にする手の禁止)。たとえば下図で白が左上aや右上bに打つのは反則となる(黒からは打ってよい)。ただし、その石を打った時点で相手の石を取ることができる場合は例外である。左下cや右下dに打てば▲の黒が取れるため、ここに白が打つのは反則にならない。
石を取るルールと自殺手の禁止のルールによって、囲碁では下図のような石の配置には決してなり得ない。
自分が打つことによって、相手が打った直前の局面に戻してはならない。下図の形で、黒がaに打てば△の白石を取り上げることができる。
しかしその直後、今度は下図のように黒1子がアタリとなっている。白がbに打って黒石を取り返すと、上図の形に戻ってしまう。この形をコウ(劫)と呼ぶ。 これを繰り返すと永遠に対局が終わらないため、同一局面の反復は禁止とされている。つまり上図で黒がaと取った直後に、白がbと取り返すのは反則となる。

4.2.置碁
囲碁におけるハンディキャップ戦として置碁がある。これは実力が下位のものが黒を持ち、あらかじめ盤上に黒石を置いた状態でスタートするものである。あらかじめ置かれた石を「置石」という。実力差によって、置石は普通2子から9子の範囲で調節される。

4.3.死活に関するルール
先に述べた着手禁止点のルールから、二ヶ所の離れた空間(眼と称する)を持った石は、決して取り上げることができないことになる。たとえば下図左上の黒は周辺をびっしりと白に囲まれているが、白からはaにもbにも打てないのでこの黒の一団を取り上げることができない。この場合、「黒は生きている」という言い方をする。すなわち、眼を2つ(二眼)作ることができればその石は生きになる。
なお、下図右下の黒は独立した2ヶ所の眼を持っているわけではないため、白からcとdに打って取ることができる。これは二眼ではなく、黒は「死に」ということになる。
自分がどう打っても相手が正しく対応すれば二眼を作ることができない石の一団は「死に」である。終局後に、死んでいる石はハマに加えられる。
特殊なケースとして、両方ともに二眼がないが、互いに手出しできない形がある。これは「セキ」と呼ばれ、双方とも生きとして扱われる。

4.4.勝敗に関するルール
相手の石が中に入り込んで生きることのできない、自分の石の一団に囲まれた領域のことを地と呼ぶ。
地の面積とハマの数の和の大小によって勝敗を争う。形勢判断などでは、この和の数値のことを地というため、たとえば、黒地○○目、白地○○目などというときは、この和のことを言う。下図は9路盤での終局図の一例。▲の黒石は生きられないため、「ハマ」として取り上げられ、黒地に埋められる。左上から左下に広がった黒地はこれを埋めて29目、右上から右下を占拠した白地は23目で、この場合「黒の盤面6目勝ち」となる。
ただし囲碁では先番の黒が有利であり、その分のハンディとして「コミ」が設定されている。多くの場合コミは6目半とされており、この分を白地に足して計算する。つまり上図では白が29目半になるので、コミを入れて計算した場合「白の半目勝ち」ということになる。
以前のルールでは、これ以上は打っても得をする場所がないと双方が認めて合意すると「終局」となり、その後でダメ(打っても得をしない箇所)を埋めて互いの地を数えることとされていた。しかしトラブルがあったために2006年にルールが改変され、ダメしか残っていなくても、全てダメを埋めてからでないと終局することができないとされた(インターネット対局では、双方がパスをすることによって終局とするケースが多い)。
対局中に三コウ以上の多元コウ、長生、循環コウが発生し、双方譲らず同型反復となった場合、対局は無勝負扱いとなる。

5.対局の進行

5.1.序盤
通常、対局が始まるとしばらくは布石が行われる。大体の場合は碁盤の四隅に打つことから始まる。なお、初手を四隅に打つ場合は、白番(上手)が右手で打ちやすい隅を残すため、慣例的に右上隅に打つ。
三々(さんさん)
碁盤の隅から3・3の位置のこと。地に対して最も堅い手であるが中央への働きが弱い。
小目(こもく)
碁盤の隅から3・4あるいは4・3の位置のこと。古来から布石の基本とされる。
星(ほし)
碁盤の隅から4・4の位置のこと。現在の布石の花形。また置碁ではこの位置に石を置いて打ち始める。
目外し(もくはずし)
碁盤の隅から3・5あるいは5・3の位置のこと。相手の作戦をくじくための物として打たれることが多い。
高目(たかもく)
碁盤の隅から4・5あるいは5・4の位置のこと。目外しと同じように使われるが、目外しより多少地に甘く(意識が低い)、中央重視の場合に打たれる。
五ノ五(ごのご)
碁盤の隅から5・5のこと。打たれる頻度はかなり低い。
大高目(おおたかもく)
碁盤の隅から4・6、あるいは6・4の位置のこと。
天元(てんげん)
碁盤の中心。中心に打つため四方全ての向きからのシチョウに有利とされるが、五の五・大高目とともに未だあまり研究がなされていない。五の五同様、打たれる頻度はかなり低い。
近年では隅の着点は小目と星が全体の8割以上を占め、高目や目外しなどの位の高い着点はやや特殊な打ち方とされる。これはその他の隅の占め方(打ち方)が、地に甘いとされているからであり、現代は実利が重視されているということを表しているともいえる。しかし、実利が重視されているといっても、最も地に辛い(重視する)三々は目外しよりも打たれる頻度は低い。これは碁が、単に地を奪い合えば良いというだけのゲームではないことの表れであろう。
以下は19路の布石の例である。
二連星(にれんせい)
隣接する二つの隅の星を占める布石のことを指す。黒白問わずよく打たれ、特に白番での使用例が増えている。
三連星(さんれんせい)
二連星の間の辺の星をさらに占めた布石。基本的に実利にとらわれず、中央を目指す碁になる。武宮正樹九段が愛用する布石。
中国流(ちゅうごくりゅう)
隅の星と内側向きの小目に、さらにその間にある星脇(右上を星、右下を小目とすると、辺の星の一つずつ右・下に位置するところ)(小目から見て五間ジマリ)に並べられた布石。打ち出したのは日本人だが、大会で中国の若手が一様に使用しこの名前がついた。お互いの応手により実利・厚みのどちらにも転換することが可能。ただし、戦いになると一本調子になるところがある。加藤正夫などが愛用した。
高中国流
話し言葉の上では「たかいちゅうごくりゅう」と呼ばれ、書き言葉では普通「高中国流」。中国流との違いは辺の石が第三線ではなく、第四線にあることである。そのため実利より戦いを求める布石になる。地に甘いため2000年以降は打たれることが少なくなっている。
ミニ中国流(みにちゅうごくりゅう)
原型は本因坊道策の時代から打たれている。自分の小目の先にある相手の隅の星に小ゲイマガカリして受けさせた後、星脇にヒラく。この星脇の石と小目の位置関係からこの名前が付いた。1990年代から日本・中国・韓国で主に研究され、流行している布石である。

5.2.中盤
中盤は死活の絡んだ戦いになる。互いに死活がはっきりしていない弱い石を意識しながら打ち進める。攻め、サバキ、シノギの技量が問われる。
中盤は、もっとも作戦が富んだところである。基本的な構想をいくつか挙げると、
自分の模様を広げる。模様に手を入れて地模様にする。
相手の模様を制限する(模様を「値切る」という)。
相手の模様に打ち込んで生きる。
自分の弱い石を守る。
相手の弱い石を攻撃することで利益を得る(相手の石を取る、相手の石をイジメながら別の石を取ったり、厚みを築いたり、確定地を作ったりする)。
自分の石を捨てて(相手に取らせて)別のところで利益を得る(捨て石あるいはフリカワリ)。
などがある。高等戦術の例として、自分の模様に隙を残しておいてあえて打ち込ませ、イジメながら各所で得を図ったり、序盤は地で先攻し(必然的に相手は厚みで対抗する)、相手の模様が完成する直前に打ち込みで荒らす手法などがある。

5.3.終盤
ヨセは双方共に死活の心配がなくなり、互いの地の境界線を確定させる段階を指す。ただしヨセは必ずしも終盤に起こるものではなく、局面によっては序盤・中盤のように手数が少ない場合でも大ヨセが打たれることがある。互いの地に、およそ20目以下10目以上の差がつくヨセを大ヨセ、およそ10目以下を小ヨセと呼ぶ。
序盤・中盤・終盤には明確な区別はなく、ほとんど序盤のないまま戦いに突入したり、ヨセに入ってからの駆け引きで中盤に逆戻りすることもある。

6.基本戦略
大まかに囲っている地域(これを模様という)と最終的な地との間には大きな違いがあり、ゲームの進行と共に、景色が大きく入れ替わる。相手が囲おうとしているところに石を突入させて(打ち込み)生きてしまえば、そこは自分の地となる。相手が地だと思って囲っている壁の一部を、国境を侵害するように切り取ってしまえば、地はそれだけ減ってしまう。逆に、相手が生きると思っている石を殺してしまえば、そこは自分の地となる。戦いの中で相手の地や石と自分の地や石を奪い合う、フリカワリという戦略もある。最終的に相手の石が生きることができず、かつ境界が破られないような領域が地となる。つまるところ、囲碁は石の効率を競い合うゲームといえる。
一般に、両者が最善を尽くしている状況では、相手の石の生きにくさ(地になりやすさ)と模様の広さ(大きな地になる可能性の大きさ)との間にはトレードオフの関係がある。相手の生きがほぼ見込めない領域のことを確定地と呼び、これを優先する考え方を実利重視という。これに対して、将来の利得を重視する考え方が、厚みである。経営における短期と長期のバランスに似て、この実利と厚みの絶妙なバランスが囲碁の戦略できわめて困難なポイントである。とりわけ、厚みの形式的表現が極めて困難なことが、コンピュータ囲碁ソフトの最大の壁であるとも言われる。

6.1.布石
基本的に序盤は隅から打ち進めるのが効率がよいといわれる。これはある一定の地を得るために必要な石数が、中央より辺、辺より隅の方が少なくて済むためであり、その分効率がよいとされるためである。近年のプロの対局では、第一手のほぼ全てが隅から始まっている。第一手を中央に打った対局も存在するが、多くの場合趣向と評される。

6.2.石の形
囲碁のルールは非常に単純であるが、そこから派生する効率の良いほぼ必然的な着手の仕方、つまり石の形を理解することである程度の棋力を得ることができる。効率のよい形を「好形」、悪い形を「愚形」「凝り形」などと呼ぶ。「空き三角は愚形」「二目の頭見ずハネよ」など、格言になっている石の形は多く存在する。

6.3.厚み
碁を打つ上で重要な要素として厚みがある。言い換えれば勢力のようなものである。例として三間ヒラキの真ん中に打ち込もうとする場合、ただの三間ヒラキに打ち込むより、ヒラキを成す一方の石が2石の連続した形(中央方向に立っている)である場合のほうが、より打ち込みは無謀と感じるだろう。これは打ち込まれた石を勢力に追い詰めることで、取ることができないにしても相当いじめられることが予想されるからである。これ以外にも有効に石を連続させておくことで大模様を形成できたり、盤上で不意に発生したシチョウに対しシチョウあたりの効果を発揮するなど、あらゆる可能性をもっている。

6.4.石の働き
囲碁はお互いに着手する回数はほぼ同じなため、その中でいかに効率よく局面を進め、最終的により多くの地を獲得するかが重要になる。この石の効率のことを「石の働き」とも言い、効率が良い状態を「石の働きが良い」、効率が悪い状態を「石の働きが悪い」と言う。石の効率は石の形とも密接な関係にあり、愚形や凝り形と呼ばれる形は総じて石の働きが悪い形でもある。
また、石の働きの評価方法に「手割り計算」がある。局所において白黒双方の形が定まった時点で互いの働きのない石(不要な石)を除外していき、どちらの方が除外した数が多いか、または白黒同じ数だけ取り除き、その時に残った石の働きにより形勢を判断する方法である。手割り計算の概念を最初に編み出したのは本因坊道策とされており、これによって局所戦に終始する旧来の碁の時代が終わり、石の効率を追求するという近代碁の概念が確立された。

7.競技としての囲碁
7.1.段級位制度
囲碁の力量を数値で表すための段級位制度が存在している。アマチュアとプロで認定の仕組みが異なっており、アマチュアでは日本棋院・関西棋院が認定をしている。
アマチュアは、初心者は30~50級から始まり、最高位は八段である.。段級位の認定を受ければ、免状を発行してもらうことができる。
プロは初段から始まり、最高位は九段である。プロ棋士同士の対局の成績によって昇段が行われる。

7.2.囲碁の大会
日本では室町時代末期から棋士による大会が行われていた。20世紀に入り日本棋院が設立されると、新聞社の協賛により多くの大会が開催されるようになった。また、戦後からは韓国・中国を中心として世界規模の大会も開催されるようになった。

7.3.プロ組織
室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れたが組織化までは至らなかった。江戸時代に家元が幕府より俸禄を受けるようになり公認の職業として職業棋士が成立し、家元を中心とする組織化が行われた。明治になると俸禄が停止され家元制度が弱体、愛好者や新聞社と契約を結ぶものも現れ、職業棋士組織も乱立したが、これらが連合し日本棋院が生まれた。

8.競技人口の概要
『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)によると、1年に1回以上囲碁の対局をおこなう、いわゆる「囲碁人口」は、1982年の1130万人から、2004年450万人、2006年360万人、2007年240万人と漸減傾向が続いている。

9.囲碁と数学
囲碁は、そのルールの単純性と複雑なゲーム性から、コンピュータの研究者たちの格好の研究材料となってきた。
他のゲームと比較した囲碁の特徴としては、盤面が広く、また着手可能な手が非常に多いため、盤面状態の種類およびゲーム木がきわめて複雑になることが挙げられる。盤面状態の種類は、チェスで1050、シャンチー(象棋)で1048、将棋で1071と見積もられるのに対し、囲碁では10160と見積もられる。また、ゲーム木の複雑性は、チェスで10123、シャンチーで10150、将棋で10226と見積もられるのに対し、囲碁では10400と見積もられており、チェス、シャンチー、将棋と比較して囲碁の方がゲームとして複雑であるとされてきた。
チェスの世界では、1996年のガルリ・カスパロフとの対局で、初めて単一のゲームで世界チャンピオンにコンピュータが勝利した。また、1997年にはオセロの世界チャンピオンであった村上健がコンピュータとの6番勝負で6戦全敗し、2006年にはシャンチーのプログラムが大師との対局に勝利、2012年には将棋棋士(引退)の米長邦雄がコンピュータに敗れた。
その一方でコンピュータ囲碁の棋力は伸び悩み、2000年代初頭においてもアマチュアの有段者に及ばない程度の棋力であったが、2000年代後半に入るとモンテカルロ法を採用したコンピュータの登場により棋力が上昇し、2012年ごろにはアマ六・七段程度の棋力に達した。その後、2016年にディープラーニングの技術を用いたGoogle DeepMind社の開発したAlphaGoが、ヨーロッパのプロ棋士樊麾二段に2015年10月に勝利していたことが公表され、2016年3月に行われた韓国のトップ棋士である李世乭との5番勝負も4勝1敗で制した。Google DeepMind社の発表前は、他のコンピュータプログラムの棋力はまだアマ六・七段程度であり、トップ選手が公の舞台で敗れるかなり前からコンピュータの高い実力が広く知られていた他のゲームとは異なる展開を見せた。

10.文化における囲碁

10.1.囲碁の別称とその意味
囲碁にはさまざまな別称・雅称があるが、それらの中には中国の故事に由来するものも多い。
そのような故事由来の異称の代表である爛柯(らんか)は中国の神話・伝説を記した『述異記』の次のような話に由来する。晋の時代、木こりの王質が信安郡の石室山に入ったところ童子たちが碁を打っているのを見つけた。碁を眺めていた王質は童子からナツメをもらい、飢えを感じることはなかった。しばらくして童子から言われて斧を見ると、その柄(柯)が朽(爛)ちていることに気付いた。王質が山を下り村に帰ると知っている人は誰一人いなくなっていた。
この爛柯の故事は、囲碁に没入したときの時間感覚の喪失を、斧の柄が腐るという非日常な事象で象徴的に表している。また山中の童子などの神仙に通じる存在から、こうした時間を忘れての没入を神秘的なものとしてとらえていることもうかがえる。この例と同様に、碁を打つことを神秘的にとらえた異称として坐隠(ざいん)がある。これは碁にのめりこむさまを座る隠者に通じるとしたもので、手談(しゅだん)と同じく『世説新語』の「巧芸」に囲碁の別称として記されている。手談は字の通り、互いに碁を打つことを話をすることと結び付けたものである。
囲碁の用具に着目した異称として烏鷺(うろ)がある。碁石の黒白をカラス(烏)とサギ(鷺)にたとえている。方円(ほうえん)は碁石と碁盤の形からつけられたもので、本来は天円地方で古代中国の世界観を示していた。のちに円形の碁石と正方形の碁盤から囲碁の別称となった。「烏鷺の争い」とも言う。
『太平広記』巻四十「巴邛人」の話も別称の由来となっている。巴邛に住むある男が橘の庭園を持っていたが、あるとき霜がおりた後で橘の実を収穫した。しかし3、4斗も入りそうな甕のように大きな実が二つ残り、それらを摘んで割ってみると、中には老人が二人ずつ入っていた。この老人たちは橘の実の中で碁を打っていた。この話から囲碁は橘中の楽(きっちゅうのらく、―たのしみ)とも呼ばれる。ただし、原文では老人が遊んでいたのは碁ではなく「象戯」(シャンチー)である。
碁盤には、「天元→北極星」、「星→星」、「19路×19路=361 → 1年365日」、「四隅→春夏秋冬」など、自然界・宇宙を抽象的に意味づけているとの主張もあるが、361日と365日は10年で40日(一ヶ月以上)も差があり、こじつけという見方もある。

10.2.囲碁に由来する慣用表現
傍目八目・岡目八目(おかめ はちもく)
そばで見ていると冷静だから対局者の見落としている手も見え、八目ぐらい強く見える意から、当事者よりも第三者の方がかえって物事の真実や得失がよく分かる例え。
一目置く(いちもく おく)
棋力に明らかに差のある者どうしが対局する場合、弱い方が先に石を置いてから始めることから、相手を自分より優れていると見なして敬意を表すること。その強調形の『一目も二目も置く』が使われることもある。
なお、ハンデ付で対局する「置き碁」については、2目以上を置く場合をそのように呼ぶことが多く、1目を置く(黒で先手し、コミを出さずに対局する)場合については、一般に「先(せん)」という呼び方が用いられる。
駄目(だめ)
自分の地にも相手の地にもならない目の意から、転じて、役に立たないこと、また、そのさま。
駄目押し(だめおし)
終局後、計算しやすいように駄目に石を置いてふさぐこと。転じて、念を入れて確かめること。また、既に勝利を得るだけの点を取っていながら、更に追加点を入れることにもいう。
八百長(やおちょう)
江戸時代末期、八百屋の長兵衛、通称八百長なる人物が、よく相撲の親方と碁を打ち、相手に勝てる腕前がありながら、常に一勝一敗になるように細工してご機嫌を取ったところから、相撲その他の競技において、あらかじめ対戦者と示し合わせておき、表面上真剣に勝負しているかのように見せかけることをいう。
布石(ふせき)
序盤、戦いが起こるまでの石の配置。転じて、将来のためにあらかじめ用意しておくこと。また、その用意。
定石(じょうせき)
布石の段階で双方が最善手を打つことでできる決まった石の配置。転じて、物事に対するお決まりのやり方。
捨て石、捨石(すていし)
対局の中で、不要になった石や助けることの難しい石をあえて相手に取らせること。転じて、一部分をあえて犠牲にすることで全体としての利益を得ること。
死活(しかつ)、死活問題(しかつもんだい)
石の生き死にのこと。また、それを詰碁の問題にしたもの。転じて、商売などで、生きるか死ぬかという問題ごとにも用いられる。
大局観(たいきょくかん)
的確な形勢判断を行う能力・感覚のこと。転じて、物事の全体像(俯瞰像)をつかむ能力のこと。
目算(もくさん)
自分と相手の地を数えて形勢判断すること。転じて、目論見や見込み、計画(を立てること)を指す。

10.3.囲碁を扱った作品

10.3.1.文芸
『源氏物語』「空蝉」「竹河」「手習」「宿木」
『枕草子』「心ゆかしきもの」「遊びわざは…」「碁をやむごとなき人の打つとて…」
川端康成『名人』
斎藤栄『黒水晶物語』『黒白の奇蹟』
竹本健治『囲碁殺人事件』他
内田康夫『本因坊殺人事件』
水原秀策『黒と白の殺意』
遠田潤子『月桃夜』
トレヴェニアン『シブミ』
シャン・サ『碁を打つ女』
ノ・スンイル『オールイン』

10.3.2.映画
『未完の対局』佐藤純彌監督(南里征典による同名ノベライゼーションもある)
『π』ダーレン・アロノフスキー監督
『ビューティフル・マインド』ロン・ハワード監督
『呉清源〜極みの棋譜〜』田壮壮監督

10.3.3.文楽・歌舞伎
祇園祭礼信仰記、金閣寺の段 - “国崩し”松永大膳と此下東吉との対局から碁笥を利用した決定的な場面につながる。この話は囲碁用語を解さないとストーリーが理解できない。

10.3.4.漫画
山松ゆうきち『天元坊』
島本和彦『逆襲棋士瞳』
倉多江美『お父さんは急がない』『続・お父さんは急がない』
ほったゆみ(原作)・小畑健(画)『ヒカルの碁』
岡野玲子『陰陽師』
諸星大二郎『碁娘伝』
川原泉『かぼちゃ計画』
竹本健治『入神』
赤塚不二夫『ニャロメのおかしなおかしな囲碁格言』
モリエサトシ『星空のカラス』

10.3.5.落語
笠碁
碁泥

10.3.6.その他
アタリ - アメリカのゲーム会社。創業者が囲碁好きで、囲碁用語から社名を取ったというエピソードは有名。この後に子会社として「テンゲン」、創業者が次に作った会社に「センテ」(ノーラン・ブッシュネル参照)があった。
1988年より、市名が囲碁を想起させる青森県黒石市(白石黒石囲碁交流を促進する会)と宮城県白石市(白石黒石囲碁親交会)との間で親善囲碁将棋交流大会が毎年開催されている。
1968年にイギリス・トランスアトランティック・レコードから発売されたジョン・レンボーンとバート・ヤンシュのLP『ジョン・アンド・バート』のカバーには、両人が囲碁にうち興じる写真が使われている。

11.参考文献
中山典之『囲碁の世界』岩波新書 1986年
『囲碁・将棋文化史展-その伝来から近代まで』国立国会図書館 1988年
『江戸時代の囲碁の本―文化遺産詳解』日本棋院 1996年
水口藤雄『囲碁の文化誌―起源伝説からヒカルの碁まで (碁スーパーブックス) 』日本棋院 2001年


囲碁のルール

囲碁のルールについて、以下に記す。

目次 
1	概要
2	基本ルール
3	対局者(プレーヤー)
4	盤上の石の状態
4.1	石の連続
4.2	取り
4.3	石の存在
5	着手
5.1	呼吸点
5.2	自殺の禁止
5.3	同型反復禁止(コウ)
6	終局
6.1	投了
6.2	連続パス(対局の停止)
6.3	死活判定
6.4	地
6.5	死石の処理
6.6	終局に関するトラブル
7	勝敗判定
8	ハンディキャップ
9	反則

1.概要
基本的なルールは長い歴史の中でも変わっていないが、トラブルが少なくなるように、またゲームとして楽しめるように細かな改良が続けられてきた。だが大部分はほぼ不変で、囲碁がボードゲームとして完成されていることを表している。現在では大きく分けて、中国ルールと日本ルールの2系統が主流であるが、どちらを用いてもほとんどの場合勝敗や戦略には変わりがない。
以下では日本ルールを説明する。
まず、囲碁においては信義則が重要となる。日本囲碁規約にも「この規約は対局者の良識と相互信頼の精神に基づいて運用されなければならない。」とある。とりわけゲームの特性上、終局処理に両者の合意が数多く必要とされる囲碁においては円滑に対局を行う上で必要不可欠である。近年、ネット碁で対局者がお互い匿名である場合も多いが、そのような状況では信義則はより重要である。

2.基本ルール
碁盤の線の交差部分に黒と白が交互に打つ。
地(自分の領域)の多いほうが勝利。
相手の石は上下左右を囲うと取れる。
着手禁止点(自殺手)
コウ

3.対局者(プレーヤー)
黒番と白番と呼ばれる2人のプレイヤーがそれぞれ、黒・白の石を使用する。黒番・白番を略して、それぞれ黒・白と呼ぶこともある。

4.盤上の石の状態
以下の条件で盤上の交点上に石が存在し続ける。

4.1.石の連続
複数個の一つの色の石が縦横の碁盤の線に沿ってつながっているものは石の一団とよばれる。
縦横のつながりが重要で、斜めは関係ない。「つながっている」「囲まれる」などの言葉は、縦横に限った話である。

4.2.取り
石の一団は、その周囲の交点全てに相手の石を置かれると取られる。
石の一団は隣接点で呼吸をしている。隣接点が空点(石が存在しない交点、呼吸点)であれば、呼吸ができる。隣接点に相手の石があれば呼吸を邪魔される。上下左右四方向とも相手の石にふさがれると窒息してしまい取られてしまう。もし、隣接点に味方の石がある場合は、味方の石を通じて呼吸ができ、石の一団で一つでも呼吸のできる石があれば、その石の一団全体が呼吸できる。全ての石の縦横が塞がれ、呼吸のできる石が一つも無くなった場合は、その石の一団全体が窒息し取られてしまう。取った石はハマとよばれる。

4.3.石の存在
取られない石は、着手されてから終局まで盤上に存在し続ける。

5.着手
黒と白が、交互に一つずつ石を置いていく(打つ、着手する)。黒が先手で、白が後手となる。
以下に述べる着手禁止点を除く、盤上のすべての空いている交点に着手して良い。パスも可能。

5.1.呼吸点
盤上の交点に石を置いたとき上下左右に隣接した4つの交点が存在する。石はこの点を使って呼吸をしていると考えることができ、この点を呼吸点と呼ぶ。 呼吸点をすべて相手の石で囲まれると石は死にハマとなる。

5.2.自殺の禁止
自分の石を置くとその石が取られる状態になる点は着手禁止点となる。つまり自殺は禁止。ただし、自殺手によって、相手の石が取れる場合は、自殺手は許され、打ち込んだその石自体も取られない。

5.3.同型反復禁止(コウ)
対局者の一方が一つの石(以後一子と称す)を取った後、即座にもう一方の対局者が一子を取れる状態になる場合。この状態をコウと呼ぶ。一子の取り合いを続けていると永久に対局が終わらないことになるため、コウには特別ルールを設けている。一方の対局者がコウの一子を取った後、もう一方の対局者は別の場所に1手打たない限りはコウの一子を取り返すことが出来ないものとする。なお、この別の場所に打たれる一手のことを、コウ材またはコウダテと呼ぶ。コウがあまりに長くその局が長手数になると打つ石が碁笥の中に無くなってしまう場合があるが、その時は互いのアゲハマを同じ数交換し補充する。

6.終局

6.1.投了
一方のプレーヤーが投了を告げた場合はその時点で終局となり、もう片方のプレーヤーが勝ちになる(「中押し(ちゅうおし)勝ち」と表記される)。

6.2.連続パス(対局の停止)
また、二人のプレーヤーが連続でパスをすると終局処理に入る。ネット碁でない通常の対局では、パスの代わりに、両対局者の合意によって終局状態に移行する。言葉で終局を確認したり、頷きあったりして確認することが多い。逆に、「両対局者の合意」などの終局状態への移行手続きを形式化した表現が連続パスであると考えて良い。

6.3.死活判定
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盤上にある石は活き、死にの二つの状態のどちらかになる。日本囲碁規約では以下の通り定められている。
活き:相手方の着手により取られない、又は取られても新たに相手方に取られない石を生じうること。
ここで「取られても新たに相手方に取られない石」とは例えば、ウッテガエシのような「一度取られてもその後取られない石」や、相手がある石を取ろうとしたことが原因で自分が新たに置ける活き石が該当する。
セキ:一方のみの活き石で囲んだ空点を目(め:地を数える単位も同じ漢字だが、読み方はもく)といい、目以外の空点を駄目(ダメ)という。活き石のうち、駄目を有する(隣接している)活き石をセキ石という。
死に:活きでないこと
死活判定は必ずしも簡単ではない。日本囲碁規約逐条解説では、死活例が多数示されているが、あくまでも基本パターンを示したに過ぎず、ここでも対局者両者の合意が前提となる。

6.4.地
セキ石以外の活き石の目を地という。死石を除去すると、盤上には活きた白石と黒石のみが存在する。自分の石と碁盤の端で囲んだ領域を、自分の地と定義する。

6.5.死石の処理
相手の死んだ石は、盤上から取り除き、自分のハマに加える。ハマをもって相手方の地を埋める。

6.6.終局に関するトラブル
とりわけ日本ルールでは終局に関するルールがやや煩雑である。そこで、例えば、お互いの合意が成立していないのに終局が成立していると勘違いし、駄目詰めに対して必要な着手(手入れという。)をせずに石をとられてしまい、終局していたかどうかで争いになってしまうといったトラブルが後を絶たない。こういったトラブルはアマチュアだけでなくプロでも起こり得る。
2002年王立誠二冠(棋聖・十段)に柳時熏七段が挑戦した第26期棋聖戦七番勝負第五局において、終局したと思っていた柳時熏は「駄目詰め」の作業に入っていたが、王立誠は終局とは思っておらず柳時熏の石六子を取ってしまった。終局していないのなら柳時熏は取られないように「手入れ」すべきで、終局しているなら順序関係なくお互いの地にならない駄目をつめるだけだったため柳時熏は手入れを怠った。これにより王立誠の逆転勝利となり、行為の正当性を巡り囲碁界に論争を巻き起こした。この騒動では、初めてビデオによる裁定が行われた。なお一部で誤解されているが、この事件によって日本囲碁規約が改訂されたということはなく、この事件の影響はプロの間で終局処理が実際に日本囲碁規約に沿った形で明確に行われるようになったということである。

7.勝敗判定
地の一点を「一目」という。地の面積は、交点の数で数え、単位は目(もく)である。双方の地の目数を比較して、その多い方を勝ちとする。同数の場合は引き分けとし、これを持碁という。中国ルールにおいては、地の目数と盤面で生きている石の数の合計の大小で勝敗を決する。このため、セキの場合などに勝敗が変わることがある。
麻雀などの他の点数を使うゲームと異なり、囲碁においては通常目数の差は重要ではない。そのため、複数回対局して優劣を競う大会などでは、目数差は累積せず、単に勝敗のみを記録して集計する。

8.ハンディキャップ
囲碁は先手有利のゲームなので、両者が同程度の有利さで対局する(互先)場合、コミと呼ばれるハンディキャップを先手の地の計算から引くことが一般的。実力差がある場合は、置き碁が行われることがある。

9.反則
囲碁において反則負けとなる行為には以下のようなものがある。

ハガシ
一度打った自分の手を打ち直すこと。

二度打ち
相手の手番を飛ばして二度続けて打ってしまうこと。

コウの取り番の間違い。
コウ材を打っていないのにコウをとってしまうこと。

着手禁止点
打った時点で相手に取られてしまうような着手は打ってはいけない。


囲碁の格言

囲碁の格言は、囲碁においての戒めや教訓を短くまとめたものをいう。よく知られているものは古くから伝えられ、作者不明のものがほとんどであるが、現代の棋士によって新たに創作された格言もある(苑田勇一など)。囲碁の格言は上達のためのエッセンスを含んでいて有用であるが、戦法や考え方の進歩などで意味を失っているものもある。
目次 

あ行
アタリアタリはヘボ碁の見本 
やたらに次々とアタリをかけるのは、味を消したり相手を強化させるだけで、得にはならない。
上図左のように、白1から3などと次々にアタリをかけるのは黒の外勢を強化するお手伝いになってしまう。右のように単に白1とハネ、白3と進出する方が好形である。
厚みを地にするな 
一般に、中央方面に地を囲うのは、手数がかかって効率が悪い。このため、厚みは中央に地を作るのではなく、攻めに活用すべきである。「厚みを囲うな」とも。
一隅二シマリ三ヒラキ 
布石の基本的な順序を教えた格言。まず空き隅に打つのが大きく、次にシマリを打って隅の地を確保する(カカリはシマリと同格)。さらに辺へヒラいて模様を確保する。さらに「四ツメ五トビ」と続くこともある。ただし近年では、隅のシマリを省いて辺に展開する中国流などの布石も有力とされている。
一間トビに悪手なし 
中央に向けての一間トビは、確実に連絡しつつ自分の石を強化する手で、まず悪手にはならない。
一石に負けなし 
一方の打った石が全て連絡している状態(一石)になると、ほとんど負けない。石の連絡の重要さを教えた格言。
一方石に死になし 
弱い石がいくつかあって、カラミ攻めにされるとシノぐのは大変だが、弱石が一つだけならそう危険はない。
一方地に勝ちなし 
一ヶ所に固まった地は大きく見えるが、実際には何ヶ所か隅などをしっかり確保する方が大きく、勝ちやすい。
追うはケイマ、逃げは一間 
相手の石を追いかける時は、厳しく相手の石に迫るケイマが、攻められている時は、堅く連絡している一間トビを活用するのが有力。下図のような場合。
大場より急場 
序盤戦では一般に、広く展開して模様を拡大する手(大場)が大きいが、自分の石の根拠を固める手、双方の力関係に大きく影響する手(急場)が見た目より重要なことも多いという意味。
岡目八目(おかめはちもく) 
「傍目八目」とも。対局者でない第三者の方が冷静に盤面を見られるため、八目ほども先を読めるという意味。ただし、プロの場合では対局者が一番詳しく読んでいることがほとんどといわれる。

か行
切った方を取れ 
二線にキリが二つ入りうる形の場合、相手がキってきたらそれを素直に取っておくべき。下左図、黒1のキリに対しては白2 - 4と一目を取って不満はない。右のように白2とツイで頑張っても眼形がなく、よい結果にならない。
キリチガイ一方をノビよ 
相手にキリチガイを打たれた場合、一方の石をノビて強化しておくのがよい。多くは弱い石を、味方に連絡させるようにノビるとよい。下図、白1のキリチガイには黒2とノビて対応する。
車の後押し悪手の見本 
相手の石を必要以上にオシていくのは、敵を一歩先に進出させ、強化させるのでよくないという教え。下図のような状態を指す。
ケイマにツケコシ 
ケイマの形の石に対しては、ツケコシに打つのが急所となる。下図黒1。
ケイマのツキダシ悪手の見本 
逆にケイマに対して出て行く手は、相手を連絡させて安心させてしまう悪手となりやすい。下図黒1のような手。

さ行
サバキはツケから 
敵の勢力圏内でサバくときには、相手の石にツケて調子を求めるとよい。下図では、白1のツケから3とハネてサバキを目指す。
サバキ許さぬブラサガリ 
自分の勢力圏内に敵が打ち込んできた場合、相手に付け入る隙を与えないブラサガリの形が有効である。下図黒1のような手。
左右対称中央に手あり 
左右対称の形では、中央に急所があることが多い。下図では、白1が唯一の脱出手段となる。aやbに出ても白5子は脱出できない。
(玄玄碁経「亀勢」)
三目の真ん中 
ダメが詰まった三子の石は、その真ん中から一路離れた位置が急所となる。下図黒1が「三目の真ん中」の急所にあたる。白から打つ場合も、同点に打って形を整える。
シチョウ知らずに碁を打つな 
シチョウは石を取る手段として重要だが、取れるかどうか正しく読み切るのはそう簡単ではない。しっかり練習しておくべきという意味。
死はハネにあり 
相手のフトコロを狭めるハネは、しばしば敵の死命を制する。下図では、黒1のハネで白はどう打っても死ぬ。
初コウにコウなし 
序盤戦で発生したコウには、多くの場合それに見合うコウダテがない。このため、取り番の方が有利になる。
スソアキ囲うべからず 
二線のトビコミなどで大きくヨセられる余地のある場所は、囲っても効率が悪い。
隅の急所は二の一 
絶隅(一の一)は、一手でアタリになる、二手で眼を作れるなど特殊な環境にある(隅の特殊性)。これを利用し、その隣である二の一の点が、死活や攻め合いの急所になる場合が多い。下図では、黒1と「二の一」の点に打つのが急所で、攻め合い勝ちとなる(ただし反対側のaに打ったのでは負け)。
攻めたい石にツケるな 
ツケは自分の石を強化すると同時に相手の石も強くしてしまうので、攻めたいと思っている石にツケていくのは得策ではない。

た行
大石は死せず 
大きな石は周辺に利き筋なども多く、無理に取りに行ってもそう取れない。
ダメの詰まりは身の詰まり 
ダメを無用に詰めると、自らの首を絞めることになるという戒め。ダメヅマリの項目参照。
ツケにはハネよ、ハネにはノビよ 
敵にツケられたらハネて受け、ハネられたらノビるという基本的な打ち方の教え。下図がその例。
強い方にツケよ 
星に両ガカリされた時、ハサミのない強い方の石にツケた方がよい。ただし近年は考え方が変わり、ハサミのある方にaとツケていくことが多くなっている。
黒1がハサミのない強い方の石へのツケ。近年はaにツケることが増えている。
敵の急所は我が急所 
相手にとっての急所は、自分にとっても重要な着点となることが多い。この格言は、『週刊碁』誌の「プロ棋士が選んだ囲碁格言ベスト10」で、1位に選ばれた。

な行
二線敗線、四線勝線 
下左図の黒のように、二線を必要以上にハウのは、地が1目ずつしか増えないのに相手の厚みがそれ以上に増し、一般によくない。また下右図のように四線をノビていくのは、地が3目ずつ増えていくので効率がよい。ただしこれは布石段階での話であり、終盤に入ってからは二線のハイは極めて大きなヨセとなる。
二目にして捨てよ 
自分の石をカカエられたら、一本サガッて捨て石を増やし、手数を延ばしておいて周辺から利かすのが有効な手段になる。下図の場合、黒1の石をそのまま捨てるのではなく、黒3と逃げておけば、黒5,7,9を利かして外勢を固めることができる。
二目の頭は見ずハネよ 
自分と相手の石が二子ずつ並んで対峙した状態の時、相手の頭をハネるのは多くの場合に急所となる。下図黒1のような手。
ノゾキにツガぬ馬鹿はなし 
相手にノゾキを打たれたら、素直にツイでおくべき(ただし上級者は利かされを嫌い、あえてツガずに反発する手を考えることも多い)。

は行
広い方からオサエよ 
星から両辺にヒラいている時に三々に入られたら、広くヒラいている方からオサエた方が大きな模様形成が期待できる。下図の場合、白1の三々入りに対しては黒2とオサエれば、下辺に大きな模様が見込める。
ポン抜き30目 
特に中央に近い場所でのポン抜きは四方に威力を発揮し、大きな戦力となる。「30目」は具体的な数字ではなく、大きい価値を持つというたとえ。二目抜いた形はさらに強力で、「亀の甲60目」ともいわれる。

ま行
まずコウを取れ 
コウが発生したら、とりあえずコウを取っておく。相手のコウダテをひとつ消費させることができる。
眼あり眼なしは唐(から)の攻め合い 
眼のある石とない石の攻め合いは、眼がある方が有利となる。下図では黒1のオキから攻め、3から5と眼を確保すれば黒の攻め合い勝ちとなる。眼あり眼なしを参照。

ただしダメの数が多ければ、眼のない方が勝つときもある(「眼あり眼なしも時によりけり」)。

や行
四隅取られて碁を打つな 
隅は地を取るのに最も効率のよい場所であるため、四つの隅とも敵に取られてしまってはまず勝てないという教え。ただし大模様作戦を得意とする武宮正樹などは、四隅を取らせて勝ってしまった碁も数多い。

ら行
両コウ三年のわずらい 
両コウで相手の石を取った形は、相手が無限のコウ材を持つことになり、後の戦いが不利になる。形勢に余裕があれば、一手かけて両コウを解消しておくのも一法である。

わ行
ワタリ8目 
自分の石を連絡させるワタリの手には、かなりの大きさがある。状況によって目数は変化するので、8目は絶対的な数字ではない。


互先

互先(たがいせん)は、囲碁の手合割の一つ。

概要
ハンデキャップのない対局を指し、棋力が近い場合に採用される。
囲碁は単純に目数で勝敗を決するとすると先手が有利であるため、一局で勝敗を決する場合、コミを用いて先手(黒)と後手(白)の均衡を図る。日本では2000年代以降、後手に6目半のコミを与える(先手が7目以上リードしていないと勝ちとしない)のが一般的となっている。先手・後手はニギリによって決められる。
互先の用語はもともとコミの無い時代に、互いに先(交互に白黒)を持つところからきている。
棋力に差がある場合には定先や置き碁を採用する。

定先

定先(じょうせん)は囲碁の手合割の一つ。対局者の棋力にわずかに差がある場合用いられる方式で、置石が無し、コミなしで行われる対局。
下手が常に黒石(先手)を持ち、上手が常に白石(後手)を持つことでゲームの特質としての「先手の有利性」を下手のハンデとして対局が行なわれる。
ハンデの隙間を埋めるために逆コミが設けられることもある。その場合、逆に黒がもらえる逆コミ6目半までというのが普通である。
なお、「定先」という言い方は先二や先相先といった複数局を一組とするハンデに対し、「常に先番で対局している」ハンデであるということ強調するための呼び方であり、その意識がなければ単に先と呼ぶこともある。

置き碁

置き碁、置碁(おきご)は、囲碁用語のひとつで、棋力の差がある二人が対局する場合、ハンデとしてあらかじめ碁盤に石を置いて対局する事をいう。将棋の「駒落ち戦」に相当する。
通常実力下位の者を下手(したて)、上位の者を上手(うわて)と呼び、下手は黒石、上手は白石を持つ。通常の対局では黒が先に着手して対局が開始されるが、置き碁の場合は黒があらかじめ盤上に石を置き(棋譜の記録上は着手とされない)、ここに白が先に着手して対局が開始される。
あらかじめ置く石を置き石と言い、通常その数は対局者の実力差に応じて2~9子の間で調整される。置き石の数によって9子局、8子局、…2子局のように呼ぶが、「1子局」というものはない。置き碁と互先の間に位置づけられるものに、定先といって下手が常に先手番を持ち、コミなしで打つ方法がある。
真剣勝負としての色合いは低く、純粋な楽しみか、下手への訓練として行われることが通例である。 現在、置碁は雑誌等に掲載されるプロアマの交流対局などで見られる程度であり、プロの公式戦においては見られない。ただし、大手合などでは棋力差に応じて置き碁も行われていた。

目次  
1	置き石の配置
2	置き石の効果
3	自由置き碁
4	事前置石制
5	参考図書
6	関連項目

置き石の配置
石の置き場所は下記のように定められており、2子から4子までは全て隅の星(2子の場合最も離れた隅の星に置く)、6子では4子に加えて対辺の二つの星、8子では隅と辺のすべての星、5子、7子、9子ではそれぞれ4子、6子、8子に加えて天元(すなわち、9子ではすべての星)となる。数字は、開始の際に石を置いていく順序を表す。
別名として9子局のことを「星目・井目(せいもく)」、4子局のことを「四本柱」と呼ぶこともある。
2子局
3子局
4子局
5子局
6子局
7子局
8子局
9子局

対戦者の実力が大きく離れている場合には、星目の配置にさらに三々や7の七の位置に石を加えることもある。前者を「星目風鈴(井目風鈴)」、後者を「中四目」と呼ぶ。一方が全くの初心者である場合などでは、星目風鈴と中四目を両方採用したり(星目風鈴中四目)、最大25子まで置き石を増やすケースもある。
星目風鈴
中四目
星目風鈴中四目
25子局

置き石の効果
通常置き石1つは、目数にして約10目のハンデといわれる。例えば互先で打って30目ほどの開きが出る実力差であれば、3子で打つのが適当ということになる。ただし置き石が増えるとその相互の関連によってさらに威力が増し、9子局のハンデは約130目に相当するといわれる。

自由置き碁
置き場所を下手の好きな場所に決めて良い、自由置き碁と呼ぶ方式もある。自分の得意なスタイルに合わせて自由に配置できる、星以外の定石も学べる、様々な配置を工夫できるなど、通常の置き碁にはない楽しみ方ができる。プロアマ本因坊対抗戦などで採用されている。
自由置き碁の配置の一例(6子)

事前置石制
当初、囲碁は互先であっても、下図のように白黒2子ずつを置き合った状態から対局を始めていた。これを事前置石制または「鎮子碁」と呼ぶ。日本では早くからこの制度が消え、第一着から自由に打つ方法が広まっていたが、中国などでは20世紀初頭まで事前置石制が行われていた。また、チベットの碁(密芒)では、17路の盤に白黒6子ずつを置いてスタートする。

参考図書
大竹英雄『基本置碁事典 上・下』日本棋院
『新・早わかり置碁小事典―九~三子局パターンの研究』日本棋院


囲碁用語

囲碁用語一覧は、囲碁に関する用語のうち既に記事のあるもの、及び記事の書かれる予定であるものの一覧である。なお囲碁用語は、「トビ」「ノゾキ」「ケイマ」などのように、カタカナで表記されることが一般的である。
参考図書に『新・早わかり 用語小事典―読んで調べる囲碁知識 』(日本棋院)がある。
目次   
1	あ行
2	か行
3	さ行
4	た行
5	な行
6	は行
7	ま行
8	や行
9	ら行
10	わ行
11	関連項目
12	注
13	外部リンク

あ行
アキ隅:文字通り、まだどちらの石も着手されていない、空いている隅。
アゲハマ
味:今すぐに問題はなくとも、周囲に相手の石が来ると厳しい手段が発生するようなやや危険な形を「味が悪い」と表現する。またこうした危険を残さない確実な手を「味のよい手」などと呼ぶ。
アタリ
厚み
アテ
アテコミ
アテツケ
アマシ:先に地を稼ぎ、敵の攻撃をうまくかわして勝ちに持っていく打ち方。
荒らし
囲碁
囲碁の歴史
囲碁九品
囲碁殿堂
石の下
一合マス
一間トビ
薄い:相手の石が来ると、連絡が切れやすい・眼形に乏しい形。またこのような形を守る手を「(手)厚い手」と呼ぶ場合がある。
打ち込み
ウチカキ
ウッテガエシ
エグリ:急所に打ち込み、相手の根拠を奪うような手。
オイオトシ
王座
大ザル
大ゲイマ
大高目
大目ハズシ
オキ
置き碁
オサエ
オサマリ:「治まり」とも。完全ではないが、だいたい眼を持って急には攻められない形になること。
オシ
オシツブシ
重い:捨てにくく、負担になりそうな石の一団、あるいはそのような石を作るような打ち方。

か行
カカリ
確定地
カケ
欠け眼
欠け眼生き
カス石:取られても大勢に影響しない石のこと。
形
肩ツキ
カナメ石:相手を切断している石など、取られると不利をもたらす石のこと。
辛い:地をしっかり稼ぐ打ち方を表現した言葉。
カラミ
軽い:ある一団の石が捨てやすく、どうにでもサバけるような状態。また、そのような打ち方。
関西棋院
緩着:追及するチャンスを逃すような、相手にほとんど響かない手。「ぬるい手」とも表現される。
利かし
利き
棋士
棋聖
棋戦
棋譜
急場
キリ
キリチガイ
切り賃
棋力
愚形
グズミ
腐る:相手の強い石にくっつくなどして、石の働きを失うこと。
形勢判断
ケイマ
消し
ゲタ
碁石
コウ
小ザル
コスミ
コスミツケ
碁聖
後手
五ノ五
碁盤
細かい:形勢が終盤になっても接近していることを指す。
コミ
小目
根拠:封鎖されても、中だけで十分生きられるような状態を「根拠がある」と表現する。逆に、封鎖されると眼形に乏しい状態を「根拠がない」と表現する。

さ行
サガリ
サシコミ
サバキ
サルスベリ
三々
三連星
地
死活
持碁
シチョウ
シノギ
シボリ
シマリ
純碁
定先
定石
女流棋士
筋
捨て石
スベリ
隅:碁盤のカドに近い部分。
隅の板六
隅のマガリ四目
セキ
攻め
攻め合い
競り合い
先手
相場:着手や一段落した形が、ほぼ妥当と見なせること。

た行
対局時計
互先
高目
タケフ
タタキ
ダメ
ダメヅマリ
段級位制
着手
挑戦手合制
ツギ
ツキアタリ
作り碁
作る
ツケ
ツケコシ
ツケノビ
ツブレ:大石が死ぬなど、壊滅状態になること。
ツメ
詰碁
手筋
手抜き
天元
投了
トビ
トビツケ
取らず三目

な行
ナカデ
ナラビ
ニギリ
日本棋院
入神
入品
ネット碁
ヌキ
ノゾキ
ノビ

は行
ハイ
バカ八
ハザマ
ハサミ
ハサミツケ
ハナヅケ
ハネ
ハマ
ハメ手
ヒラキ
ヒラキヅメ
封じ手
布石
含み
フリカワリ
辺:碁盤の辺に近い場所。多くは四線より低い位置を指す。
ボウシ
ホウリコミ
ポカ:うっかりミスのこと。
星
本因坊
本手

ま行
マガリ
マガリ四目 ⇒隅のマガリ四目
マネ碁
見合い
見合い計算
眼
名人
目:「もく」と読む。地の数や、碁石の数を数える語。「3目勝つ」、「2目置く」など。ただし置石の場合、「子」と書いて「もく」と読ませることもある。
目算
目ハズシ
モタレ
持ち込み:相手の地中に打ち込んだ石がそっくり取られ、丸損となること。
模様

や行
ユルミシチョウ
ヨセ

ら行
連絡
六死八活

わ行
ワタリ
ワリウチ
ワリコミ

関連項目
囲碁の格言
将棋用語
注
^ 従来は漢字で表記されていたのを、1948年に創刊された囲碁新聞「囲碁之研究」紙で、藤沢秀行とともに発行者だった横井利彦の発案により「開」→「ヒラキ」、「征」→「シチョウ」といった仮名表記がなされ、これ以降他誌も追随するようになった。(秋山賢司「アマ碁狂列伝14 横井利彦氏の巻」(『棋道』1989年4月号))


囲碁の歴史

狩野永徳による囲碁の絵
目次  
1	中国の囲碁
1.1	起源・考古資料
1.2	先秦時代
1.3	漢魏晋
1.4	南北朝時代
1.5	唐代
1.6	宋代
1.7	元代
1.8	明代
1.9	清代
2	日本の囲碁
2.1	日本伝来
2.2	愛好者の広まり
2.3	江戸の黄金期
2.4	日本棋院誕生
2.5	戦後の囲碁
3	現代の日本の囲碁
4	現代の韓国・中国の囲碁
5	その他の国の囲碁

6	持ち時間の歴史
7	参考文献
7.1	日本の囲碁
8	脚注

中国の囲碁
棋待詔(囲碁を以って仕えた官職)も参考

起源・考古資料

朱氏筆 三星碁図 絹本着色 中国元代 根津美術館
囲碁の実際の起源ははっきりとは判っていないが、中国で占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったのではないかと言われている。
考古学的な考証を見ると、2002年に中国陝西省の考古学者が、前漢の景帝陽陵で、前漢時代(206 BC - 24 AD)のものと思われる陶製碁盤の断片を発見した。中国の考古学者の調査によれば、この碁盤は皇帝の陵墓から出土したとはいえ、皇族が使用したものではなく、陵墓の墓守達の遊戯のために使用されていたものと推定されている。このことから、中国では囲碁は2000年前には庶民の間にゲームとして一般的であったと考えられる。初期の碁石は、唐宋期のものが残っている。

先秦時代
伝説では、堯が息子の丹朱が賢くないのを見て、囲碁を発明し、教えたという。晋代の張華は「博物志」で、「堯造圍棋,以教子丹朱」と「舜以子商均愚,故作圍棋以教之」と記載する。“夏人烏曹作賭博圍棋。”(『潛確類書』)と、夏の時代に発明されたとする伝説もあった。もちろんこれは寓話であり事実ではない。
紀元前には囲碁のことを「弈」(エキ)と呼んでおり、「棋」は六博という別のゲームの駒を意味していた。後漢にはいると六博がすたれて、「棋」は弾棋を意味するようになったが、弾棋もすたれると、ようやく囲碁のことを「棋」というようになった。
春秋時代、孔子は囲碁について触れ、「飽食終日,無所用心,難矣哉!不有博弈者乎,為之,猶賢乎已!」(一日中何もしないよりは六博や碁でもやっていた方がましだ)と述べている。(論語・陽貨)
『孟子』や『春秋左氏伝』にも「弈」(囲碁)に関する記載がある。
先秦時代の囲碁のルールは明らかでない。

漢魏晋

石製碁盤 望都漢墓 中国後漢
この期間、囲碁はサイコロを使ったゲームの「六博」とともに「博弈」と称され、上層階級に広まった。ただし、前漢では運次第の「六博」の方が知力を競う囲碁よりも流行していた。後漢に至ってようやくこの状況は改善され、囲碁は兵法に類似しているとして、段々と重視されるようになってきた。班固の『弈旨』は世界初の囲碁の専門書とみなされる。馬融は『圍棋賦』のなかで最初に「三尺之局兮,為戰鬥場」との思想を表明した。曹操や孫策や王粲などの当時の著名人はみな囲碁をたしなんだ。関羽が矢傷を負った際、碁を打ちながら手術を受けたというエピソードはよく知られる。
河北省望都の後漢の墓から出土した棋具と魏の邯鄲淳の『芸経』の記載から、この時代の碁盤は17路だったと考えられる。碁石については、安徽省亳州の元宝坑一号墓から後漢末の四角い碁石が出土しているという。山東省鄒城の劉宝墓から出土した西晋の碁石は卵型である]。
中国に現存する最古の棋譜と言われているものに三国時代の「孫策詔呂范弈棋図」があるが、19路であるために後人の仮託であろう。

南北朝時代
この時期に囲碁は、南方の文人や雅士の間で流行した。碁盤は19路に拡大した。19路の碁盤の現物は隋の時代のものが河南省安陽張盛墓から出土している。
南朝では棋品制度と圍棋州邑制度が設けられ、専業の棋士をそれぞれ異なる級に分け、一定の待遇を与えた。梁の武帝は自ら『圍棋賦』を作って、囲碁を唱導し、囲碁は黄金時代を迎えた。
武帝はまた全国的な囲碁の大会を開催した。これは証拠がある最初の全国大会である。参加者は夥しかった。大会後、上品級と入品を確定した棋士は278人であった。

唐代]

王積薪(黒)驪山老媼(白)
唐代に入り、囲碁は急速に発展した。宮中には棋待詔という職が設けられ、皇帝と囲碁をする棋士を専門に養成した。王積薪は開元年間の名人であり、圍棋十訣をまとめた。「不得貪勝,入界宜緩,攻彼顧我,棄子爭先,舍小就大,逢危須棄,慎勿輕速,動須相應,彼強自保,勢孤取和」というこの秘訣は囲碁の古典理論とされる。伝説では王積薪は夢のなかで青龍が棋経九部を吐いて己に授け、この時からその芸が進んだという。唐の天宝年間、安史の乱を避けて王積薪は四川に行き、驪山の老婆の嫁姑の対局を見たという伝説がある。宋代の「忘憂清楽集」には、王積薪の「一子解双征」の棋譜が載っている。(一説には顧師言と日本国王子の対局という)。
開元25年(西暦738年)、棋士の楊季鷹が特使とともに新羅に使者として赴いた。楊季鷹に新羅棋士で敵うものは居なかった。約百年後、長安で顧師言と日本王子高岳親王が対局した。初めての正式な日中対抗戦と言えよう。顧師言はこの対局で「神來之筆」と後に呼ばれた「三十三招鎮神頭」で、一挙に勝ちを決めた。
またこの時期に囲碁が日本に伝来した。

宋代
宋の張擬は孫子の兵法を真似て《棋経十三篇》を書き、後世の囲碁理論と実践に深い影響を及ぼした。北宋時期の劉仲甫は囲碁に関する著作が多く、《忘憂清樂集》、《棋勢》、《造微》、《精理》、《棋訣》等がある。北宋時期の范仲淹、欧陽脩、司馬光、王安石、蘇軾、黄庭堅といった文人や忠臣も高い囲碁の造詣を持っていた。

元代
元朝の嚴德甫と晏天章は『玄玄碁経』を編集し、前人の大量の理論の著述や囲碁の死活や定石をあつめた。

明代
明末の名人の過百齢が『官子譜』を書き、各種の手を収録した。民間では囲碁を使った賭け事が盛んになり、朱元璋が「禁棋令」を出すほどだった。

清代
清朝の時代も、囲碁の名手は続々と出た。康熙年間、黄龍士が徐星友に三子譲った対局の10番の棋譜「血泪篇」は著名である、。乾隆四年(1739年)、施定庵と范西屏は浙江平湖で有名な「当湖十局」を打った。
公的な地位の低下は、明清時期の民間の棋士の経済収入を長く不安定な状態にした。棋士の収入は、囲碁の指導や弟子への伝授のほか、主に観客(主に顕官、富裕な商人、上層文人)の「賞金」や「賭け金」に依存していた。これは明らかに運まかせであった。もし太平の世であれば、貴顕たちにも余裕があって、民間の囲碁活動も盛んになり、棋士の生活も安定する。「諸子爭雄競霸,累局不啻千盤」,「海内国手幾十数輩,往來江淮之間」と、王燮は「弈墨·序」で清初の棋壇の盛况ぶりを描写した。しかしいったん民生が苦しくなると、棋士の生活も苦しくなった。囲碁のレベルも自然と段々下がり、後継者も減った。このような賞金にたよった生活方式は、棋士に独特の勝負観と社会的地位を形成した。囲碁は依然として高尚な芸術であったが、棋士は役者や占い師のように低く見られた。

日本の囲碁

日本伝来

源氏物語絵巻 竹河 部分
日本には遣唐使に加わった吉備真備が伝えたとされる。しかし大宝律令の中に碁に関する項目があること、隋書倭国伝に「好棋博、握槊、樗蒲之戲。(囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む)」との記載があるから、実際にはさらに以前から伝わっていたと思われる。奈良時代には盛んに打たれていた様で、正倉院に碁盤「木画紫檀棊局」が収められている。平安時代には貴族のたしなみとして好まれ、「枕草子」「源氏物語」などこの時代の代表的な文学作品にもしばしば碁の描写が登場する。現在伝えられている日本最古の棋譜と呼ばれる物は1252年に日蓮がその弟子吉祥丸(後の日朗)と打ったという棋譜であるが、おそらくは後世の偽作である。

愛好者の広まり
室町時代に入ると、それまで公家、僧侶階級に愛好されていた囲碁は武家や庶民にも広がり、同時に碁盤と碁石を使った様々な数とり遊びも生み出されて広まった。有力者は「碁打ち」「上手」と呼ばれる半専業の者を抱えて、競わせるようになり、その中には同朋衆や、出自不明の者も少なくなかった。戦国時代に入ると、戦のシミュレーションとして大いに好まれ、隆盛を迎える。武田信玄他、多くの戦国武将が碁を好んだという記録が残っている。
この時期に群を抜いた第一人者として登場したのが日海(後の本因坊算砂)である。この時代には、それまでは対局する両者が碁盤上にあらかじめいくつかの石を置いて対局していたものを、盤上にまったく石の無い状態から打ち始める方式への移行もあった。このため布石の概念も算砂の時代から生まれたといえる。
算砂は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の囲碁の師であり、三人共に算砂に五子置いていたと言う。算砂を現在のトッププロとすれば、信長たちは現在のアマチュア4、5段ということになる。その腕を信長に認められた算砂は名人の称号を名乗ることを許され、更に秀吉にも重用されて扶持を貰うようになり、家康が将軍となった後は名人碁所(めいじんごどころ)として碁界を統括することを命ぜられた。(算砂は将棋所も受けている)
戦国から江戸にかけては日本の碁のレベルが飛躍した時代であり、来日していた朝鮮人の李礿(礿は示編に勺)に三子を置かせて勝利したという記録が残っている。三子という数字は現代でいえばトッププロとトップアマの差である。

江戸の黄金期
江戸時代には算砂の本因坊家と井上家、安井家、林家の四家が碁の家元と呼ばれるようになり、優秀な棋士を育て、互いに切磋琢磨しあうこととなった。四家はそれぞれ幕府から扶持を受けており、それぞれの宗家は血筋ではなく、実力により決められる事となった(血筋も影響したようではある)。その技術の発揮の場が年に一回江戸城内、将軍御前にて行われる御城碁である。この勝負は四家がそれぞれ代表を数人選んで対局され、負けることは家の不名誉であり、弟子の集まり方にも影響があった。
また囲碁界の統括者である名人碁所の地位は、各家元いずれかの宗家であり、棋力が他を圧倒し、かつ人格的にも他の家元からも認められることが必要とされた。本因坊道策のように例外的に何の反対も無く名人となった者もいるが、名人の地位は他の棋士に対して段位を発行する権限を保有するなどの数々の特権と大きな名誉を有しており、多くの場合は名人の地位は争いとなった。争いの解決は対局で行われ、その対局を争碁(そうご、あらそいご)と呼ぶ。
史上初の争碁は二世本因坊算悦と安井家二世の算知との間で争われた。御城碁における手合割を不服としたもので、9年がかりで6戦して3勝3敗の打ち分けのまま、算悦の死によって終わりを告げた。
算知は算悦の死後10年目に名人碁所の座に就くが、算悦の弟子で三世本因坊となっていた道悦がこれに異を唱え、再び争碁が開始された。幕府の意にあえて逆らった道悦は、遠島あるいは死をも覚悟しての争碁であった。両者20戦して道悦の12勝4敗4ジゴとなったところで対戦は打ち切られ、名人算知は引退を表明した。また道悦も「公儀の決定に背いたのは畏れ多い」とし、弟子道策に後を譲って隠居した。道策の技量はこのときすでに道悦を上回っていたとされ、争碁後半で道悦が大きく勝ち越したのには道策との共同研究によるところが大きかったといわれる。
四世本因坊道策は当時の実力者たちを軒並みなぎ倒し、全て向先(ハンデの種類)以下にまで打ち込み、実力十三段と称揚された。もちろん名人にも文句なしに就位している。始祖算砂、棋聖道策と言う二人の不世出の棋士により、本因坊家は名実共に四家の筆頭となった。
時の最強者本因坊道策の下には天下の才能が集まったが、厳しい修行が仇となったのか次々と夭折した。このうち本因坊道的は19歳の時すでに師の道策と互角であったとされ、囲碁史上最大の神童といわれる。晩年、道策は道的に劣らぬ才能本因坊道知を見出し、これを後継者とした。道知もまた後に名人碁所となる。
道知以後は本因坊家の家元も三代にわたって六段止まりとなり、囲碁界自体も沈滞の時代を迎える。しかしここで現れた九世本因坊察元は他家を力でねじ伏せて久々の名人となり、本因坊家に中興をもたらした。また安井家七世安井仙知(大仙知)も華麗な棋風で活躍し、後世に大きな影響を与えた。
18世紀末から19世紀初頭は十一世本因坊元丈と安井家八世の知得の角逐時代を迎える。両者は80局以上に及ぶ対戦を重ねるが戦績はほぼ互角で、江戸期最高のライバルと謳われる。後の十一世井上幻庵因碩・十四世本因坊秀和と合わせ、名人の力を持ちながら名人になれなかった者として「囲碁四哲」と呼ばれる。
十二世本因坊丈和は棋力は第一級であったが、幻庵因碩と碁所の座を争い、策略を駆使して名人位に就いたために後世に悪評を残した。ただしその腕力は史上でも随一とされ、幻庵因碩が刺客として送り込んだ愛弟子赤星因徹を「三妙手」で返り討ちにした松平家の碁会(1840年)は江戸囲碁史のハイライトとされる。
丈和隠退後、幻庵因碩は名人位を望むが、これに抵抗したのが本因坊一門の若き天才児本因坊秀和であった。秀和は本場所というべき御城碁で幻庵を撃破し、その野望を阻んだ。秀和は史上最強の棋士として名が挙がるほどの実力であったが、名人位を望んだ時には世は幕末の動乱期に突入しており、江戸幕府はすでに囲碁どころではない状況に陥っていた。
本因坊秀和の弟子である本因坊秀策は若い頃より才能を発揮して、御城碁に19戦19勝と言う大記録を作ったが、コレラにより夭折した。秀和と秀策と秀策の弟弟子である村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)の三人を合わせて三秀と呼び、江戸時代の囲碁の精華とされる。
江戸時代には武士だけではなく、各地の商人・豪農が棋士を招聘して打ってもらうことが良くあり、落語の『碁打盗人』で有名なように、市井でも盛んに打たれていた。一方で地方によっては双六などとともに賭け事の一種と見られて、禁止令が発されることもあった。

日本棋院誕生
しかし明治維新により江戸幕府が崩壊すると、パトロンを失った家元制度もまた崩壊した。本因坊宗家の秀和は生活に苦しみ、一時は倉庫暮らしとなったほどである。更に西洋文明への傾斜、伝統文明の軽視と言う風潮から囲碁自体も軽く見られるようになった。
その中で囲碁の火を絶やすまいと1879年に村瀬秀甫は囲碁結社「方円社」を設立(方は碁盤、円は碁石のことで囲碁の別名である)。新たに級位制度を採用するなど、底辺の開拓を試みた。それに対抗して秀和の息子である土屋秀栄(後の本因坊秀栄)は1892年に「囲碁奨励会」を設立した。こうして坊社対立時代が続くが、秀栄は秀甫に本因坊の座を譲って和解した。しかしその1ヶ月後に秀甫は死去、秀栄が本因坊に復帰する。
こうした対局の熱気を受けて新聞にも囲碁欄が登場するようになり、一般の囲碁界に対する興味が高まってきた。
一旦は秀栄が本因坊家を相続、名人位に就位して並み居る棋士をなぎ倒して囲碁界を統一した。しかし秀栄の死後は団体が乱立し、囲碁界は混乱の極みとなる。秀栄は後継者を決めないままに死去し、田村保寿(後の本因坊秀哉)と雁金準一が後継の座を争い、囲碁界は混沌とした時期を送った。結局秀栄の弟本因坊秀元がいったん二十世本因坊を襲名し、一年後に秀哉に本因坊位を譲ることでこの難局を収拾した。
この状況の中で関東大震災が起き、囲碁界も大ダメージを受けた。この苦境を乗り切るためには分裂は好ましくないという機運が生まれ、帝国ホテル創業者として有名な大倉喜七郎の呼びかけにより、1923年に東西の棋士が集まって日本棋院が設立された。
発足直後に一部の棋士が離脱し棋正社を結成、日本棋院との間で対抗戦が行われた(院社対抗戦)。この時の本因坊秀哉名人と雁金準一の対局は新聞上に記載されて大人気を呼んだ。これによって読売新聞は発行部数を一挙に3倍に伸ばしたといわれる。1927年には大手合(棋士の段位を決めるための対局)が始まり、これも新聞上で人気を博した。
本因坊秀哉名人は死期が近づいてくると本因坊の世襲制を取りやめることを宣言し、本因坊の名跡を日本棋院に譲り渡した。1936年、日本棋院は本因坊の座を争う棋戦を開催することを決定した。これが本因坊戦であり、囲碁のタイトル戦の始まりでもある。秀哉名人は引退するに当たり木谷実と数ヶ月に及ぶ引退碁を打ち(木谷先番5目勝)、終了後まもなく死去した。
秀哉名人に代わって第一人者の地位を勝ち取ったのが、中国から来た天才棋士・呉清源である。呉清源は1933年、木谷実と共にそれまでの布石の概念を覆す「新布石」を発表し、本因坊戦の開催と前後して秀哉名人と対局を行い、その冒頭「星・三々・天元」という極めて斬新な布石を披露し、世間をあっと驚かせた。この新布石は囲碁界のみならず一般社会をも巻き込んで囲碁のブームを巻き起こした。

戦後の囲碁
1941年には実力制による本因坊戦が開始され、関山利一(利仙と号す)が第一期本因坊の座に就いた。しかし太平洋戦争が勃発すると棋士たちは地方に疎開せざるを得なくなり、各地でどさ周りをするようになった。日本棋院の建物も空襲で全焼しており、棋士・岩本薫の自宅に一時事務所を移転した。
その中でも本因坊戦は続けられていた。1945年8月6日の第三期本因坊戦(橋本宇太郎対岩本薫)の第2局は広島市郊外で行われ、対局中に原子爆弾の投下が行われ、対局場にも爆風が及び、碁石が飛び散ったが、対局は最後まで行われた。この対局は「原爆下の対局」と呼ばれる。
戦後しばらく日本棋院は都内各所の料亭などに場所を借りて対局を行っていたが、自前の対局所を持つべきだという声が強まり、1947年港区高輪に棋院会館が開設された。
呉清源は戦前より、当時の一流棋士たち相手に十番碁(十回対局をして優劣を決める)を何度も行い、その全てに勝利した。1950年には名人の別名である九段位(現在はそういった意味は無い)に推挙され、「昭和の棋聖」と呼ばれた。
1950年には不満を持った関西の棋士たちが当時の本因坊・橋本昭宇(橋本宇太郎)に率いられて日本棋院を離脱し、新たに関西棋院を設立した。1951年、その橋本から高川格が本因坊を奪取、以後9連覇という偉業を成し遂げた。また1953年には王座戦、1956年には十段戦、1962年には名人戦が新たなタイトルとして設立され、新聞碁でもタイトル戦が中心となる。
呉清源は1961年に交通事故に遭い、その後は精彩を欠いた。それに代わって碁界を制覇したのが坂田栄男である。坂田は高川格から本因坊位を奪い取った後に七連覇、また名人戦でも1963年の第二期では藤沢秀行からタイトルを奪った。この年は30勝2敗という驚異的な成績を残し、十段を除く当時のタイトルを独占した。
この坂田時代に待ったをかけたのが台湾から来日して日本のプロとなった林海峰である。1965年に名人を坂田から奪ったのを皮切りに、坂田の牙城を崩していった。更に林に対抗した木谷実門下の大竹英雄が登場し、竹林時代を作る。
またその他の木谷実の門下生たちも一気に活躍し出し、石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹の三人は木谷三羽烏と呼ばれた。この後1990年代まで、木谷の弟子たちが互いにタイトルを奪い合う一門の黄金時代(木谷一門黄金時代)が続いた。この時期この中に割って入ったのが藤沢秀行で、50代になってから棋聖戦で6連覇を記録するなど一人気を吐いた。
1974年、読売新聞が主催していた名人戦が朝日新聞に移籍するという名人戦事件が勃発。物価の上昇にも関わらず長年据え置かれていた各棋戦の契約金が見直されるきっかけとなった。これにより1975年に天元戦、1976年には棋聖戦・碁聖戦が設立、現在の七大タイトルが出揃うこととなった。
木谷三羽烏の後に時代を築いたのが、またしても木谷門下の趙治勲と小林光一の二人である。先に趙が活躍をはじめ、1983年には棋聖・名人・本因坊の三大タイトルを一年に独占する大三冠(だいさんかん)を達成し、1987年には七大タイトル全てを一回以上獲得する(一年に独占ではない)グランドスラムを達成した。少し遅れて活躍を始めた小林は趙から棋聖・名人を奪い取り、それぞれ八連覇・七連覇を達成した。小林は本因坊を取れば大三冠というチャンスを幾度となくつかむが、その都度趙に阻まれる。趙は1989年から本因坊十連覇を成し遂げ、これは囲碁界のタイトル最長連覇記録となっている。
90年代後半に入ってからは、ようやく衰えを見せた木谷一門に代わり、依田紀基と王立誠の両名が覇権を争い、21世紀に入ってからは張栩、高尾紳路、山下敬吾、羽根直樹ら平成四天王がタイトル戦線を割拠した。
しかし、2009年に平成生まれの天才棋士・井山裕太が初の大タイトルとなる名人を戴冠すると、2012年には一挙に五冠王となり、23歳にして第一人者の地位に就いた。そして、2016年には囲碁史上初となる七冠独占を達成し、世代交代の波を告げた。また、同時期から村川大介、伊田篤史、一力遼などの平成生まれの棋士たちが続々と躍進を見せている。

現代の日本の囲碁
ただし90年代からは囲碁の世界戦が開始され、当初は武宮正樹らの活躍があったものの、近年は韓国・中国の後塵を拝する時代が続いている。日本は若手の育成が遅れ、韓国・中国の急速な伸張に対抗しきれずに現在に至る。囲碁人口自体も老年の男性に偏り、若いうち(10歳前後)が大事といわれる棋士の育成が阻害されている。
このように競技人口の高齢化が深刻な問題となっていた日本囲碁界だったが、1998年から2003年まで週刊少年ジャンプにて漫画『ヒカルの碁』(後にテレビアニメとしても放送)により囲碁ブームとなり、多くの子供たちが囲碁を打つ姿が見られるようになった。しかし連載終了によって囲碁ブームも去り、子供たちをどう育成していくかが今後の課題である。「囲碁競技人口」は、1982年の1130万人から、2004年450万人、2006年360万人、2007年240万人と漸減傾向が続いている。
日本は国際大会でも連敗を続けており、世界戦では日本人がベスト16にも名を連ねられないことも珍しくない。この原因の一つとして、韓国・中国と日本の賞金の違いが考えられる。日本の棋聖戦の優勝賞金は4500万円(2010年現在)の賞金であり、国際戦最高額の富士通杯が2000万円であることから、日本は国内戦を優先に戦っている。韓国・中国の国内戦は日本戦に比べると安く、韓国の最高額であるKT杯マスターズプロ棋戦で5000万ウォン≒500万円である。また韓国人棋士は世界戦に優勝すると兵役を免除されるという特典がある。しかしこうした実利的な面ばかりでなく、囲碁熱の高さ、囲碁に対する国民の注目度、それがもたらす層の厚さが大きな要因といえる。また日本の主要な棋戦と持ち時間の長さが異なることも要因の一つとして挙げられている(後述)。

現代の韓国・中国の囲碁
中国と韓国では長らく囲碁は余技としてあまり重視されておらず、江戸時代には日本とはっきりした実力差があった。たとえば1620年に朝鮮の第一人者が来日した際には、本因坊算砂は三子置かせて勝利を収めている。昭和に入っても中韓にはプロ棋士という制度がなかったため、囲碁を志す者は日本にやってきてプロを目指すのが通例であり、呉清源・林海峰・趙治勲・曺薫鉉らはその代表である。曺薫鉉は、日本で修業した後、韓国へ帰り囲碁の普及に尽力した。
しかし1955年に韓国棋院が設立され、韓国内でプロを目指すものも増えてきた。中国でも1981年に中国囲棋協会が創設され、棋士を目指す子供が急増し、国内で囲碁のリーグ戦が開かれるようになった。また1984年から開始された日中対抗戦・日中スーパー囲碁では聶衛平が日本のトッププロに対して11連勝を記録し、レベル向上を印象づける結果となった。
1988年に日中韓の棋士たちが集まる世界大会世界囲碁選手権富士通杯が創設され、世界大会が次々と創設されるようになった。その国際戦を曺薫鉉・李昌鎬らの韓国棋士が勝利するようになると人気が爆発し、韓国内のそこここで囲碁教室が開かれるようになり、頭の良い子供たちは収入の良いプロ囲碁棋士になれと親から言われるようになった。特に李昌鎬の活躍は目覚ましく、16歳で世界大会初優勝を果たした後、世界の第一人者と呼ばれるようになった。
21世紀初頭に至り、韓国勢は世界の囲碁界を制した。李昌鎬と李世ドル(ドルの字は石の下に乙。韓国の国字)の二人が相争いながら世界タイトル戦線を席巻し、それに曺薫鉉・劉昌赫の二人を加えた四人が世界の四強と言われた(全て韓国)。それを追いかける朴永訓ら新鋭の層も極めて厚く、その覇権は盤石と思われた。しかし2005年ころから国家レベルで若手棋士の育成に励む中国が急ピッチでこれを追い上げ、常昊・古力ら若い棋士が世界のトップを争うようになっている。中国では周睿羊、陳耀燁、王檄ら、韓国では崔哲瀚、朴永訓、姜東潤ら10代から20代の若手がトップ戦線を走り、周俊勲ら、台湾勢も台頭し始めた。

その他の国の囲碁
事前置石の無い自由布石は、四百年前の日本に端を発するため、諸外国においては事前置石のルールが受け継がれている。中国韓国では、プロ組織の編制を機に自由布石が普及を開始した。これらの近代普及以前に囲碁が伝わった地域としては、中国韓国以外にはチベットが知られており、チベットの皇子が来日した際、17路式の囲碁の遊具を持参して日本のプロと打ったという記録がある(密芒)。
戦後になると、岩本薫らの努力によって、これらの国以外にも囲碁は世界に普及し始めた。さらにインターネットの出現によりネット碁を通じてどこにいても強い相手と戦える環境が整い、南米のアマチュアが日本のプロ九段を破るような事態もすでに発生している。日本棋院所属のマイケル・レドモンド(アメリカ出身)など、欧米出身のプロ棋士も数人存在する。
アマチュアの世界では更に拡大の傾向を見せており、アメリカで20万人・ロシアで10万人・ドイツで5万人の競技人口がいると推定される。

持ち時間の歴史

江戸時代、明治時代には持ち時間という考え方がなく、対局時間は無制限であった。ただし全ての碁が極めて長かったというわけではなく、1日で2局打ち上げた記録も残るなど早打ちの棋士も多かったらしい。大正期以降、新聞碁が主流になってくると掲載時期の関係から無制限というわけにはいかなくなり、1926年の院社対抗戦、本因坊秀哉名人対雁金準一七段戦で初めて持ち時間が導入された。この時の持ち時間は両者16時間ずつという極めて長いもので、これは秀哉が極端な長考派であったことが影響しているとされる。またこの時は秒読みというものがなく、考慮中の雁金に突然時間切れ負けが宣告されるという幕切れを迎えた。秀哉名人引退碁では両者に持ち時間40時間が与えられている。
タイトル戦初期の頃には持ち時間も各10~13時間、三日制であったが、これは徐々に短縮されていった。現在は一般棋戦では持ち時間5時間、棋聖・名人・本因坊の三大タイトルの七番勝負のみ二日制、各8時間持ちとなっている。しかし韓国・中国では各3時間持ちというのが一般的であり、国際棋戦もこれに合わせて行われるものが多く、日本人棋士が国際戦で振るわない原因の一つに挙げられている。持ち時間の長い国内棋戦に対し、3時間が主流の国際棋戦では布石に持ち時間を使うよりも研究で突き詰める方が効率がよく、日本の棋士が布石の研究で遅れた部分もある。このため日本国内のタイトル戦も国際戦に合わせるべきという声が高まり、王座戦などで3時間制が導入されるようになっている。
「早碁」も当初は持ち時間が4時間というものであったが、近年テレビ放送に合わせて1手30秒、持ち時間10分というシステムが一般化した。

参考文献
日本の囲碁

林元美『襴柯堂棋話』1778年(嘉永2年)
安藤如意『坐隠談叢』1904年(明治37年)**改訂版 1910年(明治43年)**渡辺英夫増補版 1955年(昭和30年)
増川宏一『碁 ものと人間の文化史59』法政大学出版局 1987年
横井清『中世民衆の生活文化』講談社 2007年
中山典之『囲碁の世界』岩波新書 2003年
日本囲碁大系
現代囲碁大系
『囲碁百年』(全3巻)平凡社 1968年
福井正明『碁界黄金の十九世紀―江戸後期から明治‐日本の碁を頂点に導いた名手たち』日本棋院 2007年
『昭和の名局』(全5巻)日本棋院 1980年
田村竜騎兵『物語り 囲碁英傑伝』毎日コミュニケーションズ 2005年(初版1972年)
伊藤敬一『昭和囲碁名勝負物語』全2巻 三一書房 1994年
中山典之『昭和囲碁風雲録』全2巻 岩波書店 2003年



碁盤

碁盤は、囲碁の用具の一つで碁石を打つ板のことである。盤の上面には縦横に直線が描かれ、それらは直角に交わっている。また、このような縦横の直線の交差により作られている格子状のものを、碁盤の目状と称する事もある(京都市内の通りなど)。

目次  
1	概要
2	19路盤
3	15路盤
4	13路盤
5	9路盤
6	歴史
7	深曾木の儀
8	出典
9	関連項目
10	外部リンク

概要
碁盤を作る木材には榧(カヤ)、桂、イチョウ、ヒノキ(主に台湾産)、ヒバ(主に米ヒバ、en:Callitropsis nootkatensis)、南洋材のアガチス(アガヂスとも)、北米産のスプルース材などが使用される。碁盤を作るためには少なくとも樹齢数百年の大木が必要である。榧製、特に宮崎県産の榧の柾目盤が最も珍重され高価であるが、近年は榧の大木は国内では非常に稀少となり、中国・雲南産の榧を使った盤が多く販売されるようになった。桂・イチョウなどの盤が普及品としては上物とされ、また安価なものには大木が得やすいスプルース材が多い。業者の広告等で「新カヤ」という商品名で呼ばれているものはスプルース、「新桂」と呼ばれているものはアガチスであるが、それぞれ榧や桂とは全く別種の木材であることには注意すべきである。木材を圧縮接着した積層材の盤、またプラスチック製のものやゴム製、持ち運び用のマグネット碁石に対応した金属製の碁盤も販売されている。
碁盤上に引かれた線はヘラや筆を使って引く手法(箆盛り・筆盛り)の他に、太刀目盛り(たちめもり)と呼ばれる独特な伝統的手法がある。これは日本刀の刃を丸め、温めて黒漆を付け盤面に刃先を押しつけて線を引くものである。表面に漆が乗るため、線には微妙な盛り上がりができる。視覚障害者が、手触りでマス目を判断して碁を楽しめるように、この線をわざと厚めに作る碁盤も存在する。
碁盤の価格は数千円から一千万円超までさまざま。アガチス、桂、スプルース製の厚さ1寸までの卓上盤なら数千円程度、アガチス、桂、スプルース製の足付盤や榧製の卓上盤では数万円から十万円程度、イチョウ、ヒノキ、ヒバ製で三十万円程度まで、榧製は1面ずつ価格が異なるが、相場として板目盤で五万円から八十万円程度、柾目盤は希少価値が高いのでたいへん高価で、数十万円からで銘盤ともなれば数百万円から一千万円超。さらに高いものは、価格応談など、客観的な価格では対応しきれない碁盤もある。
形状は畳などの上で椅子を用いない対局で床に直接置き使用する足付盤以外にも、テーブルの上で用いる薄い板状のものも公式戦で使用される。それ以外にも折畳式のものなどもある。厚さ二寸くらいまでの卓上用の薄い板盤は、充分に乾燥していない一枚板では実用にたえられないほど反ったり線の升目がくるったりする恐れがあるため、板を何枚か接いで1面の盤をつくることが多い。これは接盤(つぎばん)、接合盤と呼ばれる。他にも、左右二枚の板を差し込んで1面の盤にすることで反りなどを防ぐさし込み盤というものもある。また、盤の反りや変形には木目の影響も大きく、この点でも「柾目」が珍重されている。
足付き碁盤の裏側の中央部分にはへこみがある。これは「へそ」と呼ばれる。木材の乾燥による歪みや割れの防止と、石を打った時の音の響きを良くする効果がある。2寸程度の薄い足付き盤にはへこみはない。また、血溜まりと呼ばれることもあり、対局中に横から口を挟む人間は首を刎ねられ、このへこみに乗せられる事になると言う。
碁盤の脚は、クチナシの実の形を模しており、「他人の対局に『口無し』ということ」を示唆している。
中国では布製の碁盤も用いられることがある。
盤上の線のことを「路」(連珠では「道」)と呼ぶ。標準的な碁盤は19路だが、それ以外にも様々な盤があり、よく見かけるのは以下の4種類である。他に入門・研究用として7路以下の盤もよく用いられる。東京大学の囲碁授業では、6路盤が採用されている。また21路盤のように、標準より広い盤も存在する。

19路盤
使用される縦横19本の線を持つ盤を19路盤(じゅうきゅうろばん、連珠愛好家の間では19道盤(じゅうきゅうどうばん))という。碁盤といったとき特に断りがなければこの19路盤を指す。交点(目)の数は361、マス目の数は324。大きさは縦1尺5寸(45.5センチ)、横1尺4寸(42.4センチ)、厚さは足付き盤で2寸~9寸程度まである。連珠で代用されることもある。
また、広将棋にも用いられる。

15路盤
縦横15本の線を持つ盤を15路盤(じゅうごろばん、15道盤(じゅうごどうばん))という。囲碁では使われず、連珠で使われるため「連珠盤」と呼ばれている。交点(目)の数は225、マス目の数は196。大きさは縦1尺2寸、横1尺1寸と将棋盤とほぼ同じで、厚さは足付き盤で2寸~9寸程度まである。
ちなみに、15路盤を採用したのは昭和初期に連珠の第3世名人・高木楽山がルールとして規定したためとされており、これまでは19路の碁盤を使用していた。15路盤が採用されたのは、連珠は囲碁の付属物ではないという考え方と、黒に束縛を加えても17路盤や19路盤では先手が有利であるのに対し、13路盤より狭い盤では逆に後手が有利となるので、対等に勝負できるようにしたためとされている。

13路盤
縦横13本の線を持つ盤を13路盤(じゅうさんろばん)という。通常の19路盤に比べ大きさが小さく全体が把握しやすいため9路盤で基本をつかんだ初級者がより実戦に近い感覚を学ぶために使われることが多い。目の数は169、マス目の数は144。5分から2寸程度の薄い板で作られている。

9路盤
縦横9本の線を持つ盤を9路盤(きゅうろばん)という。主に囲碁の初心者が囲碁の実戦の感覚をつかむために用いられる。盤の大きさが小さいため通常の布石はあまり意味をなさないが、一定の棋力に達した者同士でも楽しむことができる。目の数は81、マス目の数は64。 コンピュータ囲碁プログラムは9路盤をはじめとする小路盤において力を発揮するとされている。2014年現在、プログラムは19路盤では2014年7月現在アマ高段者程度の棋力とされているが、9路盤においてはプロとほぼ互角の棋力を持つというプロ棋士の感想がある。

歴史
漢景帝陽陵からは、漢代のものと思われる陶製碁盤が出土している。装飾の施された木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)という碁盤も著名。正倉院宝物となっている。
碁盤の大きさについては以下の記録が残っている。
『囲碁式』(1199年頃)縦1尺4寸8分、厚さ3寸4分
本因坊道悦の標準盤 縦1尺4寸5分、横1尺3寸5分、厚さ3寸9分
『大江俊矩記』(1807年)縦1尺4寸8分、厚さ5寸3分
現在は碁盤・将棋盤は実際の使い勝手より、厚いほど高級とされているため、八寸・九寸などという盤も稀に存在する。

深曾木の儀
日本の皇室では、七五三にあたるものとして、碁盤から飛び降りるという儀式が行なわれる。世界をしっかりと踏んで立ち成長するようにとの願いを込め、右手に扇、左手に山橘を持ち,碁盤の上から南の方角へ飛び降りる。皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王の使用した碁盤は、1964年に日本棋院から寄贈された。皇室に限らず、「碁盤の儀」として七五三に行っている例もある。

出典
^ 山本哲正 (2014年6月27日). “手触りで楽しめる囲碁 視覚障害者用・愛好者増える”. 東京新聞 2014年6月28日閲覧。
^ 「囲碁電王戦」プロ棋士が圧勝 NHK NEWS WEB 2014年2月11日、2014年2月13日閲覧
^ 健やかな成長願い「碁盤の儀」 武雄神社 佐賀新聞社、2012年11月10日。


碁石

碁石は、囲碁、連珠に使用する用具で、黒・白2色の円盤形の物体である。黒白2色で一揃いとなり、碁笥(ごけ)ないし碁器(ごき)と呼ばれる容器に入れておく。囲碁を行う上では単に「石」と呼んだりする(※当項目でも以後は“石”と表記する)。
ゲームを行う上では黒181個、白180個を用意する(ただし、この個数にルール上の意味はなく、対局中に不足した場合はアゲハマを同数交換したり、余所から持ってくるなどの形で適宜補充する)。連珠では「珠」と呼び、黒113個、白112個を用意するが、実際には60個程度ずつで差し支えない。

目次
1	形態
2	碁石の歴史
3	碁石の素材
4	碁笥
4.1	碁笥の呼称問題
5	グリーン碁石
6	子
7	脚注・出典
8	関連項目

形態
石の大きさは白石が直径21.9mm(7分2厘)、黒石が直径22.2mm(7分3厘)。黒石のほうが若干大きくなっているのは、白が膨張色でやや大きく見えるためで、このように若干の差をつけることにより、人間の目にはほぼ同じ大きさであるように見える。厚さは6mm - 14mm程度まである。厚みは号数で表され、25号でおよそ7mm、40号でおよそ11mmで、一般に、厚いものほど打った時の音が響き、高級品とされるが、打ちづらくなってくる。60号近いものも存在するが、34号以上は十分高級である。9mm前後(32 - 34号)のものが持ちやすく、最も多く用いられている。
「石」と呼ばれるが素材は必ずしも石材のみが用いられてはいない(後述#碁石の歴史を参照)。黒石は那智黒、白石は碁石蛤の半化石品が最高級とされる。蛤の白石には「縞」という生長線が見られ、細かいものほど耐久性が高く、「雪」と表現され、比較的目が粗いものを「月」と呼んで区別する。現在販売されているグレードは雪印、月印、実用とあり、最も縞模様の細かい最高級の雪印、それに次ぐ月印、縞模様があまり細かくない実用となっている。ほかに、生産段階でわずかな傷などがあったものを組み合わせた徳用というものもある。練習用には硬質ガラス製のものなどが使用される。石は使用によって破損し、小さなものをホツ、周辺の欠けたものをカケという。碁器の中の石をかき混ぜて音を立てる行為はマナー違反とされている。

碁石の歴史

碁笥に入れられた碁石
古くは『風土記』(733年頃成立)に碁石に関する記述が見られ、『常陸国風土記』に鹿島のハマグリの碁石が名産として記述されている。また『出雲国風土記』に、島根県の「玉結浜」の記載があり、この海岸からは碁石に適した石が採れたという。奈良県の藤原京で発掘された碁石は丸い自然石で、材質は黒石が黒色頁岩、白石が砂岩。7世紀末 - 8世紀始めに使用されていたと推定される(週間碁)。自然石の碁石は江戸期まで使用された。本因坊道策が幼い頃使ったという碁盤と自然石の碁石が現存している。
正倉院に所蔵された聖武天皇愛用の碁石は紅牙撥鏤碁子(こうげばちるのきし)と名付けられ、直径1.6cm 厚さ0.8cm。象牙を染めて花鳥の文様を彫り付けたものであり、色は緑と紅色である。収蔵品の台帳である「東大寺献物帳」(国家珍宝帳)によると百済の義慈王(在位641年 - 660年)から藤原鎌足あてに贈られたものであるという。600枚が納められたと記載されているが、現存するのは252枚である。『源氏物語絵巻』では碁石は黒と白のものが使用されていることが分かる。
現在は黒は黒色の石を用い、那智黒石(三重県熊野市で産する黒色頁岩または粘板岩)が名品とされる。白はハマグリの貝殻を型抜きして磨いたものである。碁石の材料となるハマグリの代表的な産地は古くは鹿島海岸や志摩の答志島、淡路島、鎌倉海岸、三河などであった。鹿島のハマグリは殻が薄く、明治期の落語の速記本に「せんべいの生みたく反っくりけえった石」と描写されるように、古い碁石には貝殻の曲線どおり、薄くて中央が凹んだものがある。その後、文久年間に宮崎県日向市付近の日向灘沿岸で貝が採取されるようになり、明治中期には他の産地の衰退と共に日向市のお倉が浜で採れるスワブテ蛤が市場を独占し上物として珍重された。現在では取り尽くされてほとんど枯渇してしまっている。
現在一般に出回っているものはメキシコ産である。白石と黒石は価格が違い、ハマグリ製の白石が非常に高価で、業者によっては黒石は「那智黒石付き」と、白石のおまけ扱いにしている。高級品は貝殻の層(縞のように見える)が目立たず、時間がたっても層がはがれたり変色したりしない。
ハマグリの碁石は庶民が気軽に買えるものではなく、明治期には陶器や竹製の安物の碁石が存在した。大正時代にガラスの碁石が試作されたが、当初は硬化ガラスではなく普通のガラスだったので、脆く割れやすかった。その後プラスチックや硬質ガラス製の製品が出回り、安価な用具の大量生産が囲碁の普及に果たした役割は大きいと言える。近年では持ち運び用のマグネット製のものもある。メノウ製の高級品もある。
中国では古代には木で碁石を作ったらしく、中国呉の時代(222年 - 280年)に書かれた『博奕論』(韋曜)に「枯棊三百」 と記されている。「枯棊」とは、木でできた碁石のことを指し、日本の寛永年間(1624年 - 1644年)の『玄玄棊經俚諺鈔』という解説本には、「碁石は元と木を似て造る、故に枯棊と云う」と注記している。また碁石は300個が定数であったことも記されている。時代が下ると、高級な碁石は「玉(ぎょく)」と呼ばれる一種の宝石から作られた。
中国唐代の『杜陽雑編』という書物に、宣宗帝年号大中年間(847年 - 860年)に日本一の碁の名手である日本の王子が来朝し、中国一の名手と対戦する逸話の記載がある。日本の王子は日本には冷暖玉という宝石の碁石があることを物語り、「本國の東に集真島有 島の上に凝霞臺とて臺上に手譚池あり 池中に玉子を出す 製度によらされども自然に黒白明分有 冬ハ暖く夏は冷也 故に冷暖玉とぞにいふ 日本の王子入唐して此石を冷暖玉として唐朝へ進上せらると載たり」と記されている。 玉の碁石は割れやすく、日本のように音を立てて盤に打ち付けるということはなかった。中には石一個が銀貨二枚に相当するとされるほど高価なものもあったが、かつての名品の多くが、碁は退廃的として攻撃された文化大革命時代に収集家から奪われるなどして散逸してしまった。

碁石の素材
現在は以下のような素材で作られた碁石が存在する。
蛤/那智黒石
瑪瑙碁石(中国産)
云子碁石(中国碁石)(中国産・大理石製、黒石は光を透過させると緑色に見える特徴がある)
硬質ガラス碁石(日本産/韓国産)
ユリア樹脂製碁石
プラスチック碁石
プラスチック重量石(通常のプラスチックより重く、打ち味が比較的良いとされる)
マグネット碁石

碁笥
碁笥(ごけ)とは、碁石を入れる容器。碁器(ごき)とも呼ばれる。白石黒石の2個で1組となっている。材質は最高級品は桑(特に御蔵島産の「島桑」が珍重される)、次いで柿、紫檀、黒檀。一般的に用いられているものは欅、花梨、桜、楠、ブビンガ、栗、棗、合成樹脂などがある。表面は木地を出すことが多いが、凝ったものには蒔絵や鎌倉彫を施したものも見受けられる。古くは合子(ごうす)と呼ばれ、正倉院には撥鏤棊子とセットで渡来した精緻な美術品である「銀平脱合子」が収蔵されている。江戸時代には筒型に近い本因坊型と、丸みのある安井型があった。現代で使われているのは安井型に近いものが多い。計点制ルールでは、内部が蜂の巣状で石数180個が確認しやすい独特の碁笥を用いる。
なお、碁笥には蓋があり、対局中にアゲハマを入れておくのに用いられる。

碁笥の呼称問題
碁笥の素材については上記のほかにも色々な種類の木が用いられるが、外国から輸入した木材を木目や質感が似ていることから「新○○」と称していることが多く、混乱を招いている。例えば、輸入木材であるマホガニーは「新サクラ」、棗は「新ケヤキ」、ケンパスを「新カリン」などと銘打って販売されていることが多い。しかし、木目や質感が似ているからと言って、本来の名前を無視してサクラやケヤキの名を冠するのはどうなのかという議論が近年ネット上で見受けられるようになった。碁盤に関しては「新カヤ」はスプルース材、「新桂」はアガチス材という輸入材であることが知られるようになってきたが、碁笥に関しては碁盤ほどではなく、素材を輸入材と知らずに買うビギナーも多い。この問題に関して良心的な店では新サクラ等の呼称を使わずマホガニー製、棗製と本来の名称で呼ぶ店もある。

グリーン碁石
通常の碁石は白と黒の2色を用いるが、目に優しいとされる緑系の色を用いたグリーン碁石も少数ながら使用されている。これは作家の夏樹静子が発案し広めたもので、黒の代わりに濃い緑を、白の代わりに薄い緑を用いている。素材は硬質ガラスで、厚さは使いやすく9mmで作られている。普通の白黒の碁石に比べて値段は高い。日本棋院の一般対局室の一部で使用されている。

子
碁石は一般には何個と数えるが、囲碁用語としての助数詞は「子(もく)」である。しかしながら、囲碁用語特有の読み方のため、「もく」と読めずに本来は誤読の「子(し)」が広まっている。一方で、碁石を指すのに「目(もく)」を当て字として使った例もある。置き碁というハンデ戦で下手が2つ石を置いて対局することを2子局と呼ぶ。

^ 囲碁の盤は19路で19×19=361個の石が置ける。黒181個、白180個で盤を埋め尽くすことになる。
^ 連珠の盤は15路で15×15=225個の石が置ける。黒113個、白112個で盤を埋め尽くすことになる。
^ 宮崎県 (2011年7月25日). “雅趣・伝統の美”. 2012年5月28日閲覧。
^ この逸話の概要は以下のようなものである。「遣唐使として皇帝と会見した日本の王子が、日本一の碁の名手を名乗り『国の名誉を賭け、唐の名手と対戦したい』と碁の勝負を申し入れた。そこで皇帝は碁の国手といわれた大臣の顧師言を呼び出し、日本の王子と対局させた。双方の実力は互角で序盤から互いに譲らぬ激闘となったが、御前試合で君命を辱めることを恐れた顧師言が汗を振り絞った思考の末、三十二手目に死に物狂いの名手を放ち、それを見た日本の王子は驚嘆し、遂に兜を脱いだ。対局の後で王子は外使の接受担当の鴻臚卿に『顧先生は貴国で何番目の名人なのか』と質問し、鴻臚卿は『三番目であります』と返答した。実際は顧師言は国一番の名手だったのだが、日本の名人と対等勝負だったので、唐の体面を考慮して嘘をついたのだった。日本の王子は不服顔で『唐で一番の名手と対局したい』と言った。鴻臚卿は動ぜず『第三を破って第二と対局し、第二を破って第一と対局できるのです。なぜにいきなり第一と対局できましょう』と答えた。日本の王子は碁盤に蓋をして『小国の第一は、ついに大国の第三に及ばぬのか』と嘆息した」 この対局の棋譜は記録され、現代に伝わっている。

囲碁の記録一覧

囲碁の記録一覧は囲碁に関する記録の一覧である。

目次 
1	タイトル
1.1	通算記録
1.2	連続記録
1.3	最年少記録
1.4	その他記録
1.5	タイトル連覇記録
1.6	タイトル同時在位
1.6.1	名誉称号
1.6.1.1	他棋戦称号
1.6.2	グランドスラム
1.6.3	大三冠
1.7	名人・本因坊
2	年間記録
3	通算・連勝
3.1	通算
3.2	連勝
4	対局記録
4.1	手数
4.2	長考
4.3	珍形
5	1000勝達成棋士
5.1	1000勝達成
5.2	1100勝達成
5.3	1200勝達成
5.4	1300勝達成
5.5	1400勝達成
6	脚注
7	関連項目
8	注釈
9	外部リンク

タイトル

通算記録
記録	棋士	
通算タイトル獲得・棋戦優勝数	趙治勲 	74(2015年11月現在)
グランドスラム(通算で7大タイトルを全て経験)	趙治勲、張栩、井山裕太	
大三冠(棋聖・名人・本因坊同時獲得)	趙治勲、井山裕太	
同一トーナメント戦最多優勝	坂田栄男 	11回(NHK杯)

連続記録
記録	棋士	
同時タイトル保持数 	坂田栄男、井山裕太	7
同時タイトル保持数(七大タイトル中)	井山裕太	7 
同一タイトル戦連続出場	加藤正夫	12期 王座戦、1980年〜1991年)
最長在籍	林海峰	名人リーグに35年連続を含む39期(名人位含む)
最長タイトル保持	加藤正夫	14年6ヶ月

最年少記録
記録	棋士	年齢	棋戦
最年少棋聖	井山裕太	23歳10か月	
最年少名人	井山裕太	20歳4か月	
最年少本因坊	石田芳夫	22歳10ヶ月	
最年少王座	趙治勲	20歳5ヶ月	
最年少天元	井山裕太	22歳6か月	
最年少碁聖	山下敬吾	21歳11ヶ月	
最年少十段	伊田篤史	21歳11か月	
最年少グランドスラム	井山裕太	23歳10か月	
最年少大三冠	井山裕太	24歳4か月	
最年少六冠	井山裕太	23歳10か月	
最年少五冠	井山裕太	23歳5か月	
最年少四冠	井山裕太	23歳2か月	
最年少三冠	井山裕太	23歳1か月	
最年少二冠	井山裕太	22歳10か月	
最年少名人本因坊	井山裕太	24歳4か月	
最年少タイトル
(七大タイトル)	井山裕太	20歳4ヶ月	名人戦

最年少タイトル
(七大タイトル以外)	井山裕太	16歳4ヶ月	阿含・桐山杯
最年少タイトル挑戦	井山裕太	19歳3か月	名人戦

最年少入段	趙治勲	11歳9か月	
最年少九段	井山裕太	20歳4か月	

その他記録
賞金・対局料の史上最高総額  井山裕太 1億6461万円
年間の7大タイトル挑戦手合にすべて出場 井山裕太 
最年長タイトル 藤沢秀行 67歳(王座)
最年長リーグ在籍 橋本宇太郎 74歳(本因坊リーグ)
入段からタイトル獲得までの年数最短記録 伊田篤史 6年0か月
九段昇段最短記録 井山裕太  8年10か月
親子タイトルホルダー 父羽根泰正(1990年王座)、息子羽根直樹(棋聖・本因坊などを獲得)
囲碁七大タイトル獲得記録
順位	獲得回数	棋士名
1位	42期	趙治勲*
2位	35期	小林光一*
3位	32期	井山裕太*
4位	31期	加藤正夫*
5位	23期	張栩*
6位タイ	21期	坂田栄男 | 林海峰*
8位	17期	大竹英雄*
9位タイ	14期	藤沢秀行 | 山下敬吾*
表示
*は現役棋士
2016年天元戦終了時点

タイトル連覇記録
順位	記録者	タイトル	連覇数	獲得年度	備考
1	趙治勲	本因坊	10	1989 - 1998	 
2	高川格	本因坊	9	1952 - 1960	 
3	加藤正夫	王座	8	1982 - 1989	 
3	小林光一	棋聖	8	1990 - 2001	 
5	坂田栄男	本因坊	7	1961 - 1967	 
5	小林光一	名人	7	1988 - 1994	 
7	藤沢秀行	棋聖	6	1977 - 1982	
7	大竹英雄	碁聖	6	1980 - 1985	 
7	小林光一	碁聖	6	1988 - 1993	 

タイトル同時在位
複数のタイトルに同時に在位した棋士(最高獲得時・七大タイトル)
タイトル数	棋士名	タイトル	開始	終了	在位期間	備考
7	井山裕太	棋聖・名人・本因坊
王座・天元・碁聖・十段	2016十段	2016名人	197日	 
6	井山裕太	棋聖・本因坊・王座
天元・碁聖・十段	2012王座	2013十段	156日	
棋聖・名人・本因坊
王座・天元・碁聖	2013名人	2014王座	405日	
棋聖・名人・本因坊
王座・天元・碁聖	2015天元	継続中	495日	
5	張栩	名人・王座・天元・碁聖・十段	2009十段	2009名人	183日	 
4	加藤正夫	本因坊・王座・天元・十段	1979王座	1980十段	159日	 
名人・王座・碁聖・十段	1987碁聖	1988十段	255日	 
趙治勲	棋聖・名人・本因坊・十段	1983棋聖	1983十段	41日	 
小林光一	棋聖・名人・天元・十段	1986棋聖	1986名人	211日	 
3	坂田栄男	名人・本因坊・王座	1963王座	1965名人		
本因坊・王座・十段	1966王座	1967王座		
石田芳夫	名人・本因坊・王座	1974王座	1975名人		 
大竹英雄	名人・碁聖・十段	1980碁聖	1980名人		 
王立誠	棋聖・王座・十段	2001十段	2001王座	204日	 

名誉称号
各タイトルを5連覇または通算10期以上保持した者は、現役引退後または60歳の誕生日を迎えた後に「名誉○○」(○○はタイトル名)を名乗ることが許される。ただし本因坊戦はかつて「名誉本因坊」の称号を用いていたが、1998年以降「○○世本因坊××」(××は棋士の雅号)と呼称することに変更された。本因坊9連覇の高川秀格はその栄誉をたたえ、特例として1964年より、49歳現役で「名誉本因坊」を名乗ることが許された。また趙治勲も本因坊10連覇により、60歳の誕生日を待たずして現役時より「二十五世本因坊」の名乗りを許されている。
名誉称号一覧
名誉称号	該当者
名誉棋聖	藤沢秀行 ・小林光一
名誉名人	趙治勲 ・小林光一
永世本因坊	高川格 (二十二世) ・坂田栄男 (二十三世)
石田芳夫 (二十四世) ・趙治勲 (二十五世)
井山裕太(二十六世)
名誉王座	加藤正夫
名誉天元	林海峰
名誉碁聖	大竹英雄 ・小林光一・井山裕太
名誉十段	
名誉日本棋院選手権者	坂田栄男
名誉NHK杯選手権者	坂田栄男

他棋戦称号
名誉女流本因坊 : 謝依旻
名誉女流名人 : 謝依旻
(2016年時点)

名誉称号資格者

グランドスラム
七大タイトルを全て一回以上通算で経験する事をグランドスラムと呼び、これを達成したのは趙治勲、張栩、井山裕太の三人(2013年現在)。このうち、井山裕太は七大タイトル全てを同時に保持したことがある(2016年)。後1タイトルで達成するのは林海峰、山下敬吾の2人。
グランドスラム達成者
棋士	棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元
1.	趙治勲	1983	1982	1981	1979	1980	1976	1987
2.	張栩	2010	2009	2003	2006	2004	2003	2008
3.	井山裕太	2013	2011	2012	2012	2009	2012	2011
年は初獲得年。黄色はグランドスラム達成時のタイトル。

大三冠
棋聖・名人・本因坊を同時に保持する事を大三冠と呼び、これを達成したのは趙治勲と井山裕太の二人(2013年現在)。
棋士	棋戦	1回目		2回目			
1.	趙治勲	棋聖	1983			1997	1998	1999
本因坊				1997	1998	
名人			1996	1997	1998	
棋士	棋戦				
2.	井山裕太	棋聖		2014	2015	2016
本因坊		2014	2015	2016
名人	2013	2014	2015	
大三冠獲得時の獲得棋戦

名人・本因坊
タイトル名人と本因坊を同時獲得した棋士。
列1	氏名	年
1	坂田栄男	1963-1964
2	林海峰	1969
3	石田芳夫	1974
4	趙治勲	1981-1982
1996-1998
5	張栩	2004
6	高尾紳路	2006
7	山下敬吾	2011
8	井山裕太	2013-

年間記録
年間最高勝率 坂田栄男 .9375(30勝2敗、1964年)
年間最多勝利 張栩 70勝(14敗、2002年)
年間最多敗戦 山下敬吾 32敗(39勝、2004年)
年間最多対局 羽根直樹 88局(2002年、63勝25敗)
年間最多獲得賞金 井山裕太 1億7212万円(2015年)

通算・連勝

通算
通算最多勝 趙治勲 1400勝 (2012年9月27日現在)
通算最多敗 林海峰 845敗 (2011年4月現在)
通算最多対戦 趙治勲-小林光一 128局、趙65勝-小林63勝(2011年7月現在)
最年少1000勝達成 結城聡 39歳2ヵ月(日本棋院記録は趙治勲の43歳1ヶ月)
最年長1000勝達成 石井邦生 74歳3ヵ月
最短1000勝達成 結城聡 27年1ヶ月(日本棋院記録は趙治勲の31年4ヶ月)
最長1000勝達成 石井邦生 59年10カ月

連勝
一般棋戦最多連勝 29 坂田栄男(1964年)
大手合 33 趙治勲
同一タイトルマッチ 17 坂田栄男(本因坊戦、1963年〜1967年)
御城碁 19 本因坊秀策

対局記録

手数
最長 411手(山部俊郎-星野紀、1950年大手合)
最短(中押) 33手(前田陳爾—春山勇)
最短(作り碁) 121手(武宮正樹—張栩、2003年名人リーグ)

長考
(時間無制限) 星野紀 16時間
(持時間制) 武宮正樹 5時間7分(1988年本因坊戦挑戦手合第5局、対大竹英雄)

珍形
長生 林海峰—小松英樹(1993年本因坊リーグ)、王銘エン―内田修平(2009年世界囲碁選手権富士通杯予選B)
石柱(盤面を一方の石が19個並んで横断) 本田幸子—山本豊(1951年大手合)

1000勝達成棋士

1000勝達成
順	棋士	達成日	達成年齢	入段からの年数	
1	坂田栄男	1984年4月13日	64歳1ヶ月	49年0ヵ月	
2	林海峰	1994年8月4日	52歳2ヶ月	39年3ヵ月	
3	加藤正夫	1996年5月23日	49歳2ヶ月	32年1ヶ月	
4	小林光一	1998年11月28日	46歳2ヶ月	31年7ヶ月	
5	大竹英雄	1999年2月18日	56歳9ヶ月	42年10ヶ月	
6	趙治勲	1999年8月12日	43歳1ヶ月	31年4ヶ月	
7	橋本昌二	2001年9月	66歳4ヶ月	54年4ヶ月	
8	羽根泰正	2001年11月8日	57歳4ヶ月	43年7ヶ月	
9	武宮正樹	2006年2月9日	55歳1ヶ月	40年10ヵ月	
10	本田邦久	2007年5月	61歳10ヵ月	46年4ヵ月	
11	王立誠	2008年2月14日	49歳3ヵ月	35年10ヵ月	
12	山城宏	2008年7月7日	49歳10ヵ月	36年3ヵ月	
13	石田芳夫	2010年5月20日	61歳9ヵ月	47年1ヶ月	
14	結城聡	2011年4月3日	39歳2ヵ月	27年1ヶ月	
15	依田紀基	2011年7月21日	45歳5ヵ月	31年3ヶ月	
16	工藤紀夫	2011年7月21日	71歳2ヵ月	56年6ヶ月	
17	小林覚	2011年12月1日	52歳7ヵ月	37年8ヶ月	
18	片岡聡	2014年2月27日	55歳6ヵ月	41年10ヵ月	
19	王銘琬	2015年6月4日	53歳6ヵ月	38年2ヵ月	
20	淡路修三	2015年9月24日	66歳1ヵ月	47年5ヵ月	
21	石井邦生	2016年2月1日	74歳3ヵ月	59年10カ月	
22	彦坂直人	2016年8月18日	54歳5ヶ月	40年4ヶ月	

1100勝達成
順	棋士	達成日	達成年齢	入段からの年数	
1	林海峰 	1998年3月2日	55歳9ヵ月	42年11ヵ月	
2	加藤正夫	1999年3月18日	52歳0ヵ月	34年11ヵ月	
3	小林光一	2002年2月28日	49歳5ヶ月	34年10ヶ月	
4	趙治勲	2002年4月4日	45歳9ヶ月	34年0ヶ月	
5	大竹英雄	2004年7月22日	62歳2ヶ月	48年3ヶ月	
6	羽根泰正	2008年6月19日	63歳11ヶ月	50年2ヶ月	

1200勝達成
棋士	達成日	達成年齢	入団からの年数	
1	加藤正夫	2002年3月21日	55歳0ヵ月	37年11ヵ月	
2	林海峰	2002年4月18日	59歳11ヵ月	47年0ヵ月	
3	趙治勲	2005年1月27日	48歳7ヵ月	36年9ヵ月	
4	小林光一	2005年9月1日	52歳11ヵ月	38年4ヵ月	
5	羽根泰正	2015年5月21日	70歳10ヵ月	57年1ヶ月	

1300勝達成
棋士	達成日	年齢	入段からの年数	
1	林海峰	2006年10月19日	64歳4ヵ月	51年5ヵ月	
2	趙治勲	2008年6月19日	51歳11ヵ月	40年2ヵ月	

1400勝達成
棋士	達成日	年齢	入段からの年数	
1	趙治勲	2012年9月27日	56歳3ヵ月	44年5ヵ月	
2	林海峰	2015年8月6日	73歳2ヵ月	60年7ヵ月	

1000勝達成棋士
日本棋院	
坂田栄男 | 林海峰 | 加藤正夫 | 小林光一 | 大竹英雄 | 趙治勲 | 羽根泰正 | 武宮正樹 | 王立誠 | 山城宏 | 石田芳夫 | 依田紀基 | 工藤紀夫 | 小林覚 | 片岡聡 | 王銘琬 | 淡路修三 | 石井邦生 | 彦坂直人
関西棋院	
橋本昌二 | 本田邦久 | 結城聡


囲碁のタイトル在位者一覧

囲碁のタイトル在位者一覧は、日本国内棋戦七大タイトルの歴代在位者一覧であり、1941年の本因坊戦創設から現在までを網羅する。

目次  
1	表記上の注意
2	一覧
3	七大タイトル獲得数
4	年代別優勝ランキング
5	関連項目

同一タイトル4連覇以上を達成した棋士、初のタイトル獲得、それぞれのタイトルの最年少保持記録は備考に入れている。
名誉称号資格を獲得した棋士は備考に入れている。

一覧
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	
1941年
(昭和16)			関山利一					本因坊戦創設、関山利一初のタイトル保持者
1942年
(昭和17)								
1943年
(昭和18)			橋本宇太郎					橋本宇太郎新本因坊(初タイトル)
1944年
(昭和19)								
1945年
(昭和20)			岩本薫					岩本薫新本因坊(初タイトル)
1946年
(昭和21)								
1947年
(昭和22)			岩本薫					岩本薫初のタイトル防衛
1948年
(昭和23)								
1949年
(昭和24)								
1950年
(昭和25)			橋本宇太郎					本因坊戦1年1期制に
1951年
(昭和26)			橋本宇太郎					
1952年
(昭和27)			高川格					高川格新本因坊(初タイトル)
1953年
(昭和28)			高川格			橋本宇太郎		王座戦創設
1954年
(昭和29)			高川格			高川格		高川格史上初の二冠
1955年
(昭和30)			高川格			橋本宇太郎		
1956年
(昭和31)			高川格			橋本宇太郎		高川格二十二世本因坊資格・初の5連覇・初の名誉資格
1957年
(昭和32)			高川格			島村俊廣		島村俊廣新王座(初タイトル)
1958年
(昭和33)			高川格			藤沢朋斎		藤沢朋斎新王座(初タイトル)
1959年
(昭和34)			高川格			橋本昌二		橋本昌二新王座(初タイトル)
1960年
(昭和35)			高川格			半田道玄		高川格本因坊9連覇、半田道玄新王座(初タイトル)
1961年
(昭和36)			坂田栄男			坂田栄男		坂田栄男新本因坊(初タイトル)
1962年
(昭和37)		橋本宇太郎	坂田栄男		藤沢秀行	宮下秀洋		名人戦創設、十段戦創設、宮下秀洋新王座、藤沢秀行新名人(初タイトル)
1963年
(昭和38)		半田道玄	坂田栄男		坂田栄男	坂田栄男		坂田栄男史上初の名人本因坊・史上初の三冠
1964年
(昭和39)		藤沢朋斎	坂田栄男		坂田栄男	坂田栄男		高川格二十二世本因坊襲名
1965年
(昭和40)		高川格	坂田栄男		林海峰	半田道玄		坂田栄男二十三世本因坊資格、林海峰新名人(初タイトル)
1966年
(昭和41)		坂田栄男	坂田栄男		林海峰	坂田栄男		
1967年
(昭和42)		坂田栄男	坂田栄男		林海峰	藤沢秀行		坂田栄男本因坊7連覇
1968年
(昭和43)		坂田栄男	林海峰		高川格	藤沢秀行		王座戦挑戦手合に移行
1969年
(昭和44)		大竹英雄	林海峰		林海峰	藤沢秀行		大竹英雄新十段(初タイトル)
1970年
(昭和45)			林海峰		藤沢秀行	坂田栄男		十段戦行われず
1971年
(昭和46)		橋本宇太郎	石田芳夫		林海峰	坂田栄男		石田芳夫新本因坊(初タイトル)・最年少本因坊
1972年
(昭和47)		坂田栄男	石田芳夫		林海峰	坂田栄男		
1973年
(昭和48)		坂田栄男	石田芳夫		林海峰	林海峰		
1974年
(昭和49)		橋本昌二	石田芳夫		石田芳夫	石田芳夫		
1975年
(昭和50)		林海峰	石田芳夫		大竹英雄	大竹英雄	藤沢秀行	天元戦創設、石田芳夫二十四世本因坊資格
1976年
(昭和51)		加藤正夫	武宮正樹	加藤正夫	大竹英雄	趙治勲	小林光一	新名人戦開始、碁聖戦創設、加藤正夫新十段、武宮正樹新本因坊、趙治勲新王座・最年少王座
小林光一新天元(初タイトル)
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	備   考
1977年
(昭和52)	第1期
藤沢秀行	第15期
加藤正夫	第32期
加藤正夫	第2期
加藤正夫	第2期
林海峰	第25期
工藤紀夫	第3期
島村俊廣	棋聖戦創設、工藤紀夫新王座(初タイトル)
1978年
(昭和53)	藤沢秀行	加藤正夫	加藤正夫	大竹英雄	大竹英雄	石田芳夫	加藤正夫	
1979年
(昭和54)	藤沢秀行	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	大竹英雄	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫史上初の四冠、十段4連覇
1980年
(昭和55)	藤沢秀行	大竹英雄	武宮正樹	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	加藤正夫	天元戦挑戦手合に移行
1981年
(昭和56)	藤沢秀行	大竹英雄	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	橋本昌二	加藤正夫	藤沢秀行名誉棋聖資格、加藤正夫天元4連覇
1982年
(昭和57)	藤沢秀行	趙治勲	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	藤沢秀行棋聖6連覇、片岡聡新天元(初タイトル)
1983年
(昭和58)	趙治勲	加藤正夫	林海峰	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	趙治勲史上初の大三冠
1984年
(昭和59)	趙治勲	小林光一	林海峰	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	石田芳夫	王座戦三番勝負から五番勝負に移行
趙治勲名誉名人資格、大竹英雄名誉碁聖資格
1985年
(昭和60)	趙治勲	小林光一	武宮正樹	大竹英雄	小林光一	加藤正夫	小林光一	大竹英雄碁聖6連覇
1986年
(昭和61)	小林光一	小林光一	武宮正樹	趙治勲	加藤正夫	加藤正夫	小林光一	加藤正夫名誉王座資格
1987年
(昭和62)	小林光一	加藤正夫	武宮正樹	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	趙治勲史上初のグランドスラム
1988年
(昭和63)	小林光一	趙治勲	武宮正樹	小林光一	小林光一	加藤正夫	趙治勲	武宮正樹本因坊4連覇
1989年
(平成元)	小林光一	趙治勲	趙治勲	小林光一	小林光一	加藤正夫	林海峰	加藤正夫王座8連覇
1990年
(平成2)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	羽根泰正	林海峰	小林光一名誉棋聖資格、羽根泰正新王座(初タイトル)
1991年
(平成3)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	藤沢秀行	林海峰	
1992年
(平成4)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	藤沢秀行	林海峰	小林光一名誉名人資格・名誉碁聖資格、藤沢秀行最年長タイトル保持者(67歳)、
初めて7大タイトル全てが防衛される
1993年
(平成5)	小林光一	大竹英雄	趙治勲	小林光一	小林光一	加藤正夫	林海峰	趙治勲二十五世本因坊資格、林海峰名誉天元資格
小林光一棋聖8連覇・碁聖6連覇・3タイトル同時6連覇(史上唯一)
1994年
(平成6)	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	林海峰	小林光一	趙治勲	柳時熏	小林光一名人7連覇、柳時熏新天元(初タイトル)
1995年
(平成7)	小林覚	依田紀基	趙治勲	小林覚	武宮正樹	王立誠	柳時熏	小林覚新棋聖、依田紀基新十段、王立誠新王座(初タイトル)
1996年
(平成8)	趙治勲	依田紀基	趙治勲	依田紀基	趙治勲	柳時熏	柳時熏	
1997年
(平成9)	趙治勲	加藤正夫	趙治勲	依田紀基	趙治勲	山田規三生	工藤紀夫	山田規三生新王座(初タイトル)
1998年
(平成10)	趙治勲	彦坂直人	趙治勲	依田紀基	趙治勲	王立誠	小林光一	趙治勲本因坊10連覇(同一タイトル連覇記録)・大三冠3連覇
彦坂直人新十段(初タイトル)
1999年
(平成11)	趙治勲	小林光一	趙善津	小林光一	趙治勲	王立誠	小林光一	趙治勲棋聖4連覇・名人4連覇、趙善津新本因坊(初タイトル)
2000年
(平成12)	王立誠	小林光一	王銘琬	山下敬吾	依田紀基	王立誠	柳時熏	王銘琬新本因坊、山下敬吾新碁聖(初タイトル)・最年少碁聖
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	備   考
2001年
(平成13)	王立誠	王立誠	王銘琬	小林光一	依田紀基	趙治勲	羽根直樹	羽根直樹新天元(初タイトル)
2002年
(平成14)	王立誠	王立誠	加藤正夫	小林光一	依田紀基	王銘琬	羽根直樹	
2003年
(平成15)	山下敬吾	王立誠	張栩	依田紀基	依田紀基	張栩	羽根直樹	依田紀基名人4連覇、張栩新本因坊(初タイトル)
2004年
(平成16)	羽根直樹	王立誠	張栩	依田紀基	張栩	張栩	山下敬吾	王立誠十段4連覇
2005年
(平成17)	羽根直樹	趙治勲	高尾紳路	依田紀基	張栩	張栩	河野臨	高尾紳路新本因坊、河野臨新天元(初タイトル)
2006年
(平成18)	山下敬吾	趙治勲	高尾紳路	張栩	高尾紳路	山下敬吾	河野臨	
2007年
(平成19)	山下敬吾	趙治勲	高尾紳路	張栩	張栩	山下敬吾	河野臨	
2008年
(平成20)	山下敬吾	高尾紳路	羽根直樹	張栩	張栩	張栩	張栩	平成四天王がタイトル独占
2009年
(平成21)	山下敬吾	張栩	羽根直樹	張栩	井山裕太	張栩	山下敬吾	井山裕太新名人(初タイトル)・最年少タイトル保持者・最年少名人、張栩史上初の五冠
山下敬吾棋聖4連覇、張栩碁聖4連覇
2010年
(平成22)	張栩	張栩	山下敬吾	坂井秀至	井山裕太	張栩	結城聡	坂井秀至新碁聖、結城聡新天元(初タイトル)
2011年
(平成23)	張栩	井山裕太	山下敬吾	羽根直樹	山下敬吾	張栩	井山裕太	張栩王座4連覇、井山裕太最年少天元
2012年
(平成24)	張栩	井山裕太	井山裕太	井山裕太	山下敬吾	井山裕太	井山裕太	
2013年
(平成25)	井山裕太	結城聡	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太史上初の六冠・最年少棋聖
2014年
(平成26)	井山裕太	高尾紳路	井山裕太	井山裕太	井山裕太	村川大介	高尾紳路	村川大介新王座(初タイトル)
2015年
(平成27)	井山裕太	伊田篤史	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	伊田篤史新十段(初タイトル)・最年少十段・入段からタイトル獲得までの年数最短(6年0か月)
2016年
(平成28)	井山裕太	第54期
井山裕太	第71期
井山裕太	第41期
井山裕太	第41期
高尾紳路	第64期
井山裕太	第42期
井山裕太	井山裕太棋聖4連覇、史上初の七冠独占達成(十段戦)、井山二十六世本因坊資格、名誉碁聖資格
2017年
(平成29)	第41期
井山裕太	井山か
余	井山か
本木					井山裕太名誉棋聖資格
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	

七大タイトル獲得数
タイトル数の黄色は名誉称号資格、太字は最多獲得。
2017年棋聖戦終了時点。
棋士名	七大タイトル合計	三大タイトル合計		棋聖	名人	本因坊	王座	天元	碁聖	十段
1	趙治勲	42	29		8	9	12	3	2	2	6
2	小林光一	35	16		8	8	0	0	5	9	5
3	井山裕太	32	15		5	5	5	4	5	5	3
4	加藤正夫	31	6		0	2	4	11	4	3	7
5	張栩	23	9		3	4	2	7	1	4	2
6	坂田栄男	21	9		0	2	7	7	0	0	5
6	林海峰	21	13		0	8	5	1	5	1	1
8	大竹英雄	17	4		0	4	0	1	0	7	5
9	藤沢秀行	14	8		6	2	0	5	1	0	0
9	山下敬吾	14	9		5	2	2	2	2	1	0
11	高川格	12	10		0	1	9	1	0	0	1
11	依田紀基	12	4		0	4	0	0	0	6	2
13	王立誠	11	3		3	0	0	4	0	0	4
14	武宮正樹	10	7		0	1	6	0	0	0	3
15	石田芳夫	9	6		0	1	5	2	1	0	0
15	高尾紳路	9	6		0	3	3	0	1	0	2
17	橋本宇太郎	8	3		0	0	3	3	0	0	2
17	羽根直樹	8	4		2	0	2	0	3	1	0
19	柳時熏	5	0		0	0	0	1	4	0	0
20	橋本昌二	3	0		0	0	0	2	0	0	1
20	半田道玄	3	0		0	0	0	2	0	0	1
20	王銘琬	3	2		0	0	2	1	0	0	0
20	河野臨	3	0		0	0	0	0	3	0	0
24	岩本薫	2	2		0	0	2	0	0	0	0
24	島村俊廣	2	0		0	0	0	1	1	0	0
24	藤沢朋斎	2	0		0	0	0	1	0	0	1
24	工藤紀夫	2	0		0	0	0	1	1	0	0
24	片岡聡	2	0		0	0	0	0	2	0	0
24	小林覚	2	1		1	0	0	0	0	1	0
24	結城聡	2	0		0	0	0	0	1	0	1
31	関山利一	1	1		0	0	1	0	0	0	0
31	宮下秀洋	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	羽根泰正	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	山田規三生	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	彦坂直人	1	0		0	0	0	0	0	0	1
31	趙善津	1	1		0	0	1	0	0	0	0
31	坂井秀至	1	0		0	0	0	0	0	1	0
31	村川大介	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	伊田篤史	1	0		0	0	0	0	0	0	1

年代別優勝ランキング
※0年~9年までの10年間のタイトル獲得数
1950年代
9 
高川格
5 
橋本宇太郎
1 
島村俊廣, 藤沢朋斎, 橋本昌二
1960年代
16 
坂田栄男
6 
林海峰
4 
藤沢秀行
3 
高川格
2 
半田道玄

1970年代
12 
加藤正夫
8 
石田芳夫
7 
林海峰
6 
大竹英雄
5 
藤沢秀行, 坂田栄男
1980年代
17 
趙治勲
16 
加藤正夫
14 
小林光一
8 
大竹英雄
5 
武宮正樹

1990年代
19 
趙治勲
17 
小林光一
5 
林海峰, 依田紀基
4 
武宮正樹, 柳時熏
2000年代
17 
張栩
10 
山下敬吾
8 
王立誠
7 
依田紀基, 羽根直樹

2010年代
30 
井山裕太
6 
張栩
4 
山下敬吾
3 
高尾紳路
関連項目

棋道賞

棋道賞は年間で活躍した囲碁棋士に贈られる賞。

目次 
1	概要
2	歴代受賞者
3	記録
4	詳細
5	出典
6	参考資料
7	外部リンク

概要
1967年(昭和42年)、日本棋院の機関誌「棋道」主催で、関係者と棋戦主催者の代表により誌上で選考する形で創設。1999年(平成11年)の第33回からは、「碁ワールド」誌主催となった。
部門賞は年によって変更されることがある。
賞は「最優秀棋士賞」「最多勝利賞」「勝率第一位賞」「連勝賞」「殊勲賞」「敢闘賞」「技能賞」「女流賞」「新人賞」、第25回(1991年度)から殊勲賞、敢闘賞、技能賞、を廃して、「優秀棋士賞」「最多対局賞」「国際賞」が創られた。
毎年2月の選考会の後に発表、3月に日本棋院で合同表彰式が行われる。

歴代受賞者
※受賞は翌年。
-		年号	成績年	最優秀
棋士賞	最多勝利
賞	勝率
第一位賞	連勝
記録賞	殊勲賞	敢闘賞	技能賞	女流賞	新人賞	特別賞
第1回		昭和42	1967年	坂田栄男	林海峰	大窪一玄	大窪一玄	武宮正樹	岩本薰	久井敬史	木谷禮子	加藤正夫	
第2回		昭和43	1968年	高川格	高川格
藤澤秀行	高川格	藤澤秀行	兒玉幸子	石田芳夫	加藤正夫	木谷禮子	武宮正樹	
第3回		昭和44	1969年	林海峰	藤澤秀行	梶原武雄	藤沢朋斎	大竹英雄	加藤正夫	武宮正樹	本田幸子	石田芳夫	
第4回		昭和45	1970年	大竹英雄	石田芳夫	石田芳夫	石田芳夫	武宮正樹	小島高穗	加藤正夫	木谷禮子	曹薰鉉	
第5回		昭和46	1971年	石田芳夫	石田芳夫
加藤正夫	島村俊廣	島村俊宏	工藤紀夫	藤沢朋斎	杉内雅男	---	趙治勲	
第6回		昭和47	1972年	坂田栄男	高木祥一
加藤正夫	高木祥一	加藤正夫	趙治勲	杉内寿子	大平修三	本田幸子	小林光一	
第7回		昭和48	1973年	林海峰	武宮正樹	武宮正樹	武宮正樹	小林光一	岩本薰	石井邦生	杉内寿子	山城宏	
第8回		昭和49	1974年	石田芳夫	武宮正樹	戸澤昭宣	土田正光
戸澤昭宣	趙治勲	小林光一	島村俊宏	白鳥澄子	上村陽生	
第9回		昭和50	1975年	大竹英雄	趙治勲	大平修三	小林光一	趙治勲	坂田栄男	大平修三	小川誠子	郡寿男	
第10回		昭和51	1976年	加藤正夫	加藤正夫
趙治勲	武宮正樹	高木祥一	武宮正樹	小林光一	趙治勲	小林千寿	小林覚	
第11回		昭和52	1977年	加藤正夫	林海峰	林海峰	林海峰	小林光一	島村俊宏	工藤紀夫	小林千寿	新垣武	
第12回		昭和53	1978年	加藤正夫	大竹英雄	羽根泰正	大竹英雄	山城宏	羽根泰正	石田章	小川誠子	王立誠	
第13回		昭和54	1979年	加藤正夫	趙治勲
林海峰	橋本誼	趙治勲	趙治勲	春山勇	石田章	小川誠子	片岡聡	
第14回		昭和55	1980年	趙治勲	趙治勲	佐藤昌晴	山部俊郎	福井正明	佐藤昌晴	山部俊郎	木谷禮子	伊藤庸二	
第15回		昭和56	1981年	趙治勲	山城宏	山城宏	山城宏	王銘琬	依田紀基	小林光一	楠光子	石倉昇	白鳥澄子
第16回		昭和57	1982年	趙治勲	小林光一	石田章
小林覚	石田章	片岡聡	王立誠	石田章	小林禮子	依田紀基	
第17回		昭和58	1983年	林海峰	林海峰	小林覚	山城宏	王銘琬	小林覚	高木祥一	杉内寿子	小県真樹	楠光子
第18回		昭和59	1984年	趙治勲	小林光一	桑田泰明	桑田泰明	小林光一	山城宏
依田紀基	大平修三	楠光子	王銘琬	
第19回		昭和60	1985年	小林光一	小林光一	郡寿男	羽根泰正	王銘琬	楠光子	宮沢吾朗	楠光子	大矢浩一	武宮正樹
第20回		昭和61	1986年	加藤正夫	王立誠	工藤紀夫	加藤正夫	依田紀基	王立誠	山城宏	小川誠子	新海洋子	
第21回		昭和62	1987年	加藤正夫	趙治勲	大平修三	大平修三	依田紀基	王銘琬	大平修三	宮崎志摩子	小松英樹	藤澤秀行
第22回		昭和63	1988年	小林光一	小県真樹	羽根泰正
小林覚	小林光一
依田紀基	依田紀基	宮崎志摩子	羽根泰正	宮崎志摩子	三村智保	藤澤秀行
第23回		平成元年	1989年	小林光一	依田紀基	依田紀基	依田紀基	王銘琬	依田紀基	依田紀基	青木喜久代	-	
第24回		平成2	1990年	小林光一	依田紀基	後藤俊午	後藤俊午	羽根泰正	小林覚	依田紀基	中澤彩子	柳時熏	
-							連勝
記録賞	殊勲賞	敢闘賞	技能賞			
25~		年号	成績年	最優秀
棋士賞	最多
勝利賞	勝率
第一位賞	連勝賞	最多
対局賞	優秀
棋士賞	国際賞	女流賞	新人賞	特別賞
第25回		平成3	1991年	小林光一	小松英樹	工藤紀夫	王立誠	柳時熏	藤澤秀行		青木喜久代	趙善津	
第26回		平成4	1992年	小林光一	小松英樹	土田正光	加藤正夫	小林光一
小松英樹	藤澤秀行
小松英樹		加藤朋子	山田規三生	
第27回		平成5	1993年	小林光一	加藤正夫	王銘琬	加藤正夫	加藤正夫	佐藤昌晴		小川誠子	加藤朋子	
第28回		平成6	1994年	趙治勲	加藤正夫	小林覚	小林覚	山田規三生	柳時熏		加藤朋子	森田道博	
第29回		平成7	1995年	小林覚	小林覚
王立誠	王立誠	小県真樹	加藤正夫	武宮正樹
王立誠		中澤彩子	羽根直樹	
第30回		平成8	1996年	趙治勲	羽根直樹	山田規三生	松村龍一	片岡聡	依田紀基
柳時熏		西田栄美	高尾紳路	
第31回		平成9	1997年	趙治勲	羽根直樹	山下敬吾	山田規三生	山下敬吾	工藤紀夫
山田規三生		青木喜久代	山下敬吾	
第32回		平成10	1998年	趙治勲	山下敬吾	高尾紳路	小松英樹
山下敬吾	山下敬吾	王立誠
彦坂直人	依田紀基	小林泉美	秋山次郎	
第33回		平成11	1999年	趙治勲	高尾紳路	山下敬吾	羽根直樹	高尾紳路	趙善津
小林光一	依田紀基	知念かおり	小林泉美	
第34回		平成12	2000年	王立誠	山下敬吾	張栩	高尾紳路	山下敬吾	依田紀基
王銘琬
山下敬吾	王立誠	祷陽子	張栩	
第35回		平成13	2001年	王立誠	羽根直樹	三村智保	高尾紳路	羽根直樹	林海峰
羽根直樹	---	小林泉美	溝上知親	
第36回		平成14	2002年	加藤正夫	張栩	張栩	小林覚	張栩	王立誠
張栩	ハンス・ピーチ	小林泉美	河野臨	
第37回		平成15	2003年	張栩	張栩	蘇耀国	山田規三生	張栩	山下敬吾
依田紀基
羽根直樹	趙治勲	小林泉美	蘇耀国	
第38回		平成16	2004年	張栩	高尾紳路	鶴山淳志	高尾紳路	山下敬吾	山下敬吾	-	知念かおり	金秀俊	趙治勲
第39回		平成17	2005年	張栩	小林覚	井山裕太	武宮正樹	張栩	羽根直樹
高尾紳路	張栩	矢代久美子	井山裕太	
第40回		平成18	2006年	山下敬吾	張栩	仲邑信也	張栩	山下敬吾	高尾紳路
張栩	依田紀基	謝依旻	松本武久	
第41回		平成19	2007年	張栩	張栩	森田道博	張栩	張栩	山下敬吾
趙治勲	-	謝依旻	黄翊祖	
第42回		平成20	2008年	張栩	張栩	林子淵	森田道博	井山裕太	羽根直樹
井山裕太	-	謝依旻	謝依旻	
第43回		平成21	2009年	張栩	井山裕太	李沂修	張栩	井山裕太
高尾紳路	井山裕太	-	謝依旻	李沂修	
第44回		平成22	2010年	張栩	山下敬吾	山城宏	山下敬吾	山下敬吾	山下敬吾
謝依旻	-	謝依旻	林漢傑	
第45回		平成23	2011年	山下敬吾	井山裕太	金秀俊	金沢真	井山裕太	井山裕太
羽根直樹
謝依旻	-	謝依旻	内田修平	謝依旻
第46回		平成24	2012年	井山裕太	井山裕太	井山裕太	張豊猷	井山裕太	張栩
山下敬吾	-	謝依旻	伊田篤史	
第47回		平成25	2013年	井山裕太	井山裕太	一力遼	富士田明彦	井山裕太	-	井山裕太	向井千瑛	富士田明彦
一力遼	
第48回		平成26	2014年	井山裕太	河野臨	許家元	河野臨	河野臨	高尾紳路	一力遼	藤沢里菜	金沢真
藤沢里菜	
第49回		平成27	2015年	井山裕太	井山裕太
許家元	芝野虎丸	井山裕太	山下敬吾	伊田篤史	一力遼	謝依旻	許家元	
-		年号	成績年	最優秀
棋士賞	最多
勝利賞	勝率
第一位賞	連勝賞	最多
対局賞	優秀
棋士賞	国際賞	女流賞	新人賞	特別賞
※5期以上のタイトルを獲得した棋士の名前には着色している。

記録
最優秀棋士賞獲得数 9回:趙治勲 7回:加藤正夫・小林光一・張栩 3回:林海峰

詳細
※受賞は翌年。
-	成績年	最多勝利
賞	勝数	勝率
第一位賞	率	連勝
記録賞	
第1回	1967年	林海峰	30	大窪一玄	.750	大窪一玄	12
第2回	1968年	高川格
藤澤秀行	26	高川格	.722	藤澤秀行	11
第3回	1969年	藤澤秀行	34	梶原武雄	.727	藤沢朋斎	9
第4回	1970年	石田芳夫	35	石田芳夫	.795	石田芳夫	9
第5回	1971年	石田芳夫
加藤正夫	36	島村俊廣	.786	島村俊宏	13
第6回	1972年	高木祥一
加藤正夫	30	高木祥一	.732	加藤正夫	12
第7回	1973年	武宮正樹	36	武宮正樹	.818	武宮正樹	13
第8回	1974年	武宮正樹	39	戸澤昭宣	.765	土田正光
戸澤昭宣	11
第9回	1975年	趙治勲	39	大平修三	.739	小林光一	11
第10回	1976年	加藤正夫
趙治勲	46	武宮正樹	.787	高木祥一	13
第11回	1977年	林海峰	42	林海峰	.808	林海峰	24
第12回	1978年	大竹英雄	39	羽根泰正	.829	大竹英雄	13
第13回	1979年	趙治勲
林海峰	39	橋本誼	.762	趙治勲	12
第14回	1980年	趙治勲	38	佐藤昌晴	.735	山部俊郎	11
第15回	1981年	山城宏	38	山城宏	.792	山城宏	12
第16回	1982年	小林光一	42	石田章
小林覚	.795	石田章	14
第17回	1983年	林海峰	38	小林覚	.795	山城宏	11
第18回	1984年	小林光一	38	桑田泰明	.786	桑田泰明	13
第19回	1985年	小林光一	39	郡寿男	.788	羽根泰正	12
第20回	1986年	王立誠	37	工藤紀夫	.750	加藤正夫	13
第21回	1987年	趙治勲	40	大平修三	.838	大平修三	17
第22回	1988年	小県真樹	39	羽根泰正
小林覚	.800	小林光一
依田紀基	12
第23回	1989年	依田紀基	51	依田紀基	.773	依田紀基	16
第24回	1990年	依田紀基	46	後藤俊午	.800	後藤俊午	14
成績年	最多
勝利賞		勝率
第一位賞		連勝賞		最多
対局賞	局
第25回	1991年	小松英樹	38	工藤紀夫	.844	王立誠	16	柳時熏	59
第26回	1992年	小松英樹	43	土田正光	.815	加藤正夫	16	小林光一
小松英樹	63
第27回	1993年	加藤正夫	40	王銘琬	.813	加藤正夫	22	加藤正夫	62
第28回	1994年	加藤正夫	39	小林覚	.829	小林覚	18	山田規三生	54
第29回	1995年	小林覚
王立誠	44	王立誠	.800	小県真樹	16	加藤正夫	67
第30回	1996年	羽根直樹	48	山田規三生	.810	松村龍一	15	片岡聡	66
第31回	1997年	羽根直樹	50	山下敬吾	.913	山田規三生	18	山下敬吾	69
第32回	1998年	山下敬吾	60	高尾紳路	.806	小松英樹
山下敬吾	17	山下敬吾	75
第33回	1999年	高尾紳路	61	山下敬吾	.821	羽根直樹	19	高尾紳路	75
第34回	2000年	山下敬吾	59	張栩	.811	高尾紳路	20	山下敬吾	77
第35回	2001年	羽根直樹	63	三村智保	.795	高尾紳路	18	羽根直樹	88
第36回	2002年	張栩	70	張栩	.833	小林覚	17	張栩	84
第37回	2003年	張栩	56	蘇耀国	.782	山田規三生	18	張栩	77
第38回	2004年	高尾紳路	44	鶴山淳志	.750	高尾紳路	15	山下敬吾	71
第39回	2005年	小林覚	46	井山裕太	.7547	武宮正樹	16	張栩	63
第40回	2006年	張栩	49	仲邑信也	.805	張栩	15	山下敬吾	68
第41回	2007年	張栩	51	森田道博	.8049	張栩	17	張栩	73
第42回	2008年	張栩	51	林子淵	.7949	森田道博	14	井山裕太	69
第43回	2009年	井山裕太	43	李沂修	.7600	張栩	17	井山裕太
高尾紳路	57
第44回	2010年	山下敬吾	40	山城宏	.800	山下敬吾	16	山下敬吾	63
第45回	2011年	井山裕太	48	金秀俊	.7742	金沢真	13	井山裕太	67
第46回	2012年	井山裕太	51	井山裕太	.8095	張豊猷	13	井山裕太	63
第47回	2013年	井山裕太	43	一力遼	.8511	富士田明彦	18	井山裕太	61
第48回	2014年	河野臨	50	許家元	.7895	河野臨	19	河野臨	76
第49回	2015年	井山裕太
許家元	41	芝野虎丸	.8125	井山裕太	24	山下敬吾	60
-	成績年	最多
勝利賞	勝	勝率
第一位賞	率	連勝賞		最多
対局賞	局


国際囲碁連盟

国際囲碁連盟(IGF)は、囲碁の国際普及を目的とする組織。1982年3月18日に加盟国29か国で発足。その後、加盟国は75か国(2015年時点)、他に4つの団体会員(イベロアメリカ囲碁協会、世界ペア碁協会、欧州囲碁連盟、應昌期圍棋教育基金)がいる。

目次 
1	発足までの経緯
2	活動
2.1	棋戦
2.2	普及
3	組織
4	参考文献
5	註
6	外部リンク

発足までの経緯
1957年頃から日本棋院と関係者の間で国際囲碁普及組織の必要性が検討され始め、一時は日本棋院中央会館に国際囲碁協会が設立されて、1963年には9か国が参加するインターナショナル・アマチュア・ゴ・トーナメントが開催された。また1957年からはヨーロッパ碁コングレスが開催されて、1959年にヨーロッパ囲碁協会も設立された。1975年には、日本棋院が後援してロンドン囲碁センターが設立される。
1979年に世界アマチュア囲碁選手権戦が開始され、これの運営組織を元にして1982年に国際囲碁連盟が設立された。

活動
棋戦
世界アマチュア囲碁選手権戦を主管。
1990年から98年まで、相鉄杯世界女流アマチュア囲碁選手権戦を主管。
1991年から国際アマチュア・ペア碁選手権大会を主管。
2006年から、韓国首相杯国際アマチュア囲碁選手権戦に協力。
2012年から、百霊愛透杯世界囲碁オープン戦を共同主宰。

普及
2006年、国際競技連盟連合(GAISF)加盟。
2005年、世界ブリッジ連盟、国際チェス連盟、国際チェッカー連盟とともに、国際マインドスポーツ協会設立を図り、4競技による世界マインドスポーツ大会開催を目指すことを発表。2008年に第1回ワールドマインドスポーツゲームズを、組織委員として開催した。
囲碁の世界統一ルールの制定のための検討を行っている。

組織
2013年まで、会長には主に日本棋院理事長が就任。本部、事務局は、日本棋院内に置かれていた。
2005年、初の女性棋士の理事として、梅沢由香里五段が就任。
2006年、重野由紀(1998年~2006年までイタリアに在住)が事務局長に就任し、2013年までつとめる。
2014年7月、韓国で開かれる国際囲碁連盟年次総会で韓国棋院に国際囲碁連盟会長が移り、事務局長も韓国に移る。会長は洪錫炫(ホン・ソクヒョン)、事務局長は李夏辰(イ・ハジン)となった。

参考文献
岩本薫『囲碁を世界に-本因坊薫和回顧録』講談社 1979年


囲碁の組織

囲碁の組織
囲碁に関する組織。競技団体、親睦・研究・普及・教育組織など。

I
IGO AMIGO

い
囲碁 サンサン
井上家

か
韓国棋院
関西棋院

き
棋正社
棋待詔
棋道報国会

け
瓊韻社

こ
国際囲碁連盟
GO-NET

せ
全日本囲碁連合
全日本学生囲碁連盟

た
タイゼム
台湾棋院

ち
中国の囲碁タイトル在位者一覧
中国囲棋会
中国囲棋協会
中国棋院

と
東洋囲碁

に
日本棋院

ね
ネット棋院

は
林家 (囲碁)

ひ
裨聖会

ほ
方円社
本因坊

や
安井家

よ
ヨーロッパ囲碁連盟

り
緑星囲碁学園

日本棋院

公益財団法人日本棋院は、東京都千代田区五番町(市ヶ谷駅前)に本部をおく、囲碁の棋士を統括し、棋戦をおこなっていくための公益財団法人。 約300人の棋士が所属するほか、職員として事務員や棋院発行の出版物をまとめる記者などが所属している。

目次  
1	歴史
2	発行誌
3	組織
3.1	東京本院
3.2	関西総本部
3.3	中部総本部
3.4	日本国外
4	役員
4.1	現在の役員
4.2	歴代総裁
4.3	歴代理事長
5	顕彰
6	関連項目
7	外部リンク

歴史
明治維新以降、幕府というパトロンを失った棋士たちは離合集散を繰り返し、囲碁界は混沌とした情勢であった。1872年(明治5年)に村瀬秀甫により設立された史上初の近代的なプロ棋士の団体である方円社と、封建的な風習を墨守する家元の本因坊家とが、対立、並存する時代が長年続いていた。1923年(大正12年)の大正関東地震(関東大震災)を機に棋士たちの大同団結の機運が高まり、翌1924年(大正13年)、大倉喜七郎を後援者として、本因坊秀哉以下の坊門の棋士や方円社などほとんどの棋士が集結し、日本棋院が設立された。
設立直後に棋正社の独立などもあり多少動揺した日本棋院であったが、その後新布石法の発表などで囲碁の人気も高まり、磐石の体制を築く。
第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)の東京大空襲で赤坂区(現港区)赤坂溜池にあった棋院本部が焼失するなど大きな被害を受けた。戦後すぐに瀬越憲作、岩本薫らが中心になって再建を目指し、大手合も料亭や後援者の邸宅などを借りて再開された。1948年(昭和23年)には港区高輪に新しい棋院会館が設立され、順調に日本棋院の再建は成されていった。
1947年(昭和22年)には坂田栄男、梶原武雄ら8棋士が「囲碁新社」を旗揚げするが、1949年(昭和24年)復帰する。 さらに1950年(昭和25年)、今度は当時本因坊の座にあった橋本宇太郎を旗頭に関西棋院が設立された。橋本は翌年の本因坊戦で坂田の挑戦を1-3からの大逆転で降してタイトルを防衛、関西棋院の独立を守った。その後いく度か再統合の話も出ているが、段位の調整や(主に日本棋院側の)財政問題などがネックとなり実現していない。この日本国内の棋院の分裂構造は日本将棋連盟が関東・関西・中部と一枚岩なのと比べきわめて対照的である。
1971年(昭和46年)には千代田区五番町の市ヶ谷駅前に現在も使用されている新会館が建設された。その後紆余曲折はあったものの、現在でも、世界囲碁界の中でも重要な地位を占める。ただし1990年代以降赤字財政が続いている他、囲碁人口の減少(2007年(平成19年)の囲碁愛好者は約240万人。『レジャー白書』による)、国際棋戦における日本棋士の不振など、問題山積が現状である。
2011年(平成23年)に公益財団法人へ移行した。

発行誌
機関誌として月刊「碁ワールド」、また年刊「囲碁年鑑」がある。入門者向け雑誌として「囲碁未来」、週刊誌として「週刊碁」がある。
棋道
日本棋院の創立とともに、日本棋院の機関誌として、1924年(大正13年)10月に創刊。棋戦などの手合の情報の掲載の他、独自の企画なども行い、情報誌としての機能に加え、メディアを通じての囲碁普及の役割も担った。1999年(平成11年)7月号で終刊し、「囲碁クラブ」と合併して「碁ワールド」となる。
詳細は「棋道」を参照
囲碁クラブ
「棋道」の姉妹誌として「爛柯」が1925年(大正14年)に創刊され、その後「囲碁クラブ」に改名。戦時中に休刊し、1954年(昭和29年)に復刊。「碁ワールド」発刊により終刊。
独自棋戦の主催も行い、1988年(昭和63年)から1996年(平成8年)までの、プロとアマチュア混合の地域対抗団体戦「キリン杯GO団体戦」などがある。
碁ワールド
「棋道」「囲碁クラブ」を引き継ぐ機関誌として、1999年(平成11年)8月から発刊。
囲碁未来
初級者向けの月刊誌。1962年(昭和37年)に「碁」として創刊。1967年(昭和42年)終刊、1973年(昭和48年)に復刊し、1980年(昭和55年)に「レッツ碁」に改名、1995年(平成7年)に「囲碁未来」に改名した。
週刊碁
週刊の情報新聞として、1977年(昭和52年)から発行。朝日新聞社が販売協力する。

組織
東京本院
発足当初は銀座に仮事務所を置き、1925年12月に永田町の溜池に会館を建設。1920年5月の空襲で溜池は消失し、終戦後は柿の木坂の岩本薫宅を仮事務所とし、1948年に高輪のビルを購入して会館とした。1954年に東京駅八重洲口の国際観光会館ビルに日本棋院中央会館を開館(1991年に八重洲囲碁センターに改称移転、2013年に有楽町に移転し有楽町囲碁センターとなっている)。1971年に千代田区の市ヶ谷駅前に本院を移転した。

関西総本部
大阪市にあり、近畿地区、広島、岡山両県を統轄する。1950年(昭和25年)に関西棋院が独立した際に、日本棋院残留派によって同年発足した。2008年(平成20年)2月現在、山田規三生・井山裕太など棋士39名が所属する。

中部総本部
名古屋市にあり、中部地区と三重県を統轄する。1940年(昭和15年)設立の日本棋院東海支部から、1948年(昭和23年)に日本棋院東海本部に昇格、1955年(昭和30年)に日本棋院中部総本部となる。2008年(平成20年)2月現在、羽根直樹・羽根泰正・山城宏など棋士43名が所属する。独自のタイトル戦として王冠戦がある。

日本国外
日本棋院南米本部(Nihon KI-IN do Brasil)
日本棋院ヨーロッパ囲碁文化センター(Stichting The Nihon KI-IN European GO Cultural Centre)
日本棋院アメリカ西部囲碁センター(Nihon KI-IN GO Institute Of The West U.S.A)
日本棋院ニューヨーク碁センター(New York GO Center)

役員
現在の役員
(2016年現在)
総裁:今井敬(経団連名誉会長)
顧問:大竹英雄(九段)
理事長:團宏明(公益財団法人通信文化協会理事長)
副理事長:山城宏(九段)
常務理事:大淵盛人(九段)、円田秀樹(九段)、小林千寿(五段)、宮川史彦(七段)、平野則一(五段)、原幸子(四段)、重野由紀(二段)
理事:阿久根操、岩崎和人、小川誠子(六段)、齋藤喜以子、角和夫、堀義人、松浦晃一郎
監事:久保秀夫(六段)、満田庸一(公認会計士)

歴代総裁
初代(1924 - 46年):牧野伸顕(外務大臣、内大臣)
2代(1955 - 67年):津島寿一(大蔵大臣、防衛庁長官)
3代(1967 - 73年):足立正(王子製紙社長、ラジオ東京(現:TBS)社長 
4代(1973 - 74年):佐藤喜一郎(三井銀行会長)
5代(1974 - 82年):田実渉(三菱銀行会長)
6代(1982 - 87年):稲山嘉寛(旧経団連会長、新日本製鐵社長)
7代目(1993 - 1996年11月):朝田静夫(元日本航空相談役)
8代目(2004年7月 - ):今井敬(旧経団連会長、新日本製鐵相談役名誉会長)

歴代理事長
初代(1946 - 48年):瀬越憲作
2代(1948 - 49年):岩本薫
3代(1949 - 51年):津島寿一
4代(1951 - 55年):足立正
5代(1955 - 56年):三好英之(北海道開発庁長官)
6代(1956 - 75年):有光次郎(文部事務次官)
7代(1975 - 78年):長谷川章
8代(1978 - 86年):坂田栄男
9代(1986 - 87年):色部義明(協和銀行相談役)
10代(1988 - 93年):朝田静夫
11代(1993 - 98年):渡辺文夫(日本航空会長)
12代(1999 - 2004年):利光松男(日本航空社長)
13代(2004年):加藤正夫
14代(2006 - 2008年):岡部弘(デンソー会長)
15代(2008 - 2012年):大竹英雄
16代(2012 - 2016年):和田紀夫(NTT相談役)
17代(2016 - ):團宏明(公益財団法人通信文化協会理事長)

顕彰
秀哉賞
年間最優秀棋士に贈られる賞。本因坊秀哉の名を取って、1963年(昭和38年)に創設。識者と関係者による秀哉賞選考委員によって選考される。
大倉喜七郎賞
囲碁の普及、発展の功労者に贈られる賞。日本棋院創設に功績のあった大倉喜七郎の名を取って、1964年(昭和39年)に創設。当初の名称は大倉賞だったが、1989年(平成元年)に現在の名称に改称。
棋道賞
「棋道賞」も参照
年間で活躍した棋士に贈られる賞。1967年(昭和42年)に、日本棋院の機関誌「棋道」主催で、関係者と棋戦主催者の代表により誌上で選考する形で創設し、最優秀棋士賞、記録部門賞、その他の部門賞を選ぶ。1999年(平成11年)の第33回からは、「碁ワールド」誌主催となった。
部門賞は年によって変更されることがある。1988年(昭和63年)からは国際賞を設置。当初あった敢闘賞、技能賞、殊勲賞は、1990年(平成2年)以降は廃止されて優秀棋士賞が作られた。特別賞など、その年限りの賞を贈られることもある。記録部門賞も、当初は七段以上の棋士を対象にしていたが、棋戦の構成上その規定に合理性がないため1995年(平成7年)からは五段以上に改められた。
松原賞
関西総本部主催。
土川賞
中部総本部主催。


関西棋院

一般財団法人関西棋院は囲碁の棋士を統括し、近畿を中心として棋戦や囲碁普及などの活動をう組織(一般財団法人)。日本棋院から1950年に分離独立。現在117人の棋士、女流棋士が所属。機関誌『囲碁関西』(月刊)を発行している。

目次
1	概要
2	歴史
2.1	独立までの動き
2.2	東西対立から独立
2.3	発展と現状
3	顕彰
4	近年の関西棋院棋士のタイトル戦
5	所属棋士
6	役員
7	脚注
8	出典
9	外部リンク

概要
本院は大阪府大阪市中央区北浜にあり、全棋士が本院所属である。
事業活動として、プロ棋士の対局の実施運営、 各種囲碁大会・囲碁セミナー・囲碁ツアーの実施。機関紙『囲碁関西』など出版事業、免状の発行、囲碁サロン・囲碁教室・子ども囲碁学園の経営、 囲碁ネット事業等。2010年現在、48支部ある。
所属棋士が各種タイトル戦に参加する場合、まず3段階(ABC方式)の院内予選を行ない、その勝者が日本棋院所属棋士と混合の最終予選に出場することが多い。また関西棋院独自の棋戦として、関西棋院第一位決定戦と産経プロアマトーナメント戦がある。その一方、本因坊戦最終予選の参加枠は4人(日本棋院の7分の1)に限られ、竜星戦・阿含桐山杯・NECカップ囲碁トーナメント戦についても出場制限が課されている。
日本棋院同様の院生からの入段(プロ入り)制度とは別に、特例で年長のアマ強豪をプロ編入してきた歴史があり、陳嘉鋭・坂井秀至・石井茜らにプロ棋士への道を開いた。2009年からは「研修棋士制度」としてプロ編入試験(試験碁)を制度化し、日本だけでなく中国・韓国出身のアマ強豪が続々入段している。

歴史

独立までの動き
日本棋院設立から昭和初期までの関西囲碁界は、主な棋士は日本棋院に参加し、関西支部(後に関西本部)が設立されていた。中心にいたのは久保松勝喜代、光原伊太郎などで、独自の大手合も行っていたが、五段以上の昇段は東京でなければ認められず、若手の高川格や田中不二男をはじめ、有力な棋士は東京の大手合にも参加していた。
終戦後は、戦時中に宝塚に疎開していた橋本宇太郎を中心にまとまり、関西在住の棋士達の待遇面(主に昇段制度、交通関係)での地位向上を目指した。1947年(昭和22年)には、空襲で焼けた日本棋院会館の復興のために全棋士による募金活動が行われ、関西支部には計50万円の目標が課せられたが、関西でも資金が必要であることから、募金の半分を東京に送ることにして募金を行った。その結果100万円が集まったが、全額を関西で使おうという意見が棋士や後援者で強まり、関西の会館の建物を買い、財団法人関西棋院として財務上は独立した組織となった。

東西対立から独立
関西棋院が法人として独立した後も、日本棋院との関係はそれまでとは変わりなかった。1950年(昭和25年)には日本棋院と関西棋院の12人ずつの選手による東西対抗戦、及び東西対抗勝ち抜き戦が行われ人気を博す。同年第5期本因坊戦で橋本宇太郎が本因坊位を獲得するが、その就位式席上で日本棋院津島寿一総裁が、これまで2年で1期だった本因坊戦を1年1期に改めると述べた。本因坊当人に相談もなく決められたことで、関西棋院の内部は独立派が生まれて、協調派と分かれ、多数となった独立派により同年9月に免状発行権を持った組織として独立が宣言される。協調派の棋士は、日本棋院関西総本部を設立した。
翌年の第6期本因坊戦では、日本棋院新鋭の期待株坂田栄男が挑戦権を得た。この七番勝負で橋本は坂田に1勝3敗に追い込まれたが、そこから3連勝して本因坊を防衛。もしこの勝負に橋本が敗れていたら関西棋院は発足直後に解散に追い込まれていただろうとも言われている。
また1958年に日本棋院東海本部が中部総本部に再編成した際に、伊神肇、植松弘聖らが離脱して、名古屋市に関西棋院中部総本部を設立した。

発展と現状
この後、橋本宇太郎と橋本昌二の「両橋本」(両者に血縁関係はない)が関西棋院の二枚看板となり、十段・王座のタイトルを奪うなど活躍した。1962年には名人戦リーグに10名中4名、本因坊リーグにも8名中3名の関西棋院所属棋士が参加(半田道玄が本因坊挑戦権獲得)、第1期・第2期の十段の座を橋本宇太郎と半田道玄の関西勢同士が争うなど、大いに気勢を上げた。橋本昌二は「組織存続のため、日本棋院との戦いは死活問題だった」と語る。
しかし日本棋院との緊張関係が緩和に向かった上、独立によって日本棋院所属棋士との対局機会が減少したこともあり、所属棋士の活躍は次第に目立たなくなった。七大タイトル保持者も、1981年の橋本昌二(王座)以降、長らく出現しなかった(次項参照)。三大タイトル(棋聖・名人・本因坊)リーグ在籍者もゼロの年が目立ちはじめ、特に本因坊リーグへは2000年度(結城聡)以降、2009年度(同)まで参加がなかった。
しかし2010年になり、坂井秀至が碁聖のタイトルを奪取すると、結城聡も天元位を獲得してこれに続いた。若手の瀬戸大樹・村川大介らの活躍もあり、関西棋院は久々にかつての勢いを取り戻しつつある。2012年の第68期本因坊リーグは8名中3名(32期ぶり)、2013年の第38期名人戦リーグも9名中3名を関西棋院勢が占めた。
中部総本部には一時は20名を超える棋士が所属したが、2010年3月末をもって閉鎖された。
2012年4月1日、法人制度改革に伴い、公益法人より活動の制約が少ない一般財団法人となった。日本棋院との再統合も何度か話題に上っているが、両院の段位の調整、(主に日本棋院側の)財政問題などがネックとなり、未だに実現していない。全日本囲碁連合結成に参加するなど、そのあり方の模索が続いている。

顕彰
1973年に関西棋院賞を創設し、最優秀棋士賞、利仙賞(敢闘賞)、道玄賞(殊勲賞)、新人賞を設ける。1981年からは連勝賞、1992年には永井賞(30歳未満が対象)、山野賞(普及貢献賞)、2007年には吉田賞(対外戦最多勝)を設けた。

近年の関西棋院棋士のタイトル戦
詳細は囲碁のタイトル在位者一覧を参照。色付きはタイトル獲得。
年	棋戦	関西棋院棋士	結果	相手
1941年	本因坊	関山利一	3-3	加藤信
1943年	本因坊	橋本宇太郎	1-0	関山利一
1945年	本因坊	橋本宇太郎	0-2	岩本薫
1949年	本因坊	橋本宇太郎	4-0	岩本薫
1951年	本因坊	橋本宇太郎	4-3	坂田栄男
1952年	本因坊	橋本宇太郎	1-4	高川格
1953年	王座	橋本宇太郎	1-0	前田陳爾
1955年	王座	橋本宇太郎	2-1	島村利博
1956年	王座	橋本宇太郎	2-0	坂田栄男
1957年	王座	半田道玄	0-2	島村利博
1958年	王座	半田道玄	0-2	藤沢朋斎
1959年	王座	橋本昌二	2-0	山部俊郎
1960年	王座	半田道玄	2-0	大窪一玄
1962年	十段	橋本宇太郎	3-1	半田道玄
1962年	本因坊	半田道玄	1-4	坂田栄男
1963年	十段	半田道玄	3-1	橋本宇太郎
1965年	王座	半田道玄	2-0	大窪一玄
1967年	王座	橋本昌二	0-2	藤沢秀行
1971年	王座	橋本昌二	0-2	坂田栄男
1972年	王座	橋本宇太郎	1-2	坂田栄男
1974年	十段	橋本昌二	3-1	坂田栄男
1975年	十段	橋本昌二	0-3	林海峰
1977年	棋聖	橋本宇太郎	1-4	藤沢秀行
1977年	天元	苑田勇一	1-3	島村俊宏
1979年	十段	橋本昌二	1-3	加藤正夫
1981年	十段	橋本昌二	2-3	大竹英雄
1981年	王座	橋本昌二	2-1	加藤正夫
1982年	王座	橋本昌二	2-0	加藤正夫
1986年	天元	苑田勇一	1-3	小林光一
1988年	天元	苑田勇一	1-3	趙治勲
1989年	碁聖	今村俊也	1-3	小林光一
1997年	碁聖	結城聡	1-3	依田紀基
1998年	碁聖	苑田勇一	0-3	依田紀基
2002年	碁聖	結城聡	1-3	小林光一
2005年	棋聖	結城聡	3-4	羽根直樹
2005年	碁聖	結城聡	0-3	依田紀基
2007年	王座	今村俊也	1-3	山下敬吾
2007年	碁聖	横田茂昭	0-3	張栩
2009年	碁聖	結城聡	0-3	張栩
2010年	碁聖	坂井秀至	3-2	張栩
2010年	天元	結城聡	3-0	山下敬吾
2011年	碁聖	坂井秀至	2-3	羽根直樹
2011年	天元	結城聡	0-3	井山裕太
2013年	十段	結城聡	3-2	井山裕太
2013年	十段	結城聡	2-3	高尾紳路
2014年	王座	村川大介	3-2	井山裕太
2015年	王座	村川大介	0-3	井山裕太
2016年	王座	余正麒	0-3	井山裕太

所属棋士
結城聡
苑田勇一
今村俊也
坂井秀至
白石裕
横田茂昭
橋本昌二
本田邦久
村川大介
中野泰宏
瀬戸大樹
清成哲也
余正麒
藤井秀哉
芦田磯子
小西和子
榊原史子
倉橋正行
吉田美香
石井茜
佐田篤史
他、総勢117人

役員
理事長:中川和雄
副理事長:永井一夫
常務理事:滝口政季(九段)、太田清道(棋士会会長)、勝間史朗(七段)、今村俊也(九段)、藤原克也(六段)、
理事:東郷武、田口榮一
監事:五味正義、久保田大
(2010年10月1日現在)

中国棋院

中国棋院
各種表記
繁体字:	中國棋院
簡体字:	中国棋院
拼音:	Zhōngguó Qíyuàn
注音符号:	ㄓㄨㄥ ㄍㄨㄛˊ ㄑ|ˊ ㄩㄢˋ
英文:	China Qiyuan
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幽玄の間
AlphaGo対李世乭
表 話 編 歴
中国棋院(ちゅうごくきいん、簡体字:中国棋院)は、中華人民共和国の中国全国体育総会の下部組織で、中国の棋類(棋牌)に分類されるボードゲームを管轄している団体。囲碁、シャンチー(象棋)、チェス(国際象棋)、連珠(五子棋)、ブリッジ(桥牌)、麻雀(麻将)などを実施。1992年に設立。プロやアマチュアの大会の開催、棋士の育成などを行っている。
各地方を統括するための同種の組織として、上海棋院、成都棋院などがある。

目次
1	組織
2	棋士ランキング
3	その他
4	関連項目
5	外部リンク

組織
国家体育総局の事業機関に位置づけられる。
初代院長には囲碁の名棋士である陳祖徳が就任。陳は健康上の理由から2003年に退任し、続いてやはり囲碁棋士で副院長であった王汝南、華以剛が院長を歴任、それぞれ60歳定年で退任、4代院長には国家体育総局棋牌運動センター主任の劉思明が就任。内部組織としては、囲棋部、象棋部、国際象棋部などがある。
歴代院長
1992-2003 陳祖徳
2003-2007 王汝南
2007-2009 華以剛
2009-2015 劉思明
2015-楊俊安(代理)
各競技の棋士は、それぞれ中国囲棋協会、中国チェス協会、中国象棋協会、中国ブリッジ協会などに所属している。

棋士ランキング
1997年から、囲碁、チェス、シャンチー、ブリッジの棋士の成績に応じた点数制によるランキングを制定し、毎年4月、8月、12月の3回発表している。

その他
『ヒカルの碁』主人公・進藤の日本棋院院生時代からの友人・伊角が中国棋院に滞在するエピソードがあり(単行本16巻)、中国全土から中国棋院に集められた有望若手棋士達が囲碁の研鑽に励む姿が描かれている。そのレベルは非常に高いものである。
本部は北京の天壇公園のすぐ近くに位置しており、新館、旧館2つのビルからなる。旧館には日中友好の一環として日本の援助の元に建てられ、日本から輸入された建材が多く使われている。また、新館には対局室、貴賓用対局室、宿泊施設があり、2008年に大幅に改修された。
2年に一度、韓国棋院と持ち回りで世界囲碁選手権富士通杯の準々決勝の会場となっている。


韓国棋院

韓国棋院は、大韓民国の囲碁の組織。プロの囲碁棋士が所属し、棋戦などを行う。

目次 
1	歴史
2	出版物
3	主な棋戦
3.1	国内棋戦
3.2	国際棋戦
4	顕彰
5	関連項目
6	脚注
7	外部リンク

歴史
日本の木谷実九段の門下として1941年にプロ棋士初段となった趙南哲が、1943年に韓国に帰国し、1945年に囲碁団体として漢城棋院を設立。1947年に朝鮮棋院、1949年に大韓棋院と名前を変え、1954年に韓国棋院となる。当時の韓国では、日本ルールによる「現代囲碁」と、あらかじめ白黒16個の置き石をした上で対局を始める、巡将碁(スンジャン・パドゥク)と呼ばれる伝統的な囲碁が混在しており、趙南哲らは「現代囲碁」の普及を目指した。
1950年に韓国囲碁界で初の段位決定戦を行ない、南哲が三段、他に12人を初段とした。この直後の朝鮮戦争の勃発で活動を休止するが、3年後の休戦協定後に活動を再開。1954年に昇段大会、入段大会を開始。
1956年に新聞棋戦国手戦を開始。趙南哲が第1期国手となり、以後9連覇して第一人者となる。その後、1959年開始の覇王戦、最高位戦など多くの棋戦が開催され、当初は金寅、尹奇鉉、河燦錫、曺薫鉉など、日本で囲碁を学んだ棋士がトップとなっていたが、1970年代には徐奉洙が曺に互してタイトルを取るなど、韓国で育った棋士も次第に一流の実力を持つようになる。
1989年には曺薫鉉が第1回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦で優勝し、続いて第2回は徐奉洙、第3回は劉昌赫、第4回は李昌鎬が優勝するなど、1990年代以降はあらゆる世界棋戦で好成績を挙げ、世界最強の囲碁勢力となった。1996年にはLG杯、三星火災杯の2つの世界選手権を開始。1997年 - 1998年のアジア通貨危機による不況では、多くの棋戦がスポンサーによって終了したり、賞金額を削減されるという危機に見舞われたが、その後は経済の復活に伴って新たな棋戦も開始された。
2000年以降は、ポスト李昌鎬として李世乭、朴永訓、崔哲瀚などが世界選手権を制し、国内棋戦でも李昌鎬とタイトルを分け合うようになる。女流棋士も、中国出身で客員棋士に迎えた芮廼偉九段の影響もあってレベルアップされ、2008年には朴鋕恩が韓国人女流初の九段となった。2010年には囲碁広報大使として女優の李英雅を任命している。

出版物
1967年から月刊誌『棋界』(기계)を刊行。1969年からは『月刊囲碁』(월간바둑)に改名。

主な棋戦
国内棋戦
国手戦(東亜日報主催)1956年 -
覇王戦(大韓毎日新聞主催)1959年 - 2003年
最高位戦(釜山日報主催)1959年 - 1999年
王位戦(中央日報主催)1966年 - 2007年
名人戦(韓国日報主催)1968年 - 2003年、2007年 -
KBS杯バドゥク王戦(韓国放送公社主催)1980年 -
棋聖戦(世界日報主催)1989年 -
バッカス杯天元戦(スポーツ朝鮮主催)1996年 - (前身はバッカス杯戦)
GSカルテックス杯プロ棋戦(毎日経済新聞、毎経TV主催)1996年 -
圓益杯十段戦(韓国棋院主催)2006年 -
プロ女流国手戦(韓国経済新聞主催)1994年 -
女流名人戦(毎日新聞主催)2000年 -
女流棋聖戦 2006年 -
韓国囲碁リーグ 2004年 -

国際棋戦
東洋証券杯世界選手権戦(ソウル経済新聞主催)1990年 - 1998年
三星火災杯世界オープン戦(中央日報、KBS、ユニテル3社共同主催)1996年 -
LG杯世界棋王戦(朝鮮日報主催)1997年 -
BCカード杯世界囲碁選手権戦(BCカード主催)2009年 -
農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦(農心主催)1999年 -
宝海杯世界女子選手権戦(韓国経済新聞、KBS共同主催)1994年 - 1998年
正官庄杯世界女子囲碁最強戦(囲碁TV主催)2002年 -

顕彰
1978年 - 1983年、棋道文化賞 最優秀棋士、敢闘賞、新鋭棋士賞などを授与
1989年 - 1992年、プロ棋士MVP
1993年 - 2002年、囲碁文化賞 最優秀棋士、新鋭棋士、女流、アマチュア等の賞を授与
2003年 - 、囲碁大賞 最優秀棋士、人気棋士等の賞を授与

台湾棋院

台湾棋院は台湾の囲碁の組織。プロの囲碁棋士が所属し、棋戦や囲碁の振興活動などを行う。正式名は『台湾棋院文化基金会(台灣棋院文化基金會)』。英語名はTaiwan Chi Yuan Culture Foundation。

目次
1	歴史
2	棋戦
3	関連項目
4	注
5	外部リンク

歴史
台湾のプロ組織には、1972年(民国61年)発足の中国囲棋会が存在していた。
2000年(民国89年)3月4日に、中環集団社長の翁明顯が理事長となって台湾棋院が発足。
2003年(民国92年)から、関西棋院との定期交流戦を開始。
2008年(民国97年)3月に、新しい棋士処遇制度を定めるが、これに同意しなかった周俊勲、林聖賢、彭景華、周奎宏ら12名の棋士を、主催する棋戦への5年間出場停止処分とした。しかし海峰棋院理事長林文伯らの調停により、2009年9月に改訂した同意書にサインし復帰となった。
2008年から中国乙級リーグに参加、1勝3敗3分の成績で丙級落ちするが、2012年丙級リーグで1位となって乙級昇級を果たした。
2009年に林至涵が台湾棋院設立後初の九段昇段を果たし、2011年には陳詩淵も九段昇段。

棋戦
国内棋戦
中環杯囲棋オープン戦(台湾棋院文化基金会主催)1994年〜
CMC杯電視快棋戦(緯来電視台放送、台湾棋院文化基金会主催)2001年〜
東鋼杯プロ囲棋戦(台湾棋院文化基金会主催)2001年〜
天元戦(民生報、台湾棋院文化基金会主催)2002年〜
棋霊王杯戦(台湾棋院文化基金会主催)2002年〜
新人王戦 2002年〜
魔戒杯戦(台湾棋院文化基金会主催)2003年〜
中環杯国手戦(台湾棋院文化基金会主催)2005年〜
王座戦(台湾棋院文化基金会主催)2006年〜
国際棋戦
中環杯世界囲棋選手権戦(台湾棋院文化基金会主催、中環・JPモーガン後援)2005年〜
亜芸杯両岸交流戦(台湾棋院文化基金会主催)2006年〜
その他、台湾棋院以外主催の棋戦
名人戦(応昌期囲棋基金主催)1972年〜

全日本学生囲碁連盟

全日本学生囲碁連盟は、日本の囲碁の学生組織。1957年(昭和32年)創立。北海道、東北、関東、北信越、中部、関西、中国四国、九州の8地区の囲碁連盟から構成される。

目次
1	創設
2	主催イベント
3	参考文献
4	外部リンク

創設
学生の囲碁は、1924年(大正13年)に東京大学囲碁連盟が結成され、いったん弱体化するが1930年に再結成。1931年に6校によるリーグ戦が開始、これを母体に1942年に関東大学囲碁連盟が結成され、参加校は8校となる。しかし大戦の影響でリーグ戦も1943年に中断。戦後1947年に関東大学囲碁連盟が再建、リーグ戦も再開。1952年には関西学生囲碁連盟設立。1957年に全日本大学囲碁連盟が結成され、同年から全日本学生本因坊決定戦も開始された。結成時の役員は、会長津島寿一、副会長藤田梧郎、理事に村島誼紀、酒井健夫、林裕。
1964年には全日本学生囲碁十傑戦も開催され、この頃の参加校は100校ほどになった。

主催イベント
全日本大学囲碁選手権(1957-)
全日本学生本因坊決定戦(1957-)
全日本学生囲碁十傑戦(1964-)
全日本女子学生本因坊決定戦(1966-)
全日本学生囲碁名人戦(1979-)
全日本学生囲碁王座戦(2002-)
世界学生囲碁王座戦(2003-)
この他に、各地区の囲碁連盟によって団体リーグ戦や、個人戦の地区予選、その他の大会も開かれている。

参考文献
坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年
安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年

棋戦

棋戦(きせん)とは囲碁の大会、特にプロのものを指す言葉。

目次 
1	歴史
1.1	黎明期
1.1.1	代表的な新聞の棋譜掲載
1.2	トーナメント制の発展
1.3	世界への拡がり
2	国際棋戦
2.1	世界選手権
2.2	国際対抗戦
2.3	国際女流棋戦
2.4	国際ペア碁棋戦
3	日本の棋戦
3.1	タイトル戦
3.1.1	名誉称号
3.1.1.1	他棋戦称号
3.1.2	グランドスラム
3.1.3	大三冠
3.2	主要棋戦
3.3	女流棋戦
3.4	地方棋戦
3.5	非公式棋戦
3.6	ペア棋戦
3.7	終了棋戦
4	韓国の棋戦
4.1	一般棋戦
4.2	若手棋戦・シニア棋戦
4.3	女流棋戦
4.4	ペア碁棋戦
4.5	韓国囲碁リーグ
4.6	終了棋戦
5	中国の棋戦
5.1	棋戦
5.2	優勝杯
5.3	若手棋戦
5.4	女流棋戦
5.5	地方棋戦
5.6	ペア碁棋戦
5.7	中国囲碁リーグ
5.8	その他
5.9	終了棋戦
6	台湾の棋戦
6.1	一般棋戦
6.2	限定棋戦
7	脚注
7.1	注釈
7.2	出典
8	参考文献
9	関連項目

歴史
黎明期
室町時代末期から公家や大名により当代の名手を集めた碁会が催されることが多くなり、著名な碁打ちの強さの格付けもされるようになる。江戸時代になると、その中の本因坊算砂や利玄といった者たちから家元制が生まれ、家元が幕府に出仕しての御城碁や、寺社奉行の許可に基づく争碁などが公的な対局として行われていた他、武家や豪商が後援者となっての対局も行われた。
明治時代になって囲碁界が江戸幕府の保護を失うと、棋士達はスポンサーの支援によって対局を行った他、新たに結成された方円社では月例会の棋譜は雑誌「囲棋新報」に掲載される。囲碁愛好者の拡大に応じ、1878年(明治11年)に郵便報知新聞で初めて新聞に棋譜が掲載され、時事新報が1896年から「碁の栞」と題して棋譜連載、続いて1898年に國民新聞、神戸新聞で棋譜を掲載する。1905年に萬朝報で開始された「碁戦」は、本因坊門と方円社それぞれの勝抜き戦を交互に掲載し、1910年からは両派合同の連合選手戦となった。その後、日本新聞、讀賣新聞、その他の新聞が棋譜掲載を行うようになった。この頃対局料は、講評や弁当代まで含んで20円で、萬朝報が参入した頃には25円になった。

代表的な新聞の棋譜掲載
時事新報 1896年 碁の栞、1901年 囲碁新手合
萬朝報 1905年 碁戦
東京日日新聞 1906年 敲玉新譜、1926年 新進打切碁戦
東京二六新聞 1906年 読者勝抜戦
都新聞 1907年 雁金派碁譜
東京朝日新聞 1908年 少壮決戦譜
中外商業新聞 1909年 囲碁新手合
やまと新聞 1909年 青年、女流棋客戦
大阪朝日新聞 1909年 関西囲碁研究会提供譜
東京毎日新聞 1910年 当代名手碁戦
報知新聞 1920年 敗退争覇名碁戦

トーナメント制の発展
大正時代に設立された裨聖会では、その棋譜を報知新聞に掲載。1924年に日本棋院が設立されると、1927年からその大手合は朝日新聞、日本棋院を脱退した5名の棋士による棋正社の手合は報知新聞、日本棋院対棋正社敗退手合は読売新聞と、それぞれの組織が新聞社と契約するという形になる。國民新聞は日本棋院の少年棋士の対戦譜、東京日日新聞では日本棋院の新進棋士の新進打切碁戦を掲載。また1928年(昭和3年)には東京日日新聞主催で全国素人囲碁大会が開かれ、全国規模のアマチュア棋戦の嚆矢となった。
その後、プロ棋士によるトーナメント戦としては、1933年(昭和8年)に読売新聞主催の日本囲碁選手権手合が行われ、優勝者呉清源と本因坊秀哉名人との記念対局が話題となった。同年には、時事新報による木谷實と呉清源の十番碁も行われた。
1938年(昭和13年)に本因坊秀哉の引退に伴い、本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、その名跡を選手権制で争う「本因坊名跡争奪全日本囲棋選手権大手合」いわゆる本因坊戦が昭和14年から毎日新聞主催で開始される。その後、同様のタイトル戦形式の棋戦が行われるようになり、1953年に王座戦、1954年にラジオ放送によるNHK杯争奪トーナメントなどが始まる。1961年(昭和36年)には多くの軋轢を経た後、名人戦も開始される。
また女流棋士による棋戦として1930年(昭和5年)に時事新報主催の東西対抗女流棋士戦、早碁棋戦として1936年(昭和11年)に時事新報主催の早碁選手権大会など、様々な形の棋戦が行われるようになった。

世界への拡がり
日本で発展した棋戦の形式は、韓国でも1947年の朝鮮棋院設立(後に韓国棋院)とともに行われるようになった。中国では中華人民共和国の囲碁強化政策により、1957年に全国囲棋個人戦開始、1962年に中国囲棋協会がプロ棋士制度を取り入れたことにより、日本や韓国と同様の形式の棋戦が行われるようになる。台湾でも1974年開始の名人戦など、同様の棋戦が発展した。ヨーロッパでも明治以降に囲碁の愛好者が少しずつ増え始め、各国でトーナメント戦が行われるようになり、1957年にはヨーロッパ碁コングレスが開始された。
各国間の交流も次第に盛んになり、1955年に5ヶ国のアマチュア棋士が参加しての国際囲碁トーナメント大会、1963-64年に9ヶ国によるインターナショナルアマチュア•碁•トーナメント開催。1979年からは世界アマチュア囲碁選手権戦がには15ヶ国の参加で開始、2007年には68ヶ国•地域が参加するまでになっている。プロ棋士の国際棋戦としては、1988年に世界囲碁選手権富士通杯、IBM早碁オープン戦、応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦が開始、1990年代以降は韓国や中国の主催による世界選手権も開始され始めた。
これまでのプロ棋戦はスポンサーとの契約金を主催する棋士組織内で成績や段位に応じて分配する形で行われていたが、2009年開始のBCカード杯世界囲碁選手権ではトーナメント上位者に賞金を与えるという賞金制の試みもなされている。
囲碁はマインドスポーツの一つとしての位置づけも広まり、2008年開始のワールドマインドスポーツゲームズや、2010年第16回アジア競技大会でも競技種目と採用されるようになった。
また中国では団体戦形式の中国囲棋リーグ戦が1999年に開始、同形式の韓国囲碁リーグも2004年に開始、高い人気を持っている。

国際棋戦
世界選手権
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	決勝	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦	応昌期基金会	1988年	五番	3時間30分[注釈 1]	なし	8目(計点制ルール)	40万米ドル	[1]
三星火災杯世界囲碁マスターズ	中央日報
韓国放送公社
三星火災海上保険	1996年	三番	3時間	5分前	6目半	3億ウォン	[2]
LG杯世界棋王戦	朝鮮日報社
LG	1996年	三番	3時間	5分前	6目半	2億5000万ウォン	[3]
春蘭杯世界囲碁選手権戦	春蘭集団	1999年	三番	3時間	5分前	7目半	15万ドル	[4]
百霊愛透杯世界囲碁オープン戦	貴州省人民政府
貴州百霊企業団	2012年	五番	2時間45分	1分5回	7目半	180万元	[5]
Mlily夢百合杯世界囲碁オープン戦	国際囲碁連盟
中国棋院	2013年	五番	3時間	1分5回	7目半	180万元	[6]
利民杯世界囲碁星鋭最強戦	中国囲棋協会、中国棋院杭州分院	2014年					

国際対抗戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
テレビ囲碁アジア選手権	日本放送協会
中国中央電視台
韓国放送公社	1989年	なし[注釈 2]	6目半[注釈 3]		[7]
中韓天元対抗戦	中国新民萬報
スポーツ朝鮮
華中実業
東亜製薬	1997年	3時間	1分5回	6目半		
国際新鋭囲碁対抗戦		1997年				
農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦	韓国日刊スポーツ
農心	1999年	1時間	1分	6目半	2億ウォン	[8]
阿含・桐山杯日中決戦	毎日新聞社
京都新聞社
KBS京都
中国中央電視台
阿含宗	1999年	なし[注釈 2]	6目半	500万円	
鳳凰古城世界囲棋嶺鋒対決	鳳凰古城旅行
北京天下鳳凰文化伝播	2003年			7目半	5万ドル
関西棋院台湾棋院交流戦		2004年	2時間30分	3分前	6目半	
日台精鋭プロ選手権	海峰棋院
日本航空
大通旅行社
LGS傳奇圍棋網	2008年	1時間	1分	6目半	120万元
中国・常徳杯世界囲棋名人争覇戦	人民日報社
湖南省体育局
常徳市人民政府	2010年	2時間45分	5分前	7目半	30万元
招商地産杯中韓囲棋団体対抗戦	招商地産	2011年	2時間45分	1分5回		60万元
珠鋼杯世界囲碁団体選手権	中国囲棋協会、広州市体育総会	2013年				200万元
終了棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	廃止年	決勝	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
世界囲碁選手権富士通杯	読売新聞社
富士通
文部科学省	1987年	2011年	一番	2時間	5分前	6目半	1500万円	[9]
IBM早碁オープン戦	週刊碁
日本アイ・ビー・エム	1988年	1990年		1時間	30秒	5目半	300万円	
東洋証券杯世界選手権戦	ソウル経済新聞社
韓国東洋証券	1989年	1998年	五番	3時間	1分	5目半		
トヨタ&デンソー杯囲碁世界王座戦	トヨタ自動車
デンソー
日本経済新聞社	2001年	2009年	三番	3時間	10分前	6目半	3000万円	[10]
中環杯世界囲碁選手権戦		2004年	2007年		2時間30分	5分前	6目半		[11]
BCカード杯世界囲碁選手権	BCカード	2009年	2012年	五番	2時間	1分3回	6目半	3億ウォン	[12]
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	廃止年	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
日中スーパー囲碁	週刊碁
新体育雑誌社
朝日新聞社
NECグループ	1984年	2001年					
日中天元戦	ブロック紙3社連合
新民晩報
囲棋月刊
富士通	1988年	2002年	3時間	1分	5目半		
日中名人戦	朝日新聞社
人民日報社	1988年	1994年	3時間	1分	5目半		
真露杯SBS世界囲碁最強戦	ソウル放送
眞露グループ	1993年	1997年	1時間	1分	5目半	20万ドル	
ロッテ杯中韓囲碁対抗戦	囲棋電視	1994年	1997年	30分	1分1回	6目半	7万ドル	
世界囲碁最強戦	東亜日報	1996年	1996年	4時間	5分前	5目半		
中韓新人王対抗戦	スポーツソウル
BCカード
上海建橋学園	1998年	2005年	3時間	1分5回	6目半	3,000ドル	
CSK杯囲碁アジア対抗戦	CSKグループ
日本経済新聞社
全日本空輸
沖縄タイムス社
琉球新報社
琉球放送
沖縄テレビ放送
琉球朝日放送
NHK沖縄放送局
囲碁・将棋チャンネル	2002年	2006年	2時間	5分前	6目半		

国際女流棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
穹窿山兵聖杯世界女子囲碁選手権	蘇州市呉中区人民政府	2010年	2時間	5分前	7目半	20万元	[13]
黄竜士双登杯世界女子囲碁団体選手権		2011年	1時間	5分前	7目半	550万円	[14]
華頂茶業杯世界女流囲碁団体戦		2012年	2時間	1分5回	7目半	20万元	[15]
中韓女子囲碁対抗戦							
終了棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	廃止年	持ち時間	秒読み	コミ	優勝賞金	出典
翠宝杯世界女子選手権戦	翠宝公司	1993年	1993年					
宝海杯世界女子選手権戦	韓国経済新聞
韓国放送公社
宝海醸造	1994年	1997年					
興倉杯世界女子選手権戦	韓国経済新聞
韓国放送公社
興倉社	1999年	2001年	3時間		6目半		
東方航空杯世界女子プロ囲碁選手権戦	中国東方航空
上海東方電視台	2000年	2000年	70分	なし	5目半	9万元	
泰利特杯中韓女子囲棋対抗戦		2000年	2001年					
山水黔城杯国際女子プロ囲棋選手権戦	貴陽市	2001年	2001年				10万元	
豪爵杯世界女子プロ囲碁選手権戦	江門市
大長江グループ	2002年	2002年	3時間	5分前		10万元	
正官庄杯世界女流囲碁最強戦		2002年	2011年	1時間	40秒3回	6目半		[16]
大理杯世界女流プロ世界選手権		2006年	2007年	2時間	5分前	7目半		[17]
遠洋地産杯・世界女子プロオープン戦	北京龍沢源置業	2007年	2007年	2時間	5分前		10万元	[18]

国際ペア碁棋戦
国際名人ペア碁トーナメント 2011-

日本の棋戦
本因坊戦などの棋戦は日本棋院によって行われたが、1950年の関西棋院独立以後は、本因坊戦他多くの棋戦は日本棋院と関西棋院の2組織の共同で行われる[注釈 4]。その他に日本棋院単独、関西棋院単独で行われる棋戦もある。(歴代の七大タイトル獲得者は囲碁のタイトル在位者一覧を、歴代の記録については囲碁の記録一覧を参照。)

タイトル戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	挑戦手合	持ち時間	秒読み	優勝賞金	タイトルホルダー	出典
棋聖戦	読売新聞社	1976年	七番	8時間	10分前	4500万円	井山裕太	[19]
名人戦	朝日新聞社[注釈 5]	1976年[注釈 6]	七番	8時間	10分前	3700万円	高尾紳路	[20]
本因坊戦	毎日新聞社
大和証券グループ	1940年	七番	8時間	10分前	3200万円	井山裕太	[21]
王座戦	日本経済新聞社	1952年	五番	3時間	5分前	1400万円	井山裕太	[22]
天元戦	新聞三社連合	1975年	五番	3時間	5分前	1300万円	井山裕太	[23]
碁聖戦	新聞囲碁連盟	1975年	五番	4時間	5分前	800万円	井山裕太	[24]
十段戦	産経新聞社	1961年	五番	3時間	5分前	700万円	井山裕太	[25]
上記が日本棋院の七大タイトルで、棋聖・名人・本因坊はリーグ戦で挑戦者を決定し[注釈 7]、他の棋戦はトーナメントで挑戦者を決める(十段戦は、第49期まで敗者復活式トーナメントで挑戦者を決定していた)。[注釈 8]。特に賞金額が大きい棋聖・名人・本因坊の3つを、三大タイトルと呼ぶことがある。2003年以後の昇段制で棋聖戦・名人戦・本因坊戦・世界戦優勝1回、王座戦・天元戦・碁聖戦・十段戦優勝2回で九段昇段、また棋聖戦・名人戦・本因坊戦の挑戦権獲得あるいは王座戦・天元戦・碁聖戦・十段戦優勝1回で八段昇段となっている。
タイトルの序列は2012年以降は上記の順序で、賞金額によって決まっている。日本棋院の棋士の序列は、七大タイトル保持者、名誉称号保持者、三大タイトル経験者、以下九段・八段・……とされている。
複数のタイトルを持つ棋士の呼称についての規定はない。なお、名人と本因坊の二冠を達成した場合は「名人本因坊」と呼ばれる[26]。
2016年に井山裕太が第53期十段戦を制して七大タイトルを独占し日本囲碁界初の七冠を達成した(2016年4月21日~11月3日)。これに次ぐ六冠を達成したのも井山だけである(棋聖・本因坊・王座・天元・碁聖・十段 2013年3月14日〜4月25日、2016年11月4日~;棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖 2013年10月17日〜2014年12月16日、2015年11月25日~2016年4月20日[26])。

名誉称号
各タイトルを5連覇または通算10期以上保持した者は、現役引退後または60歳の誕生日を迎えた後に「名誉○○」(○○はタイトル名)を名乗ることが許される。ただし本因坊戦はかつて「名誉本因坊」の称号を用いていたが、1998年以降「○○世本因坊××」(××は棋士の雅号)と呼称することに変更された。本因坊9連覇の高川秀格はその栄誉をたたえ、特例として1964年より、49歳現役で「名誉本因坊」を名乗ることが許された。また趙治勲も本因坊10連覇により、60歳の誕生日を待たずして現役時より「二十五世本因坊」の名乗りを許されている。
名誉称号一覧
名誉称号	該当者
名誉棋聖	藤沢秀行 ・小林光一 ・井山裕太
名誉名人	趙治勲 ・小林光一
永世本因坊	高川格 (二十二世) ・坂田栄男 (二十三世)
石田芳夫 (二十四世) ・趙治勲 (二十五世)
井山裕太(二十六世)
名誉王座	加藤正夫
名誉天元	林海峰
名誉碁聖	大竹英雄 ・小林光一・井山裕太
名誉十段	
名誉日本棋院選手権者	坂田栄男
名誉NHK杯選手権者	坂田栄男

他棋戦称号
名誉女流本因坊 : 謝依旻
名誉女流名人 : 謝依旻
(2017年時点)

名誉称号資格者
グランドスラム
七大タイトルを全て一回以上通算で経験する事をグランドスラムと呼び、これを達成したのは趙治勲、張栩、井山裕太の三人(2013年現在)。このうち、井山裕太は七大タイトル全てを同時に保持したことがある(2016年)。後1タイトルで達成するのは林海峰、山下敬吾の2人。
グランドスラム達成者
棋士	棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元
1.	趙治勲	1983	1982	1981	1979	1980	1976	1987
2.	張栩	2010	2009	2003	2006	2004	2003	2008
3.	井山裕太	2013	2011	2012	2012	2009	2012	2011
年は初獲得年。黄色はグランドスラム達成時のタイトル。

大三冠
棋聖・名人・本因坊を同時に保持する事を大三冠と呼び、これを達成したのは趙治勲と井山裕太の二人(2013年現在)。
棋士	棋戦	1回目		2回目			
1.	趙治勲	棋聖	1983			1997	1998	1999
本因坊				1997	1998	
名人			1996	1997	1998	
棋士	棋戦				
2.	井山裕太	棋聖		2014	2015	2016
本因坊		2014	2015	2016
名人	2013	2014	2015	
大三冠獲得時の獲得棋戦

7大タイトル
主要棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
阿含・桐山杯	毎日新聞社
京都新聞社
KBS京都
阿含宗	1994年	2時間[注釈 9]	1分	1000万円	[27]
新人王戦	しんぶん赤旗	1975年	3時間	5分前	200万円	[28]
NHK杯	日本放送協会	1953年	なし[注釈 2]	500万円	[29]
竜星戦	囲碁・将棋チャンネル	1990年	なし[注釈 2]	600万円	[30]
フマキラー囲碁マスターズカップ	フマキラー	2011年	1時間	5分前	500万円	[31]
広島アルミ杯・若鯉戦	広島アルミニウム工業	2006年	なし[注釈 2]	200万円	[32]

女流棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	挑戦手合	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
女流本因坊戦	共同通信社
パーク24	1981年	五番	4時間	5分前	580万円	[33]
女流名人戦	産経新聞社
クイーポ	1988年	三番	3時間	5分前	500万円	[34]
女流棋聖戦	NTTドコモ	1997年	三番	なし[注釈 2]	500万円	[35]
会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦	温知会	2014年	一番	5時間	5分前	700万	[36]

地方棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
王冠戦	中日新聞社	1953年	4時間	5分前	170万円	[37]
関西棋院第一位決定戦	山陽新聞社	1957年			
産経プロアマトーナメント戦	産経新聞社	2005年	1時間30分	5分前	100万円	

非公式棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
おかげ杯	濱田総業	2010年	なし[注釈 2]	300万円	[38]
棋戦優勝者選手権戦	囲碁・将棋チャンネル	2013年	なし[注釈 2]	200万円	[39]
ゆうちょ杯囲碁ユース選手権	ゆうちょ銀行	2014年	なし[注釈 2]	100万円	[40]

ペア棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
プロ棋士ペア碁選手権	日本ペア碁協会
囲碁・将棋チャンネル
週刊碁
THE DAILY YOMIURI
読売新聞社	1995年	なし[注釈 2]		[41]

終了棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年	廃止年	決勝	持ち時間	秒読み	優勝賞金	出典
中野杯U20選手権	中野孝次基金	2004年	2013年	一番	1時間[注釈 10]	1分	100万円	[42]
大和証券杯ネット囲碁オープン	大和証券グループ	2006年	2013年	一番	なし[注釈 2]	500万円	[43]
NECカップ囲碁トーナメント戦	日本電気	1981年	2012年	一番	10分	30秒	1000万円	[44]
東京精密杯女流プロ最強戦	東京精密
碁ワールド	1998年	2008年	三番	1時間	1分	450万円	[45]
大和証券杯ネット囲碁レディース	大和証券グループ	2007年	2010年	一番	なし[注釈 2]	100万円	[46]
幽玄杯精鋭リーグ戦		2007年	2011年		なし[注釈 2]	10万円	[47]
JALスーパー早碁	テレビ東京
日本航空	2003年	2005年		なし[注釈 11]		
JAL新鋭早碁			
JAL女流早碁			
鳳凰杯オープントーナメント戦		2000年	2007年		1時間		100万円	
関西女流囲碁トーナメント	テレビ大阪	2002年					

韓国の棋戦
韓国ではプロ棋戦は韓国棋院が中心となって実施される。

一般棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年
国手戦	東亜日報	1956-
名人戦	韓国日報	1968-2003、2007-
KBS杯バドゥク王戦	KBS	1980-
バッカス杯天元戦	スポーツ朝鮮	1996-
GSカルテックス杯プロ棋戦	毎日経済新聞、毎経TV主催	1996-
マキシムコーヒー杯入神連勝最強戦		2000-
物価情報杯プロ棋戦	韓国棋院・囲碁TV主催	2005‐

若手棋戦・シニア棋戦
大舟杯プロシニア最強者戦(国際新聞、囲碁TV主催)2010-
メジオン杯オープン新人王戦(韓国棋院、囲碁TV主催)2013-

女流棋戦
プロ女流国手戦(韓国経済新聞主催)1994-
女流名人戦(毎日新聞社 (韓国)主催)1999-
女流棋聖戦(扶安郡、韓国棋院主催)2006-
GGオークション杯女流対シニア連勝対抗戦(韓国棋院主催)2007-
女流十段戦 2012-

ペア碁棋戦
SG杯ペア碁大会(囲碁TV主催)2011-

韓国囲碁リーグ
「韓国囲碁リーグ」も参照
2004年より開催。4人一組のチームで行われるリーグ戦。8チームがそれぞれ18試合を行い、リーグ終了後に3位と4位が戦い、勝者が2位と戦い、更にその勝者が1位と戦い優勝を決める。優勝チームは中国甲級リーグの勝者と対抗戦を行う。

終了棋戦
覇王戦(大韓毎日新聞社主催)1959-2003年
最高位戦(釜山日報主催)1959-99年
王位戦(中央日報主催)1966-2007年
韓国棋院選手権戦(慶南毎日新聞主催)1969、77-78年
最強者戦(国際新報主催)1973-79年
棋王戦(朝鮮日報主催)1974-95年
MBC杯国棋戦 1974-76年
国棋戦(京郷新聞主催)1975-1996年
帝王戦(MBC TV主催)1982-95年
バッカス杯戦(東亜製薬主催) 1983-94年
大王戦(大邸毎日新聞主催)1983-97年
棋聖戦(世界日報主催)1990-2008
SBS杯連勝囲碁最強戦(SBS主催)1992-97年
倍達王戦 (韓国PC通信主催)1992-2000年
KT杯マスターズプロ棋戦(韓国棋院、囲碁TV主催)2002-03年
囲碁マスターズ(韓国棋院主催)2005-2007年
圓益杯十段戦(韓国棋院)2006-13年
OllehKT杯オープン選手権(韓国棋院・囲碁TV主催)2010-2013
若手シニア終了棋戦
新王戦(スポーツソウル主催) 1985-89年
BCカード杯新人王戦(ソウル新聞主催) 1991-2008年
SKガス杯新鋭プロ十傑戦(京郷新聞主催) 1997-2008年
オスラムコリア杯新鋭連勝最強戦(囲碁TV主催) 2001-08年
ジャックフィールド杯プロシニア棋戦(囲碁TV主催)2000-05年
KC&A杯新人王戦 2011年

中国の棋戦
中国では、中国囲棋協会、または1992年設立の中国棋院が中心になって行うが、成都棋院による西南王戦など地方独自に実施される棋戦もある。また全国運動会、全国体育大会や、全国智力運動会などでも種目と採用されている。

棋戦
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年
名人戦	中国棋院、人民日報主催	1987-
天元戦	新民晩報社、新民囲棋主催	1988-
棋聖戦	中国囲棋協会、洛陽市	2013-

優勝杯
棋戦名	主催・協賛・後援	創設年
CCTV杯中国囲棋電視快棋戦	CCTV主催	1987
阿含・桐山杯中国囲棋快棋公開戦	中国棋院、中国国際友好連絡会	1999
リコー杯囲棋戦	中国棋院、リコー主催	1999
威浮房開杯棋王戦	中国囲棋協会、無錫日報、無錫威孚房家開発有限公司主催	2003
倡棋杯中国プロ囲棋選手権戦	中国囲棋協会、上海応昌期囲棋教育基金会主催	2004
竜星戦	中国囲棋協会	2005
衢州・爛柯杯中国囲棋冠軍戦	浙江省体育局、衢州市人民政府、中国囲棋協会	2006

若手棋戦
新人王戦(中国棋院、上海棋院主催) 1994-
新秀戦・リコー杯新秀戦(中国囲棋協会主催)2002-

女流棋戦
建橋杯女子囲棋公開戦(中国棋院、上海棋院、上海建橋学院主催) 2003-
百霊杯戦(中国囲棋協会、貴州百霊企業集団主催) 2005-
黄龍士佳源杯女子名人戦 (中国棋院、姜堰市主催)2010-
全国女子囲棋国手戦 (中国囲棋協会、陝西省体育局主催)2012-

地方棋戦
海峡杯全国囲棋招待戦(福建省海峡文芸出版社主催)1986-91年
西南王戦(中国棋院、成都棋院) 2002-

ペア碁棋戦
リコー杯囲棋混双戦(中国囲棋協会、理光(中国)投资有限公主催)2005-

中国囲碁リーグ
1999年より開催されている地域毎のチーム対抗のリーグ戦。甲級の下に乙級、丙級があり、乙級の上位と甲級の下位各2チームが入れ替えとなる。日本、韓国、台湾よりの参加者もあり、台湾のチームの参加もある。2013年には女子甲級リーグも開始された。
中国囲棋甲級リーグ戦
中国囲棋乙級リーグ戦
中国囲碁丙級リーグ戦
中国囲碁女子リーグ戦

その他
全国囲棋個人戦 1957-
全国囲碁段位戦
体育大会囲碁試合
中国水岸帝景杯
中国代表選抜・訓練試合

終了棋戦
新体育杯戦 1979-92年
国手戦(中国囲棋協会主催)1981-87年
十強戦 1987-94年
棋王戦(中国囲棋協会、中国体育報社、嵊州市主催)1989-2001年
宝勝電纜杯囲棋戦 1991-98年
大国手戦 1993-1994年
五牛杯王位戦 1995年
覇王戦 1995-97年
友情杯戦 1995-97年
NEC杯囲棋賽(中国囲棋協会、NEC主催)1996-2009年
楽百氏杯囲棋戦(中国囲棋協会、楽百氏有限公司主催)1997-2002年
棋聖戦(中国囲棋協会、上海南江企業発展公司主催)1999-2001年
華山論道囲棋精鋭戦(陝西旅游集団公司、陝西省社会体育管理中心、中国囲棋協会主催)2001-06年
ルノー杯覇王戦(齊魯晩報、山東岱銀集団主催) 2002年
国手新秀戦戦・新秀菊花杯 1985-94年
女子名人戦 (中国囲棋協会、山東齊魯晩報主催)1989-91年
浪潮杯・八喜杯・石化加油卡杯女子名人戦 (中国囲棋協会他主催)2001-05年
紅金竜杯女子新秀戦 2002年
日立杯中国プロ囲棋混双赛(上海市体育局、上海囲棋協会、上海日立家電主催)1996-2003年

台湾の棋戦
台湾では、1952年設立の中国囲棋会によって棋戦が行われていたが、2000年に台湾棋院、2008年に海峰棋院が設立され、それらによる棋戦も行われるようになった。

一般棋戦4
国手戦 1981-99、2005-
東鋼杯プロ囲棋戦(台湾棋院文化基金会主催)2001-
天元戦(民生報、台湾棋院文化基金会主催)2002-
王座戦(台湾棋院文化基金会主催)2006-
棋王戦(海峰棋院主催)2008-
碁聖戦(台湾棋院主催)2008-
十段戦 (中華職業囲棋協会主催)2011-
海峰杯プロ囲棋戦(海峰棋院主催)2009-
思源杯プロ囲棋戦(台湾棋院主催)2009-
終了棋戦
名人戦(応昌期囲棋基金主催)1974-2009
中環杯囲棋オープン戦(台湾棋院文化基金会主催)1994-2012
電視快棋戦(中華電信、台湾棋院文化基金会主催)2000-08、2012
愛心杯プロ囲棋戦(台湾棋院文化基金会主催)2007-11
棋王戦(中国囲棋会主催)1979-89年
永大杯囲棋戦(応昌期囲棋教育基金会主催)1993-99年
棋霊王杯プロ囲棋戦(台湾棋院文化基金会主催)2002-04年
台湾棋院杯 2002-05年
魔戒杯プロ囲棋戦(台湾棋院文化基金会主催)2003-05年
鈺徳杯十段戦 2007-08年

限定棋戦
新人王戦(台湾棋院文化基金会主催)2002-
女子名人戦 2011-

脚注
注釈
^ 使い切ると3回まで、35分ずつ2目コミだし。
^ a b c d e f g h i j k l m 初手から1手30秒、1分単位で10回の考慮時間。
^ 日本、韓国開催時。中国開催時は7目半。
^ 瓊韻社棋士の参加する場合もある
^ 旧名人戦は読売新聞社主催。
^ 旧名人戦は1962年創設。
^ 棋聖戦は2001年度第25期よりリーグ戦導入。
^ 天元戦は1980年度第6期より挑戦手合制を導入。碁聖戦は1980年第5期からリーグ戦方式からトーナメント方式に移行。
^ 決勝のみ1時間30分。
^ 決勝戦は90分。
^ 初手から1手10秒、1分単位で10回の考慮時間。

出典
^ “応氏杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
^ “三星火災杯”. 日本棋院. 2013年2月9日閲覧。
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参考文献
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
木谷實『囲碁百年 2 新布石興る』平凡社 1968年
安永一『囲碁百年』時事通信社 1970年
「囲碁史略年表」(『1993年度版囲碁年鑑』日本棋院、1993年)


囲碁棋士の獲得タイトル数ランキング

囲碁棋士の獲得タイトル数ランキングは、日本の囲碁棋士による獲得タイトル数のランキングである。
2017年3月11日現在
順位	棋士名	タイトル数
1	趙治勲	74
2	坂田栄男	64
3	小林光一	60
4	大竹英雄	48
5	井山裕太	51
6	加藤正夫	47
7	張栩	39
8	林海峰	35
依田紀基
10	謝依旻	26


囲碁タイトルの在位者一覧

囲碁のタイトル在位者一覧は、日本国内棋戦七大タイトルの歴代在位者一覧であり、1941年の本因坊戦創設から現在までを網羅する。

目次
1	表記上の注意
2	一覧
3	七大タイトル獲得数
4	年代別優勝ランキング
5	関連項目

表記上の注意
5期以上のタイトルを獲得した棋士の名前には着色している。
同一タイトル4連覇以上を達成した棋士、初のタイトル獲得、それぞれのタイトルの最年少保持記録は備考に入れている。
名誉称号資格を獲得した棋士は備考に入れている。

一覧
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	
1941年
(昭和16)			関山利一					本因坊戦創設、関山利一初のタイトル保持者
1942年
(昭和17)								
1943年
(昭和18)			橋本宇太郎					橋本宇太郎新本因坊(初タイトル)
1944年
(昭和19)								
1945年
(昭和20)			岩本薫					岩本薫新本因坊(初タイトル)
1946年
(昭和21)								
1947年
(昭和22)			岩本薫					岩本薫初のタイトル防衛
1948年
(昭和23)								
1949年
(昭和24)								
1950年
(昭和25)			橋本宇太郎					本因坊戦1年1期制に
1951年
(昭和26)			橋本宇太郎					
1952年
(昭和27)			高川格					高川格新本因坊(初タイトル)
1953年
(昭和28)			高川格			橋本宇太郎		王座戦創設
1954年
(昭和29)			高川格			高川格		高川格史上初の二冠
1955年
(昭和30)			高川格			橋本宇太郎		
1956年
(昭和31)			高川格			橋本宇太郎		高川格二十二世本因坊資格・初の5連覇・初の名誉資格
1957年
(昭和32)			高川格			島村俊廣		島村俊廣新王座(初タイトル)
1958年
(昭和33)			高川格			藤沢朋斎		藤沢朋斎新王座(初タイトル)
1959年
(昭和34)			高川格			橋本昌二		橋本昌二新王座(初タイトル)
1960年
(昭和35)			高川格			半田道玄		高川格本因坊9連覇、半田道玄新王座(初タイトル)
1961年
(昭和36)			坂田栄男			坂田栄男		坂田栄男新本因坊(初タイトル)
1962年
(昭和37)		橋本宇太郎	坂田栄男		藤沢秀行	宮下秀洋		名人戦創設、十段戦創設、宮下秀洋新王座、藤沢秀行新名人(初タイトル)
1963年
(昭和38)		半田道玄	坂田栄男		坂田栄男	坂田栄男		坂田栄男史上初の名人本因坊・史上初の三冠
1964年
(昭和39)		藤沢朋斎	坂田栄男		坂田栄男	坂田栄男		高川格二十二世本因坊襲名
1965年
(昭和40)		高川格	坂田栄男		林海峰	半田道玄		坂田栄男二十三世本因坊資格、林海峰新名人(初タイトル)
1966年
(昭和41)		坂田栄男	坂田栄男		林海峰	坂田栄男		
1967年
(昭和42)		坂田栄男	坂田栄男		林海峰	藤沢秀行		坂田栄男本因坊7連覇
1968年
(昭和43)		坂田栄男	林海峰		高川格	藤沢秀行		王座戦挑戦手合に移行
1969年
(昭和44)		大竹英雄	林海峰		林海峰	藤沢秀行		大竹英雄新十段(初タイトル)
1970年
(昭和45)			林海峰		藤沢秀行	坂田栄男		十段戦行われず
1971年
(昭和46)		橋本宇太郎	石田芳夫		林海峰	坂田栄男		石田芳夫新本因坊(初タイトル)・最年少本因坊
1972年
(昭和47)		坂田栄男	石田芳夫		林海峰	坂田栄男		
1973年
(昭和48)		坂田栄男	石田芳夫		林海峰	林海峰		
1974年
(昭和49)		橋本昌二	石田芳夫		石田芳夫	石田芳夫		
1975年
(昭和50)		林海峰	石田芳夫		大竹英雄	大竹英雄	藤沢秀行	天元戦創設、石田芳夫二十四世本因坊資格
1976年
(昭和51)		加藤正夫	武宮正樹	加藤正夫	大竹英雄	趙治勲	小林光一	新名人戦開始、碁聖戦創設、加藤正夫新十段、武宮正樹新本因坊、趙治勲新王座・最年少王座
小林光一新天元(初タイトル)
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	備   考
1977年
(昭和52)	第1期
藤沢秀行	第15期
加藤正夫	第32期
加藤正夫	第2期
加藤正夫	第2期
林海峰	第25期
工藤紀夫	第3期
島村俊廣	棋聖戦創設、工藤紀夫新王座(初タイトル)
1978年
(昭和53)	藤沢秀行	加藤正夫	加藤正夫	大竹英雄	大竹英雄	石田芳夫	加藤正夫	
1979年
(昭和54)	藤沢秀行	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	大竹英雄	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫史上初の四冠、十段4連覇
1980年
(昭和55)	藤沢秀行	大竹英雄	武宮正樹	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	加藤正夫	天元戦挑戦手合に移行
1981年
(昭和56)	藤沢秀行	大竹英雄	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	橋本昌二	加藤正夫	藤沢秀行名誉棋聖資格、加藤正夫天元4連覇
1982年
(昭和57)	藤沢秀行	趙治勲	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	藤沢秀行棋聖6連覇、片岡聡新天元(初タイトル)
1983年
(昭和58)	趙治勲	加藤正夫	林海峰	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	片岡聡	趙治勲史上初の大三冠
1984年
(昭和59)	趙治勲	小林光一	林海峰	大竹英雄	趙治勲	加藤正夫	石田芳夫	王座戦三番勝負から五番勝負に移行
趙治勲名誉名人資格、大竹英雄名誉碁聖資格
1985年
(昭和60)	趙治勲	小林光一	武宮正樹	大竹英雄	小林光一	加藤正夫	小林光一	大竹英雄碁聖6連覇
1986年
(昭和61)	小林光一	小林光一	武宮正樹	趙治勲	加藤正夫	加藤正夫	小林光一	加藤正夫名誉王座資格
1987年
(昭和62)	小林光一	加藤正夫	武宮正樹	加藤正夫	加藤正夫	加藤正夫	趙治勲	趙治勲史上初のグランドスラム
1988年
(昭和63)	小林光一	趙治勲	武宮正樹	小林光一	小林光一	加藤正夫	趙治勲	武宮正樹本因坊4連覇
1989年
(平成元)	小林光一	趙治勲	趙治勲	小林光一	小林光一	加藤正夫	林海峰	加藤正夫王座8連覇
1990年
(平成2)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	羽根泰正	林海峰	小林光一名誉棋聖資格、羽根泰正新王座(初タイトル)
1991年
(平成3)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	藤沢秀行	林海峰	
1992年
(平成4)	小林光一	武宮正樹	趙治勲	小林光一	小林光一	藤沢秀行	林海峰	小林光一名誉名人資格・名誉碁聖資格、藤沢秀行最年長タイトル保持者(67歳)、
初めて7大タイトル全てが防衛される
1993年
(平成5)	小林光一	大竹英雄	趙治勲	小林光一	小林光一	加藤正夫	林海峰	趙治勲二十五世本因坊資格、林海峰名誉天元資格
小林光一棋聖8連覇・碁聖6連覇・3タイトル同時6連覇(史上唯一)
1994年
(平成6)	趙治勲	大竹英雄	趙治勲	林海峰	小林光一	趙治勲	柳時熏	小林光一名人7連覇、柳時熏新天元(初タイトル)
1995年
(平成7)	小林覚	依田紀基	趙治勲	小林覚	武宮正樹	王立誠	柳時熏	小林覚新棋聖、依田紀基新十段、王立誠新王座(初タイトル)
1996年
(平成8)	趙治勲	依田紀基	趙治勲	依田紀基	趙治勲	柳時熏	柳時熏	
1997年
(平成9)	趙治勲	加藤正夫	趙治勲	依田紀基	趙治勲	山田規三生	工藤紀夫	山田規三生新王座(初タイトル)
1998年
(平成10)	趙治勲	彦坂直人	趙治勲	依田紀基	趙治勲	王立誠	小林光一	趙治勲本因坊10連覇(同一タイトル連覇記録)・大三冠3連覇
彦坂直人新十段(初タイトル)
1999年
(平成11)	趙治勲	小林光一	趙善津	小林光一	趙治勲	王立誠	小林光一	趙治勲棋聖4連覇・名人4連覇、趙善津新本因坊(初タイトル)
2000年
(平成12)	王立誠	小林光一	王銘琬	山下敬吾	依田紀基	王立誠	柳時熏	王銘琬新本因坊、山下敬吾新碁聖(初タイトル)・最年少碁聖
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	備   考
2001年
(平成13)	王立誠	王立誠	王銘琬	小林光一	依田紀基	趙治勲	羽根直樹	羽根直樹新天元(初タイトル)
2002年
(平成14)	王立誠	王立誠	加藤正夫	小林光一	依田紀基	王銘琬	羽根直樹	
2003年
(平成15)	山下敬吾	王立誠	張栩	依田紀基	依田紀基	張栩	羽根直樹	依田紀基名人4連覇、張栩新本因坊(初タイトル)
2004年
(平成16)	羽根直樹	王立誠	張栩	依田紀基	張栩	張栩	山下敬吾	王立誠十段4連覇
2005年
(平成17)	羽根直樹	趙治勲	高尾紳路	依田紀基	張栩	張栩	河野臨	高尾紳路新本因坊、河野臨新天元(初タイトル)
2006年
(平成18)	山下敬吾	趙治勲	高尾紳路	張栩	高尾紳路	山下敬吾	河野臨	
2007年
(平成19)	山下敬吾	趙治勲	高尾紳路	張栩	張栩	山下敬吾	河野臨	
2008年
(平成20)	山下敬吾	高尾紳路	羽根直樹	張栩	張栩	張栩	張栩	平成四天王がタイトル独占
2009年
(平成21)	山下敬吾	張栩	羽根直樹	張栩	井山裕太	張栩	山下敬吾	井山裕太新名人(初タイトル)・最年少タイトル保持者・最年少名人、張栩史上初の五冠
山下敬吾棋聖4連覇、張栩碁聖4連覇
2010年
(平成22)	張栩	張栩	山下敬吾	坂井秀至	井山裕太	張栩	結城聡	坂井秀至新碁聖、結城聡新天元(初タイトル)
2011年
(平成23)	張栩	井山裕太	山下敬吾	羽根直樹	山下敬吾	張栩	井山裕太	張栩王座4連覇、井山裕太最年少天元
2012年
(平成24)	張栩	井山裕太	井山裕太	井山裕太	山下敬吾	井山裕太	井山裕太	
2013年
(平成25)	井山裕太	結城聡	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太史上初の六冠・最年少棋聖
2014年
(平成26)	井山裕太	高尾紳路	井山裕太	井山裕太	井山裕太	村川大介	高尾紳路	村川大介新王座(初タイトル)
2015年
(平成27)	井山裕太	伊田篤史	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	井山裕太	伊田篤史新十段(初タイトル)・最年少十段・入段からタイトル獲得までの年数最短(6年0か月)
2016年
(平成28)	井山裕太	第54期
井山裕太	第71期
井山裕太	第41期
井山裕太	第41期
高尾紳路	第64期
井山裕太	第42期
井山裕太	井山裕太棋聖4連覇、史上初の七冠独占達成(十段戦)、井山二十六世本因坊資格、名誉碁聖資格
2017年
(平成29)	第41期
井山裕太	井山か
余	井山か
本木					井山裕太名誉棋聖資格
棋聖	十段	本因坊	碁聖	名人	王座	天元	備   考
棋聖戦
1-3月	十段戦
3-4月	本因坊戦
5-7月	碁聖戦
6-8月	名人戦
9-11月	王座戦
10-12月	天元戦
10-12月	

七大タイトル獲得数
タイトル数の黄色は名誉称号資格、太字は最多獲得。
2017年棋聖戦終了時点。
棋士名	七大タイトル合計	三大タイトル合計		棋聖	名人	本因坊	王座	天元	碁聖	十段
1	趙治勲	42	29		8	9	12	3	2	2	6
2	小林光一	35	16		8	8	0	0	5	9	5
3	井山裕太	32	15		5	5	5	4	5	5	3
4	加藤正夫	31	6		0	2	4	11	4	3	7
5	張栩	23	9		3	4	2	7	1	4	2
6	坂田栄男	21	9		0	2	7	7	0	0	5
6	林海峰	21	13		0	8	5	1	5	1	1
8	大竹英雄	17	4		0	4	0	1	0	7	5
9	藤沢秀行	14	8		6	2	0	5	1	0	0
9	山下敬吾	14	9		5	2	2	2	2	1	0
11	高川格	12	10		0	1	9	1	0	0	1
11	依田紀基	12	4		0	4	0	0	0	6	2
13	王立誠	11	3		3	0	0	4	0	0	4
14	武宮正樹	10	7		0	1	6	0	0	0	3
15	石田芳夫	9	6		0	1	5	2	1	0	0
15	高尾紳路	9	6		0	3	3	0	1	0	2
17	橋本宇太郎	8	3		0	0	3	3	0	0	2
17	羽根直樹	8	4		2	0	2	0	3	1	0
19	柳時熏	5	0		0	0	0	1	4	0	0
20	橋本昌二	3	0		0	0	0	2	0	0	1
20	半田道玄	3	0		0	0	0	2	0	0	1
20	王銘琬	3	2		0	0	2	1	0	0	0
20	河野臨	3	0		0	0	0	0	3	0	0
24	岩本薫	2	2		0	0	2	0	0	0	0
24	島村俊廣	2	0		0	0	0	1	1	0	0
24	藤沢朋斎	2	0		0	0	0	1	0	0	1
24	工藤紀夫	2	0		0	0	0	1	1	0	0
24	片岡聡	2	0		0	0	0	0	2	0	0
24	小林覚	2	1		1	0	0	0	0	1	0
24	結城聡	2	0		0	0	0	0	1	0	1
31	関山利一	1	1		0	0	1	0	0	0	0
31	宮下秀洋	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	羽根泰正	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	山田規三生	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	彦坂直人	1	0		0	0	0	0	0	0	1
31	趙善津	1	1		0	0	1	0	0	0	0
31	坂井秀至	1	0		0	0	0	0	0	1	0
31	村川大介	1	0		0	0	0	1	0	0	0
31	伊田篤史	1	0		0	0	0	0	0	0	1

年代別優勝ランキング
※0年~9年までの10年間のタイトル獲得数
1950年代
9 
高川格
5 
橋本宇太郎
1 
島村俊廣, 藤沢朋斎, 橋本昌二
1960年代
16 
坂田栄男
6 
林海峰
4 
藤沢秀行
3 
高川格
2 
半田道玄

1970年代
12 
加藤正夫
8 
石田芳夫
7 
林海峰
6 
大竹英雄
5 
藤沢秀行, 坂田栄男
1980年代
17 
趙治勲
16 
加藤正夫
14 
小林光一
8 
大竹英雄
5 
武宮正樹

1990年代
19 
趙治勲
17 
小林光一
5 
林海峰, 依田紀基
4 
武宮正樹, 柳時熏
2000年代
17 
張栩
10 
山下敬吾
8 
王立誠
7 
依田紀基, 羽根直樹

2010年代
30 
井山裕太
6 
張栩
4 
山下敬吾
3 
高尾紳路


囲碁世界タイトルの獲得者一覧

囲碁世界タイトルの獲得者一覧は、主要国際プロ棋戦[1]の歴代獲得者一覧である。

目次 
1	歴代優勝者
2	主要国際タイトル獲得数
3	脚注
4	関連項目

歴代優勝者
年 度	LG杯	応氏杯	富士通杯	春蘭杯	TVアジア	三星火災杯	トヨタ杯	中環杯[2]	東洋証券杯	備考
1988年			日本の旗武宮正樹							
1989年		韓国の旗曺薫鉉	日本の旗武宮正樹		日本の旗武宮正樹					
1990年		-	日本の旗林海峰		日本の旗武宮正樹				韓国の旗梁宰豪	東洋証券杯は日本2、
台湾2名が招待
1991年		-	日本の旗趙治勲		日本の旗武宮正樹				韓国の旗徐奉洙	東洋証券杯は日本3、
中国3、台湾2名が招待
1992年		-	日本の旗大竹英雄		日本の旗武宮正樹				韓国の旗李昌鎬	東洋証券杯が本格的な
国際戦に移行
1993年		韓国の旗徐奉洙	韓国の旗劉昌赫		日本の旗依田紀基				韓国の旗李昌鎬	
1994年		-	韓国の旗曺薫鉉		日本の旗大竹英雄				韓国の旗曺薫鉉	
1995年		-	中華人民共和国の旗馬暁春		韓国の旗李昌鎬				中華人民共和国の旗馬暁春	
1996年		韓国の旗劉昌赫	韓国の旗李昌鎬		韓国の旗李昌鎬	日本の旗依田紀基			韓国の旗李昌鎬	
1997年	韓国の旗李昌鎬	-	日本の旗小林光一		中華人民共和国の旗兪斌	韓国の旗李昌鎬			韓国の旗曺薫鉉	
1998年	日本の旗王立誠	-	韓国の旗李昌鎬		日本の旗依田紀基	韓国の旗李昌鎬			韓国の旗李昌鎬	東洋証券杯が終了
1999年	韓国の旗李昌鎬	-	韓国の旗劉昌赫	韓国の旗曺薫鉉	日本の旗依田紀基	韓国の旗李昌鎬				
2000年	中華人民共和国の旗兪斌	-	韓国の旗曺薫鉉	日本の旗王立誠	韓国の旗曺薫鉉	韓国の旗劉昌赫				
2001年	韓国の旗李昌鎬	韓国の旗李昌鎬	韓国の旗曺薫鉉	韓国の旗劉昌赫	韓国の旗曺薫鉉	韓国の旗曺薫鉉				
2002年	韓国の旗劉昌赫	-	韓国の旗李世乭	-	韓国の旗李昌鎬	韓国の旗曺薫鉉				
2003年	韓国の旗李世乭	-	韓国の旗李世乭	韓国の旗李昌鎬	中華人民共和国の旗周鶴洋	日本の旗趙治勲	韓国の旗李昌鎬			
2004年	韓国の旗李昌鎬	-	韓国の旗朴永訓	-	中華人民共和国の旗兪斌	韓国の旗李世乭	-	韓国の旗朴永訓		中環杯準決勝~
決勝は2005年1月
2005年	日本の旗張栩	中華人民共和国の旗常昊	韓国の旗李世乭	韓国の旗李昌鎬	日本の旗張栩	中華人民共和国の旗羅洗河	韓国の旗李世乭	韓国の旗崔哲瀚		
2006年	中華人民共和国の旗古力	-	韓国の旗朴正祥	-	中華人民共和国の旗王檄	中華人民共和国の旗常昊	-	-		
2007年	台湾の旗周俊勲	-	韓国の旗朴永訓	中華人民共和国の旗古力	韓国の旗李世乭	韓国の旗李世乭	韓国の旗李世乭	韓国の旗李昌鎬		中環杯が終了
2008年	韓国の旗李世乭	-	中華人民共和国の旗古力	-	韓国の旗李世乭	韓国の旗李世乭	-		BCC杯	
2009年	中華人民共和国の旗古力	韓国の旗崔哲瀚	韓国の旗姜東潤	中華人民共和国の旗常昊	中華人民共和国の旗孔傑	中華人民共和国の旗孔傑	中華人民共和国の旗古力		中華人民共和国の旗古力	トヨタ杯が終了
2010年	中華人民共和国の旗孔傑	-	中華人民共和国の旗孔傑	-	中華人民共和国の旗孔傑	中華人民共和国の旗古力			韓国の旗李世乭	
2011年	中華人民共和国の旗朴文尭	-	韓国の旗朴廷桓	韓国の旗李世乭	中華人民共和国の旗孔傑	韓国の旗元晟湊		百霊杯	韓国の旗李世乭	富士通杯が終了
2012年	中華人民共和国の旗江維傑	-		-	韓国の旗白洪淅	韓国の旗李世乭	夢百合杯	中華人民共和国の旗周睿羊	韓国の旗白洪淅	BCC杯が終了
2013年	中華人民共和国の旗時越	中華人民共和国の旗范廷鈺		中華人民共和国の旗陳耀燁	日本の旗井山裕太	中華人民共和国の旗唐韋星	中華人民共和国の旗芈昱廷	-		
2014年	中華人民共和国の旗 柁嘉熹	-		-	韓国の旗 李世乭	韓国の旗 金志錫	-	中華人民共和国の旗 柯潔		
2015年	韓国の旗朴廷桓	-		中華人民共和国の旗 古力	韓国の旗 李世乭	中華人民共和国の旗 柯潔	中華人民共和国の旗 柯潔	-		
2016年	韓国の旗 姜東潤	中華人民共和国の旗唐韋星			中華人民共和国の旗李欽誠	中華人民共和国の旗 柯潔	-	中華人民共和国の旗陳耀燁		
年 度	LG杯	応氏杯	富士通杯	春蘭杯	TVアジア	三星火災杯	夢百合杯	百霊杯		備考

主要国際タイトル獲得数
タイトル数の黄色は最多優勝。
棋士	合計	富士通	三星	LG	春蘭	トヨタ	中環	応氏	東洋	BCC杯	百霊	夢百合	TVアジア
韓国の旗李昌鎬	21	2	3	4	2	1	1	1	4	 	 	 	3
韓国の旗李世乭	18	3	4	2	1	2	 	 	 	2	 	 	4
韓国の旗曺薫鉉	11	3	2	 	1	 	 	1	2	 	 	 	2
中華人民共和国の旗古力	8	1	1	2	2	1	 	 	 	1	 	 	 
日本の旗武宮正樹	6	2	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	4
韓国の旗劉昌赫	6	2	1	1	1	 	 	1	 	 	 	 	 
中華人民共和国の旗孔傑	6	1	1	1	 	 	 	 	 	 	 	 	3
日本の旗依田紀基	4	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	3
中華人民共和国の旗柯潔	4		2								1	1	
中華人民共和国の旗兪斌	3	 	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	2
韓国の旗朴永訓	3	2	 	 	 	 	1	 	 	 	 	 	 
中華人民共和国の旗常昊	3	 	1	 	1	 	 	1	 	 	 	 	 
韓国の旗崔哲瀚	3	 	 	 	 	 	1	1	 	 	 	 	 
韓国の旗徐奉洙	2	 	 	 	 	 	 	1	1	 	 	 	 
日本の旗大竹英雄	2	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	1
中華人民共和国の旗馬暁春	2	1	 	 	 	 	 	 	1	 	 	 	 
日本の旗王立誠	2	 	 	1	1	 	 	 	 	 	 	 	 
日本の旗趙治勲	2	1	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 
日本の旗張栩	2	 	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	1
韓国の旗白洪淅	2	 	 	 	 	 	 	 	 	1	 	 	1
韓国の旗朴廷桓	2	1	 	 1	 	 	 	 	 	 	 	 	 
韓国の旗姜東潤	2	1	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 
中華人民共和国の旗唐韋星	2	 	1	 	 	 	 	1	 	 	 	 	 
中華人民共和国の旗陳耀燁	2	 	 	 	1	 	 	 	 	 	1	 	 
日本の旗林海峰	1	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 
韓国の旗梁宰豪	1	 	 	 	 	 	 	 	1	 	 	 	 
日本の旗小林光一	1	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 
中華人民共和国の旗周鶴洋	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	1
中華人民共和国の旗羅洗河	1	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 
韓国の旗朴正祥	1	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 
中華人民共和国の旗王檄	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	1
台湾の旗周俊勲	1	 	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 
中華人民共和国の旗朴文尭	1	 	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 
韓国の旗元晟湊	1	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 
中華人民共和国の旗江維傑	1	 	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 
中華人民共和国の旗時越	1	 	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 
中華人民共和国の旗范廷鈺	1	 	 	 	 	 	 	1	 	 	 	 	 
日本の旗井山裕太	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	1
中華人民共和国の旗周睿羊	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	1	 	 
中華人民共和国の旗芈昱廷	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 	 	1	 
中華人民共和国の旗柁嘉熹	1	 	 	1	 	 	 	 	 	 	 	 	 
韓国の旗金志錫	1		1										
中華人民共和国の旗李欽誠	1												1
棋士	合計	富士通杯	三星杯	LG杯	春蘭杯	トヨタ杯	中環杯	応氏杯	東洋杯	BCC杯	百霊杯	夢百合杯	TVアジア
2016.12.16 現在

国際棋戦	
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応昌期杯 春蘭杯 三星火災杯 LG杯 百霊愛透杯 Mlily夢百合杯 正官庄杯 穹窿山兵聖杯
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タイトル	
名人戦 天元戦 棋聖戦
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西南王

新人王 新秀戦 建橋杯 女子名人 女子新人王 百霊杯
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国際団体棋戦の優勝国一覧

国際団体棋戦の優勝国一覧
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国際団体棋戦の優勝国一覧は、国別対抗で行われる囲碁のプロ団体棋戦・対抗戦の歴代優勝国一覧である。ここに記載する棋戦は、公式非公式(各国棋院の承認有無)を問わず、各国の男性棋士・女性棋士・新鋭棋士のトップクラスが集う棋戦・対抗戦とする。

目次
1	1985~1999年
2	2000年~2009年
3	2010年~
4	脚注
5	関連項目

1985~1999年
年 度	真露杯	スーパー囲碁	ロッテ杯	日韓新鋭戦	中韓新鋭戦	備考
参加国	日中韓	日中	中韓	日韓	中韓	 
条 件	 	女流・新鋭含む[1]	 	新鋭	新鋭	 
方 式	勝ち抜き	勝ち抜き	一斉	一斉	一斉	 
1985年		中華人民共和国の旗中国(8-7)				
1986年		中華人民共和国の旗中国(9-8)				
1987年		中華人民共和国の旗中国(9-8)				
1988年		日本の旗日本(7-2)				
1989年						
1990年		中華人民共和国の旗中国(8-3)				
1991年		日本の旗日本(8-7)				
1992年	韓国の旗韓国(7-4)	日本の旗日本(7-5)				
1993年	韓国の旗韓国(6-4)	日本の旗日本(7-3)				
1994年	韓国の旗韓国(7-4)	中華人民共和国の旗中国(6-3)	韓国の旗韓国(8-6)	韓国の旗韓国(11-9)		
1995年	韓国の旗韓国(6-4)	中華人民共和国の旗中国(7-5)	中華人民共和国の旗中国(9-5)	日本の旗日本(24-15)		
1996年	韓国の旗韓国(7-4)	中華人民共和国の旗中国(7-2)	中華人民共和国の旗中国(8-6)	韓国の旗韓国(23-19)		
1997年	韓国の旗韓国(9-1)	団体戦は終了	中華人民共和国の旗中国(9-5)	日本の旗日本(18-12)	中華人民共和国の旗韓国の旗中韓タイ	
1998年				韓国の旗韓国(49-24)	中華人民共和国の旗韓国の旗中韓タイ	
1999年				韓国の旗韓国(29-27)	韓国の旗韓国(10-8)	
年度	真露杯	スーパー囲碁	ロッテ杯	日韓新鋭戦	中韓新鋭戦	

2000年~2009年
年 度	農心杯	CSK杯	江原杯	WMSG 男子	泰利特杯	WMSG 女子	国際新鋭戦	中野杯日中戦	日韓新鋭戦	中韓新鋭戦	備考
参加国	日中韓	日中韓台	中韓	世界各国[2]	日中韓[3]	世界各国[2]	日中韓台[4]	日中	日韓	中韓	 
条 件	 	 	 	 	女流	女流	新鋭	新鋭	新鋭	新鋭	 
方 式	勝ち抜き	一斉	勝ち抜き	一斉	勝ち抜き	一斉	一斉	一斉	一斉	一斉	 
2000年	韓国の旗韓国(6-4)				中華人民共和国の旗中国(7-1)		韓国の旗韓国A(3-0)		韓国の旗韓国(20-16)		真露杯が農心杯として再開
2001年	韓国の旗韓国(7-4)				中華人民共和国の旗中国(6-4)		中華人民共和国の旗中国A(3-0)			韓国の旗韓国(6-4)	
2002年	韓国の旗韓国(6-4)	韓国の旗韓国					中華人民共和国の旗中国(3-0)				
2003年	韓国の旗韓国(6-4)	日本の旗日本(3-0)					韓国の旗韓国(3-0)				
2004年	韓国の旗韓国(5-4)	中華人民共和国の旗中国(3-0)			正官庄杯		韓国の旗韓国(3-0)	中華人民共和国の旗中国(30-12)			国際新鋭戦に台湾が加わる
2005年	韓国の旗韓国(6-4)	韓国の旗韓国(2-1)			中華人民共和国の旗中国(8-4)		韓国の旗韓国(3-0)	中華人民共和国の旗中国(29-13)			正官庄杯が団体棋戦に移行
2006年	日本の旗日本(6-4)	中華人民共和国の旗中国(3-0)	中華人民共和国の旗中国(6-4)		中華人民共和国の旗中国(7-3)		中華人民共和国の旗中国(3-0)	中華人民共和国の旗中国?			
2007年	韓国の旗韓国(6-4)				韓国の旗韓国(6-4)		中華人民共和国の旗中国(3-0)	中華人民共和国の旗中国(27-5)			
2008年	中華人民共和国の旗中国(7-3)			韓国の旗韓国	韓国の旗韓国(7-3)	中華人民共和国の旗中国	韓国の旗韓国(2-0-1)				
2009年	韓国の旗韓国(7-3)				中華人民共和国の旗中国(9-1)		中華人民共和国の旗中国(3-0)	中華人民共和国の旗中国(40-8)			
年度	農心杯	CSK杯	江原杯	WMSG 男子	正官庄杯	WMSG 女子	国際新鋭戦	中野杯日中戦	日韓新鋭戦	中韓新鋭戦	

2010年~
年 度	農心杯	WMSG 男子	アジア大会 男子	スポーツアコード	招商地産杯	正官庄杯	黄龍士佳源杯	WMSG 女子	アジア大会 女子	国際新鋭戦	中野杯日中戦	備考
参加国	日中韓	世界各国[2]	世界各国	世界各国	中韓	日中韓	日中韓台	世界各国[2]	世界各国	日中韓台	日中	 
条 件	 	 	 	女流枠有	 	女流	女流	女流	女流	新鋭	新鋭	 
方 式	勝ち抜き	一斉	一斉	一斉	一斉	勝ち抜き	一斉	一斉	一斉	一斉	一斉	 
2010年	韓国の旗韓国(6-4)		韓国の旗韓国			韓国の旗韓国(6-4)			韓国の旗韓国	韓国の旗韓国(3-0)	中華人民共和国の旗中国(47-13)	
2011年	韓国の旗韓国(7-3)			中華人民共和国の旗中国(5-0)	中華人民共和国の旗中国(6-4)	韓国の旗韓国(9-4)	中華人民共和国の旗中国(3-0)			中華人民共和国の旗中国(2-1-1)	中華人民共和国の旗中国(41-13)
中華人民共和国の旗中国(38-22)	
2012年	中華人民共和国の旗中国(8-4)											
年度	農心杯	WMSG 男子	アジア大会 男子	スポーツアコード	招商地産杯	正官庄杯	黄龍士佳源杯	WMSG 女子	アジア大会 女子	国際新鋭戦	中野杯日中戦	

脚注
^ 開催ごとに異なる。
^ a b c d 個人戦出場棋士等を除く
^ 中韓のみ。後継棋戦の正官庄杯が日中韓。
^ 第5回より台湾が加わる。

関連項目
囲碁世界タイトルの獲得者一覧
囲碁タイトルの在位者一覧

囲碁の棋戦
国際棋戦	
個人戦	
応昌期杯 春蘭杯 三星火災杯 LG杯 百霊愛透杯 Mlily夢百合杯 正官庄杯 穹窿山兵聖杯
⇒囲碁世界タイトルの獲得者一覧
団体戦	
農心杯 黄龍士双登杯 金竜城杯 華頂茶業杯 招商地産杯 国手山脈杯
⇒ 国際団体棋戦の優勝国一覧
その他	
テレビアジア選手権 利民杯世界囲碁星鋭最強戦
日本の棋戦	
七大タイトル	
棋聖戦 名人戦 本因坊戦 王座戦 天元戦 碁聖戦 十段戦
⇒囲碁のタイトル在位者一覧
その他	
新人王戦 阿含桐山杯 囲碁マスターズカップ 若鯉戦 ペア碁選手権
女流棋戦	
女流本因坊戦 女流名人戦 女流棋聖戦 会津中央病院杯
⇒囲碁の女流タイトル在位者一覧
地域棋戦	
王冠戦 関西棋院第一位決定戦 産経プロアマ
テレビ棋戦	
NHK杯 竜星戦
韓国の棋戦	
国手戦 名人戦 KBS杯 GSカルテックス杯 入神連勝最強戦 Let's Run PARK杯オープントーナメント
韓国囲碁リーグ
⇒韓国の囲碁タイトル在位者一覧
中国の棋戦	
タイトル	
名人戦 天元戦 棋聖戦
倡棋杯 衢州・爛柯杯 中信銀行杯 阿含桐山杯 リコー杯 威孚房開杯 竜星戦 全国個人 全国段位
甲級リーグ 乙級リーグ戦 丙級リーグ戦
⇒中国の囲碁タイトル在位者一覧
条件戦	
西南王

新人王 新秀戦 建橋杯 女子名人 女子新人王 百霊杯
台湾の棋戦	
国手戦 天元戦 王座戦 棋王戦 碁聖戦 十段戦
東鋼杯 海峰杯 思源杯 中正杯
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中国囲棋協会

中国囲棋協会
簡体字表記	中国围棋协会
ピンイン	zhōng guó wéi qí xié huì
中国囲棋協会 中国の囲碁の組織。プロの囲碁棋士が所属し、囲碁普及活動や、棋士の育成、棋戦などを行う。英語名はChinese Weiqi Association。

目次  
1	歴史
1.1	成立期
1.2	プロ化と発展
1.3	国際化の時代
2	制度・組織
3	脚注
4	参考文献
5	関連項目
6	外部リンク

歴史
成立期

現代中国(中華人民共和国)では囲碁は体育省の管轄となり、国家体育運動委により学校教育なども含めて普及、教育の活動が行われ、副首相の陳毅や強豪の過惕生らがこれを推し進めた。1956年に全国囲碁模範試合を開催、1957年に囲碁規則の制定など、組織的な活動が行われ始める。1959年には地域毎の合宿訓連隊、1961年に国家集中訓練隊を組織。また1957年からは全国個人戦が始まり、第1回には過惕生が優勝、1960年代には陳祖徳らが活躍する。1962年に中国囲棋協会となり、名誉主席に陳毅、主席に国家体育委副主任の李夢華が就く。1964年には段位制を開始し、初段から五段までを認定、過惕生、陳祖徳、呉淞笙、劉棣懐の4人が五段となる。対外的には1960年から日中囲碁交流なども行われ、陳祖徳が日本の九段からも勝利を挙げるほどにレベルアップする。1963年には陳毅に日本棋院と関西棋院から名誉七段が贈られた。
プロ化と発展[編集]
文革が始まると各種の囲碁の活動は中断し、国家集中訓練隊は解散、陳祖徳らも下放される。訓練隊は1972年に復活、中断していた日中囲碁交流も1973年に再開した。また1972年の陳毅死去後は、国務院副総理の方毅が名誉主席に就く。1978年から「新体育教育」誌後援の新体育杯が開始され、聶衛平がトップ棋士として活躍し始める。聶は日中囲碁交流でも好成績を挙げ、1979年の第1回世界アマチュア囲碁選手権戦で優勝して、実力を世界に知らしめる。1982年にプロ(専業棋手)制度と新たな段位制度を開始し、それまで実績のあった陳祖徳、呉淞笙、聶衛平の3人を九段として認定。陳、呉、聶の3名は1983年に国家体育委より体育運動栄誉章を贈られた。1984年から始まった日中スーパー囲碁では、聶などの活躍で第1回から3回まで3連勝するなど、日本に対しても引けを取らないレベルに達したことが示された。
1986年には国家少年隊を組織し、有望な少年を北京に集めての訓練を行う。この第1期生は常昊、周鶴洋、羅洗河、王磊らで、その後も中国囲碁界の中核を担う棋士を育成している。

国際化の時代
現在は、1992年に設立された中国棋院が、囲碁、シャンチー(中国象棋)、チェス、連珠、麻雀、コントラクトブリッジなどのゲームを統括し、棋戦を実施している。1995年には馬暁春が、東洋証券杯世界選手権戦と富士通杯の、二つの世界選手権に優勝。また1995年には点数制を開始し、棋士のランキングが作られるようになった。1998年には中国初の世界選手権として、春蘭杯世界囲碁選手権戦を創設。1999年に開始された中国囲棋甲級リーグ戦・乙級リーグ戦には、韓国や日本の棋士も参加して行われる。2000年にLG杯世界棋王戦に優勝した兪斌は、この年の全国優秀運動員十傑にも選ばれた。

制度・組織
最高機構として全国委員会、執行機関として常務委員会、日常業務に事務局を置く。
地域には、北京、上海、天津に特別市分会、及び各省分会、自治区分会、解放軍分会を置き、各分会の下に文化宮、青年宮、少年宮、業余(アマチュア)学校、運動学校がある[1]。また各地に囲棋協会を置き、個々に段位の認定を行うが、五段以上の段位は中国囲棋協会でのみ認定できる。
主席 王汝南、顧問 陳祖徳、副主席 聶衛平、華以剛、羅建文、他。副主席は、実運営に関わる人以外に、各地の名士が名誉職として就任することがある。
代	主席	任期
1	李夢華	1962.11 - 1988.4
2	陳祖徳	1988.4 - 2006.11
3	王汝南	2006.11 - 2007.1


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表 話 編 歴
棋士(きし)は、碁打ちともいい、囲碁を打つ人の総称。
プロを指す事が多いが、アマチュアでも棋士と呼ぶ事もある。
目次  [非表示] 
1	呼称
2	歴史
2.1	中世まで
2.2	近世
2.3	近代以降
3	プロ棋士制度
3.1	日本
3.2	世界
4	各国における棋士
4.1	日本のおもな現役棋士
4.1.1	日本七大タイトル保持者
4.1.1.1	日本七大タイトル経験者
4.1.2	その他の棋士
4.1.3	女性の棋士
4.1.3.1	日本女流四大タイトル保持者
4.1.4	他の物故棋士(昭和以降)
4.2	現代の中国
4.3	韓国
4.4	台湾
4.5	その他
5	棋士の呼び名
5.1	日本
5.2	中国
6	脚注
7	参考文献
8	関連項目
9	外部リンク
呼称[編集]
室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れると、彼らは「碁打」と呼ばれるようになる。江戸時代に家元が俸禄を受けるようになると、「碁衆」あるいは将棋の家元との区別で「碁方」「碁之者」などの呼び名が使われた。また江戸時代には「碁士」「碁師」などの呼び方も生れ、地方においても賭碁をする者は碁打と呼ばれた。明治になると「碁客」「碁家」「棋客」「棋家」といった呼び方がされ、また棋戦に出場する者は「選手」とも呼ばれ、大正時代の裨聖会もこの呼び名を使った。日本棋院が設立されると「棋士」を使うようになり、以降の各組織でもこれに倣い現在に至っている。また日本棋院以前の囲碁専業の者や高手に対しても棋士と呼ぶことが多い。
歴史[編集]
「囲碁の歴史」も参照
中世まで[編集]
漢の時代には『奕旨』を著した歴史家の班固などの愛棋家が知られ、建安七子と呼ばれた文人でも孔融や、王粲、『弈勢』を著した応瑒が碁に長じていた。
呉は琴棋書画が盛んであり、代表的な打ち手の孫策と呂範の対局が最古の棋譜として残されていて[1]、棋力の高さを示している他、武将の陸遜、蔡頴、諸葛瑾が知られ、民間人で「呉の八絶」の一人の厳子卿と馬綏明は『広博物志』で棊聖と呼ばれている。
東晋では河南省で天才少年と言われて後に宰相の王導に引き立てられ将軍となった江彪が最強とされ、范注『棋品』で江彪が棊品第一品、王導が五品と記されている。竹林の七賢と言われた中でも阮籍、王戎は碁好きだった。この頃に王担之が囲碁の別称として「坐隠」と呼んだことが『世説新語』にあり、僧の支遁が手談と呼んだ。
南北朝時代には、斉 (南朝)の王抗が第一品の打ち手とされていて、武帝に命じられて北魏の孝文帝から派遣された打ち手の苑寧児と対局した。
初唐では裵寂、王勃、廬藏用、高智周らが棋士として高名だった。玄宗の時に棋待詔制度が設けられ、王積薪、顧師言、王倚、王叔文、滑能、朴球などが就いた。顧師言は日本の王子と対戦して、鎮神頭の妙手で勝ったとされている。日本の王子の名ははっきりしないが、高岳親王、伴小勝雄の説がある。また玄宗は新羅の聖徳王の葬儀への使節に楊李膺という近衛兵きっての打ち手を同行させ、新羅の打ち手に連戦連勝して面目を保った。
宋代では棋待詔に賣充、楊希粲、劉仲甫、李逸民、沈才子などが高名であった。潘慎修『棋説』、楊希粲『双泉図』、李の『忘憂清楽集』、沈括『夢渓谷筆談』、劉の『棋訣』、張擬『棋経十三篇』、厳徳甫と晏天章『玄玄経(玄玄碁経)』などの著作も書かれ、沈括『夢渓筆談』では囲碁の変化の数についても記された。べん京などの大都市では道観や寺院などで棋会がしばしば開かれるようになり、高手が競った。
元代には文人の中から、『玄玄碁経』を再編した虞集、劉因、黄庚などの名手が出た。
高句麗では長寿王の時代に国手である道琳という僧がいて、百済の蓋鹵王の側近に送り込まれて国力を削ぐ工作をしたとある。
日本では遣唐使に加わった伴小勝雄が碁師と呼ばれており、小勝雄に習った紀夏井は少しの間に小勝雄を越えるほどになった[2]。宇多法皇と醍醐天皇に寵遇された法師寛蓮は、『花鳥余情』で碁聖と記されている。『二中歴』では寛蓮の他、賀陽、祐挙、高行、実定、教覚、道範、十五小院、長範、天王寺冠者といった名がある。
九条兼実は碁を好み、その邸で対局した九条良経の小童が囲碁の上手と『明月記』にある。慈円も後鳥羽上皇に招かれて対局していた。鎌倉時代には玄尊による『囲碁口伝』『囲碁式』も書かれた。
近世[編集]
明の初期、相子先が高名を馳せたが、太祖の命で楼得達と対局し、勝った楼得達が棋官の地位を得た。他に趙九成、氾洪などが国手と呼ばれた。嘉靖から万暦の頃に明では最も囲碁が盛んになり、浙江省一帯の永嘉派として鮑一中、李沖、周源、余希聖など、安徽省一帯の新安派として程汝亮、汪曙、方子謙など、北京周辺の京師派には李釜、顔倫などがいて、王世貞『奕旨』では鮑一中、程汝亮、李釜、顔倫が取り上げられている。明末には、江蘇省出身の過百齢が出て、上京して国手の林符卿に勝ち、国手とされるとともに『官子譜』などを著した。他に方子振、汪幼清などが名手として名を上げた。
清朝初期には盛大有、周東候らを打ち負かした黄龍士が最も知られ、その弟子の徐星友も国手となった。続いて范西屏、施襄夏、梁魏今、程蘭如が大家となる。清末には囲碁も水準を落とす中で、「晩清の十八国手」と呼ばれる秋航、任惠南、董六泉など、続いて周小松、浙江省の陳子仙、漢陽の徐耀文、李湛源など国手と呼ばれる棋士がいた。
室町時代に日本から明に渡った僧虚中は、林応龍と協力して『適情録』がまとめられた。『満済准后日記』『看聞御記』では召し出された囲碁の上手として、大円、式部、宗勝、一色、北野、吉原、昌阿(性阿)の名がある。その後には阿弥衆の中で、碁の上手として重阿弥が知られていた。続いて仙也、春阿弥、宗心、樹斎などが現れ、その後の本因坊算砂、本能寺の僧利玄、神尾宗具、仙也の子の仙角、山の内入道、鹿塩、庄林といった者は公家や寺院の他に豊臣秀次や徳川家康などの武家にもしばしば招かれて、江戸時代の家元制度の基礎となった。また北条幻庵に徳斎という者が召し出されており、北条氏直の頃には真野仙楽斎が関東での碁の上手と言われていた[3]。江戸幕府からは家禄を受ける家元として、算砂を始祖とする本因坊家、算砂の弟子の中村道碩を継ぐ井上家、安井算哲に始まる安井家、利玄の禄を継いだ林家が定められた。四家は名人・碁所を筆頭にして、御城碁などで切磋琢磨し、棋聖と呼ばれた本因坊道策、本因坊丈和など多くの高手を生んだ。
「江戸時代の囲碁棋士一覧」も参照
また本因坊算砂は朝鮮通信使にいた本国第一人者の李礿史と三子で対局した。本因坊道策は琉球使節の親雲上浜比嘉には四子で対局し、浜比嘉に三段を認めた。1710年の琉球使節では、屋良里之子が本因坊道知に三子、相原可碩に先番で打った。
近代以降[編集]
明治時代になると家元制度は崩壊したが、本因坊家を存続させた本因坊秀和、本因坊秀栄の一門や、本因坊秀甫らによる近代的な囲碁組織方円社によって多くの棋士が活躍した。
「方円社#方円社の棋士」も参照
 また女流の喜多文子や吉田操子が男性棋士と互角の成績を残し、普及や組織運営にも大きな役割を果たした。
本因坊秀哉や高部道平は、中国も訪問して交流を行った。この頃の中華民国では汪雲峰、呉祥麟、潘朗束、顧水如、王子晏、劉棣懐、過惕生らがいたが、三子程度の差があった。
大正末期に碁界合同による日本棋院が誕生し、雁金準一の棋正社との対抗戦が世間を湧かせた。また顧の弟子の呉清源が見いだされて日本へ渡り、木谷實らと角錐しつつ高段へと昇った。
昭和になると終身名人制を廃して、本因坊戦などの選手権制の棋戦が多く生まれ、日本棋院と、そこから分裂した関西棋院の棋士が鎬を削った。また昭和20年代には呉清源が、十番碁で当時の一流棋士すべてを打ち込んで最強と目された。
主な棋戦優勝者:
本因坊戦 関山利一、橋本宇太郎、岩本薫、高川格(二十二世本因坊)、坂田栄男(二十三世本因坊)、林海峰、石田芳夫
王座戦 橋本宇、高川、島村俊廣、藤沢朋斎、橋本昌二、半田道玄、宮下秀洋、坂田、藤沢秀行、加藤正夫(名誉王座)
日本棋院最高段者トーナメント戦・日本棋院第一位決定戦・全日本第一位決定戦 坂田、島村、宮下、藤沢秀、大竹英雄
日本棋院選手権戦 高川、坂田、大平修三、石田
NHK杯争奪トーナメント 島村、岩本、橋本宇、坂田、木谷、高川、橋本昌、大竹、藤沢秀、林
関西棋院早碁名人戦 窪内秀知、半田、鯛中新、東野弘昭、橋本宇、佐藤直男
日本棋院早碁名人戦 坂田、宮下、杉内雅男、藤沢朋
最高位決定戦 坂田、木谷實、藤沢秀
囲碁選手権戦 木谷、坂田、曲励起、島村、高川、藤沢朋、杉内、藤沢秀
日本最強決定戦 呉清源、坂田
名人戦(旧) 藤沢秀、坂田、林、高川、石田、大竹
十段戦 橋本宇、半田、藤沢朋、高川、坂田、大竹、橋本昌、加藤
プロ十傑戦 坂田、藤沢秀、林、橋本宇、石田、趙治勲
女流選手権戦 伊藤友恵、杉内寿子、木谷禮子、本田幸子、小林千寿、小川誠子
プロ棋士制度[編集]
日本[編集]
法律では職業として囲碁を行うのには資格は不要だが、試合を開催する団体が定める認定が必要になる場合がある。以下は日本棋院と関西棋院が定める規則についての記述である。
日本棋院と関西棋院の2つがプロを認定する組織として存在している。さらに日本棋院は東京本院・中部総本部・関西総本部に分かれている。このいずれかで入段試験を突破した者だけがプロ初段の棋士となり、プロ棋戦への参加資格を得る。プロ入りのためには、普通まずプロの卵である院生となって入段試験手合を勝ち抜くことで資格を得る。また院生にならずとも、外来で予選・試験手合を突破することでもプロ入りは可能である。
プロ入りには年齢制限があるが、関西棋院では研修棋士制度を設けており、プロ棋士相手の試験碁で一定の成績を収めればプロ入りが可能である。
日本棋院の院生で棋士になれなかった者には、研修棋士を経て「普及棋士(準棋士)」の資格が与えられた。また院生以外で入段試験に合格できなかった者には普及専門の「地方棋士」の資格が与えられた。[4]
世界[編集]
韓国・中国・台湾でも独自のプロ組織があり、それぞれの棋戦が行われている。またこれらの棋士が一堂に会して戦う国際棋戦も盛んである。
各国における棋士[編集]
「Category:囲碁棋士」および「囲碁のタイトル在位者一覧」も参照
日本のおもな現役棋士[編集]
日本七大タイトル保持者[編集]
(2016年4月現在)
井山裕太(棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖・十段)
日本七大タイトル経験者[編集]
趙治勲(二十五世本因坊・名誉名人有資格者)棋聖8期、名人9期、本因坊12期、十段6期、天元2期、王座3期、碁聖2期 七大タイトルグランドスラム
張栩 棋聖3期 名人4期 本因坊2期 王座7期 天元1期 碁聖4期 十段2期  七大タイトルグランドスラム
井山裕太 棋聖3期 名人5期 本因坊4期 王座3期 天元4期 碁聖4期 十段2期 七大タイトルグランドスラム
小林光一(名誉棋聖・名誉名人・名誉碁聖)棋聖8期、名人8期、十段、天元各5期、碁聖9期
石田芳夫(二十四世本因坊)名人1期 本因坊5連覇、王座2期 天元1期
林海峰(名誉天元)名人8期 本因坊5期 王座1期 天元5期 碁聖1期 十段1期
大竹英雄(名誉碁聖)名人4期 王座1期 碁聖7期 十段5期
山下敬吾 棋聖5期 名人2期 本因坊2期 王座2期 天元2期 碁聖1期
王立誠 棋聖3期 王座4期 十段4期
羽根直樹 棋聖2期 本因坊2期 天元3期 碁聖1期
小林覚 棋聖1期、碁聖1期
依田紀基 名人4期 十段2期 碁聖6期
武宮正樹 名人1期 本因坊6期 十段3期
高尾紳路 名人1期 本因坊3期 天元1期 十段2期
王銘エン 本因坊2期 王座1期
趙善津 本因坊1期
工藤紀夫 王座1期 天元1期
柳時熏 王座1期、天元4期
羽根泰正 王座1期
山田規三生 王座1期
村川大介 王座1期
河野臨 天元3期
片岡聡 天元2期
結城聡 天元1期 十段1期
坂井秀至 碁聖1期
彦坂直人 十段1期
伊田篤史 十段1期
その他の棋士[編集]
三大タイトル挑戦者
杉内雅男
淡路修三
山城宏
七大タイトル挑戦者
高木祥一
苑田勇一
今村俊也
中野寛也
横田茂昭
秋山次郎
余正麒
一力遼
主要棋戦優勝者
本田邦久
三村智保
小松英樹
森田道博
加藤充志
その他
白江治彦
石倉昇
女性の棋士[編集]
「女流棋士 (囲碁)」を参照
日本女流四大タイトル保持者[編集]
(2016年6月18日現在)
謝依旻 (女流本因坊・女流名人・女流棋聖・会津中央病院杯)
他の物故棋士(昭和以降)[編集]
藤沢秀行(名誉棋聖)
高川格(二十二世本因坊)
坂田栄男(二十三世本因坊)
加藤正夫(名誉王座)
橋本昌二
影山利郎
中山典之
加田克司
安倍吉輝
現代の中国[編集]
中華人民共和国では副首相陳毅によって囲碁強化が進められ、全国囲棋個人戦などの大会の実施、中国囲棋協会設立によって、日本に追いつくことを目標として棋士を育成した。顧水如の弟子の陳祖徳は日中囲碁交流で初めて日本の九段に勝利し、1970年代には聶衛平が最強の地位を得る。また日本と同様の棋戦が多く開催されるようになり、劉小光、馬暁春、曹大元、江鋳久、陳臨新、銭宇平、兪斌、張文東らが活躍する。また孔祥明や芮廼偉などの女流棋士も男性と互角に戦うようになった。
1990年代以降は、七小龍と呼ばれる常昊、周鶴洋、邵煒剛、王磊、羅洗河、劉菁、丁偉が国内棋戦の他、国際棋戦でも活躍し、2000年代には小虎世代と呼ばれる古力、孔傑、胡耀宇、黄奕中、王尭、謝赫、邱峻、劉星らが世界戦で好成績を上げる。
韓国[編集]
木谷實門下だった趙南哲が第二次世界大戦後に韓国棋院を設立して、現代囲碁の普及を行った。日本で修行した金寅、尹奇鉉、河燦錫らが活躍し、1970年代から曺薫鉉、徐奉洙、続いて劉昌赫、李昌鎬を加えた四強時代となり、1990年代には国際棋戦で多数の優勝を飾るようになる。薫鉉、昌鎬の活躍で囲碁ブームが起こり、2000年代は李世乭、朴永訓、崔哲瀚、睦鎮碩、趙漢乗、元晟溱、姜東潤、朴廷桓、朴鋕恩らが国内戦、世界戦で活躍する。
台湾[編集]
台湾からは呉清源に見いだされた林海峰が日本で名人になるなど活躍し、続いて王立誠、王銘琬、張栩なども日本でタイトルを獲得した。また実業家応昌期の後押しで中国囲棋会などの囲碁組織が作られ、周咸亨、陳永安、陳長清がプロ棋士として活躍する。続いて彭景華、林聖賢などが成長し、1990年代には中国で修行した周俊勲が第一人者となり、林至涵、陳詩淵、王元均がこれに続いている。
その他[編集]
1978年にはアメリカ人のジェームズ・カーウィンが日本棋院で欧米人として初の初段となり、その後は日本棋院のマイケル・レドモンド、ハンス・ピーチ、韓国棋院のアレキサンダー・ディナーシュタイン、スベトラーナ・シックシナなどがプロ棋士となっている。アメリカではアメリカ在住の棋士による組織でトーナメントが行われており、レドモンドや、中国出身の江鋳久や豊雲、韓国出身の車敏洙などが出場している。2012年アメリカ囲碁協会は、韓国棋院と提携しプロ組織となった。2014年には、欧州囲碁連盟が独自にプロ棋士を認定を始めている。欧米の他にアルゼンチンのフェルナンド・アギラールなども国際棋戦でしばしば上位に進出し、またオーストラリア出身の黒嘉嘉も台湾とオセアニアで活躍している。
棋士の呼び名[編集]
日本[編集]
「前聖」「後聖」歴史上棋聖と称えられる、本因坊道策を前聖、本因坊丈和を後聖と呼んだ。明治時代になって本因坊秀策の評価が高まり後聖に据えることも多い。
「五弟子」「五虎」「六天王」本因坊道策の弟子の、小川道的、佐山策元、井上道節因碩、星合八碩、熊谷本碩、吉和道玄
「囲碁四哲」江戸時代、名人の力量ありとされながら名人とならなかった、本因坊元丈、安井知得仙知、井上幻庵因碩、本因坊秀和
「天保四傑」天保期前後に活躍した、伊藤松和、阪口仙得、太田雄蔵、安井算知 (俊哲)。嘉永頃には囲碁四傑と呼ばれていたが、明治37年の安藤如意「坐隠談叢」で天保四傑と記され定着した
「方円社四天王」小林鉄次郎、水谷縫次、酒井安次郎、高橋杵三郎。
「戦後派三羽烏」「アプレゲール三羽烏」藤沢秀行、梶原武雄、山部俊郎。「棋道」編集長の宇崎玄々子により命名。
「竹林」大竹英雄、林海峰。
「黄金トリオ」木谷実門下の、加藤正夫、石田芳夫、武宮正樹。3人の若手時代に雑誌で連載した「黄金トリオ研究室」で命名。「木谷門三羽烏」とも呼ばれた。
「アマ四強」アマチュア棋戦の優勝常連である、菊池康郎、村上文祥、平田博則、原田実。西村修、金沢盛栄、三浦浩、中園清三らを加えて、五強、六強、七強などとも呼んだ。
「四天王」:1990年代に活躍した王立誠、小林覚、片岡聡、山城宏についてしばしば用いられた。
「若手四天王」山下敬吾、羽根直樹、張栩、高尾紳路。ただし近年は四人が「若手」のレベルにとどまらない活躍をしているため、単に「四天王」と呼ばれることも多い。最近では「平成四天王」と呼ばれるようになった。
中国[編集]
「大龍」1980年代に中国の囲碁を世界レベルに引き上げた、聶衛平
「中龍」1990年代に聶衛平を打ち破って一強時代を築いた、馬暁春
「七小龍」1990年代後半からトップ棋士となった、常昊、周鶴洋、邵煒剛、王磊、羅洗河、劉菁、丁偉
「小虎」2000年代になってトップ棋士となった、古力、孔傑、黄奕中、王尭、謝赫、邱峻、劉星など
「小豹」小虎の次の世代でトップを狙う棋士、彭荃、王檄、王雷、唐莉、陳耀燁など

脚注[編集]
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注釈
出典
^ 「忘憂清楽集」
^ 『日本三大実録』
^ 林元美『爛柯堂棋話』
^ 木谷實『囲碁百年 2 新布石興る』平凡社 1978年(第5章 専門棋士)
参考文献[編集]
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
増川宏一『碁 ものと人間の文化史59』法政大学出版局 1987年
小堀啓爾「江戸・明治著名棋士名鑑」「日本棋院物故棋士名鑑」(『1993年度版囲碁年鑑』日本棋院、1993年)
中野謙二『囲碁中国四千年の知恵』創土社 2002年

日本囲碁大系

日本囲碁大系
『日本囲碁大系』(にほんいごたいけい)は、筑摩書房から1975年から1977年に刊行された、本因坊道策、本因坊秀策ら、囲碁の古典棋士たちの打碁全集。総編集は林裕。1992年に再刊されている。現代の棋士については現代囲碁大系が刊行されている。
内容[編集]
算砂・道碩(岩本薫、山本有光)
算悦・算知・道悦(趙治勲、秋本悦士)
道策(呉清源、三堀将)
道的・名人因碩(大平修三、広瀬保博)
道知(坂田栄男、藤三男)
察元・烈元・因淑 (加藤正夫、水口藤雄)
親仙徳・大仙知(大竹英雄、酒巻忠雄)
元丈(武宮正樹、竹田雅一)
知得(島村俊廣, 本田順英)
丈和(藤沢秀行, 相場一宏)
幻庵因碩(橋本宇太郎、志智嘉九郎)
元美・俊哲・仙得(梶原武雄、伊藤敬一)
松和・雄蔵(橋本昌二、橋本篤慶)
秀和(杉内雅男、小堀啓爾)
秀策(石田芳夫、田村孝雄)
秀甫(林海峰、井口昭夫)
秀栄(高川格、村上明)
秀哉(榊原章二、田中宏道)

現代囲碁大系

現代囲碁大系
『現代囲碁大系』(げんだいいごたいけい)は、 講談社から1980年から1984年にかけて刊行された、呉清源、高川格、坂田栄男、藤沢秀行、林海峰、大竹英雄、石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹、趙治勲、小林光一ら、現代囲碁を代表する棋士たちの打碁全集。全47巻、別巻1。編集主幹は林裕。
古典棋士たちについては日本囲碁大系が刊行されている。
内容[編集]
明治・大正名棋家集1 本因坊秀哉・小岸壮二・中川亀三郎・広瀬平治郎・岩佐銈(1980年)
明治・大正名棋家集2 雁金準一・高部道平・野沢竹朝・井上因石・稲垣兼太郎(1980年)
昭和名棋士集1 鈴木為次郎・瀬越憲作・久保松勝喜代・加藤信・小野田千代太郎・光原伊太郎・細川千仞・向井一男・高橋重行・田中不二男・伊予本桃市(1981年)
昭和名棋士集2 福田正義・林有太郎・長谷川章・篠原正美・村島誼紀・鍋島一郎・染谷一雄・中村勇太郎・渡辺昇吉 (1981年)
岩本薫(1981年)
橋本宇太郎 上(1980年)
橋本宇太郎 下(1980年)
木谷實 上(1981年)
木谷實 下(1981年)
前田陳爾・宮下秀洋(1982年)
呉清源 上(1980年)
呉清源 下(1980年)
関山利一・半田道玄(1981年)
島村俊廣(1981年)
瀬川良雄・炭野恒廣・久井敬史・橋本誼・石井邦生(1984年)
鯛中新・鈴木越雄・窪内秀知・宮本直毅・本田邦久(1982年)
酒井通温・岩田達明・羽根泰正(1982年)
高川格 上(1981年)
高川格 下(1981年)
藤沢朋斎 上(1980年)
藤沢朋斎 下(1980年)
坂田栄男 上(1980年)
坂田栄男 下(1980年)
杉内雅男(1981年)
梶原武雄(1984年)
藤沢秀行 上(1980年)
藤沢秀行 下(1980年)
山部俊郎(1982年)
曲励起・加納嘉徳・榊原章二・加田克司(1981年)
大平修三(1983年)
橋本昌二(1981年)
工藤紀夫・高木祥一(1982年)
林海峯 上(1980年)
林海峯 下(1980年)
大竹英雄 上(1980年)
大竹英雄 下(1980年)
石田芳夫 上(1980年)
石田芳夫 下(1980年)
加藤正夫 上(1980年)
加藤正夫 下(1980年)
武宮正樹(1983年)
小林光一(1984年)
趙治勲(1983年)
日本棋院精選集(1982年)
関西棋院精選集(1981年)
女流珠玉選1(1983年)
女流珠玉選2(1983年)
別巻 現代囲碁史概説・現代囲碁史年表(1984年)

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AlphaGo対李世乭
表 話 編 歴
 日本の囲碁棋士一覧では、日本の現役の囲碁棋士全員を記述する。
目次  [非表示] 
1	タイトル保持者
2	女流タイトル保持者
3	一覧
4	八段以下
5	四段以下
6	引退棋士
6.1	東京本院
6.2	関西総本部
6.3	中部総本部
6.4	関西棋院
7	物故棋士
7.1	日本棋院
7.2	関西棋院
8	外部リンク
タイトル保持者[編集]
棋戦	棋士	段位	在位年
棋聖	井山裕太	九段	2013-
名人	井山裕太	〃	2013-
本因坊	井山裕太	〃	2012-
王座	井山裕太	〃	2015-
天元	井山裕太	〃	2015-
碁聖	井山裕太	〃	2012-
十段	井山裕太	〃	2016-
女流タイトル保持者[編集]
女流棋聖・女流名人・女流本因坊 謝依旻(六段)
会津中央病院杯 藤沢里菜(二段)
一覧[編集]
表は入段順、◎は名誉称号獲得、○は三大タイトル獲得経験者(棋聖・名人・本因坊)。△はそれ以外の七大タイトル獲得経験者。中は中部総本部、西は関西総本部所属。関は関西棋院所属。入段年齢は4月2日起点の満年齢。タイトルは棋聖・名人・本因坊・天元・王座・碁聖・十段・囲碁選手権戦 ・日本最強決定戦。
棋士	段
位	年
齢	入
段		師匠	出
身	入段
年齢	所
属	
高川格	九段	-	1928	◎	光原伊太郎	和歌山	13歳		
坂田栄男	九段	-	1935	◎	増淵辰子	東京	16歳		
藤沢秀行	九段	-	1940	◎	福田正義	神奈川	15歳		
林海峯	九段	74歳	1955	◎	藤田梧郎
呉清源	上海	13歳		
大竹英雄	九段	74歳	1956	◎	木谷實	福岡	14歳		
石田芳夫	九段	68歳	1963	◎	木谷實	愛知	15歳		
加藤正夫	九段	-	1964	◎	木谷實	福岡	16歳		
小林光一	九段	64歳	1967	◎	木谷實	北海道	15歳		
趙治勲	九段	60歳	1968	◎	木谷實	釜山	12歳		
岩本薫	九段	-	1917	○	広瀬平治郎	島根	16歳		
橋本宇太郎	九段	-	1922	○	瀬越憲作	大阪	16歳	関	
木谷實	九段	-	1924	○	久保松勝喜代
鈴木為次郎	兵庫	16歳		
関山利一	九段	-	1926	○	鈴木為次郎	兵庫	17歳	関	
呉清源	九段	-	1929	○	瀬越憲作	福建省	15歳		
半田道玄	九段	-	1934	○	鈴木為次郎	広島	19歳	関	
杉内雅男	九段	96歳	1937	○	井上一郎	宮﨑	17歳		
曲励起	九段	92歳	1942	○	岩本薫	三重	16歳		引退
大平修三	九段	-	1947	○	木谷實	岐阜	18歳		
武宮正樹	九段	66歳	1964	○	田中三七一
木谷實	東京	14歳		
王立誠	九段	58歳	1972	○	加納嘉徳	台湾	14歳		
小林覚	九段	57歳	1974	○	木谷實	長野	15歳		
王銘琬	九段	55歳	1977	○	富田忠夫	台湾	16歳		
依田紀基	九段	51歳	1980	○	安藤武夫	北海道	15歳		
趙善津	九段	46歳	1984	○	安藤武夫	韓国	14歳		
高尾紳路	九段	40歳	1991	○	藤沢秀行	千葉	15歳		
羽根直樹	九段	40歳	1991	○	羽根泰正	三重	15歳	中	
山下敬吾	九段	38歳	1993	○	菊池康郎	北海道	15歳		
張栩	九段	37歳	1994	○	林海峰	台北	15歳		
井山裕太	九段	27歳	2002	○	石井邦生	大阪	13歳	西	
島村俊廣	九段	-	1929	△	三宅一夫
鈴木為次郎	三重	17歳		
宮下秀洋	九段	-	1930	△	本因坊秀哉	福島	17歳		
藤沢朋斎	九段	-	1933	△		神奈川	15歳		
橋本昌二	九段	-	1947	△	橋本国三郎	兵庫	12歳	関	
工藤紀夫	九段	76歳	1955	△	前田陳爾
勝本哲州	青森	15歳		
羽根泰正	九段	72歳	1958	△	島村俊廣	三重	14歳	中	
片岡聡	九段	58歳	1972	△	榊原章二	千葉	14歳		
彦坂直人	九段	55歳	1976	△	馬場滋	愛知	15歳	中	
結城聡	九段	45歳	1984	△	佐藤直男	兵庫	13歳	関	
柳時熏	九段	45歳	1988	△	大枝雄介	ソウル	17歳		
山田規三生	九段	44歳	1989	△	島村俊廣	大阪	17歳	西	
河野臨	九段	36歳	1996	△	小林光一	東京	16歳		
坂井秀至	八段	43歳	2001	△	佐藤直男	兵庫	28歳	関	
村川大介	八段	26歳	2002	△	森山直棋	兵庫	12歳	関	
伊田篤史	八段	23歳	2009	△	馬場滋	三重	16歳	中	
茅野直彦	九段	79歳	1953		中村勇太郎	千葉	16歳		
戸沢昭宣	九段	76歳	1956		木谷實	北海道	16歳		
石井邦生	九段	75歳	1956		細川千仭	福岡	15歳	西	
三王裕考	九段	76歳	1957		瀬越憲作	広島	17歳		
小島高穂	九段	75歳	1959			横浜	17歳		
石榑郁郎	九段	74歳	1960		木谷實	岐阜	18歳		
高木祥一	九段	73歳	1962		中川新之	横浜	19歳		
福井正明	九段	73歳	1962		岩本薫	東京	19歳		
佐藤昌晴	九段	70歳	1964		木谷實	新潟	18歳		
酒井猛	九段	69歳	1964		中岡二郎	東京	17歳		
坂口隆三	九段	68歳	1965		藤田梧郎	京都	17歳	西	
中村秀仁	九段	71歳	1966		長谷川章	山梨	21歳		
宮沢吾朗	九段	67歳	1966		木谷實	北海道	17歳		
馬場滋	九段	69歳	1967		酒井利雄	愛知	20歳	中	
淡路修三	九段	67歳	1968		伊藤友恵	東京	19歳		
上村陽生	九段	67歳	1971		坂田栄男	宮﨑	22歳		
橋本雄二郎	九段	62歳	1971		大窪一玄	石川	17歳		
新垣武	九段	60歳	1971		坂田栄男	沖縄	15歳		
郡寿男	九段	60歳	1974			大阪	18歳	西	
伊藤廣二	九段	58歳	1975			愛知	17歳	中	
園田泰隆	九段	59歳	1976		木谷實	宮﨑	19歳		
黄孟正	九段	58歳	1976		富田忠夫	台湾	18歳		
神田英	九段	55歳	1977		安藤武夫	島根	16歳		
鄭銘コウ	九段	53歳	1979		富田忠夫	台湾	16歳		
石倉昇	九段	62歳	1980			神奈川	26歳		
安田泰敏	九段	53歳	1980		大枝雄介	福岡	17歳		
小県真樹	九段	52歳	1980		土田正光	岐阜	16歳	中	
大矢浩一	九段	51歳	1980		小林光一	東京	15歳		
後藤俊午	九段	50歳	1980		早瀬弘	兵庫	14歳	西	
マイケル
・レドモンド	九段	53歳	1981		大枝雄介	アメリカ	18歳		
宋光復	九段	53歳	1981		川本昇	東京	18歳		
小松英樹	九段	50歳	1981		安永一	愛知	15歳		
青木紳一	九段	51歳	1983		菊池康郎	神奈川	18歳		
大淵盛人	九段	51歳	1983		大枝雄介	福岡	18歳		
円田秀樹	九段	50歳	1983		辻井良太郎	佐賀	17歳	西	
広江博之	九段	50歳	1983		広江勝彦	岐阜	17歳	中	
今村善彰	九段	48歳	1983		島村俊廣	広島	15歳		
石田篤司	九段	47歳	1984		山下順源	大阪	15歳	西	
中小野田智己	九段	47歳	1984		安藤武夫	鹿児島	15歳		
森田道博	九段	46歳	1984		福井正明
藤沢秀行	千葉	14歳		
星野正樹	九段	50歳	1985		岡信光	千葉	18歳		
中野寛也	九段	47歳	1985		島村俊廣	広島	16歳	中	
場嘉源	九段	46歳	1985		大枝雄介	台湾	15歳		
三村智保	九段	47歳	1986		藤沢秀行	福岡	17歳		
大垣雄作	九段	46歳	1986		榊原章二	宮城	16歳		
松岡秀樹	九段	49歳	1987		土田正光	愛知	19歳	中	
加藤充志	九段	42歳	1990		菊池康郎	東京	16歳		
仲邑信也	九段	43歳	1991		山下順源	大阪	18歳	西	
秋山次郎	九段	39歳	1992		菊池康郎	東京	15歳		
溝上知親	九段	39歳	1993		菊池泰郎	長崎	16歳		
蘇耀国	九段	37歳	1994		敖立テイ	広東	15歳	
石井新蔵	九段	74歳	1957		橋本宇太郎	奈良	15歳	関	
大山国男	九段	72歳	1961		宮本直毅	福岡	17歳	関	
本田邦久	九段	71歳	1961		橋本宇太郎	石川	16歳	関	
牛窪義高	九段	69歳	1963		窪内秀知	高知	16歳	関	
牛之浜撮雄	九段	69歳	1963		宮本直毅	鹿児島	16歳	関	
遠藤隆博	九段	68歳	1965		小坂田幸次	京都	17歳	関	
太田清道	九段	68歳	1965		高川格
関山利一	愛媛	17歳	関	
森野節男	九段	66歳	1967		白石裕	鹿児島	13歳	関	
苑田勇一	九段	65歳	1968		小川正治	大阪	17歳	関	
山崎吉廣	九段	68歳	1968		白石裕	石川	20歳	関	
本田満彦	九段	68歳	1969		鯛中新	長崎	21歳	関	
川村和憲	九段	66歳	1971		窪内秀知	兵庫	21歳	関	
村岡茂行	九段	61歳	1972		白石裕	高知	17歳	関	
久保勝昭	九段	59歳	1972		窪内秀知	大阪	15歳	関	
堀田陽三	九段	60歳	1973		窪内秀知	兵庫	17歳	関	
長谷川直	九段	57歳	1973		関山利夫	京都	14歳	関	
清成哲也	九段	55歳	1976		倉橋正蔵	宮崎	15歳	関	
高原周二	九段	52歳	1979		橋本昌二	長崎	15歳	関	
今村俊也	九段	51歳	1980		苑田勇一	奈良	15歳	関	
湯川光久	九段	50歳	1980		家田隆二	大阪	14歳	関	
滝口政季	九段	54歳	1981		東野弘昭	香川	19歳	関	
森山直棋	九段	51歳	1981		橋本昌二	愛知	16歳	関	
横田茂昭	九段	47歳	1983		赤木一夫	岡山	14歳	関	
新垣朱武	九段	46歳	1985		太田清道	沖縄	15歳	関	
倉橋正行	九段	44歳	1986		藤沢秀行
倉橋正蔵	大阪	24歳	関	
陳嘉鋭	九段	62歳	1987			広東	33歳	関	
山田規喜	九段	45歳	1987		本田邦久	福井	15歳	関	
矢田直乙	九段	43歳	1988		白石裕	和歌山	15歳	関	
関山利道	九段	43歳	1988		関山利夫	大阪	15歳	関	
中野泰宏	九段	43歳	1992		森野節男	福岡	19歳	関	
八段以下[編集]
棋士	段
位	年
齢	入
段		師匠	出
身	入段
年齢	所
属	
杉内寿子	八段	90歳	1942						女流
江面雄一	八段	74歳							
井上国夫	八段	69歳							
奥村英夫	八段	68歳						中	
梅木英	八段								
尾越一郎	八段								
土井誠	八段	62歳							
小松藤夫	八段	57歳							
吉岡薫	八段	57歳						中	
佐々木正	八段								
片山安雄	八段	52歳						中	
藤澤一就	八段	52歳	1981						
村松竜一	八段	54歳							
小長井克	八段	53歳							
恩田烈彦	八段	52歳							
西村慶二	八段	49歳							
岡田伸一郎	八段	50歳							
星野正樹	八段								
植木善大	八段	48歳						西	
泉谷英雄	八段	47歳							
大森泰志	八段	48歳							
青木喜久代	八段	48歳	1986						女流
楊嘉栄	八段	45歳							
酒井真樹	八段	48歳							
佐坂志朗	八段	47歳						西	
釼持丈	八段	47歳							
井口豊秀	八段	45歳							
有村比呂司	八段	44歳							
中根直行	八段	44歳						中	
高梨聖健	八段	45歳	1989						
中尾準吾	八段	46歳							
杉本明	八段	43歳							
河野貴至	八段	42歳							
矢中克典	八段	45歳						西	
河野光樹	八段	43歳							
下島陽平	八段	38歳							
山田拓自	八段	37歳							
潘善琪	八段	40歳							
金秀俊	八段	38歳	1996						
張豊猷	八段	35歳	1997						
黄翊祖	八段	29歳	2002		鄭銘瑝	台北	15歳		
宮川史彦	八段	45歳	1989					中	
家田隆二	八段							関	
楳田晴彦	八段							関	
倉橋正蔵	八段							関	
徳永汎久	八段							関	
谷田治巳	八段							関	
小田浩光	八段							関	
吉田昇司	八段							関	
斎藤正	八段							関	
吉田美香	八段		1986					関	
本田悟朗	八段							関	
小西和子	八段		1989					関	
古谷裕	八段							関	
楠光子	七段		1956						女流
長原芳明	七段								
泉谷政憲	七段								
鄒海石	七段								
笠井浩二	七段								
谷口敏則	七段								
山本正人	七段								
金川正明	七段								
小林健二	七段								
大野伸行	七段								
萩原睦	七段								
梁川裕政	七段							西	
円田陽一	七段							西	
下地玄昭	七段								
鄭銘琦	七段								
前田良二	七段								
高林正宏	七段							西	
篠田三明	七段							中	
山田和貴雄	七段							西	
奥村靖	七段							中	
大木啓司	七段								
山田至宝	七段							西	
鈴木伊佐男	七段								
鶴丸敬一	七段								
宮崎龍太郎	七段								
佐野貴詔	七段							西	
北野亮	八段							西	
遠藤悦史	七段								
水間俊文	七段								
黒瀧正憲	七段								
高橋秀夫	七段								
田原靖史	七段								
金澤秀男	七段								
鈴木嘉倫	七段								
武井孝志	七段							西	
松本武久	七段		1997						
高野英樹	七段		1998						
孔令文	七段								
鶴山淳志	七段		1999						
首藤瞬	七段								
望月研一	七段								
林漢傑	七段		2000						
三谷哲也	七段		2002						
大場惇也	七段								
安斎伸彰	七段								
李沂修	七段	28歳	2004		潘善琪	台湾	16歳		
大橋成哉	七段	26歳	2005		仲邑信也	大阪	15歳	西	
内田修平	七段	27歳	2005		大淵盛人	山梨	16歳		
志田達哉	七段	26歳	2006			福井	16歳	中	
金沢真	七段	24歳	2007		藤沢秀行	神奈川	15歳		
一力遼	七段	19歳	2010		宋光復	宮城	13歳		
本木克弥	七段	21歳	2012		藤澤一就	群馬	17歳		
平田智也	七段	23歳	2010		宋光復	広島	17歳		
紙谷哲雄	七段							関	
三川新次	七段							関	
端山省三	七段							関	
出雲哲也	七段							関	
金野為人	七段							関	
榊原正晃	七段							関	
金秉民	七段							関	
勝間史朗	七段							関	
藤井秀哉	七段		1996					関	
瀬戸大樹	七段	33歳	2000				17歳	関	
余正麒	七段	21歳	2009		張呂祥	台湾	14歳	関	
高見沢忠夫	六段								
高林拓二	六段								
明戸和巳	六段								
小川誠子	六段		1970						女流
信田成仁	六段								
平本弥星	六段								
郭求真	六段								
浜中隆光	六段							中	
峯松正樹	六段							西	
萩谷和宏	六段								
玉城忍	六段								
小山栄美	六段		1987						女流
小山竜吾	六段								
菅野昌志	六段								
岡田結美子	六段		1989						女流
加藤朋子	六段		1991						女流
桑本晋平	六段							西	
松原大成	六段								
矢代久美子	六段								女流
黒瀧正樹	六段								
荒木一成	六段							西	
久保秀夫	六段								
小林泉美	六段		1995						女流
吉原由香里	六段		1996						女流
桑原陽子	六段		1996						女流
佐々木毅	六段							西	
熊丰	六段								
光永淳造	六段		1999						
加藤啓子	六段								女流
加藤祐輝	六段							中	
岩丸平	六段							西	
山森忠直	六段		2000					中	
川田晃平	六段							中	
山田晋次	六段								
鈴木歩	六段		2001						女流
大橋拓文	六段								
但馬慎吾	六段							西	
謝依旻	六段	27歳	2004		黄孟正	台湾	15歳		女流
白石勇一	六段		2005						
山中章雄	六段							関	
岡橋弘忠	六段							関	
柏原康人	六段							関	
高橋功	六段							関	
石井資郎	六段							関	
張呂祥	六段							関	
芦田磯子	六段		1975					関	
山内正樹	六段							関	
角慎介	六段							関	
林耕三	六段							関	
八幡幸一	六段							関	
榊原史子	六段		1989					関	
藤原克也	六段							関	
前田亮	六段							関	
今井一宏	六段							関	
河英一	六段							関	
河合哲之	五段								
河野征夫	五段								
小林千寿	五段		1972						女流
叶井天平	五段								
小山秀雄	五段								
新海洋子	五段		1978						女流
佐藤文俊	五段								
堀田誠司	五段							中	
平野則一	五段								
菊地義雄	五段								
中澤彩子	五段								女流
佃亜紀子	五段							西	女流
河合将史	五段								
桂篤	五段								
タラヌ・カタリン	五段							中	
王唯任	五段								
山本賢太郎	五段							西	
武宮陽光	五段								
阪本寧生	五段							西	
向井千瑛	五段								女流
鈴木伸二	五段	26歳	2008		岩田一	北海道	18歳		
村松大樹	五段	28歳	2009		仲邑信也	大阪	20歳	西	
知念かおり	五段		1993						女流
窪内秀明	五段							関	
丸山豊治	五段							関	
長崎裕二	五段							関	
松村修	五段							関	
影山敏之	五段							関	
水野弘美	五段							関	
鈴木敬施	五段							関	
孫英世	五段							関	
四段以下[編集]
棋士	段
位	年
齢	入
段		師匠	出
身	入段
年齢	所
属	
田中智恵子	四段							西	女流
高群徹朗	四段		1979					中	
小松英子	四段								
桐本和夫	四段		1982					西	
原幸子	四段								
金艶	四段								
富永武	四段		1992						
稲垣陽	四段		1992					中	
古田直義	四段		1993					西	
青葉かおり	四段								
巻幡多栄子	四段								
大澤奈留美	四段								
井澤秋乃	四段								
金賢貞	四段							中	
万波佳奈	四段								
上田崇史	四段		2001						
竹清勇	四段		2001						
古家正大	四段		2003					西	
安藤和繁	四段		2004						
柳澤理志	四段		2005					中	
玉井伸	四段		2005						
田尻悠人	四段		2007						
富士田明彦	四段		2007						
寺山怜	四段		2008						
大淵浩太郎	四段	24歳	2009		大淵盛人	神奈川	17歳		
孫喆	四段	21歳	2011		萩原睦	神奈川	16歳		
村岡美香	四段							関	
白石京子	四段							関	
李楊	四段							関	
星川拓海	四段							関	
久保田大	四段							関	
畠中星信	四段							関	
尚司和子	三段								
中山薫	三段								
菅野尚美	三段								
水戸夕香里	三段							西	
穂坂繭	三段								
甲田明子	三段								
村上晶英	三段								
奥田あや	三段								
万波奈穂	三段								
堀本満成	三段								
熊本秀生	三段							中	
伊藤優詩	三段								
安達利昌	三段								
沼舘沙輝哉	三段								
竹内康祐	三段								
鶴田和志	三段	21歳	2010		吉岡薫	愛知	15歳	中	
藤沢里菜	三段	18歳	2010		藤沢秀行	埼玉	12歳		
許家元	三段	19歳	2013		高林拓二	台湾	16歳		
佐藤彰	三段							関	
荒木真子	三段							関	
多冨佳絵	三段							関	
小野幸治	三段							関	
田村千明	三段							関	
三根康弘	三段							関	
金昞俊	三段							関	
髙嶋武	三段							関	
星川航洋	三段							関	
井上直紀	三段							関	
尹春浩	三段							関	
古庄勝子	二段								
谷宮絢子	二段								
井上初枝	二段								
佐藤真知子	二段								
木谷好美	二段							西	
中村邦子	二段								
松本奈代子	二段							中	
重野由紀	二段							中	
一色識央	二段								
上地宏樹	二段							中	
武田祥典	二段							中	
関達也	二段								
大澤健朗	二段							中	
小田鉄兵	二段							西	
稲葉貴宇	二段								
高木淳平	二段							西	
高橋真澄	二段							中	
吉川一	二段							西	
常石隆志	二段								
小松大樹	二段							西	
風間隼	二段								
菊地正敏	二段							中	
大西研也	二段								
田中伸幸	二段							西	
藤村洋輔	二段		2013						
姚智騰	二段		2013						
小山空也	二段	20歳	2014		小山竜吾	神奈川	18歳		
六浦雄太	二段	17歳	2014		羽根泰正	愛知	15歳	中	
芝野虎丸	二段	17歳	2015			神奈川	16歳		
浅野泰子	二段							中	
古川坤鈺	二段								
長島梢恵	二段								
中島美絵子	二段								
種村小百合	二段							西	
三村芳織	二段								
兆乾	二段								
王景怡	二段							中	
下坂美織	二段								
伊藤加代子	二段							関	
井上綾子	二段							関	
星川愛生	二段							関	
木和田一臣	二段							関	
石井茜	二段							関	
小野田拓弥	二段							関	
洪清泉	二段							関	
谷口徹	二段							関	
佐田篤史	二段							関	
吉田晴美	初段								
卞聞愷	初段		2013					中	
大谷直輝	初段		2014					西	
外柳是聞	初段		2014						
張瑞傑	初段		2014						
宇谷俊太	初段							西	
羽根しげ子	初段							中	
富紅梅	初段								
渋澤真知子	初段								
宮本千春	初段							西	
木部夏生	初段								
星合志保	初段		2013						
金子真季	初段		2014						
國澤大斗	初段							関	
飛田早紀	初段							関	
橋本寛	初段							関	
姜旼候	初段							関	
渡辺貢規	初段							関	
新井満涌	初段							関	
阿部良希	初段							関	
原正和	初段							関	
内海晃希	初段							関	
呉柏毅	初段							関	
飯田純也	初段							関	
髙嶋湧吾	初段							関	
渡辺由宇	初段							関	
西山静佳	初段							関	
西健伸	初段							関	
清成真央	初段							関	
黎婷	初段							関	
出口万里子	初段							関	
佐藤洋平	初段							関	
大熊悠人	初段							関	
髙津昌昭	初段							関	
佐藤優太	初段							関	
中條ちひろ	初段							関	
王景弘	初段							関	
太田亮	初段							関	
田口美星	初段							関	
マイヤー・フランシス	初段							関	
棋士	段
位	年
齢	入
段		師匠	出
身		所
属	
引退棋士[編集]
東京本院[編集]
棋士	入段		師匠
石井衛	1952		細川千仭
谷宮悌二	1955		梶和為
小杉清	1957		小杉直楓
黒沢忠尚	1959		中村勇太郎
春山勇	1960		五十川正雄
木谷實
川本昇	1961		増淵辰子
福井進	1965		岩本薫
石田章	1966		福田正義
金島忠	1968		木谷實
時本壱	1968		宮下秀洋
梅木英	1969		岩本薫
岩田一	1970		
尾越一郎	1976		木谷實
鳴沢泰一	1978		
松本篤二	1941		木谷實
本間明男			
白江治彦	1957		大窪一玄
小山鎮男			
浅野英昭	1966		木谷實
鄒海石			
小杉勝			
本田幸子	1947		木谷實
安藤武夫			
岡信光			
趙祥衍	1963		木谷實
野口仁	1967		岩本薫
宮崎洋			
吉田洋逸			
額謙	1969		木谷實
大戸省三	1971		木谷實
等力博			
関和也			
鈴木津奈			
白鳥澄子			
酒井正則			
近藤幸子			
伊藤義夫			
宮崎志摩子	1987		大枝雄介
久保本登美子			
安東明雄			
佐藤真知子	1972		木谷實
尾崎宏			
宮下鈴枝			
ジェームス
・カーウィン	1978		岩本薫
関西総本部[編集]
棋士	入段		師匠
橋本誼	1950		鍋島一郎
西上好彦	1960		細川千仭
辻井良太郎			
天宅信雄			
川村匡迪			細川千仭
松岡章			
田中秀春			
谷村義行			
平野正明			細川千仭
前谷信吾			細川千仭
井手八百次郎			
太田正人			
谷村久仁子			
中部総本部[編集]
棋士	入段		師匠
岩田達明	1943		木谷實
桑田泰明	1959		
土田正光	1961		木谷實
西條雅孝	1964		酒井康雄
伊藤誠	1964		木谷實
森島薫			
下平昭夫			
酒井義允			
酒井栄男			
山下克久			
池崎世典			
奥村登			
島村導弘			島村俊廣
西本欽哉			
関西棋院[編集]
棋士	入段		師匠
東野弘昭九段			
松浦日出夫八段			
窪内秀知九段			
中井喜三二段			
森山玄之二段			
近藤進二段			
白石裕九段			
吉田宅治八段			
水谷守江三段			
森川満夫七段			
楳田晴彦九段			
井上修作六段			
窪内秀明六段	1963		窪内秀知
柏原康人七段	1958		鯛中新
宮本義久九段	1951		橋本宇太郎
物故棋士[編集]
日本棋院[編集]
棋士	入段		師匠
広江勝彦	1960		酒井利雄
鍋島昭			
武田みさを			
大窪一玄	1944		増淵辰子
松岡輝夫			
呉清源	1929		瀬越憲作
岡谷三男			細川千仭
佐々木正	1980		坂田栄男
筒井勝美	1947		木谷實
酒牧幸典			
吉田陽一	1953		細川千仭
岡光雄			
鈴木政春			鈴木為次郎
神林春子			
大山寿子			
早瀬弘	1955		瀬川良雄
石橋千涛			
益子富美彦			大枝雄介
尾崎春美			木谷實
小西泰三			
山本豊			
安藤俊行			
横山国忠	1958		高橋俊光
大枝雄介	1954		前田陳爾
北村洋司			
中山典之			
梶原武雄	1937		関山利一
安倍吉輝	1960		
榊原章二	1944		
渡辺礼二			
長谷川加与子			
関根直久			
森川正夫			
久島国夫	1965		木谷實
水野一郎			
横山孝一			
浮田昌侑	1969		岩本薫
玉木昌治			
長沼信	1950		瀬尾寿
上村邦夫	1962		木谷實
中岡二郎	1941		鹿間千代治
伊藤有			
石毛嘉久夫			木谷實
道家昂			
ハンス・ピーチ	1997		小林千寿
稲垣弘一	1953		酒井康雄
児玉国夫			
瀬川良雄	1929		久保松勝喜代
大谷素弘			
田亦聖			
山下順源	1963		細川千仭
山崎祐男			関山利一
佐藤馨			
木村嘉男			
梶和為	1941		木谷實
久井敬史	1937		瀬越憲作
山部俊郎	1941		向井八段
石榑まき子	1972		木谷實
平光尚			
加納嘉徳	1943		鈴木秀子
天野雅文			藤沢秀行
井口精治			
桜本三郎			
大平修三	1947		木谷實
小林誠一			鈴木為次郎
渡辺英夫			
芦葉勝美	1942		木谷實
小林禮子	1956		木谷實
関西棋院[編集]
棋士	入段		師匠
深川牛次郎三段			
山口賛石七段			
岩田三郎五段			
朝倉忠雄五段			
石嶺真一六段			
新村新一四段			
沼田耕蔵五段			
鈴木越雄八段			
小坂田幸次八段			
寺田健一五段			
松浦吉洋九段			
伊藤和照五段			
桜井将也五段			
鯛中新九段			
関山利夫九段	1951		関山利一
余田一雄七段			
刈谷啓八段			
小松重雄四段			
西沢克晃七段			
水田羨博九段			
藤木人見八段			
小林将宏七段			
岸本一男九段			
赤木一夫八段			
小川正治六段			
亀山稔八段			
飯野靖峯七段			
小山靖男九段			
柳内恵美子四段			
小林正昌四段			
武田賢子二段			
長谷川広七段			
田辺巖人五段			
岡部洋明七段			
佐藤直男九段			
木下敬章六段			
青柳英雄八段			
伊神肇七段			
濱田守哉七段			
水野弘士九段			
井上要九段			
植村四郎七段			
東野政治九段			
大熊千久子四段			
安田清七段			
島田義邦六段			
南善己九段			
宮本直毅九段			
横山達也五段			
浅野時秀七段			
星川信明九段			
畑中喜見生三段			
徳永汎久九段	1963		関山利一
赤木一夫
外部リンク[編集]
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関西棋院の棋士紹介
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中国の棋戦	
タイトル	
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コンピュータ

コンピュータ囲碁
幽玄の間
AlphaGo対李世乭
表 話 編 歴
コンピュータ囲碁(コンピュータいご)とは、人工知能研究の一分野で、ボードゲームの囲碁を打てるコンピュータプログラムを作ることを目的とした試みのことを指す。
目次  [非表示] 
1	概要
2	歴史
2.1	1970年代以前
2.2	1980年代
2.3	1990年代
2.4	2000年代
2.5	2010年代前半
2.5.1	第1回囲碁電王戦
2.6	2010年代後半
2.6.1	アルファ碁の動向
2.6.1.1	李世乭との対戦
2.6.1.2	バージョンアップ
2.6.2	アルファ碁以外の動向
2.6.2.1	第2回囲碁電王戦
2.6.2.2	ワールド碁チャンピオンシップ
3	コンピュータ碁の課題だった点
3.1	モンテカルロ碁の登場前
3.2	モンテカルロ碁の登場後
3.3	アルファ碁(AlphaGo)の登場
4	コンピュータ囲碁棋戦
5	囲碁プログラム
6	注釈
7	脚注
8	参考文献
9	関連項目
10	外部リンク
概要[編集]
本格的な研究が始まったのは1980年代以降であり、台湾、中国といった囲碁の盛んな国においても研究開発が行われている。日本では、2000年代前半、日本棋院から段級位認定されたことを売りにするアプリケーションがあったが、重要な場面での手抜きなどコンピュータ囲碁特有の弱点が有り実際には級上位レベルであった。(アマ初段を認定されたアプリケーションに手談対局4、最高峰3、最強の囲碁2003、銀星囲碁3がある)。数十年の研究にもかかわらずアマチュア級位者の実力を脱することがなく、これらのプログラムが人間の初段と互先で戦って勝つのはほぼ不可能という評価をされてきた。しかし、2000年代後半に入ってモンテカルロ法を導入することにより、アマチュア段位者のレベルに向上したとされた。2012年にはプロ相手の公開対局で4子局で勝てるようになり、アマチュア6段程度の棋力があると認定されるにいたった。
2014年、AI将棋の思考エンジン「YSS」の開発者で、コンピュータ囲碁プログラム「彩」の開発者でもある山下宏は、プログラムの棋力はアマチュア県代表レベルであり、98%のアマチュアは勝つことができず、プロとは4子の手合(将棋の飛香落ちに相当)で、コンピュータ将棋に比べると10年遅れている感じだと述べた[1]。
2012年から2015年にかけて、プロ棋士相手の公開対局においては4子を超える手合で勝つことがなく、棋力の伸びが停滞していると考えられていたが、Google傘下の英国・Deepmind社が開発した人工知能コンピュータソフト「AlphaGo(アルファ碁)」が、2015年10月に樊麾(英語版)(フランス)との対局で、史上初となるプロ棋士相手の互先での勝利を収めると、翌2016年3月には世界トップクラスのプロ棋士である李世乭(韓国)との五番碁にも勝利し、人類のトップクラスに一気に並び追い越した。
歴史[編集]
1960年代 … 38級程度
1970年代 … 15級程度
2000年代後半 … アマ三 - 四段程度
2010年代前半 … アマ四 - 六段程度
2016年〜  …プロ最強レベルと互角以上
1970年代以前[編集]
コンピュータ囲碁の研究はアメリカで始まった(1962年Remusによるコンピュータ囲碁の論文「囲碁の好手、悪手に関する研究」)。最初に19路盤で動作するプログラムを書いたのは1969年のアメリカのZobristで、この時の棋力は38級程度(囲碁のルールを覚えた程度の棋力)であった。
70年代に入って、置かれた石の周辺に発生する影響力を関数として扱う手法や、石の生死を判定するアルゴリズムなどが生まれた。1979年には、攻撃と防御の基本的戦略と、完全につながった石を「連」、つながってはいないがひと塊の石として認識できる石の集まりを「群」として扱う階層パターンを持った囲碁プログラムInterim.2が15級程度の棋力を発揮した[2]。
1980年代[編集]
1984年に、初めてのコンピュータ囲碁大会USENIXが開催される。翌1985年、台湾の応昌期が設立したING杯(1985-2000)は2000年までに互先で人間の名人に勝てば4000万台湾ドル(約1億4千万円)の賞金を出したことで有名になった。
80年代のソフトでは、アメリカの「Nemesis」「Go Intellect」、台湾の「Dragon」、オランダの「Goliath」などが有力で、日本の第五世代コンピュータでも人工知能応用ソフトとして「碁世代」が開発された。また、この頃から、商用囲碁ソフトが販売されるようになった。
1990年代[編集]
90年代になると中国の「Handtalk」、「Silver Igo」などがアマチュアの級位者上級並みの棋力に到達した。また、日本での大会としては、FOST杯(1995-1999)、世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ(2003-2006)などが開催された。
初期のコンピュータ囲碁のアルゴリズムは、人間の思考に近い手法を採用していた。まず、石の繋がり・地の大きさ・石の強さ(目の有無)などからある局面の状況を評価する静的評価関数をつくる。次に、評価関数の結果を元に石の活きを目指す・相手の石を殺す・勢力を拡大するなどさまざまな目的の候補着手を導く。もしくは、定石・布石・手筋などのデータベースを参照する知識ベースの手法により候補となる着手を作成する。各着手についてその後、数手進めた局面を評価関数によって評価する(ゲーム木探索)。到達局面での評価を元にミニマックス法により互いの対局者が最善手を選択した場合の現局面における各候補着手の優劣の評価を行い着手を決定する。その際、アルファベータ法を採用し、有望ではない着手の先読みを途中で打ち切り、有望な手を深く読む工夫を施した。
1993年、ランダムな候補手で終局まで対局をシミュレーションし(プレイアウトという)、その中で最も勝率の高い着手を選ぶというモンテカルロ法を応用したアルゴリズムを持つ囲碁プログラムが登場した。当初は、コンピュータの性能が低かったことと、単純にランダムな着手によってプレイアウトを行ったため従来の手法を持ったプログラムより弱かった(原始モンテカルロ碁)。
2000年代[編集]
2000年代後半になって、ゲーム木探索とモンテカルロ法を融合し、勝率の高い着手により多くのプレイアウトを割り当てプレイアウト回数が基準値を超えたら一手進んだ局面でプレイアウトを行う「モンテカルロ木探索」を実装した囲碁プログラム「Crazy Stone」が登場し、パソコンの計算能力の向上もあいまって格段の棋力向上を果たした。2006年、「Crazy Stone」が第11回コンピュータオリンピアードの9路碁部門で優勝すると、急速にその手法が広がり他の多くのソフトウェアも同様のアルゴリズムを採用した。
2007年に開催された第1回UEC杯コンピュータ囲碁大会で優勝した「Crazy Stone」(2011年から『最強の囲碁』として市販)は、エキシビジョンマッチでプロ棋士の青葉かおり四段(以下、段位・称号は対局当時のもの)との8子局に勝った。翌2008年第2回大会優勝時には青葉との7子局で勝ち、同年8月には情報処理学会のイベント「第7回情報科学技術フォーラム」でトッププロの王銘琬九段と対局し、19路盤の8子局で中押し勝ち、9路盤の黒番互先で1目勝ちをおさめた。王はこの対局を振り返って、「十九路盤の棋力を判定するならアマ三段ぐらいだが、まだ底知れない力を秘めている」「プロレベルまで、十年以内で来るのではないか」と評価している[3]。また、2008年3月には、パリ囲碁トーナメントのエキシビジョンで、モンテカルロ碁の「MoGo」がタラヌ・カタリン五段と対戦し19路盤では9子のハンデをもらって敗れたが、ハンデなしの9路盤で3局対戦し1局に勝利した。
2009年8月には、同年5月に開催された「第14回コンピュータオリンピアード」の優勝プログラム「Zen」(『天頂の囲碁』として市販)が、王銘琬から9路盤黒番コミ2目半で勝利した[4]。Zenも実力をアマチュア三 - 四段と評価されており、王は「従来の囲碁ソフトは読み切れる局面で力を発揮したが、このソフトは読み切れないような難しい局面において力を発揮する」と評価した。
2010年代前半[編集]
2010年10月には、第15回コンピュータオリンピアードの優勝プログラムである台湾の『ERICA』と藤沢里菜初段の対局が6子局で打たれ、結果は藤沢の中押し勝ちとなった。ERICAは序盤に悪手を連発したものの、中盤からは独特の手を打ち、藤沢は「最初は順調だったが、途中から定石にない手を時々打たれて難しくなった」と対局を振り返った[5]。
2011年12月には、第5回UEC杯コンピュータ囲碁大会のエキシビションとして、優勝した「Zen」と鄭銘瑝九段、準優勝の「ERICA」と小林千寿五段の対局が持ち時間30分の6子局で打たれ、ERICAは敗れたがZenは中押し勝ちした。鄭はZenについて「アマチュア四段以上はある」とその実力を評価した[6]。
2012年2月25日には、ライブストリーミングサイト「ニコニコ生放送」の企画で、Zenと二十四世本因坊秀芳(石田芳夫九段)の13路盤対局が、Zenの黒番コミなしで打たれ、結果は石田の中押し勝ちとなった[7]。石田はZenの実力について、19路盤なら5子差程度ではないかと語った。
2012年3月17日には、電気通信大学のイベントで、Zenと大橋拓文五段との9路盤対局、同じくZenと武宮正樹九段との19路盤対局が行われた。大橋との対局は持ち時間20分、コミ7目で黒と白を入れ替えての2局打たれ、ZENの黒番では大橋の中押し勝ち、白番ではZenの5目勝ちとなった。武宮との対局は持ち時間30分、一局目が5子局、2局目が1局目の結果を受けての一番手直りで打たれ、1局目はZenの11目勝ち、4子局となった2局目はZenの20目勝ちとなった[8]。
2012年11月25日には、電気通信大学のイベントで、Zenと蘇耀国八段、大橋拓文五段、一力遼二段の3名が9路盤で対局した。対局はプロ一人がそれぞれ黒と白を1局ずつ持って計6局、黒番コミ7目の持碁有りで打たれ、プロの6戦6勝となった。盤面の小さな9路盤はコンピュータに有利な舞台ではあったが、プロ側は事前研究を重ね、また、一力が劣勢から逆転した第1局の勝利からもヒントを得て全勝を果たした[9]。
2013年からは「電聖戦」が開催されることとなった[10]。これはその年のUEC杯コンピュータ囲碁大会で決勝に進んだ2つのプログラムが、日本棋院のプロ棋士とハンデ付きで戦うというものである。第1回大会では石田芳夫が4子局で戦い、Zenには中押し勝ちしたもののCrazy Stoneには3目負けした。石田はCrazy Stoneを「アマ六段くらいの力は十分ある。ただ、プロレベルにはまだまだ」と評した。大会実行委員長の伊藤毅志は「プロレベルになるのは約10年後」と語った[11]。
第1回囲碁電王戦[編集]
2014年2月11日には、コンピュータ将棋と人間が対局する棋戦「将棋電王戦」を主催するドワンゴが、囲碁版となる「囲碁電王戦」を電気通信大学の後援で開催した。第1回はエキシビジョン的な要素が強く、本格的なものではなかった。張豊猷八段と平田智也三段がZenを相手に9路盤でそれぞれ黒と白を1局ずつ持ち、合計4局が互先先番コミ6目半、持ち時間20分・秒読み30秒で打たれ、人間側の4戦4勝となった。Zenの開発者である加藤英樹は「プロ棋士にもミスがあったが、チャンスを生かすことができなかった。これまではコンピューターが打つ手の意外性で人間と戦ってきたが、研究を重ねられて通用しなくなってきたようだ。ソフトに改良を加え、来年こそは勝ちたい」と語り、張は「コンピューターの打ち方を学んでいたからこそ勝てたが、小さい碁盤ではプロとコンピューターは、ほとんど互角だと思う」と感想を話した[12]。また、第1回電王戦では世界アマチュア囲碁選手権戦 日本代表決定戦連覇の実績を持つ江村棋弘とZenの13路盤対決、政界きっての打ち手とされる小沢一郎アマ6段とZenの19路盤対決も行われており、13路盤対決は白黒を入れ替えて2局行われたがいずれも江村の勝利、1局のみ行われた19路盤対決ではZenの勝利となっている。Zen開発チームの代表・加藤英樹は「小沢さんとの一戦では、厳しい手を選ぶことが多いZenが(人間のように)囲い合っていたのは新たな発見。19路でプロと互角に戦うのは大変だが、9路では10年程度で追いつきたい」と話した[13]。同年7月26日、ニコニコ囲碁サークルにおいて、小沢一郎同様政界の強豪である与謝野馨アマ7段とZenの対局が行われ、Zenが勝利している。
2014年3月の第2回電聖戦では、依田紀基九段がCrazy Stone(UEC杯準優勝)、Zen(UEC杯優勝)と向4子局(下手半目コミ出し)を打ち、Crazy Stoneに2目半負、Zenに中押し勝ちと、第1回とほぼ同じ結果に終わった[14]。2014年12月の時点ではコンピュータが人に勝つのは10年後になるのではと予想されていた[15]。
2015年1月には世界最強銀星囲碁15と井山裕太名人が向4子局を2局打ち、井山が2勝した。PCのスペックはCPU: Core i7-5960X 8コア 3.0GHz メモリ: 16GB、第1局は白30目勝ち、第2局は白1目勝ちだった[16]。
2015年3月の第3回電聖戦では25世本因坊治勲(趙治勲マスターズ)がCrazy Stone(UEC杯優勝)と向3子局、Dolbaram(UEC杯準優勝)と向4子局を打ち、Crazy Stoneに中押し勝ち、dolbaramに中押し負けした。
2015年5月には、人工知能学会全国大会において下坂美織二段がZenと3子局を打ち、下坂が中押し勝ちした。
2015年11月に行われたミリンバレー杯世界コンピューター囲碁トーナメントではDolBaramが優勝し、エキシビションマッチで中国棋院所属棋士の連笑七段(中国名人)がDolBaramと向4子局からの一番手直り3番勝負を行うことになった。結果は連笑が4子でDolBaramに中押し勝ち、5子でDolBaramに中押し勝ち、6子でDolBaramに中押し負けであった。
2010年代後半[編集]
アルファ碁の動向[編集]
2016年1月28日、Googleの完全子会社であるイギリスのGoogle DeepMind社が開発した、ディープラーニングの技術を用いた人工知能(AI)のコンピュータソフト「アルファ碁(AlphaGo)」が、2013年から2015年まで欧州囲碁選手権を3連覇した樊麾二段と対局し、5戦全勝したことに基づく研究論文がイギリスの科学雑誌ネイチャーに掲載された。囲碁界でコンピュータがプロ棋士に互先で勝利を収めたのは史上初である。
対局は2015年10月5日から10月9日にかけて、互先コミ7目半の中国ルール、持ち時間60分で切れたら1手30秒、ただし30秒単位で合計3回の考慮時間の条件で5局打たれ、1局目で白番のアルファ碁が2目半勝ちした後はいずれもアルファ碁が中押し勝ちした。またこの論文では、アルファ碁と市販版のCrazyStoneやZenなど5種の既存のソフトウェアが1手5秒の条件で対局し、495戦して494勝の成績を上げたこと、およびCrazyStone、Zen、Pachiの3ソフトに4子のハンデを与えてそれぞれに77%、86%、99%の勝率を上げたことを報告した。ソフト同士の対局を行ったアルファ碁のハードウェアはCPU48、GPU8の構成であるが、開発チームはCPU1202、GPU176からなる分散コンピューティングでもアルファ碁を稼働しており、こちらは前者に対して勝率77%を上げ、プロ五段の実力があると推定しており[17]、樊麾に対して勝利したのはこの分散コンピューティングによるものである。
李世乭との対戦[編集]
詳細は「AlphaGo対李世ドル」を参照
論文公開と同時にGoogleは、2016年3月にアルファ碁が韓国の第一人者である李世乭九段と五番碁を打つことを発表した。2016年2月22日にソウルで行われた記者会見において五番碁の詳細が公表され、対局は3月9日から15日までの1週間のうち5日間に1日1局ずつ、どちらかが先に3勝しても必ず第5局まで打たれ、持ち時間はチェスクロックを使用しての双方2時間で切れたら1手1分、ただし1分単位で合計3回の考慮時間があり途中休憩はなし、コミ7目半の中国ルールで打たれる[18]。Googleが李に支払う金額は、対局料として15万米ドル、五番碁に3勝して勝利した際の賞金が100万米ドル、それとは別に1局勝つごとにボーナスが2万米ドル(支払いは1米ドル=1100韓国ウォンの固定レートで行われる)、アルファ碁が五番碁に勝利した際は100万米ドルをUNICEF、STEM教育(Science=科学、Technology=技術、Engineering=工学、Mathematics=数学)および囲碁関連慈善団体に寄付するとされた。対局はアルファ碁が先に3勝をあげ、通算成績4勝1敗で勝利した[19]。
バージョンアップ[編集]
2016年から2017年の年末年始にかけて、インターネット対局場の東洋囲碁、野狐囲碁に「magister」「master」と名乗るアカウントが登場し、柯潔、朴廷桓、井山裕太ら全てトップレベルのプロ棋士と推定される相手に1手60秒未満の早碁で60戦全勝の結果を残し話題となった。2017年1月4日にDeepMindのCEOであるデミス・ハサビスは自身のTwitterアカウントで、この2つのアカウントはバージョンアップしたアルファ碁の非公式テストを行ったものであったことを明かし、対局した棋士への謝辞を述べるとともに、2017年中に長時間によるプロ棋士との公式の対局の予定があることを発表した[20]。
アルファ碁以外の動向[編集]
2016年2月には、Zenと伊田篤史十段が4子局を打ち、Zenが中押し勝ちした。
2016年3月1日には、ドワンゴが東京大学と日本棋院の協力を得て、世界最強の囲碁AIを目指す「DeepZenGoプロジェクト」の発足を発表した。Zenの開発者である尾島陽児と加藤英樹を中心に、ディープラーニングを専門とする東京大学の松尾豊研究室が参加し、ドワンゴは自らの有するディープラーニング専用GPUサーバファームを提供し、半年から1年でアルファ碁に対抗しうるコンピュータ囲碁の開発を目指す[21]。記者会見に出席した加藤は、現段階でZenはアルファ碁に対して勝率は3から4%と推定されるが、両者の差は開発環境におけるハードウェアの物量と性能差によるところが大きいとし、アルファ碁に匹敵する環境を得られれば1年で追いつき追い越すことも可能であると述べた(以下、本プロジェクトに関与するZenを特に「DeepZenGo」と記載するが、引用元の発言で単にZenと語られている場合はそのまま記載する)。
2016年3月の第4回電聖戦では、小林光一名誉棋聖がZen(UEC杯優勝)、darkforest(UEC杯準優勝)と向3子局を打ち、Zenに4目半負け、darkforestに中押し勝ちした。Zenはアルファ碁以外のコンピュータ囲碁として初めて公開の場で3子局でプロ棋士に勝利した。
2016年6月7日には、第30回人工知能学会全国大会のイベントとしてZenと武宮陽光六段の2子局が打たれ、Zenが9目半勝ちした。Zenはアルファ碁以外のコンピュータ囲碁として初めて公開の場で2子局でプロ棋士に勝利した[22]。
2016年1月に日本棋院は「第1回13路盤プロアマトーナメント戦」を開催し、アマチュア予選にコンピュータ囲碁ソフトが参加可能であること発表した[23]。同年6月に開催されたアマチュア・コンピュータ代表決定トーナメントでは、同年UEC杯優勝のZen、4位のAya、6位のCGI、7位のRayの4ソフトが参加しアマチュア選手と本戦進出を争ったが、予選通過に5連勝が必要な中、Zenが3勝、その他3ソフトが1勝するにとどまり、予選通過はならなかった[24]。
2016年11月23日には、「寝屋川囲碁将棋まつり」でZenが河英一六段と互先で対局し、Zenが中押し勝ちした。
発足当初の発表通りに最後となることが発表されていた2017年3月の第5回電聖戦では、一力遼七段がFine Art(絶芸)(UEC杯優勝)、DeepZenGo(UEC杯準優勝)と互先で打ち、二局ともコンピュータ囲碁が中押し勝ちした。コンピュータ囲碁は初めて電聖戦でプロ棋士に連勝した。
第2回囲碁電王戦[編集]
2016年11月9日にドワンゴはZen開発者の加藤、東大松尾研、日本棋院と共同で「DeepZenGoプロジェクト」の中間報告を行い、同年9月段階におけるDeepZenGoが、2015年10月にアルファ碁が樊麾に勝った時と同程度の棋力に向上したと推定されることを発表した。これを受けて同時にドワンゴは第2回囲碁電王戦を開催し、DeepZenGoと趙治勲名誉名人が11月19日から23日にかけて三番碁を打つことを発表した。三番碁は互先で日本ルールのコミ6目半、持ち時間はチェスクロックを使用した2時間で切れたら1手1分、ただし1分単位で合計3回の考慮時間があり、途中でどちらかが先に2勝を上げても必ず第3局まで打たれる条件で行われる。対局におけるDeepZenGoのハードウェアスペックはCPU: Xeon E5-2699v4×2(44コア、2.2GHz)、GPU: TITAN X(Pascal世代)×4であり、ソフトウェアとハードウェアの趙への貸与は行われない[25]。
11月19日に打たれた第1局は223手で黒番趙の中押し勝ち。序・中盤ではDeepZenGoが趙をリードし、対局中には立会人の張栩九段が「ここまではボクより強い打ち方をしているのでは。基本がしっかりしている」と評価し[26]、趙も対局後「布石がめちゃくちゃ強い。まだ展開が予想できない序盤での想像力の高さに人工知能の強さを感じた」と振り返った[27]。しかし終盤のヨセでDeepZenGoに疑問手が出ると趙が正確な着手で逆転した[28]。
11月20日の第2局は179手で黒番DeepZenGoが中押し勝ち。DeepZenGoはアルファ碁以外のコンピュータ囲碁として初めて公開の場で互先でプロ棋士に勝利した。DeepZenGoは第1局同様に序盤でリードを築くと最後は趙の大石を殺して勝利を確定させた。開発者の加藤は「感無量です。(持ち時間を1時間近く残して負けた)第1局より一手の考慮時間を1.6倍増やした。最終局に向けてさらに改良[29]を加えていきたい」と語り、趙は「強すぎますね。人間が気がつかない手を打つ。ソフトが出たら勉強したい」と振り返った[30]。
11月23日の第3局は167手で黒番の趙が中押し勝ちし、2勝1敗で三番碁の勝ち越しを決めた。模様を張るDeepZenGoに対して趙が実利を稼いで凌ぐ展開となったが、ヨセに入った段階でDeepZenGoが形勢を過大評価していることを悟った開発者の加藤が投了を判断した[31]。3局全体を振り返って趙は「強かった。日本にきて55年間囲碁の勉強をしているけど、今までの積み重ねは何だったろうというくらい、序盤の感覚は違った。3月にZenの碁を見てから半年でボクは退化したけど、その間にZenはすごく成長した。半年後に対局したら負けちゃうかもしれないけど、恥ずかしいとも、悔しいとも思わない。AIが強くなったら、それを使って勉強して、互いに強くなっていったらいいんですよ。ここまで強くなってくれて感謝の気持ちしかありません」と語り[32]、加藤は「負けたほうが得るものが多い。どこを直せば強くなるのか方向が見えてきたので、得るものが多い対局だった」と総括した[33]。
ワールド碁チャンピオンシップ[編集]
2016年11月29日に日本棋院は、新国際棋戦「ワールド碁チャンピオンシップ」を2017年3月21日から23日に大阪で開催することを発表した。日本・中国・韓国のプロ棋士代表とコンピュータ囲碁の4者が総当たり戦で争う。日本ルールのコミ6目半で持ち時間は3時間。賞金は優勝3000万円、準優勝1000万円、3.4位500万円。日本代表として井山裕太九段(発表当時六冠)、コンピュータ囲碁はDeepZenGoの出場が同時に発表され[34]、中国代表は芈昱廷九段、韓国代表は朴廷桓九段が出場する[35]。日本棋院はアルファ碁にも出場を打診したが、スケジュールの都合で不参加となった[36]。
3月21日の芈昱廷九段 - DeepZenGo戦は283手で芈が黒番中押し勝ち[37]。22日の朴廷桓九段 - DeepZenGo戦は347手で朴が黒番中押し勝ち[38]。23日の井山裕太九段 - DeepZenGo戦は235手でDeepZenGoが黒番中押し勝ちし、DeepZenGoは1勝2敗の3位に終わった[39]。
コンピュータ碁の課題だった点[編集]
モンテカルロ碁の登場前[編集]
評価関数が作りづらいこと
チェスや将棋では、それぞれの駒の価値が異なるため、駒の交換による損得を評価することができる。また、王将・キングというターゲットがはっきりしているため、王将・キングの守りが薄いか堅いかを評価するなど比較的有効な評価関数を作ることが可能である。しかし、囲碁では、石自体に軽重がなく、置かれた場所や形により要石になったりカス石になったりする。そのため、チェスや将棋のように、有効な評価関数を作ることはできなかった。
オセロでは、隅を取ることが非常に重要である。そのため、隅を占めることを高く評価する評価関数が有効である。しかし、囲碁では、同じ盤上の地点であっても、状況によってその価値が大きく異なることが多く、ここを占めれば明らかに有利という評価が難しい。
感覚的な部分が多いこと
将棋に比べ、囲碁は最善手と次善手の差が少ない。また、理詰めで着手を導きやすい将棋と比較して、感覚的な部分が多分にあることも、コンピュータプログラム(アルゴリズム)との親和性が低い一因である。
データベースが膨大であること
将棋・チェス・オセロの定跡と囲碁の定石では、終局までの手数に占める定石・定跡の手数の割合が将棋・チェス・オセロのほうが高く、勝敗に対する影響度も定石に比べ定跡のほうが高い。そのため、データベースの充実による棋力上昇は、将棋・チェス・オセロのほうが効果的である。オセロと囲碁は、終局に向かうにつれて、着手可能点が減り、最終的には読みきり可能な点で等しい。しかし、オセロの場合は、定石が終わり終局まで読みきれる終盤に至るまでの間(中盤)が囲碁と比べ圧倒的に短い。
盤面が広いこと
将棋・チェス・オセロ・囲碁の盤面の広さは、囲碁が一番広く[注釈 1]、しらみつぶしに着手を評価する場合も囲碁が一番困難である。
このような理由により、悲観的な見方では21世紀中に名人に勝てるコンピュータソフトは現れないだろうと言われていた。限られた範囲内の死活を問う詰碁ではしらみつぶしに着手を探ることでプロ級の評価が挙がるプログラムはあったが、実戦の死活は詰碁になっている部分から石が長く連なっている場合も多く、その先で一眼できる可能性があったり、他の生きた石と連絡が残っている場合がある。更に、仮に石が死ぬケースであってもフリカワリでそれに代わる利得がある場合などもあり、しらみつぶしに調べるには手数が膨大で不可能である。このため、あらゆる手を読まなければならない複雑な中盤になると、途端に弱くなる。特に厚みをどう評価するかは人間のプロにも非常な難題であり、これをプログラムに組み込むことはきわめて難しかった。
モンテカルロ碁の登場後[編集]
一方、囲碁は将棋などに比べて最善手と次善手、三番手の差が小さく一本道の攻防が少ないという特徴から、ランダムなプレイを多数回行って勝率を調べることで形勢を評価することが可能である。したがって、その性質を利用したモンテカルロ碁の登場により、2009年にはこの段階でアマチュアの最上位者やプロ目前の奨励会員三段と同等の棋力と評価されていたコンピュータ将棋よりも先に、プロ最上位者に勝つのではないかとする見解も現れた[40]。また、モンテカルロ碁では、従来の評価関数を用いるアルゴリズムに比べて、ソフト開発者の棋力がそれほど必要ない[注釈 2]そのため、研究者の裾野の広がりが期待できるとされた。
モンテカルロ碁は、終局までをシミュレーションし、勝率の高い着手を選択する。したがって、計算力が棋力に大きな影響を与える。このことから、プレイステーション3を8台使用するソフト「不動碁」が現れるなど、計算機の廉価化も棋力向上の要素となっている。また、アルゴリズムの改良により、木探索の効率化も図られている。具体的には、石の配置などから良さそうな手を判断し、優先的もしくは限定的にプレイアウトを行う方法、終局図に至る手順を考慮せずすべての着手を1手目とみなすことにより1回のプレイアウトで数十倍のプレイアウト結果を得たと仮定してプレイアウト回数を稼ぐ方法などがある。
モンテカルロ碁の弱点として、死活やシチョウなど「正解手順はたった一つでかつ長手順だが、正解手順とそれ以外の手順に極めて大きな結果の差が生じるような」手順を見つけにくい点がある。単純なランダム着手によるプレイアウトでは弱いが、着手点を絞るためには手の評価を行わねばならず、正確な評価をしようとするほど、リソースを消費し、プレイアウトの数を減らさざるを得ないという矛盾が生じる。このため、パターンの少ない小碁盤であるほど、一般にその棋力は向上する。
他方で、目算が苦手であるなどの問題点[41]も明らかとなっている。
こうした問題点は将棋ソフトがプロ棋士を次々と下している(将棋電王戦に関する記述を参照)中で、19路盤はおろか13路盤でもアマの日本代表クラスに歯が立たないなど、囲碁における棋士の優位はしばらくの間揺るがなかった。 このため、モンテカルロ法も限界に近付いており、新手法の発見がなければプロ棋士の優位を揺るがすのは難しいとする開発者サイドの見方もあった[42]。
その後、着手を絞る方法をいかに簡素で効果的にするか、もしくは、プレイアウトの数を稼ぎいかに有効な手に深くモンテカルロ木探索を延ばすかというアプローチで、モンテカルロ碁の研究が進んでいた。
アルファ碁(AlphaGo)の登場[編集]
「AlphaGo」および「AlphaGo対李世ドル」を参照
2015年10月に非公開で行われていた対局でGoogleが開発したコンピュータソフト「アルファ碁(AlphaGo)」が、欧州のプロ棋士であるファン・フイ(中国ではプロ二段)と対戦し、5戦全勝していたことが2016年1月28日に各報道機関を通して伝えられた。アルファ碁はモンテカルロ木探索にディープニューラルネットワークを組み合わせており、自ら対局を繰り返して試行錯誤し強化学習を行った。その結果、アルファ碁は他の市販ソフトに500局中499局で勝利を収めるほどの実力に達し、他のソフトがトッププロ棋士に3子置いても勝つのが難しいという状況から驚異的なブレイクスルーを果たすこととなった。
コンピュータ囲碁棋戦[編集]
コンピュータオリンピアード(囲碁部門は1989年より開催)
UEC杯コンピュータ囲碁大会(2007年 - )
CGFオープン(2001年 - )
世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ(2003 - 2006年)
ING杯(1985 - 2000年)
FOST杯(1995-1999)
KGSコンピュータ囲碁トーナメント
21世紀杯
天宇杯
SG杯
European Go Congress
FJK2000 コンピュータ囲碁大会
囲碁プログラム[編集]
Crazy Stone
最強の囲碁(2011年 - )
Zen
天頂の囲碁
KCC Igo(Korea Computer Center)
世界最強 銀星囲碁
ファミリー囲碁
バリュー囲碁
おやじの挑戦 囲碁の奥義
Go++(Go4++)
最強の囲碁(- 2010年)[43]
The Many Faces of Go
AI囲碁
igowin
Goemate(HandTalk)
手談対局
最強囲碁伝説 ハンドトーク
HARUKA
対局囲碁 最高峰
囲碁一番
Wulu
囲碁皇帝 烏鷺
Katsunari(勝也)
やさしい囲碁指導対局
若葉
至高の囲碁 永聖
お気軽囲碁対局
囲碁世界
達観の囲碁
囲碁大全
初段くん
Aya(彩)
囲碁世界V
剛腕王 孟帝
囲碁大全コンプリート
MASAYAN
囲碁初段
Go Intellect
平成棋院
道策
囲碁塾
Goliath
対局囲碁 ゴライアス
GREAT 5
GNU Go
MoGo
Erica
Fuego
Fungo
Martha
GORO
caren(カレンのささやき)
Leela
Steenvreter
不動碁(GGGo、GGMCGo)
思考錯碁
Yogo
Smart Go
GoLois
Indigo
Explorer
NeuroGo
Go Star
Topgoer
GMS
Northan Star(Polar Star)
GoAhead
Dariush
Star of Poland
Jimmy
碁世代(GO Generation)
EGO(Nemesis)
AlphaGo
DeepZenGo(Zenを基礎としている)
注釈[編集]
^ 盤面状態の種類は、オセロで10の28乗、チェスで10の50乗、将棋で10の71乗と見積もられるのに対し、囲碁では10の160乗と見積もられる。また、ゲーム木の複雑性は、オセロで10の58乗、チェスで10の123乗、将棋で10の226乗と見積もられるのに対し、囲碁では10の400乗と見積もられている。ただし、9路盤の囲碁はチェスほど複雑ではない。
^ 将棋のBonanzaなどの例外はあるが、通常は戦法などについての知識が必要となる。
脚注[編集]
^ 山下宏 (2014年6月22日). “コンピュータ囲碁の仕組み 将棋との違いの資料” (ppt). YSSと彩のページ 2015年3月3日閲覧。
^ 「メイエン事件簿」第30回 かんぱいモンテカルロ 2008年9月8日
^ 囲碁ソフト『天頂の囲碁』とプロ棋士の王九段が公開対局 マイコミジャーナル2009年8月11日
^ 囲碁ソフトと藤沢初段が対戦-金沢でコンピューターチェス世界選手権 金沢経済新聞 2010年10月6日 2011年5月12日閲覧
^ Zen、日本勢初優勝 UEC杯コンピュータ囲碁 朝日新聞2011年12月13日 2011年12月25日閲覧
^ 囲碁コンピューターvs人間コンピューター ニコニコインフォ 2012年2月24日 2012年3月18日閲覧
^ 囲碁ソフトがトッププロの棋士に勝利 NHK NEWS web 2012年3月17日、2012年3月18日閲覧
^ コンピューターにプロ全勝 九路盤、巧みにミス誘う 朝日新聞デジタル 2012年11月27日 2014年1月2日閲覧
^ 第1回電聖戦
^ ルポ:第1回電聖戦 囲碁ソフトが3目勝ち 仏大学教員開発の「クレージー・ストーン」 毎日新聞 2013年3月25日、2013年3月31日閲覧
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^ “【マンスリー囲碁】まだまだ人間が優位の電王戦”. 産経ニュース (2014年3月10日). 2015年4月23日閲覧。
^ 第2回電聖戦より。なお、手合割の決定に際し、運営委員会は「今年のUEC杯のコンピュータ同士の対戦から、顕著な進歩が見られなかった」としている。
^ “The Mystery of Go, the Ancient Game That Computers Still Can’t Win”. www.wired.com (2014年12月5日). 2016年8月3日閲覧。
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^ 出場アマチュアが決まりました 日本棋院ドリームファンディング 2016年6月13日 2016年6月16日閲覧
^ AlphaGoを追うドワンゴ/東大の囲碁AI「DeepZenGo」がプロ棋士と対局 PC Watch(中村真司) 2016年11月9日 2016年11月21日閲覧
^ 第1局 「Zenはボクより強い」と一力遼七段も絶賛 産経ニュース 2016年11月19日 2016年11月21日閲覧
^ 「囲碁電王戦」第1局、趙治勲名人が勝利 日本最強の囲碁AI「DeepZenGO」敗れる ITmedia 2016年11月19日 2016年11月21日閲覧
^ 囲碁電王戦 治勲がソフトに先勝…第1局 毎日新聞2016年11月19日 2016年11月21日閲覧
^ 将棋電王戦ではバージョンアップや改良は禁止されており、実際に佐藤紳哉からやねうら王に「棋力が向上している」というクレームがありドワンゴはこれを「運営の判断ミス」と言ってバージョンアップ前のソフトと対局することに決定したが、囲碁電王戦ではDeepZenGo側が「最終局に向けさらに改良を」と述べているようにプログラムの修正が認められている。
^ 和製囲碁AI、トッププロに初勝利 電王戦、勝敗タイにasahi.com 2016年11月20日 2016年11月21日閲覧
^ 囲碁電王戦 趙九段がAIに勝つ 最終局で2勝1敗 毎日新聞2016年11月23日 2016年11月23日閲覧
^ 趙治勲名誉名人「ボクは退化したけど、(Zenは)すごく成長した」 産経ニュース 2016年11月23日 2016年11月23日閲覧
^ 日本の囲碁AI 三番勝負でトップ棋士に負け越し NHK NEWS WEB 2016年11月23日 2016年11月23日閲覧
^ 囲碁に新国際戦 井山王座と中韓代表、AIも参戦 日本経済新聞 2016年11月29日 2016年11月29日閲覧
^ 「ワールド碁チャンピオンシップ」中国・韓国代表棋士が決定日本棋院 2017年1月10日 2017年1月18日閲覧
^ 井山裕太六冠が来春、AIと対局へ 「ワールド碁チャンピオンシップ」で 産経ニュース2016年11月29日 2016年11月29日閲覧
^ 井山は朴に、DeepZenGoは芈に敗れる【ワールド碁チャンピオンシップ1回戦】
^ 井山、DeepZenGoともに連敗【ワールド碁チャンピオンシップ2回戦】
^ 朴廷桓九段(韓国)が優勝! DeepZenGoが井山に勝利【ワールド碁チャンピオンシップ3回戦】
^ でるかコンピューター名人 囲碁に確率重視の「モンテカルロ法」 朝日新聞2009年4月8日 2009年4月9日閲覧
^ 第一回囲碁電王戦初日 たかお日記 2014年2月11日 2014年3月19日閲覧
^ プロ棋士やあの小沢一郎氏が参戦!!将棋電王戦の囲碁版『第1回囲碁電王戦』開催 週アスPLUS 2014年3月19日閲覧
^ 2010年開発終了
参考文献[編集]

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年6月)
『週刊碁』2009年1月12日号
Playing with Shannon: a forum about computer go programming
囲碁における正確な着手予測のためのファジーパターンマッチング
コンピュータ囲碁の歴史と将来の展望(勝也作者による解説)
コンピュータ囲碁研究の現状と展望
コンピュータ囲碁(<特集>ゲームとコンピュータ)(Aya開発者によるコンピュータ囲碁の解説)
モンテカルロ法で囲碁、将棋(Aya開発者によるモンテカルロ碁の解説)
コンピュータ囲碁における モンテカルロ法 - 理論編 -
コンピュータ囲碁における モンテカルロ法 - 実践編 -
モンテカルロ木探索 : コンピュータ囲碁に革命を起こした新手法
関連項目[編集]
人工知能
評価関数
三目並べ
囲連星
コンピュータ将棋
コンピュータチェス
コンピュータオセロ
将棋 - チェス - 囲碁
二人零和有限確定完全情報ゲーム

幽玄の間

幽玄の間(ゆうげんのま)は、日本棋院が運営するインターネット囲碁対局サービス。
概要[編集]
[icon]	この節の加筆が望まれています。
幽玄の間では、アマチュア25級~8段が自由に対局をしている。 近い棋力の人と級・段位の向上を目指してポイント変動をかけ戦う“レーティング対局”と 練習対局及びペア碁や五目並べなどのお楽しみもできる“自由対局”の大きく2つ

AlphaGo対李世ドル

AlphaGo対李世ドル
本来の表記は「AlphaGo対李世乭」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
AlphaGo対李世乭(アルファご・たい・イ・セドル)は、韓国のプロ囲碁棋士李世乭とGoogle DeepMindによって開発されたコンピュータ囲碁プログラムAlphaGoとの間の囲碁五番勝負である。この対局は1997年に行われたディープ・ブルーとガルリ・カスパロフとの間の歴史的なチェス対局と比較されている。
対局はコミ7目半の中国ルールを使い、持ち時間は両者2時間で、切れると1手1分の秒読み、ただし1分単位で合計3回の考慮時間がある[1]。
勝者(勝ち越し者)は100万米ドルの賞金を得る。もしAlphaGoが勝利すれば、賞金はUNICEFを含むチャリティーへ寄付される[2]。賞金に加えて、李世乭は全5戦の対局料として15万米ドル、1勝につき2万米ドルを得る[1]。
目次  [非表示] 
1	背景
1.1	AI分野における難問
1.2	樊麾との対局
2	対局者
2.1	AlphaGo
2.2	李世乭
3	規則
4	対局
4.1	概要
4.2	第1局
4.3	第2局
4.4	第3局
4.5	第4局
4.6	第5局
5	配信
6	関連項目
7	脚注
背景[編集]
AI分野における難問[編集]
詳細は「コンピュータ囲碁」を参照
囲碁は創造的、戦略的思考を必要とする複雑なボードゲームである[3]。長い間、AIの分野における難問と見なされており、チェスよりも解決がかなり困難である。数学者のI・J・グッドは1965年に以下のように記している[4]。
コンピュータ上の囲碁? – 単に規則に則ったゲームというよりも、合理的な囲碁のゲームをプレーするようにコンピュータをプログラムするためには – 戦略の原理を形式化する、あるいは学習プログラムを設計する必要がある。囲碁の原理はチェスよりも質的かつ神秘的であり、判断力により依存する。したがって、囲碁の合理的なゲームをプレーするようコンピュータをプログラムすることは、チェスの場合よりもさらにいっそう難しいだろうと私は考える[5]。
2015年より前は[6]、最良の囲碁プログラムはアマチュアの段レベルに達するのがやっとであった[7]。小さな9路盤(9×9)ではコンピュータは健闘し、一部のプログラムはプロ棋士に対して9路盤で勝利できるが、標準的な19路盤ではプロ棋士に太刀打ちできていなかった[8]。人工知能の分野における多くの人々も、囲碁はチェスよりも人間の思考を模倣するためにより多くの要素を必要とすると考えていた[9]。
AlphaGoはそれ以前のAIの取り組みとはニューラルネットワークを応用している点において最も大きく異なっている。ニューラルネットワークでは、評価経験則が人間によってハードコードされておらず、代わりにプログラム自身によって自分自身との対局を数千万回繰り返すことによってかなりの程度まで学ぶ。AlphaGoの開発チームでさえ、AlphaGoがどのように石の配置を評価し次の手を選択しているかを指摘することはできない。モンテカルロ木探索(英語版)もプログラムの推論効率を改善するための主要な方法として用いられている。
コンピュータ囲碁研究の結果は、認知科学、パターン認識、機械学習といったその他の同様の分野に応用されている[10]。
樊麾との対局[編集]

樊麾対AlphaGo – 第5局
AlphaGoは2015年10月に、ヨーロッパ王者でプロ二段の樊麾(英語版)を5-0で破った。AIが人間のプロ棋士をハンディキャップなしの19路盤で破ったのはこれが初めてであった[11][12]。一部の解説者は樊麾と李世乭(プロ九段)との間の実力の差を強調した[13]。コンピュータプログラムのZenとCrazy Stone(英語版)はこれ以前に九段のプロ棋士を4子のハンディキャップ付きで破っていた[14][15]。カナダのAI専門家ジョナサン・シェーファー(英語版)は、樊との対局後に論評し、AlphaGoを未熟な「神童」と比較して、「プログラム(AlphaGo)が真にトップの棋士と対局した時が本物の成果となるだろう」と考えた。シェーファーは、2016年3月の対局では李が勝利するだろうと考えた[12]。プロ棋士で国際囲碁連盟事務局長の李夏辰(英語版)は、AIが李に挑戦する見通しに「非常に興奮している」と意見を述べ、両者に等しく勝利する機会があると考えた[12]。
プロ棋士は、樊とAlphaGoの対局から、大局観が要求される局面でミスがあることなどは分かっていたが、それから3月までにどの程度プログラムが改善されているかは分からなかった[16][17]。Google DeepMindのデイヴィッド・シルバーは、AlphaGoは李の以前の棋譜を使って特別に鍛えられてはいないと述べた[18]。
対局者[編集]
AlphaGo[編集]
詳細は「AlphaGo」を参照
AlphaGoはGoogle DeepMindによって開発された囲碁をプレーするコンピュータプログラムである。AlphaGoのアルゴリズムは機械学習と木探索手法の組み合わせを用いており、人間の対局とコンピュータの対局の両方からの広範囲の訓練を組み合わせている。システムのニューラルネットワークは当初、人間の対局の専門知識からブートされた。AlphaGoは最初は、約3千万通りの着手のデータベースを使って、記録されている歴史的な対局の熟練した棋士の着手と一致するように試みることによって人間の打つ手を模倣するように訓練された[19]。ある程度の熟練度に達した時点で、強化学習の手法を用い、旧バージョンのAlphaGo自身との考慮時間が極端に短い対局を繰り返して訓練された[20]。システムはプレーする手の「データベース」を使用しない。AlphaGoの作成者の一人が説明したように[21]、
我々はこの機械をプレーするようにプログラムしたが、それがどんな手を思い付くかは全く分からない。その手は訓練からの創発現象である。我々は単にデータセットと訓練アルゴリズムを作成しただけだ。しかし、それが思い付く手は我々の手を離れており — そして碁打ちとして我々が思い付くものよりもずっと優れている。
李との対局に使用されるAlphaGoのバージョンは、樊麾との対局と同等のコンピュータパワー(1,202 CPU、176 GPU)を使う[22]。
李世乭[編集]
詳細は「李世ドル」を参照

李世乭(2012年)
李世乭は九段のプロ囲碁棋士[23]であり、世界最強の囲碁棋士の1人である。1996年に12歳でプロに昇段し、それ以降に18回の世界王者となっている[24]。李は出身の韓国において「国民的英雄」であり、型にはまらない創造的なプレーで知られている[25]。李世乭は当初AlphaGoを「大勝」で破るだろうと予測した[25]。対局の数週間前、李は韓国の名人戦で勝利した[25]。
規則[編集]
対局は五番勝負で行われ、賞金は100万米ドルである[2]。中国ルールに従い、コミは7目半。持ち時間は両者2時間で切れると1手1分以内に着手、ただし1分単位で合計3回の考慮時間がある[1]。対局は3月9日から15日までの1週間で行われ、13時(日本・韓国標準時)から始まる[26]。
対局[編集]
この対局は韓国ソウルのフォーシーズンズホテルで2016年3月に行われ、ライブでストリーミング配信される[27][28][29]。DeepMindチームのメンバーでアマチュア6段の黄士傑 (Aja Huang、台湾出身)がAlphaGoのために碁盤に石を置く。AlphaGoはアメリカ合衆国に位置するサーバを使ったGoogleのクラウドコンピューティングによって動作する[30]。
概要[編集]
対局
日付	黒番	白番	結果	手数
第1局	2016年3月9日	李世乭	AlphaGo	AlphaGo中押し勝ち	186
第2局	2016年3月10日	AlphaGo	李世乭	AlphaGo中押し勝ち	211
第3局	2016年3月12日	李世乭	AlphaGo	AlphaGo中押し勝ち	176
第4局	2016年3月13日	AlphaGo	李世乭	李世乭中押し勝ち	180
第5局	2016年3月15日	李世乭	AlphaGo	AlphaGo中押し勝ち	280
結果:
AlphaGo 4 – 1 李世乭
第1局[編集]
AlphaGo(白)が第1局を勝利した。李は一局の大半を通して主導権を握っているように見えたが、AlphaGoが最後の20分に優位に立ち、李が投了した[31]。李は終局後に、開始時に重大なミスを犯したと述べた。李は、序盤におけるコンピュータの戦略は「卓越」しており、AlphaGoは人間の囲碁棋士が打たないであろう普通ではない手を打ったと述べた[31]。GoGameGuruでこの対局を解説したDavid Ormerodは、李の7手目を「序盤でAlphaGoの実力を試す奇妙な手」と説明し、この手をミスと見なし、AlphaGoの応手を「正確かつ効果的」と見なした。Ormerodは序盤はAlphaGoがリードし、李は81手目に挽回を始めたが、119手目と123手目に「疑問手」を打ち、129手目が「敗着」となったと説明した[13]。プロ囲碁棋士の趙漢乗は、AlphaGoの打ち回しは2015年10月に樊麾を破った時よりも大きく改善されていたと論評した[13]。プロ囲碁棋士マイケル・レドモンドは、コンピュータの打ち方は樊との対局時よりも積極的であったと述べた[32]。
9段の金成龍によれば、李世乭は102手目のAlphaGoの強手に驚かされたようである[33](この手の後に李は10分以上長考した)[33]。
99手目まで
100-186手目
第2局[編集]
AlphaGo(黒)が第2局に勝利した。李は対局後に、「AlphaGoはほぼ完璧なゲームをプレーした」[34]、「序盤から自分がリードしたと一度も感じなかった」と述べた[35]。
AlphaGoの作成者の一人デミス・ハサビスは、プロの解説者がどちらがリードしているか分からなかったゲームの中間点からAlphaGoが勝利を確信していた、と述べた[35]。安永吉(英語版)(8段)は、特にAlphaGoの151、157、159手目を賞賛した[36]。
AlphaGoは変則性と幅広い視点からの手を見せた。これらの手についてプロ囲碁棋士が一目ではミスのように見えると解説したが、後から振り返ると意図された戦略であった[37]。特に、AlphaGoの167手目は李に戦うチャンスを与えたように見えた、ほとんどの解説者は明白なミスであると断言した。しかし、多くの人々は現在はこの手が地の差を犠牲にしてAlphaGoの勝利を確かなものとするための賢明な終盤の機略であったと考えている[36]。
99手目まで
100-199手目
200-211手目
第3局[編集]
AlphaGo(白)が第3局に勝利した[38]。
第2局後、棋士の間では、AlphaGoが本当に人間が強いという意味において強いプレーヤーであるかどうかについて、まだ強い疑いがあった。第3局ではこの疑いが晴れた。分析者は以下のように論評した。
AlphaGoは、経験を積んだ棋士からのその強さに対する全ての疑いが晴れるように非常に説得力を持って勝利した。実際、AlphaGoはほとんど恐ろしいほどに非常にうまくプレーした ... AlphaGoに非常に厳しく一方的な攻撃を耐えさせたことで、李はそのこれまで気付かれていなかった力を明らかにした .. 李は彼の攻撃から十分な得を得ることができなかった ... 黒の明暗によって最も技巧的な中盤戦の一つの影が薄くなった[39]。
安永吉(8段)とDavid Ormerodによれば、この一局は「AlphaGoが全ての人間の棋士よりも単純に強い」[39]ことを示した。AlphaGoは前2局では見られなかった「コウ」として知られる扱いにくい状況を舵取りできていると見られた[40]。安とOrmerodは148手目が特に注目に値すると考えた。複雑なコウ争いの中盤に、AlphaGoはコウ争いに勝っていると十分な「自信」を見せ、他の大場に先着した[39]。
黒番の李は高中国流を採用し大きな黒の勢力を作ったが、AlphaGoが12手目にそこへ打ち込んだ。このためプログラムは弱い石をしのぐ必要があったが、成功した[39]。安永吉は李の31手目が「敗着」であったと説明し[39]、アメリカ囲碁協会(英語版)のAndy Jacksonは結末は35手目に既に決まっていたと考えた[41]。AlphaGoは48手目によってこの勝負の主導権を握り、李に守勢を余儀無くさせた。李は77/79手目で反撃したが、AlphaGoの応対は効果的で、90手目に局面を単純化することに成功した。AlphaGoは次に盤の下辺を大きく支配し、安が「洗練された」と描写した102手から112手目で局面を強化した[39]。李は115手目と125手目で再び攻撃したが、AlphaGoの応対はまたも効果的だった。李は最終的に131手目から複雑なコウを仕掛けたが、プログラムのエラーを誘うことはできず、176手目に投了した[39]。
99手目まで   
100-176手目(122手目は113の位置、
154手目はGo wT.svg、
163手目は145、164手目は151、
166手目と171手目は160、169手目は145、
175手目はGo bT.svg) 

第4局
第4局は李(白)が勝利した。DeepMindのデミス・ハサビスは、AlphaGoは79手目にミスをし、その時点では勝率が70%と見積っていたが、87手目に、その推定値が突如急落したとしている[42][43]。David Ormerodは87手目から101手目を典型的なモンテカルロベースのプログラムのミスと述べた[44]。
李は、AlphaGoが「相場碁」(好機が訪れた時に多くの小さな利を得ることによって勝とうとすること)を好んでいるようであることから、思い切った作戦の一種である「アマシ」作戦で打つことを選び、中央よりも辺や隅に地を取った[44]。駆け引きに強いAlphaGoであるが、「生きるか死ぬか」の局面に誘導することでわずかなリードを判断する能力がほとんど無意味になる可能性があると李は考えた[44]。
序盤は第2局(この局も李が白番)と同じ進行だった。李は盤の辺と隅に地を取ることに集中し、AlphaGOが中央に模様を張る展開となった、白は40手目と48手目で上辺のAlphaGoの模様を荒らしに行った。AlphaGoは47手目の「カタツキ」で応じ、4子を捨て石にして47手目から53手目・69手目で先手を取った。李は72手目から76手目でAlphaGoを試したがミスは誘発されず、この時点で解説者らは李の打ち回しが勝ち目のないものだと感じ始めていた。しかしながら、「素晴らしい手筋」と表現された、白の78手目のワリコミと続く82手目の強手によって、完全に形勢が逆転した[44]。この手により中央の白の一団が黒地に食い込み、より難解な碁となった[45]。AlphaGoの83手目と85手目の当初の応対は適切だったが、87手目から101手目にかけてAlphaGoは大悪手を連発した。李は92手目の段階でリードを奪い、安永吉は黒105手目を決定的な敗着と表現した。131手目から141手目のよい戦術にもかかわらず、AlphaGoは終盤での巻き返しが不可能であると判断し投了した[44]。AlphaGoの投了は、勝率が20%未満であると評価した時に発動した。これは、逆転の見込みが無いと判断すれば、最後まで打つのではなく投了するプロ棋士の判断と合うように意図されたものである[45]。
中国のプロ棋士(9段)古力は白78手目を「神の一手」と形容し、この手は全く想像していなかったと述べた[44]。GoGamuGuruの安永吉は、この一局が「李世乭にとっての傑作であり、囲碁の歴史における名局となることはほぼ確実だろう」と結論付けた[44]。李は試合後に、AlphaGoは白番(後手)の時が最も強かったと考えていると述べた[46]。
GoGamuGuruのDavid Ormerodは、79手目から87手目のAlphaGoの打ち方の分析はまだであるが、モンテカルロ木探索を用いたアルゴリズムにおける既知の弱点によるものと考えている。モンテカルロ木探索ではあまり関連性のない配列を刈り取るように試みる。ある場合においては、非常に限られた一本道で局面が進行するが、探索木が刈り取られた時にこれが見落されると、「探索レーダー」外となってしまう[47]。
99手目まで   
100から180手目(177手目はGo bS.svg、178手目はGo bT.svg) 
第5局[編集]
AlphaGo(白)が第5局に勝利した[48]。この一局は接戦であると評された。ハサビスは、ゲームの序盤にプログラムが「大きな失敗」をしでかした後に追い上げたものであると述べている[48]。
黒番の李は第1局と同様の布石をし、第4局で使用して成功したのと同様の戦略で右辺と左上隅を囲ったが、AlphaGoは中央に大きな勢力を得た。形勢はそれまで互角であったが、 AlphaGoが右下において「石塔シボリ」の手筋を認識できずに打った白の48手目から58手目によって、李が主導権を握ることになった。 AlphaGoは次に中央だけでなく上辺にまで勢力を広げ、李による69手目から81手目までの攻撃を防ぐことに成功した。David Ormerodによると、この黒の攻めは慎重すぎたであったという。白90によってAlphaGoは形勢を互角に持ち込み、Ormerodにより「珍しいが、微妙に印象的である」と評された、わずかに得な手を打った。李は167、169手と一か八かの勝負手に出たが、AlphaGoはこれをうまく防ぎ切った。安永吉は白の154、186、194手目を特に強い手であると指摘した。終盤、プログラムは完璧なヨセで李が投了するまでリードを保った[49]。
99手目まで   
100-199手目(118手目は107の位置、161手目は)   
200-280手目(240手目は200の位置、271手目は、
275手目は、276手目は) 
配信[編集]
対局の模様は中国語、日本語、朝鮮語、英語の解説付きでライブ配信された。朝鮮語の配信はBaduk TVを通じて行われた[50]。古力(九段)と柯潔(九段)が解説を行った中国語での第1局の配信はテンセントとLeEcoによって提供され、視聴者は約6千万人に達した[51]。英語のオンライン配信はマイケル・レドモンド(九段)とアメリカ囲碁協会副会長Chris Garlockによって行われ、平均視聴者は8万人、第1局の終局近くには視聴者が10万人に達した[52]。
関連項目[編集]
電聖戦
ディープ・ブルー対ガルリ・カスパロフ
将棋電王戦

用語

囲碁用語
用具	
碁石と碁笥 - 碁盤 - 対局時計 - 碁罫紙
ルール	
盤上:コウ - 地 - 長生 - 作る - 取らず三目 - 持碁 - ダメ - ハマ
対局:互先 - ニギリ - コミ - 定先 - 置き碁 - 持ち時間 - 早碁 - 封じ手
着点	
三々 - 小目 - 目ハズシ - 星 - 高目 - 大目ハズシ - 大高目 - 五ノ五 - 天元
基本の形	
自分の石から:グズミ - ケイマ - コスミ - サガリ - サルスベリ - シマリ - スベリ - トビ - ツギ - ナラビ - ノビ - ヒラキ - フクラミ - マガリ - ワタリ
相手の石に:アタリ - アテコミ - オサエ - オシ(ソイ) - カカエ - カカリ - カケ - カタツキ(カド) - キリ - ツキアタリ - ツケ - ツメ - ヌキ - ノゾキ - ハザマ - ハサミ - ハネ - ヒキ - ボウシ - ワリウチ - ワリコミ
手筋	
石の下 - ウッテガエシ - オイオトシ - オキ - オシツブシ - ゲタ - シチョウ - シボリ - 捨て石、ホウリコミ - ダメヅマリ - マクリ - ユルミシチョウ
死活	
一合マス - 欠け眼生き - クシ六 - 隅の板六 - 隅のマガリ四目 - セキ - 詰碁 - ナカデ - 如仏の判決 - バカ八 - 六死八活
序盤	
定石:大斜定石 - ツケヒキ定石 - ナダレ定石 - ハメ手 - 村正の妖刀
布石:新布石 - 三連星 - 中国流 - ミニ中国流 - 小林流
中盤	
厚み、模様 と 消し - 荒らし - 打ち込み - 大場 と 急場 - 攻め と シノギ、サバキ、フリカワリ - 攻め合い - 力戦
終盤	
ヨセ - 出入り計算 - 見合い計算
棋理	
囲碁十訣 - 格言 - 形勢判断 - 大局観 - 先手 と 後手 - 利かし と 手抜き - 本手 - マネ碁 - 見合い
その他	
囲碁九品 - 純碁 - 棋風 - 長考 - 妙手
関連項目	
歴史 - 段級位 - 囲碁の記録一覧 - 碁会所 - コンピュータ囲碁 - ネット碁 - 棋士 (囲碁) - 囲碁のタイトル在位者一覧 - 本因坊 - 名人 - 棋聖 - 棋道賞 - 観戦記者 - ヒカルの碁

ネット碁

ネット碁(ネットご)は、インターネットや専用線などのコンピュータネットワークを介して行われる囲碁の対局である。インターネット囲碁、ネット囲碁ともいう。オンラインゲームの一つ。
目次  [非表示] 
1	概要
1.1	歴史
1.2	ネット棋戦
2	利用・特徴
3	利点
4	問題点
5	脚注
6	関連項目
7	外部リンク
概要[編集]
歴史[編集]
日本ではパソコン通信(ニフティサーブ)の時代から、電子メールを利用した「メール碁」、掲示板を利用した「ボード碁」「ポスト碁」、チャットを利用した「RT(リアルタイム)碁」などのオンライン対局が楽しまれていた[1]。
現在のネット碁(オンライン)の草分けは、株式会社アイシステムがソニーと協力し1989年にパソコン通信(NTTの公衆パケット網を利用)による世界で最初のネット碁(GO-NET)としてサービス開始。専用パソコンソフト「碁熱闘」を利用した。1988年に通信機能を持ったセガのメガドライブが発売されたため、1992年からメガドライブにメガモデム(DDX-TP)またはメガターミナル[2](ターミナルアダプタ)を付けてゲーム機通信によるオンラインのネット碁を提供した。その後、NTTの公衆パケット網を利用したネット碁(オンライン)は隆祥産業(1993年?)サンサン(1994年)[3]等が挙げられる。1995年にリリースされたWindows95からインターネットが主流となり、GO-NET、サンサン等のネット碁サーバーはインターネットとNTT公衆パケット網を併用した。インターネット利用のネット碁は、1992年2月、アメリカのニューメキシコ大学に設置された無料サーバー「IGS(Internet Go Server)」によるオンライン対局である[4]。その後、IGSの売却や有料化の検討といった表明を受けて、有志により各国に無料サーバーが設立された(「NNGS(No Name Go Server)」等。多くは閉鎖されている)。IGSは1995年、韓国企業INetに売却され、日本では株式会社NKBが運営権を取得し、パンダネット事業として運営を開始した[5]。パンダネットは後にIGS本体を買収した。
1997年2月、パンダネットは日本人(jpドメイン)ユーザーによるIGSへの接続を有料化した[6]。これに反撥した有志により、1997年6月8日、無料サーバー「WING(World-wide InterNet Gokaisho)」が設立された[7]。その他、1996年に東芝情報システム株式会社が設立した「WWGo(World Web Go)」[8]、1998年7月27日にリリースされた「Yahoo!ゲーム囲碁」、2000年に株式会社棋聖堂がスポンサーとなった「棋聖堂囲碁サーバ(Kiseido Go Server, KGS)」[9]なども、無料利用を希望するユーザーの受け皿となった。
現在、大手有料サイトとしては日本棋院幽玄の間[10]、パンダネット、サンサン[11]、韓国の東洋囲碁などがある。大手無料サイトとしてはKGS、Yahoo!モバゲー囲碁などがある。
漫画ヒカルの碁(1999-2003年)では、主人公に憑依している天才棋士・藤原佐為がその正体を隠したまま自在に対局できるネット碁の世界で活躍する描写がある。ここでは様々な条件下にある世界中の人々がインターネットを通じて囲碁を打ち、観戦し、情報を共有するというネット碁の利点とともに、中にはマナーに欠ける打ち手もいるという問題点も描かれている。
囲碁棋士の井山裕太は、師匠石井邦生からネット碁(アイシステムのGO-NET)を通じて指導を受けた。
ネット棋戦[編集]
ネット碁の普及とともに、1998年からネット棋戦が開催されるようになった。それまでにも、GO-NETが会員を対象にリーグ戦等を開催していた。
1998年、アマを対象する第1回パケット名人戦[12](主催:サンサン、協賛:NTT、後援:日本棋院)が優勝賞金50万円で開催された。第3回(2000年)からはプロアマオープンの棋戦となり、日本棋院の要望で[第1期パケット名人戦][13]と名称を改め、主催:サンサン、後援:日本棋院、関西棋院で開催された。パケット名人戦[14]は2006年まで都合9回開催された。第2期パケット名人戦(2001年)からは優勝賞金が100万円に増額された。 その後、2006年にはプロ棋士を対象とするネット早碁棋戦として、大和証券杯ネット囲碁オープンが開催された。翌年、女流棋戦とアマチュア棋戦が併設され、2012年に公式戦となるまでに発展したが、2013年に終了した[15]。
アマチュア棋戦としては、パケット名人戦(1998年-1999年)[16]、ジュニア名人戦(2002年-)[17]、全日本学生囲碁名人戦(2007年-2009年)、学生棋聖戦(2011-2015)[18]、全日本学生囲碁最強位戦(2013年-)、ネット棋聖戦(2014年-)等が開催されている。韓国のOllehKT杯オープン選手権(2010年-)では、アマチュア予選にネット碁が使われている。
利用・特徴[編集]
ネット碁のサイトには有料と無料とがあり、双方を併用しサービスに差を設けている所もある。
概ね会員制であるが、非会員をゲストとして機能制限付きで迎え入れているサイトもある。通常は会員となる旨を運営者に申し込むことでアカウント(ID)を作成する。
ログインして申告棋力を設定し、対局を待っている相手に申し込んだり、自分が申し込みを待ったりして、合意が成立すると対局開始となる。こうした手続きを省き、対局希望者同士を自動的にマッチングするサービスを備えたサイトもある。
棋力の目安となるランクは囲碁の段級位制に準じたもの(英語では級をk、段をdと表記する)が大半で、対局成績によって自動的に変動する。レーティングの手法はサイトによってまちまちである。なお、海外のレーティングは、日本の碁会所に比べて厳しめといわれている。
他の会員の対局を観戦したり、他の会員とのチャットによる会話を楽しむことも可能なケースが多い。
ネット碁で対戦した際の棋譜はSGFなどのファイルフォーマットで記録される事が多く、後で見直すことができる場合も多い。
プロ棋士の公式戦を中継するサービスも同時に行われる場合がある。
利点[編集]
ネット碁の利点は、時と場所を選ばず、安全に、棋力に応じた相手と対局できることである[19]。
時を選ばない。ネット碁は24時間運営されており、世界中の人々が接続していることから、ほぼいつでも対局が成立する。深夜営業している碁会所は少ないため、仕事で忙しい人も対局機会を確保できる。
場所を選ばない。近くに対局相手がいなくても対局ができる。このことは、囲碁人口が比較的多いアメリカ、ヨーロッパ、南米など[20]でのレベルと人気の向上に大きく貢献している。囲碁が盛んな日本を含む東アジアにおいても、普段打てないような遠隔地(外国在住の相手と打てることもある)の相手や見ず知らずの多くの愛好者と対局できるという利点から人気が高く、ネット碁を通じた遠隔地の囲碁愛好家とのコミュニケーションもしばしば見られる。
安全性が高い。ネット碁には特有の問題点もあるが、実害がないという点では安全である。例えば、碁会所の不健康な側面(賭け碁、ローカルマナー等)、直接の対局に特有な問題点(喫煙、威圧感を与える言動、碁石や扇子による騒音等)、あるいはそれらに起因するトラブル等を気にする必要がない。また、同一の対局条件が適用され、かつ現に対局者であるという以上の属性(年齢、性別、国籍、社会的地位等)が強調されないため、より競技囲碁に近い対等性・公平性を確保できる。
棋力に応じた相手と対局できる。適正なレーティングが施されている場合、母数が多い範囲から外れた棋力の持ち主(まったくの初心者や級位者、あるいはアマチュア高段者)であっても、常時多人数を抱える大型のネット碁サイトであれば、棋力に見合った相手を見つけやすい。ネット碁の参加者には匿名のプロ棋士が入っていることもある。
安価である。碁会所の席料は1日辺り1000円程度かかることが多いが、ネット碁は有料であっても月々2000円程度であり、利用形態によるが安価に多数回対局することが可能である。碁会所への交通費などもかからない。
問題点[編集]
マナーに欠ける打ち手がいることはネット碁に限らないが、ネット碁特有の問題点として相手の顔が見えないことから本人の自制が働きにくく、コミュニティーによる教育や是正の機会に乏しいこともあり、対局の前提自体を破壊するような悪質な行為が目立つ傾向にある。
荒らし : 対局または観戦中に暴言を吐いたり、相手を挑発したりする。
エスケーパー : 負けそうになると投了せずに接続を切って逃げる。あるいは自分が時間切れになるまで対局を放棄する。ただしインターネットの回線品質の問題で、意図せず接続が切れたり、遅延によって時間切れ負けになるケースがあるため、劣勢時に接続が切れたからといって直ちにエスケーパーということは難しい。
切れ負け狙い : 完全に負けている局面であっても相手が持ち時間が少ないときに相手の時間切れ負けや所用で席を離れなければならなくなること等を狙って意味のない手を打ち続ける。
サンドバッガー : 故意に棋力を過少申告したり、意図的に負けてランクを下げたりして、自分より弱い相手をいたぶるように打つ。ただし高段の場合初期登録段位に制限があるケースが多く、また他サイトや碁会所での段位を参考に登録した結果、意図せず棋力を過少申告してしまう場合もあるため、ランクに見合わない棋力であることをもってマナー違反とは限らない。
ソフト打ち : コンピュータープログラムに代打ちさせる。市販される囲碁プログラムは現在アマ6段、プロ棋士に対して4子ほどの棋力がある[21]ため、代打ちによって(本来の棋力に見合わない)上位のランクを得ることも十分可能となっている。
なりすまし : (不正目的で)他人に対局してもらう。あるいは他人を詐称する。特に大会においては大会そのものを成り立たなくさせる深刻な問題である。
このうち、悪質性が明らかな違反行為[22]に対しては、大半のサイトが会員資格停止等を含めた対策を講じている。ただし悪質性が明らかでない、または証明不可能な事例も多く、実質的に参加者の良心に任されている部分が少なくない。
同様のことはチェス、将棋、オセロ、麻雀のオンライン対局でも問題になっている。
脚注[編集]
^ ふぃご村囲碁道場:ポスト碁とRT碁。2015年7月30日閲覧。
^ MEGAターミナル
^ サンサン
^ GOBASE.org。2015年7月30日閲覧。
^ 2002年、株式会社パンダネットとして分社化された。
^ IGS有料化問題を語ろう (1997年8月15日)。2015年7月30日閲覧。
^ WING:WINGヒストリー(1997年6月17日)。2015年7月30日閲覧。
^ ISP事業「InfoPepper」の一部として提供されていた(東芝情報システム株式会社:技術情報誌「Wave」バックナンバー:Vol. 3(2003年7月)。2015年7月30日閲覧)。その後、2006年4月に株式会社イージェーワークスに「InfoPepper」の営業権が移管され、2008年にパンダネットとの運営提携及び有料化が行われた。さらに2013年にパンダネットに事業譲渡された。
^ 棋聖堂:会社概要。2015年7月30日閲覧。
^ 2003年、韓国棋院の株式会社世界サイバー棋院(現サイバーオロ)との提携により設立された。提携企業の選定を巡る日本棋院内の紛争が話題となった(朝日新聞:提携先の再選定勧告日本棋院のネット対局計画で監査委(2004年4月22日)。2015年7月30日閲覧)。
^ サンサン
^ 第1回パケット名人戦
^ 第1期パケット名人戦
^ パケット名人戦
^ 日本棋院:囲碁ネット棋戦大和証券杯。2015年7月30日閲覧。大和証券杯としてはネット将棋棋戦も開催されていた。
^ パケット名人戦
^ ジュニア名人戦(2002年-)
^ 学生棋聖戦
^ 岩橋培樹「東アジアに展開される碁ビジネス-現代的な創造産業としての現状と可能性-」。公益財団法人アジア成長研究所「東アジアへの視点」第20巻3号、pp. 30-32。2015年7月30日閲覧。
^ 日本棋院:世界の囲碁人口分布図(2003年)。2015年7月30日閲覧。
^ 電聖戦の項目を参照。
^ 一例としてKGSヘルプ:初心者向けFAQにエスケーパー、荒らし、サンドバッガーの定義が記載されている。また、KGSヘルプ:対局のマナーには日本の慣習を強調し過ぎない、最大公約数的なマナーが記載されている。
関連項目[編集]
KGS Go Server
GO-NET
囲碁 サンサン
タイゼム
東洋囲碁
Smart Game Format
GNU Go

KGS

KGS(KGS Go Server)とは無料の囲碁サーバ、いわゆるインターネットを利用したネット碁サイトであり囲碁の対局・観戦・検討を無料で行うことができる。ユーザにはランク(30級から9段)が過去180日間に行われた公式対局から数理的に割り当てられ、その推移をランクグラフから見ることもできる。
米国の慈善家William Shubert氏が囲碁普及のために非営利で創始運営しており、各国の有志がボランティアとして協力することで成り立っている。また、日本国内の碁盤店棋聖堂がスポンサードし2006年までは棋聖堂碁サーバー(Kiseido Go Sever, KGS)として運営されていた。
会員数は10万人におよび、世界中の碁打ちが集っている。ヨーロッパからはフランス人が多く、アジアでは日本人、中国人が多い。一方、韓国からの参加は少ない。
プロ棋士による囲碁講座が有料サービスKGS Plusとして提供されている。KGS Plus会員と非会員(通常ユーザ)では、囲碁講座以外において差は無い。
クライアントはCGoban3と呼ばれるJavaのソフトを利用し、Javaのインストールが必要となる。棋譜はSGF形式で保存される。
2006年より棋聖堂との関係を弱めKGS (KGS Go Server)となった。
関連項目[編集]


GO-NET

GO-NETは、ネット碁のシステム。千葉県松戸市に本社をおく株式会社アイ・システムが運営する。
1989年にパソコン通信による日本で最初のネット碁としてサービス開始。専用パソコンソフト「碁熱闘」。その後、当時通信機能を持った唯一のゲーム機セガのメガドライブ(1988年発売開始)を利用した対局システムを提供した。NTTの公衆パケット網にメガモデム(DDX-TP、メガターミナル(INS-P)で接続した。インターネットの普及に伴いインターネット経由のパケットも受け入れるようになった。
日本棋院が推薦、技術協力。
サービス[編集]
一般対局、番付形式による年4回の本場所、リーグ戦による順位付け、段級位別の月例トーナメント戦、昇段戦、県対抗のチーム戦、初心者のためのわかばリーグなどの対局システムがある。対局者は実名で利用することが特徴。プロ棋士の井山裕太は入段前に、師の石井邦生との指導対局で利用していた。2006年には井山裕太と会員5人による打ち込み五番勝負を実施。
緑星囲碁学園通信部の制度があり、学園生同士の対局、学園出身プロ棋士による指導対局ができる。
2001-02年に20歳以下の若手プロ棋士によるトーナメント「GO-NET杯新星戦」を開催。優勝者は川田昇平初段(当時)。大会の模様は「碁ワールド」誌2002年1-7月号にも連載された。
他の活動[編集]
日本青少年囲碁協会の活動に協力し、アイ・システム社が事務局となっている。アイシステム社のある千葉県松戸市で碁会所「GO-NET囲碁サロン」も経営。

囲碁 サンサン

囲碁 サンサン(いご さんさん)は、ネット碁のシステム開発と運営。福島県いわき市に 本社をおく株式会社サンサン[1]が運営する。
目次  [非表示] 
1	概要
2	主催したネット囲碁棋戦
3	他の活動
4	脚注
5	外部リンク
概要[編集]
1994年にゲーム機通信によるオンラインネット碁としてサービス開始[2]。セガのメガドライブを端末にロムカートリッジソフト「サンサン」[3]、NTTの公衆パケット網を利用した。当時NTTはISDN回線の普及に力を入れていた。ISDN回線のDチャンネルパケット(INS-P)[4][5]は時間による課金が無く、送受信されたパケット(128オクテット)の量のみに課金された。囲碁は考慮時間が長く送受信されるデータ(着手の位置と考慮時間等)は極めて少ないため当時は囲碁のオンラインネットには最適の通信手段だった。
1993年4月に発売開始されたメガドライブ2[6]は、初代メガドライブ[7]から「拡張コントロール端子」が外されたため通信機器(メガモデム、メガターミナル[8])を拡張できず、ゲーム機通信が行えない仕様になった。そのためNTT公衆パケット網からの接続を停止2010年まで初代メガドライブとメガターミナル[9]の組み合わせが利用された。1995年Windows95の発売からインターネットが普及したため、Windowsソフトの開発を行い、2000年からはインターネット経由のパケットとNTTの公衆パケット網からのパケットを一緒に1台のサーバで処理した。2005年にははNTT公衆パケット網からの接続を停止し、接続形態をインターネットのみに変更し現在に至る。[10]
ネットで対局された全ての棋譜をデータベースに保存し、常時閲覧可能。対局中のチャット等も棋譜に記録し、マナーの改善に努力している。2015年1月に囲碁BOT(囲碁人工知能)を複数種類導入した。[11]2016年4月にAlphaGoが李世ドルをハンデなしで破った歴史的な出来事があった[12]ためか、囲碁BOT(囲碁人工知能)との対局を望む囲碁ファンが増えている。
主催したネット囲碁棋戦[編集]
パケット名人戦(1998年-2006年)[13]
アマを対象に第1回パケット名人戦(1998年)[14]、第2回パケット名人戦(1999年)[15]を開催
棋士を含めたプロアマを対象にパケット名人戦(2000年-2006年)[16]を開催。優勝書金100万円は当時としては画期的なネット棋戦。
ジュニア名人戦(2002年-)[17]
学生棋聖戦(2011年-2015年)[26]
大学生、大学院生を対象としたネット棋戦。
他の活動[編集]
「未来棋院[27]」に協力し、少年少女の 囲碁の育成に力を注いでいる。[28]
脚注[編集]


タイゼム

タイゼム(Tygem)は、インターネットによるネット碁のシステム。韓国の東洋オンライン社が運営する。2004年に設立。韓国、日本、中国向けのサイトがある。対局システムの他に、ネット碁による棋戦、囲碁講座、その他各種のイベントを運営している。日本語版では関西棋院公式ネット「関棋ネット」も運営していた。
2004年に韓国棋院の棋士曺薫絃、李昌鎬、劉昌赫などの呼びかけに応じて、東洋グループ、中央日報、DACOMなどによって設立された。
2008年7月にサイトの名称を「東洋囲碁」に改称することが発表された。2009年2月現在、タイゼムと東洋囲碁の公式サイトが併存しているが、接続する対局室は共通である。
目次  [非表示] 
1	主なサービス
1.1	ネット対局
1.2	ネット棋戦
2	関棋ネット
3	外部リンク
主なサービス[編集]
ネット対局[編集]
無料と有料の会員制度がある。
懸賞対局
プロ棋士など高段者の対局で、観戦者が勝敗予想して、ポイントを懸賞として賭けることができる制度。LG杯など、国際棋戦の対局中継で行われる場合もある。
ネット棋戦[編集]
東洋生命杯タイゼム囲碁オープン戦
韓国、日本、中国のプロ棋士の3人一組16チームによる対抗戦
東洋総合金融証券杯
第2回までは「タイゼム王中王戦」として、予選を勝ち抜いた韓国、日本、中国3カ国の計32名のプロ棋士よるトーナメント戦
第3回は「日韓中3カ国対抗戦」として、予選を勝ち抜いた韓国、日本、中国3カ国の各5名のプロ棋士よるトーナメント戦
日韓スター棋士対抗戦
日韓32人のプロ棋士によるトーナメント 第1期は日本勢が優勝した。
全日本学生囲碁名人戦
1978年から2002年の第24回まで行われていた学生囲碁名人戦を、インターネット対局により2007年から再開するもの。
関棋ネット[編集]
関西棋院棋士による囲碁教室、指導碁、棋譜診断、棋士の対局のLIVE中継などを行っていた。

東洋囲碁

東洋囲碁はインターネットによるネット碁の対局場。旧名称はタイゼム(Tygem)。2008年7月に東洋囲碁へ名称変更した。
運営主体の東洋オンラインジャパン社は韓国、東洋オンライン社の100%子会社である(設立2004年11月,資本金5000万円,本社:東京都港区赤坂)。東洋オンラインは東洋総合金融証券、東洋生命を中心とする東洋グループに属し、Tygem、pigwing(ゲームポータルサイト)、miclub(女性向けポータルサイト)の運営のほか、グループのIT関連業務を担当している。

Smart Game Format SGF

Smart Game Format(SGF)はボードゲームの棋譜保存に使われるコンピュータファイルフォーマットである。
SGFは、Smart Go Board の作者としても知られる Anders Kierulf によって1987年に提案された[1]。その後改良が加えられ、現在一般的に使われているのは1990年代に作られた第4版(FF[4])である。
SGFフォーマットが最も一般に普及しているゲームは囲碁であるが、複数のボードゲームに対応している。SGFが対応している主要なボードゲームには以下のものがある。
囲碁
オセロ
チェス - Portable Game Notation形式が一般的。
連珠
将棋
Lines of Action
バックギャモン
Hex
The Game of the Amazons
Octi
Gess
SGFはゲーム情報の保存に木構造表現を使用するが、この木構造では単純な変化を追加することができる。なお、SGFでは可搬性の向上を理由に、バイナリデータの代わりにテキストベースのデータ形式を採用している。

GNU Go

GNU Go(グニュー・ゴ)は、フリーソフトウェア財団によって作成される、コンピュータが人間と囲碁の対局を行うためのフリーソフトウェア。GNU Goのソースコードは可搬性が高く、Linuxおよび他のUNIX形式のシステム、Windows、macOSなどで簡単にコンパイルできる。その他のプラットフォームへの移植版も存在する。
GNU Goは、およそ8から12級の強さでユーザーと対戦できる。碁盤サイズは5×5から19×19までをサポートしている。
GNU Go自身はASCIIベースではあるが、Go Modem ProtocolおよびGo Text Protocolという2つのプロトコルをサポートしており、これらを使ったGUIフロントエンドが別途実装されている。
目次  [非表示] 
1	戦績
2	歴史
3	外部リンク
3.1	公式サイト
3.2	フロントエンド
3.3	非公式なソフト
戦績[編集]
2006年、世界コンピュータ囲碁大会 岐阜チャレンジ2006において、銀星囲碁に次いで準優勝を果たした。
歴史[編集]
GNU Go 1.1 March 13 1989.
GNU Go 1.2 1995.
GNU Go 2.0 April 20, 1999.
GNU Go 2.4 September 12, 1999.
GNU Go 2.6 February 13, 2000.
GNU Go 3.0 August 24, 2001.
GNU Go 3.2 April 25, 2002.
GNU Go 3.4 July 31, 2003.
GNU Go 3.6 November 17, 2004.
GNU Go 3.8 February 19, 2009.(最新版)